音楽雑記2006年(3)

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 音楽雑記2006年の1〜5月はこちらを、6〜10月はこちらをごらん下さい。

 

12月31日(日) 今年も最後なので、少し真面目なことを書いておこう。

 ここのところ毎日新聞は格差社会の中で貧困化している人たちに関する記事をよく載せている。 26日には 「記者の目」 欄では、フリーターや派遣社員の過酷な労働や安月給、そして正社員でも社内でイジメに会うケースが増えているという日本労働弁護団の指摘が紹介された。

 そして29日の同欄では、親を事故や病気でなくした高校生と大学生をさせる 「あしなが育英会」 会長の発言を紹介している。 98年に比べて今年の同会高校奨学金出願者は倍増しており、他方で高校生遺児の母子家庭の年収は同年比較で4分の3に落ち込んでいるというのだ。 政府の打ち出した生活保護の母子加算廃止方針がこの窮状に拍車をかけている。 また、97年には高校生遺児のうち親が自殺した割合は3・5%だったが、今年は16・7%に及んでいる。 「倒産」 「リストラ」 が影を落としているのは明らかだという。

 もっとも同記事には首をかしげる箇所もある。 02年の日本の貧困率がOECD調査で15・3%で調査国中で5番目に高いと書いているのだが、この「貧困率」という概念、年収が国民年収の中央値の半分に満たない率、ということで、きわめて大ざっぱだし、そういう 「貧困」 な人々が実際にどういう生活をしているのかよく分からない、という難点がある。 そもそも、全体の平均が高ければ、中央値の半分以下の人もそれなりの生活をしているのではないか、と思えてくるわけだし。

 だから、必要なのは下層の人たちがどういう暮らしをしているのか、という具体的な例を示した記事なのであり、毎日新聞の 「記者の目」 欄もそのあたりに眼目をおいて書いてほしい (すでに或る程度はそうなっているけれど、一層その方向で、という意味です)。

 一方、産経新聞も29日には 「正論」 欄に池内了の 「賃金デフレの時代に思う――人間使い捨てのワーキングプア」 を載せて、ようやくフリーターやワーキングプアの問題を正面から取り上げ始めた。

 「ようやく」 というのは、産経は保守系の新聞だから毎日に比べるとその方面にあまり熱心でない印象があり、たしか今年の前半には、稲田朋美が「正論」 欄に、格差拡大を言うのは嫉妬心からではないか、なんてトンデモナイことを書いていて、保守がこんな低劣なことを言っているようじゃ、今は保守派が優勢な時代だけれどそのうち国民から見捨てられるんじゃないか、と思ったからだ。 本当の保守なら、ちゃんと下の人たちにまで目配りをするものでしょ。 金持ちの取り巻きみたいな保守なら要りませんよ。

 サヨクだってほめられない。 一番肝心なのは恵まれない立場にいる人間を守ることで、それができなきゃサヨクを名乗る資格もないはずだが、いったい何をやっていたのだろう? サヨクは所詮恵まれた立場にいる人間の自己満足イデオロギーと言われないように、中国や北朝鮮の提灯持ちをしているヒマがあったら、国内の恵まれない人たちの実際的な助けになるような主張をしてみなさい。

 それには、労働組合を再構築する作業が欠かせないと私は思っている。 護憲だとか反戦だとかのイデオロギーを抜きにした――そういうことは組合としてではなく個人としてやるべし――、生活と労働条件を守る目的に限定した組合を作る作業こそ、サヨクが従事すべき仕事なのである。

12月30日(土) 年の瀬も押し迫ってきたが、街の中心部にあるクラシックCD屋 ”コンチェルト” に注文していたブリテンのオペラ 『カーリュー・リヴァー』 のCDを取りに行く。 授業の関係で入手の必要ができ、調べてみたらつい最近日本語訳つきのCDが出たばかりなので、これさいわいとばかり注文してみたもの。

 私はオペラには詳しくないから、ブリテンのオペラとなるとトーマス・マン原作の 『ヴェニスに死す』 くらいしか持っていない。 それもそんなに良く聴き込んでいるわけではない。 20世紀のオペラは、モーツァルトやヴェルディみたいに聴きやすくないから、なかなか手が伸びないのである。

 この 『カーリュー・リヴァー』 というオペラ、解説によるとブリテンが1956年に来日したときに能 『隅田川』 を見て強い印象を受け、これをヨーロッパ風のオペラに直すことを意図した作品だという。 私は能を実演で見たこともないくらいの人間だから偉そうなことは言えないが、CDを聴いてみると、なるほど、と思えてくる。

 授業での必要とは、音楽評論を扱う授業のことで、今、ピアニストのリヒテルの言行録を読んでおり、そこでリヒテルが言及している曲をすべて学生に聴かせているのである。 リヒテルという人は、単にピアノを弾くだけではなく、絵画や文学にも相当くわしいし――プルーストやトーマス・マンにも触れている――、音楽でも色々な領域に興味を持っている。 ピアニストとしての彼は偏食家というか、自分の好きな曲しか弾かなかったので有名だが、素顔の彼はかなり幅広い芸術愛好家であったようだ。

 私はリヒテルの実演を一度だけ、1970年代の末に仙台で聴いている。 舞台に現れて椅子にすわったかと思うとすぐに弾き始めるのにびっくりしたが、この本を読むと、すわったらすぐ弾き始めないと駄目な曲というものがあるんだ、と言っている。 ピアノを弾かない私にはよく分からないけれど、そういうものなのだろうか。 

12月28日(木) 教養科目の 「西洋文学」 のレポートを読み始める。 半年で2回のレポートを課すのであるが、その第1回目。

 先日、美しい (ここを強調しておこうかな 〔笑〕 ) 年長の御婦人から年末年始に一緒に卓球をやりませんかというお誘いを受け、しかし残念ながら諸般の事情で延期になったのであるが、その時気になったのは、大学教師は冬休みの間はヒマだと思っていらっしゃるらしいことであった。

 とんでもない。 休みは休みなりに色々仕事があるのであり、レポート採点もその一つ。 私は冬休みの間に3つの講義の中間レポート、合わせて310人分を読まねばならないのである。 今週前半で1クラス分を終え、本日から一番人数の多い西洋文学に取りかかったわけである。

 目立つのは、西洋の人名をちゃんと書けていない学生が多いこと。 ベンヴェヌート・チェリーニがチェリーになってしまったり、特にテレーザ・フォスコリーニ=ヴィンターシュタイン侯爵夫人なんて長たらしい名前だと、大抵一カ所程度は間違えている。 「侯爵」 を 「公爵」 と誤記する者も少なくない。 ファーストネームとファミリーネームの間に中黒 (・) を入れずに続けて書く奴もいる。 西洋人の名前に対するセンスがいちじるしく欠落しているのは、最近の学生に共通して見られる傾向だと思う。

 近頃はワープロ作成の原稿が多いから (変換ミスを除くと) 誤字は減っているが、数少ない生原稿だと逆に誤字が目立つ。 「冒険」 の 「冒」 の字、下が目ではなく日になっている奴が複数いた。 

 一方、今週前半にレポートを採点していた別の授業では差別語問題を扱っているのだが、デリケートな問題だけに、レポートに表れた学生の感性と思考力にはかなりばらつきが見られた。

 目立つのは、最近のフェミニズムの流行のせいで、単細胞的に男女平等を主張しさえすればいいと――私自身はそういう授業はやっていないのであるが――考える輩がいることである。

 その中にトンデモなのがあった。 小寺初世子という学者の出した、グリム童話の男女差別についての本を読み、「昔のヨーロッパには魔女裁判はあったが、魔女の男性にあたるのは悪魔のはずだけれど悪魔裁判はなかったから、したがってこれこそ究極の男女差別だ」 という珍説を鵜呑みにしてレポートを書いた学生がいたのである。

 困っちゃうなあ。 魔女裁判で殺されたのは女だけではない。 男だって殺されているのであり、それは岩波新書の 『魔女狩り』 だとか講談社現代新書の 『魔女とカルトのドイツ史』 などの啓蒙書をちょっと読めばすぐ分かることなのである。

 要するに 「魔女」 というのがヨーロッパ語の日本語訳にすぎず、例えばドイツ語で 「魔女」 は”Hexe”だが、この単語には 「女」 の含意がないことも知らないのである。 学生が知らないのは仕方がないかもしれないが、一応学者と名の付く小寺初世子が知らないのでは、これは辞職もののお粗末さではあるまいか。

 さっそく小寺初世子に 「職を辞しなさい」 という抗議文を送ろうと思ったが、調べてみたらこの人は数年前にこの世を辞していました。 残念無念。

12月24日(日) 12月18日の続き。 独文学者たちのML上での議論である。

(31) 12月5日昼、私は(29)のF氏の投稿に対して以下の投稿を行った。

 >>教育基本法はさておき、この投稿での私の関心は専ら「ネットの自由」にあります。 「あまり難しく考えないでいただきたい」 と
 >>言ったのは、MLに細かい規則を設けたりして堅苦しく行くのには反対だということです。
 >>「良識」の意味する範囲は仰せの通り人によって異なるでしょうが、私の考えるところでは、コミュニティで容易に 「排除の論理」 を
 >>持ち出さないことも、「良識」 の構成要素の一つです。

 これは独文学会のMLです。 独文学会は言うまでもなくドイツ文化やドイツ語教育に関心がある人たちの集まりです。 つまり目的がはっきりしている集団である。その目的を逸脱した投稿が問題とされるのは当然でしょう。 「排除の論理」 がいけないというなら、何でも投稿していいことになりますね。また独文学会員以外の誰でも投稿できることになる。 それでいいわけですか?

>>それから、大学関係のネットは現在でも多くボランティアの力に支えられて動いています。 例えば運営委員会とか立派な名称が
>>ついていても、実際に働いているのは一カ所では一人か二人のUNIX使いということがほとんどです。 このMLの管理人氏
>>(広報委員?) だって労賃をもらっているわけじゃないでしょう。 ですから商用サービスに不満を抱く顧客のような物言いは場違いなのです。

 根本的に間違っています。
 まず、独文学会理事は全員ボランティアです。 広報委員会だけじゃない。 私個人は理事の方々に少額でいいから手当を払うべきだと考えていますが、ともかく現行はボランティアです。 私は理事の方々が貴重な時間と労力をさいてこういうお仕事をして下さっていることに敬意を払っています。 ただし、ボランティアだから文句をつけていけない、なんて論理は通用しない。 なぜならボランティアであっても理事である限りは責任ある立場なのであり、それを果たしていないと考えれば遠慮なく批判しなくてはならないからです。 実際、私は過去の理事長を批判しました。 独文学会理事長という公人としての責任を果たしていないと考えたからです。 Fさんの論理に従えば、独文学会理事は全員ボランティアだから、理事のやることにはいっさい文句はつけられない、ということになりますね。

 そもそも、無料だから商用サイトと違う、という考え方がおかしい。 個人が運営する私的サイトならともかく、独文学会MLのように何人もの人間が投稿可能な場所では公共性が生じます。 その公共性のあり方をめぐる議論もまた当然生じるのです。 つまり、現在そういう議論が行われている、ということです。 公共性は発言に一定の枠を要求するのではないか、という議論ですね。 その公共性を理事としてどう考えるのか、見解が求められるのもまた当然でしょう。

 Fさんの議論は、自由なネット空間という幻想に浸されていて、これが独文学会という一定の制約をもった団体内部での問題なのだという前提がすっぽり抜け落ちています。
 今回でも、独文学会員が 「日本人として」 「教育者として」 教育基本法改定に反対することはあり得ます。 しかしそれをネットで主張したいなら 「日本人として」 参加できるサイトや 「教育者として」 参加できるサイトでやるべきなのであって、自由なネット空間とはそういう前提で築かれるものだし、独文学者はそういうサイトを自分で見つけて意見を展開したり情報を流したりすべきでしょう。 自分がその問題を知らなかったから独文学会MLで知って感謝するなんてのは、完全に筋違いですよ。

>>前回の投稿でバケツリレーを持ち出したのは、「助け合い」 こそがネットの文化だと言わんがためです。

 Fさんの議論がおかしいのは、教育基本法改定に反対することがバケツリレーだと思っているところにある。 つまり、価値判断が最初から入っている。 Aさんの投稿はバケツリレーではなく、放火魔たちが火種をリレーするに等しいという考え方だってあるのに、気づいていない。 それは、自分は教育基本法改定に反対だからまあいいや、と党派的にしか物事を考えていないからであり、なお自分のそうした党派性にすら気づいていない証拠ですね。 もっと原理的に考えて下さい。


(32) これに対して、12月6日早朝、F氏より以下の投稿があった。

 「公共性」 を問題にするのであれば、先ず公共の議論によって合意形成を目指すべきでしょう。 ML内部で起こった問題は、先ずはML参加者間の議論で解決を試みるべきです。 直接民主的に。委員なんか呼ぶことないです。 向こうも忙しいんですから。 adminというのは技術担当の裏方です。 必要あらば呼ばなくても出てきますよ。

 ある行為が不適切ないし迷惑だからやめてもらいたいと言うのと、禁止しろとか取り締まれとか言うのは別な話です。 三浦さんが前者の主張をされている間は一理はあることだし、判官びいきで見守っておりましたが、(24) で委員に訴え出られたのを見てROMをやめました。

バケツリレーとはネットのデータ流通 (パケット交換) の比喩です (教育基本法とは関係ありません)。 隣から隣への手渡しです。 自分には用のない情報でも無条件に中継してやる。 その代わりに、自分に必要な情報も同じように手渡しで届けてもらえることが期待できる。 幻想などではなく、インターネットは実際こうした相互扶助によって成り立っているのです。 余程の迷惑行為でも働かない限り、ふつう排除ということにはなりません


(33) これに対し、12月6日午前、私は以下の投稿を行った。

 >>「公共性」 を問題にするのであれば、先ず公共の議論によって合意形成を目指すべきでしょう。ML内部で起こった問題は、
 >>先ずはML参加者間の議論で解決を試みるべきです。

 その議論が全然成り立たないというのは、この問題が出てから現在に至るまでの経緯を見れば分かるとおりです。 最初に発言した人はもう発言しないと宣言しているし、罵詈雑言しか並べられない人、原理論的にこの問題を論じられない人、そして圧倒的多数のだんまりを決め込んでいる人など、残念ながら独文学会員にはそういう能力がそもそも欠けているのだろうと判断せざるを得ない。 だから、委員にどちらかに決めてくれ、といったわけです。

 私がそう言うのは、こういう問題はうやむやにすると党派性だけで決められてしまうからです。 大学教師には党派的な人が少なからずいるし (この議論に登場した人の中にもいます)、ネットというのも党派性が横行する世界です。 労組などにもそういう党派性が横行しているのは、E先生へのレスで書いたとおり。 そういう党派性を防ぐのは、明文化されたルールです。

 >>ある行為が不適切ないし迷惑だからやめてもらいたいと言うのと、禁止しろとか取り締まれとか言うのは別な話です。

 別ではありませんよ。 酔っぱらい運転はやめてもらいたいと思うだけでは減らないからからこそ、立法措置が講じられる。 Fさんはあらゆる 「取り締まり」 「禁止」 に反対なわけですか?

>>バケツリレーとはネットのデータ流通(パケット交換)の比喩です(教育基本法とは関係ありません)。隣から隣への手渡しです。
>>自分には用のない情報でも無条件に中継してやる。その代わりに、自分に必要な情報も同じように手渡しで届けてもらえることが
>>期待できる。幻想などではなく、インターネットは実際こうした相互扶助によって成り立っているのです。余程の迷惑行為でも働かない限
>>り、ふつう排除ということにはなりません。

 どうもFさんの言う 「ふつう」 の感覚はずれている。 「ふつう」 じゃなく 「異常」 じゃないですか。
 繰り返しますが、これは独文学会のMLの話なのです。 個人が開いているサイトの話ではない。
 いや、個人のサイトだって 「何でもあり」 とはなりませんよ。 早い話が、私もクラシック音楽の掲示板を開いていますが、テーマはクラシック音楽限定で、それ以外の話題が書き込まれたら即削除します。 テーマが決まっている掲示板はおおかたがそういうものです。
 また、私は別の学会にも入っており、そこにもMLが設けられていますが、教育基本法改定の話題は出ていないし、その学会の目的に添わない書き込みがなされたことは、私の知る限りでは一度もありません。 学会のMLなのだからそれに合わない投稿はしない、という暗黙のルールを会員が守っているのです。 独文学会MLでは残念ながらそうではなかった。 だから私がこういうことを言わなくてはならないことになる。
 つまり、Fさんの主張は、現実からはるか遠く離れている、ということですね。

 

 このあと、(34)以下がまだまだ続くのであるが、そして引き続きこのページに掲載予定であったが、サーバーの容量の関係で1ページが200KBを超えることができず、この先を載せると超えてしまうことが分かった。 といってこのやりとりのためだけに「音楽雑記2006年 その4」を開く気にもなれないので、まことに申し訳ないが、この先は来年に持ち越し、ということでお許しいただきたい。

12月23日(土) 本日午後2時からりゅーとぴあで新潟メサイア合唱協会による第39回メサイア演奏会を聴く。

 指揮は久住和麿、ソプラノ=大島洋子、カウンターテナー=太刀川昭、テナー=佐藤淳一、バス=大島幾雄、ボーイソプラノ=鈴木大、オーケストラ=東京バッハカンタータアンサンブル、チェンバロ=熊倉龍夫、オルガン=和田純子、合唱=新潟メサイア合唱協会。

 このメサイア演奏会は、新潟市で毎年年末におこなわれている。 それが39回目に達したということだ。 記憶違いでなければ、毎年やっているこの演奏会を聴くのは私としては初めて。 毎年やっているとありがたみがない、という意識があったのかも。 しかし今年は珍しく、メサイアで一年を締めくくるのもいいかな、なんて殊勝な気持ちになった。 座席は自由席なので3階のHブロック (自由席のほうが千円安い)。

 開演10分前に着いたが、長蛇の列ができているのにびっくり。 見ていると列がなかなか前に進まない。 もぎり嬢が2人しかおらず、しかも東響定期と違ってもぎるのとその後紙切れ (後述のようにパンフではない) を渡すのを一人でやっている。 だから入場の効率が悪いのだ。 ほかに招待客専用のもぎり嬢が一人いて、こちらは閑散としている。 チケット精算と当日券のところに2人ずついるが、こちらも手持ちぶさたのよう。 要するに人員の配置がアンバランスなのである。

 開演4分前になって――この時点で私はまだ列の途中――ようやく招待客専用のもぎり嬢も一般客を受け付け始めたが、どうにも状況判断が悪いと言うしかない。 私はかろうじて開演に間に合ったが、開演後しばらく途中入場の客が多く落ち着かなかったのは、明らかに主催者側の手落ちである。 毎年やっている演奏会のはずなのに、こういうところがうまく行っていないのはどういうわけだろうか。

 あと、パンフが別売なのにびっくり。 500円だから目くじらたてるほどではないかも知れないが、東響定期だって、他の在京プロオケの演奏会だって、今どきパンフは無料配布じゃないですか (N響は文字通りのプログラムしかくれないけれど)。 強気だなあ、と思った。

 客の入りも悪くない。 客を入れない舞台後部のPブロックと、2階舞台脇のA・Eブロック、3階脇のF・Lブロック、1階前方端を除くと、だいたい満席。

 演奏であるが、まず東京バッハカンタータアンサンブルの手堅い表現を賞賛すべきであろう。 こういう音に乗ると声楽陣も安心して歌えるのではないか。 独唱陣は皆それなりのレベルだったと思うが、テナーの佐藤淳一氏が特に良かった。 声に格調が感じられて、宗教曲の演奏会にふさわしい歌手だという印象。 合唱は、ちょっと声の立ち上がりが悪いと思えるところがあったのと、人数の割りには迫力に欠けるのが難点か。

 最後に 「きよしこの夜」 を聴衆をも含めて歌って終わるのは――私は上に書いたように初めてなので知らないのだが――この催しの習慣なのかな?

 そうそう、前のりゅーとぴあ専属オルガニスト和田純子さんの演奏を久しぶりに聴けたのも収穫。 私のHブロックからは遠くてお顔がよく見えなかったのが残念だけれど (笑)。

12月22日(金) 本日の産経新聞に湯浅博が 「「らんぶる」 に至福・・・再び」 という文章を書いている。 神田神保町の喫茶店らんぶるを回顧して、世界に冠たる神保町の古本屋街が最近おかしい、とした記事である。 古本のネット販売が幅を利かせるようになってから古書も値崩れしているし、人々に古本屋街を冷やかす心の余裕もなくなってきた、という趣旨のことを出久根達郎にインタビューしながら書いている。

 だけどねえ、これって東京人の発想じゃないですか。 私のように地方都市に住んでいる人間からすると、古本がネットで探せるようになって大助かりなのである。 ネット社会の最大の利点は古本が探しやすくなったことにある、とまで私は思っているのだ。

 そもそも、私は古本屋めぐりは好きだけれど、探していた本を古本屋で見つける、という経験自体をそれほど多くはしていない。 いや、あることはあった。 数年前、学生時代から探していた本を神保町の古本屋で100円で見つけたときは、内心躍り上がった。 勿論いわゆる稀覯本じゃありません。 だいたい、それなら100円で売っているわけがない。 他人にとってはどうでもいい本だが私個人はぜひ再読したい、という奴だったのである。 だけれども、こういう経験はそうそうあるものではない。

 私は、古本屋めぐりの最大の利点は、意外な出会いにあると思っている。 つまり、へえ、こんな本があったのか、という驚きと認識、である。 だから、専門性の高い古書店の書棚よりも、店頭に100〜300円均一で出ている本を見て歩くのが楽しい。 言うまでもなくビンボー症な私の気質にも合致した楽しみだからでもある。

 昭和天皇は、神保町の古本屋街を一日自由に散策したいと思いながらついに果たさなかったという。 天皇陛下もできなかった楽しみを、地方都市に住む私は年に1回程度は味わっている。 まことに贅沢と言うべきであろう。

12月21日(木) 本日、ユニセフと国境なき医師団とにわずかながら寄付をしました。(なぜわざわざ自分の寄付行為について書くかは、2005年7月29日の記述をごらんください。)

12月18日(月) 12月9日の続きである。 ドイツ文学者たちのやりとりを独文学会MLからなるべく原文通りに再現する。 なお、前回、(20)の最後に冷泉彰彦氏の論考を入れるのを忘れていた。 申し訳ない。 今回付け加えておいたことをここに記す。 〔 〕は三浦による省略箇所。

(21) 11月28日午前、D氏より以下の投稿があった。

 (20)を読みました。 この投稿はたぶん十分には理解されないだろうなという気がしたので私なりの解釈を述べます。 もっとも、この問題について特定の個人ばかりが盛り上がるのは「不健全」なので、私が書き込むのはこれが最後にしたいと思います。
 問題となっているトポスは、die Kultur des Wegschauens/ die schweigende Mehrheit というまさにファシズム論議の根幹に関わるものです。
 Cさんの文章はご本人も認めておられるように「サービス精神」旺盛すぎ、「脱線」やユーモアをこめた「同志」への鞘当てが多すぎて見えにくくなっていますが、実は添付された「ホワイトカラー・エグゼンプション」が核心となる部分です。 これは朝日新聞でも報道されていた問題ですが、これを「労働奴隷制」の問題として捉えなければなぜわれわれのMLでこれが出されるのかも理解できません。
 「労働奴隷」には思考能力は期待できません。 したがって戦争のできる憲法改定への道のりを阻止するうえで知識人との連帯もありえません。 ここでのトポスはダブルミーニングにおける「戦前知識人」です。 1930年代のゲルマニストの過誤の轍を踏むかどうかということなのです。 大学教員そのものが「労働奴隷」じゃないかと思われる向きもあろうかとは思いますが、一般的な企業ホワイトカラーに比べれば遙かに労働や時間の自己裁量がきく身分にあります(もちろんここでは常勤の立場を念頭に置いています。 現在の私のようにたまたま研究休暇をもらえている人間はいっそうそのことがあてはまります。 今私が発言の義務を感じている理由もそこにあります)。
 思考の自由を与えられた身にありながら、その自由を行使しないとするならば、その「沈黙の知識人大衆」こそが問詰されるべき主体だというのが、C氏の主張なのです。 間違えていたらごめんなさい。

(22) 12月1日午後、E氏より以下の投稿があった。

 皆さん、

 教育基本法の改悪はゲルマニストにとってもさまざまな影響を及ぼします。
 参議院の教育基本法特別委員会各委員に当該法案採決反対の要請書を出します。
 取扱法及び文面は 〔URL省略〕 をご覧ください。 〔以下3行略〕

 趣旨をご理解していただけますならば、この要請書への賛同署名をいただけますと助かります。

 どうぞ宜しくお願い申し上げます。

(23) 12月2日午後、C氏より以下の投稿があった。 本人を特定できる表現が含まれていたので〔 〕以外にも削った箇所がある。

 〔(22)のE氏の投稿を引用して〕

 日本独文学会御中

 私は、この1時間後にE先生に賛同書をお送りしました。

 E先生の声明文は、冷静で過不足のない、よい中身だと思います。

 また、いくつかの経路をもちいて、個人的に、100人ほどの独文学者に、E先生のご投稿を転送し、賛同を呼びかけました。

 さて、水曜の朝刊(朝日)に出ていたように、教育基本法改悪法案は、もう「成立必至」のようです。民主党が、成立阻止を、あまりにも不真面目にしかしなさすぎました。
 この法案では、審議完全拒否、全議員地元演説回り、を、すべきでした。

 いま打てる手は、E先生のご認識どおり、参議院の教育基本法特別委員会での阻止しか、残っていません。

 私は、日本独文学会の一会員として、日本独文学会理事会が、緊急に理事会を開催し(メールによる持ち回り理事会というかたちにおいてであっても)、「日本独文学会理事会」の名で、E先生のアピール文と同様の文章を、参議院の教育基本法特別委員会と、あらゆる学会およびあらゆるマスコミに送付すること(マスコミにはこれをあらゆる学会に送付したとの事実も付けくわえて)を、要求いたします。

 また、最終的に、「日本独文学会理事会」の名でそのような動きをすることはやっぱりできないとの結論にもしなるのであろうとも、上記の私の要求内容を、理事会にて、緊急にご検討下さい。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 〔1行省略〕

 皆様

 今回の学会メーリングリストさわぎで、私はDさんと知りあいになることができました。
 Dさんはふたつの学会で土日に大阪出張でぜひ金曜の夜京都で飲みたいということなので、きのうは楽しく飲んでいました。
 Dさんは、私の本を八重洲ブックセンターで買い新幹線で読んでくれていました。
 こんどまとまったドイツ演劇論を書くとのことで、一晩中、ベンヤミンと写真と演劇の話で、次から次へと細部の意見を求められ、無駄な話はせず、とても楽しい思いをしました。(教育基本法や憲法の話題はほとんど出ませんでした。ただひとこと、Dさんが「ご承知だとは思いますが、こんどの件でCさんと私が勤務先を移ることの可能性は消滅しましたよ」と言っただけです。)
 最初の反応からして誠実な人だなと思ったのですが、会ってみると頭もちゃんといい人でした。

 このDさんと友人になれたことが、今回の学会メール騒動での、思いがけないごほうびでした。

 また、E先生のこの動きも、私の挑発が実をむすんだものと、いささか自負しております。

(24) 12月4日午後、私は以下の投稿を行った。

 この件については私の見解は申しましたのでそれを繰り返すことは致しませんが、広報委員会はこの問題――ドイツ・ドイツ文化・ドイツ語教育と直接関係ない問題をこのMLに投稿することの是非――についてどういう見解なのか、うかがいたいですね。
 直接関係なくてもいいということであれば、私も今後はそのつもりで利用する所存ですので。


(25) 12月4日午後、これに対してF氏より以下の投稿があった。

 私は広報委員ではありませんが。
 ドイツの文化の香り高いソーセージの直接広告が延々と流れても困るわけで。
 どのような投稿が適切かそうでないかは、程度の問題でしょう。
 少なくともAさんの情報提供(1)の内容については、良識に反するとか排除に値するとか、私には全く思えません。
 三浦さんも他の皆も、どのルートにどの情報を流すかは、良識の範囲で判断すればいいことです。広報委員会を問いただすような事柄じゃないと思いますが。

 ネットはバケツリレーでかろうじて動いています。多くの大学で、LANは学生と助手が(かなりいい加減に)試行錯誤で繋いで拡げました。その立場から言いますと、先生方にはあまり難しく考えないでいただきたいです:-)

(26) これに対して私は12月4日夕刻、以下の投稿を行った。

  「良識」とか「難しく考えるな」といういい加減な態度は、ドイツ文学者らしくないと思いますね。「良識」と一言で言ってもそれが何を意味するのかは人によって大きく異なるのであり、だからこそ私はAさんの投稿に異を唱えたのです。直接ドイツやドイツ文化に関わらない問題を、独文学会のMLに流すやり方は、私からすると明らかに「良識」に反しています。
 教育基本法改定問題は一人一人の政治的姿勢によって捉え方が様々なのであって、そういう問題について、いわば特定の政治的立場を強化するのに利用しようとするやり方には重大な疑問を感じます。その辺に無自覚なのは、私からすると驚愕と言わざるを得ない。ちゃんと考えていただきたい。

(27) この直後、E氏より以下の投稿があった。

 三浦 先生、

 表記メイルを拝見いたしました。先生のメイルはいつも刺激的で、考えをまとめる契機にさせていただいております。
 私の立場を短く(とは申しましても、たいした立場ではありませんので、釈迦に説法のご批判を覚悟して)申し上げます。

 1 当学会の目的の一つは「ドイツ語ドイツ文学の(・・・)普及に貢献すること」です。当 ML の明示的目的の一つは、
    先生がご承知の通り、「ドイツ語・ドイツ文化に関する情報の交換」です。ML に記載されている「情報」には
    「普及」に関する情報も含まれます。そうでなければ、下位規約が上位規約を規制することになります。
   私は、教育基本法が「改正」案のごとく改訂されますと「ドイツ語ドイツ文学の普及」が阻害されるだけでなく、教育一般や社会
    一般における文化や知識や振る舞い(倫理)が制度的に変質する、と考えています。もちろん、この「阻害」や
    「変質」は「ドイツ・ドイツ文化・ドイツ語教育」にのみ、且つ「直接」的に次の日からえいきょうがあるような「ヤ
    ハ」なものではありません。
   このように ―― 当学会や当 ML の趣旨にいささかも反していないどころか、今まで何も述べなかったのは相当長い昼寝
    だったナァと ―― 考えまして投稿しました。
   
 2 序ながらの注記になりますが:私は投稿ルールは守りました。
   私の見るところ、一連のメイル交換には投稿ルールの「いかなる理由でも個人的な誹謗中傷はしないこと」と
    「非常識に長大なメールは避けること」が守られていないケースがありました。
   失礼ながら、先生のメイルにも「幾分ルール違反じゃないかなァ」と思う時もありました。しかし、間違いや過ちは誰でも
    するものですから、ここで特段申し上げるつもりはありません。

 3 さて、「間違いや過ちは誰でもするもの」ですから、先生から見られてばかりではなく、広報委員会の目から見ましても、
    私の先般の投稿は「間違いにして過ち」かも知れません。
   私は、「『正人君子』の連中に深く憎まれる文字を書きつづける」(魯迅『藤野先生』竹内好訳)勇気も能力もありませんが、どなたかに「深く
    憎まれる文字を書」いたかもしれないとは思っています。

 広報委員会 様、

  三浦先生は

 >>直接関係なくてもいいということであれば、私も今後はそのつもりで利用する所存ですので。

 と書かれています。三浦先生からのみとは限らず今後は諸種の、当初は想定していなかった投稿がなされる可能性があります。
  とは言え、「不適当と考えられる場合には管理者が理事会に諮った上で,登録アドレスを抹消する」対応のみでは少し寂しいですし、
  大人気ない。
 この ML にサブ ML Deutsch-Debatte (仮称)を作成して、意見の詳細な開陳はそこを利用していただき、当 ML 自身は字数500字
  (行数20行)以内位の意見の概要や情報の紹介に活用していただいて「美しいメイリングリスト」を目指してはいかがでしょうか? 
 その場合には使用ルールも少し変更せざるを得ないでしょう。
 メイリングリスト管理の事情や作業量に疎い者の考えですので、見当はずれかもしれませんが、ご検討いただけますと助かります。

 どうぞ宜しくお願い申し上げます。

(28) これに対して私はすぐに以下の投稿を行った。

 E先生

 新潟大学の三浦です。

 E先生とこういう場で議論できるのは、皮肉でなく、たいへんうれしいことだと思います。

 私は教育基本法改定のような問題は、包括的に、先にMLで述べた言い方を再度使うなら遠くから吠えるような方法でやっても無駄だと思っています。また、これもここで申し上げましたが、「これこれはかくかくにつながるから危険だ」という戦後日本の知識人がずっとやってきた論法はもうカビがはえて賞味期限がとっくに切れているのです。全然効果がないし、信用もされていない。

 私は都立大改組問題では石原慎太郎知事を批判する人たちに味方しました。それは、それが直接人文学部や独文教師の身の振り方に関わる事柄だったからです。私はしかし、もしかすると別の問題では石原知事に味方するかも知れない。――私からするとこういう是々非々的な身の処し方は当たり前なのですが、ある種の人たちにはどうも全然理解できないらしい。石原知事はどんな場合でも批判されて当たり前だ、と思っている。しかし、そういう考えは、石原知事が圧倒的な票数で知事に選ばれた事実(民主主義!)を見ればきわめて実効性に乏しいと言わざるを得ない。問題はあくまで具体的・個別的に、データを挙げてやるべきだ、と私は思っています。包括的に石原知事を批判してもダメなのです。

 国立大独法化後の職組の人たちの行動にも私は疑問がある。私は職組に入っていません。彼らのイデオロギーにどうにも我慢がならないないからです。しかし独法化された大学内で教師の基本的な労働条件だとか労働者としての権利だとかはしっかり守るべきだと思う。本来、労組はそういう仕事をするためにあるはずでしょう。ところが現実の職組を見ているとそうではない。平和憲法を守れだの、直接関係ない事柄に多くの労力をさいている。労働者の基本的人権を守ることには賛成でも憲法九条を変えることには反対ではない――こういう立場があり得る、ということにまるで気づいていない。包括的な思考法でずっとやってきたからそうなってしまったわけでしょう。ズレてるわけです。結果、労組の組織率はきわめて低い、ということになる。自業自得ですね。私に言わせれば、世の中のことを知らなさすぎますよ。労組の一番の目的も忘れて何をやってるんだ、と言いたい。

 私が労組の愚かしさを言うのは、今回の独文のMLの投稿問題と同じだと思うからです。ドイツ語や第二外国語を守ろうとすれば、大学の現場で他の学科の教師と喧嘩をしなければならないかも知れない。場合によっては内部の裏切り者を告発する必要もある。だけど、ドイツ語教師ってのは、そういうことはあんまりやらないんですよね。今回のように、直接関係ない問題だと、かえってまとまっちゃう。まとまれるのは、実は自分に直接関係ない問題だからです。自分が喧嘩をしたり身銭を切ったりする必要がないからです。そういう自覚すらないのでは、どうしようもないと思いますね。

 無論、E先生には上記の批判(関係ないところでだけ張り切って、関係するところでは逃げ出す)が当てはまらないことは痛いほど良く承知しております。
 議論は論を張っている人間が実際には何をやっているのかを見ないと判断がつかない、と私は考えます。いくら議論だけ立派でも裏でろくでもないことをやっていては信用ができない。いわば言行一致が私の信念です。その意味でE先生が信用に値する方だというのは十二分に心得ておりますが、問題はあくまで個別的に具体的に行くべきだ、最終的に第二外国語や人文系の学問を守ろうとするなら従来のイデオロギー的な包括路線では絶対にダメだというのは、戦後日本知識人の歴史やリオタールの言う「知識人の終焉」からしても明瞭だと考えているわけです。実際、包括路線でやって、負け続けてきたわけですからね。

 教育基本法に反対するアピールを独文学会理事会で出せ、とおっしゃる方もおられますが、それならその前に、第二外国語をないがしろにしている文科省に独文学会理事会全員(理事会だけでなく会員全員でもよろしい)でデモをかけるくらいのことをしたらどうですか? 無論、遠方の理事や会員はちゃんと旅費自弁で参加すること。また、第二外国語を守るために他学科の教員と(場合によっては他のドイツ語教師と)いかに喧嘩したか、という報告書の提出を会員全員に義務づけてはどうですか? そういう直接的なことをやらないでおいて、遠い問題だけ張り切っているのが、E先生などごく少数の方を例外として、ここに登場している方々の姿ではないか、と考えるものです。それはまた、今春独文学会がきわめて内部的で外に全然通用しなさそうな、というか全然働きかける意志がないんじゃないかと言われても仕方がないようなシンポをやったことと並行関係にある、と考えます。きわめて不健全ですね。

(29) 12月4日夜、F氏より(26)の私の投稿に対して以下の投稿があった。

 教育基本法はさておき、この投稿での私の関心は専ら「ネットの自由」にあります。「あまり難しく考えないでいただきたい」と言ったのは、MLに細かい規則を設けたりして堅苦しく行くのには反対だということです。

 「良識」の意味する範囲は仰せの通り人によって異なるでしょうが、私の考えるところでは、コミュニティで容易に「排除の論理」を持ち出さないことも、「良識」の構成要素の一つです。

 それから、大学関係のネットは現在でも多くボランティアの力に支えられて動いています。例えば運営委員会とか立派な名称がついていても、実際に働いているのは一カ所では一人か二人のUNIX使いということがほとんどです。このMLの管理人氏(広報委員?)だって労賃をもらっているわけじゃないでしょう。ですから商用サービスに不満を抱く顧客のような物言いは場違いなのです。前回の投稿でバケツリレーを持ち出したのは、「助け合い」こそがネットの文化だと言わんがためです。

(30) 12月4日深夜、C氏より以下の投稿があった。

 E先生・皆様

 一部、私信にしようか迷いましたが、こういうことも公開の方がよりいいと考えますので、この場に投稿します。



 >> 2 序ながらの注記になりますが:私は投稿ルールは守りました。

 >> 私の見るところ、一連のメイル交換には投稿ルールの(・・・)

 >> 「非常識に長大なメールは避けること」が守られていないケースがありました。

 E先生がメールの長さを気にされて(それを私は、私の投稿「教育基本法と憲法」へのかなり露骨に明示的である非難であるか、もしくは私がそこではそれを「非常識に長大」かどうかむろん検討したうえで確信的にそれを「非常識に長大」だとははじめからまったく判断していないことを見てとりつつご自分はそのようなさい非難対象になりうる可能性をお避けになったか、の、いずれかであろうと考えました)、投稿は短くされ、肝腎の部分は「参照先ネットページ」の「URL」を書きしるす、という方法をとっておられることは、きわめて直接的でこれ見よがしな、「行為遂行的発言」(performative utterance)であると、私はうけとりました。

 さて、E先生のこのご対応には、残念ながらかなり重篤な実用上の欠陥がありました。私は発信と検索の都合から2つのメールソフトを並行使用しているのですが、そのどちらにおいても、E先生が元メールにおいてお示しになった「参照先ネットページ」の「URL」は、〔URL省略〕または〔URL省略〕をご覧ください」のいずれかと表記され、クリックするとまさにそういう「URL」のページにジャンプし、「NOT FOUNDページが見つかりません」という表示がなされたのです。
 そのページ上で、「アドレスバー」の中に現われたアドレス(URL)から、うしろの「 をご覧ください。」または「 をご覧くだ」を消去してから、再度リターンボタンを押せば、当然正しいページに到達できるのですが、メーリングリストの会員あるいは私が個人的に転送した100人ほどの独文学者には、それができなかった人が、無視できない数においていたのではないか(それゆえその人たちは、E先生のアピール文に到達できなかった)ということが、懸念されます。

 私は、これはE先生のせっかくの慎重なご運動の賛同者を少なくするのに、はなはだ貢献したものと、危惧しております。

 こういうことで、ひとは、自己検閲・自己規制を、しすぎるべきではないのだと思います。


 私の「教育基本法と憲法」という投稿が、「非常識に長大」であるという判断は、ありえないものであると考えています。
 第一に、私は投稿中で、何度も、「少し長くなりますが、切迫した読書の時間をほんとうにわざわざ割いて書いているので、お許し下さい。」「また、長すぎれば、先を見ないで下さればそれでいいんじゃあないでしょうか。本質的なことなので、ぜんぶ見る方がいいとは思うけれども。」「なお、4でふれる冷泉彰彦著の、本人からわざわざ転載許可をとったおまけが、下についています。(むろん、私の本文を不徳にも読まない場合を考えての、親切な指示)」と、断っています。読む読まないの判断は、形式上は読者にとうぜんながらまかせてあります。
 第二に、メールウインドウの右に表示されるスクロールバーの位置を見ると(本文部分と転載部分とのあいだあたりをウインドウに表示した状態で)、私のメールは、そのあまりもの重大な内容にもかかわらず、下に付録した、無料配信メルマガ記事よりもじつは短いことがわかります。いかにそれが、ネット世界においてきわめて常識的な長さに収まっているかということの、なによりもの証拠です。


 私のメールにおいて、「個人的な誹謗中傷」は存在していなかったと考えています。
「 はっきり言いますけど。
 こういう問題がもしドイツ語教育の問題でなくドイツ文化教育の問題でないとすれば、そしてあなたはどうもそういう授業をしているらしいけど、そういう授業はゴミだ、って言ってんだよっ。

 だから。ドイツ語教育、ドイツ文化の問題なんですってば。」
という言説が、いちばん「個人的な誹謗中傷」に近く見えるでしょうが、ちゃんと読んで頂ければ自明であるとおり、その箇所は、レトリック上、一般論のかたちとなっています。
 「どこかの新潟の大学にうじ虫がわいた」という話題や「中学生が、道端でならずものに因縁をつけられても、学校で右翼に脅迫されても、それは世間の冷たい風の一種であって、まさしくそれこそが世間勉強であり、つまり勉強であるというものだ。これが常識というものである」という発言は、レトリックを用いて慎重に、「発言例」として提示されており、これに対する品位上あるいは内容上の非難は資格上あさってです。
 そのほかは、議論の整理とまとめと、また、まったく相手として説の同定のしようもなくてつきあいきれない話のあさってな飛び方の指摘と、のみでした。

 他方で、私の方は、個人的に財布の中にさもしくも話を持ち込まれる等、さんざんの「個人的な誹謗中傷」を受けたにもかかわらず、です。(「失礼ながら、先生のメイルにも「幾分・・・かなァ」と思う時もありました。」とのE先生のご発言は、事実を甚だしくねじ曲げつつ一方の側を結果的に利するものであり、私の立場にいる人間が通常の神経をしていれば、それにたいしておこって当然なものと、私は考えます。もっとも、私は、相手の反応からすると私によるいじめにはなってなかったということのみにおいて、ほっとしており、それで十分です。)

 私はかかりあいになりたくありませんから、この場において、「メーリングリスト上においておよび個人的な、これにかんするいっさいのレスポンスを拒否します」。
それこそそういう行為は、それを寛大にも許容する他の方ともしくは「2ちゃんねる」でなさってください。
 いっさい、かかりあいになりたくないというだけの理由で、暴言撤回要求も(首尾一貫として)取り下げます。


 ここから、みなさんに大事な話を、ふたつ。
 上記、「中学生が」云々の部分に対して、引用がちがっているとの発言がありました。
 およそ、正しいまとめでも、まとめは原文とは別のものとなります。直接引用も、よく考えて頂きたいのですが、前後関係を引用者がよほど地の文において正確に代替することができていないかぎりにおいては(そして通常は前後関係の異なる引用がなされます)、引用部分の文意が、地の文の中での引用文の文意とは、少なからず異なるものになるはずです。
 日本独文学会は、「6)すでにお伝えしていることですが、審査の基準となるのは、
1 先行研究をしっかり踏まえていること
2 先行研究にはない新しい独創的なテーゼを提起し、それを綿密に立証していることの2点です。古い先行研究のみに依拠しているもの、テーゼが十分に新しくないものは採用されません。」(『ドイツ文学109別冊』2003年2月5日発行、42ページ)(私はこの冊子をいま書庫で探し当てることができた、そういう無駄を含んでしまった書庫を持っているということにより、自分に対する軽蔑をかなり感じています)という題目を唱えていますが、これが哲学的に無意味(上記、同一物の同定性の問題、先行研究を「踏まえる」ということの科学的確認の不可能性)であることは明らかです。(なんだか、別の機会に、「先行研究にはない」ことを確認することの論理的な不可能性をも指摘したこともすでにあった気もしますが。)
 これこそ、自然科学の表面的な模倣を手続き的にだけでっちあげる、擬学かつ偽学であるにほかなりません。
 また、それこそ、この「6)」の中身をなすテーゼそのものが、何に依拠しえているのでしょう(それ自身の立場からすると、それ自身の主張は依ってたつ参照先をまさに必要としているはずですが)。当時の編集委員会の署名がなされていますが、委員の方どなたかの頭に浮かんだ、妄想でしょうか。(このテーゼの出どころ、および、その十分な権威を、ここでは質問しています。そういう「権威」が出てきたとて、上記の「哲学的に無意味」なものはどうしようもないのですが、自己言及的に無矛盾では最低限あるのか、いまのばあいは、そこのところをきいているのです。)
 日本独文学会は、学会誌編集委員会(査読規定か?)のこの公式内容を、早急に、まともなものに改善してください。(「そこで新しく示されえている見解の値打ちが十二分なものでないかぎりは、バランスを欠いた非常識さにおける先行研究への無知は認められない」、等。)


 ここでの投稿の可否は、非常に一般的には、およそ全員の利害関心にかかわるかどうかという基準でよいものと私は考えますが、それにしても、対話規則を個々の対話より先にあらかじめ想定して待つ態度のいっさいは、必然的に抑圧的なものであると思います。ハーバーマスの、論争相手との議論を、ちょっとでもフォローしてみれば、明らかです。
 光文社新書208薬師院仁志『英語を学べばバカになる グローバル思想という妄想』去年年5月刊240ページ、「共生という考え方にしても、その安易な適用はかえって逆の効果を招く。共生もまた、その理念はともかく、現実には強制という形をとりがちなのだ。すなわち、共生とは、世界中には多様な文化や価値観があるが、互いに異質な人々と関わり合いながら、お互いを尊重し合わなければならないという単一のイデオロギーを、有無を言わさず全世界中に例外なく強制することなのである。
このような共生主義に対する異議申し立てとしては、次のJ・ボードリヤール氏の言葉が傾聴に値する。「最悪の事態は、合意と共生という記号のもとにあらゆる対立的形態を和解させようとすることだ。何ひとつ和解させる必要はない。諸形態の他者性と諸項の不均衡を維持しなければならない。何ものにも還元できない諸形態を、生命あるままで守りぬかなくてはならない」(文献表にはボードリヤールは『パワー・インフェルノ』と『完全犯罪』が載っているがここがどちらからの引用か記載なし)」。
まったく同感であり、ハーバーマスのコミュニケーション理論に対し中心を突く論のひとつでありえていると思います。
 なお。 この本は、同著者の『日本とフランス 二つの民主主義』今年の8月刊という本を朝日新聞書評で見てネットで検索していて、題名よりも中身がよさそうだとわかったから買ったのですが、じっさいに、そうでした。
 この『英語を学べばバカになる グローバル思想という妄想』は、英語を英米文学研究的・英米思想研究的・英米文献研究的・英米文化研究的に「読む」以外の目的で学べばほんとうにバカになる、ということを、アメリカ英語中心主義・アメリカ政治中心主義・アメリカ経済中心主義をちょっとでも盲信する(もしくはその状態を放置する)愚をことこまかに指摘することによってうらづけるもの。その指摘の丁寧さに感心しています。むろん著者にフランスが見えているからこういうことができるのであり、われわれにドイツが見えているのだからわれわれにも丁寧にこういうことができないといけません。しかし、こんど本務校では、ドイツ語教授後釜ポストふたつを中国語と韓国語で埋めようということを早々に会議に出すという話がドイツ語主任教
授からあり、それなら、英語の授業内容を読解中心に改めよ(戻せ)ということを声高に主張するつもりで(高いお給料をもらっているのだから、学生のためということを考えてやらなければなりません)、これを引きあいに出すつもりです。後釜の件では、いちばん負けて中国語・韓国語になるのであり、よもや英語に取られることはあるまいと思われ、ましてや他の専門科目に取られることはちょっとありえない情勢ですので(ことしの4月から改組で、それまで90年代末から各学科に分属になっていたのが、基盤科学部門という教員組織となりましたので。ただ不思議なのは、教官定員が部門に与えられていないという点です。教官定員は全学についてのみあるということらしいです)。アマゾンのカスタマーレビューを覗いてみると、「相当程度共感できるが英語を学べばバカになるとは本文には書かれていなかった」というものが羅列されていますが、あたりまえです。上記のような英語勉強であればそれは著者のフランス語勉強や私たちのドイツ語勉強と同様に当然に有効であり、それを欠いた英会話学習への盲従によりほんとうにひとは自動的にバカになるということなんですから。
そのことを、ためになるくわしい実例を丹念にあげつつ、述べたものです。
 他方、後者、『日本とフランス 二つの民主主義』は、書名は同新書から出ている仲正昌樹『日本とドイツ 二つの全体主義』『日本とドイツ 二つの戦後思想』今年の7月・去年の7月刊(日独比較思想史・ドイツ思想史・日本思想史の、おどろくほど目配りのきいた記述)の二番煎じ。こちらの著者としてはたぶん前者とペアで、フランスと日本の比較思想をなすでしょう。われわれドイツ屋とフランス屋の視角のちがいもやっぱりあるようで、興味深いです。フランスをあまりにも堂々とアメリカに正面から対置して説明しており、そこにわれわれだと慎重にならざるをえない点においての一種単純化しすぎも感じ、むしろ、前者の方が学的だとすらも思いますが、そこも合わせて興味深いとも言えます。またこれら4冊は、日本思想史や現代政治について、バカにつける薬となりえます。(ここで言っているのは、第一義的には、いろんな種類の「バカ」ということです。)

 (なお私は今回の投稿は、いろんなところからコピー・ペーストして作っており、すべてをいま書いたわけではけっしてありません。)

 

 またまたまた、長くなった。 続きはまた次回に・・・・・。

12月16日(土) 午後2時から娘 (小6) が通っているヴァイオリン教室の発表会。 りゅーとぴあスタジオAにて。 私は都合があって娘が出る前半を途中から聴いただけだが、親の欲目と言われてもいいけれど、娘の演奏はなかなかよかった。 まず、ヴィヴァルディの 「四季」 から 「冬」 の第2・3楽章を弾き、前半最後にもう一人の子と一緒にバッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲第1楽章を弾いた。

 午後6時30分から、りゅーとぴあのコンサートホールで新潟大学管弦楽団の第43回定期演奏会を聴く。 指揮はいつもの河地良智。 今回はロシア・プログラムで、ボロディンの「イーゴリ公」序曲、チャイコフスキーの「眠れる森の美女」組曲、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」、そしてアンコールにチャイコフスキーの「くるみ割り人形」から「ロシアの踊り」。

 いつになく客が多かった。 客をいれない後部Pブロックを除くと、多少の空きがあったのは2階舞台脇のAとE、それに1階の最前数列の端っこだけ。 これだけ入ったのは私の記憶する限りでは、りゅーとぴあでやるようになってからでは初めてではないか。 東響定期でもここ1年くらいはこんなに入った例はないと思う。 私はBブロックのCブロックに隣接したところで聴いた。

 ただ、客が多いときにはレベルに問題がありがちで、私からよく見えるから目立ったということかもしれないが、1階席の客には紙音をやたらたてるひとが多かった。

 演奏は、まあ悪くなかった。 管の瑕瑾はあったが、全体としての表現力は十分に感じ取れたし、「シェエラザード」 ではコンサートマスター五來貴洋くんのヴァイオリン独奏も美しかった。 

 要望だけれど、開場時間を少し早くしてもらいたい。 開演30分前が開場なのだが、全部自由席であるためか、毎回早めに人が集まっていて行列が長蛇におよぶ。 私は今回開演40分前に行ったのだけれど、ホールロビーの端っこの方に行列を作ってじっと立って待っているのはあんまり楽ではない。 東響新潟定期のように、45分前開場にしてもらいたいもの。

12月9日(土) さて、11月27日の続きである。 ドイツ文学者たちのやりとりを独文学会MLからなるべく原文通りに引用する。 〔 〕内は三浦による補足説明など。 引用中の**部分は三浦による匿名措置。

(11) 11月24日午後、C氏より以下の投稿があった。

 はっきり言いますけど。
 こういう問題がもしドイツ語教育の問題でなくドイツ文化教育の問題でないとすれば、そしてあなたはどうもそういう授業をしているらしいけど、そういう授業はゴミだ、って言ってんだよっ。

 だから。 ドイツ語教育、ドイツ文化の問題なんですってば。 数十分投稿がないから、反論できないので謝る代わりに黙ったのかと思ったら、ひとのせっかく書いたことの中身をまったくフォローもしないで、暴言を吐くのですね。 そんな発言は、公害ですから、投稿しないで下さい。

 Aさんの3)でおっしゃっているのは、ドイツ語ドイツ文化に限らず大学の問題だからという理由で、ドイツ語ドイツ文学の学会にもふさわしいという意味だと思いますが、三浦さんはたったそれだけの意味連関も読みとれずに 「人間の問題」 一般へと、話をねじまげてしまう、あさましい読解力なんですね。

 具体的に、私の話題に関しても、あなたが私の書いたことを 「世間一般」 などとおかどちがいなことを言うから、私が 「大学人対大学人の話ですよ」 と言ったら、こんどはいきなり飛躍して、大学の中でも 「ドイツ語教師以外であれば、Cさんの議論は「風が吹けば」でしょう」 ですって? 読みとれもしていないくせに、読みとろうという努力すらできないでいる 「学者」 づらの思い上がったボケ人間であるくせに、まともな反論もできないでいるくせに、自分で勝手に気色悪く 「笑」 ってなさいよ。

 「大学から交通費が出ない、というだけの理由で2年半前のシンポも欠席」 するなんて、だれが言いました? まさに 「私自身は、状況全般に対して、身をもって思想的に対峙しているのであり」、忙しいから、その中で勘案して、そして、365日、24時間臨戦態勢だからむろんかねのことも勘案して、というに決まっているでしょう。 ひとの財布の中身に話をつっこむまでに、さもしいのですね。

 暴言撤回要求に応じるのでなければ、メール送信を慎むように。

 〔私・三浦は (10) でC氏に対して 「大学から交通費が出ない、というだけの理由で2年半前のシンポも欠席されたくらいですから、「身をもって」とは到底おっしゃれないのではないか、と思いますが」 と書き、それに対してC氏は上のように応答しているわけだが、これには以下のような事情がある。

 一昨年春に私は独文学会で第二外国語衰退問題に関するシンポを主催したが、そのパネリスト集めの段階でC氏が候補として浮上した。 C氏もパネリストになることに異存はないという意向だったが、必ずしもC氏側の都合ではない種々の事情で見送られた。 しかしともかくC氏はシンポには出席して会場席から意見を述べてくれるものと私は期待していた。 ところが、同年秋に予定されている北海道学会のために大学から支給される出張旅費を温存しておきたいので当該の東京学会には行かない、という連絡があり、私はあきれ果てた。 要するに北海道旅行がしたくて出張旅費をそれに充てたいから春の東京学会には行かない、と言っているのである。 それまでは私の主催するシンポに興味津々であるかのごとき言辞を弄しておきながら、この有様なのだ。 C氏の居住地から東京までは新幹線で日帰りが可能だし往復旅費も3万円とはかからないはず。 それをすら自分の財布から出したくないというC氏の根性に対して、私は 「文化は自腹を切ってやるものだと思っている」 とメールしておいたが、それが痛烈な皮肉であることにC氏は気づかなかったらしい。〕

(12) 24日午後、私は以下のような投稿を行った。

 先ほどのCさんのご投稿は、議論ではなく罵倒でしょう。 したがって2カ所を除いて答えることは致しません。

 >> 数十分投稿がないから、反論できないので謝る代わりに黙ったのかと思ったら、

 あのですね、私は3限の授業があったのです。
 その程度の想像力もないのですか?

 >>Aさんの3)でおっしゃっているのは、ドイツ語ドイツ文化に限らず大学の問題だからという理由で、ドイツ語ドイツ文学の学会にも
 >>ふさわしいという意味だと思いますが、三浦さんはたったそれだけの意味連関も読みとれずに 「人間の問題」 一般へ
 >>と、話をねじまげてしまう、あさましい読解力なんですね。

  私の書いていることをまったく理解されていない。 私は、ゲルマニスティクに関わるわけではないのに 「大学の問題だから」 という論理でやるのはおかしい、それだと 「大学教師である前に日本人だから」 という論理も防げませんよ、と申し上げている。 それのどこがおかしいのですか。


(13) 24日午後、C氏より以下の投稿があった。

 また三浦というひとが、議論の中身のない空無なことを書いている。

 学会で禁止していただけませんか?

 「大学の問題だからという理由で、ドイツ語ドイツ文学の学会にもふさわしい」という論理は正当である、ということに対して、この某は突飛な類推を非論理的に繰り返すだけで、まったく答がありませんね。
 かつ私は、その論とは別の立場であって、「これはドイツ語教育、ドイツ文化教育の問題です」 と繰り返しているのに、馬耳東風。

 ここで、「じじつは馬よりも下等なのであってこう言うと馬に失礼ですが」と言うならば、それが 「罵倒」 ですが、「馬耳東風」 は罵倒ではありません。あさましい読解力を 「あさましい」 といい、ひとの財布に話をつっこむさもしい性根を 「さもしい」 と言っても、正しい評価であり、論理であり、議論であって、罵倒ではありません。

 この、読解力と思考力のない某の話には、私はもうつきあう時間がなくて無視しますから、どちら様も誤解なきよう。(とうぶん独文学会MLは見ないでおこうかな。)

 〔私・三浦はこの投稿には答えず。 言うまでもなく罵倒にすぎないからである。〕

(14) 24日夕刻、D氏より以下の投稿があった。

 (1) のA氏の 「境界侵犯」 情報に感謝しています。 **大学のDです。 勤務先から一年間の研修をもらっているため、同僚が遠慮してくれたのか、組合などからも教育基本法改定反対への働きかけがありませんでした。 私自身が、マスコミ報道だけに頼り、緊張感がまるで湧いてこない極楽トンボ状態に陥っていました。

  三浦先生の、メーリングリストの趣旨と違う、というご指摘じたいは出ても不思議ではないでしょう。 にもかかわらず、事柄の重大性に鑑みてA氏の書き込みを支持します。

  今回の教育基本法改訂の背後には明らかに産業界の意志が働いています。 産業界は大学の語学教育における英語 (ひょっとしたら中国語) 以外の存在意義など認めていません。 小生は勤め先が商経系で、同僚の多くは経済学者、経営学者、商学者などですから、キャンパスにおける自分のポジションが過去の恵まれた偶然の結果であり、現在は危機に瀕していることを肌で感じています。 理工学系の学部所属の先生方も同じでしょう。 ドイツ語を教える意義は先生方それぞれの価値観・学問観によって多様であって構わないわけですが、その意義の有力なひとつとして、ドイツ語を端緒としてドイツの現代史を学び、そこからファシズムの恐ろしさに対する予見能力を養うことがあり、これは否定されるべきではありません。 産業界の一見 「合理的」 な要請 (ファカルティー・ディヴェロップメントのことを考えています) が、その顔が見えない以上、こうしたドイツ語教育の意義の一角を掘り崩す結果になる可能性があります。

 つまり、「関係ない話題は出すな」 のまさに 「正論」 のもとに、ナチズムの話は脱線として 「指導」 対象にされかねないでしょう。 ワインやサケの話なら構わなくても、です。

(番外) 上の (14) が投稿された直後、独文学会MLへの投稿としてではなく、直接私宛てメールが某大学大学院生より届いた。

  独文学会MLにおけるやりとりに関して基本的に三浦先生を支持する、という内容だった。 まだ学生の身分なのでMLでの意見表明ははばかられる、ということのようである。 (8)でA氏が引用している札幌での 「中学生への言論弾圧事件」 についても、中学生が首相に嘆願を送るに至った過程や北海道の土地柄を考慮すべきで、軽々しく独文MLに引用すべきものではない、との指摘を行っている。

 私は返信メールで礼を述べ、「中学生の嘆願の一件については、まったく同感です。 いい大人になってそういうことが分からないようではダメだと思いますね」 と書いた。

(15) 24日夜、私はD氏の投稿に対して次の投稿を行った。

 >>(1)のA氏の 「境界侵犯」 情報に感謝しています。 **大学のDです。勤務先から一年間の研修をもらっているため、同僚が遠慮してくれた
 >>のか、組合などからも教育基本法改定反対への働きかけがありませんでした。 私自身が、マスコミ報道だけに頼り、緊張感がまるで
 >>湧いてこない極楽トンボ状態に陥っていました。
 >> 三浦先生の、メーリングリストの趣旨と違う、というご指摘じたいは出ても不思議ではないでしょう。 にもかかわらず、事柄の重大性に
 >>鑑みてA氏の書き込みを支持します。

 そういう態度は、きわめて杜撰な態度だと考えます。Dさんがふだんから教育基本法問題に関心をお持ちになり情報収集をしていれば済む事柄でしょう。 たまたま別の方面から情報が入ったからといって見境もなく賛成してしまうのでは、「独文学会メーリングリストはお役立ち情報満載サイトです」 でいいことになってしまう。 ゲルマニストとしての見識があれば、そういう軽々しい態度はとれないはずだと思いますがね。

>> 今回の教育基本法改訂の背後には明らかに産業界の意志が働いています。産業界は大学の語学教育における英語(ひょっとしたら
>>中国語)以外の存在意義など認めていません。小生は勤め先が商経系で、同僚の多くは経済学者、経営学者、商学者などですから、
>>キャンパスにおける自分のポジションが過去の恵まれた偶然の結果であり、現在は危機に瀕していることを肌で感じています。理工学系の
>>学部所属の先生方も同じでしょう。ドイツ語を教える意義は先生方それぞれの価値観・学問観によって多様であって構わないわけですが、
>>その意義の有力なひとつとして、ドイツ語を端緒としてドイツの現代史を学び、そこからファシズムの恐ろしさに対する予見能力を養うことが
>>あり、これは否定されるべきではありません。産業界の一見「合理的」な要請(ファカルティー・ディヴェロップメントのことを考えています)が、
>>その顔が見えない以上、こうしたドイツ語教育の意義の一角を掘り崩す結果になる可能性があります。

 そういう議論が、昔からありがちな、やたらめったらの関連づけであり、戦後日本の知識人がずっとそれをやってきて、もう効果がなくなっている、ということを私は申し上げている。
 私は不思議なのですが、Dさんやその他の方々は、そういう戦後日本の知識人の歴史について何もご存じないのですか? 何かあるとすぐ 「ファシズムにつながる」 と声明を出して、挙げ句の果てに飽きられ信用されなくなっているのが、今の日本の知識人なんですよ。 それをご存じないとすれば、あまりに不勉強です。

 だいたい、ファシズムを教えるならドイツ語初級教育である必然性は全然ない。 高校の世界史や大学の教養科目の西洋史で教えればよろしい。 ドイツ語をやっていればそれを契機として反ファシズムの精神が身に付くなんていうのは、はっきり申し上げて思い上がりです。 あなたがたにそんな力はありません。 また、本気で反ファシズムが大事だと思っているなら、自分で教養科目としてファシズム論の授業を開講するくらいのことをやるべきでしょう。 声明だのなんだのに賛成しますと一言言うだけより、よほど効果があるはず。
 
 そして私が何より言いたいのは、あなたがたのそうした行為は、実は本当にやるべきことから目を逸らすためにある、ということです。 本当にドイツ語や第二外国語を守りたいなら、やるべきことは別に山ほどある。
 第二外国語衰退は、12年前の大学設置基準の改定に始まっているわけです。
その時、独文学会の理事長は文科省批判一つしなかった。 「できない」 と当時の****理事長は明言しています。 次の****理事長も同じ態度でした。 まず、こういう理事長を突き上げて独文学会として第二外国語を制度的に守るような運動をするべきなのに、独文学会員は何もしなかった。 文科省が怖いからでしょう。 少なくとも、そう思われても仕方がない。
 文科省批判一つできない独文学会員に、どうして反ファシズムを訴える資格があるのですか? 日本の文科省は少なくとも批判者を殺したり牢獄にぶちこんだりするような真似はしませんよ。 ナチならそうされても不思議はなかった。 文科省批判一つできない臆病な独文学会員や理事長に、どうしてファシズム云々を言う資格があるのでしょう?
 
 教育基本法に反対します、と言っているのは楽ですね。 安全だし。 そして、効果もないでしょう。だからこそやるわけじゃないんですか? やめましょうよ、そんな実効性のない真似は。

>> つまり、「関係ない話題は出すな」 のまさに 「正論」 のもとに、ナチズムの話は脱線として 「指導」 対象にされかねないでしょう。 ワインやサケ
>>の話なら構わなくても、です。

 Dさんの見識を疑います。 ナチズムならドイツの話であり、「〔ドイツと〕関係ない」 と異議を唱える人がいるとは思われない。 「指導」 って、どこからの指導ですか? 文科省ですか? だったら、12年前になぜ独文学会が文科省批判をしなかったのかから議論を始めるべきでしょうね。 敵が遠くにいるから議論をする、のは不健全です。 敵は身内にあり。そこから議論を始めないといけません。

 〔D氏の投稿で 「ワインやサケの話なら構わなくても」 とあるのは、実際に少し前の独文学会MLで日本酒の質をドイツ人が判断するためには、という話題が出たからである。〕

(16) これに対しD氏より25日早朝、以下の投稿があった。

 「教育基本法改正問題に対する日弁連の考え」
 http://www.nichibenren.or.jp/ja/special_theme/education1.html
 を参考にまず「現行法10条「改正」の問題」(日弁連)を指摘します。

 引用1: 現行教育法第十条(教育行政)
 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 → 「現行法10条は、国家による教育内容への介入を抑制するための大切な歯止めです」(日弁連)

 引用2:政府案
 教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する

 第三章教育行政
 (教育行政)
 第十六条 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

 → 「改正法案16条への「改正」は、「法律の留保」 にしか過ぎず、歯止めにはなりません。(注) 「法律の留保」 という言葉は、「権利・自由を制限するには法律によらなければならない」 ということを意味するとともに、「法律によればどのようにでも制限できる」 ということをも意味する場合に用いられます」(日弁連)

 引用3:毎日新聞2006年10月21日記事から
 http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20061021k0000e040067000c.html
 大学教員:研修義務化 講義レベルアップで 08年度にも
 文部科学省は大学・短大教員の講義のレベルアップのため、全大学に教員への研修を義務付ける方針を固めた。 来年度に大学設置基準と短期大学設置基準を改正し、早ければ08年4月にも義務化する。 研究中心と言われる日本の大学で、学生への教育にも力点を置く必要があると判断したもので、「大学全入時代」 を迎え、学生の質の低下を懸念する経済界からの要請も背景にある。 具体的な研修内容などは今後、中央教育審議会で検討する。【高山純二】

 ***************

 以上の情勢を見て私が怖れているのは 「具体的な研修内容」 のなかで、例えば「政治学関連科目以外の授業中に言及することが望ましくないこと」として 「政治的な話題」 などというものが出てくる可能性が充分にあるということです。 いや、それ以前に、「学生の質の低下」 に対応するためには講義能力の研修にとどまらずカリキュラムをさらに改変して英語以外の外国語を一層減らし英語を増やしなさい、というまさに 「指導」 が、「法的根拠」 をもって出されたらどうするのでしょうか? 少なくとも私の勤務校では抵抗は不可能になります。

 三浦先生の立ち位置はよくわかりましたので、以外の先生方のご意見を伺いたいですね。

 〔このあと、ドイツ人会員より (1) の投稿へのお礼と伝達に努める旨の投稿があったが、ここでは省略する。〕

(17) 25日午後、C氏より以下の投稿があった。

 日本独文学会の方々へ

 「ちゃんと読めば、Cが論理的に新潟某を完膚無きまでに叩きのめしているのだけれど、Cがあまりにも適切すぎることばの乱暴さでそれをやっているために、うわべだけ見たら、まるで同列の低レベルでやりあっているだけであるかのようにも見える (また、だから新潟某も自分が切られてないつもりでいるようである)」という指摘を受けましたので、一度きり、再投稿します。(学会本部に対しては、「第二に」 というところが用件です。)

 まず第一に。

 「こういう問題がもしドイツ語教育の問題でなくドイツ文化教育の問題でないとすれば、そしてあなたはどうもそういう授業をしているらしいけど、そういう授業はゴミだ、って言ってんだよっ。」 と私が書いたのは、新潟某に暴言撤回以外の投稿をやめさせるための一喝でもありましたが、もちろんのこと、同時に、もっぱら、独文学会の皆様全員に対して、「自分がこの法改定を傍観していたら、その自分のドイツ語やドイツ文化の授業はゴミだと言われていることになるのか?」 と思わせるべく、恫喝するためでした。

 新潟某にもしひととしての本意があるとすれば、それは、「第二外国語問題でもこのような問題でも、議論も行動も足らない」 ということを、パラドキシカルに述べている、ということでしょうが、皆様の反響の少なさは、まるで新潟某が表現上は述べているところの、「反対します、と言っているのは楽ですね。安全だし。そして、効果もないでしょう。だからこそやるわけじゃないんですか? やめましょうよ、そんな実効性のない真似は。」 という呼びかけに応じて 「やめる」 ということを、地でいっているかのごとくです。 (もちろん、皆様に投稿を強制しているわけではありません、念のため。 「私が忙しいように皆さんお忙しいには決まっているだろうけどこんなに重要な件に関してその瞬間偶然にもちょうどヒマがあった方から自然的にとうぜんあるはずの投稿がいくらなんでも少なすぎると思われますが、だとすると、母集合の皆さんは、やっぱりずいぶん問題がありませんか」 と言っているだけです。) 新潟某のパラドクスがパラドクスとして成りたたなくなり、発言した新潟某がその結果自分が自然にパラドクスに陥っている (自分はほんとうにただ 「やめる」 ことをよしとしたはずではなかったんだが・・・) というものです。

 つぎに第二に。

 独文学会広報担当者が、「この場にふさわしい発言」 とか 「ふさわしくない罵倒」 とかにかんして、規制案をすでに模索しておられる、もしくはこれからなさる、かもしれません。
 そのときに、ことがらの扱いをきちんと十二分に論理的になさるとは、必ずしも信用しきれないので、かんたんな整理をしておきます。

 「大きい丸Aがあり、その中に完全に含みこまれるかたちで、小さい丸BおよびCがあって、かつBとCはたがいに重なりあわない」 と思って下さい。
 甲。 「高等教育にあまねくあてはまる重大関心事」 はAに相当し、「ドイツ語ドイツ文学を研究する団体」 はBに相当します。したがって、教育基本法改悪をめぐる諸件は、Bの重大話題となります。
 乙。 また、「宇宙内存在者」 がAであるとし、Bが 「ドイツ語ドイツ文学を研究する団体」 であり、「どこかの新潟の大学にうじ虫がわいた」 という話題がCであるとします。 すべての投稿者は、Cという話題を、ここに投稿すべきではありません。
 (念のため繰り返しておきますが、私自身の立場はこの甲の立論によるものではなくて、「教育基本法改悪をめぐる諸件はドイツ語教育ドイツ文化研究ドイツ文学研究にそもそも本質的に内在をこそする話題である」 というものです。)

 「中学生が、道端でならずものに因縁をつけられても、学校で右翼に脅迫されても、それは世間の冷たい風の一種であって、まさしくそれこそが世間勉強であり、つまり勉強であるというものだ。これが常識というものである」 という発言は、一寸の虫にも五分の魂、盗人にも三分の理で、立ち飲み屋でくだを巻いている飲み助の無責任放言レベルであり、そこにはたしかに五分の魂三分の理がありますが、それは、そこに 「常識」 とたしかに重なる点はあってそのことがその三分の理となっている、といったものにすぎません。 このような言表も、上記乙における、AおよびBに対してCをなす話題であり、すべての投稿者は、ここに投稿すべきではありません。

 他方で、「どこかの新潟の大学にうじ虫がわいた」 「一寸の虫にも五分の魂」 「盗人にも三分の理」 という表現は、可能性が保証されるべききわめて健常な言語表現であり、それらが規制されるようなことがあっては、絶対になりません。

 サービス精神の旺盛すぎる (私の授業みたい! これだからだめですね、教師は) おまけ、第三に。

 新潟某の説は、「〈戦後日本の知識人の歴史は、ただ、”反対する” と言っているのは楽で安全で効果もないのだけれどもだからこそアリバイとして ”反対する”、そのことのみからなる歴史であった〉 = 〈第二外国語が衰退してはならないが、第二外国語が現在衰退したのは、日本独文学会が12年前に文部省にたてつかなかったためであり、それは学会役員や学会員大多数が文部省におびえたためであって、それが唯一の原因結果である〉 = 〈教育基本法改悪に反対するのは、もしそれが日本独文学会が第二外国語について12年前に文部省にたてつかなかったことへの糾弾を議論の唯一の起点とするものでないかぎりは、必ず、楽で安全なアリバイとしてなされる行為であると結論づけられる〉」 と要約するのが、正しい要約です。
 みっつの山形括弧の中の命題も、ふたつの等号も、あらなんとも、あなだらけというか、それこそが関係妄想というか・・・
 こういう輩が、〈自分が知的な論理レベルと健全な常識を代表するものとして大学で教えている〉と主張しているのに対して、「先生の立ち位置はよくわかりましたので、以外の先生方のご意見を伺いたいですね。」という言い方は、たしかに、面倒すぎる返信をあらかじめよける手ではあるかもしれませんが、事実をねじまげた致命的な錯覚を本人に許すものであって、適切な言い方ではないと思います。

(18) これに対し、25日夕刻、私は次の投稿を行った。 文中の##には、C氏の住んでいる都市名が入る。

 ##某 (表現を真似てみました、はい) は、ひもの切れた風船みたいにどこかに飛んでいって消えたのかと思っていましたが、まだ地上にいたらしいので、必要な部分だけ返信を書きます。

>> つぎに第二に。
>> 「大きい丸Aがあり、その中に完全に含みこまれるかたちで、小さい丸BおよびCがあって、かつBとCはたがいに重なりあわない」 と思って下さい。
>>  甲。「高等教育にあまねくあてはまる重大関心事」 はAに相当し、「ドイツ語ドイツ文学を研究する団体」 はBに相当します。
>> したがって、教育基本法改悪をめぐる諸件は、Bの重大話題となります。


 上述の 「大きい丸A」 よりもさらに大きな丸Zがあり、丸Aは丸Zに完全に含まれるとします。 この丸Zが 「日本人にあまねく当てはまる重大関心事」 だとすると、上記論理に従えば、「高等教育にあまねくあてはまる重大関心事」 も 「ドイツ語ドイツ文学を研究する団体」 もZに相当します。 したがって、「日本人にあまねく当てはまる重大関心事」 はすべてドイツ文学者にとって重大話題となる、だから独文学会のMLに投稿していい――そういうことになるけれどそれでいいのか、と私は書いたわけですよ。
 あなたの例を用いて説明してあげたのだから、今度こそ分かりましたか? これで分からなかったらどうしようもないけどね。

>> 「中学生が、道端でならずものに因縁をつけられても、学校で右翼に脅迫されても、それは世間の冷たい風の一種であって、
>> まさしくそれこそが世間勉強で あり、つまり勉強であるというものだ。これが常識というものである」という発言は

 引用は正確にお願いしますね。私は以下のように書きました。

>>率直に申し上げます。子供の意見は子供の意見でしょう。変に抑圧するのは無論よくないと思いますが、変な大人だって世の中には
>>いるわけで、それを知ったという点でまことによい教育がなされたと私は思いますね。皮肉じゃないですよ。本気でそう思います。
>>何か意見を言えば必ず圧力がかかるのは、ドイツ語教師内部だって同じことです。大事なのは、それに「傷つく」ことではなく、それ
>>を跳ね返す力をつけることです。

 ##某は私の書いたことをねじ曲げています。 それは学者としてあるまじき態度であり、##某が学者としての最低限のモラルすら持ち合わせていないことを示している、と受け取られても仕方がないでしょうね。

>> こういう輩が、〈自分が知的な論理レベルと健全な常識を代表するものとして大学で教えている〉と主張しているのに対して、
>> 「先生の立ち位置はよくわかりましたので、以外の先生方のご意見を伺いたいですね。」という言い方は、たしかに、面倒すぎる
>> 返信をあらかじめよける手ではあるかもしれませんが、事実をねじまげた致命的な錯覚を本人に許すものであって、適切な言い方では
>> ないと思います。

 というより、図星をさされて反論不可能だった、ということでしょう。 もっとも、

 >> それが唯一の原因結果である

 というのは、例によってねじまげた読解ですがね。 私は、ドイツ文学者が自分の身を張って行動すべき時には何もせずに、直接関係ない事柄についてだけ遠くから吠えるだけで何がやったつもりになっているということの、一つの例として出したに過ぎません。
 徹頭徹尾正確な読解ができないのは、日本語を最も原初的な意味ですら読めないからかなあ。

(19) 26日夜、A氏から次の投稿があった。

 金曜の午後からネット接続の不可能な場所におりました。先ほど戻ってきてメイルを確認したところ,私の情報提供を発端としてなんだか面倒なことになっているようで,大変困惑しております。 責任の一端が私にありますので,責任上発言します。

 短くするよう努めます。

 (1) 私は何も,独文学会員がある程度自分と意見を共有するはずだ,とは思っていません。 これは重要な問題であると (私自身は) 考えるので,各大学,各部門でご検討頂ければと思います,と申し上げ,情報提供をしたまでです。 このML上で,教育基本法の「改正」案についての反対を求める,あるいはそれに対する賛否を問うものではなく,あくまで情報提供のつもりでした。 したがってこの情報の内容に関してここで延々と議論をしても全く無意味です。 各自でお考え頂ければよいのです。

 (2) 私個人の意見としては,ドイツ語教育に関わるか否かにかかわらず,この問題は教育に関わる私たち全員に関係がある,と思っています。 しかし 「大学教師である前に日本人である (というより私はむしろ 《日本の選挙権を持っている人間である》 と言いたいですが) からこの問題に対して真摯に向き合う必要がある」,あるいは 「日本人である前に人間であるからこの問題を決して軽視しない」 というのはまことに正しい認識です。

 (3) 中学生がルールに則って記名で意見を述べたことに対して,報道が正しければ,なんと 「大人が」 それも 「匿名で」 脅迫めいたメイルによる言論抑圧をしたことを私は問題とするわけです。 こんなことで 「打たれ強くなろう」 などというのは見当はずれも甚だしい。

 (4) 「揚げ足とり」 や 「罵りあい」 は全く建設的ではないので,このMLにはそぐわないでしょう。 2ちゃんねる等でどうぞ。学会HPのML の利用法に関する説明(http://www.jgg.jp/modules/xfsection/article.php?articleid=80)に

 ・ いかなる理由でも個人的な誹謗中傷はしないこと。
 ・ できるだけ多くの人が議論に加われるよう,きわめて個人的なやりとりは個人のアドレス間で行うこと。
 ・ 非常識に長大なメールは避けること。
 ・ 発言に対する返答・反応を強要しないこと。

 という基本的ルールが掲載されています。これをお守り頂かないと,せっかくの情報提供の意図が台無しになりますので,情報掲載者としては実に迷惑です。

 私はCさんのご認識とその後の (ML上ではなくご自身による) この問題への対応,またDさんのご意見を大変貴重なものであると思うとともに,私個人宛に情報提供を感謝する旨のメイルが届いていることも申し添えます。 その上で提題者としてこの件に関してはこれ以上の発言を差し控えます。 今後,揚げ足をとる議論とその反論は個人間でして頂くようお願いいたします。

 なお lassen の用法を説明するのに Ich lasse mich nicht provozieren. という良い例文があります。 (これでドイツ語教育に関係ないなどとは言えますまい。)

 〔A氏が最後に引用しているドイツ文は、「私は挑発に乗らない」 という意味。〕


(20) 27日夜、C氏より以下の投稿があった。 なお、本人を特定できる表現が若干含まれていたので、削除、もしくは文章をわずかに変えてある。

 皆々様

 昨晩の、この場を鎮静後に収拾する投稿を見て、こころがげっそり、疲れています。 時間を十分において頭を冷やすべきだろうと思いましたが、時間をおけばおくほど、疑念がより根本的なものになってゆき、やはり再投稿すべきだろうとの結論にいたりました。(ちょうど憲法のことを言おうとしているときに、そして同時投稿するために或る記事の転載許可を待っているあいだに、ほかならぬ私からの投稿自体をむずかしくさせるような投稿があったことは、それにしてもずいぶんとてひどい、困惑材料でした。)
 もしいま、このタイミングで再投稿すれば、まるで「噛みつき屋」であるかのようにここの人々に見えてしまって、私の人格そのものまでが敬遠されてしまうことも、もちろんよくよく、わかってはいるのです。
 また、あれだけ皆さんをprovozieren (これについては下の5をご参照下さい) したにもかかわらずどなたも乗ってきてはくれなかったのだから、やはり、さらに投稿したとて、もうprovozierenされてくれないだろうということも、もちろんよくよく、わかってはいるのです。
 しかし、それを超えての、そのことについての、また、この場についての、および、そこにも現われている日本についての、また、およそ日本についての、問題が、容易ならざるものと見えてしまいます。また、問題がもともとあります。
 「またつまらないものを斬ってしまった」 と言うなら斬らなきゃいいのに、そう言うのは漫画だからだし、かつ斬り続けるのであり、「いい刀は鞘に入っている」 のなら鞘に入っていればいいのに、椿三十郎は自分でも映画の終わりでその城代夫人のせりふを引用しつつ、自分は「抜き身」のままです。
 私も、正当でかつお得な、スマートな振る舞い方が、どのようにしたらいいものか、どうしてもわかりません。
 少し長くなりますが、切迫した読書の時間をほんとうにわざわざ割いて書いているので、お許し下さい。(また、長すぎれば、先を見ないで下さればそれでいいんじゃあないでしょうか。本質的なことなので、ぜんぶ見る方がいいとは思うけれども。)
なお、4でふれる冷泉彰彦著の、本人からわざわざ転載許可をとったおまけが、下についています。


 私自身は、いまここで「みんなにいじめられている」 などとは夢にも感じていないのですが (それどころか事実として私が能力差で他者をいじめたことになっているのではないかと心配でしたが)、また、昨今の 「いじめ」 問題はそうたいした問題ではないという見解をもっていますが、「いじめ」 ということの本質の、最大要素 (燃焼という現象のために必要な可燃物の部分) は、皆さんがここで「教育基本法改悪についての諸議論」について「無視」を決めこんでおられる、そういう、「無視」 のあり方にあるんじゃあないでしょうか。
 それは、−−いまだいぶ時間をかけて書庫から短篇集10冊を探してきてその中からまた苦労して探し出したのですが−−村上春樹の短篇 「沈黙」 (文庫版では文春文庫 『レキシントンの幽霊』 所収、49−85ページ、とくに84ページ) に描かれているような事態です。 大沢は、青木という悪意の固まりの秀才のせいで、高校3年の秋から半年間、まわりみんなに無視されるようになります。 大沢は、本当に怖いのは、青木なぞよりも、その無視を続けた連中である、と述べます。 私自身は、今回の件までは、いじめを傍観する人間よりもいじめる人間がやっぱりいじめの本質なんではな
いかと思っていたのですが、いじめる人間なんかは、やはり燃焼においてのただの酸素の部分にすぎないようです。(昨今の小中学校でのいじめがたいした問題ではないのは、そこでは、いじめに参加しなければ自分がいじめられるとか、ひとがいじめられているうちは自分はとりあえず安心とか、いじめられる側がすぐいじめる側に入れ替わるとか、そういうぐあいにまあ、可燃物部分を欠いた酸素と灰のたわむれとでもいった状況であるように見えるからです。) 傍観・無視が、いじめのもっとも構造的なしくみでしょう。
 ところが、皆さんの無視のし具合ときたら、まるで、私がおぞけがするほど嫌いな 「2ちゃんねる」 の、隠語レス殺到による、或る投稿者の人格抑圧、そっくりです。
 無視、というレスを集中させるそのぐあいが、きわめてオタク文化的であり、それは隠語レスの集中となんらかわりません。それどころか、上記のように、いじめという事態をつくり出す、本質部分であるように思います。私が、この集団の性質に苛立っているだけで、いじめられているとはまったく感じていないからまだしも、皆さんは、この集団の性質として、そういう性質をもつことを、発揮なさってしまった、と思います。(2ちゃんねる書き込みという愚行をしたことはありませんが、検索エンジンがときどき2ちゃんねるページにあたり、見ただけで気分が悪くなるわけです。)
 そして、この団体が、ことに、若いドイツ長期滞在の方を中心にドイツの大学の議論風土をもうちょっとは吸収されてお帰りになって、「ゲルマン」 なカルチャースタイルをお示しになってもいいのに、どうしようもなく、「ジャパニーズ」 そのものじゃあありませんか。ジャパニーズなカルチャースタイルの問題性丸出し、日本の病根のひとつのあらわれの明示、になってしまっているではありませんか。
 ことは、教育基本法改悪を、もし可能ならば阻止する議論 (ここでなすのが議論であることは3で後述します) をしようという、だいじな議論形成なんですよ。
 こわい爆弾のまわりでねずみ花火がちょろちょろしている、これを、逃げるなという方が無理というものだろう、とおっしゃる向きがあれば、それはまあ、そうですけれども、しかし、学生が「教師におびえて発言しないのである」と主張すると、それをお認めになる気にはならないでしょう? また、私さえ退席するなら皆さんが活発に議論を始められるなら、私は喜んでここから去りましょうが、じじつは私が退席してもこのままではけっしてそうはならないでしょう?


 われわれみんなが、「オタク」 現象発現以前より、書痴であるのはあたりまえであり、そういうものとして、ある種の 「オタク」 のようなものであるのはあたりまえです。
 ところが、社会的な 「オタク」 現象の下部分類の中に、「文学オタク」 というのもあるというのを、ご存知でしょうか。
 柴田翔著筑摩書房 『内面世界に映る歴史』(残念ながら絶版ですが、どこの大学図書館でも閲覧可能でしょう) 附論第二章 「研究と感動」 にあるとおり、「研究者がある作品を研究の対象に選ぶとは、その作品を、自分の感動において、つまり自分の責任において、文学作品であると認めるということである。 そして、研究をするとは、そう認めた責任をとるということ、なぜそれが文学作品でありえているかの理由を他者にも共有可能な形で提出するということである」(476−7ページ)。
 私は、この本のレベルを参照できていないゲーテ研究はもってのほかと思うけれども、そして、そういうふうにのみ、すぐれた先行研究の参照義務はあると思うけれども(そういうふうにしてのみ、人文科学にも、一種、発展がありうるでしょう。 哲学の、哲学史的な発展のように)、そして、そうでないゲーテ研究が若い人に多すぎるように思うのですが (だから先行研究参照ということは意味を限定しないとまったく無意味)、少なくとも、この 「感動」 をもとにした研究ということは、あたりまえのことであってほしいと思います。
 ところが、そうではなくて、つまらない参照研究ばかり並べて、「文学オタク」 の学者版というべき研究スタイルであると言わざるをえないような若い方が、ぞろぞろおられるように感じます。あたら優秀な方であるでしょうに、残念です。
 まあ、どんな研究スタイルでも、大咲きすればそれはそれで見ものだし、それはそれで面白い、のかもしれませんけれども。(でも、やっぱり名誉教授クラスの方々を見ると、前提が悪いと大成されてはいないですよね。)
 しかし、属するカルチャーパターンからしてまで、オタク化することは、ないんじゃあないでしょうか。
 (若い人の文学研究を指導する立場に残念ながらないので、これもたきつけます。)


 ことがらを矮小化しては困るので、この項の中でも、順繰りにあれこれ述べます。
 教育基本法に対しては、改悪阻止は、もう手遅れかもしれません。
 しかし、憲法改悪を、もう既定の事実であると、われわれはあきらめてしまってはいないでしょうか。
 しかし、これにかんしては、去年の小泉劇場選挙での自民党の大勝利ということのほかには (また民主党の困った右傾化、それによる国会の3分の2到達)、じつは、学問的な、理性的な、もしくはちゃんと概念的な議論は、この国では、じっさいにまったくなにも、なされてはいないではありませんか。
 みんながまじめになれば、これは、まだ遅くはないんじゃあないでしょうか。(不思議きわまりない、安倍内閣高支持率が、また気力を萎えさせる元となっていましょうが、これは、「テレビに出ている有名人であればだれでもいい」 といった、国民のなさけなさとしての 「人気」 なんではないでしょうか。)
  「非武装中立+違憲合法論」 を、私はきわめて合理的なものだと思います。皆さんご承知のとおり、ドイツ人は、相当に左の知識人でも、「非武装中立」 は信じられない、非現実的だ、と言いますが、私は、現在の日本の経済力をもってすれば、憲法前文に言う「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」ということが、外交・政策・経済的努力のみによって不可能だとは思えません。またじじつ、現実においても、武力によってではなくて外交・政策・経済的努力のみによって、日本の平和は守られているわけです。これでほんとうに丸腰となったら、そのときこそ、いまのひどくずさんな外交でなく、ほんとうの外交が必要となる、というだけです。
 またそうでなくとも、多くの国民が、「本当は憲法違反なんだけれども政府が屁理屈の9条「解釈」合憲見解をほぼ同一水準で維持し続け、しかし、その 「解釈」 の屁理屈によって規制が相当程度にかかっている中での、自衛隊保持」ということになっている現状を、本心では、そう悪いものだとは思ってはいないのではないでしょうか。
 それにもかかわらず、このままほうっておけばどうも多くが改憲賛成投票をしそうである、というだけです。
 法学の専門家でも、「このほんとうは違憲である状態を、改憲によって整合化することが、その表面上の整合化そのものを目的として、きわめて必要なことである」 という説を、まじめに唱えている人は、少ないんではないでしょうか。
 国民一般となると、もっと大雑把であって、そんな整合化そのものが急務だなどとの、ただ神経質とか潔癖症というひとは、ごくごく小数でしょう。
 経済的欲得的にも、軍隊となればBundeswehrのようにレバノンやアフガニスタンやアフリカ等に出動・駐在が求められたりして、負担が、たちまち、そしてずうっとの長さで、増える、というだけです。ほっておいても防衛ロケット網などへはどうせ参加をうながされるのであり、完全合憲化による産業的経済的効果はなにもないでしょう。ほんとに、まだなんにもまじめな議論は、なされていないのです。
 憲法改悪阻止は、いまからでもまだ遅くはないのではないかと思うのです。もしも国会がだめでも、国民投票で過半数を回避できればいいのですから。
 また、国会も、民主党を改憲反対に引きもどすことができれば、大丈夫でしょう。
 それには、選挙での自民党の1回の大敗北、だけでも、十分かもしれません。または、党外からの、菅グループや旧社会党グループへの働きかけ・・・
 この場では、情報のやりとりだけではなく、議論もすべきだと思います。情報そのものについても、適格性が問われましょうが、適格である問題についてならば、議論をすべきでしょう。
 むろん、議論のあとは、いろいろと実行行為も必要でしょう。まだまだ、時間があると思います。実行行為のためにも、議論は不可欠です。
 憲法改悪阻止という問題は、それこそ、すべての日本人にとってあまねくの重要問題であり、したがって、ここでの重要問題でもあると思います。
 むろん、私の主張では、対象研究がこういう現実にも同時に関連をしてこなければ文学研究とはいえない、ということです。


 共謀罪法案にかんするご言及がありましたが、私は、むろん憲法ほどではないにせよ、共謀罪法案も、すべての日本人にとってかなりあまねくの重要問題であり、したがって、ここでのかなり重要な問題でもあると思います。
 同様に、すべての日本人にとってかなりあまねくの重要問題であり、したがって、ここでのかなり重要な問題でもあると思われることのうちに、産業界がやっきになっていて、ほおっておけばたぶん法整備が成立しそうであり、しかし皆さんが、ほかの情報をご存じない (NHKスペシャルで、半月ほど前、ひどく情報も少なくてレベルも低い番組を、これについてやっていました) に、「ホワイトカラーエグゼンプション」 の話があります。
 これについて、重要な情報を土曜に手に入れましたので、ご紹介したいと思います。
 筆者冷泉彰彦 (筆名) から転載許可を得るのに、時間を要していました。 著作権はもちろん配信者に売り渡してはないとのことです。 「ホワイトカラーエグゼンプションの件は、それこそ一人でも多くの方に読んでいただきたいので是非お回しください。 何か反響などありましたら、教えていただけると助かります。」 とのことです。
 いちばん下の、引用をご覧下さい。(配信元に興味のある方もおられるでしょうから、そしてそこは国文学の重要問題なので、記事上下の配信元部分も一部残します。)
 なお、これについては、マルクスの思想の各部分と照らし合わせてみる必要がわれわれ独文業者にはありそうだなと思っています。だから、われわれにとって、最高度に内在的本来的な話題です。
 これの、話題の主体を問題とするばあいの資格について、ちょっと詳しく言うと、マルクス的には、学者は資本に取り込まれずにほんとうに主体的な研究ができているかぎりにおいては、じつは、自身を商品として売る労働者ではありません。(資本に取り込まれている方は、安心して本来的な労働者です。)しかし、もちろん私有財産諸所有者のあいだでなされる剰余労働の利潤分配にはあずからないので、階級社会において結局は被搾取者の側には入ると思われます。そしてこの件は、階級社会における被搾取者にあまねく重要な話題です。


 Ich lasse mich nicht provozieren.ですか。
 なるほど、私も、他者をprovozierenすることはするけれども、自分の方がやすやすとprovozierenされてそれによりいわば不利な立場に立ちたく
はないですね。
 しかしこの例文、michはprovozierenの目的語にすぎないくせに、見ているとまるで、lassenの目的語であるかのような、魔術的構文でもあるよ
うな気がしてきませんか。そのへんに、ドイツ語というものがあやしげでもあるところの、一端もある?
 それに、むかしの書名に、『Literaturgeschichte als Provokation』とも言うじゃあ、ありませんか。私はその本を、けっして高くかってはいないけれども。
 また、私がちっとも高くかわないものに、ハーバーマスのコミュニケーション理論があります。その理論において、いくら対話規則が、フィードバック的にあらたな対話からも変形をうけるとしても、規則を前提に話すことなど、まっぴらごめんです。 そういう話者をもこの理論の方では自己の適用される対象として取り込もうとするだろうけれども、規則がないことを前提に「話す」立場であってこっちはけっこうでして、自由です。(マルクスは、各個人の能力の自由、必然から解放された自由を求めましたが、マルクスによる自由の規定の中身は、哲学的・人間学的に、決定的に興味深いものがあります。 これ以上は、どうぞ各自お学びください。) これに対するハーバーマスの側は、まるで、ユークリッド幾何学が非ユークリッド幾何学をも取りこも
うとしてあがいているようなあんばいです。
 そのハーバーマスの理論でさえprovozierenしprovozierenされることを、前提としています。 そうでないと、「”新しい対話を規則にフィードバックさせつつの対話”というものの規則」が、成りたちませんもの。
 と、こう書いてきて、きのうからの、「私のいけないところは、ときには他者からもprovozierenされその場合にはきちんと叩き返すことではないはずだ(そういうことならば、私の知っているどの恩師でもなさっていたことだ)」 という、私自身の疑念だけは、やっととけました。私のいけないのは、サービス精神が旺盛でありすぎることのようですね、こんなハーバーマスなんかまでを話の中に持ちだしてやって。 教師稼業はだめですね、授業時間中はもうしかたないからけちけちしないというくせがついてしまって、それがへいぜいも出てしまうのですね。 ****先生が私の推薦状に書いてくださって、皆で大笑いして有名になった、「愛すべき論敵」 に、サービス精神の旺盛さをすててそれだけに (読み、諸芸術を味わい、原稿を書くほかは)、こんごはもどります。

  ■ 『from 911/USAレポート』第279回    「アメリカの制度をマネするな」
>
>  ■ 冷泉彰彦   :作家(米国ニュージャージー州在住)
>
> ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
>  ■ 『from 911/USAレポート』第279回
> ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
>
> 「アメリカの制度をマネするな」
>
>  今週のアメリカはいつになく浮ついた好況感の中で感謝祭を控え、どこか気分もゆるみがちなのですが、そんな中、TVではOJ・シンプソン
> の 「告白(?)本」の問題が何度も取り上げられていて、イヤな気分にさせられました。1994年に起きた前妻(とその交際相手)の殺人に
> 関して、刑事裁判では無罪、民事裁判では敗訴(つまり殺人への責任を認定)という異なる判決を受けたNFLの元スター選手に関して
> はFOXニュースで知られるニューズ社の企画として、本の出版とドキュメンタリー番組への出演が計画されていたのです。
>
>  タイトルが『私ならこうやった "IF I Did It"』と実にセンセーショナルなばかりか、ニューズ社からは「この内容は彼なりの告白だと思う」という
> コメントが出て全米を驚愕させました。民事裁判の結果はともかく、刑事裁判では無罪、つまり「シロ」と認定されているシンプソンが
> 「オレならこうやる」という表現で「殺人の真相を詳しく語る」というのです。これでは司法の権威もあったものではありません。結
> 果的には本もTVもキャンセルになりました。
>
>  このシンプソン事件に関して言えば、非常に疑わしいにも関わらず無罪になった、そのことよりもそのプロセスが問題です。最後には
> 「疑わしきは罰せず」という原則が失態を続けた検察に勝ったのですが、そうしたドラマ風の解説では不十分なのです。何よりも、
> 証拠認定にしても、証言の評価にしても、積み上がった判例をもとに論理的な判断のできる体制がなかった、そこに最大の問題があるの
> だと思います。
>  日本の場合も裁判員制度の導入によって日本の司法が明治以来の「大陸法」の伝統として堅持してきた実定法に加えて判例を
> 尊重する姿勢、それが大きく崩れていくとしたら問題です。アメリカの陪審員制度は、合意形成システムとしては見るべきとこ
> ろがあります。ですが、判例という客観的な事実を判断の根拠として据える、それを必要があれば変更しながら判断の一貫性を保つ、この
> 部分においては明らかな脆弱性があります。何となく市民が参加しているからとか、判断のスピードを早めても異論が出なさそうだ、
> あるいは価値観や背景事情などの抽象的要素を判断に加えられるからといって、そうしたアメリカ司法のマネをするのは得策ではありません。
>
>  アメリカのマネをしたほうが良い問題もないわけではありません。国会の審議における党議拘束の問題などがそうでしょう。
> 日本では、任期中の国会議員は所属会派を変えない限り、党議に反して独自の投票行動はできません。これは自民党から共産党
> まで全く同じです。その結果として、選挙区の民意が党中央の決定とは違う場合は、民意は完全に無視されます。また選択肢が
> 単純化されすぎることにもなります。
>
>  例えば、ある政策に関して対立点がいろいろあり、選択肢が多くあったとします。自民党や民主党ではその中から党の方針を
> 絞り込むわけですが、その党内プロセスは全く閉鎖的なのです。最近のメディアは「永田町の人間ドラマ」的な味付けで面白お
> かしく報道して、何となく世論も騙されてしまいますが、本来はそこで選挙区ごとの民意、地方ブロックごとの民意というものが
> オープンに出てきて、選挙民の代理としての議員の投票行動を縛るべきだと思うのです。
>
>  そうでなくては、主権者として主権行使ができません。タウンミーティングなどという制度が機能しない背景には、そうした主権者の軽視が
> あるのです。そもそも公共の場で、「愛国心教育に賛成か反対か」意見を求められても、積極的に発言する人はどうしても、どちらかの
> 極端な信念の持ち主が主となるに違いありません。そうした発言がイヤだからといって、「やらせ」でごまかすという発想が出てくる背景には、
> どうせ各政策での民意は「聞くふり」だけでいいという発想があるのです。
>
>  ですが、各選挙区の後援会の中では「前のセンセイ(主権者の代理人をセンセイと呼ぶのは醜悪な習慣ですが、その問題は
> さておくとして・・・)は違う言い方だったけど、今のセンセイとしては時代が変わったということですかねえ。オレはどうも納
> 得できないんですがねえ」ぐらい誰でも言えるでしょう。そうした主権者の素朴な声を国会審議に反映するシステムを、日本では
> どの政党も持ち合わせていないのです。首班指名を除く各法案審議などについては、基本的に党議拘束を外すべきだと思います。
>
>  そうお話するとアメリカの議会制度はお手本になりそうに聞こえます、ただ、アメリカの民主主義の中でも単純な対立軸を
> 設定しすぎる傾向はマネすべきではありません。「小さな政府か大きな政府か」あるいは「一国主義か国際協調か」というような
> 単純な、そして時には有効でない二分法について大の大人が大まじめで選挙戦を繰り広げ、その結果で大きく国の政策にブレを
> 生じるというのは粗雑にすぎる考え方です。
>
>  どんな問題にも選択肢は三つ四つあるいは五つぐらいを検討対象として世論に問えるようでなくては、現実に対処できない
> のではないでしょうか。選択肢が二つであっても他の問題の選択肢との組み合わせでは、やはり四つとか六つから選ばねばならな
> いこともあるように思うからです。
>
>  さてアメリカの模倣が正しいかどうかということでは、もう一つ、大きな制度変更として、厚生労働省と日本経団連が積極的に
> 導入を目指している「ホワイトカラーエグゼンプション」(自律的労働制度)の問題があります。一定の年収を保障した上で、
> 時間外手当(残業代)の支払いを対象外とするこの制度は、提案者側からは「アメリカで既に導入されている」というのですが、
> この問題は裁判員制度どころではない大変な問題を抱えていると思います。
>
>  というのは、政府ならびに日本経団連は、恐らくは半ば意図的にアメリカの実態を歪曲して伝えているからです。
> その第一点は、アメリカでのこの制度は「管理職・基幹事務職・専門職」への「残業手当の適用除外」を定義したものであって、「ホワイ
> トカラー・エグゼンプション」とはいっても、全てのホワイトカラーが対象ではないという点です。
>
>  とにかく管理職・基幹事務職・専門職の必要要件を満たしたケースだけに適用されるのです。確かに金額で示されている規準だけを
> 見ると、週給455ドルというのは年収換算で23660ドル(約279万円)と低いのですが、この金額というのはあくまで
> 一つの要素に過ぎません。その前に、厳しい規準に示された実態を満たしていなくてはならないのです。
>
>  例えば、アメリカの管理職の場合は「二人以上の部下に関する、採用権限を含む管理監督」を行っているかどうかがポイント
> になります。また基幹事務職(総務、経理など)では「非定型業務、自由裁量、自主的な判断」が主要な業務であるか、更に専
> 門職の場合ですと「明らかな専門的教育に裏付けられた専門性、もしくは独創的な技能の発揮」という要件があります。
>
>  こうした要件について、例えば厚生労働省の労働政策審議会の議論などを見ていますと「アメリカでは金額で切っている」という前提で
> 話が進んでいるようなのですが、これは事実の半分も語っていません。管理職であるか、専門職であるかの「要件」は
> 非常に重視されていて、この要件を満たしていない場合に「お前はホワイトカラーだから」ということで残業代の支払いを
> しないということになると、これは訴訟などで大変なダメージを受けるようになっているのです。
>
>  第二点は、この「要件」を受けて「エグゼンプト」の労働市場というものが確立しているという点です。管理職・専門職で残業の
> つかない職種の場合は、業種職種によって異なりますが、全国的に見て5万ドル弱あたりが最低だと思います。勿論例外は
> ありますが、管理職の場合でもいわゆるマネージャー(課長さん)がその最低クラスになるのですが、基本的にはMBA
> (経営学修士)を取って(管理職にはMBAが要求されることが多いのです)の初任給はやはり6万から7万(あるいはそれ以上)で
> す。結果で判断される、だから労働は自己裁量という分、まあ納得のできる給与水準が労働市場として存在しているのです。
>
>  第三は、アメリカの労働省のガイドラインにもあるように「専門的な教育を受けた」という事実などの客観的な根拠が求めら
> れているということです。管理職にはMBA、経理専門職にはCPA(公認会計士資格)、法務部門の管理職にはバー(司法
> 試験)などの公的な学位ないし資格が要求されますし、資格がない場合はそれ相応の職歴など、そして専門技術者の場合はそうした
> 教育を受けたという事実が要求されます。逆に言えば、履歴書にはなんの根拠もない人間に「権限を与えているから」とい
> う理由で時間外手当を払わないのはダメということです。
>
>  第四は、「エグゼンプトでない」つまり日本流に言うと「一般職社員」の労働市場が確立しているという点も重要です。
> この一般職は契約上「残業手当がつく」のですが、その代わり「まずほとんど残業をしない」し「出張も命じない」ことになってい
> ます。命令を受けて定型的業務はするが、その代わり家庭や地域活動との両立など「9時から5時まで」の人間的な生活が
> 保障されているのです。年収としては2万ドルから5万ドルぐらいでしょう。この人達は組合と法律によって厳しく保護されてお
> り、本人の同意なく残業を強制することも不可能ですし、まして残業代を払わないということも不可能です。
>
>  勿論、アメリカの労働事情にも深刻な問題があります。一般職の生産性が国際競争力を失う中で、現時点で言えば自動車産業
> などを中心にリストラが進み、実質的に落ち着いた一般職の雇用が減りつつあるという問題がまず第一点、逆に管理職の場合は
> 成果要求が厳しくなっているために労働時間がどんどん長くなるという問題があります。この二番目の問題も深刻で、
> 通勤電車の中でパソコンで仕事をしたり、休日でもメール端末(「ブラックベリー」など)をピコピコする風景、更にラッシュ時間が夜
> の九時台まで続くと、まるで日本のような様相を呈しているのです。
>
>  ですが、さすがに残業のつく人と、つかない人のケジメは崩れてはいません。そして、それは単純な給与ベースでの規準ではない
> のです。もっと実態のある裁量性の問題なのです。こうしたアメリカの労働事情をほとんど伝えないままに、「アメリカで
> 行われているホワイトカラーエグゼンプション」などとカタカナ言葉で煙に巻くのは不誠実な議論だと思うのです。
>
>  日本の場合は、アメリカで厳格に運用されている「要件」について、そもそも確認のしようがありません。例えば、個別の管理職に
> 採用権限はありませんし、そもそもホワイトカラーの場合は企業が大学教育における専門性を評価していないのですから、
> 教育や資格によって人材の客観的な要件が把握できない体質にあります。また専門性と責任と職位もバラバラだったり、厳格に管理職
> や専門職は定義できないということになります。
>
>  最大の問題は裁量性の問題です。日本経団連の資料によれば、日本のホワイトカラーは「頭脳労働」だから裁量性がある、
> とまあもっともらしいことが書いてあり、実 際にこれまでの裁量労働制などもかなり拡大解釈して運用されてきています。です
> が、日本のホワイトカラーで現在は残業手当の対象になっている人々の勤務実態には本当の裁量性はないのです。
>
>  顧客からは名指しで問い合わせが来て不在だとクレームになる、突発的に資料作成を求める指示が入り自分の本来の仕事は後回し
> になる、他の同僚が忙しそうにしているので子供の病気でも早退できない・・・更に言えば、辞令一つで国内どころか海外にまで
> 転勤を強制される、それを拒めば出世街道から「下りた」とみなされる。こうした非裁量性、それも激しいまでの「自己決定権の否定」
> があるのが日本の「ホワイトカラー」です。
>
>  とにかく会社にいなくてはいけないし、そうでなくても携帯やメールが追いかけてくる、しかもほとんどのケースでは即答を求め
> られます。人間関係を維持しないと仕事が回らない独特の文化のために、そしてやや過度なまでに即対応の求められる文化
> のために、一人一人の日本のホワイトカラーは一日のほとんどの時間に関して裁量権のない息苦しさの中におり、しかも組織の
> 心理的・政治的な「空気」を維持するための儀礼的・儀式的な会議や出張を強制される中で、絶望的なまでの生産性の低さに甘
> んじているのです。
>
>  そう申し上げると課長クラスなどの中間管理職も同じではないか、そんな声も聞こえてきそうです。ですが中間管理職と「ヒラ」
> では意識の上で違いがあります。部下のいる人間は、その部下に対して多少なりとも裁量権を行使することができるのです。
> ですが、そうした息苦しいヒエラルキーの最下層の人々には、少なくとも時間外の業務命令に対しては割り増し手当を受け取ることが
> 人間の尊厳になっているのです。実質的に裁量権のない人間の時間外手当を奪うというのは、その人間の尊厳を奪う、
> つまり他人の命令に翻弄されながら何の見返りもない、惨めな存在に貶めることになると言わざるを得ません。
>
>  もっと具体的に申し上げましょう。日本のほとんどの「ホワイトカラー」は退社時刻の5時ないし5時半、(いや職場によっては
> 夜の7時とか8時ということもあるでしょう)に上司に「この資料をまとめてくれよ。今日中に頼む」と言われても、断れ
> ないのです。そうしたケースにおいても時間外手当が契約上ないし制度上全く払われないとしたら、その業務命令は代償のない
> 一方的な暴力であり、その暴力に対する支配は隷従にほかなりません。そんな社会は文明的な社会ではないのです。
>
>  そう申し上げると、そのような「突発的な命令」にも従うような「モラルの高い」人間を日本経済は必要としているし、本人も
> 「仕事のやりがい」を感じていればハッピーなはずだ、そんな声が聞こえてきそうです。ですが、本当にモラルも能力も高い
> のなら二十代でもどんどんホンモノの管理職にして600万とか700万を払うべきですし、モラルだけ高くて能力の低い人間を
> 命令とマニュアルで管理した上での「生産性」ということでは全く国際競争力はないと思います。
>
>  いや「裁量労働」なのだから、時間外労働の埋め合わせとして代休ないし、遅出を認めるから大丈夫・・・これも非現実的です。
> 例えば顧客対応の仕事、会議が重要な要素を占めるチームワークの仕事など「相手のある仕事」ではフレキシブルな勤務は
> そうは簡単ではありません。確かに、現在でも時間外労働に関する支払いは相当の部分があいまいになっています。いわゆる
> 「サービス残業」でも発覚するのは氷山の一角でしょう。ですが、実態が払わない方向になっているとしたら、その実態が問題な
> のです。
>
>  いずれにしても、出生率が下降を辿る中、長時間労働の問題と対決することこそ、日本社会の緊急課題ではないでしょうか。
> とにかく日本人は働き方を変えなくてはならないのです。労働時間を短縮し、生産性を向上するだけでなく、宴会や出張など広
> い意味での拘束時間も見直してゆくべきです。地方公共団体の裏金が問題になっていますが、そもそも組織の内部での飲食に
> よる親睦などというのはライフスタイルの問題として最低限にする必要があるはずです。自腹を切らせれば良いのではありません。
> 徹底的に減らすべきでしょう。
>
>  時短をしなくては少子化が進むだけではありません。そのような総合的時短の中で徹底的に生産性を上げて行かなくては、
> 最終的にどんどん国際化してゆく労働市場の中で日本のホワイトカラーは戦って行けないことになるのです。現在提案されている
> 「エグゼンプション」は労働者個々人だけでなく、日本の競争力という面からも問題です。ここでいう生産性というのは、企業としての
> 業務効率だけではありません。個々人が努力に見合う幸福感を得て、次世代を育むという意味での生産性も考慮しなくては社会は
> 続いていきません。この点に関しても、労働時間管理を外したら、より悪い方向へと歯止めがなくなる危険の方が大きいのです。
>
>  例えば「同一賃金同一労働」が叫ばれる背景に、正社員と非正社員の線引きがあいまいという問題があります。ですが、
> これが各職場レベルでは大きな問題になっていない背景には、暗黙のルールがあるのです。それは「正社員は宴会や儀礼的会議
> への出席が義務」であり「社内政治のコマとしての役割を期待される代わりに将来の管理職候補とされる」という「お約束」です。
> こうした企業文化こそ日本のホワイトカラーの生産性を先進国中恐らく最低の水準に低迷させているのですが、例えば「年収4
> 00万円以上は残業手当なし」というような制度ができれば、この状況を更に固定化するようなことにもなりかねません。
>
>  この問題の大きな背景には「再チャレンジ」政策の一環としての「パートの正社員化」が絡んでいるようです。雇用の
> 不安定なパート労働者が増えれば社会が落ち着かなくなる、だから正社員化をしよう、そこまでは結構な話です。ですが、その結果と
> して人件費が高騰するのは何としても避けたい、それが産業界のホンネでしょう。そこをクリアするために、400万以上は残業
> 手当なし、突発命令による時間外労働にも報酬なし、という制度で埋め合わせをしようとしている、そんな構図が見て取れます。
>
>  何が最大の問題なのでしょう。第二次大戦で焼け野原になった日本経済が奇跡的な復興をしたのは、将来に希望があったから
> です。忙しくても一生懸命やれば自分も会社も社会も良くなる、そうした右肩上がりの希望が社会にあったからです。確かに現
> 在の日本社会は、全体としての量的な希望については大きくは望めなくなりました。ですが、個々人の質的な希望はまだ残って
> います。努力をすれば何かが報われる、長生きをすれば少しでも幸福な社会を実感できる、そんな質的な希望があるから人々は
> 真剣に仕事をし、製造業を中心にまだまだ競争力を保っているのです。
>
>  考えてみれば20代から30代という「400万」の世代は、社会人としての経験と知識を学びながら、パートナーを探して家庭を
> 育んでゆく重要な時期を生きているのです。そんな人生の時期に、歯止めのない労働時間、しかも時間管理のない中での
> 一方的な服従の連続に心身を蝕まれてしまえば、人間としての質的な希望は吹っ飛んでしまいます。
>
>  本当の裁量性のない、したがって自分で時間をコントロールできないポジションにある人々には、時間外手当という金銭で
> そのプライドを埋める、また会社側には歯止めをかける、そんな形で人間の尊厳を認めてゆくべきです。そうでなくては、質的な
> 希望を抱いた人材が実現してきた高い生産性の神話は雲散霧消してしまうでしょう。このままカタカナの「エグゼンプション」
> という言葉に乗っかり、長時間労働という今日本が抱えている最も深刻な社会問題について逆行させるような制度導入がされる
> のは大変な問題だと思います。
>
>  もう一度申し上げますが、アメリカの「ホワイトカラー・エグゼンプション」は日本で現在検討されている内容とは全く異なる制度
> です。「残業のつく人」と「残業のつかない人」を明確に区別するだけでなく、「残業のつく人」には残業をさせない、「残業の
> つかない人」には成果を求める代わりに裁量権を与える、これがアメリカの制度です。ブッシュ政権によって、経営側に
> 有利な変更はされています。ですが、だからといって実質的な裁量権を与えず、時間のケジメもなく人を使っておいて残業手
> 当も与えない、そんなムチャクチャはそこにはありません。
>
>  小泉政権以来の日本には、アメリカ社会の模倣をすることが改革なのだという雰囲気が濃厚にあるようです。裁判員も、
> ホワイトカラーエグゼンプションもその流れに乗っていると思います。ですが、裁判員制度は判例の重視による判決の一貫性を
> (悪い意味で)破壊する危険がありますし、ホワイトカラーエグゼンプションの問題に至っては、アメリカの労働慣行や制度を
> 歪曲した挙げ句に、まったく別の非人間的な提案に変えてしまっていると言えるでしょう。思えば、この二つの例が実に粗雑な提案
> であるのは、国会での党議拘束が多様な選択肢をオープンかつ実務的に協議する環境を奪っているからだとも言えるのです。
> 一党支配と官僚制度の中から常に最適解が出てくる時代は終っているのです。

 

  またまた長くなった。 本日はここまで。 続きは次回に・・・・・

12月6日(水) 西澤潤一も最近はもうろくしてロクなことを言わないな、と思っていたが、珍しく本日の毎日新聞にまともなことを書いている。

 「評価力」 を評価せよ、という文章である。 日本人は自国の学者についてきちんと評価する眼力が備わっていない、という趣旨だ。 経団連の元幹部が研究にオカネを沢山出したと言っていたので、その研究には外国でやっていないことは一つもないですね、と西澤が言ったら相手は顔面蒼白になっていた、という話も出てくる。

 こんなことをここに書くのは、独法化された新潟大学に対する平成17年度の評価なるものが出ており、どういうわけか比較的良好な評価が下っているらしいからだ。

 外部資金が増えた、なんてことも評価されている。 だけれども、このサイトでもたびたび書いてきたように、教員への研究費は激減しており、そのために長年継続してきた基礎文献購入も止めざるを得なくなっているのである。 外部資金が増えたなんてのは、別世界の話、なのである。

 流動定員が増えたことも評価しているのだが、これまた、そのために教員が停年や異動で抜けた穴が埋まらず、教養の語学教育などに支障を来す例が出ているのである。

 独法化された新潟大学に対する 「外部評価」 は、そういう現場の事情にはいっさい触れていない。 触れるだけの能力も見識もないからであろう。 まさに 「評価力を評価すべき」 ところなのだ。

 こういう 「評価者」 を評価する試み、どなたかやりませんか〜?

12月3日(日) 午前中、東京駅のコインロッカーに余計な荷物を押し込んでから、上野の東京都美術館に大エルミタージュ美術館展を見に行く。 

 自然というテーマで選ばれた絵画の展覧会というふれこみだが、必ずしも狭義の自然画や風景画だけではなく、人物画にもなかなか面白い絵があった。 またなるべく同じ画家の作品が続かないように選択されているらしく、名前を知らない画家が多く、しかもそれがそれなりに名画なので、改めて美術の世界は広いなと痛感した。 エルミタージュ美術館は1年間かけても全部は見られないくらいの規模だそうだが、一度行ってみたいものだ。

 しかし日曜なので人が多く、全部見るのにも人混みの中を少しずつ歩かねばならず、疲れてしまう。 全体的に良かったのでカタログを買いました。

 そのあと有楽町で映画を見、映画終了後すでに4時近くになっていたが駅前のカレー屋さんで遅い昼食。 この店は初めて入ったけれど、システマティックなカレー専門店。 頼んですぐ出てくるところはいいが、カレーとしての味はイマイチだ。 ただしカツカレーが580円なのは安い。 らっきょうが食べ放題なのもいい。

 それから川崎に向かう。 ミューザ川崎で午後5時から東京交響楽団第9回川崎定期演奏会でヤナーチェクのオペラ 「マクロプロスの秘事」 を聴く。  飯森範親指揮。

 私は東京交響楽団新潟定期演奏会の定期会員になっているのだが、そうすると東京交響楽団の首都圏での演奏会に無料招待という制度があり、今回はそれを利用したもの (言うまでもないが旅費は自弁である、念のため)。 タダ券だけれど、席は2階正面からすぐ右手最前列のC1−42。 うーん、申し訳ないくらい絶好の席ですね。 東京交響楽団に感謝します。

 ミューザ川崎のホールは初めてである。 噂には聞いていたものの、実際に入るとびっくりしたのは、同一ブロックでの同列の席なのに床面が傾斜していること。 つまりすぐ隣席であっても自分の席より少し低いか高いかなのだ。 ひゃああ。

 肝心の音楽だが、何しろ初めて聴くオペラで、珍しい作品なのでCDでの予習もしておらず、あまり言うこともないのだが、東京交響楽団の演奏自体はたいへんよかったと思う。 筋書きは超自然的でちょっとSFじみている。 しかし普通の (?) オペラと違ってアリアがなく、登場人物の会話だけを音楽にしており、また午前中の美術展鑑賞で疲れていたこともあって、途中で居眠りをしてしまいました。 すみません。

 夜8時24分発の新幹線で新潟に帰る。 国境のトンネルを抜けたら雨と霰が電車の窓に吹き付けてきた。 うーん、太平洋側とはやはり別世界ですね。

12月2日(土) 池袋のホテルで目覚める。 このホテル、最近リニューアルしたそうで、駅から5分の立地なのはいいが、狭いのが難点。 もともとバブルで土地の値段が高い頃に作ったのだろう、1フロアになるべくたくさん部屋を詰め込もうという発想が見え見え。 今となってはいくら内部をリニューアルしても狭いのが鼻について安っぽさを免れない。 せめて幅をもう20センチ広く作っておけばだいぶ違ったと思うんですがね。

 ベッドは今どき気の利いたビジネスホテルならセミダブルにするだろうに、部屋の幅の関係でセミダブルは入らないし、おまけにカバン置きもない。 これも部屋が狭く小さな書き物机以外に家具が入らないからだ。 が、せめて折り畳み式でいいからカバン置きをおいておいてほしいものだ。 おかげで書き物机とセットの椅子にカバンを置かざるを得ない。

 トイレはリニューアルしただけあってシャワートイレだけれど、これがまた小さいのである。 尾籠な話で恐縮だが、すわっているとたいして長身でもない息子の頭が便器の端に届いてしまう・・・・・・。 おそらく最初はシャワーでなかったのをリニューアルでシャワーにしたために、シャワー用のスペースにとられて、便器自体は極小サイズにとどめざるを得なかったのだろう。 でもこれじゃ体のでかい外国人なんかが泊まったら苦情が出るんじゃないか。

 私が文句を垂れているのは、今回は新幹線とホテルがセットの企画切符で上京したのだが、本来1泊用を2泊にしたところ、9500円余計に取られたからだ。 朝食付きの値段とはいえ、この狭さで1泊9500円はないだろう、と言いたくなる。 朝食はバイキングだが、内容的には大したことない。 デザートのフルーツもほとんどない (この次の日の朝食には柿だけ置かれていた。 私は柿が好きじゃないのである! それにしても今どきデザートに柿とはね・・・・)。

 午前中、神保町の古本屋街を歩いて多少本を買ってから、埼玉県越谷市の文教大学で午後2時から行われる日本シュトルム協会の例会に向かう。 新お茶の水から千代田線に乗って北千住で東武線に乗り換え。 ここでコインロッカーに買った古本を入れて身軽になる。 それにしても北千住駅は分かりにくい。 目的の電車ホームにたどりつくまでにしばらくかかってしまう。

 北越谷駅で下車。 駅前のラーメン屋で昼食をとってから歩いて10分ほどの文教大学へ。 川のほとりで、首都圏とはいえなかなか風光明媚な環境である。

 日本シュトルム協会の例会に出るのは、実はかなり久しぶりである。 4年前に新潟で独文学会があった時にはこの協会の懇親会場のお世話をして懇親会だけ出席した。 例会はその前にあったのだが、なにしろ主催校の人間である私は雑用に追われており、例会に出る余裕がなかったのである。

 今回は出席者6名。 もともと小さな協会なのである。 協会が出版を予定している書物についての話し合いの後、シュトルムが一時期住んでいたハイリゲンシュタットとそこにあるシュトルム博物館の紹介を会場提供者の野原章雄先生がされた。 私以外の出席者はシュトルムのスペシャリストの方々だから、ほかの方々の発言を含めて教わることが多かった。

 会終了後は銀座に出てビアホールで懇親会となる。

12月1日(金) 上京する。 新潟に来そうにもない映画を2本見てから、新国立劇場でロッシーニのオペラ 「セビリアの理髪師」 を聴く。 生でこのオペラに接するのは初めて。 演出はヨーゼフ・K・ケップリンガー、指揮はミケーレ・カルッリ、東フィルの演奏。

 過去の演出例を知らないのだが、舞台に大きな家を内部も見えるようにしつらえて、実際に歌っている役柄以外の登場人物たちも建物内で何をやっているのかが分かるようになっており、非常に演劇的な演出だと思う。 つまり歌手たちは歌っている時以外も舞台で演技を続けている必要があるということなのだ。

 歌手ではフィガロ役のラッセル・ブラウンが一頭地を抜いて良かった。 朗々としたよく通る声。 アルマヴィーヴァ伯爵役のローレンス・ブラウンリーは声の伸びがイマイチ。 ロジーナのダニエラ・バルチェッローナは声量は豊かだが、やや放縦というか、声の品や統制に欠けるところがあるような印象であった。

 見た目にも、最初からそれを意図したわけではないだろうが、コミカル。 伯爵役のブラウンリーが黒人であまり背丈がなく、一方ロジーナ役のバルチェッローナは非常に大柄なので、伯爵がロジーナに愛をささやく場面では台を引き寄せてそれに乗って歌っており、場内からは笑いが。 映画と違って背丈のつりあう美男美女を選んでというわけにはいかないからという見方もあり得ようが、この場合は、このオペラのコミカルな雰囲気にそれなりに合っているように思う。 歌手により色々な設定が可能なオペラなのかも知れない。

 座席はBランク席で3階の右脇 (物理的な高さで言うと2階と同等)。 3列ある中の真ん中だったが、ここは前席の客の頭がやや邪魔になる。 左端ならその点問題がなかったのだろうが。 1カ月前の 『イドメネオ』 時は同じBランクで3階正面近くで聴いたが、そちらの方がよかったと思った。

11月27日(月) さて、先週金曜日分に記したネット上での独文学者との激論である。 まだ決着が付いていない問題なので、とりあえず途中まで報告する。 

 なお、これは日本独文学会のML上での議論である。 MLへの投稿の少なからぬ部分をそのまま引用することについては異を唱える人もいるかもしれないが、読めば分かるように私と議論をした人たちは高等教育を含め日本の教育全体に関わる大問題を扱っているつもりのようであるから、ここで引用されて議論内容がオープンになることをよもや問題視はしないだろうと判断させていただく。 また、私自身が相手の論旨をまとめてしまうと私に都合のいいように内容をねじ曲げているのではないかと勘ぐられる恐れがあり、それを避けるためでもある。

 なおMLの発言内容は投稿者の自己責任で学会としては責任を負わないことになっているから、独文学会が著作権を主張することもないと判断する。

 ただし投稿者から申し出があれば、ここでの引用はただちに削除する用意があることを申し添える。 発言者の氏名は完全に匿名とした。 登場順にABCのアルファベット順で付けてある。 所属校なども記さない。 独文学会員であるから基本的には大学のドイツ語教師であるが、常勤職にあるとは限らない。

 私の意図はあくまで個人批判ではなく、日本独文学会の会員なる存在がどういう発想をしどういう発言をするものなのかを世間に知ってもらいたい、というところにある。 投稿引用中の 〔 〕 は三浦による省略説明や補足説明である。

(1) 11月23日早朝付けで、A氏より次のような投稿があった。

 私たちにも関わる座視できない重要問題と思いますので,以下転送いたしま す。各大学,各部門でご検討下さればと思います。

> **大学の****(**学)です
>
> 「教育基本法改定案に反対する大学人有志の訴え」にご賛同ください(転載 転送歓迎)。
>
>  教基法改定を憂慮する大学人が、各自の大学で自発的に声をあげ、ネット ワークを形成し、22大学560人を越える有志が集まりました。
>  また、去る11月14日(火)には「教育基本法改定案に反対する大学人有志 の訴え」(呼びかけ人 〔4人の氏名略〕)として記 者会見もおこないました(15日付朝日新聞等で報道)。すでに、学会や研 究団体等の多くが、教育基本法改定への反対を表明しておりますが、大学の 内部で有志が学問分野を超えて署名を集めたのは初めてだろうと思います。 このたびの反対アピールは、各大学の教職員・研究者等の有志が、学問分野 の違いを越えて、個々の信念と大学人としての良心に従い、発したもので す。現今の状勢に対して、研究と教育に対する責任を有する大学人としての 訴えです。
>  「大学人グループ」の同様の動きで新聞などで取り上げられたものには、 北海道地区14大学や、神奈川県下大学人と横浜国立大学(神奈川新聞等で 報道)があります。これらの動きの新聞報道を見ると、「大学が動いた」と いうことが注目されております。
>
>  そこで、大学で研究教育に携わっていらっしゃるみなさまにも同様の動き を起こしていただくよう、提案させていただきたいと思います。方法は2つ。
> (1)各大学で教育基本法反対のアピール文を作成し、署名をあつめて、こ のネットワークに参加する(下記【データ】1のケース)。この場合、必要 な情報を**までお知らせいただくことで、ネットワークに加えさせていた だきます。また、既に私どものほうで集約している他大学のアピール文など をお送りいたしますので、双方でネットワークを拡大していきましょう。
> (2)アピール文の作成までに至らない場合、「○○大学有志」あるいは 「個人名(○○大学)」として、**大有志アピールへの支持を表明する (下記【データ】2のケース)。「**大学教職員有志のアピールを支 持します」いうメッセージをお送り下さい。このネットワークのはじまりが **大アピールだったので、今のところこういう形にしておりますが、**大以外の大学との共同アピールを出すべく準備中です。
>
> 【連絡先】  
>   〔省略〕
>
> 【データ】
> 1.22大学567名の有志が、各大学等のアピール文に賛同署名しており ます(11月13日現在)。
> *国際基督教大学(95名)、恵泉女学園大学(63名)、東京女子大学 (85名)、敬和学園大学(14名)、千葉大学(15名)、横浜国立大学 (31名)、横浜市立大学(14名)、神奈川県下大学人(19名)、京女 9条の会(5名)、北海道地区14大学(220名、北海道大学・北海道教 育大学・北星学園大学、北海学園大学等14大学)
> 2.**大学教職員のアピールに対して、33大学45名から賛同書名 をいただいております(11月10日現在)。
> *明治学院大学(9名)、共愛学園前橋国際大学(3名)、帝塚山学院大学 文学部(3名)。他30大学30名の個人
> 3.また、私たちの「訴え」に対して、「日本平和学会」会員有志63名か らの賛同署名もいただいております(11月11日現在)。
>
> 【PS】本来であれば、大学以外の教育機関や市民の方々にも広げるべきとこ ろですが、2〜3名で集約や事務的作業を進めておりますので、残念ですが 手が廻りません。このネットワークの動きに賛同していただける方は、それ ぞれの持ち場で同様の動きを作ってください。特定の誰かや団体が動かすの ではなく、個人個人が主体となってネットワークを形成しつつ、共に頑張り たいと思います。

 〔上の**は三浦による匿名措置〕


(2) それに対して私は11月24日午前付けで次のような投稿を行った。

 これって、ドイツ文化やドイツ語教育に関係する問題なんでしょうか?
 つまり、独文学会のメーリングリストにふさわしい話題なのかどうか、ということなのですが。

(3) これに対して同じく24日午前中にB氏より以下の投稿があった。

 私の場合は、A氏の投稿に応じて下記のような対応をしておきましたので、メールをここで受け取る意味がありました。

  >**大学教職員有志のアピールを支持します。

 >特に、

 >「公共」に主体的に参画する意識や態度の涵養は-----公徳心の涵養なら放っておけますが----国家主義の促進に利用されるという懸念を抱きます。

(4) これに対して私は同じく24日午前中に以下の投稿を行った。

 私の申し上げているのは、独文学会は本来、ドイツ文化やドイツ語教育に関心を持つ人間の集まりであり、メーリングリストはそういう話題に限定して用いるべきではないのか、一般的な問題を何でも投稿していいことになるなら、無秩序状態を招来しかねないのではないか、ということです。

 この問題に関して言えば、新聞などで以前から話題になっているわけですから、自分で情報収集に努められ、自分と意見を同じくする方々と連帯されれば、それで済むことではないのでしょうか?

(5) これに対し、同じく24日午前中にC氏より以下の投稿があった。

 「教育基本法改定の動き」 について、三浦氏の反論メールにたいして反論いたします。
 こういう、この場にふさわしい議論であるかどうかを突く雑音が、雑音の可能性としてあるだろう (そしてこういう雑音をあげるひとにかぎって、「内容は賛成なんですけど」 などという呑気であさってのことを言いかねない) と思っていました。
 放置しようかと、一瞬考えました。
 または、私が原理的に反論しないでも、提題者の大まじめな資格論的再反論をきいてみたくもありました (ですからそれはそれで大いになさっていただきたいとも思うのですが。)
 ところが、私自身、この提議をいただいてその午前のうちに、そのメールを4箇所に転送し、うち1箇所は本務校内であって、もし学内でのとりまとめにいたらないばあいは、私は記載されている個人として賛同する方法をとるともりでおります。日本独文学会にも即座に同様内容の賛同呼びかけメールを寄せようかと思ったくらいなのを、考えなおせば学会あてのその役はまさにすでに元メールがなしていると気づき、中止したのです。
 そこで、日本独文学会の皆様に、真面目に物事を考えていただきたく思い、三浦氏の反論メールに対し、反論となる説得をいたします。

 以下は、私が4箇所の転送先に送ったメールにつけた、「個人による立場表明」 です。 (この内容に説得された方は、どこかで口にしていただいても結構ですが、よく考えると、この内容は、まさしく私の思考による私のオリジナルの見解であり、この内容にかんする知的所有権は、主張いたします。 それは、引用の下部に付加する説明にかんしても、同じです。)


 〔 以下、「知的所有権を主張いたします」 そうなので、ここでの直接引用は控える。 私なりに 「口にする」 程度に要約すると、次のような内容になる。 日本の法体系や法運営はデタラメである、裁判所が違憲判決を避けているのは問題だ、国旗国家法制定やそれに伴う高校教員の惨状もそこから来ている、こうした状況を大学関係者は座視すべきではない、国旗国家法や改悪教育基本法が直接大学をスポイルすることはないが、初等中等教育でスポイルされた学生が大学に入ってくると支障をきたす、以上の根本的かつ自己利益的理由から法改悪に反対する。 三浦にはまずこの自己利益的理由が成立すると指摘したい。 しかしそれ以上に言いたいのは、@   文化は人間社会の本質を指し示すものであり、三浦のような狭隘な文化理解ではかつてのナチや現在の日本に見られる文化産業や国粋主義政府の文化利用をくい止めることは不可能。 A ドイツ文化はドイツ史・ドイツ思想史・ドイツ社会史をも学ばなくては分からない。 ドイツの法的状況と日本のそれとを比べなおかつ教えなければならない。 B そのような文化学習を日本の現状に反映させなければ文化学習の意味はない。〕

 三浦氏は、何気なくこの話題がこの場にそぐうものかどうかの資格確認を求められただけかもしれませんが、こういうことを即時に考えめぐらさなかったので思いがけない反論の猛攻にあったものとお考え下さい。

 さて、日本独文学会の皆様には、私の「立場表明」に説得されてくださり、今回の運動の輪に加わっていただくよう、私からも個人的に、あつく、お願い申し上げます。

 このあと、C氏は改めて投稿して、自分のこの投稿は(2)を見てなされたものであり、(4)をその後に読んで、だれかがやはりどうしても本質的議論をせざるをえなかったのだと、確信しました と述べた。

(6) これに対して私は同じく24日午前、以下の投稿を行った。

 最初にCさんのメールに簡単な感想を書きます。

 こういう形で何でも関連づける、別の言い方をすれば風が吹けば桶屋が儲かる式の声明を出すというやり方は、昔から戦後日本の知識人がやってきたことであり、それがある時点からさっぱり効果がなくなっているし、それがなぜなのか、ということをこそまず反省すべきでしょう。

 それと、ドイツ文化やドイツ語教育について言えば、教育基本法が改正(改悪?)される前――つまり今もそうだし十年前もそうだったわけですが――から削減の一途をたどっているし、それにドイツ語教師がなぜ対抗できないのか、ということのほうを先に考えるべきではないですか? もっと具体的に言えば、こういう「アピール」に賛成しておけば何かやったつもりになっている状態こそ退廃なのであって、アピールに賛成したけど第二外国語教育は縮小した、というなら、アピールに賛成する方式そのものが間違いだった、と考えるべきなのですよ。

 話を元に戻します。独文学会のメーリングリストである以上、話題はその方面に限定されるべきであると考えます。教育基本法改定に反対したいなら、それにふさわしい場所でやればよろしい。


(7) これに対して同じく24日午前、C氏より以下の投稿があった。

 みそもくそもいっしょになさるものではありません。

 声明なるものが効果をなかなかもたないのは、それ自体は、「声明を出しおよびそれに賛成してすませてきた」からでも、ましてや、その声明の内容が「何でも関連づける、別の言い方をすれば風が吹けば桶屋が儲かる式の声明」であったからでもありません。社会の中で、声明が持つことのできる効果は、もともと限定的なものでしょう。

 ただし、このような声明それ自体に、たしかにえてして「声明を出しおよびそれに賛成してすませてきた」態度が同居することも、事実です。
 私自身、声明なるものがまわってきたときに、一字一句をついつい確かめてしまい、たいていはどこかにケチをつけたくなり、しかしそれだと不書名ということとなるから最終的にはちょっとのことだったら目をつぶって賛同する(アピール発起人となる場合はちがいます)、そのさいに、いちいち不快感が残る、のは、こういった事情によるのでしょう。

 もちろん、多岐の分析や、活動が、必要です。必要ですとも。

 私は、大袈裟にいえば、その一環として、三浦さんの元メールに対する反論執筆の労をとりました。

 そして、だからていねいに、これがまさに「ドイツ語教育」に、そしてなにより「ドイツ文化」に、関連する話題であると、詳しく説明して差し上げているじゃあないですか。「教育基本法に反対したいなら、それにふさわしい場所でやればよろしい。」という、その場につかなさもかねた横柄なおっしゃりようは、日本語読解能力と思考能力のみならず、日本語視追能力の欠如の、宣言ですか。

(8) A氏より同じ24日昼過ぎに次の投稿があった。

 〔(1)(2)は省略。〕

 (3) 教育基本法は,その対象として初等中等教育のみならず大学教育をも包含 するものであることから,ドイツ語教育に関わるか否かにかかわらず,教育に 関わる私たち全員に関係がある。

 (4) 無為な議論をしている間に事は進んでいく。一昨日の桝添要一自民党議員 (元大学人!)の質問とそれに対する伊吹文明大臣の答弁を聞いた方は,戦慄 を覚えなかったでしょうか。

 また大学人に関係ないとお考えの向きにはこの記事をご覧頂くことをお薦めします:

 http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20061021k0000e040067000c.html

 こうした「研修」のベクトルを決めるのが教育基本法です。

 (5) こうした議論をして真理を追究することは大学人の要件ですが,こうした 議論が「教育に対する不当な介入」のための議論とされかねない教基法政府案 は,共謀罪法案とパラレルであることを見逃してはまずいのです。

 中学生に対する言論弾圧について:

 http://www.stv.ne.jp/news/streamingWM/item/20061117182019/index.html

 (このニュース [札幌テレビ発] は全国レベルで伝えられていないと思われま すので,消されないうちにぜひご覧下さい。)

 (6) 以上の考えから,話題提供をしたまでです。各大学,各部門で前向きに利用されるならば,このメイリングリストで提題した意味もあると考えます。

 〔上の 「中学生に対する言論弾圧」 とは、リンクがすでに切れており私もコピーしておかなかったので記憶の範囲で大ざっぱな内容を書いておくと、中学生複数が話し合って安倍首相宛てに 「愛国心は強制されるものではないと思う」 という意見書を送ったところ、匿名の大人から 「中学生のくせにけしからん」 という内容の批判が届いたので、当該の中学生は 「傷ついた」 と語った、というものである。〕


(9) 同じ24日昼過ぎ、C氏から私の(6)への返答として次の投稿があった。

 あまり細かいことにつきあっているひまはないんですが。(だいたいにおいてもう昼めしで腹がへっているし。)

 > Cさんの展開されている議論は、ドイツ語教師の内部では多少の賛成者を得るでしょう
 > けれど、社会一般からは「風が吹けば」

 とおっしゃっていますけど、前のメールでは、「風吹けば」は、Cにたいしてもかかるらしい悪意は文面上からむろんにおうものの、文脈上はそこにかかってはいませんでしたよね。ところが今回はそれがいきなりCです。細部を「訂正」するなら、合わせて訂正しておいてください。

 読みというものは、こまかく、なにをどこでだれにたいして言っているか、読みとって頂きたいものですが、私の「立場表明」は、むろん大学人にたいしてに限ってのものですよ(初等中等教育の教員をすら、直接には無縁な他者であると位置づけています)。それを、直接に「社会一般からは」なんて、まったくおかどちがいですよ、社会一般から見たら、大学教師が大学教師に対して発した「立場表明文」は、事情もひとごとであり、もちろん、理解不能でしょう。

 そうでなく、私は、大学のドイツ語教育と、大学のドイツ語文化教育の話を、直接に、しているのです。


 〔これに続く文章には 「知的所有権を主張いたします」 そうなので、直接引用は避けて、私なりに簡単にまとめると以下のようになる。 日本では社会の仕組みに対する概念的理解が低く、思想は概念的なものであるから、だから社会からすると思想が 「風が吹けば」 に見えるのだ。 それで日本の大学は有効性を発揮できないのである。 またそれは近代社会を作り上げた英仏独語に対する読解力養成に日本の大学が失敗してきたからだ。 これを変える必要がある。〕

ドイツのアビトゥーア、フランスのバカロレア相当の現代社会教養が、日本の多くの大学においては、身につかない制度となっております。

 少なくとも私自身は、状況全般に対して、身をもって思想的に対峙しているのであり、三浦さんの身近な劣悪な方々との類推ごときで、逃げだなどと仮にも言われるのは心外であり、少なくとも私に関しては撤回を要求します。また、前便では書きませんでしたが、私は、このようなアピールが力をもたない理由は、それがありきたりのものに終わっていて、思想的うらづけを欠いていることにあると思っています(むろん、そのさいの提言者は、それどころではない緊急事態なのだとか、大同のため小異を除外したゆえの無機性だとか、それこそ逃げるんでしょうけど)。私の「立場表明文」は、一般論としてでなく大学教師ならこのように考えて教育基本法改悪に反対すべきだという、思想をともなった文となっていますので、お読み直しください。さらにいえば、思想的うらづけだけでなく、シャープな攻撃性ということも、ほんらいアピールには必要なのに、この元アピール文にはたぶんそれがない(推測)がゆえに、効果がないのだ、とも思います。(一部、三浦さんに賛成。)(どこが?)

 ところで話題が変わりますが、三浦さんは、数年来のご自身の立場からして、大学第二外国語教育保持に特化し、それをものごとの中心として、あらゆる議論をなさっているようですが、独仏語教育および英語読解教育の保持というのは、一方で正しさが自明の議論であり文科省その他がその自明さに反して制度改悪を推し進めたようにも思えるにもかかわらず、ぞんがい、まともな共通認識がなされていないことがらであるようです。日本独文学会における、大学におけるドイツ語教育の意義について理論武装を固めるためのシンポジウム(私は出席しませんでした)の演題が、いかにも勢いがないのにも、それは感じられます(自明だというべきことの、自明さの内容が、たぶんまったく理解されてないと思われます)。

 私の大学はドイツ語専任3人(助教授の私と10歳ほど上の教授2人、第二外国語自体はそのほかにフランス語助教授が1人のみ)ですが、この教授2人は、ともに、当局に圧迫されたからでも常軌を逸して腰抜けであるからでも紳士的でないからでもなんでもなく、自分から「ドイツ語教育縮小論者」です。「われわれの、およびわれわれの定年後あとに残るあなたの、授業自体のやりやすさを、いちばんに考える方がいいのではないか」と彼らは言います。そして、自分たちの定年後には、そのポストを、中国語、韓国語、スペイン語あたりの教師で埋めるつもりでいます。各外国語をひとりの専任のみが担当してそのことにより学内での圧力をあらかじめ避け、、クラス数もできればフェードアウトさせ、ひまな授業をするのがいいとの説です。私が、英仏独語の特別な必要性を説いても、現代をとらえる眼ということにおいて切迫感がちがっていて、話をどうにかフォローはしてくれるようでいてしかしやはりほんとうは噛み合いません。このように、世の中には、いろんな考えのドイツ語教師が、どうもいるようです、よ。

(10) 24日午後3時、私は(8)と(9)への返答として以下の投稿を行った。

〔A氏の(8)対して〕

>>  (3) 教育基本法は,その対象として初等中等教育のみならず大学教育をも包含するものであることから,ドイツ語教育に関わるか否かにかかわらず,教育に関わる私たち全員に関係がある。

 そういう理屈をつけると、「大学教師である前に日本人である」 「日本人である前に人間である」 という理由で、いかなる問題提起も独文学会メーリングリストに載せていい、というふうになってしまうと私は申し上げている。それは独文学会メーリングリストの本来の目的に添わないものではないですか?

>> (4) 無為な議論をしている間に事は進んでいく。一昨日の桝添要一自民党議員(元大学人!)の質問とそれに対する伊吹文明大臣の答弁を聞いた方は,戦慄を覚えなかったでしょうか。
>>また大学人に関係ないとお考えの向きにはこの記事をご覧頂くことをお薦め します:
>>  http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20061021k0000e040067000c.html
>>
>> こうした「研修」のベクトルを決めるのが教育基本法です。

 基本的には(3)への上記レスで私の言いたいことは尽きているのですが、あえて余計なことを書きます。
 Aさんの議論は、独文学会員が或る程度自分と意見を共有するはずだ、という前提でなされています。そこがおかしい、と私は申し上げたい。こうした問題は、「問題」である以上、賛成する人もいれば反対する人もいる。そういう前提でなければものを言えないはずです。Aさんはそこがお分かりでない。私からすると、すごく不思議ですね。

>> (5) こうした議論をして真理を追究することは大学人の要件ですが,こうした議論が「教育に対する不当な介入」のための
>> 議論とされかねない教基法政府案は,共謀罪法案とパラレルであることを見逃してはまずいのです。
>>
>>  中学生に対する言論弾圧について:
>>
>>  http://www.stv.ne.jp/news/streamingWM/item/20061117182019/index.html
>>
>> (このニュース [札幌テレビ発] は全国レベルで伝えられていないと思われますので,消されないうちにぜひご覧下さい。)

 率直に申し上げます。子供の意見は子供の意見でしょう。変に抑圧するのは無論よくないと思いますが、変な大人だって世の中にはいるわけで、それを知ったという点でまことによい教育がなされたと私は思いますね。皮肉じゃないですよ。本気でそう思います。何か意見を言えば必ず圧力がかかるのは、ドイツ語教師内部だって同じことです。大事なのは、それに「傷つく」ことではなく、それを跳ね返す力をつけることです。

>> (6) 以上の考えから,話題提供をしたまでです。各大学,各部門で前向きに利用されるならば,このメイリングリストで提題した意味もあると考えます。

 繰り返します。ドイツ文化にもドイツ語にも直接関係ない議論を独文学会のメーリングリストに持ち出すのは不健全でしょう。
 私がこう申し上げるのは、こういう一般的な問題だけ持ち出して、もっと大事で直接ドイツ語・ドイツ文化教育に関わる問題は個人間でひそひそ話をして決定されたりしているのではないか、と考えるからでもあります。

〔C氏の(9)に対して〕

 >> 私の「立場表明」は、むろん大学人にたいしてに限ってのものですよ(初等中等教育の教員をすら、直接には無縁な他者であると
 >> 位置づけています)。それを、直接に「社会一般からは」なんて、まったくおかどちがいですよ、

 大学人からしても、ドイツ語教師以外であれば、Cさんの議論は「風が吹けば」でしょう。私が請け合います(笑)。

 >> 身をもって思想的に対峙しているのであり、三浦さんの身近な劣悪な方々との類推ごときで、逃げだなどと
 >> 仮にも言われるのは心外であり、少なくとも私に関しては撤回を要求します。

 細かいことを言って申し訳ないのですが、大学から交通費が出ない、というだけの理由で2年半前のシンポも欠席されたくらいですから、「身をもって」とは到底おっしゃれないのではないか、と思いますが。

 >> このように、世の中には、いろんな考えのドイツ語教師が、どうもいるようです、よ。

 ドイツ語の後釜を中国語・韓国語・スペイン語にする、というのは、私は反対じゃないですね。
 問題は、自分の後釜をあくまで語学教師で、という努力すらしない輩が多い、ということではないでしょうか。少なくとも私のところはそうですね。

 

 24日のやりとりはまだ続くが、すでに十分長い。 あとは次回更新時ということで・・・・。

11月26日(日) 朝、新潟市東体育館に出向き、石山地区卓球大会に出る。

 私はこの大会に出るのは初めてである。 H卓球クラブのM氏に要請されて参加したもの。 この種の地区卓球大会は、建前上はその地区の住民でやることになっているが、実際は市内の卓球愛好家が地区にこだわらずに参加する場合が多い。 人脈さえあれば、色々な地区の大会に出られるのである。 今回、私と一試合でペアを組んだ女性に尋ねたら、新発田市から来たとのこと。 人脈とは恐ろしいものだ。

 10人〜11人で1チームを作り、合計8チームがリーグ戦形式で総当たり、それぞれ5ダブルス (原則として男女のペア) で試合をして勝敗を決する方式。 私は7回試合をして5勝2敗でした。 わがチームも5勝2敗で、堂々 (?) 第3位。 

 この大会で面白いのは、第3位までトロフィーと賞状と賞品が出ること。 賞品はともかく、トロフィーまで出るのは珍しい。 といっても、1つだけだから、受け取ってすぐに返却しなくてはならない (ただし布にチーム構成員の名前を記してトロフィーに結んでおく。 だから3位のトロフィーには私の名前も記されたはずである)。 賞状も1枚だけだから代表者が預かる形となる。 しかし賞品だけは人数分あるので、一安心(笑)。

 もう一つ面白いのは、最初の開会式で地区スポーツ協会会長の挨拶があるのだが、開会式の最後に副会長の挨拶まであったこと。 会長はともかく、副会長まで挨拶をする大会は珍しい。 しかし幸い短い挨拶だったので、助かりました (笑)。

 このところドイツ文学者の○○○ぶりにうんざりしていたので、こうして半日卓球の試合に興じると気分転換になる。 私は50を過ぎてからめっきり体の動きが鈍くなっているのだが (若いときも運動神経は鈍かったけれど)、卓球というスポーツを若い頃からやっていてよかったと思えるのは、こういう時である。

 H卓球クラブの男性連は夕方から飲み会に行くそうで、私も誘われたのだが、明日の授業の下調べが残っていて夕刻から研究室にこもる予定だったので、断らざるを得なかった。 残念無念。 でもこれで、大学教師は世間の並みの男性より忙しいということが証明された、と思うのだ (笑)。

11月25日(土) 午後7時から新潟室内合奏団第52回演奏会をりゅーとぴあにて聴く。    本多優之指揮、羽柴累のヴァイオリンで、メンデルスゾーンの序曲 「美しいメルジーネ」、ブルッフのヴァイオリン協奏曲、シューマンの交響曲第4番。

 羽柴さん (女性) は新潟県出身で現在桐朋の大学院に行っているヴァイオリニスト。 今回の演奏会はいわば故郷に錦を飾るもの。 音の通りもまあまあだし、それなりのレベルではあった。 細部の詰めがもっとあれば、という気がしたが、今後の研鑽でまだ伸びるだろう。

 私はブルッフのこの曲はあまり好きではないのだが、以前、諏訪内晶子がチャイコフスキーコンクールに優勝して間もない頃に外国オケと一緒に新潟に来てこの曲をやったとき聴きに行き、それがまた、優勝の余勢を駆ってというべきか、水も漏らさぬ完璧な演奏だったので、どうしてもその印象と比較してしまうのである。 酷なのは分かっているのだが。

 今回の新潟室内合奏団の演奏自体は、全体的に質が高かったと思う。 京響より客の入りも良かったし、まずは満足できる一夜だったと言える。 この団体の今後の活動に対する期待が高まった一夜でもあった。

 

11月24日(金) 夕刻、「19世紀学学会」 の立ち上げ会合が新潟大学であった。 「19世紀学会」 ではない。 「19世紀学学会」 である。

 つまり、現代にまで通じている学問体系のもとは19世紀にあり、という認識をもとに、学問体系の創設や整備がいかなる事情において行われたのかを、専門領域を横断して研究していこう、という趣旨なのだ。 新潟大学の看板教授である鈴木佳秀先生らが中心になって設立が準備されたようだ。

 私はこういう会合にあまり熱心に出るタチではないが、鈴木先生からじきじきに出席依頼のメールが来て、他の教員ならともかく鈴木先生に頼まれるとさすがの私もなかなかイヤとは言えないので、出てみたわけである。

 記念講演として松本彰・人文学部教授が楽器クラヴィコードについての話をする。 講演の内容自体は以前に別の場所で聴いたことがあったが、この楽器の演奏も先生が自らしてみせて、なかなか面白かった。 すごく音が小さいのである。 しかしそこが、個人で弾いている分にはいい、ということらしい。

 会場には法学部や経済学部、教育人間科学部、さらには理系学部の方も見えており、この先もしかすると興味深い展開があるかもしれないな、と思った。

 *   *   *   *

 この日、ネット上で何人かの独文学者と激論をかわす羽目になったが、これについては次回ということで・・・・・

11月23日(木) 本日、毎日新聞と産経新聞に興味深い記事が載った。 一見別分野の話のように見えるが、私からすると共通の話題なのである。

 まず、毎日新聞の 「記者席」 には、木村健二記者による 「東京都立図書館司書の07年問題」 が載った。

 東京都立図書館には現在司書が136人いるが、そのうち半数の68人は55歳から60歳であり、今後5年以内に停年を迎える。 一部業務の民間委託などで司書の新規採用は02年度以降凍結されており、20代の司書は一人もいない。 しかし石原慎太郎都知事は、今どきオートマチックに本を借りられれば良いのだから人を採用する必要はない、ときわめて冷淡な態度をとっている。

 また、今年度の都立図書館の図書購入費は当初予算で2億円弱であり、10年前の半分以下になっている。 05年度には収集方針・選定基準に見合う図書のうち約6割しか購入できなかった。 こうした傾向は、日本の他の公立図書館にも見られる。

 これは、図書館の機能に地方公共団体の為政者が無知であるところから来ている。 図書館に必要な機能は、調べものを支援するレファレンス・システムであって、これはコンピュータの検索だけでは済まず、専門的な司書の助力を必要とするのだ。

 例えばニューヨーク市には専門分野別に4つの公共図書館、そして85の地域分館がある。 東京都立図書館は、日比谷、中央(港区)、立川の3つだけだ。 そしてニューヨーク市の研究図書館には1000人を超えるスタッフが勤めているという。

 木村健二記者はこうした例を引きながら、日本の公立図書館の先導的役割をはたすべき都立図書館の機能強化を訴えている。

 一方、産経新聞の 「明解要解」 欄には、大谷次郎記者による 「実現なるか大使館の増設」 が載った。

 現在日本はアフリカ53カ国のうち24カ国に大使館をおいているが、中国はほぼ倍に当たる46カ国に大使館をおいている。 中国がおかず日本がおいている国はない。 またアフリカの45カ国が中国に大使館をおいており、このうち11カ国は日本業務を兼ねている。 つまり日本は中国の支店扱いなのだ。

 外交力強化をめざす日本にとって、この状態は好ましいものではない。 国連の常任理事国入りを目指した時も、日本の示した案はアフリカ諸国などの反対にあって廃案になった。 

 外務省はそこで、今後10年間で職員の2000人増員と大使館の増設を訴えている。 しかし外務省職員への優遇が世論の批判を呼んでいること、国家公務員の削減が政府の方針になっていることもあり、財務省の査定は厳しい。 外務省職員増員や大使館の増設がなるかどうかは微妙だという。

 以上の記事を読んで、私は2つとも公の領域に人やカネを使うことの少ない日本の現状が浮き彫りになったと感じた。 以前にも書いたが、日本は公務員比率が先進国の中ではきわめて少ない国なのである。 それをさらに減らそうとしているのが現状なのだ。 そのひずみが、上の2つの問題にも露呈している。

 世界第2位の経済大国でありながら、知のセンターである図書館や、国際的な外交の基盤である大使館設置にカネを使うことの少ない日本。 無論、外交官の待遇が常識はずれに良すぎるなら是正措置はとらねばならないだろうが、「目の前にあってすぐ役立ちそうなこと」 以外の領域にカネを使う必要があるのだ、ということをもっと多くの日本人が理解すべきだろう。 一部マスコミの変な世論誘導に乗って、公務員を削減しさえすれば自分の暮らしが豊かになる、などとは思わない方がいい。 図書館や大使館などへの投資は、長い目で見れば自分たちの利益につながるのだから。

 そういう 「長い目」 を養う必要がある人は、今の大学人にも多いように思うのだがね。

11月21日(火) 午後7時からりゅーとぴあに京都市交響楽団演奏会を聴きに行く。 このオケは創立50周年になるのだそうで、その記念に日本全国のツァーが組まれ、新潟にも来演したもの。 

 指揮は常任の大友直人、前半は茂山狂言とのコラボで、チャイコフスキーの 「くるみ割り人形」 組曲、後半はマーラーの交響曲第1番。 アンコールにブラームスのハンガリー舞曲第1番。

 私は狂言に関する知識はゼロに近いのだが、環境問題を扱った創作狂言を見ても、うーん、こんなものかな、という印象。 知ったかぶりのご隠居と時々突っ込む熊さん (?) という落語にも見られるパターン。 笑いを取るなら今どきもっとスピーディにやらないとねえ。 新潟市民は思いやりがあるから (?) かなり笑っていたが、私はほとんど笑えなかった。

 前半から感じていたのだが、京響の演奏はおとなしい。 管楽器など人数は揃っているのに吠えない。弦 楽器もあまり張り出してこない。 といって底力を秘めた静かな重量感のようなものがあるわけでもない。 私はマーラーの 「巨人」 はあまり好きじゃないんだけれど、それを覆してくれるような表現力があったかというと、疑問。 無難な演奏、というにとどまっていたように思う。

 京響のコンマスは2人で、2人とも演奏会に出ていた。 その一人が、昨年度まで東京のコンマスをしていたニキティンさん。 彼は今年度から京響に移り、東響のゲストコンマスでもあるのだが新潟の演奏会には出ていない。 というわけで久しぶりだねえ、という感じでした。

 客の入りは非常に悪く、1階席は左右両端はがら空き、2階のCも同様。 私は2階Bブロック最前列 (Aランク席) で聴いたのであるが、BとDもぱらぱらであった。 そして 「聴きに来ればよかったのに、損したね」 と来なかった人に言えるような演奏会ではなかったのが、残念。

11月19日(日) 午後5時から東京交響楽団第39回新潟定期演奏会を聴きにりゅーとぴあに行く。 指揮はマルク・ピオレ、ソプラノが森麻季、テノールが佐野成宏、合唱がにいがた東響コーラス、ゲスト・コンサートマスターが石田泰尚。

 前半はモーツァルトの交響曲第25番。 いつもの東響の美しい音でのト短調モーツァルト。 過不足ない演奏。 テンポも速すぎず遅すぎず黄金の中庸といったところか。

 後半はヴェルディのオペラ4曲――『アイーダ』『リゴレット』『ナブッコ』『椿姫』――からアリアや合唱曲を選んでのステージ。 森麻季さんは何度も東響と共演していて新潟でもおなじみだが、途中で衣裳を変える早業 (?) を見せたりして、むろん外見に劣らず声の魅力もそれなりのものがあり、なかなか良かったのであるが、今回特筆すべきはテノールの佐野成宏さんであろう。 いい日本人テノールは少ないと聞くけれど、いやあ、こんなに素晴らしい人がいるじゃないですか、と叫びたくなるほどよく通る美声を披露してくれ、会場はおおいに盛り上がった。 おかげでNBSも出番が多かったよう。 (NBS=ニイガタ・ブラヴォー・ソサイエティの略〔笑〕)

 ただ、こういうふうにいくつものオペラの一部をぶつ切りにして並べる演奏会は、私にはちょっと違和感がある。 何度も歌手や指揮者が出入りして音楽が細切れになり、なんとなく感興をそぐように思われるのだ。 せめて2作品くらいにしぼって、その中で或る程度連続性のある場面を演じることはできなかったのだろうか。

 佐野氏にはその実力を遺憾なく発揮できるような形式の音楽会で、是非またご登場いただきたいものである。

11月18日(土) 夕刻、富山県の入善コスモホールにワディム・レーピンのリサイタルを聴きに行く。 ピアノ伴奏はイタマール・ゴラン。

 それにしても入善は遠い。 新潟から200キロ。 高速料金も高い。 片道4200円 (巻潟東から)。 自分のクルマに自分でガソリンを入れて自分で運転していくのになんでこんなに高額なのか。 おまけにプリペイドカードの割引もなくなったし、けしからん! 立腹の余り、行きは糸魚川で降りて550円節約。 しかしパンフを500円で買ったから相殺かな (笑)。

 閑話休題。 プログラムは、前半がヤナーチェクのソナタとブラームスのソナタ第3番、後半がグリーグのソナタ第3番とショーソンの詩曲、それにワックスマンのカルメン幻想曲。

 非常に重量感のあるプログラムだが、どれもそれなりに面白かった。 技巧の安定は言うまでもないけれど、切り込みもそれなりにあり、しかもそれが小手先の解釈ではなく曲の特性に対する読み込みに裏打ちされているようで、安心しながらも興味深く聴けた。 ゴランの伴奏も、伴奏の域を大きく越えた独自の表現に達しており、文字通り丁々発止という印象がある。

 アンコールでは、ブラームスのハンガリー舞曲第7番とグラナドスのスペイン舞曲のあと、3曲目にツィゴイネルワイゼンをやったので、聴衆は大いに沸いた。 この曲の後半はご存じのようにテンポが速くなるけれど、そこではレーピンの弾くスピードにゴランがやっとついていくといった感じで、演奏会の締めくくりとして申し分のないものだったと言えるだろう。

 たった一つ難を挙げれば、それはレーピンの音色。 ロシア人男性で体もそれ相応なので音も大きいのだろうという先入観を持っていたが、さほどではないのだ。 しかし音量不足と言うほどではない。 問題は音の色。

 好みの問題なのだが、どうも私の好みではない。 私が好きなのは芯があってつやを帯びた音色で、スターンだとかズーカーマンだとかがそういう音の持ち主である (だった) が、レーピンの音はいかにも弓で弾いているという感触が濃厚で、あまり張り出さないし、高音の美しさもさほどではない。 パンフによると使用楽器はグァルネリウスで、グァルネリウスと言えばスターンやズーカーマンの使用楽器でもあるので、なるほど、同一制作者による楽器でも弾き手によってだいぶ違いがあるのだな、と思う。

 もっともホールの特性にもよるかも。 このホールは (同規模の新潟市音楽文化会館と違って) 音が拡散するようだ。 かなり前にアンドラーシュ・シフの演奏会があった時もそんな印象だったかな。

 7時開演でアンコールを3曲やって演奏会が終わったのが9時15分。 やっぱりこのくらい聴かないと聴いた気がしない。 (それに、レーピンは楽章間をほとんど空けずに演奏する。 ブラームスでは第1楽章と第2楽章、第3楽章と第4楽章の間は構えを解かずにほぼ連続して演奏したし、第2楽章と第3楽章の間は構えを解いたがほんの数秒だった。) 日本人ヴァイオリニストは、体力のせいもあるのか、リサイタルと言ってもアンコールを入れても2時間に達しない人が多いし、ひどいのになると1時間40分くらいで終わってしまったりする。 レーピンを見習って欲しいものである。

 入りはよくなかった。 200人に少し足りない程度か。 入善コスモホールは収容人員で言うと新潟市の音楽文化会館程度なので、半分入っていなかったことになる。 うーん、レーピンなのにこんなものかなあ、って感じ。 でもお客の質は非常に高いと思った。

 終演後サイン会もあり、パンフにサインしてもらって満足して帰途についた。

 *     *     *     *

 ところで、本日は独文学会北陸支部の研究発表会が福井市で行われる日でもあった。

 実は、行ってみようかとも思ったのだが、福井は遠く、日帰りで自分一人で運転して往復するのはきつい。(新潟−福井間は、新潟−東京間より数十キロ長い。) またレーピンの演奏会を聴こうとすると途中で退席しなくてはならなくなる。 それで、やめにした。

 北陸支部は、福井・石川・富山・新潟の4県で構成されているが、今回、新潟からは発表者がなかった。 他の3県ではあったのに。

 本来、各県から1名ずつ発表者を出すのが建前で、各県の責任者は発表者を見つけるべく努力することになっているはずだが、新潟県の責任者は何をやっていたのだろう? 例えば、県内の会員一人一人に発表しませんかと打診してみるくらいのことはすべきなのに、少なくとも私にはまったく打診がなかった。

 この辺にも、教養部解体後、新潟大学のドイツ文学者が相当いい加減になっている状況がうかがえるように思う。 北陸4県で最も人口の多い新潟県でありながら、発表者がいなかったのは、恥ずかしいことではないか。

11月15日(水) 本日は1限に授業があるほか、午後1時から会議が入っているがこれは短時間で終わる予定だったので、自分の仕事ができるかと期待していたら、こういう日に限って体調が悪い。

 1限に講義をやっている時からどことなくおかしかったのだが、終えて研究室に戻ってきたら胃が痛み出した。 多分、風邪だろう。 ここ数日急激に寒くなったきたことだし。 最近の風邪は昔と違って内臓に来るので、始末が悪い。 というわけで、仕事ははかどりませんでした。

 こういう時は能動的な仕事ができないので、受動的に本を読んで過ごすしかないが、たまたま送られてきた独文学会雑誌に面白い文章が載っていたので、ここで簡単に紹介しておきたい。 ドイツ文学の学会誌なんていうと、普通の人の興味を惹くような文章はまず載らないものだが――載らないから悪いという意味ではないので、念のため――例外はあるものだ。

 論文ではなく 「研究ノート」 という名目で掲載された岡山商大助教授・香月恵里さんの 『「空襲と文学」 論争について』 という一文である。

 第二次大戦末期、ドイツは原爆こそ落とされなかったものの、連合軍の空爆によって一般市民が多数殺戮され、中でもドレスデンへの空爆は被害甚大であった。 そのために死んだドイツ人たちのことを戦後のドイツ作家は果たしてきちんと作品に残そうとしてきたのか、彼らの喪にドイツ人は十分に服してきたのか、という問題提起を、英国に在住していたドイツ人作家W・G・ゼーバルト (1944−2001) が行ったのは1997年のことであった。

 これを契機としてドイツでは 「空襲と文学」 論争が起こり、それは99年に本の形でまとめられた。 さらにそれを出発点として、雑誌編集者ハーゲが、空襲が戦後ドイツ文学にあまり取り上げられなかったというゼーバルトのテーゼが正しいかどうかを含め、かなりつっこんだ調査を行っている。 そして空爆という体験が果たして文学で取り上げるに適した題材なのかなど、さまざまな側面からゼーバルトのテーゼの是非が検討されている。 そしてその議論は、そもそも文学とは何か、手記や日記との違いはどこにあるのか、というところにまで及んでいる。

 戦後ドイツ文学の事情に詳しいわけでもない普通の日本人が思いつきやすい理由は、言うまでもなくドイツの戦後処理との関連であろう。 ナチによる犯罪行為によって戦後のドイツは贖罪意識を前面に押し出して他国との付き合いを行わなければならなかったし、それは文学者の姿勢にも影響を及ぼしている。 先日問題になったギュンター・グラスにしても、言うならばそういう戦後ドイツ文学の申し子として生きてきたのである。

 香月さんの文章は無論そうした側面にも触れている。 ゼーバルトの問題提起がドイツではなくスイスでなされたことをも含め、彼が戦後ドイツのタブーに挑戦していると述べている。

 香月さんの文章は触れていないが、ギュンター・グラスですら (と言うべきか)、比較的最近はその作品のなかで、第二次大戦中に連合軍の不法行為で被害を受けたドイツ人を取り上げているのである。 つまり、戦後60年を経て、ようやく一種のタブーが破られ、文学の中で第二次大戦を複合的に捉えようとする動きが明確になってきた、ということだ。

 「連合国=正義、枢軸国=悪」、という単純な図式はもう通用しなくなっている。 そういう固定的な図式にしがみついているのは、一部の教条左翼だけだろう。 無論だからといって枢軸国側の犯罪行為が免罪されるわけではないが、戦争とは複雑なものなのであって、そうした複雑さを、単純な図式化を避けながら認識して行くべき段階に入っているのだ。

 今回の香月さんの文章は、こうした動向の一部分に光を当てている点で、小さからぬ意義を持っているし、ドイツ文学者以外の日本人にも読まれて然るべきものと思う。 なお、掲載誌は日本独文学会発行 『ドイツ文学 130号 (Band5/Heft2)』(2006) である。

11月14日(火) 午後6時30分から、新潟県民会館でキエフオペラの 「トゥーランドット」 公演を聴く。 席は1階4列目の左端。 伊勢丹で買ったのだが、こんな席しか残っていなかったのである。 しかし思ったほどひどくはなかった。 ハープを弾いている奏者の様子がよく分かったし。

  あいにくの天気だったが、入りは悪くなかったよう。 やはりこの演目は新潟市では珍しいからということか。

 このオペラ、生で接するのは初めてなのだが、主役たちとコーラスとの掛け合いが、眼前で見ていると迫力である。 歌手にはとびきりすごいというほどの人はいなかったようだが、トゥーランドット役のリジヤ・ザビリャスタの気品ある声、リュー役のリリア・フレヴツォヴァの情感の籠もった歌は、なかなかのものだった。

 それに比べると男性歌手はわずかながら劣る印象。 「ひどい」 と言うほどではないけれど、合唱やオケと一緒に歌う場面ではやや声の通りに問題がありそう。 それとカラフ役は、どう見ても冴えない中年男で、王子様の感じが全然しないのも難点か。

11月13日(月) 授業で必要があって、少し前からシューベルトの交響曲ハ長調D.944の楽譜を探していたのだが、新潟大学では所蔵していないので、仕方なく本日夕刻、街に出る用事があったついでにヤマハの新潟支店に寄って購入する。 2625円也。 無論、自分のカネで買ったのである。

 授業での必要性というのは、私はクラシック音楽評論を扱う授業をやっており、そこにこの曲が出てくるから、ということである。 無論、本格的な楽曲分析なんかしない――というか私にそんなことができるわけがない――軟弱な授業なのだが、時々楽譜を見る必要性が出てきたりもするのである。

 シューベルトの交響曲ハ長調は、俗に 「グレイト」 と言われる大曲で、彼の交響曲を代表する傑作であるのみならず、古今東西の交響曲の中でも名曲として知られている。 何でその楽譜が新潟大学にないのか???

 実は、最初はこのくらい当然あるだろうと思いこんでいたのである。 ところが学内の図書検索システムで調べたら、ないのだ。 しかし検索システムもアテにならない場合があるので、念のために教育人間科学部の音楽科の先生に訊いてみたのだが、やはりないのである。

 新潟大学の教育人間科学部には音楽科があるのみならず、普通の教育学部での音楽教員養成課程より専門的な、音大に近いことをやる特別音楽科も設けられており、芸大や音大を出られた音楽専門の先生方が何人も勤務しておられるのである。 なのに、この大傑作でクラシックファンなら誰でも知っている有名な交響曲の楽譜を備えていないのである。 これは言うならば、英文科があるのにシェイクスピア全集を備えていない大学みたいなものではないか!?

 教育人間科学部の先生にものを尋ねておいてこういうことを書くのも気が引けるが、ふだん思っていることなので、この際書いてしまう。 これは音楽科の先生だけでなく、文系の教師についても日頃から感じていることだが、どうも新潟大学の文系 (音楽も文系ということにしておく) 大学教師には大学たるもの自分の専門領域に関わる基礎文献を幅広く揃えておかねばならないという意識に欠けている人が少なくないようなのだ。 自分がすぐ直接利用する本しか買わない人が割りにいる、ということである。

 私がクラシック音楽評論を扱う授業はここ数年毎年やっているが――その都度扱う評論は変えているけど――そのため大学の中央図書館に音楽関係の文献が揃っているかどうか、注意を払うようになった。 するとすぐに分かってしまったのだが、揃っていないのである。 西洋クラシック音楽社会史の何巻本かのシリーズ本なんかも入っていないので、私が入れるようにしたのである。

 最近はクラシック音楽関係本の出版も増えている。 作曲家のみならず、演奏家に関する書物も少なからず出ている。 そういった本が、新潟大学の図書館にはさっぱり揃っていないのである。 学生時代に音楽を専攻したわけでもない素人音楽ファンである私が、何でそういう本を図書館に入れる役目を担わなければならないのだ!!??

 新潟大学には、最近の 「大学改革」 で、学長裁量経費なるものが設定されている。 新潟大学の個性を打ち出すためにまとめて何か買うときに使うように、という趣旨らしいが、昨年この経費で、教育人間科学部はスタインウェイのピアノを購入したのである。 スタインウェイは言うまでもなくベーゼンドルファーなどと並んで世界的に有名なピアノメーカーだ。

 ところが、である。 このピアノ、フルサイズではない。 つまりコンサートホールなどにあるサイズのピアノではなく、もっと小さいサイズなのである。 学長裁量経費ではフルサイズを買う額に達しなかったので、ミニサイズにしたらしい。

 ミニサイズでは新潟大学の個性を打ち出すどころの話ではあるまい。 それに、楽器というのは然るべきホールがあって初めて威力を発揮できるものだけれど、新潟大学には音楽専用のホールすらないのである。

 つまり、私に言わせれば、無駄な買い物、と言うしかないのだ。 学長裁量経費で買ったのだから、そういうことが学長に分かっていないところにも問題がある。 学長が指導力を発揮すれば大学改革はうまくいくなんてのは大間違い、という良い例だろう。

 そもそも、今の新潟市には良いホールがいくつかあるし、そこにはフルサイズのスタインウェイやベーゼンドルファーが備え付けられている。 何も新潟大学がなけなしのカネをはたいてミニサイズの楽器を買わずとも、必要なら市内のホールに出かけていってフルサイズの名器を弾けばいいのだ。

 そこで話は最初に戻る。 私なら、学長裁量経費でミニサイズのピアノを買ったりせずに、クラシック音楽の主要楽曲の楽譜を一通り揃えるだろう。 シューベルトのハ長調交響曲の楽譜も備えていないで音楽科を名乗っていられること自体、私には不思議で仕方がない。 そして、こういう不思議さは、音楽科だけの問題ではないのである。

 新潟市はまもなく政令指定都市になるけれど、新潟大学が政令指定都市の知的センターたり得るかどうかは、こういう部分に目が行き届くかどうかにもかかっている、と私は思う。 

11月10日(金) 午後7時から音楽文化会館で上海カルテットの演奏会。 この日は、隣接するりゅーとぴあ (新潟市民芸術文化会館) でフジコ・ヘミング+モスクワ・フィルの演奏会もあって、そのせいか入りが悪い。 550人定員のホールに集まった客は100人いたかどうか。 改めて新潟市の室内楽ファンは層が薄いなと実感してしまう。

 上海カルテットは、1983年に上海音楽院で結成され、40代前半の奏者を中心とした比較的若い演奏団体である。 第一ヴァイオリンとヴィオラが兄弟で、ここを中心に動いているようだ。

 プログラムは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第6番、イーウェン・ジャン編曲: "China Song" より 〈ヤオ・ダンス〉〈牧歌〉〈収穫祭〉、ブラームスの弦楽四重奏曲第1番。

 客の入りは悪かったが、演奏には好印象を持った。 第1ヴァイオリンの音がよく通り (私は第1ヴァイオリンが弱いカルテット―― 例えばハーゲン――を好まない)、その他のメンバーもしっかりした音を出していて、若さがいい意味で発揮されている。 したがって、最初のベートーヴェンがこの団体に一番合っているように感じられた。 ブラームスではもう少し練れているところが欲しかったかな。

 アンコールとして、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第5番の最終楽章、そしてハイドンの弦楽四重奏曲op.74-3 「騎士」 最終楽章が演奏された。

11月4日(土) 午後3時からりゅーとぴあでヴェルニゲローデ合唱団の演奏会を聴いた。 ヴェルニゲローデは、チラシによると旧東ドイツのハルツ山麓にある小都市で、この団体はそこの音楽高校の生徒の選抜メンバーによる合唱団だとのこと。

 りゅーとぴあのホールは、1階席と2階のB・C・Dブロックだけに客を入れていたが、入りはまあまあといったところか。

 普通のクラシックコンサートと違い、民謡を次から次への歌うプログラムのためか、雰囲気もリラックスしており、アットホームな演奏会だった。 その一方で、ピアノ伴奏付きでよりアカペラでの歌唱が多かったのは、実力の表れと言えるかも。

 正規のプログラムとして二十数曲を歌った後、団員の一部が1階席の最後尾に移って、こだまを模した曲 (ラッソーの 「こだま」 だそう) を披露し、最後はまた全員舞台に集まって 「里の秋」 を日本語で歌ってお開きになったが、なかなか盛り上げ方が上手である。

 私も満足したので、CDを買って帰途についた。

 パンフによると、この合唱団の日本公演は新潟が最後で、しかも公演地は東京と千葉・横須賀・那須など首都圏や関東に限られており、新潟だけがいわば例外だったようだ。

11月2日(木) 午前中、上野の西洋美術館にベルギー王立美術館展を見に行く。 ブリューゲルやルーベンスから現代美術に至るまで、様々な絵画が並んでいる。

 ブリューゲルの有名な 「イカロスの墜落」 も来ていたが、画面が思っていた以上に明るく、光の絵画、と言いたくなるような作品であった。

 他に、大型のキャンバスに細かいところまでびっしり書き込んだ風景画などに感心する。 最近の私は、こういう、オーソドックスで綿密な絵画に惹かれている。 いわゆる近代的な 「芸術性」 を前面に押し出した絵画にはあまり興味が湧かない。

 しかし気に入った絵画は絵葉書で出ていないので、仕方なくカタログを買って会場をあとにした。 このあと渋谷で映画を二本見る予定だったので、常設展を見るヒマがなかったのは残念。

 夕方、映画の後、新潟行きの新幹線に乗る前に東京駅前の八重洲書房を見て回る。 やはりこういう特大の書店ではいくつも発見がある。 新潟市にも来春ジュンク堂がオープンするとのこと。 新潟の書物事情も少しはマシになるだろうか。 

11月1日(水) 夜7時からサントリーホールで、NHK交響楽団第1580回定期演奏会を聴く。

 といってもチケットは買っておらず、「チケットがなくても当日会場に行けば何とかなる」 の諺 (?) を信じて開演1時間余り前に行ったら、「当日券はありません。 ただし直前にチケットが出る可能性もありますので、希望者には整理券を発行しています。 整理券を持って開演20分前においでください」 の張り紙が。 番号 「9」 の整理券をもらって近くの店でジュースを飲みながら本を読んで時間をつぶし、指定された時間に行ったら首尾良くS席が手に入る。 1階5列目やや右よりの席。

 サー・ロジャー・ノリントンの指揮で、エルガーの 「ロンドンの下町」 序曲、エルガーのチェロ協奏曲、モーツァルトの交響曲第39番というプログラム。

 エルガーの最初の序曲は全然知らない曲で、なるほど、こういう曲をエルガーは書いていたのか、と思うにとどまった。

 次の協奏曲だが、独奏者は石坂団十郎という歌舞伎役者みたいな名前の日独混血青年。 父が日本人なので日本的な名前なのだが、長身で、顔立ちもドイツの血の方が濃さそうな印象。

 さて、肝心の演奏だけれども、音色が独特。 よく言えば明るい、悪く言うとチャルメラみたいな感じ。 重厚さや密度があまりない。 音の通りもイマイチ。 席が前すぎるからかとも思ったが、2年前の6月、同じサントリーホールで東響定期を聴いたとき、エンリコ・ディンドがプロコフィエフのチェロ協奏曲第2番を弾いて、私の席は――東響新潟定期会員の特権のタダ券だったので仕方がないが――1列目の右端近くという悪条件だったのに、チェロの音が実に朗々と響いていたのを想起すると、やはり物足りないと言わざるを得ない。

 石坂はそれでも、アンコールに応えて、私の知らない現代曲を演奏した。

 メインのモーツァルトは曲の性格を実に見事に表現した快活な演奏。 ノリントンの指揮も、身振りが大きいが、いわゆる力演型ではなく、一緒に音楽を楽しもうと聴衆に呼びかけているようで、時としてユーモラスですらあり、なるほどこんな指揮もあるんだなあ、と感心してしまった。

 

 

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