高橋健二訳のヘッセ 『車輪の下』

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 ヘルマン・ヘッセの小説中で日本で最も有名な作品といったら、『車輪の下』 であることは、誰にも異論はないでしょう。

 そしてヘルマン・ヘッセの翻訳者として最も著名な人物といえば、高橋健二であることも、まずは常識です。

 今回、その高橋健二訳によるヘッセ 『車輪の下』 を検討することにしました。

 実は、高橋健二は翻訳が下手だというのは、ドイツ語関係者の間では昔から言われていたことです。

 私も学生時代 (1970年代) からその手の話は何度も聞いていました。

 しかし、生来怠惰で、おまけにヘッセを専門としない私は、この点に無関心なままでやってきました。 『ガラス玉遊戯』 や 『シッダールタ』 など、いくつかのヘッセ作品は高橋健二訳で読んだものの、ドイツ語原文との対比などはいっさいしないで、要は意味が分かりゃいいと思ってきたのでした。

 今回、ここで改めて高橋健二訳の 『車輪の下』 を検討することにしたのは、今年、2003年に、実に35年ぶりでこの作品を通読してみたからです。 1年生向けの教養演習で 「1900年代初頭に書かれた内外の文学作品」 というテーマを掲げたので、漱石の 『三四郎』 や田山花袋の 『田舎教師』 と並んでこの作品を取り上げることにしたのでした。 これまでも授業での必要性から部分的に再読したことはありましたが、全体を通読したのは中学3年で読んで以来です。

 中学3年生の私が読んだのは、岩淵達治訳(旺文社文庫)でした。 しかしこの訳は現在は新本では手に入りません。 そこで授業用には、学生が買いやすい、今も流通している文庫本ということで、たいして考えもせずに新潮文庫から出ている高橋健二訳を選んだのです。 『車輪の下』 は他にもたくさん訳が出ていたし、そんなにひどい訳であるはずがなかろう――ナマケモノの私は調べもしないで安易な選択をしたわけです。

 ところが実際に高橋訳を学生と一緒に読んでみると、色々問題があることが分かってきました。 明らかな誤訳というのでなくとも、下手くそだな、と思う箇所も少なくありません。 ドイツ文学者というからには、「文学者」 のはしくれで、日本語表現が下手であっていいはずはないのですが、首を横に振りたくなってしまう部分が多すぎるのです。

 そこで以下でこの訳業を検討することにしたものです。

 なお、ドイツ語の原文は1958年にSuhrkampから出たヘルマン・ヘッセ著作全集 (Hermann Hesse: Gesammelte Schriften) の第一巻、文芸編その一 (Gesammelte Dichtungen 1.Band) を用いましたが、実はここには多少の問題が含まれています。 高橋訳を見ると、このSuhrkamp版全集の 『車輪の下』 には含まれない文章が散見されるのです。 高橋健二は底本を記していませんが、初版本など古い版を用いたのかも知れず、古い版は現行版とは多少文章が違っていたのかも知れません。 しかし底本が判然としない以上、私としてはSuhrkamp版を基準にせざるを得ないのです。 底本が明らかにこの版とは違うと思われる箇所は、ここでは取り上げない原則としました。

 以下で、比較の意味で、私が中学3年で読んだ岩淵達治訳 (旺文社文庫、1966年4月初版、同年10月第2刷) と、現在入手可能な訳ということで、実吉捷郎訳 (岩波文庫、1954年初版、2000年9月第61刷) を検討してみることにします。

 高橋健二訳は、新潮文庫、1951年初版、1998年第104刷を使用しました。

 □は原文を示します。

 

【1】 第1章冒頭、主人公ハンス・ギーベンラートの父親について説明する箇所。

(高橋訳:5ページ) 仲買人、兼代理店主、ヨーゼフ・ギーベンラート氏は、(…)小さいながら庭のある家を持っている。 墓地には家代々の墓がある。 もっともお寺に対する信心は、いくらか分別くさく、地金が出ている。 神様やお上に対しては適度な尊敬を失わない。 それにひきかえ、町の人間同士の礼儀の鉄則には盲従する。

Herr Joseph Giebenrath, Zwischenhaendler und Agent,(…)Er besass (…)ferner ein kleines Wohnhaus mit Gaertchen, ein Familiengrab auf dem Friedhof, eine etwas aufgeklaerte und fadenscheinig gewordene Kirchlichkeit, angemessenen Respekt vor Gott und der Obrigkeit und blinde Unterwuerfigkeit gegen die ehernen Gebote der buergerlichen Wohlanstaendigkeit.

 最初の 「仲買人、兼代理店主、ヨーゼフ・ギーベンラート氏は」 という訳し方がどうにも下手ですね。 「仲買人兼代理店主のヨーゼフ・ギーベンラート氏」 とするのが普通の日本語感覚でしょう。 それと、最後の 「それにひきかえ」 という逆接の接続詞が分かりにくい。 前文の 「適度な」 に対して 「盲従する」 が反意語だと言いたいのでしょうが、それが伝わりにくい訳文なのです。

 他訳はどうなっているかというと―― 

(実吉訳) 仲買人兼代理業者のヨオゼフ・ギイベンラアト氏は、(…)さらに、小庭のついた小住宅と、墓地には累代の墓と、いくらか合理化されて、みすぼらしくなった教会主義と、神および官憲に対する適度の尊敬と、そして市民的な礼節という鉄則に対する、盲目的な恭順とをもっていたのである。

(岩淵訳) 卸商で代理店業者のヨーゼフ・ギーベンラート氏は、(…)庭つきの小さな家作を持ち、墓地には先祖代々の墓もあった。 多少はひらけていたので、おもてむきの教会のおつとめのほうも底がみえていたが、それでも神様とお上には適当に敬意を払い、市民生活の品位の基準である厳格な掟には盲従するといったたぐいの人物であった。

 実吉訳は最初はいいけれど、あとは長たらしい原文をそのまま直訳しており、芳しくないですね。 特に 「みすぼらしい教会主義」 というのは、何のことか分からないでしょう。 この点、高橋訳の方がまだマシと言えます。

 一方、岩淵訳は分かりやすく文章の続き具合もよく、全体として悪くないのですが、「小さな家作」 というのは明らかな誤訳でしょう (自分が住む家なのだから、「家作」 であるはずがないのです)。

 また岩淵訳は、最後の 「市民生活の品位の基準である厳格な掟」 がやや長めでごたごたした表現となっているのが減点材料です。 この箇所、実吉訳は 「市民的な礼節という鉄則」 となっていますが、Geboteは複数形だから、同格的2格ととるのは無理で、誤訳と言わざるを得ません。 高橋訳は 「町の人間同士の礼儀の鉄則」 でまあまあですが、「の」 が3つも続いているのが不器用。 私の考えるのは、「品位ある市民と見られるための鉄則」 という訳です。

 

【2】 1ページほど先に行って、父ギーベンラート氏の描写の続き。

(高橋訳:6ページ) 彼の心の最も深い点といえば、およそすぐれた力や人物に対する休むことのないそねみと、いっさいの非凡なもの、自由なもの、洗練されたもの、精神的なものに対する、しっとから生まれた本能的な敵意なのだが、そうしたものも、町のおやじ連全体と共通だった。

Auch das Tiefste seiner Seele, das schlummerlose Misstrauen gegen jede ueberlegene Kraft und Persoenlichkeit und die instinktive, aus Neid erwachsene Feindseligkeit gegen alles Unalltaegliche, Freiere, Feinere, Geistige teilete er mit saemtlichen uebrigen Hausvaetern der Stadt.

 最初の 「心の最も深い点」 という訳語は不適切でしょう。 日本語で 「心の深い」 といったらポジティヴなイメージを与える表現ですが、ここは要するに 「心の奥底はこうだ」 と言っているに過ぎないのですから。

 他訳はどうかというと――

(実吉訳) たましいの底の底にあるもの、あらゆる優越した勢力や人物に対する、ゆだんのない不信、そしてすべての非凡なもの、自由なもの、上等なもの、精神的なものに対する、ねたみからうまれた強い敵意――それをかれは、この町のほかの家長たちすべてと共有していた。

(岩淵訳) いっさいのすばらしい能力や人物に対しては決しておさまることのない不信の念を心の奥底に宿し、日ごろみなれない、自分たちより自由で繊細で精神的なものだと、どんなものにでもねたましさから本能的な敵意を持つ、こういう点でも、彼はこの町のすべてのおやじ連と共通していた。

 やはり岩淵訳が一番いいですね。 実吉訳はFeinereの訳が 「上等なもの」 になっているのがマズい。 高橋訳の 「洗練」 や岩淵訳の 「繊細」 が正解でしょう。

 

【3】 さて、次に肝腎のハンス少年が描写されるのですが――

(高橋訳:6ページ) ハンス・ギーベンラートは疑いもなく天分のある子どもだった。 ほかの子どもたちにまじって走っていても、どんなに賢そうで、きわだっているか、それを見れば、もう十分だった。

Hans Giebenrath war ohen Zweifel ein begabtes Kind; es genuegte, ihn anzusehen, wie fein und abgesondert er zwischen den andern herumlief.

 意味は分かるのだけれど、日本語として見てどことなくおかしいというか、不自然なのです。 「それを見れば」 の続き具合からそう感じられるのでしょう。

(実吉訳) ハンス・ギイベンラアトは、うたがいもなく天分にめぐまれた子供であった。 そのすがたをながめただけで、かれがどんなに上品な、かけはなれた様子で、ほかの子供のあいだを走りまわっているかが、すぐにわかった。

(岩淵訳) ハンス・ギーベンラートは天才的な子供であった。 ほかの子供たちの間をかけまわっていてもひときわめだって品がいいことは一目見てすぐわかった。

 実吉訳も日本語として不自然。 ここでも岩淵訳が一番であることは明瞭でしょう。

 

【4】少し先に行って、神学校入試の前日、ハンスが校長先生から 「もう勉強しなくていい」 とやさしく言われた後で、校舎を出るシーンですが――

(高橋訳:11ページ) 大きなキルヒベルクのボダイ樹はおそい午後のあつい陽光をうけて弱々しげに輝いていた。 市の立つ広場では二つの大きな噴泉が音をたてながらきらきらと光っていた。 不規則な屋なみの線の上に、近くの青黒いモミの山がのぞきこんでいた。

Die grossen Kirchberglinden glaenzten matt im heissen Sonnenlicht des Spaetnachmittags, auf dem Marktplatz plaetscherten und blinkten beide grosse Brunnen, ueber die unregelmaessige Linie der Daecherflucht schauten die nahen, blauschwarzen Tannenberge herein.

 不正確な訳ではありません。 にもかかわらず、日本語として不自然な表現が目立ちすぎるのです。

(実吉訳) キルヒベルクの大きなぼだい樹が、おそい午後の暑い日ざしのなかで、あわく輝いていた。市場では、ふたつの大きな噴泉が、さらさらと水音を立てながら、きらきら光っていた。つらなる屋根屋根の不規則な線の上から、近くにある、青ぐろいもみのしげった山がのぞいていた。

(岩淵訳) 大きなキルヒベルクの菩提樹が午後の暑い日ざしをあびてけだるく輝いていた。 町の広場では二つの大きな噴水がぴちゃぴちゃと音をたて、きらきらと光っていた。 不規則に家々の屋根の連なる線の向こうに、近くの青黒くしげった樅の木の山が迫ってきた。

 最初の文章は、やはり岩淵訳がベスト。 特にmatt を 「けだるく」 としたのは名訳だと思います。

 次の噴泉(噴水)の文章も、比較すれば岩淵訳が一番まともで、高橋訳は 「噴泉が音をたてながらきらきら光っていた」 という日本語が変だし、実吉訳は水音が 「さらさら」 というのがおかしい。 日本語で 「さらさら」 といったら、小川が流れる音になってしまうでしょう。 plaetschernなのだから 「ぴちゃぴちゃ」 とあるべきところです。 ただ、ここは音と光を並列させて日本語に訳すと、どうも締まりがない、というのが私の見解。 私なら、「二つの大きな泉から、きらめく水がぴちゃぴちゃと音を立てて噴出していた」 とでもするでしょう。

 最後の山の訳文ですが、それぞれ一長一短です。 高橋訳は、「屋なみの線の上に」 を 「屋なみの線の上から」 にすれば悪くないと思うのですが。 実吉訳は、正確な訳ではあるけれど、直訳調で締まりがない日本語ですね。 岩淵訳は、高橋訳同様に 「線の向こうに」 が不自然で、「線の向こうから」 にすべきところでしょう。

 

【5】 帰宅したハンスは、明日の受験のために荷造りをし、自室の机を見て、今まで必死に勉強してきたことを回顧しますが――

(高橋訳:18ページ) ここで彼は疲労と眠気と頭痛と戦いながら夜おそくまで、シーザーやクセノフォンや文法や字引きや数学の問題の上につっぷして考え込んだのだった。

Hier hatte er im Kampf mit Ermuedung, Schlaf und Kopfweh lange Abendstunden ueber Caesar, Xenophon, Grammatiken, Woerterbuechern und mathematischen Aufgaben verbruetet, (…)

 問題は、ueber ・・・verbruetet を 「〜の上につっぷして」 と訳しているところです。

(実吉訳) ここでかれは、疲労やねむけや頭痛とたたかいながら、晩の長いいくときかを、シイザアとかクセノフォンとか、文法書とか辞書とか、数学の問題とかいうものと取り組んですごしたのである(…)

(岩淵訳) ここの部屋で彼は、疲れや眠気や頭痛とたたかったのだった。 幾晩もシーザーやクセノフォンやいろいろな文法や辞書類、数学の問題などで頭を悩まされ、(…)

 実吉訳と岩淵訳を見れば分かるとおり、これは古典的な著作や辞書や数学の問題と格闘した、ということを言っているわけで、別段 「つっぷした」 わけではありません。 なお、verbruetenという動詞はめったに使用されないようで、独和辞典では掲載例がありませんが、ドイツで出ている辞典のなかでGrimmSandersはこの動詞を収録しており、「考え込む」 というような意味だと説明しています。

 

【6】 続けて、ハンスがぼんやり過ごしているうちに眠ってしまうシーンですが――

(高橋訳:19ページ) 明るいまぶたが、過度の勉強にはれぼったくなった大きい目の上に、しだいにたれさがってきた。

 実は、本稿はこの箇所がきっかけになって書かれました。 学生と 『車輪の下』 を読んでいて、ここで質問を受けたのです。 「先生、『明るいまぶた』 って、どういうものですか?」

 言われてみると私もよく分からない。 光を放つまぶた? まさか!

 要するに、「明るいまぶた」 という日本語がそもそもおかしいんですよ。 それをおかしいと感じないで訳している高橋健二は、日本語感覚が鈍い人だったんでしょうね。

 で、図書館から原書を借りてきて、高橋訳 『車輪の下』 を検討しようという気になったのです。

Langsam fielen die hellen Lider ihm ueber die grossen, ueberarbeiteten Augen, (…)

 原語はhellだから、色が白いことを言っているわけでしょう。 これを 「明るい」 じゃ、ドイツ語初心者のたどたどしい訳と変わりないですよね。

(実吉訳) しだいしだいに、あかるい色のまぶたが、かれの大きな、過労ぎみの目にかぶさってきて、(…)

(岩淵訳) そのうちに、あわい色のまぶたがゆっくりと彼の疲れきった大きい目の上におりてきて、(…)

 実吉訳も岩淵訳も色とはっきり分かるように訳していますね。

 

【7】 ハンスは試験当日、ゲッピンゲン町から来た受験生と会話を交わします。 村で一人きりの受験生であるハンスに対し、その受験生はゲッピンゲン町からは十二人が受けに来ているんだと自慢したあげく、こう訊きます。

(高橋訳:26ページ)

「きみは落第したら、高等中学へいくかい?」

 その話はまだぜんぜん出たことがなかった。

「わからない……いや、いかないと思うよ」

「そうかい。 ぼくはこんど落第しても、どっちみち上の学校にいくんだ。」

"Gehst du aufs Gymnasium, falls du durchfaellst?"

Davon war noch gar nie die Rede gewsesen.

"Ich weiss nicht....Nein, ich glaube nicht."

"So? Ich studiere auf alle Faelle, auch wenn ich jetzt durchfalle."

(実吉訳)

「きみはもし落っこったら、ギムナジウム 〔ギムナジウムについて割注あり〕 へ行くの?」

そんな話はまだ、一度も出たことがなかった。

「わからない……いや、行かないと思う」

「そうかい。ぼくはこんど落っこっても、どっちみち大学まで行くんだ」

(岩淵訳)

「君、落ちたら高等学校 〔ギムナジウムという振り仮名あり〕 に行くの?」

そんなことは考えたこともなかった。

「わからない……多分いかないだろ……」

「そう? ぼくはどっちみちこれで落ちても大学までいくんだ」

 最後の動詞studierenが高橋訳では 「上の学校に行く」 となっていますが、実吉訳や岩淵訳のように 「大学まで行く」 が正解。 たいした違いはないと思われるかも知れませんが、高橋訳だと単に 「神学校に合格できなければギムナジウムに行く」 という話と受け取られてしまう。 そうじゃないのです。 この少年は、「おれは 〈神学校→大学神学部〉 という、貧乏人でも学歴貴族になれるコースに入れなくとも、〈ギムナジウム→大学〉 という裕福な市民階級用のコースをたどるぞ」 と言っているのですから。

 (それと、これは自信がないのでカッコに入れて書きますが、高橋訳の 「落第」 という訳語はどうでしょうか? 私の語感だと、「落第」 とは原級留め置き、つまり 「留年」 と同じ意味で、入試に受からない場合は実吉訳や岩淵訳のように 「落ちる」 と言うのが普通だと思うのですが、ただ、国語辞典を引くと必ずしも私の語感を肯定してくれないのです。)

 

【8】 細かい箇所をいちいち拾っていくときりがないので、少し飛ばしましょう。 第2章。 神学校に合格したハンスは、村に帰って村人や先生たちから祝福されます。 好きな魚釣りをして、魚を牧師のところに届けます。 そして牧師の書斎に招じ入れられるのですが――

(高橋訳:49ページ) ハンスはなじみの書斎にはいった。 そこは牧師さんのへやのようではなかった。 (…)おびただしい蔵書は、どれを見ても、新しい、きれいに塗られてつやのある、金めっきの背中で、普通の牧師の蔵書に見るような、色あせてゆがんだ、虫食いの穴だらけでカビの斑点のある本ではなかった。 よく立ち入って見る人は、整理の届いた蔵書を書名によって、新しい精神――死滅していく時代の古風な尊敬すべき人々の中に生きているのとは違った精神――を読みとった。 ベンゲルとか、エティンガーとか、シュタインホーファーとか、牧師の蔵書の名誉になる金看板の書物は、メーリケによって 「古い風見」 の中で美しく感動的に歌われている信心深い歌の作者のものとともに、ここには欠けていた。 あるいはたくさんの近代の著作の中に姿を消していた。

Hans trat in die ihm wohlgekannte Studierstube. Wie in einer Pfarrersstube sah es eigentlich hier nicht aus. (…)Die ansehnliche Buechersammlung zeigte fast lauter neue, sauber lackierte und vergoldete Ruecken, nicht die abgeschossenen, schiefen, wurmstichigen und stockfleckigen Baende, die man sonst in Pfarrerbibliotheken findet. Wer genauer zusah, merkte auch den Titeln der wohlgeordneten Buecher einen neuen Geist an, einen andern, als der in den altmodisch ehrwuerdigen Herren der absterbenden Generation lebte. Die ehrenwerten Prunkstuecke einer Pfarrerbuechrei, die Bengel, Oetinger, Steinhofer samt frommen Liedersaengern, welche Moerike im "Turmhahn" so schoen besingt, fehlten hier oder verschwanden doch in der Menge moderner Werke.

(実吉訳) ハンスはよく見おぼえている書斎へとおった。 ここは、じつをいうと、牧師の部屋らしくは見えなかった。 (…)りっぱな蔵書は、ほとんどみんな新しい、きれいにラックを塗った、金ぴかの背中を見せていて、ふつう牧師の蔵書に見られるような、色のあせた、ゆがんだ、虫にくわれかかった、かびくさい書物は、どこにも見えなかった。 さらにくわしく見れば、きちんと並べてある書籍の標題から、ある新しい精神が、だれにでも感じ取られた。 ほろびようとしている世代の、古めかしく尊厳な先生たちのなかに生きているのとは、ちがった精神なのである。 牧師蔵書中の花形――ベンゲル、エティンガァ、シュタインホオフォア、それからメエリケが 「塔上の風見」 のなかで、じつに美しく詠じている、敬虔な詩人たちは、ここには欠けているか、すくなくとも近代的著作の山にかくれて、見えなくなっていた。

(岩淵訳) ハンスは、よく知っている書斎にはいった。 ここは普通の牧師の書斎とはまるで様子が違っていた。 (…)立派な蔵書はどれもほとんど新品ばかりで、きれいなラック塗りで金文字入りの背表紙をみせていた。 普通、牧師の書庫にみられるような、色あせて形がくずれ、虫がくったり、かびの生えたりした本ではない。もっと注意深く見る人ならば、きちんと整理してある書物の標題から、その蔵書家が新思想の持ち主だということに気づくだろう。 それは死に絶えつつある世代に属する時代おくれのおえら方の精神とはまったくちがったものであった。 普通は牧師の蔵書というと、一番えらそうにのさばっている神学者ベンゲル、エティンガー、シュタインホーファーの著書とか、メーリケが 「風見の雄鶏」 のなかで美しく歌いあげている敬虔な詩人たちの書物はこの書斎には見あたらなかった。 あったにしても、おびただしい近代的な著書に押されてすっかりかすんでいたのだ。

 比べてみればお分かりのとおり、ここでも岩淵訳が断然素晴らしいと言えます。 分かりやすいし、文章も的確で生き生きとしている。 高橋訳は、「よく立ち入って見る人は、整理の届いた蔵書を書名によって、新しい精神を読みとった」 という訳文が明らかに日本語として変ですし、「とともに」 がいかにも直訳で芸がないし、最後の 「姿を消していた」 も誤訳すれすれで、読者の頭にすっと意味が入ってこない。

 また、蔵書の背が 「金めっき」 というのもおかしいので、岩淵訳のように金文字で書名が印刷されているということでしょう。 (実吉訳は、この点、玉虫色の訳ですね。)

 そもそも、ここはこの作品の中でも大事な箇所なんですよ。 牧師はふだんから学業成績のいいハンスを気にかけてくれているのですが、他方、ハンスの身を案じる村人の一人に靴屋のフライク親方がいます。 彼は敬虔派の信仰の主で、牧師とはいわば反対の立場に立っています。 牧師は学術的・科学的に宗教を捉えようとする人で、民衆的・直感的に神を崇拝する親方からは嫌われている。 しかしハンスは親方のそういう気持ちが分からず、多分自分と同じように秀才コースをたどって現在の地位に就いているのであろう牧師の方に親近感を持っているわけです。 ここの箇所でも、このあと、神学校に入る前に新約聖書のギリシア語を教えてあげようと牧師に言われて、一も二もなく承知してしまいます。 そうした学校秀才の先輩格である牧師の蔵書がどういうものなのかが、ここで見事に描写されているのですから、訳には特に注意しないといけません。

 

【9】 また飛ばして、第3章の最初を見てみましょう。 修道院の建物を描写するところです。

(高橋訳:68ページ) 州の北西のはずれ、森の丘と静かな小さいいくつかの湖のあいだに、シトー教団のマウルブロン大修道院がある。 広い美しい古い建物がしっかりとよく保存されていて、内部も外観もみごとなので、住んでみたいような気を起こさせるであろう。 建物は数百年のあいだに、おちついて美しい緑の周囲と、高雅にしっくりと溶けあっている。 修道院をたずねるものは、高いへいのあいだに開いている絵のような門を通って、広いしんとした庭にはいる。 そこに噴泉が水をふいている。 また、古い厳粛な木が立っている。 両側に古い石造りのがっしりした家がある。

Im Nordwesten des Landes liegt zwischen waldigen Huegeln und kleinen stillen Seen das grosse Zistersienserkloster Maulbronn. Weitlaeufig, fest und wohl erhalten stehen die schoenen alten Bauten und waeren ein verlockender Wohnsitz, denn sie sind praechtig, von innen und aussen, und sind in den Jahrhunderten mit ihrer ruhig schoenen, bruenen Umgebung edel und innig zusammengewachsen. Wer das Kloster besuchen will, tritt durch ein malerisches, die hohe Mauer oeffnendes Tor auf einen weiten und sehr stillen Platz. Ein Brunnen laeuft dort, und es stehen alte ernste Baeume da und zu beiden Seiten alte steinerne und feste Haeuser (…)

(実吉訳) 州の北西部に、森の多い丘陵と、小さいしずかな湖水とにはさまれて、大きなシトオ派教団の修道院、マウルブロンがある。 宏壮に堅固に、そして昔ながらのすがたで、このいくつかの美しい古い建物は立っている。 そして心をさそうような住居だと言ってもいいであろう。 なぜなら、内側から見ても、外側から見ても、この建物は壮麗である。そして幾世紀ものあいだに、しずかな美しさをもつ、みどりいろの周囲と、けだかく、はなれがたくとけ合ってしまった。この修道院を訪れようとする者は、だれでも、高い塀についている、画のような門をとおって、ひろい、非常にしずかな広場に出る。 そこには噴泉がわいている。 そして古い、おごぞかな木がそこにならんでいるし、両側には、古い石造の堅固な家々が、(…)立っていた。

(岩淵訳) 州の西北部、森におおわれた丘陵と、小さな静かな湖の間に間に、シトー教団の大修道院、マウルブロンがある。 美しい建物がひろびろと昔さながらの姿でいまだにその威容を誇り、訪れるものは思わず、住んでみたいという気持ちに誘われるであろう。 なぜなら、外からみてもなかからみても、建物のすばらしさはたぐいなく、数世紀の間に、いつか静かな美しい緑の環境としっくり融け合って、気高い趣をたたえているからなのである。 修道院の訪問を志すものは、高い塀のぽっかりと開いている、絵のように美しい門をくぐって、広い、静かな広場に足をふみ入れる。 そこは噴水がしぶきをあげ、いかめしい老樹がそびえ、両側に、古い石造りの、堅牢な家々が立ち並んでいる。

 高橋訳のまずさはここでも際だっています。 「森の丘」 って、どう見てもドイツ語初心者の訳ですね。 実吉訳の 「森の多い丘陵」、岩淵訳の 「森におおわれた丘陵」 がまとも。

 「住んでみたいような気」 だとか、「古い厳粛な木」 だとかもそうです。 「古い木」 なんて言われると、下手すると材木のことかと思っちゃう。 これは実吉訳も同じですから、ドイツ文学者のヴォキャブラリーの貧困は目を覆うばかり。 「老木」 「老樹」 って漢語が出てこないんですかねえ。

 あと、これは三人とも同じなんですが、最後の「がっしりした家」にも私はひっかかりを覚えます。 「家」 じゃなく、「建物」 と訳すべきじゃないでしょうか。 「家」 というと、普通に家族などが住んでいる建物を想起します。 ここは修道院で、普通のファミリーは住んでいないわけだから、「建物」 が適切なところだと思うんですが。

 追記: 上記の訳文について、或る方から指摘をいただきました。 「シトー教団」 や 「シトー派教団」 などと訳してあるのは不適切であるというのです。 カトリック教会から認められている修道院である以上、独立した宗教のごとく思われる 「教団」 や分派を思わせる 「派」 という言葉は使うべきではなく、「シトー会」 などとするのが正しいということで、たしかにそのとおりですので、ここにその旨を記しておきます。 (2013年12月17日)

 

【10】 きりがないので、最後に一つだけ、高橋健二訳の杜撰さの例を。 これは、授業でこの作品を読んでいて学生から指摘されたことです。

 ハンスは神学校に入ってハイルナーという友人を得ます。 第4章後半で、ハイルナーはハンスにこう打ち明けます。

(高橋訳:136ページ)

 「――ぼくには恋人があるんだ」

  まもなくハイルナーは放校になり、第5章に入ってからハンスも病いを得て自宅に帰されてしまいます。 そしてハイルナーの夢を見るのですが、夢の中でハイルナーはハンスにこう言います。

(高橋訳:149ページ)

 「ねえ、ぼくには愛人があるんだよ」

 学生の指摘は、ハイルナーは最初のシーンでは 「恋人がある」 と言っているのに対し、あとの夢の中では 「愛人がいる」 と言っているが、「恋人」 と 「愛人」 はニュアンスの違いがあるのか、というものでした。 私も気づかなかった訳の違いで、さすが、我が大学の学生は読みが細かいと自慢したくなっちゃいますね。

 そこで私は原文を見てみましたが――

□ 最初は、"――Ich hab einen Schatz."

□ 夢の中では、"Du, ich hab einen Schatz."

 つまり、どちらも同じ言い回しですね。 だから訳も同じにしないといけないのに、そうなっていない。 ハイルナーがいくら早熟とはいえ、所詮は十代の少年ですから、ここは 「恋人」 で統一すべきところでしょう。

 ちなみに、岩淵訳はどちらも 「恋人」 で統一していますが、実吉訳は最初が 「いいひと」、夢の中が 「かわいい人」 で、不統一です。 高橋訳と同じく杜撰だと評さざるを得ません。

 

 以上、見てきたように、高橋健二訳はどうみても水準の高い訳業とは言いかねます。 また、岩波文庫版の実吉訳もレベル的にさほど違いません。 比較した3つのなかで岩淵達治訳が最も優れていることは明らかでしょう。

 にもかかわらず、現在は高橋訳と実吉訳が現役でまかりとおっており、岩淵訳は入手不可能になっているのです。 ドイツ文学者はこういう状況をどのように見ているのでしょうか?  ドイツ文学がかつてより読まれなくなっているのは、まずい訳業が横行しているためもあるかもしれないのに・・・・。

 

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