音楽雑記2006年(1)

                                        音楽のページ              →トップページ

   音楽雑記2006年の6月〜10月はこちらを、11月以降はこちらをごらん下さい。

 

5月29日(月) 生協の書籍部をのぞいていたら、高田里恵子さんの 『文学部をめぐる病い』 がちくま文庫となって出ているのに気づいた。

 この本が数年前に松籟社から出たとき、私はすぐに買って読み、あまりの面白さに感激して著者あてに 「まことに面白うございました」 というメールを送ってしまったほどである。 面識のない女の人に、いくら同じ独文学者だとはいっても、ふつう私はそういう真似はしないのだが、この時ばかりは例外であった。 (高田さんからは丁寧な返信をいただいた。) 未読の人は、是非読んでおくように。 日本人ドイツ文学者が一般向けに書いた本として、池田浩士 『ファシズムと文学』 および西尾幹二 『ニーチェ』 と並ぶ名著だと私は評価している。

 ところで、この本がハードカバーで出たとき、朝日新聞に書評を書いていたのが、斉藤美奈子である。 私はその書評を読んで、ズレているな、と思った。 旧世代の男性学者を批判する書物、としか受け取っていない。 読めていないのである。

 その斉藤美奈子が、今回の文庫化に当たって解説を書いている。 見てみると、今回読み直してみて著者である高田さんの筆鋒は過去の男性学者だけに向けられているのではなく自分自身にも向けられているのではないかと気づいた、という意味のことを書いている。 やっと分かったのですか? 鈍いよねえ。

 また斉藤は、自分の年代でも文学部に行ってドイツ文学を専攻するなんてのはダサい人間のやることだった、と書いている。 この人いくつなのかなあ、と思って後で調べたら、「1956年新潟市生まれ。 成城大学経済学部卒業」 だそうである。 なんだ、ワタシより4歳若いだけではないか。 まあ、先端的な流行をキャッチするのだけは得意なタイプなのかも知れない。

 いや、別段独文専攻が格好いいと抗弁したいわけではない。 ただ、世の中には、先端的なファッションだとかカッコよさに鈍感な人間というものも一定数いるわけであって、そういう人間がいることによって世界は成り立っている、とワタシは思っているので、斉藤美奈子ってのはその辺の事情が分からない人なんだろうなあ、と考えただけである。 例えて言えば、或る伝染病に体質的にかかりやすい人間とかかりにくい人間がいることによって、人類は生き延びてきたのだ、というようなことですね。 そういう事情が分からない人間ってのも、これまた一定数いるわけです。

 念のため付け足せば、ドイツ文学者やドイツ語教師が皆先端的な流行に左右されない、ということではない。 実はものすごく左右されてしまう人間も結構含まれている。 が、その点については、また別途。

 なお、一昨々年に新潟大学に集中講義に来られたフランス文学者・酒井健先生の 『ゴシックとは何か』 も同時にちくま文庫から出た。 これは以前は講談社現代新書から出ていたもので、ハードカバーが文庫になるのなら分かるけれど、新書が文庫になるというのがどういう事情によるものなのか、ワタシにはよく分からない。 しかしこれも名著であるから、未読の人は読んでおくように。

5月28日(日) 午後5時からりゅーとぴあコンサートホールにて東京交響楽団第36回新潟定期演奏会を聴く。 ドミトリ・キタエンコの指揮、川久保賜紀のヴァイオリンで、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番と交響曲第7番「レニングラード」という長大なプログラム。 アンコールはなかったが、20分の休憩をはさんで終演が7時35分ころだった。

 私としてはどちらも生では初めて聴く曲である。 というか、CDでもさほど聴き馴染んではいない。 だからあまり責任のある評価はできないのだけれど、川久保さんのヴァイオリン独奏はきわめて堅実で、小さな音と大きな音の使い分けが巧みであり、なおかつバックは第1ヴァイオリンが14人 (かな?) という、協奏曲としては大きめの編成にもかかわらず音がオーケストラに埋もれないのは、実力の現れであろう。

 交響曲の方は、ホルンが9人、トランペットとトロンボーンが各6人というすごい編成で、これでもかという演奏に、参りました。 でも私は、ショスタコーヴィチというのは、どうも好きになれないんですけれどね。

 何にしてもこういうプロは新潟市では東響定期でないと聴けないので、まあ堪能したと言っていいでしょう。 入りは最近と変わらず、3階席がもう少し埋まるといいんだけれどなあ。

 終演後、長岡から聴きに来たブリチョフさんとAkiraくんを新潟駅までクルマで送りました。

5月27日(土) 午後7時から、音楽文化会館ホールで新潟室内合奏団第51回演奏会を聴く。 指揮は高橋裕之、チェロ独奏は渡辺靖子で、プログラムは、プロコフィエフ: 古典交響曲、グノー: 小交響曲、ボッケリーニ: チェロ協奏曲ト長調、ビゼー: 交響曲第1番。

 この団体もアマチュアながら前回は弦の精度が高くなかなかだと思わせたが、今回は最初のプロコフィエフでは弦が粗く、あれ、昔のレベルに戻ったか、と思わせた。 しかし最後のビゼーでは悪くないアンサンブルを聴かせてくれた。

 途中のグノーとボッケリーニは初めて聴く曲だったが、グノーは管楽器のみ9人による演奏でプログラムに変化をつけるのに恰好、ボッケリーニは独奏の渡辺さんが朗々たる響きでゆったりと旋律を歌わせていた。 ただ、テクニックが表に出る曲ではないので、そういう面では少し物足りない感じもした。

 今回は550人のホールに8割程度の入りと、客も多く、団員も力が入ったのではないか。 次回の演奏会にも期待したい。     

5月26日(金)  午後6時30分から、だいしホールで 「チャリティ トリオ・コンサート (社団法人大学婦人協会新潟支部奨学金事業支援のための)」 を聴く。 出演は、井上静香(Vn)、多賀谷祐輔(Pf)、辻本玲(Vc)という、若い演奏家3人。

  曲目は、ボッケリーニ: ヴァイオリンとチェロのためのソナタ ニ長調、コダーイ: ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲op.7、ブラームス: ピアノ三重奏曲第3番。 

 井上静香さんはかねてから聴きたいと思っていたヴァイオリニストである。 新潟市出身で桐朋学園大学および大学院卒業。 東京の紀尾井シンフォニエッタのシーズンメンバーにも入っている実力派である。 一昨年、新潟室内合奏団の演奏会で協奏曲を弾くのを聴くはずだったのに、風邪で聞き逃したということもあり、今回は楽しみにしていた。

 会場のだいしホールは8ないし9割くらいの入りか。 私は後ろから2列目で聴いたが、井上さんの音の輝かしさと迫力にまず驚かされた。 チェロの辻本氏も劣らず朗々とした音圧の高い響きを聴かせてくれる。 これはレベルの高い演奏会になりそうだ、という予感が最初からした。

 最初の2曲はいずれもヴァイオリンとチェロの2重奏という、ちょっと珍しい編成。 私も聴いたのは初めてだったが、古典的なボッケリーニも、現代曲風なコダーイも、いずれもケレン味なく弾ききる若い二人の演奏家は素晴らしかった。

 後半のブラームスも、ピアノが加わりはしたが演奏の密度はいささかも変わらず、世界的な著名演奏家の演奏を聴いたような充実感があった。

 最後にアンコールでグノーのアヴェ・マリアが弾かれてお開きとなったが、終わるのが惜しいような一夜だった。

5月22日(月) 本日の毎日新聞のコラム 「ダブルクリック」 に中島岳志が 「パール判事と平和憲法」 という一文を寄せている。

 インド人のパール判事は、東京裁判で被告人全員の無罪を主張したことで知られている。

 中島氏の論旨は、日本の保守系メディアはパール判事の都合のいい部分だけを利用していると批判するものだ。 パール判事はしかし南京虐殺を事実と認定したし、フィリピンでの日本軍の残虐行為を厳しく批判したし、また米国の原爆投下をも批判し、1952年に再来日したときには平和憲法の死守と再軍備反対を説いた、彼はカンディーの非暴力主義の信奉者だった、と指摘する。 そして、保守系メディアはパール判事の都合のいい部分だけを利用するのではなく、彼のそうしたメッセージと真摯に向かい合って欲しい、という。

 うーん、やや無理目な主張ではないか。 人間、だれだって昔の人間を利用するときは都合のいい部分だけを利用するに決まっているのである。 例えば我々はニュートン力学をふだん利用しながら生きている。 しかし、そのニュートンが晩年は錬金術に凝っていたことも、これまた周知の事実である。

 「ニュートン力学だけを利用するのは、彼の都合のいいところだけを取り出すことでイケマセン。 ニュートン力学に頼って生きているわれわれは、彼の錬金術をも真摯に受け止めましょう」 なんて理屈が成り立つだろうか? 成り立つわけはないのである。

 そもそも、逆に考えるなら、左派系が平和憲法を守れと主張するときにパール判事の名前を出しているだろうか? 出してはいまい。 それは、彼が東京裁判で日本人側を無罪と主張した人間であり、「日本人は戦争犯罪をいつまでも反省しろ」 という左派系の主張にとって都合が悪い存在だからだ。 だから、左派だって保守と同じ穴のムジナなのである。

 とはいえ、私は中島氏のコラムが無価値だと言いたいのでは必ずしもない。

 私もパール判事がどういう人なのか良く知らなかったので、中島氏の文章で、なるほどそういう人だったのか、と思ったのである。 人間の全体像は、当然ながら後世から見えやすい部分と見えにくい部分とがある。 後世にとって都合のいい部分もあればそうでない部分もある。 人間とはそうしたものだ。

 都合のいいところだけを取り出して利用する輩も、都合の悪い部分があるから全体を無視する輩も、世の中にはいるだろう。 中島氏に期待したいのは、そうした政治屋に惑わされずに、パール判事の本格的な伝記を書くことだ。 人間は学者として生きている時だけ、そうした伝記を書くことができる。 現世から見て分かりやすいところも分かりにくいところも含む過去の人間の全体像を捉える伝記を。

 中島氏はすでに 『中村屋のボース』 で複数の賞を得ている人である。 私は各方面で評価の高いこの本を買いはしたのだが、まだ読んでいない。 しかし、中村氏にパール判事の伝記をものする力量があることは、疑わない。

5月21日(日) 本日、愛車の走行距離が10万キロに達した。 購入して8年2カ月余りだから、1カ月あたり千キロ強走っていることになる。 まあ、きょうび地方都市の住人はこういう生活をしているということでしょうね。

 10万キロ走っても愛車は好調である。 季節のいい時ならリッター16キロ走る。 1,8Lのセダンでこの値だから自慢していいだろう (ただしマニュアル)。 最低あと3年、できたら5年、うまくいったら7年使おうと考えているのである。 

 さて、そのクルマで出かけてアンサンブル・オビリー室内楽演奏会を、本日午後2時から聴いてきた。 会場は旧・白根市 (現・新潟市) の白根学習館内にあるラスペックホール。 私は初めて行ったのだが、多目的ホールで、約300の座席はほぼ満席。

 ヴァイオリン=佐々木将公、クラリネット=広瀬寿美、チェロ=片野大輔、ピアノ=山家慶子という県内在住演奏家による団体である。 かつてのメンバー牧田由起さんが抜けたのは残念至極だが、私としては室内楽では初めて聴く佐々木さんに興味があった。

 プログラムは、前半がパッヘルベルのカノン(Vn、Vc、Pf)、サン=サーンスの「白鳥」(Vc、Pf)、マスネの「タイスの瞑想曲」(Vn、Pf)、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第5番「幽霊」。後半がシュライナーの「だんだん小さく」(Cl、Pf)、ブラームスのクラリネット三重奏曲、「アメージング・グレース」 「花(嘉納庄吉)」 「涙そうそう」 (以上、Vn、Vc、Cl、Pf)。

 片野氏の解説を交えながらのコンサート。メインの2曲はそれなりの演奏だったと思うが、チェロの片野氏は (以前聴いたときも感じたことだが) どうも音の通りがよくない。 朗々と、という形容詞の付くような音にはかなり遠いと言わざるを得ない。

 ヴァイオリンの佐々木氏は悪くない演奏だったが、タイスの瞑想曲などはもっと情感を込めて歌って欲しいところ。 少し杓子定規な印象が。

 クラリネットの広瀬さんは、「だんだん小さく」 で喝采を浴びた。 私も初めて聴く曲だったが、曲名はハイドンの 「告別」 交響曲みたいに音がだんだん小さくなっていくことを言っているのかなと思っていたら、クラリネット自体を管の途中からはずしていってだんだん小さくして演奏する、という意味であった。 クラリネットが5つの部品に分かれてしまう、ということを演奏しながら示すという趣向。 こんな曲があるとは知らなかった。

 最後に4人でアンコール2曲をやって、なごやかな締めくくりとなった。

5月19日(金) 拙著 『若きマン兄弟の確執』 を送ってあげた人2人から礼状が来る。 送ってから1カ月余り経過しているが、いずれもきちんと読んだ上での礼状なので、うれしく拝読した。

 しかし、そのうち一人は入院中だとのことで、現住所が病院になっていた。 何でも拙著を受け取った直後に入院し、迷ったけれど拙著を携えて病院に居を移して2度読んだとのこと。 ありがたいことではあるが、なまじ拙著を読んだために回復が遅れはしないかと心配になった(笑)。 念のため、私と同年の人だから、まだ寿命というには早い。

5月18日(木) 本田由紀という社会学者がいる。 私は小谷野敦氏が某所で批判していたので名前を知ったのであるが、そのブログに下記のような記述があった (本年3/27)。

 http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/?of=20 

 今日の朝日新聞8面における柳井晴夫・大学入試センター研究開発部教授の談話より。

 ===================================

 …大学にうまく適応できず、学習意欲が低下している学生に多いのは、「学歴」「周囲の勧め」を重視して大学を選んだというタイプだ。 この点は、高校の進路指導の方法に問題がある。関心があるのは、難関校に何人が合格したか、という実績だけ。その大学のその学部に進むと、どんな勉強ができるか、将来どんな分野に進みやすいか、といった知識や関心が、高校の教員に欠けている点が問題だ。

 学習意欲の高低は、学部によって大きな差がある。 医、歯、保健・看護といった学部の学生は、意欲的に学習に取り組む傾向が強い。 逆に経済・商、工などの学部の学生は、意欲を失う場合が多い。

 前者には在学中から卒業後の進路が明確に示されているが、後者にはそれが示されにくい点が大きく影響している。 大学の学習でどんな能力・スキルを身につければ、社会でどのように役に立つのかを、きっちりと学生に示せるか。 この点の出来不出来が、学生の学習意欲を引き出し、ひいては学力の向上に導くことができるかどうかのカギを握っている。(中略)

 学びたいテーマと講義内容の食い違い、学生のニーズについての教員の無理解が、学習意欲を低下させる大きな理由だ。 大学の教員には、学生の学力低下を嘆く前に、もっとできることがある。 一方通行型の講義を、学生からの質問や討論を織り交ぜたゼミ形式の授業に改めるとか、学生の欲するテーマを把握して講義を組み立てるとか、まだまだ工夫はできるはずだ。

===================================

 上記の中の太字部分は、私が考える「教育のレリバンス」ということによく合致している。

今までそれに取り組まないままやり過ごされてきたともいえるこの側面にどう取り組んでゆくか。それは政策側による大まかなモデルの提示と、教育の現場における日々の工夫や実践との往復作業によって、地道に試行錯誤を繰り返してゆくことでしか達成されえない。重要なのは、その方向に進もうとするベクトルなのだ。

  うーん・・・・、社会学者ってものの、思考力の限界を痛感させられる文章ですね。

 いや、ブログなので当然ながらこういう実用主義的な (社会学者は別の言い方――システム論的だとか――をするのかもしれないが) 見方には読者から異論が出ている。

 ある人から、『私は大学で哲学を専攻しました。 その場合、「教育のレリバンス」 はどのようなものになるんでしょうか? あと国文とか。』 という異論がちゃんと出るべくして出ている。

 それに対して本田氏はどう答えているか。

 『哲学や国文でも、たとえばその学部・学科を出られた方がどんな仕事や活動に従事しており、学んだ内容がそれらの将来にいかなる形で直接・間接に関連しうるのかを強く意識した教育を提供することはできると思うのです。 それと同時に、ある分野に関するメタレベルの認識を与えることが教育において常に意識される必要があると思います。 たとえば国文ならば、文学や 「言葉」 とは人間にとっていかなる意味をもっているのか、それを紡ぎ出す出版や編集、マスメディアの世界にはどのような意義と陥穽があるのか、といったようなことです。 いずれにしても、今を生きる人間の生身の生にかかわらせることなく、ただ特定の知識を飲み込め、というスタンスで教育がなされることには問題があると思います。』

 まず、大学の哲学だとか国文だとかを出て、特定の企業だとか業種に就くという前提がなければこういう答えはできないと思うのだが、本田氏にはそういう認識がないのではないか。

 そもそも、大学で学んだ知識が就職してからどういう風に役立つか、ということが要領よくまとめられる、と思っている時点で、すでにアウトだと私は思う。 そんなことは千差万別だし、また時代の流れにより、1960年には妥当だったことでも90年には妥当ではなくなっていて当然なのだ。

 人間には、未来は見えないものだ。 見えない不安はだれにでもある。 私だって学生時代独文なんかを専攻していて不安がなかったと言えばウソになる。 

 しかし人間はそういう不安を抱え、それと闘いながらでなければ生きていくことはできない。 どんな職種を選ぼうとそういうことはつきまとう。

 私が学生の頃だと、銀行が、それも長銀や拓銀みたいな大手の銀行がつぶれるなんてことはあり得ない、と思われていた。 しかし実際はどうだったかは言うまでもない。 未来は見通せない。 特定の知識や技術が社会に出てどう役立つか、そんなことが簡単に言えるはずがない。 言えたとしても、そんな知識は5年で役立たなくなるかもしれないのだ。 その時点で抗議が来たら、本田氏はどうするのだろうか?

 あまり書くとまた小谷野敦氏からご本人に通報が行くかも知れないので、今日はこの辺で・・・・・(笑)。

5月17日(水) ネットサーフィンをしていたら、偶然、古典エッセイストの大塚ひかりさんがブログで私に言及していることに気づいた。

 2005-09-11 マダニ&学者の暴言  http://d.hatena.ne.jp/hikario/20050911 

●せっかくシバの話題に戻ったと安心してくれた人には申しわけないが、学者ついでにまた思い出してしまった。三浦淳という新潟大学の教授がHPでこんなことを。学生も見る大学のHPによくこんなことを書けるものだ。これも相手が私という学者でもない女だから言えるのだろう。「大塚ひかりとかいうバカ女」というフレーズは二重三重に屈辱的である。以下、三浦の文章である。

三浦淳読書月録2001年8月「・姫野カオルコ『ブスのくせに!』(新潮文庫) 評価★★ 肩の凝らないエッセイ集。 女性の容姿の問題などが話題の中心。 一読して、感想は「そうだよな」「違うんじゃないか」「さあ?」が混じり合っている。 「さあ?」というのは、芸能人ネタだと、その芸能人を知らない場合は何とも言えないので、ということであります。 「違うんじゃないか」の一例を挙げると、吉沢京子、菊池桃子、古手川祐子を著者は同系統としているけど、疑問。 古手川は『細雪』の映画で四女役を演じたが、吉沢や菊池だったらまず不可能でしょう。 そしてワタシは吉沢京子は好きだったけど、菊池には何も感じないし、古手川はむしろ嫌いなほう。 女に対する好みというのは、かくも微妙で不可解なものなのであります。 なお文庫本なので最後に大塚ひかりとかいうバカ女があらずもがなの解説を書いているが、紙の無駄使いはやめて欲しい。」

http://miura.k-server.org/newpage147.htm


● そりゃあね、この本の解説はアレだったかもしれない。しかし「こんなの書いてある」って人に教えられた時は頭がくらくらした。教えてくれた人は三浦氏にその後、「大塚さんの書いた本を読んでバカ女と言ってるんですか」と聞いてくれたそうで、その答えは「読んでない」だったそうだ。それで私のブス論を三浦氏に勧めてくれたそうだ。その後の三浦氏の読書月録には私の『ブス論』も載っている。

 「頭がくらくらした」 のは申し訳なかったと思うが、「相手が私という学者でもない女だから言えるのだろう」 というのは誤解ですよ、大塚さん。 

 相手が学者だろうと、男だろうと、そう思ったら思ったとおりに発言するのが私の性分なものでしてね。 口が悪いとか表現がきつい、ということを時々言われるんですが、持って生まれた性格なものでどうにも治らないのです。 下の5/12の書き込みを見ても分かるとおり、一応同類であるドイツ文学者にも私は遠慮会釈ない批判を投げつけているわけなので、相手の性別や職業での差別はしておりません。 その点だけは、ご理解いただきたい。

 ところで、大塚さんに私のサイトでの記述を 「教えて」 あげた人というのは、小谷野敦氏である。 氏もなかなかに親切な人だと改めて感心したことであった。

5月14日(日) 午後2時から、音楽文化会館で楽路歴程の第11回演奏会を聴く。 昨年春、しばらく充電期間をおくと宣言して1年ほどお休みしていた演奏会シリーズ。 そういうわけで今回は1年ぶりの演奏会。

 チラシには会場は音楽文化会館としか書いていなかったので、ホールかと思ったが、行ってみたら他の行事をやっている。 事務室前の表示を改めて見たところ、第13練習室とのこと。 チラシでの表記に問題があったのでは。

 で、第13練習室は満員。 ここは60人くらいが適切な収容人員だろうが、100人近く来ていた。 楽員は新たに椅子を運び入れるなど大わらわ。 パンフも足りなくなったようで、私のもらったのはコピーだった。 まあ、従来は30〜40人くらいの聴衆でやっていたわけだから、無理もないか。 でも従来は平日の夜だったけれど、今回は日曜日の午後だからね。 少し考えておくべきだったかも。

 プログラムはオール・バッハで、前半がコーヒー・カンタータとブランデンブルク協奏曲第5番、後半がトリオソナタBWV585とカンタータ 「深き淵より、われ汝に呼ばわる」。

 チェンバロが笠原恒則、ヴィオラ・ダ・ガンバが白澤亨、ヴァイオリンもしくはヴィオラが高橋美也子・太田玲奈・山田優花、フラウトトラヴェルソが細野聡子、バロックオーボエが藤原満、ソプラノが金泉晶子、メゾソプラノが金子里美、テノールが矢野伸治、バスが佐藤匠。

 コーヒー・カンタータは日本語訳でやったが、「深き淵より、われ汝に呼ばわる」 はドイツ語だった。 喜劇っぽい世俗カンタータと宗教カンタータの違いから、ということなのだろうが、ちょっと違和感が。 日本で歌うと、何となく安っぽく感じるのは、先入観からだろうか。

 演奏だが、今回ははっきり言って今ひとつ。 選曲が名作ばかりで、ふだんCDでプロの音楽家の演奏を聴く機会が多い曲だったこともあるかもしれない。 ちょっとアラが目立った。

 声楽陣はテノール、バス、メゾソプラノ、ソプラノ各一人だったが、一人一人の力量が露骨に出るわけで、バッハのカンタータがシロウトの手には負えないことが良く分かった、と言うと酷評すぎるかな。

 しかし千円とはいえ入場料をとっているわけだから、もう少しがんばってくれないと合格点には足りないのではないか。

5月13日(土) 午後5時から、りゅーとぴあ・コンサートホールで、アンドレス・セア・ガラン・オルガンリサイタルを聴く。 セア・ガランは1965年生まれのスペインのオルガニストで、ヨーロッパで広く活躍している人だという。

 プログラムは、ホセ・ヒメネス、フランシスコ・コレア・デ・アラウホ、パブロ・ブルーナ、ドメニコ・スカルラッティ、ファン・ホセ、ホセ・リドンといったスペイン17世紀から18世紀 (一部19世紀はじめにかかる) にかけてスペインで活躍した作曲家ばかり。 スカルラッティはイタリア人だが、スペインの宮廷で活動したから、ということだそうだ。

 前半が1時間もあって、やはりヨーロッパ人は体力があるなあ、と痛感。 後半は30分だが、途中休憩20分とアンコール2曲を合わせて2時間5分ほどの演奏会。 スペインのオルガン曲に浸りきった2時間だった。

 スカルラッティを別にすればふだん聴く機会のない曲ばかりだったが、とてもいい演奏会だった。 これからこの分野を勉強していきたいものだ。

 しかし、客の入りは良くない。 150人程度だろうか。 Nパックメイト (新潟市民芸術文化会館友の会会員) ならA席で1800円。 私もこの料金で聴いたが、これは先日 (4/15) やった新しいりゅーとぴあ専属オルガニストお披露目ワンコインコンサートの500円と比べてそんなに高くないし、演奏時間を考えれば同じくらいと言ってもいい。

 なのに、ワンコインは満席に近く、今回と比較して入りに差がありすぎる。 新潟市民には、せっかくのパイプオルガンを活かすような意識を求めたいものだ。

5月12日(金) 日本独文学会から会誌別冊 (2006年春号) が送られてくる。 6月に東京で行われる学会のプログラムも掲載されているが、今回は面白くなさそうなので、私はパスする予定である。

 それにしても、日本独文学会理事会の無能さは、私はこの10年間ほどずっとそう思ってきたが、治しようがないようだ。 付ける薬はない、という奴である。

 日本の大学では1994年前後の教養部解体以来、第二外国語の授業自体がどんどん減ってきているのに、有効な対応策を何一つ打てていないのである。 そもそも、自分たちが置かれている状況を把握する能力がないし、卑屈だからお上 (つまり文科省) にきちんとものを言っていく姿勢がまるでない。

 今回送られてきた別冊を見てもそれは歴然としている。 「あとがき」 にはこう書かれている。

 「今期の理事会はまたドイツ語教育およびドイツ語の普及も重要な課題を位置づけています。 今回の研究発表会の[ママ]おいて、理事会と教育部会の共同企画による 『ゲルマニスト以外の学生に1年間で何をどう教えるか? 教養教育でのドイツ語授業の意義と方法を考える』 というシンポジウムを開催するのもそのような意識の表れです。 みなさまの積極的な参加をお待ち申し上げております。」

 あのねぇ、「ゲルマニスト以外の学生に1年間で何をどう教えるか?」 って、それはかつて教養課程や教養部が確固として存在して、制度として第二外国語の授業がこれまた確固として開設されていた時代の発想でしょ? 「どう教えるか」 と言ったって、授業自体が存在しないなら、そういう問いかけをすること自体が無駄なのだよ。 事実、新潟大学ではこの10年間で第二外国語の授業は激減しているのだから。

 こういうことはちょっと考えてみれば分かることだ。 肝心なのは、第二外国語の授業数をいかに確保し守り、或いは増やしていくにはどうすればいいのかを政策論的に論じていくことなのである。

 なのに、独文学会理事会は、驚くべきことに、そういう発想が全然できないのである。

 今回理事会と共同で企画を行ったドイツ語教育部会も同じ穴のムジナである。 いつもやっているのは、今回の学会内容のような、授業の方法論であったり、ドイツ語教師養成法だったりする (ドイツ語教師の募集がほとんどなくなっているのに、何で教師養成法の話になるんでしょうね?)。 考える能力がそもそも欠如している、としか思えない。

 私は一昨年の春の学会でシンポジウム 「ドイツ語・第二外国語教育の危機とドイツ語教師の姿勢」 をやった際に、そういう意味のことをはっきり言った。 また、こういう時代の流れの中で、ドイツ語教師が実は第二外国語を裏切って、第二外国語つぶしに奔走している、という実態も明らかにした。

 (これについて知りたい方には、シンポの内容を冊子にした独文学会叢書 『ドイツ語・第二外国語教育の危機とドイツ語教師の姿勢』 の残部がまだ私の手元に若干ありますので、連絡いただければ無料でお送りします。)

 ところが、こういう本質的な議論をすることは、理事会にとってはタブーらしく、彼らは奇妙きてれつな声明を出したのである。 文科省の政策には文句一つ言えない臆病者たちは、一会員の発言や文章にはどうやら勇気が湧くらしい。

 そして今回の学会では、旧態依然、授業の方法論をやるという。 これを愚かと言わずして、何を愚かと言ったらいいのだろう? ちょっと思いつきませんね。

 もっとも、理事会は事態が本当に分かっていないかというと、実はもちろん分かっているのである。 上で引用した別冊の 「あとがき」 には、こういう箇所もある。

 「残念なことに 〔機関誌への〕 投稿論文の数が少なく、編集委員会では機関誌の質の確保に苦労されているようです。」

 「最近、勤務校を定年退職されるのを機に、独文学会を退会される方の数がとても増え、非常に心を痛めております。 先生方がこれまで積まれてきた学問上の英知や学会運営の知恵が継承されなければ、学会の活動が弱体化され、日本の学問の大きな損失になります。 どうぞ若輩への指導をこれまで以上にお願いする次第です。」

 要するに、勤務校を停年になってついでに学会もやめる会員がいる一方で、ドイツ語教師の口がないものだから新しい若い会員がなかなか入らず、じり貧状態になっているということなのである。 

 実際、独文学会会員は、2003年春から05年春までの2年間で80人あまり減っている。 2年間で3,5%の減。 今後、この傾向は加速こそすれ、鈍ったり増加に転じたりことはまずあるまい。 (なおこの点については、上記叢書 『ドイツ語・第二外国語教育の危機とドイツ語教師の姿勢』 で、栗山次郎先生が詳細な数字を挙げて論じておられる。)

 なぜなら、大学教員の大幅な世代交代はまだこれからだからだ。 いわゆる団塊の世代が定年退職の時期を迎えているということが社会的にも話題になっているが、大学の停年年齢はほとんどが65歳ないし70歳で、つまり一般企業や役所や中学高校教員より5ないし10年遅く設定されているから、大学教師の世界で団塊の世代が退職期を迎え始めるのは今から5、6年先なのである。

 その時期も来ていないのに、老人の知恵にすがらないと活動もできませんと泣き言を言うのでは、団塊の世代の大量退職の時代になったらいったいどうするのだろう? 

 要約すれば、独文学会では会員の健全な世代交代がすでになされなくなっている、ということをこの 「あとがき」 は暗に告白しているのだ。

 理事会の方々に直言したい。 なぜあなた方はこういう実態を直視し、それを基盤に据えたシンポができないのだろうか? なぜ政策論的な発想ができないのだろうか? いわば20年も昔の内容としか思われないシンポしかできないなら、いっそシンポなどやめたらどうだろうか。

 (以上の一文に、独文学会理事会や独文学会員からご意見・ご反論があれば、遠慮なくメールでお寄せ下さい。 ただし、文章が長いだとか表現がどうだとかいうような非本質的な言いがかりではなく、内容に関わる本質的なご意見に限ります。) 

5月10日(水) 1限、全学共通科目の西洋文学の講義を終えたら、学生が質問に来た。 ちょうど今授業で扱っている 『若きウェルテルの悩み』 で主人公がホメロスを読むシーンがあるが、ホメロスって何ですか、というのである。

 私は、ホメロスを読んだことのある学生はまあ余りいないだろうとは思っていたが、ホメロスの名前くらいは知っているだろうと (軽率にも) 考えていたので、講義では 「古代ギリシアの有名な叙事詩人ですよね」   くらいにしか触れていなかった。 いや、ホメロスを読むのは当時のドイツ社会にあって一部の知識人だけである、という点は力説しておいたが、ホメロス自体はほとんど説明抜きだったのだ。

 しかし、その学生はホメロスという名前自体を知らないのだった。 トロイア戦争は?と訊いたが、知らないと言う。 世界史は高校では取らなかったという。 困りますなあ、やっぱり世界史は必修にしてくれなくちゃ。

 色々訊いてみたが、『イリアス』 も 『オデュッセイア』 も聞いたことがない、アキレウスもオデュッセウスも全然耳にしたことがない、という。 シュリーマンは?と一縷の望みをかけて訊いたが、ダメだった。

 仕方がないので、一から簡単に説明し始めた。 すると、途中、「トロイの木馬」 で反応があった。 パソコンゲームに出てきたという。 ううむ。

 私は最後に、一昨年公開された映画 『トロイ』 を持ち出して、見てごらん、と薦めた。 アキレウス役をブラッド・ピットがやっているんだよ、と言ったら、ブラッド・ピットは知っているという。 ヘレネ役のダイアン・クルーガーもかろうじて知っているという。 ううむ。

 これを読んでいる他の学生も、ホメロスを知らないなら、映画 『トロイ』 を見るようお薦めしますね、はい。

 *   *   *   *   *

 午後、教授会。 推薦入試をなるべく平日にやるように、それができないなら、つまりどうしても土日にやらなければならないなら、代休を同じ週のうちに取れる範囲内でやりなさい、という本部からのお達しが来ているとのこと。

 普通、推薦入試は土日である。 推薦入試の時期は11月で、2・3月に行われる一般入試と違い、学校は期末休みに入っていないから、平日だと授業があって入試用の教室を確保するのが難しいし、監督などをやる教員にも自分の授業があり、休講にしなくてはならなくなる。 また、受験生にしても高校の授業を休んで受験しなくてはならなくなる。

 以上のような理由から、推薦入試を土日に設定するのは、きわめて合理的なことなのである。

 ところが、そういう合理的な理由を無視してなるべく平日にやれ、と本部は言ってきたわけだ。 なぜか? 

 カネがかかるからである。 この日記の3/6と4/13で報告したように、代休が取れない場合には手当を出さなければならないが (新潟大学は一度は出さないで済ませようとしたが、労働基準監督署から是正命令を受ける羽目になった)、出したくない、或いはカネがないから出せない、ということなのである。

 これを読んで、国立大学ともあろうものが何をやっているんだ、という印象を持たれた方も多いでしょう。 事実、事態はかなり喜劇的なのであるが、こういう喜劇が起こってしまうのが、独法化後の国立大学なのである。 ううむ・・・・。

5月3日(水) 本日、新潟日報の文化欄 (第11面) に、私の筆になる映画紹介記事 「映画 『白バラの祈り』 に寄せて」 が掲載された。 新潟日報を取っている方はご一読を。 取っていない方は、こちらからどうぞ。

 なお、この映画は東京ではすでに上映済みだが、新潟市では5月13日(土)から3週間、シネ・ウインドにて上映される。

 *   *   *   *

 さて、連休も本番である。 朝、自宅に電話がかかってきて、女房は娘と出かけると急に言い出した。 近くの山に行こうという話を知人としていたのが、本来は明日の予定だったのが、今日は天気がいいから急遽繰り上げることにしたのだという。

 本日の新潟は快晴。 しかし気温はあまり上がらなかったので、たしかに山登りには絶好かも知れない。

 というわけで女房と娘は朝からいなくなり、アキバ系の次男は本日ヨドバシカメラ新潟店で何かあるとかで、珍しく早朝からいなくなっている。

 ひとり取り残された私は、家にいるのもばかばかしくなり、映画を見に行くことに決めた。 シネ・ウインドで朝10時半からやっている 「二人日和」 である。 映画館は結構混んでいた。 連休というと、やはり人が出るものなんだろうか。

 そのあとりゅーとぴあのレストランで昼食にパスタを食べてから、市内の、自宅や職場からは比較的遠い場所にあるBOOKOFFを3軒回ってみた。 収穫は多くなく、本は1冊、CDが8枚 (うち6枚はセット物)。

 新潟市のBOOKOFFは、以前にも書いたが、クラシックCDに結構強気の値段をつけるので困る。 NAXOSが1000円だったりするのも困る。 もっと勉強しろ、と言いたくなる。

 ただし、本日回った3軒のうち1軒だけは、新潟市としては比較的正常な値付けで、NAXOSも750円だから、あくまで新潟市としてはだが、まともな方である。 ここで6枚セット2千円の外盤を見つけて買う。 中世のヨーロッパ音楽を時代を追って吹き込んだオムニバスものである。

 などなどしているうちに夕刻となり、自宅に帰ったら、女房と娘がすでに戻っており、山は人間が多く騒がしくて面白くなかった、とのことであった。 連休というと一斉にどこかに出かける日本人の習性が直らない限り、どうしようもないでしょうね。

5月2日(火) 本日、事務から以下のようなメールが送られてきた。

  教育支援経費を申請される教員の皆様へ

 すでにご存知のとおり教育支援経費の申請期日は5月11日(木)までとなっており、その後審査委員による審査を経て決定となりますが、
 決定までの間において実施(購入等)の必要があるものについては、次のとおり取り扱いますので、お知らせいたします。
 
 教育支援経費の決定を待たずに実施(購入等)しなければならない事項については、暫定的に事務部経費により執行することといたします。
 この場合、教育支援経費の申請書を提出していることが前提になりますので十分ご注意ください。

 また、審査の結果により不採択となった場合、あるいは全額採択とならなかった場合は、後日、部局の共通経費等により相当額をご負担いただく
 こととなりますので、その旨十二分にご留意いただきますようよろしくお願いいたします。

 国立大学は独法化されても全然良くなっていないことが、これを読むと分かりますね。

 このように、春先に授業で何かやりたい場合に間に合わない。 実は、私も一つ考えたことがあったのである。

 4月から2年生向けの基礎演習でグリム童話をやっているのだが、山梨県の河口湖美術館で現在、「グリム兄弟展」 をやっている。 できれば学生を連れて見に行きたいが、何しろ新潟から河口湖畔までは遠い。 交通費もかかる。

 こういう場合に申請してすぐにカネが降りるなら問題ないのだが、上のメールを読めば分かるように、そうなっていない。 この 「グリム兄弟展」 は5月21日限りだから、どう見ても間に合わない。

 といって、私がカネを立て替えておくわけにもいかない。 メールに書かれているように、採用されなかったら私の研究費からその分を引かれるし、独法化以降の研究費は従来の半分以下になっており、とてもじゃないが対応できないからだ。

 こうして、新潟大学の授業は首都圏に対してハンディを解消てきないまま続くのであり、残るのは研究費激減によって教師がろくに本も買えないし学会にも行けない、という情けない事態ばかりなのである。 どうするんでしょうね??

4月29日(土) 一昨日のことになるが、最近出た拙著 『若きマン兄弟の確執』 についてYY先生から感想が送られてきて、うれしく読ませていただいた。

 YY先生は以前は京都大学で、停年後は広島の私大でドイツ語を教えておられる方である。 日本人のゲルマニストとしては拙著以前には唯一のハインリヒ・マン研究書を公刊された方なので、うれしいだけでなく怖いという気持ちもあったが、幸いにして好意的な感想が述べられていたのでほっとした。

 YY先生は拙著を献呈した直後にもメールで礼状を下さり、反響があまりなくても落胆されませんよう、と書いてくださった。 先生ご自身が研究書を刊行された経験からであろう。 なにしろ日本人でハインリヒ・マンを読んでいる人はドイツ文学者の中にも余りいない。 したがって内容の善し悪しの判断がまともにできる人もごく少ないわけである。

 ちなみにYY先生の研究書が出た折りは、学会誌での書評は私が担当した。 それ以来、面識はないが、時々こうして連絡を下さるのである。

 YY先生のほかに、トーマス・マン日記の邦訳者として知られる元一橋大教授のMT先生と、私の師であるOH先生が読後感を書き送ってくださった。 こうしてみると、拙著を実際に読んで下さったのは、失礼ながらお年を召して本務校を停年退職された方ばかりである。 ううむ、ヒマがあるからか。 或いは、やはり高齢者は文学に対する打ち込み方が違うからなのか・・・・・。 

  *   *   *   *

 ところで拙著の話を続けると、新潟大学内では、某先生から、あとがきによくあのようなこと (下記) を書いてくれた、と感謝された。 実は、その箇所は、刊行助成を認めてくれた人文学部の研究推進委員会からは 「いかがなものか」 という穏やかな修正意見が付いたところなのだが、某先生は 「あのくらいのことを書けないようではダメですよ」 と言ってくださった。

 というわけで、せっかくだから、拙著のあとがきの該当箇所をここに再録しておこう。 拙著では1つの段落内に収まっているが、サイト内での読みやすさを考えて、段落を入れた。

 本書が、新潟大学人文学部から援助をいただいて研究叢書として刊行されること自体は、最近の 「大学改革」 の成果である。 そのプラス面は素直に評価しなくてはならないが、それだけでは済まない側面があることは書いておかねばならない。

  新潟大学における研究条件は教養部解体の頃から悪化の一途をだどっている。 そして国立大独法化によって研究費は激減し (従来の半分以下)、日本の国立大学は研究の場ではなくなりつつある。

  そもそもドイツ文学のような非実用的な基礎学問には恒常的な文献収集が欠かせないのに、プロジェクト方式が学内ですら大手を振ってまかり通っている現状では、まともな研究などできる道理もないのである。 十何年、或いは何十年という長い時間をかけて刊行される基本文献が、一年や二年といった短いスパンでしか認められないプロジェクト経費で購入できるはずがないからだ。

  例えばグリム・ドイツ語辞典である。 童話で有名なグリム兄弟が編纂を始めたこの辞書は、兄弟の死後沢山の学者によって仕事が連綿と受け継がれ、百年余りの年月をかけて一九六〇年に完成した。 しかしその間に内容の一部が古くなってしまっていたため、補巻が今なお刊行中である。

  そして、この補巻は以前は新潟大学では教養部のドイツ語教室共通経費で購入していたが、現在は私の半減した研究費で買っている。 私が退職したらどうなるか、誰も知らない。研究者ならこういう状態がおかしいと感じて当然なのであるが、そもそもが研究者である (はずの) 学長を初めとする大学上層部がその辺に無頓着なのは理解に苦しむ。 マスコミもこうした側面には知らん顔である。

4月28日(金) 2限、2年生向けの基礎演習。 ところがレポーター役の学生が2人とも現れない。 1人は20分ほど経ってから現れた。 電車が遅れたのだという。 こちらは後半担当だということもあり、罪は軽いが、前半担当の学生は結局授業が終わりかけた頃に現れた。 寝坊したという。

 この学生は最初の授業――つまり聴講票受付――の時も現れず、後で私の研究室に聴講票を出しに来た。 寝坊のためという。 懲りない奴は懲りないのである。

 夕方、万代シティのシネ・ウインドに映画を見に行く。 映画館はビルの一角にあるが、その隣りに入っていたお好み焼き屋がなくなって、カットハウスになってしまっていた。 残念。

 というのは、このお好み焼き屋に一度入ってみたいと思いながら、ついに入る機会がなかったからである。 お好み焼き屋というのは一人では入りにくい。 しかし映画を見に行くときは幸か不幸かいつも一人だから、毎回うまそうな匂いにつられながらも、ついに入らずじまいだったわけである。 うーむ、結ばれない運命の恋人と別れたような気分だ――というのは大げさかな。

4月27日(木) 午後7時から、だいしホールにホプキンソン・スミス=ビウエラ・リサイタルを聴きに行く。 スミスはリュート奏者として世界的に有名で、新潟にも2度来演し、私も2度とも聴いている。

 今回はビウエラという珍しい古楽器を弾くので、めったに聴けない楽器を聴こうという聴衆が押し掛けるか、と思いきや、定員300人のホールはほどほどの入り。 100人も入っていなかったのではないか。 うーん、新潟の古楽器愛好家は数が少ないのだ。 奏者は世界的な人だし、チケットも3000円だから安いと思うのですがね。

 ビウエラは、16世紀スペインの弦楽器で、ギターを少し小振りにしたような感じである。 前から6列目にすわったが、音が小さいからこのくらいの位置が正解であった。

 プログラムは、ルイス・ミラン、フランチェスコ・ダ・ミラノ、ルイス・デ・ナルバエス、アロンソ・ムダーラといった16世紀の作曲家たちの曲が20曲。 いずれも時間的には短いが、宮廷でのアンチームな雰囲気が想起され、悪くない演奏会であった。 アンコールを2曲やってお開きとなった。

4月26日(水) 1限、全学共通科目の西洋文学の講義。 この講義では出席は取らないが、私語をしたら教室から追い出すと決めている。 無論、シラバスにもそう書いてあるし、第1回目と第2回目 (つまり先週) の授業時にもその旨を言って聞かせてある。

 にもかかわらず、本日は最初から最後尾でおしゃべりしている男女がいたので、学部と氏名を言わせた上で追い出した。 例年、半年間授業をやると一組くらいはいるのだが、大抵は学期開始後2、3ヶ月たってからで、こんなに早く違反者が出たのは初めてである。

 私は親切だから、最初の説明時には私語をしないコツまで教えている。 実に簡単なことなのだ。 友人と並んですわらないこと、である。

 しかし、バカはこういう説明を聞いていないのか、聞いてもすぐに忘れてしまうのか、孤独に耐えられずいつも知っている人間と一緒にいないと気が済まないからなのか、本日のような真似をやらかすのである。 

 ちなみに教育学部の学生だった。 私の記憶では昨年度同様の例で追い出した学生も教育学部だったと思う。 全学共通科目だから色々の学部の学生が混じっているわけだが、どうも教育学部の学生は質に問題がありそうだ。

4月25日(火) 午後7時から、だいしホールでArs五重奏団の演奏会を聴く。 この春、桐朋音楽大学を卒業したヴァイオリニスト3人、チェリストとピアニスト各1人が結成した室内楽団で、そのヴァイオリニストの一人である枝並千花さんが新潟出身なので、東京に続いてこちらで演奏会が開かれたのである。 ちなみに枝並さんは2003年のミケランジェロ・アバド国際ヴァイオリン・コンクールで優勝している。

 前半は、各奏者がそれぞれ個人技を披露、後半でピアノ五重奏曲編成、という趣向。 前半は田代裕貴さん (Vn) がバルトークのラプソディ第1番作品87、武田芽衣さん (Vc) がカサドの 「親愛なる言葉」、斉藤吟思くん (Vn) がフランクのソナタ第4楽章、倉沢杏菜さん (Pf) がJ・シュトラウス (エヴラー編) のコンサート・アラベスク 「美しく青きドナウ」、そして枝並千花さん (Vn) がブラームスのソナタ第2番第1楽章。

 私としては、武田芽衣さんのチェロと斉藤吟思氏のヴァイオリンがよかった。 武田さんの演奏は細部まできちんと弾けていて、音もよく出ていた。 斉藤氏のヴァイオリンは、まず音が豊かですばらしい。 演奏も悪くないけれど、いちばん最後の重音 (というのかな?) に迫力がなく、ちょっとツメを誤った印象が残ったのが残念。

  枝並さんのヴァイオリンは、期待が大きかっただけに、やや問題含みの印象が。 ブラームスの2番は名曲で名演も多いからどうしても過去の名演奏家のディスクと比較してしまうが、解釈や細部の仕上げという点で満足のいく出来とは言えなかったように感じた。 音も、斉藤氏と比較して出ていない。

 後半は、桐朋音大で同級生だったという樋口佳菜子さんがこの団体のために作曲したという「5人の奏者のために――5人のさらなる精進と成長を祈念して捧げる曲」、そしてブラームスのピアノ五重奏曲全曲が演奏された。

 結成されたばかりということもあり、室内楽のまとまりとしてイマイチの感。 まだまだ独奏者が集まった演奏、という印象であった。 若い人たちの今後の精進に期待したい。

 このメンバーなら、ピアノ三重奏や四重奏、弦楽四重奏や三重奏などもできるだろうから、色々な曲種にチャレンジしてほしい。

4月23日(日) 昨日の産経新聞のコラム 「断」 に呉智英がおおよそこんなことを書いていた。

 フランスでは 「若者雇用制度」 が学生たちの大規模な反対運動で廃案となった。 すると、フランスの学生はたいしたものだ、日本の学生はそれに比べると怒りを忘れている、という単細胞反体制主義者の声が聞こえるようになった。

 今回のフランスの決定が若者にとっていいかどうか、長い目で見ないと分からないし、若者たちの怒りの表明は何もフランスだけの現象ではない。 最近では、インドネシアで 『プレイボーイ』 誌インドネシア版の発行に怒ったイスラム過激派の若者たちが抗議行動を起こしたし、1990年にはインドで 「差別廃止反対」 という主張――「差別反対」 ではない――を掲げて学生たちが大規模な反体制運動を起こした。 なぜ反体制主義者はインドネシアやインドの運動を見習え、と主張しないのか。

 ・・・・・とまあ、こういうコラムである。 私は、内容的にはうなずけるが、呉智英は昔からこれに類したことを言い続けているから、相変わらずだな、と思うだけであった。 そしてこうも考えた。 今どき、フランスの若者を見習え、なんて単純なことを言う日本のインテリがいるのかなあ、管見の範囲では記憶がないが、とも。

 ところが、である。 呉智英のコラムに援護射撃 (?) をするがごとく、そういう内容の文章が本日の毎日新聞に掲載されたのである。 書評欄で白土三平の 『決定版・カムイ伝全集』 を紹介する田中優子の一文である。

 ここで田中優子はこう書いている。 「フランスではつい先日、若者のデモ (一揆) が若者向け雇用制度を撤回させた。 アメリカでは百以上の都市で、約350万人が不法移民取締法案反対のデモを行った。 日本ではもはや一揆の精神は失われているが、それは決して世界の流れではない。 今や日本人の多くが、目の前の金の力しか見えなくなったのである。」

 そして田中優子は、このマンガ全集を今年度、大学の講義とゼミで教材として使うことにした、と書いている。

 うーーーーーーん・・・・・・。

  私は白土三平の 『カムイ伝』 は昔或る程度は読んだが、全部は読んでいない。 ここしばらく目を通してもいない。 だから記憶が曖昧だが、基本的に階級史観に則って作られたマンガであり、あれで大学生に江戸時代を理解させようというのはどんなものだろうか。 (ついでに書けば、私は 『カムイ伝』 より 『カムイ外伝』 のほうが好きだった。)

 あのマンガは無論、階級史観だけでは片づけられない複雑さや面白さを持ち合わせているが、そして白土三平はあのマンガを描くにあたっては江戸時代について相当に調べたり研究したりしただろうとは思うが、例えば田中優子がフランスと日本の比較において強調している 「一揆」 だって、最近の歴史学では受け取り方に変化が出ているのである。 田中圭一 『百姓の江戸時代』(ちくま新書) なんかを読むとそういうことが分かるはず。

 私が疑問に思うのは、そういう近年の専門的な研究を措いて、白土三平のマンガを、マンガとしての面白さを中心にすえて論じるならいざ知らず、江戸時代を学ぶための資料として使うことの善し悪しである。

 田中優子は一応、「日本近世文化」 専攻のはずである (洋泉社新書での著者紹介による)。  とすると、江戸時代に関する基本的な研究動向などは無論押さえているはずである。 その上で、日本史学者による最新の研究よりも白土三平の描く江戸時代の方が正確だ、と判断したのだろうか???

 なお、この 『決定版・カムイ伝全集』 は全38巻で1冊1260円。 マンガとしてはかなり高価である。 ビンボーで手が出ない日本人が一揆を起こすかも知れない(笑)。 いや、その前に、田中優子のゼミの学生が全巻買えるのかどうか、他人事ながら気になってしまう私でした。

4月22日(土) 午後7時からりゅーとぴあで、エウゲニー・キーシン・ピアノリサイタルを聴く。 女房が同伴。

 プログラムは、前半がベートーヴェンのピアノソナタ第3番と第26番 「告別」、後半がショパンのスケルツォ全4曲。 

 粒の揃った音で見事な演奏を展開してくれた。 文句を付ける余地はないんだけれど、あえて書くなら、心の琴線に触れる部分というのかな、魂の深いところに訴える何かが欲しい気がする。 1月のガブリリュクの演奏には、そういう部分があったので。 これは選曲にもよると思いますがね。

 アンコールを8曲もやってくれた。 ショパン、モーツァルト、ベートーヴェン、チャイコフスキーなど。 おかげで終演は10時であった。

 なお、休憩時間にかねてから私が大ファンのヴァイオリニスト牧田由起さんとお話しする機会があった。 私のクラシック音楽掲示板に出入りしているみなと氏のおかげである。 感謝します。

 牧田さんは知る人ぞ知る美貌のヴァイオリニストで、上越市在住である。 直接お目にかかってみると、舞台上での演奏を拝見している時にもまして小柄できゃしゃなのにびっくりする。 この体で素晴らしい音色を聴かせるのだからすごい! 牧田さんは数年前に新潟市でリサイタルを開いているが、また是非リサイタルを開いてくださいと激励(?)しておきました。

4月17日(月) 夜7時から、新潟グランドホテルでにいがた音楽協会・総会コンサートを聴く (無料)。 音楽会も三連チャンとなると疲れますなあ。

 白澤美佳さんのヴァイオリン (ピアノ伴奏は石井朋子さん) でフランクのヴァイオリンソナタとヴィエニャフスキーの華麗なるポロネーズ作品4。 ついで、吉原教夫氏のテノール (宇根美沙恵さんのピアノ伴奏) で 「かやの木山の」(山田耕筰)、「悲しくなったときは」(中田喜直)、「後宮からの誘拐」 より 「喜びの涙が流れるとき」(モーツァルト)、「牢獄から」(R・アーン)、「悲しき歌」 「フィデレ」(いずれもデュパルク)。

 白澤さんのヴァイオリンは、日本人には珍しく自己主張が強い。 フランクのソナタを押せ押せで弾いている印象。 私は、なかなかいいと思う。 これで細部の詰めができれば、相当なものでしょう。 石井さんの伴奏は、白澤さんの弾き方が強めなだけに、どうも引っ込み思案なところが気になる。 細かいニュアンスを付けるだけではなく、音の強さで勝負すべき所もあると思うだが。 蓋は大きく開けていたが、後半の歌曲の伴奏 (蓋は少ししか開けていなかった) に比しても音が弱い。

 吉原氏のテノールも、朗々とした美しい声を堪能させてくれた。 日本人にはあまりいいテノールがいないと聞くが、今後もがんばっていただきたい。

 新潟出身の若く有望な音楽家の演奏を聴けて、満足できる一夜だった。

4月16日(日) 朝日新聞インターネットニュースに下記のような記事が載っていたのだが・・・・・

 http://www.asahi.com/national/update/0413/OSK200604130034.html 

 2億年ぶりにオス発見 屋久島のカイミジンコ   2006年04月16日15時44分

 約2億年前からメスしかいないと考えられていたカイミジンコ(体長約1ミリ)のオスが鹿児島県の屋久島で見つかったと、滋賀県立琵琶湖博物館が13日発表した。

 カイミジンコはエビやミジンコの仲間の甲殻類。同館のロビン・スミス学芸員らが03年春、屋久島の海岸近くのわき水で新種を見つけ、その中から、生殖器があるオス1体を確認した。その後の採取で計3体のオスが確認されたという。

 このカイミジンコの仲間は化石研究などで約2億年前からメスしか見つかっていない。メスからメスが生まれる無性生殖を続ける世界最古の多細胞生物とされていた。

 なんか、変なんですよね。 いや、内容がじゃなく、文章が、なんですけれど。 まるで2億年前に人類が存在していて、しかもミジンコの研究をやっていた――みたいに読めちゃう文章なんで・・・・・。

  *    *    *    *    *

 さて、午後2時から、りゅーとぴあ・スタジオAで 「チェンバロと仲間たち第1回、チェンバロは歌う」 を聴く。 客は約60人ほどで、会場の大きさから判断して盛会と言っていい。 チェンバロが八百板正己、ソプラノが西門優子、ヴィオラ・ダ・ガンバが白澤亨。

 プログラムは、以下の通り。

 【前半】 1)パーセルの歌曲からのチェンバロ用アレンジ3曲
       2)パーセルの歌曲 「美しい島」 (チェンバロ伴奏)
       3)歌の旋律による変奏曲(チェンバロ独奏)
        スヴェーリンク 「緑の菩提樹の下で」
        G・べーム 「コラール変奏曲『ああ何とむなしく、何とはかない』」
       4)パーセルの歌曲 「私は恋の病から逃れようと」 (チェンバロ及びヴィオラ・ダ・ガンバ伴奏)

 【後半】 1)クープラン 「フランスのフォリア 別名ドミノ」 (チェンバロ独奏、西門さんの変奏タイトル読み上げ)
       2)ラモー 「恋の嘆き」 「いたずら」 「ため息」 「つむじ風」 (チェンバロ独奏)
       3)パーセルの歌曲 「ばらの館」 (チェンバロ及びヴィオラ・ダ・ガンバ伴奏) 

 【アンコール】1)「となりのトトロ」変奏曲(?) (チェンバロ独奏)
         2)バッハ 「主よ、人の望みの喜びよ」 の伴奏による文部唱歌 「ふるさと」 (ソプラノ、チェンバロ及びヴィオラ・ダ・ガンバ伴奏)

 チェンバロの充実した、また多様な響きが楽しめた演奏会だった。 チェンバロの演奏会は最近では珍しくないが、この楽器はこんな音も出るのかと感心したり、響きの密度が高く聞こえたのは、楽器がいいのか奏者のせいか、はたまた会場がチェンバロに向いているからなのか。 解説も的確。 このシリーズの今後が楽しみである。

 ただ、ちょっと気になったのは八百板氏が出ずっぱりなのに、他の二人の出番が少ないこと。 特にヴィオラ・ダ・ガンバの白澤氏は前半と後半各1回しか出番がなく (あとアンコールで1回)、前半の曲は短いことを考えると、いくら何でも気の毒である。 主催の八百板氏の出番が多いのは結構であるが、他の演奏者を呼ぶからにはもう少しプログラム構成を考えて欲しい。

 先日の貝津摩理リサイタルといい、どうも新潟の音楽家はバランス感覚に乏しいような気が。

4月15日(土) 午前11時30分からりゅーとぴあでワンコインコンサートを聴く。 周辺の桜はほぼ満開。 晴天の土曜ということもあってか、花見客が目立つ。

 本日は新しい専属オルガニスト山本真希さんのお披露目演奏会でもあります。 そのせいか、また土曜で晴天でついでに花見もできるという好条件が整ったためもあってか、会場はかなりの入り。 私は開演7分前くらいにホール入りしたのだが、2階と3階の正面席はすでにいっぱい。 やむを得ず、3階正面左隣りのJブロックへ。

 最終的には、客を入れないP・A・Eブロック以外には客が入り、3階のオルガンすぐ脇のL・Fブロックと1階席の前半の左右端以外はほぼ満杯という盛況。

 プログラムは、前半がブクステフーデのトッカータニ短調(Buxwv155)、バッハ 「主よ、人の望みの喜びよ」、サン=サーンス 「白鳥」、リュブリナのヨハネスによるタブラチュアより4曲。 後半がイサン・ユンのテュヨー・ソノール、スジェンスキの 「哀歌」、デピュプレの3つの前奏曲とフーガop.7より第3番ト短調。 アンコールが 「赤トンボ」 変奏曲。

 私の聴いたところでは、後半に力点がおかれているように思われた。 ドイツに帰化した韓国人イサン・ユンの奇抜な、オルガンの性能をめいっぱいに使ったような曲、ポーランドのロマン派スジェンスキの内面性豊かな曲、20世紀のフランス人デュプレによる現代的ながらオルガンらしい古典性をも備えた曲。 どれもそれなりに楽しめた。

 本日は入場料500円なりの1コインコンサートと言うことで、おしゃべりを含めて実質1時間ほどの演奏だったから、まあ序の口といったところか。 本格的なオルガン演奏会をなるべく早く開いて欲しい。

 *   *   *   *   *

 閑話休題。

 本日の毎日新聞 「論点」 欄に 「『国を愛する心』 とは」 が載った。 自民公明両党が教育基本法改正案に 「我が国と郷土を愛する態度を養う」 との表現を盛ったことを受けて、3人の論者に賛否の見解を書かせている。 広田照幸・東大教授 (教育学)、ジャーナリストの桜井よしこ、佐藤俊樹・東大助教授 (社会学) である。顔ぶれを見れば分かるように、桜井さんが賛成、広田・佐藤両東大教官が反対の立場から意見を述べている。

 最初に私の考えを言っておくと、基本的に賛成である。 ただし、それで教育界が救われるとは思っていない。 文言をいじったところで世の中が大転回するはずがないので、しかし法律というのはタテマエであるから、タテマエとして入れておくのは悪くないだろう、ということである。 何しろ日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」 なんてタテマエを100乗したような文句すら入っているのだから、「国や郷土を愛する態度」 程度のタテマエに大騒ぎするのは、する方がおかしいのである。

 こういう私からすると、東大の二人の教官の意見はどこかズレている。

 まず広田氏である。 価値観の多様性を強調する一方で、東アジア共同体なるものを、あたかも実質をもった存在のごとくに書いているところが相当におかしい。 そんなものは一部の学者やジャーナリストの頭の中にあるだけなのであって、たしかに経済的な相互依存や文化交流は盛んになっているだろうが、それをもって共同体などと言えるはずがない。 ヨーロッパのように狭い土地に陸続きでいくつもの国家が軒を並べていて、しかもキリスト教による (強圧的な) 価値観の統一が行われたところに比して、東アジアは歴史的な状況が全然異なっている。 そういう基本的な認識がこの人には欠けている。

 また最後で、この法律が通ると価値観が一元化され内部の異質な他者が排除され、日本は 「東アジアの動きから取り残され」 ると書いている。 おいおい、本気かいな、と言いたくなっちゃう。 「東アジア」 はそんなに素晴らしいんですか? 北朝鮮は言うまでもなく、中国や韓国に比して日本が言論・思想の自由において圧倒的に先進的であることは、常識ですぜ。 広田さん、もし価値観の一元化や異質な他者の排除がそんなにお嫌いなら、まず、北朝鮮や中国や韓国に行って自説を主張なさってはいかがでしょう。

 次に佐藤俊樹氏である。 氏は言う。 教育は過大評価されている。 日本の受験戦争もエコノミックアニマルぶりも子供がのびのびしないのも、みんな学校や教育が悪い、ということにされてしまう。 これは実は文科省の、そして学校業界の体質なのであって、 「ウチが悪いんです」 と言っておいて 「予算くれ」 「ポストくれ」 と話を持っていく戦略から来ているのだ、という。 はあ、そうなんですか。 まあ、面白い説ではありますね。

 で、肝腎の愛国心については何を言っているかというと、「先の戦争」 を持ち出すだけなのである。 いや、この部分はほんのちょっと出てくるだけで、氏の文章は全体として諧謔的で、教育の力を信じすぎてはいけませんよと言っているわけで、そこは私も共感できるのではあるが、「先の戦争」 で帳消しになってしまうところが惜しい。 だって、論法としてはずっと左翼がやってきて 「もう誰もだまされません」 ってなものでしょ。

 それと、戦前の教育勅語と戦争の関係については桜井さんが短絡的に結びつけるのは間違いだ、と述べているのだが、内容への賛否は措くとしても、論じ方として桜井さんの方がはるかに学術的なのが気になる。 佐藤氏の文章は面白いんだけれどエッセイ風で、このくらいのことを言うのに何も東大の先生を呼んでこなくてもいいじゃないか、という風なものなのである。

 急いで付け加えるが、私は広田照幸氏と佐藤俊樹氏の著作 (と言っても新書本ですけれど) は読んでおり、それなりに評価できる学者だと思っている。 なのに新聞にこういうテーマで書くとこのテイタラクぶり。 もう少し考えた方がいいんじゃないかなあ。

4月13日(木) 本日の毎日新聞および産経新聞の新潟地方版に、新潟大学が新潟労働基準監督署から是正勧告を受けた、という記事が載った。 毎日の方から引用しよう。

 新潟大学が入学試験の試験監督などで土日に勤務した男性教員に業務手当を支払わなかったとして、新潟労働基準監督署から是正勧告を受けていたことが分かった。

 同大では、今年1月21、22日にセンター試験、同2月25、26日に同大の前期試験、同3月12日に後期試験を実施。 いずれも土日のため、教職員に振替休日を取らせるなどの対応をしていたが、この男性教員が多忙などの理由で休日を取ることができなかった。

 男性教員からの訴えを受け、同労基署が先月28日、同大に立ち入り調査を実施して、事実を確認し、超過勤務手当を支払うよう是正勧告を行った。 男性教員への不払いは、約30時間分で10数万円に上るとみられる。 (以下、略)

 つまり、このサイトでも3月6日に記した、明らかにおかしな制度変更が、労働基準監督署の是正勧告を招いた、ということなのである。

 お役所から是正勧告を受けないとまともに超過勤務手当も支払ってくれない新潟大学、恥ずかしくないのか!?

 これを見ても、独法化以降の国立大学がいかにおかしくなっているか、大学人がいかにまともな人権意識も法律遵守意識も持ち合わせていないかが分かる。 ったく、これで大学の権威が (いまだに多少あるとするならだが) またまた下落しましたね。

 新潟大学上層部は、根本的に意識を改めてほしいですね。 いや、上層部だけでなく、中層以下もそうだけれど。

 (後記: 17日に4月分の給料が出たんだけれど、是正勧告のせいか、私には超過勤務手当が3万円あまり付いていました。 私は今年は個別入試監督だけ担当で、センター試験監督はやらなかったから、今までだったら数千円でごまかされていたところでしょう。 労働基準監督署に感謝します。)

 *    *    * 

 さて、上記のことに関連して、9日に毎日新聞 「発言席」 に掲載された記事を紹介しておきたい。 この 「発言席」 は識者が長めの意見を開陳するコーナーで毎週日曜日掲載である。 

 荻上紘一・大学評価学位授与機構教授による 「規制緩和で揺らぐ大学の質」 というもので、ここで荻上氏は、こう書いている。

 「認可制度や基準を参入障壁と批判し、構造改革特区向けの簡略な審査で株式会社立大学に門戸を開放した結果はどうか。 今年3月に公表された調査結果では、資格試験予備校と 『大学』 の授業が渾然一体となっているなど法令にかかわるさまざまな問題が明らかになった。

 事業者だけの問題ではない。 彼らの利益実現にかかわる要望や提案ばかりに耳を傾け、株式会社立大学の全国解禁、補助金導入、税制上の優遇措置などを提唱してきた政府審議会の見識が問われねばなるまい。」

 そう、政府審議会の見識が問題なのだ。 独法化で生じている悲喜劇を、この際、徹底的に洗い出す作業を、マスコミはやってほしい。

4月10日(月) 昨日のことになるが、産経新聞に中高一貫教育の全寮制男子校・海陽中等教育学校が愛知県蒲郡市に開校した、というニュースが掲載された。

 この新しい学校は、産経では以前にも報道されたが、英国の名門私立高校 「イートン校」 などをモデルにし、エリート教育を目指すものだそうである。 トヨタ自動車、JR東海、中部電力の3社が設立し、他にも80社を超える企業が協力しているという。

 さて、私はエリート教育そのものには反対ではない。 ただ気になるのは、英国のイートン校などは階級社会が生み出した教育機関であって、それを単純に模倣することは、明治維新以降四民平等を建前に教育を行ってきた日本の行き方と合致するのかどうか、というところなのである。

 英国のイートン校などのパブリックスクールは、もともと貴族や金持ちの市民階級が息子たちに特権的な教育をほどこすために作られたものである。 そして英国の教育制度も近年かなりいじられて、こういう階級的なエリート育成装置を是正しようとする動きが強まっている。

 アメリカは階級社会ではないと思われているが、名門大学に進学するのに有利な私立のプレップスクールは、おおかたが裕福な親を持つ少年少女たちで占められている。 金持ちの方がエリートになりやすい点で、英国と変わりはないのだ。

 トヨタ自動車などは、エリート中等学校を作ろうとするとき、そういうことを考えなかったのだろうか。 エリートを養成するにしても、金持ちの子弟だけが有利にならないような配慮のもとに制度を作る、という工夫をしなかったのか、ということだ。

 というのも、産経の記事によると、この学校の生徒の金銭的負担は年間300万円に及ぶというからだ。 授業料、寮費、食費などを合わせた額である。

 そして、新入生の親の意見が載っているが、名古屋市内の医師、と書かれている。 要するに高収入な親だからこそ、子供をエリート校に入れられる、という構図が見え見えなのである。

 私だったら、息子を年間300万円かかる中学にはとても入れられない。 いや、私には子供が3人いるからそうなので、一人っ子だったら何とか入れることができたろうと思うけれど。 (仙台の私大に行っている出来の悪い長男には年間200万円強かかってますので、むははは・・・。) 

 いずれにせよ、この学校の 「エリート教育」 は――産経の記事から判断する限り――明らかに金持ちの親を持つ子供だけを対象にしている。 そこに私は不快感と危惧の念を覚えるのである。

4月9日(日) 午後4時から、りゅーとぴあで 「ベートーヴェン 『運命交響曲』 を100倍楽しもう――茂木大輔のオーケストラコンサート」 を聴く。 実は行く予定ではなかったのだが、昨日の演奏会の看板偽装ぶりにむしゃくしゃしていて、心が落ち着かず、それを鎮めるために行ってみたわけ。

 したがって当日券だが、S席しかなく、Nパックメイト価格3600円なりであった。 しかし、内容はとても充実していた。

 ベートーヴェンの第5交響曲なんていまさら、という通のクラシックファンもいるかも知れないが、茂木大輔氏のたくみな話術によって、この交響曲の作られ方や、トロンボーンに3種類あることがわかり、なるほどと思うことしきりであった。

 前半はこの曲の分析、後半は通しでの演奏、そしてアンコールに第8交響曲第2楽章と、たっぷり2時間のレクチャー演奏会を聴いて満足。 オケは第1ヴァイオリン8人、チェロ4人という比較的小さな編成だが、響きはたっぷりしていて十分。 

 6月に大植英次指揮のハノーファー北ドイツ放送フィルが新潟に来てベートーヴェンの第5をやるけれど、今日のレクチャーに接したおかげで興味百倍の聴き方ができそうだ。

4月8日(土) 午後4時からだいしホールで貝津摩理帰国ピアノリサイタルを聴く。 貝津さんは新潟県出身で、高校卒業後ロシアの音大で学んだ人である。

 ・・・・・が、何だこれは!というのが全体的な感想であった。

  「貝津摩理帰国ピアノリサイタル」 を聴きに行ったつもりが、「ソフィア・フォミナ ソプラノリサイタル + ピアノ独奏も付録に少々」 という演奏会だったのである。 ソプラノもゲスト出演するとは知っていたけれど、実はゲストじゃなくメインだったとは!

 最初にプログラムを見て、あれ?と思う。 表紙には貝津さんの名前しかないのに (ついでに言えば、チケットにも貝津さんの名しかなく、フォミナの名は全然書かれていない)、中を開くと、ピアノ独奏の割合が圧倒的に少ない。

  以下、多少省略してプログラムを示す。 ( )内はおよその演奏時間で、私が計ったもの。

  第1部(ドイツ語圏作曲家)
   1)歌曲: モーツァルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームスから計7曲
     (20分)
   2)ピアノ独奏: ブラームスの間奏曲op.116から2曲、シューマンの「アラベスク」
     (15分)
   3)歌曲: マーラー3曲。
     (10分)

  第2部(ロシアの作曲家)
   1)歌曲: グリンカ、チャイコフスキー、ラフマニノフから計5曲
     (15分)
   2)ピアノ独奏: メトネル「忘れられた調べ第1集」から2曲、ラフマニノフの前奏曲op.32から2曲
     (12分)
   3)歌曲: ミャスコフスキーの組曲「マドリガル」op.7、メトネルから2曲
     (12分)

   アンコールに、チャイコフスキーの歌曲とモーツァルトの「ハレルヤ」

 まったく、おかしな演奏会と言うしかない。 演奏のレベルをどうこう言う以前の問題である。

 で、あとでチラシを改めて見てみると、曲目が或る程度書いてある。 ピアノ独奏に関しては全部書いてある。 また彼女が大学院では伴奏科を出たことも書いてある。 だから、あちらとしては 「ウソはついていません」 と言うかも知れない。

 しかし、チラシでもあくまで大きな文字で書かれているのは 「貝津摩理帰国ピアノリサイタル」 であり、フォミナは 「ゲスト」 として出ているのだ。 メインとして出ている演奏家よりゲストの演奏時間の方が二倍も長いとは、普通考えないだろう。

 貝津さんは伴奏がメインであるなら、最低、最初からフォミナの名前を自分と同じ大きさで出すべきである。 また、本当に伴奏が自分の本領だと思っているのなら、いっそ独奏はなしにして伴奏だけで出るべきではないか。 そして 「帰国ピアノ伴奏リサイタル」 とでも銘打つのがよかろう。

 いずれにせよ、これははっきり批判されて仕方がない演奏会であろう。 貝津さんの音楽家としてのモラルが問わるし、また独奏ピアニストとしての自分の力量を新潟の人たちに聴いてもらうつもりがない、ということが明らかになったわけであるから。

 そして、いずれにせよ、こういう看板と中身の異なる演奏会をやることは、私のように2千円出してチケットを買って聴きに行く普通の聴衆をバカにした行為だということを、貝津さんはどの程度理解しているのだろうか? こんな演奏会をやる人間は信用できたものではない。 今後、貝津さんのコンサートには足を運ばないようにしようと思う。

 それと、もう一つ問題なのは、この演奏会が新潟市芸術文化振興財団の助成を受けているということ。 つまり、税金が使われている演奏会だった。 そういう演奏会でこういう詐欺まがいの行為が行われているということを、新潟市当局は把握しているのだろうか。 この点について、調査がなされることを私は望む。

 もう一つ付け加えよう。 今年度最初の地元演奏家による演奏会がこんなふうでは、「やっぱり新潟在住の音楽家なんて、たいしたことないじゃないか」 と言われかねないという御自覚が、果たして貝津さんにあったのかどうか。

 いや、地元で地道にしっかり活動している音楽家も多数いることは、私も承知している。 だけど、「帰国ピアノリサイタル」 と銘打てば、かつて石井朋子さんがやったように、自分の演奏家としての真価を全面的に問う真剣勝負の場なのだ。 そんなことも分かっていない人が、演奏家として通用するはずもないだろうと考えざるを得ない。

4月6日(木) 数日前の新聞記事を2つ紹介しておきたい。 いずれも毎日新聞の新潟地方版に載ったものである。

 (1) 4月1日に、「留学生の生活」 という、新潟大学経済学部3年生Yさんによる記事が掲載された。 ちなみに毎日新聞の新潟地方版にはときどきこうして新潟大生が取材した記事が載る。

 内容は、中国からの留学生の苦しい生活ぶりを取材したもの。 Aさんは中国の大学への進学を断り、来日してまず宮城県の日本語学校に1年半通ったあと、4年前に新潟大工学部に合格。 同校から国立大に合格したのは約200人中数名だったという。

 しかし生活は苦しかった。 中国から持参した200万円の貯金は日本語学校時代に使い果たしたので、新潟大に合格してから授業料 (年額52万8千円) の免除を申請した。 前期は全額免除となったが、後期からは半額免除に格下げされ、以後、この春卒業するまで半額免除のままだったという。

 これは、国立大の授業料免除に使われる予算が、減っているためだ。 日本の予算難が、こういうところにまで及んでいるのである。 結局、授業料免除に使われる総枠が減らされているので、全額免除ではなく半額免除でなるべく多くの留学生 (及び貧しい日本人学生) に授業料負担を少なくしようという方向に来ているのである。

 留学生はアルバイトをするにも色々と制限がある。 無論、中国と日本は貨幣価値が異なるからあちらからの仕送りに頼ることもできない。

 以下、私の感想だが、このあたり、もう少し留学生を大事にする制度的保証を日本は考えた方がいいと思う。 日本に来る留学生を増やせ、というかけ声だけで、支援策がお粗末なのが、どうしようもなく場当たり的な日本政府の態度を示している。

 また、そもそも日本の国立大学の学費が高すぎるのが問題なのだ。 以下の本が、多少記述に日共的な臭みはあるが、いかに日本が教育に税金を使っていないかをあばいていて参考になる。

 田中昌人 『日本の高学費をどうするか』(新日本出版社、2200円+税)

 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4406032223/qid%3D1144809423/249-4198376-6293114 

 (2) 4月4日に、上越市の観光や商業に関係する部署を、上越市役所本庁舎から中心商店街に移転させ、業務を開始したという記事が載った。 中心商店街の活性化が狙いだという。 上越市ではこのほか、地域振興策の一環として、港湾、農林水産業、工業団地などの地区にも関係部署を移転させる構想を掲げているという。

 以下、私の感想だが、「民間活力」 という流行語を裏切るような現象がこうして地方都市で進行している事実に、もう少し政府は注目すべきではないか。 はっきり言って、民間活力ではどうにもならないからこそ、こうして役所が乗り出さざるを得ないわけだ。

 上越市は、1971年に城下町の高田市と港町の直江津市が合併してできた新潟県第3の都市である。 その後、「平成の大合併」 で周辺町村をも合併し、現在の人口は21万を数える。

 今回、中心街に観光や商業に関する部署が移ったのは、ご多分に漏れず上越市でも商店街の空洞化が進んでいるからだろう。 役所主導で人の出入りを多くしないとどうにもならないのだ。

 もっとも、中心街のにぎわいを維持することがいいことなのかどうかは、議論の余地があるだろう。 クルマ社会の現在、駐車場が不足し、なおかつ駐車料金の高いかつての繁華街がすたれるのは必然だ、という見方もあり得る。

 この記事でも、役所の一部が移転したのはいいが駐車場はないという記述がある。 多分、市役所の一部が来るだけでは繁華街はよみがえらないだろう。 クルマ社会への抜本的な対応策が必要なのだ。

 ただ、それをやるにしても、おそらく 「民間」 だけでは手の打ちようがあるまい。 やはり役所の構想力が求められているというのが、地方都市の実情だろう。 その辺は素直に認めておいた方がいい、というのが私の考えたことである。

4月5日(水) 午前10時頃大学にクルマで行ったら、駐車場が満車で入れませんよ、と警備員に言われた。

 本日は入学式のため、いつも使っている学内駐車場はバスの乗降場となり、使えないということは聞いていた。 だから別の学内駐車場に入れようとしたわけだが、こちらも新入生の父母の利用を優先しているのだという。 そういう話は聞いていない。 じゃあ、教職員はどこにクルマをとめればいいというのだ? 多分、大学上層部は考えていないんだろう。 この辺にこの大学の体質が表れていますよね。

 仕方なく、適当なところにとめるからと言って、構内に入る。 といってもすでに空き地はクルマだらけである。 保健管理センター前の道路にかろうじて1台分の空きがあったので、強引にねじこむ。 

 ふと気づくと、前にとめてあるクルマが上等そうなのである。 ベンツだ。 といってもよく見かける角張ったセダンではなく、丸みをおびた鼻先のクラシックな感じの奴だ。 色も上品な緑色である。 新潟ではまず見かけないクルマと言える。 以前、船橋市の中央郵便局前で見たのを覚えているが。

 ナンバーは練馬になっている。 入構票がないところを見ても、教職員や事務職員のクルマではない。 新入生の父母のクルマかな。 練馬ナンバーだから都区内に住んでいる人間で、都区内から新潟大学に来る奴というのは、医学部か歯学部である可能性が高い。 金持ちの子弟が恵まれた環境で受験勉強に打ち込み、新潟大学の医学部か歯学部に合格したのだろうか・・・・・などと瞬時に私は想像していた。 まあ、妄想かもしれませんがね。

 ・・・・・で、そこから人文学部の入っている建物に歩いていったら、正面玄関前で新入生らしい女の子に 「総合教育研究棟って、どこですか?」 と訊かれた。 「ここですよ」 と教えてあげる。

 総合教育研究棟というのは、人文学部も入っている建物で、以前は教養部の建物だったところだ。 教養部解体後は教養校舎という名に変わっていたのだが、その後、旧教養部理系の人たちは新しい建物を建ててもらってそちらに移り、空いた教養理系校舎が改修されて人文学部の建物になった。 しかし教養の授業は大部分こちらで行われているし、留学生センターなども入っているので、総合教育研究棟という洗練されない名前になっているのである。

 困るのは、この近くに 「総合研究棟」 という名前の建物も別にあることである。 きわめてまぎらわしい。 理系の色々な専攻が入っているのでこういう名称になったらしいが、私に用事のある外部の人間が一度間違えてそちらに行ってしまったことがある。

 まぎらわしいから、どちらかの名前を変えたらどうですか、と私はそのとき人文学部長に要請した。 学部長は全学の会議に持っていったらしいが、その後なんの音沙汰もない。 この辺も、新潟大学上層部には問題が多いことを示している。 ワカッテイナイのである。

 この春、その総合教育研究棟の学生入口上部に、「総合教育研究棟」 という大きな文字が入れられた。 少し分かりやすくしようとしたらしいが、繰り返すけれど、「総合研究棟」 という建物がすぐ近くにあるのであり、そのまぎらわしさは変わっていないのである。

 また、本日のように、学生入口ではなく正面玄関から入ろうとする人間にはやはり分かりにくいのである。

 この際、私大のように、何号館というふうな数字で表す名前にしたほうがいいんじゃないかと思いますけれどね。 新潟大学上層部の頭じゃ、考えつかないですか? それとも文科省の許可が得られないんですか (笑)?

4月3日(月) 新宿のホテルで目を覚ます。 朝食後、女房と娘はまた昨日の友人と会ってスケートに行くというので、別行動。

 私は有楽町に向かい、そこで映画を3本立て続けに見る。 2本は新潟ではやっていないもの。 もう1本は新潟でもやっているが、金券ショップに安いチケット (1300円) があったので、見ることに決めたのである。 新潟でこの映画をやっている映画館はサービスが悪くて、メンズデーがなく、といって1800円で見るのもバカバカしいというような映画だったのだ。 もっとも、新潟でやってない2本も金券ショップで1450円と1500円のチケットを買って見たんですが。

 午前11時頃から映画を3本見ると、夜6時半を過ぎていた。 それから東京駅で女房と娘と落ち合い、地下街で夕食をとってから、夜8時52分発の新幹線で新潟へ。 本来はもう少し早い列車にしたかったのだが、これしか取れなかったのである。 月曜だというのに、JRは儲かっているのだろう。 結構なことだが、新潟駅からの連絡を良くして欲しい。 新幹線から越後線への接続が最近よくないぞ! 

4月2日(日) 三浦半島突端のリゾートホテルで目を覚ます。 寝坊したのでまた温泉に入る間もなく朝食となる。 結局温泉は入らずじまいだった。

 この日は、次男は一足先に新潟に戻り、長男は都内の友人宅へ、女房と娘と私は都内のホテルに泊まる予定であったが、女房は娘を連れて都内に住む友人と会うというので、新宿で分かれ別行動となる。

 私は午後2時から、オペラシティホールで 「デイヴィッド・ギャレット スーパーヴァイオリンコンサート with パヴェル・シュポルツル」 を聴く。この日は首都圏でもあまりコンサートがなく、これか、或いは同時刻開演の東響名曲コンサート (ミューザ) か迷っのだが、ふだん新潟で聴いている東響より聴いたことのないヴァイオリニストを聴く方を選んだもの。

 といっても、あらかじめサイトで調べておいたのだが、招聘元のサモン・プロモーションのサイトにはギャレットの上半身裸の写真が載っており、ちょっと怪しげな感じではあった。 サモン・プロモーションは、外来オケを招聘すると必ずフジコ・ヘミングをくっつけて演奏会をやる音楽事務所で、信頼度がイマイチであり、この日の演奏会も多少そんな印象。

 会場はほぼ満席。 9割方は女性。 演奏会終了後のサイン会には長蛇の列 (99%は女性だったみたい)。 性を変えれば、日本の村治佳織とか竹松舞みたいなものかなあ。

 ちなみにギャレットはアメリカ人とドイツ人の両親を持ち、当初はドイツで、その後ニューヨークに移ってパールマンに師事し、ジュリアード音楽院を卒業という経歴。 シュポルツルはプラハ音楽アカデミーやジュリアード音楽院に学び、コンクールでの入賞歴もある演奏家だそうである。

 私としては、前半に出てきたシュポルツルのほうが良かった。 実によく響くしっかりした音で、バッハのシャコンヌ (無伴奏パルティータ第2番より)、イザイの無伴奏ソナタ第4番、ミルシテインの 「パガニニアーナ」 を弾いた。 アンコールにパガニーニ 「奇想曲第5番」。 一人でもリサイタルをやる実力があるのに、こういう形でしか日本で演奏できないのは気の毒。

 後半のギャレットも、キワ物というわけではなく、ちゃんとした演奏ではあった。 ただ前半のシュプルツルに比べると音の迫力と響きの良さでちょっと劣っているので、長身にすりきれたGパン+Tシャツという格好を (女性が) 見て楽しむ演奏会なのかな、やはり、という印象。 曲はモーツァルトのソナタK378、サラサーテの 「アンダルシアのロマンス」 「序奏とタランテラ」、クライスラーの 「テンポ・ディ・メヌエット」、バッジーニの 「妖精の踊り」。 アンコールに 「早春賦」、「チャイコフスキーの歌曲 〔タイトル、聞き取れなかった〕 の編曲版」、クライスラー 「美しいロスマリン」、チャイコフスキーの 「メロディ」。 ピアノ伴奏は小森谷裕子。

 うーん、悪い演奏ではないけれど、でもプログラムが短い曲中心だったこともあり、S席6000円分あったかなあ……と漠然たる物足りなさが残るコンサートであった。

 この後、新宿で紀伊国屋書店とディスクユニオン(古CD屋)をまわり、それから女房とその友人と友人のご亭主と合流して食事となった。

4月1日(土) 昨年2月に亡くなった伯父の納骨式があるので、一家で首都圏へ。 といっても仙台に住んでいる長男はそちらから、また高校生の次男はアキバ系で、同趣味の友人と午前中秋葉原めぐりをするというので一足先に出発し、新潟駅午前9時台発の新幹線に乗ったのは私と女房と小学生の長女の3人である。

 伯父は遺言で遺体を大学医学部に献体したため、葬式をゆっくり (?) やっているヒマがなかった。 医学部での解剖実習作業が終わって骨が戻ってくるのに1年ほどかかるというので、この日に親戚が集まって納骨式となったものである。

 場所は三浦半島の先端の三浦霊園というところである。 三浦姓であるから先祖代々の墓、と言いたいところだが、そうではなく、たまたま伯父の息子がこの近くに住むようになった (勤務先は横浜) ところから、そこに墓所を買ったというだけの話である。 丘の中腹で、海の見える理想的な場所である。 ちなみに伯父は仕事を定年で辞めてからは札幌近郊に娘夫妻と同居していた。 それ以前は公務員として東日本を転々とする暮らしだった。

 品川駅で長男と合流して、そこから京浜急行で三浦半島の突端へ。 私は京浜急行の特急に乗ったのは初めてだが、クロスシートで快適なのとスピードが速いのに感心した。 後で従兄 (伯父の息子) に訊いたら、JRと競争しているかららしい。

 ちなみに次男は秋葉原でのんびりしていたらしく、いったんホテルに集まった親戚一同がそろそろ納骨式に出かけようかという頃になってようやく現れた。 年寄りを差し置いて最後に来るとは、将来大物になるかもしれない。

 伯父は遺言で、葬式いらず、戒名いらずと言い残したらしいが、さすがにそうもいかず、戒名は付けてあった。 坊さんは浄土宗だったが、本来三浦家は真言宗のはずで、これは私の父が十数年前に逝ったときに郡山の本家の従兄に確認したから間違いない。 列席した本家の従兄も首をかしげており、どうやら伯父はこの点では粗忽だったようである。 まあ、どっちも仏教ですから、何でもいいんですけれどね。

 このあとホテルに泊まりがけで食事会となった。 ホテルはもともとリゾートマンションとして建てられたもので、しかし思うように売れなかったのでホテルに変えて使っているものだそうである。 したがって、私の家族5人は3DK一室を割り当てられた。 しかし次男は、列席はしたものの宿泊はせずに船橋に戻る私の老母についていってしまった。 あとで判明したが、小遣いをねだる狙いがあったかららしい。

 こういう法事では、おそらく一生に一度しか会わない人と顔を合わせるものである。 一期一会という奴だ。 今回で言えば、従兄 (三浦半島に住んでいる方) の嫁さんのほうの親戚などには、まずこの先会う機会はあるまい。

 食事がいちおう済んだ後、あらためて喪主の従兄と本家の従兄ともう一人の従兄と4人で集まって飲んだため、ぐでんぐでんになってしまい、温泉なのに風呂に入り損ねたまま寝てしまった。 残念。 

3月29日(水) 図書館から電話。 私の研究室においてある校費で買った本を借用したい、という他大学からの要請が来ているとのこと。

 ファックスで書名を知らせてもらったところ、以前にも別の大学から借用要請があった本だった。 世紀転換期 (19世紀末から20世紀初め) のドイツで活動した 「宇宙論者 Kosmiker」 についての研究書 (ドイツ語) なのである。

 この研究書、日本の大学に登録されているものとしては、私の研究室にあるものと、九州の某私大にあるものと、2冊しかない。 それで需要が高いわけだ。 今回は天下の京都大学からの借用願いである。

 この研究書を購入したのは、教養部が解体してすぐの頃である。 あの頃は、すぐに読むのでなくともこういう本が買えた。 それが他大学の研究者にもこうして利用されている。 研究用に本を買うというのは、こういうことなのである。

 今の新潟大学では、もうこういう本を買う余裕はなくなっている。 その結果は、じわじわと表れてくるだろう。

3月28日(火) 昨日の産経新聞に、個人情報保護法が施行されて1年になるが過剰反応と思われる例が多く、日弁連がその事例を収集して公表することになった、という記事が載った。

 大学内にいても、どうも過剰反応が目立つ。 教授会では学生個人名の載った資料は全部持ち帰り禁止になった。 必要なら自分でメモを取っておけ、というのだが、他方で最近はメンタル面で問題を持つ学生も多く、授業でも必ずしも自分の講座に所属しない学生もそれなりに受け持つ体制になっていることを考えると、どう見ても不合理というしかない。

 思うに、日本人は外部から抗議や文句が来ること自体を怖がる傾向が強い。 理不尽な抗議であれば突っぱねればいいものを、抗議が来た時点でパニックをおこしてしまい、ひたすら抗議がこないような体制を作ってしまう。

 大学教師も、外部的には偉そうなことを言っていても、実はこの種の小心な人間が多いのである。 個人情報保護法は、そうした日本人のメンタリティを計算に入れていなかったという点で、すでに相当に問題含みであったのだと私は考えている。

3月27日月) 本日の毎日新聞社説に論説委員・与良正男の 「役人の給与減らせば日本は大きく変わる」 が掲載された (毎日の社説は、無記名と記名のものとがあり、これは後者)。 相当にヒドイ内容なので、以下、批判する。

 与良はまず、先日の衆議院選挙で自民党が圧勝したのは、郵政民営化よりも 「公務員を減らして何が悪い」 という小泉首相の率直な物言いが支持されたからではないか、と言う。

 ・・・・・おいおい、勝手に決めるなよ。 選挙での小泉圧勝については色々な分析が出ているだろう。 全然そういうものをふまえないで、何でこんなことが言えるのか。 何も根拠を挙げずに自分の都合のいい方に話を持っていくのは、愚鈍の兆候だぞ。

 次に、与良は公務員の給与と民間のそれを比較するのだが、その比較の仕方はこうである。 人事院のモデルで45歳の本省課長が1232万円(妻と子供2人)。 それに対して国税庁によると、04年に民間の給与所得者 (通年勤務) の平均年齢は43・5歳で、平均給与は年439万円だった、と。

 あのねー、比較の仕方がおかしいんじゃないですか。 本省課長って言ったら、エリート中のエリートでしょ。 何でそれを民間の平均所得と比較するの? 比べるなら、同じような条件にある人、つまり一流大学か大学院を出て一流企業に勤務しているエリートと比較するべきなのだよ。

 じゃあ、逆に訊こうか。 一流大学・大学院卒で一流民間企業に勤務しているエリート・サラリーマンの平均給与と、高卒や短大卒、大卒でも二種採用でエリートコースじゃない公務員の平均給与とを比較してごらん。 え、どうなると思う? それで民官格差がひどいから、公務員の給与を大幅アップしろ、と言ったらどうなります?

 その後与良は、地方公務員も各地域の民間企業よりいい給与をもらっていると述べた後、公務員削減に言及し、耐震データ偽造事件やライブドア事件などで、市場への監視が必要である以上、公務員数をあまり減らしすぎてはまずいのでは、と言う。

 たしかにその通り、減らしすぎはまずいと私も思います。 そこまではいいのだが、じゃあどうすればいいかと言うと――

 公務員の給与を大幅に減らすべきだ、と与良は言うのである。 その理由として、与良が挙げるのは、 (1)民間ではよくあることである (2)予算を減らそうとせず国・地方の借金を膨張させた責任は役人側にもある (3)「給与が安いと優秀な人が来ない」 という声もあるが、カネ目当ての役人などは要らない・・・・・・・ 

 どうにもトホホな論理だが、一つ一つ批判していこう。

 (1) 公務員の給与は民間準拠で人事院が決めている。 民間の平均ということになっているのです。 つまり、飛び抜けて良くもない代わりに悪くもないということ。 だから、給与の大幅減は 「よくあること」 という論理は、全然成り立たない。

 (2) 予算を減らさなかった責任があるのは、役人じゃなく政治家でしょ。 そしてその政治家を選んでいるのは日本国民。 だから、財政難の一番の責任は日本国民にあるのです。

 (3) ふーん。 じゃあ、こう言ったらどうする? 「カネ目当てのジャーナリストなんて要りません。 ジャーナリストは真実を国民に知らせる使命感さえあればいいのです。 だから給与は格安で大丈夫です」。 与良正男は、自分の言説の責任をとって毎日新聞社員の給与を大幅に下げるよう提言すべきだ。 まず、自分から始めたらどうだろう。

 まあ、要するに、ダメダメの社説なんですね。 しかもどことなく大衆迎合的。 こういう社説が載っている限り、日本の新聞は高級紙とはほど遠いレベルに留まると言うしかないでしょう・・・・・・。

 じゃあこの問題をどうすればいいのか、と言われそうだが、3月7日にも書いたとおり、中野雅至 『はめられた公務員』(光文社) を読むと、日本の公務員比率と税率が、現在でも先進国としては最低であることがよく分かる。 多少の増税は我慢し、むしろ社会的弱者への福祉などが格下げされないようにした方がいい、と私は思う。 公務員の数だとか給与に矛先を向けるのは、財政赤字の真の責任の所在をごまかす大衆迎合言説と知るべし。

  *   *   *

 ・・・・大新聞の論説委員がこの程度なのは、毎日新聞の給与が安いためなのか、或いは 「民間」 であるためなのか、或いは読売や朝日に比べると危ないというウワサはあるにせよ毎日新聞社が公務員並みに安定した職場だからなのか――私は知らない。 

 ただ、気になるのは、どうもその場の思いつきでモノを言っていること、そして総合的かつ持続的な視点が欠落していることである。

 総合的かつ持続的、と言うのは、実は昨日(26日) 、「おや」 と思う記事が毎日新聞に載ったのである。

 「寺脇氏、異例の降格 ゆとり教育推進」 という見出しの記事で、最後から2ページ目の社会欄に掲載されていた。

 私はこの見出しをみて、最初はこう思った。 「ゆとり教育推進で悪名高い寺脇研が、その責任を負わされて降格させられたのか。 とすると、これは日本の中央省庁の役人が自分の政策に責任をとらされる時代になったという意味で画期的だな」。

 ところが記事を読んでみると、そうではなかったのだ。 寺脇は現在53歳で文化庁の文化部長をしているが、4月から新設される大臣官房広報調整官に就任することになり、このポストは課長級なので、異例の降格、ということになるが、実は寺脇は本来はこの春限りで勧奨退職する予定だったのを、小坂憲次・文相から慰留されたためだという。

 要するにエリート官僚はふつうこのくらいの年齢で天下りしたり勧奨退職したりして後輩にポストを譲ることになっているわけだが、寺脇を省内に残しておこうとして、結果的に降格となった、ということなのである。 民間会社の社員が定年後も雇用され続けるけれど給与は大幅減、というのと似たような話なのだ。

 私は、あ、役所はまるで変わってないな、この大臣はボンクラだな、と思った。 ゆとり教育で悪名高い寺脇研を何で省内に残すのだろう? 全然分かってないし、文科省の政策が各所から批判されている、という自覚が完全に欠けているのだ。

 ちなみに、私がここで述べたような視点は、毎日新聞の記事にはまるで入っていなかった。 むしろ、こういう人事をヨイショする河合隼雄・文化庁長官の談話を載せている。

 さて、「***」 の上に書いたことと合わせてまとめると、こうなる。

 現在の日本の中央省庁の役人に対しては、給与が高いだの何だのの批判をするより、まずその政策をきちんと吟味して批判する能力をマスコミはつけるべきだろう。 或いは、そういう機関を省庁とは別に作れ、と提言するのもよかろう。

 そして、エリート役人は高給で結構だが、その代わり政策の責任は厳密にとらされることにする。 寺脇のように、アメリカのカリフォルニア州で失敗の先例がありながらそれを無視してゆとり教育を導入するような無能な官僚は、厳しく減給や降格、早期退職の措置をとる。

 毎日新聞の本日の社説も、昨日の記事も、そういう視点が完全に欠けている。 日本の知性国家への道はまだまだ遠い。

3月24日(金) 1週間ほど前、電気かみそりを買い換えた。

 まず、今まで使っていた製品の外刃に一部穴があいてしまったこと。 この外刃は替えてからあまり時間がたっていないのにダメになったのは内刃も悪くなっているからで、しかし外刃と内刃を両方替えると2千円以上かかってしまう。 これでは新製品を買うのとほとんど変わらない。

 加えて最近蓄電池が劣化してきたようで、以前は一度充電すれば2週間ほど持ったのに、最近は1週間と持たないのである。 それで新しいのを買うことにした。 私のヒゲは、薄くはないがそんなに濃い方でもないから、安いので沢山である。 2500円の特価品にした。

 これがなかなかいい。 形としては前のとほぼ同じで、しかも軽い。 また以前のはアゴから首筋に移るあたりがうまく剃れず、剃り残しが出たのだが、今度買ったのはそういうことがなくきれいに剃れる。 外刃の穴の開け方とか、微妙なところで差があるんだろうと思う。 メーカーの実力の差かな。 ちなみに以前のはH社製、今度買ったのはS社製である。

3月23日(木) ここ1、2週間、新聞は 「特殊指定」 見直し問題を大きく取り上げている。 何しろ自分の生き残りに関わる問題だから必死というわけなのだろう。 国立大学独法化後の惨状もこれくらい取り上げてくれれば、と思うが(笑)。

 「特殊指定」 というのは、地域や読者によって異なる定価をつけたり値引きしたりすることを新聞には禁じていることで、これを公正取引委員会が見直そうとしているのだ。

 そもそもは独占禁止法によって健全な競争を妨げる 「不公正な取引」 は禁じられているのだが、そのうち特定業種については 「特定指定」 として具体的な禁止事項を決めている。 その中に新聞や教科書も入っているのだが、最近、公正取引委員会が見直す方針を打ち出しているのである。

 新聞各社は、見直されると過当競争により過疎地では購読料が上がったり配達打ち切りが行われたりする可能性がある、として一様に反対している。

 実際はどうなのか、私にはよく分からない。 ただ、宅配制度が現状の全国5紙体制を守っている側面があり、新規参入があってもいいのではないか、とは思っている。

 例えば、朝日新聞が今でも日本の代表的な新聞とされているのは、宅配制度に守られているからだと私は思う。 宅配制度のもとでは新聞は習慣として購入されるから、よほどのことがない限りやめたり他紙に切り替えたりしない。 私は数年前に愛想が尽きて朝日をやめ毎日に変えたが、内容に不満を持ちながら朝日をとり続けている人は多かろう。

 雑誌と比較してみると、その辺は一目瞭然だろう。 岩波書店の 『世界』 にはかつてのような権威はとっくになくなっているし、部数も相当に減っている。 それは雑誌が新聞と違って基本的には書店で購入するものであり、宅配制度に守られていないからだ。 朝日新聞社の 『朝日ジャーナル』 に至ってはとっくに廃刊になっている。

 宅配制度がなかったら、朝日新聞も同じように大幅に部数を減らしているだろうと私は思う。

 もっとも、宅配制度が日本独自のもの、とは言えないらしい。 学生時代に或る先生が、新聞の宅配制度は日本独自のもの、と言ったのを私は覚えていて、そんなものかと漠然と考えていたが、今月15日付の産経新聞に載った記事を見ると、そうとも言えないらしい。

 この記事には、世界各国の新聞の人口1000人あたりの発行部数と、宅配率とが、表として添えられている。

 これを見ると、たしかに日本の新聞の宅配率は世界一高いが、スイス、オランダ、韓国も日本とさほど変わらない宅配率だし、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、米国、オーストリアもなかなかの宅配率なのである。 少なくとも新聞宅配が日本独自の制度、とはとても言えない。

 ちなみに人口1000人あたりの新聞発行部数で言うと、ノルウェーが世界一で、日本は僅差で第二位、以下、スウェーデン、フィンランドと小差で続き、少し差があってデンマーク、シンガポール、スイス、オーストリアと続く。

 私の勝手な解釈だが、人口あたりの新聞発行部数が多いのは、教育程度が高く、しかし国際政治の中心と言えるような立場にない国、ということになるのではないか。

 3月22日(水) 独文学者で東大名誉教授の登張正実氏の訃報が入った。 教養小説の研究で知られた方である。 もう30年あまり前になるが、東北大に出張講義に来られ、当時学部3年生だった私も講義を拝聴した。 

 講義の内容はすっかり忘れてしまったが、懇親会の折りだったか、或いは講義が一段落しての雑談の折りだったか、こんな話をされたのを記憶している。

 ある時、アメリカの大学に独文学の教授を訪問する機会があった。 そこで、東京大学の独文研究室の年間予算はいかほどでしょうか、と質問された。

 登張教授はこう考えた。 「正直に答えたらバカにされるに決まっている」。 そこで、実際の予算額より一桁多い金額を答えた。

 すると、相手方の教授は笑って、書棚から1冊の古書を抜き出した。 「これ1冊分ですね」。 

 日本では 「天下の東大」 と言われていても、オカネに縁のない学問に割り当てられる研究費はこんなものだったのである。 今、日本の国立大学は独法化されて、ますますひどい状態に落ち込みつつあるわけだが。

 気さくで穏やかな印象であった登張先生のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

3月21日(火) 日本が格差社会になりつつあるという議論が勢いを増している。 本日の産経新聞は、このテーマに関する国会論戦を取り上げ、どちらかというと格差が広がりつつあり問題だという視点での記事を掲載した。

 毎日新聞は新年から特集記事などでたびたびこの問題を紙面で扱っており、また地方欄でも、新潟市が財政危機から無収入のお年寄りへの福祉を切り下げるというニュースを掲載したりしているが、産経は、論調は必ずしも一様ではないものの、どちらかというと小泉首相の 「構造改革」 を支持する傾向が強かった。 しかしさすがの産経も格差の拡大が教育の平等という大原則を崩しつつあり、「スタートが同じ」 という前提がなければ 「金持ちは自分の努力によって富を得たのだ」 という議論も成り立たないことに気づき始めたらしい。

 そもそも保守論壇でも、西尾幹二など小泉=竹中路線に疑問をさしはさむ声が以前からあったわけだが、日本経済が回復しつつあると言われながら貧富の差が拡大している現状を見つめる目が今になってようやく強くなってきているのであろう。 結構なことだと思う。

 それにしても、実際はともかくとして、建前上の格差是正が必要だという議論が勢いを失い、格差拡大が日本経済を救う的な言い方が跋扈する (していた) のは、政治家が事実上世襲制になっているからではないか。 小泉首相然りである。 政治家の世襲を禁じる法律は作れないものだろうか。

  *   *   *   *   *   *

 さて、本日は午後7時から、りゅーとぴあで Bach's Birthday サロンで祝うバッハのお誕生日コンサートを聴く。    

 約3週間ぶりの新潟市でのコンサートである。 ソプラノが野々下由香里、ポジティブオルガンが和田純子、バロックチェロが西沢央子、バロックオーボエが尾崎温子という顔ぶれで、りゅーとぴあの舞台上、およびそれに隣接する2階席に客を入れる形で行われた。

 プログラムは当然ながらオール・バッハ、と言いたいけれど、1曲だけ例外あり。 前半が、カンタータ187番より 「神はすべての命を」、無伴奏チェロ組曲第1番、次が例外のマルチェッロでオーボエ協奏曲ニ短調、そして最近発見された 「すべては神とともにあり、神なきものは無し――ヴィルヘルム・エルンスト公の誕生日のための頌歌」 BWV1127より第1・10節、後半がオルガンソナタニ短調BWV964 (無伴奏ヴァイオリンソナタBWV1003の編曲)、カンタータ第202番 「今ぞ去れ。悲しみの影よ」(結婚カンタータ)。 アンコールに最初の 「神はすべての命を」 が再演された。

 いやー、いいコンサートでしたね。 特にカンタータは、なかなか全曲を新潟で聴く機会がないので貴重な体験。 バロックチェロのやわらかな音色も印象的。 野々下さんのソプラノもとてもきれいで響きがよくて、堪能した。

 和田純子さんは、たしか今回で新潟市の専属オルガニスト契約が切れるはず。 何か一言あるかなと期待したけれど、他の音楽家と一緒の演奏会のせいか、何もなし。 ちょっと残念。 舞台上の身近なところで拝見すると、演奏ももちろだが、とっても可愛いし、掌中の珠玉を失うような心地である (やや大げさか)。 また新潟で演奏を聴かせて欲しい。 ちなみに、今回の演奏会では西沢央子さんもなかなか魅力的な方であった。

3月20日(月) 教授会のあと、FDがあり、COEの 「特色ある大学 (大学院) 教育」 でいかに文科省の資金を得るかについて、担当の先生から説明があった。 これまで新潟大学はこの方面では工学部が他大学と共同して1度資金を得ただけなのだという。

 担当の先生のご尽力を否定するつもりは毛頭ないが、私には説明を聞いても、なぜそういう資金を取らねばならないのかが分からなかった。 はっきり言って、取ってもいいことなど何もないのである。

 資金は恒常的に出るものではない。 期限付きである。 それでいて、その 「特色ある教育」 は資金が出なくなったらおしまい、ではいけないのだという。 これは明らかに矛盾である。 「特色ある教育」 はお金が必要だから文科省がカネを出すのであり、いったんその効力を認めたからには恒常的に出すのが当たり前であろう。 その当たり前のことが文科省には分からない。

 また、資金の使い方には制約が多いらしい。 書籍購入やパソコンなどの機器類購入はいけないらしい。 教員を雇う人件費に使うのも駄目らしい。 「らしい」 というのは、例のごとく (文科省のやり口はいつでもそうなのだが)、文書として 「こういうのはいけません」 と明記されているのではなく、実際に文科省に申請を出してみて、あちらの反応を見てからでないと分からないということだ。 

 そもそも、こういう 「資金」 を得るには厖大な作文をしなくてはならない。 その労力だけでかなりのものである。 事務官がやってくれるわけではない。 教員が研究と教育の合間を縫うようにして相当の時間を費やして作文するのである。 そうして作文しても、通る可能性は高くないし、首尾良く通っても上のような理不尽な条件がついている。

 こんなものは最初からやらないほうがまし、というのがまともな人間の考えることだろう。

 これに限らない。 最近の 「改革」 では何にでも書類作りがからみ、優秀な若手研究者がこれに忙殺されている。 その時間があれば (そして恒常的な研究費が――文系なら――少々あれば) 学問的な成果が多く上がるであろうに、文科省は事実上、学問を窒息させようとしていると言って過言ではない。 

 第一、やるべきこともやらないでこういうものにばかりカネをかけている文科省は、莫迦の集まりではないか、と言いたくなる。 やるべきこともやらないで、というのは、新潟大学では私がかねてから当サイトで報告しているように、教室数が不足しているからである。 つまり、基本的な教育を行うインフラが整っていないのである。 基礎的なインフラもないのに、「特色ある教育」 も糞もあるまい。 また、教室が不足するに当たっては、文科省官僚の無能さにも相当責任がある。

 加えて、独法化後、教員は減る一方である。 新潟大学の人文学部でも、昨年度転出で中国文学語学教員が2人抜けたし、私の所属する講座からも定年などで2人の教員が姿を消した。 ところがこの合計4人がいまだに補充されないという異常事態が続いている。 「競争的資金」 は出しても人件費には認めないという文科省の姿勢は、こうしてガタガタになっていきつつある国立大の崩壊を早めるだけだ。 

 三食を抜いておやつに珍しいものを食べることに一所懸命になっている愚かしい子供のような文科省。 そしてそういう愚かな役所に文句ひとつ言えないばかりか、阿呆らしい政策に追随することしかできない大学教師。 そしてそれをまるで報道しないマスコミ。

 日本に未来があるとは、私にはとても信じられない。 

3月19日(日) 本日の毎日新聞読書欄広告にて、拙著 『若きマン兄弟の確執』(知泉書館、6090円) の近日発売が告知されました。 30日には朝日新聞にも広告が出るそうです。

 なにしろ高価な本なので 「買え」 と言うのも気が引けますが、まあ、買わずとも立ち読みで結構ですから、お手にとってごらん下さい。 「あとがき」 だけでもお読み下さるとありがたく思います。 今月末には書店 (と言っても無論、ある程度規模の大きい書店) の店頭に出るはずです。

3月18日(土) 日本独文学会のメーリングリストに、都内の大学にお勤めの会員の方から次のような投稿があった。

ドイツ座の公演『エミーリア・ガロッティ』(原作レッシング、演出ミヒャエル・タールハイマー)が3月19日から21日まで、彩の国さいたま芸術劇場で開催されます。皆様お誘い合わせの上、ぜひ会場へお越しください。S席5000円、A席3000円、学生は1000円です!

 3/19日 15時
 3/20月 19時半
 3/21祝 15時

 貴重な投稿だとは思う。 レッシングはドイツ文学の啓蒙主義を代表する劇作家・批評家であるが、その作品は日本ではめったに実演されないからだ。 

 しかし、こういう情報は、せめて1週間前くらいに出してもらわないと、私のように地方都市に住んでいる人間には都合をつけられない。 首都圏在住の方なら、3日のうち都合のいい日を選んで、ということも可能だろうけれど。

 土地勘、という言葉が適切かどうか分からないが、日本のマスコミも東京を中心にして仕事をしているから、時々、あ、分かってないな、と思うことがある。

 この投稿でも、「皆様お誘い合わせの上」 というその 「皆様」 とは、おそらく首都圏の人間だけを指している。 メーリングリストが日本全国の会員をカヴァーしている、という認識が欠落しているのだ。 そういう盲点を意識できるかどうかが、知性というものの一つの側面であるはずだが。

3月15日(水) またまた新潟大学ではドイツ語関係の定期的な文献収集が縮小された。 カネがないからである。 独法化してから研究費が激減し (従来の半分以下)、それ以外に出ていた教養教育経費も今年度から事実上廃止され、元手がなくてどうしようもないのである。

 すでに1年前に縮小しているのだが、今回、ふたたび縮小することになった。

 今回購入を中止することになったのは、ドイツで出ている 『グリム全集』、『シュティフター全集』、『シラー全集』 である。 いずれもドイツ語圏では第一級の作家・文筆家・学者であり、そういう全集も揃えることができない新潟大学は、もう研究機関と自称する権利をも失いつつある、と言っていいだろう。

 私はこの件に関して、1年前に長谷川学長に面会を申し入れたが、断られた。 この人はその挙げ句に、今回の学長選挙で投票では第2位にもかかわらず学長の座に居座る、という真似をやっている。 どういう人間か、分かろうというものだ。 (学長選挙については、1月30日の記事などを参照)

 すべてが、凋落を指さしている。 この大学にはあとどのくらいの命脈があるのだろう?

3月14日(火) 2005年度後期の1年生向け演習をとっていた学生に、期末レポートに関するメールを送付。 全員に送っているわけではなく、気づいた点があった学生にだけ先月に送ったのだが、先月にやり残していた学生が一人いて、ようやく本日メールを出したのである。

 この学生はヘッセの 『車輪の下』 についてレポートを書いてくれたのだが、私の送ったメールは他の学生にも (そして一般の人にも) 参考になると思うので、以下でその一部を公開しよう。 なお学生の名を記している箇所は 「あなた」 と書き換えた。

 *  *  *  *  *  *

 あなたは、レポートの最後で、こう書いています。

 《このように 「車輪」 の下敷きとなって苦しんでいる少年たちの数は、ヘッセの時代から現代にかけてさらに増加し、特に日本では他の国家よりもその割合が高いのではないかと思われる。》

 つまり、日本の若者は他の国の若者より勉強に追われている、ということですね。
 さて、大学生がこういうことを書く場合、漠然と 「そうじゃないかなあ」 と言うだけではいけません。 証拠を挙げないとちゃんとしたレポートにはならないのです。
 
 ではどうやって調べればいいのでしょうか。
 最近、「ゆとり教育」 についてマスコミなどで話題になっていることはご存じですね。 つまり、日本の学校で「ゆとり教育」が導入され、それがいいのか悪いのか、議論が起こっているわけです。 ですから、図書館などで教育関係の書棚を見て、そういう本をのぞいてみればヒントが見つかる可能性があります。

 さて、私の知っている限りでヒントを出しましょう。

 苅谷剛彦 『教育改革の幻想』(ちくま新書、2002年) を読むと、その118ページ以下に、日本の中学生の自宅での勉強時間は1965年から
2000年にかけてほぼ一貫して減少しているというデータが挙げられています。 つまり、あなたの世代の日本人は、35年前の世代に比べて平均で見ると明らかに勉強しなくなっている、ということです。
 
 では、国際間の比較ではどうか。
 小松夏樹 『ドキュメントゆとり教育崩壊』(中公新書ラクレ、2002年) の97ページを見ると、各国の中学生の学校外での平均勉強時間が表として載っています。 これを見ると、日本の中学生の学校外平均勉強時間は1,7時間で、国際平均の2,8時間を1時間以上も下回っているのです。 もちろん、国によって学校での拘束時間に差がありますので、これですぐに日本の中学生が勉強していないという結論を出すのは危険なのですが、少なくとも 「日本の中学生は国際比較でものすごく勉強している」 とは言えないことはおわかりでしょう。

 というわけで、調べてみると自分の思いこみが是正されることがよくありますし、大学での勉強というのは基本的にそういうものなのです。
 ちょっとしたヒントですが、これを参考に2年次以降もがんばって勉強して下さい。

3月11日(土) こないだ上京したときに古CD屋で買ってきたロリン・マゼール指揮ウィーンフィルによる 「マーラー第九」 のディスク、繰り返し聴いているが、ちょっと異形の演奏だ。

 といっても私はクラオタにはほど遠い人間だから、この曲のディスクもさほど所有してはいない。 最初にこの曲を聴いたのはクーベリック指揮バイエルン放送交響楽団による演奏で、LP時代のことである。

 その後、CD時代になってから、ワルター+ウィーンフィル、バーンスタイン+コンセルトヘボウ、ジュリーニ+シカゴ響、マズア+ニューヨークフィルといったディスクも購入したが、この曲の基本的なコンセプトに関しては大きな理解変更をこうむることはなかった。

 この交響曲が第1楽章と第4楽章に大きな比重を持つこと、そして第1楽章はそれこそ指揮者とオーケストラが力量の限りを尽くしてその複雑さとスケールとを表現し、他方第4楽章に関しては、仏教用語で涅槃という言葉があるけれど、力とか情念とかを脱した彼岸の音楽のごとくに演奏する、という理解である。

 ところがこのマゼールの演奏はちょっと違っている。 第4楽章に最大の力点を置いており、力がこもり、情念が渦巻き、涅槃どころか執着と執念の音楽とでも言うべきものになっているのだ。 最初は違和感が大きかったが、何度か聴いてみると、逆に他の演奏で第4楽章を聴くと物足りなく感じられてきた。

 しかし、その代わりマゼールの演奏は第1楽章が弱い。 第4楽章に拮抗していないのである。 最初の3つの楽章は最後の第4楽章の情念の海に呑み込まれるためにあるかのような印象だ。 それも1つの解釈ではあろうが。

3月8日(水) 新潟大学大学院・現代社会文化研究科の科長をしておられる鈴木佳秀教授の奥様が一昨日に亡くなられた。 本日10時から、告別式に出席する。

 鈴木佳秀教授は、学士院賞を受賞され、またご専門の聖書学の方面では何冊もの著書や訳書を出されるなど、新潟大学の看板教授として名を知られている。 また、人文学部長を2期4年務められたあとは現在の大学院科長の職務に就かれ、膨大な雑務をこなしながら、ご専門の研究をも怠りなく続けられているなど、その高い能力とご精勤ぶりにはただただ頭が下がるのみである。

 鈴木先生のご人徳を反映して、式場には多数の人が集まった。 敬虔なクリスチャンでもある先生は奥様とは教会で出会われた由。 奥様もクリスチャンとして様々な人道的な活動に従事し、また子育てを終えてからは法政大学に入って勉強されるなど、たいへんエネルギッシュな方であったようである。 享年64歳というのは現代日本女性としては短命の部類に入るだろうが、おそらくは平均的な人間の数倍の仕事をその間に成し遂げられたのだろうと拝察する。

 鈴木先生は、最後の喪主挨拶のなかで奥様の生涯を紹介されながらも、「私には書かねばならない本がある」 ときっぱりとおっしゃった。 ライフワークとして心中あたためてきたお仕事があるのであろう。 お仕事の完成を心から祈りたい。

 また、私のような怠け者も、先生のお話に打たれて、もっと仕事をしないといけないなと反省したことであった。

3月7日(火) 昨日の産経新聞に、石原慎太郎・都知事が 「地方分権、民営化の落とし穴」 という一文を寄せている。

 最近問題になっているマンションの耐震性、および設計のごまかしについて書かれている。 耐震性等については、国が資格を認定した建築士に、つまり民間にまかせるという仕組みになっているわけだが、今回のようにごまかしが生じ、被害者が出ると、その最終的な責任は誰にあるのか、という問題になる。 今回の事件では、政府は被害者救済を55%地方自治体の負担により公金で処理しようとしており、石原知事は、これは国が地方自治体へ負担を転嫁し、自分の責任を曖昧にしようとするものだとして批判しているのである。

 なるほどと思うが、私はすこしズレたところで考えることがあった。 なんでも民営化すればうまくいく、という最近の風潮とのからみである。

 今回の場合、法律的な解釈はどうなるか知らないが、国が資格を認定したとはいえ、最終的にはごまかしをやった建築士や、ごまかしを強要・誘導した企業に責任があるとするのが普通の考え方ではないか。 とすれば、なぜ公金で処理しなければならないのか、疑問が出てくるはずである。

 まして最近は増税を眼前に控えて、税金の使い方を厳しくチェックしましょう式の言い方がよくなされている。 公務員の不祥事で損害をこうむったのならいざ知らず、あくまで自前でやっている建築士や企業のごまかしで事件が起こった以上、税金を使って処理するのはおかしい、という声が出るのが当然ではないのか。

 この辺が、マスコミの実にいい加減なところだと思う。 民営化を推し進めろ、と言うからには、こういう被害に遭ってもあくまで国や地方自治体に頼らず、自前で処理して下さい、と主張するのが筋だろう。

 数日前の産経の特集記事には、公務員数を現在の10分の1にしろ、という過激な主婦の意見が紹介されていた。 なるほど、10分の1。 そうなるとどうなるか、その主婦は考えたことがあるのだろうか。

 公立学校教員や警官だって公務員である。 公務員数を10分の1に削減すれば、当然ながらそういうところにも影響が出る。 公立学校は1クラスあたりの生徒数を大幅に増やさざるを得ないだろうし、警官が減れば地域によっては治安が悪化するだろう。

 そうなっても、金持ちは困らない。 金持ちは学費の高い、しかし1クラスあたりの生徒数の少ない私立校に子供を通わせるだろうし、地価が高くとも治安の良い住宅地を選んで家を建てるか、或いは警備員を常駐させ安全性を売り物にしている高級マンションに住居を定めるだろう。

 そんな真似のできない貧乏人だけが、公立学校のクラス規模拡大や地区の治安悪化の影響をモロにこうむるのである。

 「なんでも民営化」 は実は金持ちにとって得であり、貧乏人にとって損なのである。 貧乏人は、そうした事情をもう少し考えておくべきだ。 増税の有無や公務員削減だけに気を取られるのでは、「朝三暮四」 に怒る猿と変わりがないことになろう。

 なお、中野雅至 『はめられた公務員』(光文社) を読むと、日本の公務員比率と税率が、現在でも先進国としては最低であることがよく分かる。

3月6日(月) 新潟大学で、またまたおかしな制度変更があった。 大学入試センター試験での監督報酬の件である。 センター試験は2日間あるわけだが、そのうち初日分しか監督報酬を払わないというのだ。

 独法化される前は、センター試験の監督をすると一定の報酬が支払われていた。 2日間やれば、言うまでもなく2日分報酬が支払われた。 センター試験の監督というのは結構大変で、朝早起きして夕方まで、全国共通の日程に違わぬよう気を使うし、科目数も大学ごとの個別学力試験より多いので、疲労の度合いが全然異なる。

 ちなみに、入試業務は結構数が多くて、センター試験と個別学力試験2回 (前期と後期) のほかに、推薦入試、社会人入試、3年次編入入試、大学院入試 (これも修士課程と博士課程は別) などなどがあるけれど、従来から報酬が支払われていたのはセンター試験と個別学力試験2回だけで、他の入試はタダ働きであった。

 もっとも、これらの試験監督を全部やらねばならないわけではない。 私に関して言うと、今年度はセンター試験監督は当たらなかった。 しかしそれ以外の入試監督が3回当たっている。

 話を戻して、なぜセンター試験で2日間監督をやって1日分しかカネを払わないかというと、要するにカネがないのだそうである。 わけの分からない話である。 よけいなところにカネを使わずに、必要なところに予算を組んでおくべきなのに、そういう初歩的な操作が新潟大学では放棄されているわけだ。

 独法化して、新潟大学はどんどんおかしくなっている。 これじゃ、労働基本法を守れ、なんて法学部で学生に教える資格すら、新潟大学にはないという結論になりそうですね。

  *   *   *   *   *   *   *

 駒大苫小牧高校の野球部が3年生の不祥事で甲子園選抜を辞退する騒ぎになり、大きく報道されている。 私は野球そのものには興味がないのだが、少し気になることがあるので、感想を記しておく。

 今回のケースでは3年生が卒業式の日の夕方、飲食店で酒を飲み喫煙をして騒いだことが問題になっている。 そこがどうも引っかかるのである。

 たしかに法律上は飲酒・喫煙は20歳になってからであり、高校卒業段階ではまだ20歳になっていないから法律違反には違いない。 しかし、厳密な法律解釈と世間の通念は別物のはずである。

 たとえば市内の道路はおおかたが40キロ制限だが、その制限を厳格に守っているドライバーはまずいないだろう。 40キロ制限という建前と実際の交通事情との懸隔は、だれもが知っている。

 酒やタバコもそうで、世間的な通念では高校を卒業した段階でだいたいが許されるという認識だと思う。

 大学なら、新入生は大半がまだ20歳未満だが、以前はそんなことにこだわる人間はいなかった。 私の学生時代を振り返ってみても、1年生の集団的な酒席――具体的にはクラスコンパ――は堂々ともうけられていたし、また教養部クラス担任の教授もその席に招かれて、半数以上が20歳未満の学生たちと酒を飲みながら話をしていたのだ。

 そんな30年前以上の話と言われるなら、私自身、ほんの数年前までは、1年生向け演習に出ている学生たちとコンパを開いていたと言っておこう。

 ところが、この1、2年、事情が変わってきている。 20歳未満の飲酒は公式的には好ましくないという建前が、大学内に浸透し始めたのだ。 どうも、何か事故があったときに親から訴えられると困る、という防衛的な考え方によるらしい。 世の中、だんだん窮屈になっていると言うしかない。

 たしかに、アルコールを飲めない人間に無理に勧めたり、自分の適量を知らない人間にバカスカ飲ませたりするのは問題があろう。 以前、熊本大学の医学部で新1年生に大量の酒を飲ませて死なせた事件があったが、ああいう野蛮さは論外である。

 しかし酒に慣れるという過程は、体質的に飲めない人は別にして、社会の中で生きていく人間が一度は通らなければならない関所のようなものであり、高校卒業の直後にその時期が――世間的には――設定されているのは、決して非合理的な仕組みではない。 喫煙についても同じことだと思う。

 そして、今回は卒業式のあとに野球部員もしくは元野球部員は酒を飲みタバコを吸っている。 卒業式が済んだら、もうその学校の生徒ではない、というのも、これまた世間的には普通の観念だろう。 法律的には卒業式の日の夜中12時まで生徒なのかも知れないが、これまた法律と常識のズレであって、それを厳密に適用するのはばかばかしいと私は思う。

 私が不思議に思うのは、以上のような常識論がマスコミのどこにも出てこないことである。 一人くらいこういう意見を吐く奴はいないのか、と思ったが、私がとっている毎日新聞と産経新聞には全然そういう見解が載らないし、インターネットで見る限り、読売と朝日も同様のようだ。

 いったい、マスコミの人間は全員が、20歳になってから初めて飲酒・喫煙をした品行方正なお方ばっかりなのだろうか? 断っておくが、私は今どきの高校生は大半が在学中に酒くらい飲んでいるよというような意味での常識論で物を言えと言っているのではない。 高校卒業という大きな切れ目が、長い間日本では大人への仲間入りの区切り目だと見られてきたという慣行の意義を擁護する人間はいないのか、と言っているのである。

 マスコミのこういう見事なまでの事なかれ主義は、それこそ大問題ではなかろうか。

3月5日(日) 大形卓球大会に参加。 北地区体育館にて。 1年に2回開催されるダブルスだけの大会である。 毎回書いているけれど、企画と実行を担当している大形卓球クラブの方々のご苦労をねぎらいたい。 今回は120名ほどが参加した。

 いつものように、午前中と午後とはくじ引きでパートナーを変え、それぞれ5ないし6チームが1まとまりとなってリーグ戦を行う。 私は午前中は (5チームで) 2勝2敗、午後は (6チームで) 3勝2敗でした。 友好第一の穏当な成績と言えるでしょう (笑)。

 昼間に恒例のボール当てゲームがあった。 卓球台の隅に発泡酒の缶をおき、反対側からサーブをしてボールを当てるとその発泡酒がもらえるというもの。 1台1缶のみで、1台当たり5ないし6人でやるのであるが、私は今まで一度も当たったことがなかった。 しかし今回はうまく当てて発泡酒をゲットしました。

 今回はくじ引きの結果、午前も午後も体育館の隅にある台で卓球をやることになったが、卓球をふだんからやっている方はどなたもご存じのように、体育館の隅の方は光の当たり方が均等ではないので、壁側のサイドでやるとボールが見えにくい。 月が新月時には光が地球側からは当たらないので空に出ていても見えないように、卓球のボールも、体育館の壁側にいると、中央の方からの光が多く当たるので、見えづらいのである。

 どうも、体育館というのは、卓球のこういう事情をあまり考えずに作られているように思う。 壁際でも均等に光があたるような設計はできないものだろうか。

3月2日(木) 東京大学独文科の藤井啓司助教授が、昨年夏に亡くなられたとのこと。 本日D社 (ドイツ語の教科書を出している出版社) から送られてきた小冊子に、以前東大独文の教授をしていたA氏が追悼の一文を寄せていたので初めて知ったのだが。

 といっても、藤井氏と私は面識があったわけではない。 話をしたこともない。 ただ、以前藤井氏がD社の小冊子に面白い文章を寄せていたのと、数年前の学会のシンポでの人を食った司会ぶりを覚えていただけのことである。

 面白い文章というのは、以前もこの欄に書いたことがあるが、昔の東大独文の教師は神であったり英雄であったりしたが、現在の自分 (つまり藤井氏) はサラリーマン教師になりはてている、という内容であった。 つまり、昔の東大生は放っておいても自分で勉強したが、今はそうではなく、一から手取り足取り教えなければいけなくなっている――そういう時代の教師であるご自分を、藤井氏はユーモラスに、サラリーマン教師と名付けられたのである。

 シンポでは、現代ドイツ文学を論じる内容で、若手研究者をそろえての発表がひととおり終わって、まだ時間がかなり残っていたので、「これからどうやってつなごうか、実は考えてなかったので思案しているところなんですが」 と司会の藤井氏が言われたので、会場がわいたのが記憶に残っている。

 また、藤井氏には、日本ではあまり知られていない現代ドイツ作家ボートー・シュトラウスの小説を邦訳した業績もある (『マルレーネの姉』、同学社刊)。

 A氏の追悼文は、なぜか藤井氏ではなく自分のことばっかり書いてあって、どういう人なのかなと思ってしまうのだが、47歳で亡くなられた俊秀に心から哀悼の意を表したい。 優秀な人は早死にする、という好例だと思う。

3月1日(水) 読売新聞のインターネットニュースに下記の記事が掲載された。 わが新潟大学も結構がんばっているのだ。 こういう優秀な方が集まりやすい大学になるといいと思うね。 文系理系を問わず、です。

 http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20060301i102.htm 

 注目された研究者ランキング、日本人が4年ぶりトップ

 学術文献の情報提供を行っている米国の 「トムソンサイエンティフィック」 は28日、過去2年間の 「世界で最も注目された研究者ランキング」 を発表した。

 1位は審良静男・大阪大教授(免疫学)で、日本人が4年ぶりにトップを占めた。 2位は田村詔生・新潟大教授(物理学)ら2人。

 ランキングは、2003年11月〜05年10月に出版された研究論文のうち、05年9〜10月の被引用回数で全体の上位0・1%に入った論文をその研究者が何本書いているかで算出する。

 1位となった審良教授は、体内の免疫細胞が病原体を認識する「Toll様受容体」を発見、解析を進めている。その「論文」数は11本で、2位の田村教授らの8本を上回った。

 このほか論文7本の3位(8人)に渡辺靖志・東工大教授(物理学)、同6本の4位(10人)には名古屋大や高エネルギー加速器研究機構の研究者4人が入った。 (2006年3月1日10時39分 読売新聞)

2月27日(月) デンマークのジャーナリズムがイスラム教の教祖ムハマッドのカリカチュアを掲載したことに端を発したごたごたは、多方面に波及し、様々な議論を呼んでいる。 日本では、発端となったカリカチュアはどのメディアも転載していないようだ。 

 毎日新聞はその点について、報道や表現の自由は尊重するが、他文化への敬意もないがしろにされてはならないから転載はしない、という意味の見解をしばらく前に紙面に掲載した。

 一方、宮崎哲弥が産経新聞のコラムに書いていたように、表現の自由は宗教との闘いのなかから生まれたのだから、異文化としての宗教を尊重しろというのはナンセンス、という意見もある。

 どちらに理があるかといえば、言うまでもなく、宮崎のほうだろう。 しかし、日本はイスラム文化圏と距離的に遠く、あまり交流がないせいか、ヨーロッパに比べるとどうも報道が他人事のような印象がある。

 だが、日本はすでにこの点でイスラム文化圏から被害を受けていることを忘れてはならない。 ラシュディの 『悪魔の詩』 という、イスラム原理主義者が目の敵にしている文学作品を邦訳紹介した筑波大学助教授・五十嵐一氏が、何者かによって殺されているからだ。 この殺人事件は1991年に起こり、いまだに解決されていないが、イスラム原理主義者による暗殺である可能性が高い。

 むろん、だからイスラム教が危険だと言いたいのではない。 イスラム教徒にも色々な考え方があり、原理主義的な急進主義者は、キリスト教原理主義同様、必ずしも信仰者の核をなしているわけではないからだ。

 ただ、日本もこういう形ですでにイスラム原理主義者から被害を受けている以上、こういう場合は表現の自由を支持する、とはっきり言っておく必要があるはずではなかろうか。 

 表現の自由は、上から与えられて何のごたごたもなく享受しうるものではあるまい。 圧力や、日本なら 「空気を読め」 式の自主規制要請がそれとなく寄せられたりするものだ。

 大学だって例外ではない。 対外的には表現の自由を訴えているくせに、内部的には平気で圧力をかけたり、文科省には何も言わない (言えない) くせに下の人間にだけ強圧的だったりする。 

 繰り返す。 ふだんの闘いやごたごたの中でこそ、表現の自由は守られねばならないのである。 

2月26日(日) 昨日に続いて映画を見に古町へ。 昨年も書いたことだが、こういう時でないと古町に来る用事がない。 映画館はないし、コンサートホールからは少し離れている。 また、コンサートホールにもクルマで来るので、駐車料金が気になって、ちょっと足を伸ばそうかという気にならないのだ。

 映画の後、萬松堂書店に寄る。 相変わらず新潟市で最も充実した書店だな、と思う。 最近、紀伊国屋書店新潟支店は衰退の一途で、これなら郊外の駐車場付き書店のほうがマシではないかと思うほど。 その分、萬松堂のがんばりが目立つのだが、古町になかなか来る機会がないのが残念である。

 次に、Withビルに入っている古CD屋に、これまた久しぶりに寄ろうとしたら、店舗の移転のため休業だった。 移転と言っても、同じビルの別の階に移るということなのだが。 3月1日新規開業だそうです。

 で、次に古町のBOOKOFFに行ってみた。 本ばかりじゃなくCDも売っているわけだが、クラシックCDの値つけが高い。 定価の3分の2なのである。 ふつう、BOOKOFFといったら定価の半額が売り物のはずだが、そうなっていない。 この点は西新潟にある他のBOOKOFFも同じだから、共謀 (?) してやっているのであろう。

 BOOKOFFも分かっていないな、と私なぞは思う。 今どきは安い外盤CDが簡単に手に入るのだから、国内盤の3分の2の価格じゃあ、売れっこないのである。 勉強せい!と叫びたくなる。 結局、CDも本も買わずに出る。

 それから古町通に昔からある古本屋に寄る。 1冊買いました。

 さて、古町をぶらぶらしてから、小5の娘と落ち合って、午後5時よりりゅーとぴあで東京交響楽団第35回新潟定期演奏会を聴く。 指揮はユベール・スダーン、ヴァイオリン独奏がイリア・グリンゴルツで、オール・モーツァルト・プログラム。 交響曲第29・39番とヴァイオリン協奏曲第5番。

 協奏曲では、イリア・グリンゴルツの美しい音にうっとり。 特に第2楽章にその特質が表れていたよう。 テンポを落とし叙情性を重視したビューティフル・モーツァルト。 東響定期に登場したヴァイオリニストのなかでも、音の美しさでは1,2を競うレベルかな。 ただしその代わり第3楽章はちょっと物足りない印象が残る。

 交響曲2曲は、日頃の演奏会に比べて編成を小さくしてあったが、音や演奏の印象はふだんの東響定期とそれほど変わりがないように感じた。 パウゼを露骨に挿入している箇所があって、あれ?と思ったが、ダイナミズムやアクセントよりは音の揃いが重視されている印象。 でも、悪くなかった。

 アンコールに、「皇帝テイトの慈悲」 序曲が演奏された。 満席ではないが、入りは最近としては良い方であろう。

 さて、娘の感想は 「つまらない」。 ううむ、第二のモーツァルトは無理か・・・・・。

2月25日(土) 久しぶりに古町に出る。 にいがた国際映画祭で上映される映画を市民プラザで見るためである。

 映画に先立って昼食をとる。 パスタが食べたかったので、たまたま目についたCというイタリア料理屋に入る。 長年親しまれてきた 「バルカローラ」 という風情ある店がなくなってしまったことは、昨年の今頃、このコーナーに記したとおり。

 さて、このCという店、結構混んでいる。 カルヴォナラを頼んだ。 うーん、まずくはないけれど、ほめるほどうまいというわけでもないですね。 まあ、私はグルメ趣味はない人間ですので、この記述もあてにはしないで下さい。 値段は900円、食後の紅茶付き。

 肝心の映画祭だが、これまでは映画祭で上映される全作品を紹介したパンフを配布していたのだけれど、今年はそれがなくなったようだ。 どうやら市の予算難による経費削減のためらしい。

 人の入りも、何となくの感じであるが、例年より悪いような気がする。 魅力的な映画が少ないからか、宣伝不足からか。 だいたい、上映作品の紹介が映画祭開始の4週間前ってのが遅すぎると私は思う。 十分市民に浸透しないうちに行事が始まってしまっているのではないか。

 今年、韓国映画が1本もなかったのも珍しい。 この映画祭はアジア映画に重点をおいて上映するという建前になっているわけだが、おそらく、韓国映画はブームになって借用するにも料金が高騰し、市からの予算は逆に削減されているから、という事情があるのだろう。

 代わりに今回はジャズ映画を集めて、というのを売りにしたようだけれど、私みたいにジャズに趣味のない人間からすると、どうもなのである。

 映画の後、営所通の古本屋2軒を久しぶりに訪れてみた。 1軒は本の量がかなり減っていて、あれ、と思う。 衰退しているのかなあ。 ともあれ、2軒で3冊の本を買いました。

2月22日(水) 新潟に戻る日。 夕刻前、新宿紀伊国屋書店に寄ったら、ちくま文庫の 『江藤淳コレクション』 の第3巻を見つけて、即買う。

 全4巻のこのシリーズ、私が買おうと思ったときはすでに版元品切れになっていて、第1、2、4巻はネット上の古本屋で購入したのだが、第3巻だけ欠けていた。 いや、第3巻もネット上の古本屋に出ているのではあるが、定価を大幅に上回る値段がついているので、買う気がしないでいたのだ。

 版元品切れでも大きな本屋では店頭に並んでいることもあるから、というので、新潟や東京の新本屋も探してみたのだけれど、見つからなかった。 本日の発見も、文庫本の棚ではなく、日本文学評論の棚の中におかれていたものである。 死角、と言うべきだろうか。

 何でも真面目に探せば、見つかるものなんですね。

2月20日(月) オペラシティホールで、飯森範親指揮ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴く。 飯森さんは東京交響楽団の新潟定期で新潟市でもおなじみだが、ヴュルテンベルク・フィルの音楽監督もされているのだ。

 演奏の合間にトークがあり、このオケがある町は人口11万程度だけれど定期演奏会はいつも満席になるとのこと。 ううむ、合併して80万都市になったものの年5回の東響定期がなかなか満席にならない新潟市のことを思うと、やはりこの点では彼我の差はかなりあるなと考えないわけには行かない。

 プログラムは、西村朗の新作、ベートーヴェンのロマンス1・2番 (千住真理子独奏)、ベートーヴェンの英雄交響曲。

 前日の東フィルとの比較で言うと、ホールの差もあるかも知れないが、音に迫力が感じられない。 特にメインの 「英雄」 でそうだった。 弦は低音だけが目立っているし、管の音もあまり迫ってこず、弦に隠れがち。

 飯森さんのトークによると、英雄交響曲は新しいベーレンライター版の楽譜を用い、第一楽章は早めのテンポを心がけているとのことだが、上述の通り音が弱めなのでインパクトがないし、かといって少人数の古楽器演奏みたいに躍動感があるというのでもない。 最後はアンコールに 「フィガロの結婚」 序曲と 「ハンガリー舞曲」 第1番を立て続けにやって盛り上げたが、メインの演奏がイマイチなので、全体の満足感ではもう一つであった。

 この日も後ろの方で、中年男性らしい客が 「ふああああ」 などという寝ぼけた声をしばしば発していて迷惑。 マチネー (午後2時開演) だから昼寝に来たのかも知れないが、場末の映画館ならともかく、今どきは昼寝するために演奏会に来る人もいるのだろうか。 もっとも、最近は 「場末の映画館」 も少なくなりつつあるので、駆逐されてコンサートホールに、ということなのかもしれないが(笑)。

2月19日(日) 本日は東京に出かける予定だが、昨日は夜中の12時すぎまで研究室で仕事をしていたので (だから昨日じゃなく本日になるけれど)、帰宅して風呂に入り軽い食事と飲酒をしてから就寝したのが午前3時頃だった。

 それでも、午前11時頃の新幹線に乗ればいいので、9時半までは寝ていられるな、と思ったら、朝8時に電話がかかってきてたたき起こされた。 

 女房と娘は昨日から一泊でスキーに出かけており、次男は市内の義母のところに泊まったので、本日は私しか家にいないのである。 無視しようとしたが、電話はしつこく鳴り続け、いっかな切れようとしない。

 しかたなく眠い目をこすりながら出て 「はい」 と言ったら、名乗らず切れた。 ったく、こういう電話をかけてくる奴は叩きのめしたくなる! 無礼者!

 というわけで、その後は寝付かれず、睡眠不足で東京に向かう羽目に。 そのせいか、この日はポカが多かった。

 まず、電気かみそりを家に忘れてしまった。 内野駅で新潟行きの電車に乗ってからはっとしたが、時すでに遅し。 おかげで水曜日に新潟に戻るまでひげをそらずに過ごすことになった(笑)。

 第二に、東京駅に着いて下車したが、車内にコートを忘れてしまった。 新幹線の改札口を出てから気づき、とって返したがすでに乗ってきた新幹線は車内清掃が始まっており、事務室で清掃員が忘れ物を届けに来るのを待つ羽目に。

 第三に、この日は午後3時から鎌倉でコンサートを聴く予定だったので、東京から東海道線で大船に向かったのだが、大船駅を出るとき、内野駅で買った乗車券をそのまま自動改札口に通してしまった。

 と言っても分からない人が多いでしょう。 新潟から新幹線で東京方面に向かうとき、私は3泊以上する場合は、周遊切符を買う。 単なる往復切符より少し (2千円ほど) 高いが、その代わり首都圏のJRは新幹線を除いて5日間乗り放題だからモトは十分にとれる。 ゾーン券は、東は成田・取手まで、北は大宮まで、西は高尾・奥多摩・大船・久里浜まで有効だから、かなり使いでがあるのだ。 (例えば、この日私は大船まで行ったわけだが、都区内までの切符だと蒲田から大船までは乗り越しになるから、往復で千円ちょっとかかる。 すでにこれだけで往復切符より高額な分の半分は回収できているのである。)

 周遊切符は、新潟から 「東京都区内」 までの切符と、首都圏ゾーン切符から成っている (もちろん、都区内から新潟までの帰りの切符もある)。

 だから、都区内なら新潟から 「東京都区内」 までの乗車券を自動改札に通せばいいのだが、大船は神奈川県だから、これでは駄目で、ゾーン券を通さなければならなかったのである。

 で、不思議なのは、こういう場合、自動改札はピーという音が出て客が出られないように簡易扉が閉まる、というふうになるはずだと思うのだけれど、なぜかそうはならず、入れた 「都区内」 までの切符がそのまままた出てきて、私は普通に通過できました。 機械も寝不足だったのだろうか(笑)?

 さて、演奏会である。 大船の鎌倉芸術館でチョン・ミュンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団の演奏でマーラーの第九を聴く。

 このホール、私は初めて入ったけれど、1500席で大ホールとしてはやや小ぶりかな、という感じ。 舞台にオケの面々が並ぶと余裕がなく、ちょっと窮屈な印象。

 演奏は、余りテンポを落とさず、表現意欲が前面に出てくるもの。 弦の揃いは新潟で定演をやっている東響と比べて良くないが、代わりに強度がうかがえた。 昨年の東響定期での飯森指揮の演奏とはその意味で対照的だったと言えるだろう。

 しかし私のすぐ後ろの席に、小学校2、3年くらいの男の子を連れてきたバカ母がいて、困った。 当然ながら男の子は1時間半黙ったままではいられないからだ。 連れて来るなら、最近は家族連れ向けのコンサートもあるんだから、そういうのにしろ!と言いたくなる。

2月16日(木) 朝起きて朝食をとろうとしたら、女房が、「天国の 『天』 に、しんにょうに折ると書いて、なんて読むの?」 と訊いた。

 一瞬 「へ?」 と思ったが、すぐに事態を理解した。

 「そりゃ、『天』 じゃないよ。 てっぺんの線が左下がりの 『夭』 って字だよ。 『ようせい』 と読む」

 訊いてみると、宮沢賢治の若くして死んだ妹を歌った曲を市内の音楽家でやることになったのだが、その紹介文を或る人に執筆してもらったところ、「宮沢賢治の妹は 『夭逝』 し・・・」 という風に書かれていて、それが女房を含む市内の音楽教師5人が雁首そろえていながら読めず、「『てんせい』 ってどういう意味かしら? 国語辞典にも載ってないよね」 「印刷に回さねばならないのにどうしよう、困った、困った」 ということだったのだそうな。

 私の教えを受けて、女房はさっそく責任者の音楽教師に電話していた・・・・・・。

 ・・・・・・うーん、困りますね。 「夭逝」 を読めない大人もいるだろうとは思うけれど、教員をやっている人間 (つまり、大卒ですよね) が5人集まって誰も読めないとなると、かなり問題があるのではないだろうか。

 やっぱり、学力低下は大人まで、という説は本当みたい。 いや、音楽教師は特に教養がないのかもしれないけれど。

 これは以前にも書いたことがあるが、音楽教師が4人集まって、だれもベートーヴェンに完成したヴァイオリン協奏曲が1曲しかないことを知らなかった、という体験 (あえて 「体験」 と書きますが) を私はしている。 これは教養じゃなく専門に関わることだけに、大問題だと思うんですが。

 偶然と言うべきか、少し前に学生のレポートを読んでいたら、「祖母が夭逝したとき・・・・」 なんて文章を見つけた。 私は早速その学生にメールを送り、「夭逝」 の意味を辞書で調べておくように言っておいた。 

 その学生はちゃんと返事をよこし、今までこの言葉の意味を間違って理解していました、と書いてきた。 ・・・・・ということは、もしかすると高校時代、そして大学に入って3年間 (その学生は3年生)、何度かレポートなどでこの言葉を誤用しながら誰も指摘してくれなかった、という可能性もあるわけだ。 ううむ。

 いや、私も偉そうに書いていますが、漢字熟語の読み方を間違って覚えていて、公開の席で赤っ恥をかいたことがあります。 間違いはなるべくお互いに遠慮なく指摘して、率先して学力低下を防ぎたいものです――という結論でいいかな。

2月9日(木) 4限、1年生向けの人文総合演習。 本当は先週で終わっているはずだったのだけれど、12月の大停電で1回休講となり、予定が狂ってしまい、本日の補講となった。

 本日でコンスタンの 『アドルフ』 を読了し、半年で5冊の文庫本を読み上げたことになる。 最後に、5冊の中で何が一番良かったかを学生に聞いてみたところ、次のような結果となった (読んだ順)。

  シェイクスピア 『ロミオとジュリエット』 4

  夏目漱石 『それから』 4

  ヘッセ 『郷愁』 2

  三島由紀夫 『金閣寺』 7

  コンスタン 『アドルフ』 0

 うーん、『アドルフ』 は人気がありませんでしたね。 実を言うと、私自身は今回再読を含めて読んだ3冊の外国文学では 『アドルフ』 が一番面白いと思ったのだけれど。 やはり不純な動機から始まって抜き差しならないところまで行ってしまう愛、というのは、20歳くらいの現代日本人にはなかなか切実さが感じられないのだろう。

 また、本日の授業でも、この二人は本当に愛し合っているのかどうか分かりませんでしたという意見が出たが、現実の 「愛」 が 「本当」 と 「嘘」 の狭間にあるという理解には或る程度馬齢を重ねないと到達しえないのかも知れない。

2月8日(水) 明後日が卒業生の卒論口頭試問なので卒論読みに追われている。 そのさなか、某3年生が本を借りに来る。 私が授業中に紹介した本を使ってレポートを書きたいので貸してくれ、というのだ。 調べたんですけれど図書館においてないんです――と。

 そりゃ、おいてないでしょう。 ほんの数ヶ月前に出たばかりの新書本だからね。

 仕方がないので貸してやる。 仕方がないというのは、貸すのが嫌だということではなく、新書くらい自分のカネで買え、と言いたいのだが、気の弱い (?) 私のことで言えないからなのです。 実は昨日も同じようなことがあったのだ。

 しかし、この際だからここに書いておこう。 値段の高いハードカバーや、品切れ・絶版になっている本を教師に借りるならいいが、出たばかりの文庫や新書くらい、自分のカネで買うのが大学生なんだぞー! もちろん、私は研究費じゃなくて自分のカネで買っているのです。 当たり前か (笑)。

 でも、昔、新書本まで研究費で買っていた同僚もいたっけ、とふと思い出してしまう。 幸か不幸か今は新潟大にいないけれど、奥さんの尻に敷かれて小遣いの少なさをかこっていた人である。

 研究者を目指す人は奥さんをよくよく選びましょう。 

 なんだか、変な結論になってしまいました。

2月3日(金) ゼミの新年会。 兼4年生卒論完成祝賀会。 昨年と同じ工学部脇の寿司屋にて。 本日は猛烈に寒い。 あいにくの天気、という奴である。

 去年はここで寿司の前に鴨鍋を食べたんだけれど、今年は残念ながら鴨鍋がない。 中国で病気が流行っているからだとおやじさんが言う。 はあ、昨年の鴨は中国産だったのか、と今更ながらに思う。 仕方なく寄せ鍋にする。

 それにしても、相変わらず安い店である。 学生4人と私で寄せ鍋と握りの上、それにカッパ巻や鉄火巻やその他の料理を適当に食べながら飲んで18000円である。 まあ、今年の学生はあまり酒に強くないということもあるが。

 天皇家の話が出る。 左翼全盛だった私の学生時代と違って、今どきの学生はだいたいが天皇制肯定派のようだ。 話は当然ながら今問題になっている世継ぎや皇室典範改正案に行く。

 江戸時代、徳川将軍家は、側室制度があったにもかかわらず7代目で途絶え、紀伊から吉宗を迎えた。 お家の連続性を保つために紀伊と水戸にサブをおいておく、というのはよくよく考えられた制度である、みたいな話をして、ついでに酔った勢いで私の父方の本家の話もしてしまいましたが、ここでは省きます。 要するに、今の天皇家のように女の子ばかり生まれるのは確率的には低いようでも案外起こることなのだ、という話であります。

 (この忘年会の4日後、紀子妃懐妊のニュースが日本中を揺るがしたのは、我がゼミの先見性を物語るものであった――かもしれない。)

2月2日(木) 本日から、当サイトの背景の色が多少変わりました。 これは、昨年11月に研究室のパソコンを入れ替えたものの、サイト更新は事情があって古い方のパソコンから行っていたのが、本日、パソコンに詳しい学生をバイトに雇って新しい方のパソコンにHPのファイルを全部移し替えたためであります。 (移し替えると何で色が変わるのかは、パソコン音痴の私には分かりませんけれどね。)

 ただし、本日更新分から色が変わりましたので、本日は表紙とこの 「音楽雑記2006年」 のみ背景が白色、ほかは従来どおり黄色みがかった色のままとなっております。

 不審の念を抱かれた方のために、ご説明申し上げました。 今後ともよろしくお願い申し上げます。

1月31日(火) 今朝の毎日新聞に、北大が九大と連携するというニュースが掲載されていた。 とりあえず2月に合同でCOEプログラム活動報告会を東京で開くという。 日本の北端と南端の旧帝大同士の連携というのは、いかにも現代的な事件、と言うべきなのか。

 一昨日の毎日新聞には、五百旗頭(いおきべ)真・神戸大教授の一文が掲載されていた。 来年度に定年退官する五百旗頭教授は、自分のゼミの様子について紹介している。 教授のゼミ生は毎週1冊本を読んできて3点のコメントをしなければならない。 午後5時から始めたゼミが夜10時にまで至ることが珍しくないという。 そして、秋になると他大学とのディベート大会が開かれる。 今年は、一橋大・慶大・京大との合同セミナーを神戸大で開いたという。

 新潟大にも、この種の他大学の学生と競い合うような場が必要だろう。 新潟大に限らないが、地方都市の大学はどうしてもお山の大将的になりやすく、のんびりし、悪くすると易きにつき楽な道を選んでしまう。 「大志」 を抱き続けるためには、競争意識が何にもまさる薬となるはずだ。

 閑話休題。 夕方シネ・ウインドに映画を観に行ったら、新しくこの映画館の専従になった大滝朋恵さんを斎藤代表から紹介された。 これまでは倉島綾子さんが主としてカウンターでいわゆる切符もぎをやっていたが、倉島さんが3月限りで退職するので、その後がまということである。 

 倉島さんもノーブルで魅力的な女性だったが――退職されるのは、詳しくは存じ上げないが、最近結婚されたことと関係があるのだろうか――大滝さんもたいへん愛らしく、「看板娘」 としての資質が十二分にありそうだ。 きっと大滝さん見たさにウインドに通う映画ファンも増えるのではなかろうか。 こういう 「動機不純」 さも案外大事ですからね(笑)。

1月30日(月) 新潟大学の学長選挙をめぐるごたごたについて、新潟日報に社説が掲載された。

 「全国国公私立大学の事件情報」 中の 「カテゴリー 学長選挙」 からの引用 (このサイトには今回の事件全体の経緯も載っている)

http://university.main.jp/blog3/archives/cat17/ 

 『新潟日報』社説 2006年1月30日付

 新大学長選考 説明責任をどう考える

 独立法人化後初めて行われた新潟大学の学長選をめぐる混乱は、とうとう裁判に持ち込まれることになった。

 ここまでこじれた責任は、十分な説明責任を果たしていない大学当局と学長選考会議にあるといわざるを得ない。

 学長選に絡み、大学の教育研究評議会委員を務め学長候補にも推されていた二氏を含む三氏が学内ポストの辞任を表明する事態となった。手続き論だけで批判をかわすのではなく、選考過程を積極的に公開する透明性が求められる。

 従来の学長選びは事実上、教職員ら有権者の投票で決まっていた。ところが国立大学法人法では、決定権は学長選考会議が持つことを明確にした。

 教職員らによる第二次意向投票の結果と学長選考会議の決定とが食い違ったのが混迷の始まりである。しかも、選考会議の議長は票決の数字や議論の内容を公表しなかった。「混乱を拡大しないために」がその理由だという。

 理解に苦しむ説明である。これでは表ざたにできない何かがあると思われても仕方がない。投票と異なる結果を導き出したなら、より丁寧に説明し学内の理解を得る努力が必要ではなかったか。

 新大では提訴されたことに対して「大学法人法や学長選考規則にのっとっており問題はない」とコメントしている。

 法的条件は満たしているのかもしれない。だが、問われているのは学内民主主義であり、情報公開の在り方である。真理探求を旨とする大学が、最高責任者の選考過程を公開できないとは情けない限りだ。

 国立大学は法人化されて間もなく二年になる。本格的な改革はこれからが正念場である。学長のリーダーシップや意思決定のスピード化も求められよう。

 その場合には、情報公開や説明責任を尽くすなどの裏打ちが不可欠だ。理念と目的、手法を明確化することで、学内に一体感が生まれてくる。

 法人化後の大学の変化に戸惑いの声があるのは否定できない。学長選の混乱を招いた遠因との見方もある。

 災い転じて福となすべきだろう。新大と学長選考会議は、会議で交わされた意見や決定の経緯を明らかにし、学内融和を図る姿勢が求められている。

 併せて、意向投票の位置付けや選考会議の持ち方も、再吟味してみてはどうか。公開性と透明性を欠く会議では学長選考にふさわしいとは思えない。

 入試の二次試験が目前に迫っている。一刻も早く正常化し、新しい年度を迎える態勢を整えてほしい。

1月28日(土) 午後1時過ぎ、大学から車で7分ほどのSという回転寿司に昼食をとりにいく。 実は初めて行く店である。 今までは回転寿司というと車で5分ほどのPという店に行っていたのだが、新規開拓ということで。

 入ってみると、まず店員が席に案内してくれる。 自主的に適当な席を選ぶPとは勝手が違う。 お茶も粉茶で、パック茶のPとは違う。 会計の時は席の向かい側についているボタンを押すことになっており、店員に声をかけて席を立つPとはやはり異なる。

 回転寿司といっても進化しているのだろうか (粉茶にはちょっと違和感があるけれど)。 しかもSは値段が安い。 Pも安い方だと思うが (一皿110円、220円、税別)、ここは全部100円 (税別) である。 高級なネタは1カン1皿という仕組みだが、大抵のネタは2カン1皿なのだ。 ウニやアンキモといったネタまで2カン1皿で100円なのである。 ちょっとびっくり。 

 しかし、無論私の財布からすると安くてありがたいのだが、どこかに無理が行ってないのかな――例えば流通経路とか、原産地とか――というかすかな疑問が胸をかすめないでもない。 ううむ。 ともあれ税込み840円で腹一杯になりました。

 店を出てから、内野駅前に少し前にできた古本屋に寄ってみた。 最近流行のBOOKOFF的な店ではなく、昔風の古本屋なのである。 寄ってみたいと思いながら時間がなくて前を通り過ぎる日々が続いていたが、本日はヒマがあったので。

 店内に入ると、どう見ても勤務先を定年退職した年齢のおやじさんが、ベートーヴェンの英雄交響曲第2楽章をかけていた。 バックグラウンドミュージックからしてBOOKOFFとは異なるのだ。 ううむ、昔風ですなあ。

 とはいえ、品揃えはたいしたことがない。 しかし店の奥に古い文庫本を集めたコーナーがあったので、そこを丹念に見ていったら、ワイルド(福田恆存訳)『サロメ』(岩波文庫) とゴーティエ(田辺貞之助訳) 『或る夜のクレオパトラ』(河出文庫) があった。 特に後者は、こんな作品が存在すること自体知らなかったので、掘り出し物である。

 だがしかし――この2冊には値段が書かれていなかった。 カウンターに持っていって、恐る恐るおやじさんに値段を尋ねたら、「30円ずついただきます」 という答え。 欲がないねえ。 感激! 

 「またどうぞ」 というおやじさんの声に送られて店を出たが、この店の掘り出し物は本日買ってしまったから、もう行くことはないだろうな。

1月27日(金) 新潟大学の学長選挙をめぐるごたごたは、ついに裁判に持ち込まれた。 以下、新潟日報のインターネットニュースからの引用。 

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/index.asp?id=2006012630249 

 学長再任めぐり新大教授提訴

 新潟大の学長選考会議が、教職員による第2次意向投票の結果と異なる決定を行ったのは違法だとして、7人の教授が26日、大学を相手取り、決定の無効確認を求める訴訟を新潟地裁に起こした。新大の長谷川彰学長再任をめぐる混乱は、新任期が始まる2月1日を前に法廷での争いに発展した。原告は大学院実務法学研究科長の山下威士教授のほか、中村哲也、根森健、関根征士、小林昭三、渡辺勇一、岡田正彦の6教授。

 訴えによると、昨年11月に行われた教職員による第2次投票で山本正治医学部長が1位、長谷川学長は2位となった。だが、選考会議は12月に長谷川学長を次期学長候補者と決めた。これに対し山下教授らは (1) 学長選考規則の 「第二次意向投票の結果を参考」 とする定めに、異なる決定をした (2) 国立大学法人法などが求める説明責任を果たしていない―などとして、決定の無効確認と、文部科学相への学長候補者推薦取り消しを求めた。

[新潟日報 0126日(木)]  ( 2006-01-26-22:23 )

 不正をはっきり不正だと言い、きっちり決着をつけようとする7人の方々の姿勢には頭が下がる。 今後の健闘を祈りたい。

 前にも書いたが、今回の学長選挙をめぐるいい加減なやり方は、新潟大学全体の体質が表れたものと考えるべきである。 今回は学長選挙だからニュースにもなったが、表には出ないものの類似したやり口で諸事を進める教員は珍しくない。 また、そういう人間に限って、幹部になってしまうという傾向がある。

 これを機に、新潟大学全体の体質改善を期待したいものである。

1月25日(水) 本日の毎日新聞家庭欄に、子供向け名作の改訳が進んでいる、という記事が載った。 定評ある児童文学の名作を子供に読ませようとしても、言葉遣いが古くなっていて子供がなかなか親しめなくなっているので、新しい訳で読ませるようにとの配慮だそうである。 

 ケストナーの名作 『飛ぶ教室』 も、かつての高橋健二訳から別の人の訳に変わりつつあるという。 この点が外国文学の強みで、日本人が書いた本なら原作を勝手に変えるわけにはいかないが、翻訳をし直すことで現代によみがえる外国文学は或る意味、得だという。

 私は大いにうなづきながらこの記事を読んだ。 古い訳にこだわるのは良くない、と最近痛感しているからだ。

 「痛感」 の理由を二つ挙げる。

 一つは、少し前に海外在住の或る中年日本人から、高橋健二訳のヘッセ全集復刊を実現するため、ネット上の投票に協力してくれ、という依頼があったことである。

 以前、或るきっかけで私とメールのやりとりをする機会があった人で、今回は、若い頃読んだ高橋健二訳のヘッセ作品を読み返したくなったが、昔自分が読んだ本は実家で処分されてしまっている。 しかし偶然ネット上で高橋健二訳ヘッセ全集の復刊投票がなされているのを知った、投票が一定数に達すると復刊が実現するから、協力してくれ――という。

 私は断った。 私は高橋健二の訳業をあまり高く買っていない(こちらを参照)し、今は新訳のヘッセ全集が刊行中である。 買うなら新しい方を買ったらいかがですか、と返事をした。

 しかし、その人は、『赤毛のアン』 が村岡花子訳でないと駄目なように、ヘッセも高橋健二訳でないと駄目なのだと言ってきた。

 それなら――と私は再度返事をした――古本で買えばいいでしょう。 インターネット上の古本屋には高橋健二訳ヘッセ全集が何セットか出ていますよ、と教えてあげた。

 ところがそれに対しても送料がどうたらこうたらだからネット上の投票に協力を、と言ってくる。 ばかばかしいので、私は返事をするのをやめた。

 こういう輩がいるから、若い人向けの新しい訳業が阻害されるのである。 懐古趣味に浸りたいなら古本でやればいいのだ。 自分のことしか眼中にないこういう中年文学ファンは、百害あるのみである。

 もう一つの理由は、最近日本独文学会が、過去のドイツ文学の訳業を文献一覧としてまとめる作業をしたことである。 それ自体は有意義な作業だと思う。 しかし、今ドイツ文学に必要なのは、新ヘッセ全集のように、新しい感覚を活かした新しい訳業を世に送り出すことなのではないか。

 私は新潟大学で教養科目としてドイツ文学の講義をここ10年くらい続けている。 しかし、例えばヘッベルやグリルパルツァーといった作家は新本で作品が入手できず、昔出た邦訳をコピーして学生に配布しないと授業が成り立たない。

 シュトルムですら、文庫本で現在手にはいるのは、岩波文庫の 『みずうみ』 だけである。 私は今年、シュトルムの 『水に沈む (溺死)』 を取り上げたけれど、コピーに頼らざるをえなかったのは、何とも寂しいことであった。

 また、過去の邦訳をコピーして使うにしても、訳文が古かったり、文章の格調が低かったり、誤訳があったりと、問題がそれなりにあるのである。

 例えば秋にはヘッベルの 『ユーディット』 を取り上げた。 この戯曲、岩波文庫でも出ていた (復刊もわりにされるから、新本でも手にはいるかも) が、こちらの訳を私はあまり買えないと判断して、戦前に某文学全集に収録されていた別の訳を使った。 ヒロインであるユーディットの言葉遣いが、岩波文庫のそれはどうにもトホホだからである。

 同様な事情は、クライストの 『アンフィトリオン』 でも経験した。 クライストには沖積舎から出た邦訳全集があるが、私は昔白水社から出ていた 『クライスト名作集』 のほうを授業に採用した。 ヒロインであるアルクメーネ(アンフィトリオンの妻)の言葉遣いが、『クライスト全集』 のそれはまるで品のないがさつなオバサンみたいで、一族郎党を率いる武将の留守宅を預かる妻のものとはどうも思われないからだ。

 この授業、水曜一限なので、本日も講義をした。 今日からS・ツヴァイクの 『見知らぬ女の手紙』 を取り上げている。 これも訳が何種類かあるけれど、みすず書房の 『ツヴァイク全集』 ではなく、昔角川文庫から出ていた訳の方を使うことにした。 理由は上と同じで、語り手でもあるヒロインの女としての言葉遣いという点でこちらのほうが優れている、と判断したからだ。 ただし、一長一短と言うべきか、角川文庫の訳は誤訳がところどころあるので、それを訂正しながらの授業となった。

 実は同じことは 『アンフィトリオン』 にも言えて、ヒロインの言葉遣いでは 『クライスト名作集』 が勝っているのだが、誤訳の有無では 『クライスト全集』 が優れているのだ。

 どうもこの辺、ドイツ文学者の資質はなかなか十全にはならないものだ、と思う。 ドイツ語力がある人は日本語の文章力がなく、文章力のある人はドイツ語力がイマイチ、というケースが多い。

 私が言いたいのは、ドイツ文学会レベルで新しい訳業を進めるような企画ができないものか、作家ごとに研究者としても文章家としてもすぐれている人材を吟味して、ということである。 過去の訳業目録も大事だが、未来を見据えた企画はいっそう大切なはずだ。

1月24日(火) 3・4年生向け演習。 「牛後より鶏口」 ということわざが出てきたが、学生が知らず、質問された。 こういう場合は教師に尋ねるのではなく自分で調べてきてもらいたいものだが、それにしても今どきの学生はこの程度のことわざも知らないのかっ・・・・と思って帰宅後、念のため女房 (49歳) に訊いてみたら、やはり知らなかった(笑)。 うーん、学力低下は昔からだったのですね。

 ちなみに、「行動右翼心情三派」 なんて言葉も出てきて、これはまあ質問するのが当然な表現でしょう。 60年代後半から70年代前半に大学生生活を送った私の世代でないと分からないのは、仕方ありません。

 大人の世代からして学力低下していたのだ、という説は、最近時々耳にするし、そうかも知れないなと思うこともある。

 そこで、半月前 (1月9日) に毎日新聞に載った記事をやり玉に挙げよう。 何で今頃やり玉に挙げるかというと、半月前は忙しくてこのサイトで批判しているヒマがなかったからです。 すみません。

 「日の丸」 と題したコラムで、「私個人は、日の丸が嫌いなわけではない。(…)海外で失礼な扱いを受けたと聞けば、『失敬な』と憤りを感じる」 としながらも、「昨今の教育現場での国旗・国歌の扱われ方は、どうかと思う。 起立するもしないも、歌うかどうかも個人の内心の自由だろう」 という。

そして、「長女は創立130年を超える伝統校を卒業した。 卒業の日、日の丸が掲揚され、国歌斉唱となった。 でもほとんど誰も歌わない。 だが校歌は全く違った。 生徒たちは天を突くように声を張り上げた。 どちらのうらが愛されているか、一目瞭然だ」。

 そして、「日の丸や君が代には罪はない。 押しつけるほど子どもたちが軽んじることに、どうして気づかないのか不思議でならない」 と結ばれている。

 私はこれを読んであきれはてた。 「押しつけ」って、では校歌は押しつけられていないのだろうか? 生徒たちが校歌を歌うのは、まさに押しつけられているからではないのだろうか? かつて早稲田大学では、入学式の時に校旗に唾をはきかけた新入生がいて、退学になった。 そういう圧力が、現にあるのである。 「圧力」は、国歌や国旗だけではないのだ。

 そういう自覚が 「創立130年を超える伝統校」 に在籍している生徒たちにないのは、まあ、学力低下のせいかもしれないし、所詮は 「子ども」 だからかもしれない。 国歌を歌わないことで反体制を気取り、自己主張した気になるのは、高校生くらいの年齢にありがちなことだから、まあ分からないでもない。 しかし、その彼らには、「伝統校」 の特権性を批判して校歌を歌うことを拒絶する程度の洞察力も根性もないのである。 いや、「伝統校」 に在籍したという特権意識こそが、自校の校歌は大声で歌い、国歌は反体制気取りで歌わないという甘ったれた自己満足を生んだ可能性も、相当にあろう。

 繰り返す。 高校生がこのくらいの洞察をなし得ないのは、所詮は子供だから仕方がない。 しかし、長女を 「創立130年を超える伝統校」 に通わせていらっしゃった毎日新聞記者 (長女が高校を卒業したのだから、40代にはなっているだろう) の小野博宣が分からないというのは、どう見ても 「学力低下」 と言うしかないのである。

1月21日(土) 三井ホーム・ハートレイ・コンサートを午後6時から、りゅーとぴあで聴く。 女房と娘を連れて (或いは連れられてか?) 出かけたもの。

 ヴァイオリンが加藤知子、チェロが横坂源、ピアノが伊藤恵で、ラヴェルのヴァイオリンとチェロのためのソナタ、ショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番。

 演奏に先立って春風亭小朝が舞台に登場して噺をしたが、これが結構面白い。 単に人を笑わせるだけではなく、クラシック音楽に造詣が深いことがよく分かる。 外見だけ良くて頭の中身が空っぽ、クラシックの知識もろくにない女の子が司会をやるより余程いい。

 演奏の方だが、ヴァイオリンの加藤知子さんの清潔な音、ピアノの伊藤恵さんのしなやかでふところの深い音楽が魅力的。

 これに比べると、チェロの横坂源くんは、おかあさんの年齢の女性二人と共演してたいへんだったかもしれないけれど、音がイマイチ出ていなかった。 とはいえ、まだ顔に幼さが残る高校生、今後の精進に期待します。

1月18日(水) 午後7時から、りゅーとぴあでアレクサンダー・ガヴリリュクのピアノリサイタルを聴く。

 プログラムは、前半がブラームスの間奏曲作品117、ブラームスの2つの狂詩曲作品79、ショパンのエチュードから作品10の8・6・12と作品25の7・5。後半がムソルグスキーの「展覧会の絵」。アンコールとして、ラフマニノフのヴォカリーズ、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」をホロヴィッツが編曲したもの、モシュコフスキーの「スパークル」、モーツァルトの「トルコ行進曲」をヴォロドスが編曲したもの。

 一言で言って、たいへん充実した、聴き応えのある演奏会だった! ガヴリリュクは84年8月生まれだそうだからまだ21歳だが、表現すべきものを十二分に持ち、それをピアノで表現することができる技倆と才能はたいしたものである。 音にはそれほど特徴がなく、ちょっと曇った印象もあったが、ブラームスの間奏曲にはぴったりで、最初から 「おっ、これは当たりの演奏会かな」 という感触があった。

 ショパンでも、有名な作品10の3曲より、むしろ作品25の2曲に聴かせるところがあり、それはショパンの作品の質の変化に対応しているのではないか、というような印象。 後半のムソルグスキーも、この作品の多様な側面をよく表現しており、飽きることがない。

 アンコールではダイナミズムと華麗な技倆も披露してくれ、満足感でいっぱいになった。

 彼のコンクール歴を見ると、99年にホロヴィッツ記念国際ピアノコンクール第1位、オーストラリア・ピアノコンクール第1位、2000年の浜松国際ピアノコンクール第1位、2005年5月のアルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノコンクール第1位となっていますが、伊達じゃないね。

 演奏が良かったので、CDを買ってサインしてもらう。 私は女性演奏家ではわりにサイン会のためにCDを買うが(笑)、男性演奏家ではあまりない。 つまり、それほど素晴らしい演奏会だった、ということなのである。

 観客は、1階席はまあ入っていたが、2階正面は前の数列だけ、DブロックとBブロックはぱらぱら、といったところだから、500人程度の入りだったのか。 でもお客の質は良かった。 私はBブロックのCブロックに隣接した場所の最前列で聴いたが、これでA席Nパックメイト価格2250円は安い! 4月のキーシンのリサイタルは1万円以上する(泣)・・・・価格に負けない演奏会になることを祈る。

 なお、買ったCDを後日聴いてみたが、これまた素晴らしい出来である。ハイドンのソナタ第32番(Hob.XVI-32)、ベートーヴェンの「月光」ソナタ、ブラームスのパガニー二の主題による変奏曲、ラフマニノフのソナタ第2番。 演奏会に行かなかった人はせめてCDでガヴリシュクの素晴らしさを知って欲しいものだ。

1月16日(月) 気づくのが遅れたけれど、新潟大学の学長選挙について、3日前の読売新聞のサイトにも以下の記事が掲載された。 やっと全国紙で取り上げられましたね。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060113i313.htm 

 「学長選考は不透明」新潟大で、3教授が抗議の辞任

 新潟大学の学長選で長谷川彰学長(68)が再任(任期2年)されたことに抗議し、学長選で敗れた2人を含む教授3人が13日、役職を辞任することを明らかにした。

 役職を辞任するのは、山本正治・医歯学系長(62)、鈴木佳秀・人文社会教育科学系長(61)、山下威士・大学院実務法学研究科長(64)の3教授。

 学長選には長谷川、山本、鈴木の3氏が立候補し、看護師ら対象の第1次意向投票では長谷川氏がトップだったが、教授ら対象の第2次意向投票では山本氏が有効投票の過半数の443票を獲得した。学内の理事らで構成される学長選考会議は昨年12月、長谷川氏の再任を決定。選考過程については「公表した場合に起こる混乱の方が大きい」として明らかにしなかった。

 会見した山下科長は「不透明な学長選考は新潟大にとどまらない。大学の民主制が危機に瀕している」と、長谷川学長の再任撤回を求めた。

 国立大学法人法では、学長選考会議が最終決定するよう定めているが、ほとんどの大学は投票結果を重視する。しかし、滋賀医科大ではトップ得票者が落選し、国や大学側を相手取り、裁判所に決定取り消しを求める訴えを起こしている。

 長谷川学長は「新しい大学作りの必要性を説明しながら、一歩一歩やっていくしかない」と話している。

20061132130 読売新聞)

1月15日(日) 全日本卓球選手権最終日。 女子シングルスでは私がファンの平野早矢香選手の3連覇を期待していたのだが、ならず。 平野さんはベスト16に残った後、準優勝した小西に負けてしまった。 残念無念。 しかしまだ若いのだから、捲土重来、来年は是非リヴェンジを果たして欲しいものだ。

 今回の選手権では、男女ともシングルスは中国からの帰化選手が優勝。 日本人ももっとがんばってほしいですね。 

 それにしても、テレビ中継が最終日の1日だけ、1時間半のみというのも困るが、女子の決勝をメインにしているのも理解しがたい。 男子の試合の方がスピード感・技とも高度ではるかに見応えがあるんですがね。 男子シングルスで2年連続優勝を果たした吉田海偉は、ヴェテラン松下を相手に、圧倒的なパワーと技巧を見せつけていた。 卓球が分かる人には楽しめる試合なのに、分かってないですね。

 もっとも女子選手の試合には技倆とは別の要素があるわけだろうけれど、そうであるなら、その方面を徹底して、平野早矢香選手のように一定の容姿に達した女子選手のみ出場可、というくらいにレヴェルアップ(?) を図っていただきたいものである (笑)。

1月14日(土) うって変わって暖かな日となる。 どうもこの冬は気候が極端から極端に行くようだ。

 やっと車の修理ができてきた。 やれやれ、ほぼ10日間、車のない生活をしてみて、まあ、暮らせるなとは思ったけれど、でも映画館には一度も行かなかったし、いつも安売り酒屋で2ダース入りの箱を買っている発泡酒も我が家の在庫がなくなりかけていた。 うむ、やはり車がないと不便ですね。

 夜、N卓球クラブで今年の初卓球。 20日ぶりに卓球をやりました。

1月13日(金) 夜、新潟大生協で専務理事を務めてきたI氏の送別会。 生協第一食堂にて。 氏は来週から生協連東京事業連合に転勤となるのである。

 I氏は新潟大理学部卒で、長年赤字経営状態だった新潟大生協の経営を立て直すなど、その手腕が東京からも注目され、ついに転勤となったわけである。 都でその実力が遺憾なく発揮されることを祈りたいものだ。

 本日の送別会では、学生委員会のメンバーが、I氏の奥さんが2歳年上であることを聞き出すなど、少なからぬ収穫(?)があり、楽しい雰囲気のうちに進行した。 これも氏の人徳であろう。

1月12日(木) 夜6時30分から、プラハ国立スタヴォフスケー歌劇場の 「フィガロの結婚」 公演を聴く。 於・新潟県民会館。 演出はヨゼフ・プルーデク、指揮はペテル・フェラネツ。

 私はこのオペラ、生で接するのはやっと2回目なのでとやかく言う資格はないが、割にオーソドックスな演出だったのではないか。

 歌手では主役二人 (フィガロ=イジー・スルジェンコ、スザンナ=マルティナ・ザドロ) より、伯爵 (=ロマン・ヤナール) と伯爵夫人 (=イヴェタ・イジーコヴァー) がよかったように思った。 それにしても、このオペラは4幕あるんだけれど、4幕目は付け足しのような印象がどうもつきまとう。

 車を修理に出している最中なので、終演後、バス停で寒い中20分ほど待っているのは楽ではない。 臨時バス、新潟駅行きだけじゃなく、西新潟方面にも出してくれないかなあ。

1月11日(水) 夜、コルソ・ウィーンのニューイヤー・コンサート。 於・りゅーとぴあ。 ウィーンフィル、ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン響などのメンバーによる小編成オケ。 指揮はアルフォンス・エガー。

 前半はモーツァルトのディヴェルティメントK136とクラリネット協奏曲。後半はJ・シュトラウス一家の音楽のはずが、最初は魔笛組曲 (?) だった。 モーツァルトイヤーだからかなあ。 そのあとシュトラウスのワルツなどが次々と演奏され、アンコールで定番の 「美しく青きドナウ」 「ラデツキー行進曲」 も出て、まあ型どおりだけれど、元日に初詣に行くのも型どおりなわけだから、その意味で言えば今年最初のコンサートとしては悪くなかったと言うことになるのかな。

 客は、3階には入れていなかったけれど、安い席とSの中でも条件のいい席がいっぱいで、その中間はがら空き。 最近の日本の景気がモロに表れているような印象があった。

1月7日(土) 昨日から新潟市内にも結構雪がつもった。 クルマがない (5日を参照) のでバスで大学へ。

 10日〆切の卒論を提出前に見てくれという学生が何人かいるので、結局そのために一日をつぶす。 実は私は自分でも10日〆切の原稿をかかえてるんですけどね(笑)。

 あまり直すところのない学生もいるが、文章に相当手直しが必要な学生もいて、こういうのは時間を食うのだ。 しかし、指導学生でも全然見てくれと言ってこない学生もいる。 手間のかからないのはいいけれど、どういう卒論なのか、提出後にならないと分からないので、一抹の不安は残る。 11月末に一度見せろと言ったのだけれど、その段階では構想を箇条書きにしたものを持ってきただけで、以後音沙汰がない。 手間のかからないのも善し悪しである。

 帰宅したら、HMVから、年末に注文しておいたブリテンのオペラ 「ヴェニスに死す」 のCDが届いていたので、2枚組のうち1枚目だけ聴く。 言うまでもなくトーマス・マンの傑作をオペラ化したものだが、歌詞は英語である。 歌詞カードがついているので助かるが、英語を追いながら聴くのも楽ではない。 演奏はリチャード・ヒッコックス指揮のシティ・オブ・ロンドン・シンフォニアで、外盤 (CHANDOS) である。

 前半を聴いてみた限りでは、案外原作に忠実で、オペラ化が難しそうなところもコーラスなどの形で組み込んでいる。 ヴィスコンティの映画より原作に忠実かもしれない。 改めて、オペラが単なる音楽ではなく言葉の芸術でもあることを痛感。

    *   *   *   *   *

 閑話休題。 最近、日本では階層化が進んでいる、つまり貧富の差が激しくなっていると言われている。

 毎日新聞では新年から 「縦並び社会」 という連載記事を掲載し始めた。 国民保険の掛け金が払えないので (払わないのではない、貧乏で払えないのだ)、保険証を交付されなくなってしまい、医者にかかるのにも本人10割負担となって、そのため体調が悪いのに医者にかからないでいたら、実はガンが進行していた、という悲惨な話が紹介されている。

 朝日新聞のインターネット版でも下のような記事が紹介されている。

http://www.asahi.com/life/update/0103/001.html 

就学援助4年で4割増 給食費など東京・大阪4人に1人

  200601031709

 公立の小中学校で文房具代や給食費、修学旅行費などの援助を受ける児童・生徒の数が04年度までの4年間に4割近くも増え、受給率が4割を超える自治体もあることが朝日新聞の調べで分かった。東京や大阪では4人に1人、全国平均でも1割強に上る。経済的な理由で子どもの学習環境が整いにくい家庭が増え、地域的な偏りも目立っている。

 文部科学省によると、就学援助の受給者は04年度が全国で約133万7000人。00年度より約37%増えた。受給率の全国平均は12.8%。

 都道府県で最も高いのは大阪府の27.9%で、東京都の24.8%、山口県の23.2%と続く。市区町村別では東京都足立区が突出しており、93年度は15.8%だったのが、00年度に30%台に上昇、04年度には42.5%に達した。

 背景にはリストラや給与水準の低下がある。厚生労働省の調査では、常用雇用者の給与は04年まで4年連続で減り、00年の94%まで落ちた。

 給付の基準は自治体によって異なり、足立区の場合、対象となるのは前年の所得が生活保護水準の1.1倍以内の家庭。支給額は年平均で小学生が7万円、中学生が12万円。修学旅行費や給食費は、保護者が目的外に使ってしまうのを防ぐため、校長管理の口座に直接、振り込んでいる。

 同区内には受給率が7割に達した小学校もある。この学校で6年生を担任する男性教員は、鉛筆の束と消しゴム、白紙の紙を持参して授業を始める。クラスに数人いるノートや鉛筆を持って来ない児童に渡すためだ。

 卒業文集を制作するため、クラスの児童に「将来の夢」を作文させようとしたが、3分の1の子が何も書けなかった。「自分が成長してどんな大人になりたいのか、イメージできない」のだという。

 同区の公立中学校の50代男性教員は、進路指導で私立高校を併願する生徒が減ったことを実感している。「3、4時間目にきて給食を食べて、またいなくなる子がいる」とも話した。

  就学援助費については、昨年3月の法改正で05年度から、自治体が独自に資格要件を定めている「準要保護」への援助に対する国庫補助がなくなった。一部の自治体では06年度の予算編成に向け、準要保護の資格要件を厳しくするなど、縮小への動きも始まっている。

 ■二極化に驚き

 〈苅谷剛彦・東大教授(教育社会学)の話〉塾に1カ月に何万円もかける家庭がある一方で、学用品や給食費の補助を受ける子どもがこれだけ増えているのは驚きだ。教育環境が、義務教育段階でこんなに差があって、次世代の社会は、どうなってしまうのか。こうした中で、国は補助金を一般財源化した。今後、自治体が財政難を理由に、切り捨てを進めるおそれもある。機会の均等もなし崩しになっては、公正な競争社会とは呼べない。

 〈キーワード・就学援助〉学校教育法は、経済的な理由で就学に支障がある子どもの保護者を対象に「市町村は必要な援助を与えなければならない」と定めている。保護者が生活保護を受けている子ども(要保護)に加え、市町村が独自の基準で「要保護に準ずる程度に困窮している」と認定した子ども(準要保護)が対象。

 (ここまで、朝日新聞インターネットニュースより引用)

 教育の機会均等は近代国家の大前提だと私は思うのだが、どうも日本では階層化が進み、東大などの一流大学はお金持ちの子女でないと行けなくなる傾向が出ているのだ。 これは憂うべき現象である。

 ただ、貧乏だけれど優秀な子供に様々な手段で援助を、と言うだけは済まない部分もある。 つまり、明治から昭和30年代くらいまでは有効だった立身出世的な観念だけでは立ち行かない社会状況があるのではないか。

 私の女房のところにピアノを習いに来ている女の子がいる。 昨年4月に某私立高校に入ったばかりなのに、近く中退予定だという。 学校がつまらない、先生が嫌いだ、と理由を挙げているのだそうだが、どうも私の世代からするとたいした理由には思えない。

 また、以前から母が弟ばかり可愛がって、自分のことはどうせ嫁に出るのから、というような扱いで気に入らない、という心理学(?)的な動機もあるらしいけれど、これも私の世代から言わせれば、衣食住がきちんと保証され、お小遣いも結構もらっているらしいので、虐待のうちに入らない (ピアノだって小学校以来ずっと習わせてもらっているわけだし)。 高卒までは辛抱して、あとは進学するなり就職するなりして親元を離れればいいじゃないか、と思うのだが、どういうわけかそういう発想にはならないらしい。

 加えて、同級生の男の子に自分を好いてくれるのがいるので、主婦をやりたい、と言っているという。 ところがである。 その男の子も同じ私立校をすでに中退しており、現在、公立校を目指しているところなのだそうだ。

 要するに、先の見通しがどうなっているのか、さっぱり分からない話なのである。 まだお互い16歳なのだ。 仮に心変わりがなかったとしても、男の方がちゃんとした定職に就くまでにはかなりかかりそうだし、そもそも就けるかどうかも現状況からすると怪しいところがあると思う。

 分別くさい言い方になるけれど、高校に面白くないところがあってもとりあえず卒業までは我慢して、というくらいの根性(?)がないと、就職したって天国が待っているわけじゃないんだから、結局同じことの繰り返しになるのではないか。 そして挙げ句の果てにパートで食いつなぐ 「下流社会」 の一員になってしまう。

 高校時代なら、アルバイトでもらうお金も結構なものに思えるかも知れないけれど、それは親元にいるからなのであって、自分で部屋を借り食費も全部自己負担という暮らしをしたら、パートの給料なんていかほどでもないことが分かるだろう。 というか、そうなる前から、その辺まで考えておかないといけないわけだが、考えないままにヤンママになってしまう層が増えているような気がする。

 産業構造の変化でパートが増えている代わりに定職に就くのが難しくなっている、というような状況もあるけれど、同時に、若者に上記のような洞察が欠けている、或いは、欠けた層がとりあえず食ってはいける程度の収入を得られる社会になってしまっているところに、問題の根がありそうだ。

1月6日(金) 混迷を続ける新潟大学学長選挙。 地元の新潟日報のサイトに以下の記事が掲載された。

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/index.asp?id=2006010629921

  新大学長選に抗議で役職辞任

 新潟大の3人の教授が、長谷川彰学長の再任が決まったことに抗議して、学系長や研究科長の学内ポストを辞任することが5日までに分かった。

 辞任を決めたのは、大学院実務法学研究科長の山下威士氏と人文社会・教育科学系長の鈴木佳秀氏、医歯学系長の山本正治氏。

 山下、鈴木両氏は所属する学系や研究科の教授会で、教員らによる第二次意向投票で2位だった長谷川学長が次期学長となったことに抗議するとして、辞任を申し出て了承された。山本氏は医学部長の任期が切れることに伴い、抗議の意味も含めて辞任するとした。 辞任の日付は山下、山本両氏が31日付、鈴木氏も同日付の予定。

 [新潟日報 0106日(金)]   ( 2006-01-06-9:34 )

 役職者にもまともな感覚を持った方がいるのは、救いである。 まあ、全然いないのでは困りますけれども。

1月5日(木) 今年の冬は寒い。 新潟市では路上の雪は少ないが、その少ない雪が凍っている。

 まだ冬休みなので寝坊して、午前10時40分頃クルマで家を出て大学に向かう。 路上がこういう状態だから慎重運転である。

 ところが――途中急な左カーブになっている箇所があって、カーブの向こうは手前からは見えないのだが、そこをカーブしたら、不意にクルマが目の前にあらわれた。 路上に駐車しているのだ。 無論、駐車違反である。 しかし対向車もいるし、道路の幅も狭いので、よけて通ることはできない。 やむを得ず急ブレーキとなる。 私はかろうじてそのクルマのほんの数十センチ前でとまった――が、私の後ろのクルマは、道路が凍結しているのに車間距離をあまりとっていなかったこともあり、私の車に追突してしまった。

 私は人事不省の重体となり、救急車で病院にかつぎこまれ、何とか命はとりとめたが四肢が満足に動かせない状態なので、現在、看護婦さんに口述筆記をしてこのサイトを更新している・・・・・・

 ・・・・・・というのは冗談です、すみません。 いや、クルマに追突されたところまでは本当です。 しかし衝撃はきわめて軽微だったので、身体にはまったく影響はありませんでした。 ご心配なく。 お見舞いも不要です。

 ただし、私のクルマの後部は壊れてしまったので、修理に出す羽目になった。 正月早々、ろくでもないことが起こるものだ。 買って8年になるクルマだけれど、最低あと3年は使うつもりなのである。

 その日のうちに保険会社同士の交渉があり、こういう場合は追突した側が全面的に悪いことになるのだそうで、修理代負担はアチラ持ちと決まった。 しかし、私は釈然としない。 カーブを曲がってすぐのところに駐車しておいた非常識な輩にも相当の責任があると思うのだが。 世の中、こういうもので、法律的な責任は問われないが実は相当に問題アリの輩が結構いるということだろうか。

 ぶつけてきたクルマは某商店の小型トラックで、運転者は若い、雇いたてらしい男だった。 後で店主が私の自宅を訪れ、私はまだ帰宅していなかったので、女房にわびて包みをおいていった。

 ・・・・が、包みの中身を見たら、インスタントコーヒーの瓶ばかり4本も入っている。 うーん、センスないですね (笑)。 今後のこともあるので (事故は真っ平ですけれど) ここで言っておきます。 私も女房もコーヒーは好みません。 インスタントコーヒーをもらっても、ほとんど使わないのです。 くれるなら紅茶か砂糖、じゃなきゃいっそお酒にして下さい (笑)。

 本日は夕方、初卓球に行くつもりだったのに、この事故のせいで中止となりました。  

1月1日(日) 明けましておめでとうございます。 本年も当サイトをよろしくお願いいたします。

 さて、元日の新潟市は穏やかな天気だった。 朝は晴れ、昼前から雲が出てきたが、雪や雨にはならない。 気温も極寒というほどではない。

 初詣をしようかと、女房・次男・長女と私の4人で出かけたが、行きつけのところはなく、といって有名なところ――新潟市内なら白山神社か護国神社、市外では、少し遠くなるが弥彦神社――は混むから嫌である。 それで行ったことがない青山の稲荷神社を訪れてみたが、ここは外での参拝ができず、履き物を脱いで建物の中に上がり込まねばならない方式なので、建物を拝んだだけで撤退。 

 結局近くのジャスコでラーメンを食べるにとどまりました。 これじゃ初詣になりませんね (笑)。

 私はここで家族と別れて、ワーナーマイカル・シネマズで映画を観た。 元日は映画サービスデーで千円なので、という単純な理由。 ただし映画が始まるまでに少し時間があったので、近くの古本屋に行ってみたら、なんと、以前は古本屋だったはずなのに古着屋に変わってしまっていた。

 仕方なく、近くの書店に入ってみたら、素晴らしく都会的な店名に似合わず、中は雑誌とマンガと水着写真集ばっかり。 名前負けしてるんじゃないですか。 いや、水着写真集だって目の保養にはなりますけれど (笑)。

 わずかに置かれた活字本のなかから綾辻行人のミステリーを買ってみたが、図書カードで支払おうとしたら、図書カードでの支払いは取り扱ってないという。 こりゃ、田舎書店とでも改名した方がいいんじゃないか。 いや、お正月でもあることだから、名前にたがわない素晴らしい本屋さんを目指してがんばって下さいね〜・・・と言い直しておこう (笑)。

 映画を見た後、ちゃんと初詣をしていないことが気になったので、もう暗くなっていたが、内野の某神社に寄ってお参りする。 内野は新潟大学のそばにある町で、昔は独立した地方自治体だったが、数十年前に新潟市に吸収合併されている。 漁港として栄えたところで、今は多少さびれ気味だが、それでも料亭があるし、造り酒屋が4つもある。

 内野には大きな神社がなく、代わりに小ぶりの神社がいくつもあるのが独特。 権力分散型かな (笑)。 私の行ったところもそうで、賽銭箱なんておいてない。 ただ、元日のせいか、ご神体のある建物の中は灯りがついていた。 中には入らなかったが、賽銭箱がないので格子戸からお賽銭を中に投げ入れて今年の無事を祈りました。 というわけで、何とか初詣を夜になって済ませた、というお話でした。

 

 

 

【ホームページ作成講座】 | 本・漫画・DVD・アニメ・家電・ゲーム | Webコンサルティングサービス
業界NO1のライブチャット | 自宅でで学べる!CAD資格合格講座 | 20GB 無料のオンラインストレージ
★薬草の資格が取れる! ⇒ 【薬草ガーデン講座】 | 最新ニュース | Web検索 | ドメイン | 無料HPスペース