音楽雑記2013年(3)                           

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  音楽雑記2013年の4月まではこちらを、5〜8月はこちらを

 

12月31日(火)   *最近聴いたCD

 *ヨハンネス・シェンク: 2つのヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ集 『ライン川のニンフたち』 (RICHERCAR、RIC336、2012年録音、オーストリー盤)

 ヨハンネス・シェンクといっても知らない人も多いだろう。 かくいう私も知らなかった。 オランダのアムステルダムに1660年頃に生まれ、その後の経歴ははっきりしないものの、オランダから外には出なかったのではないかという説が有力なようである。 しかし彼は1696年にデュッセルドルフの宮廷に宮廷音楽家として雇われ、そこでおそらくオランダ時代とは異なるタイプの音楽家などに出会い、1702年、このディスクに収録されている『ライン川のニンフたち』という、二つのヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ集を出した。 このタイトルにはさほど大きな意味はなく、単にライン川に面した地方を治めている選帝侯の宮廷に仕えるようになった、ということからつけたらしい。 本来は全12曲だが、このディスクにはそのうち6曲、3、2、8、7、11、12番が収められている。 解説によるとイタリア様式にフランス様式を融合させたような作曲法で、これは当時のオランダやドイツ語圏では珍しくないやり方であったという。 通奏低音を入れず、2つのヴィオラ・ダ・ガンバをまったく対等に扱った書法はシェンクの独創ではないが、逆に言えば彼がそれだけ多方面の音楽を勉強していたことがうかがえる。 ・・・・と、解説を要約してやや面倒くさい説明をしたけれど、リラックスして2つの楽器の高雅な音色や旋律に身をゆだねるべき曲集で、時代的には大バッハより少し前ではあるが、感覚だけではなくそこに多少の思考のようなものが感じられるところに、時代の流れを見るような気がする。 つまり、オランダで育ちドイツ語圏で職を得た人の、フランス的なものとドイツ的なものの融合があるようにも思われる。 演奏はヴィーラント・クイケンとフランソワ・ジュベール=カイエ。 解説は英語、フランス語、ドイツ語で付いているが、輸入元が邦訳を添付してくれている。 数日前、新潟市内のCDショップ・コンチェルトさんにて購入。

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12月30日(月)   *毎度おなじみ、お笑いを、じゃなくて、新潟の映画事情に関する愚痴を・・・・

 えー、毎度おなじみ、ばかばかしいお笑いを、と行きたいところだが、そうではなく、このコーナーで定期的に出てくる新潟の映画事情に関する愚痴です。 すみません。

 いつもながらヨーロッパ系に弱い新潟の映画館。 いや、ヨーロッパ系だけじゃなく、邦画にだって弱い。 今年で言えば、『シャニダールの花』はついに新潟に来ず、今はもうDVDが出ている。 貸DVD屋で探すしかないかな・・・・

 しかし何と言ってもヨーロッパ系に救いがたく弱いのが、新潟市の映画館の致命的なところなのだ。

 まず、今年の夏から日本全国で上映されている『熱波』である。 ポルトガル・ドイツ・ブラジル・フランス合作のこの映画、東京での上映開始が7月だったが、非常に緩慢に全国展開している。 東京ではその後、10月、11月、12月と再上映されたのだが、いずれも私の上京時には時間が合わず(コンサートと重なるなど)見ることができなかった。 しかし、年が明けて1月と2月にもやるらしい。 また、岩手を除く東北5県でも上映されているが、山形県と福島県は来年初めになるようだ。 新潟の近隣県でいうなら、群馬県も来年だが、富山県と石川県は上映が終わっている。

 ところが、新潟県ではそもそも上映しようとする映画館がない。 何やってるんだろうねえ。

 次が、『鑑定士と顔のない依頼人』である。 このイタリア映画、東京で予告編を見て非常に面白そうだと思ったのだけれど (今はネットで予告編を見られますので、ぜひ新潟県の皆様も見てください)、なぜか新潟では今のところ上映予定がない。 ユナイテッドにリクエストを出したが、すげなく 「予定はございません」 という返事が来た。 12月中旬から東京など全国20の映画館で上映されており、東北地方も秋田を除く5県で来年2月〜3月に上映が予定されており、そのほかの近隣県でも、群馬・富山・石川で上映予定が入っているのに、なぜか新潟だけはないのである。 なんでこうなるの?

 その次は、『ルートヴィヒ』である。 かの有名なバイエルンの狂王でワーグナーのパトロンとしても、またノイシュヴァンシュタイン城など建築費のかさむ城をいくつも作った人物としても有名。 この王様を描いた映画としてはイタリアの名匠ヴィスコンティによる 『ルートヴィヒ 神々の黄昏』 がよく知られているが、今回はドイツの製作で、この12月下旬から東京では上映が始まっている。 ほか、京阪神、名古屋、札幌、鹿児島では上映中もしくは上映予定が入っているが、そのほかの地域では今のところ上映は決まっていない。 こういう映画をぱっと持ってくる才覚とやる気が、新潟の映画館関係者には欲しいところだけどねえ。

 そのまたお次は、『ブランカニエベス』。 スペイン・フランス合作で、モノクロ・サイレントという代物。 闘牛士のお話だそうだが (タイトルは闘牛士のあだ名で白雪の意味だとか)、ちょっと気をそそられる。 首都圏や関西圏以外では、札幌、仙台、広島、福岡といった大都市では予定が入っているけれど、それ以外でも山形や福井や大分でも上映予定はあるのだ。 新潟がどうかは、言うまでもありませんがね。 たまには意外性で勝負してくれませんかね(笑)。

 さらに、『皇帝と公爵』 だってあるぞ。 ポルトガルとフランスの合作で、かのナポレオン皇帝とウェリントン将軍の対決を描いているそうな。 一昨日からとりあえず東京での上映は始まっている。 その他、京阪神や名古屋、仙台、岡山、福岡などいくつかの都市には上映予定が入っているが、以下同文。 

 まだある。 『おじいちゃんの里帰り』 だ。 ドイツ映画で、60年代に労働者としてドイツにやってきたトルコ人一家の様子を描いて世評も高い。 東京では11月下旬から上映しており、今後は石川県、長野県、群馬県など新潟の近隣県を含む全国各地で上映が予定されているのに、(以下省略)。

 ・・・・・このやる気のなさと無能ぶり。 まさに新潟大学の上層部とそっくりだ(笑)。 人口80万人の政令指定都市新潟がこれでいいのか!? 関係者の猛省を望みたい。

 

12月26日(木)   *今年の音楽会ベスト10

 本年の音楽会も予定したものはすべて聴き終った。 というわけで恒例のベスト10である。

 今年は合計59の音楽会を訪れた。 ただし、ラ・フォル・ジュルネはチケット1枚ごとに一つと勘定。 以下、聴いた順に並べてある。

 ○1/19  茂木大輔のオーケストラ・コンサート第8回(りゅーとぴあ)
  茂木さんのレクチャーコンサートは今年は2回ありましたが、チャイコ4番を解説したこちらのほうを採用。いつもながら教えられることばかりでした。

 ◎3/10 ベルナルト・ハイティンク指揮、マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)、ロンドン交響楽団演奏会(みなとみらいホール)
  今年のベストという意味で◎をつけました。メインのブルックナー9番で音楽会を超える体験をしたということで。ピリスのベトP協2もよかった。

 ○4/27 ラ・フォル・ジュルネ新潟2013 特集モーツァルト【214】(りゅーとぴあ)
  指揮=ロベルト・フォレス・ヴェセス、ピアノ=小曽根真、オーヴェルニュ室内管弦楽団、プログラムは、ディヴェルティメントヘ長調K.138とピアノ協奏曲第9番「ジュノム」。小曽根のアドリブの効いた演奏が突き抜けていた。

 ○4/28 ラ・フォル・ジュルネ新潟2013 特集モーツァルト【312】(りゅーとぴあ)
  指揮=ロベルト・フォレス・ヴェセス、フルート=ジュリエット・ユレル、ハープ=吉野直子、クラリネット=ラファエル・セヴェール、オーヴェルニュ室内管弦楽団
  フルートとハープのための協奏曲もよかったけれど、何と言ってもクラリネット協奏曲がすごい名演でした。

 ○6/1 三浦文彰ヴァイオリン・リサイタル (オペラシティホール)
  ピアノのイタマール・ゴランと合わせて、今年の室内楽のベストです。ドビュッシー、ラヴェル、マルク=オリヴィエ・デュパン、そしてクロイツェルと、充実のプログラムで気迫のこもった演奏。

 ○6/2 東京交響楽団第610回定期演奏会 秋山和慶指揮 (サントリーホール)
  秋山さんと東響というコンビの円熟ぶりを強く感じさせる演奏会でした。R・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」、バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第1番、R・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」 

 ○7/27  山宮るり子 ハープ・ソロリサイタル(りゅーとぴあ)
  珍しいハープリサイタル。新潟出身の国際的なハーピストの充実した演奏会。演奏だけでなく、トークも上手でしたね。

 ○10/14 東京交響楽団第80回新潟定期演奏会 ジョナサン・ノット指揮(りゅーとぴあ)
  来期から音楽監督に就任するノットの実力を遺憾なく発揮した演奏会。

 ○10/26 札幌交響楽団新潟特別演奏会 尾高忠明指揮 (りゅーとぴあ)
  北欧プロをじっくりときかせてくれたこのコンビに感謝。

 ○11/19 バーミンガム市交響楽団演奏会 アンドリス・ネルソンス指揮(オペラシティホール)
  スケール感のある音楽を作り出す指揮者と、強い表現意欲に満ちたオケのコンビに魅了されました。ピアノのエレーヌ・グリモーはリサイタルで聴いてみたい。

 このほか、以下の演奏会もなかなか印象的であった。

 ・9/28 クァルテット・エクセルシオ演奏会 (りゅーとぴあ)
  新潟でもおなじみの四重奏団の、いつもながらしっかりとした演奏。ベト2、ショスタコ8、そしてドヴォ「アメリカ」という、時代も作風も異なる3曲を見事に聴かせてくれました。西野ゆかさんもあいかわらず魅力的だし(笑)。

 ・9/29 井上静香と仲間たち クラリネット五重奏の午後 (だいしホール)
  きわめて質の高い演奏会。プログラムが私好みならベスト10に入れてました。

 ・12/7 アトリウム弦楽四重奏団 ショスタコーヴィチ・マラソンコンサート (りゅーとぴあ)
  ショスタコ嫌いの私は最後のセクションしか聴きませんでしたが、貴重な試み。別の作曲家の作品でまた新潟に来て欲しい。

 ・12/14 新潟大学管弦楽団第50回記念定期演奏会(りゅーとぴあ)
  アマオケとしてショスタコ5番がかなりの出来でした。

 

12月24日(火)   *何でも民営化すればいいわけではない――アメリカ民営刑務所があいつぎ閉鎖

 本日の産経新聞に注目すべき記事が載っていた。 (以下の引用は記事全体の半分程度。 全部読みたい方は下記URLから。)

     http://sankei.jp.msn.com/world/news/131224/amr13122416010005-n1.htm 

 米国“民営刑務所”転換点 州政府が相次ぎ閉鎖決断 非効率運営、訴訟リスク回避で

 1980年代に米国で誕生した民営刑務所がここ数年、相次いで閉鎖されている。州政府が予算削減の切り札として民間企業に運営を委託してきたが、費用を効果的に削減できず、刑務所内の治安も悪化。その責任を問われ、州政府が訴訟に巻き込まれる例もあるためだ。司法機関の“天下り”先になっていることへの批判も強く、登場から30年が過ぎ、民営刑務所は大きな転換点を迎えている。(米東部ニュージャージー州エリザベス 黒沢潤、写真も)

 米国では80年代以降に犯罪が多発し、厳罰を下す州が相次いだ。84年以降は受刑者の増加で、刑務所運営を民間委託する州が増え、これまでに30州以上で民営刑務所が設置されてきた。

 公立病院の運営経験を生かして参入した米最大の刑務所運営会社「コレクションズ・コーポレーション・オブ・アメリカ(CCA)」などの刑務所に収容される受刑者は、2008年に9万6千人にまで達した。

 しかしその後、東部ニューヨーク州や中西部ミシガン州、南部フロリダ、バージニアの両州などが民営刑務所の閉鎖を相次いで発表。司法関係者によると「『安く効率的な運営』をうたい文句にした民営刑務所だったが、必ずしも経費削減に結び付かなかったため」という。

 例えば、西部アリゾナ州では、民営刑務所の方が州刑務所より、年間で受刑者1人当たり1600ドル(約16万円)も多くの出費を余儀なくされた例もあった。ミシガン州では今秋、民営刑務所の運営業務入札を行った際、2企業が落札上限を数百万ドル(数億円)も上回る額を入札したため、州政府は民間委託を断念した。

 民営刑務所の閉鎖は、訴訟リスクを回避するためでもある。西部アイダホ州では10年、警備要員不足で刑務所の規律を保てずギャングが暴れ回り、一般の受刑者の生命が脅かされたとして、米自由人権協会(ACLU)がCCAや州政府を訴えた。

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 アメリカでは刑務所まで民営化しているということが日本でも一般に広く知られるようになったのは、堤未果『貧困大国アメリカ』(岩波新書)によってであった。 ところがこの民営刑務所、ここに来てうまくいかないことがはっきりしてきたらしい。

 「民営化すればすべてはうまくいく」というのは、日本では小泉政権時代に大声で唱えられたイデオロギーだった。 しかし本家本元のアメリカだってこの有様なのだ。 いや、ぞれ以前にリーマンショックによって、民間なるものがいかに詐欺やごまかしに走りやすいかが明白になったはずである。

 日本ではまだ民営化イデオロギーに縛られた人間が多く、公務員バッシングだとかが平然と行われているが、そろそろ自分がだまされていることに気づいたほうがいい。 民営化がすべて善だなんてトンデモナイ話である。 世の中には民営化してはいけない領域がある。 それを知ることからしか、社会をよくする議論は始まらない。

 最近問題になっているブラック企業にしても、それを摘発するのは然るべき省庁の役人なのである。 放置すればブラック企業は自然に淘汰されて優良企業だけが残る・・・・なんてことを信じる人は、竹中平蔵はどうか知らないが(笑)、ほとんどいないだろう。 それは、警察官を置かなくても、放置すれば自然に犯罪者は世の中から消えると信じるのと同じことだからである。

 なおブラック企業を取り締まるのに必要な人間の数が不足しているという指摘は、以下の毎日新聞記事を参照。

     http://mainichi.jp/shimen/news/20131217dde041040038000c.html 


  ブラック企業調査:労基法違反82% 残業月80時間以上、24%  毎日新聞 2013年12月17日 東京夕刊


 厚生労働省は17日、事前の電話相談や情報などを基に「問題がある」と判断した全国5111事業所を重点的に抜き出して実施した過重労働などの監督結果を公表した。全体の82%にあたる4189事業所で長時間労働や残業代不払いなどの労働基準法違反があったほか、過労死のラインとされる月80時間以上の残業をさせていた事業所も1230(24・1%)に上った。こうした重点監督は初めて。過酷な働き方で若者らを使い潰す「ブラック企業」の実態が浮かんだ。【東海林智】

 それによると、残業させるための協定を結んでいなかったり、協定を大幅に超える長時間労働をさせたりするなど違法な時間外労働が2241事業所(43・8%)であった。不払い残業は1221事業所(23・9%)、過重労働に対して健康障害防止措置を実施していないところも71事業所(1・4%)あった。

 業種別でみると、労働時間の違反割合が最も高かったのは、運輸交通業で56・8%。次いで接客娯楽業が52%だった。不払い残業では、接客娯楽業と建設業がともに37%で最多だった。また、ブラック企業の特徴と言われる3年以内の離職率が高い事業所122のうち、86・1%にあたる105事業所で何らかの法令違反があった。

 違法行為が発覚し是正指導を行ったケースでは、正社員に月84時間、パート労働者に月170時間の残業をさせた事業所もあった。別の事業所では、正社員の7割が係長以上の「名ばかり管理職」で、管理監督者だとして残業代が支払われていなかった。管理監督者の半数は20代だった。厚労省は是正指導に従わない場合は送検するとしている。田村憲久厚労相は「相談、監督体制を強化し、若者が安心して働ける環境を整え、法令違反には厳しく対応する」と話した。

 ■解説

 ◇企業間競争激化、背景に

 厚労省が17日公表した8割以上の事業所で違法行為があるという監督結果は、社会にコンプライアンス(法令順守)を言う一方で、社員には違法な長時間労働や不払い残業を強いるブラック企業のゆがんだ側面を映し出した。

 背景には、企業間競争が激化する中で、コスト削減ばかりが重視されたことがある。手をつけやすい人件費に目がゆき、違法な形であれ削減が横行している。それを裏付けているのが、過去最悪ペースで推移する過労死、過労自死の労災認定の件数だ。人件費削減が長時間労働を招いており、こうした中で、職業経験の浅い若年労働者が使い潰されている。

 注目すべきもう1点は、企業を監視する労働基準監督官の少なさだ。ILO(国際労働機関)基準では、監督官は労働者1万人に対し1人とされる。しかし日本は1・6万人に1人しかいないのが現状だ。監督官を増員しなければブラック企業の監視はままならない。

 

12月23日(月・祝)   *ルドン展

 本日は新潟市美術館で開催されているオディロン・ルドン展に出かける。 本日が最終日なので。

 ルドンの絵は新潟市美術館の常設室にもあるが、本格的な彼の展覧会は私としても初めてである。

 彼の交友関係や絵の師匠、時代を追っての作風の変化などがよく分かるようになっている展覧会で勉強になる。 私としては前半生のモノクロ主体の絵画よりも、晩年の色彩を駆使した絵画のほうが好ましかった。 特にオフィーリア(ハムレットの)を描いた絵は、深い青色が印象的で、お金があったら買いたいところだったが(笑)。 それ以外の色彩画でも、青色の使い方に特徴があると思われた。

 オフィーリアの絵は絵葉書が売店にあったので購入したのだが、これが原画の見事な青い色が全然出ていないのである。 何とかならないの? ネット上で探したら下記(↓)のものがあったけど、やはり原画の青色は出ていない。 オリジナルはこんなに黒っぽくないんだよ。 困るねえ。

 なお、それ以外に、オーディオガイドが美術館入口近くの売店で貸し出すようになっているのが難点。 ルドン展自体の入口はもう少し奥のほうにあるのだが。 ふつう、オーディオガイドって、建物の入口じゃなく、美術展がここから始まりますよという場所の入口で借りるものでしょう。 いちおう、チケットを買うときに係員から注意があるのだが、こちらは売店の位置なんか気にしていないから、美術展の入口に来て初めて事の次第を知ることになる。 何とかしてください。

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12月21日(土)   *りゅーとぴあのオルガン・クリスマスコンサート

 本日は午後3時から標記の演奏会に出かけた。

 午前中映画を見、その後県立図書館で本を読んで2時半頃図書館を出たが、途中の跨線橋が工事中で片側一車線ずつしか通れず渋滞。 開演5分前にどうにかホールへ。 それにしても、師走と言われる忙しい、従って道路も混みそうな時期なのに何で工事なんかやるのかなあ。 もしかして地元土建業者の餅代かな。

 ホール内はまあまあの入り。 1階は半分くらい、2階正面Cブロックはほぼ満席。 B・Dブロックと3階正面Iブロックもほどほど入っていた。 値段の安い場所はしっかりと埋まっていたよう。 私は珍しくS席で、Iブロック1列目。 といってもNパックメイト価格2700円だけど。

  N・ゲーゼ: 「主を讃美せよ」の主題による祝祭前奏曲(オルガン、トランペット、トロンボーン)
  パッヘルベル: 高き天より我は来たれり
  バッハ: 甘き喜びのうちにBWV729
       主よ、人の望みの喜びよBWV147
       トッカータとフーガニ短調BWV565
       目覚めよと呼ぶ声がしてBWV645(オルガン、金管五重奏)
  A・アダン: オー・ホーリー・ナイト
  チャイコフスキー: 「くるみ割り人形」 より ”花のワルツ” (オルガン、金管五重奏)
  (休憩)
  金澤恵之(編): クリスマス・メドレー (金管五重奏)
  メシアン: 「主の降誕」 より ”羊飼いたち”
  ヴィエルヌ: オルガン交響曲第3番よりフィナーレ
  フランク: 天使の糧 (オルガン、ホルン、フリューゲルホルン)
  讃美歌 ものびとこぞりて〜牧人ひつじを〜荒野の果てに〜いざ歌え、いざ祝え〜神のみ子はこよいも〜聞け、天使の歌(オルガン、金管五重奏)
  ヘンダーソン(編): ザ・セインツ・ハレルヤ (ヘンデル「ハレルヤ」、「聖者の行進」)(金管五重奏)
  (アンコール)
  「きよしこの夜」 (オルガン、金管五重奏)
   〔曲名の最後に何も記されていないのはオルガン独奏〕

 さて、りゅーとぴあ恒例のオルガン・クリスマス・コンサートも年ごとに趣向を変えているが、今年は専属オルガニスト山本真希さんに加え、金管五重奏 「バズ・ファイブ」 を迎えての演奏。 この団体は解説によると、東京芸大で金管を学んだ同級生5人で結成されており、トランペット2人 (うち1人はフリューゲル・ホルン持ち替え)、ホルン、トロンボーン、チューバからなっている。 このうち一番でかいチューバのみ女性。

 オルガンと金管楽器って案外合うのだね。 その意味で悪くない演奏会だったが、どちらかというと淡々と進行し、ちょっと地味目な印象もあった。 何か途中で、例えば演奏者の服装だとか、少し変化をつけるような工夫も必要だったのではないかと思う。 光の使い方も、通してとは言わないけど、曲によっては思い切り派手な効果を狙ってもよかったのでは。 ホワイエではワインも売られていたようだが、クルマの私は飲めず。 代わりに今夜はワインで晩酌しようかな。

 音楽面では、私としてはやはりオルガンの技巧と音色の多彩さを存分に活かしたヴィエルヌの交響曲に満足感を覚えた。

 これで今年の音楽会は聴き納め。 次の予定は来年の1月も下旬近く。 しばらくはCDやFMなどで耳を暖めるしかなさそう。

 

12月19日(木)   *最近聴いたCD

 *ルイ・ヴィエルヌ: オルガン幻想小曲集・その1 op.51 & 54 (Carus、83.250、2008年録音、ドイツ盤)

  主として20世紀前半に活躍したフランスのオルガニスト兼作曲家のヴィエルヌ(1870〜1937)。 彼の曲では6曲のオルガン交響曲が比較的よく知られているし、この欄でもディスクを紹介したことがあるが、これは幻想小曲集と題された作品51と54のそれぞれ6曲ずつを収録したディスクである。 彼は作品50番台で同様の小曲集を計4つ発表しており、どれも6曲の小曲が含まれているから、つまり合計で24曲になるわけで、このディスクはそのうち半分を収録していることになる。
  小曲ひとつひとつにはタイトルが付いており、作品51では順に、プレリュード、アンダンティーノ、カプリース、インテルメッツォ、レクイエム・エテルナム、マルシュ・ニュプシャル(結婚行進曲)となっている。 つまり、レクイエムもあれば結婚行進曲もあるわけで、多彩な内容を持っていることになる。 作品54では、デディカス(献呈)、アンプロンプチュ(即興曲)、エトワール・デュ・ソワール(夕べの星)、ファントム(幽霊)、シュル・ル・ラン(ライン河のほとり)、カリヨン・ド・ウェストミンスター(ウェストミンスター寺院の鐘)の6曲である。 こちらのほうが表題性が強い。
  解説を読むと、オルガン音楽における即興演奏の重要性を強調しており、H・シャイデマン、J・A・ラインケン、ブクステフーデ、そして大バッハらバロック期の巨匠たちがその方面で天才的な能力に恵まれていたことは言うまでもないが、19世紀と20世紀のフランス・オルガン音楽の重要性もそれに劣らず、デュウルフレやヴィエルヌの即興演奏は、即興であるが故に後世に伝わらないものが多いけれども、楽譜に記されて今に残っている曲からも即興性はうかがいしることができるのだ、と述べられている。
  上述の、レクイエムと題された作品51の5は、作曲者の兄弟のエドゥアールの死に際して書かれたものだという。 作品54の最後を飾る 「ウェストミンスター寺院の鐘」 は、一般にもよく知られた、帰宅をうながすときに用いられるメロディーが使われている。 全体を通して聴いてみての印象だが、現代音楽風になることは避けられているけれど、かといって民衆的な素朴さに浸るのでもなく、オルガン音楽としてぎりぎり20世紀的な内実を追求しているんじゃないかと思われた。
  オルガン奏者はKay Johannsenで、ドイツ民族財団とブルーノ・ワルター記念財団(ニューヨーク)の奨学生として教会音楽を学び、その後フライブルクとボストンでオルガンと指揮を勉強した。 現在はシュトットガルトの教会オルガニスト兼シュトットガルト聖歌隊の指揮者で、このディスクではドレスデンの聖母教会のオルガンを用いている。 解説はドイツ語・英語・フランス語で付いている。 一昨年末、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんの閉店割引セールにて購入 (コンチェルトさんは諸般の事情で現在もやっています)。 

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12月18日(木)    *日系米国人のトンデモ・・・・バカにつける薬はない

 昨日は毎日新聞をほめたのだが、本日の毎日新聞にはトンデモな記事が載っていた。

 「発言 海外から」という欄に載った、日系人キャシー・マサオカなる人の 「米国の慰安婦碑に賛同」 という見解である。

 最近、アメリカでは韓国人のロビー活動などで第二次大戦中のいわゆる従軍慰安婦像を設置する運動が盛んになっており、実際にできてしまった像もある。

 周知のように、問題が多い河野洋平のいわゆる河野談話によって、従軍慰安婦は軍に強制連行された女性だったという説がまかり通るようになった。 この談話がきわめてずさんなものだったことは、最近も産経新聞の記事などによって明らかにされている。

 戦時中の売春婦、というなら、別に朝鮮半島の女性だけがなったわけではない。 そもそも戦後もアメリカ軍は日本に駐留していてパンパンと称された日本女性の売春婦を用いていた。 戦前戦中には売春は合法的だった地域が多い。 つまり、売春婦を使った、というだけでは罪にならないのだ。 問題は国家や軍がその意思のない女性を強制的に売春婦にしたのかという点で、現在、日本国や日本軍がそうした犯罪を犯したという確実な証拠は挙がっていない。

 にも関わらず、韓国は根拠のない慰安婦像を自国のみならずアメリカにまで作らせる運動に奔走している。 当然日系人ならそういう運動を批判するのかと思いきや、これがまったく逆なのである。 

 このキャシー・マサオカという女性は、「公民権と補償を求めるニッケイ」 代表、なのだそうだが、ここでは日系アメリカ人が戦時中に収容所送りにされたことに対する補償を勝ち取ったという事実から始めている。

 そしてその運動の中で、在日コリアンや米国内のアジア系団体、アメリカ先住民と連帯すべきだということを学んだと、この女性は書いている。

 連帯するのは勝手だが、史実でないことにどうして加担する必要があるのだろう。 この女性は、ならば犯罪者もマイノリティだからという理由で、その犯罪の内実も見ずに勝手に連帯するのだろうか。

 この人はこう書いている。 「慰安婦問題を巡る史実で論争があることは承知している。 だからこそ元慰安婦の女性の声に耳を傾けたい。」

 あのねー、あなたは一方の声だけしか聞かないのですか。 裁判だって、一方の証言だけでことが決まるなんてことはないよ。 慰安婦強制連行が事実ではないとする文献はたくさん出ている。 それをあなたは読んだのだろうか? この文章を読む限り、肉声なら本物、書物は贋物と思い込んでいるみたいだね。 (本を読むのが不得手なだけかも知れないけど。)

 ちなみに、日系アメリカ人の戦時中の強制収容所送りだって、別に日系人の証言だけで事実と決まったわけじゃないでしょう。 そのくらいのことが分からないんじゃ、知性のかけらもないと言われても仕方がないんじゃない?

 バカにつける薬はない、と林達夫は言ったけど、本当にそのとおりだね、こりゃ。 敵は本能寺にあり。 日本人って、知性のかけらもない民族かも知れないなあ、とこの日系人の発言を読むとしみじみ思えてしまいます。

 

12月17日(火)   *恵まれない子供に対する社会的対策は急務

 毎日新聞は、13日に紹介したフランスの少子化対策特集だけでなく、今月13日から本日まで社会面に5回連続で「漂流チルドレン」という連載特集を組んだ。 親からの虐待やネグレクトに悩む子供が少なくない。 しかも日本ではそういう子供たちに対する社会的なセイフティネットワークが充実しているとはとても言えない現状を分からせてくれる記事である。 毎日新聞、がんばってますね。

 この記事を読むと、親の貧乏や怠惰によって、子供も負のスパイラルに入り込み、満足に学校も出ずに社会の底辺にいつ続けけなくてはならない状況がよく分かる。 

 中には勉学意欲がある子供もいるが、生活保護を受けていると大学進学はできないのが日本の現状らしい。 同世代の半数が大学に進むという世の中なのに、である。

 子供に社会としてカネをかけよ。 政治家は何とかしてもらいたいものだ。 子供がちゃんと育てば、負のスパイラルから抜け出し、彼らが大人になって子供を作ってちゃんと育てるなら、次世代が健全に成長していく。 負ではなく正のスパイラルを作りたいものだ。

 なお、この連載記事は下記URLから読めますが、会員登録が必要です。

 http://mainichi.jp/shimen/news/20131213ddm041040041000c.html 

 

12月15日(日)   *贈り物に大豆加工某食品はご勘弁を・・・・・きわめて私的な話ですみません

 日ごろ、人付き合いが悪いので、贈り物をしたりもらったりすることは少ない私。 しかし先日、今年或る仕事でお世話になった首都圏在住の人に新潟の銘酒を送ったら、そのお返しということなのか、本日或る物が送られてきた。

 原料が大豆である食品。 といっても豆腐や油揚げじゃないですよ。 大豆が原形をとどめているアレである。

 アレを贈答品にするって、あんまり聞いたことがないんだが、今回はどういうわけかアレが送られてきてしまったのである。 が・・・・私はアレが不得手なのである。 はっきり言うと、大嫌いで絶対食べないし、臭いだけでも逃げ出すというくらいなのだ。

 仕方がないので、たまたま娘の友人に一家そろってアレが大好きという人がいたので、まとめてプレゼントすることに。

 アレを贈り物にする人は稀だとは思うけど、奇特にも私にプレゼントをしたいという方がおられましたら、アレだけは避けて下さい。 よろしくお願いします。 とほほ・・・・

 

12月14日(土)   *新潟大学管弦楽団第50回記念定期演奏会

 本日は午後6時30分からの標記の演奏会に出かけた。 このところ本格的に冬めいてきた新潟。 この日も風が強く、雪も舞っている。

 県立図書館で本を読んでその後行く予定だったが、うっかり県立図書館は平日は午後7時までだけど土日は午後5時までなのを忘れていた。 それで少し早めの午後5時前に図書館を出てりゅーとぴあへ。 開演まで1時間以上ある時刻に着いたせいか駐車場は空いている。 ついでなので1月のベルリンフィル八重奏団演奏会のチケットを買い、ロビーの椅子にすわって読書をしているうちに行列が延びてきて、開場。

 3階Hブロックの1列目右端(つまり一番舞台に近いところ)にすわる。 客の入りはまあまあ。 1階は前のほうの端っこを除いてほぼ埋まっていたし、Cブロックは満席、3階正面のIブロックもほぼ満席。 2階のB・Dブロックと3階のH・Jブロックもまずまずの入り。

 しかし、2階Dブロックの中央部分の座席は紐を張って客が入れないようになっていた。 どうしてかな、と首をかしげたが、間もなくその理由が判明。 最初の曲で、金管奏者10人がこの位置から演奏するのである。

 指揮=河地良智、コンマス=山田恵、オルガン=山本真希

 ショスタコーヴィチ: 祝典序曲 op.96
 エルガー: 創作主題による変奏曲 「エニグマ(謎)」 op.36
 (休憩)
 ショスタコーヴィチ: 交響曲第5番ニ短調 op.47
 (アンコール)
 ワーグナー: 「ローエングリン」 より ”エルザの大聖堂への入場”

 最初のは知らない曲だったが、ショスタコにしては明るく景気のいい曲調で、Dブロックに位置したホルン・トランペット・トロンボーン合計10人の奏者も威勢のいい演奏で、好調な滑り出しという印象。

 学生オケは年ごとに団員の数に増減があり、年によっては弦楽器奏者が少なめかなと思える場合もあるけれど、今回はまずコントラバスが10人もいるのが目を惹き、最後の交響曲では第一ヴァイオリンが18人、チェロも12人と、大所帯で迫力ある演奏を聴かせてくれた。

 第二曲のエルガーも、悪くない演奏だった。 目立ったミスはなかったが、やはりこの曲は細部の練りが大事なので、いっそうの精進を期待したいと思う。 と、偉そうなことを書いたけど、山本真希さんがオルガン席にいるのに気づき、あれ、この曲ってオルガン入っていたっけと思う程度の人間が私なので、気にしないように(笑)。

 後半、ショスタコの5番は、熱の籠もった、そして質も高い、いい演奏であった。 第4楽書の出だしで金管が吠えるところも痛快だったが、第3楽章でもフルートなど木管勢が健闘していていい音色を出していた。 アマチュア楽団として、かなりのレベルまで行ったのではないだろうか。

 今年はワーグナーの生誕200周年ということで、アンコールにはワーグナーが。 ここでも最後に山本さんのオルガンが入った。 りゅーとぴあの専属オルガニストと学生オケがこうして共演して見事な成果を挙げているのを見るのは、本当にいいものである。 今後も同様の試みがなされることを期待したいもの。 

 新大オケも定演が今回で50回。 定演は12月のみで、夏のコンサートはサマーコンサートとして別に数えているので、実質的にはもっと回数は多いことになろう。 今後のさらなる発展を、またこの後予定されているという東京公演の成功も祈願しております。

 

12月13日(金)   *フランスの少子化対策は役に立つか?

 毎日新聞が今週火曜日 (10日) から家庭欄 (正式には 「くらしナビ ライフスタイル」) でフランスの少子化対策を4回連続で特集した。

 少子化対策も難しくて、こうやれば絶対というものはないけれど、とにかく子供を持つ人の金銭的負担を軽くしてやることは最低の条件だということは、私もこの欄で何度か力説してきた。

 この特集によると、フランスの子供手当ては子供2人いる家庭で約18000円(128,6ユーロ)だからさほど多くはないが、子供3人になると約41000円となり、4人以上は1人増えるごとに約23000円加算されるという。 また子供が3人以上いる家庭には大家族カードが支給され、国鉄の運賃は家族全員が3割引、子供6人以上なら75%割引だという。 このほか、大家族カードで割引になるスーパーマーケットやホテルもあるという。 また、子供が公立学校に通えば学費は大学までほとんどかからない。 ここら辺が日本と違うところだ。

 また、フランスの家族政策予算の対GDP比は3,8%で、日本の1%に比べると格段に多い。

 また保育学校や保育ママの制度についても紹介されている。

 もっとも婚外子が多いというあたりは、そのまま日本に当てはめられるかどうかは微妙。 日本では結婚しないで子供を生むケースはきわめて少ない。 これを、単に日本人の意識の遅れと言っていいかどうか、簡単には決められない。 フランスでは婚外子が多くても家族が大切にされているなどという中島さおりの発言も紹介されているけれど、英国は婚外子が多いことにかなり問題があるのではないか。 単純に絶対こうとは決め付けられないだろう。 日本なら、下流の若者が社会的な能力や収入も十分でないままにくっついて子供ができちゃうケースが増える恐れだってある。

 いずれにせよ、生まれた子供に対する社会的給付は大幅に増やす、という基本的な方針すらあやしい日本。 まずその辺は急いで体制を整えないとね。

 なお、この連載記事は下記のURLから読めますが、会員登録が必要です。

 http://mainichi.jp/shimen/news/20131210ddm013100107000c.html 

 

12月12日(木)   *寄付――ユニセフ、国境なき医師団

 ボーナスも出たので、本日、ユニセフと国境なき医師団とにわずかながら寄付をしました。 (なぜわざわざ自分の寄付行為について書くかは、2005年7月29日の記述をごらんください。)   

 

12月7日(土)   *アトリウム弦楽四重奏団 ショスタコーヴィチ・マラソンコンサート

 本日は標記の演奏会に出かけた。 ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を一日で全曲演奏するというきわめて稀な企画である。 番号順に3曲ずつ、全5セッションに分けられている。 第1セッションは午前11時開始。 場所はりゅーとぴあのコンサートホール。

 といっても、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲は、というかショスタコの曲そのものがあまり好きではない私は全曲聴こうという気にはならず、軟弱にも1回券を購入。 結局、最後の第5セッションで第13〜15番のみを聴くことにした。

 実は今回の演奏会を聴くに当たって、少し前からショスタコの弦楽四重奏曲全集のディスクを聴き直してみたのである。 フィッツウィリアム四重奏団による演奏であるが、昔買って1回聴いただけで放置状態だったものを、それぞれ通しで何度か聴いてみた。 その結果、最後の2曲、つまり第14番と15番はなんとか聴けるなと思うに至ったので、最後の第5セッションだけ聴きにいったというわけである。

 第5セッションは午後8時20分に開演。 開場はその15分ほど前。 率直なところ、この企画は破天荒だけど、どの程度客が来るものかと疑問を抱いていた。 しかし、開場前の行列は結構長いのである。 しかも、私の前の数人はいずれも通し券で入っていく。 私のような一回券では肩身が狭い(笑)。 客が入るのは1階席だけであるが、おそらく100人くらいいたのではないか。 私はせいぜい30人くらいじゃないのと予想していたので、意外や意外。 市外や県外からの方もおられたかも知れないが、へえ、ショスタコの弦楽四重奏曲を聴く人ってこんなにいたのかと驚いた。 私は11列目の中央やや右寄りにすわる。

 アトリウム四重奏団は、パンフの解説によるとサンクト・ペテルブルグ音楽院の同級生で、2003年に卒業し、その年のロンドン国際弦楽四重奏コンクールで第一位、聴衆賞をとっている。 その後、07年にボルドー弦楽四重奏コンクールでも優勝。

 だから現在三十代前半くらいの年齢であろうか。 その若さがあるからこそ、こんなコンサートもできるのだろう。 配置は、左から第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの順。 チェロのアンナ・ゴレロヴァのみ女性。 舞台に登場した彼女を見ると、容姿も悪くない。 しかしロシア女性らしくと言うべきか、背は高いし骨格もがっちりしている。 体力ありそう。

 聴いてみて、奏者が全員しっかりとした音を持っており、よく音が通るのに感心した。 第一ヴァイオリンが艶のある美しい音色を聴かせる一方で、第二はそれを支えるように堅実な響きを出しているし、ヴィオラとチェロも朗々たる響きで聴衆を魅了。 ショスタコの弦楽四重奏曲ではヴィオラとチェロもかなり重要な役割を果たすので、4人がそれぞれに安定した力量を持っている四重奏団でないと充実した演奏はできない。 その意味で、この団体はショスタコ向きなのかも知れない。

 マラソン・コンサートの最後のセッションなので、疲労でミスが出るのではと恐れていたのだが、そういうこともなく、しっかりと弾いていた。 お目当ての第14番と第15番では、どこをどの奏者が弾いているのかはっきりと分かるので、ディスクで聴くのとは異なった感銘があった。

 第15番では、客席だけではなく舞台も暗くして、オペラのオーケストラピットで使われるような譜面台用の灯りを各自用いて楽譜を見ていた。 これ、最後の曲だからという独自の趣向なんだろうか。 配布されたパンフの解説 (大木正純氏による) にも、また後で調べたが音楽之友社の 『名曲解説全集』 にも、何も書かれていない。

 演奏会終了後はサイン会まであった。 疲れているだろうに、サーヴィス精神満点! 1回券で入った私はサインをもらうのも申し訳ないような気がしたのだが、チェロのアンナ・ゴレロヴァを至近距離から見てみたいというよこしまな気持ちから、サインをもらってしまった。 すみません(汗)。

 

12月4日(水)  *山田昌弘先生、ちょっと違うんじゃないですか――婚外子への相続差別は格差社会と同根なのか?

 山田昌弘・中央大教授は、言うまでもなく 「パラサイトシングル」 という概念を普及させた社会学者である。 その発言には私も教えられるところが多く、敬意を払っている。

 しかるに、本日の毎日新聞に掲載された 「私の社会保障論   機会均等で社会に活力 婚外子の相続格差解消」 という文章は、氏には珍しく感心できないものであった。

 内容は、タイトルから想像がつくように、9月に最高裁で婚外子に対する相続を嫡子の2分の1とする民法の規定が憲法違反だという判決が下されたことを評価したものである。

 この判決については、左派の新聞では当然だとする意見が大半を占めているけれど、産経新聞のような保守派の新聞では異論もかなり紙上に載っている。 男女の結婚というものがそもそも配偶者同士の独占的な特権を前提とするものである以上 (例えば配偶者が亡くなれば残された夫か妻は遺産の半分を原則として相続する)、結婚から生まれた子供とそうでない子供に差ができるのは当然なのであり、それを否定すれば結局は結婚という制度を否定することにつながる、というのである。

 左派の新聞はこの問題のそういう側面には触れず、単に嫡子と婚外子に差別があるのはいけない、という論点だけに絞っている場合が多い。 その際、子供は親を選べない、という論調が使われやすい。

 私は婚外子への相続差別がいいか悪いかについては、実は考えがまとまっていない。 左派の主張にも保守派の主張にも一理あるので、どちらを取っても不備が残るような気がするからである。

 しかし、はっきり言えることがある。 子供は親を選べないから婚外子に対する相続差別はおかしい、という論理はそれこそおかしい、ということだ。 私が山田教授の今回の発言に強い違和感を覚えるのは、そこのところなのである。

 今回の毎日新聞での山田教授の主張は、婚外子への相続差別は近代社会の機会均等に反する、子供は機会均等であってこそ自由で公平な競争が生まれて社会に活力が生まれる、というものだ。 そして山田教授は、そうした不公平な社会は少子化にもつながるとすら述べている。

 飛躍が多いと思う。 格差が大きい社会は少子化につながるのであろうか。 統計的にそういう結論が出ているのか。 この辺の山田教授の論の進め方は、氏に似合わず不用意ではないだろうか。

 しかしそれにも増して疑問を覚えるのは、婚外子への相続差別の問題を、機会均等の問題に直結させる山田教授の短絡的な思考なのである。 子は親を選べない――それはその通りである。 しかし、それを言うなら、別に嫡子と婚外子に問題を限る必要はないはずだ。 嫡子であっても貧乏な親のもとに生まれる子供もいれば、婚外子であっても裕福な親のもとに生まれる子供もいる。 資産が10億円ある親のもとに生まれた婚外子と、資産ゼロの親の家に生まれた嫡子のどちらが経済的に恵まれているかは言うまでもない。 

 世の中の格差と称するものの大半はそういう差、つまりどの程度資産を持っている家に生まれかに拠っている。 別に婚外子を持ち出す必要はない。

 そもそも、婚外子が相続で嫡子に対して不公平だとして裁判に訴えることがあるとすれば、それ相応の財産相続が見込まれる場合であろう。 親が金持ちだからこそ、婚外子は差別を痛感するのだ。 これが、資産ゼロ、もしくはそれに近い親であれば、裁判沙汰にすらなるまい。 いったい、裁判をしてまで相続分を争うほどの裕福な親を持つ子供が、世にどの程度いるだろうか。 山田氏にはその程度のことが頭に浮かばないのであろうか。

 氏が問題にすべきは、したがって裕福な父を持つ嫡子と婚外子の争いではないはずだ。 「子は親は選べない」 という言い回しは、金持ちな親や貧乏な親を選ぶことはできないという言い方をしてこそ、本来的な社会格差の問題に通じるはずなのである。

 これは、先日新聞に載って話題になった医院での新生児取り違え事件を見ても分かることである。 61歳になる男性 (私と同じ年齢だ) が、生まれたときに医院で取り違えられて実の親ではない人に育てられたとして、医院に損害賠償を求めて勝訴した事件である。

 この場合、本来その男性が育つべき家庭は裕福で、そこに育った (取り違えられた子を含めて) 4人の男子はみな大学や大学院に進学してそれ相応の職に就いていた。 それに対して訴えを起こした男性は、家電製品もない貧しい家庭で育てられ、中卒で就職し、自分で働いたカネでかろうじて定時制高校を卒業し、トラック運転手になった。 本来は裕福な家の子供だったのに、取り違えられたばかりに極貧と言っていい家庭で育てられてしまった。

 まるで小説のような話だが、ではこのニュースは取り違えという悲劇にのみ問題が含まれているのだろうか。 そうではあるまい。 仮に取り違えがなかったとしても、貧しいほうの家庭に育てられた子供は全日制高校に進学できなかったであろう。 今回の取り違え事件とは、そういう格差のありかを痛感させてくれる事件でもあったのである。 山田教授が格差の例として取り上げるべきは、こちらの事件であった。

 社会学者が的外れの材料をもとに格差を是正せよと訴えるようでは、日本の格差是正は道のりが遠いなと思わざるを得ないのである。

 

11月30日(土)   *最近聴いたCD

 *モーツァルト: 教会ソナタ全集 (MDG 605 0298-2、1987年録音、ドイツ盤)

 教会ソナタと称されるモーツァルトの曲全17曲を集めたディスクである。 教会ソナタと言われはいるけれど、解説によると必ずしも成立事情などが明確ではないらしい。 たしかに、どの曲も荘重とは言いがたく、ディヴェルティメントみたいな、いかにものモーツァルト調であって、バッハの曲とは異なり、なるほど教会で演奏するのにふさわしい曲だなという感じはしない。 だから解説も、あんまり教会での使用ということにこだわらずに、それぞれの曲の魅力に従って聴いていけばいいのだ、としている。 私はオルガン曲だからというので購入してみたのだが、そしていちおう全曲にオルガンが使われてはいるのだが、初期の作品の場合はオルガンを入れて演奏するのが正しいのかどうかもよく分からないと解説には書かれている。 また、オルガンが使われていても他の楽器との合奏であり、必ずしもオルガンが前面には出ておらず、目立たない音を出すに終始している曲もある。 オルガン・ファンよりはモーツァルト・ファンのためのディスクであろう。  オルガン独奏はエリーザベト・ウルマン、指揮はパウル・アンゲラー、演奏はコンキリウム・ムジクム・ウィーン。 解説は英語・仏語・独語で付いている。 今年9月に上京した際に新宿のディスクユニオンにて購入。 

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11月26日(火)   *ドイツの文芸評論家マルセル・ライヒ=ラニツキ死去

 2ヵ月も遅れた情報で済みません。 ドイツの有名な文芸評論家マルセル・ライヒ=ラニツキが、この9月に死去したということを、本日、ドイツの週刊誌 ”Der Spiegel” の9月21日号を読んでいて知った。 満93歳。

 ライヒ=ラニツキは日本での知名度はさほどではないが、ドイツでは高名で、「文学の教皇」 などと呼ばれ、テレビの文芸番組などにもしばしば登場していた。 しかし日本で訃報を掲載したのは日経新聞だけだったらしい。

 数は少ないが、彼の著書は邦訳も出ている。 自伝も訳されている。 『わがユダヤ・ドイツ・ポーランド マルセル・ライヒ=ラニツキ自伝』 (西川賢一訳、柏書房)

 彼には 『トーマス・マンとその家族親族 Thomas Mann und die Seinen』 という著書もあって、結構面白くマンに興味のある人にはお薦めなのだが、残念ながら邦訳は出ていない。 私が訳してもいいのだけれど、ドイツ文学関係書は売れないので、先立つものがないと本にならないのです。 だれか、お金を出してもいいという奇特な方はおられませんか(笑)?

 

11月24日(日)    *読売日本交響楽団第160回東京芸術劇場マチネーシリーズ    

 上京して4つめの、そして最後の演奏会。 新潟に帰る日の午後2時から聴く。

 会場ではぶりちょふさんにお会いすることができた。 座席も近くで、お世話になりました。

 舞台の右上の座席で、椅子は横向きだがちょうど指揮者や独奏ピアノが正面に来るくらいの位置。 Aランク、5000円。

  指揮=上岡敏之、ピアノ独奏=デジュー・ラーンキ、コンマス=デヴィッド・ノーラン(ゲスト)

  ブラームス: ピアノ協奏曲第2番
  (休憩)
  ブラームス: 交響曲第3番

 上京する直前にも同じブラームスのピアノ協奏曲第2番を東響と白建宇の演奏で聴いているし、上京したその日にはエレーヌ・グリモーの演奏でブラームスの一番のほうのピアノ協奏曲を聴いており、何だか最近ブラームスづいているのだ。

 ラーンキは、若い頃に新潟の音楽文化会館でリサイタルを聴き、その後ずいぶんブランクがあって、最近東響新潟定期にも登場しているのでそこで聴く機会はあった。 しかしブラームスの協奏曲では初めてである。

 ラーンキの演奏だが、私のイメージしているこの曲の弾き方をそのままやってくれたような感じであった。 白建宇は弾いていてテンポを自在に揺らすのでオケがついていくのに苦労していたが、ラーンキはそういうことはなくほぼ一定のテンポで弾き、オケともよく合っていた。 また第二楽章は速めのテンポで (1パッセージだけ音がはずれた箇所があったようでしたが) 押し切っていて、これも私がこの楽章に抱いているイメージどおりであった。

 ラーンキというと昔はハンサムなピアニストというので若い日本女性に絶大な人気を誇っており、そのイメージがあるせいかピアノをガンガン鳴らす印象はなかったのだけれど、今回ブラームスの第二協奏曲を弾いているのを聴くと、鍵を強打すべきところでは結構大きな音が出ており、またこれまたエレーヌ・グリモーとは違って音がくっきりとした粒になっていて耳に心地よいのである。

 (今ではラーンキも髪が真っ白になったけれど、それでも往年の印象が残っていて、若く見える。 1951年生まれで私より1歳年上なのだが〔笑〕。 読響のプログラムには、今月別の演奏会でブラームスの第一ピアノ協奏曲を弾くゲルハルト・オピッツの紹介もラーンキと並んで載っていたが、イメージで言うとオピッツのほうが年上の感じがする。 でも実際はオピッツは1953年生まれで、ラーンキより2歳、私より1歳年下なのである。)

 座席の位置が2階で舞台のすぐ脇なので、音はどうかなと案じていたが、これが結構クリアで、ピアノもちょうどピアニストと180度逆の位置から見えるところだったが鮮烈に聞こえ、オケも特に管楽器の音は鮮明であった。 りゅーとぴあだと2階の舞台すぐ脇の席は音が籠もるような感じで、同じBランクなら (私の定席である) 3階GブロックやTomoさんのKブロックのほうがはるかにいい音で聴くことができるけれど、東京芸術劇場はかなり違うようで、この位置の席は悪くないなと思った。 りゅーとぴあと違って3階がかぶっていないせいかも知れない。

 後半は交響曲第3番。 この曲は一般には第三楽章がメロディアスで映画音楽にも使われていて有名だが、内容的には最初と最後の楽章に重点が置かれているように思う。 上岡さんの指揮も基本的にそういう方向でなされていたように感じた。 逆に言うと中間の二つの楽章はやや印象が薄かったかな。

 演奏会終了後、ぶりちょふさんと別れて、銀座で映画を1本見てから新潟に帰る。

 

11月23日(土)    *ミシェル・ダルベルト シューベルト後期三大ソナタを弾く    

 今回上京して3つめの演奏会。 土曜日(祝日でもある)の午後3時から銀座の王子ホールで行われた。

 王子ホールは私は初めて。 有楽町駅からだと三越銀座店の一区画向こう側の王子製紙ビルの中にある。 三百席くらいの、リサイタルにちょうどいい大きさ。 内部は、過ぎない程度に古典的な装飾もほどこしてあり、モダンな感じのオペラシティ・リサイタルホールとはずいぶん雰囲気が異なる。

 今回は上京の日程が決まってからチケットを買うつもりになったので、何しろ名のあるピアニストが三百席しかないホールでやるリサイタルだから正規チケットはとうに売り切れており、やむを得ずヤフオクに出ていたチケットを割高を承知で落札した。 定価7000円のところ9500円で入手。 座席の位置は右寄り中程でちょうどいいくらいである。

 オール・シューベルト・プログラム
  3つのピアノ曲 D946
  ピアノソナタ ハ短調 D958
  (休憩20分)
  ピアノソナタ イ長調 D959
  (休憩10分)
  ピアノソナタ 変ロ長調 D960

 舞台にはベヒシュタイン・ピアノ。 スタインウェイが多い日本では珍しい。

 ダルベルトはグレイのスーツ姿で登場。 ロマンスグレイの髪に端正な顔立ち。 現在58歳だそうだが、俳優にしてもよさそうな感じで、おばさんばかりでなく若い女性からもモテそう。 実際、この演奏会では私と同じ並びの3つ右側にすわっていた若い女性が、曲が終わるたびに大きな声で 「ブラボー!」 と叫んでいた。 熱心なファンなのだろう。

 さて、演奏であるが、非常に知的でよく計算された演奏という印象であった。 もちろんシューベルトの曲にこめられた様々な感情をすくい上げるだけの感性はしっかりと備わっているのだが、刹那的な気分や感覚に溺れることなく、絶えず全体の統制や釣り合いを考えているような弾き方。 また、アーティキュレーションが少しフランス的というのか、ドイツ系のピアニストが弾くのとは微妙に違う気がした。 さらに、やはりヨーロッパ人男性だけあって、鍵を強打するとしっかりとした音が出る。 この辺、やはりエレーヌ・グリモーとは差があるのだ。

 ベヒシュタインの音であるが、ピアノの音は同じ楽器でも弾き手やホール、同じホール内でも座席の位置により異なるので一概には言えないかと思うけど、スタインウェイに比べるとかすかに金属的で、またスタインウェイだと低音のときに音の粒がかなり大きく感じられて高音の場合と差があるように思うのだが、ベヒシュタインは高音と低音の音の粒の大きさに差が少ないように感じた。

 この演奏会は午後3時に始まったが、実はこの日、私は東京駅で友人と午後6時に会う約束をしていたのである。 2時間半あれば演奏会は (少なくとも正規プロは) 終わるだろうと思っていたのが甘かった。 休憩時間が予告よりやや長めだったこともあり、正規プロ最後の変ロ長調ソナタを弾き始めたのが午後5時20分。 こりゃ駄目だ、全部は聴けないなと覚悟を決めた。 そして変ロ長調ソナタの第一楽章が終わったのが5時42分。 残念ながらここで切り上げて、ホールからロビーに出、クロークでコートを受け取り、有楽町駅へと急いだ。 残念無念。 でも、最後まで聴けないと思いながら聴いたせいか、変ロ長調ソナタの第一楽章はことのほか美しく聞こえたのであった。 とほほ・・・。

     *第二の人生とはいうけれど、60歳の再就職はなかなか困難

 といわけで午後6時に東京駅で友人3人と会い、酒を飲む。

 3人とも中高時代の同級生で、したがって昨年度で満60歳を迎えている。 全員首都圏の理系サラリーマンなのであるが、第二の人生はどうなっているのかを聞くことができた。

 このうちN君は小学校も大学も私と同じという腐れ縁であるが (大学の学部は別)、とりあえず同じ会社に勤務し続けることができている。 とはいえ、部署はがらりと変わって、給与も半減、契約は来年3月までなので、その先どうなるのかは分からないと言う。

 O君は小学校も私と同じで、中学時代は学年トップの成績、高校でも学年10位以内をキープして東大理Tに進み、工学部で修士までやった。 というわけでわれわれのなかでは一番の秀才なのであるが、残念ながら今年3月限りで定年退職となったという。 もっとも会社との縁が完全に切れたわけではなく、月に2、3回程度用事で会社に行っているそうであるが、基本的には悠々自適の生活となっている。 しかし、息子さんがこの春、東大理Tに合格したそうで、やはり鷹の子は鷹だと感心したのであるが、いくら自宅通学の国立大生とはいえ、お金はこれからかかるので大変そう。 もっとも奥さんがやはり東大卒で大手出版社勤務なので、とりあえずは大丈夫ということらしい。 

 I君は、昨年のこの時期に会ったときは雇用を延長してもらうことが確定したと言っていたと記憶するが、残念ながら延長は半年だけに終わり、先月、つまり10月限りで定年退職となったそうである。 しかしもともと囲碁や登山、さらにはキリスト教会など、趣味や信仰で付き合いが多い人なので、退職後も多忙な生活を送っているらしい。 息子さんふたりのうち一人は美大中退でフリーターになっているのが心配だが、奥さんはやはり定職に就いているので、とりあえずは大丈夫のようだ。

 こうしてみると、世の中、高齢化にともない企業や公務員の定年延長が叫ばれているけれど、実際にはなかなか厳しい状況のようである。 私は65歳定年なので、まあ恵まれているということなのでしょう。 すみません。

 

11月22日(金)   *ターナー展

 本日の午前中は昨日に引き続き美術展に出かける。 上野の東京都美術館で開催されているターナー展である。

 ターナーというと漱石を思い起こす人も多いだろう。 私もそうで、ターナーという名との最初の出会いは小学生時代に 『坊ちゃん』 を読んだときであった。 しかしそのくせ、ターナーの絵を実際に見る機会はその後ほとんどなかった。 

 日本では西洋美術というと、ルネッサンスを中心とするイタリア、フランドル絵画を中心とするネーデルランド (オランダ・ベルギー)、印象派を中心すとするフランス、といったところがいわば保守本流であろう。 デューラーやK・D・フリードリヒなどのドイツ絵画、ムンクなどの北欧絵画もそれなりに人気はある。 それに対して英国絵画というと、J・E・ミレイや、D・G・ロセッティなど19世紀半ば頃のラファエル前派がある程度市民権を得ている程度で、それ以外の流派はあまり注目されてこなかったように思う。 しかし19世紀前半の英国を代表する彼の画業は西洋美術史の流れを考える上で欠かせないものと言えるだろう。

 その意味で今回のターナー展はまさに待望久しい展覧会である。 そして実際、期待に違わぬ内容であった。

 ターナーといっても時期ごとに画風が異なるが、この展覧会は、理髪店の息子として生まれながらも子供時代からその画才を発揮していた彼の初期から晩年に至るまでをしっかりと跡づけている。

 初期の頃は水彩画が多いが、これは当時の英国では水彩の風景画が好まれたからだそうである。 コンパクトなサイズながら細かいところまでしっかりと描いているのは、画才を裏付けるものであろう。

 その後は油絵も多くなるが、時代ごとに公けに画才を認められたいという欲求を基盤にしつつも、絶えず自分なりの工夫をしながら独自の表現を追及していった様子がよく分かる。 晩年になると必ずしも輪郭がはっきりしない風景画も多くなるのだが、私はここではモネの晩年との共通性を感じずにはいられなかった。 作品が抽象画に近づいているのである。

 とにかく充実した展覧会で、見終えてからカタログを購入しました。 でもこのカタログ、重いんだなあ。 もう少し軽い紙を使ってくださいな。 私は午後から広尾の都立中央図書館に調べ物をしに出かけたのだが、重くて持ち運びに苦労しました。

 なお、この展覧会は東京都美術館では12月18日まで行われたあと、神戸博物館で来年1月11日から4月6日まで開催される。

 http://www.turner2013-14.jp/index.html 

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11月21日(木)      *カイユボット展

 本日は午前中、東京駅八重洲口近くのブリヂストン美術館で開催されている標記の美術展に出かける。

 カイユボットは印象派に属する画家であるが、一般には名はさほど知られていない。 実を言うと私もこの展覧会で初めて知ったのである。

 カイユボットは裕福な家庭に育ち、最初の頃はなかなか売れなくて経済的に苦しい画家が多かった印象派の絵をみずから購入して仲間たちの画業を助けつつ、自分でも絵筆を取った。 他の印象派は自然の風景を描くことが多かったが、カイユボットは都市化が進むパリの景色、或いは裕福な市民階級の暮らしぶりなどをも好んで描いた。

 また、彼が絵で描いた対象は時代により変遷しており、この辺には裕福だったために絵によって生計をたてる必要がなかった彼のディレッタント的な性格が表れているのかもしれない。 そして晩年にはそもそも絵筆をとることすらやめてしまったという。

 彼の活動した19世紀は写真が発明され一般に普及していった時代でもあった。 彼の弟は写真に興味を持ち、パリの街並みなどを好んで撮影した。 この展覧会にはその写真も展示されている。

 印象派と都市、そして写真との関連などを考えさせられる展覧会である。 なおこの美術展は今年の12月29日まで開催されている。

 http://www.bridgestone-museum.gr.jp/blog/caillebotte/ 

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           *ウィーン・ラズモフスキー弦楽四重奏団+日本人ピアニスト3人によるピアノ五重奏曲の夕べ

 この日の夜は、音楽会。 ウィーンの弦楽四重奏団と日本人若手ピアニスト3人の組み合わせでピアノ五重奏曲を3曲、という珍しいプログラムに惹かれて行ってみた。 会場は東京オペラシティ・リサイタルホール。 全席自由で\4500。

 オペラシティのリサイタルホールは、たしかこれで2回目である。 座席数で言うと新潟のだいしホール程度だが、天井が高く舞台が広い。 中程やや右寄りに席をとる。

 ラズモフスキー四重奏団を聴くのは初めてだが、ウィーン放送交響楽団のコンマスや各パートのトップ奏者による四重奏団で、結成は2001年だそうだ。

 日本人若手ピアニスト3人がどういう基準で選ばれたのか私は知らないのだが、主催がソレイユ音楽事務所、後援がオーストリー大使館のほか月刊 『音楽現代』 だそうで、この辺の人脈か何かからなのだろうか。

 パンフレットから略歴を (一部分のみ) 書いておくと――

 大平裕子さんは昭和音大・同大学院卒。 ロシア国立モスクワ音楽院マスタークラス修了、第12回大阪国際コンクール入選。

 浅野涼さんは東大医学部医学科4年在学中。 第11回長江杯国際音楽コンクール第一位。 第12回ショパン国際ピアノコンクール・アジア大会入賞。

 宮野志織さんは都立芸術高校卒業後、渡仏。 パリ国立地方音楽院ピアノ科首席卒業。 現在パリ国立地方音楽院伴奏科、室内学科およびオールネイ音楽院ピアノ科在籍。 日本クラシック音楽コンクール全国大会入選。 レオポルド・ベラン国際コンクール入賞。

 フォーレ: ピアノ五重奏曲第1番op.89 (大平裕子)
 ドヴォルザーク: ピアノ五重奏曲op.81 (浅野涼)
 (休憩)
 シューマン: ピアノ五重奏曲op.44 (宮野志織)

 私の希望、或いは危惧は、日本人若手ピアニストが単に楽譜を間違いなく忠実に弾いているというような域にとどまるのではなく、しっかりと自己主張をしてほしい、ということであった。

 で、最初のフォーレだが、危惧のほうが的中してしまう。 ラズモフスキー弦楽四重奏団のほうの演奏もこの曲で初めて聴いたわけだけど、さすがウィーン放響のトップ奏者たちだけあって達者だなと感心。 音がよく出ているし、単に合わせるだけではなくそれぞれにしっかりとした自己主張をしている。
 ところがピアノの大平さんの演奏はそれと逆。 弾けてはいても、自分なりの何かが出ていない。 音量も控えめで、しばしば弦楽器4人の陰に隠れてしまう。 大平さんは写真でも実物を拝見してもなかなかきれいな方なのだけれど、まるで人形のようにほとんど頭や上半身を動かさず、単に視線が楽譜とピアノの間を往復しているだけ。 演奏も人形のよう。 これ、ちょっとどうかな、と思ってしまう。 たしかに今回の3曲中、フォーレは自己表現が最も難しい曲かも知れない。 しかし弦楽器の4人はちゃんとそれをやっているのである。 ピアノがやらないでどうするのか。 これじゃ、ピアノは弦楽器4人の伴奏に過ぎない。

 前途多難かと思ったが、次のドヴォルザーク、浅野さんの演奏で、おお、良くなったなと安心。 今回のピアニスト3人中唯一の男性。 最初の大平さんは大和ナデシコにふさわしく(?)小柄だったが、浅野さんは横幅はともかく背丈では2人のヴァイオリン奏者と互角。 だからというわけでもないだろうが、音量もそれなりにあるし、自分なりにニュアンスをつけて演奏していて、こうじゃないといけないよな、と安堵の念とともにうなずいたのである。 ただ、少し厳しい言い方をするなら、このくらいの演奏ができないと人前でお金をとって演奏する資格もないわけで、浅野さんにはさらに自分なりの魅力ある音や、ffでのいっそうの迫力などを身につけていって欲しい。 医学の勉強との二足のわらじを履いているので大変ではあろうが、多分多様な才能に恵まれた方なのだろうから、単なる専業ピアニストに出せない何かを追求していただきたい。

 休憩後のシューマン。 宮野さんの演奏だが、ああ、この方は場慣れしているなと思う。 非常に闊達で、4人の弦楽器奏者と渡り合いながら自分なりの表現をしている。 おそらくフランスに何年もいて、あちらの演奏家との共演経験も豊富なのであろう。 見事なシューマンになっていた。 演奏後、第一ヴァイオリンが彼女に話しかけていたのも、多分練習の段階で彼女とはうまく演奏できると分かっていたからではないか。 ともあれ、今後が楽しみなピアニストと言えそうである。

 こういう演奏会、どういう聴衆が来ているのか、ちょっと分からないのだが (音大生とその両親かと思える人たちもいたが)、あんまり拍手に熱心ではない。 最初の演奏はまあそのくらいかも知れないが、ドヴォルザークとシューマンはもう少しちゃんと拍手をして欲しいなと思いながら会場を後にした。

 

11月19日(火)    *見事なスケール感と強い表現意欲――バーミンガム市交響楽団演奏会

 午前中授業をやって、午後から上京。 東京オペラシティホールに直行して、この演奏会を聴く。

 会場は、1階の後ろや3階の正面後ろにはやや空席が目立っていたが、85パーセントくらいは入っていただろう。 私は2階脇席1列目の中央よりやや前くらいの座席。 平土間で言うと前から12列目くらいの並び。 これでS席、\18000。 まあ、ベルリンフィルやウィーンフィルよりは格安だけどね。 パンフは\500だったが、買わず。

 弦楽器の配置は、左から第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ(12)、チェロ(10)、チェロの後ろにコントラバス(7)。 協奏曲の時はチェロが2、コントラバスが1減。 座席の位置の関係でヴァイオリンの数は分からなかったが、ヴィオラが12いたので、おそらく第一16、第二14だったのではないか。

 指揮=アンドリス・ネルソンス、ピアノ独奏=エレーヌ・グリモー

 ベートーヴェン: バレエ音楽 「プロメテウスの創造物」 序曲
 ブラームス: ピアノ協奏曲第1番
 (アンコール)
 ラフマニノフ: 「音の絵」op.33より第2番
 (休憩)
 ブラームス: 交響曲第4番
 (アンコール)
 エルガー: 「朝の歌」

 最初のベートーヴェンが始まると、すぐに 「おっ」 と思う。 とてもゆったりとしたスケールの大きな音楽なのである。 こせこせした感じが全然ない。

 ヴィオラやチェロはわりにお年の楽員が目立つので、演奏前は 「カネがないから腕のいい若手を雇えないのかな」 なんて失礼なことを考えていたのであるが、音が非常によく出ている。 楽員の表現意欲がそのまま音となってこちらに迫ってくるよう。 洗練ということで言えば東響のほうが上かも知れないが、それを越える気迫のようなものがある。 というわけで、最初から 「これは行けそうだ。 評判だけのことはある」 と思ったのである。

 次に協奏曲。 エレーヌ・グリモーは上半身に白っぽい半袖セーターみたいなものを着、下はだぶだぶの銀色スラックスという姿。
 で、演奏なのだが、オーソドックスに弾いていたとは思う。 だけど、直前に東響新潟定期で白建宇のピアノを聴いたばかりの耳には、音が非力に感じられる。 ピアノという楽器の場合、残念ながら 「女の細腕」 には合わない曲というものがある。 ブラームスの協奏曲はその典型であろう。 ホールのせいもあるかと思うが、いくら鍵を強打してもくっくりとした音が出ない。 まとまりのない拡散した音にしかならないのである。 うーん・・・・。 別の曲で聴きたかったな、というのが私の感想だ。 或いは、リサイタルで聴くのがよかったかと。 しかし聴衆は壮大な拍手でアンコールもあった。 ロビーでは彼女のCDが売られていて終演後はサイン会も催されたようだが、買おうという気にはならなかった。

 後半のブラームスの交響曲は、またネルソンスのスケール感のある音楽作りと楽団の表現意欲満点な演奏が楽しめて、大満足。 といって力感だけで押しまくるのではなく、この曲の哀感みたいなものはそれとして巧みに表現しており、このコンビの力量がうかがえる。

アンコール前には、日本語が達者な楽団員から日本語での曲目紹介があり、聴衆も沸いた。 前半と後半とのそれぞれアンコールがあったので、開演が午後7時で終演は9時30分。 満足して帰途についたのであった。

 

11月17日(日)   *東響ロビーコンサート

 本日は東響新潟定期の日。

 私としては珍しく、昼間 (12時30分から) のロビーコンサートにも出かけた。 何しろベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番は、新潟にいるとそうそう実演では聴けないのだから。 りゅーとぴあのコンサートホール・ホワイエが会場。

 向かって左から、第一ヴァイオリン=田尻順、第二ヴァイオリン=福留史紘、チェロ=伊藤文嗣、ヴィオラ=鈴木まり奈。

 3階の通路から見下ろす位置で聴く。

 何しろ大曲で全部演奏すると45分かかるし、ロビーコンサートは30分程度が原則なので、一部をはしょってやるのかと思っていたら、全曲の演奏であった。

 弦楽四重奏曲は、第一ヴァイオリンの性格により大きく演奏が左右されるけれど、実際田尻順さんの、しなやかで、かつ余り仰々しく弾かない行き方が今回の演奏を規定していたと思う。

 田尻さんは東響のアシスタント・コンサートマスターとして新潟ではおなじみだが、コンサートマスターと違ってオーケストラ曲ではソロで弾く機会はないし、演奏家としての性格がどんなものかは必ずしも聴衆にはよく分からないところがある。 今回の演奏を聴いて、なるほど、こういう演奏をする方だったのだと感じ入った。

 例えばクァルテット・エクセルシオの西野ゆかさんなんかの弾き方とはかなり違っている。 西野さんの第一ヴァイオリンはかなり音が明確だし、弾き方がわりに直線的というか、あんまり細かいニュアンスで勝負しないところがあるけれど、田尻さんは逆。 ただ、最終楽章の第二主題のあたりはもう少し斬り込んでもいいのではという気もしたが、全体として上品で、絶叫型ではなくしなやかなベートーヴェンになっていたように思った。

 その後、近くの 「とんかつとん喜」 で昼食をとって、お腹も満足。

       *東京交響楽団第81回新潟定期演奏会

 さて、午後5時からの本番である。

 指揮=大友直人、ピアノ=白建宇 (パイク・クンウー)、合唱=にいがた東響コーラス、コンマス=大谷康子

  ブラームス・プログラム
  運命の歌 op.54
  悲歌 op.82
  (休憩)
  ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調op.83

 ブラームスは声楽曲も結構作っているが、こういう合唱曲はなかなか実演で聴く機会がない。 なので、今回のプログラムは貴重であった。

 最初の 「運命の歌」 では最初の三分の二が天国的な場面の描写なのに、最後の三分の一で人間の苦しみや限界を嘆く内容に変わってしまう。 曲も内容に即しているが、最後のオーケストラの演奏でその辺が和らげられるようになっている。

 「悲歌」 は友人が亡くなったために作られた曲だそうだが、悲哀とともに慰めが歌われている。 いずれも (特に運命の歌は)、有名なドイツレクイエムにどこか通じるところがあるように思われた。

 さて、後半はピアノ協奏曲第2番。これは私が非常に好きな曲なのだが、やはり新潟ではなかなか実演を聴けない。 東響新潟定期では、たしか以前ゲルハルト・オピッツの独奏でやったことがあった。

 今回はアンドレ・ワッツが独奏、のはずが、転倒事故のために代役のパイク。 私は全然聴いたことがない演奏家だったけれど、どんなものかなと興味津々。

 で、パイクのピアノは良かった。 まず、音がしっかりとしていて力があり、音の粒も揃っている。 ブラームスのピアノ協奏曲に必要な条件が揃っている。

 演奏も、自分なりにニュアンスをつけながら独自の表現を生み出していた。 私の好みからすると、第二楽章はあんまり緩急の差をつけずに速いテンポで押し切って欲しい気がしたが、まあ解釈はピアニストそれぞれだから、これはこれで一つの行き方かなと。 第四楽章は理想的なテンポで弾いていたと言える。

 問題はオーケストラ。 第一楽章は微妙に合わない、というかパイクはあくまで自分の解釈でやっていて、オケがそれについて行っていない感じがしたのだが、それは大したことではない。 何か、音があんまり出ていない気がしたのである。 そして、ピアニストに対して終始受動的になっている。

 これ、前々回の東響新潟定期での、飯森さん指揮の東響と川久保賜紀さんのヴァイオリンでやったスペイン交響曲と逆なのだね。 あそこではソリストが指揮者に合わせすぎていた。

 今回はソリストはオケに構わず自分なりの表現を追求していたのに対し、オケは何がやりたいのかよく分からず、ソリストに対して受け身で、本来はソリストとオケが張り合って、お互いに攻撃し合い、いささか乱暴な表現をするなら激突することで出てくるはずの迫力や激情がどうも出ていなかったような気がした。 オケがおとなしすぎるんだなあ。 或いは指揮の大友さんが。 そういう意味では、第三楽章がいちばん良かったかもしれない。 うーむ。

 客の入りは、前半はいつもくらいだったけど、後半になったら3階脇席がかなり埋まったのは、もしかしたら前半の合唱団の人たちが客として入ったからだろうか。 まあ、いつもこのくらい埋まるといいんだけどね。

 

11月16日(土)   *日本言語政策学会・甲信越地区研究会

 本日は午後1時30分より、新潟大学新潟駅キャンパス 「ときめいと」 にて、日本言語政策学会の研究会が行われた。 この学会は13年前にできたばかりで、新潟地区の会員は3人、うち新潟大学教員の会員は2名しかいないので、その2名である私と国際センターのA先生が事務的な仕事のために奔走しなければならなかった。

 参加者は合計16名、思っていたより多かった。 北は岩手県から南は宮崎県 (もっとも出身は新潟市だそうだ) まで、多様な地域からの参加者がいた。 当初は10人を少し出ればいいか、なんて思っていたので、盛会と言えるだろう。

 内容は下記のとおりである。

 ■研究発表
 ・新潟大学の英語教育 ―その現状と課題について―
   平野幸彦+ハドリー浩美 (新潟大学)
 ・教育課程特例制度による教科 「日本語」 の教科書と授業実践 ―日本語教育学との連携の可能性を探るために―
   有田佳代子 (敬和学園大学)
 ■シンポジウム
 ・自民党/政府の英語教育政策を問う ―教育再生実行本部/会議の提言を中心に―
   司会・提案者 森住衛 (桜美林大学)
   提案者 上村圭介 (国際大学)
   提案者 拝田清 (四天王寺大学)

 最初の平野先生とハドリー先生の発表では、国際化が謳われ外部に向けてはいかにも国際化に対応した授業をやっているように宣伝している新潟大学の英語教育が、教員の削減などによりきわめて問題の多いものであることが明らかにされた。 教養部廃止以前は教養部・人文学部・教育学部で合計34名いた英語専任教員が、現在は21名になっているという。 また、教養部があった時代は教養部英語教員は英語の授業だけを受け持っていたわけだが、現在はそういう教員はおらず必ず専門科目や大学院の授業のかたわらで教養英語もやるという体制で、つまり1人の教員の持つ教養英語のコマ数は減っているから、実際は34→21以上にコマ数は減っているはずである。

 もっとも、英語専任教員の34→21なんてのはまだいいほうで、ドイツ語になると15→4なのだから、崩壊という以外に形容のしようがないのである。 教養解体と独法化によって語学の教育が崩壊し、国際化どころか国内引きこもり化が進んでいる新潟大学の現状は、いかんともしがたい。 新聞なんかはこういう現状をもっとちゃんと報道すべきだろう。

 後半のシンポでは英語オンリーではなく多様な外国語教育がなされるようにすべきだという主張も出されたが、日本の現状は明らかにそれとは逆の方向に向かっている。

 ただ、シンポでは文科省の某委員会に委員として加わっている方も提案者として発言されており、政策の決定には色々複雑なプロセスがあるという指摘もなされていた。 終了後の懇親会で聞いた話だけれど、学者を委員に入れておくのは一種のアリバイ作りで、実際は政財界の意向に沿って決定がなされているというような側面もあるらしい。 文科省がいつも主導しているわけではないともいう。

 午後5時に終了し、その後近くの店 「葱ぼうず」 で懇親会。 この店はA先生が見つけて下さったのだが、なかなかいい飲み屋だった。 うるさくないし、料理は上等だし、酒は〆張鶴でうまいし、それでいて料金は高くない。 お薦めです。

 懇親会には10名が参加。 ここでは某私大の内実など、貴重な情報を聞くことができた。 首都圏方面から来た方々は午後7時台の新幹線で帰っていったが、懇親会の料理や酒が好評だったから、いい気持ちで新潟を離れていただけたのではないかと思う。 

 それはさておき、先週土曜日も学会、本日の土曜日も学会で、実はこのところかなり忙しい毎日を送っている私なのでした。

 

11月15日(金)   *音楽評論家・室田尚子のバカバカしさ

 たまたま本日の午後、NHKのFM放送を断片的に聴いていたら、プッチーニのオペラ 「ラ・ボエーム」 をやっていた。 解説は室田尚子という人で、私は実は全然知らなかったのだが、音楽評論家で、著書も何冊も出している人らしい。

 ところが、この人、話を聴いていると変なのである。 「ラ・ボエーム」 を解説しながら、作曲家のプッチーニはこのオペラのヒロインであるミミのような線の細いはかなげな女性が好きだったのだが、これは男性の女性に対する幻想にすぎない、などとのたもうているのである。

 まあ、季節外れのフェミなのかも知れないけど、オペラについての著書も出している人としてはいささか認識がお粗末過ぎはしませんか?

 芸術って、そもそも幻想でしょ。 幻想であるからこそ、現実世界には存在し得ない美や恐怖、或いは純粋な愛だとかが表現されるのでしょ。 現実の女性がどういうものかなんてことは、芸術には無関係なのだ。 現実の女性が論じたいなら、オペラなんかやってはいけません。 逆に言えば、オペラを研究していると称しているのに、そんなことも分からないんじゃ、失格だと思うな。

 NHKも、もう少しマシな解説を採用したらどうですかね。 20年は古い、って感じがした。

 

11月13日(水)   *「子ども」 ではなく、「子供」 と書こう!

 本日の産経新聞の 「国語逍遥」 欄に、同紙論説委員の清湖口敏が 「文部科学省の英断を歓迎」 という一文を書いている。 長らく、子供を子どもと書くような混ぜ書きが横行していたが、この7月に観光された 『文部科学省白書』(平成24年度版) では、子供という表記に統一されていた、それを歓迎したい、という趣旨である。 私としても大賛成!

 そもそも、子供をわざわざ子どもと書くような混ぜ書きは、氏も指摘しているような自称人権派によって広められたやり方である。 「供」 は 「お供」 の供だから、子供と書くと子が親の従属物であるような印象を与え、人権を損なうというような奇妙な論理によってのことであった。 しかしこれはおかしいのであって、もともと複数を表す接尾辞 「ども」 に供の字を充てただけのことで、また今では 「子供」 は複数だけでなく単数にも当てはめられており、「子供たち」 というような言い方が成立している。 それは 「友達」 の 「達」 は本来は複数の接尾辞だが、現在は 「友達」 は単数でも使うのと同じことなのである。

 そもそも、漢字二文字熟語の一方を平仮名で表記するのは美的ではない。 また、「子供」 の表記を 「子ども」 にしたところでそれで子供の人権が尊重されるわけでもない。 表記を変えただけで何事かをなしとげた気になっている態度こそ、欺瞞の最たるものではないか。

 私個人はずっと 「子供」 という表記を用いていて、訳書や著書でもそう表記しているけれど、この表記が広がることを、というかまともな表記に複することを望みたいものだ。

 なお、上述の清湖口敏氏の記事はネット上の産経新聞には載っていないようなので、紙媒体でごらん下さい。

 

11月9日(土)   *日本独文学会北陸支部研究発表会

 本日は午後1時より、富山市のパレブラン高志会館にて、日本独文学会の北陸支部研究発表会と総会があった。

 朝8時ころに新潟を出る富山行きの高速バスに乗る。 所要時間でいうとJR信越線・北陸線経由の特急のほうが少し早いが、バスだと自宅に比較的近いところから乗れるので、それを考慮すると時間的にはあまり変わらない。 そして料金は高速バスのほうがはっきり安いのである。

 バスは結構混んでおり、ほぼ満員。 しかもなぜか女性客ばっかりで、男の客は私だけ。 不思議なことである。 男性はあまり旅行をしないのか、或いはJRの特急や自家用車を利用するからなのだろうか。 それはさておき、4時間弱で富山駅前に着く。

 JR富山駅は現在、北陸新幹線の開通に向けて、新しい駅舎を建てている最中である。 少し時間があったので、市電に乗ってみる。 私は市電が好きなのだが、富山市の市電に乗る機会はこれまでなかった。 駅前の乗り場から、環状線に乗ってみる。 

 富山市の市電の車両は色々あるようで、私の乗ったのは昔風の車両ではなく、モダンな感じのする2連の車両。 このほか、やはり新しいらしい3連の車両もあるし、昔の市電イメージそのものの車両もある。

  私の乗った新しい2連の市電  ↓

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  こういう3連の車両も走っている ↓

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  昔ながらの車両もある ↓

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 環状線はぐるりと市内を一周する。 料金は200円均一。 速度は、速いとはお世辞にも言えない。 それと、環状線は途中から単線になってしまい、単線区間の途中停留所には交換できるような(そこだけ複線になっている)場所もないようだから、どうやら一方方向(時計とは逆回り)にしか走っていないらしい。

 私は個人的な趣味としては路面電車が好きなのだが、新潟市に路面電車を、というような意見には全然賛成できないし、今回富山市の市電に乗ってみてもその見解は変わらない。 新潟市規模の都市には、モノレールか地下鉄が必要なのである。 もっとも、路面電車のような比較的小さな車両を、少なくとも市街地では地下鉄にして走らせるという手もあるだろうと思う。 以前旅行で訪れたオランダのアントワープ市はそうなっていた。

 市電で市街地を一周した後、駅前の建物に入っている店で天ぷらそばを食べ、それから土産ものも購入した。 明朝は午前7時50分発の新潟行き高速バスで帰るからで、そんな早い時間帯には土産物屋は空いていないから、という理由だったのだが、翌朝見てみたら、別の建物に早朝からやっている土産物屋もあった。

 さて、駅から近い会場まで歩いて、研究発表を聴く。 参加者は20名台か。

 ・終助詞はどのように訳されるか ―山田太一のファンタジー三部作のドイツ語訳を手がかりに―  宮内伸子(富山大学)
 ・システムとしての文学 ―ドイツ作家シーン2003/2006の調査結果から  名執基樹(富山大学)
 ・アウストロ・ファシズムと文学 ―ヘルマン・ブロッホを例に―  早川文人(金沢大学)
 ・1913/14年の「ネイション」論 ―グスタフ・ランダウアーの視座―  吉田治代(新潟大学)
 ・シュティフターの月のモチーフ ―文学・絵画・芸術批評を手がかりに―  磯崎康太郎(福井大学)
 ・テオドール・ヨハン・クヴィストルプの喜劇における下僕の役割と喜劇性をめぐって ―『牡蠣』を中心に―  小林英起子(広島大学)

 内容的にもどれも力作だった。 私の興味ということからいうと、早川文人氏や吉田治代さんの発表が面白かった。 思うに、ドイツ文学方面の学術研究発表のレベルは、むかし私が若い時分に独文学会に入った頃と比べると上がっていると思う。 ただし、逆に独文学者が大学にポストを得ることは格段に困難になっている。 質と量は逆比例する、ということなのだろうか。

 研究発表会の後、総会。 北陸支部は総会を伴う研究発表会を2年ごとに開いているが、順番で言うと今回の富山の次は新潟なので、それはお引き受けするとした上で、私から次のように発言した。

 従来、北陸支部は各県が一つの地区を作り、持ち回りで2年に一度総会を伴う研究発表会を開いていた。 しかし数年前から、福井地区はドイツ語教員の減少にともない独文学会員がごく少数しかいなくなり、一つの地区を維持することができなくなったため、石川地区と合併した。 新潟地区も最近ドイツ語教員の激減にともない、一つの地区を維持することが困難になっている。 今すぐ地区をやめるとは言わないが、2年後の総会のときに北陸支部の組織のあり方について議論ができるように考えておいていただきたい、と。

 実際、今現在、新潟大学の専任教員である独文学会会員は3名しかいない。 北陸支部でも福井大学は文学系の学部がないし、学部の数も学生数も少ない大学だから仕方がないが、新潟大学のように独文専攻もある人文学部を持ち、しかも合計で9学部を擁する大規模大学でこんなに独文学会会員が減っている例は、おそらく日本全国に皆無だろう。 いかに教養部解体・独法化以降の新潟大学が荒廃しているかが分かる。 

 荒廃は、上層部の無能と、下層部 (現場の教員) のバカげた 「改革」 の双方に責任がある (後者についてはこちらを参照)。 とにかくどうしようもない状況下に新潟大学はあるのだ。 団塊の世代やその少し前の、大学でドイツ語教員になるのが楽だった世代のバカどもの後始末を、団塊の世代の直後に来た私がやらされる。 まったく、団塊の世代のドイツ語教師どもは全員死刑、と叫びたい気分である。

 閑話休題。 総会の後は、同じ建物内で懇親会。 しかし、6000円という値段の割には、料理は少ないし、飲み放題のアルコールの種類も少ない。 うーん。

 そのあと別の店で2次会。 ここでは富山大の先生方におごっていただいてしまった。 すみません。 富山大には古きよき時代の、ドイツ語教師共同体的な雰囲気がまだ残っているようだ。 新潟大の荒廃ぶりとは対照的である。

 宿泊は、富山駅前の東横イン。 一泊で朝食つきで5000円しないので、安い。 

 

11月7日(木)   *最近聴いたCD

 *オルガン・ランドスケイプ エストニア編 (DABRINGHAUS UND GRIMM、MDG3191431-2、2006年録音、2007年発売、ドイツ盤)

 以前、この欄で 「オルガン・ランドスケイプ」 シリーズを紹介したことがあるが、そのエストニア編がこれ。 合計9つの教会で収録が行われている。 収録曲はどれも短く、全部で30曲ほど。 作曲家でいうと、あまり古い時代の人たちはおらず、19世紀、そして20世紀前半に活動した人たちばかりである。 ただし現代曲ふうの難解な作品はほとんどなく、素朴で親しみやすい、そして心に沁み入ってくるような曲が多い。 解説によると、エストニアの地にオルガンがもたらされたのはキリスト教化の過程においてドイツ人やデンマーク人の手を介してであり、13世紀のこと。 オルガンやオルガニストについて具体的な記録が残っているのは14世紀になってからだという。 さらに、オルガン製作者となると15世紀で、北ドイツの地からやってきた人物であり、おそらくそれはアルブレヒト・オルゲルマーカーであろうという (苗字がオルガン製作者の意味であるところが面白いですね)。 しかし18世紀初頭の北方戦争において教会は荒廃し、オルガンも破壊されてしまった。 そこから立ち直るには時間がかかり、現在エストニアに存在しているオルガンは19世紀と20世紀前半に作られたもの。 このCDでも使われている19世紀初頭の楽器が、北方戦争以降では最も古いオルガンなのだという。 各作曲者についても解説に載っている。 解説は英語とドイツ語で付いているが、各楽器の紹介文はドイツ語のみ。 演奏はマルティン・ロスト、1963年生まれのオルガニストで、録音も多いという。 今年の9月末に上京したとき新宿のディスク・ユニオンにて購入。

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11月5日(火)  *何のための独立行政法人化か――毎日新聞による山形大学工学部「不正」経理報道への疑問

 本日の毎日新聞は、山形大学工学部で不正経理が行われていると社会面で大々的に報じた。

     http://mainichi.jp/shimen/news/20131105ddm041040119000c.html 

 不正経理: 山形大工学部、教育研究活動費の余剰金をプール  毎日新聞 2013年11月05日 東京朝刊

 山形大工学部(山形県米沢市)が、国に単年度決算を義務付けられている教育研究活動費について、使い切れなかった分はプールし、施設維持・管理費などに転用していたことが大学関係者への取材で分かった。結城章夫学長は毎日新聞の取材に「不適切な状態だった」と認め、工学部に是正を指導した。

 工学部によると、教育研究活動費は文部科学省が大学運営のために渡す「運営費交付金」から支出され、工学部の教員約200人に1人あたり年平均200万円配分している。工学部の年間予算約12億円のうち約4億円を占める。同省は2010年10月、年度をまたぐ積み立てにより次年度以降の使途が不明朗になる弊害があるとして、国立大学法人に対し単年度決算を徹底するよう文書で指導していた。

 しかし、大学関係者によると、工学部は少なくとも約10年前から、余った教育研究活動費を一括して各教員から借りる形でプールし、各教員には「使い切れなかった分は、それぞれの翌年分の教育研究活動費に上乗せする」と約束し、協力を求めていた。プールした金は、新しく建設した研究施設への設備搬入費用などに転用していた。

 工学部はプール金関係の収支の帳尻を合わせるため、学部予算を投入するなどしてきたが、学部の12年度決算で2億2000万円の赤字を出して破綻。大学本部が調査してプール金の存在が発覚した。大学本部によると、プール金の運用が始まった時期や、年間の運用規模などの全体像は不明という。

 工学部は有機エレクトロニクスの国内最大級の研究拠点。国などから多額の補助金を受けて次々に研究施設を建設しているが、設備搬入費用など付随する経費がのしかかり、教育研究活動費に頼るようになった。

 結城学長は取材に「学部と教員との間で予算を貸し借りするような状態は不適切であり、今後行わないように指導した」と話した。 【前田洋平】

 少し前の、入試問題の外注化についての初期報道もそうだったが、どうも毎日新聞は大学のことになると、表面的な報道しかできていない。 文部科学省だとか学長だとかからしか話を聞かないのでは、問題の核心に迫る報道ができるわけがない。 エライさんじゃなく、現場の教員に話を聞きなさい!

 そもそも、なぜ大学が 「単年度決算」 をしなければならないのか? 国立大学が行政法人化されるにあたっては、この種の杓子定規な窮屈さを排して、自分の判断で自由にカネを使い、それによって研究成果が向上させよう、という名目があったはずなのである。

 新潟大学でも、私の記憶では、法人化後すぐの頃はいちおう単年度主義でなくていいということになっていたのが、なぜか余り時をおかずに単年度主義に戻ってしまった。 そして文部科学省の方針としては記事にあるように数年前に逆戻りとなった。 

 今回のケースでは、記事の説明からは必ずしも判然とはしないが、要するにプール金の額が大きくなりすぎて単年度決算では見かけ上の帳尻を合わせることができなくなったということなのだろうか。 たしかに日本国の財政のように大赤字を出すのは感心しないが、ある程度の範囲内なら予算を次年度に回すようなやり方のほうが、無理に年度内に全部を消化するやり方よりむしろ合理的なはずなのである。

 例えばワタシである。 ワタシが新潟大学から年度あたり支給されている研究教育費は、文系だから僅少で、山形大学工学部の10分の1程度である。 ところが、外部評価では、「国内ではよくやっているが、国際的な学会でも活動するように」 などとお達しが来る。 お達しに応じたいのやまやまだが、国際学会で活動するなら当然海外の学会に行かなくてはならない。 しかし、年間20万円の研究教育費で海外に出張するわけにはいかない。 そんなことをしたらそれだけで予算を使い切ってしまい、本の1冊も買えなくなってしまう。 となれば、「今年度は節約して5万円残し、来年度に回せば、海外の学会にも行けるかな」 と考えるのが普通であろう。 しかし、予算単年度主義の現在、そういうことは不可能である。 つまり、現行の予算額や単年度主義では、国際的な学会で活動することは不可能、という結論しか出てこない。

 困るのは、外部評価をやる人は、こういう環境については何も言わないということだ。 海外で活動しろと言うなら、それだけの環境を用意しろということも文部科学省に言ってもらいたいものだが、そういうことはしてくれない。 なんとも片手落ちなのである。 外部評価は、文部科学省に対してもやりなさいって!

 早い話が、例えばどこかの家族が 「今年の収入は全部今年で使い切りなさいね。 来年に回しちゃダメよ」 と言われたら、困惑するだろう。 子供の将来のために貯金したい家族もあれば、車の買い替えをしたいから今年は赤字でも仕方がないかという家族もあるからだ。 大学だって同じなのである。 予算が多少余るから次年度に回したい年もあれば、大企画を実行に移したいから赤字決算になる年もある、それだけの話なのである。

 また、研究者といっても色々で、中には配分された予算をあまり使わない人もいる。 そういう場合、大学教員個人に配分された予算は学部で吸い上げて何か全体のためになるような使い方をしたほうが、無理に研究者個人に使わせるより有益ということだってある。 

 要するに、名目をきっちり内実に合わせようとすると、お金は使い勝手が恐ろしく悪くなる。 予算使用の名目と実質のズレによって大学は機能している面がかなりあるというのが実態で、その実態を破壊すれば大学はうまく回らなくなるだろう。

 大学予算を私的に流用するというならたしかに不正で、そういう不正は厳正に取り締まらなければならないが、予算単年度主義の弊害を見ずに不正呼ばわりする態度は、明らかに思慮が足りないと言うしかない。 

 いずれにせよ、国立大学が独立行政法人化しても、このようにいちいち文部科学省の窮屈な指導に従わなくてはならない現状を見れば、法人化の意味はないと言ってよい。 毎日新聞は、その辺を掘り下げて報道してもらいたいものだ。

 

11月2日(土)  *山本太郎よ、お前はなんで国会議員になったの?

 俳優で参議院議員の山本太郎が園遊会で天皇陛下に手紙を渡そうとした問題については、いろんな人がいろんなことを言っているので、私が何か言う必要もないくらいだが、やはり一言。

 天皇陛下の政治利用だという批判はまあそのとおりだと思うけど、いちばん大事なことが忘れられてはいませんか? 山本太郎は国会議員だということ。 つまり、国民の信託をへて、国の政治を任せられた人間だってことなのだ。

 だったら、原発事故に関する諸問題を天皇陛下に手紙で訴えるってような発想がどうして出てくるのか、私は不思議で仕方がないのだ。 そういう問題を解決する仕事は、天皇陛下じゃなく、国会議員、つまりお前自身がやるべき仕事だろうが!? 何で自分でやらないんだよ。 お前、何のために国会議員になったの? 国会議員の仕事が何か、分かってないんじゃないか!?

 政治家の仕事が何なのか、山本太郎は知らずに国会議員になってしまったのだ。 不敬だから辞めろとは私は言わない。 国会議員の仕事が何なのか分からない輩は、辞職するしかないのである。 要するにバカだからということなのだ。

 (なお、山本太郎のやったことを明治期の田中正造に喩える人がいるけど、これは完全な的外れ。 あれは明治憲法の下でのことで、戦後のように完全に主権在民が唱えられている、そして天皇の政治的主権が否定されている体制の下での山本太郎の行為とは同列におけるわけがないのである。)

 

10月31日(木)  *だから学内全面禁煙には反対なんだってば

 本日、事務から以下のようなメールが来た。

 ま、こうなることはあらかじめ予想がついていた。人文学部の教授会でも、こうなるだろうという意見があらかじめ出ていた。

 そういう予想を無視して学内全面禁煙を導入した新潟大学上層部の無能ぶりは目に余る。考える能力が皆無なんだな。死ななきゃ治らない、ってやつだ。 学内に数えるほどしかなかった喫煙所を無理に廃止したばっかりにこの結果。 全面禁煙を決めた輩は、全員役職を降りるべし。

     人文社会・教育科学系教職員各位

   キャンパス内全面禁煙措置に関しては教職員各位におかれましてもご承知
  のことと思いますが、最近この措置の反動で五十嵐キャンパス西門周辺の店
  舗前に設置された灰皿周辺において本学関係者と思われる者の喫煙による
  大量の副流煙の発生や吸い殻・灰の放置が目立ち、店舗側から本学に苦情
  の申立がありました。
   教職員各位におかれましては、受動喫煙の健康への悪影響や吸い殻・灰
  の投棄による環境汚染等について改めて自覚し、大学教職員として節度あ
  る行動をとられるよう、改めてお願いします。

 

10月28日(月)    *追悼・中沢敬子さん    

 シネ・ウインドの出している雑誌 『月刊ウインド』 で中沢敬子さんの訃報に接しました。先月13日になくなったそうです。

 中沢さんは長らく 『月刊ウインド』 誌に 「映画にオペラを探したら」 という記事を断続的に連載されていました。 映画にもオペラにも造詣が深い方だということがよく分かる内容で、オペラにうとい私は毎回読むのを楽しみにしていました。 『月刊ウインド』 の連載記事の中でもいちばん充実した内容だったと思います。

 中沢さんとはお話したことはありませんが、シネ・ウインドの株主総会で何度か上品なお姿を拝見したことはあります。 同じテーブルではなく、言葉を交わす機会がなかったのは残念です。

 日本女性の平均寿命が80代後半に達している現在、67歳というのはあまりに早い死であり、本当に惜しいことだと言わねばなりません。

 謹んで中沢さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 

10月27日(日)  *文科省よ、大学入試制度をいじるのはもうやめよ! 或いは、下村文科相のおバカぶり

 昨日の毎日新聞の 「引用句辞典」 で鹿島茂が的確な指摘をしていた。

 文部科学省が教育再生実行会議の提言を受けて、センター試験を廃止し、「基礎」と「発展」の二段階からなる達成度テストに替えると言い始めた。
 教育現場に関わっている人間にとっては、「またかよ、もう、いいかげんにしてくれ!」 というのが本音だろう。 とにかく、文部科学省が(審議会の答申という形式は取るものの) なにか 「改革」 を思いつくたびに、事務仕事の量が倍になり、教育どころの騒ぎではなくなるのが常だからだ。 極論すれば、文部科学省は、雑務を増やし教育を阻害するためにのみ存在する官庁である。 「最も良い文部科学省とはなにもしない文部科学省である」 と囁かれているのを当の役人は知っているのだろうか?

 以下は略するが、この鹿島茂の指摘には、おそらく大学教員の99%が賛成するだろう。 文部科学省なんかいらないのだ。 とっとと廃止して役人はクビにしてしまえば、その分税金はかからないし、大学教員には研究と教育に費やす時間が増えるのである。

 これに比べると、今月21日にやはり毎日新聞に載った下村博文・文部科学省大臣のインタビューの発言は、実にバカげていた。 たぶん、役人から吹き込まれたとおりにしゃべっているんだろうな。 それとも本気なんだろうか。 本気としたら、本物のバカである。

 例えば、「教育再生実行会議」 で議論している入試制度改革について、センター試験で一定以上の点数をとったら全員合格として、「2次試験以降は面接や小論文で、リーダーシップや創造力、ボランティア活動力など、ペーパーテストで判断できない能力を判断して」 なんて言っているのだが、時間が限られた面接でそんなことが判断できるわけがないのだ。 判断できると思うなら、例えば文部科学省の役人も、文部科学大臣も、同じようにして面接で決めたらどうかな。 「隗よりはじめよ」。 まず、そういう提言をしたところからやってみなさい!

 次に、下村文科相は次のようにのたもうている。「暗記中心のペーパーテストを2回もしないでも済むように考えたい。(…) 学力だけの1点差で勝ったことにどんな意味があるというのか。運もツキもある。 それが人生における運になるかというと、別の話だ。 大学に合格したこと自体は運がよかったのかもしれないが、その判断基準が社会の中で必要な能力と言えるのか。」

 あのねえ、1点差で決まるものは何も大学入試だけじゃないでしょ。 司法試験だって医師国家試験だって、私は受けたことがないからよく知らないが、多分1点差で合否は決まっている。 それとも必ず10点差がつくような試験をしているのだろうか。 どうすればそんな試験が可能なのか、教えてもらいたいものだ。 点数を付ける制度があるかぎり、必ず1点差はつきまとう。 そもそも、最初の自分の発言 『一定以上の点数をとったら全員合格』 だって、例えばセンター試験800点を合格ラインとしたら、799点は落とすわけじゃん。 ちゃんと1点差は生きているのだ。 800点と799点の差に 「どんな意味があるのか」 答えてみてもらいたいね。 答えられないような人は、入試不合格なんだよ(笑)。

 それから、大学入試の合格基準がそのまま社会の中で必要な能力ではない、なんて当たり前でしょう。 大学は企業や官庁の予備校じゃないんだから。 それに社会の中で生きていく能力は、大学4年間だけで身につくものじゃない。 それまで最低で22年間生きてきた結果が社会人としての能力になっているだけのお話。

 また、大学のゼミや何かで有能であるかそうでないかは、社会人としての能力と無縁なものではないし、またゼミでの能力には学力という要素は、全面的にとは言わないが、小さくない割合で重要な位置を占めている。 もし、そうではなく、元気がよくて人付き合いがうまいというだけが社会人の能力だと思うなら、そういう基準で採用人事を文科省だとかでやってみたらどうかな。 もっとも上記のように文科省なんか要らないと私は思っていますけどね。

 続けて下村文科相は、「大学が象牙の塔になっていて、社会で真に必要とされる人材は何なのか、真剣に考えていない」 とのたまう。

 象牙の塔か、なつかしい文句だなあ、今、象牙の塔なんて言葉が当てはまる日本の大学など、皆無じゃないかな。 大衆社会の中で、大衆的な学生と無能な文科省の板挟みになり、死ぬ寸前といったところだろう。 それに、社会に必要な人材を期待するなら、補助金は大学じゃなく専門学校に出しなさい。 そのくらい分からないの? 「真剣に考えていない」 んだね。

 

10月26日(土)   *札幌交響楽団新潟特別演奏会

 本日は午後5時から標記の演奏会に出かけた。会場はりゅーとぴあ。 午前中は雨模様だったが、午後から晴れ間も見える天気に。(もっとも、演奏会終了後少ししてまた雨が降り出した。)

 東京交響楽団新潟定期会員にはチケットが送られている演奏会。客の入りも、東響新潟定期のいつもくらいだろうか。

 指揮=尾高忠明、コンマス=大平まゆみ

  シベリウス: 「カレリア組曲」op.11
  グリーグ: 「ペールギュント」第一組曲op.46
  グリーグ: 二つの悲しい旋律op.34
  シベリウス: 交響詩「フィンランディア」op.26
  (休憩)
  シベリウス: 交響曲第一番op.39
  (アンコール)
  エルガー: 弦楽セレナードより第二楽章

 弦は、左から第一ヴァイオリン(12)、第二ヴァイオリン(10)、チェロ(7)、ヴィオラ(8)、コントラバス(6)。あまり大きな編成ではない。
 北欧プログラムである。 前半に小曲(集)を4曲もやるのも珍しい。ここでは、グリーグのペールギュントが、管楽器の冴えを見せてくれて、なかなかいいと思った。

 しかしやはり後半の交響曲が本日のハイライトであろう。気合いの入った演奏だったな。アンコール前の尾高さんのお話では指揮をするのに疲れる曲なのだそうだが、これだけ気を入れて演奏すれば、それは疲れるのも無理はないだろうと納得。

 尾高さんのお話も、新潟は米がうまくて酒がうまくてというのはまあ「日本はフジヤマとゲイシャ」的な定型だが、酒の銘柄をいくつも挙げるところにサービス精神を感じた。アンコール曲が事務局からの圧力で、というのもユーモラスでよかった。

 札幌交響楽団は、弦が少なめではあったがそれを感じさせない力量が感じられる。ただ、ヴァイオリンの合奏の美しさで言うと、ふだん東響定期を聴いている身としてはもう一つかと思ったけれど、これは札響が悪いのではなく、東響が特にすばらしいということであろう。
 コンセプトがはっきりしたプログラムだっただけに、もう少し客の入りが良ければ、と残念な気持ちが残った。

 開演30分前にはロビーコンサートがあったらしい。残念ながら開演10分前に到着したので聴けなかった。東響のロビーコンサートもこの時間帯にやってくれるといいのだが。

 

10月20日(日)  *プロジェクト・リュリ第6回演奏会 フランソワ・クープランを巡って(4)

 本日は午後2時からの標記の演奏会に出かけた。会場はだいしホール。
 毎年秋に行われているこの音楽会、今回でもう6回目になる。知名度も上がっていると思われるけれど、本日はあいにくの雨模様のせいもあってか、客の入りはイマイチ。半分弱くらいか。

 ヴァイオリン=佐野正俊、庄司愛、ヴィオラ・ダ・ガンバ=中山徹、チェンバロ=師岡雪子、ソプラノ=風間左智

  オトテール: トリオソナタロ短調op.3-3 (佐野、庄司、中山、師岡)
  F・クープラン: 「趣味の和、または新しいコンセール」より第5番 (佐野、中山、師岡)
  コレルリ: フォリア (庄司、中山、師岡)
  (休憩)
  F・クープラン: ルソン・ド・テネブレ第2番 (風間、佐野、中山、師岡)
  F・クープラン: 「パルナッソス山、またはコレルリ賛」 (風間〔朗読〕、佐野、庄司、中山、師岡)
  (アンコール)
  シャルパンティエ: 「クリスマス・カンタータ」より (風間、佐野、庄司、中山、師岡)
  バッハ: G線上のアリア  〔柴田雄策氏をしのんで〕 (佐野、庄司、中山、師岡)

 前半は、途中入ってきたりまた出て行ったりといった客がいて、ドアの開閉の音も気になり、どうも集中できなかった。また、第2曲でなぜかヴィオラ・ダ・ガンバの楽譜が見つからず、演奏者が探しに楽屋に戻ったりして、数分間空白が生じるという珍事も。

後半に入って、風間さんのソプラノが入って、ぐっと気分が引き締まり、音楽会らしい雰囲気に。曲も後半のほうが良かった気がしたが、できればもう1曲くらいやってほしい。

 アンコール2曲目に、以前この音楽会に出たこともある柴田雄策氏が最近亡くなったという報告があり、追悼の意味でバッハの「G線上のアリア」が演奏された。

 こぢんまりとした演奏会だが、フランスの古楽(だけ)をやる音楽会は貴重だと思うので、今後も続けていただきたいもの。また、新潟のクラシック・ファンはこの音楽会にもっと目を向けてもいいのではないだろうか。

 

10月19日(土)   *シネ・ウインドで講演 「『白いリボン』 とミヒャエル・ハネケ」

 現在、新潟市唯一のミニシアターであるシネ・ウインドではドイツ映画祭をやっている。 本日は夕刻、シネ・ウインドでミヒャエル・ハネケの映画 『白いリボン』 が上映され、その後に私が標記のタイトルで講演を行った。

 といっても、聴衆は10人程度。 映画の後に1時間の講演を聞くほど暇のある人はあんまりいないんだろうな。 もっともこちらがテレビタレントのような有名人なら客の入りも違うんだろうが。

 それなりに下準備をして行ったのだが、時間配分を誤った。 本来は最後にこの映画の謎や、他のハネケ作品との関連にも触れようと思っていたのだけれど、20世紀初頭のドイツの田舎という環境の説明に時間をかなり使ってしまい、ハネケの他作品との関連には触れずじまい、謎についても結論めいたことを言うにとどまった。

 大学での講義なら、また来週にで済むけれど、1回限りの講演ではそうもいかない。 すみませんでした。 もっとも無料だから、聴衆も金銭的な損はしていませんけどね (笑)。

 

10月14日(月・祝)  *さすがジョナサン・ノット、実力発揮! 東京交響楽団第80回新潟定期演奏会

 本日は東響新潟定期の日。昨日に続いていい天気。しかし客の入りはさほどではない。

 指揮=ジョナサン・ノット、ソプラノ=クリスティーネ・ブリューワー、コンマス=大谷康子

  R・シュトラウス・プログラム
  4つの最後の歌
  (休憩)
  アルプス交響曲

 R・シュトラウスはさほど好きではない私ではあるが、本日の演奏には◎印を付けざるを得ない。

 前半。まず、出てきたブリューワーを見てびっくり。すごい体格。普通の人間の二人分、いや、三人分くらいの太い体。これで二本の足で体重を支えきれるのかなあ、と人ごとながら心配になる。でも歌はよかった。シュトラウス最晩年のどこかうら寂しい叙情を、通る声でよく表現していた。

 後半。前半もそうだが、弦の配置は第一ヴァイオリン、その後ろにコントラバス、チェロ、ヴィオラ、第二ヴァイオリンの順。そして弦の数がぐっと増え、上で書いた順で言うなら18-6-10-12-16。解説によると、これが作曲者が指定した最低限の弦の数なのだそうだ。そしてホルンも9人(4人はワーグナーチューバ持ち替え)が並んで盛観。弦やホルンがこんなに多い演奏会って、多分初体験だと思う。ふだんあまり見ない打楽器もいくつか舞台上にあるし。おまけにパイプオルガンまで使うし。

 演奏は、この楽器の多さをそのまま活かして、実演ならではの迫力と味に満ちた素晴らしいものであった。弦も管も打楽器もフル回転。こういう演奏を聴くと、やはりクラシックは実演だと痛感する。いやあ、満足! 
 聴衆の反応もそれにふさわしく熱狂的。上に書いたように客の入りはイマイチだったのであるが、来なかった人は大損でしたね!

 というわけで、来期から音楽監督を務めるジョナサン・ノットが実力をこれでもかと言わんばかりに見せつけてくれ、来期の東響定期への期待感を高めてくれた演奏会であった。新潟のクラシック・ファンのみなさん、ジョナサン・ノットが音楽監督になる来期はぜひ東響新潟定期会員になりませう!

 

10月13日(日)   *山本真希オルガンリサイタル No.16 「コラールの名曲」 

 本日は午後5時からの標記の演奏会に出かけた。本来は7月に行われるはずが、オルガンの故障でこの日に延期となったもの。
 客の入りは、りゅーとぴあの本格的なオルガンリサイタルの通例くらいだが、それでもやや多めに見えたのは錯覚か。250人くらいいたかな。私は3階正面Iブロックの4列目左側に席をとった。

 ニルス・ウィルヘルム・ゲーゼ: 「主を讃美せよ」による祝祭前奏曲
 ニコラウス・ブルーンス: コラール幻想曲「来たれ、異教徒の救い主よ」
 パッヘルベル: 高き天より我は来たれり
 バッハ: 甘き喜びのうちにBWV729
 ブラームス: 11のコラール前奏曲集op.122より第7番「おお神よ、汝いつくしみ深き神よ」
 メンデルスゾーン: オルガンソナタ第6番op.65-6
 (休憩)
 バッハ: 6つのシュープラー・コラール集BWV645〜650
 レーガー: コラール幻想曲「ハレルヤ! ほむべき神はわが心の喜び」op.52-3
 (アンコール)
 バッハ: 主、イエス・キリストよ、我らを顧みたまえBWV709

 今回は「コラールの名曲 うけつがれる祈りと讃美」というタイトルで、賛美歌をもとにした作品が演奏された。

 前半では、ブルーンスとメンデルスゾーンがよかった。最初のゲーゼ(1817-90)の曲がいかにも19世紀的で失礼ながらあまり新鮮味がなかったのにたいし、ブルーンス(1665-97)ははるかに複雑で、なおかつ音楽としての深みが感じられた。メンデルスゾーンは、有名なコラールの旋律を素直に使いながら、敬虔な心情を表現し尽くしていたと思う。

 後半では、やはりバッハであろう。レーガーの曲は、技巧は尽くしているのだが、前半のブルーンスやメンデルスゾーンの曲みたいに心に届いてこない。

 アンコールにバッハが演奏され、6時50分くらいに終演となりました。次のリサイタルはいつになるのか、プログラムに記載されていなかったのが残念。

 

10月11日(金)   *さらば、磁気方式のバス・カード

 本日は夕刻から万代シティに映画を見に行ったついでに、新潟交通バスセンターの営業所に立ち寄り、使い切っていないバス・カードの払い戻しをする。

 新潟交通では長年、磁気方式によるバス・カードが使えるようになっていたが、今年の6月末限りで販売停止、さらに使用もこの9月末限りで廃止となった。 使い切ってないバス・カードについては払い戻しを行っている。

 時代の変化というやつで、従来のバス・カードに代わって、タッチ式のカードが導入された。 「りゅーと」 という名称だが、要するに首都圏のJRやバスでやっているSUICAやPASMOと同じ方式で、あらかじめお金を入金しておき、乗車するときと下車するときにパネルにタッチすると自動的に料金が引き落とされるというもの。

 私もついでに自分用の 「りゅーと」 を作ることにした。 とりあえず2000円払って、しかしカード預り金として500円引かれるので1500円分使えるということである。 入金は千円単位で市内にいくつか設けられている入金機でできるし、バスの車内でも可能。

 私はふだんはクルマで動いているのでバスはあまり使わないが、飲み会の時などはバスになる。 シネ・ウインドがこの6月から駐車料金3時間サービスを始めたので、バスを使う機会がかなり減ったというのが実情。

 結局、磁気式のバス・カードを最後に使ったのは、先月、9月28日に東京から戻ってきて、クァルテット・エクセルシオの演奏会を聴くために新潟駅から市役所前までバスを利用したときということになる。 長年お世話になりました。

 

10月9日(水)   *ライナー・キュッヒル ヴァイオリン・リサイタル    

 本日は標記の演奏会に出かけた。 午後7時からりゅーとぴあで。

 台風が近づいて強風となったけれど、入りはまずまず。 1階と2階正面のCブロックが8割程度、B・Dブロックは半分弱。 3階正面のIブロックにも最前の2列程度に客が入っていた。 私はBブロックのCブロックに近いあたりで聴いた。 Nパックメイト価格3000円。

 ピアノ伴奏は加藤洋之。

 ベートーヴェン: ロマンス第2番op.50
 ベートーヴェン: ヴァイオリンソナタ第9番「クロイツェル」op.47
 (休憩)
 チャイコフスキー: 懐かしい土地の思い出 (瞑想曲、スケルツォ、メロディ)
 クライスラー: ウィーン奇想曲
 グラナドス/クライスラー編: スペイン舞曲
 クライスラー: ロマンティックな子守歌
 クライスラー: ジプシー奇想曲
 ヴィエニャフスキ: グノーの《ファウスト》の主題による華麗なる幻想曲op.20
 (アンコール)
 サラサーテ: 序奏とタランテラ
 クライスラー: シチリアーノとリゴードン
 ベートーヴェン: ヴァイオリンソナタ第6番より第二楽章

 キュッヒル氏はウィーン・フィルのコンマスとして有名だが、私が氏の演奏を初めて聴いたのは、たぶん20年以上前だったと思うけれども、ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団の第一ヴァイオリンとして音楽文化会館に来演したときである。 非常な名演であった。 その後ウィーン・フィルのコンマスとしてりゅーとぴあに来演、それから協奏曲のソリストとして一度在京オケとの共演を聴いている。 しかしリサイタルは初めて。

 今回聴いてみて、音がわりに鋭いかな、と思った。 それから、ゆっくりしたところでは音の出がいいけれど、速い部分になるとさほどでもないということ。

 前半のメインであるクロイツェル・ソナタだが、ヴェテランらしく多少の緩急をつけつつ弾いていて、まあ余裕があると言えばあるのであるが、この曲の求心性のようなものはやや希薄。 今年の6月に東京で聴いた三浦文彰とイタマール・ゴランのまさに手に汗握るような熱演を覚えている私には、やや物足りない感じがした。

 そういう意味では後半の小品集のほうがよかったかも知れない。 といっても、選曲は比較的渋めというか、クライスラーにしてもよく取り上げられる愛の喜びだとか悲しみだとか美しいロスマリンではないし、またヴィエニャフスキにはこんな曲もあったのかと私は初めて知ったのではあるが。

 途中休憩20分をはさんで本プログラムが終わったのが9時直前。 それからアンコールを3曲もやって、終演は9時20分過ぎ。 さすがサービス精神満点。 ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団として音文に来たときも、たしかアンコールを3曲か4曲やり、ふつうカルテットのアンコールというと1曲かせいぜい2曲なので、ずいぶんサービスしてくれるなと感激したのだったが、今回もまさにお腹いっぱいになるくらい演奏してくれた。 メインプログラムが1時間半程度で終わってしまう日本人演奏家は見習うべきであろう (もちろん日本人演奏家でも、先日聴いた漆原朝子さんのようにメインプロとしてソナタを4曲やったりするちゃんとした方もおられるが)。

 サイン会もあったので、よさそうなCDがあったら買おうかと思ったものの、日本の歌を入れた1種類だけ。 残念無念。

 ピアノは、わりに表情を付けた演奏でしたが、もう少し淡々と弾いても良かったのではという気もした。

                      *

     *新潟日報に新潟ドイツ映画祭について寄稿

 本日の新潟日報文化面 (18面) に、今月19日からシネ・ウインドで始まる (プレ上映作品の『マリア・ブラウンの結婚』はすでに上映中) 新潟ドイツ映画祭についての私の寄稿 「新潟ドイツ映画祭に寄せて 多様性の一端触れて」 が掲載されました。 興味のある方はお読みください。 また、新潟ドイツ映画祭にもぜひお越しください。

 

10月8日(水)   *日本の地方議会議員の知性が問われる――いわゆる慰安婦問題への地方議会決議

 日本の国会議員ってのは二世三世議員が多くて質に問題があるんじゃなかということはよく言われるけれど、地方議会の議員だってどの程度知性があるかはかなり疑問がある。 本日の産経新聞では、いわゆる慰安婦問題をめぐって、日本の地方議会が信じがたい決議を行っている実態が明らかにされた。

 産経新聞に連載中の 「新帝国時代 第6部 歴史認識の蹉跌」 の第3回である。

 以下の引用にも書かれているように、信憑性に乏しい「河野談話」によって、韓国は現在、多数の韓国人女性が戦時中に慰安婦として強制連行されたというような、裏づけのない主張を行っている。 単に韓国国内でそういう主張をしているだけではない。 なぜか韓国人女性の慰安婦像が最近、アメリカに作られているのだ。 歴史的事実とは思われない事柄が、国際的に影響力の大きい米国において事実と受け取られてしまうような工作を、韓国はやっているのである。 

   http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131008/plc13100808100006-n1.htm 

   島根県議会で可決された慰安婦決議 自民までも賛成 危機感なし  2013.10.8 08:07

 ■身内の対応憤り

 「特定の社だけの取材は受けられない。これから本会議だから…」

 島根県議会が開会した9月12日。議長の五百川純寿(いおがわ・すみひさ)(64)=自民=は言葉を濁して議長室へ消えた。

 同県議会では6月26日に「日本軍『慰安婦』問題への誠実な対応を求める意見書」を賛成多数で可決した。竹島(同県隠岐の島町)問題を抱え、国際問題には敏感であるはずの島根県で、なぜ自民までも賛成に回ったのか。記者の問いに五百川は答えようとしなかった。

 根拠もなく旧日本軍による慰安婦募集の強制性を認めた河野洋平官房長官(当時)談話を基にした意見書は超党派によって提案され、民主、共産などに加え、自民も1人を除き賛成し可決された。

 《日本政府は1993(平成5)年『河野談話』によって『慰安婦』への旧日本軍の関与を認めて、歴史研究、歴史教育によってこの事実を次世代に引き継ぐと表明しました。(中略)日本政府がこの問題に誠実に対応することが、国際社会に対するわが国の責任であり、誠意ある対応となるものと信じます》

 採決の際に退席した自民党県議、小沢秀多(ひでかず)(63)は、「われわれ自民党はいわれのない批判に対し敢然と立ち向かい、日本人は強制連行をやっていないと言わなければならないのに、危機感がなさすぎる」と、身内の対応に憤りを隠せない。

 当初、小沢は本会議で反対討論をしようとしたが、自民会派の幹部から止められた。

 「異議を唱えるなら、ペナルティーを科さねばならない」

 小沢は幹部の冷たい言葉を次期県議選で公認しないという脅しと受け取った。心配した支援者らから説得を受け、小沢は反対討論を断念した。議場退席はせめてもの抵抗だった。

 ■議長選バーター説

 議会関係者の間では「意見書」議案に自民党が賛成した理由について「議長選とのバーターだったのでは」といった噂がまことしやかにささやかれる。6月議会で五百川が議長に選出された際、民主会派は賛成票を投じた。自民と歩調を合わせたのは異例の対応だった。

 民主会派の会長、和田章一郎(66)は「そんなひきょうな話はない」と「バーター説」を一蹴したが、ただ一人反対した無所属の成相安信(なりあい・やすのぶ)(61)は「民主との水面下の根回しが優先されたに違いない」といぶかる。

 成相は議案の本会議提出を決めた総務委員会でこう訴えていた。

 「『河野談話』を追認すれば間違った歴史認識が独り歩きすることに島根県議会が手を貸すことになる」

 懸念する事態はすでに起こっている。

 慰安婦像を設置した米カリフォルニア州グレンデール市議会で7月9日、設置推進派の市議はこう発言した。

 「日本でも多くの市議会が慰安婦問題で決議している。私たちは正しいことをしているのだ」 (敬称略)

  これ以降の産経新聞の記事は、以下のURLを参照。 どこの地方議会が同種の決議を行っているかが記されている。

    http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131008/plc13100811330009-n1.htm 

  なお、米国の慰安婦像は産経新聞だけが問題視しているのではない。 毎日新聞も社説で憂慮を表明している。 毎日新聞の立場は産経とはやや異なるが、少なくとも慰安婦像が米国に作られることを正しいこととは見ていない。 このように左派系の新聞すら問題視しているのに、地方議会の議員は何をやっているのか。 もっと勉強しろ、と言いたい。

    http://mainichi.jp/select/news/20130804ddm005070005000c.html 

社説:: 慰安婦像の設置 丁寧な説明今からでも   毎日新聞 2013年08月04日 東京朝刊

 米カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のグレンデール市の公園に、韓国系団体の働きかけで、慰安婦を象徴する少女の像が設置された。全米約20カ所で設置を目指すという。極めて残念で、事態を深く憂慮する。

 日本政府は、民間の寄付金をもとに道義的補償をした「アジア女性基金」など、過去の取り組みを丁寧に説明し、「日本は謝罪や補償をしていない」という一方的主張が全米に広がるのを食い止める必要がある。

 像の脇には「平和の記念碑」という石板があり、こう記されている。「1932年から45年まで、20万人以上のアジア人とオランダ人の女性たちが、大日本帝国軍によって強制的に性奴隷にされた」「これらの罪について日本政府が歴史的な責任を受け入れるよう求める」

 事実関係に争いがあることが確定したように書かれ、日本が謝罪をしていないような印象を与えている。

 像が設置される背景には、韓国側が日本政府に対し、法的責任を認めて謝罪し、国家による補償をするよう求めている事情がある。

 65年の日韓国交正常化の際の日韓請求権協定は、韓国が対日請求権を放棄する代わりに、日本は総額8億ドル以上を供与し、両国の請求権問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認している。しかし90年代に入って慰安婦問題が表面化し、韓国は慰安婦問題は請求権放棄の対象ではないと主張し出した。

 日本は「国家補償をする国際法上の義務はない」との立場を崩していない。だからといって、何もしてこなかったわけではない。93年の河野洋平官房長官談話では、慰安婦問題について旧日本軍の関与を認めて謝罪した。95年には「アジア女性基金」を設立し、韓国、フィリピン、台湾、オランダの計364人の元慰安婦に、償い金や医療福祉支援事業、首相のおわびの手紙を届けた。しかし、韓国では、日本政府が法的責任を回避しているとして、多くの元慰安婦が受け取りを拒否した。

 今回、米国で像が建てられたのは、日本政府が国際社会に、こうした河野談話やアジア女性基金などの説明を十分にしてこなかったという、外交発信の失敗も大きい。

 今からでも遅くはない。民間有識者らも巻き込んで、理解を得る取り組みを強化すべきだ。同時に韓国側にも冷静な対応を求めたい。

 

10月6日(月・祝)    *ネーベル室内合奏協会 第65回定期演奏会

 本日は午後2時からりゅーとぴあで標記の公演があった。 客の入りは悪くなく、1階席と2階正面のCブロックが3分の2くらいは埋まっていた。 Cブロック脇のB・Dブロックも少々客が入る。 私はCブロック4列目右端で鑑賞。

 独奏ヴァイオリン=桐山建志

 ヴィヴァルディ: 弦楽のための協奏曲 ニ長調 F.XI.n.30
 コレルリ: 合奏協奏曲 ト短調 op.6-8
 アルビノーニ/ジャゾット編: 弦楽とオルガンのためのアダージョ
 (休憩)
 ヘンデル: 合奏協奏曲 イ長調 op.6-11
 バッハ: ヴァイオリン協奏曲 イ短調BWV1041
 (アンコール)
 バッハ: 無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番よりアンダンテ (桐山建志)
 バッハ: 主よ、人の望みのよろこびよ (桐山氏以外の全員) 

 いつものように、ヴァイオリンには奥村和雄氏、庄司愛さん、佐々木友子さん、チェロには渋谷陽子さんが加わっている。 コントラバスはおなじみの別森麗さん。

 今回は比較的よく知られた曲が並んだ。 聴いていて、心が安らかになってくる。 殺伐とした毎日を忘れるような、そんな演奏会である。

 最後のバッハで登場した桐山建志はさすがの名演奏。 バックもよく合っていた。 アンコールにバッハの無伴奏ソナタの一部が弾かれた。 その後、桐山氏を除く全員でもう一曲。 メインのプログラムはやや短めだったのだけれど、アンコール2曲で挽回といったところだろうか。

 というわけで満足度が高い演奏会だったのであるが、余計な心配をすると、「会友」 や 「賛助出演」 という名目の出演者が多く、そうでない方が年々少なくなっている。 以前は春秋と年2回演奏会を開いていたのが、ここ数年は秋だけになっている。 貴重な演奏団体だと思うので、何とかメンバーを増やして演奏会を続けていっていただきたいものである。

 

10月5日(土)    *モーツァルト 「コシ・ファン・トゥッテ」 上演

 午後2時から黒埼市民会館で行われたオペラ公演に出かける。 新潟大学教育学部音楽科有志による上演。 この日は、プラハ国立歌劇場による 『魔笛』 公演がりゅーとぴあであり、お金のある音楽ファンはそちらに行ったと思うが、私は浮き世の義理というやつでこちらに行ったもの。 前売り800円と安いし (笑)。

 会場は定員が多くないとはいえ、満席に近い入りであった。 私はぎりぎりに駆け込んだので、前のほうの、器楽演奏者たちの目前の席。 といっても、器楽奏者は多くない。 ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1、クラリネット1、フルート1、ピアノ1(奏者は2名、前半と後半で交代)。

 指揮は松浦良治 (新潟大学教育学部音楽科教授)、演出は阿部実結樹 (新潟大学教育学部音楽科学生)。

 配役は、グリエルモが泉篤史 (バス)、フェルナンドが近藤洋平 (テノール)、フィオルディージが桑野彩 (ソプラノ)、ドラベッラが松田珠実 (ソプラノ)、アルフォンソが猪又遼介 (バス)、デスピーナが波多沙也加 (ソプラノ)。 ほか合唱団。 日本語公演。

 で、聴いた感想であるが、案外 (失礼) いいじゃないか、と。 このオペラの楽しい雰囲気がよく出ていた。 歌手ではまず何と言っても桑野彩さん。 声がよく通っていて、一頭地を抜いている感じである。 それに次いで、男性の3人も悪くなかった。 女性の他の2人は声の通りで言うとイマイチの感であったが、女性は3人とも可愛いので、視覚的には合格 (笑)。 途中休憩を入れて2時間半、楽しい気持ちで過ごすことができた。

 

10月2日(水)   *拙著 『夢のようにはかない女の肖像 ドイツ文学の中の女たち』 (同学社、1500円+税)

 私の新著がこのほど刊行されました。 ドイツの小説や戯曲に登場する女性像に焦点をあてて、分かりやすく紹介した本です。 いわゆる専門家向けではなく、一般の文学愛好家のために書いたもの。 価格も低めに抑えましたので、どうか店頭でごらんになり、お気に召したら購入してください。 以下に章立てを記しておきます。

 心の貞節と体の貞節: レッシングの『エミーリア・ガロッティ』
 女が三角関係を維持するとき: ゲーテの『若きウェルテルの悩み』
 不倫と貞節の狭間で: クライストの『アンフィトリュオン』
 恋と増悪は紙一重: ヘッベルの『ユーディト』
 娘にとって母の存在とは: シュトルムの『みずうみ』
 女にとって美貌とは: ゲーテの『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』
 悪女とお嬢様の対決: レッシングの『ミス・サラ・サンプソン』
 女が芸術家と市民の間で悩むとき: グリルパルツァーの『サッフォー』
 マゾヒズムの語源となった作家: ザッハー=マゾッホの『公妃ライェフスカ』
 夢のようにはかない女の肖像(その1): シュトルムの『告白』
 夢のようにはかない女の肖像(その2): ハインリヒ・マンの『奇蹟』
 都合のいい女と悪い女: シュテファン・ツヴァイクの二つの短篇
 若い叔母という微妙な存在: リルケの『マルテの手記』
 少女の原像: ヨーゼフ・ロートの『酔いどれ聖者の伝説』
 女が同性愛に走るとき: バッハマンの『ゴモラへの一歩』
 精神的なスワッピングの構図: ゲーテの『親和力』  

 ISBN    978-4-8102-0249-6  四六判 並製 274頁

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9月30日(月)   *入試問題の外注はイケマセンと言うけれど――或いは、英語教員は大変なのだ!

 本日の毎日新聞に以下のようなニュースが。 要するに、大学が入試問題作成の外注をやっていて、それがケシカランということらしいんだが。

     http://mainichi.jp/select/news/20130930k0000e040147000c.html  

 入試問題:98大学で外注 07年中止要請も逆に拡大  毎日新聞 2013年09月30日 07時17分(最終更新 09月30日 10時04分)

 今春実施された大学入試のうち、全国の98大学が問題の作成を予備校や受験関連企業に委託していたことが、文部科学省の調査で分かった。 同省が2007年度に初めて 「問題外注」 の実態を調査した際は71大学で、当時より4割近く増加している。 同省は07年7月、全国の大学に入試問題の独自作成徹底を通知したが、逆に拡大している実態が明らかになった。 大学入試改革を検討している政府の教育再生実行会議 (座長・鎌田薫早稲田大総長) の議論にも影響を与えそうだ。

 調査は今年4-6月、全国の740大学を対象に実施した。 外注していた大学は私立大97校、公立大1校。国立大はなかった。 私立大では6校に1校が外注していたことになるが、調査は大学の自己申告で 「実際にはこの2倍以上あるのではないか」 とみる受験関係者もいる。

 関係者によると、受注しているのは教育コンサルタント会社や予備校で、作成費は1教科あたり100万円前後とされている。

 入試問題の外注を巡っては、07年度入試で全国の国公私立大741校(当時)のうち71校の私立大が外部に委託していることが判明。 同省は、入試問題の漏えいや公平性が損なわれる恐れがあるとして07年7月、全国の大学に 「(問題の)作成は大学の受け入れ方針に基づき、自ら行うことを基本とする」 と通知。 今春実施された入試要項でも外注しないことを求めていた。

 大学入試の見直しを検討している教育再生実行会議は、高校生の学力把握のために 「到達度テスト」 の導入などを検討しているが、大学の 「問題外注」 は、各大学が独自の教育理念に基づいて入学を求める学生像を示すアドミッションポリシーの放棄ともいえ、今後の入試改革でも議論になりそうだ。 【水戸健一、三木陽介】

 ◇理念軽視の背信行為

 大学の力量低下を象徴する入試問題の外注だ。個々の大学が教育目的に合う学生を選ぶ入試問題の作成を、受験産業に委ねることは本末転倒と言わざるを得ない。

 少子化などで私立大の4割が定員割れする状況の中、学生確保を巡る大学間の競争は激しい。 定員確保のため、同じ学部や学科を何度も受験可能にしたり地方受験の機会を設けたりする大学が増加。作問量は当然増えるが教員が対応しきれていない。 悪問も発生する。

                 *

 こういう状況が生まれるのは、それなりの理由があってのことなんだが、この記事はその辺を掘り下げて書いていないね。 文科省も、こういう場合、「好ましくない」 なんて言うだけだからお気楽なもんだよ。 自分が誘導した大学改革の結果がこういう状況を生んでいるのだから、少しは反省したらどうだ。

 要するに、20年前に始まった大学改革により、人文系の大学教員は減少の一途をたどっているし、新規採用される場合も新しい分野の教員が増えて、従来の入試問題作成ができる人材が激減している、ってことが背景にあるんだよ。

 典型的なのは、英語だ。 以前、教養部があった時代には、英語関係教員は非常に数が多かった。 文学部とか人文学部には英米文学科の教員が数名いるし、それ以外に教養部に英語の教員がかなりたくさんいた。 新潟大なら、教養部解体直前、英語教員は教養部に15名いたのだ。 これに人文学部の英米文学科や教育学部の英語科の教員を合わせれば相当な数になる。 だから入試の問題作成も、また採点も、全部英語教員だけでやっていた。

 ところが今はどうか。 新潟大学なら人文学部の英米文学科 (という名称ではもうないけれど) の教員は以前より減っているし、元教養部の英語教員も半数あまりが定年退職して、その代わりが来ない場合もある。 また、会話重視が叫ばれているため、日本人ではなく英語のネイティブ教員が採用されることも多いが、外国人の教員には日本人学生相手の英語入試問題作成はまずできない。 つまり、それだけ日本人英語教員の負担は重くなっているのだ。

 加えて入試の多様化が言われており、しかも英語はたいていの場合入試科目に入っているから、英語の先生はそのたびごとに問題を作成しなければならない。 はたから見ていて気の毒になるほどだ。

 また、英語教員が激減しているせいで、今の新潟大では入試採点も日本人英語教員――これまた外国人英語教員には無理――だけでは足りなくなり、他の人材に応援を頼んでいるいる。 はばかりながら、私も数年前、応援を頼まれてやったことがある。

 こういう現状の困難さを見ることなく、単に入試問題を外注するなって叫ぶだけでは、何も解決しないんだよ。

 文科省と毎日新聞よ、分かったか!?

 

9月29日(日)   *井上静香と仲間たち クラリネット五重奏の午後

 本日は午後2時から標記の演奏会に出かけた。

 会場のだいしホールは、満席とはいかないが4分の3くらいは入っていたかな。 私はこの会場ではふだんは右側後ろ寄りに座るのだが、そのあたりが特に混んでいたので、左側の8列目に席をとる。

 井上静香さんの恒例の秋の演奏会。 今回の出演者と曲目は下記のとおり。

 ヴァイオリン=井上静香、猶井悠樹、ヴィオラ=大島亮、チェロ=辻本玲、クラリネット=中秀仁

 コダーイ: 2つのヴァイオリンとヴィオラのためのセレナーデop.13
 ジャン・フランセ: クラリネット五重奏曲
 (休憩)
 ブラームス: クラリネット五重奏曲
 (アンコール)
 ベルト・ケンプフェルト/中秀仁(編曲): L-O-V-E 

 この演奏会で特筆すべきは、演奏レヴェルの高さであろう。 井上さんのヴァイオリンの音色はよく通り、また音に艶がある。 他の奏者たちもみなプロフェッショナルで言うところなし。

 私的には、最初のコダーイの曲が面白かった。 初めて聴いたのであるが、ヴァイオリン2本とヴィオラ1本で奏でる曲は珍しい。 3人が交代で1人ずつ軸になりながら、その軸を中心に残りの2人が掛け合いをするというパターンが多く、これが結構面白い。 25分くらいと、長さもわりにあるし、案外傑作なのかも、と思う。

 フランセのクラリネット五重奏曲も初めて聴いた。 そもそもこの編成の曲がフランセにあるということも知らなかったわけだが、うーん・・・・率直なところ、そんなにいい曲なのかなあと疑問。 演奏にはまったく文句の付けようもないけれど、曲が面白く感じられるかどうかはそれとは別なのだ。

 後半はブラームス。 有名な曲だけど、実は私はこの曲はあまり好きではない。 同じ晩年のブラームスによる2曲のクラリネットソナタは大好きなんだけど、この五重奏曲は最初から最後まで憂鬱の虫にとりつかれたみたいで、何か敬遠したくなるところがある。 演奏はやはりすばらしく、クラリネットも細かいニュアンスをつけながら曲の細部まできちんと表現しているのは分かったが、いかんせん、好き嫌いを変えるまでには至らなかった。

 ちょっと申し訳ないような感想になってしまったが、井上さんがこの季節に新潟市で演奏会をやるようになって、新潟市のクラシック音楽シーンは確実にレヴェル・アップしている。 次回は私の好みの曲が取り上げられるのを期待したいところである。
 
 アンコールはポピュラーの名曲をクラリネットの中氏が編曲したもの。 ブラームスの憂鬱さを吹き飛ばすような、いい選曲。 中氏はここではバス・クラリネットを吹いていた。 せっかくだから、メインの曲にもバス・クラリネットを使った曲があれば、というのは欲張ったリクエストだろうか。

 

9月28日(土)   *クァルテット・エクセルシオ 弦楽四重奏曲傑作選

 午後2時から、新潟市で標記の演奏会があった。

 本日は午前10時30分頃に東京駅を出る新幹線で新潟に戻り、駅のホームで昼食にうどんを食べ、それからバスでりゅーとぴあへ。 開演30分前に着いたら、ロビーに長蛇の列。 ちょっとびっくりしたが、考えてみると今回の演奏会は東響新潟定期会員にはチケットが送られているわけだから、ふだんの室内楽演奏会とは入りが異なるのも当然なのであった。

 まあ、理由はともかく入りがいいのは良いことではある。 1階は前のほうの左右両端以外はよく客が入っていたし、2階正面Cブロックは満席。 2階のB・Dブロックにも客が入っていた。 私は1階10列目の右寄りに座った。 いつもながら、右寄りだと第一ヴァイオリンの西野ゆかさんのお姿がよく見えるからである。

 さて、登場した4人を見ると、女性3人はいずれも赤いドレス。 でも同じではなく、よく見るとデザインが少しずつ異なっている。 唯一の男性であるチェロの大友さんは黒い服。 そして配置もこれまでとは異なって、第二ヴァイオリンの山田さんが右端、ヴィオラの吉田さんが西野さんの隣りとなっている。 オーケストラならともかく、カルテットでこういう配置を見るのは私は初めて。 でも、実際に演奏を聴いてみると違和感がない。 第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの掛け合いなどはむしろこのほうがよく分かるし、悪くないのではないか。

 ベートーヴェン: 弦楽四重奏曲第2番ト長調op.18-2
 ショスタコーヴィチ: 弦楽四重奏曲第8番ハ短調op.110
 (休憩)
 ドヴォルザーク: 弦楽四重奏曲第12番ヘ長調 「アメリカ」
 (アンコール)
 ドヴォルザーク: 弦楽四重奏曲 「糸杉」 より

 古典、20世紀、19世紀民族派と並べたプログラムだけど、いつもながらしっかりとした音でゆるぎない演奏を聴かせてくれた。 私としては、好きではないショスタコーヴィチが案外気持ちよく集中して聴けたのが収穫。 むろん、他の2曲もよかった。 合奏能力が高いというだけでなく、各奏者が出るべきところではきちんと出て実力を披露してくれるのがこの四重奏団のいいところなのだ。 そして西野ゆかさんのヴァイオリンがよく鳴っていて、旋律の線をしっかりと聴衆に提示してくれる。 東京ではタカーチ四重奏団も聴いたわけだが、クァルテット・エクセルシオはやはり実力派。 少なくとも第一ヴァイオリンは絶対こちらのほうがいい。 容姿だけじゃなく (笑)。

 パンフによると、東京、京都、札幌では定期演奏会をやっているそうで、新潟でもどうだろう。 この際だから新潟定期を、毎年開催してもらいたいもの。 ロマン派やフランスものなど、多様な作品を聴く機会をぜひ設けて欲しい。

 終演後サイン会があって、並んでいる人が少ないので、以前にもパンフやCDにサインをもらっていたのではあるが、またパンフにサインをしてもらう。 西野ゆかさんを至近距離で拝見できたし、よかったよかった (こればっかり)。

 

9月27日(金)   ベトナム国立交響楽団演奏会

 昼頃、都立中央図書館に調べ物をしに出かける。 あらかじめ腹ごしらえをしておこうと思い、日比谷線の広尾駅を出てからその辺を歩いてみたら、ピザパイの店があった。 広尾は大使館勤めの外国人やその家族の多い街であるせいか、この店もどことなくヨーロッパ風。 

 昼食セットで、ピザパイとミニサラダとヨーロッパのビールで合わせて千円。 ピザパイは薄く焼いてあるので丸1枚食べても大丈夫。 昨年5月にミュンヘンに旅行したときにシュヴァービングで食べたピザパイを思い出した。 値段もまあ安いけれど、ヨーロッパ風だからということなのか水が出てこないのが難点。 水をタダで出すのは日本の飲食店の美点なのだから、そこは日本風にして欲しいものだ。

 夕刻まで調べ物をして、その後はコンサートへ。 今回の上京で最後に聴いた演奏会。 午後7時、オペラシティホールにて、ベトナム国立交響楽団のコンサートがある。 日本以外のアジアのオーケストラを聴くのは初めてである。

 チケットはあらかじめチケットぴあで購入したのだが、S席6000円で1階の5-10という座席。 5列目じゃ前すぎるなと思って会場に行ったら、前から5列目の10番にはすでに人がすわっている。 あれ、と首をかしげたが、なんとオペラシティホールの1階席って、最前列が3番なんだね。 つまり5-10とは前から3列目なのだ。 うーん、これでSか。 外来オケで6000円は安いけれど。  プログラムは配布されず、800円ということだったが、買わず。

 指揮=本名徹次、ピアノ独奏=児玉桃

 武満徹: 弦楽のためのレクイエム
 グェン・ティエン・ダオ: ピアノ協奏曲 「コンチェルトヴィーヴォ」 (世界初演)
 (休憩)
 ベートーヴェン: 交響曲第7番
 (アンコール)
 ベトナムの民謡から

 ともあれ座席にすわり、開演時刻に団員が入場。

 左から第一ヴァイオリン(11)、チェロ(8)、チェロの後ろにコントラバス(6)、ヴィオラ(8)、第二ヴァイオリン(10)という配置と人数。 コンマスは若い女性。弦は、コントラバスは全員男性だが、それ以外は女性が多い。 最初の曲は弦楽器だけだったのだけれど、その後確認したところでは打楽器や管楽器はほぼ男性だけで例外はフルートの女性2名だけ。

 さて、団員が着席しているのにいつまでたっても指揮者が現れない。 何やってんだろうなと思いながら6〜7分ほど待っていたら、団員がさっと起立。 あれ、と後ろを振り返ったら、2階正面席の最前列が何席も空いていて、そこに客が数人入ってくるのが見えた。 ははあ、皇族か、とようやく思いいたる。 遠目なのではっきりしなかったけれど、どうやら皇太子殿下のよう。 だからいつまでたっても指揮者が現れなかったのか、と納得。 あとでネットで調べたら、この演奏会は日本とベトナムの外交樹立40周年記念なのだそうで、その辺から、ということであろう。

 そういうわけで若干定刻より遅れたが、ようやく演奏開始。
 座席が前過ぎるのであまりたしかな演奏会評は書けないけれど、弦は結構エネルギッシュ。 上記のようにヴァイオリンの人数がやや少なめなのであるが、音で聴く限りそのハンディ(?)は感じられない。 他方、管は、座席の位置のせいもあるかも知れないが、ベートーヴェンを聴く限りどこか物足りない。 音量も、音色も、もうちょっとかなという気がした。

 2曲目は、現代ベトナムの作曲家による曲。 いわゆる現代曲なのだが、第一楽章は空から星が降ってくるような印象。 といってもロマンティックという意味だけではなく、小惑星も隕石も一挙に降ってくるような、と言えば何となく感じは分かっていただけるかな。 曲が終わって、客席から白い服を着た小柄な老人が舞台に上がった。 作曲者である。 惜しみない拍手が送られた。 

 ちなみに第一曲が終わったとき、独奏用のピアノが運ばれたあと、派手目の衣服を着た女性が現れたので、てっきりピアニストかと思われたのであろう、拍手が起こったが、単に楽譜を運ぶ役の人であった。 もう少し地味な服装なら間違えようもなかっただろうが、これもお国柄なんだろうか。

 アンコールの前に、指揮者の本名さんから、オペラシティホールの音響はすばらしいが、ベトナムのハノイにもできて100年になる立派なオペラハウスがある、ぜひおいでいただきたいというお話があった。 あとでネットで調べてみたら、フランス植民地時代の建物がそのまま残っているのだ。(下記リンク参照)

  https://vietnam.navi.com/miru/79/ 

 というわけで、私ばかりか皇太子殿下のご来臨までたまわって(おいおい)、演奏会は友好的な雰囲気のうちに幕となった。 

 

9月26日(木)   *タカーチ弦楽四重奏団演奏会

 今回上京して行った2つめのコンサート。 会場は紀尾井ホールで午後7時から。 満員。 座席はS席で6000円だが、1階24列目の右端(一段高い脇席は除く)で、あんまり上等とは思えない。 チケットぴあで上京間際に買うとこの程度の席しかないんだろうなあ。

 タカーチ四重奏団は、第一ヴァイオリン奏者がタカーチという名であったところから命名されたが、現在は第一ヴァイオリン奏者は別人になっており、本来なら名称も変更すべきところ、そのままになっているという団体である。 第二ヴァイオリンとチェロは創設メンバー。 詳しく言うと、1975年に創設され、93年に第一ヴァイオリンが変わっている。 現在はヴィオラのみ女性奏者。

 ベートーヴェン: 弦楽四重奏曲第4番ハ短調op.18-4
 バルトーク: 弦楽四重奏曲第4番BB95
 (休憩)
 ブラームス: 弦楽四重奏曲第2番イ短調op.51-2
 (アンコール)
 スメタナ: 弦楽四重奏曲第1番 「わが生涯より」 から第2楽章

 さて、弦楽四重奏団にも色々個性がありけれど、私は第一ヴァイオリンの音で2つに分けられると思っている。 第一ヴァイオリンが協奏曲の独奏を担当するかのごとくにしっかりとした魅力的な音量・音色を持っている四重奏団と、第一ヴァイオリンの音量・音色がさほどではなく他の3人の奏者といわば均等であるような団体である。 それで言うなら、私は今回初めてこの団体を聴いたので昔のことは知らないけれど、現在のタカーチ四重奏団は後者であろう。

 それと、弾き方というか解釈。 メロディラインをきっちりと表現していくのではなく、良く言えば情感に浸りすぎないように適度にはしょって弾いているような感じ。 曲によってはこういう解釈もいいかも知れないのだが、私はあまり好まない。

 まあそういう団体なので、聴いていると創設メンバーでもあるチェロの重みが結構感じられるような。 第二ヴァイオリンも結構がんばっている。 創設メンバーの二人がやはり支えている団体なのかなと。

 私はバルトークは不得手でさっぱり分からない人間なので、ベートーヴェンとブラームスで判断するが、後半のブラームスは音もまあまあ出ていて、ブラームスのじっとりしたところが解釈のドライさと微妙にマッチしていて、悪くなかったのではないかと思った。 最初のベートーヴェンは、若さ故の力みみたいなものを、上記の解釈で適度に抑制して弾いているようで、受け取り方は人次第であろう。

 アンコールのスメタナが結構よかった。 私の好みとしては、メインプロからバルトークをはずしてスメタナにしておいてくれれば、という気がした。

 

9月24日(火)   *鵠沼サロン・コンサート第325回 漆原朝子ヴァイオリン・リサイタル

 本日、上京する。 この日の晩に聴いたのがこの演奏会。

 鵠沼のサロン・コンサートは、数年前に一度、神尾真由子さんのリサイタルを聴いたことがある (チャイコフスキー・コンクールで優勝する前)。 今回は2度目。 あらかじめ電話予約をして、非会員価格5500円。

 会場が遠いのが難点。 新宿から小田急線の快速急行で藤沢まで1時間。 そこから乗り換えてさらに2駅目の鵠沼海岸下車。 駅から歩いて8分程度。 細い路地沿いに商店街や住宅街が続いていて、大地震が来たらどうするのかなあ、なんて考えてしまうような場所の一角にレスプリ・フランセというレストランがある。 ただ、前回の神尾さんのときとは違う部屋で行われた。 前回より狭くて、聴衆も少なめ。 ただし部屋が狭いのでほぼ満席。 聴衆は40名くらいか。
 
 ヴァイオリン=漆原朝子、ピアノ=ベリー・スナイダー

 フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第2番
 サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ第1番
 (休憩)
 ルクー:ヴァイオリン・ソナタト長調
 フランク:ヴァイオリン・ソナタイ長調
 (アンコール)
 フォーレ:子守歌

 プログラムはフランスのソナタばかり4曲という、いささか重量級なもの。

 漆原さんの演奏を生で聴くのは初めてである。 登場したお姿を拝見すると、紺色のドレス、髪は前のほうを額に垂らして、他は後ろに寄せ、頭のてっぺんあたりに銀色の髪留めをしていて、ちょうど肩のあたりまで届くくらいの長さ。 非常にフェミニンで、女性のお年を言うのは失礼かも知れないが、四十代半ば過ぎの熟女の色香も過ぎない程度にあって、会場が狭くて至近距離だったこともあり、一瞬くらっと来た。

 ピアノのスナイダーは、1966年のヴァン・クライバーン・コンクールで入賞した人だそうで、入賞歴が半世紀近く前であることからして、おそらく70歳前後ではないか。 白人男性にありがちなことで、かなり恰幅がいい人である。

 演奏はどれもすばらしかったが、やはり最後のフランクが、曲の出来からしてもきわめて満足度の高い仕上がりであった。 逆に言うと、フォーレの2番とルクーは、曲に馴染んでいないので、よく分からないところがあった。 私はフォーレのヴァイオリン・ソナタは1番は大好きだけど、2番はどうもよく分からない、すみません。

 会場は音楽専用ホールではないし、狭いし、前から3列目という距離だったこともあり、漆原さんの真価が聴けたかどうかは分からないが、彼女は強い表現をする箇所でその実力を発揮するタイプかなと感じた。 音量が大きくなり、また必要な激しさも十分に備わっているのだが、といって一定の節度はきちんと保たれていて、野放図になることがない。 ちゃんとしたホールで聴いたらもっとすばらしかったと思う。

 ピアノも悪くはなかったが、会場の狭さ、それからコンサートホールにあるような大きなグランドピアノではなく、グランドピアノとしては一番小さなタイプだったこともあってか、音がややぼけて聞こえた。

 開演が午後7時で、途中15分休憩を入れて、短いアンコールで締めくくると時刻は9時20分近く。 会場では終演後CD販売があり、買うとサインももらえるというので心が動いたのではあるが、何しろこの夜のうちに都心の向こう側にある船橋 (千葉県の) まで行かねばならないので、断念した。 鵠沼海岸が夜9時30分発の電車に乗って、船橋に着いたのはちょうど夜中の12時頃。 やれやれ、コンサートを聴くのも楽ではない。

 

9月23日(月・祝)   *東京交響楽団第79回新潟定期演奏会

 午後5時から、東京交響楽団新潟定期演奏会。 会場のりゅーとぴあ・コンサートホールは、いつも程度の入り。

 指揮=飯森範親、ヴァイオリン独奏=川久保賜紀、オルガン独奏=山本真希、コンマス=水谷晃

 ラロ: 歌劇 「イスの王様」 序曲
 ラロ: スペイン交響曲
 (休憩)
 サン=サーンス: 交響曲第3番

 コンサートマスターの水谷晃さんは、先に行われた佐村河内守の交響曲演奏会が新潟デビューだったわけだが、定期演奏会ではこれが最初となる。

 演奏だが、サン=サーンスの交響曲は良かった。おなじみの曲ではあるが、実演で聴くと、ああ、ここでオルガンがこういう風に入るんだっけとか、ここでオルガンとこの楽器が絡むんだなとか、そういうことが手に取るように分かり、結構工夫して作ってあるんだな、なんて作曲者に失礼なことを考えてしまった。 演奏の密度も濃かったし。

 で、協奏曲だけど、きっちりしっかり弾いているのではあるが、どことなく物足りない感じが残った。 ブラヴォーが出なかったのも分かる気が。 
思うに、川久保さんは指揮者に合わせすぎるんじゃないだろうか。 もちろん協奏曲だから合わないのはいけないけど、今回の演奏を聴いて、合わせすぎるのも考え物じゃないかと。 言うならば良妻賢母型の演奏で、私は自分がお付き合いする場合は良妻賢母型の女性は大好きだけど、協奏曲のソリストの場合、女王様的なところもないといけないのでは。 一人でオケの数十人と張り合うのだから。 別の言い方をすると、自己主張が足りないのである。

 川久保さんはご存じのとおりチャイコフスキー・コンクールで1位なしの2位であった。 つまり出場者の中では川久保さんが一番だったけど、1位を与えるにはどこか物足りなかった、ということであろう。 その辺のところじゃないかな。

 

9月21日(土)   *9月にも冷やし中華を!

 本日、学校に出て雑用をしこしこと片付け、午後1時半頃行きつけの、私の研究室から歩いて8分ほどのラーメン屋 (といってもチェーン店ですけど) に行って冷やし中華を頼んだら、「もう終わりました」 と言われた。

 以前にも別の店について同じようなことを書いた記憶があるが、どうも新潟の飲食店は夏メニューから秋メニューに変更する期日が早すぎるので困る。

 昔なら9月下旬は秋そのものだったかもしれないが、最近は温暖化傾向で9月といっても結構暑いのである。 本日も朝方は涼しかったが、昼食の時間帯に外に出ると太陽がぎらぎらと照りつけていて、歩いていると汗をかく。 あとでネットで確かめたけれど、この日の新潟市の最高気温は30度に達していた。 最高気温が30度なら立派な夏ですよ。

 だからお願いします。 9月中は夏のメニューを維持してください。 今どきは9月下旬でも夏なんですよ。 30度の炎天下を8分ほど歩いてたどりついたラーメン屋に冷やし中華がないなんて、そんな殺生な。

 

9月20日(金)   *オランダ・ハーグ派展

 本日は女房とクルマで長岡市にある新潟県立近代美術館へ、オランダ・ハーグ派展を見に出かける。

 ルネッサンスやフランドル絵画は人物画が中心だが、それ以降になると風景画がしだいに美術の中心になっていく。 オランダのハーグ派は、バルビゾン派と印象派の間くらいに位置していて、またミレーの、貧しく素朴な農民の暮らしを題材とした絵画にも影響を受け、自然の風景や農民の暮らし、また家畜などを好んで題材に選んだということである。

 この展覧会ではそうした美術史の流れがよく分かるように展示がなされている。 ハーグ派からバルビゾン派への逆影響などもあったらしい。

 あっと驚くような絵画はないけれど、あのモンドリアンももともとは風景画から出発していることが分かったのは収穫だったかな。 あと、風景画家が素朴な海岸の観光がらみの開発計画に反対運動を起こしたなんてエピソードもあり、エコロジーブームがこの辺からすでにあったのだと認識させられた。 もっとも、画家からすれば、素朴な風景画を描くための風景が失われてしまうことは商売あがったり、ということでもあるだろうけれど。

 新潟市や長岡市の美術館で展覧会を見るといつも思うことだが、東京の美術展よりはるかに人が少ないので、ゆっくり見られるし、疲れも少ない。 東京近辺にお住まいの方もぜひ一度お越しください。

 この展覧回は来月14日まで行われています。 詳しくは下記リンクから。

 http://www.lalanet.gr.jp/kinbi/exhibition/2013/haag.html 

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9月16日(月)   *漠然たる不安――JR北海道ディーゼル特急列車の事故続発について

 私が今さら書くまでもないけれど、少し前から北海道ではJRの特急列車に事故が続発し、ダイヤ編成まで変更して、おかげで観光旅行にも影響が出ているらしい。

 私には漠然とではあるが不安がある。 これが日本の工学技術後退の兆候でなければいいが、という不安である。

 私には専門的なことはよく分からないけれど、続発しているのがディーゼル特急列車に限られているというのは、何となく示唆的な気がする。

 本州では昔はともかく、今は在来線でもディーゼルカーの特急列車はほとんど見ない。 特急列車は基本的に電車になっており、例外は山陰線くらいではないか。 北海道だからこそ今でも保守本流的に残っているのがディーゼルカーの特急列車なのだ。 しかしその技術の保持ができなくなっているとすれば、それは北海道の厳しい気候のせいなどもあるかもしれないが、技術力そのものが下降しているからではないのか。

 われわれが日常的に支障のない先進国としての暮らしをすることができるのは、言うまでもなく技術力によっている。 住んでいる住宅であろうと、通勤通学に使う鉄道やバスや自家用車であろうと、こうして今私が使っているパソコンであろうと、一定以上の技術力の水準があるからこそ可能になっているのだ。 しかし、何らかの原因で技術力が保持できなくなれば、使えるのが当たり前だと思っている日常の様々な機器類は使えなくなってしまうだろう。

 昔むかし、戦後ながら新幹線なんてものが存在しなかった頃、私の住んでいた福島県いわき市 (当時はまだ合併前で、厳密にはいわき市はできていない) を通る 「はつかり」 という特急列車があった。 当時としては上野と青森を最短時間で結ぶ列車で、停車駅も少なく、上野を出ると水戸、平 (現いわき)、仙台、一ノ関、盛岡、尻内 (現八戸) にしかとまらなかった。

 この 「はつかり」 は最初は客車を蒸気機関車で牽引する方式だったが、1960年にディーゼルカーの特急に置き換えられた。 ところが、ディーゼル化された 「はつかり」 は初期においてはエンジンの過熱による火災など、きわめて事故が多く、「はつかり、がっかり、事故ばっかり」 などと揶揄される始末だった。

 これは、特急のように長距離を長時間高速運転することがディーゼル・エンジンにとってはきわめて難しかったという事実を示している。 少なくとも1960年の日本の技術力はそのくらいの水準だったのだ。

 その後は技術力も向上して、そういう事故は聞かなくなっていた。 ところが2013年、つまり 「はつかり」 がディーゼル化されてから半世紀あまりたち、高速鉄道といえば新幹線であり、在来線特急も電車が普通になった今になって、ディーゼル特急の技術を維持することが難しくなってきている。  それは、北海道のように、鉄道の営業には環境が不利な土地柄のためもあろう。 何しろ人口が札幌に集中しすぎていて、他の都市との間を結ぶ交通業が成り立ちにくいからだ。

 しかし、何か事があれば、ディーゼル特急以外の何かにおいても、似たような事態が起こらないとは限らないのである。 人口減少期に入った日本が潜在的に抱える劣化現象のひとつが、こういうところに兆候として表れているようにも思われる。

 探してみたら、以下のような記事があった。 この問題が今後どうなるか、慎重に見守りたい。

 http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/09/post-587.php 

 

9月12日(木)   *最近聴いたCD

 *アンセルム・ビオラ: ミサ曲 「救世主の慈悲深き聖母」、ほか (Koch/Schwann、3-1236-2、1989年録音、オーストリー盤)

 スペインのモンセラート派 (というのがあるらしい) に属する作曲家、アンセルム・ビオラ (1738〜1798) の作品集。 彼はスペインのジローナ (Gerona、当地読みではヘローナ) に生まれ、そこで教育を受け修道僧としての見習いを経て正式の僧侶となり、さらにマドリッドのモンセラート修道院において神学と音楽の教育を受けた。 やがて王宮でも作曲家として知られる存在となったが、のちにモンセラート修道院に戻り音楽教師としての職務を果たした。 教え子にはギタリスト兼作曲家として有名なFerran Sorsもいて師についての伝記を残している。 作曲家としても数々の作品を書いたが、残念ながら今に伝わるものは少ない。 このディスクは、その中でも充実した作品を収録している。 まず最初に5分ほどのオルガン・ソナタが収録されており、次にこのディスクのメインであるミサ曲が入っている。 ”キリエ・エレイソン”から始まって”アニュス・デイ”に終わる全17曲からなるミサ曲で45分ほどである。 曲の作りはオーソドックスで、ハイドンやモーツァルトの宗教曲を知っている人なら容易に親しめるだろう。 さらにその後に、左手のためのオルガン・パルティータ、聖歌 「祝福されし男」、聖歌 「我、喜悦に満ち」、「七声のためのマニフィカート」 の4曲が収録されている。 演奏は、エスコラニア少年合唱隊 (Escolania de Montserrat)、古典エスコランス聖歌隊およびオーケストラ、オルガンはグレゴリ・エストラーダ、指揮はイレネウ・セガッラ。  ボーイ・ソプラノで歌われる部分が総じて美しいのだが、特にミサ曲の第11曲”エト・インカルナトゥス”などは絶品。    昨年か今年の初め頃に (記憶があいまい) 新宿のディスク・ユニオンにて購入。 実はオルガン曲の棚に分類されていたのでろくに確かめずに購入してしまったのだが、実際には上記のように声楽のミサ曲がメインになっていて、器楽曲としてのオルガン曲は短めの2曲しか入っていない。 解説はスペイン語、カタロニア語 (多分)、ドイツ語、英語、フランス語で付いている。

 

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9月8日(日)   *小笠原伸子 ヴァイオリン バッハ無伴奏全曲リサイタル

 本日は午後2時から標記の演奏会に出かけた。 妻と娘同伴。 場所は、新潟市中央区の浜浦小学校ちかくの清嘉記念奏楽堂である。 これは市内でヴァイオリンを教えておられるO先生が私的に建てられたもので、公的なホールほど大きくはないが、30〜40人くらいの客が収容できる建物である。 私は以前2度ほどコンサートで訪れたことがある。

 バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全6曲を全部弾くというプログラム。 こういうプログラムはめったに聴けないので、楽しみにしていた。

 会場には30人ほどの客が集まった。 市内でヴァイオリンを教えておられるY先生や、職場の同僚で新潟交響楽団 (アマチュアオーケストラです、念のため) のヴィオラ奏者でもあるS先生など、専門家や通の方が多かったようだ。 ヴァイオリンを習っているらしい小さな女の子も (幼稚園年長か小1くらい?)。 お母さんと一緒だったけど、じっとおとなしく聴いていたのに感心。

 奏者の小笠原さんを聴くのは初めてだが、芸大と芸大院を卒業後イタリアに留学され、神奈川フィルのコンマスを勤められたり、主として横浜方面で演奏活動に従事されている方だそう。 年齢的には私と同じくらいかな。 お誕生日が9月18日だそうで、私と2日しか違わない。 案外、気が合うかも(笑)。

 ソナタ第1番、パルティータ第1番、ソナタ第2番、休憩、パルティータ第2番、ソナタ第3番、パルティータ第3番、の順で演奏された。

 小笠原さんの楽器は、表面の艶も控えめだし色も薄めの茶系で地味な感じだが、音も外見にふさわしくと言うべきか、あまり高音がキンキンせずに、ソフトで、中低音が充実していた。 変な表現かも知れないけど、生で音楽を聴いているんだなあ、という気持ちがしみじみしてくるような音色なのである。

 そういう音で奏でられるバッハの6曲、山あり谷ありというか、たった1本の楽器で演奏されるんだけれど色んな要素が入り込んでいるだな、ということが改めて痛感された。 各曲に先立って奏者から簡単な解説のようなお話があったが、これもこれらの曲を何度も弾いている方ならではの面白さが感じられた。

 休憩時間にはコーヒーや紅茶も出て、なごやかな雰囲気。 演奏が終わると、最前列で聴いていた小さな女の子から花束が贈呈され (これは主催者の手回し)、またなごやかな雰囲気に。

 アンコールとして、ソナタ第2番からアンダンテが再演された。 これが、全6曲の中で奏者が一番お好きなのだそうだ。

 アンコールが終わると4時30分。 途中休憩をはさんで2時間30分かかったことになる。 奏者としても大変だと思う。 充実した音楽会に改めて感謝申し上げます。

 

9月6日(金)   *『トニオ・クレーガー』 に出てくるタバコ

 たまにはドイツ文学者らしくドイツ文学の話でもしよう。

 このところこの欄でも、宮崎駿 『風立ちぬ』 の喫煙シーンをめぐる論争(?)など、タバコについての話題が続いたので、ものはついで、と言うのもおかしいが、トーマス・マンの小説に出てくるタバコについて、ちょっとだけ書いておこう。

 ちょっとだけというのは、何しろマン自身愛煙家であったし、長編小説 『ブッデンブローク家の人々』 や 『魔の山』 など、タバコについての描写がそれなりに出てくる場合も多く、マンの作品におけるタバコについて全面的に扱うことは無理なので、少しだけで済ませます、ということ。 いうならば腰の引けた話なのです、すみません。

 ここでは、短編小説の代表作ともされる 『トニオ・クレーガー』 を取り上げよう。 この小説の真ん中の章で、主人公の作家トニオは、女友達であるロシア人画家のリザヴェータと会話を交わす。 会話が始まってまもなく、リザヴェータはお茶とタバコをトニオに勧めるのだが、そこを高橋義孝訳 (新潮文庫) および原文で示すと以下のようになる。

  「さあ、お茶にいたしましょうよ、もうすぐお湯が沸きます、それから煙草はここにあってよ。」

  ”Kommen Sie nun zum Tee. Das Wasser wird gleich kochen, und hier sind Papyros."

 問題は、原文にあるPapyrosという単語である。 これがタバコの意味で用いられているのだが、ドイツ語では日ごろ使わない単語なのだ。 この箇所は、最も新しい訳である平野卿子訳 (河出文庫、2011年) では次のようになっている。

  「さあ、お茶にするわよ。お湯ももうじき沸くし、たばこの巻き紙もあるわ。」

 Papyrosを 「たばこの巻き紙」 と訳している。 刻みタバコとそれを巻く紙が別になっている場合もあるわけで、吸いたくなったらその都度自分で紙に刻みタバコを巻いて吸うという人も世の中にはいる。 この訳だと、トニオはそういう人間だったということになる。 刻みタバコは自分で持っているので、巻き紙のほうだけリザヴェータは勧めた、ということになる。 でも、刻みタバコだけ持っていて、タバコを巻くための紙は持ってない、という喫煙者がいるのかな?

  高橋義孝訳と平野卿子訳のどちらが正解なのだろうか?

 上でPapyrosはドイツ語では日ごろ使わない単語、と書いた。 実際、現在ドイツ語の専門家が最もお世話になっているであろう小学館の独和大辞典を引いても、この単語は載っていない。 類似の単語としてPapyrusは載っている。 これは、古代エジプトのパピルス紙、およびその原料となる植物、およびパピルス紙を用いた古文書、という意味である。 また、この単語は、ドイツ語の 「紙 Papier」、英語の 「紙 paper」 の語源でもある。 そういうところから、『トニオ・クレーガー』 に出てくるPapyrosは 「紙」 という意味だと考え、したがって刻みタバコを巻く紙のことだろうと解釈し、平野卿子さんはこういう訳にしたのだろうか。

 しかし、である。 多少古くなりはしたが、今でも専門家には使われている博友社の大独和辞典を引くと、Papyrusには小学館の大辞典と同じ語義しか載っていないが、その一つ上にPapyrosaという単語が載っていて、Papirosを見よと記されている。 で、Papirosを見ると、ロシアのシガレット、紙巻きたばこ、と書かれているのだ。

 平野さんは訳者あとがきで、実吉訳など既訳をいくつか参考にしたと書いている。 おそらく、ここを 「タバコの巻き紙」 としたのは、岩波文庫の実吉捷郎訳に従ったのではないか。 実吉訳だとこの箇所は 「煙草紙」 となっていて、「パピロス」 とルビが振られている。

 だけど、実吉訳はいくつもあるこの作品の邦訳の中でも最も古いものだし、新しい訳のほうが正確である可能性が高い。 上では高橋義孝訳を挙げたけれど、それ以外の訳を見ても、佐藤晃一訳、森川俊夫訳、福田宏年訳、いずれもこの箇所は 「たばこ」 か 「煙草」 としているのだ。

 さらに、辞書以外にも参照すべきものがあるはず。  なにしろ 『トニオ・クレーガー』 は書かれてすでに100年以上たっている作品だし、トーマス・マンはドイツでは20世紀前半を代表すると目されている作家なのだから、その作品には当然ながら注釈が何種類か出ている。   例えば有名なレクラム文庫には、表紙が緑色の注釈シリーズがある。 これは有名文学作品の注釈だけを収録したシリーズで、ここから 『トニオ・クレーガー』 の注釈も出ている。 (ちなみに文学作品自体を収録したふつうのシリーズは黄色の表紙。)

 このレクラムの 『トニオ・クレーガー注釈』 を見ると、Papyrosは 「ロシア製紙巻タバコ russische Zigaretten」 と書かれている。   もう一つ挙げるなら、Klett社発行の、学校の生徒が文学作品を読む場合の注釈シリーズ"Klett Lektuerehelfen"というのがあるけれど、その中のBeate Hermesによる 『トニオ・クレーガー注釈』 でも、この箇所については同じ記述がなされている。 

 なお、英訳 (ペンギンブック、ロウ=ポーター夫人訳) を見ると、この箇所は以下のようになっていて、直訳と言おうか、なんだかよく分からない訳だと言うしかない。

 "But come to tea. The water is just on the boil, and here are some papyros."  (斜字体はママ)

 駄目押しの意味で付け足すなら、現在、ドイツではトーマス・マンの新しい全集 『注釈つき大フランクフルト版 Grosse Kommentierte Frankfurter Ausgabe』 が刊行中である。 これは小説やエッセイだけでなく、日記や書簡をも含めた全集で、また本文の巻と一緒にその注釈・校訂・解説の巻も同時刊行される (だから1巻につき必ず2冊ある) というものだが、その中の 『初期短編集』 の注釈を見ると、この箇所についてはさらに親切な次のような記述がある。

 「紙巻タバコ。 厚紙の吸口が付いた特殊なロシア産。」

 そしてこの注釈はさらに、トーマス・マンはPapyrosという単語を、語尾にsが付いているという理由からかここでは複数扱いしているが (それは英訳でも同じ・・・・三浦の付記)、実際は単数であり、のちに 『魔の山』 でマンは同じ単語を用いているのだが、そこでは単数扱いして不定冠詞を付けている、と指摘している。 なるほど、勉強になりますね。

 付け足すなら、先に小学館の独和大辞典にはこの単語Papyrosは載っていないと記したが、実はPapirossaという見出し語は採用されていて (語尾のsが二つ重なっているところに注意)、(紙の吸口のついた) ロシアタバコ、と書かれている。 ただし採用されているPapyrus (パピルス紙) という見出し語からは離れているので、気づきにくいとは言える。

 結論として、このPapyrosは 「ロシア・タバコ」 と訳すのが妥当であろう。

 以上で 『トニオ・クレーガー』 に出てくるタバコについての話は――というより訳についての話になってしまったが――おしまい。

 

9月4日(水)   *新潟大学における喫煙問題

 本日は教授会であったが、正規の議題が終わったあと、事務方から要請があった。 新潟大学はこの4月から学内全面禁煙となっているが、建物の脇で喫煙している教員がいて、それを見た学生から後日、事務に抗議の電話がかかってきたという。 「自分達で決めたことを守れないのか」 と学生は言っていたそうである。 事務方の要請とは、そういうこともありますので、よろしく学内禁煙をお守りください、ということであった。

 何でもないことのようだが、最近の喫煙をめぐる情勢が、学生の行動にそのまま反映しているのだな、と思った。 県内の別の大学でも、学内全面禁煙のなか、ベランダでタバコを吸っている教員がいて、学生が注意したら激昂してつかみかかったというので、新聞沙汰にまでなった事件が起こっている。

 たしかに決まったことは決まったことだから、守るに越したことはない。 ただし、学生が 「自分達で決めたことを」 と言ったのは、正確ではない。 全面禁煙は大学上層部が勝手に決めたのである。 以前にもこの欄で書いたが、人文学部教授会に全面禁煙についての意見が求められたとき、全面禁煙に反対の意見は出たが、賛成という意見は出なかった。 人文学部以外の教授会の事は知らないが、新潟大学の全面禁煙はおそらくは大学上層部が文科省の意向に沿う形で勝手に決めたのである。 決してみんなの意見を聞いて決めたわけではない。

 私が思ったのは、くだんの学生は、例えば新潟大学1年生の飲酒を見たら、同じように通報するのだろうか、あるいは、自分で注意するのだろうか、ということだった。 おそらくしないだろうな。

 今どきは飲酒も年齢制限がやかましく言われている。 私の学生時代なら、いや、そこまでさかのぼらなくても10年くらい前までは、二十歳に達していなくても大学生ならば飲酒は許容されていた。 私が大学1年生のとき、教養課程のクラスコンパやサークルのコンパで18〜19歳の大学生はふつうに飲酒していたし、それはおそらく今でもそうである。 学生サークルのコンパで1年生は除外する、なんてことはやっていないだろう、多分。

 ただし、昔は大学教員もそうした未成年の大学生と一緒にコンパなどで飲酒していたのに、昨今は締め付けが厳しくなり、少なくともおおっぴらには未成年の学生と飲酒はできなくなっている。 繰り返すが、それはここ10年ほどのことなのである。 私も、昔は1年生の少人数演習を受け持つと学期末にコンパで学生と一緒に飲酒していたが、最近は色々うるさいので、1年生の演習ではコンパはやらないことにしている。

 しかし、新潟大学は近所の飲み屋にお触れを出して、学生証を確認して二十歳未満の学生がいたら酒は提供しないでください、なんて要請するような真似はしていない。 内弁慶ですからね。

 たまに教授会でそういう話題が出るとすれば、飲みすぎて救急車で病院にかつぎこまれる学生が出たときくらいである。 つまり、飲酒については、昔より教員に対する――未成年の学生に酒を飲ませるなという――規制は厳しくなっているけれど、学生に対してはさほどでもないのである。

 私は何を言いたいのか。 つまり、喫煙する教員を見て通報した学生は、喫煙に厳しい最近の風潮に忠実に振舞ったに過ぎないということである。 別に、だからその学生はケシカランと言いたいのではない。 若いんだから、そんなものだろうと思う。 私だって今現在二十歳前後で同じような立場に立たされたら通報していたかもしれない。

 しかし、そういう学生の通報を盾にとって規制を強化しようとする大学上層部の姿勢はいかにも情けないし、お上 (つまり文科省) に忠実で、最近の風潮、つまり 「学生の意見を大切にしましょう」 にも忠実な新潟大学の情けない姿勢をそのまま示すものだとしか思われなかった、ということである。

 

9月3日(火)   *イオンシネマ新潟西が積極路線に転換か?

 新潟市にはシネコンが4軒あり、スクリーン数は合計で30を越えている。 しかし、スクリーン数の割には上映される映画の種類は少ない。 これはかねてから書いてきたことである。

 そういう中では、ユナイテッドシネマが一番まともで、ミニシアター系の作品をそれなりに上映してきた。 これもこの欄で何度も書いてきたことである。

 ところが最近、変化のきざしが見られるのである。 少なくとも、そう期待したくなる現象が生じている。 それは、旧ワーナーマイカル・シネマズ新潟、今年の途中から改称して、イオンシネマ新潟西、となったシネコンだ。

 例えば本日の夜、私は真木よう子主演の映画 『さよなら渓谷』 をこのシネコンに見に行ったが、これは新潟市内ではこのシネコンの単独上映である。 首都圏に2ヶ月以上遅れての上映ではあるけれど。 また、現在このシネコンで上映中の 『ペーパーボーイ』 も単独上映である。

 このほか、『サイド・イフェクト』、『偽りの人生』、『上京ものがたり』、『オン・ザ・ロード』、『ウォーム・ボディーズ』、『スマイル、アゲイン』、『最愛の大地』など、新潟市ではこのシネコン単独上映の作品が9月以降目白押しなのである。

 問題は、こうした積極的な路線に新潟市の観客がついてくるかどうかである。 現に、この日の 『さよなら渓谷』 では、観客は私を入れて3人だけであった。 夜7時15分からだから、いちおう仕事の後に見ることも可能な時間帯のはずなのに。

 先週土曜日には、ユナイテッドにやはり新潟市内では単独上映の 『夏の終り』 を見に行ったのだが、結構客が入っていた。 土曜日と平日の違いはあるかも知れないが、それにしても客数に差がありすぎる。 同じことは、『欲望のバージニア』 を少し前にTジョイ新潟万代に見に行ったときにも感じた。 新潟市ではTジョイ単独上映の映画なのに、平日とはいえ、観客は私ひとりだったのである。

 つまり、同じ新潟市内のシネコンでも、ユナイテッドの集客力と、イオンシネマやTジョイの集客力には差がある、ということである。

 ユナイテッドは座席がゆったりしていて他のシネコンとは明瞭な差がある。 この点は他のシネコンとしても簡単には克服できないだろうが、宣伝と料金サービスのいっそうの充実をはかることは可能なはず。

 ユナイテッドは、カード会員になれば週2回千円デーがある。 これに対してイオンシネマは女性には週1回千円デーがあるけれど、男性客には毎月1日、20日、30日の計3回しか千円デーがない。 Tジョイにいたっては毎月1日の、月1回しか千円デーがない。 その代わり平日11時から14時上映開始の映画は1200円というシネマチネ制度があるけど、仕事持ちの大人にはまず利用できない制度だ。 つまり、これだけ料金に差があれば、ユナイテッドに客が流れるのは当たり前なのである。

 また、サイトを利用しての宣伝を、イオンシネマとTジョイはもっと考えるべきだろう。 

 例えば上に挙げた 『偽りの人生』 だが、私は 『さよなら渓谷』 を見に行ってチラシ・コーナーでこの作品のチラシを発見し上映予定を知ったのだが、あとでサイトを見てみたけれど、この映画の上映予定は載っていない。 こういう、サイトの不具合はTジョイにも見られることである。 『欲望のバージニア』 の作品紹介はかなり前にはサイトに載っていたのに、上映直前になると消えてしまっていた。 上映予定の欄のキャパシティが小さく、新しい情報が載ると、古い、しかしまだ上映されていない作品の情報が消えてしまうからだ。

 この辺もユナイテッドと差があるところなのである。 ユナイテッドのサイトでは上映予定の作品が、だいたいは決定次第すぐ載っているし、上映直前に消えるなんてことは絶対にない。

 また、単独上映の作品は、それとはっきり分かるようにサイトに記載しておくのがいい。 何しろシネコンが4館もあるのだから、どの作品をどの映画館でやるかを丹念に調べている客ばかりではないのだから。

 というわけで、改善の余地はまだ色々あるけれど、積極路線に転じたらしいイオンシネマ新潟西に新潟市民としては注目!

 

9月2日(月)   *会員減少に歯止めがかからない日本独文学会――私の予言どおりですけど

 本日、送られてきた日本独文学会の学会誌 「ドイツ文学 別冊 2013年秋号」 を見ると、今年の5月現在での会員数が書かれている。 1878名。 昨年度の同期が1926名であったから、50名近い減少である。

 この点については以前からこの欄で報告しているが、おさらいをするなら、2008年のこの欄に私は以下のように書いた。

        *

9月19日(金)      *日本独文学会会員数の減少

 留守中、郵便物が自宅にも大学にもたまっていたので、まとめて読んだり片づけたりする。

 日本独文学会の会誌 『別冊 2008年秋の号』 が届いていたが、それによると、独文学会の会員数は今年の5月末日現在で2150名。 昨年の同期より73名減っている。 

 実は昨年も同じ時期に同じようなことを書いた。 昨年は1年間で86名減っていたのである。 ちなみに5年前の2003年は会員数は2439名だったから、5年間で289名減ったことになる。 5年間で12%近い減少。 私は昨年同期のこの欄に以下のように書いた。 考えに変わりはないので、そのまま引用しておこう。

  ―― 〔日本独文学会員数は〕 2003年度から毎年、19名、64名、47名、86名という減り方をしている。 予想するに、この減少傾向は拡大こそすれ、収まることは当分ないだろう。 団塊の世代のドイツ語教師が停年を迎えるのは、これからなのだから。 国立大の停年は63〜65歳のところが大部分だから、団塊の世代は早くとも2年後にならないと停年を迎えないのである。 私大は70歳停年のところが多いから、さらに遅れる。

 そこでごっそり抜けたあと、どの程度補充がなされるかである。 私が見るところ、ドイツ語教師は第二外国語を守るべく戦うどころか、第二外国語削減に迎合し、場合によっては積極的に自ら削減しているわけだから (少なくとも新潟大学ではそうである)、補充もあまりなされないだろう。

 日本の第二外国語教育は、こうして壊滅に近づいていくのである。 それでどうなるか、誰も知らない。 ――

 こういうことをわざわざ書くのは、独文学者の端くれとして悪趣味だと思うかも知れない。 しかし、私は日本全国の国立大学教養部が解体していた頃、つまり1990年代半ば、学生時代の恩師である小栗浩先生にお会いしたときに予言したのである。 「このまま事態を放置すれば、日本独文学会の会員数は遠からず半減するでしょう」 と。

 小栗先生は独文学界では有名人であるから、それを聞いて独文学者の多数集まる席で弟子 (つまり私) の予言を話題に載せた。 すると、「そんなことはあり得ない」 という反応だったという。 私はそれを後日、小栗先生から聞いた。

 私はその時、「独文学者ってのは、先がまるっきり読めない無能な人間ばっかりだな」 と思った。 今もその考えに変わりはない。 私が上記のようなことを書き続けるのは、私の予言が成就するであろうことを示すためなのである。


            *

 はい。 というわけで、上記引用からも分かるように、2003年には日本独文学会の会員数は2439名だった。 今年は2013年だから、ちょうど10年たったことになる。 現在の会員数は1878名。 10年間で会員数は、数で言うと550名以上、率で言うと23%減ったわけだ。

 しかし本格的に減るのはこれからだろう。 団塊の世代は現在63〜67歳くらいである。 国立大学はだいたい65歳が定年だから、今現在定年退職者が出つつある最中だ。 私立大学は、大学にもよるが、70歳定年が少なくない。 だから団塊の世代の定年退職は本格的にはこれからである。 団塊の世代が全員70歳に達するにはあと8年ほどかかる。 その頃に独文学会の会員数は、私の予言どおり、2003年との対比で半減しているだろうことは確実なのだ。

 私の予言は当たります。

 

9月1日(日)   *中江有里さんの映画を!

 本日、毎日新聞の日曜版を見たら、1面に中江有里さんの最近の活動を紹介する記事が、中江さんの大きな写真入で載っていた。

 私は中江さんのファンである。 彼女の映画の代表作というと、『四姉妹物語』(1994年) と 『風の歌が聴きたい』(1998年) で、もう15年も昔のことになってしまう。 中江さんは1973年生まれだから、当時20代前半であり、美しさの絶頂にあった頃だ。

 しかし、本日の毎日新聞を拝見しても、中江さんの美貌は全然といっていいほど衰えていない。 もう40歳だけれど、30歳と言っても通用するのではないか。 彼女があまり映画に出ない事情については私はよく知らない。 芸能界内部の関係だとか、映画会社との何かだとか、いろいろあるのかも知れない。

 しかし大原麗子さんが亡くなり、吉永小百合も山本陽子も年をとった現在、日本では正統派美人女優と言える人は中江さんを措いてはいない、と私は考えている。 映画界は何をやってるんだろうねえ。 広末涼子みたいな並み以下の容姿の女優を主演にする暇があるなら、ぜひ中江有里さんを主演にした映画を作ってもらいたいのである。 映画界よ、しっかりせよ!

 

 

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