読書月録2013年

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西暦2013年に読んだ本をすべて公開するコーナー。 5段階評価と短評付き。

  評価は、★★★★★=名著です。 ★★★★=上出来。 ★★★=悪くない。 ★★=感心しない。 ★=駄本。  なお、☆は★の2分の1。

 

・速水健朗 『ラーメンと愛国』(講談社現代新書) 評価★★★☆ 下で読んだ 『フード左翼とフード右翼』 がまあまあ面白かったので、評判になったこちらも読んでみました。 ラーメンはすでに中華料理ではなく日本料理になっているけど、日本におけるラーメンの歴史をたどり、日本でラーメンが広く食されるようになったのは戦後のことだが、そこにアメリカの小麦輸出戦略が絡んでいるとか、中華そば・支那そば (それにしても、「しな」 を 「支那」 に変換してくれない困ったパソコンだな、これ) と言われていたのがいつ頃からラーメンとなったのか、そもそもラーメンの語源は、など色々な観点からラーメンを論じている。 また、インスタントラーメンの嚆矢であるチキンラーメンが作られた経緯などにも触れている。 さらに、最近流行のご当地ラーメンは郷土料理とは無縁の代物であること、最近のラーメン屋がラーメン屋ではなく麺屋と名乗り、店内には人生訓が貼られたり、どことなく右翼的ムードがただよっている (タイトルはここら辺から来ているよう) ことにも触れている。 それなりに面白い一冊。    なお、アメリカで1955年が古きよき時代を象徴する最後の年だと述べたところで (112ページ以下)、公民権運動が実質的に始まるのが1956年だということに触れていない (そもそも公民権運動自体に触れていない) のは片手落ちでしょう。  それから、漫画家の松本零士の 『男おいどん』 を彼の 「少年誌での最初の長期連載」 と述べているけど (115ページ)、松本零士は最初の頃は松本あきらと名乗っていて、『電光オズマ』 なんかの連載作を持っていた。  あと、1971年のニクソン・ショックにより1ドル=360円の固定相場が変動相場に移行したと書いているけど (158ページ)、ニクソン・ショックではドルと円の相場は1ドル=308円に移行したのであり、変動相場制になったのはその2年後のことである。

・古市憲寿 『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社) 評価★★★ 『希望難民ご一行様』 でブレイクした若手社会学者 (1985年生まれ) の本。 買うほどでもないと思ったので、県立図書館から借りて読んでみた。 ここでは世界各国の戦争博物館を訪れて、その楽しみ方や、国ごとの展示の違いなどを書き綴っている。 基本的には戦争博物館といえども博物館で、つまり娯楽性がなければいけないし、またそういう要素はそれなりにあるというのが著者の見解。 まあまあ面白いし、この種のテーマはえてして教条左翼的に、「戦争はいけないということをこの博物館から教えられました」 てな感想文になってしまいがちで、本書はそういう優等生的な見方からではなく面白がるところから出発しているから、それなりに新鮮のようにも見える。 だけど、よく見ると著者は東大大学院生としてのレールから外れていない、というか、外れないように注意している。 戦争博物館について書くからには、必然的に戦争をどう見るかという問題にも触れないわけには行かないが、そこでは加藤陽子や上野千鶴子の本は引用しても、彼女らを批判している文筆家の本は挙げていない。 朝鮮半島の問題なら、浅羽祐樹の本は挙げても古田博司の本は挙げていない。 こういう態度が実は文系学者への世間の不信感を増強している、という状況が、見えていないからか、或いは要するにそういうレールの上を走る人に過ぎないからか。 まあ、まだ大学院生だし、指導教員たちの顰蹙を買うとまずい、という計算もあるのかも知れないけどね。 いや、文献への目配りは、別に加藤や上野や浅羽だけじゃなく、私も 「ほう、こんな本もあったか」 と教えられるところもあったし、力量としてはかねてから私が批判している荻上チキだとか宇野常寛なんかよりはるかに上だと思うから、先生ににらまれてももう少し冒険してみたらと言いたくなるんだけど。 でもナチスの犯罪と日本の戦争犯罪を同列視しているようじゃ (268ページ)、やっぱりダメかな。 

・浦久俊彦 『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』(新潮新書) 評価★★★★ 著者は1961年生まれ、高校卒業後フランスに渡って勉強し、作曲と音楽活動を行うようになり、現在は三井住友海上しらかわホールのエグゼクティブ・ディレクターを務めている人。 本書はタイトルがやや週刊誌的だが、内容的には決して際物ではない。 大ピアニストにして作曲感のリストの生涯をたどりなたら、その多面的な活動や音楽史的な意義について紹介した本である。 盟友ショパンの本が多く出ているのに比べるとリストについては日本ではあまり出版がなされていない現状をまず憂い、その上で、単にピアノ弾きの天才というのではなく、例えばピアノリサイタルというものはリストによって始められたのだというような音楽史的な重要性を説明している。 当時のフランスのサロンの内実だとか、ピアノの製作会社とリストの関係だとか、ピアニストとしての演奏活動は人生の半ばでやめてワイマルに楽長として赴いた理由だとか、多方面からリストという人物に光を当てており、ヨーロッパ芸術史の勉強にもなる。 本書を読めばリストの曲を聴きたくなること請け合いである。

・西尾幹二 『同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた』(ビジネス社) 評価★★★ 西尾幹二氏の最新評論集。 ここのところ氏の関心の中核となっている第二次大戦の歴史的な位置づけを中心にして、時事的な話題を盛り込みながら雑誌等に書かれた記事を集めたもの。 本論でも言われているし前書きでも言われているのだが、氏が 「新しい歴史教科書をつくる会」 の活動を始めたとき、日本史学会のボスの1人である永原慶二はその著書 『20世紀日本の歴史学』 の中で、戦後の日本史学界は東京裁判史観という 「正しい歴史認識」 に恵まれて王道を歩んできたのに、「つくる会」 というとんでもない異端の説を唱える者が出てきてけしからん、というようなことを書いていたという。 日本の日本史学者は東京裁判に歴史の基準を置いていたことがはからずも暴露されたわけだ。 これに対して西尾氏は、第二次大戦をどう解釈するか、それ自体が今現在の戦争ではないか、と喝破する。 まったくどのとおりだと思う。 アメリカが決めた価値基準で物事を考える輩は、歴史学者は言うまでもなく、そもそも学者に向いていない。 日本の戦後歴史学界は学者に向かない人たちで占められてきたのかも知れない。 そういうことを考えるヒントになる本である。

・速水健朗 『フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』(朝日新書) 評価★★★ 著者は1973年生まれ、東海大卒のフリーライター。 私は未読だが、『ラーメンと愛国』 という新書本がヒットしてそれなりに名前が売れている人のようだ。 タイトルにあるフード左翼とフード右翼というのは、無農薬野菜など、食の安全性を考慮し自然食品を選ぶ人たちが左翼、そういうところに無頓着で安くてボリュームがあれば可 (マックや牛丼など) とする人たちが右翼、ということだそうである。 もっとも本書は、タイトルには左翼と右翼の両方を挙げてあるけれど、右翼についてはほとんど書かれておらず、主としてフード左翼の説明本になっている。 で、最初の三分の一くらい、第1・2章は、食の問題がかかえる政治性、つまりかつてならモロに政治的なハード左翼になっていたような人たちが現代ではソフトなフード左翼として現れているとか、アメリカにおける食の政治性だとか、ビーガン (完全な菜食主義者、ということはつまり四つ足動物や鳥の肉だけじゃなく、魚もミルクも乳製品もダメという人たち) の説明などで、捕鯨問題がらみでその方面のことは或る程度知っている私にはあまり新鮮味がなく 「大したことないかな」 と思ったのであるが、後半の三分の二くらいはそれなりに面白く教えられるところがあった。 著者の立場は中立的で、フード左翼が素晴らしいと礼賛するような内容ではなく、むしろ批判すべきところは遠慮なく批判している。 例えばフード左翼は裕福な都市生活者が多く、フード右翼のほうが貧乏だから右翼のほうが民主主義的なのだし、化学肥料を使わない有機農法は収穫量が少ないから、それで現在地球上に住む人間をすべて養おうとするとあらゆる森林が畑地になってしまい、むしろ環境破壊的であるという正論 (148ページ) を述べたりしている。 また、フード左翼は遺伝子組み換え食品に拒絶反応を示すが、遺伝子組み換えで収穫量を増やすほうが貧しい人たちを助けるためには有用だし、また遺伝子組み換え食品が体に悪いという証拠は今のところ見つかっていない。   自然派は、遺伝子組み換え食品は有害とするフランスのセラリーニ教授の研究を好んで引用するが、この研究が誤りであることはすでに実証済みなのだそうだ。 なのに、この説は未だにその方面では信奉されており、ドキュメンタリー映画 『世界が食べられなくなる日』 に引用されたりしているという (160ページ)。 というわけで、フード左翼に批判的な見解をたくさん載せているので著者はフード右翼になるのかと思いきや、本書の最後では、フード左翼も悪くないから一週間に一度くらいはそういう生活をしようか、とのたもうている。 やはり裕福な人たちの生活にはそれないの魅力があるということなんでしょう(笑)。 ページ数は忘れたが、本書のどこかで著者は青山のその方面の店で昼食をとり、2千円以上かかったと書いている。 冗談じゃない。 私なんか2千円以上するランチをとった経験がない (海外旅行時を除く)。 まれに千円を超えるランチをとると 「贅沢したなあ」 と思う人間ですので(笑)。  なお、某フード左翼について 「栃木大学農学部に在籍していた当時」 と書いているけど (96ページ)、宇都宮大学の間違いでしょう。 それから、ディカプリオがハイブリッド車に乗っていても彼がたくさん所有しているクルマの一台に過ぎないとか、オリビア・ニュートン=ジョンが日本のイルカ漁に抗議しに来たとき毛皮のコートを着ていたということについて、彼らの行動は政治行動なんだから揚げ足取りはすべきではないと述べているが (77ページ)、これは著者自身が101ページで述べていることと矛盾する。 都市生活者と本当の地方で暮らしている人たちの対立関係は、都市生活者がちょっとエコライフを実践したり、短い期間農村に暮らしてみた程度では解消しないし、むしろそうした都市生活者の欺瞞こそきわめて政治的なのだ、というところまで洞察が行かないんじゃね。 それから、エネルギー消費は、大都会に住む人間のほうが一人当たりの平均で見れば効率的と言っているけど (123ページ)、そもそも人口が増えて大都市が誕生したこと自体がエネルギー浪費だという、肝心要のところが見えていないのも、どうかと。

・ブライアン・W・オールディス (深町眞理子訳) 『グレイベアド 子供のいない惑星』(創元SF文庫) 評価★★★ SFをテーマとする二年生向けの演習で、学生の希望により読んでみた小説。 作者は1925年生まれの英国作家。 本書は1964年に出版され、この邦訳は1976年に出ている。 舞台は21世紀前半の地球。 地球から間近な宇宙で核実験を繰り返した結果、地上に放射能が降り注ぎ、人類や高等哺乳類は子供が生まれなくなった。 主人公はこういう環境の中で生きる中高年男性で、ひげをはやしているのでグレイベアドと呼ばれる。 この小説はそうした設定の中、主人公とその妻、そして数人の仲間が、しばらく住んでいた町から脱出し、英国 (といってもすでに中央政府は存在しない) 内の各地を放浪しながら、各地の人間の異様なありさまを見聞してゆく様子を追っている。 合わせて、過去の出来事が少しずつ書かれており、ここに至るまでの過程が読者には徐々に分かるような記述法がとられている。 最後に主人公たちは、或る地域で、久しく生まれないとされていた若い人間に遭遇するのだが、それは従来の人類とどこか異なった新人類らしいから、その断絶を認めなければと主人公たちが考えるところで終わっている。 ヴォークトの 『スラン』 のような新人類がこの後に来るのだろうと暗示した結末だ。 最初に書いたように、二年生向けの演習で学生と一緒に読んだわけだが、学生の中には、本格的な小説をちゃんと読んだのはこれが初めてですと言う者もいた。 今どきの若い人はそんなもんかなあ。  

・デュマ・フィス (新庄嘉章訳) 『椿姫』 (新潮文庫) 評価★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 オペラにもなっている有名作品だからおよその筋書きは知っていたが、ちゃんと読んだのは私も初めてだった。 田舎からパリに出てきた中産階級上層の青年アルマンが、ふとしたことで椿が大好きなので椿姫と呼ばれている美しい娼婦マルグリットと知り合って恋に落ち、やがてパリ郊外で二人で暮らすようになるが、息子の将来を危ぶむアルマンの父がひそかにマルグリットを説得して、マルグリットは涙ながらにアルマンにそれとは知らせずに別れを告げ、彼女が死んだ後にアルマンは真相を知る、という筋書き。 当時のパリ社交界の様子や慣行、ものの考え方などが書き込まれていて、それなりに面白い。 うぶな男女が恋に陥るなら月並みだが、海千山千の娼婦がほんものの恋に落ちるところが珍しいのだ、と作中で言われているところが、いかにもこの時代のフランスらしい。 訳も読みやすいが、地名などには注をつけて欲しかった。

・小林公夫 『公立中高一貫校』(ちくま新書) 評価★★★ 著者は1956年生まれ、横浜市大卒業後に出版社と予備校講師をへて一橋大学大学院で博士号を取得、現在は桜美林大学の客員研究員をしているという人。 本書はタイトル通り、最近数が増えている公立の中高一貫校についてのリサーチである。 第一章では、私立中高一貫校との比較で、親の学歴や年収の対比がなされている。 公立一貫校のほうが私立よりも親の年収や学歴は下ということのようだ。 また、地域にもよるが、私立一貫校の場合は小学校4年生くらいから塾通いをしないといけないのに対し、公立の場合はもっと遅くになってから、また生徒自身の意志で受験を決める場合が多いという。 また入学試験 (公立校の場合は正式には適性試験というらしい) では、私立では平気で高校2年生レベルの問題を出しているのに対し、公立校ではあくまで小学生が学ぶ範囲内で、しかし思考能力が試されるような問題が出ているという。 実際に問題の例も挙げられており、予想問題も載っている。 さらに、実際に公立中高一貫校で学ぶ生徒3人を例に挙げつつ、どのようにして受験を決めたか、入学後の学校生活はどうかなどがかなり詳しく紹介されている。 悪くない本ではあるが、いくつか注文もある。 まず、公立学校のデータが限られていること。 できてあまり時間がたっていないから仕方がないが、学校ごとの違いを含めてもっと詳細な学問的リサーチが求められる。 その代わりに受験問題にはやや過剰にページ数が割かれている印象で、バランスが悪い。 また、例として挙げられている3人のうち2人は仙台の公立校 (学校は別) であり、これまた地域的なバランスという点で感心しない。 例を増やして、地域ももっと多様な公立校に広げるべきだろう。 また第4章と第5章が内容的に重複しているのも難点である。 ともあれ、これを嚆矢として今後より詳細な公立一貫校分析本が出ることを期待したい。

・ヘンリー・S・ストークス 『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社新書) 評価★★★ 著者は1938年英国生まれ、オクスフォード大学修士課程修了後、フィナンシャル・タイムズの記者となり64年に東京支局長となる。 その後英国のタイムズ紙やニューヨーク・タイムズ紙の東京支局長も務めたという人。 三島由紀夫についての著書もある。 本書はタイトル通り、第二次世界大戦直後の東京裁判史観を痛烈に批判し、あの戦争によってアジア諸国はヨーロッパに隷属した植民地の状態から脱したのであり、日本は戦争の意味づけを自前で行うべきだと主張したもの。 内容的には三島由紀夫や堤清二の思い出や、その他金日成やシアヌーク殿下など付き合いのあった政治家についての覚え書きなども含まれていて、必ずしも史観だけでまとめられているわけではなく、やや雑然たる印象は免れないが、ところどころ、おやと思うような指摘がある。 例えばナチスドイツの手を逃れてアジアに逃亡してきたユダヤ人の命を救ったのは東條英機だという指摘 (202ページ) などは、私も知らなかったので、へえと思った。 韓国のいわゆる従軍慰安婦問題や南京事件の犠牲者数の問題などで日本はもっと対外的な情報発信をしていくべきだという主張にはまったく同感である。

・永冶ベックマン啓子 『息子がドイツの徴兵制から学んだこと』(祥伝社新書) 評価★★★ 著者は1949年生まれ、ドイツ人と結婚してドイツ在住。 本書は一人息子がドイツの兵役義務を果たした体験を綴ったものであり、日本と同じ第二次大戦の敗戦国であるドイツにおいて兵役義務がどうなっているのか、また実際の訓練内容がどのようなものであるのかを知る上で貴重な書物である。 かなりきつい訓練がなされているが、他方で人権を蹂躙するような上官の行為や発言に対してはちゃんと異議申し立てができるようになっているなど、近代化も相応になされているようだ。 また兵役を回避して奉仕活動をする選択肢もあり、そちらについても多少触れられている。 一読に値する内容だが、ところどころ 「あれ?」 と思う箇所がある。 著者の父について、東京帝大芸術学部創作学科に在学していたとされているのだが (27ページ)、東大に芸術学部なんてあったかなあ? また士官と将校は違うものと思っているようだけど (158ページ)、ヨーロッパでは同じものじゃないですか。

・新藤宗幸 『教育委員会 ――何が問題か』(岩波新書) 評価★★☆ イジメなどの焦眉の問題に対応ができず組織のあり方に疑問符が付けられている教育委員会。 本書は教育委員会がどういう仕組みであるかを、戦後の様々な制度変遷をたどりながら説明した本である。 著者は1946年生まれ、中大法学部修士課程卒で、立大教授、千葉大教授などを歴任した人。 で、本書は戦後の教育委員会制度を組織として説明するという点では悪くない本だと思う。 時代的な変遷が、図をも使いながら分かりやすく示されている。 しかし、である。 物事は制度論だけでは片付かない。 早い話が日本国憲法9条は制度論としては戦争と軍隊の放棄で片付くけれど、現実の日本を見ればそうはいかないのは明瞭だろう。 教育委員会制度も同じで、制度論で片付くところと片付かないところがあるはずだが、著者は片付かないところについては不十分な議論しかしていない。 これは、法学者である著者の専門が行政だから、というのでは言い訳になるまい。 著者自身、最初のあたりでは大津市で中学生自殺にまで至ったイジメ問題に教育委員会が適切な対応をとれなかったことに触れている。 とすれば、なぜ対応できなかったのか、どうすれば対応できる組織になるのかを論じるところまでいかなければいけないはずだ。 ところが、本書の後半ではイジメ問題は放棄されて、日の丸君が代だとか教科書採択問題だとかの、古い左翼が何度も繰り返している事例だけが出てきていて、いったい最初の問題提起は何だったのだと愕然としてしまう。 そもそも、著者の問題の捉え方が恐ろしく古いのだ。 戦後すぐの進駐軍による制度改革はすべて善、その後のいわゆる逆コースはすべて悪という見方をしており、その後の教育委員会の制度についての議論でも、民衆による教育支配は善という前提で押し通している。 ちょっと信じられない単純さ。 じゃあ、モンスターペアレントがイジメをした息子に注意をした担任教師を、教育委員会にねじ込んで担任からはずさせるのは (下↓の 『いじめと探偵』 を参照) 民衆支配なのか? 民衆はすべて健全な判断力を持っているのか? また、著者はしばしば教育学者の言説を、文科省との馴れ合いとして批判しているのだが、昨今の動きからも分かるように、首長などの政治家が直接教育制度に口を差し挟むことこそ教育の政治化なのであり、文部省支配にはなるほどマイナス面も多々あるけれど、他面でそういう政治化から教育を救ってきた側面もあるのだということが、この人には分かっていない。 岩波書店もこんなオツムの古い人に焦眉のテーマで本を書かせるようじゃ、人材不足だね。 

・鳥飼玖美子 『 「英語公用語」 は何が問題か』(角川oneテーマ21) 評価★★★ 3年前に出た新書を首都圏のBOOKOFFで半額購入。 著者は1946年生まれ、上智大卒業後アメリカの大学で修士号と博士号を取得し、帰国して立教大教授を務めるかたわらNHK番組で英語講師などをやっている人。 かねてから日本でも英語公用語論が叫ばれ、また一部の日本企業では社内語を英語にするなどの動きが出ているが、日本人と英語についてのもろもろを論じた本。 最初は英語帝国主義論を扱っている。 英語支配はアメリカ帝国主義の表れだというような議論だが、まあ私もそういう方面の本を一時読んでいた時期もあるけど、それほどインパクトはない。 むしろその後の、TOEICTOEFLの性格を説明した箇所や、そういった英語実力試験で身につく英語の質を吟味したり、商社などで実際に英語に堪能な社員が活躍しているのかといった問題を扱っているあたりが面白い。 これは政治の外交交渉でもそうだが、細かいところまで厳密を期さなければならない大事な交渉では、なまなかな英語力で英語国の人間と話し合うより、専門家である通訳を介したほうが安全という指摘には説得力がある。 政治の世界なら、英語力ナンバーワンと言われた宮澤元首相ですら万全ではなかったというエピソードにはうなずける。 また、日本人が英語ができないのは学校英語が悪いとか受験英語がよくないという俗論がはびこっているが、それらが間違いであることを指摘している箇所も貴重。 日本の学校英語はしばらく前から会話中心になっており、読解力は低下しているが会話力はさほど上がらず、TOEFLで日本人が中国人や韓国人より点数が悪いのはリーディングの成績が悪いからだという事実、そして受験で英語が課されているから何とか日本人の英語は持っているので、受験に英語がなくなったらどうしようもなくなるだろうという指摘にも、大賛成である。 そして、俗論に抗して高校などの英語教員はもっと声を上げるべきだと言っているのには諸手を挙げて大々賛成である。 英語教育の俗論は政財界にもはびこっており、本書のように専門家の立場からの指摘にもっと耳を貸す謙虚さが求められる (これは大学教育全般についても言えることだ)。

12月  ↑

大山典宏 『生活保護 vs 子どもの貧困』(PHP新書) 評価★★★☆ 著者は1974年生まれ、立命館大大学院政策科学研究科修士卒で、志木市の福祉事務所などに勤めたあと、現在は埼玉県職員として福祉関係の仕事にあたっている。 本書は、最近の日本で生活保護費が増加して財政を圧迫しているとの声が高まり生活保護費削減が打ち出されている状況をふまえて、削減を主張する側 (財務省など) とそれを批判する側 (弁護士会など) の見解を要約して比較し、また近年の日本におけるこうした世論が一定期間をへて変遷を繰り返しているという事実を指摘しつつ、結論として、子供の貧困を救うことが生活保護費の削減を健全に行うことにつながっていくと主張している。 北九州市のように生活保護が受けられなくて餓死する事例が出て、中央省庁は地方公共団体の窓口に対して、生活保護の申請は (最終的に認めるかどうかはともかく) 必ず受理しなければならないと通達を出した。 しかし、これは現場の窓口からするとトンデモの通達であって (まあ、中央省庁の通達ってこういうものが多いと、日頃から文科省の通達に頭に来ているワタシなんかは思いますけどね)、そんなことをしたら事務処理がパンクしてしまうと著者は批判的に述べている。 といってむろん、餓死者が出るのは好ましくないわけで、要するに生活保護を申請する人間には 「もっと自分で何とかしたら」 と言いたくなるようなタイプもいるという事実を押さえた上で、本当に必要な人にはしっかり給付を認めていくようなシステム作りが大事なのであるという。  日本は他の先進諸国に比べると生活保護費がGDPに占める割合は低く、OECD加盟国平均の七分の一しかない。 また日本の生活保護の利用率は1,6%であり、英独仏などヨーロッパ先進国が510%程度なのに比べるとかなり低いのである (111ページ)。 著者はそれでも、国家予算に対して生活保護や社会保障費が占める割合をいたずらに増やせとは主張せず、要はその給付が実際に役に立っているかどうかをきちんと検証していくことが大事だと述べている。 そもそも日本の貧困家庭には、他の先進国とは異なる特徴があるという。 親が働いているのに貧困という率が高いことだ。 それは子供に対する社会給付が少ないためであるという (148-150ページ)。 ここを改善すべきだと著者は主張する。 なぜなら、貧困家庭で育った子供は自分も成人後同じような貧困に陥る、つまり生活保護を求めるケースが多いからだ。 貧困家庭の子供に対する給付を増やし、またNPOなどによる支援を行って健全な社会生活を送れるようにしてやれば、成人後に生活保護を求めるような境遇に陥らずに済むから、結果として社会保障費を削減する効果が出るのだという。 現場を知る人による貴重な提言だと思う。 貧困家庭へのNPOの支援の事例なども紹介されている。 

・前田忠明 『大原麗子 炎のように』(青志社) 評価★★★ たまたま或る本を探しに新潟市立図書館の某分館に行ったら、求める本の近くの書棚にあった本書が目に付いて、大原麗子さんファンの私としては借りざるを得なかった。 2年前に出た本。 著者は1941年生まれで明大中退後、出版社勤務を経てテレビの芸能レポーターとして長らく勤めた人。 大原麗子さんとの付き合いもあったけれど、それはあまり長くなく、主として実弟をはじめとする関係者へのインタビューを通して彼女の生涯を描き出そうとしている。 大原さんは裕福な菓子屋の娘として育ったが、父親はかなり暴力的な人だったようで、大原さんも何度も殴られたという。 ああいう綺麗な娘を殴る父親ってのは、私には想像もつかないけど、大原さんは外見的には父親似だったそうで、親は自分に似ている子供には辛くあたるからかなあ、なんて思ってしまった。 とにかくそういうわけで、また父が女を作ったため母が家を出たということもあり、大原さんは早くから女優としての自立を目指していたようである。 しかし体が華奢だから、舞台に立ったときは足に怪我をして降板かとも思われたが、痛み止めの注射を打って最終日まで演じ続けたという。 根性のある人だったのだ。 また大原さんは二度結婚している (渡瀬恒彦、森進一) が、渡瀬とは本当の恋愛関係で、なぜ別れたのかよく分からないのだそうだ。 さらに、最終的に命を奪ったギラン・バレー症候群はかなり早い時期から現れていたらしい。 大原さんの女優生活は病いとの闘いだったと言えそうである。 やはり佳人薄命なのだ。 合掌。

・粉雪まみれ 『デコボコ映画館 ハンディキャップ映画について語ろう』 (リトルモア) 評価★★★ 1999年に出た本。 日本短波放送でのインタビュー番組を書籍化したものらしい。 毎回異なるゲストを迎えて、ハンディキャップ映画、つまり身体障害者や知的障害者を主人公にしたフィクション映画やドキュメンタリーについて、さまざまな角度から語り合っている。 作家の岡田なおこが自作小説 『真夏のSCENE』 という障害者が登場するラブストーリーについて、一般読者からは差別的だという投書が来たが、作者自身の周囲にいる障害者やボランティアからは評判がよかったと述べていたり、映画監督の原一男が、『さようならCP』 という脳性麻痺患者のドキュメンタリーで、登場者たちがオールヌードになったり夫婦げんかから離婚騒動になったりすると観客から批判が来るけど、撮影する側が高みに立つのではなく障害者と同じ高さに立って五分に渡り合えばこうならざるをえないという指摘をしていたり、身体障害者プロレスを撮影してドキュメンタリー 『無敵のハンディキャップ』 を作った天願大介監督が、障害者にしても普通の大多数の人と同じく女・クルマ・カネ・酒にしか興味がないわけで、中でも障害者であるが故に異性は手に入れにくいので鬱屈しており、そういう中にボランティアの女子大生が入ってきたりすると女の取り合いでケンカになりやすく、そこから障害者プロレスという発想が生まれたと打ち明けていたり、なかなか興味深い内容だ。 形式張った良識が通用しないというか、分かる人には分かる本である。 

・和田俊憲 『鉄道と刑法のはなし』(NHK出版新書) 評価★★ 著者は1975年生まれ、東大法卒で現在は慶應の法科大学院教授。 本書は鉄道を法学者の視点から見て書いた本。 もともと著者は鉄道が好きで、いわゆる鉄にして法律家としての立場を活かして・・・ということのようだ。 なので面白いのかなと思って買ってみたのだけれど、率直に言ってつまらなかった。 もう少し何とかならなかったのかなあ。 法律家ってこういうつまらない理屈を日頃からこねまわして生きているのか、かわいそうに、という気持ちになってしまうくらいつまらない。 鉄道についても、なるほどそうなのか、と教えられるところはそんなに多くない。 著者は本職に専念した方がいいんじゃないでしょうか。

・長山靖生 『戦後SF事件史 日本的想像力の70年』(河出書房新社) 評価★★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 著者は以前に 『日本SF精神史』 という本を出しており、そこでは明治以降、第二次大戦にいたるまでの日本におけるSFの歴史が綴られているが、本書はそれを受けて、戦後の日本でのSF史を綴っている。 ただし、狭義のSFを扱った本ではない。 マンガやアニメ、さらにはアングラ演劇や現代美術といった、広い意味でのモダンな戦後大衆文化の流れを追っている本なのである。 だからコアなSFファンには物足りないかも知れないが、逆に戦後日本のサブカルチャー的な文化の流れを追うには非常に役に立つ本である。 また、現在は文化は政治性とははっきり切り離される傾向が強いが、昭和40年代頃までは文化は政治性との関連で語られることも多かったわけで、著者はそういう面にもしっかりと目を向けている。 私が現在大学で所属しているのはサブカル的な軟弱な学科で、サブカル志向の学生というのは大衆文化史をしっかりやろうというような根性に欠けていて、表層的な 「今ここ」 にしか興味を持たないどうしようもない輩のパーセンテージが高いというのが私の持論だが、こういう本を必読文献として読ませるのもいいかな、なんて思いました。

・島崎藤村 『破戒』(新潮文庫) 評価★★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 私は中学時代に読んで以来で、四十数年ぶりに通読したことになる。 今回久しぶりに精読してみて、特に文章表現の見事さにうなることしばしばであった。 特に自然描写の的確さはすばらしい。 また当時の信濃地方の風俗描写も貴重。 この小説の人物描写はやや類型的というのが通説で、私もまあそう思うけど、この時代にこれだけの小説を書いた力量はやはりきちんと評価すべきだと思う。 またいわゆる社会性が、特定の立場からに偏ることなく強く打ち出されているところは買いだと言えよう。 この文庫には平野謙による作品解説のほか、北小路鍵による 「『破戒』 と差別問題」 という、部落差別の歴史や経緯を丁寧に解説した文章が収められているのも貴重。 ただ部落差別の歴史に関しては、今はもう少し新しい知見が生まれているはずなので、この解説だけで部落差別が分かったと思い込むのは危険でもあろう。

・ザミャーチン (川端香男里訳) 『われら』(岩波文庫) 評価★★☆ 逆ユートピア (ディストピア) をテーマとする演習で学生と一緒に読んだ本。 1920年代にソ連で書かれて長らく発禁になったというので有名な小説である。 一般にはソ連批判と受け取られているが、人類が統制社会に向かっていくと必然的に到達せざるを得ない社会のありさまを描いている。 一日のうち自由時間はわずか2回、合計2時間だけという世界に語り手は生きている。 「われら」、つまり人々がみな一律の生き方をするのが理想であり、自由時間が残っているのはまだ理想社会が実現されていないから、という。 世界は 「恩人」 によって統制されている。 選挙日は 「満場一致デー」 と呼ばれ、「恩人」 に皆が賛成だと意思表示する。 ・・・しかしそういう中で語り手は手記をしたため、またなぜか異端的な生き方をする女性に惹かれていく。 ディストピア物語として、先に読んだハックスリーの 『すばらしい新世界』 と似ているところもあるが、書き方が文学的というか、あまり親切ではなく、訳のせいもあるかもしれないが分かりにくい表現も目立つ。 この社会全体がどうなっているのか、不明瞭な部分がかなり残るのである。 ちなみに、この統制社会では酒もタバコも禁止という設定になっていて(82-83ページ)、最近の世の中が禁煙ムードになってきていることを何となく想起させる。 この小説の批判は、社会主義だけでなく、現代日本にも射程が及んでいるかも知れないね。

・細谷雄一 『国際秩序 18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』(中公新書) 評価★★★ 1年前に出た新書。 副題にあるように、18世紀以降のヨーロッパの国際秩序の変遷をたどることで、グローバル化が叫ばれる昨今の国際秩序を考えていこうという本。 第1章では均衡、協調、共同体という三つの秩序の原理を取り上げてそれぞれの特徴や欠点を考えている。 ただ、一般論的な色彩が濃いので、あまり読んでいて面白くない。 その意味で第2章以降の、ヨーロッパ史をたどりながら具体的に国際秩序模索の動きがたどられる部分のほうが面白い。 著者は第1章で三つの秩序原理を挙げたが、基本的には均衡を最重要視しており、それは歴史が教えるところだとしている。 特にナポレオン失脚後のウィーン会議によるヨーロッパの秩序回復を評価しており、これこそが均衡の原理であり、また複数の文化や政治体制がお互いを認め合うことにつながるとしている。 ウィーン会議の立役者であるメッテルニヒへの高評価は、私の世代からすると 「歴史の見方は時代によって大きく変わるものだな」 と苦笑とともに受け止められるだろう。 何しろ私の高校の時の世界史では、メッテルニヒと言ったらせっかくフランス革命で近代的な価値観が打ち出されたのにそれを旧に戻そうとする 「保守反動の悪い奴」 という扱いだったからだ。 まあ、それはともかくとして、本書は悪い本ではないが、著者が英国留学で学者としての基礎を固めた人のせいか、物の見方がやや英国中心主義的な匂いがしないでもない。 特に19世紀以降の世界史を考えるならヨーロッパの植民地主義ははずせないが、その方面にはほとんど言及していない。 どこか物足りない感じが残るのは、限られた地域とその内部的な政治だけで物事を見ているからだろう。 ないものねだりかも知れませんがね。

・福田清人(編)/佐々木冬流 (著) 『人と作品 島崎藤村』(清水書院)   評価★★★ 教養の授業で藤村の 『破戒』 を読んでいるところだが、そのせいで藤村の生涯について詳しく知りたくなり、amazonで古本を買って読んでみたのがこれ。 出たのが昭和41年と言うからかなり古い。 私が中学生の頃だ。 福田清人編となっているけど、実際に書いたのは佐々木冬流 (本名は佐々木徹で、そのペンネーム) で、福田は名前を貸しただけらしい。 それはさておき、藤村の生涯がひととおり分かる本で悪くはないけど、人間関係のしがらみなどにはもう少しページを費やして欲しい感じがした。 後半は作品鑑賞の手引きになり、教えられるところもあるけれど、『新生』 が省かれているのは物足りない。 それから、45年も前に出た本だから、その後の藤村研究による知見は入っていない。 私の知っている範囲だと、『夜明け前』 の有名な書き出しは、現在は藤村の独創ではなく江戸時代の旅行案内から借りてきたものと判明しているが、その辺への言及はもちろんない。

・阿部泰尚 『いじめと探偵』 (幻冬舎新書) 評価★★★★ 著者は1977年生まれ、東海大卒業で現在は私立探偵をしている。 本書は著者がいじめ調査に関わった体験を綴った本。 つまり、いじめの解明・解決を学校や教師にではなく、私立探偵に依頼する例が増えているのだ。 著者は、いじめなら何でも探偵に頼めばいいと考えているわけではなく、学校がきちんと対処すれば大部分のいじめは解決できると述べているが、悪質な場合は学校だけでは手に負えないし、警察は実際に (傷害などの明確な) 事件が起こってからでないと動かない。 また学校にいじめを解明・解決しようとする意欲がない場合も少なくない。 そこで私立探偵の出番となるわけだ。 ここに挙げられているのは特に悪質な例で、累積で1000万円ものカネを同級生たちから取られた男の子とか (お金持ちのお坊ちゃんで母親も金銭の管理が甘かったらしい)、女子同級生から売春を強要された女の子だとか、ふつうの大人がやれば立派な犯罪でブタ箱行きのケースばかりである。 昔はいじめと言ったら粗暴な男子が気の弱い同級生などに対して行う場合が多かったが、現在は誰でもいじめをする可能性があり、親や教師からはふつうだと思われている生徒がいじめっ子だったりする。 また男女によるいじめの多寡や質の相違もほとんどないという。 例えば肉体的な暴力なら昔は男子に多かったが、今は女子も劣らず多いらしい。 また、公立校だけでなく、偏差値の高い有名私立校でも結構いじめは生じている。 昔に比べるとそれを隠そうとする生徒のやり口も巧妙になっている。 本書は、そうした状況下で私立探偵がいかにいじめを証明すべく調査をするか、そこに親や教師がどういうふうに絡んでくるかが分かって、非常に面白い。 学校の先生は最近は多忙でと著者も同情はしているが、それにしてももう少し何とかならないのかなと思う (いじめが分かっても放置する教師も多いらしい)。 また、教師がいじめっ子に注意したところ、いじめっ子の親が教育委員会にねじこんで、その教師を担任からはずす、という恐ろしい例も報告されている。 モンスターペアレントの言いなりになる教委なんか存在価値がゼロだろう。 とにもかくにも、いじめについて知りたい・考えたい人には必読書。

・豊浦志朗 『叛アメリカ史 隔離区からの風の証言』(ちくま文庫) 評価★★★★ 単行本は1977年に、文庫版は89年に出ている。 現在新本では手に入らないので、amazonから古本を入手。 下 (↓) で紹介した 『僧正の積木唄』 で解説を担当している法月綸太郎に教えられた本。 著者は一般には船戸与一の名で知られる文筆家、1944年生まれの早大法卒。 本書はアメリカ合衆国の白人中心史観に抗して、インディアン虐殺史や黒人史、第二次大戦後のブラックパワー、メキシコという国、さらに戦前のアメリカにおける日系人差別や排日の歴史をたどった本である。 ワシントンやリンカーンといった著名な大統領がインディアン差別を公然と行っていた事実など、アメリカの負の歴史をあますところなく暴いている。 またインディアンと言っても無論一様ではなく、族による考え方の違いにも言及がなされている。 黒人についての章では、イスラム教が黒人にとってどういう意味を持つかが明らかにされている。 また穏健派と急進派の対立も。 日系人についての章では、映画 『市民ケーン』 のモデルとなった新聞王が実は日系差別をあおった人間でもあったことが指摘されている。 そのほか、色々と教わるところの多い本。 著者の姿勢は、この世代にありがちな左翼急進派的なところがあるが、書き方は教条主義的ではなく、あらゆる方向に批判の矢を放ちながら、どこか突き抜けたすがすがしさがある。 例えば、第二次大戦が始まって、アメリカの日系人がアメリカ側に忠誠を誓うかそれとも日本に回帰するかの選択を迫られたと述べるところで、著者は次のように書く。 「日本とアメリカ合衆国の帝国主義間抗争、天皇制帝国主義と民主制帝国主義の激突の中でアメリカ大陸の日本人が持ち得た可能性は何だったのだろう。 合衆国兵士としての出征。 騒擾から再隔離への道 〔合衆国に反抗して収容所に再度入れられる〕。 実際には、このふたつだけだった。 しかも、前者は共産党員によって領導され、後者は大アジア主義者によって展開させられたのである。 この中にはふたつの不等式が存在していることを指摘したい。
 天皇制ファシズム反対<民主制の擁護<汎アメリカ史
 天皇制ファシズム擁護>民主制への憤激>叛アメリカ史 」(282-283ページ)
 日本とアメリカの間で揺れ動く日系人をこのように一刀両断する著者の目は、透徹している。 また、アメリカ・デモクラシーについて、著者は次のように書くが、こういう真理をこそ学校は教えるべきなのである。 「アメリカのデモクラシーがインディアンの死体の山の上に築かれたことは歴然としている。 (…) アメリカ合衆国において、有色人種差別はデモクラシーの矛盾ではなく、デモクラシーの基盤ではないか。」 (284ページ)

11月  ↑

・篠田英朗 『平和構築入門――その思想と方法を問い直す』(ちくま新書) 評価★★★☆ 著者は1968年生まれ、早大政経卒業後ロンドン大学で博士号を取得し、広島大の平和センターをへて現在は東京外大教授。 本書はタイトル通り、平和を構築するという仕事にまつわるあれこれを、多面的な視点から紹介し論じたものである。 現代世界において特にどの地域で紛争が多いのか、またそれはなぜなのかから話は始まっている。 要するに19世紀から20世紀前半にかけてのヨーロッパ植民地主義が終わりを告げて、旧植民地が次々と独立したわけだが、そうした新興国、特にアフリカと中東に紛争が多発しているのである。 また、帝国主義時代とは異なり、現在は各地域は独立国家として近代化を志向しなければならないということが暗黙の了解になっており、そういう前提が正しいのかどうかということは必ずしも十分な議論の対象とはなっていない。 が、本書はそうした大前提についても考えるべき余地があるとして議論にページを割いた上で、武力介入、犯罪処罰、開発援助、人道的支援の4つについて、それぞれ歴史と問題点と現状を明らかにしている。 充実した本なのだが、惜しいと思うのは全体が概論的になっていることである。 もう少し具体例を詳細に取り上げてもらえるといっそうの深みが出たと思うのだが、紙数の関係でやむを得なかったのであろう。 私がいちばん面白いと思ったのは、人道的な支援について論じた第6章である。 人道的支援がむしろ紛争地の事態を悪化させてしまった例があること、また人道支援グループが武装勢力の攻撃対象にされる場合もあるということ、人道支援はしばしば開発援助などの政治性を帯びた政策とは折り合わないこと、などなど、一見すると誰もが肯定的に捉えてしまいそうな仕事にも問題がそれなりにあるという指摘は勉強になる。 上で概論的だと述べたが、最後に参考文献も挙げてあるので、それを読めば各項目についての理解も深めていくことが可能である。

・オルダス・ハックスリー (松村達雄訳) 『すばらしい新世界』(講談社文庫) 評価★★★ 学部の演習で学生と一緒に読んだ本。 今期のテーマは、ディストピア (逆ユートピア) である。 本書はその中でも有名な作品だが、私も読んだのはこれが初めて。 26世紀のロンドンを主たる舞台として、来たるべき未来世界を描いている。 人間はすべて人工授精によって母体を介さずに生まれ、しかも様々な操作によりアルファ・ベータ・ガンマ・デルタ・イプシロンの5階級 (厳密には各階級内にもプラスがつく場合があるなど細かい区別がある) に最初から色分けされて、その階層にしたがって仕事をこなし (上は知的仕事、下は単純労働)、男女は恒常的なつながりを持つことを禁じられ、ソーマという一種の精神安定剤を常時使うことで気分も一定に保たれる世界である。 たまたまアメリカの保護地区 (昔の世界をそのまま保存している地区) からインディアンの青年がロンドンの新世界に連れ込まれ、彼は偶然手に入れた本でシェイクスピアの作品をそらんじるほど読んでいるが、新世界ではその種の読書は禁じられているので誰も知らない、という設定がなかなか皮肉。

・塚田孝 『大坂の非人 ――乞食・四天王寺・転びキリシタン』(ちくま新書) 評価★★ 江戸時代は大坂の非人 (それにしても、パソコンで 「ひにん」 と入れても 「非人」 と変換してくれないなあ) の実態について書かれた本である。 著者は1954年生まれ、東大卒の大阪市大教授。 面白そうに思えたので出てすぐ買って読んでみたのだが、これは一般の読書家向けの本ではない。 記述が専門的でかなり細かいことにまで及んでおり、専門家が読めば面白いのだろうが、それ以外の人にはお勧めできない。 新書ではなく専門書として出すべき本だ。 要するに江戸時代の大坂にあっては転びキリシタンなどが非人として御用の仕事をしていたのであり、やがて非人という言い方そのものをも回避するようになっていく、ということらしい。 同じ江戸時代でも江戸での非人のあり方とはかなり異なっており、著者は地域ごとの相違を念頭に置くことなく非人として一括して捉えるのは誤りだと考えている。 本書で一般の読書家が読むに値するのは終章だけだろう。 ただし、ここで著者は 「士農工商エタ非人」 的な整然たる秩序が江戸時代にあったことを一度は否定しながら、しかし平民とそれ以下の身分差は厳然としてあったとしている。 そのこと自体はいいが、「士農工商エタ非人」 という言い方自体が江戸期にあった例を著者は示していない (私が他の本で読んだ限りでは、そういう例はないはず)。 「士農工商」 については注で少し言及しているけれど。 何にしても、著者は一般の読書家向けの本を書く能力に欠けていると思う。

・山田正紀 『僧正の積木唄』(文春文庫) 評価★★★ 単行本は2002年に、文庫は2005年に出ている。 ヴァン・ダインの有名なミステリー 『僧正殺人事件』 のパロディとして書かれた作品。 『僧正殺人事件』 からしばらくして、「僧正」 を名のる人物によって新たな殺人事件が発生する。 たまたまアメリカに遊学していた金田一耕助は、日系人が嫌疑をかけられたことをきっかけにこの事件の解決に乗り出す、という筋書き。 そもそも最初の 『僧正殺人事件』 の解決は正しかったのか、実は真犯人は別にいたのではないか、というような疑問も提示されており、またヴァン・ダインの原作に登場するマーカムらの警察関係者によって、ファイロ・ヴァンスがいたから 「グリーン家殺人事件」 などは解決がかえって遅れたというような辛辣な批判もなされている。 また、この時代のアメリカがいかに日系人に対して差別的であったかもかなり詳しく述べられており、歴史の勉強にもなる。 私はかねがねヴァン・ダインが日本のミステリー愛好家に過大評価されてきたと思っている人間で、彼のミステリーは5作しか読んでいないけれど、『グリーン家殺人事件』 だけがかろうじて合格、その他は駄作だと考えており、『僧正殺人事件』 もミステリーの名に値しないという評価なので、本書を読んで溜飲を下げました。 ただし、そうした細部の面白さはあるが、ミステリーとして本書が面白いかというと、やや疑問。 法月綸太郎の解説がなかなかいい。 

・広瀬浩二郎 『障害者の宗教民俗学』(明石書店) 評価★★★ 1997年に出た本。 著者は、先月も書いたが、1967年生まれで少年時代に失明し、京大文学部・大学院で学んだ人。 本書を出した時点では京大文学部の研修員であった。 本書は、第一部では障害者と新宗教との関わりについて述べている。 山岸会や天理教、また沖縄の土着宗教にリサーチして、そうした宗教が障害者や底辺で生きる人々とどのような関わりを持っているかを述べている。 新興宗教はとかくうさんくさい目で見られがちだが、そうした宗教を必要とする人々がいるという現実は忘れられがちだ。 著者は、研究者として必要な距離は保ちながらも、外在的な批判だけに終わらない視点を持っていると言える。 第二部では、日本の中世文化のなかで盲人が一定の宗教的役割を担う存在であったことを証明しようとしている。 資料が少ないのでどうしても想像によらざるを得ない部分もあるが、盲人が盲僧として勤めうるような社会が実際に存在していた (そして近世に入って解体していった) ということを著者は主張している。

・大治朋子 『アメリカ・メディア・ウォーズ ジャーナリズムの現在地』(講談社現代新書) 評価★★★☆ 毎日新聞記者が、アメリカの新聞や報道の現在を報告している本。ネットの浸透で新聞が大幅に部数を減らし、新聞が存在しない地域も生まれているアメリカ。しかしそうした地域でも報道の試みが消えたわけではないし、また紙媒体の新聞もネットと共存しつつ、課金制度を通して生き残りを模索している。アメリカではNPOが報道を担当する場合も増えている。 本書はこうしたアメリカの新聞事情を報告しており、日本はアメリカほど紙媒体の新聞の危機が顕在化していないが(それがなぜかも本書には書かれている)、やがては日本にも波及するであろう事態を考えておくためにも一読に値する。特に後半の、NPOが報道にあたっている事態の紹介が面白い。ただしNPOはアメリカでは寄付によって成り立っている面もあり、寄付文化があまりない日本ではそれを真似てもうまくいくかどうかは疑問。

・松戸清裕 『ソ連史』(ちくま新書) 評価★★★☆ 著者は1967年生まれ、東大と東大院を出たソ連史研究者で北海学園大教授。 新書一冊で読めるソ連の歴史というのは貴重。 一昨年末に出たときすぐに購入したのだけれど、諸般の事情で読むのが遅れた。 で、ようやく読んでみたわけだが、教えられるところも多く、バランスのとれた本だと思う。 ソ連については資料の関係で不明な点も今なお多いが、そういうところはそれとして記述しつつ、全体の流れがよく分かるように書かれている。 ソ連と言うと崩壊した社会主義国家ということで何でもマイナス視する風潮もないではないが、評価できるところはそれとして評価しつつ、しかし軍事費が増大し (発表されていた数字は虚偽で、実際は国家予算の4割にもなっていたという) 、なおかつ農業生産の不振 (人口が暮らしやすい都市に集中し、なおかつ農民の待遇改善もうまくいかない) や、最低限の生活が保障されているところから来る労働者の非能率など、さまざまな理由が重なって最後は崩壊してしまうところまでを明らかにしている。 またソ連と言うと言論の自由がなかったとされるが、実際には党幹部は国民の声を結構気にしていたとか、情報網があまり発達していなかったために監視の目が届かないという意味での言論の自由は或る程度あったという指摘も面白い。

・河合敦 『戦争で読み解く日本近現代史』(NHK出版新書) 評価★★ シリーズということなのか、「やり直し教養講座」 というタイトルもついている、2年前に出た新書。 首都圏のBOOKOFFで半額購入。 明治以降の日本の歴史を、外国との関係――日米、日中、日韓、日英――を軸として見ながら、近代に日本が経験した戦争の原因と経過を記述した本。 著者は1965年生まれ、日本史を専攻して青学と早大院を出た高校教諭。 日本の近代史としてまとまった知識が新書一冊で得られるのだろうと思い読んでみたのだが、首をかしげる箇所が結構あった。 例えば東京裁判について、日本の戦争犯罪を明らかにしたのはいいがA級戦犯などに責任を押し付けて一般の日本人の戦争責任を問わなかったなどと書いているけど(92〜93ページ)、問題はそういうことじゃないだろう。 戦争の勝者が裁判という形式で正義を装って一方的に敗者を裁くこと自体に問題があるという認識が著者にはないらしい。 戦争犯罪なら連合国だってやっているわけで、なぜそれが裁かれないのか、という視点がこの人には全然ないのにびっくり。 戦後のアメリカ軍の占領政策がポツダム宣言違反であることにも触れていない。 また、中国と日本の関係を記述するときに限って 「(中国の) 民衆」 という表現を用いているのも気になった。 今どき民衆史観でもないだろうし、それでも民衆史観で行くなら日本も韓国もアメリカも英国も全部民衆で通すべきだろうに、なぜか中国だけ (そして日本の侵攻を批判するときだけ) 「民衆」 が出てくるのである。 もっと問題があると思うのは、韓国と日本との関係である。 創氏改名を強制したと書いているが (212ページ)、これは誤り。 また、日韓併合以降に韓国側の抵抗があったことについては詳述しているが、他方で韓国の近代化が日本によって進められたことにはほとんど触れていない。 巻末の参考文献を見ると、左派と保守派の文献が両方挙げてあるけれど、基本的に左派文献に依拠していることが明らかだし、それも新書や文庫で読めるものばかりで、例えば日本に併合されたあと韓国で資本主義が発展したことを実証したアメリカ人研究者による専門書で邦訳もある 『日本帝国の申し子』 なんかは読んでいないようだ。 そもそも、本書全体で参考文献は全部で25冊しか挙げておらず、その中には専門書と言える本は少数で、大多数は新書などの一般向けの書物なのである。 これで日本史専攻の院修了なのかね? ちょっと信じられない。 ちなみに、下の (↓) 本 『徹底検証 日清・日露戦争』 では日露戦争で連合艦隊がバルチック艦隊との一戦で丁字戦法をとったというのは間違いだと指摘されているが、本書は丁字戦法を全然疑っていない(269ページ)。 また、ノモンハン事件については、昔は日本がソ連に完敗したと言われていたが、ソ連の崩壊後にソ連側の資料が公開されて、ソ連側の損害も相当大きく、少なくとも日本の完敗とは言えないという評価になっているはずだが、その辺も知らないらしい (277ページ)。 専門家というよりはシロウトの本に近い証左であろう。

・半藤一利+秦郁彦+原剛+松本健一+戸一成 『徹底検証 日清・日露戦争』(文春新書) 評価★★★ 2年前に出た新書を首都圏のBOOKOFFにて半額購入。 タイトルどおり、日清戦争と日露戦争の細部にわたる実態を5人の学者・評論家が座談会形式で検証したものである。 座談会なので体系だった記述にはなっておらず、どちらかというと通説の誤りだとか、意外な事実や視点を提供するところに重きが置かれているようだ。 例えば、日露戦争で日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊と戦ったとき、日本側は丁字戦法で勝利したと言われているが、実はそうではなく、なぜウソが今まで信じられてきたかと言うと、有効な戦法を公けにするわけにはいかないので、一種のカモフラージュとしてそういうことにしておいたのだ、という。 このように、どちらかというと日清戦争と日露戦争の大まかなところは知った上で、なおも細かい知識を得たい人に向いている本である。

・妙木浩之 『エディプス・コンプレックス論争 生をめぐる精神分析史』(講談社選書メチエ) 評価★★★☆ 11年前に出た本。 著者は1960年生まれ、上智大の心理学科で博士課程までやった人で、執筆当時は久留米大助教授、現在は東京国際大教授。 出た当時すぐ買っておいたのだが、うっかり書棚の隅に入れておいてそのまま忘れてしまい、最近発見して読んでみた。 フロイトの提唱したエディプス・コンプレックスは有名だが、本書はこの学説をめぐるフロイトの弟子たちやさらにその後の精神分析家の学説や人間関係をひととおりたどったものである。 学説史と人間関係史は、実は精神分析の歴史をたどる際には切り離せない両面であることが、本書を読むとよく分かる。 フロイトという嫉妬深い 「父」 と、その弟子=息子たちの確執は、精神分析という領域が純粋な学問というより、一種のイデオロギーであることを暗示しているような気がするのだが、著者は (本職が精神分析家だから) さすがにそこまでは言っていない。 ルー・ザロメとフロイトの関係だとか、少し前に 『危険なメソッド』 のタイトルで映画化されたザビーナ・シュピールラインとユングとの関係とか、色々面白い人間関係が次々と明らかにされている。 索引もついているのが便利。 

10月  ↑

・森本敏+石破茂+西修 『国防軍とは何か』(幻冬舎ルネッサンス新書) 評価★★★☆ 自衛隊のあり方を正面きって、そして詳細に論じた鼎談。 3人のうち森本と石破は防衛大臣の経験があり、西は大学教授。 最近の尖閣諸島における中国の活動など、戦争というものが必ずしも一定の形式に従って行われるものではなく、時代により変遷し、したがっていわゆる国際法も必ずしも有効とは限らない。 そうした状況のもとにあって、事が起きた場合に的確な対応がとれるようにしておくのが政治家や自衛官の務めであり、国内法を現代の状況に見合うように整備しておかなければならないということが、細部にわたって論じられている。 また戦後日本は憲法改正を一度もおこなわないできたが、日本とよく比較されるドイツを初め、憲法とはしばしば時代に合わせて改定されるのが当たり前なのであり、戦後の日本がいかに異常だったかも諸国との比較で明らかにされている。 平和ボケした日本人には必読書であろう。

・広瀬浩二郎 『触る門には福来たる ― 座頭市流フィールドワーカーが行く!』(岩波書店) 評価★★★ 2004年に出た本。 著者は1967年生まれ、少年時代に盲目となったが、京大に進み、その後大学院に進学して博士号取得。 専門は民俗学、宗教学、障害者学。 国立民族学博物館准教授。 本書は軽いエッセイ集であるが、アメリカに留学したときの模様や、盲人サッカー、野球観戦などについて書かれている。 アメリカでは必ずしも日本に比べて障害者用のインフラは整っていないが、気楽に手助けをしてくれる人が多いのが特徴だと言う。 また、博物館に行くとヴォランティアの案内人がいるが、案内人によって個性がかなり異なり、場合によっては迷惑を感じるような案内人もいるらしい。 野球観戦にしても、見えないのではあるけれど野球場の雰囲気や音を楽しむことで十分な満足感が得られるのだと言う。 なおタイトルは、盲人はとにかく触ることで対象を認識するので、例えば重要文化財などにも、レプリカでいいから触らせてほしいという主張から来ている。 あとがきが、「めくら蛇に怖じず」 ということわざを例に、差別用語にやたらこだわることの馬鹿馬鹿しさをやんわり批判しているのが、なかなかいい。 この人の本を読んだのは初めてだが、他の著書も読んでみようという気になった。

・テッサ・モーリス-スズキ (田代泰子訳)『北朝鮮で考えたこと』(集英社新書) 評価★★☆ 1年少々前に出た新書を首都圏のBOOKOFFにて半額購入。 著者は1951年英国生まれで、オーストラリア国立大学研究学院教授。 いくつかの著作があるが、私はこの人の本を読んだのは初めてである。 本書は、1910年にエミリー・ケンプという英国女性が満洲から朝鮮半島を旅し、残した旅行記を読みつつ、それと同様のルートをたどって現代を旅して、そこから得た自分なりの思索を綴ったものである。 1910年とは言うまでもなく日韓併合があった年であり、またこの頃はヨーロッパ人女性がしばしば中国や朝鮮、日本を旅して旅行記を残している。 有名なのはイザベラ・バードであろう。 エミリー・ケンプはそれに比べると知名度が低いが、著者は約100年前にヨーロッパ人女性が残した記録を吟味しながら中国北東部や北朝鮮、韓国を旅している。 前半はまあまあ面白いと思ったが、旅行が進むにつれてあまり書くことがなくなってきたのか、希薄な感じが増している。 少し興味深かったのは、キリスト教宣教師のことに何箇所かで触れていること。 義和団事件などで宣教師はかなりの数殺されているが、アジア国家に強攻策をとれと主張した宣教師もいれば、逆の立場の者もいたらしい。 もっとも、逆の立場であっても異国においてなじみのない宗教を喧伝するという行為が、いかに平和主義の装いをとっていようと、基本的に無礼なものであると私は考えているけれど、そうした認識には著者は至らない。 この辺がヨーロッパ人の限界かな、という気がする。 ・・・・なお、著者は、ケンプが鉄道でロシア方面から来た際に長春から狭軌になるので乗り換えなければならなかったと記しているが (31ページ)、満洲鉄道は当初は狭軌 (日本のJRのゲージ) だったものの、1910年には標準軌道 (日本の新幹線やヨーロッパの大部分の鉄道のゲージ) になっていたはずで、乗換えが必要だったのはロシア側の鉄道が広軌 (標準軌道より幅が広い) だったから、の間違いではないか (もっとも、訳の問題かも知れない)。  それから、著者は韓国の朴正煕大統領を独裁者として北朝鮮の独裁者と同様に見ているが (70、172ページ)、その後の経済発展の南北差を見るなら、朴大統領の独裁がいわゆる開発独裁であったのに対し、北のそれはそうではないことは明瞭で、この辺は著者の見識に?マークが付くところだろう。

・北村亘 『政令指定都市 百万都市から都構想へ』(中公新書) 評価★★★☆ 著者は1970年生まれ、京大大学院修了。 現在は阪大教授。 むかしは政令指定都市というと、東京都区部を別にすれば、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の五大都市に限られていた。 それが現在は、わが新潟市を含めて20もの政令指定都市がある。 なぜこんなに増えたのか、そもそも政令指定都市の定義とは何なのか。 その辺を明らかにした本が本書。 そもそもは戦前から他とは格段に人口が多い前記の五大都市を戦後も特別扱いしようとしたところから話は始まる。 本来ならこれらは百万都市であり、戦後もその線で行くはずだったのが、神戸は戦災にあって一時的に人口が百万をかなり割り込んでいたため、神戸を救う意味で五十万人以上という定義が設けられた。 それ以外の定義は、実は最初からかなり曖昧だったという。 しかしやがて北九州の小倉などの市が合併により人口が百万前後となったため、久しぶりの政令指定都市となった。 この辺から政令指定都市が濫発(?)される素地が出てきたという。 政令指定都市はそれ以外の市に比べて自分の意思で物事を決定できる度合いが高いが、それは逆に見れば県と政令指定都市の対立を生む元ともなり、また、同じ政令指定都市といっても、横浜が東京の衛星都市であるように、昼間人口が夜間人口に比べて少ない都市もあるが、住民は住んでいる都市に税金を納めるので、衛星都市になっている都市のほうが裕福であるという。 逆に、大阪市は昼間人口が多いが、税収が少ないので (夜間人口が神戸や堺に居住しておりそこで税金を納めているから)、インフラ整備のお金が足りず、橋下市長のような政治家が出てくる素地はその辺にあるということらしい。 地方自治体というものについて考えるのに参考になる本である。

・恒吉良隆 『ニーチェの妹 エリーザベト――その実像』(同学社) 評価★★★★ 著者は1938年生まれ、九大独文の院を出て福岡女子大教授を務めた人。 本書は4年前に出版されており、私は出たときすぐ購入したのだが、ずっとツンドクになっていて、ようやく読む気になり紐解いてみたら、結構面白かった。 哲学者ニーチェには妹エリーザベトがいて、彼女は兄の残した原稿を改竄したり勝手に編集したりして、『力への意志』 などという、ニーチェがいっときは構想したが結局は破棄したプランの書物をでっちあげるなど、悪名たかい存在だった。 本書はそのエリーザベトの生涯を詳細にたどり、彼女の仕事の功罪を明らかにしている。 小さいときから知的好奇心が強く、しかし19世紀半ばに生まれた女性ということで高等教育は受けられなかった彼女が、彼女なりに奮闘した89年の生涯が公正な視点から叙述されている。 兄が20代末で大学教授になるという異例の出世を遂げ、独身のまま教授としての激務をこなしていたときには一緒に住んで家事をこなすなど、兄妹仲はきわめてよかったという。 その後、ワーグナーとの出会いと蜜月的関係をへてニーチェはワーグナーと決別するのだが、このあたりからあくまでワグネリアンであったエリーザベトと兄の仲はあやしくなってくる。 妹は一時期作家になろうとするのだがうまくいかず、結局南米に移住して理想郷を作ろうと考える男と結婚して同行する。 しかしこの事業は成功せず、夫は死に、エリーザベトはヨーロッパに戻ってくる。 すでに兄は発狂していたが、生前はいくら著書を書いても売れなかったのに、皮肉にも正気でなくなってから徐々にその著作に注目が集まり始めていた。 機を見るに敏な妹は、兄の著作を管理し、兄を売り出すことに自分の存在意義を見出そうとした。 ・・・・以後のことも詳しく述べられているし、またニーチェ評価の変遷、ニーチェを宣伝する団体の設立や金策、ムッソリーニやヒトラーとの関係など、さまざまな側面からエリーザベトの人間像とニーチェをめぐる各界の動きが書かれていて、非常に興味深い。 エリーザベトは設立されて間もなかったノーベル賞の文学賞候補にも三回なったという指摘には驚いてしまう。 幸か不幸か受賞にはいたらなかったが。 人名索引もついていて便利。 なお細かいことでごめんなさい、ケスラー伯爵著・松本道介訳の 『ワイマル日記』 の邦訳の出版元は、富山書房じゃなくて冨山房(ふざんぼう) です (195ページ)。

・浅見雅男 『反逆する華族 「消えた昭和史」 を掘り起こす』(平凡社新書) 評価★★★ 著者は1947年生まれ、慶大卒業後出版社に勤務し、そのかたわら華族や皇族についての著書を多数出版している人。 本書は、戦前に華族という身分にありながら左傾して特高の取調べを受けたり、場合によっては裁判で有罪を宣告されたりした人々を取り上げて、その詳細を述べた本である。 石田英一郎、大河内信威、学習院「ザーリア」グループ、そして岩倉靖子の3人+1グループが取り上げられている。 最初に登場する石田英一郎は文化人類学者として有名だが、彼が華族の息子だとは私は恥ずかしながら知らなかったので、ここを最も興味深く読んだ。 華族という特権階級に批判意識を持ちながら、同時に政治的に利用できるものは何でもという当時の共産党の体質にも違和感を覚えて、やがて自分なりの道を見つけていく石田の若き日の姿は現代人の興味を十分に惹くだろう。 その後の章を読むと、特権階級の若者が左傾するにしても、やはりそのあり方は様々であると分かる。 また、昭和天皇は学習院に行くような華族、場合によっては皇族の若者が左傾により特高に捕まったり裁判にかけられることを憂慮していたが、警察や裁判所に穏便な措置をと自分から言い出すのは立憲君主制の建前に反するので、せめて華族をとりしきる法の枠内ではなるべく穏健な罰で済まそうとしたという。 もっとも、特高のほうでも華族の若者にはそれなりに配慮をしたようで、逆に無産階級の若者の左傾には容赦なく対応したらしいので、やっぱり特権階級は得なんだな、と思ってしまう。 著者の調査は徹底的で、分からないところは素直に分からないと述べており――例えば或る若者が東大に在籍したかどうかも不明な場合があるのだそうだ――昔のことを調べるのには困難が伴うし、特に本人や家族の名誉に関わる場合は証拠も隠滅されたりするし、大変だったろうなと思う。 そういう意味では労作と言える。

・横井勝彦 『大英帝国の〈死の商人〉』(講談社選書メチエ) 評価★★☆ 著者は1954年生まれ、明大商学部の院を出て明大の教授をしている人。 専攻は近代イギリス経済史。 本書は1997年に出ているが、私はだいぶ前にどこかの古本屋で500円で購入、その後すっかり忘れていたのだが、最近書棚の奥から出てきたので読んでみた。 この本、タイトルと内容に多少のズレがある。 まず、「死の商人」 という言葉は武器を製造し外国などに売りさばき巨額の利益を得る存在というふうに何となく一般人には理解されているが、著者によればその実態、或いはこの言葉が指すところはあいまいであり、この本では19世紀末に君臨した英国などの武器製造業者を指すことにすると述べている。 しかし、そう述べながら本書はそういう武器製造業者について詳述しているのかというと、そうではない。 むしろ、当時、つまり日本で言えば幕末から明治維新にかけての頃に、武器の市場がどうなっていたかという問題から始めている。 早い話が中国や幕末の日本はヨーロッパで中古となった銃器類の市場となっており、そうした武器の市場的な流れは倒幕にも影響を与えたというのである。 そして次には、アフリカ黒人が奴隷として売買されていた時代に、いわゆる三角貿易でヨーロッパからアフリカへ流れたものにはやはり中古の銃器類があり、それがアフリカ内部の部族闘争を盛んにした面があったと述べられる。 ・・・・というように、各章の内容はまあまあ面白いのだが、タイトルの 「死の商人」 の話はなかなか出てこないし、後半英国の武器製造業者の話になることはなるのだが、政府と民間企業の関係だとか、政治家ごとの姿勢の違いだとか、そういう話が続いて、タイトルから期待されるような内容にはならないのである。 あとがきで著者は、本書は書き下ろしだけれどまとまりには欠けたかもという意味のことを書いているが、本当にそのとおりだと言わざるを得ない。

・ハンス=ギュンター・プフラウム + ハンス=ヘルムート・プリンツラー (岩淵達治訳)『ニュー・ジャーマン・シネマ』(未来社) 評価★★★★ 1990年に出た翻訳。 ちょっと必要があってツンドクになっていたこの本を書棚から引き出して読んでみたのだが、結構充実した内容で感心した。 タイトルにはニュー・ジャーマン・シネマとあるが、それだけでなく、戦後の西ドイツの映画史の本として充実している。 戦争でナチスドイツが壊滅して、ドイツの映画界も戦後は壊滅状態から立ち直るのに時間を要した。 また、アメリカと違い、商業ベースではなく公的な助成によって映画作りがなされてきた歴史が西ドイツにはあり、そこから作品に公の側から批判が寄せられやすいという好ましからざる一面が生まれると同時に、売れなくても構わないという、よく言えば商業主義に媚びない、悪く言えば観衆をひきつける工夫が足りない映画が多く作られてきたという。 様々な映画作家や作品が挙げられており、また著者の叙述はいい意味で批評的で、作家や作品の欠点にもそれなりに言及しながら話を進めていくので、なるほど、こういう見方もあるのかと教えられるところも多い。 1990年にこの邦訳が出たということからも分かるように、時代的には東西ドイツの統一以前のみを扱っているから、最近のドイツ映画を知るのには役立たないが、戦後からドイツ統一の頃までの西ドイツの映画史を知るには貴重な文献である。 また、原著は西ドイツのことしか扱っていないが、訳者の岩淵氏があとがきでドイツ語圏である東ドイツ、オーストリー、スイスの戦後映画事情を概観する文章を載せてくれていて、たいへん親切である。 岩淵達治氏は先ごろ亡くなってしまったが、こういう訳業を見ても立派な仕事をした人なのだということが分かってくるだろう。 合掌!  

・江藤淳 『忘れたこと、忘れさせられたこと』(文春文庫) 評価★★★★☆ 単行本は1979年に、文庫本は96年に出ている。 第二次世界大戦で日本は敗れたが、その際にポツダム宣言を受諾した。 戦後の日本ではしばしば、日本が連合軍に無条件降伏したとされてきたが、これは誤りであり、ポツダム宣言には一定の条件が明記されているから、有条件の降伏だったのである。 それが、アメリカ軍が日本を占領する過程の中で、日本は無条件降伏をしたかのごとくに事態は変化していった。 これが、自ら発したポツダム宣言を無視したアメリカ政府の意向であり、実はマッカーサーすら予期していなかった占領政策であること、日本も敗戦直後は有条件降伏であることを自覚しており、またこの点を衝いた京大教授ら法学者などによるアメリカ軍占領政策への批判がなされたが、それがアメリカ軍の強硬な姿勢と検閲により押しつぶされていった過程が、綿密な調査によって明らかにされている。 また、高校の日本史教科書がこの点をいい加減に記述しており、実は文部省 (当時) の検定に納得せず裁判を起こしたので有名な家永三郎教授の作った教科書は 「ポツダム宣言の条件を受諾して降伏した」 と正確な記述をしているのに対し、多く使われている山川出版社の井上光貞教授らによる教科書は 「無条件降伏」 と記し、なおかつポツダム宣言の第五条 「われらの条件はかくのごとし」 と有条件降伏であることを示す部分を抜いて引用するという、きわめて悪質な操作をしている実態も指摘されている。 日本史学者がいかにアテにならないかが分かりますね。 とにかく、戦後の日本を考える上では欠かせない重要性を持つ本である。

・和田博文 『シベリア鉄道紀行史 アジアとヨーロッパを結ぶ旅』(筑摩選書) 評価★★★☆  著者は1954年生まれ、神戸大大学院修了後、現在は東洋大教授をしている人。 都市論やツーリズムの研究が専門らしい。 本書は極東とヨーロッパを結ぶシベリア鉄道を、その敷設の頃から取り上げて、この鉄道をどのような人間が利用しどのような体験記を残しているかを語っている。 最初の頃はレールを敷く枕木もかなりいい加減な置き方をされていて、列車もスピードが出なかったというような話から始まっている。 また、ウラジオストクという地名が、ロシア語で 「東方を征服せよ」 という恐ろしい意味であることにも最初のあたりで触れられている。 そうか、知らなかったなあ。 というわけで内容的には色々な資料を用いていて豊富なのだけれど、記述がややごたごたしていて整理がついていない印象があるのが惜しい。 前半は敷設の話だとか、バイカル湖が邪魔になってそこだけ船で湖を渡っていた時期があるとか、雑多な感じがするが、後半は旅行記が中心になるのでそれなりに面白い。 いかにも気丈そうな与謝野晶子だけど、パリに渡った夫・与謝野鉄幹を追ってシベリア鉄道で一人旅をするときひどくおびえていて、夫がベルリンまで迎えに来てくれるだろうか、或いはモスクワまで、などと言っていたという。 実際は、夫はパリの駅で晶子を出迎えたそうな。 このほか、戦争時には複線になっている部分でも両方とも武器などの軍需品を急いで送るために一方通行で使われていたという指摘もある。 ・・・・というわけで悪くない本だとは思うのだけれど、歴史を扱う人にありがちなことで、第二次大戦の発端となったポーランド分割に触れるとき、ドイツ軍については 「侵攻」 と書かれているのにソ連軍は 「進出」 となっていたり、「満洲国」 というふうに満洲には必ずカギカッコがついていたりするのが、どうにもね。

・西尾幹二 『GHQ焚書図書開封 8 日米百年戦争』(徳間書店) 評価★★★☆ 西尾幹二氏のGHQ焚書図書開封も8巻目になった。 今回は昭和18年前後に出版された、大東亜戦争調査会編の数冊を取り上げている。 戦争の真っ最中に出た本だが、執筆者は帝大教授、元公使、海軍士官などで、戦争を煽り立てるような記述はなく、むしろ冷静にアメリカなどを分析しているという。 最初にアメリカが帝国主義的政策を推進するにあたって功のあった5人の国務長官が挙げられている。 時期は1840年代、つまり南北戦争以前から、1933年、つまりドイツでナチスが政権をとる時期までにあたっている。 こうした国務長官らによって、南北戦争やペリーの浦賀来訪らがどのようになされていったのかが明らかにされる。 米西戦争でフィリピンを獲得したものの、ヨーロッパ列強に対してアジア大陸進出で遅れをとったアメリカは、結局自由貿易という言い方で権益の確保を図るしかなかったという実態が明らかにされている。 またペリーは浦賀に来るとき、日本の幕府がアメリカの要請に応じなければ琉球を占領することも考えていたという。 そのほか、日本の中国へのいわゆる21箇条要求は、現在の日本史教科書では悪く書かれることが多いが、当時の列強が中国大陸に持っていた権益に照らし合わせたときに果たして苛酷な要求と言えるのかどうか、また、ワシントン会議では軍艦の削減だけがとかくとりあげられがちだが、そのほかにも細かい外交交渉がなされており、そこでアメリカや英国の利益が確保される仕組みになっていたという指摘など、色々参考になる箇所が多い。 少なくとも、戦時中の日本が必ずしも盲目ではなく、相手の事情や過去の歴史をしっかり見据えていたことが分かる本である。

・家村和幸 『なぜ戦争は起きるのか この一冊で本当の 「戦争」 が解かる』(宝島社新書) 評価★★☆ 著者は昭和36年生まれ、高卒後自衛隊に入隊し、その後あらためて防衛大学校で学んで自衛隊の士官となり、最後は二等陸佐で退官したという人。 現在は日本兵法研究会会長だそうである。 本書は世界史の中の戦争を概観し、なぜ戦争が起こるのかについて考察したもの。 最初の4分の3で古代から近代に至るまでの戦争が逐一取り上げられ、簡略な説明がなされている。 いかに世界史の中で戦争が多かったかを改めて痛感させてくれる。 こちらが知らない戦争も多いし、また植民地から独立したあとのアフリカで紛争という名のものも含めた戦争が多発していることが分かるし、日本ではあまり知られていない南米の近代の戦争も取り上げられているので参考になる。 数が多いので各戦争の説明は簡単だが、必要があればまた自分で別の文献を探して調べればよろしい。 次の第6章では戦争についての理論が紹介されており、マハン、マッキンダー、ハウスホーファー、スパイクマンが取り上げられている。 ここはもう少し各理論家の主張を詳細にたどって欲しいところだ。 最後の2章は日本人論になってしまっていて、ここはやや安易。 最後の2章は削って第6章を拡充していたらもっと充実した本になっただろう。

9月  ↑

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  小谷野敦氏が9月6日のブログの中で私の 「読書月録」 を批判しているので、以下でそれにお答えしておく。 小谷野氏の言っていることは下記のとおり。

 http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20130906 

 新潟大学・三浦淳先生の読書日録は時どき覗くのだが、最近江藤淳に熱中しているらしい。

 しかし、どうも感心しない。江藤の占領軍の検閲研究は、のちに平野共余子が『天皇と接吻』を出して、江藤がいかに天皇については書かずにおいたか明らかにしたし、あと平野謙を批判しているところ、これは杉野要吉の『ある批評家の肖像』とか、森下の『ひとりぽっちの戦い』という中河与一をいかに平野が陥れたかという本、あるいは私が書いた、川端没後に平野が何をしたか、といったこともあって、江藤の指摘などそれに比べたら大したことはないし、江藤は、『昭和の文人』で、平野が自分の父親の職業について隠していると非難しつつ、自分や妻の父親が戦後何をしていたのかほとんど書かなかった。私の江藤淳評価はこのところ下落の一途をたどっている。

 私も四半世紀前、江藤、山崎正和、梅原猛あたりに憧れてずいぶん読んだものだが、そういう熱も冷めた私と、60過ぎて江藤に熱中している三浦先生だが、若いころはドイツ文学の勉強に懸命だったのだろう。川島幸希の本のところで、鴎外の『舞姫』について、「解釈をいくつか紹介しているのだが、なぜか、山崎正和の解釈には触れていない。山崎正和は 『舞姫』 について、近代文学の、特に戦後の解釈の中では、男女の仲というプライヴェートが優先され、国や社会のために尽くすという公的な面は否定的に見られる傾向があるが、これはおかしいのであって、『舞姫』 はプライヴェートな愛よりもむしろ近代化のスタートを切って間もない若い国家だった日本のために働くことを選んだ若者の話とも受け取れるのではないか、と述べているからだ。この辺、調べ方が足りないと思うなあ。」

 「からだ」の使い方が変だが、とりあげないといけないほどの説であろうか。それにこれ、本当に山崎の説なんだろうか。第一、「舞姫」は直後に論争を引き起こしたわけだが、鴎外自身がそんなことを言っていないのである。

 

 まず、平野共余子の 『天皇と接吻』 について。

 >江藤の占領軍の検閲研究は、のちに平野共余子が『天皇と接吻』を出して、江藤がいかに天皇については書かずにおいたか明らかにしたし

  私は恥ずかしながら平野共余子の本は読んだことがなかったので、ご教示に感謝しつつ 『天皇と接吻』 をひもといてみた。さぞかし精緻な江藤批判が展開されているのかと思いきや、江藤に言及している箇所はたった一箇所、16ページから17ページにかけての部分だけである。ここで平野は、江藤はアメリカ占領軍による検閲の害を過剰に捉えていて、逆に戦前戦中の日本による映画検閲を軽視している、と述べて江藤を批判している。しかし、これは問題のすり替えである。江藤は、戦前戦中の日本には検閲がなかったのにアメリカ軍は検閲をやったからけしからん、なんてことは一言も言っていない。第二次大戦で日本はアメリカに有条件降伏したのであり、アメリカの戦後日本への検閲をはじめとする占領政策はポツダム宣言 (その第十条には言論の自由は保障すると明記されている) から見ても国際法に照らし合わせても違反であると述べているのである。
  加えて、小谷野氏の主張するような 「天皇については書かずにおいた」 なんてことは平野は全然述べていない。いったいどこからそういう主張が出てくるのか。
  そもそも、平野のこの本はかなり政治的に偏向している。それは上記箇所の含まれる 「はじめに」 を読んでも分かることだ。平野は、戦前戦中の日本を 「軍国主義」 の一言でくくっており、戦後の日本を (アメリカに与えられた) 民主主義という言葉で表現している。しかし戦前の日本に民主主義がなかったなんてことはあり得ない。たしかに戦後のそれと比較すれば不十分なものだったかも知れないが、男子のみとはいえ普通選挙が実施されていた国に民主主義がなかったと言えるはずがない。ちなみに女子が普通選挙権を得たのは英米でも1920年代、つまり第一次大戦のあとであり、ヨーロッパでもフランスやベルギーは第二次大戦後である。ドイツで女子に選挙権が早くに与えられたのは第一次大戦に負けて新しい憲法を作ったからだが、その新しい憲法下でどういう勢力がやがて政権を握ったかは誰もが知っている。
  平野がいかに無知であるかは、戦時中の日本では 「学校での英語教育は廃止され」(40ページ) たというような事実に反することを書いているところからも明らかであろう。このあたりの箇所で平野は、戦時中は日本はアメリカ文化に目をつぶり、逆にアメリカは日本を研究したという趣旨のことを書いているが、そもそも戦前の日本ではアメリカ文化がそれなりに愛好され英語教育もかなり浸透していたのに対し、アメリカでは日本文化に親しんだり日本語を学んだりする者はあくまで少数に過ぎなかった。だからアメリカが日本と戦火を交えることになって日本研究にいそしんだのは当然のことに過ぎない。日本は研究するまでもなくアメリカのことは (少なくともアメリカが日本を知る度合いに比べれば) 知っていたのである。平野はそういう彼我の状況の差にも言及しながら、なぜかこの差を状況の差とはせずに 「日米の文化の差」 としてアメリカを賛美している。奇怪な断定だと言うしかない。およそ学術的とは言えない態度である。
  この本の著者略歴によると平野は1952年生まれだという。つまり、私と同年に生まれている。団塊の世代の直後に来た世代なのだ。あの頃の大学生がおかれた雰囲気を私はよく知っているが、直前の団塊の世代に見られる左翼的政治性をそのまま受け継ぐ者と、多少の距離をおいて団塊の世代の左翼性と適当に付き合ったりやり過ごしたりしていく者とに分かれていた。この本を (ざっと) 読む限り、平野は前者であろう。62〜63ページを読んでも、アメリカ軍のプロパガンダ 「連合軍は民主主義のために戦った」 をそのまま何の疑問も抱かずに受け入れて事実として記しており、とてもまともな学術書とは思われない。
  また、亀井文夫が1983年に製作した映画 『生物みなトモダチ』 について平野は、「世の中が環境ブームになる前に、地球全体のエコロジーに取り組むという先駆的なものであり、つねに時代の先を先をと考えていたこの監督の思考には驚くべきものがあった」(230ページ) と述べているが、ストックホルムで国連人間環境会議が開催されて環境保護ブームが始まったのは1972年のことであり、80年代になって環境保護の映画を作ることが 「先駆的」 だとはとても言えないのである。時代認識が不正確なだけでなく、特定の監督をこういうふうに賛美する口調もまた、学術的とは到底言い難い。
  いささか厳しい物言いをしてしまった感がなくもない。読むに値する部分もそれなりにある本だとは思う。しかし平野の本からは、(1969年に東大と東教大の入試が中止になったときが学生運動の絶頂期だったとすればその直後の) 1970年代前半に学生時代を送った人間の思い込みに満ちた政治的決めつけの匂いが芬々と漂ってくる。そんな本を賛美する小谷野氏は、失礼ながら判断力に欠けると言われても仕方がないのではないか。

  次に平野謙について。平野謙について色々な批判が様々な人からなされていることは分かったが、江藤淳が自分のことについて隠している部分があるから彼の平野批判がダメだ、というのはおかしいのではないか。言行不一致と言いたいのかもしれないが、言行が完全に一致している人間はごく少ない。江藤が自分の家族姻戚について隠蔽したことはそれとして、江藤の他者への批判もそれとして評価するのがまともなやり方であろう。

  次に、山崎正和の『舞姫』解釈についてだが、

 >とりあげないといけないほどの説であろうか。それにこれ、本当に山崎の説なんだろうか。第一、「舞姫」は直後に論争を引き起こしたわけだが、鴎外自身がそんなことを言っていないのである。

  「本当に山崎の説なんだろうか」 というのは、はっきり申し上げるが、無礼であろう。あたかも当方がデタラメを書いているかのような言い回しだからだ。山崎は 『鴎外 闘う家長』 の 「愛情のような雰囲気」 の章で谷沢永一の論文を援用しつつそう述べている。四半世紀前に山崎を卒業したとおっしゃるわりには、全然何も覚えておられないのは残念だと言うしかない。私も 『鴎外 闘う家長』 を読んだのは三十数年前になるが、脳味噌の片隅にちゃんと残っていた。
  それから、原作者が自作について何を言っているかを調べること自体は結構だが、「原作者がこう言っているから、こう解釈できる」 「原作者がそう言っていない以上、そうは解釈できない」 なんてことを主張するのは、およそ文学研究者失格ではないだろうか。

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・恵隆之介 『沖縄を豊かにしたのはアメリカという真実』(宝島社新書) 評価★★★☆ アメリカ軍基地が本土より多く設置されている沖縄。 アメリカ軍兵士による犯罪が時として起こり、マスコミの報道ではとかく沖縄の人たちが皆反米感情を抱いているように思われがち。 本書はそうした思い込みに対して明確に反論した書物である。 そもそも、戦後の沖縄を豊かにしたのはアメリカ (軍) だった、という事実をはっきりと書いているのである。 沖縄は戦時中に日本では唯一、上陸したアメリカ軍と日本軍の戦いが行われ、地元民の犠牲もそれなりにあった。 その心理的負い目があるために、マスコミの報道も偏向しがちなのだが、戦前の沖縄は本土に比べると医療や教育が遅れ、男尊女卑的傾向が著しい場所だったということをまず著者は明らかにしている。 その上で、戦後に沖縄を支配していたアメリカ (軍) がそうした遅れを是正すべくお金や人材を惜しみなく投入し、そのために例えば寿命で言うと昭和47年 (日本への返還) 直前の沖縄は平均寿命が日本本土よりはるか上になっていたのである。 それが、日本に沖縄が返還されると、左翼的な政治家やマスコミの操作、またアメリカに比べると基準が甘い日本の医療が浸透したことにより沖縄の人たちの健康は逆に後退し、平均年齢も本土の平均より下になってしまった、というのである。 沖縄のアメリカ軍を悪の権化のごとく見る見方がいかに皮相的かがよく分かる本。 沖縄について考えるためには必読書。

・大澤武男 『ユダヤ人の教養 グローバリズム教育の三千年』(ちくま新書) 評価★★☆ 著者はユダヤ人について何冊も著書のある人だけど、本書は看板に多少の偽りがある。 タイトルからするとユダヤ人の教育・素養について書かれた本かと思うのだが、そしてそういう部分もあることはあるのだが、むしろユダヤ人がディアスポラをへて、ヨーロッパでどのようにして生きてきたか、職業上の制約を課されたため、選ぶ仕事は金融や医業や弁護士業に偏りがちだったことだとか、ユダヤ人の金融が近代のヨーロッパ戦争を動かしてきた事実だとか、そういう記述が多い。 それはそれでまあ勉強にはなるのだが、著者はユダヤ人関係の本を何冊も出しているわけで、この本だけでしか分からないという部分はさほど多くないような。 さらに、最後にグローバル化しているユダヤ人の教育と島国の内部にとどまっている日本人の教育を比較して後者を批判しているのだけれど、ユダヤ人と日本人じゃ歴史が全然異なるのだから、単純に比較したって仕方がないという気がする。 というか、そのくらい、最後の章は底が浅いのである。 ユダヤ人には詳しくても日本人については全然考えてこなかった人なんだな、ということがバレてしまう。 なお、ノーベル賞受賞者の数についてユダヤ人と日本人を比較しているのだが、そこで客観性があるかどうか怪しい平和賞や文学賞に対して、客観性がおおかた認められている自然科学賞および経済学賞、と著者は書いているけれど (151ページ)、経済学賞がはたして自然科学のように客観的かどうかについては批判もあることくらいは知っておくべきだろう。 次に、イスラエル建国後のユダヤ人がパレスチナ・アラブへ強硬な姿勢をとっていることを 「やられたらやりかえす」 というふうに書いているけど (212ページ)、ユダヤ人を差別したり殺戮したりしてきたのはヨーロッパ人であり、パレスチナ人でもアラブ人でもない。 やりかえすならヨーロッパ人に対してすべきなのに、その辺のズレを著者は分かっていないみたい。 それから、福島の原発事故でヨーロッパ人は日本の大方が汚染されてしまったと見ているが意外なことに日本人はそう見ていない、と著者は述べているけれど (216ページ)、それはヨーロッパ人がおかしいんですよ。 この人、完全にヨーロッパ・ボケしているみたい。 語学ができても判断力のない人っているけど、この人も本書で馬脚をあらわしちゃったのかな。

・川島幸希 『国語教科書の闇』(新潮新書) 評価★★★ 著者は1960年生まれ、東大文学部卒で秀明大学学長。 現在の高校生用の国語教科書には、なぜか漱石の 『こころ』 と芥川の 『羅生門』 と鴎外の 『舞姫』 は必ず、どの出版社のものにも入っているのだそうであるが、いつごろから、なぜ、そうなったのかを追求したのが本書。 私がこの本を読む気になったのは、私が高校生だった1968〜70年度には、この3つの作品はどれも (少なくとも私の使っていた教科書には) 収められていなかったからである。 漱石は 『硝子戸の中』、芥川は 『舞踏会』、鴎外は・・・・記憶があいまいなのだが、たしか採用されていなかったと思う。 ちなみに私は 『こころ』 と 『羅生門』 は中学時代に自分で読んでおり、『舞姫』 は逆に遅れて大学生になってから読んだ。 私のことはさておくとして、本書によるとやはり私の高校生だった頃にはまだ高校国語教科書に採用されるこれら文豪の作品は多様で、80年代になってから収録作品に現在の3作が増え、2000年代初期に完全に現在の3作品の独占状態になったということである。 その理由には複数あるが、いちばん大きな原因は少子化だというから、びっくり。 つまり、高校生の数が減ってきていて、国語教科書を出す出版社の数も減少しており、そういう状況の中であえて従来の方針を変えて他社と違った作品を載せる冒険をする会社はなくなった、ということのようなのだ。 うーん・・・・少子化はやはりいけませんね。 あと、著者はこれらの3作品がはたして国語教科書に載せるにふさわしいのか (友人を裏切って自殺させる話、老婆の衣服を奪う話、女を捨てる話)、疑問だとし、特に 『舞姫』 についてははっきりふさわしくないのでは、と述べている。 ただし、そこのところでこの小説の解釈をいくつか紹介しているのだが、なぜか、山崎正和の解釈には触れていない。 山崎正和は 『舞姫』 について、近代文学の、特に戦後の解釈の中では、男女の仲というプライヴェートが優先され、国や社会のために尽くすという公的な面は否定的に見られる傾向があるが、これはおかしいのであって、『舞姫』 はプライヴェートな愛よりもむしろ近代化のスタートを切って間もない若い国家だった日本のために働くことを選んだ若者の話とも受け取れるのではないか、と述べているからだ。 この辺、調べ方が足りないと思うなあ。 

・吉本隆明+江藤淳 『文学と非文学の倫理』(中央公論社) 評価★★☆ 吉本と江藤の対談を全部 (5回) 収録した本で2011年の出版。 江藤には 『全対話』 という4巻本の対談集があるが、この対話集は江藤の生前、1974年に出ているので、そこには最初の2回しか収められておらず、二人の対談が全部読めるのはこれだけ、というふれこみの書物が本書である。 私は江藤の 『全対話』 は所有しているがこちらは持っておらず、たまたま県立図書館で見かけたので借りてみた。 で、読んでみたのだが、吉本はあいかわらず言っていることが不明瞭だし、量的には圧倒的に江藤のほうがしゃべりまくっている。 率直に言って教えられるところは少なかった。 特に江藤が何で吉本にこんなに好意的なのかよく分からない。 やや面白かったのは江藤が日本敗戦後のアメリカ占領軍の検閲や政策を調べ始めていた1980年代前半の対談で、憲法学者・宮沢俊義が最初は旧憲法を変える必要はほとんどないとの意見だったのに、或る時点からがらっと変わって 「8・15革命説」 に転向し、この態度が後輩の小林直樹などに受け継がれていくという、東大法学部の権威主義 (ただしアメリカ軍には弱い) を暴いていること、そして、宮沢の師であった美濃部達吉 (言うまでもなく戦前は天皇機関説で攻撃を受けた人) は、旧憲法を変える必要はないという意見を堅持した、という指摘である (229ページ)。 美濃部達吉って、きちんと筋を通す人だったんだなあ、と今さらながらに感心してしまいました。

・奥泉光 『シューマンの指』(講談社) 評価★★☆ 3年前に出た小説。 これまた県立図書館の書棚にあったのを読んでみた。 ただし、偶然読んだのではない。 話せば多少長くなるが、私の所属している学科には2年生向けに小論文を書かせる授業というのがあり、私は今年は当たっていないが、当たっていなくても小論文の執筆指導が数名分回ってくることになっている。 学科自体が軟弱なところなので、回されてくる学生のテーマもマンガだとかサブカル関係が多くて嫌になっちゃうのだが、今年はどういうわけかその中にシューマンのピアノ曲と作家ジャン・パウルの関係についてやりたいという、珍しくも見どころのありそうな女子学生が入っており、そういう興味を抱いたきっかけがこの小説だというので、それならオレも読んでおかないと、というわけだったのである。 で、読んでみたわけだけど、シューマンのピアノ曲についての薀蓄が傾けられていること、一人称の語りで語られるがそこには或る趣向が秘められていること、最初から或る謎が提示されていてミステリーっぽい進行ではあるけれど途中で殺人事件が起こりはっきり ミステリーになり、結局そこがこの小説全体のポイントになること、などが特徴である。 面白いといえば面白いんだけど、そして音楽の知識も盛り込まれているから参考にはなるんだけど、結局はちょっと凝った通俗小説ではないか、という読後感が残りました。 なお、後半のどこだったかで、トーマス・マン 『ヴェネツィアに死す』 で主人公がヴェネツィアに向かう途中で出会う下品な老人を借りてきたかと思えるようなシーンがあったのが、何となく気になった。

・福田二郎 『アルプスの少女ハイジの文化史』(国文社) 評価★★☆ 県立図書館の書棚を眺めていて、『ハイジの原点』 の隣りに置かれていたので目に付き、読んでみた本。 200ページに満たない薄さで出たのは3年前。 著者は1962年生まれ、獨協大の英語科を出たあと青学の院をへて駿河台大学の教授をしている人だそうである。 本書は 『アルプスの少女』 をネタにしながら、当時の自然観だとか、商業資本主義のあり方だとか、植民地主義だとかについて説明した本。 『ハイジ』 はあくまでダシで、主題は当時の時代相の説明である。 説明はまあ間違ってはいないし、バランスも悪くない (つまり現代の価値観から過度に過去を断罪するとか、逆にヨーロッパの価値観を絶対視するということがない) とは思うが、逆に言えばその方面に或る程度通じている読者には目新しい情報もなく、どうってことない内容だな、と思えてしまう。 なお、ハイジの本名をアーデルハイド (Adelheid) と記しているけれど、正確にはアーデルハイトで、このへんは著者が独文ではなく英語科の出であることの限界でしょうか――でも獨協大卒なんだから第二外国語でもドイツ語はちゃんとやったんじゃないの?と言いたくなりますが。 それにしても、英語科出の人間にこういう本を書かれてしまうとは、独文の連中は何やってんだろうねえ。

・ペーター・ビュトナー (川島隆訳) 『ハイジの原点 アルプスの少女アデライーデ』(郁文堂) 評価★★☆ ヨハンナ・シュピリの有名な 『ハイジ』 には種本があった、という報道が数年前になされた。 日本の新聞でも報道された。 本書はその 「発見」 をした若い学者の主張、およびその種本だという書物の邦訳である。 で、一読、どうなのかな、と思った。 たしかに似ているところもあるが、それはヒロインがスイスの自然に囲まれた暮らしに充足していたのにやむをえない事情で異国 (ハイジでは同じドイツ語圏の大都会だが 「種本」 の場合はアメリカ) に行くものの、スイスを忘れられず、ある契機を利用して帰ってくる、というところである。 あと、ハイジというのは短縮形で正しくはアーデルハイトだけど、アデライーデという名もそれと同根だという指摘もあって、それもそうかとは思う。 でも、『ハイジ』 の妙味はアルプスでの自然だとか人間関係だけでなく、大都会での人間関係にもあって、そこらへんは別に似ていないんだね。 シュピリは自分が影響を受けた書物なんかを用心深く隠す人だったそうで、実証的な研究はこれからということらしいけど、仮に本書の著者の主張どおりだったとしても、『ハイジ』 の面白さや価値が失われるわけではないと思う。 なお、この本はお盆中に大学は立ち入り禁止なので、県立図書館で本を読んでいる最中に書棚に見つけて読んだのだが、今年3月に出たばかりで、新潟大学図書館にも私の手配で (笑) まもなく入りますから、学生諸君は入ったら読んでみてください。

・江藤淳 『一九四六年憲法――その拘束 その他』(文春文庫) 評価★★★★ やはり江藤淳氏の戦後日本政治史関係の仕事。 現行の日本国憲法が成立する過程を追った論考がメインになったハードカバー (この文庫本の表題で1980年出版) と、米軍の占領と検閲に関わるハードカバー 『落ち葉の掃き寄せ』(1981年出版) を合本して文庫化したのがこの書物である (1995年出版)。 最初に収録されている、現行憲法成立の過程を追う論究がもっとも重要かつ精彩を放っている。 一部で、戦争放棄条項は日本人の発案で入れられたという見解を述べる人がいるが、これはマッカーサーが 「押し付け憲法」 という日本人からの批判を避けるために流した虚偽の情報であることもきちんと裏付けられている。 本書を読めば、現行憲法が押し付け以外の何物でもないことは何人といえども否定できないだろう。 また江藤のこういう論考に対して、当時東大法学部教授だった小林直樹が全然目新しくないという意味の批判を行っているが、それに対する反批判 「憲法と禁圧・再説」 も面白い。 本来、江藤がしたこういう仕事は法律や政治、或いは日本史の学者がやるべきもので、にもかかわらず戦後の学者たちはむしろアメリカ軍の設けた枠組み自体を疑うことを避け、枠組みが枠組みであることを隠蔽することに必死になってきたという事情が浮かび上がってくるだろう。 後半の 『落ち葉の掃き寄せ』 を原本とする部分も、敗戦直後の占領軍が検閲を具体的にどのように行っていたかが分かって興味深いし (吉田満 『戦艦大和ノ最期』 など)、竹山道雄の占領軍批判の一文が紹介されているのも有意義である。 文芸評論家・平野謙が戦後、保身目的で自分の戦中の文章を改竄した事実なども容赦なく暴かれている。 私は 『閉ざされた言語空間』(↓) と同じくだいぶ前に買ってツンドクになっていたのを読んだのだが、現在この文庫版が新本で手に入らないのは惜しいと言うしかなかろう。

・江藤淳 『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文春文庫) 評価★★★★☆ 江藤淳氏の戦後日本政治史関係の仕事のうちでも代表的なものとされる書物である。 単行本は平成元年(1989年)、文庫は1994年に出ている。 最初に、アメリカ本国の言論の自由という建前と占領地における振る舞いの矛盾という問題に言及している。 また、占領軍が日本に来た当初、日本のマスコミは――日本の降伏は条件付降伏であるという認識によって――平気で占領軍への批判を行っていたこと、それが占領軍の政策によって次第に検閲の網の目のなかに封じ込められていく様子がリアルに描き出されている。 占領軍は勝手な判断でこれを行ったわけではなく、アメリカ政府の意向がそこには明確にあったということも詳述されている。 さらなる問題は、占領軍がこれらの検閲を、あたかも検閲がなかったかのごとくに見せかけて行い、そこから、日本のマスコミがアメリカの意を迎えて最初から自主検閲を行うという構造が生まれていったということである。 むろん、これは戦争直後だけのことではなく、或る意味、今に至るまで続いている問題なのだ。 日本の戦後史について考えたい人には必読書。 私はだいぶ前に買ってツンドクになっていたのを読んだのだが、現在新本でも手に入ります。   

・松本佐保 『バチカン近現代史 ローマ教皇たちの「近代」との格闘』(中公新書) 評価★★★☆ 著者は1965年生まれ、聖心女子大卒業後、慶大修士課程をへて英国で博士号を取得、現在は名古屋市大教授をしているという人。 本書は、主としてフランス革命以降に絞って、ローマ教皇のたどった軌跡を描いた書物。 教皇ごとの性格や政治姿勢 (ったく、ローマ教皇ってのは実に政治と絡んでいる。 政教分離どころの話ではない) だとか、時代との関わり (教皇領に鉄道が敷設されるのを拒否した超保守派の教皇もいたとか) などが、なかなか興味深い。 現在の、バチカン市国というミニ国家が成立したのはファシストのムッソリーニ時代であるというあたりも面白いところ。 近代の教皇史としてはまあまあだと思うけど、記述の量のバランスが悪いと思うのは、2代前のヨハネパウロ2世に関する記述が長すぎること (まあ、それだけ画期的な教皇だったんだろうけど)、逆にナチスのユダヤ人虐殺を事実上容認したのではと批判されることが多いピウス12世については、その辺の記述が簡略すぎること、だろう。 著者はカトリック系の大学を出ているけど自分はクリスチャンではないとあとがきで断っているが、どことなく身内をかばうような感じがしないでもない。 一つ疑問を。 カトリックにはもともと反ユダヤ主義的傾向があったと述べて、「そもそもユダの裏切りがイエス・キリストを死に追いやったとするのが一般的な見方であり、ここから反ユダヤ主義的傾向が出てきたことは否めなかった」 とあるんだけど(157ページ)、イスカリオテのユダがイエスを裏切ったこととユダヤ人の罪って直接関係するの?

・西尾幹二 『憂国のリアリズム 感傷を排して世界を見よ』(ビジネス社) 評価★★★☆ 西尾幹二氏の最新評論集。 尖閣問題で日本を取り巻く問題が先鋭化しつつあるけれど、「こうなることは分かっていた」 とまえがきの冒頭で氏は述べている。 戦前はこれが当たり前だったのであり、戦後のぬるま湯の中で日本はそれが国際関係にあっては当たり前の状態なのだということを忘れていたのだ、と指摘している。 むろん、西尾氏ははるか以前からそれを叫び続けてきたのだ。 そうした情勢判断のもとに編まれた本書は、5つの部分から出来ている。 最初の第一部では、今現在を騒がせている政治問題が扱われている。 ここでは韓国が叫んでいるいわゆる従軍慰安婦問題について、日本外国特派員協会で行った意見陳述 「アメリカよ、恥を知れ」 が注目されよう。 そもそもアメリカ軍が戦後日本において慰安婦施設を作らせたこと、軍隊に慰安婦施設はつきものであって世界中のどの国でもやっていることを明確に指摘している。 第二部では過去と現在の政治家、中曽根康弘や小沢一郎が批判されている。 第三部では戦後日本における歴史の記述が占領軍支配下で行われたままで今現在まで来ていることを批判している。 例えば、日本が1941年に南部印仏に進駐したことがアメリカの逆鱗にふれて日米戦争になったとする日本の歴史家がいることを槍玉にあげ、南部印仏進駐は予防占領であり、同じ行為はアメリカもアイスランドについてやっていると指摘し、アメリカがやっていいことを日本がなぜやって悪いのかと問いかけている (148ページ以下)。  「私の立場は反米ではなく離米だ」(167ページ) と明快に言い切る氏の姿勢が鮮明にうかがえる。 このほか、第4部では皇室問題が取り上げられ、第5部には三島由紀夫、吉本隆明、ニーチェ研究に関する文章が収められている。 「考えるヒント」 がいっぱい詰まった評論集である。

・牧野洋 『米ハフィントン・ポストの衝撃』(アスキー新書) 評価★★★ アメリカを席巻している新興のネット新聞について書かれた本。 日本版も出しているそうなのだが、私はこの本を読むまで知らなかった。 アメリカではネットでの情報公開が進むにつれて紙媒体の新聞が倒産する例がいくつも出ており、地域によっては新聞がなくなって日常的な地方情報の入手に困るといった事態も出ているということは、以前に別の新書本で読んだことがある。 しかし本書を読むと、それに代わるものとしてのネット新聞が有力になりつつあるのだという。 本書はそれを立ち上げたアリアナ・ハフィントンを初めとする人たちの経歴、そしてハフィントン・ポストの特徴などについて書かれている。 日本にもある、既存のニュースをリンクで結んだだけのサイトではなく、自ら記者を雇い、調査報道にも力を入れている。 ただし、儲けなければならないので、エンタメ的な色彩の強いニュース(有名人のスキャンダルなど)もそれなりに掲載されているという。 私がいちばん面白かったのは、どういう報道が評価されるかで日米は異なるという指摘であった。 日本では放っておいてもそのうち明らかになるニュース、例えばA銀行とB銀行が合併するといった記事を他紙より早く載せるようなニュースが評価され、賞を受けたりする。 これに対してアメリカではその種の報道は評価されず、誰も目を向けない事柄を発掘して問題点を的確に捉え説得的な記事を書いた場合に賞を受けるという。 なるほどと感心した。 日米の報道機関にはそのくらい差があるということなんだなあ。

・江藤淳 『近代以前』(文芸春秋) 評価★★★☆ 江藤淳がアメリカ留学から帰国後、雑誌 『文学界』 に 「文学史に関するノート」 のタイトルで連載し、その後単行本になることなく20年が過ぎてから、ようやく新しい序文をつけて単行本化された本。 単行本化が遅れたのは内容面で批判があったかららしいが、詳しいことは私は知らない。 また、せっかく単行本になったものの、その後文庫化されることもなく、先月書いたように福田和也編の 『江藤淳コレクション』 にも一部分しか収録されていないという状態が続いている。 アマゾンでは絶版となった単行本にやたら高値がついているので困っていたが、たまたま先月末、1冊だけ1500円という私でも大丈夫な値段で出ていたので、即買いを入れて入手した。 で、読んでみたのだが、これ、結構難しい本である。 つまり江戸期以前の国文学に関する予備知識がある程度必要なのだが、私みたいに高校までで教わった事柄をあまり出ない程度の知識しかない人間には、引用文を理解するのも容易ではない。 というわけで、江藤の主張が学問的に見て正しいかどうかの判断は私にはしかねるが、しかし、難解であるにも関わらず著者の主張はそれなりに伝わってくるのであり、また評論だから学問とは少し違う評価もあっていいわけで、あくまで自分の生き方や感性に合わせる形で過去の文学を見ていこうという江藤の姿勢は分かる。 藤原惺窩、近松門左衛門、上田秋成らに江藤が寄せる共感が、この本に精彩を与えているようだ。 

・マルセル・リビュー (菅野賢治訳)『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』(筑摩書房) 評価★★★★☆   原著は1995年に、邦訳は98年に出ている。 大学院の授業で学生と一緒に読んだ本。 ナチのユダヤ人虐殺に用いられた収容所としてはアウシュヴィッツが圧倒的に有名だが、そのほかにも多数の (きつい労働で酷使しあげくのはてに殺してしまう) 強制収容所もしくは殺すためだけの絶滅収容所があった。 収容されたのもユダヤ人だけではなく、ロマ、敵国の捕虜、占領地域で抵抗運動に従事していた人間、さらにはドイツ人の入植が予定されている地域の農民なども含まれていた。 本書は、各収容所の成り立ちや管理、どういう囚人をどの程度収容していてどういう扱いをし、そのうち何人が殺されたのかについて、本書が執筆された時点で判明している限りの資料にあたってまとめたものである。 著者がフランス人なので、フランス人の囚人に関する記述がやや詳しい嫌いがあるが、ともあれ各収容所の建物図を含めて、それぞれの特色が分かるようになっている。 といっても、囚人の扱いにそれほど違いがあるわけではない。 さっさと殺されるのではなくても、きわめてお粗末な食事しかない中できつい労働を強いられ、さらにはささいな理由でSSなどに殴打されるので、囚人は次々と死んでいく。 トイレもろくになく着替えも与えられないので、チフスの発生も多い。 こうした中、生き残るのはよほど体と精神が強靭で、なおかつ運がよかった者だけである。 また、医者による実験材料として囚人が使われた例も、有名なメンゲレだけではなく、ほとんどすべての強制収容所に見られたことである。 読んでいると、SSなど管理側のあまりの非道さに、それでも人間かと叫びたくなってしまう。 2段組400ページあまりの本を読み通すのはうんざりだが、ナチの所業というのはこういうものだったのだと納得するためには、我慢して読むしかない。 ただ、書かれたのが90年代半ばであり、ホロコースト研究も日進月歩なので、例えばヴァンゼーでの会議の意義を現在の研究で一般に認められているよりは大きく見るなどの、そして上記のようにフランス人にやや記述が偏っているなどの、限界はある。 なお訳者はあとがきで、原著者が生存者などの残した資料を引用するとき勝手に一部分を省略してそのことを断ってもいないと批判している。 そういう欠点もあろうが、欠点をはるかに上回る長所を持つ貴重な書物。 また、訳者はあとがきで、高橋哲哉を一貫して高橋哲也と誤記しているので、原著者に対して厳しいわりには自分には甘いのでは、という感想につながらないこともない。

8月  ↑

・鈴木淳史 (編著) 『クラシック野獣主義』(青弓社) 評価★★★ 下(↓)の『クラシック知性主義』の姉妹編で同時刊行。 20あまりの文章が収録されている。 結論的に言えば、こちらのほうが面白い。 ただし編者の鈴木淳史の文章は面白くない。 調律師から見たピアニストなんて文章にはかなり教えられる。 盤鬼こと平林直哉氏の、作ったCDが売れないときは、値下げして放出するのではなく、値崩れを防ぐためにハンマーでCDを打ち砕いていくという文章はド迫力である。 ただし、自前のレーベルをGS-2000という番号で開始してGS-2096まで完成し、途中番号は飛ばしていないので合計96点を販売したことになる、という文章 (102−103ページ) には驚いた。 算数、不得手なんですね(笑)。 ほか、ナンカロウの紹介だとか、オペラ演出の現在だとか、それなりに読ませる文章がある。

・許光俊 (編著) 『クラシック知性主義』(青弓社) 評価★★ 先進国で日本ほど知性が軽視されている国はない、という断言で始まり、役に立つ知識がばかりが称揚される最近の風潮に抗して、美と知性を求める人のために編まれた書物だ、と編者の許光俊は述べている。 なので期待して読んだのだが、あんまり面白くなかった。 19の文章の中には面白いものもないではないが――例えば 「クラシックと会計学」 では、ヨーロッパのオペラやオケがどの程度のカネを国や地方公共団体からもらい、どの程度を自前で稼いでいるかが書かれている。もっと詳しく書いてほしかったが――総じて、例えばクラシックと環境法だとか、無理にクラシックとくっつけて論じさせられている場合が多いみたいで、刺激に乏しい。 あと、はっきり書いてしまうけど、多分編者の都立大独文のコネで文章の依頼を受けたと思しき須永恒雄だとか初見基だとかは、カネとって読ませる文章を書く能力がないと思う。 いや、文系大学教師の過半はそういう人たちで、別にそれが悪いとは思わないが、ただしそういう人にカネをとって売りつける本を書かせる許光俊はケシカランと言いたいのである。 ちなみに許自身の文章もきわめてつまらなかった。 それから、「イギリスの鉄道は日本と同じく狭軌道で」(25ページ) と大前田青は書いているけど、ホンマかいな? それと、高岡明はコロンビア大学大学院に留学した1990年代、コロンビア大学は日本の大学の修士号を認めなかったと書いて、それは日米では大学の学問のレベルが違うからだと述べ、ハーヴァード大やコロンビア大と慶応大を比較しているのだけれど (31ページ)、文系ならいざしらず、理系学問をメインとするノーベル賞受賞者数についてコロンビア大 (97人) と慶応大 (0人) を比較するのって、適切さを欠くんじゃないかなあ (有名な"The Times Higher Education"による世界大学ランキングで日本の私大がどの程度の位置づけかを参照)。 つまり、全体に知性はさほど感じられない本なのである。 残念。

・西村繁樹 『防衛戦略とは何か』(PHP新書) 評価★★☆ 昨年出た新書で、授業で学生と一緒に読んだ本。 著者は1947年生まれ、防衛大卒業後、陸上自衛隊勤務、ハーヴァード代留学をへて、一等陸佐から防衛大教授となり、2012年3月に定年退官。 本書は、1980年代の自衛隊の、主として仮想敵国をソ連とした戦略を、時代の変遷と、識者や官僚による意見の多様性を紹介しつつ、再検討したものである。 今なら中国の脅威が言われるけれど、当時はソ連の脅威のほうがマスコミによく取り上げられた。 そういう意味で、過去を振り返りながら今後の日本の防衛戦略のあり方を提言するという著者の意図自体は悪くない。 ただし、著者は説明があんまりうまくないというか、一般読者にどういう予備知識を与えなくてはならないかとか、どういう順序で物事を説明していかなかければならないかといったことが、よく分かっていないみたい。 自分は分かっているだろうが、他人に分からせるのは下手なのである。 この辺は編集者にも責任があるかも知れない。 まあ、防衛戦略なので、何もかも書くわけにはいかなかったということもあろうけれど、それにしても何かが足りていないのである。

・ルイ=セバスチャン・メルシエ (原宏訳) 『紀元二四四〇年』(法政大学出版局版 『啓蒙のユートピア 第3巻』 所収) 評価★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 フランスの作家メルシエが1770年に発表したユートピア小説である (時代的にフランス革命に近づいていることに注意)。 作者と同時代に生きているフランス人が夢で紀元2440年にワープして25世紀のパリの様子に感嘆する、という筋書き。 貧困や、王侯貴族の横暴、格差といったものがなくなった理想社会が描かれているが、そこでは検閲は肯定されているし、教育においては過去の悪い事例は出さないという方針が徹底している。 要するに、人間は良い例だけを教えられれば考え方は健全になり悪いことはしなくなる、という、ある種狂信的な思想がここには見られる。 芸術も人間が善く生きるために奉仕するものとされている。 25世紀にも王制度は維持されているが、国王の権力は制限され、すべては法の下に置かれている。 要するに現代の立憲君主制みたいな形が理想的とされているわけだ。 また、屠殺者への差別的な視点は肯定されていて (89ページ)、この点でヨーロッパ人の、自分は家畜を食べているくせに屠殺者を否定するという、トマス・モアにも見られた差別的思想は根強いものだと、ちょっと呆れてしまった。 また、女性は基本的に男性に従属し家事や育児に専念するものとされている。 現代から見れば差別的だが、ここにはメルシエの生きていた当時には持参金が結婚に大きな役割を果たしていたという現実への批判が見られるわけで、財産の多寡によって結婚が決まるのではなく、個人の持っている美徳により男女の結びつきが決まるという、おそらく当時としては平等主義の意味合いが込められていたと考えるべきだろう。 ナントの勅令を出したアンリ4世が25世紀になっても称揚されていたりして、時代的な限界、或いは当時のフランス社会へのアンチテーゼの色合いが濃いために逆に内容的に古びやすいという側面も見て取れる小説である。

・新雅史 『 「東洋の魔女」 論』(イースト新書) 評価★★★ 1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した日本の女子バレーボール。 当時 「東洋の魔女」 と呼ばれた彼女たちを率いていた大松博文ともども、その存在は国民的であった。 本書は、バレーボールという比較的に新しい競技がなぜ日本の紡績会社の女子のレクリエーションとして採用され広まったのか、最初はレクリエーションのはずだった競技がなぜ次第に企業の宣伝塔の役割を果たすようになったのか、なぜこの競技が東京オリンピックで正式競技として認められたのか、などなどを社会学的な視点から読み解いている。 紡績会社に勤める女工というのは、近代日本にあって負のイメージを背負った存在だったが、健康維持というタテマエもあって会社により多数でできる競技性の少ないスポーツとして導入され (したがって9人制あるいは15人制などが混在していた)、やがて欧米の6人制の浸透により専門化していく過程が面白い。 また、本来大松博文に率いられていた日紡貝塚の女子チームは東京オリンピックの2年前に世界選手権で優勝して引退するはずだったものが、東京オリンピックで金メダルをという国民的な要請に沿う形でチームを存続させたこと、大松監督が当初存続に反対したのは、何より選手の結婚年齢を考えてのことだったという指摘も、なるほどと思わせられた。 ただ、手法のせいで、個々の人間が可塑的に浮かび上がるというところまではいかず、あくまで類型としての人間を描くにとどまっているのが、私には少し物足りなかった。

・白戸圭一 『ルポ 資源大陸アフリカ 暴力が結ぶ貧困と繁栄』(朝日文庫) 評価★★★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 著者は毎日新聞記者で、南アフリカに特派員として2004年から2008年まで駐在し、サハラ砂漠以南の報道を担当した。 本書はそのサハラ砂漠以南におけるアフリカの現況を報告したもので、南ア、モザンビーク、ナイジェリア、コンゴ、スーダン、ソマリアなどが取り上げられている。 タイトルからすると資源が主題になっているように見えるが、どちらかというと副題のほうが本書の内容を的確に言い表している。 とにかく、日本のような平和国家に住んでいると想像もできないような、内乱、部族対立、中国を初めとする外国資本の無軌道な進出、各国家の指導者や役人の腐敗ぶり、極貧の一般人たちの暮らしぶり・・・・・などなど、息も継げないような深刻な状況の描写に圧倒されてしまう。 こういう状況の各国家をどういうふうに近代化に持っていったらいいのか、国連幹部でなくともため息が出てくる。 特にソマリアの無秩序状態は、どんな秩序でもないよりはマシというヨーロッパの諺が思い起こされるほどひどい。 世界にはこういう場所もあるのだということを知るために、未読の方には是非にとお薦めしたい本である。

・江藤淳 『妻と私 幼年時代』(文春文庫) 評価★★★ 『アメリカと私』 に引き続き読んだ江藤淳の本。 周知のように、江藤は長年連れ添った妻が病気で入院すると献身的に看護し、妻の死後、あまりたたずに自殺した。 二人の間に子供はなかった。 『妻と私』 は看護記であり、看護している江藤も尿が出ないという病気にかかっていたことが分かる。 痛ましいと言うしかないが、人間、どのみち老いるとみっともない姿をさらす羽目になるのかなあ、というのが私の感想だ。 私も還暦、そろそろ覚悟しておかなきゃ。 『幼年時代』 は、幼い頃に実母に死なれた江藤が、叔母から母の自筆の手紙を譲られて、過去を回想する記録だが、江藤の自殺により未完に終わっている。 巻末に福田和也や吉本隆明の回顧談、および江藤の年譜が収録されている。

・江藤淳 『アメリカと私』『アメリカ通信』 (講談社版 『江藤淳著作集 第4巻』 所収) 評価★★★★  先崎彰容の本 (↓) を読んだら、江藤淳 『近代以前』 に言及がなされていた。 私は未読だったので読んでみようかと思ったが、所蔵している文庫版の福田和也(編)『江藤淳コレクション 全4巻』 には、『近代以前』 は抄でしか、つまり一部分しか収められていないし、やはり所蔵している講談社版の 『江藤淳著作集』 には収められていない。 調べてみると単行本は古本でしか入手できないが品薄でかなり値が張るし、抄でない形では文庫にはなっていない。 で、考えてみると江藤淳の本でこれまでちゃんと通読したのは、出世作の 『夏目漱石』、代表作の 『漱石とその時代』、それから 『昭和の文人』 くらいで、あとは拾い読み程度しかしていなかったことに思い当たり、少しちゃんと読もうかなと決心してまず読んでみたのが、これ。 『アメリカと私』 は、1960年代前半に江藤がプリンストン大学で研究員として過ごすために渡米した体験を綴った有名な本である。 アメリカに着いて早々、同行していた夫人が体調を崩し、医者にかかろうとして奔走する羽目になる。 現在でも堤未果 『貧困大国アメリカ』 で指摘されているアメリカの医療体制のお粗末さが、この頃からのものだったことが分かる。 プリンストンに行っては給付されるお金が少ないと文句を言い、増額を勝ち取る戦闘心もなかなかいい。 当時からアメリカはクルマ社会であり、クルマがないとどうにもならないということで、中古車を購入し夫人が運転することになる。 その購入金額と、アメリカを去るにあたって売り払った金額がしっかり記されているのもいい。 プリンストン大学と言えば、ハーヴァード、イェールなどと並ぶアメリカの名門校だが、江藤が行った当時はまだ男子大学であり、ようやく試験的に女子学生が数人入り始めた頃だったという記述に驚く。 日本は戦前でも東北大は女子学生を入れていたし、東大も戦後まもなく女子にも門戸を開放したのだから、アメリカはこの点ではむしろ遅れていたのだと再認識した。 また学内で食事をとるのにクラブ制度があり、WASPの名門家庭の子弟が有力なクラブに所属していて、それが卒業後の人脈作りに利用されており、ユダヤ人や非白人はいくら優秀でもそういうクラブには入れないようになっているという差別的な状況にも触れられている。 大学当局としてはこういう差別的なクラブは廃止したいが、名門家庭は大学に多額の寄付をしてくれるので廃止できないのだそうだ。 表向きの平等と実際の差別性との落差が分かる。 江藤の滞米中にはケネディ大統領暗殺事件も起こっており、その際にも、日本ではとかく理想主義的に美化して捉えられがちだったこの大統領にかなり冷静な見方をしているのは、さすがと言うべきか。 ほかに、必死に日本語を学び日本社会に溶け込もうとしながら日本人に受け入れられないアメリカ人助教授の描写が、海外文化交流のある一面を衝いていて、興味深い。 『アメリカ通信』 は、江藤が滞米中に日本の新聞や雑誌に寄稿した文章の集成。 

・先崎彰容 (せんざき・あきなか) 『ナショナリズムの復権』(ちくま新書) 評価★★★ 著者は1975年生まれ、東大で倫理学を学んだ後、東北大大学院で日本思想史を専攻、現在はいわき市にある東日本国際大学准教授。 あとがきに、東日本大震災後に書き始めて、異様なものを生み出してしまった、と記されている。 一応、ナショナリズムというものを、ナショナリズムは全体主義ではないし、宗教でもないし、(民衆の政治参加を可能にするものだから、という理由で主張されるような) 民主主義でもない、というところから初めて、では何なのかを解き明かそうとした本である。 ハナ・アーレントの 『全体主義の起原』 や吉本隆明の 『共同幻想論』、柳田國男の 『先祖の話』、江藤淳の 『近代以前』、そして丸山真男の 『日本政治思想史研究』 といった書物を解読しつつ、最終的には丸山と江藤を対比しながら後者を肯定する、という流れになっている。 ただ私としては、アーレントを扱った最初の章はともかく、その後に吉本に話を移すあたりからやや話が迷走しているような印象を持った。 言いたいことは何となく分かるのだけれども、すっきり明晰に言えていない本、のような気がする。

・堤未果 『 (株) 貧困大国アメリカ』(岩波新書) 評価★★★☆ ベストセラーになった 『ルポ 貧困大国アメリカ』 と 『ルポ 貧困大国アメリカU』 に続く3冊目。 今回は、家畜飼育を含む農業が巨大な企業の手によって左右されるようになっている現実、そしてそうした巨大企業が海外にも進出し、各国の伝統や気候に根ざした農業を壊滅させ、しばしば農民を極貧状態や自殺にまで追い込んでいる現状を明らかにしている。 言うまでもなく、本書で描かれた現実と日本は無縁ではなく、昨今議論になっているTPPへの参加問題もこうした状況を見据えた上でなければ考えることはできないのである。 このほか、アメリカでは自治体の財政危機により公務員が解雇され公共サービスですら私企業の手に渡ってしまい、その結果様々な弊害が生まれていること、法律を作るという作業自体が議員よりも私企業の口出しによって左右されている現実などの描写も興味深い。 というわけで、悪くない本なのではあるが、著者の記述が色々な方面の (大企業寄りの人物を含めて) 意見を聞いてまとめるという方式なので、著者が結論を持って行きたい方向は見えるのだけれど、もう少しデータを提示して欲しいという気がした。 例えば地方公共団体が財政破綻して公立学校がなくなり、私企業によるチャータースクールが台頭しているという現実は分かるが、では学童期なのにチャータースクールに通えていない教育難民の子供がどの程度いるのか、また公立学校とチャータースクールの教育は費用面を含めてどの程度異なるのか、といったことには全然触れられていない。 これでは読者としても、チャータースクールがいいのか悪いのか、判断しようがないのである。 

・石川栄作 『トリスタン伝説とワーグナー』(平凡社新書) 評価★★★ 著者は1951年生まれ、中世ドイツ文学専攻の徳島大教授。 本書は、トリスタン伝説の起源、そして中世ヨーロッパでこの伝説がどのように語られたかを詳細にわたってたどり、最後にワーグナーの手で楽劇にされた形について分析し、さらに二十世紀のトリスタン物語にまで言及したものである。 トリスタン伝説について詳しく知りたいという人にはお薦めだが、私としては、正直言って話がかなり細かいのでちょっとうんざりするところもあった。 また、ワーグナーの楽劇については多分別の書物もあるだろうと思う。 つまり、本書はタイトルとは異なり、あくまでワーグナーの楽劇というよりはトリスタン伝説について書かれた本なのである。 もっとも、私はトリスタン伝説は子供の頃に児童向けにリライトされた 『アーサー王物語』 で初めて知ったのであるが、本書にはトリスタン伝説がアーサー王伝説に包摂されていく過程もちゃんと書かれていて、それなりに教えられるところはあった。

・ベーコン (川西進訳) 『ニュー・アトランティス』(岩波文庫) 評価★★☆ 「ユートピア」 をテーマとした授業で学生と一緒に読んだ本。 1627年に出版されているから、トマス・モア 『ユートピア』 から100年ちょっとたってから出たことになる。 それにもかかわらずと言うべきか、だからと言うべきか、宗教に関してはキリスト教擁護の臭いが紛々としていて、そもそもキリスト教徒でないと本書に登場する理想郷には入れてもらえないのである。 本書の扱う理想郷はアメリカ大陸太平洋岸からそう遠くない島であり、かつて大洪水が起こり (プラトンも書き残している) アトランティスやアメリカ大陸の住民の大半が死に絶えたため、その当時からの知識を保存しているこの島と、それ以外の地域の知識格差が開いたという設定になっている。 またこの島は他地域に秘密の調査員を派遣してその学問水準などを探っているが、逆に他からの移民は受け入れていないという、一種の鎖国主義なので、それで他地域の人間にその存在自体も知られていないし、また時々この島に遭難などで流れ着く人間もこの島がすばらしくて出て行きたがらないので、それで秘密が保持されるということになっている。 それはともかく、ユダヤ人に対する蔑視だとか、アメリカ先住民への蔑視、一夫一婦制への信頼、同性愛への蔑視、売春への蔑視など、当時の道徳観からすればあんまりはみ出ていないな、という印象である。 後半は 「サロモンの家」 と称される学問の場について詳細に説明があるが、その頃の学問の水準からすればこういうのが理想的と思われたんだろうなというくらいの感慨しか湧かない。 ただ、気候も左右できるような技術があるとか、動物異種の交配によって繁殖力のある新しい動物が作れるようにしているとか、ちょっと驚かされる箇所もないではないが。 まあ、後半から読み取れるのは、学者という存在が政治家より上、というベーコンの信念だろう。 

7月  ↑

・ヤコヴ・M・ラブキン (菅野賢治訳) 『イスラエルとは何か』(平凡社新書) 評価★★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 著者は1945年、旧ソ連のレニングラードに生まれ、当地の大学で化学を学んだが、1973年以来カナダの大学で教鞭をとっているユダヤ人。 本書は、タイトルだけでは分かりにくいが、イスラエル建国に批判的なユダヤ人が、様々な観点からイスラエル建国やシオニズムを論難した本である。 こういう立場からのイスラエル批判書というのは日本では今までほとんど出ていないと思うので、その意味でも貴重な本である。 ただし、ある程度イスラエルだとかユダヤ人とかシオニズムについて知識がないと分かりにくいかも知れない。 少なくともタイトルから想像されるような、イスラエルという国家についての入門書ではない。 それを知った上で読むなら、神の啓示を待つことなく人間の手でユダヤ人の国を作るという行為そのものが涜神的である、ユダヤ人はそもそも自分たちの国家を持つより地球上の様々な地域でその地域の人々と融和しながら生きるのが運命なのではないか、という著者の主張に、色々と教えられること請け合いである。 また、ナチスによるユダヤ人虐殺がイスラエルの建国をやむなしとする世界世論を生んだかのように言われる場合があるが、ユダヤ人を信仰によってではなく民族として捉える発想は、19世紀の民族主義のもたらした悪しき結果であると著者は断じ、ナチスとシオニズムはいわば双子のようなもので親和性があるのだという指摘にも唸らされる。 この本だけでイスラエル・パレスチナ問題を理解するのは危険だろうが、同時にこういう視点抜きでも偏頗な理解しか得られないだろうと痛感させられた。 やはり中東情勢に興味のある人には必読書。   ・・・・なお、amazonに載っている本書の書評に、「訳が分かりにくい」 というのがあるが、その評者の引用しているのは訳文ではなく訳者のあとがきであり、訳文は平易で読みやすいというのが正しい。 ただし上述のように読むには多少予備知識が必要なので、分かりにくいと書いた人は多分イスラエル関係の知識が皆無だったのだろう。  

・国枝昌樹 『シリア アサド政権の40年史』(平凡社新書) 評価★★★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 著者は1946年生まれ、一橋大卒業後外務省に入り各国の参事官や公使や大使を歴任し、途中で4年間シリア大使も勤めた人である。 本書は、日本では分かりにくいシリアという国の内情と戦後の歴史、イスラエルやアラブ諸国との関係などを分かりやすく説明したものである。 シリアでは父子二代でアサド政権が続き、国内の反体制派の運動に米国が支持を表明するなど揺れているが、この国の複雑な歴史を概観した上で、アラブ周辺のニュースソースは必ずしもアテにならず、米国を動かしている情報も信頼がおけるものとは限らないことを指摘している本書は、日本人が冷静にシリア情勢を理解するのに必須とも言える貴重な文献となっている。 そもそもシリア内部の反体制運動も諸党派に割れており、仮にアサド政権を倒してもそのあと安定した後継政権ができるという保証はないのである。 また現在の二代目アサド大統領はそれなりに国民の信頼を得ているという解説もあって、そもそもイスラエル建国に国連や米国が加担してパレスチナ人の追い出しに事実上支持を与えたことが現在のイスラエル・パレスチナ情勢の根源にあるとするなら、なおさら東アジアの日本が軽々しく米国支持に回るべきではなかろうと思ったのである。 中東情勢に興味のある人は絶対一読すべき本である。 

・ヴィクトール・E・フランクル(池田香代子訳)『夜と霧 新版』(みすず書房) 評価★★★☆ 著者は精神医学者で、ユダヤ人であったためにナチス時代に強制収容所に入れられた。 その体験記である 『夜と霧』 は有名で、日本では長らく霜山徳爾訳が流通していたが、本書は2002年に出た新訳である。 私は旧訳のほうは読んでおらず、今回初めて思うところあって読んでみた。 底本も今回の新訳では多少改訂された版を用いているようだ。 それはさておき、著者が文字通り死と隣り合わせで送った収容所時代の話は、それなりに重みがある。 ただし最初に言われているように、アウシュヴィッツにも短期間著者はいたが、ここに綴られている体験の大部分は他の収容所でのものである。  著者が生き延びることが出来たのは、精神力や工夫もあるけれど、喩えて言えばじゃんけんに勝ち続ける運、のようなものも大きかったらしい。 また、多少悪人でないと生き延びることはできないというのも事実であるようだ。 「いい人は帰ってこなかった」(5ページ)と言われている。 ガス室送りにならずとも、食べ物がろくに与えられず、きつい仕事に酷使されるので、囚われ人はばたばたと死んでいく。 飢えの中で、カニバリズムもあったらしい――著者は関わらなかったらしいが(93ページ)。 しかし、精神力と工夫と運によって死なずに解放されたとき、著者はそれでも言うのである。 監視者と囚人の一方が天使で一方が悪魔だなどという集団的な二分法はつつしむべきだ、と。 監視者の中にも天使はいたし、囚人の中にも悪魔はいた、と。 人を評価するときは必ず個別的にしなければならないのだ、と(144ページ)。 肝に銘じるべき言葉であろう。

・トマス・モア (平井正穂訳) 『ユートピア』(岩波文庫) 評価★★★ 有名な本で、私は高校生時代に一度読んだけれど、今回は授業で取り上げて学生と一緒に約40年ぶりに読んでみた。 高校生時代に読んで覚えていたのは、結婚する者同士が裸になってお互いの体を確認しあうというところと、最終章でキリスト教がユートピアに知られておらずそれがすんなり受け入れられるというところであった。 後者については、何となくキリスト教社会が生んだ本の限界のような感じがしていたのだけれど、今回読み直してみると、著者は宗教上の寛容ということも強調しており、この 『ユートピア』 が出た翌年にマルティン・ルターによる宗教改革が始まること、そしてそれから間もなくイングランドもヘンリー国王の離婚問題でカトリックから離れて国教会が樹立され、それに批判的だったトマス・モアは死刑に処せられてしまうことを合わせて考えると、著者なりのヒューマニズムというか、迫り来る宗教戦争時代への警告が込められているのだろうというところにまで理解が及び、ちょっと胸が痛んだ。 それから、ユートピアの社会は私有制を排した共産主義だけれども、老>若、男>女、という価値観は確固としてあること、戦争はなるべく傭兵でやるのがよいとされていること、奴隷制度を肯定していることなど、時代の限界みたいなものも見て取れた。

・天野一哉 『中国はなぜ「学力世界一」になれたのか 格差社会の超エリート事情』(中公新書ラクレ) 評価★★★☆ 著者は1962年生まれ、大検をへて早大文学部に学び、その後中国にしばしば滞在して、中国や教育問題についてジャーナリスティックな仕事をしている人。 星槎大学准教授。 ちなみにこの大学は、私もその存在を本書で初めて知ったのであるが、通信制の大学らしい。 さて、本書は最近経済成長の著しい中国の教育事情、およびその変遷について書かれたものである。 90年代に資本主義に転じてから教育事情も年々変わってきているが、本書のすぐれたところは、1986年生まれの二人の中国人男性を取り上げて、二人がどのような生まれでいかなる教育を受け、そして大学を経て現在はどのような状況に置かれているかを追っていること。 つまり、中国が資本主義に移行しそれに伴って教育も大きく変化してきた時代に生きた二人を具体例として取り上げ、地域や能力により中国人がどのような進路をへるのかを分かりやすく説明しているところである。 つづめて言えば、一人は成績は上の下くらいであり、エリート大学に入りそこね、いちおう大卒とはなったものの期待したような就職口が得られないままである。 ここに来るまで母は働きづくめで借金もしており、その借金を返すのが大変らしい。 もう一人はエリート大学である北京大学に入り、出身は辺鄙な田舎の村であったため、村の出身者としては初めて北京大学に合格したというので郷里ではものすごい騒ぎとなり、村の人々が募金をして少なからぬお金を手にすることとなる。 そして卒業後は日本に留学し、修士課程終了後は欧米に留学するつもりでいたが、縁があって日本の国際機関に就職、今後は欧米での活動も視野に入れているという。 ・・・・というわけで一人はエリートコースに乗り損ねたわけだが、中国の教育熱は日本をはるかに凌駕しており、また人口が多い割にはエリート大学の定員は限られているから、挫折したとはいえ秀才のうちであったわけで、その秀才の末路がいささか哀れな印象を与える。 逆に言えばエリート大学には本物の秀才がそろっているので、中国では義務教育での詰め込み式教育に加えて将来のエリートには欧米のような討論式の教育もなされており、その能力は相当に高そうである。 実際、後者は日本の大学院修士課程に留学して入ったわけだが、日本人大学院生が授業でさっぱり発言しないので驚いたらしい。 ・・・・ただし著者は、日本人よ、ぐずぐずしていると中国に負けるぞと檄を飛ばしているわけではなく、このような中国エリートは海外に留学して帰国しない者も多いことを指摘しており、エリートのあり方と国家の将来については含みを持たせた言い方を最後ではしている。 ただ、私にはその辺の議論の展開が、紙数の関係もあろうがやや不十分で、欧米と東アジアの教育および関係については、もう少し多方面におよび視点も必要なのではないかという気がした。  しかし、一読に値する本だと思う。

・加藤浩子 『ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品』(平凡社新書) 評価★★★★   生誕二百年を迎えたヴェルディについての解説書。 オペラが不得手な人間にも分かりやすく、また作曲家としてだけでなく、農場経営や慈善においても広く活動したヴェルディ全般の姿を明らかにしようとしている。 オペラ劇場における彼のオペラの声楽面での扱いの変遷にもふれ、過去においてはヴェルディその人の意図より重々しい声が好まれてきたのではないかとも指摘している。 演出の変遷や、オペラ作曲家と劇場との関係など、多方面から音楽界の事情に光が当てられており、最後に彼の書いたオペラすべてについて筋書きや聴き所などを解説。 これ一冊あれば、ヴェルディも身近な存在になりそう。

・ダン・ストーン (武井彩佳訳) 『ホロコースト・スタディーズ』(白水社) 評価★★★★☆ 大学院の授業で学生と一緒に読んだ本。 著者はロンドン大学歴史学部教授。 ナチのユダヤ人虐殺については膨大な文献があるが、膨大すぎて専門家でもなかなか文献の全体を、そしてこの問題の各方面を細部に至るまでを見通すことが難しくなっているという。 本書は最新の文献を紹介しつつ過去の研究経緯にも触れながら、現段階においてホロコーストについての最新の認識が得られる貴重な本。 記述は上記のように色々な方面に及ぶが、東欧の文書館の資料が近年公開されてきたことで、地域ごとの相違がかなりはっきりしてきたということのようである。 また、以前はヒトラーやその側近の指令でホロコーストが行われたという、いわゆる意図派の主張が強かったが、近年は、事態はそれほど単純ではなく、むろんヒトラーや側近の反ユダヤ主義に多くの責任があるものの、ユダヤ人大虐殺に至った経緯は地域ごとの事情なども含めた複雑なもので、こういう見方を機能派というらしいが、こちらの見方が優勢になってきているらしい。 また、1942年のいわゆるヴァンゼー会議も、かつてはこの会議によりヨーロッパユダヤ人絶滅の方針が決定されたとされてきたが、これもそれほど単純には捉えらないということのようである。 要するに、ヨーロッパ全土に及ぶホロコーストは、地域ごとに相違があり、したがってそこに及ぶ過程も 「上が指令したからそうなった」 というような分かりやすいものではないのである。    本書はこのほか、最近研究が進んでいるコロニアリズム研究とのつながりも指摘されており、そもそもホロコーストを唯一無二の絶対的な大事件と見ることが妥当なのか、ヨーロッパ人が植民地で行った現地人に対する大虐殺との比較において捉えるべきではないのか、という見解も紹介されている。 なぜホロコーストはこれほど大事件視され、多くの人間によって研究されるのか――これについて、エメ・ゼセールの痛烈な発言がコロニアリズムとの比較の章のエピグラフとして紹介されている。 「人道主義的かつ篤信家の20世紀ブルジョワが赦さないのは、ヒトラーの犯した罪自体、つまり人間に対する罪、人間に対する辱めの罪それ自体ではなく、白人に対する罪、白人に対する辱めの罪なのであり、それまでアルジェリアのアラブ人、インドのクーリー、アフリカのニグロにしか使われなかった植民地主義的やり方をヨーロッパに適用したことなのである。」   ・・・・なお、訳について細かいことで恐縮ですが、268ページに 「デュルクハイム」 という人名が出てくるけれど、これはデュルケーム (フランスの社会学者の) ではないでしょうか。   

・鈴木光太郎 『ヒトの心はどう進化したのか ――狩猟採集生活が生んだもの』(ちくま新書) 評価★★★☆   新潟大学人文学部教授の鈴木光太郎先生の出された新書。 生物としてのヒトの特性について、その進化の過程をたどりつつ、またヒトについての最新の医学的な研究をも紹介しつつ、一般人にも分かりやすい形で明らかにしようとした本。 副題にもあるように、ヒトは長らく狩猟採集生活を送ってきたので、その影響が現代のヒトにも見られるという。 またヒトだけでなく、家畜についても言及がなされており、例えばオオカミからイヌが作られた過程について、ロシアの学者の実験が紹介されており、野生のホッキョクギツネは26年で家畜化することが可能だったという。 このほか、男女の違いなど、多様な方面に言及がなされているので、楽しく読むことができる。

・今村核 『冤罪と裁判』(講談社現代新書) 評価★★★★☆ 1年前に出た新書を、先日上京した際に神保町の古本屋で半額購入。 著者は1962年生まれ、東大法学部卒の弁護士。 冤罪事件についての弁護士の団体にも関わっている。 本書は、なぜ冤罪が起こってしまうのかについて、様々な方面から光を当て、分かりやすく説明した本である。 まず、自白について。 近年、日本でもようやく自白が必ずしも信用できるものではないことが理解されつつあるが、警察に逮捕されて缶詰にされて執拗な尋問を受けるうちに、この苦境から逃れるためにはとにかく嘘の自白をしてでも、という心理になってしまうことが、非常に説得的に明らかにされている。 要するに警察に捕まったが最後であり、捕まってしまうと執拗な取調べに耐えられるタフな精神を持っている人間は数少ないということがよく分かる。 そしていかにデタラメな自白を容疑者に対して警察が強引にさせるかも分かる。 読んでいると怖くなってしまう。 このほか、目撃者の証言が警察によって特定の方向に誘導されて変わってしまうこと、意図的な偽証もあること、科学鑑定も、警察と馴染みになっている学者のそれは必ずしもアテにならないこと、などなどが、豊富な実例で紹介されており、また裁判所と検察・警察の癒着などにも言及がなされている。 また、裁判官も、検察の言い分を通して有罪にしたほうが楽であり、逆に無罪にするときは検察の主張を丁寧に論駁しなくてはならないので大変なのだそうだ。 とにかく、日本の裁判がいかに有罪を前提になされているかがよく分かり、何とかしなくちゃ、という気持ちにさせられる本である。

・橘木俊詔/迫田さやか 『夫婦格差社会 二極化する結婚のかたち』(中公新書) 評価★★★☆ 今年1月に出た新書。 東京滞在最終日に、神保町で映画を見たあと、少し時間があったので近くの古本屋街を見て歩いたら、店頭に400円で出ていたので、新刊で出た当時は買う気にならなかったのだが、まあ半額ならいいかというわけで買って帰りの新幹線車中で読んでみた。 タイトルがいかにもウケを狙ったという感じで新刊で出たときは敬遠した記憶があるけれど、読んでみると色々なデータが入っていて、それなりに説得的だし、また地域による結婚事情の差などについても言及がなされているのがいい。 ただし私のように地方都市ながら県庁所在地に住む人間からすると、著者は地方をあまりに純然たる農山村的に捉えすぎているような気がするけれど、ここもデータがきちんと示されているので、少子化問題を考えるのに一定の有用性はあると思う。

・細谷雄一 『大英帝国の外交官』(筑摩書房) 評価★★★ 2005年に出た本。 著者は1971年生まれ、立教大卒業後英国に留学し、その後慶応大で教鞭をとっている人。 本書はタイトルどおり、英国近代の外交官を5人取り上げて、その生い立ちや生涯、外交官としての仕事などをたどったもの、のはずだった。 が、英国の外交官の仕事の内容が分かるのかと思って読んだのだが、その点でははっきり言って看板倒れである。 外交官としての仕事の細かい内実に切り込んで説明している箇所はきわめて少ない。 そもそも、登場する人物はE・H・カーやアイザイア・バーリンなど、外交官プロパーの人というより、学者がたまたま外交官をやっていた時期もある、という場合が多いのだ。 それでも、そういう人物も外交官になり得るという英国の外交官採用ルート(?)を知る、或いは近代英国の知識人の一面を知るという意味ではそれ相応の本ではあろう。 しかし、外交官の仕事を知りたい人には役にたたない本だ。 また、私が根本的に疑問に思うのは、著者の姿勢である。 英国に留学した日本人、それも明治や大正や昭和戦前ではなく、英国が世界の中心ではなくなってかなりたつ時期に英国に留学して、なおも英国神話の形成に一役買いかねないこういう本を書いてしまう著者の、無自覚ぶりなのである。 といって、著者が無条件に英国人を賛美しているわけではなく、批判すべきところでは批判はしているのだが、例えばポストコロニアル的な観点は、この本には皆無なのである。 つまり、登場する人物たちにも皆無だったからなのであろうが、21世紀に生きる日本人がそれでいいのか、と私は言いたくなってしまう。

6月  ↑

・南川高志 『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書) 評価★★★☆ 著者は京大西洋史学科教授。 タイトルどおり、最新の知見にもとづいてローマ帝国の衰亡の進行と原因をさぐった本である。 むかし私が高校の西洋史で習った時分に比べて、かなり認識の差が出てきているらしい。 たとえばゲルマン人というような一括した民族名は用いず、部族名を個々に用いていること。 これは、ゲルマン民族というようなくくり方が、そもそも19世紀のナショナリズム興隆の産物であったという認識から来ていて、要するに個々の部族ごとに違いがそれなりにあり、ゲルマン民族というような統一的な自覚は持っていなかったから、ということらしい。 といっても、著者は時代ごとの歴史観の差異にかなり自覚的であるが、現在のローマ帝国観にしても現代の価値観を背負っていることを否定しない、というか自分にもそういう部分があることを知りながら敢えて流れに掉さしつつ論を展開しているふしがある。 まあ、それも一つの態度ではあろう。 で、現代的な見方というのは、ローマ人とは出自や血縁で決まるのではなく、一定の服装や振舞い方によりローマ人とされるものであった (つまりそれだけ開かれたものだった) のが、末期に至るとその原則が崩れていき、それが西ローマ帝国滅亡の理由の一つだと述べているあたりである。 うーん、どうなのだろうか。 しかしいずれにせよ、現在のローマ帝国研究の認識をシロウトにも分かりやすく説明している点で、一読の価値がある本だと思う。

・ジャン・セルヴィエ (朝倉剛・篠田浩一郎訳)『ユートピアの歴史』(筑摩書房) 評価★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 著者は1918年アルジェリア生まれ、その後フランスの大学教授などを務めた人。 原著は1966年、邦訳は1972年に出ている。 タイトルどおり、ユートピア思想の歴史をたどった本である。 古代から始まって、ハックスリーらの逆ユートピア小説にまで至るまでを叙述している。 また、ユダヤ思想の西洋に与えた影響を重視している。 悪くはない本だが、読み手にかなりの知識があるという前提で書かれているので、純粋にユートピア思想だけを知りたくて読む分にはやや重い印象もある。 また、フランス的というのか、思考の抽象度が高いので、読んでいてよく分からない部分もある。 訳も、もう少しなんとかならなかったのかと思える箇所があった。

・玉居子精宏 (たまいこ・あきひろ)『大川周明 アジア独立の夢 志を継いだ青年たちの物語』(平凡社新書) 評価★★★★ 著者は1976年生まれ、早大文学部卒業後、ベトナムなどで戦時中の記憶を掘り起こす作業を行っているという人。 本書は、大川周明の私塾に学び、卒業後はアジアの各地でアジア独立の理念を実現せんと働いた青年たちの軌跡をたどったものである。 だから、主タイトルより副題のほうが本書の内容をよく言い表していると言える。 卒業生の生い立ちや性格や能力、そしてアジアの各地での行動などを丹念にたどった労作。 戦時中のことで、軍部がどうしても絡んでくるが、大川周明の熟生たちがアジア独立の理念を重視したのに対し、軍部は必ずしもその理念によって行動してはおらず、また塾生といっても数は限られており自前で大きな目標を達成できるわけではないので、軍部との関係には色々悩まされたらしい。 しかし現地人との関係を重視するという原則にしたがって行動した彼らの人生は、あの戦争が何であったかを考えるときにも決して無視できない重みを持っていると思う。 貴重な一冊と言うに躊躇しない書物である。

・勝俣誠 『新・現代アフリカ入門 ――人々が変える大陸』(岩波新書) 評価★★ 著者は1946年生まれ、早大政経卒業後、パリ第一大学博士課程修了。 アフリカの大学などで教えた後、現在は明治学院大の教授をしているという人。 岩波新書から20年前に 『現代アフリカ入門』 という本を出しており (私は未読)、今回はその後の新しい情勢を踏まえた上で新しいアフリカ入門書を、ということらしい。 期待して読んだのだが、失望した。 最近はアフリカに関する本も少しではあるが増えつつある。 そうした中で本書には特にこの本でなければというところが見当たらない。 そもそも、アフリカで植民地だった国々が独立し、アフリカの年と呼ばれた1960年からすでに半世紀以上たっているのに、なぜアフリカ諸国は経済的にも政治的にも浮上できず、内戦などでがたがたな状態にあるのか。 著者は旧宗主国である欧米の責任に言及しているが、それだけで問題は片付くのだろうか。 肝心のアフリカ人の責任はどうなるのか。 また、著者はデータを示して議論するという基本ができておらず、様々な国の情勢に言及してはいても、果たしてそれがどの程度真実なのか、著者の希望的観測もかなり入っているのではないか (特に展望を述べた最後のあたり)、判断のしようがないのである。 私は著者の本を読んだのは初めてだが、悪い意味で団塊の世代の左翼性をかかえてきた人なのではないか、という印象を持った。

・潮匡人 『司馬史観と太平洋戦争』(PHP新書) 評価★★★ 2007年に出た新書をいつだったかBOOKOFFにて半額購入して、最近なんとなく読んでみた。 雑誌 『正論』 『諸君』 などに載った論考の集成である。 表題になっているのは、第二章の章題で、ここでは司馬遼太郎をはじめ、加藤周一、半藤一利、保阪正康などの史観を批判している。 ほか、大東亜戦争をどう捉えるかをめぐっての朝日と読売の共闘、なかんずく読売の渡辺恒雄・取締役会長兼主筆の反戦の論理に異議を唱えている。 そのほか、靖国問題をめぐる高橋哲哉・東大教授の新書を俎上に乗せて叩いている。 まあ、高橋のようなかなり古典的な左翼は東大に奉職しているからもっともらしく見えるけれど、実際はもう破綻していると思いますけどね。

・中島虎彦 『障害者の文学』(明石書店) 評価★★★ 1997年に出た本。 著者は1953年佐賀県出身。 佐賀大学在学中の21歳のときに器械体操で転落し頚椎損傷により身体障害者となった。 その後小説を書くなどしている。 本書は、身体障害者が自分たちの表現手段として俳句や和歌、詩や小説などの文学を選んでいる現状について述べたものである。 内容的にはあまり整然としておらず、色々な事実や見方が雑然として出てくるが、それが逆に、下手な体系化を避けて障害者の現実や、その文学的活動の現状を、ありのままに提示することにつながっているようである。 表現手段を持つことは大事だが、同時に障害者の書いたものだからといって特権的に (同情も交えて) 見るのはおかしいということ、障害者にも才能の有無はあるということ、しかし障害の程度によっては普通に文章を書くこと自体がものすごい労力を必要とすること、などが分かる本である。 障害者は肉親に頼りがちになるが、逆に肉親がそのせいで身障者の精神的自立を阻害するという現実も見据えられている。 また日本ではタブーになりがちな身障者と性の問題も最後近くでしっかりと触れられている。 なお細かいところで恐縮だが、ロラン・バルトを 「マルキシズムの批評家」 というのは (31ページ) どうかなと思うし、短歌について 「第二芸術論」 と言っているけど (38ページ)、第二芸術論は俳句でしょう。 また、フランスの 『悪の華』 の詩人を 「ヴォードレール」 とする表記 (220ページ) は誤りだと思いますね。

・白石隆+ハウ・カロライン 『中国は東アジアをどう変えるか 21世紀の新地域システム』(中公新書) 評価★★★ 昨年7月に出た新書を、授業で取り上げて学生と一緒に読んでみた。 著者のうち白石は1950年生まれ、東大卒業後コーネル大学で博士号を取得し、東大助教授、コーネル大教授、京大教授などを歴任した人。 ハウ・カロラインは1969年生まれ、フィリピン大学卒業後、コーネル大学で博士号を取得し、現在は京大准教授。 本書は最近の中国が経済的に台頭している状況をふまえて、まず東南アジア各国と中国との関係は現在どうなっているかを論じ、次に、歴史的に見た中国の対外政策を、元・明・清の順に概観、最後に英語を通じて西洋などの文化や価値観を見につけたアングロ・チャイニーズが増えているというj状況を報告して結んでいる。 政治的には、中国がいくら経済的に発展しても明時代のような、周辺国家との朝貢システムを築くことはありえないし、周辺国家にしても、中国との結びつきを強めるものの、かつてのような属国的な存在になることはなく、アメリカや他の地域・国家との結びつきを維持・強化するであろう、という内容である。 一読に値する本だとは思うけど、学者が書いた本の弊で、リアルな政治的状況をさまざまな場合を想定して論じるというふうにはなっておらず、少し手ぬるい感じがする。  あと、過去の歴史を概観するところで、元が日本に攻めてきた元寇については、「日本討伐」 という言葉を使っているのに (128ページ)、秀吉の朝鮮出兵については 「朝鮮侵略」 と書いている (142ページ)。 秀吉が侵略なら元寇だって侵略じゃないの? そもそも、「討伐」 という言葉はかつて秀吉の出兵を表現するのに使われた 「(朝鮮)征伐」 と近い言葉でしょ? この表現の責任は多分白石隆にあるんだろうけど、こういうことやってるから歴史学者は一般人から信用されないんだってば。 それが分からないんじゃヤバイですよね。 

・中村淳彦 『名前のない女たち』(宝島社新書) 評価★★★☆ 著者は1972年生まれ、専大卒のフリージャーナリスト。 AV女優に取材した同題の本を何冊か出版しており、本書はそこから抜粋して新書化したもの。 11章で合計12人のAV女優が取り上げられている。 家庭的に恵まれず (母子家庭、父が暴力的だった、など) 中卒や高校中退でこの業界に入ってしまった場合が多いとはいえ、中には父が会社社長でお嬢様として育ち、お嬢様大学である女子大卒、というような人もいる。 彼女はビジュアル系バンドをやっている男に入れあげて、母親とケンカした挙句に家出して、お金を貢ぐためにこの業界に入ったという。 男と同棲するためのマンションの家賃が月23万、そして男への小遣いとして月50万 (! かつて子供3人を扶養していたワタシの手取りより多い!) を貢いで、おまけに高級車まで買ってやり、しかし男はそのクルマで遠出して不在がちになり、結局は別れてしまったという。 或いは、やはり堅実な家庭に育ったものの、母が教育ママで、本人は成績優秀だったが東大に落ちて、それでも一流といわれる大学に進学したけれど母との折り合いが悪くなり、将来希望する職に就くためには学費の高い大学院を出ないといけないが、その学費を親が出してくれないから、という理由でこの業界に入ったという女の子もいる。 彼女は、自分の選択は間違っていないがブランド品を買いたいからという理由でこの業界に入るのは間違っている、とインタビューで述べているんだが、どうだろうなあ。  いちばん悲惨なのは自殺に追い込まれた女の子 (最後の章で取り上げられている) であろう。 北海道の田舎町に育ち、高校時代は生徒会長も務めた優等生で、将来医者になろうかとも思ったけれど、体質的にセックスが好きで、そちらの方面で奥義を窮めたいと思ってこの業界に入ったものの、昔と違って今はこの業界に入りたいという女の子が非常に多く、人材は使い捨てで、またこういう仕事をしているということで好きになった男ともうまくいかなくなり、最後にはみずから命を絶ったという。  このほか、女優本人には作品の内実を知らせずに撮影現場に呼び出し、そこでいきなり強姦・暴行してそれをそのまま撮影して作品化する、というひどい例もあるという。 本人が警察に訴えて事件になった場合もあるが、泣き寝入りも多いらしい。 要するにこの業界は昔と違って、AVでもいいから女優になりたい、手軽にお金を稼ぎたいという女の子が多数流入してきており、またAVは内容的にもどんどん過激化するので、こういう犯罪的なやり方も通用するようになったということのようである。 いやはや。 それにしても、セックスが好きな女の子と、好きじゃないし全然感じないけど商売だからと割り切ってやっている女の子との落差が大きいのには驚きました。

・小玉重夫 『学力幻想』(ちくま新書) 評価★★ 著者は1960年生まれ、東大法学部卒業後東大大学院の教育学研究科を出て、現在は東大教育学部教授。 本書は日本の戦後教育における学力の捉え方やゆとり教育に典型的に現れている教育の手法をめぐる問題について、ハンナ・アーレントなどを参照しつつ分析を試みた本。 面白そうと期待して読んだのだけれど、失望した。 最初のあたりは子供中心主義か否かをめぐる議論が取り上げられているけど、あんまり本質的な議論ではないというか、著者の捉え方に面白味が感じられなかった。 また、ゆとり教育に対するバッシングについて、通産省がバックにいたという寺脇研の言い訳を引用しているんだけど (25ページ)、寺脇はゆとり教育導入の張本人で、その本人が言っていることを鵜呑みにしちゃ、どうしようもないんじゃない? だいたい、寺脇は若い頃に地方に出向して、そこでも変に県立高校制度をいじって有名大学進学者を激減させたという前歴がある。 その辺まで調べて書くのが物の道理ってものだと思うが、著者はそういう手間をかけていない。 次に第2章でハンナ・アーレントの思想が出てきて、均質性を強いる社会性と個々人の異質さを維持する公共性とは異なる、という記述がなされるあたりは期待を持てたのだが、その直後にアーレントの言う 「リベラリズム」 と 「保守主義」 を著者は自分流に読み替えていて (97ページ)、ここのところが私には納得できなかった。 違うんじゃないか、ということですね。 その直後でも、レヴィンソンという学者がアーレントの 「出生」 概念について述べていることを著者は自分流に解釈しているけれど (99ページ)、ここも納得できないというか、少なくとも説明不足で、とてもじゃないけど東大の先生が書く本とは思えないお粗末さである。 その後の章でも、外国の学者や哲学者の説が無媒介的に日本教育界の現況と結び付けられており、しかも日本側については漠然とした印象論だけで語っていて、データを示して議論するという基本が全然できておらず、これでよく学者として通ると驚いてしまう。 これなら現場教師の立場からものを言っている諏訪哲二など 「プロ教師の会」 の本を読んだほうが百倍マシである。 大学の教育学界には潮木守一氏や苅谷剛彦氏、竹内洋氏などの玉のごときすぐれた人材もいるが、同時に石も多い (まあ、どこの学界でも同じだろうが) というのが私の持論だけど、この人は石のほうみたい。 ただし、第5章で紹介されているアメリカ・ミネソタ州での、共和党ブッシュ政権下の教育改革と民主党政権下の改革との相克は少し参考になる (どうせならもっと詳しく紹介してほしかった)。

・清水真砂子 『子どもの本の現在』(大和書房) 評価★★★★ 1984年に出た本。 著者は1941年生まれ、静岡大学を出たあと青山女子短大で教鞭をとりながら児童文学を書いたり論じたり訳したりしてきた人。 その世界では有名人のようだが、私は著書を読むのは初めて。 下 (↓) で取り上げた小川哲生 『生涯一編集者』 で言及されていたので興味を持った。 もともと児童文学の世界は、というか子供だとか教育に関わる事柄にはイデオロギーが入り込みやすく、大人の世界なら全然通用しないような幼稚な議論も教育や児童が絡むと通用してしまうようなところがある。 そういうこともあって児童文学だとか児童文学論には近づかないで来たのだが、本書は児童文学者7人を論じていて、なかなか読ませる内容である。 念のため断っておくと、児童文学に趣味のない私は論じられている作家たちを全然読んだことがない。 それでもいいと思える書物なのである。 なかでも白眉は、松谷みよ子、上野瞭、灰谷健次郎を扱った3つの章であろう。  松谷では、アウシュビッツに出かけていくことが価値あることなのだという松谷自身の価値観がまったく疑われることなく創作内の人物に投影されていることを批判し、また母子家庭を描くところでは母親の価値観がこれまた疑われることなくその子に共有されているところに 「?」 マークをつけている。  灰谷については、例えば沖縄に住む子や障碍をもつ子供など、社会的にマイナーな位置にある人物についてことさらに 「美しい」 など肯定的な形容詞をくっつける、つまりあくまで社会的に主流である人物や価値観への 「アンチ」 としてしかものを見られない灰谷の偏狭さが批判されていて、マイナーな存在を主流へのアンチとして描くことは 「安全」 であり、それでいて読者の価値観を根底から覆すことはできないだろうと喝破している。 この辺には清水の本領発揮ともいうべき指摘がいくつもある。 「弱者」 を描きそれに寄り添うことは、「敗者」 をありのままに描く作品 (をも清水は具体的に挙げている) とは根本的に異なる、ということだ。 ある人々を 「弱者」 と規定することは、むしろ社会的な人間関係を固定化してしまうとも言う。 また、清水は灰谷に見られる (そして私に言わせれば吉本隆明信者に見られる) インテリの民衆コンプレックスをも撃っている。 灰谷は物書きであることに負い目を感じ、僻地へ行って百姓を始めたりするのだが、清水はそれに対して、「百姓はわたしたちがするから、その分いい仕事をして欲しい」 という農家の主婦の言葉を対置するのだ (194ページ)。 まさに至言であろう。  また差別についても清水は透徹した物言いをしている。 以下でそのまま引用する。 ――   「田舎のバスやのに冷房がついておるんか」 を差別と目くじらをたてるほど、バスの人も田舎の人も料簡がせまくはあるまい。それを差別と感じて身を縮めるのは良心的な人々だけである。良心的な人間のひとり相撲である。/ まったく、良心的であることは、しょせん、その人間の自己満足でしかない。基準はいつも自分にあるので、だからこそ形が先行するのである。それはひとつのアリバイ工作ともいえる。 (202ページ)

・古市憲寿 『僕たちの前途』(講談社) 評価★★★☆ 『希望難民ご一行様』 でブレイクした若手社会学者が昨秋出した本。 県立図書館でようやく借りられる状態になったので借りて読んでみました。 タイトルには二重の意味があって、文字通りに日本の若者たちの将来という意味と、著者が関わっている企業がゼントという名で、本書はこのゼントの概要を語ることから始まっている。 いわゆる起業だが、本書は起業という言葉とその実態を社会学的に概観することを目的のひとつとしている。 煎じ詰めて言うなら、起業という言葉が本来的には会社を始めるというだけのことなのに、そして現実の起業は日本では昔より減少しているのに、今の日本では何かまったく新しいことを始めるという希望の象徴みたいな語感を帯びてしまっていること、現実の起業は成功がきわめて困難であること、また高学歴で人脈や能力に秀でている人 (著者自身もそう、と著者自身が言っています) のほうが起業は成功しやすいが、実際にはスペックの低い人間が起業にあこがれてしまったりすること、などなどが語られている。 色々な本や論文を読んでいて、勉強して書いているなと思うけれど、えっと驚くほど目新しいことを言っているわけでもない。 未来予想は当たらないものだし (と著者も分かっている)、それを承知の上で今後にどういう可能性があるのか知りたい若者には、読んで意味がある本なのかな、と。 人口減少問題についても書かれているが、著者は当分結婚するつもりはないと明言していて、まあ1985年生まれだから今は仕方がないとは思うけど、「高学歴=少子化に貢献」 の例にならないことを祈ります。

5月  ↑

・生瀬克己 『障害者と差別表現』(明石書店) 評価★★☆ 1994年に出た本。 著者は1942年生まれ、桃山学院大卒業後大阪市大大学院で学び、桃山学院大の教授を勤めた人で、足に障碍を持つ。  いわゆる差別語について辞書の記述を追い、かうて差別的に使われてきた歴史を忘れないためにも辞書の記述を削減するべきではないと述べている。 ただ、この辺はあらゆる辞書を調べたわけではないようで、『大言海』 の記述をそのまま受け取っているようだけど、果たして 『大言海』 の記述だからといって信用すべきものなのかについては疑問を感じる。 他方、著者自身も障碍を持つので、差別語に傷ついた体験はあるけれど、それより社会が障害者にとって暮らしやすくするようにインフラを整備すべきだと主張していること(141ページ) や、また国連が1975年に 「障害者の権利宣言」 を採択し、障害者が健常者と同じ権利を持つことを確認したうえで、その権利を実現していくことを宣言したという事実をふまえ、それが日本でもインフラ整備などに影響していると述べている箇所 (61ページ) には共感できる。 筒井康隆断筆問題にも触れているが、著者の立場は中間派的で、どうもどっちつかずの印象がある。 総体的に見て、著者は例えば 「めくら」 が差別語だということは疑っていないが、「盲縞」 だとか 「盲目的に」 といったその派生語は禁止すべきではないという立場のようだけど、著者が本書末尾に挙げてある身体障害に関わることわざには、私も知らないものが多く (例えば 「いざり三百文」)、結局差別意識というよりは、経済水準の向上や技術革新により生活そのものが変われば、こういう身体障害に関わる表現もすたれるか変わっていくのではないかと、私は思う。 だから逆に、目が見えないことを端的に言い表す 「めくら」 のほうが、廃れにくいし、それを差別語としてしまうと不便になるのではないだろうか。

・篠原孝 『花の都パリ 「外交赤書」』(講談社+α新書) 評価★★★ 2007年に出た新書をどこかのBOOKOFFで半額購入してしばらくツンドクになっていたが、今回何となく読んでみた。 著者は1948年長野県生まれ、京大法卒、長野県職員と農林水産省の両方を受けて、たまたま後者の受け入れ確認が数日早かったために国家公務員として働くことになったという人で、本書執筆時には役人をやめて民主党の国会議員になっており、現在もその地位を維持している。 さて、本書は、どちらかというと長野県の県庁マンになろうかと思いながら結局農水省のお役人となり、OECDの国際会議などに駆り出されて、必死に外国の役人や政治家と論戦を交わしてきた経験を率直に綴ったもの。 農水省は当時は国際的な交渉といえばGATT一辺倒でOECDにはまったくといっていいほど注目しておらず、しかし実際はOECDの場で農業関係の国際的な取り決めがなされることも多く、著者はずいぶん孤軍奮闘したらしい。 国際的な人材を育てることに消極的な農水省の姿勢を著者は批判している。 そのほか、少し前までは国家公務員が海外勤務すると諸手当が膨大に出て、家が建つと言われたとかいう話も出てくる (今はそうではないらしい)。 また、日本の政治家というと無能な人間が多いような印象があるが、中には国際会議で英語を駆使し外国の要人とやりあう傑物もいるということも書かれていて、少し日本の政治家を見直す気になる。 フランスに来たエライさんの接待で高級ワインを何本も空けて後から苦情が出た、なんてうらやましい話もある。 ただし著者はワインには全然趣味がないそうで、その点でも共感できる (笑)。 

・長谷川修一 『聖書考古学』(中公新書) 評価★★★ 聖書に書かれている人物や国家が、本当に書かれているとおりにあったのかを、文献学的にではなく、発掘調査などにより実証的に問うていく学問について説明し、合わせて現在どの程度のことが分かっているかを明らかにした本。 著者は1971年生まれで、海外での発掘調査歴も長い大学教授。 それによると、いわゆる族長時代だとか、出エジプトについては、現在のところそれが事実だったという証拠は皆無なのだそうだ。 ダヴィデとソロモン、およびその王国についてすら、実証的には存在が確認されていないらしい。 本書はそのほか、旧約聖書がいつの時代に文書として成立したかなど、聖書についての基本的な、そして最新の研究成果をふまえた知識を与えてくれる点で貴重。

・遠藤織枝 『視覚障害者と差別語』(明石書店) 評価★★☆ 10年前に出た本。 著者は1938年生まれ、茶水女大院卒の大学教授。 主として女性への差別語などを研究しているようで、本書はそのつながりで書かれたらしい。 視覚障害者に対してアンケートをとって、その結果を見ながら視覚障害者への差別語問題を考えた本である。 例えば、「めくら」 という言葉に対しては 「さしつかえない」 が6,8%、「避けたい」 が37,2%、「絶対に言わない」 が51,3%となっているほか、「盲人」 は同じくそれぞれ60,3%、30,8%、5,1%、「視覚障害者」 は89,7%、4,3%、1,3%となっている。 このほか、「めくら滅法」 や 「めくら判」 「群盲象をなでる」 といった言い回しについても調査がなされている。 また、「めくら」 も盲人同士で使うなら可、という人もいる。 というわけで、盲人のことばへの意識についてはそれなりに分かるのだが、ではなぜ 「めくら」 はダメで 「盲人」 ならいいのか、という根本的な問いは、まったくなされていない。 というか、著者も 「めくら」 は差別用語と頭から信じて書いており (42ページ)、そういう問いを発するだけの知性を持ち合わせていないのである。 これには1980年に厚生省 (当時) が差別語として 「めくら、おし、つんぼ、ちんば」 を例示したということも絡んでいるらしい (44ページ)、ということは分かる。 でも学者がお役人の言い分をそのまま鵜呑みにしていいんでしょうか。 また、最後には盲人3人との対談、或いは意見聴取も納められているが、最初の2人は、なぜ 「めくら」 はダメで 「障害者」 ならいいのかというようなところまでは全然考えていないし、最後のカトリック点字図書館館長だという人は、いわゆる差別語狩りで精神の自由を縛ることはしたくないと言っているだけマシだけど、それでも差別語に抗議することをかなり肯定的に捉えている。 もっとも、アンケート調査の自由回答にもあるように、差別語かどうかは文脈や使い方で決まるもので一律に規制するのは変、という見方の盲人もそれなりにいる。 著者に力量がなく、その辺の問いを深められずに終わっているのがまことに残念である。

・山岸淳子 『ドラッカーとオーケストラの組織論』(PHP新書) 評価★★★ 「マネジメントの父」 といわれるドラッカー。 そのドラッカーはアメリカで活躍したけれどもともとは音楽の都ウィーンの生まれだった。 そしてオーケストラに 「未来の組織モデル」 を見ていたという。 本書は、オーケストラの組織や歴史、地域ごとの違い、文化や経済が変化して来ている現代にオーケストラが生き残るにはどうすればいいのか、といった事柄や問題を紹介し論じたものである。 著者は東京芸大楽理科卒で日フィルの広報部長などを務めた人。 オーケストラの編成や人数の変遷、五線譜の仕組みなどにも触れている。 ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ニューヨーク・フィル、ロンドン交響楽団といった著名オーケストラの成り立ちと特質も書かれている。 特にロンドン交響楽団の特異性が目を惹く。 私には最後あたりがいちばん面白かった。 つまり生き残りをかけて何をすべきかということで、NYフィルの教育プログラムや、ベルリンフィルの財団法人化によるプロジェクトにより映画 「ベルリンフィルと子供たち」 が生まれたことが紹介されているのである。 さらに、南米のベネズエラで子供たちに楽器を与えてオーケストラを編成させる運動が繰り広げられ、それが貧しい子供の不良化を防ぐのみならず、学力向上などもろもろの効果を挙げているという報告には瞠目した。 この結果として、ベネズエラには世界でも有数のユースオーケストラが誕生し、なおかつ世界的に注目されている指揮者ドゥダメルもここから出てきたのである。 財政難でオーケストラへの公的助成が削減されるのが先進国の趨勢だが、こうした新しい動きには注目していきたいものである。 全体として、あまり突っ込んだ記述はないけど、いい意味で浅く広い本になっている。  

・小川哲生 『生涯一編集者』(言視舎) 評価★★★ 著者は1946年生まれ、早大政経を出ていくつかの出版社の編集者として多数の本を世に送り出した人。 実は私も、『鯨とイルカの文化政治学』(洋泉社) を出すにあたってお世話になっている。 というわけで、編集者の仕事がどんなものであるかを知るためにも読んでみた。 編集者には、自分の好みより儲かる本を出すことに意義を見出す人もいるわけだが、著者は出したい本を出すという意識で仕事をしており、必ずしも出版社の意向には沿わない人生だったらしい。 前半は吉本隆明の話が多く、これは世代的なこともあろうが、私は吉本主義者ではないので何となく読んでいたのだが、そのうち小浜逸郎だとかこちらの関心に近い著作者の名が出てきて、結構面白く読めた。 また、差別語問題への言及や、清水真砂子が書いた子供向け文学者のイデオロギー批判本なども、私は未読だが、面白そうだ、読んでみよう、という気にさせられた。

・飯倉章 『黄禍論と日本人 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』(中公新書) 評価★★★☆ 著者は1956年生まれの大学教授。 以前、『イエロー・ペリルの神話』 という本を出してその方面に興味のある人間 (私もそうだが) には記憶に残っている名前である。 本書は、日清戦争から第一次世界大戦終了ころまでの日本が、欧米の雑誌メディアなどからどのように捉えられていたのかを、主としてカリカチュア (戯画・一こまマンガ) を材料にして論じている。 人種差別がテーマであるには違いないが、日清戦争以降の歴史をかなり細かく記述しながら欧米メディアの反応を見ていて、事態はかなり複雑かつ微妙であることが分かる。 はっきり黄禍論を打ち出したのは、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム二世、通称カイザーであり、彼はみずから筆をとって日本や中国の台頭に警告を発し、ヨーロッパがアジア人に対して団結するよう訴えた。 しかし欧米諸国がそれにただちに同意したわけではなく、カイザーの言説自体もカリカチュアの対象になっていたことが分かる。 というわけで、欧米は差別的でケシカランというふうに議論が直線的に進むわけではなく、日英同盟もそうだが、当時のヨーロッパやアメリカと日本との関係が複雑であったことを改めて思い知らされる本である。

・吉原勇 『降ろされた日の丸 国民学校一年生の朝鮮日記』(新潮新書) 評価★★★ 2年半前に出た新書を、先月上京した際にBOOKOFFにて105円で購入。 著者は1938年生まれ、終戦当時は父が朝鮮半島の仁川(現在は韓国の国際空港としてにぎわっている)で教師をしていたため、当地に暮らしており、国民学校=小学校の一年生であった。 本書は当時の記憶に残る戦争中および終戦後の仁川の様子を描写するとともに、自分でも調べて当時の朝鮮半島における日本人や朝鮮人の関係、また終戦後に日本に引き揚げてくる際の苦労などを記録にとどめたものである。 冒頭近く、小学生の著者が朝鮮人慰安婦と実際に話をした体験が記されている。 当時は子供にとっても軍隊と慰安婦は切り離せないものと意識されていたと述べている。 少なくとも著者が話をした慰安婦たちはいわゆる強制連行の犠牲者などではなかった。 もっとも著者は朝鮮人慰安婦全体についてはその可能性もないとは言えないと記している。 しかし、逆に最後近く、敗戦後にアメリカ軍が朝鮮半島に進駐してきたとき、日本人の小学生の女の子が黒人兵に暴行されたり、また近所に住む日本人家庭のきれいなお姉さんが白人将校に無理やり性的関係を持たされ、さらにその後はアメリカ兵の娼婦同然になってしまった、という事実も報告されている。 (アメリカ議会は、まず自分たちこそが日本人女性を性奴隷にしたことを自己批判し国会決議すべきであろう。) そのほか、日本支配下での朝鮮半島では、日本人教員の待遇は内地の5割増しだったので、そのために日本人教員が多く朝鮮半島に渡ったこと、日本支配下で朝鮮人も多くが基本的な教育を受けられるようになったこと、ハングルを一般の朝鮮人が書けるようになったのも日本の教育のためであること――伝統的に朝鮮の文人は漢文を重んじてハングルをバカにしていた――など、当時の教育の実態が記されているのは貴重。 なお著者は日本に戻った後、中央大法学部を出て毎日新聞社勤務となった。

・志賀櫻 『タックス・ヘイブン ――逃げていく税金』(岩波新書) 評価★★★☆ 著者は1949年生まれ、東大法学部を出た後、大蔵省を皮切りにさまざまな省庁の重要なポストを歴任した人。 本書は、金持ちが税金逃れに使う手段を説明した本である。 よく知られているのはスイスの銀行だとか、或いは目立たない小国に会社を名目上移して税金逃れをする手段だとかであるが、本書に拠れば、そういう例だけでなく、英国のシティと米国のウォール街といった世界の二大金融街も税金逃れに使われるのだという。 言い換えれば、英国と米国はそれによって利益を得ている、ということだ。 本書はそういう何種類かのタックス・ヘイブンについて記述しつつ、同時に先進国が税金逃れをなんとか防ごうと対策を講じつつあることにも触れている。 しかしなかなか先進国同士でも合意に至らない部分があり、それは上述のように先進国が自らそれで稼いでいる側面があるからだという。 金融関係の用語が多くて、正直なところ私にはよく分からない箇所も少なくなかったが、著者の姿勢は、マネーゲームでカネを稼ぐ輩が多数いるという現状は不健全であるということで一貫しており、またこの問題は税の公正という面から言っても今後重要性を増すだろうと思われるので、類書がない分野だけに貴重な一冊だと言える。 なお、著者は男性である (名は櫻だけれど)。

・立木康介(編著)『精神分析の名著 フロイトから土井健郎まで』(中公新書) 評価★★★ フロイトに端を発した精神分析の著名な分析家とその代表的著作について、カタログ的に説明した本。 ただしユングやユング派は入っていない。 執筆者は大学教授や精神分析医など20人に及ぶ。 フロイトの3冊から始まって、イギリス篇、アメリカ篇、フランス篇、そして最後の日本篇では土井健郎のみが取り上げられている。 ドイツ語圏がフロイト以外にはないのが意外だったが、実はドイツは精神分析の世界では発祥の地ではあっても重要度は低いということらしい。 それはさておき、フロイト派の精神分析の内容と歴史を概観するのに便利な書物・・・・・だと思って買って読んでみたのではあるが、正直なところ読んでもよく分からない箇所が多かった。 これについてはこの本の中でも言われているのだが、精神分析というのは非常に微妙で、また精神医と患者との関係によっても色々変化するもので、言葉で要約的に説明できるようなものではない、らしい。 だったらこんな本を出すなよ、と言いたくなってしまうのだが、フロイト派の精神分析家たちがその存在感を示すために出した本、という面もあるのかも。 まあ、分からない覚悟で読んでみるならいいでしょう。 また、比較的分かりやすいところと難解でお手上げ、というところがあるけれど、取り上げられている分析家と著作の難易度(?)によるのか、或いは執筆を担当している学者や分析医の理解度や文章力によるのかも、よく分かりませんでした。 二段組、350ページもあって、新書としては内容量はかなり多め。

4月  ↑

・今野晴貴 『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』(文春新書) 評価★★★☆ 昨秋出て、それなりに評判を呼んでいる新書。 新書だけれど金欠病につき県立図書館から借りて読んでみました。 新入社員を大量に採用し、その後に常識はずれの選別を行うことで多数の脱落者 (たいていは自主退職に追い込まれる) を出すことで利益を生み出している企業が、斯界に詳しい人には何という企業か分かる書き方で取り上げられ、批判されている。 死者を出している企業は実名で書かれている。 ワタミとか大庄などですね。 ワタミの社長など、死者を出しているのに反省の気配がなく (批判が殺到してようやく反省文を出したらしい)、おまけにそういう人物が安倍内閣では教育再生会議の委員になったり、橋下大阪市長の特別顧問になったりしているのだから、日本ってまったく変な国だと痛感させられる。 本書はブラック企業の手口を紹介した上でそこから身を守る手段を提示するのみならず、新自由主義の風潮下でまともな企業もブラック化しかねない現状を憂い、また弁護士などのいわゆる士業もブラック化していてブラック企業に加担してしまう者が出ている状況も報告されている。 また、最近の就職難で、若者への就職指導が、ブラック企業を正当化しかねないようなやり方でなされている点に関しても警告を発している。 ブラック企業の問題は、たんに私企業だけの問題ではない。 若者を心理的にダウンさせることで、健康保険などの税金の支出をも増やしているのだ。 まさに社会のダニなのである。 ともかく一読に値する本である。

・沓掛良彦 『サッフォー 詩と生涯』(平凡社) 評価★★★★☆ 1988年に出た本だけど、必要があって市立図書館から借りて読んでみた (新潟大の図書館にもあるけれど工事中で借りられないので)。 古代ギリシアの女流詩人サッフォーは、作品がきわめてわずかしか残っていない。 西洋中世のキリスト教時代に、不道徳だとしてその大部分が破棄されてしまったからだ。 ようやく近代に入ってから古典文献学者によって断片が収集されるようになった。 本書は、残されているサッフォーの詩の邦訳、そしてその生涯、古代ギリシア世界やローマ世界での彼女の受容のされ方、さらに近代に入ってからヨーロッパ各国での受容、日本での受容、さらには古代ギリシア語原文から近代語や日本語に翻訳することの困難さなど、ありとあらゆる点に渡ってサッフォーに関係する事柄を記述しており、まさに碩学の力作と言うべき書物になっている。 サッフォーに興味のある人は必読の書物。 サッフォーは女性同性愛だったかなかったかが問題にされやすいが――彼女の住んでいたレスボス島はレズビアンの語源にもなっている――著者は残された詩の内容からして同性愛者であった可能性が高いとしている。 

・春日太一 『天才 勝新太郎』(文春新書) 評価★★★★ 3年前に出た新書を、ちょっと興味があってamazonから古本で買って読んでみたのだが、非常に面白い本だった。 勝の現役時代を知る人たちに取材して、生身の勝新太郎がどのような俳優であり、なおかつ監督としてどのような才能を持っていたのか、を明らかにしている。 自分で俳優として現場に出て試行錯誤しながら作品を作り上げていくタイプの人で、最初からコンセプトがあってそのとおりに映画を撮っていくタイプではなかったということのようである。 また、市川崑や黒澤明といった巨匠とは折り合いがよくなく、彼らの映画に出る話は喧嘩別れに終わっている。 ヒット作の 「座頭市」 では、徐々に自分の思うとおりに作らないと気がすまなくなり、またテレビシリーズの場合は週ごとの放映だから決められた期限内に1作ずつ作っていかないといけないわけだが、自分に納得のいくまでOKは出さないので、テレビ局の人間にはだいぶ迷惑をかけたらしい。 要するに妥協を許さない人間だったのだ。 このほか、新人の頃は長谷川一夫など、スマートな美男俳優の全盛時代だったため、ずんぐりした体躯の勝は売れず、しかし長谷川の真似をしたりして苦労したなどの興味深い話が満載である。 勝新太郎の映画に少しでも惹かれるところのある人には必読書。

・淡野弓子 『バッハの秘密』(平凡社新書) 評価★★☆ 著者は1938年生まれ、東京芸大およびドイツの音楽大学で学び、1968年、ハインリヒ・シュッツ合唱団を設立、常任指揮者としてシュッツ全作品連続演奏会を行い、現在はバッハの教会カンタータを東京の教会で連続演奏している最中、という方である。 本書は、バッハの教会カンタータ、マタイ受難曲、ロ短調ミサ曲について分析し、さらにシュヴァイツァーなど二十世紀におけるバッハ論者の著作をいくつか紹介したものである。 専門家の書いた本として、まあ、教えられるところはそれなりにあるんだけど、この方は (私の偏見かもしれないけど) 日本人女性のクリスチャンにありがちな、信仰に深入りするあまり、クリスチャンでも何でもない一般日本人のことが分からなくなっているような気配がないでもない。 あと、内容的には、曲の分析はその曲を聴きながらでないと分からないような記述がしてあるし、色々な方面に言及はしているのだけれど、まとまりがイマイチ足りないような気もする。

・杉浦由美子 『女子校力』(PHP新書) 評価★★☆ 首都圏の中高一貫私立女子校出身者の特色について書かれた本である。 女子校というと、花園的なロマンティックなイメージで捉えられることもあるけれど、著者の見方は 「女の生きかた論」 的で、それよりかなりシビアというか、現実的である。 簡単に言うと、今どきの女子校出身者はオタク度が高く、空気が読めず、男とうまく付き合えず、ということのようである。 1980年頃の女子校とはかなり異なっているのだそうだ。 つまり、1980年頃の女子校はまだお嬢様をエリート男性向けの良妻賢母に育てるという校風があり、そこから逆に学校内部での生徒間のカーストも生じやすかったが、今の女子校は社会に出て実戦力となって働くような女性を育てることを目標にしており、学力を重視しているので、変なカーストはなく、むしろ男の目がないのでオタクになろうが空気を読めなかろうが全然気にしないで過ごしてしまい、そのために共学の大学や会社に入ってからうまく男性や上司と付き合っていけずに、「共学にすれば」 と後悔することもあるのだそうだ。 しかし逆に、女子校時代は変に気を遣う必要もないから 「天国だった」 ともなりやすいとのことである。 女子校内の陰湿ないじめ、というのは過去の話だと著者は主張している。 ・・・・まあ、そうなのかもしれない。 ただ、当方の周囲にも優秀な女性教員はいるのだが、桜陰だとか女子学院といった都内私立有名校の出身者は身近にいないので、実感が湧きません。 あと、色々な女子校出身者にインタビューをして書かれた本ではあるが、やはり或る程度コンセプトが決まっていてそのように構成されている、という印象もないことはなかった。

・■淵弘 (ベ・ヨンホン、■は「褒」の字から「保」の部分を抜き、代わりに「非」を入れた漢字) 『朝鮮人特攻隊 「日本人」として死んだ英霊たち』(新潮新書) 評価★★★ 2009年末に出た新書をBOOKOFFにて半額購入。 第二次世界大戦期に、当時は日本であった朝鮮半島の出身者で、特攻隊に入り死んでいった人々について書かれた書物である。 著者は在日のジャーナリスト。 ここでまず大事なのは、特攻隊として死んでいった朝鮮人について調べること自体が現在、かなり難しいという事実である。 それは時間がたって過去の事実関係が分かりにくくなっているからばかりではない。 ノ・ムヒョン大統領時代のいわゆる 「親日法」 によって過去の併合時代に日本に対して協力的であったとされた人物を糾弾することが韓国の常態となっているからだ。 その結果、特攻隊に入った朝鮮人も日本に媚びた犯罪人扱いされてしまうという異常な傾向が韓国にはあり、そのせいで遺族も事実を語ることができないのだという事情が明らかにされている。 著者は親日法に批判的で、本書を読むと、親日法で保守系政治家やその親の世代を攻撃しようともくろんでいた人物たちが、調べるにつれ実は自分の親なども親日法の批判対象になると分かって発言をやめるといった事態が生じていることも分かってくる。  また肝心の特攻隊員となった朝鮮人だが、その意識も一様ではなく、日本に完全に同化したからとは限らず、むしろ朝鮮人の根性を見せてやるといった意識を持っていた場合もあったという。 直接特攻隊とは関係ないが、朝鮮人女性でかなり早い時期に飛行士として活躍した人物についても紹介されている。 さらに、特攻隊で死を迎えた朝鮮人が日本人女性と婚約しており、その日本女性が戦後ずっと心理的に婚約者の喪に服して生きたという事実も記されている。 歴史の狭間で生きた朝鮮人を、同胞である韓国人が無視したりいたずらに現代の基準で非難することはやめてほしい、と思わせられる一冊である。

・堀内修 『ワーグナーのすべて』(平凡社新書) 評価★★★☆ 今年1月に出た新書。 今月は同じ平凡社新書から 『バッハの秘密』 が出たので、もしかすると平凡社新書はクラシックの作曲家シリーズを出す企画があるのかも知れない。 それはさておき、かねてからオペラ評論家として活動している著者によるワーグナー本である。 最初は演出中心主義になっている最近のオペラ界やそこに至るまでの流れを概観し、それからワーグナーの各作品の筋書きや鑑賞の勘所を説明し、最後にワーグナーの生涯や彼と関わりのあった音楽家などについて記述している。 女性差別的とされることも多いワーグナーだが、著者によればワーグナーのオペラでは女性の登場人物が男性を救うのだから、現代における女性の活躍を先取りしているのだ、ということになる。 そのほか、オペラじゃなく楽劇だというように言われるワーグナー作品だが、著者は別にオペラで構わないと述べている。 と言って、別に何でもいいじゃんと主張している本ではなく、それなりの学識や薀蓄を傾けた上で、自由にワーグナー作品を楽しむべきだというのが、著者の言いたいことのようだ。 著者は芸術を信じているのだ。 

・諏訪哲二 『いじめ論の大罪 なぜ同じ過ちをくり返すのか?』(中公新書ラクレ) 評価★★★☆ 「プロ教師の会」 の論客として名高い著者のいじめ論である。 ここでは1980年代以降の子供の変質という従来からの主張をふまえた上で、なぜ学校では有効ないじめ対策がとれないのか、ということが説明されている。 かねてから著者が言っていることとダブっているところが結構あるけれど、要するに学校にいれば必然的に人間関係の中におかれ、人間関係にはからかいやいたずらといったものも必然的に含まれるのであり、いじめはその延長線上にある以上、いじめを完全になくすことは無理ということである。 また、いじめに際しては学校バッシングが行われやすいが、そもそも自殺につながるようなひどいいじめを行う子供の存在は、学校より家庭教育に問題があると見るべきで、保護者の責任が無視されがちなのはおかしいという。 というような、現場の教師からの言い分が並べられたあと、最後の第三部で、尾木直樹、橋下大阪市長、宮台真司、内藤朝雄、山脇由貴子、土井隆義らのいじめ論やいじめ対策本が批判的に論じられている。 この第三部だけでも一読の価値があると思う。 俗受けしやすいいじめ論のどこが変か、いじめをなくすために学校からクラスをなくせといった議論のどこが間違っているかが明快に論じられている。

・コリン・ジョイス (谷岡健彦訳) 『 「アメリカ社会」 入門  英国人ニューヨークに住む』(NHK出版生活人新書) 評価★★☆ 2009年に出た新書をBOOKOFFで半額購入。 著者は1970年生まれの英国人、オクスフォード大卒。 来日して高校英語教師やジャーナリストを勤め、その後ニューヨークに移住して本書を書いた。 日本では英国も米国も英語国だし、二度の世界大戦では一緒に戦った仲だし、アングロサクソンという言い方でくくられることもあるし、要するに似たような国だと思われがちだが、日本に何年か滞在した英国人がニューヨークに住んでみたら日本よりむしろ米国のほうが英国との差異が大きいのではないかと感じられた、という内容である。 ニューヨーカーは実は礼儀正しいとか、アメリカが才覚さえあれば成功できる国だなんてのは嘘だとか、恋愛ではハウツー本に頼ってばかりいるとか、まあそういう主張をしている。 というか、そういう部分はそれなりに面白く読める。 しかし英米の英語表現の細かい相違などにこだわった箇所は日本人としては 「別に」 だし、また野球よりクリケットのほうがスポーツとしてすぐれているという箇所も、要するに我田引水でしょ、としか思われない。 半額で買ってちょうどいいくらいの中身しかない本でした。

・佐伯順子 『明治〈美人〉論 メディアは女性をどう変えたか』(NHKブックス) 評価★★☆ 美人論というタイトルに惹かれて読んでみたのだが、タイトルに偽りあり。 たしかに最初は、写真を用いた明治期の美人コンテストだとか、それに優勝してしまった女子学生が退学処分を受けたとか、芸者が美人写真のモデルになることが多かったとか、美人の話がそれなりに出てくるのだが、そのうち話は女性の生き方論になってしまい、要するに現代と違って良妻賢母のイデオロギーが強かった明治や戦前の日本の新聞記事を拾い集めて批判する本になってしまっているのである。 ここで目に付くのは、著者にとってイデオロギーでないのは現代に見られるような女性の 「社会進出」 「自由な生き方」 であり、それ以外はイデオロギーだとしていること。 でも私は現代の男女平等論だってイデオロギーだと思いますけどね。 著者にはそういう、価値相対的な視点がなくて、きわめて狭い見解の中で物事を裁断している箇所が目立つ。 また、キリスト教が男女平等だから、明治期に恋愛結婚したクリスチャンの日本人男女はレディーファーストを実践した、なんて書いてあるのだけど、レディーファーストってそれこそ女性差別的な習慣だと思わないのかな? 著者はどうもクリスチャンらしく、中学段階からミッション系の学校に行っていたようだから、キリスト教について批判的な見方が全然できないのはそのせいかなと思う。 そもそも総じて西洋についての著者の知識は物足りない。 明治期に遠方に住む男女同士の写真見合いが日本で行われたことを批判的に書いている箇所があるけど、そういう写真だけで結婚を決める見合いってのは日本だけじゃなく、西洋にだってあったわけなんだけどねえ。 (これについては、映画 『リトル・イタリーの恋』 と 『ポワゾン』 を参照。) 美人とは外見ではなく美しい生き方のことだ、なんてことを言っている箇所を読むと(195)、中学生の優等生の女の子の作文を読んでいるような気恥ずかしい気分になっちゃう。 昔の新聞を丹念に読んで関連記事を集めた努力はそれなりだと思うけど、内容的にはその程度のモノでしょう。

・小谷野敦 『日本恋愛思想史 記紀万葉から現代まで』(中公新書) 評価★★★☆ 序文に言われているように、比較恋愛思想史が専門の小谷野氏が、とりあえずこれまでの集成的な本を出したものである。 タイトルは日本だけど、西洋のことにもそれなりに記述がある。 まとめて言ってしまうと、同じ国や地域でも時代により、またどういう階級・職業の人間なのかにより恋愛の作法は異なるし、また文献を渉猟しても分からないことは分からない、というような内容である。 恋愛や恋愛文学についての単純な思い込みをしないようにするためにも、その方面に興味のある方は読んでおいた方がいい本だと思う。 私的には、西洋では20世紀になるまで女性同性愛の文学が現れなかったという指摘や、最近アメリカ通俗文学の研究が進んでいること、日本の左翼は転向するとき柳田國男に頼るという批判などが面白かった。

・パトリック・J・ブキャナン(河内隆弥訳) 『超大国の自殺 アメリカは2025年まで生き延びるか?』(幻冬舎) 評価★★★ アメリカの保守派政治家による憂国の書。 今回の大統領選の前に出されていることもあり、オバマをかなり批判している。 全体としては、アメリカが自由貿易主義で他国の経済的発展を許し、自国の製造業が壊滅状態にあることをアメリカ衰退の原因としてまず批判している。 その意味で、フリードマンらの新自由主義者には批判的である。  次に、リベラル派の伸張によりキリスト教道徳が後退していることを嘆いている。 この辺、私は全然同感できないんだけど、アメリカ白人の保守派に言わせれば近代化はキリスト教によって成し遂げられたということになるらしい。 植民地主義だとか十字軍による他宗派への攻撃なんかはあまり気にならないようで、十字軍は正しかったという意味のことを言っている箇所もあり、私などちょっと引いてしまう。でもアメリカのワスプのホンネは案外このあたりにあるんじゃないか。  次に、黒人やヒスパニックなどの人口が増え、白人の割合が減っていることに危機感を募らせている。 (ついでに、日本の人口減についても心配してくれていますぞ。) ワスプこそアメリカの礎であり、有色人種が増えることは多文化主義によるアメリカ分裂にしかつながらない、不法移民を強く規制すべきだ、と述べている。 また、アファーマティブアクションによって女性や有色人種 (ただしアジア系だけは例外) が実力以上に有利なポストについたり有力大学に合格したりしている現状を批判している。 また、リベラル派は言論の自由を主張しているくせに、保守派が少しでも人種差別と見られるような発言をすると発言者をポストからはずすなど、実際は言論の自由など認めていないのがリベラル派だと述べている。  さらにワシントンやジェファーソンやリンカーンなど、過去の偉大な大統領の言説を引いた上で、アメリカは平等より自由を大切にする国であり、大衆を甘やかす民主主義を盲信するのは危険だと警告している。  最後に、外交上、ヨーロッパや韓国や日本に駐留しているアメリカ軍はカネを食うだけであり、そもそもこれらの国々は以前に比べてソ連崩壊により軍事的危険は薄らいでいるし、経済的にも成長して自前で自国を守れるはずだから、アメリカ軍が駐留する理由はどこにもない、と主張している。    ・・・・・まあ、こういう主張は現在はリベラル派が強いから余り前面には出てこないし、著者も共和党がリベラル派に譲歩していることを嘆いているのだが、今後のアメリカの政治経済状況によってはこういう保守主義の逆襲もありえるわけで、特に日本としては海外のアメリカ軍撤収という主張を保守派がしていることに十分注意しておくべきだろう。 (昨年度、国際教養演習という授業をやっていたら、「日本はアメリカ軍が守ってくれるから日本の軍隊は必要ない、と高校の先生から教わりました」 とのたまう学生がいた。 トンデモナイ高校教師もいたものである。 また、そういうダメ教師を盲信する学生も困ったチャンなんだなあ。)  ・・・・・それから、いわゆる南京虐殺について、日本軍がスポーツとして乳児を殺したとか、アイリス・チャンあたりが言っているらしいことをそのまま引いていたり、韓国の女性が日本軍に性奴隷にされたとかも書いていて (いずれも364ページ)、保守派政治家にしてこれだから、日本はもっと正しい歴史的認識を大声で国際的に発信していかないとダメだなあ、と改めて痛感しました。  なお、500ページもある本なので、全部読むのが面倒くさい人は目次を見て特に興味のあるところだけ読むのも一法かと。  それにしても、日本の政治家でこれだけの分厚い本を書ける人がいるんだろうか、心配になる。

3月  ↑

・長坂道子 『「モザイク一家」の国境なき人生 パパはイラク系ユダヤ人、ママはモルモン教アメリカ人、妻は日本人、そして子どもは・・・・』(光文社新書) 評価★★★★ 副題が長たらしいけど、要するにそういう内容の本である。 つまり、日本人女性 (=著者、1961年生まれ、京大卒のジャーナリスト) がユダヤ人の男性と結婚したのだが、夫の父はイラク系のユダヤ人で、夫の母はモルモン教徒のアメリカ人で・・・・・というような複雑怪奇な姻戚関係を背負い込むことになった、という体験記。 しかし読んでみるとこれが滅法面白い。 そもそも、イラクはアラブであって、今はイスラエルやユダヤ人とは敵対関係にあるわけだが、何でイラク系のユダヤ人なんだと疑問に思うんだけど、昔、イラクがイスラム教原理主義に犯されていなかった時期があって、その頃はキリスト教徒もユダヤ教徒もイラクには存在していたしお互いに仲良くやっていたのだそうである。 やがて原理主義が台頭してイスラム教徒以外は国外に脱出することとなる。 そういうイラク系ユダヤ人で事業によってお金持ちになっていた男性が、偶然滞在先のホテルでモルモン教徒のアメリカ人女性と知り合い、結婚にいたる。 そしてその間にできた一人息子が、よりによって日本人女性 (つまり著者) と結婚して・・・・というお話なのである。 本書を読むと、世界は広くて多様なんだと改めて痛感するし、またここに登場する人たちが背負っている文化や習慣といったものがそれなりに重みをもち、そうそう簡単に 「世界市民」 なんてものに収斂しないのだと納得できる。    また、そういう複雑な姻戚関係のなかで何とかやっている著者夫妻の、子育てを含めての格闘ぶりにも拍手を送りたくなる。    このほか、これからの国際社会で日本人が生きていくための方策だとか知恵のようなものも本書には含まれている。 例えば、インターナショナル・スクールは授業料が高いので (どの国にあるインターナショナル・スクールも授業料は年額200万円程度)、入学試験はないけれど学費によって生徒は選別されているという事実。 つまり、大企業の海外派遣社員などは会社が子供の授業料まで面倒を見てくれるから大丈夫だが、海外研修に出かける大学教授なんかは、大学は子供の学費までは出してくれないから子女をインターナショナル・スクールには入れられない、という現実があるという。  また、外国語を幼児のうちから教えるのは無意味で、むしろ中学高校段階でひとつの外国語を文法も含めてしっかり習得し、高校か大学で外国に留学したほうがいいと提言している。

・八幡和郎 『本当は誤解だらけの「日本近現代史」 世界から賞賛される栄光の時代』(ソフトバンク新書) 評価★★★ 明治以降の日本の近現代史について、34の項目を設け、それぞれについて分かりやすく解説した本。 著者は1951年生まれで東大法卒、通産省に勤務のあと、徳島の私大教授をしながら著述業にいそしんでいる。 著者の本はこれまでにも若干読んだことがあるが、この人は基本的にヨーロッパ派で、だから明治時代の日本もヨーロッパの制度だけでなく精神も学んだから近代化に成功したのだ、と割り切っている。 だけど、それを言うなら、なぜ日本にはキリスト教が広まらないのか、という大問題にも答えないといけないんじゃないかなあ。  また最近めまぐるしく変わる日本の首相について、世襲政治家が多い上に資質的にも知的にも (やっぱり著者は東大法卒だし、こういうことははっきり言いたくなるんだろうな。 でも私も同感ですけどね) 冴えない人ばかりで、他の先進国家の政治家に伍してやっていくことはとてもできない、と警告している。 個々の項目については首をかしげるところもあるけれど (例えば南京事件はともかくとして、証拠も挙がっていない朝鮮の従軍慰安婦強制連行について何で謝罪しなければならないのか?)、日本の近現代史の問題点を要領よく学ぶのには悪くない本であろう。

・渡辺望 『国家論 石原慎太郎と江藤淳。「敗戦」 がもたらしたもの――』(総和社) 評価★★★ 著者は1972年生まれ、早大院 (法学) 修了の気鋭の評論家。 本書は、石原慎太郎と江藤淳の著作の読解を中心にすえつつ、国家を 「父性」 「中性」 「母性」 という概念によって説明しようとしたものである。 というと分かりにくいが、実際読んでみるとかなり微妙で精妙な事柄について論じており、著者自身、あとがきで 「きわめて難しい試みのひとつ」 と述べているように、問題の所在そのものを捉えること自体が大変な作業なのだ、と分かってくる。 石原と江藤以外に、知識人や物書きの軍隊体験を扱った章が中間に置かれていて、丸山真男や山本七平らが取り上げられている。 山本は一般的には保守派の評論家とされているが、著者は中間派知識人という概念にくくっており、この章あたりから読んだほうが分かりやすいかも知れない。 ただ言えるのは、石原や江藤といった物書きの、一般に流布しているイメージを打ち破らんとした著者の意図と読書体験は間違いなく伝わってくる本だということだ。

・平野真敏 『幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語』(集英社新書) 評価★★★☆ 著者は1967年生まれ、東京芸大卒のヴィオラ奏者だが、ふとしたことから普通のヴィオラより少し大きな楽器、ヴィオラ・アルタ (アルトのヴィオラ) と遭遇し、その独特な音の虜となる。 調べるとこの楽器は19世紀にあるドイツ人により作られ、一時期はそれなりに使用されていて、ヴァーグナー、リスト、R・シュトラウスなどによりその使用を前提として作曲もなされたのに、やがて消えていったことが分かる。 なぜヴィオラ・アルタは姿を消したのか。 この経緯を、自分とこの楽器の出会いおよび付き合いを含めて綴ったのが本書。 とても面白く、音楽史の一こまが鮮明に浮かび上がってくるし、またこの本を読むと、ヴィオラ・アルタを含めてヴィオラの曲が聴きたくなってくる。 クラシック音楽ファンには必読の一冊。

・池田譲 『イカの心を探る 知の世界に生きる海の霊長類』(NHKブックス) 評価★★★ 著者は1964年生まれ、北大水産学部を出て現在は琉球大の教授。 本書はタイトルどおり、イカの心について、現在判明していることを綴った本である。 私を含めて、イカと言えば日本人にはまず食べ物であり、そもそもイカは下等生物だから心なんてあるのか、と言いたくなるわけだが、実はイカにはかなり大きな脳みそがあり、視覚も結構発達していて、知性もそれなりにあるということが分かっているのだそうだ。 また、イカといっても種類がいろいろあって、同じイカでも社会性が強く絶えず集団で行動するイカと、社会性の弱いイカとがある。 しかしイカは総じて社会性が強く、同類のタコが孤独を好む生物であるのとは異なり、集団でないと生きられないという。 また、鏡に写った自分を見てそれが他の生物ではなく 「自分」 であると識別できることが高等生物の証しとされる風潮が一時代前にはあり、この能力はヒト以外では類人猿とイルカだけにあるとされた時期があって、だから鯨類は高等動物であるから捕鯨はイケマセンとされたりしたのだが (カール・セーガンなんかモロこの論法)、その後、アジア・ゾウや鳥のカササギも鏡に写った自分を識別していることが判明している。 そして本書では、どうやらイカも鏡に写った自分を識別しているらしいという実験結果が報告されていて、生物の知性が調べれば調べるほどに、むかし考えられていたよりはるかに高いことが分かってくるのだと得心できる。 ほか、図形を識別するとか、学習能力もあるといった興味深い指摘がある。

・依岡隆児 『ギュンター・グラス 「渦中」 の文学者』(集英社新書) 評価★★★ 戦後ドイツ最大の作家と目され、ノーベル文学賞も受賞、しかし数年前に自伝で第二次大戦中はナチの親衛隊に所属していたと告白して物議をかもしたギュンター・グラスの、生涯と作品が一冊で分かる新書。 著者は徳島大教授のドイツ文学者。 悪くない本ではある。 グラスには画家としての側面もあるし、またその発言や、小説の内容も一筋縄ではいかない難解さがあるけれど、その作家をともかく分かるようにしてくれる本。 ただ、戦後の (西) ドイツの軌跡をどう捉えるかは難しい問題で、現時点では誰もが納得できるような客観的な記述は困難であるから、グラスの行動や発言をどう評価するかはこれからということもあり、本書にあまり過大な期待はしないほうがいいとも言える。 そういう難しさを承知の上で注文をつけるなら、もう少し一般読者に分かるような書き方をしたほうがいいかな、と思える箇所もあった。 例えばベルリンの壁崩壊後に起こったクリスタ・ヴォルフへのバッシング事件などは、私はドイツ文学者だから知っていたけれど、一般の日本人は知らないと思う。 ライヒ=ラニツキのグラス批判なども、もっと突っ込んだ記述が望まれる。

・西尾幹二+福地惇+柏原竜一+福井雄三 『自ら歴史を貶める日本人』(徳間書店) 評価★★★ 第二次大戦を中心とする20世紀前半の日本の歴史について、その本質を問い、同時に巷に流通している歴史学者や評論家の本(加藤陽子、半藤一利)、そして日中歴史共同研究とその日本側代表者だった北岡伸一を批判した本である。 当時の第二次大戦に至るまでの日本の歴史は、単に日本だけ、或いは中国との関係だけを見ても分かるわけではなく、ロシアを含む欧米との関係、各国の思惑、またコミンテルンの活動などをもふまえて捉えなければ理解できない、という共同の理解に裏打ちされている。 また日中歴史共同研究に関しては、自説を曲げて中国学者の主張に屈する日本側学者のだらしなさが痛烈に批判されている。 そもそも、学問の自由がなく学者は政治家の命令に逆らえない中国のような国とこの種の共同研究をやること自体に問題があるわけで、こういうアイデアを思いついた日本の政治家たちも厳しく批判されなくてはならないだろう。 なお、コミンテルンの活動については、この本でも言われているがまだまだ研究が進んでおらず、本来はソ連が崩壊して資料が大量に出た時期がそのチャンスだったはずだが、今からでも積極的な調査研究が望まれる。 

・井出賁夫 (いで・あやお) 『ヘッセ (人と思想89)』(清水書院) 評価★★★ 清水書院から出ている 「人と思想」 シリーズの一巻。 1990年に出た本。 ヘルマン・ヘッセの生涯とその仕事について分かりやすく解説している。 この本を読んだきっかけは、下 (↓) の 『ドイツを追われた人びと』 を再読したことである。 同書のなかで、ヘッセがナチ時代にドイツから国外亡命した知識人たちの政治主義に距離をおいていたということが説明される際に、いざとなればヘッセは自分はドイツ人ではなくスイス人だという論理を使うことができたと述べられており、ヘッセの国籍はどうなっていたっけと改めて疑問を覚えたからである。 ヘッセの主要作品は読んではいたが、その生涯については文庫本の最後の解説を読む程度であまり知らずにきたので、遅ればせながら知っておこうというわけで本書の古本をamazonから購入して読んでみた。 著者は1910年生まれで北大教授にしてヘッセ研究家として知られた人。  で、ヘッセの国籍だが、親はスイス国籍だったのでヘッセも、生まれは南ドイツだけれど国籍はスイスであった。 しかし南ドイツのラテン語学校に入るに際してシュヴァーベン (ドイツ) の国籍をとった。 1914年の第一次世界大戦勃発に際しても、ドイツ国籍のヘッセには兵役の召集がかかっている。 しかし1924年、最初の妻マリアと離婚して若いルート・ヴェンガーと再婚したときにスイス国籍に戻している。 以後、ヘッセはスイス国籍のままであり、やがてルートとも別れ生涯の伴侶となったニノン夫人と再々婚するが、基本的にスイスに住み続けている。 (なお、ヘッセはドイツ語で書いたからドイツ文学に入っているのであって、このことが分からずに 「ヘッセはナチを逃れて亡命した」 なんて書いてある文章が時々ある――例えば日本語版ウィキペディアの 『ガラス玉演戯』――けど、間違いです。)   国籍以外でも基本的なことは分かる本で、ヘッセが晩年は別にして貧しかったこと、パトロンのおかげで自宅を持てたこと、若い頃から晩年に至るまで病気との闘いの生涯だったことなどが興味深い。 だが、著者の視線は、世代のせいもあろうけれど、ヘッセにかなり寄り添っており、若い学者ならもう少し批判的な見方もありなのではないかとも思った。

・古市憲寿 『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社) 評価★★★ ピースボートについての本 『希望難民ご一行様』 でブレイクした若手社会学者による本。 出たのは一昨年の秋だが、若者論にはさほど興味もないので手を出さずにきたけれど、先日県立図書館で調べたら借りられる状態だったので、借りて読んでみた。 まず、過去の若者論を俎上に乗せて、若者論というのがいかにアテにならない代物であるかを説明している。 それから、現在の若者がどういう状況にあるのか、を著者なりに捉えようとする。 要するにタイトルにあるように、財政赤字や少子化で未来が暗いと思われている日本だけど、現代の若者は実際には身近なところに幸福感を見出しているし、今は恵まれたいい時代だと思っており、一部の学者が主張するような 「若者は社会的弱者でかわいそう」 という議論は、少なくとも若者の意識からすると当たっていない、というのである。 色々な文献に目を通し、さまざまな領域に目配りして、まあバランスはそれ相応にとれているかな、という気はする。 だけどあくまで自分も若者という立場で書いているから、逆に言うとオジサンに対してはステレオタイプ的な見方をしていて、これは社会学者としてはいかがなものかと思う箇所もある。 それから中盤、ベネディクト・アンダーソンの 「想像の共同体」 論を下敷きに、日本という国家が近代になって作られたという論を展開しているけど、ここは新鮮味がないな。 でも、国家はいらないというのは経済的強者の意見だというようにバランスもとっているんだけどね。  あと、戦争になったらどうするかというアンケートで日本の若者は 「逃げる」 という回答が 「戦う」 という回答よりダントツで多く、世界主要国でも珍しい結果なのだそうだが (150ページ)、これを著者はいいことだと書いている。 でも、世界各国で 「逃げる」 という回答が増えているならいいことだと私も思うけど、日本だけ 「逃げる」 が多いのは不健全なんじゃないかと思いますけどね。 もっとも、著者は後のほうで、武力行使の問題に関していわゆるミュンヘン会談で英国の平和主義がヒトラーに対して無力だった例を挙げて、現実の厳しさにも触れていて、まあこういう箇所が著者の絶妙なバランス感覚なんだろうなとは思うが、そこの注で(266ページ)、上野千鶴子が昔、対抗暴力に対して 「逃げよ」 という主張をしたけれど、後年になって 「それはほとんど祈りのようなものだった」 と回想していることを持ち出しているのだが、はっきり言って上野のその程度の言説を持ち出していちゃダメでしょう。 その辺の、業界内部の言説の阿呆らしさに目覚めることを、著者には期待したい。

・山口知三 『ドイツを追われた人びと 反ナチス亡命者の系譜』(人文書院) 評価★★★★ 1991年に出た本。 著者は独文学者で当時京大教授。 私は出た当時すぐに購入して読んでいるが、今回、大学院の授業で学生 (独文ではない) のリクエストにより取り上げ、再読することになった。 ナチ時代の亡命文学や亡命作家は戦後長らく独文の中心テーマであったが、どちらかというと亡命作家の栄光をたたえ、その作品をほめたたえるといった傾向が強かった。 しかし、この本が出た頃になるとそういう、いわば単純な見方は流行らなくなり、もう少し細かく事実関係や人間関係を追った研究が多くなっていく。 本書はその代表的な一冊。 もともと独文では、ドイツ語圏の時代ごとの流行に忠実な東京の学者に比べて、ひとつのテーマを粘り強く研究していく傾向が関西の学者には強いが、そういう関西学界の特質がいいほうに現れた書物である。 トーマス・マンの長男で亡命作家の先頭に立って反ナチスを叫んだ、しかし同時に若い世代の享楽主義や同性愛などの新感覚をも持ち合わせたクラウス・マンを中心として、反ナチスといっても共産主義系の知識人とそうでない知識人との間にある大きな溝や、またヘッセのように政治性を嫌いあくまで文化主義にこだわる作家もいるなど、反ナチスの陣営がいがみあいや反目に満ち満ちており、「栄光と悲惨」 と言うよりは 「悲惨と悲惨」 と言いたくなるような様相を呈していたことを多方面から明らかにしている。

2月  ↑

 

・小川浩之 『英連邦 王冠への忠誠と自由な連合』(中公叢書) 評価★★★ 著者は1972年生まれ、京大法学部卒業後、ロンドン大学で修士号、京大で博士号をとり、現在は東大准教授を務めている人。 本書はタイトルどおり、英連邦 (英語ではCommonwealth of Nations) について、その歴史と現状を説明した本である。 一般にはこの組織、英国を中心として旧植民地だった諸国が集まったものと理解されているが、2012年現在でこの連邦には54カ国が加盟しており、中にはルワンダやモザンビークなど、過去において英国の植民地であったわけではない国まで含まれている。 カナダやオーストラリアやNZのように英国王を名目上の君主とあおぐ国もあるが、インドのように大統領を持ち、名目上でも英国王のもとにあるわけではない国も多い。 というわけでその内実が必ずしもはっきりしない英連邦について書かれた貴重な本である。 ただし、この本、記述がゆっくりしており、英国史をたどりながらそこに付随して英連邦についても触れられているというようなスタイルになっているので、手っ取り早く英連邦について知りたい読者――私もそうなのだが――にはややまどろっこしいのが難点。  単純にまとめれば、もともとはカナダ (この国は英連邦の長女的な立場にあるようだ) や、オーストラリア・NZといった白人支配の英国植民地から始まり、それが徐々に拡大され、現状のように英国植民地ではなかった国まで加入しているような状態に至ったということのようだ。 無論その過程には色々あり、特に戦後は英国の植民地主義への批判や人種差別への非難も容赦なく行われた。  戦後の英連邦はそのような価値観の変遷と並行して営まれてきているのであり、途中で脱退や再加入などもあった (南アフリカやローデシア)。 その中では、オーストラリアとNZが英国の古い価値観に忠実であったということらしい。 また英連邦の会議を開くときも、昔は場所はロンドンと決まっていたが、今は各国の持ち回りであり、英国は 「植民地主義の復活」 と言われるのを警戒しているという。 しかし逆に言えば、独立して間もない新興国からすれば、この連邦から得られるものもそれなりに多い。 特に教育関係では、英国をはじめ、オーストラリアやカナダなどの先進国の大学に留学して自国に戻り指導者となるというパターンが新興国には多いらしい。 他方、昔は英国は植民地の人間が自国に移民として入ってくることを許容していたが、戦後のある時期からその制度を廃止している。 つまり、独立国同士の付き合いというタテマエも強化されているのである。 というわけで教わるところも多いけれど (吉田茂は日本を英連邦に加盟させたらという意見だったそうである)、先に述べたように記述がゆっくりしているので、そのつもりで読んで欲しい。

・太宰治 『斜陽』(新潮文庫) 評価★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 私としては通読したのは高校生時代に初めて読んで以来である。 久しぶりに読んでみて、女の描き方がカギなのかなと思った。 語り手であるかず子の 「お母様」 は言うまでもなく、語り手自身の生き方、それから自殺する弟の直治がほれていた上原の妻。 計3人だが、中では上原の妻の描写がやや不足しているみたいで、そこが惜しいかなという気がした。 要はどんな時代になってもこだわりなく自然体で生きられれば一番いい、ということでしょう。 あとは、直治の遺書にある、人間はみな同じだという思想は恐ろしい、というあたりがブンガクを感じさせる。

・楠見千鶴子 『オペラとギリシア神話』(音楽之友社) 評価★★★ 1993年に出た本。 いつだったかどっかの古本屋で500円で買ってツンドクになっていたのを、何となく書棚から取り出して読んでみた。 著者はギリシア神話関係の著書が何冊かある人。 ここではまずオペラ史を簡単にたどり、その中でギリシア神話を素材として扱っている作品に重点を置いて論述している。 なので、ワーグナーなどギリシア神話を素材にしていない作曲家はいくら重要でもほとんど触れられていない。 後半では、具体的な作品をとりあげて、その筋書きや音楽としての特性を解説している。 こちらは、へえ、こんなオペラがあったのかと教えられる部分がそれなりに多い。 オペラって、ずいぶんたくさん作られているんだなあ、と改めて思う。 巻末には、ギリシア神話を素材とした主要なオペラの一覧表がついている。

・ヒューゴー・ガーンズバック (中上守訳) 『ラルフ124C41+』(『世界SF全集 第4巻』〔早川書房、1971年〕 所収) 評価★★★ SFを扱っている2年生向けの演習で、学生の要望に基づいて読んでみたSF。 原作は1911年に書かれているので、今から1世紀も前の小説である。 現在では邦訳は新本では入手できず、調べたら新潟市立図書館で所蔵していたので借り出した。 上下2段組みで150ページほどである。 舞台は27世紀のニューヨーク、世界的な科学者であるラルフ124C41+が主人公。 この主人公の名は、未来世界においては人名に番号が付き、なおかつ特に優れた頭脳の持ち主 (地球全体で10名ほど) には最後に+が加えられる、という原理によっている。 そして卓越した科学者である主人公は、冒頭、遠く離れたスイスに住む若い女性の危機を科学力で救い、やがてそのお礼にと遠路はるばる訪れてきた彼女に最新の科学都市であるニューヨークを案内するうちに彼女と恋に・・・・・というような筋書きである。 何しろ1世紀前に書かれているので、今の目で見ると色々面白いところがある。 宇宙はエーテルに満ちているという説がそのまま取り入れられているし、フランスとニューヨーク間には地下鉄 (!) が開通したばかりだし (この作品が出た時代には飛行機への信頼性が低かったからだろうか)、いったん死んだ人間を蘇生させる技術を開発する前段階として死んだ犬を蘇生させる手術を主人公は行うのだが、その際に犬の血管に子ヤギの血 (!) を流し込んでいるし・・・・・・とにかく、作者のいちおうもっともらしい科学的な記述と、今の科学技術や知識の水準から読んだ場合のギャップが結構あって、そこが非常に楽しい。 全体を通して感じられるのは、科学や科学者へのあっけらかんとした信頼で、第一次大戦前のアメリカ人ってすごく楽観的だったんだなあと痛感させられる。 でも、変に暗いSF (同じ授業でこの前に読んだ 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 など) よりこういう明るい作品のほうが私は好きだなあ。

・中山智香子 『経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀』(平凡社新書) 評価★★★☆ メインタイトルはいささかどぎついが、副題が内容をそのまま表現している。 著者は1964年生まれ、早稲田の大学院で経済学を学び、ウィーン大で博士号を取得、現在は東京外語大教授。 新自由主義がリーマンショックとなって世界経済に深刻な影響を及ぼして久しいし、また新自由主義経済のおかげで格差社会が出現してからもだいぶたっているわけだが、この事態を出現させた張本人であるミルトン・フリードマンの思想に対する批判を、フリードマン批判をこれまで行ってきた海外の学者を紹介しながら敢行した本である。 その際に、フリードマン主義で固まったアメリカの、特にシカゴ学派が、いかにフリードマンの思想に合わない学者を排除してきたかという、経済学における政治の諸相が明らかにされているところが面白い。 またフリードマンの思想は、アメリカが南米の経済に介入するときの武器にもなっており、それは最終的にはアメリカの大企業が南米を牛耳ることにつながっているという。 世界銀行も途上国の開発などにフリードマンの思想をそのまま採用していて、こうなると経済学の学派というのは一種の権力になってしまい、純粋な学問ではなくなっているという実態が見えてくるだろう。  著者は章ごとに、スティグリッツ、アンドレ・グンダー・フランク、ガルブレイス、ドラッカーなどの思想を紹介しつつ、フリードマンの思想の問題点を明らかにしようとしている。  なかなかの力作だが、私が経済学にうといせいか、読んでいてよく分からない部分も結構あった。 また、著者の書き方はやや軽く、アジっているような部分もあり、もう少し冷静に記述を進めて欲しいとも感じた。 しかしいずれにせよ、経済学や経済学者はそもそも何のためにある (いる) のかは焦眉の問題であり、この問題にアプローチしようとした著者の姿勢そのものは買いたい。

・小泉和子 (編) 『女中がいた昭和』(河出書房新社) 評価★★★☆ 今時はよほどの富豪でないと女中を雇っている家なんか日本にはないだろうけど、むかし、昭和30年代までは中流の家庭でも女中を雇っていたものである。 というわけで、昭和初期から戦後20年くらいまでは珍しい存在ではなかった女中について書かれた本である。 「執事とメイド」 をテーマにした授業で英国の執事とメイドについての本を何冊か読んだ後、最後に何が読みたいかを学生に訊いたら日本のメイドについての本という希望が出たので、出版されて間もない本書を選んだもの。 昭和期の女中を、仕事の内容や待遇、性の問題、女中部屋、出身地 (新潟県は女中を多数首都圏や関西圏に送り出したので女中王国と言われたそうな)、などなど多方面から明らかにしようとしている。 敗戦直後の占領軍に仕えたメイドについても書かれているし、日本が朝鮮半島を支配していた時代の朝鮮人女中についての章もある。 ただし朝鮮についての章は、韓国人が執筆を担当しているせいか、歴史認識などにやや問題がある。 

・武田知弘 『税金は金持ちから取れ 富裕税を導入すれば、消費税はいらない』(金曜日) 評価★★★★ タイトルどおりの本である。 要するに金持ちや内部留保金を増やしている大企業から税金を多く取れば日本の財政赤字は解消するし、また消費税の増税は不要になると、きわめて明快に主張している。 著者は西南学院大中退で、大蔵省 (現・財務省) のノンキャリ官僚をしていた経験があり、現在はフリーのジャーナリスト。  冒頭、トヨタ自動車社長の実質税負担率は労働者より低い、という衝撃的な指摘がある。 トヨタ社長の年収は3億4千万円だが、所得税負担率は約15パーセントであるけれども、住民税と社会保険料との負担を加えると、実質税負担率は20,7パーセントになる。 これに対して、年収430万円のサラリーマンの所得税負担率は4,3パーセントだが、住民税と社会保険料を加えると実質税負担率は34,6パーセントとなる。 つまり、トヨタ社長よりもサラリーマンの税負担率のほうが圧倒的に高いわけだ。 なぜこうなるのかというと、まず社会保険料は上限があるので、高額所得者はパーセンテージで言うと少ししか負担しなくて済むこと、そして高額所得者は株などからの配当金が収入の多くを占めるが、株配当金への課税は額に関係なく一律10パーセントだけだから、高額所得者ほど税負担は少なくて済むことになるのだ。  そして本書は、こういう金持ち優遇政策が小泉・竹中のコンビによって日本に導入されたものであり、それ以前は高額所得者への課税はもっと厳しかったこと、よくヨーロッパ先進国は消費税が高いと言われるが、生活保護などのために多くの税金を使っているのに対し、日本はヨーロッパは言うまでもなく、アメリカと比べてすら生活保護などへの支出が極端に少ない国であることを指摘している。 竹中がいかに経済学者としてダメであるかが、本書を読むと明快に分かるし、また金持ちへの課税強化は緊急の課題だと納得できる。 官僚をバッシングして憂さを晴らしている下流の人々は、本書を読んで真実に目覚めましょう。

・田中利幸 『空の戦争史』(講談社現代新書) 評価★★★★☆ 2008年に出た新書。 出てまもなくBOOKOFFにて半額購入したのだが、ずっとツンドクになっており、ようやく最近読んでみたところ、もっと早く読めばよかったと後悔。 非常にすぐれた本である。 著者はオーストラリアで博士号を取得したあと当地の大学に勤務し、現在は広島県立大学教授。    空爆は第二次大戦期に原爆投下や、原爆以外でも大空襲が各地で行われ多数の犠牲者を出したが、その歴史と論理を綿密にたどっている。 そもそも気球が発明されたころから空からの爆弾投下という発想があったこと、第一次大戦が勃発して飛行機が戦争に本格的に使われるようになり、大戦が始まった頃に比較して終わり頃には飛行機などへの投資が飛躍的に増えたこと、しかし空爆は非戦闘員へのダメージが大きいゆえに国際的に規制しようという動きもあったが結局は失敗に終わったこと、軍需工場があるから空爆するという論理が使われるが実際は非戦闘員の犠牲者が圧倒的に多いのが空爆であること、その空爆を行う論理としては、空爆により敵国へダメージを与えれば戦意を喪失させることにつながり結果的には戦争が早く終わるから犠牲者が少なくて済むという言い分が使われたが (日本への原爆投下もこの論理ですね)、これは実態にまったく合わないこと、などなどがさまざまな資料を駆使しつつ説得的に分かりやすく説明されている。  また、空爆は技術が開発された当初はヨーロッパ宗主国が植民地の現地人の反乱を抑圧するためにもしばしば使われており、チャーチルは第二次大戦中は敵国への空爆については (同様の戦術が連合国側にはねかえってくるということもあり) 慎重だったが、それ以前の植民地相時代には英国が植民地の反乱を収めるのに空爆を用いることには積極的であり、またその際の言説からかなり人種差別的な人間だったと分かる。 そういう、植民地統治の手段としての空爆についての記述も貴重な書物である。

・トルーマン・カポーティ (村上春樹訳) 『ティファニーで朝食を』(新潮文庫) 評価★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 私も初めて読んでみた。 表題作は、オードリー・ヘップバーン主演の映画で有名だが、解説で村上春樹も書いているように映画と原作は別物。 原作でのヒロインはかなり野性的というか、はちゃめちゃな女で、まあそこが面白いということなのだろうけれど。 ただ、フィッツジェラルドなんかもそうだが、私はこの手のアメリカ文学にはどうも馴染めない人間なので、評価は辛くなる。 表題作以外に、『花盛りの家』『ダイアモンドのギター』『クリスマスの思い出』 の3短篇を収録。  村上春樹の訳は悪くはないが、読んでいてよく分からない箇所が時々あり、もう少し注を親切につけたほうがいいと思った。 『花盛りの家』 では、冒頭にポルトー・プランスという地名が出てくるが、授業ではレポーター役の教育学部の学生がこの地名を調べてこなかったので叱りつけておいたのだけれど (舞台がハイチだってことが分からないと作品の理解も浅くなる)、これがハイチの首都だと知っている日本人はあまりいないと思うから、注をつけておくべきじゃないか。  あと、『ダイアモンドのギター』 では、「もやった朝の森を抜けていく囚人たち」 なんて訳文があるけど (226ページ)、「もやう」 という動詞を 「もやが出る」 という意味だと勘違いしているらしい。 言うまでもなく、「もやう」 は 「船を繋留する」 という意味にしかならない。 まあ誰にでもこの種の勘違いはあるけれど、それを補完するのが編集者の役目なはずで、新潮社の編集者はちゃんと仕事をしていないんじゃないかと疑われる。

【訂正】 上で、「もやう」 には 「船を繋留する」 という意味しかないと記しましたが、その後、ある方から、講談社の 『日本語大辞典』 には 「もやが出る」 という意味も載っているというご指摘をいただきました。 調べてみたところ、同辞典の第二版には 「もやう」 「もやる」 と二つの動詞にいずれも 「もやが出る」 という意味が載っています。 また他の辞書にも当たってみましたが、三省堂の 『大辞林 第二版』 と小学館の 『日本国語大辞典 第二版』 では、「もやう」 は 「船を繋留する」 の意味のみですが、 「もやる」 は 「もやが出る」 という意味であると書かれています。 岩波書店の 『広辞苑 第二版』 には 「もやが出る」 という意味では 「もやる」 も 「もやう」 もありません。  当方は三省堂の 『新明解国語辞典 第三版』 のみで判断して上記のように記述しましたが、このように 「もやが出る」 という意味を載せた辞書もありますので、訂正いたします。 (2013,2,4)

・コリン・P・A・ジョーンズ 『アメリカが劣化した本当の理由』(新潮新書) 評価★★★★ 著者は1965年アメリカ生まれ、カリフォルニア大学を出た後、東北大大学院で学び、その後アメリカのデューク大学ロースクールを修了したという経歴。 現在は同志社大法科大学院の教授。 本書のタイトルはいささか扇情的だが、アメリカという国のなりたちを、正統的とされる教科書的な記述によってではなく、裏事情をも含めて、また英国との関係にも留意しつつ描いたもの。 タテマエじゃなくホンネの歴史、或いは、奇麗事じゃない歴史、という感じの書物である。 しかしロースクールを出た人の本だけあって、内容的にはしっかりしており、教えられるところが多く、連邦と州との関係だとか、米国憲法の欠陥や矛盾だとか、最高裁判事の質だとか、興味深い記述が続くので、読み始めたらやめられないというくらいに面白い。 ただ最後のあたりはやや細かい法律論になっていて、ちょっと失速気味かなと思えるのが惜しい。

・中野剛志 『官僚の反逆』(幻冬舎新書) 評価★★☆ 最近たくさん本を出している論客の新書本だが、私はこの人の本を読むのは初めてである。 で、一読、あんまり中身が濃くないかな、と思った。 もしかすると売れっ子なので書きすぎているのかも知れないが、この人の他の本を読んだことがないので、もしかすると他の著書もこんな風なのかも知れない。 要するに著者は、グローバル化によって官僚制化が世界的に進展しているということを、それに批判的な立場から論じているのである。 その際に使われるのはマックス・ウェーバーの官僚論とオルテガの大衆論である。 タイトルはオルテガの 『大衆の反逆』 のパロディらしい。 ミルトン・フリードマンなどの新自由主義的な経済学は破綻しているとし、またその経済学に拠っているIMFの途上国政策も誤りであるとし、逆にケインズを擁護する。 また、日本において官僚主導の政治が行われてきたという説は、少なくとも近年に関しては当たっておらず、むしろ政治家主導と見るべきだとしている。 政治家主導なら官僚制化が進んでいるという主張とは正反対のような気がするんだけど、著者によればそれは政治家の官僚化なのだそうだ。 この辺の論旨が、ちょっと混乱しているような気がしますけどね。

・櫻井正一郎 『女王陛下は海賊だった 私掠で戦ったイギリス』(ミネルヴァ書房) 評価★★☆ 著者は1936年生まれで京大教授を務めた人。 イギリスのエリザベス1世女王 (現在のイギリス女王はエリザベス2世) は、しばしば後代の大英帝国繁栄の基礎を築いた国王とされている。 しかし、実際のところは当時のイギリスは海賊国家であり、スペインやポルトガルなどの船を襲って財宝を掠奪 (略奪) して富を蓄積していったのであり、この富を基にしてインドなどへの投資と帝国主義的な侵略行為がなされていったのだという、それ自体は最近は他の歴史家も言及している事実を、西洋の歴史家だけに頼るのではなく自らの調査研究をも含めて論述した著作である。 要するにタイトルにあるように、エリザベス1世女王は海賊行為を容認していたし、場合によっては海賊船に自ら出資していたし、またそれで得られた富をかなりあくどく自分のものにしていたということである。 また、過去のイギリスの歴史家がこのあたりの事情を奇妙に英雄化して論述していたという、歴史学の歴史も語られている。 ・・・・・というわけで内容的には重要で注目に値する本なのではあるが、点数が低いのは、論述のしかたがごたごたしており、少なくとも専門家でない人間が通読するのには向いていないという理由からである。 また、構成がまずく、最初に述べていたことを後から再度詳細にわたって繰り返したりするようなところもあって、どうも著者は一般人向けの本を書く能力がないみたい。 シロウトは、せいぜい前半の第1部だけ読んでおけば足りると思う。 

・ステファン・ディルセー (池端次郎訳) 『大学史 (上・下)』(東洋館出版社) 評価★★★★☆ 邦訳は1988年に出版されているが、原著はフランスで1935年に出ている。 2巻あわせて1200ページもあって、私も通読はしておらず、必要があって借りて拾い読みしただけなのだが、ヨーロッパの大学の歴史を、古代の学校制度から始めて19世紀に至るまでを叙述した本である。 宗教的な縛り、時代ごとの思潮、お上と大学人との関係、学内に見られた民族間の確執など、多方面から地域ごとの差異を考慮しつつ記述がなされており、大学の本質や歴史について考えたい人には必読書であろう。 人名と地名それぞれに索引もついているので、調べ物にも便利。  

・三浦雅士 『バレエ入門』(新書館) 評価★★★★ 2000年に出た本。 先日、「バレエに生きる」 という映画を見て、バレエも面白そうだなと思い、しかしワタシはバレエの生舞台というと 「白鳥の湖」 を一回見ただけというシロウトなので、少し勉強しようと考えて本書を新潟市立図書館から借りてきた――以前なら買っていたんだが、大震災に伴う給与削減で最近金欠病なので借り物が増えている。 それはさておき、この本、新潟大学図書館には置いてなかったのだけれど、なかなかの名著だから置くようにしなくちゃいけないな。 バレエの歴史や基本をひととおり書いているだけでなく、クラシック音楽およびオペラとの関係から説き起こしているので、西洋の舞台文化そのものを理解するのにも役に立つという優れものなのである。 イタリアからフランスへ、フランスからロシアへというバレエ中心地の変遷が面白い。 バレエは生で見なければ分からない、バレエではダンサーこそすべてである、といった指摘も貴重。 近年のバレエ・ダンサーは昔の人より技術的にははるかに上で、昔なら奇跡的な名技とされたものを、今ならバレエ・スクールの少しまともな生徒なら普通にやってしまうのだそうである。 これはクラシック音楽だとか、或いはオリンピックの体操競技なんかにも言えることだと思う。 「伝説の名演奏家・名選手」 なんて言っても、実は今の演奏家や選手のほうが技倆的に上なのである。 というわけできわめて有用な本。 ただ、歴史的なダンサーの名だとか技術用語について、最初にきちんと説明するのではなく、いったん出してしまって後から説明するようなところが割りに多いのが欠点か。 あと、「『魔笛』 はドイツ語で歌われた最初のオペラですが」 (79ページ) ってのは、ちょいと困りますね。 クラシック音楽ファンなら知るとおり、『魔笛』 はドイツに以前からあったジングシュピール (歌芝居) で、イタリア語のオペラ・セリアやオペラ・ブッファなどとは当時は区別されており、ジングシュピールをモーツァルトはそれ以前にもいくつも (例えば 『後宮からの誘拐』) 作曲しているのである。 なお、同じ 『バレエ入門』 というタイトルの川路明の書いた本も借りてきたんだけれど、こちらは技術説明だけで、バレエを習う人のための本だから、私のように鑑賞だけの人間には不向きである。

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