音楽雑記2013年(2)                           

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    音楽雑記2013年の4月まではこちらを、9月以降はこちらを

 

8月31日(土)   *トリオ・ペンナ第二回演奏会 トリオソナタの愉しみU

 この日は午後7時から標記の演奏会に出かけた。 日中は暑く、夕刻は少しよくなったものの台風接近のためか曇った空。 こういうときは、やはりバロック音楽が清涼剤の役割を果たしてくれる。

 トリオソナタの愉しみU、と題された演奏会だが、私は第一回目はパスしていた。 今回も最初は行かない予定でいたのだが、どういうわけか2日前になって急に行きたくなり、前売り券を買った。 \1500。

 会場のりゅーとぴあ・スタジオAには、50人ほどの聴衆が集まったから、悪くない入りと言えるであろう。

 出演のお三方はいずれも新潟のクラシック・ファンにはおなじみ。 地元で活動しているとは言え、ヴァイオリンの廣川抄子さんは東京芸大卒、ヴァイオリン/ヴィオラの佐々木友子さんは桐朋音大卒業後に英国音楽院留学という経歴。 チェンバロの笠原さんもすでに新潟での演奏歴は何年にもなり、実力は誰しも認めるところ。

  ヘンデル: トリオソナタ イ長調0p.5-1
  ラモー: クラヴサン・コンセール 第一番
  ブクステフーデ: トリオソナタ イ短調BuxWV272
  (休憩)
  ルクレール: 2つのヴァイオリンのためのソナタ 第一番ト長調
  クープラン: トリオソナタ 「コレルリ賛」
  ヘンデル: トリオソナタ ト短調op.2-5
  (アンコール)
  パーセル: ロンド

 最近の新潟では地元演奏家による演奏会がかなり充実しているが、これもその一つ。 まず、しっかりした技巧を持つ演奏家による演奏会であること。 そして、選曲もよい。 トリオソナタという形式の曲を中心に、何人かの作曲家の曲が楽しめるようにできている。

 この演奏会でも、そうした最近の良い傾向がそのまま現れていた。 廣川さんの美しいヴァイオリンの音色、佐々木さんのたおやかで堅実なヴァイオリンおよびヴィオラの演奏、それを背後から支える笠原氏のチェンバロが、きわめて充実した音楽を作り出していた。

 私が特に面白かったのは、ブクステフーデの曲だった。 私はオルガン曲以外のブクステフーデを知らなかったのであるが、今回聴いてみて、やはりかなりの力量を持つ作曲家だったのだ、オルガン曲以外のディスクも買おうかな、と思ったことであった。

 ルクレールも、ここだけチェンバロが抜けて、ヴァイオリン2丁による音楽はちょっと気分転換にもなり、楽しめた。

 ヘンデルの曲が最初と最後を飾ったが、何と言うこともないようでありながら音楽としてちゃんとこちらの心に染みいってくるのだから、やはり巨匠なのであろう。

 とにかく、スタジオAの冷房が効いていることもあって (私にはちょうど良かったけれど、女性の聴衆には 「寒い」 という方もおられたよう)、すっきりさわやかな気分になれた。 チケットが安くて内容が充実しているのだから、来年もまた第3回が予定されているらしいので、そのときはまた来よう。

 一つだけ注文を付けるなら、曲ごとに笠原さんが解説を付けるのであるが、ネタ探しが大変なのは分かるけれど、この種の音楽会にはまるっきり初心者といった人はあまり来ないと思う。 だから、チェンバロはピアノと違うとか、ヴィオラはヴァイオリンより大きいとか、そういう話はちょっといくら何でも他愛なさ過ぎ。 例えば、演奏会が 「トリオソナタの愉しみ」 なのだからトリオソナタの歴史をたどってみるとか、或いはラモーのクラヴサン・コンセールという曲種がどういうものでどういう作曲家がものしているのかとか、クープランで出てくる 「○○○賛」 といった曲種の歴史だとか、そういうことを説明していただけると勉強にもなるし、話としても面白いのではないかと思う。

 

8月29日(木)   *中沢啓治 『はだしのゲン』 と手塚治虫 『火の鳥』 を入れている国内の大学図書館数

 昨日、『はだしのゲン』 問題に触れたけど、実は 『はだしのゲン』 が入っているのは小学校や中学だけではない。 大学の図書館にも入っている。 で、比較の意味で、手塚治虫の代表作である 『火の鳥』 と合わせて、どのくらいの数の大学図書館が入れているかをOPACで調べてみた。 ただし、どちらの作品もヴァージョンがいくつもあり、特に手塚の場合は下に挙げたもの以外にも1冊単位で入れている図書館もそれなりにあることを付記しておく。 下に挙げたのはあくまでマンガだけで、活字にリライトしたものは含まない。

 『はだしのゲン』

 中公文庫コミック版  18館
 中央公論社愛蔵版(1996)  20館
 ほるぷ出版 全10巻  4館
 汐文社 1988 愛蔵版  43館
 ほるぷ版中沢啓治平和マンガ作品集 第1-7,20-22巻  5館
 集英社 1977.10-1978.2 集英社漫画文庫  2館
 汐文社 1975-1993 全10巻  49館

 『火の鳥』

 少女クラブ版 講談社 : 講談社コミッククリエイト 2012  10館
 少女クラブ版 講談社 1980.3  40館
 講談社 : 講談社コミッククリエイト 2011.− 10巻  13館
 朝日新聞出版 2009.5-2009.10 全11巻+別巻1  8館
 朝日ソノラマ 1997.10-1998.10 朝日ソノラマコミックス  16館
 角川書店 1992.12 全13巻   54館
 講談社 1978-1995 手塚治虫漫画全集 全16巻  47館
 朝日ソノラマ 1978.7- 月刊マンガ少年別冊 全9巻  5館

 ちなみに、新潟大学図書館は、『はだしのゲン』 は入れているが、『火の鳥』 は入れていない。

 

8月28日(水)   *目立つ若手評論家の力量不足――荻上チキと宇野常寛の場合

 この欄ではかねてから毎日新聞にコラムを書いている若手評論家の批判をしてきた。 別に若手だけ目の敵にしているわけではなく、上野千鶴子のような団塊の世代だってあまり説得力ある文章を書いているわけではないのだが、押さえるべき最低限は押さえておいてもらわないと困るわけで、タダで読めるネット上のブログならいざ知らず、カネを払って定期購読している新聞がそれでは存在理由が問われてしまうだろう。

 新聞も、ネットに対抗するためには、或いはネット新聞に移行してもカネをとって読ませようと考えているならば、力量のある評論家を採用してもらわないと、ますます新聞離れを進行させるだけではないか。

 例えば今月24日に載った荻上チキの 「メディア時評」 である。 ここで荻上は、最近メディアで話題になった 『はだしのゲン』 閲覧問題を取り上げている。 荻上は一連の経過をまとめた上で、こう述べている。 

 小中学生の頃、僕が「ゲン」を呼んで真っ先に抱いたのは、「こんな時代でなくてよかったな」 という感想だ。原爆の威力、空襲、飢餓等が恐ろしかったこともあるが、最も怖かったのは、特定の意見や行動に同調しない者を 「非国民」 とののしるもとが是とされる、「特定の空気に熱狂する人々」 の姿だった。 / そして僕は、すぐに思い知る。 「こんな時代」 は、決して終わってはいなかったあことを。 今でも気に食わない者に対して 「非国民」 「売国奴」 といった言葉で罵倒する者がたくさんいる。

 まず驚くのは、荻上の 『はだしのゲン』 読解がきわめて優等生的で、この作品を子供に読ませたいと考えている人々の想定内に完全に収まっているということだ。 呉智英のように、ちょっと違った視点から 『はだしのゲン』 を評価するような芸すら見られない。

 『はだしのゲン』 そもそもはどういう経緯で小中学校の図書館におかれるようになったのだろうか。 同じ今月24日付けの産経新聞のコラム 「産経抄」 には次のような指摘がある。

 http://sankei.jp.msn.com/life/news/130824/edc13082403570000-n1.htm 

  貴重ということばを辞書で引いてみると、「きわめて大切なこと」 や 「とうとび重んじること」 とある。 原爆投下後の広島で暴力的に生きる少年たちを描いた漫画 「はだしのゲン」 をいくつかの新聞は、「貴重な作品」 と評していてびっくりした。 たぶん辞書を引くのをお忘れになったのだろう。

 ▼ゲンは昭和48年、少年ジャンプで連載が開始された。 当時抄子は、なけなしの小遣いをはたいてジャンプを毎週買っていたが、「ど根性ガエル」 は覚えていてもこの作品は、ほとんど記憶がない。 同誌名物の読者アンケートでも下位を低迷していた。

 ▼同じ作者の手による「反原爆」 漫画でも、大阪万博の年に発表された 「ある日突然に」 の方が、被爆2世とその父の哀切を描いて完成度が高かった。 にもかかわらず、ゲンが全国津々浦々の学校に置かれるようになったのはなぜか。

 ▼ジャンプで連載が打ち切られると、ゲンは、日本共産党系雑誌に、そこも打ち切られると日教組系雑誌に掲載された。 根拠のない日本軍の “蛮行” や昭和天皇への呪詛(じゅそ)がてんこ盛りになったのもこのころである。

 ▼親の知らぬ間に、「平和教育」 の美名の下に教師たちが、グロテスクな 「反天皇制」 漫画を喜々として図書室や教室に置いていったこと自体がおかしい。 松江市教育委員会は、教師の許可を得てから閲覧させるよう市立小中学校に指示したが、当たり前で遅すぎるくらいである。

 ▼同時代にジャンプでヒットした永井豪の 「ハレンチ学園」 は、ついぞ小学校の図書館に置かれなかったが、誰も言論抑圧とは言わなかった。 ふだんは漫画を下に見ているのに、ゲンだけを特別扱いにする教師や新聞には、何か別の意図があると疑ってかかった方がいい。

日教組御用達の作品を読んで、まさに期待されたとおりの読み方しかしない荻上チキ。 自分の信じている言説空間がどのように形成されたのかを見る目を持たない幼さ。 こうした文章がカネをとって読ませるに値するはずがない。

 そもそも、荻上チキは、上の文章のすぐ前で、こんな書き方をしている。

 〔『はだしのゲン』 を自由に読めるようにしてほしいという〕 署名の呼びかけ文では、「リビジョナリスト〔歴史修正主義者〕」達の圧力に松江市教委が屈した」と批判している。 一連の騒動が、どのような政治的争点の中で取りざたされているのかを浮き彫りにする一文だ。

 荻上は、ここで、「リビジョナリスト」 という言い方には何の異も唱えていない。 「リビジョナリスト」 というレッテル張りが、もしかすると 「非国民」 というレッテル張りと同じレベルの決めつけに過ぎないのではないか、というところには遂に思考が至らない。 なんと不勉強なのだろう。 彼は戦後の言説史をそもそも理解していないのではないか。 なんと低い能力の主なのだろう。 毎日新聞よ、この程度の人間の論考をカネをとって読ませる新聞に採用するのはやめてくれ!

 同様の不満は、今月27日付けの毎日新聞コラム 「宇野常寛の新時代を読む」 でも感じた。 

 ここで宇野は、終戦記念日のNHK番組に出た経験から、「リベラル勢力の言説の脆弱さ」 を痛感した、と書いている。 その後、宇野は、自分は自民党の改憲案に賛成できないし、重武装化や海外派兵が性急に行われてしまうことに危機感をもっている、過去の侵略戦争を正当化するのはもってのほかである、と、自分が 「リベラル」 であることの証拠をたくさん並べた上で、次のように書く。

 しかし、番組で紹介された世論調査や市民討論会から浮かび上がってくるのは、昨今の国境問題や北朝鮮への不安を背景にしたごくごく単純でまっとうな安全保障への危機意識の高まりだ。

 まあ、それはそのとおりだろう。 問題は、それを言う宇野の態度が、いかにも及び腰であることなのである。 じゃあ、自民党の改憲案がダメなら、どういう改憲案がいいのか、自分で示すことをしなければ、何かを言ったことにはならないのである。

 しかし、その後の宇野の文章はといえば、相変わらず自己保身のためのアリバイ作り (?) 的なものなのである。 「ネトウヨ」 や 「新しい教科書を作る会」 を否定した上で、国民の安全保障への意識は高まっているのに、「9条は日本の誇り」 だとか 「過去の過ちは繰り返すな」 などの決まり文句を並べても、国民の抱く不安への処方箋としてはきわめて弱いという指摘自体はまっとうだが、その次に言われているのは、次のようなことなのだ。

 国家には軍隊が必要だという自明のことを認めた上で、9条があったとしてもじっかりと自衛のために必要な軍事力を行使できること、そして9条があるからこそ対米関係を有利に進め、国際社会で独特の地位を占められることをポジティブなビジョンとして提示しないままに、まるで傷のついたレコードのように護憲だとか、自衛隊は要らないだとか言っていると、ほんとうに誰からも相手にされなくなるのではないか。 そしてその 「当然のツケ」 としての 「右傾化」 がここにあるのではないか。

 10年遅れている、という認識だろうな。 実際には、とっくに相手にされなくなっているのだ。 たしかにマスコミとか学者には一般大衆から離れた浮世離れした理想論を言ったり書いたりする人間が多いから、一見すると 「右傾化」 が目立つように見えている人間も (荻上や宇野のような) 業界人には多いかもしれないが、むしろ業界人のほうが異常なのだ。 そもそも、9条にこだわった末の非常識な言説空間内に宇野自身がいるという認識が薄すぎる。 「右傾化」 は、日本以外の国であれば 「常識化」 に過ぎない。 小さな世界にこもっていると、そういうことすら見えなくなるのだろう。

 なぜ荻上や宇野のような、力量のない人間が評論家として通用してしまうのか。 実はこの辺の事情こそ、マスコミが自戒すべき部分だと思う。 

 私の考えでは、若者論だとか、ネット情報社会論だとか、新しい分野のことについては、若手評論家はそれなりに有用だろう。 年寄りの気づかない若者の感性やファッションなどを紹介するのに適した人材は、いうまでもなく世代が近い若い人たちだからだ。

 しかし、である。 若者論だとかネット社会論だとかの域を越えて何かを扱おうとすると、彼らはとたんに馬脚をあらわしてしまう。 歴史認識だとか、自国の安全保障だとか、そういう、それなりに歴史があり多くの言説が積み重ねられてきた分野は、彼らの手に余るのである。 ところが、その辺の見分けがつかないまま、若者論やネット社会論をやるのと同じ気軽さで歴史認識や安全保障の問題について何かを言おうとするから、思考力の浅さを露呈してしまうのだ。

 言うまでもなく、歴史認識や安全保障について何かを言おうとするなら、それなりに勉強をしなくてはならない。 自分の感性と近いところで勝負できる若者論とは全然レベルが異なるからだ。 荻上や宇野がそういう勉強をしているとは到底思われない。 毎日新聞はその辺を踏まえた上で、コラムの人選をしっかりやってもらいたい。

 なお、上記の荻上と宇野のコラムはネット上の毎日新聞には載っていないようなので、紙媒体の毎日新聞でごらんください。  

 

8月26日(月)   *卓球のラケットも3万円時代

 本日は夜、社会人卓球の練習日だったが、練習の前に卓球用具専門店サイトウ・スポーツに寄ってラケットのラバーを貼り替えてもらう。

 以前は愛用しているラバーが店頭に在庫していて、それを選んでそのまま貼り替えてもらえばよかったのだが、最近は私好みのラバーが店頭にない場合が多く、そうなると取り寄せてもらうことになる。 今回も数日前に来たら店頭にないので、取り寄せてもらった。

 ところが、それはラケットの裏面のラバーで (つまりバック側)、表面 (おもてめん、つまりフォア側) のラバーは別のメーカーの製品を愛用しており、こちらは今まで店頭に在庫していないということがなかったので特に注文はしなかったのだが、今回店頭を見てみたら、製品自体はあるのだが、好みの厚さのがない。

 卓球をやらない人のために解説しておくと、卓球のラケットは大きく分けて2つの部分からできている。 本体部分と、打球面に貼るラバーとである。 そして卓球のラバーには多様な種類がある。 ボールにスピードが出るもの、回転がかかるもの、コントロールしやすいもの、ナックルのボールが出せるもの、などなど各種あり、メーカーによっても微妙に差がある。 また同じメーカーでも、例えばクルマならトヨタがたくさんの種類の車を販売しているように、色々な製品をそろえている。

 そして、同じメーカーの同じラバーでも、厚さが数種類ある。 ラバーは、ボールを打つゴム面と、それを裏から支えるスポンジの2層から成っているが、そのスポンジ部分の厚さが異なるのである。 ふつう4種類くらいあり、ゴクアツ (極厚)、アツ、中、ウス (薄)、である。 メーカーによってはゴクアツの上にMAXというのがある場合も。

 私は表面 (おもてめん) のラバーは 「中」 を使っているのだが、なぜかこの日は店頭になかった。 「アツ」 しかないのである。 困ったな。

 卓球をやらない人は、同じ種類のラバーなら 「中」 でも 「アツ」 でもたいして差はないだろうと思うかも知れないが、そうではない。 差はちゃんとあるので、厚さが違うラバーだとやりにくいことおびただしいのである。

 仕方がないので、以前使っていたことのある同じメーカーの別の製品にした。 厚さはむろん 「中」 である。 こちらは、日ごろ使っているラバーに比べると回転はかかるが、スピードは劣る。 しかし、同じ製品の厚さが異なるものよりはマシだろうとの判断からである。

 値段は、表と裏の2枚で約6千円。 貼り替え代が1枚あたり2百円かかるし、ラバーを貼り替えるとラケットの側面を保護するために巻いているテープも新しいのにしなければならず、またこの日はラバー・クリーナー (練習のあと、ラバーについた細かいゴミなどをとりのぞく液体スプレー) も新しいのを買ったので、しめて7千円を越えた。

 ラバーを貼り替えてもらう間、店内の製品を見ていたら、ラケットで3万円を越える製品が展示されていてびっくり。 ラバーに多様な種類があることは上でも述べたが、本体部分にしても同じことである。 私の使っているラケットは、1万円代半ばの製品だ。 高級品では2万円を越えるものもあることは知っていたが、3万円越えとは!

 もちろん、こういう製品を使うのは、世界選手権に出たり、最低、日本選手権をめざしたりするレベルの人たちである。 私のように下手糞な人間には猫に小判であろう。 

 しかし、ラケット本体に高級品を使う人は、ラバーも高級品を使う。 私の使っているラバーは上述のように1枚3千円程度の品だが、高級ラバーには6千円を越えるものもある。 3万円代のラケットにこういう高級ラバーを裏表とも貼るとすると、値段は合計で5万円近くなる。

 それに、私はせいぜい週2回、1時間半程度の練習だが、世界選手権や日本選手権をめざすトップクラスの選手は当然ながら毎日数時間ずつ練習している。 ということはそれだけラバーの消耗度が激しいということだ。 私は年に2回程度しかラバーを貼り替えないが、トップクラスの選手となるとどんなに節約しても半月に一度は貼り替える必要があろう。

 本当にトップクラスのごく一部の選手は、メーカーと契約して、そのメーカーの製品をそれと分かるように使ったり、そのメーカーの広告のモデルになったりして、その代わり製品を無料で提供してもらうなどしている。 しかしそういう人は数で言うと極めて少ないし、そこまで行かないがしかしトップクラスを目指して練習に励んでいる若者の支出はバカにならないと思う。

 スポーツにはお金がかかるのである。 改めてこの日、それを痛感しました。 いや、卓球なんかは、多分、まだマシなほうだろうけれど。 

 

8月22日(木)   *「大学改革」 での学長リーダーシップ論はもうやめよ!

 昨日、産経新聞を読んでいたら、安倍政権下の教育再生実行会議 (座長・鎌田薫早大総長) の提言なるものが紹介されていた。 (ネット上の産経新聞には掲載されていないようなので、昨日の紙媒体の産経新聞をごらんください。)

 しかし、最近の 「大学改革」 でさんざん言われてきたことと変わりない。 グローバル化を進めよだとか、もう耳にタコができていることだけ。 新鮮味がゼロなのである。

 中でも、バカの一つ覚えで 「学長のリーダーシップ論」 を繰り返しているのが、悲惨。 日本の大学がいわゆる大綱化により本格的に開始されてもう20年もたつというのに、反省の色が全然ない。

 大綱化によって、例えば国立大学では何が起こったか。 外国語教師の削減、外国語授業の削減、である。 グローバル化どころの話ではない。 日本の大学は自閉的になってきているのだ。

 つまり、実証的に言うならば、学長のリーダーシップが言われ始めてから外国語の授業は激減してきているということは、学長のリーダーシップ=大学の自閉化・反グローバル化、ということになるのではないか。 新潟大学なんぞその典型である。

 だから、今の 「教育再生実行会議」 がやるべきことは、なぜ学長がリーダーシップをとると外国語の授業が減るのかを、徹底的に検証することであろう。 それが学者としての当然の行き方であろう。 

 ところが、その辺を全然見ないで、バカの一つ覚えをやっているのである。 バカは死ななきゃ治らない、ということだね。

 産経新聞も、バカな学者の主張をそのまま報道するのではなく、大学の現場の声を取材し、この20年間で何が起こったかをきちんと検証するような記事を載せるべきだろう。

 新潟大学の学長がいかに無能であるかは、8月7日にも書いた。 こういう具体例に注目・検証することもせずにバカの一つ覚えを繰り返すマスコミなんぞ、存在理由もないのである。

 ちなみに私からの 「大学改革」 への提言は次のとおりである。 ただし、あくまで文系を基準としている。

 1.自由に使えるカネを増やせ。 ひも付き資金はこれ以上増やす必要なし。 なぜならひも付き資金は仲間の多い人間にしか回らないからである。

 2.教員の補助をする人間を増やすこと。 今の教員は雑用に追われ過ぎている。

 3.研究会や市民講座の数は、すでに増えすぎて限界に来ている。 これらで教員評価を行うのはやめるべし。 

 4.教員評価や大学評価を行う場合、評価をした人間の実名を公表すべし。 言うまでもなく評価が正しいかどうかを検証することが肝心だからである。 

 

8月21日(水)   *何人殺しても終身刑にすらならないヨーロッパ――法律家の責任はどこに?

 3日前の18日(日)付け毎日新聞に以下のような記事が載っていた。

   http://mainichi.jp/select/news/20130818k0000e030141000c.html 

   仮釈放ない終身刑: 英制度廃止へ 欧州人権裁 「非人間的」  毎日新聞 2013年08月18日07時12分(最終更新 08月18日10時10分)

 【ロンドン小倉孝保】 死刑を廃止している欧州で、今度は絶対的終身刑 (仮釈放の可能性のない終身刑) が廃止されることになった。 欧州人権裁判所 (仏ストラスブール) が先月、英国のこの規定について人権違反との判決を出したためだ。 英政府は 「極めて残念な判決」 と強く反発している。

 英国のジェレミー・バンバー服役囚(52)ら3人の終身刑服役囚が、絶対的終身刑は欧州人権条約に違反すると訴えていた。 バンバー服役囚は1985年、両親を含む自身の家族5人を殺害した罪で終身刑判決を受けている。 欧州人権条約の加盟国は欧州評議会加盟の47カ国で、このうち絶対的終身刑を規定しているのは英国だけ。

 欧州人権裁判所は判決 (7月9日) で、終身刑規定自体は容認しながらも、一定期間を過ぎた場合の仮釈放の規定がないことについて 「刑務所内で死ぬことが決定していることは非人間的だ」 として欧州人権条約違反と認定。 そのうえで、服役期間が25年を経過した時点で、仮釈放について審査する制度の導入を提案した。

 この判決にキャメロン英首相は 「非常に、非常に残念。本当に残念な判決だ」 と語り、グレイリング司法相は 「最初に人権規定を作った人々も、墓の下でびっくりしているはずだ」 と嘆いた。

 一方、原告側のウィザビー弁護士は 「深い罪を犯した者でもその後、刑務所内で矯正されることがある。 そうした者に仮釈放の可能性を残しておくことこそ重要だと裁判所が理解した」 と話す。

 欧州人権裁判所は上訴を認めておらず、条約加盟国は判決を履行する義務がある。 このため英国は半年以内に終身刑に仮釈放の規定を作るなどの対応をとる必要がある。

 世界では死刑廃止が潮流になっているが、米国では死刑を廃止する代わりに絶対的終身刑を規定する州が多い。 日本でも死刑を廃止する代わりに絶対的終身刑を導入すべきだとの声がある。 今回の判決は、欧州では死刑はもちろん絶対的終身刑でさえ人権違反という時代に入ったことを意味している。

 私はこの記事を読んで、「人権」 とは何だろうか、法律の専門家――がこういう判断を下しているのだろうから――はどういう人たちで、彼らは自分の責任をどう考えているのか、と疑問を感じた。

 「責任」 というのは、こういうことである。 もしこれにより仮釈放された人間が、また殺人を犯したらどうするのか、である。 その場合、新たな殺人事件は明らかに仮釈放によって生じている。 仮釈放を決めた法律家は、その場合、その殺人事件にどう責任をとるのか。 「人権」 を尊重する法律家は、当然ながらその場合、一定の責任をとるべきだろう。 なぜなら、繰り返すが、彼らが決めた法によって新たな殺人が起こった以上、つまり無辜の人間が殺された以上、その責任を取らなければ筋が通らないからである。

 と書くと、架空の仮定によって話を進めるなという人もいるかもしれない。 しかし、少なくともそういう事態は日本では起こっている。 過去に、人を殺して無期懲役になった男が、しばらく刑務所内で過ごしたあと仮釈放され、自分が逮捕されるきっかけとなった情報提供者である女性を襲って殺す、という事件が実際に存在したからだ。 この男は、第二の殺人のあとはさすがに死刑となった。 しかしヨーロッパの法律に従うなら、ふたたび仮釈放されて殺人を繰り返すこともありえるのである。 また、日本で実際に起こったこの事件にしても、仮釈放されていなければ第二の殺人は起こらなかった。 つまり、そういう法律を決めた人間にもそれなりに責任があるのではないか。

 法律家の責任を、われわれ一般人は追及していくべきではないか。 「人権」 概念を、いわゆる専門家にまかせっきりにしてはいけないと思う。

 

8月19日(月)   *禁煙学会のおかしな 『風立ちぬ』 批判――禁煙ファシズムはここまで来た

 4日前、8月15日付けの産経新聞を読んでいたら、禁煙学会が、宮崎駿監督の最新アニメ『風立ちぬ』についてタバコの描き方に配慮を求める文書を送付した、という記事があってびっくり。 禁煙ファシズムはついにここまで来たのかと愕然。

    http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130814/ent13081419420007-n1.htm  

    「風立ちぬ」にクレーム 喫煙場面多いと禁煙学会 ネットで賛否論争広がる   2013.8.14 19:41

  宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」に喫煙シーンが多いことを、NPO法人「日本禁煙学会」が問題視、スタジオジブリに対し、たばこの描き方に配慮を求める文書を14日までに送った。学会側は「未成年の観客も多く影響も大きい」と指摘し、文書はホームページでも公開。インターネット上では賛否両論の書き込みが広がっており、学会には「表現の自由」「作品に文句をつけるな」といった苦情が数件寄せられているという。

 学会は文書で、作品で主人公の教室や職場など喫煙シーンが「数え上げれば枚挙にいとまがない」と批判。肺結核で寝込む妻の手を握りながらたばこを吸う場面については「夫婦の心理を描写する目的があるとはいえ、他の方法でも十分表現できたはず」とした。未成年の学生がたばこを友人にせがむ場面もあり、同会の作田学理事長は取材に「未成年者の喫煙を助長する。過去の出来事とはいえ、子供たちへの影響は無視できない」と非難した。

 で、禁煙学会のHPではどういう主張がなされているかというと、次のように書かれている。

 まず、この学会が製作側に送った要望書であるが、次のようになっている。

 http://www.nosmoke55.jp/action/1308kazetatinu.pdf 

 映画「風立ちぬ」制作担当者 様
日本禁煙学会 理事長 作田学
映画「風立ちぬ」でのタバコの扱いについて(要望)
※禁煙学会の見解や詳細はhttp://www.nosmoke55.jp/action/1308kazetatinu.htmlをご覧ください※
映画「風立ちぬ」なかでのタバコの描写について苦言があります。現在、我が国を含む177か国
以上が批准している「タバコ規制枠組み条約」の13条であらゆるメディアによるタバコ広告・宣
伝を禁止しています。この条項を順守すると、この作品は条約違反ということになります。(別冊
をご参照ください)
教室での喫煙場面、職場で上司を含め職員の多くが喫煙している場面、高級リゾートホテルのレ
ストラン内での喫煙場面など、数え上げれば枚挙にいとまがありません。
特に、肺結核で伏している妻の手を握りながらの喫煙描写は問題です。夫婦間の、それも特に妻
の心理を描写する目的があるとはいえ、なぜこの場面でタバコが使われなくてはならなかったので
しょうか。他の方法でも十分表現できたはずです。
また、学生が「タバコくれ」と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙を助長し、国内
法の「未成年者喫煙禁止法」にも抵触するおそれがあります。事実、公開中のこの映画には小学生
も含む多くの子どもたちが映画館に足を運んでいます。過去の出来事とはいえ、さまざまな場面で
の喫煙シーンがこども達に与える影響は無視できません。
誰もが知っているような有名企業である貴社が法律や条約を無視することはいかがなものでし
ょうか。企業の社会的責任がいろいろな場面で取りざたされている昨今、貴社におきましてもぜひ
法令遵守をした映画制作をお願いいたします。
なお、このお願いは貴社を誹謗中傷する目的は一切なく、貴社がますます繁栄し今後とも映画フ
ァンが喜ぶ作品の制作に関わられることを心から希望しております。

 次に、この学会のHPに載っている追加の解説である。

     http://www.nosmoke55.jp/action/1308kazetatinu.html 

 1. 「風立ちぬ」のテーマは、戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ、と言うことだと思います。私たちも心から共感します。

 2. しかし、戦争はやってはいけないという素晴らしいメッセージを発信している「風立ちぬ」の中で、タバコを吸うことがあまり悪いことではないどころか「魅力的に」描かれている事に、私たちはとても当惑しています。

 3. 原作の主人公のモデルとなった方が、実はタバコを吸わない人だったと言われています(注1)。もしそうならば、吸っていなかった人をむりやりヘビースモーカーに仕立て上げたことになり、歴史をねじ曲げていることにほかなりません。
(注1)この作品は実在の零戦設計者を主人公としていますが、喫煙をめぐるエピソードが実話に忠実に基づいているわけではないと思われます。堀越氏が酒もタバコもやらない人だったという記述もあります:小池さとる作「黄色い零戦」。
http://www.amazon.co.jp/dp/4418985158
http://www.sekaibunka.com/book/exec/cs/98515.html

 4. たとえ、その方が喫煙者であったと仮定しても、「風立ちぬ」で喫煙が幾度となく肯定的に表現されていることは、命が最も大事だというこの作品の一番大事なメッセージを損なう、とても残念な点になっています。なぜなら、からだに悪いことがいろいろある中で、タバコは、今の日本で最も人の命を縮めているからです(Ikeda他.plosmedicine.2012 )。

 5. 喫煙シーンを多く見た子どもほどタバコに手を出すようになることがわかっています。
 喫煙シーンを見る回数が多いほど、子どもがタバコに手を出すようになるかどうかを調べた調査が多数あります。ここで二つの調査の結果を示します。調査法は次のようです。まず、数百点の映画ビデオタイトルから無作為に50点を選び、こどもに、観たことがあるかどうかをアンケート調査します。次に、それらの映画中の喫煙出現シーンをカウントします。回答したこどもがその後タバコを吸うようになったかどうか調査します。その調査結果と、見たビデオの喫煙シーン総数の関係をまとめました。
その結果、映画ビデオで喫煙シーンをたくさん見た子どもほど、タバコに手を出す率が有意に増えていることが証明されました。この場合喫煙が肯定的に扱われたか否定的に扱われたかの区別はなされていません。とにかく、タバコを吸うシーンの有り無しが、それを見たこどもたちのその後の喫煙行動に大きく影響したのです。

 6. SNS上では、この映画を見てタバコを吸いたくなったという人が多数おられます(注2)。この作品が大人の喫煙を促進し、禁煙を阻害する役割を果たしていることは明らかです。
(注2)例えば、「風立ちぬ」+「吸いたく」のキーワードでYahooのリアルタイム検索をしてみますと、このアニメを見てタバコを吸いたくなったとツイートしている方が多数おられることがわかります。

 7. このことを心得ているタバコ産業は、「プロダクト・プレイスメント」と言う手法(映画などの映像作品に喫煙シーンやタバコを露出させるために資金を支出する)で、映像作品にタバコ使用場面を増やしてきました。それは、もちろん子どもの喫煙開始を促進するためです。

 8. 「風立ちぬ」は、製作者の意図したものであるにせよないにせよ、結果的に「プロダクト・プレイスメント」の効果をもたらしています。

 9. 今回の日本禁煙学会の要請を、表現の自由の侵害だと批判する向きがありますが、それはまとはずれです。「表現の自由の侵害」とは、強制権力を持った政府が市民の言論を抑圧することを指すものであり、強制権力のないNPO法人である日本禁煙学会が行う批判活動は、正当な市民的権利の行使に過ぎず、まったく表現の自由の侵害に当りません。 日本禁煙学会が、「風立ちぬ」の表現を批判することも、日本禁煙学会の「表現の自由」です。それは、このアニメの制作者の表現の自由を侵害していることにはなりません。論評や意見表明を行うことは、「対抗言論の原則」 に基づいた 「表現の自由」 社会の現れなのです。

 10. 日本禁煙学会は、「風立ちぬ」の制作会社に限らず、今後映像作品を制作するすべての方々に対して、タバコ製品および喫煙シーンの露出が子どもと若者に与える影響を熟慮されるよう要望いたします。

 

 以上のような禁煙学会の主張をふまえて、以下、私の意見を述べる。

 まず、基本的な疑問。 最初の要望書の中で禁煙学会は、『風立ちぬ』 についてこう述べている。

 現在、我が国を含む177か国以上が批准している「タバコ規制枠組み条約」の13条であらゆるメディアによるタバコ広告・宣
伝を禁止しています。この条項を順守すると、この作品は条約違反ということになります。

 そもそも、『風立ちぬ』 は広告ではない。 禁煙学会は、そのあとの追加解説の7と8で、タバコ企業が資金提供をして映画に喫煙シーンを多く入れさせているという実情があることを指摘しているが、では 『風立ちぬ』 の製作側が実際にタバコ企業からそういう資金援助を受けたという証拠があるのだろうか。 あるなら禁煙学会の主張も一理あるけれど、証拠もないままに 「影響力が大きい作品だから広告と同じだ」 と強弁するなら、それは言論の自由に対する重大な挑戦であろう。

 と書くと、禁煙学会はそのあとの9にあるように、表現の自由の侵害とは強制権力を持った政府が市民の言論を抑圧することを指す、と言うかもしれない。 しかしそれは誤りである。 現代においては、政府以外のマスコミやNGO、NPOなどの権力も相当強大になっており (マスコミを第四の権力と見なすことはすでに常識だ)、そうしたいわば民間団体が言論の自由を侵す例が増えていることこそ、現代社会の特徴であり大きな問題なのだ。 上述のように、宣伝や広告にあたらないアニメを宣伝や広告と強弁する禁煙学会の姿勢こそ、この団体が言論の自由に対してどういう姿勢を持つかを暗示するものだ。

 要望書の次の疑問点。 禁煙学会がこの作品を理解していないことを端的に示す箇所だ。

特に、肺結核で伏している妻の手を握りながらの喫煙描写は問題です。夫婦間の、それも特に妻の心理を描写する目的があるとはいえ、なぜこの場面でタバコが使われなくてはならなかったのでしょうか。 他の方法でも十分表現できたはずです。

 問題の喫煙シーンは、夜自宅で仕事をしていた二郎が、同じ室内で伏せっている妻・菜穂子に遠慮して外に出てタバコを吸おうとするところを、妻がちょっとでも離れるのは嫌だからここで吸って、と言い、二郎もそれに応じて室内でタバコを吸うシーンのことである。 つまり、妻は自分の病気を悪化させかねない夫の喫煙をあえて認めるほどに夫を愛している、一瞬でも離れたくないというシーンである。

 そのこと自体は、禁煙学会も分かっているらしい。 しかし禁煙学会が理解していないのは、このアニメでは同じ事情が夫と妻を逆にしても成り立っている、というところなのである。

 このアニメでは、主人公の飛行機設計家・二郎は、肺結核を病んでいる菜穂子と結婚する。 そして一緒に暮らす。 二人が名目上だけではなく実質的な夫婦であることは、キスシーンや、間接的な表現ながら性的結合を二人が持つシーンがあることからも明らかである。

 しかし、菜穂子がかかっている肺結核は感染する病気なのである。 室内に一緒にいるだけなら感染はしないが、キスをしたり性的結合を持ったりすれば感染する可能性が高くなる。 このアニメでは、結婚式を挙げた二人がその夜に同じ室内で寝ようとするときに、遠慮がちの二郎を菜穂子が 「来て」 と言って誘うシーンがある。 つまり、性的な結合を妻の側から求めている。 そして二郎もそれに応じている。 そんなことをすれば結核に感染する可能性が高くなるのに、それを承知の上で妻の求めに応じているのだ。

 つまり、このアニメでは二郎と菜穂子は、非常識を承知の上で結婚しているのである。 たとえ短い期間であっても、充実した濃密な夫婦生活を送ろうと二人は暗黙のうちに了解しているのであり、したがってその短い生活の中では健康に悪かろうと病気感染の可能性が高まろうと、夫婦としての愛情を増進させるものは何でも受け入れている、と見なくてはならない。 

 それは、要するに二人の愛は一種の反社会的な行為にまで達している、ということだ。 二人の愛がすべてであり、健康であろうとか長生きしようとか、そんなことはどうでもいいのでる。 多少一般化して言えば、男女の愛は反社会的である場合があるし、反社会性によって燃え上がる場合もある、ということである。 このアニメはそうした危険性を持つ作品なのだ。 禁煙学会は、そういうところを全然理解していない。

 いや、もそそも禁煙学会に所属する人たちは、アニメ、映画、或いは他の表現文化を理解する能力など皆無なのではないか。 それをうかがわせるのは、HPに掲載された解説のほうである。

 以下、解説についての私の意見を述べる。

 私がまず驚いたのは、1.と2.である。 戦争はいけない、命がいちばん大切・・・・・アニメ 『風立ちぬ』 って、そんな単純なメッセージを発する映画だったの? いやはや、禁煙学会というのは、およそ映画だとか、或いは文学だとか物語芸術だとかに無縁の人たちが集まっているんだろうな、という感想がまず第一。

 3.にもびっくりした。 そもそも、このアニメは堀越二郎の半生と、堀辰雄の小説 『風立ちぬ』 を合わせて作られている。 それは作品を見れば一目瞭然。 現実に堀越二郎と掘辰雄に関係はあったかといえば、無関係である。 要するに宮崎駿は、堀越二郎の半生と堀辰雄の小説 『風立ちぬ』 を自分なりに料理して、自分独自のアニメをこしらえたのである。 そんなこと、私がここで解説しなくとも、作品を見りゃすぐ分かるはずだ。

 堀越二郎は喫煙をしなかった・・・・って、このアニメは堀越二郎の忠実な伝記じゃない。 そんなことくらい、分からないのかね。 禁煙学会に所属している人は、きっとフィクションということについてまったく何も考えたことがない人ばっかりなんだろうな。 ふだん、映画を見たり、小説を読んだりしたことがない人の集まりなんだろう。 第一、もしそういうイチャモンをつけるなら、堀越二郎は実際に肺結核を病んだ女性と結婚したのか、そういう誤解を与える映画だ、ケシカラン、と抗議すべきであろう。

 5と6だが、映画を見て喫煙したくなる子供がいることはそのとおりかもしれない。 しかし、ならば、映画の飲酒シーンはどうだろうか、暴力シーン、殺人シーン、カーチェイス(車の暴走)シーンはどうだろうか。 子供向けの映画での子供同士のシーンにしても、いじめをしたりや悪口を言ったりするシーンが入っていることはある。 そうした映画のシーンにしても、子供にそれなりに影響を与えているのではないか。 ならば、そういった子供に悪影響を与えかねないシーンは映画から全部カットすべきなのだろうか。

 禁煙学会の人たちは、多分、子供に悪影響を与えかねないシーンは映画から全部カットすべきだし、そうでない映画は子供に見せるな、という意見の人ばかりなのだろうと私は推測する。 それは、教育について根本的に考えた経験のない人たちの集まりである、ということだ。

 教育は学校や親によってだけなされるのではない。 社会の中でなされる。 社会は、そして、子供のためにあるのではない。 子供限定で考えれば教育上よろしくないことも社会の中には満ち満ちている。 子供はそういう中で自分なりに何かを選んでいくのである。 何かとは、例えばタバコを吸う・吸わない、飲酒する・しない、高級車を猛スピードで飛ばす・あくまで車は実用目的でしか使わない、などなどである。

 そうして選択したものの中には、反社会的な行動も入っている可能性がある。 それが法律違反の域に達していれば、それなりの制裁を受けるだろう。 社会とはそういうもので、悪を根絶することはできないし、また個人の生き方にしても、社会的に善とされているものでだけ成り立っているわけではない。 人間は人により多寡はあるにせよ、多少の悪を抱え込むことで生きている。 問題は、その悪が社会的に許容されるのかされないのか、というところである。

 人間は長い間喫煙をしてきた。 喫煙が体に悪いということも昔から指摘されてきたことだ。 近年、その害がかなり科学的に数値化されてきて、必要以上に害が強調されるようになっている。 必要以上と私が言うのは、喫煙はたしかに体に悪いが、では喫煙をした人が全員短命なのか、しない人は必ず長命なのかというと、そんなことはないのであって、あくまで平均値の上でのことに過ぎないからだ。 喫煙は体にどの程度悪いかを数値で示すのは結構だが、その後で、にもかかわらず喫煙をするかしないかは、個人の選択の問題だからである。 そういう境界線をきちんと認識することが、「学会」 を名乗る団体には求められる。 しかしその境界線を、今回の禁煙学会の要望書は明らかに踏み越えている。 

 7と8だが、このアニメの製作者がタバコ業界からカネをもらって作品内に喫煙シーンをたくさん入れたという事実があるなら、禁煙学会の主張も正当であるが、そうでないなら、逆に禁煙学会の主張はイチャモンであり、表現の自由に対する重大な挑戦である、と私は考える。

 9については上に書いたとおりで、自分たちは政府ではないから何を言っても構わない、というのはナンセンスである。 むしろ、非政府系の団体だからこそ、マスコミの監視の目を逃れて個人の自由や表現の自由に対する制限的な行動を取っている可能性があるし、それをこそわれわれは監視していかなくてはならないだろう。

 ちなみに、喫煙をテーマとしたアメリカ映画がある。 『サンキュー、スモーキング』(2006年) である。 この中では、アメリカ・タバコ業界の映画界への金銭提供や工作といった問題点にもちゃんと言及がなされている。 しかし、この映画が最後に出す結論とは、「禁煙せよ」 ではない。 「すべてを知った上で、喫煙するかしないかは自分で決めろ」 なのである。 健康と個人の選択の問題について考えたい人には、必見の映画だと思う。 

 

8月18日(日)   *イタリア・バロック音楽の世界

 本日は午後3時から開催された標記の演奏会に出かけた。 会場は、新潟市の市立中央図書館近くにあるカトリック花園教会。 新潟もこのところ気温がかなり上がってきているが、この日も猛暑となった。 そんななか、バロックの素朴な音楽で気持ちが楽になれば、と期待して出かけたものである。 車は市立中央図書館にとめ、少し歩いて会場へ。 チケットレスで受け付け払いの2500円。 聴衆は30人くらいか。

 テノール=福島康晴、チェロ=懸田貴嗣、テオルボ・バロックギター=高柳義生

 コロンビ: トランペット
 ディンディア: 「穏やかな西風が舞い戻り」
 ディンディア: 「お前は私を残し、ああ、つれない人よ!」
 ピッチニーニ: チャッコーナ
 ディンディア: 「おお、春よ」
 カプスベルガー: トッカータ
 フェッラーリ: 「儚い人間が休息を取るとき」
 (休憩)
 ガブリエッリ: チェロソナタト長調
 フェッラーリ: 「私は黄金の髪に惹かれる」
 カプスベルガー: トッカータ〔前半の同名曲とは別の曲〕
 ヴィターリ: チャッコーナ
 ヴィターリ: パッサカリア
 ロヴェッタ: 「エルミーニアの涙」
 (アンコール)
 フェッラーリ: 「私は黄金の髪に惹かれる」

 17世紀イタリア、前期バロックだそうだが、に活躍した作曲家の作品を集めての演奏会。 「 」 の付いたのは歌。 曲数だけ見ると器楽曲も結構あるように見えるけど、器楽曲は短い作品が多く、特に前半は器楽曲は添え物で、テノールの独唱会みたいな感じだった。 後半はチェロソナタやチャッコーナなど、比較的長めの器楽曲も入って少しバランスが良くなった。

 歌はすべて邦訳が配布され、歌手による解説もあって分かりやすくて助かった。
 楽器は19世紀以降のものとは少し違い、チェロは本体は今風のものと同じだが底に金属棒はなくて膝にはさんで演奏する形式。 テオルボというのはリュートの一種で、弦を張るのに必要なレッグがすごく長くて (普通のリュートは途中で折れ曲がっているが、これはまっすぐ) 大型。 逆にバロックギターは現代のギターに比べて小型。 最高音を除いては2本弦が数本張られている。 というような楽器の説明も親切丁寧であった。

 歌手も楽器奏者もプロとして活躍している方々で演奏水準も高く、悪くない演奏会だったのではあるが、私がこの時代のイタリア音楽にうといせいか、音楽が骨身に染みいってくるというところまでは行かなかった。 本当にはじめて聴く曲ばっかりで、あらかじめプログラムを見たときにはヴィターリのチャッコーナ (つまりシャコンヌ) はヴァイオリンの曲として有名なアレかと思っていたのだけれど、実際に聴いてみると (チェロでの演奏だったが) 違っていた。 後で調べたら、シャコンヌのヴィターリはトマソ・アントニオ・ヴィターリ(1663-1745) で、この日聴いたのはジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィターリ(1632-1692)。 この二人は親子関係だったのだ。 うむ、勉強が足りませんでした、すみません(汗)。

 あと、会場に幼児を連れ込んだ方がいたのが残念。 連れ込む人も非常識だけど、受付でシャットアウトできなかったのかな。 その辺、主催者側の姿勢にやや問題があったのではないかと思われる。

 

8月16日(金)   *最近聴いたCD

 *ヨーロッパの歴史的オルガン第1集: アルプス地方のオルガン (SONY、SRCR 2429-30、1970-72年録音、1999年発売、日本盤)

 7月10日にこのシリーズの第2集 「北イタリアのオルガン」 を紹介したが、第1集がこれである。 同じくグスタフ・レオンハルトが、アルプス地方のオルガンを弾いている。 アルプス地方といっても国でいうと3カ国にまたがり、イタリア、スイス、オーストリーになる。 2枚組で、1枚につき3カ所のオルガンが用いられている。 教会や修道院の中に設置された楽器が多いが、最初に収録されているのはイタリア、ヴァル・ヴェノスタのクールブルク城にあるオルガンであり、時代的にもこの第1集中最古で、16世紀半ばである。 解説によると、この集のオルガンは全体としてイタリアのルネッサンスの流れを汲む楽器ということになるらしい。 最も新しい楽器で18世紀半ばの製造であることもあり、パイプオルガンとしては今の基準で言えば小型で、音もものすごく荘厳というわけにはいかず、小さい楽器なりの音がする。 ただし、それがかえって素朴で親しみやすい印象を与えているともいえる。 取り上げられている作曲家は、有名どころではパッヘルベル、クレープス、J・J・フローベルガーらがいるし、そのほか、ニューマン、アンマーバッハ、テイラー、ブリスマン、J・K・ケルル、メルーラ、パスクィーニ、ツァッヒョウ、ストラーチェ、J・C・F・フィッシャー、J・J・フックス、J・E・エーベリン、G・ムファット、そして現在では作曲者の名が分からない作品も収められている。 CD2枚で全33曲。 宗教的な雰囲気の曲が多いが、中には2枚目第1曲の 「バッタリアのダンス」 (ストラーチェ作曲) のようにきわめて明るく楽しい調子の曲も含まれている。 日本語解説付き。 今年6月初めに上京した際に新宿のディスク・ユニオンにて購入

 

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8月13日(火)   *佐村河内守: 交響曲第一番 「HIROSHIMA」 特別演奏会

 この日は、午後2時から表記の演奏会に出かけた。

 お盆に入って客の入りはどうかと思ったが、ふだんの東響新潟定期に比べるとかなり落ちた。 1階は中央付近はともかく両端はがらがらだし、2階正面Cブロックも端のほうは空いている。 その隣りのB・Dブロックはがらがら。3階正面Iブロックも半分弱程度か。 ただし料金最安値 (Cランク )の3階F・Lブロックや舞台の後ろのPブロックはまあまあ入っていた。 日頃の東響新潟定期の3分の2程度、コンサートホールの定員からすると半分弱程度か。

 私はいつものGブロック、ただし定席からは少しズレたところで聴いた。 Bランク、Nパックメイト価格4500円。

 指揮は大友直人さん、オケは東京交響楽団だが、コンマスが水谷晃さんで、これは新潟初お目見えではないだろうか。

 東響は、左から、第一ヴァイオリン16、第二ヴァイオリン14、チェロ10、ヴィオラ12、チェロとヴィオラの中間の後部にコントラバスが8という文字通りのフル編成。 ホルンが9人もいるのが迫力。 おなじみのハミルさんもいる。

 りゅーとぴあでチケットを買ったときには 「作曲者は来ませんので」 と言われたのだが、実際には開演5分前に佐村河内氏が1階席に姿を見せ、大きな拍手が起きた。

 3楽章、1時間20分ほどの曲だった、この曲の性質をどう見るかは難しいところだ。 何しろ初めて聴く曲なので。
 
 私の印象では、楽章ごとの性格づけが必ずしもはっきりしていないという感じ。 いちおう最後の第3楽章で盛り上がるようにはなっているが、そこに至る過程で楽章ごとの色付けが曖昧になっている。 第2楽章ではリリカルな表現が最初は続くけれど、途中で激しい部分もある。 第1楽章はゆったりとした中庸的な表現がメインではあるものの、それだけではない。 解説にも、各楽章に特定のテーマがあるわけではない、という意味の作曲者自身の発言が引用されていた。

 私が想起したのは、有名なショスタコーヴィチの5番である。 この曲は周知のように 「革命」 と呼ばれることがあるが、それは各楽章の性格がはっきりしていて、民衆抑圧から革命軍による解放へ、という図式が音楽から読み取れるところから来ている。

 たぶん、佐村河内さんはそういう轍を踏むまいとしたのではないか。 いわゆる標題音楽ではなく、もっと深い何かを表現したいと考えられたのであろう。 祈りかもしれないし、追悼かもしれない。 いや、そういう単純な言葉で表現できない何かである。 それが成功しているかどうか、初めて聴いた私にはよく分からない。 ただ、各楽章の性格付け、あるいはコントラストがあまりはっきりしていないのは、どうだろうかな、という気はした。 標題ではない何かを表現するにしても、楽章構成をとるからには、それぞれの色が必要だろう、それによって立体的な、ちょっと誇張して言うなら四次元的な幅が生まれるのではないかと思ったからである。

 演奏が終わると盛大な拍手の中、作曲者が舞台に上り、指揮者の大友さんと抱き合うシーンも見られた。 拍手は長く続いたが、この曲を私なりに捉えることができるまでにはしばらくかかるかなあ、という気持ちで、しかし会場で売っていたCDは買わずにりゅーとぴあを後にした。

 

8月9日(金)   *余計なお世話

 「小さな親切、大きなお世話」 という言い回しがあるけど、そういう例にぶつかってしまったので、愚痴として書いておく。

 私が受け持っている西洋文学という教養講義科目は半年2回のレポートで成績を決めている。 レポートはメールで出しても紙で出してもいいことになっており、昨今のことだからメール提出のほうが圧倒的に多いのだが、それでも紙で出す学生も一定数いる。 定員150名の授業だから、紙で出す学生数もそれなりである。

 7月末で講義は終了し、第2回のレポートを読む段となった。 メール提出は私の指定したアドレスに出せばいいが、紙で出す場合は、教養科目専門のレポート提出ボックスが設けられており、そこに出すことになっている。 むろん科目ごとにボックスは異なり、私は科目名と締め切りの日時を明記した紙を事務員にあずけて、それをボックスに張ってもらう。 ボックスのレポートは締切り後に事務員がまとめて紙袋に入れて保管しておくので、私はそれを受け取ればいいだけのことである。

 ところが、である。 今回紙のレポートを読んでいるうちにおかしなことに気づいたのである。 ホッチキスで綴じてあるレポートが大多数なのだ。

 私は学生に、紙でレポートを出すときはホッチキスで綴じないように、と注意している。 ダブルクリップを使用するか、あるいは糊で綴じてくれ、と言ってあるのだ。

 なぜかというと、紙のレポートは一定期間保存した後、シュレッダーにかけて処理することになっているからで、ホッチキスで綴じられるとシュレッダーにかけるときにいちいちホッチキスの針をはずさなければならず、面倒きわまりないからである。 だから、すぐはずせるダブルクリップか、或いはそのままシュレッダーにかけられる糊綴じにするようにと決めてあるのである。

 今回、ダブルクリップでとめていないレポートは、全部ホッチキスで綴じてあった。 むろん、私の指示を忘れてホッチキスを使ってしまう困った学生も時々いるのではあるが、ダブルクリップでとめたレポート以外は全部ホッチキスを使ってあるとなると、これはうっかり学生ではなく、事務員がやったとしか思われない。 糊綴じしてあるレポートまでホッチキスで綴じてあるのだから。 とほほほ。 気を利かしたつもりで、トンデモなことをやってくれた。

 それで、本日、教養科目の事務部に出向いて文句を言ったのだが、たまたま本日は大学のオープン・キャンパスの日で、事務員にもそのための仕事があってほとんど出払っており、残っていた2人の事務員はいずれも知らないと言うばかり。

 とにかく余計なことはしないでくれと言い残して事務室を後にしたのだが、世の中、ままならないものである。

 追記 (8/23): その後、「ホッチキスどめをしたのは私です、申し訳ありません」 という、某事務員からのお詫びメールが届きました。

 

8月7日(水)    *学長リーダーシップ論のウソ――新潟大学医療装置契約事件の真相

 私が新潟大学の職組に入っていないことはかねがねここに書いているが、組合のビラはときどき私のポストに入っている。 で、私も内容に注目すべきところがあればここで取り上げているが、今回のビラはなかなか充実していたので、紹介しておこう。

 新潟大学は現在、医療装置契約事件という難題を抱えている。 百億円におよぶ高額な医療装置を、大学側の言い分では副学長だった教授が独断で購入を決定して勝手に学長印を用いて業者と契約を行ったというもの。 納入の業者は、正式な契約だから大学側は代金を払えと主張し、また問題の副学長はきちんと学長などから依頼を受けて行動したものだから大学側の言い分は名誉毀損だと主張して、いずれも裁判になっている。

 今回、職組から配布された2枚のビラはこの点についてかなり貴重な情報を提供しているので、以下にリンクしておく。

 http://www.ne.jp/asahi/niigata-u/union/other/12/gakutyou_senkou_No3-1.pdf 

 http://www.ne.jp/asahi/niigata-u/union/other/12/gakutyou_senkou_No3-2.pdf 

 職組のこの情報を信じるなら、新潟大学の首脳部は信じられないくらい無能、ということになる。 おまけに、現在の学長は医学部出身であり、問題の機器が医療に関するものであることを考えるなら、専門が違うから分からなかった、という言い訳も通用しないことは明白だ。

 なぜこうも無能な学長や副学長などが出てくるのか。 私の見るところ、大学教授というのは、管理者に向いていない。 それは、専門的知識がないからではない。 今回、医学部出身の学長が医療装置に関わることでこういう失態をやらかしたことからも分かるように、大学教授は管理職についたとたん、なぜかそれ以前の知識を喪失するのである。 

 単にそれまでは管理される側だったのが管理する側になって立場が異なるから、というのではない。 ほんとうに不思議なことだが、ヒラの教授時代なら絶対に頭から消えないような基礎知識、というのは、学問に関することではなく、ごく普通の事務手続きや学内の常識に関わることが、頭から消えてしまうのである。 教養部や人文学部の同僚で、副学長などの管理職になった人たちがいるが、私はそのような例を何度も見てきた。 今の学長は新潟大医学部出身だから、受験偏差値的に言えばかなり 「頭がいい」 わけだし、或いは東大出身者の副学長もいるけど、例外ではない。 管理職になったとたん、信じられないくらいバカになってしまうのである。

 以上のような状況からして、「学長がリーダーシップを発揮すれば日本の大学はよくなる」 という俗論が真っ赤なウソであることは明らかだ。

 日本の組織は、上の (管理に関わる) 人材がダメだというのはよく言われることだけれど、大学ほどこれが当てはまる場所も珍しいと私は思っている。

 

8月4日(日)   *最近聴いたCD

 *グレイト・ヨーロピアン・オルガンズ 第7巻 (PRIORY、PRCD237、1988年録音、英国盤)

 サブタイトルが、「ジェイン・ワッツ、ウェストミンスター大聖堂のオルガンを弾く」 となっている。 いうまでもなく、ロンドンの著名な大聖堂である。 このディスクには、A・ジルマン(Guilmant) のオルガンソナタ第1番ニ短調op.42が最初に収められており、次にジルマンの 「ヘンデルの”汝らの頭を上げよ”によるマーチ」 op.15、Karg-Elertの 「バッハによるパッサカリアとフーガ」 op.150、M・デュプレの 「参列と連祷」 op.19-2、M・デュプレの 「ノエルによる変奏曲(全11曲)」 op.20、そしてデュプレの 「フィナーレ」 op.27-7が収録されている。 この中で最も聴き応えのある曲は、最初のジルマンのソナタだろう。 フェリクス・アレクサンドル・ジルマン (1837-1911) はフランスのオルガニスト兼作曲家で、この曲は3楽章形式、第1・3楽章は壮大で聞きやすい音楽、第2楽章は極端に音量を抑えた神秘的なパストラーレとなっている。 合計22分ほど。 解説によると、もともとはオルガンとオーケストラのための曲だったそうであるが、ここではオルガンのみで演奏されている。 次に収録されているジークリート・カルク=エラート(Sigrid Karg-Elert、1877-1933) はドイツの作曲家兼ピアニスト兼オルガニストである。 この 「バッハによるパッサカリアとフーガ」は死の直前に書かれたそうで、全部で18分半くらいの曲だが、前半はかなり晦渋だけど後半は壮大で聞きやすくなる。 その次のマルセル・デュプレ(1886-1971)はフランスの作曲家兼オルガニスト。 ヴィドールの弟子だそで、20世紀に活躍した人の曲としては聞きやすいほうだろう。 オルガニストのジェイン・ワッツは西ウェールズの出身、王立音楽院に学び、優秀な女子学生に授与されるメダルを1981年に受けたということである。 解説は英語で付いており、オルガンは1937年に作られたものだという。 録音はダイナミックレンジの幅がかなりあり、小さな音量の部分も少なくないので、できればちゃんとした装置で聴いたほうがよさそう。 昨年のいつだったか、新宿のディスク・ユニオンにて購入。

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8月1日(木)   *常磐線・夜ノ森駅の復興を祈る

 新聞を読んでいたら、東日本大震災で運転が休止されている常磐線の一部区間が近く開通するというニュースが載っていた。 広野駅と竜田駅の間が来春に復活するということである。

         http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130730-00000005-mai-soci 

 <JR常磐線>広野−竜田の復旧着工へ 来春再開目指す  毎日新聞 7月30日(火)6時46分配信

東京電力福島第1原発事故で警戒区域となり、不通となっていたJR常磐線の広野(福島県広野町)−原ノ町(同県南相馬市)間の54.5キロのうち、広野−竜田(同県楢葉町)間の8.5キロについて、JR東日本は除染作業後に復旧工事に本格着工する方針を固めた。同区間の放射線量が下がりつつあるのが理由で来年春の運転再開を目指す。

 東日本大震災で不通となっているもうひとつの区間の相馬(福島県相馬市)−浜吉田(宮城県亘理(わたり)町)間の22.6キロについては、放射能汚染の影響が比較的少ないとして、2017年春の運転再開を目指し、来春にも線路移設や駅舎新築工事に着手することが既に発表されている。不通だった区間にあり、早期運行再開を陳情している楢葉町の松本幸英町長は「住民帰還に弾みがつく。復旧すれば利用促進に取り組みたい」と話した。

 広野駅は、いわき駅から少し北上したところにある駅である。 現在、常磐線は福島県内では広野駅以南と、原ノ町駅・相馬駅間だけしか開通していない。

 広野から竜田までが通じ、さらに相馬以北の宮城県にいたる区間の復活もある程度見えてきているようではあるが、原発に最も近い区間である竜田から原ノ町までの区間はいつ復活するのか、この報道ではよく分からない。 なるべく早く開通してほしいものではあるが。

 今回報道された竜田駅から2駅北上したところに、夜ノ森 (よのもり) 駅という駅がある。 残念ながら今回の復活区間には含まれないが、富岡町に含まれる駅で、町の中心にある富岡駅には特急もとまるけど、夜ノ森は小さな駅で特急どころか、昔なら準急すらとまらなかった駅である。

 この駅は島型ホーム1本だけで、その両側には土手がそびえている。 いわば土手にはさまれた谷間にあるような駅だ。 そしてその土手にたくさんのつつじが植えられている。

 つづきが満開になる季節には、ホームの両側は色とりどりの花でいっぱいになる。 そういう時期には通過する特急 (昔なら急行や準急) も速度を落として乗客の目を楽しませるというのが、昔からの習慣だった。

 といっても、私は満開のつつじを実際に夜ノ森駅で見た経験はない。 私は大学に入って、いわき・仙台間をよく往復するようにはなったのだが、実家に帰るのは夏休みや冬休みや春休みであって、つつじが咲く季節には当たっていないため、テレビニュースなどで見る機会はあっても、自分の目で実物を見た経験がないのである。

 一度夜ノ森駅の満開のつづじを自分の目で見てみたい、そう私は思っていた。 定年退職したら行く機会もあるだろうか、そんなことを漠然と考えていた。

 そこに、東日本大震災である。 常磐線のいわき以北は不通になってしまった。 上に述べたように少しずつ復旧はしてきているけれど、夜ノ森駅が復活する見通しは今のところたっていない。

 私はあと50日ほどで満61歳になる。 つまり、定年退職までに4年半である。 

 4年半後、夜ノ森駅は復活しているだろうか。 もし私が定年退職するまで無事に勤め上げ、夜ノ森駅がそのときに復活していたら、きっとつつじの季節に夜ノ森駅を訪れようと思う。 その時までに常磐線が全線復興していますように。

 

7月28日(日)    *新潟オルガン研究会第57回例会 「喜びの音楽」 

 本日は午後2時からの標記の演奏会に出かけた。 会場は、沼垂の日本キリスト教会東新潟教会である。

 市立中央図書館に車をおいて、そこから歩いて会場へ。 日差しの強い日。 沼垂の街を歩いていると、いかにもさびれた街並みという感じ。 駐車場が目立つのも、むかしは建物があったのに撤去されて空地になっている土地が多いからだ。 でも、こういう風情も私はわりに好きなのではあるけれど。

 会場の東新潟教会は冷房が効いていて、快適。 客の入りはわりによく、五十人くらいいたか。

 (前半: バッハ・プログラム)
  八百板正己 演奏
   オルガン小曲集より 「主キリストよ、神の独り子」 BWV601
   同 「いと尊きイエスよ、われらはここに集いて」 BWV633
  鈴木麻衣子 演奏
   「いと高きところには神にのみ栄光あれ」 BWV711
   ファンタジア ハ長調 BWV570
  酒井仁 演奏
   ライプツィヒ・コラール集より 「いと高きところには神にのみ栄光あれ」 BWV663
  井上美津子 演奏
   ソナタ第3番 ニ短調 BWV527より

 (後半)
  西門優子 演奏 (ソプラノ&ルネサンス・ハープ)
   イギリス民謡より ”コヴェントリーの子守歌”、”スカボロ・フェア”、”サリー・ガーデン”、”アメイジング・グレイス”
  市川純子 演奏
   スタンフォード: 後奏曲 ニ短調
  渡辺まゆみ 演奏
   メンデルスゾーン: オルガンソナタ第4番 変ロ長調op.65-4

 曲ごとに演奏者による解説がまずあって、それから演奏がなされた。
 前半はバッハ・プログラム。
 バッハだけあってそれぞれ良かったと思うが、ソナタ第3番は私も好きな曲なので、感銘が深かったかな。 最初の八百板氏も、いつもながら分析的な解説が親切で、実際に演奏を聴いて、なるほど、曲の構造はこうなっているのかと素人にもよく分かった。

 後半はまず西門さんの歌であるが、ルネサンス・ハープを自ら爪弾きながらの演奏。 昨日はりゅーとぴあで山宮るり子さんのハープ/ソロリサイタルを聴いたばかりだが、ああいう大きなハープではなく、膝の上の乗せられるような小型のハープ。 ただし、この日の楽器はルネサンス・ハープそのものではなく、現代においてルネサンスのハープを参考にして作られたのでルネサンス風ハープと言うべきだという解説が興味深く感じられた。 3曲目の”スカボロ・フェア”はサイモン&ガーファンクルのヒット曲としても有名だけど、この日に歌われたのはその古形で、一般に流通しているS&Gの曲とは少しくメロディーが異なっていた。

 次のスタンフォードは、なかなか渋い曲で、歌の後に聴くと甘いお菓子の後に苦みの利いた料理を食べるかのような気持ちになり、バランスのいいプログラムだなと思う。

 最後がメンデルスゾーンのソナタ。この日の総合テーマは 「喜びの音楽」 だが、それに合わせた選曲だそうである。

 2時間通して聴いて、とても充実した演奏会であった。

 一つだけ無い物ねだりをしておくと、この教会のオルガンはそれなりにいい音が出るのではあるが、大音量のときにはりゅーとぴあのパイプオルガンと比べるとどうしても差を感じてしまう。 つまり、りゅーとぴあのオルガンは大音量を出してもどこか余裕があるというか、自然なのに対して、こちらは大音量だと、喩えて言えば排気量の小さな自動車が高速道路をめいっぱいの速度で驀進しているような、つまりエンジンに無理が来ていて車体もブレていて、限界だなと感じられるような、そんな音になっている。 でも演奏家の方々としては、そんなことを言われても困るでしょうね。 すみません (汗)。

 

7月27日(土)   *山宮るり子 ハープ・ソロリサイタル

 本日は午後2時から、山宮るり子ハープソロリサイタルに行く。 会場はりゅーとぴあ・コンサートホール。 女房と娘同伴。

 山宮さんは弱冠25歳ながら、新潟市のミッション系高校卒業後、ハンブルクの音楽大学に進学、第58回ミュンヘン国際音楽コンクールのハープ部門2位、第7回リリー・ラスキーヌ国際ハープコンクールで優勝という輝かしい経歴を持つ。 

 というわけで新潟の生んだ若いホープなのだが、ハープのソロリサイタルということで、どの程度客が来るのかと心配しないでもなかった。 しかし、1階席はかなり埋まっており、2階正面のCブロックもまずまずの入りで、安心。 私はCブロック5列目で聴いた。

 演奏もさることながら、トークも上手で、充実した演奏会となった。 中でもドビュッシーの曲がいちばん良かったかな。 まるでハープのために作曲されたかのようで、ピアノ曲の編曲という感じがしなかった。

 全体として毛色の異なった色々な曲が並ぶように考えられており、プログラム構成もよかった。 前半は青、後半は赤のドレスと、服装にも工夫があった。 今後のいっそうの活躍を期待したいものである。

 E・パリッシュ=アルヴァース: 大幻想曲マンドリン
 モーツァルト: ピアノソナタハ長調K.545
 ルーセル: 即興曲op.21
 M・ムチェデロフ: パガニーニの主題による変奏曲
 (休憩)
 ヒンデミット: ハープソナタ
 A・カプレ: 二つの嬉遊曲 「フランス風に」「スペイン風に」
 ドビュッシー(ルニエ編): 二つのアラベスク
 ルニエ: 交響的小品
 (アンコール)
 スメタナ: モルダウ

 

7月26日(金)   *知識人の病理――上野千鶴子先生、「隗より始めよ」 でお願いします!

 毎日新聞に 「今週の読書日記」 という週一回掲載の欄があるが、今週は上野千鶴子・東大名誉教授の執筆である。 この人の書いたものに私は感心したことがほどんどないが――といっても本を買う気にもならないので新聞や雑誌でたまたま見かけたものを読んでいる程度だけど――今回も感心しなかった。

 特に最後が、かなり変なのである。 女性の就業率と少子化に言及している箇所だ。

 http://mainichi.jp/feature/news/20130723dde012070005000c2.html 

 男も女も働いて家庭を支え、子どもを産み育てる……そんなあたりまえのことがなぜできないのか? 内閣府の外郭団体、家計経済研究所が不況下の10年間、同じ女性集団を追い掛けたパネル調査にもとづく「女性たちの平成不況」樋口美雄・太田清編(日本経済新聞社)によれば、非正規雇用の女性より正規雇用の女性のほうが、結婚確率も出産確率も高いことがはっきりわかっている。このデータが教える少子化対策の処方箋は、女に安定雇用を保証することだ。 雇用崩壊が進み、働く女性の6割近くが非正規雇用の今日、このままでは、日本に子どもが増える兆候はない。

 うーん・・・・露骨に矛盾含みですよね。 なぜって、上野千鶴子は大学教員として 「安定雇用」 を享受した人だ。 その彼女は結婚したのか、子供を産んで育てたのか? 寡聞にしてそういう話は聞かない。 つまり、自分の言説への反証に自分自身がなっているのである。

 自分は別、なんだろうか? 違うだろう。 自分の主張を自分で実践しない人間の言説が信用できるわけがないからだ。 隗より始めよ、というのは私のモットーだけど、自分は別というような人間は単なる言説の徒に過ぎないのであって、そういう人間の言説が生きている人間を撃つことは決してない。 撃つことがあるとすれば、同じような言説の徒だけである。

 それから、多分、これは彼女が例外というような話ではないのだと思う。 少子化は先進国ならではの病理だが、上野千鶴子は病理の一部分なのである。 「男も女も働いて家庭を支え、子どもを産み育てる……そんなあたりまえのことがなぜできないのか?」 と彼女は書くけれども、戦後の日本ではしばらくはそれは 「あたりまえ」 ではなかった。 男が仕事、女は家庭、それが 「あたりまえ」 だった。 そしてその時代は、今ほど少子化はひどくなかったのである。 女性の安定雇用などなくとも、少子化は進行しなかったのだ。

 最近、戦後日本の 「男は仕事、女は家庭」 は一時的なものだったというような言説が社会学者によってなされることが多い。 古市憲寿なんかもよくそういうことを言っている。 例えば農家はそうではなかったし、日本では戦前は農家の占める割合が高かったから、というのである。

 しかし、近代化が第一次産業従事者の比率を低下させること、戦後の日本では、女性は農家に嫁ぐことを嫌がり (つまり、働く女になることを嫌がり)、むしろ都会のサラリーマンと結婚して専業主婦になることを選んできたというのは、否定しようもない事実なのである。 つまり、「男も女も働いて家庭を支え、子どもを産み育てる……そんなあたりまえのことがなぜできないのか?」 というのは上野の、或いは古市など社会学者の一方的な思い込みでしかない。

 むしろ近代化が浸透するにつれて、子供を作ったり育てたりという面倒くさい作業を日本人はやりたがらなくなってきた、というのが、少子化の真相だろう。 実際、上野自身、それをしなかった。 上野自身が近代の病理の一部分なのである。 それを自覚することからしか、学者としての言説はなされ得ないはず。 

 上野千鶴子よ、自分の病気を分析せよ。

 

7月24日(水)   *最近聴いたCD

 *オルガンの風景――ホルシュタイン・リューベック篇 (MDG、319 0962-2、2000年録音、ドイツ盤)

 5月19日のこの欄でも 「オルガンの風景シリーズ」 の1枚を紹介したが、これも同じシリーズの中の 「ホルシュタイン・リューベック篇」 である。 北ドイツの港町リューベックの聖ヤコービー教会のオルガンを初め、テリングシュテット、プロープシュタイアーハーゲン、バルムステット、ノイキルヒェン、ノイエンドルフと、計6箇所で録音がなされている。 収録作品は全部で14曲。 有名なブクステフーデ (1637-1707) から2曲が収録されているほか、アンドレアス・クネラー (1649-1724)、ペトルス・ハイドルン (1660-1720)、クリスティアン・フロール (1626-97)、ヤーコプ・コルトカンプ (1615頃-65)、ニコラウス・ハッセ (1617頃-72)、ヨーハン・シュテッフェンス (1560-1616)、ペトルス・ハッセ (1585頃-1640) といった、16世紀末から18世紀初頭に活躍した作曲家の作品が並んでいる。 曲種はさまざまで、プレリュード、フーガ、テ・デウム、賛美歌の前奏曲などである。 全体の印象としては、荘重で、いくぶん厳粛な曲が多く、各曲の演奏時間は短くとも、民衆的な素朴さよりは、作曲家の修練や技巧のようなものを感じさせられる。 オルガン演奏はヴォルフガング・バウムグラッツ、1948年生まれでフライブルク音楽大学に学んだ人である。 解説が英・仏・独語でついているほか、各使用オルガンのカラー写真と簡単な解説(ドイツ語)、レジストレーションが掲載されている。 先月初めに上京した際、新宿のディスクユニオンにて購入。

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7月22日(月)   *「映画評論家」 藤原帰一氏のダブルスタンダード――『熱波』 と 『風立ちぬ』

 政治学者・藤原帰一 (東大教授) は映画も好きらしい。 毎日新聞の日曜版 「日曜くらぶ」 に毎週映画評を載せている。 題して 「藤原帰一の映画愛」。

 政治学者が映画評論やって悪いということはないし、政治学に拘束されない意外な視点など見せてくれればそれなりだと思うのだけれど、先週と今週の映画評を比べてみると、見事なまでに日本知識人のダブルスタンダードが出ていて、所詮この程度かなとがっくりきてしまう。

 先週 (7月14日) はポルトガル映画 『熱波』 を論じていた。 以下、その趣旨を紹介するが、この映画はまだ新潟には来ていないので (映画後進地の新潟なので来るかどうかも分からない)、私は見ておらず、藤原の評論が的確かどうかは分からない。 ここではあくまで藤原が映画のどういう面に目を向けたかに限定して見ていくことにする。

 この映画、最初は現代のリスボンが舞台だが、やがて50年前のアフリカの農園が舞台となる。 つまり、ポルトガルの植民地統治時代が出てくるわけである。

 ここで藤原は、ポルトガルによる植民地統治時代が倒されようとする時代のことだから、植民地統治がどこかに絡んでくるのだろうと予想したくなるが、そうではない、独立運動も背景としては描かれるが本筋には無関係である、ここに描かれる植民地時代のアフリカは、暴力と圧政どころかポルトガル人が自由に豊かに暮らした地上の楽園として描かれている、と述べている。 植民地時代の過去は人間らしいドラマが展開されるのに対して、現在は索漠とした時間が流れている。 実際、現在が舞台の第一部には 「楽園の喪失」、第二部には 「楽園」 という題が付けられている。 こう紹介した上で、藤原は 「なんだか、ヘン、ですね」 と書く。

 そのあと、藤原は植民地化を楽園喪失として描いたムルナウの 『タブウ』(1931年) を引いた上で、『熱波』 はムルナウの視点をひっくりかえしたもの、と自説を展開する。 以下、文章をそのまま引用しよう。

 数多くの植民地支配の中でも、ポルトガルのモザンビーク統治はベルギーのコンゴ支配と並んで最も苛酷なものに数えられますから、白人だけの視点からそれを楽園のように描くなんてとんでもないという気もするでしょう。 ですが、ゴメス監督の目的は、植民地統治ではなく、それを失ったポルトガルの現在の表現。 苛酷な植民地時代にしか人間らしい人間を見つけることができないという逆説の表現なんですね。 それによって、現在に生きる憂鬱を表現しようとしたわけです。

 これは賢い。 植民地解放闘争に翻弄される男女なんて登場したら面白いけどウソになるところですが、そんな手練手管に訴えないで、白人にとって植民地時代は何だったのかをつかまえています。

 ふうん、と私は思った。 藤原帰一ってそういう見方をする人なのか、と意外な気がしたのである。 それに、論理的に矛盾しているな、とも思った。 「苛酷な植民地時代にしか人間らしい人間を見つけることができない」 と言っているけど、苛酷なのは現地人にとって、でしょう? 支配しているポルトガル人にとっては 「苛酷」 じゃなく、「楽園」 だったはず。 楽園なら、人間らしい暮らしだと回顧するのは当たり前じゃないの?

 もっとも、私は上述のようにこの映画を見ていないので、誤解があるのかもしれない。 ポルトガル人に搾取されていた現地人にとって苛酷だったのに同時に人間らしかった、のかも知れない。 だけど、この映画評を見る限り、50年後に本国でしがない暮らしをしている老婦人が憂鬱にとりつかれているというところから話を始めているのだから、白人にとってそうなのだ、と藤原が言っているとしか思われないんだよね。

 要は、ずいぶん白人に甘いな、と私は感じたのである。 まあ、でもそういう見方もすればできるな、とも。 人間って、いくら身勝手で他人にはた迷惑に生きても、後で振り返ってみれば黄金時代って場合もあるからだ。 それはそれで一つの見方には違いない。

 ・・・・なんだけれど、こういう、ある意味柔軟な見方は、1週間後の7月21日の映画評になると見事なまでに影をひそめてしまうのだ。 この日の映画評の対象は、前日に封切られたばかりの宮崎駿のアニメ 『風立ちぬ』 である。 これは私も封切日に見たので、私の見解を含めて藤原の評価を検討したい。

 宮崎駿の 『風立ちぬ』 について藤原は、絵の美しさは賞賛した上で、しかし 「子どもっぽい」 と批判する。 子どもが大人の中にも残っていて、大人が見ても子どもの夢に感動する作品というものがある、『魔女の宅急便』 や 『千と千尋の神隠し』 はそういう作品だった、と藤原は述べた上で、次のように書いている。

 といえ、子どものままでは未熟な大人に過ぎない。 子どものまま大人になった人は、自分で向かい合い、学び、行動を選ばなければいけない現実から目を背けているからこそ、子どものままでいることができる。 その子どもらしさは美しくありません。

 夢の飛行機をつくる人生もいいですが、戦闘機の美しさは戦場の現実と裏表の関係にある。 宮崎駿が戦争を賛美しているとは思いませんが、戦争の現実を切り離して飛行機の美しさだけに惑溺する姿には、還暦を迎えてもプラ模型を手放せない男のように子どもっぽい印象が残ります。

 私はこれを読んでびっくり仰天した。 先週はあれほど白人の植民地支配に対して、論理的矛盾を含めて理解を示していた藤原が、こと日本のアニメとなると、一転して 「政治的な正しさ」 のみで作品評価を行っているからである。 白人が登場する映画と、日本人が登場するアニメとでこれほど論調が異なるって、見事なまでにダブルスタンダードですよね。 東大教授だからなのか、東大教授なのになのか、その辺は分かりませんけど。

 それと、藤原はこのアニメの中心を捉えそこねていると私は思う。 『風立ちぬ』 は戦争を全然描いていないわけではない。 短いけれど、主人公が設計した零戦の末路も出てきているのだ。 そもそも、このアニメには少年時代の (そして大人になってからも) 主人公がイタリアの有名な飛行機設計家と夢の中で会ったり会話を交わしたりする場面が何度も出てきている。 そこを見れば分かるはずだけど、飛行機はしばしば戦争の道具として作られるわけだけど、それに囚われない楽しさが飛行機にはある、そういう飛行機設計マニアの思想は、作中にちゃんと描き出されているのである。

 むろん、主人公はその後戦闘機の設計に携わるようになるのだが、それは時代と場所の制約に過ぎない。 夢の中のイタリアの飛行機設計家も、そうした時代の制約の中で仕事をしたのだし、ヨーロッパに比べて後進国だった日本に住む主人公にとって時代の制約はいっそう厳しいものだったのである。 (「大人」 なら、そういう事情はちゃんと読み取ろうね。) そういう条件の中で主人公は自分なりに誠実に仕事をしたのである。 藤原の物言いは、「あいつは戦闘機を設計したのだから戦争加担者だ、ケシカラン」 というのと全然変わりない。 いや、それでも別にいいのだけれど、だったら前週にはなぜ 「あいつは植民地主義に反対していない、ケシカラン」 と書かなかったのか? 不思議、不思議である。

 藤原はそのあとでも、主人公と恋人との関係が男性中心主義的だという意味の批判を連ねているのだが、ここには引用はすまい。 あまりにステレオタイプのフェミニズム的批判で、つまらないことおびただしいからだ。

 こんな評論しか書けない人には、「映画愛」 などと言ってもらいたくはないものである。 

 (なお、上に引用した藤原の評論文はネット上の毎日新聞には掲載されていないようなので、紙の毎日新聞でごらん下さい。)

 追記: 上の藤原帰一批判を書いてから半年後、私もどうにか (新潟ではなく) 東京で 『熱波』 を見ることができた。 しかし、上で書いたことを修正する必要を感じない。 そもそも、『熱波』 では、ポルトガルのアフリカ植民地支配は終わりかけており、独立運動についても少しだが作中で触れられている。 終わりかけた植民地支配の中での不倫、だからこそ後から振り返って輝いて見えるわけで、時代背景は決して単なる背景ではなく、この映画の本質そのものなのである。 この映画の主人公達が白人であることは自明なのに、「苛酷な植民地時代」 と書いてしまった藤原は、何か根本的な勘違いをしていたとしか思われない。 (2014年1月20日記載)

 

7月21日(日)   *東京交響楽団第78回新潟定期演奏会

 本日は東響新潟定期の日。 スダーンの音楽監督としての演奏会は、新潟では今回が最後である。

 久しぶりに晴れて、日中はちょっと暑かった。 しかし客の入りは、前回が良かったので期待したのだが、またもとに戻ってしまったよう。

 指揮=ユベール・スダーン、ピアノ=中村紘子、コンマス=グレブ・ニキティン

 ルーセル: 交響曲第3番ト短調
 ショパン: ピアノ協奏曲第2番
 (休憩)
 ベルリオーズ: 劇的交響曲「ロミオとジュリエット」抜粋

 今回、スダーンの指揮台には背もたれが入り、椅子に座っての指揮だった。 こういうスダーンを見たのは、記憶が正しければ初めてのような気がする。 体の調子が良くないのだろうか。 舞台での歩き方を見ても、元気いっぱいとは言い難い感じ。 もっともスダーンも1946年生まれで現在67歳、老いが忍び寄る年齢なのかも知れない。 しかし桂冠指揮者の秋山和慶氏が70歳を過ぎて矍鑠としていることを考えれば、まだまだじゃないかと言いたくもなる。

 さて、今回の東響はフルメンバーというか、弦がめいっぱいの人数。 16-14-12-10-8。 協奏曲だけはそれぞれ2名減だった、舞台全面に団員がすわっているのは、何とも頼もしい感じがする。

 最初のルーセルは日頃聴かない曲なので、午前中にCDを聴いて予習して行った。 思うに、第2楽章が陰影に富んでいて魅力的なのではないか。 時間的にも長いし。

 次の協奏曲ではおなじみの中村紘子さんが登場。 東響定期にはそれこそ定期的に登場するのだけれど、いつも思うことだが音が大きくて明晰なので、協奏曲向きの人なのではないか。 今回も音がしっかりと出ていて、テンポも自由自在、悪くない演奏を聴かせてくれた。 でも何度も呼び出されているのだから、アンコールをやってくれればもっと良かったと思うけどなあ。

 後半のベルリオーズでは、最初と最後の金管、途中の木管と、管楽器のがんばりが目立ち、また弦もいつもながら美しいアンサンブルを聴かせてくれた。 ただ、この曲、私としてはさほど好きではないけどね。

 ホワイエの東響グッズコーナーでスダーンと東響によるブルックナー第6のCDが販売されていたので、開演前にスダーンのサイン入りのを買う。 後でじっくり聴くつもり。 終演後に見てみたら、第6のCDは売り切れていたようである。

 帰りは、来たときと違って日も沈み気温も過ごしやすいくらいに低下していて、安らぎ堤を歩いて帰途についた。

 スダーンと東響による演奏会は、年度内の首都圏ではまだあるので、都合がつけば一度上京して聴いておきたい。 でも、時間 (とお金) がとれるかなあ・・・・

  あ、それから、この日のコンサートホールは少し冷房効きすぎだと感じた。 りゅーとぴあさん、省エネでお願いします。

 

7月19日(金)   *いつもながら愚痴ります、新潟の映画事情

 いつも書いているけど、いつまでたっても改善されないので、またまた書く。 新潟の映画上映事情は相当ひどい。

 本日の毎日新聞の映画欄を見ていたら、『シャニダールの花』 が大きな扱いで紹介されていた。 うん、いかにも面白そうな映画なのだな。 封切は明日である。 といっても、明日から上映されるのは首都圏、名古屋市、関西圏、福岡市の4地域だけだけど。

 しかし、多少遅れても上映予定があるならいいのである。 札幌市では8月上旬から上映見込みだし、金沢市と富山市はそれぞれ10月、11月に予定が入っているし、秋田を除く東北5県や高崎市でも日程は未定だが上映されることは決まっている。 しかるに、例のごとく新潟では上映予定すら入っていないのである。(作品サイトによる。)

 このほか、『百年の時計』、『コン・ティキ』、『25年目の弦楽四重奏』、『建築学概論』、『熱波』、『3人のアンヌ』、『クロワッサンで朝食を』、『偽りの人生』・・・・・などなど、評判の新作が新潟には来ていないか、少なくとも上映予定が入っていない。

 スクリーン数ばっかり多くても、これじゃダメなんだよ。 そして、東京で評判になったようだから、遅ればせながら新潟でも、じゃダメなんだよ (8月末にようやく新潟市にも来る 『さよなら渓谷』 なんか、そういう例じゃないのかな)。 先見の明をもって必ずしもメジャーじゃない作品を選び、東京とほぼ同時期に持ってこれるようじゃなきゃ。

 新潟の映画業者は猛省してもらいたい。 

 追記: その後、『25年目の弦楽四重奏』 はイオンシネマ新潟南で、『クロワッサンで朝食を』 はシネ・ウインドでの上映が決まったが、それ以外は相変わらずの状態が続いている。(8/23記)

 さらにその後、『偽りの人生』はイオンシネマ新潟西で10月中旬から、『百年の時計』はシネ・ウインドで10月下旬からの上映が決定した。 (9/4記) 

 

7月17日(水)    *山本真希オルガンリサイタル、のはずが

 本日は午後7時から山本真希オルガンリサイタル、のはずだったのだが、楽器の不調で10月13日に延期となった。

 本日は朝の1限から授業のある日。 10時に授業を終えて研究室にいたら、自宅の女房から電話がかかってきた。 りゅーとぴあからの電話があり、本日のオルガンリサイタルは延期になったとのこと。 やれやれ。

 パイプオルガンの仕組みはよく分からないけど、以前にも楽器が不調というアクシデントがあった。 日ごろからのメインテナンスはちゃんとしているんだろうけど、肝心要の日にこういう事態になるというのは、どうなんだろうな。

 もっとも、以前新潟市内のヴィオラ・リサイタルで楽器のアクシデントで急遽修理を頼んだので開演が大幅に遅れるという体験を私はしている。 世の中、アクシデントはつきもの。 あんまり神経質になるのもよくないかな。

 そういえば先月はシネ・ウインドに夕刻行ったら、鑑賞予定の映画がフィルムのアクシデントで上映中止という事態もあった。 

 アクシデント込みで予定を立てておく、くらいの気持ちで生きていたほうが楽なのかもしれないね。

 

7月15日(月)   *伊東乾・東大准教授の発言に驚愕

 本日の産経新聞を読んでいたら、「変わるか日本 2013参院選 教育改革」 という特集記事で、冒頭、伊東乾・東大准教授の発言が取り上げられていたが、一読してびっくり仰天した。 数年前の授業アンケートの1枚に書かれてあったことを読んだ伊東准教授は頭をかかえたというのだが、以下、その後も含めて記事を引用すると――

《教員がきれいに板書して解答パターンを教えるから試験問題が解けるのに、パワーポイントを使って板書しない。これは手抜き以外の何物でもない。早口なのでノートも取れない。見たこともない問題も宿題に出す。こんなだめ教員に当たって大変不幸だ》

 伊東さんは「これは重症だ」と頭を抱えた。「(学生たちは)類似問題のパターンを練習するという受験風土に過剰に適応したため、自分で一から頭を使って考えることができなくなっている…」

 最近も学生の主体性、創造性のなさを顕著に感じる。「『オペラ公演』をつくる演習授業で、字幕製作などの明確な課題には力を発揮するが、演出や美術などで創意の発揮を求めると消極的で鳴かず飛ばず」。日本の大学の頂点に立つ東大生の実態を熟知する伊東さんはこう指摘する。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130715/trd13071500000013-n1.htm 

 「うーん・・・・重症だな」 と私もつぶやいていた。 ただし、東大生がではなく、こういう見方をしてしまう伊東准教授が、である。

 まず、最初に引用されている東大生の指摘だが、私は学生の言うとおりだと思う。 パワーポイントは板書の代用にはならない。 黒板に文字や数式をひとつひとつ書いていくという過程が教育になっているのであって、いくらパソコンで打ち出したキレイな文字とはいえ、いきなり全体を提示してしまうのは教育上好ましいやり方とは言えない。 また、説明する際には早口は慎み、ゆっくりはっきりした発音で聴講している人間に分かるよう心がけるのも教員の基本であろう。 また、宿題は、その授業でやったことを学生が理解しているか確認するために行うものだ。 場合によっては予習の意味で宿題を出すこともあるが、そういうときでも教わったことを土台にしてできる範囲内の事柄をやらせるのが当たり前。 

 そうした常識もない教員に当たってしまった学生は、東大生といえども気の毒だと私は思うし、この手の教員が授業アンケートで批判されても仕方がないのである。 それが見えない伊東准教授はかなりの 「重症」 と言うしかない。

 それから創造性云々というところだけれど、東大生は秀才ではあるかも知れないが、芸術的な創造性を試されて東大に入ったわけではあるまい。 学力と創造性は別のものである。 「日本の大学の頂点」 って言うけれど、いくら東大生だって万能の天才はそうそう含まれていないはず。 そういう芸術的創造性を求めたいなら、東大で教えるのはやめて、芸大とか音大に移ったらいいではないか。

 早い話が、伊東乾って人はすごい勘違いをしている、と思う。

 実は私は以前、この人の書いた新書を読んだことがある。 『バカと東大は使いよう』 といった振るったタイトルで、やはり東大生に対する悪口を連ねていたが、では肝心要のご自分はどうかと言えば、相当に学識が怪しいのである。 ソシュールの言語学用語を間違った理解のままに使っていたりして、この程度で東大の先生になれるのかなあ、と首をかしげてしまった。

 でも、伊東乾准教授自身も東大の出身らしいので、そこから見ればたしかに東大生の質は低下しているのかも知れないね。 灯台下暗し! (オヤジギャグですみません・・・汗)

 

7月12日(金)   *寄付――ユニセフ、国境なき医師団

 ボーナスも出たので、本日、ユニセフと国境なき医師団とにわずかながら寄付をしました。 (なぜわざわざ自分の寄付行為について書くかは、2005年7月29日の記述をごらんください。)  東日本大震災にともなう国家公務員の給与削減の影響で相変わらずボーナスが減っているので、ほんとうにわずかです。 すみません。

 

7月10日(水)   *最近聴いたCD

 *ヨーロッパの歴史的オルガン第2集: 北イタリアのオルガン (SONY、SRCR 2431-2、1970,74年録音、1999年発売、日本盤)

 グスタフ・レオンハルトが1970年および74年に録音したディスク2枚組。 それぞれ場所は異なるが、北イタリアの町にある教会に設置されたオルガンによる演奏で、楽器は各CDごとに3種類。 1枚目が1581年、1636年、1758年製作のオルガン、2枚目が1795-96年、1669-70年、1797年製作のオルガンである。 収められているのは小曲のみで、長くても7分台、短いものは30秒ほどである。 1枚目に収録されている作曲家は、A・ガブリエリ、フレスコバルディ、B・パスクィーニ、G・M・トラバーチ、M・ロッシ、D・ツィポリで、活動期は16世紀から18世紀初頭くらいまで、2枚目はG・B・マルティーニ、D・スカルラッティ、ツィポリ、B・ストラーチェ、パスクィーニ、フンメルで、活動時期は18世紀から19世紀前半。 このほか、2枚目には作曲者不詳の短い曲が3曲収められている。 全32曲になるが、素朴で聞きやすい曲が多い。 1枚目ではフレスコバルディの曲が、2枚目ではD・スカルラッティのフーガが特にいいと思う。 日本語解説付き。 今年6月初めに上京した際に新宿のディスク・ユニオンにて購入。

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7月6日(土)    *新潟大学管弦楽団第34回サマーコンサート

 本日は午後6時30分から標記の演奏会に出かけた。 会場はりゅーとぴあ。

 雨のせいもあってか、客の入りはふだんの新大オケよりやや劣る感じ。 2階正面のCブロックは満席、1階も結構入っていたが、2階のB・Dブロックと3階正面Iブロックはほどほど。 2階のA・Eブロックと3階のH・Jブロックはぱらぱら、という程度。 それ以外のブロックはゼロ。

 しかし、空いているのを幸いとばかり、私はJブロックの舞台に一番近い側の、2席だけ並んでいるところを一人で占領してゆったりと鑑賞。

  指揮=河内良智、コンマス=山田恵

  ヴェルディ: オペラ 「運命の力」 序曲
  シベリウス: 交響曲第7番
  (休憩)
  ブラームス: 交響曲第1番
  (アンコール)
  ブラームス: 「ハイドンの主題による変奏曲」 より

 開演は午後6時半のはずだが、その5分前くらいから団員の入場が始まり、コンマスが登場してチューニングが行われ、そして指揮者が登場して、最初の音が鳴ったのは6時半まであと10秒くらいある時だった。 定刻より早く始まる演奏会も珍しい(笑)。

 このところ、トシのせいか季節のせいか、音楽や映画に対する感受性が少し鈍ってきているような気がしていたのだが、この日はどういうわけか音楽に対して心が開いているような案配で、音楽を堪能できた。 また、曲目も私向け(?)みたいに粒ぞろいだったことも大きいかな。

 最初のヴェルディは生誕200周年を記念してのプロだろう。 なかなか気合いが入っていた。 次のシベリウスも良かった。 この曲の幻想味をよく出していた。

 ただ、シベリウスでは弦楽器が、ヴァイオリンは第一第二それぞれ10名なのに対して、ヴィオラとチェロも各10名、コントラバスが8名と、ふつうに考えるとややバランスが悪い感じ。 まあ、実際に聴いていてそんなにバランスが崩れていたわけでもないのであるが、ここら辺は学生オケの宿命なんだろうか。 それともたまたま今年はヴァイオリンが弾ける団員が少なかったのか。

 後半のブラームスではヴァイオリンの人数も若干増えてバランスが是正されたよう。 演奏も、最初にホルンが音をはずして大丈夫かなと思ったが、その後はおおむねちゃんと弾けていたし、第2楽章で新コンマスの山田さんの独奏もしっかりしていたし、よかったのではないか。 ブラームスの一番は、ふつうのプロオケの演奏会でもよくやるけど、改めて、やはりいい曲だなと思う。アンコールにやはりブラームスのハイドン変奏曲、ただし少し縮めていたようだ。

 次の12月の定期演奏会は、ちょうど50回目という記念のコンサートになるとのこと。 ショスタコーヴィチの5番などが取り上げられるようだが、期待したいものである。

 

7月5日(金)   *ワーナーマイカル・シネマズがイオンシネマと改称

 シネコンのワーナーマイカル・シネマズが、今月の1日からイオンシネマと改称した。 これにともない、従来の新潟市内の2館、つまりワーナーマイカル・シネマズ新潟はイオンシネマ新潟西に、ワーナーマイカル・シネマズ新潟南はイオンシネマ新潟南と名称が変わった。 従来、単に 「新潟」 と名乗っていたほうが 「新潟西」 になっているところに注意されたい。

 ことの次第は詳しくは私も知らない。 興味のある方はウィキペディアで 「イオンシネマ」 を検索してください (リンクを貼ろうとしたがうまくいかないので、各自の検索をお願いします)。 

 映画ファンの立場からすると、名称の変化よりも、内実の変化を望みたいところだ。 新潟市内にはシネコンが4館あるわけだが、率直に言って旧ワーナーマイカル・シネマズ2館の評判はイマイチであった。 やっている映画は最大公約数的だし、料金サービスも座席もユナイテッドに完敗しているし、もう少し何とかならないの、と言いたくなるようなシネコンだったのである。

 本日、新生(?)のイオンシネマに映画を見に行ってみたら、イオンで当日使えば食料品5%引きのチケットをくれた。 これは抽選用紙も兼ねていて、このチケットに書かれた番号をイオンシネマのサイト上から入力すると、「生涯無料シネマチケット」が当たるという。 おっ、と思ったけれど、これが全国1名様限りなのだから、セコイ。 ほかにグッズが1万名様に当たるというけど、私は変なグッズは全然欲しくありませんからね。 それなら映画の割引券でももらったほうがマシである。

 このほか、7月1〜3日の3日間限定で無料の映画も公開されていたようだが、いずれも俳優だとか筋書きを見ても見に行きたいなとは思えない代物であった。 やるならもう少しぱっとしたことをやらんかい!

 具体的には、東北地方ならフォーラム系映画館でやっている映画作品が来るようにしてもらいたい。 新潟市が映画後進地であるのは、主として東北地方ならフォーラム系に来る作品がほとんど来ないためなのだから。 イオンの資本力をもってすれば、そう難しいことじゃないんじゃないかという気もするけれど、私は映画の配給のことはよく分からない人間だから、まあ実際はどうなのかは知りません。 でも、とにかくどこかがどうにかしないと新潟市の映画上映状況は改善されないわけだから、何とかしてください。   

 

7月4日(木)   *人口激減に対して「個人の尊厳」を言う論理――毎日新聞・山崎友記子記者のコメントに疑問符

 昨日の毎日新聞には、少子化問題への記事が二つ載っていた。 一つは「参院選挙への視点」という特集記事における、中谷巌氏の「人口問題で将来構想を描け」である。 これは少子化問題だけを扱ったものではないが、50年後の人口動態を考えて、今のうちから手を打たなければ、目先の成長戦略だけうんぬんしても仕方がない、というきわめてまっとうな指摘である。

 もう一つは山崎友記子記者によるインタビューで、「そこが聞きたい 消えた女性手帳 佐藤博樹・東大教授・少子化危機突破タスクフォース座長」 である。 ここで、少し以前、出るとされながら世論やマスコミの批判により頓挫した女性手帳について、佐藤教授が説明している。 マスコミの受け取り方や記事の書き方にも誤解があるのではないか、というふうな申し開き(?)である。

 私はここで、女性手帳については細かく検討することはしない。 しかし、少子化問題でこの種の議論がなされ、結局何事もなされないままに問題が放置されることを何よりも恐れる。 こういう記事を読むと、マスコミは政府の方策に批判だけ並べ、他方で少子化によって何が起こるのかを正確に伝えず、かえって物事を悪化させているのではないか、という疑問がつのってくる。

 実際、インタビューの最後に山崎記者はこういうコメントを載せている。

 「女性の健康や性を守るために、公的機関が適切な情報を提供することは決して悪いことではないと思う。 ただし、それが国の出生率との関連で語られることには注意しなければならない。 産む・産まないの選択は、個人の尊厳につながる極めて重要な権利で、だからこそ大きな批判が起きたことを、政府は忘れないでほしい。」

 私は、これでは少子化は解消されないだろう、と思った。 山崎記者は、では少子化を解消するにはどうすればいいか、せめて自分なりの対案を載せないと無責任であろう。 だだっ子が、だっていやなんだもん、というのと変わらないレベルの発言だからである。

 人口の激減は当然ながら社会全体に不安定をもたらす。 対案も出さずに 「個人の尊厳」 を言えばどうなるか。 何をどうしても 「個人の尊厳」 だから赦される、という論理になろう。 別の言い方をするなら、絶対的な 「個人の尊厳」 は存在しない。 「個人の尊厳」 は社会との関連において相対的に成り立つものなのだ。

 私は、人間は2つの税金を納めることで社会に対する義務を果たすものだと思っている。 ひとつはおカネの税金、もうひとつは子供を生み育てること。 後者は、言うまでもなく後世の社会が維持されるための絶対必要条件である。 仮に、「個人の尊厳」 を盾にとって誰も子供を作らなかったら、世界が100年度にどうなるかは、言うまでもないからだ。 税金を払うことに、「選択」 の余地などないのである (無論、体の都合で生めない方は別である)。

 その程度の常識もない人間が新聞記者のような責任の重い職業に就いてもらいたくはない。 「個人」 は 「社会」 とセットになって初めて成り立つものだということも知らないのでは、話にならない。

 (なお、中谷巌氏の記事は下のURLから読めます。 佐藤博樹氏へのインタビューはネット上にはないようなので、紙の毎日新聞をごらんください。)

 http://mainichi.jp/select/news/20130701dde018010010000c2.html 

 

7月2日(火)    *本を入手するまでの手間と時間・・・・新潟大学文系教員の悲惨

 本日は2限に学部3・4生向け演習をやっていたら、学生から質問が出た。 この演習は 「ユートピア」 をテーマにしていて、メルシエの 『紀元2440年』 というユートピア物語に今回から入ったのであるが、その注の部分がよく分からないという意味の質問であった。

 注は或る書物からの引用なのだが、たしかにそこだけだと分かったような、分からないような、である。 私も注なのでうっかり下調べが行き届いていなくて、後で調べておきますということにした。

 2限終了後に調べてみると、問題の引用本は 『タブロー・ド・パリ』 というタイトルなのだが、これはメルシエ自身の書物で、岩波文庫から 『十八世紀パリ生活誌』 というタイトルで上下2巻の邦訳が出ていることが分かった。

 岩波文庫か、ならば大学の図書館で調べがつく、と一瞬考えた私は甘ちゃんだった。 新潟大学に30年余りも勤務しているのに、この大学の図書館がいかにお粗末で、蔵書がいかに悲惨かということが身にしみていなかったのである。 そう、『十八世紀パリ生活誌』 は新潟大学の図書館にはなかったのである。

 念のため付け足せば、OPACで調べてみると、この本は日本全国の大学図書館217館で所蔵している。 新潟県内でも、新潟県立大学と新潟産業大学は所蔵している。 なんで新潟大学の図書館ってこうもダメなんだろうね。 この場合は、仏文教員の怠慢さを批判すべきかな。

 しかし、である。 岩波文庫だから大学生協書籍部にあるかな、と私は考え直してみた。 で、昼休みでもあるので、昼食をとってから食堂のすぐ隣にある生協書籍部に行ってみたのだが、残念でした、『十八世紀パリ生活誌』 は書棚にありませんでした。 (追記: 後日調べなおしてみたら、版元品切れ中らしい。)

 もっとも、立ち読みで済ませようというセコイ魂胆だったので、生協書籍部に文句を言うことも出来ない。 いや、研究費が潤沢なら堂々発注するんですけど、いつも書いているように現在の私の研究費は年間約20万円で独法化以前の半分以下なので、文庫本とはいえ機会あるごとにほいほいと買うことは出来ない状態なのである。 文庫本くらい自分のカネで買え? いや、一昨年までならそうしていたんですけど、昨年度から大震災に伴う国家公務員の給与削減にあって、文庫本を買うにも考え考えしているありさまなのである。

 で、困ったときの公共図書館頼み。 次に私は新潟県立図書館と新潟市立図書館の蔵書を検索してみた。 すると、かろうじて、新潟市立図書館のうち一館にあると判明した。 しかし、である。 この一館が舟江なのである。 舟江とは、新潟市の中央区の東の端くらいのところにある地名だ。 新潟大学のある西区五十嵐からは15キロ以上離れている。 行くのは面倒くさいしガソリン代もかかる。

 実は本日はどのみち夕刻に県立図書館に本を借りに出かけようと思っていたので、そこからさらに足を伸ばしてということも考えたのだが、そこまですることもなかろう、市立図書館の本は市内の分館からなら取り寄せてもらえるのだから、と安易な方向に自分を納得させてしまう。

 で、夕刻近く、自分のクルマで大学を出て、まず近くの新潟市立図書館内野分館に寄り、『十八世紀パリ生活誌』 を取り寄せてもらう手続きをとり、次に県立図書館へ。 授業に必要な本を2冊借り出す。

 授業に必要な本をどうしてわざわざ県立図書館から借りなくてはならないのかは、上に述べた事どもから理解できると思うので、繰り返さない。

 こうして時間とガソリン代を費やして、授業のための本を新潟大学文系教員はかき集めなければならないのでした。

 おしまい。

 

6月30日(日)   *茂木大輔のオーケストラ・コンサート第9回 ベートーヴェン交響曲第9番

 本日は午後4時から、恒例の茂木大輔氏によるレクチャー・コンサートに出かけた。 りゅーとぴあ・コンサートホール。

 客の入りはまあまあか。 私はBブロックのAランク席で、Nパックメイト価格3150円。 もっとも娘同伴だったので、その倍額かかったけれど。

 今回のテーマは、ベートーヴェンの第九交響曲。 非常にポピュラーな名曲だが、この交響曲が本来は2曲になるはずだった交響曲を合わせた形になっているというところを初め、クラリネットやティンパニといった楽器の音の設定が当時の通常の方法から外れているとか、当時のホルンでは演奏不可能な部分があるとか、色々な角度から分析がなされた。 第4楽章についても、最終的に歓喜と融和という二つのモチーフが合唱により合わせて歌われることで全体の統一が図られているという説明に、なるほどと思った。

 なお、ドイツ語歌詞の日本語訳も茂木さんがされたようだけれど、一部、疑問箇所もないではなかった。 しかしたいしたことではない。

 この交響曲は長大で含みも多そうで、今回の解説で100%が分かったとは思わないが、それなりのレクチャーコンサートだったのではないだろうか。 いつものように後半は全曲を演奏するので、途中休憩15分と解説とを合わせて2時間40分あまりもかかるコンサートとなった。

 このシリーズ、今後も続けて欲しいものである。

 

6月29日(土)   *シネ・ウインド、リニューアル・オープン、映像と音響が改善、そして駐車料3時間サービスも!

 新潟市唯一のミニシアター系映画館シネ・ウインドは、映像のデジタル化にともなう設備入れ替えのため一週間お休みとなっていたが、本日からリニューアル・オープン。 私も午後から足を運び、2本連続して鑑賞。

 映像と音響ははっきりと改善された。 クリアな画像、迫力ある音響となり、この点ではシネコンに負けない映画館となった。

 これまでのウインドは、例えば映画の焦点と字幕の焦点がズレていて、映像をクリアにすると字幕がボけ、字幕をクリアにすると映像がボけるといった欠陥があった。 また映像の右と左で鮮明度が異なっていたりした。 しかし今回のデジタル化で、映像と字幕はどちらもクリアとなり、言うまでもなく画像全体にわたって鮮明な映像が楽しめるようになった。 音響も鮮烈さを増した。

 また、これまでウインドの課題は、見に行くための交通費であった。 同じ万代シティのTジョイ新潟万代なら、1本見ると駐車料金5時間無料というサービスがあるし、それ以外の新潟市内のシネコン3館はいずれも郊外にあるから、自家用車で行けば駐車料金は無料である。 これに対して、市街地にあるシネ・ウインドは、クルマで行くと駐車料金を取られるので、私のように自宅も勤務先も郊外にある人間にとっては行きにくい映画館だった。

 それが、本日からウインドで映画を見ると万代第二駐車場ビル利用に限ってであるが、駐車料金3時間無料というサービスがつくことになった。 考え方によってはこれが今回一番の目玉となる改善であるかもしれない。 クルマで動いている人も、駐車料金の心配をせずにウインドに映画を見に行けるのだから。

 これで、ウインドの残る課題は、座席の改善、そして上映作品の質の向上ということになる。

 座席については、どなたか篤志家の寄付を待ちたい。 誰か、お金持ちで、ウインドに椅子を寄付してもいいという方、いませんかぁ〜。 何なら、椅子メーカーさんのご厚意でもいいんですけど(笑)。

 上映作品については、配給会社との関係があるのですぐには良くならないかもしれないが、映画後進地である新潟の状況を改善すべくがんばってほしい。 例えば現在なら、『百年の時計』、『さよなら渓谷』、『シャニダールの花』、『建築学概論』、『25年目の弦楽四重奏』、『コズモポリス』、『3人のアンヌ』 などの作品がまだ新潟での上映が決まっていない。

 ハリウッドの大作だとか、大手邦画会社製作だとかの大衆的な映画以外の映画に興味のある人間にとって、新潟はスクリーン数は多いのに上映作品はたいしたことない、という点でなんとも歯がゆい地域なのである。 こういう状況を改善すべくさらなる努力をお願いしたい。

 あと、今月号の『月刊 ウインド』でも金沢市のシネ・モンドの例が紹介されていたが、年少者への料金サービスを再検討すべきだろう。 学生は大学生も含めて1000円、というのが妥当な線ではないか。 ぜひ、若者を映画館に呼び戻すべく、料金設定を見直してほしい。

 

6月28日(金)   *最近聴いたCD

 *フォーレ: ピアノ曲集第1巻 (ワーナー 〔旧エラート〕、WPCS-10982/3、1988-89フランス録音、日本盤)

 今年の4月10日のこの欄で、第2巻のほうを先に紹介したが、購入したのは同時で、今年3月に上京した際に船橋のBOOKOFFにてである。 フォーレのピアノ曲は私にとって鬼門である、と4月に書いたが、それは今でも変わりない。 この第1巻 (2枚組) には、夜想曲13曲、即興曲5曲、「3つの無言歌」op.17、それに 「主題と変奏op.73」 が収録されている。 全体の3分の2近くを占めるのが夜想曲であるが、1枚目の最初に収められているop33-1の変ホ短調はなかなか親しみやすい佳品だし、フォーレのピアノ曲としては夜想曲は比較的聴きやすい曲種だと思う。 ただし晩年になるほど、やや晦渋さが増している。 即興曲にはショパンの影響が明瞭に感じられるものもあるが、やはり晦渋味の濃い作品もある。 最後に収められた 「3つの無言歌」 は、フォーレ18歳の頃の作品だそうで、親しみやすい小品集である。 演奏は、第2巻と同じくジャン・ユボー。 日本語解説付き。 

 

6月25日(火)   *福田一雄先生の 『対人関係の言語学 ポライトネスからの眺め』 (開拓社、1900円+税)

 いただいたので、ここで紹介します。 新潟大学人文学部教授を務め、この春定年退職された福田一雄先生の 『対人関係の言語学』 が出版されました。 開拓社が出している 「言語・文化選書」 の一冊です。

 先生は新潟大学で主として英語学・言語学の教育と研究に従事されてきました。 長年におよぶ研究の成果が本書ということになるのでしょう。

 副題にあるようにポライトネスという概念を検討することで、対人関係やコミュニケーションのあり方を追究しておられます。 興味のある方はぜひ。

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6月23日(日)    *トリオ・ベルガルモ演奏会 ”織りなす色彩”

 本日は午後6時からの標記の演奏会に出かけた。 りゅーとぴあのスタジオAは8〜9割の入り。 私はやや右手の後方に席を取る。 新潟ではおなじみの、ヴァイオリンの庄司愛さん、チェロの渋谷陽子さん、ピアノの石井朋子さんのトリオ、 庄司さんは青、渋谷さんは黒、石井さんは水色のドレス。

  グリーグ: アンダンテ・コン・モート ハ短調
  武満徹: ビトゥイーン・タイズ
  (休憩)
  ラヴェル: ピアノ三重奏曲 イ短調
  (アンコール)
  サティ: あなたが欲しい

 最初のグリークは、パセティックな曲想を見事に表現していて、好調だなと思う。 次の武満の曲は、曲自体がよく分からないので、パス。

 後半のラヴェルは、第二楽章の激情、第三楽章の穏やかさ、そして幽霊が出てきそうな(?)始まりの第四楽章と、楽章ごとの特質をよく出していた。

 それぞれ趣を異にする曲を3曲取り上げていて、プログラム的にも工夫が見られるところがいい。

 欲を言えば、途中休憩15分とアンコールを含めて80分くらいで終わってしまったので、もう少し曲が欲しかったところ。

 スタジオAは、トリオ・ベルガルモとしては初めて使ったそうだが、大きさ的にちょうどいいのではないか。 スガマタだと狭すぎるし、音文はやや広すぎる感じだったし、ここか、或いはだいしホールくらいの大きさがこのトリオに合っているような気がする。

 次の演奏会も意欲的なプログラムを披露してくれるものと期待している。

 

6月22日(土)   *新潟交通さん、バスのスピードアップをお願いします――或いは、だからバスは嫌われる

 本日夕刻、かねてから予定していたぶりちょふさんとりゅーとさんとのオフ会を行うべく、新潟大学西門からバスに乗って新潟駅に向かったのだが、このバスが遅くて閉口。 危うく遅刻するところだった。 (結局、りゅーとさんはご尊父の急逝で欠席となってしまったが。)

 なぜ遅くなるかというと、「定時運行のため」 と称して、乗降客がいないのに各バス停にとまるからなのである。

 そもそも、土曜日の夕刻に新潟大学近辺や国道116号線沿いの住人で街の中心部に向かう人はあまりいない。 特に関屋分水路より郊外側から乗る客はきわめて少ない。 これが、関屋分水路を越えて旧市街地に入ると、土曜日のこの時間帯でも利用客はそれなりにいる。

 おそらく、関屋分水より旧市街側では、バスの市内均一料金地域であることもあって、バスを足として使う習慣がそれなりにあるのだろう。 それに対して、関屋分水より郊外側だと、バス料金も高いし、比較的新しく住宅地として開発されたところでもあるから、自家用車を足として使う人が多いのではないだろうか。

 いずれにせよ、曜日ごとの、そして時刻ごとの客の多寡は、バス会社は当然押さえておくべきことだろう。 だから、バスの時刻表もそれに合わせて作ればいいものを、多分、混雑時に合わせた時刻表にしているから、実態と合わず、しかしバスが時刻表より早く行ってしまうと客は困るから、したがってバスは必要以上にノロノロ運転になるし、乗降客もいないのにバス停に1分ほど停車してからまた発車、という不自然な運行をする羽目になるのだ。

 道路が混雑しているから、或いは乗降客が多いから、だからバスが遅くなるというなら仕方がない。 しかし、そうでないなら、それなりのスピードで運行してほしい。 新潟交通さん、よろしくお願いします。 バス離れを食い止めるには、そういう配慮も必要ですよ。

 

6月20日(木)   *新潟大学における昇任人事の滞りを改めて批判する

 本日、新潟大学職組のビラが私のボックスに入っていた。 私は職組には加入していないが、たまにビラは入ってくる。 今回は私がかねてからこの欄で訴えている問題も扱われていたので、以下で紹介しよう (ビラの日付は本年6月14日)。

 下條学長の人事原則は 「学系人事を尊重する」 でしたが、実態はそれとかけ離れています。 現に、当該教員が職位ガイドラインを満たしても、生田理事は認証評価やミッションの再定義などを口実にして昇任人事を認めません。 教育学部では認証評価を除くと、教授昇任人事が二年間も凍結状態です。 例外の一件も組合による学長交渉で定員要求が認められたものでした。

 下條学長は下條文武学長、生田理事は、生田孝至理事・副学長のことである。

 ここで、「学系人事」 と言われているのは、かつては昇任人事 (助手を准教授へ、准教授を教授へ、など) を審議するのは各学部教授会の権限であったものが、独法化後は学系の権限になっていることを言っている。 学系とは、いくつかの学部が集まって作っているもので、新潟大学では人文社会・教育学系 (人文学部+教育学部+法学部+経済学部)、自然科学系 (理学部+工学部+農学部)、医歯学系 (医学部+歯学部) の3つがある。 各学部の教授会は専任教員が全員参加できるが、学系はそうではなく、各学部から何人かの代議員が出て学系教授会が構成されている。 昇任人事はそこで決定するのだが、最終的には一番上の理事会での承認が必要となる。 しかし本来から言えば、学系教授会での決定はそのまま理事会でも承認されるのが筋で、上で生田理事を職組が批判しているのは、そこのところを言っているのである。

 しかし、そもそもそこに行くまでに非常識に高いハードルを理事会は勝手に設けており、学系の教授会に昇任人事を乗せられないケースが多いのである。 職組はまずその点から理事会や学長を批判すべきであろう。 

 その手段はある。 新潟大学のサイトを見ると(↓)、生田孝至氏は学位としては修士号しか所有していない。 しかし、現在、新潟大学では准教授の採用人事ですら事実上博士号が必須となっている。 准教授ですら博士号が必須なのに、理事にして副学長が修士号しか持たないのはおかしい、理事・副学長失格ではないか、と追及するのである。 或いは、修士号で理事・副学長になれるのだから、修士号で教授になるのは当然だ、という論法もありかな、と思いますけどね。

  http://researchers.adm.niigata-u.ac.jp/staff/?userId=608&lang= 

 現在、新潟大学人文学部だけ見ても、50歳を越えているのに准教授のままの方が何人もおられる。 よく俗世間で言う 「十年間、論文一つ書いていない」 などという方は一人もおられず、どなたも論文・学会発表その他それなりの業績を挙げている方ばかりである。 新潟大学は明らかに何かがおかしい。 このおかしさを放置してはならない。 職組はもっと真摯にこの問題に取り組むべきだ。

 また学部長、学系長、その他管理職として理事や学長に接する機会のある方は、昇任人事の停滞が深刻な問題であることを折りあるごとに訴えていただきたい。 マスコミも、この種の問題にもっと目を向けてほしいものだが。 新潟日報さん、老人向けの人畜無害な情報記事を載せるより (あまつさえ、人畜無害な記事の書き方を学生に教えている――問題意識を持つなと学生を教育しているようなものだ)、この種の問題をちゃんと追及して下さい。

  だいたい、新潟大学教授、なんていったってたいした待遇じゃないんだよ。 以前も書いたが、ワタシ (60歳、博士号所有) を見れば一目瞭然。 年収は1000万に満たず、15年以上前に購入した国産5ナンバー車に今も乗っているテイタラクだ。 これが、例えば年収1500万円で秘書つき、とかいうなら教授昇任を厳しくしても納得しますけどね。 公務員の課長クラスの待遇に過ぎないのだから、カッコつけて審査だけ厳しくしたって仕方がないのである。

 それから、上の労組のビラで、認証うんぬんと書いてあるところがあるが、独法化以降、国立大学は全体で評価を受けているわけだけれど、その中に人件費を減らすという項目があり、平成23年度の認証評価では 「総人件費改革を踏まえた人件費削減については、平成18 年度からの6年間で6%以上の削減が図られている」 なんて評価がなされている(↓)。 こういう評価をやっているからダメなんだよ。 評価をする人間の評価も必要だ、ということも私はこの欄で言い続けていることだが、こういう評価をやる人間の氏名を公表すべきだろう。

 http://www.niigata-u.ac.jp/profile1/40_plans_020/H23_jissekikekka.pdf 

 評価とは、評価をする人間の能力をこそあらわにするものなのだ。 隠れて評価をするな! 評価をする人間の氏名はすべて公表すること、これを原則としてもらいたい。 

 

6月18日(火)   *マザコン女問題に無自覚な女性新聞記者を叱る

 本日、毎日新聞を読んでいたら、小国綾子記者がこんなコラム記事を書いていた。

 http://mainichi.jp/select/news/20130618ddm005070023000c.html 

    コラム発信箱: 息子に失恋?

 ある日、朝日新聞を開いてのけぞった。家庭面に 「息子に『失恋』 母の傷心」 という記事が。中学生の息子に 「ウザイ」 と言われた記者さん(43)は 「失恋をしたような気持ち」 を書きつづる。 高校生の息子に 「(こっちを)見るな」 とにらまれショックで泣きそうになった母親や、イケメン息子との買い物でデート気分の母親まで登場する。うーん、私も中3の息子が幼いうちは結構ベタベタしたけれど、だからこそ今は子離れモード。息子が 「恋愛」 対象なんてありえない! ところが驚いたことに、賛否両論とはいえ記事に共感の声がたくさん届いたという。

 この記事、「失恋」 と言いつつ 「のろけ」 とも読めるのはなぜ? 同じ 「母子密着」 がテーマでも、母娘の確執を描いた記事とはまるでトーンが違う。支配する母と 「良い子」 の呪縛から逃れられぬ娘の苦しみ……そんな記事に比べると、妙に明るい。 あっけらかんと 「だって夫より息子が好きなんだもーん」 と言っている感じなのだ。

 「イマドキ男子をタフに育てる本」 の著者で医師の岩室紳也さんに聞いてみた。「『我が子につらい思いをさせたくない』 と先回りしてストレスを排除するような子育てのせいか、母親の呪縛から逃れられず、性欲もない恋愛もできない弱い男が増えている。 その結果、子離れできぬ母親、親離れできぬ息子が増えてしまった」 と嘆く。 「でもこの記事に出てくる反抗期の息子さんたちは母親に負けずに反抗している。健全です。拍手したいくらいです」 とも。

 なるほど、「息子に『失恋』」は息子が母親の支配をはねのけ、親離れしている証拠なんだ。

 「失恋」 万歳!と思わなきゃね。

 女って、失礼ながらこの程度なのかな、と思ってしまう。

 世にマザコン女は結構いる。 それが夫婦関係にも悪影響を及ぼす例はそれなりにある。 そのことがこの記者には分かっていない。

 男なら、自分の母にこの程度よりかかっていたらマザコン呼ばわりされるだろう、というケースでも、世の一般の女性は、ふつうの母娘扱いを受けてしまう。 これは一種の権力なのだ。

 ところが今の世の中は、男性権力を撃てば正義だという観念がいきわたっているから、女性の持つこの種の権力には批判の目が向かない。

 上で小国記者は、母娘の確執を描いた記事、と書いているけれど、そもそも確執というのはお互いが依存関係であるから生まれるもの。 息子なら 「うるせえ、構うな」 で親子の自然な距離感が生まれるところ、娘だとなぜかそうならないのは、娘の側に問題があるからだ。 「確執」 は決して敵対ではない。 依存関係のことなのである。 そうした依存関係が結婚後も続くなら、当然それは実家離れできない妻を生み出すという形で、結婚生活に悪影響を及ぼすのである。

 そういう問題の所在に気づかない、或いは気づかないふりをしている女って、信用できるわけがないよね。 

 

6月15日(土)   *第23回にいがた国際映画祭

 恒例のにいがた国際映画祭が、今年は6月8日から16日までという日程で行われている (ただし11日はお休み、12日も映画上映はない)。 会場は、最初の3日間がシネ・ウインド、後半がクロスパルにいがたである。

 かつては、にいがた国際映画祭といえば2月の極寒期に行われていたものだが、今回から初夏に移動した。 寒い時期より暖かくなってから、ということらしい。 そのほか、主催が変わるなど、内部では色々あったようだ。

 私は会期前半は忙しくて行けなかったので、昨日と本日ようやく足を運んでみた。 会場は上述のようにクロスパルにいがたである。

 ところが、ささやかながらトラブルが。 昨日は印刷プログラムによると、「僕たちのムッシュ・ラザール」 が16時から18時35分まで、そのあと 「思秋期」 が19時15分から20時50分まで、ということであった。 ところが、である。 パンフレットをよく見たら、「僕たちのムッシュ・ラザール」 は上映時間が94分と書かれている。 それで上映が16時から18時35分って・・・・・そりゃ、ないわな。 1時間間違えているのである。 16時から17時35分とすべきところ。

 まあ、この手の間違いは誰でもするもので、目くじらたてるほどのこともないとは思うのだが、困ったことに、会場の入口に掲げられた時間割でも、同じ間違いをしている。 これは、印刷プログラムとは別に作られたものだが、多分印刷プログラムを見ながら製作されたのであろう。 運営側は印刷プログラムの間違いに最後まで気づかなかったというわけなのだ。 

 それから、上映はDVDによるものだが、「思秋期」 はところどころで映像が飛んでいた。 機器とDVDの相性が悪いらしい。

 本日は、17時からの 「マイ・キングダム」 を見に行ったが、別にトラブルはなかった。

 ただ、両日とも客の入りは10〜20人くらいで、余りいいとは言えない。 昨日は平日だからかなとも思ったけれど、土曜である本日も入りはよくなかった。 うーむ、国際映画祭というイベントがあまり市民に浸透していないのだろうか。 かつてはにいがた国際映画祭というと、シネ・ウインドが会場の場合は満員で入れない客が出て揉めたこともあったし、それよりはるかに広い市民プラザが会場のときも、人気のある作品では満員で入れない人がいてやはりトラブルになったものだが。

 作品の質は、私は上記3作品を見ただけだけど、まあまあで、前売り券を買えば1作品800円、当日料金でも1000円だから、少なくとも損はしないと思うのだが。 まあ、今後も6月で行くなら、イベントの宣伝や市民への浸透を工夫していく必要がありそうだ。

 なお、鑑賞した映画の感想は、近日中にこのサイトの 「映画評2013年」 に記す予定です。

 

6月14日(金)   *最近聴いたCD

 *テンプル・チャーチの楽器で弾いた英国のオルガン音楽 (SIGNUM CLASSICS、SIGCD223、2009年録音、英国盤)

 ロンドンの中心部にあるテンプル・チャーチ。 建てられて800年以上に及ぶという。 オルガンも14世紀初めにはあったことが文献から確認できるそうである。 第二次大戦中に戦火にあって一度オルガンを失っているが、1926年に製造されたオルガンが戦後の1953年に教会に入った。 このディスクもそのオルガンを用いて、英国生まれでフランスでも学んだオルガニスト、ジェイムズ・ヴィヴィアンが弾いている。 ここには8人の作曲家による8曲が収録されているが、最も古いJohn Stanleyが1712年生まれで1786年死去、次がSamuel Sebastian Wesleyで1810年生まれ1876年死去、それ以外は19世紀後半から20世紀初頭の生まれだから、時代的には比較的新しい作品が多いと言えるだろう。 私としては、Basil Harwood(1859-1949)作曲になるソナタ第一番嬰ハ短調が、なかなか聴き応えのある曲だと思った (3楽章で18分ほど)。 このほか、2曲目のHenry Walford Davies(1869-1941)の"Solemn Melody"、3曲目のJohn Stanleyの"Voluntary in D op.5-5"なども捨てがたい味わいがある。 解説は英語で付いている。 今春、上京した際に新宿のディスク・ユニオンにて購入。

 

6月10日(月)   *英国政府もようやく植民地主義を反省

 数日前だが、毎日新聞7日付と、産経新聞8日付の記事から以下で引用。

  マウマウ団の叛乱については、私も拙著 『鯨とイルカの文化政治学』 で取り上げたことがある。 英国の植民地運営の時間的長さと規模の大きさ、そしてその無法ぶりは日本などの比ではない。 これが突破口になって他の英国植民地でもこの種の動きが盛んになることが予想されるし、それはフランスなど、他の諸国にも影響を及ぼすだろう。

 肝心なのは、過去の欧米による植民地主義が、価値観の帝国主義として今なお続いていないかどうか、用心することである。 読書欄の今月の項にも書いたけど、21世紀になってすら細谷雄一のように古い英国神話の事実上の継続を意図する日本人学者がいるのだから、事態は楽観を許さない。

 なお、マウマウ団の叛乱については、最近の映画 「おじいさんと草原の小学校」(2010年製作、日本公開2011年) でも知ることができる。 この映画を作ったのは1968年生まれの英国人映画監督ジャスティン・チャドウィックだ。 下手な日本人学者より英国人の新しい世代のほうがよほどポストコロニアルの感覚が身についているのである。 といっても細谷雄一は1971年生まれなのだ。 若い世代の日本人学者の意識の遅れが目立つ、と言えるかな。

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  http://mainichi.jp/select/news/20130607ddm007030193000c.html   

 英国:植民地弾圧で補償 ケニア反乱5200人対象、政策転換か  毎日新聞 2013年06月07日 東京朝刊

 【ロンドン小倉孝保】 英国植民地時代のケニアで発生した民族独立運動 「マウマウ団の乱」(1952?60年) でケニア人活動家らが拷問を受けるなどした問題で、英政府は6日、被害者に謝罪し補償金を支払うことを明らかにした。 英国はこれまで植民地時代の不当行為を認めながらも、補償などの責任についてはその後に独立した国の政府が負うべきだと主張してきた。 植民地時代の補償について大きな政策転換になる可能性がある。

 ヘイグ外相が6日、議会で謝罪した。「マウマウ団の乱」 は、ケニア最大民族のキクユ族などが起こした反乱。英植民地政府が推定15万人を強制収容所に収容。 ケニア人権委員会によると、9万人が処刑や拷問、レイプなどを受けた。

 英政府は拷問などの不当行為があったことを認めながら▽ケニア独立(63年)によって植民地時代の法的責任はケニア政府が引き継いだ▽半世紀も前のことであり、裁判などで公正な審理を期待できない――として個人への補償を拒んできた。 しかし、昨年10月、拷問を受けたとするケニア人3人が英政府に補償を求めた訴訟で、ロンドン高等裁判所が個人にも補償請求の権利があると認めた。 すでに多くの被害者は亡くなっているため、補償対象者は約5200人で、補償金は各2600ポンド (約39万7000円)。 英国は植民地時代のイエメン、キプロス、マレーシア、パレスチナなどでも同様の拷問・暴力の問題を抱えている。

 http://sankei.jp.msn.com/world/news/130607/erp13060719190005-n1.htm 

 英、植民地時代のケニアでの拷問に補償金  産経新聞 2013.6.7 19:19

 【ロンドン=内藤泰朗】 英国が植民地時代のケニアで起きた民族独立闘争 「マウマウ団の乱」(1952〜63年) で活動家を拷問などした問題をめぐり、ヘイグ英外相は6日、遺憾の意を表明し、5228人の被害者に計1990万ポンド (約30億円) の補償金を支払うと発表した。英国はほかの旧植民地でも独立運動への弾圧を行っており、これを機にさらなる補償請求が噴出する懸念も出ている。

 ヘイグ外相は6日、議会で 「英政府は、ケニア人が植民地の行政当局に拷問や不当な扱いを受けたことを認める。このようなことが起きたことを、英政府は心から残念に思う」 と述べ、英政府としてマウマウ団の乱で拷問や弾圧が行われたことを初めて認めた。 ただし、法的な責任はこれまで通り認めなかった。

 各被害者はケニア人の平均年収の5倍弱に当たる2600ポンド (約40万円) の補償金を受け取るほか、弁護団も約600万ポンド(約9億円)の報酬を得る。さらに、ケニアの首都ナイロビに、新たに犠牲者追悼碑を建立する計画だ。

  ロイター通信は6日、ケニア側被害者が 「自分たちはテロリストではなく、自由の闘士だったことが認められた。英国が悪かったと言ってくれるのをこれまで待っていた」 と喜ぶ様子を伝えた。被害者らは、補償額は少ないが、交渉が長引くことを懸念して和解することにしたという。

 ただ、同通信によると、英旧植民地のマレーシアとキプロスからも補償請求がすでに英政府に出されている。補償請求の数は今後さらに増えるものとみられており、英外交筋は、それらの問題にはそれぞれ個別に対応するとしている。

 ケニアでは1950年代から60年代初頭にかけ、英国の植民地支配に反対する蜂起がケニア最大の民族キクユを中心に相次ぎ、数万人が英植民地政府による拷問やレイプなどの末に処刑され、約15万人が強制収容所に収容されていた。

 英政府は63年のケニア独立後は、弾圧の責任は独立後のケニア政府が負うべきとの立場だった。 しかし、ロンドン高裁が昨年10月、拷問被害者のケニア人3人の補償請求権を認める判決を下したことで、英政府との協議が続いていた。

 

6月9日(日)   *毎日新聞の書評欄は本日も絶好調――横光利一の位置、そして岩間陽子の鋭さ

 毎日新聞の書評欄には、「今週の本棚・この3冊」 という欄があって、一人の著述家をとりあげて評者がその代表作と思しき3冊を紹介するのだが、今週は横光利一を関川夏央が取り上げている。 ううむ、横光利一か・・・・反時代的で、なかなかいいではないか。

 関川曰く。

私が興味を持っているのは作家の研究ではない。 近代のある年を作家とその仕事とともに薄く切り取って、いわば標本とし、顕微鏡で観察するような試みにである。

文学はその時代の精神を雄弁に物語る。 作家本人が意識しなくてもそうなる。 明治三十四 (一九〇一) 年という年を、私は東京・根岸の病床から動けぬ正岡子規と、英国にある夏目漱石とでえがいた (『子規、最後の八年』)。 日露戦争後の時代精神を 『二葉亭四迷の明治四十一年』 で、ついで大正七 (一九一八) 年を 『白樺(しらかば)たちの大正』 で書いた。

 「戦前」 のピーク、昭和十一 (一九三六) 年を造形したいと考えたときは、横光利一を選んで 『東と西』 を書いた。その年、半年間の欧州旅行に出掛け、翌年春から大長編 『旅愁』 に着手した横光の蓬髪(ほうはつ)と憂い顔はよく知られているが、『旅愁』 を読みとおした人はまれだ。 それも動機のひとつであった。

http://mainichi.jp/feature/news/20130609ddm015070042000c.html 

 関川はここで3冊のうち1冊に 『旅愁』 を入れているのだが、「読みとおした人はまれ」 だとは知らなかった。 なぜなら私はその 「まれ」 な一人だからである。 高校生時代に、当時は簡単に入手できた旺文社文庫で読んだのである。 もっとも、それ以降は拾い読みすらしていない。

 たしかに、こんにちの普通の読書愛好家に薦められるほど横光の作品の質は高くないかもしれない。 しかし作家と時代について考えるときにははずせない存在だろう。 また、『機械』 などの実験的な作品は今でもそれなりに読むに耐えるのではないかと思う。

                 *

 さて、同じくこの日の書評欄には、益田実・小川浩之(編著)『欧米政治外交史』(ミネルヴァ書房)の紹介が、岩間陽子・政策研究大学院教授によりなされているが、この書き出しが卓抜で、思わず 「そのとおりだよね」 とうなずいてしまった。 以下、引用すると――

 共編著が成功するための条件は、チームワークとリーダーシップだ。 一つの作品としての一体性を持つためには、執筆メンバーたちが互いの個性を尊重し信頼し、ある程度の共通認識を持つことが必要だ。 その上で、編者がかなりのリーダーシップを発揮して、一貫性を与えるゲームのルールを決めなければならない。 世にある共編著のうち、95%はこの条件を満たしていない。 結果として、いくつか面白い章はあるが、全体としての主張がなんなのか皆目見当がつかず、いたずらに頁数の多い本が世に溢れている。 先生方の業績作りに利用される出版社も気の毒だが、低水準の共編著に駄目だしをせずにここまで来た彼らにも責任はある。

 いやあ、辛らつで、しかし最近の学者の世界の駄目なところをずばりと衝いた鋭さに脱帽せざるをえない指摘ですね。

 ついでに書いておくなら、近年増えている大学関係のひも付き予算、つまりプロジェクトの形にして申請して了承されて初めて降りる予算の増加も、こうした駄目な共編著の増加を助けている。 何人かで集まるのが好きな人たちが、この種のプロジェクトに乗り、そして最後にはまとまりのない共編著を出す。 本来はバラバラの紀要論文で終わるはずのものが、漠然としたタイトルで本の形になる。

 そしてそういう共編著にいつも顔を出す人間がいる一方で、逆にまったく出さない人間もいる。 それは、集まるのが好きか嫌いか、集めるのが巧みか否かによっている。 学者としての力量とは関係ない。 つまり、ひもつき予算はこういう形で不平等の促進に貢献するだけなのである。

 私はいつも言っているのだが、予算は悪平等に分配すべし。 (集まるのが好きな人間は、自分に配分された予算を集めて何かをすればよろしい。) そして、数年たってその学者にろくな業績がなければ、その時点で研究費を半減するなり全部削るなりすべし。 学者の業績は、結果で判断すべきものである。 最初から不平等にすべきものではない。 なぜなら、他の学者の力量を客観的かつ公平に判断できる人間なんか、いるわけがないからである。

 なお、上記引用のうち、横光利一に関する関川夏央の記述はネット上にあるが、岩間陽子の書評はネット上にはないので、紙媒体の毎日新聞でごらんください。

 

6月8日(土)   *新潟室内合奏団第65回演奏会

 午後6時45分から、音楽文化会館ホールで行われた。 会場はかなり客が入っており、9割くらいのいりか。 おめでとうございます。 私は右側ブロックの中ほどに席をとりました。

 指揮=高山健児、ファゴット=ハイドルン・ヴィルト・メツラー

 ヴィヴァルディ: ファゴット協奏曲ロ短調RV.484
 シューベルト: 交響曲第7番 「未完成」
 (休憩)
 ヴェルディ: フォゴットと管弦楽のためのカプリッチョ
 シベリウス: 交響曲第3番

 ファゴットにベルン交響楽団首席奏者を迎えての演奏会。 そのためか、当初の発表とは異なり、ヴィヴァルディのファゴット協奏曲もプログラムに追加され、ファゴットのための音楽が2曲奏でられるという珍しい音楽会になった。

 ファゴットの独奏自体はさすがと思わせるものであった。 伴奏も、ヴェルディのほうは悪くなかったと思う。 もっとも解説によるとこの曲、偽作説もあるのだそうだ。

 で、交響曲2曲なんだけど、聴いていて、やっぱりアマチュアの演奏会だなとしみじみ思ったのである。 多分、こちらも東響新潟定期などで耳が肥えてきていることもあるのだろうけれど、弦楽合奏が揃わないとか、管楽器でも、音をはずしたりといった露骨なミスはほとんどないのではあるが、音色がもう一つ冴えないなとか、そんなことを思いながら聴いてしまった。

 もっとも、この演奏会には、かつてコンセルトヘボウ管弦楽団で活躍され現在は新潟弦楽器界の重鎮である奥村和雄氏がいつものように加わっておられたのをはじめ、独奏者として新潟で音楽会を開いた経験のある奏者も何人か加わっていた。 だから、プロとアマチュアの垣根もだんだん消えてきているのかもしれないのだが、しかし、音を聴く限りは、アマチュアの演奏会というしかないだろうと思った。 プロとアマの違いって何だろう、そんなことをウダウダと考えさせられた。

 あと、プログラムは誰が書いているのか知らないけれど、シューベルトの 「未完成」 を交響曲第8番とするのは、いささか古いのではないか。 (上記で7番としたのは私の判断によるもの。 印刷プログラムでは8番になっていた。)  細かいことのようだけど、こういう部分に神経が回らないのでは、この合奏団の構成メンバーの音楽的素養が疑われても仕方がないのではないだろうか。 ちょっと厳しすぎる物言いのような気が自分でもするのだが、アマチュアであればこそこういう部分には気を遣うべきだ、と思うのである。

 この日はちょっとウツ気味だったこともあるかも知れないのだが、とにかく、気が沈んだまま帰途につくこととなった。 アンコールに何か日本の曲をやったけど、聴いていていっそう気が沈んできたのである。 今回はそれでも曲目が珍しいので行く気になったが、次回 (今年11月) はベートーヴェンの第九だそうである。 多分、行かないだろうな。 

 

6月6日(木)  *鈴木光太郎先生の 『ヒトの心はどう進化したのか―狩猟採集生活が生んだもの』(ちくま新書)

 東京に行っているあいだに、同僚の先生から新書本をいただきましたので、紹介します。 著者は新潟大学人文学部教授の鈴木光太郎先生で、実験心理学がご専門。 この本は、生物としてのヒトの心や能力や性向について、最新の知見を取り入れながら分かりやすく説明したもの。

 鈴木先生は、以前、巷でも結構評判を呼んだ 『オオカミ少女はいなかった』(新曜社) を出されています。 地道な研究に従事される方が多い人文学部の中にあって、一般の読者にも幅広く受け入れられる本を出されているという点で、本学部を代表する存在と言えましょう。

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6月5日(水)   *東京都内を電車で安く回るには――東京メトロよ、ケチらないでくれ!

 この日は、午前中はやはり国会図書館に調べ物をしにいき、午後2時半から神保町で映画を2本見たあと、新潟に帰る。

 さて、5月30日の項にも書いたように、JRの東京周遊券が廃止されてしまったので、いかに安く電車を利用して都内を回るかが大問題となる。 

 まず、何を利用すべきかなのだが、東京は、事実上山の手線内に入ってこない私鉄を除いて考えても、JR、東京メトロ、都営地下鉄の3種類の鉄道があって厄介である。 しかし、このうち都内で一番いろいろなところに駅があるのは東京メトロであろう。

 私が都内で主として出かける場所というと、第一に映画館がある街であるが、有楽町 (銀座)、渋谷、新宿、神保町などにはいずれも東京メトロが通っている。 第二にコンサートホールがあるところだが、サントリーホール (溜池山王)、東京芸術劇場 (池袋)、文化会館 (上野)、紀尾井ホール (四ツ谷)、トリフォニー・ホール (錦糸町)といったところにはいずても東京メトロで行ける。 ただし残念ながら初台のオペラシティ (新国立劇場、オペラシティホール) に行くことはできないが、まあこれはJRだって行けないわけだし、仕方がない。 第三に図書館だが、国会図書館は国会議事堂駅、都立中央図書館は広尾駅で、いずれも東京メトロで行ける。

 また、東京メトロは以前は西側の縦の路線、つまり渋谷、新宿、池袋を直接結ぶ路線がないのが欠点だったが、今は副都心線があるので、その点でも利便性は高い。

 というわけで、今回少し調べてみたところ、といっても特別な調べ方をしたわけではなく、東京メトロの駅においてある 「東京メトロガイド」 という冊子を見てみただけなのだが、東京メトロでは一日乗車券を出しており、それも3種類あることが分かった。

 (1) 東京メトロ一日乗車券 710円、 (2) 東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券 1000円、 (3) 東京フリーきっぷ (JR都区内、東京メトロ、都営地下鉄、都電、都バス、日暮里・舎人ライナー) 1580円

  これ以外に、5月30日に書いたように、JRだけの都区内一日乗車券が730円で出ている。

 この中で値段と使い出を考えると、(1)の東京メトロ一日乗車券がいちばん良さそうに思えるのだが、問題もある。

 まず、この一日乗車券は西船橋や中野では売っていないのである。 ここらへん、ケチ臭いなと思うんですよね。 なぜ西船橋や中野で売っていないのかといえば、東西線は東京メトロの中では長距離路線なので、その両端にある西船橋と中野で買われると利益が上がらなくなるから、ということなのだろう。

 だけどね。 東西線を始発駅から終点まで、つまり西船橋から中野まで乗ったって、片道300円なんだよ。 往復しても600円。 それに対して一日乗車券は710円。 つまり西船橋・中野間を往復してもモトはとれないのだ。 だったら西船橋と中野でも売ってもらいたいものだ。

 私がこの点にこだわるのは、私が東京に数日滞在するときはだいたい船橋の老母宅に泊まるからで、つまり船橋から都心に出るのが通例であるからだ。 以前は、東京周遊券なら東は成田までカバーしていたから、したがって船橋まではもちろん乗れたわけで、悩む必要はなかった。 しかし周遊券が廃止になり、JRの都内一日乗車券では船橋はカバーしていないので、したがっていかに安価に都内に出るかが問題になるからである。

 船橋から東京駅や有楽町に出るならJRのみのほうが安いが、渋谷や新宿だと地下鉄併用のほうが安いのである。 地下鉄・東西線は西船橋までで、西船橋・船橋間はJRを利用せざるを得ないが、それでも例えば船橋から渋谷に行くときは、船橋・西船橋間はJRで130円、そして西船橋から東京メトロ・東西線に乗り途中で銀座線に乗り継いで渋谷までで270円。 合計で400円。 これに対してJRのみで船橋から渋谷に行くと500円くらいかかる。

 新宿でも同じ。 ただし、東京メトロを東西線・銀座線・丸の内線と乗り継いで、新宿三丁目で降りるなら、渋谷と同じで合計400円。 これが新宿駅まで乗ってしまうと、430円になる。 細かい話で済みません。 しかしJRだけなら550円もするのだから、どちらにせよ地下鉄のほうが安いのである。 

 話を戻すと、東京メトロの一日乗車券には第二の難点がある。 つまり、中野や西船橋で買えないなら、当日券ではない前売り券 (というのもある) を前日までに別の駅で買っておけばいいのだが、その場合、自動販売機では買えない、ということなのだ。 当日券なら自動販売機で売っているが、前売り券は職員のいる定期券売り場でないと買えない。 今回、私は新宿駅で買ってみたのだが、定期券売り場がどこにあるか分からず、結局改札口にいる職員に尋ねてやっと分かった。

 というわけで6月3日に東京メトロの前売り一日乗車券をどうにか手に入れた私は、翌4日、つまり昨日に使ってみました。 ちなみに前売り一日乗車券は買った日から6ヶ月間有効なので、半年以内の任意の一日に使えばよい。 

 西船橋 → 国会議事堂前 (270円)、国会議事堂前 → 荻窪 (190円)、南阿佐ヶ谷 → 新宿三丁目 (190円)、新宿三丁目 → 溜池山王 (160円)、溜池山王 → 西船橋 (270円)・・・・・というぐあいに昨日は都内を回ったわけで、つまりは( )内を合計した1080円分使ったので、モトはとれました。 よかったね(笑)。

 ちなみに、荻窪で降りて南阿佐ヶ谷から乗っているのは、阿佐ヶ谷の映画館に行くとき、南阿佐ヶ谷駅とJR阿佐ヶ谷駅の位置関係がよく分からず、行きは荻窪駅まで地下鉄で行ってそこからJRで阿佐ヶ谷駅まで行ったのだが、阿佐ヶ谷駅においてある地図を見たら、JR阿佐ヶ谷駅から地下鉄の南阿佐ヶ谷駅までは大通りをまっすく南下して10分かからない距離であることが分かったので、映画を見た帰りは歩いて南阿佐ヶ谷駅まで行ったからである。

 まあ、それはともかく、東京メトロには、一日乗車券を西船橋や中野でも売るようにお願いしたい。 上記のように、往復したってモトがとれない値段設定でしょう? だったら変にケチるなよ。 そのほうが、むしろJRから客を奪っていっそう繁盛するようになると思うんだけどねえ。

 参考までに。 ミュンヘンでは市内の電車 (国鉄、地下鉄、市電) とバス乗り放題3日間のきっぷが13,80ユーロ。 つまり約1800円で3日間すべての乗り物は利用し放題なのだ。 むろん、東京とミュンヘンでは都市の規模が違う。 でも、こういう便利なチケットを出している志を見習ってほしい。

 

6月4日(火)    *アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル

 この日は、午前中は国会図書館に調べ物をしにいき、午後から阿佐ヶ谷で映画を2本見、新宿の紀伊国屋書店で本を少し見てから、サントリーホールで午後7時からの標記リサイタルに出かける。

 ヴァイオリンの女王と称されるムターであるが、まだ生で聴いたことがなかったので、この際聴いておこうという気になったもの。 ピアノ伴奏は、長らく彼女とコンビを組んでいるランベルト・オルキス。

 チケットは少し早めに新潟でイープラスを通じて入手したが、女王様だけあってS席が\15000もする。 とはいえ外来オケよりは安いし、一人きりで来るポリーニよりも安いのではあるけれど。 サントリーホール2階RBブロックの前のほうの左側。 斜め上から舞台を見下ろす位置で、土曜日にオペラシティホールで三浦文彰を聴いたときと似た位置の座席。 とはいえ、サントリーホールなので、音の聞こえ方ははるかにクリア。

 パンフは無料ではなく、\500という、日本ではまあ良心的な価格であったが、買わなかった。 1階と2階脇席はかなり埋まっていたけれど、2階正面の後ろのほうは空席が目立つ。 全体で7割くらいの入りだろうか。 ヴァイオリン・ケースを抱えた若い客の姿も目立った。 私のひとつおいた右の席もそうで、ケースを脇において二十歳くらいの男の子がすわっていた。 でも学生のくせに\15000の席を買えるんだなあ。 やっぱり音大でヴァイオリンをやる学生は裕福な家庭の子が多いのだろうか。

 閑話休題、女王様は緋色のドレスで登場。

  モーツァルト: ヴァイオリンソナタト長調K.379
  シューベルト: 幻想曲ハ長調D.934
  (休憩)
  ルトスワフスキ: パルティータ
  サン=サーンス: ヴァイオリンソナタ第1番
  (アンコール)
  ラヴェル: ハバネラ
  マスネ: タイスの瞑想曲
  ブラームス: ハンガリー舞曲第1番

 最初のモーツァルトではあまり音が出ていなくて、「あれ?」 と思う。 また、音のダイナミックレンジを出そうとしているのだろうが、極端に力を抜いて弓を動かしているところがところどころあり、そこでは気が抜けたような音になっている。

 しかし2曲目のシューベルトになると女王様らしい力強く輝かしい音色になった。 力を抜いている箇所でも、モーツァルトほど気の抜けたような音ではなく、これはこれでいいのだろうと思えてきた。
 
 後半最初のルトスワフスキは、曲としては好きになれないが、音色面では完璧と言いたくなるくらい申し分のない音が出ていた。 本領発揮、といったところであろう。

 そしてサン=サーンス。ここでは音の出は2曲目のシューベルトくらいだったかな。 それと、緩急もかなりつけており、今まで聴いたこの曲の演奏とはかなり違った印象を受けた。

 緩急をつける弾き方はアンコールに入っても変わらず、これは曲次第では効果的だと思うのだが、「タイスの瞑想曲」 までかなり緩急をつけられると、ちょっとどうかな、という気がしないでもない。 しかし、おそらくは長年ヴァイオリンを弾いてきて同じ曲も何度も取り上げてきた経験からこういう解釈になっているのだろうから、これはこれでいいのかな、とも。

 オルキスのピアノはそれなりに達者で、長年一緒に演奏しているだけあって、単なる伴奏ではないが、女王様と対等に張り合うところまでは微妙に行っていないような、要するにきわめて適切な演奏だったと思う。

 アンコールを入れて2時間15分近い演奏会で、量的にも問題ないはずなのだが、ソナタはモーツァルトとサン=サーンスの2曲で、モーツァルトの曲はピアノ主体に作られていることもあり必ずしもヴァイオリンの技巧を堪能できるわけではないので、何となく物足りない感じが残った。 まあ、選曲も女王様なりに考えているのであろうから、下々としては(笑)、ありがたき幸せということで引き下がるしかないんだけれどね。

 

6月2日(日)   *秋山+東響コンビの充実!  東京交響楽団第610回定期演奏会

 午前中に神保町で映画を1本見てから、午後2時からサントリーホールでのコンサートに足を運ぶ。 東京交響楽団の定期演奏会。

 東響新潟定期会員の特権を利用しての無料鑑賞。 座席は、2階正面よりやや左寄りの10列目。 Aランク席のようである。 客の入りは7〜8割くらいか。

  指揮=秋山和慶、ヴァイオリン独奏=イェウン・チェ、コンマス=大谷康子

  R・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
  バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第1番
  (アンコール)
  バルトーク:44の二重奏曲Sz98から第35番(大谷康子との共演)
  (休憩)
  R・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」  

 このコンサート、一口で言うなら、円熟した秋山和慶さんと東響のコンビの充実ぶりを堪能できる演奏会であった。 協奏曲を除くと、ヴァイオリンが30人、コントラバスが8人という文字どおりのフル編成で、合奏の緊密さと豪快さとを兼ね備えた、オーケストラ・コンサートとして文句のつけようのないすばらしさ。

 といっても、恥ずかしながら私は後半ちょっとうとうとしてしまった。 すみません。 上京して3日目で疲れが出ていたのであろう(汗)。

 中間の協奏曲には、韓国人若手女流のヴァイオリニストが登場。 紫がかった紅色、或いは紅がかった紫のドレス。 この曲、私はあまり好きではないが、それでも冒頭にソロから入り、徐々に弦楽器の数が増えていくところなど、美しく説得的な演奏だった。 座席は前述のように2階の後ろ寄りだったのであるが、音量的にも不足はない。 今度はリサイタルで聴いてみたいと思った。 アンコールに、コンマスの大谷さんと二人で二重奏を聞かせてくれたのが、ちょっと洒落ていた。

 ・・・・ところで、演奏の前にパンフレットを見ていたら、東響の今月の他の演奏会に、コンサートマスター=水谷晃、という記載が。あれ、と思ってパンフの最初の団員名簿を見たら、大谷康子さん (ソロ・コンサートマスター) とグレブ・ニキティンさん (第一コンサートマスター) の下に、コンサートマスターとしてちゃんと載っているのである。 ご存じのように、高木和弘さんが以前はこの地位にあったのだが、契約が更新されず、少しの間コンマス2人体制で来たわけで、ここに来て新コンマス登場となったよう。

 私もうかつだったのだけれど、新潟に戻ってから5月の新潟定期のときのパンフを見たら、団員名簿にちゃんと水谷さんの名があった。 ただ、5月には演奏会に登場しないので、気づかなかったのである。 特に紹介記事もなかったのは、多分、4月のパンフに載ったということなのであろう。

 これも新潟に戻って調べたことだが、水谷さんは群響のコンマスをしておられた方だったのだ(↓)。 今後の活躍が期待される。 新潟定期への登場はいつになるのかな?

 http://tokyosymphony.jp/pc/aboutTSO/orc_member/mst_mizutani.html 

 このあと、新宿のディスクユニオンに行って中古CDを少し買ってから、上野で友人と会って酒を飲む。

 

6月1日(土)    *颯爽たる若武者の登場! 三浦文彰ヴァイオリン・リサイタル

 昨日からまた上京している。

 本日は午前中に日比谷で映画を1本見てから、桜美林大学で開かれている日本言語政策学会の研究大会に出席。 桜美林大学は京王線の多摩センター駅から学バスで20分余りという遠いところにあり、日比谷から行くとかなり時間を食う。 研究大会は午後1時頃からだが、到底間に合わない。

 もっとも、今回は研究発表を聞くためではなく、秋に新潟市で予定されている同学会研究会の打ち合わせのために行ったので、別に研究発表は聞かなくても構わないのだ。 といっても打ち合わせの時間も十分とれたとは言いがたい。 結局2時間程度しか桜美林大学にはいなかったかな。 怠慢で済みませんが、今回の出張はすべて私費によるものですので、ご容赦を(笑)。

 午後4時40分くらいに京王多摩センター駅から新宿行きの特急に乗り、明大前と笹塚で乗り換えて初台駅へ。

 オペラシティホールで行われる三浦文彰のヴァイオリンリサイタルを聴くためである。 

 三浦文彰は2009年にハノーファー国際コンクールにて史上最年少の16歳で優勝したという経歴の主。 ということは今年弱冠20歳。 ピアノのイタマール・ゴランはリトアニアの出身で、名門オケや著名弦楽器奏者との共演を重ねている人。

 当日券で\3000。 1階の後ろよりはと思い、2階右側脇席を選んだ。 真下の1階席で言うと前から10席目くらいの位置。 3階には客を入れていなかったようだが、1階と2階だけに限ると8〜9割くらいの入りだったであろう。

 三浦文彰は黒のチョッキと黒のスラックスという出で立ちながら、Yシャツは前半が白、後半は灰色と替えていた。 女性演奏家の場合は前半と後半でドレスを替える例は珍しくないものの、男性演奏家では私には初体験。 ちなみにピアノのゴランは前半後半とも黒い礼服と白いYシャツ、ノーネクタイという格好。

  ドビュッシー: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
  ラヴェル: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
  (休憩)
  マルク=オリヴィエ・デュパン: ヴァイオリンとピアノのためのエヴァンタイユ(世界初演)
  ベートーヴェン: ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第9番「クロイツェル」
  (アンコール)
  シューマン: FAEソナタよりインテルメッツォ
  バルトーク: ルーマニアン・ダンス

 オペラシティ・ホールは今まで何度も入っているが、リサイタル・ホールとしてはどうかなという気がしていた。 今回も、舞台を斜め上から見下ろす絶好の座席だと思ったのであるが、響きがありすぎて、2つの楽器の音が今ひとつクリーンに聞こえてこない。 今どきは東京もホールがたくさんあるのだから、会場選びには一考の余地があるかな、と生意気なことを考えてしまう。

 そういう響きの条件下でではあったが、三浦文彰のヴァイオリンの音はしっかりとしており、特に美しいとか輝かしいということはないものの、中身が濃いというか、浮ついたところのない音であった。

 技巧的にはまったく危なげがなく、また、曲の特性に応じた柔軟性も感じられた。 前半のフランス・プロでは、ドビュッシーの独特の叙情、ラヴェルの近代音楽的な奇矯さをそれぞれよく表現していた。

 後半最初の曲は、今回の演奏者、つまり三浦文彰とイタマール・ゴランに捧げられた曲で、文学者であり在日フランス大使でもあったポール・クローデルが俳句形式で書いた短詩集エヴァンタイユ (百扇帖) から12を選んで曲をつけたもの。それぞれの曲ごとに三浦が日本語で詩を朗読してからの演奏。 この曲が、なかなかよかった。 現代曲的な無機性やわけの分からなさがなくて美しい部分が多く、といってポピュラー曲のような馴致されたメロディーではなく、本格的に芸術として作曲するとこうなるんだな、と思えるような曲であった。 ディスクが出たらぜひ買ってみたい。

 そしてラストのクロイツェルがまた素晴らしい出来。 ヴァイオリンとピアノがぶつかり合い競い合うという性質がこれほどよく実感される演奏も少ないのではないか。 特に最終楽章はまさに手に汗握るような、火花が散るような、スリリングな両者の掛け合いが聞きもので、終わると壮大な拍手。

 2曲やったアンコールの選曲もいい。 演奏する側の志みたいなものが感じられる。

 最近の日本 (ばかりではないけれど) には優秀な若手ヴァイオリン奏者が輩出しているが、女性の姿が目立つ傾向がある中で、男性若手でこれほどの演奏家が出たことを喜びたいと思う。

 ディスクは、この2人のコンビでプロコフィエフのソナタ1&2を入れた1枚しかないということで、「うーん、曲目が良ければ買うんだけどな」 と途中までは思っていたのだが、クロイツェルの演奏を聴いて、これはCDを買うのが礼儀だと納得し、終演後に買おうと思って売り場に行ったら・・・・・なんと、売り切れ! おめでとう、と言うべきなんだろうな。 買ったCDを手に持ってサイン会に並ぶ人たちの長蛇の列が、この演奏会の卓越ぶりをそのまま表現していたかのようであった。

 

5月30日(木)   *JRのサービスがまたまた低下、周遊券廃止! 

 明日午後からまた上京するので、東京周遊券を買おうと思って近くのJR駅に行ったら、なんと、東京周遊券は廃止になったという。 愕然。

 調べてみたら、こんな通知がネット上に載っていた。

 http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000017493.pdf 

 冗談じゃないよ。 東京周遊券は地方在住者が東京に数日間滞在するのにきわめて便利なので、私は年間数回は利用していた。 こないだは3月に利用したのだが、その3月末日で廃止されたとは!

 JRのサービス低下はこれに始まったことではない。 そもそも、以前は周遊券は東京で1週間有効だったのに、いつの頃からか5日しか使えなくなった。 ザケンナ、この野郎!と叫びたくなるではないか。

 東京周遊券が便利なのは、首都圏のJRが普通列車なら乗り放題だったからである。 西は横浜や久里浜まで、東は成田まで、北は大宮まで自由に行けたのである。 だから、私なら横浜のみなとみらいまでコンサートや展覧会に出かけたり、横浜黄金町まで (横浜・黄金町間は京浜急行になるけれど) 都内では終わってしまった映画を見に行ったりするとき、よく使っていたのである。

 今回、都区内フリー切符が730円で出ていると教えてもらったが、これは1日のみ有効で、しかも使える範囲が都区内だけなのである。 だから例えば西は蒲田駅までしか有効でなく、横浜まで出かけるのには使えない。 こんなもの要らない、という奴だ。

 うーん、こうなると、東京に出かけるのにJRを使うこと自体を考え直さないといけないかな。 新潟から東京に行くのには、最速は新幹線だが、片道2時間なのはいいとして料金は1万円程度かかる。 それに対して、高速バスを用いると、時間は5時間ほどかかるけど料金は新幹線の半分で済む。 往復するとさらに1割引きとなる。

 今までは周遊券なら首都圏で自由に乗り降りできるからという理由で、JRを使っていた面がある。 そういう長所がなくなったとすると、高速バスでもいいわけだ。 しかも最近の高速バスは3列座席の車両が増えており、時間はかかっても身体的には新幹線の普通車座席より楽になっている。

 JRよ、慢心していると足元をすくわれるぞ!

 

5月26日(日)    *アワーズイン阪急、ラファエロ展

 今回は一泊だけの上京だったが、宿泊は初めてのビジネスホテルであるアワーズイン阪急というところにしてみた。 開店して日も浅いホテルのようである。 

 JR大井町駅のすぐ前で、歩いて一分。 一泊5500円、朝食は別料金で500円。

 このホテルの特徴は、部屋にバスルームがないこと。 ヨーロッパのホテルによくあるように、シャワーしかついていない。 また、いわゆるアニメティ、つまり歯ブラシだとかヒゲそり用のカミソリだとかヘアブラシだとかも備え付けていない。 持参するのでなければ、フロントで買うことになる。 その代わり立地条件のわりには料金が安い、ということのようだ。 なお、バスタオルや液体石鹸などは備え付けてある。

 また、部屋にバスルームはないけれど大きな浴場が別にある。 ただし使用料400円をとられる。 私は今回はシャワーだけで済ませた。

 部屋はビジネスホテルとしてはふつうの大きさで、ベッドはセミダブル、小さい冷蔵庫もついている。 新しいホテルだからインターネットの接続口もある(使用無料)。 テレビとクーラーもある。 残念なのは日本のホテルの通例で荷物置き台がないこと。 折りたたみ式でもいいから置いて欲しいものだ。 置くだけのスペースはあるのだから。

 朝食は和食か洋食かどちらか。 面白いのは、和食と洋食では部屋が異なっていること。 私は今回洋食にしたが、まあ500円だし贅沢は言えないとは思ったが、ちょっと物足りない感じ。 パンは好きなだけ食べられるが、その他は、コーヒーか紅茶、スープ、サラダ、スクランブルエッグであり、それぞれ一杯または一皿だけ。 特にスクランブルエッグの量があまりなく、スープに卵が若干はいっているとはいえ、タンパク質が少なすぎる感じである。 スクランブルエッグだけじゃなく、ハムかソーセージを付けて欲しい。

 このホテルの特徴は、上記以外に、徹底した省力化をはかっていることだろう。 つまりフロントマンにあまり手間がかからないようにできているのだ。 

 例えば、部屋のカギは一度チェックインしたらチェックアウトするまで自分で持っているというシステム。 いちいちフロントを通さなくていいのは便利。 料金は前金制で、飲み物などは各フロアに自動販売機があるし、部屋からは外線電話は使えないようになっているので (その代わりフロントに公衆電話がある。まあ、今どきだから自分でケータイを持つ人がほとんどであろう。ワタシのようにケータイを持たない人間はおそらく稀だ)、要するに追加料金というものが基本的に生じないようにできており、チェックアウトのときもカギを指定の場所において出て行けばいい。 非常に簡単である。

 また機会があったら利用しようと思えるホテルであった。 なお、チェックアウトは午前10時だから普通だが、チェックインが午後2時と早いのも便利。

               

 さて、この日はホテルを出てから、上野の西洋美術館で行われているラファエロ展を見に出かけた。 開館は午前10時で、少し早めに出て開館の15分前に着いたのでらくらく入場・・・・・なんて思っていたのは大甘であった。

 チケットを求める人がすでに長蛇の列を作っている。 結局、チケットを買うまでに25分、さらに実際に入館するまでに15分かかった。

 入館しても何しろ館内は人間が多いからなかなか一枚の絵から次の絵というふうにはいかない。 この展覧会、ラファエロ自身の絵画は20点ほどで、他に彼の父や師、同僚や弟子、同時代の画家たちの絵などが展示されているとはいえ、全体の点数は決して多くない。 それでも全部見終えるのに1時間半かかった。 ふう。

 ラファエロは、よく若くして亡くなった天才的な画家と言われるけれども、同時代の画家たちの影響をそれなりに受けており、特定の時代と地域の中で仕事をしていたのだということがきっちり分かるようになっている。

 まあ、見て損はないとは思ったが、1500円出して四苦八苦して見るほどのものなのか。 うーん・・・・と思ってしまった展覧会であった。

 

5月25日(土)   *日本シュトルム協会の例会、または文系弱小学会の危機

 上京し、日本シュトルム協会の例会に出る。 会員になってずいぶんたつが、怠惰な会員である私は久しぶりの出席である。 実はこの日は日本独文学会の研究発表会も首都圏で行われていたのだが、そちらは不参加。 身は一つしかありませんので。

 出席者は7名。 こぢんまりとした協会なのである。

 研究発表が2つあり、そのほか今後のことが話し合われた。

 いちばん大きな問題は、首都圏で今後例会を開く適当な場所がない、ということであった。

 今まで首都圏で例会を開くときは、会員であるN先生の勤務先である私大を用いていた。 N先生はそこの教授だったので、土曜日には授業もないということもあり、空き部屋を使わせてもらえたからである。 ところが、この3月でN先生は定年退職された。 となるとその私大は使えない。

 困ったことに、日本シュトルム協会の会員は30名余りいるのだが、いわゆる定職 (大学の専任教員職) を持っている人が首都圏にはいない。 定職を持っているのは、私のように地方大学勤務か、関西の大学に勤務している会員だけなのである。

 首都圏の会員には上智大学出身者が多く、上智大に訊いてみたそうだが、専任教員でない人間が部屋を半日借りると4万円もとられるのだそうである。 他の私大も同じようなものだし、国立大も法人化以降、結構な使用料をとるようになっている。 4万円って、会員数が30名程度で年会費3千円という弱小の文系学会には、とてもじゃないけど出せない金額なのだ。

 実はこの日もそういうわけで適当な場所がなく、四ッ谷駅に程近い飲み屋が某会員の行きつけの店で、本来は午後5時頃に開店するのだが、例会終了後の飲み会はそこでやるからという条件で、午後2時からの例会にも使わせてもらったのである。

 地方公共団体の会館などは、という案も出たが、この手の会館はふだんから利用している団体が既得権を持っており、日本シュトルム協会みたいに年に一回しか首都圏で会合を開かないというような団体には、平日ならともかく、土曜日には利用は困難だろうということであった。

 というわけで、今後の見通しはあまり明るくなさそうだ。 ・・・・・それにしても、この日私が宿泊を予定していたビジネスホテルだって一泊5500円なのに、数人で使う部屋を半日借りると4万円って、ボりすぎじゃありませんか。 日本の大学はもう少し公共性というものを身につけてほしいものだ。 これも新自由主義の悪影響だろうか。 うーん・・・・。

 

5月19日(日)    *最近聴いたCD

 *オルガンの風景 リトアニア篇 (MDG、319 1559-2、2008年録音、2009年発売、ドイツ盤)

 MDG (MUSIKPRODUKTION DABRINGHAUS und GRIMM) から出ている 「オルガンの風景」 シリーズのうち、リトアニア篇。 演奏はマルティン・ロスト (1963年生まれ)。 10のオルガンにより、小品ばかり合計45曲が収録されている。 親しみやすい曲想の曲が多い。 例えば第32トラックに収録されているスタニスラフ・モニウスコ (Stanislaw Moniuszko、1819〜72) のプレリュードヘ長調など、格式高いと同時に親しみやすい名曲だと思う。 時代的には、17世紀の (名が伝わってない人物も含めて) 作曲家が最も古く、19世紀末から1930年代まで活動した作曲家も作品が最も新しい。 およそ350年にわたるオルガン音楽の歴史が概観できるようになっているという。 解説によると、リトアニアの最初の王は13世紀半ばに戴冠しているが、この地のオルガンの歴史は、現在判明している限りでは15世紀初頭だそうである。 現在のリトアニアには約400のオルガンがあるが、そのほとんどは1860年から1940年までの間に作られた。 ヨーロッパでは19世紀後半にオルガン作りの技術が飛躍的に高まったので、その時代に古いバロック式のオルガンが作り変えられたり、まったく新たな楽器が導入されたりしたという。 英語とドイツ語で付けられた解説にはそのほか、この地のオルガン製造の歴史や、収録曲の説明もかなり詳しく書かれているし、また使用楽器の写真とレジスターをも掲載している。 2年ほど前、新宿のディスク・ユニオンにて購入。

 

5月16日(木)    *デュオ・ハヤシ リサイタル 結成40周年

 夜、標記の演奏会に出かけた。 会場のだいしホールは、7〜8割の入りか。 後ろから2列目の中央付近に席をとる。

 チェロの林俊昭氏は1970年に桐朋学園大を卒業後、渡米してボストン大に学んだ方。 林由香子さんはやはり桐朋学園大に学び、二人は73年よりデュオとして活動を開始、ヨーロッパに渡り、ローマのサンタ・チェチリア音楽院室内楽科を卒業。 いくつかのコンクールで入賞・優勝を果たし、ヨーロッパで活躍。 87年に俊昭氏が大阪フィルの首席チェリストとなるために帰国。 俊昭氏は現在は紀尾井シンフォニエッタと澤クヮルテットのメンバーとしても活躍。

 トークを交えての演奏会であったが、俊昭氏が 「2年前に澤クヮルテットで来たけれど」 とおっしゃっていた。 誰も知らないだろうというニュアンスだったが、私はその時もちゃんと聴いていたのでご心配なく。 ただし、チェリストが誰かはその時は気にしていなかったけれど(笑)。

 ブラームス:チェロとピアノのためのソナタ第1番
 ドビュッシー:インテルメッツォ
        スケルツォ
        チェロとピアノのためのソナタ
 (休憩)
 メンデルスゾーン:チェロとピアノのためのソナタ第2番
 マルティヌー:ロッシーニの主題による変奏曲
 (アンコール)
 ロンドンデリーの歌

 最初チェロの音を聴いて、響きはいいけれどちょっと籠もるような感じかな、と思った。 旋律の線が必ずしも明確ではなく、響きの方が先に来るような印象があるのだ。 これは、ブラームスの一番が比較的低い音域の曲であることも関係しているかも知れないし、また演奏会の最初にはまだ調子が出ていなかったのかも。 後半最初のメンデルスゾーンは、比較的高い音域の曲であるせいもあってか、旋律の線もはっきりしていた。

 ピアノのほうは、すっきりした音で、あまり細かいニュアンスにこだわることなく、言うならば小細工を排した正攻法とでも言いたくなる演奏。

 最初のブラームスは好きな曲なので、楽しめた。この曲、実演ではなかなか聴けないのである。

 次のドビュッシー、最初のインテルメッツォとスケルツォは、多分新潟初演ではないか、とのことであった。 数年前に初めて楽譜が出版された曲なのだそうである。 比較的有名なソナタを含めて3曲、ドビュッシーらしさが感じられる演奏であった。

 後半最初のメンデルスゾーンは、トークによると技術的に難しい点で西の横綱だとか (東の横綱はブラームスの2番だそうだ)。 なるほどと思ったが、演奏はしっかりとしていて破綻はなかった。

 プログラムからも分かるように、なるべく色々な地域と時代の作曲家を取り上げるのがこのデュオの主義なのだそうで、そういう点を含めていい演奏会だった。 途中休憩15分をいれてちょうど2時間あり、先日のライプツィヒ四重奏団より音楽会として楽しめた。

 

5月15日(水)   *新潟のシネコンは名画座的な要素を取り入れよ

 夜、ワーナーマイカル・シネマズ新潟に 『探偵はBARにいる 2』 を見に行く。 先週土曜日に封切されたばかりの作品で、前作がヒットしたからというので作られた続編。 主役は、大泉洋、松田龍平、尾野真千子。

 なんだけれども、入りはきわめて悪い。 10人も入っていなかっただろう。 このシネコンで一番大きいシアター1が会場でこのザマなのである。

 それもそのはずで、いくら人気シリーズっていったって、新潟市にある4つのシネコンが全部この作品を上映しているわけだから、客は分散されてしまう。

 だいたい、新潟市の規模の都市でシネコン4つというのが過当競争なのである。 シネコン時代になる以前は15もなかったスクリーン数が、現在は30を越えている。 おまけに、ワーナーマイカルは市内に2つもある。 せめて経営が異なるシネコンが4つならまだ作品の種類も増えるのだろうけれど、これじゃどうしようもない。 ワーナーマイカルの2軒目が来ると分かったとき、新潟の映画ファンからは 「TOHOなら良かったのに」 という声が出たのは、いまだに記憶に残るところだ。

 しかし現況にぐだぐだ苦情を言うだけでは生産的ではないので、打開策を考えてみよう。 ひとつは、すでにこの欄でも何度も書いているように、ヨーロッパ映画があまり来ない新潟の状況を変えることだ。 

 前回この話題を出して以後のことを考えても、『愛と欲望の王宮』、『東ベルリンの女』、『コズモポリス』、『偽りなき者』など、首都圏ではやっているのに新潟には予定も入っていない作品がいくつもあるのである。 新潟の映画関係者はしっかりして欲しい。

 もう一つの打開策、それは名画座的な要素を取り入れることである。 スクリーン数が8〜10もあるシネコンのこと、そのうち1つを名画座にしても文句は出まい。

 もちろん、今でも 「午前十時の映画祭」 などで旧作の上映はそれなりに行われているわけだが、邦画について、名画座的に2本立てでの上映を行うなら、千円の料金でも客が入るのではないか。 この場合、漫然と旧作2本を並べるのではなく、はっきり企画性を出していくことが大事である。

 企画性とは、例えば特定の監督の作品を集める、特定の女優が主演している作品を並べる、などである。

 むろん、新潟のシネコンが単独でそれを行うことは難しいだろう。 ユナイテッドなりワーナーマイカルなり、会社全体としてそれを企画し、日本全国で上映することが前提となる。

 或いは、東京の名画座とタイアップして、そこで企画・上映された作品を回してもらう、という手もあるのではないか。 東京では今も、渋谷のシネマヴェーラ、池袋の新文芸坐、神保町の神保町シアターが企画性の強い名画座として運営を続けている。

 邦画にはいまだにDVDにもビデオにもなっていない作品がかなりある。 また、なっていてもその存在や意義が若い映画ファンに十分知られているわけではない。 そうした作品を2本立て千円で上映し、企画性をパンフなどで観客に説明し啓蒙活動を行うことで、単にオールドファンの呼び戻しだけでなく、新しい映画ファンの開拓も可能になるのではないかと思う。

 人気新作でもシアターががらがらという現況を変えるべく、新潟のシネコンには検討をお願いしたい。

 

5月12日(日)    *東京交響楽団第77回新潟定期演奏会

 この日は午後5時からの東響新潟定期に出かけた。

 今年度初めての定期だが、そのせいかどうかは知らないけれど、入りがきわめて良かった。 ふだんがらがらのFブロックやLブロックがほぼ満席、GブロックとKブロックも9割以上の入り。Pブロックも両脇の部分がぎっしり。全体で9割は入っていたのではないか。 これだけ入ると、演奏家も熱が入るだろうなと思ったことであった。 いつもより若い人が、特に3階や後ろのPブロックに多かったようである。

 指揮=アレクサンドル・ヴェデルニコフ、 ピアノ=アレクサンダー・ロマノフスキー、 コンマス=グレブ・ニキティン

 グリンカ: 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
 ラフマニノフ: ピアノ協奏曲第2番
 (アンコール)
 スクリャービン: エチュードop.8-12
 ショパン: ノクターン第20番
 ショパン: プレリュードop.28-20
 (休憩)
 ムソルグスキー/ラヴェル編曲: 組曲「展覧会の絵」
 (アンコール)
 プロコフィエフ: 歌劇「三つのオレンジへの恋」からマーチ


 ロシアもののコンサート。 指揮者と独奏ピアノも、ロシアとウクライナとあっちの出身者で固めている。 先日のLFJ新潟のコンサートの時は1階と2階でしか聴かなかったせいか、今回いつもの3階Gブロックで聴いたら、改めて音が豊かだな、と痛感した。

 演奏はどれもなかなか良かったと思うが、やはりメインの「展覧会の絵」は充実していました。 個々のパートも、全体の融合感も、文句なし。

 ロマノフスキーの協奏曲は、やや緩急の差をつけて、歌うところではゆっくり、それ以外の部分はやや速めというふうにしていたよう。 ピアノの音も明晰であった。
 ロマノフスキーはアンコールを3曲もやってくれるという大サービスぶりにも好感が持てた。 次回はリサイタルで聴きたいもの。

 客が多いせいか、今回は客席の反応も派手であった。 まあ、悪いことではない。

 なお、大学生になった娘を連れて行ったのであるが、ユース券を買おうとしたら受付のパソコンの調子が良くなく、発券に時間がかかった。 係員のせいではないけれど、東響定期のような大事な音楽シーンで今後こういうことが起こらないよう注意していただければと思う次第である。

 

5月11日(土)    *最近聴いたCD

 *ミスリヴェチェク: ヴァイオリン協奏曲集第3巻 (SUPRAPHON、COCO 6612、1986年録音、1988年発売、日本盤)

 チェコの作曲家ヨセフ・ミスリヴェチェクの、ヴァイオリン協奏曲第3集。 チェコで活躍している石川静さんによる録音である。 以前にも書いたことがあるが、私は石川さんのファンで、20年以上前に新潟市の音楽文化会館でリサイタルが開かれたときには真っ先にチケットを買い聴きに行ったし、花束も贈っておいた。 その数年後に東京で石川さんの演奏会があったときも聴きに行き、モーツァルトの協奏曲集のディスクを買い、サインをもらってきた。 ミスリヴェチェクは日本では知名度が低いが、モーツァルトに先立つこと19年前の1737年の生まれで、モーツァルトとも親交があった。 イタリアで活躍したが、晩年には病気などのために貧困のうちに生涯を終えたという。 このディスクにはヴァイオリン協奏曲が4曲収められている。 いずれもハイドンやモーツァルトを思わせる古典的なスタイルで、石川さんのしなやかな演奏により端正な音楽が楽しめる。 バックはリボル・ペシェク指揮のドヴォルザーク室内管弦楽団。 日本語解説付き。 私は同じく石川さんの独奏で第1巻も持っているが、第2巻は持っていない。 このディスクは先日、新潟市内のCDショップ・コンチェルトさんの中古CDセールにて購入。 

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5月10日(金)   *ライプツィヒ弦楽四重奏団コンサート

 この日は夜7時から標記の演奏会に出かけた。 会場のだいしホールは8割くらいの入りか。 前から7列目の左ブロックで聴く。

 モーツァルト:弦楽四重奏曲K.458変ロ長調「狩」
 ヴィトマン:弦楽四重奏曲第3番「狩」
 (休憩)
 メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲変ホ長調op.44-3
 (アンコール)
 ワーグナー: ? 

 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の奏者もしくは元奏者によるカルテット。 すべて男性で、年齢も全員が40代。

 カルテットには、第一ヴァイオリンの音色の輝きが目立つ団体と、そうではなく各人の音の出方が比較的均等な団体とがあるが、この四重奏団は後者だろう。 全体としてテクニックは練達の面々という印象だが、音色的にはやや渋めである。

 したがって細かく見ていくと相互の意思疎通の見事さとか表現が細部に至るまで練り上げられていることなど、それなりではあるのだけれど、美音など感覚的な喜びみたいなものには乏しいきらいがある。

 2曲目のヴィトマンは現代作曲家で、この曲については最初に通訳を介してチェリストから説明があったが、最初は普通の狩であったものがやがて逆転して動物が人間を追いかけることになるのだとか。 曲も、最初は4人が弓を振り上げて空を切り風音を出すところから始まり、また4人が時おり叫び声を上げながら進むという、いかにも現代曲らしい作り。

 総合的に見て、やや物足りなさが残ったかな、という評価。

 

5月9日(木)   *少子化の時代、役所は子育ての制度設計をしっかりと

 夜、社会人卓球の某クラブに行って練習していたら、私より少し年長の女性であるHさんが途中で旦那さんに呼び出された。 といってもケータイではなく、旦那さん本人が練習場である某小学校体育館に姿を見せたのである。

 Hさんは、娘さん夫婦が首都圏に住んでいるのだが、その小さいお子さん (Hさんのお孫さん) が熱を出し、しかし夫婦はどちらもフルタイムで働いており両者とも夜遅くなる仕事なので、Hさんに来て欲しいということなのだそうである。 その話を旦那さんから聞いたHさんは、練習を途中でやめて帰宅した。

 最近、夫婦共稼ぎの浸透にしたがって祖父母が育児で一定の役割を果たすということが肯定的に捉えられがちだが、そしてこのHさんのケースでも、お孫さんが新潟市内や、市外でもせめて近隣地域に住んでいるならともかく、首都圏にいる孫のために祖母が新潟市から駆けつけるというのは、いくらなんでも、という気がする。 新潟市から東京駅までは新幹線で2時間、金銭的には往復で2万円程度かかるのである。

 つまり、育児の制度設計がうまく行っていないことが露呈したケースだと思う。 公的施設もしくは人員でどうにかするか、でなければ小さい子供を持つ夫婦のどちらかは休みや早引けが容易にできるような制度にするか、いずれかではないか。 そもそも、祖父母を育児であてにできるのは、祖父母が健在でなおかつ近隣に住んでいる場合だけであり、そういう条件がいつも揃っているとは限らないのである。

 過度に祖父母に頼らないでも容易に子育てができる環境作りに、役所は真剣に取り組むべきであろう。 

 

5月8日(水)   *カネがなくてどうしようもない日本の国立大学――文科省や国大協は何をやっているのか!?

 教授会。 今年度の予算案が出て了承された。 独法化以降いつもそうだけど、文部科学省からの運営交付金が減少する一方で、したがって教員の研究費も増えるわけがないのである。

 今年度は一昨年と同じく、一人当たり20万円しかない (教育費と研究費の合計額)。 ここには、研究や教育に使うコピー代や電話代、教材プリント作成に使う研究室備え付けパソコンのインク代も含まれている。 到底足りるわけがないのである。

 考えてももらいたい。 新潟は地方都市である。 学会はたいてい首都圏などで行われる。 或いは関西圏、もしくは他の地方都市で行われる。 新潟で行われることはめったにない。 したがって学会に出張しようとすると必然的に交通費とホテル代がかかる。 例えば私は、日本独文学会、日本シュトルム協会、日本言語政策学会、日本セトロジー研究会、19世紀学学会の、合計5学会に所属している。 全部とは言わないが、そのいくつかの研究会に出ようとすると (各学会の研究会は年1回とは限らない)、例えば東京開催なら、新幹線での往復交通費と、最低一泊するホテル代がかかる。 合わせて安くとも2万5千円がかかる。 年に4回東京の学会に出れば、それだけで10万円かかるのである。 

 他にどうしても買わねばならない書物というものがある。 だから、1年合計で20万円で足りるわけがないのである。 

 独法化が行われる以前はこうではなかった。 当時は交通費と研究費は別立てで、交通費は年に6万円しかなく、したがって出張には自腹を切るしかなかったが、研究費は40万円ほどあったので、書物を買う余裕は十分あった。 今は交通費も研究費と教育費に含まれて、それで20万円である。 つまり、独法化以前の半分以下しかないのである。

 こういう状況下では、本は自腹を切って買うことも多かった。 ところが昨年から、東日本大震災で国家公務員は給与を削減されており、国立大教職員もそれに準拠して削減されている。 こうなると本を買うカネだって出ないのである。 そもそも、交付金を削減して、つまりカネをろくにくれないくせに、給与だけ国に準拠しろというのは、完全に論理的に破綻している。 その破綻した論理がなぜかまかりとおっており、奴隷のようにおとなしい国立大教員は何も言わないのである。

 給与の削減は震災がらみだけのことではない。 大学内では、准教授から教授への昇進に色々難条件をつけるようになっており、40代後半から50歳くらいの、本来は教授に昇進しておかしくないはずの人たちが多数、准教授のままでいることを余儀なくされている。 これは名目だけの問題ではなく、給与にも関わる問題である。 40代後半以降になっても准教授のままだと定期昇給も低く抑えられるからだ。 つまり、待遇がものすごく悪くなっているのである。

 教授会で出た話だと、運営交付金は今後も削減されるが、競争的資金は増やすから、と文部科学省は言っているそうであるが、バカが多い文科省役人らしい発言である。 肝心なのは、自由に使えるお金を増やすことであり、いわゆる競争的資金を増やすことではない。 

 そもそも、独法化をやるとき、寄付金がたくさん入るアメリカ型大学が念頭にあったのではないか。 はたして民間からの寄付金は増えているのか、独法化以前と比べて国立大全体の運営状況はどうか、一度ちゃんと見直すべき時期にきているのではないか。 まあ、文部科学省の役人は無能だから無理としても、ジャーナリストは何をやっているのだろうと思う。 まともなジャーナリストもいないのかな、日本には。

 例えばの話、現在、新潟大学人文学部の教員は66人である(助教・助手を含む)。 15年前、1998年には84人であった。 15年間で20%あまりも減っている。 なぜそうなるのか、よほどのバカでも分かるはずだ。 それが分からないなら、文部科学省役人もジャーナリストもバカ以下の人間しかいないということだろう。 

 昨年ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が、研究寄付金を募るためにマラソンに出場するという報道がなされたことがあったけど(下記URL参照)、どういうわけか美談という扱いだった。 私には信じられない。 ノーベル賞をとるような有能な学者すら研究費が足りないのである。 先進国日本がこれでいいのか、という趣旨の報道をなすべきであろうに、ジャーナリストはその程度のことすら理解できないのである。 

 http://b.hatena.ne.jp/entry/nyusokuropedia.ldblog.jp/archives/3330475.html 

 だいたい、国立大のおかれている状況を把握し、場合によってはちゃんと要求を出すなどすべき国大協は何をやっているのか。 耄碌したじいさんばっかりで目も見えず耳も聞こえないのか。

 どうやら無能なのは文部科学省役人だけではなく、ジャーナリストも国大協も同じなのだろう。 大衆迎合ばっかりやっているからだ。 困るよね。

 

5月3日(金)    *シネコン 「Tジョイ新潟万代」 の問題点

 本日から4連休である。 本日は朝食をとってから、新潟市万代にあるシネコン・Tジョイ新潟万代に映画を見に行く。 映画と言っても旧作で、「大脱走」。 「午前十時の映画祭」での上映である。

 その名のとおり午前10時に上映開始だが、10時少し前に近くまでクルマで来たものの、さすが連休だけあって道路が混んでいる。 駐車場の中も混んでいる。 かろうじてクルマを空いているところに入れたのが10時4分くらい。 それから走ってTジョイに行ってチケットを買おうとしたら、連休だってのにチケット売り場には1人しか売り子がいない。 客もそんなに多くなく、列は数人ではあるが、こういうときに限って席の選択に手間取る客だとか、駐車場無料のスタンプをもらうときに駐車券を用意しておかず財布から時間をかけてゆっくり取り出す客だとか、ろくでもない奴が多いのである。

 と、ようやく向かい側の売り場から売り子が一人回ってきて、チケット売り場は二人体制となり、列もほどなく解消した。 私も、予告編が10分程度あったおかげで、かろうじて本編には間に合った。

 しかし、Tジョイ新潟万代のチケット売り場は人間の配置がうまく行っていないな、とかねてから私は思っており、今回もその印象を新たにした。

 新潟市内の他のシネコンでは、売り場は2つに分かれている。 チケット売り場と飲食物売り場である。 前売り券はチケット売り場、映画のパンフレットは飲食物売り場が扱っている。

 ところが、Tジョイ新潟万代では売り場が3つに分かれているのである。 当日のチケット売り場、前売り券とパンフレットの売り場、飲食物売り場、である。 これ、どうみても能率が悪いし、人間がそれだけたくさん必要となるので合理性に欠ける。

 今回も、チケット売り場に売り子が一人だけだったのが、前売り券とパンフレットの売り場から売り子が回ってきて、ようやく二人体制になったのである。 だいたい、前売り券やパンフを買う人間は少数だし、常時そこに人を配置しておくのは無駄だろう。 他のシネコンのように、前売り券はチケット売り場、パンフレットは飲食物売り場に統合してしまったほうがいいだろうに、なぜかそうなっていない。

 Tジョイ新潟万代さん、一考をお願いします。

 

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