音楽雑記2010年(1)                           

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   音楽雑記2010年の5月2日から8月末日まではこちらを、9月以降はこちらをごらん下さい。

 

4月30日(金)、5月1日(土)    *ラ・フォル・ジュルネ新潟

 この2日間は新潟市でラ・フォル・ジュルネが開催された。 2日間まとめてレポートしておこう。

 ラ・フォル・ジュルネはフランス語で 「熱狂の日」 の意味。 フランスのナント市で1995年以来開催されているクラシック音楽の祭典である。 通常のクラシック演奏会より時間が短くて、その代わり料金は格安、そして一流演奏家が多数出演する形式の演奏会だ。

 日本では東京で2005年以来開催されているのを始め、金沢市でも2008年から行われている。 そして今回、ついに新潟市での開催となった。 新潟市とナント市が姉妹都市という縁もあってのことである。 演奏時間は30分〜1時間。 料金は1500〜2500円に収まる。 会場は6会場。

 私は今回、毎日3公演、つまり合計6公演を聴いた。

 1日目は午後2時45分開演のリチュルカール・コンソート【112】、それから午後5時15分開演のアンヌ・ケフェレック【113】、午後6時45分開演のウィスペルウェイ【132】。
 2日目は午前10時15分開演のウィスペルウェイ【231】から始めて、午後3時15分開演のアンタイ兄弟のバッハ【253】、午後5時30分開演のウィスペルウェイ【234】。

 各プログラムは下記の通り。

 【112】 リチュルカール・コンサート (フィリップ・ピエルロ指揮、リチュルカール・コンソート、マリア・ケオハネ〔ソプラノ〕、マルク・アンタイ〔フラウト・トラヴェルソ〕、ギイ・フェルベール〔トランペット〕) 《りゅーとぴあ・コンサートホール》
 バッハ: 管弦楽組曲第2番、
 バッハ: カンタータ第51番「すべての人よ歓呼して神を迎えよ」

 【113】 アンヌ・ケフェレック 〔ピアノ独奏〕 《りゅーとぴあ・コンサートホール》
 ヘンデル: パッサカリア(クラヴサン組曲第1集 第7組曲 HWV432より)
 バッハ(ブゾーニ編): 前奏曲(コラール「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」BWV659aより)
 ショパン: ノクターン ト短調 op. 15-3
 バッハ(ヘス編): 主よ、人の望みの喜びよ(コラール「心と口と行いと命もて」BWV147より)
 ヘンデル: シャコンヌ ト長調 HWV435
 ショパン: ノクターン ト短調 op. 37-1
 ショパン: バラード第4番 ヘ短調 op. 52
 (アンコール)
 ショパン: 幻想即興曲

 【132】 ピーター・ウィスペルウェイ 〔チェロ独奏〕 《りゅーとぴあ・能楽堂》
 バッハ: 無伴奏チェロ組曲第1番、第2番

 【231】 ピーター・ウィスペルウェイ 〔チェロ独奏〕 《りゅーとぴあ・能楽堂》
 バッハ: 無伴奏チェロ組曲第3番、第4番

 【253】 マルク・アンタイ〔フラウト・トラヴェルソ〕、ライナー・ツィパーリング〔チェロ〕、ピエール・アンタイ〔チェンバロ〕 《燕喜館》
 バッハ: フルートと通奏低音のためのソナタ ホ長調 BWV1035
 バッハ: 無伴奏フルート・ソナタ イ短調 BWV1013
 バッハ: フルートとチェンバロのためのソナタ ロ短調 BWV1030

 【234】 ピーター・ウィスペルウェイ 〔チェロ独奏〕 《りゅーとぴあ・能楽堂》
 バッハ: 無伴奏チェロ組曲第5番、第6番
(アンコール)バッハ: 無伴奏チェロ組曲のなかの1楽章


 中でも良かったのはウェイスペルウェイのバッハ無伴奏チェロ組曲連続演奏会と、アンタイ兄弟によるバッハ・フルートソナタ演奏会であった。 ウィスペルウェイは3回とも別々の場所で聴いて、それぞれ微妙に音が違っていた。正面中ほどで聴いた2回目が一番チェロらしい音色、脇4列目で聴いた3回目が生々しい音になっていたように思われた。 なお、1回目には篠田市長、3回目には枝並千花さんも来ておられた。 枝並さんは、帰りにロビーで私のすぐ脇を歩いておられたので気づいたのだが、背が高い!

 ウィスペルウェイの3回目の演奏会ではバッハ無伴奏チェロ組曲第6番の途中で地震があり、聴衆からは悲鳴も漏れたが、ウェスペルウェイ自身はいささかも動じることなく演奏を続け、その楽章が終わってからちょっとユーモラスな動作をしてみせて聴衆からは笑い声も聞こえた。 さすが一流の演奏家は違うなあ、と感心してしまった。 なお、バッハの無伴奏チェロ組曲を3回で全部弾く連続演奏会でこの第3回だけアンコールがあった (チェロ組曲のなかの一楽章)。

 アンタイの古楽器によるフルートは、最初はいかにも昔の楽器だなと思わせる音で、私が遠い昔に小学校の音楽の時間でリコーダを習ったことなどを思い出したが、プログラムが進むにつれて音が洗練されていき、ああフルートだなあとしみじみ実感してしまった。 茶会に使う和室での演奏で、会場の雰囲気も悪くないが、座布団はもう少し前後左右を空けておいて欲しい。 カバンを置くスペースがなくて膝の上に乗せざるを得なかったし、あぐらをかくと隣の人と足が触れてしまうのである。

 ケフェレックは、もう60歳を過ぎているはずだが、ちょっと乙女ちっくな服装で登場。 フランス女性ならではか。 演奏は全体的にさらりとしていて、まあ曲目のせいもあるが、いいんだけれど腹にずしりと来るものではない。 ドイツ古典派がプログラムに入っていたらまた印象も違っていただろう。

 リチュルカール・コンソートは、古楽器での演奏のせいか、やや音量に難がある感じ。 もっともカンタータでは元気のいい女声のせいで盛り返したような気持ちになったけれど。 

 2日目のアンタイ兄弟の演奏会の後、お腹が空いたので、せっかく屋台もでているんだしと思って音楽文化会館前の屋台に行って軽く食べていたら、篠田市長が来られ、屋台をやっている人たちに声をかけておられた。 市長もなかなか大変ではある。

 一つ注文だが、ケフェレックの演奏会で、私の隣席にすわったおばさん二人がJTBという文字の入ったポリエチレンの袋を持っていた。 推測するに、 JTBがLFJのパックツァーか何かを企画して、パンフ類などの入った袋を渡したのではないだろうか。 しかし、クラシックの演奏会にポリエチレンの袋が禁物なのは、クラシックファンなら常識。 案の定、おばさんは膝の上に袋を置き、そのせいでチリチリという音が出ていた。 もし来年もLFJをやるなら、主催者はJTBに対してこの点で注意をしておくべきだと思う。

 まあ、何にせよ大変な盛会であり、地元の演奏家の出演もあったし、ヴォランティアの方々の活動もあった。 新潟での初めてのラ・フォル・ジュルネは大成功だったと言えるだろう。 

4月29日(木)     *横田めぐみさんの同級生によるチャリティーコンサート  

 本日は午後2時から、新潟県民会館の小ホールで行われた標記の演奏会に出かけた。 当日券で2500円。

 演奏するのはヴァイオリニストの吉田直矢氏とピアニストの河崎恵さん。 吉田氏は新潟市で育ち、横田めぐみさんと同じ学校で同じ学年だった方である。 このコンサートは拉致問題解決に向け、めぐみさんの同級生の方々が力を合わせて開催にこぎ着けたものだ。 ホールは約9割の入り。 中学1年のめぐみさんが拉致されてすでに32年余りがたち、同級生も四十代になっており、時間の流れが感じられる。

 まず吉田氏の導入スピーチの後、めぐみさんのお父さん横田滋氏より、拉致問題の概説と近況報告があった。 お母さんの早紀江さんは体調がすぐれずご欠席だったが、このイベントに寄せた文章がめぐみさんの同級生であった女性により朗読紹介された。 そのあとが演奏会。

 プニャーニ: ラルゴ・エスプレッシーヴォ
 スコットランド民謡: ジョニーがいなくて・・・
 ピアソラ: リベルタンゴ
 ラヴェル: ボレロ
 ドルドラ(編): カルメン幻想曲
 チャップリン: エターナリ
 (休憩)
 黒人霊歌: アメージング・グレース
 カッチーニ: アヴェ・マリア
 バッハ: シャコンヌ
 ディニーク: ひばり
 岩淵まこと: コスモスのように
 岡野真一: 故郷
 サラサーテ: ツィゴイナーワイゼン
 (アンコール)
 バッジーニ: 妖精の踊り

 吉田氏の活動についてはこのコンサートに臨むまでまったく知らなかったが、桐朋学園大卒後パリのエコール・ノルマル留学という経歴で、伝統的なクラシックの枠を守るのではなく、ポピュラーなどとの融合によって新しい感覚の音楽を作り出していこうという方向性での活動をしているようである。

 特に前半は、体も四方八方に動かして、足で床をたたいて拍子をとるなど、上記のような吉田氏の活動を明瞭に打ち出した演奏になっていた。 ラヴェルのボレロをヴァイオリンとピアノで聴いたのは私は初めてだったが、原曲を半分に縮めての2人だけの演奏なのに結構迫力があった。

 後半は身体的表現はやや押さえて、曲ごとに抒情性のある、或いは集中力のある演奏を心がけていたようである。 最後のツィゴイナーワイゼンでは、熱演のあまり途中で弦が切れてしまい、演奏を中断して控え室にある予備用の楽器と交換して演奏を途中から再開する一幕もあった。 熱演が弦を切ったように、ご両親や同級生、そして演奏会に集まった客たちの熱意が北朝鮮の抑圧的体制を破壊するようであってほしいと感じた。

 アンコールの後、会場に来ていためぐみさんの同級生が全員舞台に上り、横田滋氏に演奏会の収益金を贈呈した。このほか、ホールに設けられた募金箱にもそれなりの寄付が寄せられていた (私もごくわずかだが協力させていただいた)。

 拉致事件の一日も早い解決をお祈り申し上げます。

4月27日(火)     *師・小栗浩(著)『北窓集 一独文学者の感想』(同学社、\1800+税)

 私の師である小栗浩先生が、これまでに書かれた短文を集めた本を出版された。

 小栗先生は1920年生まれ、東京大学独文科を卒業されたあと、旧制松本高校、北海道大学独文科、東北大学独文科、日本大学独文科で教鞭をとられた。 私が教わったのは先生が東北大教授だった時代のうち1973年から80年まで、私が教養課程を終えて専門課程(3年生)に進学してから、大学院修士課程をへて博士課程を1年ちょっとで中退し、約2年間独文科助手を務めた時代までの、合計約7年間である。

 ここに収められているのは主として札幌時代や仙台時代に書かれた文章だが、内容的には先生が旧制高校生として過ごされた弘前時代や初めて教師として赴任された松本時代をも含んでいる。 書き下ろしではなく、これまで新聞や業界雑誌に折に触れて寄稿された文章を集めたものだ。

 師をほめるのはいけない、とどこかで読んだ記憶があるので、ここでは内容については上記のような大ざっぱな紹介にとどめたい。 ただ一つ言えるのは、こういうドイツ文学者の回想録的な本は今後はあまり出なくなるだろうし、特に戦前に大学の独文科を卒業した世代の人はすでにほとんど存命していないので、その意味でも貴重な記録と言えるだろうということである。

4月26日(月)     *森をなくす新潟大学

 最近ちょっと気になっていることがあるのでここに記しておく。

 このところ、新潟大学構内にある森林、というのも大げさだが、植えられている木をまとめて切ってしまう動きが顕在化している。

 少し前、大学の正門脇にあった何本もの木が切り倒されたのがいい例である。 どうするのかと思ったら、通りから歩行者や自転車が入れる門を新しく設けたのである。 お陰で、もともとは木々に囲まれた落ち着いた空間だったのが、通りから大学構内が丸見えの、のっぺりした空間に変わってしまった。 通りから歩行者が近道して大学に入れる通路を作ること自体は悪くないと思うが、もう少し木を残して、樹木の間を落ち着いた気分で歩けるような作りにできなかったものか。

 それと、木を切ったのに合わせて、正門前のバス停の待合室を作り替えたのだが、どうも改悪としか思えない。 もともとはコンクリートで天井と三方を囲んだがっちりした作りであった。 それが、今回はスケスケのプラスチック板で、おまけにバス通りに面した側が開いているだけでなく、脇の西側も大きく開いているのである。 作った側は通りからの入口を付けたつもりかもしれないが、新潟ではしばしば北西からの強い風が雨や雪を伴って吹くことを忘れているようだ。 あれでは西側入口から雨や雪や風が吹き込んできて、風雨をしのぐための待合室という目的に合わないだろう。

 新潟大学の上層部のやることを見ると、 「考えてない」 と思う場合が多いのだが、これもその一例になりそうだ。

 ところで、最初に森を切る動きが顕在化していると書いたけど、例はそれだけかと訊かれそうだ。 いや、まだあるのである。 これは未確認情報なのでそのつもりで読んでもらいたいが、私の研究室がある建物と西門駐車場の間に、面積はわずかだが森があるのだけれど、これを切り倒してなくしてしまう計画があるらしい。 狭い森ながら、中央付近の駐車場への通路を通ると、夏にはカナヘビ (小さなトカゲ) が横切ったりして、私としては結構気に入っていたのであるが。

 昔はたしか大学緑化委員会みたいなものがあって、構内の森は原則的に切らず、もし切る場合は他に植えるというような決まりがあったはずだが、独法化以降なくなったのだろうか。 エコと付けば何でもいいとは思わないが、構内の雰囲気作りにはもっと気を遣ってもらいたいものである。

4月25日(日)     *第6回 新潟チェロアンサンブル演奏会

 新潟市は昨日から2日続きの好天。 だからというわけでもないが、地元演奏家によるコンサートをはしごしする。

 自宅で昼食をとってから出かけ、クルマを某所において信濃川沿いの土手を歩く。 桜が散り始めていたが、晴れてようやく暖かくなってきたせいか散歩する家族連れやランニングする若者などで結構人が出ていた。 私は30分弱歩いて音楽文化会館へ。

 ここで第6回新潟チェロアンサンブルの演奏会が開催された。 午後2時30分開演。 この団体の演奏会に来たのは初めて。 根津要氏を独奏とするシューマンのチェロ協奏曲をやるというので来る気になったもの。 指揮は舘野英司氏 (ピアニストの舘野泉氏の弟君だそう) で、プログラムは下記の通り。

 ゴルターマン: ロマンスop.119-1
 ――    : セレナーデop.119-2
 シューマン: チェロ協奏曲
 (休憩)
 クレンゲル: 4本のチェロのための4つの小品
 ――   : 即興曲op.30
 バーバー: 弦楽のためのアダージョ
 (アンコール)
 グルツマッハー: 聖歌

 この団体だが、新潟市内もしくはその近郊に住む社会人や大学生を中心として構成されている。 メンバーはプログラムに載っている限りで15名。 要するにアマチュアの団体で、メンバーについては詳しいことは分からないが、音大卒などではないよう。 だから、というべきか、アンサンブルはいかにもアマチュアだなといった印象。 プロのように弦の音が集積となって一つの魅力ある流れとして迫ってくる、という域には達していない。 それはまあ仕方がないことで、無料の演奏会でもあるし、今後の研鑽に期待したいと思った。

 ただ、シューマンの協奏曲では、本来なら管弦楽であるバックをチェロを3パートに編曲したものでやったわけであるが、根津氏の力演と、バックの音のつたなさがアンバランスを感じさせるところが目立ち、やはり協奏曲は独奏とバックとのバランスがとれていないと面白みが出ないな、というのが率直な感想である。

 ゴルターマンやクレンゲルなど、こちらの知らない作曲家 (いずれもドイツのチェリスト兼作曲家、前者は19世紀、後者は19世紀末から20世紀初頭にかけて活動した人) を聴かせてもらったのはありがたいことであった。 いずれも聞きやすい曲ばかりで、クレンゲルの 「4本のチェロのための4つの小品」 の第3曲などはなかなかよかったと思う。

 観客は百人程度か。 あんまり拍手をしない客が多くて、曲が終わってちょっと沈黙があり、私が拍手するとそれに釣られて(?)拍手し始める場合が一度ならずあった。

          *       *

      *トリオ・ベルガルモ スタジオ・スガマタ室内楽シリーズ第12回

 新潟チェロアンサンブルを聴いてからりゅーとぴあでLFJのチケットを1枚買い足した。 LFJ専用の売場がふだんはクロークである場所に設けられていたが、私の前に数人の客が。 ガイドブックも出たし、ようやくJFJもやるんだなあという実感みたいなものが湧いてきた。

 そのあと館内の椅子に腰を降ろして少々読書をしてから、スタジオ・スガマタで午後6時から行われるトリオ・ベルガルモの演奏会に出かけた。 正式には標記のタイトルを持つ演奏会。 出演はいつもの美人トリオ (庄司愛=ヴァイオリン、渋谷陽子=チェロ、石井朋子=ピアノ) に加えてゲストとして佐々木友子さんが加わった。 本来はヴァイオリン奏者だが、今回はヴィオラを担当。 したがって本日は美人カルテットとなった。 プログラムは以下の通り。

 ハイドン: ピアノ三重奏曲第24番 Hob.XV-24
 ベートーヴェン: 弦楽三重奏曲第3番op.9-2
 (休憩5分)
 ベートーヴェン: 2つのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲WoO.32
 ハイドン: ピアノ三重奏曲第29番 Hob.XV-29
 (アンコール)
 ベートーヴェン: 七重奏曲よりメヌエット

 音楽文化会館で聴いた演奏会がいかにもアマチュアといった印象だったのに比べると、この演奏会はちゃんと(?)料金1500円をとっているだけあってさすがだなと思った。 プログラムも、ピアノ・トリオが2曲、弦楽3重奏 (ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ) が1曲、ヴィオラとチェロの二重奏曲が1曲、と変化に富んでいる。

 演奏はどれも見事でだったが、聴いていて曲として面白かったのは弦楽三重奏曲である。 若いベートーヴェンの充実した作品だということが改めて実感された。 弦楽三重奏という曲種は、今月初めに清嘉記念奏楽堂でのサロンコンサートでも聴く機会があったわけだが、こうしてみると結構行けるなと思った。

 あえて注文をつけるなら、ピアノトリオをハイドン2曲にするのではなく、1曲はベートーヴェンとか別の作曲家にしてみたらどうだったのかなということと (石井さんのピアノに面白さがもっと出たのでは)、せっかく4人が揃ったのにピアノ四重奏がプログラムに入っていなかったこと。 演奏者側でもそれを意識したのかアンコールでは四重奏を聴かせてくれたが、やはり本プログラムで本格的にやってほしいもの。 私の個人的な好みで申し訳ないが、フォーレのピアノ四重奏曲なんかどうかなあ。 佐々木さんとの共演が今回限りというのは勿体ないので、是非別の機会を設けて取り上げて欲しいもの。

 このトリオの演奏会は久しぶりだが、先日の井上静香+成嶋志保と合わせて、新潟の室内楽陣は充実している。 余り間をおかずに次の演奏会もお願いします。 色々勝手なことを言って済みません。 聴くだけ人間は身勝手なもので、笑って赦してください(汗)。

 ただ、問題は弦楽四重奏分野なんだけど、ポ○○○○○ノ四重奏団とかいう団体が昨年1月に船出の演奏会をやったあと活動がさっぱり目立たないのは、食い過ぎて楽器が演奏できなくなったから・・・・ではないだろうなあ。 LFJにはちょっとだけ演奏するらしいし。 何をやってるのかなあ。 弦楽カルテット分野がちゃんとすれば新潟の室内楽力は相当なものになると思うんだけど。

4月21日(水)    *本日1限の教養講義について

 毎年書いているけど、今年もしつこく書く。 本日1限の私の教養講義 「西洋文学LT」 についてである。

 聴講受付は先週であった。 先週の水曜日の正午までに学務情報システムで私の授業に登録した人を対象に第1回抽選を行った。 150人の定員に対して、受講申込みは332名。 競争率2,21倍となった。

 当選者150名のうち、こちらが指示した方法で聴講意志確認を行った者だけが本当選となる。 聴講意志確認を行わなかった者は27名いた。 つまり、いわゆる 「保険」 だったわけだ。

本日は、第1回抽選に漏れた学生で講義室にやってきた者だけを対象に第2回抽選を行った。 抽選に臨んだ者のうち4分の3を採用した。 ただし定員27名のところを28名としたけれど。 また、第1回抽選に臨まずにこの授業を取りたいと言ってきた学生は、最初からお断りした。 第2回抽選で落ちた学生と合わせると、十数名が涙を呑んだことになる。 これは最近では数が少ないほうだ。

 データとして、学部ごとの学生数を書いておこう。 

 A = 第1回抽選での当選者数、 B = Aのうち聴講意志確認を行った者の数、 C = 第2回抽選での採用者数、である。

          A     B    C

 人文学部   14   12   1

 教育学部   11   11   0

 法学部    11    9    0

 経済学部   11    5    1 

 理学部    16    14   2

 医学部    11     9    3

 工学部    70    60   21

 農学部     6    4    0

 Aに対してBが少ないほど、当選しながら事実上聴講を辞退した学生の数が多いということになるが、最悪はダントツで経済学部であることが分かる。 聴講許可した学生のうち半分弱しか聴講しないのだから、タチが悪い。 コラ、経済学部生、聞いているか!?

 またCの学生が多いほど、教養科目を取るための曜限に制限が多いということになるが、それでいくと工学部がやはりダントツである。 もともと学生数が多いということもあるが、それにも増して第2回抽選に臨む学生数が多いのである。 医学部も案外窮屈らしい。 文系学部はそこへ行くとかなり楽そうだ。

4月18日(日)     *最近聴いたCD

 *シューマン: ケルナー歌曲集 (NAXOS、8.557077、2006年録音)

 吉田秀和氏の 『永遠の故郷 真昼』 を読んで、シューマンの歌曲を聴きたくなり、吉田氏の取り上げていたop.35-4 「永遠の緑」 の入っているこのCDを先月上京したときに銀座の山野楽器にて購入。 ドイツの詩人 (医者でもあった) ユスティヌス・ケルナー (1786−1862) の詩による歌曲を集めたもの。 収録曲は、作品35の 「12の歌曲」、作品127の 「5つの歌曲と旋律〔Lierder und Gesaenge〕」、作品142の 「4つの旋律」、そして作品番号なし (WoO) 21番および10番の 「ケルナーによる若者の歌」。 吉田氏の論じている 「永遠の緑」 は微妙なニュアンスを持つ佳品。 それ以外にも面白い曲があるけど、シューマンの歌曲というのは或る程度パターンというか、旋律の形が何種類かに分類できるような感じがあって、まとめて聴くとちょっと飽きるように思う。 私がシューマンの歌曲集で最も馴染んでいるのが 『女の愛と生涯』 なのだが、基本的にこの歌曲集でシューマンの歌曲の曲想パターンはだいたい把握できると言っていいような気がする――と、シューマンの歌曲を全部聴いたわけでもないのに、分かったようなことを書いてしまいましょう (笑)。 なお演奏は、テノールがハンス・イェルク・マンメル、ピアノがウータ・ヒールシャー。

 *Songs of Hans Pfitzner and Richard Strauss 〔プフィッツナー&R・シュトラウス歌曲集〕 (Centaur Records、CRC2070、1988年録音、1989年発売、)

 先週の 「最近聴いたCD」 では、ハンス・プフィッツナーの歌曲集を紹介して 「霊感にとぼしい」 と文句を垂れておいたが、今回ここで紹介するのがそのプフィッツナーとR・シュトラウスの歌曲集で、こちらはまあまあかな、という感想。 プフィッツナーも、後期ロマン主義的な茫洋たる魅力がある。 なんでそんなに感想が異なるのか?と疑問をお感じの方もいるだろう。 曲目が違うからということもあろう。 だけど、最大の要因は、歌手の違いだと思う。 このディスクではメゾソプラノのリン・マクスウェルLinn Maxwellが歌っているのだが、彼女のどこか危うい、歌っているうちに姿が消えてしまうんじゃないかと思わせる歌声が、歌曲の旋律とマッチしていて、そこから魅力が出てきているのだろうと思う。 つまり、歌曲は歌手を選ぶのであり、同じ歌なら誰が歌っても――もちろんプロとしての技巧は必要だが――同じというものではないのである。 そのことが良く分かるディスクだ。 ピアノ伴奏はレジス・ベノイトRegis Benoit。 収録作品は、プフィッツナーがop.2から3曲、op.9から3曲、op.11とop.24から各1曲、op.26から2曲、op.29から1曲、そして作品番号なしの「不実と慰め」(これは先週紹介したCDにも収録されていた)。 R・シュトラウスは、op.48から3曲など計9曲。 シュトラウスの歌曲はプフィッツナーに比べると元気で、その分、歌手の茫洋とした声と合っていないみたい。 先月、新宿のディスク・ユニオンにて購入。

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4月17日(土)    *井上静香+成嶋志保: 「耳で聴く風景」 第3回 

   ♪春なのに〜・・・と嘆息混じりに歌いたくなるような気温と天候続きの今日この頃。 本日も空には雲が出ているが、気温はまあまあか。 というわけで、井上静香さんと成嶋志保さんによる 「耳で聴く風景第3回」 の演奏会に出かけた。 新潟市も街の中心部は桜がほぼ満開。 会場のだいしホールも満席。

 毎回意欲的なプログラムで注目されているこの演奏会。 今回のプログラムもこれまでに負けない充実ぶりなのである。

 シューベルト: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ イ長調D.574
 シマノフスキ: 神話 ヴァイオリンとピアノのための3つの詩曲op.30
 (休憩)
 クララ・シューマン: ヴァイオリンとピアノのための3つのロマンスop.22
 ローベルト・シューマン: 幻想小曲集op.73
 ブラームス: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第3番ニ短調op.108
 (アンコール)
 エルガー: 朝の歌op.15-2

 いつもながら井上さんのヴァイオリンの音はしなやかで美しい。 前半の2曲は、若いシューベルトの古典的な作りの曲と、20世紀前半のちょっと神秘的な曲という組み合わせで、いずれも私には馴染みのない曲ながらそれなりに楽しめた。

 後半は、まずシューマン夫妻の曲を並べるという趣向が面白い。 ただ、演奏について言うと、幻想小曲集はもう少し切り込むような表現があってもいいのじゃないかという印象が残る。 シューマンの感情が気まぐれにくるくると濃くなったり引っ込んだりするところにはもう少し濃厚な表現があってもいいのでは、と。

 なので、最後のブラームスの第3ソナタは大丈夫かなという気持ちがあったのだが、井上さんに関しては杞憂だったようである。 特に最初と最後の楽章は見事。 この曲の激情が井上さんのしなやかな表現に合うかどうかと心配したのであるが、何て言えばいいのかな、激情をあからさまに表に出すのではなく、内向するように、そして内向しているが故の重みを出しながら弾いていて、これは井上さんなりのブラームスなのだと納得してしまった。 音も良く出ていた。 ただ問題は成嶋さんで、この曲では単なる伴奏ではいけないわけで、自分でもヴァイオリンに拮抗して自己を打ち出していかなければならないのだが、どうもそこまで行っていなかったような気がする。 あくまで伴奏に留まっていたのではないか。 そこが惜しい。

 勝手なことを書いたけど、お二人が毎回充実したプログラムを用意して3回続けているのは立派だと思う。 量的にも、本プログラムで途中休憩15分を入れて2時間あるから、聴き応えも十分。 今後もこのシリーズを続けていっていただきたいと強く念願するものである。

4月14日(水)     *若手に安定したポストを

 教授会。 色々考えさせられることがあったが、ここでは一つだけ記しておく。

 昔に比べると、若い人が大学にポストを得るのが難しくなっている。 ポストを得ても、任期制で不安定だったりする。 ところがその一方で、新潟大では定年退職した教員を、色々な名目で再雇用する制度があり、実際に定年になったはずの方とキャンパス内で時々すれ違ったりする。 

 無論、65歳でも人によってはまだまだ元気いっぱいでバリバリ仕事ができる研究者もいるのだから、そういう人に一定の役割を与えるのは悪いことではない――若手の就職難がなければ、である。

 しかし現実には若手研究者の就職難は相当にひどい。 昔ならとっくに助教授になっていたくらいの年齢層の人が、定職を得られずに非常勤の収入に頼って暮らしていたりする。 これに対して、私を含め、今現在大学で定職に就いている50代およびそれ以上の年齢層の人間は、ポストを得るときには少なくとも今日の若手ほどの苦労はしていないはずだ。 

 別の言い方をすると、今現在ポストを得る若手は、むかし私が定職を得た頃に比べればはるかに高い研究業績を上げている。 私が若かった頃だと新潟大に新規採用される若手研究者で博士号を持っているとか単著を出している人はほとんどいなかったが、今ならむしろそれが当たり前になっている。 また博士号や単著がなくても、論文数などで昔の私たちを上回っている人ということになれば、ほぼ全員がそうだろう。

 そういう若手に、不安定な任期制ポストしか与えない新潟大は、見識を問われるのではないか。 老人を再雇用するカネがあったら、優秀な若手を全国から募集して安定した地位を与え、書類作りに時間を費やさせるのではなくじっくりと研究に取り組ませてはどうだろうか。

 こういうことを考えたのも、本日の教授会で、旧帝大では学長より高い給料を取る教授を雇用しているという話が出たからだ。 世界的な業績を上げている学者に高給を出して呼んでくれば自学のステイタスが上がる、ということを外部から来て新潟大学評価を行った人が言ったそうである。

 しかし――新潟大学にそんなカネはあるのだろうか。 何しろ日本の国立大は、旧帝大とそれ以外の間にかなり格差が――財務面でも――あるからだ。 むしろ、外部から華やかな人材を連れてくるより、有能な若手研究者に安定した研究地盤を与えたほうがいいのではないか。 それに若手研究者には定職を提供したとしてもそんなに高い給与を払う必要はない。 今どきなら、将来有望な30歳の文系研究者が、専任の地位と500万円の年収と50万円の年間研究費 (このくらいは出せよ、ワタシに対しても!) で喜んで来てくれるはずである。

 そういう人材が何人もキャンパス内で活動すれば、知的雰囲気も向上するし、学生への刺激にもなる。 たいしてカネを使わずとも新潟大の研究教育に良い影響を及ぼすと思うのだが。

4月10日(土)     *最近聴いたCD

 *日本管弦楽名曲集 (NAXOS、8.555071J、2000年録音、2001年発売)

 片山杜秀に刺激されて、日本のクラシック曲も聴かなければという気持ちになっている今日この頃である。 で、こないだ東京の中古CD屋で仕入れてきたのがこれ。 沼尻竜典指揮の東京都交響楽団の演奏で、(1)外山雄三: 管弦楽のためのラプソディ(1960)、(2)近衛秀麿: 越天楽(1931)、(3)伊福部昭: 日本狂詩曲(1935)、(4)芥川也寸志: 交響管弦楽のための音楽(1950)、(5)小山清茂: 管弦楽のための木挽歌(1957)、(6)吉松隆: 朱鷺に寄せる哀歌(1980)――以上の曲が収められている。 この中で一番面白いと思ったのは、芥川の曲だ。 なぜかというと、日本主義ではないからだ。 西洋クラシック音楽を学んだ者として、正攻法で作曲している。 これに比べると、外山や近衛や伊福部や小山の曲は日本主義であり、日本民謡をアレンジしたり、いかにも邦楽の伝統をふまえましたという格好になっていて、まあ西洋人にはこういうのが評価されるのかも知れないが、日本人としてはあんまり食指が動かない。 せっかく西洋の音楽を勉強したのだから、日本主義に寄りかからないで作曲してほしいと思うのだが。 最後の吉松は文字どおり現代の人だから、さすがに日本主義を脱却している。

 *Hans Pfitzner Lieder Complete Edition Vol.3 (cpo 999 461-2、1996-98年録音、1999年発売、ドイツ盤)

 ドイツ20世紀前半の作曲家ハンス・プフィッツナー (1869-1949) による歌曲集。 彼の歌曲全集の一部のようだが、新宿のディスク・ユニオンでこれだけ売っていたのを購入。 プフィッツナーの曲にはそれほど馴染みがなく、CDもほんの2、3枚しか持っておらず、歌曲は初めてなので期待したのだが、率直に言って全然面白くなかった。 何というのか、きわめて霊感にとぼしく、これなら俺でも書けそう、ってなくらいなのである。 なお収録曲は、歌曲集op.11(5曲)、「不実と慰め」、歌曲集op.15(4曲)、「月に寄す」op.18、歌曲集op.19(2曲)、歌曲集op.21(2曲) である。 歌っているのはソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バリトンの歌手が各一人。 伴奏ピアノも歌手ごとに変わっているので合計4人である。 うーむ、取り柄はジャケットの美しさだろうか (↓)。

Pfitzner - Hans Pfitzner: Lieder, Complete Edition, Vol.3 CD Cover Art

 

4月8日(木)     *地方公共団体の図書館

 タイトルを見るとものものしいが、実は昨年12月に出した拙著 『鯨とイルカの文化政治学』 がどの程度浸透しているかが気になって調べてみたので、その結果ということなのである。 私的な話ですみません。 しかし私的な関心からも、案外公的な部分が見えてくる場合がある。 今回、都会と地方の差、或いは地域ごとの差がかなりあるものだなと改めて実感したというのが、率直な感想だからである。

 まず、東京だと都立図書館は言うまでもなく、区立図書館にも結構置かれている。 さすが首都だと思う。 関東で言うと、神奈川県図書館は情報システム入れ替え中ということでアクセスできなかったが、千葉県立図書館や埼玉県立図書館、栃木県立図書館にはある。 しかし茨城県立と群馬県立にはない。

 地域の特性がいちばんはっきりしているのは東北地方で、東北六県の県立図書館はどこも置いていない。 これに対して北海道立図書館にはあるのである。 文化は東京から東北を飛ばして札幌へと言われる場合があるが、それが痛感された。 東北地方出身の私としても残念なことである。 (なお、市立図書館レベルは蔵書充実度で県立図書館にかなり劣っているのが一般的のようだと今回改めて気づいた。 東北地方の主要都市の市立図書館でも置いているところは一つもない。)

 ほかの地域はどうだろうか。 新潟県立図書館は、著者が地元に住んでいるのに 置いてない (笑)。 北陸では富山県立と福井県立にはある。 石川県立にはない。 北陸地方の二大都市というと新潟と金沢なのだが、その二大都市を抱える県になくそれ以外の県にあるというのは、色々と考えさせられる現象である。 教育熱心で子供をなるべく県外(の有力大学)に出そうとする県とそうでない県とダブるかも知れないと思ったことであった。

 北陸を除く中部では、愛知県立にはさすがにあるが、静岡県立、長野県立、山梨県立、岐阜県立ともない。 東北地方に次いで置かれる度合いが低い。

 関西は、京都府立、大阪府立といった大きな地方自治体図書館はもとより、滋賀県立と奈良県立にもある。 ただし兵庫県立にはないが、その代わりというのも変だが、神戸市立にはある。 ほかに、三重県立と和歌山県立にもあるのは、地域の特性からかもしれない。 総じて近畿は置かれている度合いが高い。

 四国では、香川県立と徳島県立にはあるが、他の二県にはない。 関西に近い県にあって、そうでない県にはないのは、偶然か、それともやはり関西文化圏というものがあるからか。

 中国は、山口県を除く4県の県立図書館にある。 置かれている度合いが近畿と並んで高い。 山口県は捕鯨と関わりが深い地域なのにないのは、県都が内陸部だからだろうか。 もっとも下関市立図書館にもないのであるが。 (北海道では釧路市立にはあった。)

 九州・沖縄では、長崎県立、佐賀県立、鹿児島県立にある。 福岡県立にないのが意外だが、その代わり福岡市立にはある。 兵庫県に似て県都>県なのだろうか。

 以上、地域の図書館ごとの差異が、ほんの少しだけど分かったと言えるのではないだろうか。

4月7日(水)     *マンガ家・佐藤史生を悼む

 新聞報道で、4日にマンガ家の佐藤史生 (さとう・しお) さんが亡くなったことを知った。 女性である、念のため。

 もっとも私は彼女の作品は初期のものしか知らない。 代表作とされることが多い 『夢みる惑星』 と、七生子シリーズとしても知られる 『死せる王女のための孔雀舞(パヴァーヌ)』 、その他若干の初期短編だけである。 その次の 『ワン・ゼロ』 になると、作品を読みはしたが、愛読者とは言えなくなっていた。 それ以降の作品は読んでいない。

 しかし初期の彼女の作品には相当なインパクトがあった。 『夢みる惑星』 は、雑誌連載の途中までは 『夢みる惑星より』 だったのが、連載末期に、格助詞 「より」 を省くタイトルに変えられたのである。 それをリアルタイムで知っている世代は、最年少でももう40代になっているはずだ。

 今回調べてみて、彼女が1952年12月生まれだと知った。 つまり私と同年齢だったのである。 知らなかった。 乳ガンに端を発して、転移に苦しんだ晩年であったようだ。

 同年齢の女性としては、中島梓 (栗本薫) さんがやはりガンで昨年亡くなっている。   同年齢の男性では、元プロ野球投手の小林繁氏が、ガンではないが今年初めに亡くなっている。 どうやら私とおない年の人々は急速にこの世から消えつつあるようだ。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。  なお、ファンのサイトがこちらにあり、データが得られます(↓)。

 http://ww1.tiki.ne.jp/~quelmal/shio_sato.html   

4月4日(日)      *サロンコンサート 「弦楽三重奏の楽しみ」     

 午後2時から、清嘉記念奏楽堂 (新潟市中央区浜浦町) で行われたサロンコンサート 「弦楽三重奏の楽しみ」 に行く。 昨年、元都響ヴィオラ奏者の中山良夫氏による無伴奏ヴィオラリサイタルで初めて行ったところである。

 本日はその中山氏と、新潟でヴァイオリンを教えておられる岡礼子さん、そして新潟大学教育学部音楽科でチェロを教えておられる宇野哲之氏の3人による弦楽三重奏の演奏会なのである。

 プログラムは、次の通り。

 ベートーヴェン: 弦楽三重奏曲ト長調op.9-1
  (休憩)
 モーツァルト: ディヴェルティメント変ホ長調K.563
  (アンコール)
 バッハ: 平均律クラヴィーア曲集第2巻第14曲フーガ(モーツァルトによる弦楽三重奏編曲版)
 バッハ: ゴルトベルク変奏曲のテーマ(弦楽三重奏編曲版)

 会場には、私と同じ職場の同じ講座所属で潟響ヴィオラ奏者でもあるSY先生や、歯科大新潟校教授のYN先生など、知人も何人か顔を見せていた。

 このプログラムは、モーツァルトを知人から岡さんがリクエストされてやることになったとか。 なるほど、と思う。 この弦楽三重奏のためのディヴェルティメントは名曲として知られているが、なかなか実演では聴く機会がないからである。 そもそも弦楽三重奏の演奏会自体が少ないわけだしね。 私も弦楽三重奏の演奏会はたしかこれでやっと2回目、モーツァルトのディヴェルティメントの実演は初めてである。

 こうして実演で聴くと、弦楽三重奏も結構面白い。 ディスクだと何となく音の薄さみたいなものが気になる編成なのだけれど、実演だと三人の演奏家の関係というか、音の出方の関係がよく分かる。 弦楽四重奏曲より1人少ないだけだけれど、そのためにむしろ一人一人の奏者の独立性が格段に高まっているような印象がある。 特にモーツァルトの曲ではそれを強く感じた。

 会場が小さいのでアットホームな雰囲気で演奏会が進み、最後にアンコールとしてバッハを2曲やって締めるのもよかった。 またこういう演奏会をやっていただきたいものである。

4月2日(金)     *学長に訊くな、一般教員に訊け!――国立大学独法化に関する毎日新聞の記事について

 本日の毎日新聞の「論点」は、「法人化7年目に入った国立大学の課題」 である。 登場している3人は、亀山郁夫・東京外大学長、安西祐一郎・慶大学事顧問、浜田純一・東大学長の3人である。

 この顔ぶれを見て、こりゃ駄目だ、と思った。 国立大学の一般教員が入っていないからだ。 学長を2人も並べる必要がどこにあるのか。 学長というのは中間管理職で、文科省の意向をうかがいながらでしかモノを言わないのだから、そういう人間の意見を聞いても国立大独法化の実態が分かるはずがないのである。

 例えば最初に登場する亀山・東外大学長は、競争的資金の教員一人あたりの獲得額では日本全国の国公私立大学の中でベスト5に入ると言っているが(そして同時に、東外大が小規模大学であるがゆえに総額が限られているとも述べているが)、3月28日の本欄で指摘したように、東外大の教養教育は国立大中で最低と評価されている。 いくらカネを稼いでも教育をまともにやっていないのではどうしようもないのである。

 東大について言えば、もともと特別な大学――国立大学の中にあっても特別な大学――なのだから、そして特別な大学は存在していいと私は思うが、逆に言うと国立大学のことは東大を見ていても分からないのである。

 安西・慶応学事顧問の意見にいたっては、はっきりいって私大関係者の繰り言の域を出ていない。 国立大は世界水準の研究成果を十分に上げているのかなどと書いているけど、じゃあ慶応は上げているのだろうか? ノーベル賞受賞者などを輩出しているのだろうか? 安西氏は大学の実情を知っている (大学の) 外部の人々は独法化を是としているとも述べているけど、もともと国のくびきに制約されていない、つまり最初から私学としてずっとやってきた慶応はいったいこの間どの程度の 「世界水準の研究成果」 を上げたのだろうか? 日本が先進国の中でも高等教育に公的資金を出す率が非常に低いことは今では常識ですらあるのに、そうした視点はこの人にはまったくない。 こういう人間に独法化について尋ねる毎日新聞の見識を私は疑う。

4月1日(木)     *元教養部教員の退職

 本日、元教養部教員で現在は経済学部教授のMN氏が私の研究室に定年退職の挨拶に来られた。 教養部時代は中国語教員で、ドイツ語教員である私と同じく語学教師であった。

 実はMN氏がもう退職の年齢 (65歳) だとは知らなかったので、ちょっとあわててしまった。 氏が私より年長なのは知っていたが、6、7歳上かと思っていたので、ということは定年までまだ1、2年はあると思っていたので、意外の感があった。

 以前にもこの欄に書いたが、教養部解体後に各学部に分属していった教員は、定年前に辞めたり、亡くなったりする場合が少なくない。 その意味で言えば、定年まで勤め上げたMN氏には、よくやりましたねと申し上げたい気分である。 私自身は定年まであと8年だが、はたして8年間もつかどうか分からないというのが正直なところだからだ。

 教養部解体に際しては教員内部でのごたごたもかなりあって、氏と私が意見を異にする場面もあり、そうしたわだかまりがいまだに氏にはあるようで、そのことも率直に述べていかれた。 まあ、人間の意見はそうそう簡単に一致するわけもないので、また単純に和解しましょうともならないのである。 世の中、そういうものなのだ。

 今の私は、教養部解体後の荒波を乗り切った人、特に語学教員で人文学部以外の部局に配属になった人には、定年まで勤め上げたら、頑張りましたねと言って送り出したい気持ちなので (ただし元ドイツ語教員は除く)、氏のわだかまり表明にも特にコメントはしなかった。 人は容易に和解することなく、老いていくのだろう。

3月31日(水) 

      *福田一雄先生の著書 『人はなぜわかり合えるのか』

 新潟大学人文学部教授の福田一雄氏が、ブックレット新潟大学シリーズから、『人はなぜわかり合えるのか――言語学から見たコミュニケーションの仕組み――』(新潟日報授業社、1000円+税) という本を出された。

 福田先生は、以前は教養部の英語教師で、教養部語学系ということで私の同僚であり、その後人文学部で言語学を講じ、また卓球もお強くて、何かと私も刺激を受けている存在である。

 とりあえず目次だけ紹介すると、第1章・敬語は面白い、第2章・会話は協調性に基づく行為だ、第3章・人は互いのフェイスに配慮する、第4章・コンテクストと想像力、というふうになっている。

 どうです、面白そうでしょう。 興味を持たれた方はぜひ手にとって下さい。

          *「健康」 を絶対化するな――喫煙と飲酒について

 産経新聞が、昨日と今日、「けむりの行方 受動喫煙論争」 という特集記事を掲載している。 私は自分では喫煙はしないが、最近の受動喫煙防止の動きには行きすぎのところがあると感じており、そういう意味でも注目したが、記事の分量の関係もあり、突っ込み不足の感が強い。

  http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100330/biz1003302226045-n1.htm 

 私は、分煙を促進することには賛成だが、喫煙そのものが合法である以上、喫煙を一定の場所で可能にすることも必要だと思う。 最近のこの点での動きは、そういった分別ある態度をかなり逸脱しており、しかもそのことについてまともな議論がなされている様子もない。 新潟大学も敷地内は禁煙にする方針のようだが、そのことがいいか悪いか、学内で議論した形跡はない。 要するに世間の動きに合わせているにすぎないわけで、これじゃ、知的な生産の場所たることをみずから放棄しているみたいなものじゃないかな。 自分の頭で考えないで周りに従うだけの大学が、大学と呼べるのだろうか。 まあ、文科省の方針に盲従することをふだんからやってるから、何に付けても盲従するのが習い性になっているのだろうけどね。

 問題はタバコだけには限らない。 産経の記事によると、アルコールや清涼飲料水も規制の対象になりかねない動きが出ているのだ (↓)。

 一方、急速な議論の進展に対しては「このままでは嗜好品がすべて規制対象になるのではないか」(有沢氏)との懸念も出ている。

 国際的な受動喫煙防止対策を主導した世界保健機関(WHO)はビールなどのアルコール規制も検討中だ。1月には販売や広告の規制を求める指針案を採択した。行き過ぎた飲酒は健康だけでなく社会悪だととらえ、各国に自主規制を促す内容で、5月の総会での正式合意を目指している。

 合意しても「強制的な措置にはならない」(大手ビールメーカー)との見方は多いが、すでにビール大手5社で構成するビール酒造組合は、今年秋以降のビールなどのテレビ広告の自粛を拡大するなど先を見越したような動きをみせる。

 さらに、ファストフードや糖分の高い清涼飲料水が規制対象になるとの声もあり、米国ではコカ・コーラなどが加盟する米国飲料協会が、公立校でコーラなどの販売から撤退した。

 有沢氏は「健康的でないものすべてを規制対象にするとなれば、嗜好品ではない。合法的な楽しみ方の議論が少ないことも気になる」と指摘。たばこを含め嗜好品はどうあるべきか。受動喫煙問題は、その議論の進め方を含めて多くの課題を突きつけている。

 私が思うに、WHOなどの議論は、人は何のために生きるのかという基本的なところを押さえていない。 人は健康になるために生きているわけじゃないのだ。 健康は手段であって、目的ではない。 ところが、WHOなどの組織ではしばしばその辺が混同され、組織としては健康が目的でも構わないだろうが、人が生きるのは別段健康のためではないという当たり前の認識が欠落してしまう。

 したがって、問題はこの種の国際組織のあり方にも及ぶのだと思う。 国際組織が勧告しているからというので鵜呑みにするのではなく、場合によってはその体質そのものから分析していかなくてはなるまい。 そして、そういう仕事をするのは、大学人の役割だと思いますがね。

 哲学者には、愚行権などの概念でそうした問題を明示化している人もいるが、まだまだ不十分である。 新潟大学が率先してやれば、少しは存在の独自性を示すことになると思うんだが、まあ、今の体質では、ムリだろうなあ。

3月30日(火)     *映画を語るには年に何本見なくてはならないか

 3月11日に書いた話の続きである。 映画を語るには或る程度本数を見ていないといけない、ということなんだが、11日にも言及した 『月刊 ウインド』 誌の4月号が送られてきて、そこでこの問題が取り上げられていたからである。

 といっても例の座談会の続きに書かれていたわけではない。 福島市男氏のコラムである。

 福島氏は、以前にもこの欄で言及したことがあるが、新潟日報紙に長らく勤務して映画関係の記事などを多く書き、現在は退職されているが市民を集めての映画クラブ 「新潟映画研究会」 を主宰されている。

 その福島氏の今回のコラムは、「劇場で映画を観ることの努力」 という題である。 新潟での映画上映もシネコンが主流になり、つまり郊外に行かないと見られなくなり、なかなか情報が入らず、また良質の作品の場合は単館上映でしかも上映期間が短いことが多いので、見るのに苦労する、という内容であった。

 例として 『3時10分、決断のとき』 が挙げられている。 新潟市ではシネコン1館だけの上映であり、しかも1週間しかやらず、福島氏も映画友達からの情報でかろうじて見ることができたという。 そうだろうな、と読んでいて私もうなずいた。 この映画、私はたまたま上映された週に見たのだが、実は1週間しかやらないとは知らなかった。 多忙な時だったら 「来週にしよう」 と思って見損なっていた可能性がある。

 福島氏はそうした例を挙げて、映画を見るにも注意と努力が必要な時代になったと述べた上で、ご自分が主宰している映画クラブでは、昨年年間200本を見た会員が2人いた事実を書いている。 そして会員の大半は100本前後だとも。

 そして福島氏は、「年間の作品を展望して語ろうとする場合、100本は観ていないと不十分なのだ」 と締めくくっておられる。 まさにその通りだと思う。

  何やかや言っても、新潟市のスクリーン数はシネコンの乱立――現在4館――で増えており、新潟市で上映される映画の本数も増えている。 それでも来ない映画があるから東京に比べれば映画環境はいいとは言えないのだが、そんな新潟市でも 「映画が趣味です」 と胸を張って言えるためには年間100本くらいは見ておかないと話にならないのである。 私は11日に最低30本と書いたけどあれは大甘の言い方をしたので、率直なところ、年間100本くらいが望ましいし、多少基準をゆるめるとしても週平均1本、つまり年間50本が映画ファンと名乗るためのぎりぎりのノルマであろう。

 年に5本や15本しか見ていない人では、少なくとも値段を付けて出される雑誌で映画を語る資格はないのだ。 シネ・ウインドにはそのことを肝に銘じてもらいたい。

3月29日(月)     *最近聴いたCD

 *Bloom――南紫音セカンド・アルバム (UCCY−1014、universal classics、2009年録音、2010年発売)

ブルーム

 ロン・ティボー国際コンクールで第2位に入り、実力そして美貌も申し分のないヴァイオリニスト南紫音さんが2枚目のアルバムを出した。 ピアノ伴奏はファーストアルバムと同じく江口玲氏。 今回の収録曲は、R・シュトラウスのヴァイオリンソナタ、ドビュッシー (アルトゥール・ハルトマン編) の 「亜麻色の髪の乙女」、ラヴェル (ジョルジュ・キャサリン編) の 「ハバネラ形式の小品」、サン=サーンスのヴァイオリンソナタ第1番、ドビュッシー (ハイフェッツ編) の「美しい夕暮れ」である。 ソナタ2曲に小品3曲という構成。 演奏はいずれも隙がないが、特にサン=サーンスのソナタでは南さんの持っている演奏の特質がよく出ていて、どちらかというとフランス的な軽みのある作品とおもわれがちなこの曲に新たな魅力を見いだせるであろう。 録音は、悪くはないが、かすかに人工的な印象がある。 江口氏のピアノ独奏ももう少し大きな音量で入れておいたほうが良かったのではないか。 江口氏のせっかくの光るような音が十分に捉えられていない。

 

 

 

 

 

*Vierne: Complete OrganSymphonies 〔ヴィエルヌ:オルガン交響曲全集、ベン・ファン・オーステン演奏〕(MDG316 0732-2、1985年録音、1998年発売、ドイツ盤)

Louis Vierne: Complete Organ Symphonies

 新潟市にもりゅーとぴあコンサートホールに立派なパイプオルガンができて、オルガンの演奏会を聴く機会が増えた。 それにともなって、オルガン交響曲という、それまで見えていなかった分野に目を開かれた。 ヴィエルヌのオルガン交響曲もその一つである。 私は、ヴィエルヌのオルガン交響曲については、以前、Brilliantから出ている全集 (演奏はフィルセル) を購入したことがある。 3枚組で2千円程度と安いし全集でもあるということで買ったわけだが、ここではっきり書いておくけど、これは内容的にイマイチであった。 音が籠もっていて、主旋律とそうでない部分が聞き分けられず、曲の輪郭がよく見えてこないのである。 それを我慢して聴いてきたわけだが、先日りゅーとぴあでの演奏会で山本真希さんがヴィエルヌのオルガン交響曲を取り上げるに及んで、あのCDは駄目だと見切りをつけた。 もう一度書くけど、Brilliantで出てるヴィエルヌのオルガン交響曲全集は買わない方がいいですよ。 で、私は別の盤を探していて、ベン・ファン・オーステンによる演奏があることを知った。ただ、ちょっと値段が張ることもあり、買うのはためらっていたのだが、たまたま東京出張のおりにお茶の水駅前のディスク・ユニオンで中古品が3千円台で出ていたので、買ってしまった。 4枚組である。 で、肝心の演奏だけど、こちらも録音が理想的というほどではなく、やや籠もっている印象もあるし、もう少しダイナミックレンジを広く取って欲しいとも思うのだが、パイプオルガンの音を録音するのは難しいということなのだろうし、何よりBrilliantの全集がまともに曲の輪郭を捉えられなかったのに比べればはるかにいいので、これからヴィエルヌのオルガン交響曲全集を買おうという方には、多少値段が張っても、こちらの方をお薦めします。 

 

 

3月28日(日)     *気になる大学ランキング、またはランキングの多様化――日本の国立大学編

 文科省の評価による国立大学のランク付けが数日前に発表になった。 1位が奈良先端大学院大、2位が滋賀医科大、3位が浜松医科大、他方、最下位は弘前大、ブービーが和歌山大、下から3番目が琉球大という結果に。 この結果はすでに色々波紋を呼んでいるみたいだけど。

 http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1003/26/news068.html 

 国立大学の「格付け」がついに発表された。 政府は全国に86ある国立大に支給する運営交付金について、教育研究などの目標達成度を評価して差をつける「評価反映分」の数値を初めて公開した。 総予算1兆2000億円のうちの約16億円のブン取り合戦だが、下位になった大学からは不満の声が噴出している。  

 (上記引用の続きの記事は上のリンクから見て下さい。)

 まあ、この手のランキングには色々な問題がつきまとっているわけで、あんまりこれを絶対視するのもどうかと。 所詮は文科省の基準ということで、冷静に対処したほうがいいとは思うけどね。 ちなみにわが新潟大学は、全86校中59位だから、下位ですわな。 気にしないほうがいいとは思う、と繰り返しておこう。 

 ただ、文科省とは別の人たちがランク付けを行っている。 それも教養教育という視点からだ。 最近出た友野伸一郎 『対決! 大学の教育力』(朝日新書) がそう。

 この本には、東大vs京大、慶応SFCvs早稲田国際教養といった、マスコミ受けする定番の記事もあるけど、一般にはあまりニュースヴァリューがあるとは思われていない教養教育という視点から、必ずしも目立つとは言えない地方国立大学や小規模私立大や公立大にそれなりに光を当てているところが、ちょっと面白いのである。 ちなみに、いわゆるMARCHや日東駒専は出てこない。 データがなかったり、評価が低かったりするからだそうだ。

 しかし、である。 ここでいくつかの大学の学部を取り上げて、初年度教育という観点から、5項目についてABCの三段階評価で点数を付けているのだが、そしてその中に新潟大学農学部が含まれているのだが、評価がどうも芳しくないのである。 5項目中、Bが3項目、Cが2項目で、Aは一つもない。 一方、同じ地方国立大学農学部として高知大学農学部が取り上げられているのだが、対照的に5項目ともA評価なのである。 (同書169ページ参照のこと。)

 もちろん、これもあくまで一つの見方であり、絶対ではない。 大学の教育力というのは、表向きの制度だけでは分からない部分が多いからだ。 しかし、それにしても、高知大学農学部と新潟大学農学部に対するこの大きな評価の差は、何とかしたほうがいいんじゃないだろうか、と思わないでもない。 無論、農学部だけの責任ではない。 教養教育は全学出動ということになっているのだから、私がいる人文学部を含めて全学的な問題だし、また大学上層部の見識の問題でもある。

 そしてこの本での、教養教育という観点からの国立大学ランク付けによると、1位が室蘭工大、2位が広島大、3位が山梨大と九州大であり、逆に最下位は東京外大、ブービーが福岡教育大、奈良女子大、一橋大、お茶の水女子大となっている。 新潟大は、真ん中よりちょっと下あたり。(同書68ページ参照。)

 ランク付けするなら、こういうふうに色々な人たちによる複数の基準でやらないとね。 世の中、複雑なんだから。

3月26日(金)     *民主党国会議員のレベル――小川敏夫氏の場合

 私は別に支持政党というものはなくて、例えば日本共産党は体質的には嫌いだが、しかしいわゆる差別語問題で解放同盟などの圧力に屈しない毅然たる態度をとったことは評価すべきだと思っているなど、要するに是々非々、問題ごと、なのである。

 そういう意味では日本の民主党にも別に怨みはないのだが、本日の毎日新聞の 「論点」 欄を見て唖然とした。 「論点」 は、焦眉の問題について3人の識者がそれぞれの立場から意見を述べる1ページ全部を使った欄である。 そして本日の問題は 「外国人地方参政権をどう考えるか」 である。

 あらかじめ言っておくと、私は外国人地方参政権には反対である。 参政権が欲しければ日本国籍を取ればいいだけの話だからだ。

 さて、今回3人の識者がこの問題に意見を述べている。 在日朝鮮人であるキム・ギュイル氏が慎重派、中央大教授の長尾一紘氏が反対派。 そして民主党参議院議員の小川敏夫氏が賛成派である。

 で、小川氏の意見なのだが、例えば、上でも私が書いた、参政権が欲しければ日本国籍を取ればいいという見解に対しては、「日本人が日本国籍を捨てろと言われたら、気持ちをふみにじられたと思うのではないか」 と書いている。

 まーさか。 例えば日本生まれだけどアメリカの参政権が欲しいとなったら、アメリカの市民権、つまりアメリカ国籍を取らなくてはならないのは自明のこと。 「私の気持ちが踏みにじられますから、日本国籍は手放しませんし、アメリカ国籍も取りません。 でもアメリカの参政権を下さい」 などと言って通るわけがない。 赤ん坊のセリフじゃあるまいし。 

 アメリカは、ごく一部の地方自治体を例外として、外国人に参政権は与えていない。 ついでに付け足せば、ヨーロッパの大国、つまり英仏独にしても、EU加盟国の外国人には地方参政権を与えているが、それ以外の外国人には与えていない。

 話を戻す。 この小川という人、万事似通った論法なのである。 

 「海外に向けて、日本が偏狭な国家、社会ではなくて、包容力をもった国だということを堂々と政府として示せばよい。」 ――外国人に参政権がない国なんていくらでもあるのだから、その程度のことで包容力があるなんて思うほうがおかしいのです。

 「しかしそのこと〔日本が島国であること〕に安住していては国際社会で通用しない。」 ―― 「国際社会」 はじゃあ全部外国人に参政権を認めてるんですか? そうじゃないでしょう。 また、その論理で行くと、外国人に参政権がない国は現に 「国際社会」 で通用していないということになりますね。 そう主張するなら具体的にどう通用していないのか、ちゃんと書いて下さい。 アメリカも通用していないわけですか?

 「日本人が海外に行き、あるいは住んで冷たい仕打ちを受けた時、『日本も外国人に冷たいではないか』 と言われないだろうか。」 ―― これは典型的なトリック的論法である。 外国で不法な仕打ちを受けたら堂々と抗議すればよろしい。 参政権を与えるかどうかはその国ごとの問題なのであって、じゃあ逆に訊くけど、与えていない国の国民に対してなら不法な行為をしてもいいのか? そんな変な理屈がありますかって。

 断っておくが、私は地方参政権を外国人に与えよという立場の人だから小川氏を批判しているのではない。 その主張があまりに幼稚だから批判しているのである。 賛成なら賛成で結構だが、いやしくも国民の代表たる国会議員である以上、与えた場合にどういう利益があるか、どういう欠点があるか、それを冷静に吟味して、仮に賛成なら利益の方が上回っているということを論証すればいいだけの話だからである。

 だけどこの人の論法はそうではない。 「外からどう思われるか」 「国際社会で通用しない」 というようなこと、要するに 「世間に通りません」 というだけのことだからだ。 そして、肝心の「国際社会」の実態にはまったく触れられていない。 まるで外国 (人) は全員善人であるかのような、小学生並みの現状認識なのである。

 私が危惧するのは、この程度の人が国会議員になっているということだけではない。 この小川敏夫という人の経歴を見ると、地裁の判事補、そして検事をへて、弁護士になっているからである。 この程度の見識の人でも司法試験に受かるのだし、地裁の裁判官になれるのだ、という驚きである。 1948年生まれだからもう60歳を越えている。 長く生きてもバカはバカなのだ。 別の言い方をすると、団塊世代の心情左翼の典型、かな。

 日本は大丈夫かなあ。

3月21日(日)      *東京交響楽団第58回新潟定期演奏会

 今年度最後の東響新潟定期をりゅーとぴあで聴く。 久しぶりに秋山和慶さんの指揮だったが、ちょっと毛色の変わったプログラム。

  ヴィラ=ロボス: ブラジル風バッハ第5番(*)
  ピアソラ:リベルタンゴ(**)
  ピアソラ: バンドネオン協奏曲(**)
  (休憩)
  ゴリホフ: 3つの歌 ― ソプラノと管弦楽のための(日本初演)(*)
  ヒナステラ: バレエ組曲「エスタンシア」op.8

  ソプラノ=安井陽子(*)、バンドネオン=小松亮太(**)、コンサートマスター=高木和弘

 たまにはこういうのもいいな、と思いながら聴いていたが、私にはどれも馴染みの薄い曲ばかり。 私はタンゴは好きだが、何となく聴いているのがいいので、ディスクはほとんど持っていない。 前半は、その意味で新鮮ではあったけれど、ラテン的な味ということでいうとやや希薄で、やっぱり上品なクラシックなのかな、と。

 私が一番いいと感じたのは、後半最初のゴリホフの曲である。 この作曲家、名前も知らなかったのだが、管弦楽曲の中に歌が埋め込まれているようでもあり、しかしアカペラで歌い出すところではむしろ歌が主導のようでもあり、また曲想も結構心にしみるところがあり、なかなかいけてるんじゃないかと。 安井さんの歌唱も見事。 安井さんは、先月に東京・新国でのワーグナー 『ジークフリート』 で小鳥役で聴いているが、全然違う場所と曲で聴いてみて、うん、こっちのほうがいいなあ、と感じ入った。 安井さんには是非また東響定期に登場してほしいものである。

 でもこういうプログラムだと客の入りが悪いのだなあ。 ここ数回の東響新潟定期では最低ラインだったんじゃないか。 私も定期会員だから行ったけど、もし毎回チケットを買う人間だったらパスしていたかも知れない。 いや、だから定期会員にはいいところがあるのだ、と言いたいんだけど。 こういうところは、クラシック・オーケストラ運営の難しい部分なのかも知れない。

3月20日(土)     

  *美術展をハシゴする――ボルゲーゼ美術館展(東京都美術館)とフランク・ブラングィン展(国立西洋美術館)

 本日は新潟に戻る日だが、美術展2つと音楽会1つを鑑賞。 まず、上野に向かい、都美術館と西洋美術館の特設展を続けて見る。

 まず都美術館のボルゲーゼ美術館展だが、ボルゲーゼ美術館とは、この美術展のサイトの説明によると下記のような施設である。

 http://www.borghese2010.jp/about.html 

 ボルゲーゼ美術館 (Galleria Borghese) は、ローマ市北東部、ピンチアーナ門の北側に拡がる広大なボルゲーゼ公園 (Villa Borghese、約5平方キロメートル) の中に建っています。 ローマの名門貴族ボルゲーゼ家のシピオーネ・カッファレッリ=ボルゲーゼ (Scipione Caffarelli-Borghese, 1576-1633) 枢機卿によって、1605年に購入されたこの敷地には、もともと葡萄園や菜園、そして厩舎、倉庫、ならびに珍しい動植物を集めた動植物園や鳥舎や噴水があり、さらに17世紀にはすでに、古代彫刻の名品があることで知られていました。

 というわけで、コレクションは言うまでもなくイタリア美術。 今回は、ラファエッロ、カラヴァッジョ、ボッティチエリなど有名どころや、それ以外にもなかなか興味深い作品が来ているが、やはり一番の見ものはラファエッロの 「一角獣を抱く貴婦人」 であろう。 この作品、以前何者かによって変な改作がなされ、一角獣を抱いていることが分からなくなり、貴婦人の衣裳も少し変わっていたのが、X線の照射によって改作が分かり、慎重な復元作業の結果、元の形にもどったのだそうである。 貴婦人の表情は、変な連想だが、前日に見た映画『愛のむきだし』のヒロイン満島ひかりに似ているような気がした。 まあ、満島さんがそれだけ美人だということですね(笑)。 また、江戸期に伊達藩によってヨーロッパに派遣された支倉常長の肖像画も来ている。

 ついで、西洋美術館のフランク・ブラングィン展である。 この画家は一般には名前が知られていない――私も知らなかった――が、美術展サイトによると以下のような人であり、日本ともつながりがあるのだ。

 http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/current.html#mainClm 

 西洋美術館設立の礎となった松方コレクション。 1910年代末から20年代にかけてヨーロッパでこのコレクションを築いたのが、川崎造船所 (現・川崎重工業) の初代社長松方幸次郎でした。 そして松方に蒐集のきっかけを与え、その指南役となったのが画家フランク・ブラングィン(1867-1956)。 造船所や労働者を描いたブラングィンの絵画に魅せられた松方はその作品を次々と購入し、ついにはコレクションを公開するための美術館、「共楽美術館」 のデザインをブラングィンに託します。 関東大震災後の経済危機により美術館は建設されませんでしたが、実現すればそこにはブラングィンの作品が総合的に展覧されるはずでした。

 ブラングィンはロイヤル・アカデミーで現存作家として初めての個展を開き、イギリスのみならずアメリカ (ニューヨーク、ロックフェラー・センター他) やカナダなどでさまざまな公共建築の壁画を手がけました。 同時代の装飾芸術運動を背景に、絵画だけではなくカーペット、家具、陶磁器、版画や挿画本にも制作範囲を広げます。

 本展は、松方との関わりを軸にブラングィン芸術を回顧する日本では初の展覧会で、8カ国約30カ所の美術館、コレクターが所蔵する約120点で構成されます。 共楽美術館のデザイン画のほか、松方旧蔵のブラングィンの作品もできる限り再現。 色彩あふれる画面構成、力強い描写力とともに、多分野に渡る才をお楽しみください。

 ブラングィンは、一方で19世紀末から20世紀初頭にヨーロッパを席巻したアールヌーヴォーやアーツ・アンド・クラフツ運動とも関わりがあり、当時の美術動向の特徴をそれなりに見せている一方で、労働者の姿を描いたり、船や造船所を描いたりと、当時の社会を忠実に反映した作品をも残している。 しかし単に時代の反映なのではなく、彼独自の色遣いなどにも興味深いところがある。

 また、上の説明にあるとおり、松方コレクションとも関わりをもち、日本初の西洋美術館の設計を担当しており、経済危機がなければ実現していたはずであった。 この美術展では、その設計がどのようなものであったかも明らかにされている。 また、松方幸次郎がどういう人物であったのかも分かるようになっている。

 というわけで、色々な意味で興味深い美術展なので、カタログ (\2700) も買いました。

   *一昨年の感動ふたたび――南紫音ヴァイオリンリサイタル

 美術展2つのあとは、音楽会である。

 一昨年11月に南紫音さんのリサイタルを横浜市青葉区のフィリアホールで聴いてその実力と美貌に惚れ込んだ私は、今回、また彼女のリサイタルと私の上京時期が重なっているというので、ためらうことなく聴きに出かけた。 これだけ重なるということは、やっぱり運命の出会い、赤い糸かなあ (笑)。 伴奏も前回と同じ江口玲氏。

 場所は市川市の文化会館で、初めて行くところである。 JR総武線で市川駅の隣の本八幡駅から歩いて10分くらい。 料金はたったの2500円、 前回の半額。 たぶん主催者である市川市の税金が投入されているからだろう (市川市文化振興財団が主催)。 市川市民に感謝。 ちなみに席は小ホール13列目のほぼ中央の、いわば絶好の位置だったが、これは1カ月くらい前に電話でチケットを買っておいたから。 会場はほぼ満席だったから、当日券ではこうはいかない。 小ホールは定員400人ほどで、新潟市の音楽文化会館の最後尾を省いたくらいの大きさだが、客席の傾斜は結構あるので、舞台がよく見える。
 
 しかし、ドジをふんであやうく遅刻するところだった。 開演は午後3時だったのであるが、午前中から昼過ぎにかけて上野で美術展をハシゴしたので、上野駅を出たのが2時少し前。 悠々間にあうと思ったら、本八幡駅に着いたのが2時30分。 昼食をとっていなかったので簡単に何かと思ったけれど、初めての会場だったので安全策で会場近くまで行ったらと考えていたら、会場近くにはコンビニもラーメン屋もない。 レストランがあったので、入ったのが運の尽き。この時点で開演まで20分ちょっとしかなく、なるべく調理に時間のかからなさそうなものということで鉄火丼を頼んだのだけれど――パスタなんかと違ってゆでる時間もかからないし、ご飯にマグロを乗っけるだけだから――これがなかなか出来てこない。 頼んで15分たって来ないので催促したら、なぜかあっという間に出てきた。 これを3分でかっこんで(笑)、会場まで走った。 開演時刻を3分ほど過ぎてホールに入ったが、開演が6〜7分ほど遅れたのでぎりぎりセーフ。 教訓。 コンサートに行くときは駅のそばで食事を済ませるべし。

 閑話休題。プログラムは下記の通り。

  ベートーヴェン: ヴァイオリンソナタ第3番
  シューマン: ヴァイオリンソナタ第1番
  (休憩)
  ショパン: ノクターンop.62-1、ワルツop.64-2, 64-1「子犬」(ピアノ独奏)
  ラヴェル: ハヴァネラ形式の小品
  チャイコフスキー: ワルツ・スケルツォ
  R・シュトラウス: ヴァイオリンソナタ
  (アンコール)
  ドビュッシー: 亜麻色の髪の乙女(A・ハルトマン編)
  ドビュッシー: 美しい夕暮れ(ハイフェッツ編)

 前回はソナタ4曲という本格的なプログラムだったが、今回もソナタが3曲、それに、聴衆に聴きやすいようにということか、江口玲氏によるショパンの小品3曲とヴァイオリンの小品2曲を組み合わせてはいるものの、やはり本格的なプログラムである。

 この演奏会、白眉はシューマンだったと思う。 曲が良くできていると感じられる演奏では演奏自体がすばらしいわけだが、まさにそういう演奏であった。 南さんの資質と曲の出来がうまく合致していたと言える。 南さんは、前回にもちょっと触れたが、高音の美しさより中音の充実に特徴があるように思うのだが、ヴァイオリンの曲ながら中音を重視しているシューマンの個性と南さんは相性がいいのかも知れない。 無論、音の面だけでなく、シューマン独特の情感が、集中力のすごい南さんの演奏にぴったりだということもあるだろう。
R・シュトラウスも良かった。ただ、この曲はちょっとカッコつけというか、この作曲家らしい外面性が特徴なので、南さんが弾くには役不足――むろん曲のほうが不足しているのです――な印象もないではありません。

 といっても南さんは中音だけが素晴らしいのではなく、今回はチャイコフスキーで高音の魅力も見せてくれた。 前回よりは高音が伸びていたように思えたのは、会場の違いもあったかも知ない。

 江口氏のショパンは、短い曲3曲だけなので何とも言えないが、有名な子犬のワルツでは最初猛烈な速さで始めて、その後思い切ってテンポを落とすなど、緩急をくっくりつけて弾いていたようである。

 演奏会終了後、サイン会があったので、前回に引き続きCDを買ってサインをしてもらう。 前回は南さんのファーストアルバムだったが、今回は出たばかりのセカンドアルバムで、今回のプログラムのR・シュトラウスと、前回にその重い演奏にびっくりしたサン=サーンスの1番のソナタ、それに今回のプログラムのラヴェルと、アンコールのドビュッシー2曲が入っている。 今回一番よかったシューマンが未録音なのは残念だが、次の機会に期待ということで。

 サイン会ではわざわざ色紙を用意してきて南さんのサインをもらう若者もいた。 まあ、私も若かったらそうするかも知れない。 でも、サイン会で南さんだけにもらって、並んですわっている江口氏を無視する人がいたのは残念。 江口氏による音の美しい、そしてテクニック的にも盤石なピアノ伴奏があればこそ南さんのヴァイオリンも活きてくるわけなのだから、それが分からないようじゃ何のために演奏会に来ているのか分からない。

 江口氏のことは私もろくに知らなかったのだが、今回のプログラムによると、東京芸大からジュリアード音楽院のマスターコースを出ていて、同音楽院から優秀者に贈られる賞を受賞。 ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールでは優秀伴奏者賞を受賞。 また作曲もするそうである。 現在はNY在住でNY市立大学ブルックリン校で教鞭を執っているとのこと。

 南さんと江口氏のゴールデンコンビ、ぜひ新潟市でも招聘してほしいものである。

 サインをもらってから東京駅に向かい、午後7時少し前発の新幹線で新潟へ。 

3月19日(金)     *読売日本交響楽団第524回名曲シリーズ

 このところ、上京すると読響を聴くことが多い私であるが、別に読響をひいきにしているわけではない。 たまたま上京して在京オケから何か聴こうと思って調べると、運命・田園・新世界的な名曲コンサートを除外するなら読響演奏会しかない、という場合が多いのである。 これも運命の糸か。 私につながっている赤い糸は南紫音さんみたいな美少女だけではないのだった(笑)。

 サントリーホールで当日券を買う。 Bランクで6000円(S設定はなく、ABCDの4段階なので上から2番目)、2階斜め後ろのLDブロックの席。 前回、東京芸術劇場で読響を聴いたときは客の入りが悪かったのであるが、この日は9割くらいは入っていた。 指揮のスタニスラフ・スクロヴァチェフスキが今月で読響との常任契約が切れるということで、パンフにもお別れの挨拶が載っていたけれど、そういうことで入りが良かったのかも知れない。

 さて、コンマスはデヴィッド・ノーランで、プログラムは以下の通り。

  R・シュトラウス: 交響詩「ドン・ファン」
  スクロヴァチェフスキ: Music for Winds(読売日響・ミネソタ管他共同委嘱作品、日本初演)
  (休憩)
  シューマン: 交響曲第3番「ライン」

 スクロヴァチェフスキ自身の作曲した曲が入っているのは、やはりお別れコンサート的な意味でなのか。 会場でのアナウンスによると、当初はプロコフィエフの曲が予定されていたけれど、スクロヴァチェフスキ自身の強い希望により変更になったのだそうである。 弦楽器を省いて、管楽器と打楽器、それにピアノとチェレスタ(奏者は1人で双方を演奏)のための曲で、全体は4部構成だが続けて演奏される20分ほどの曲。 何しろ初めて聴いたので何とも言えないが、途中盛り上がったり、叙情的に流れたりと変化しながら、最後に向かって徐々に高揚していく曲であることは何となく分かった。

 最初の「ドン・ファン」は速めのきびきびとした演奏で、スクロヴァチェフスキはもう80歳代後半になるそうだが、そうした老いを全然感じさせない躍動感があった。

 後半のシューマンだが、うむ、シューマンはやはり素晴らしいと改めて感じさせてくれる演奏。 特に第4楽章がバッハなどの古典音楽を思わせ、この曲に深みを与えていることが今さらのように実感できた。 シューマンのオーケストラ曲は渋くてあまり鳴らないということは昔から言われており、最初のR・シュトラウスなどと比べると読響の演奏もたしかに大音量というような意味での迫力はやや劣っているとは思ったが、シューマンならではの独特の味が濃厚に出ていた演奏だったのは間違いない。

 この夜、私は9時に新宿で友人と待ち合わせをしていたので、残念ながらシューマンが終わって拍手の後、スクロヴァチェフスキが一度引っ込んで再度登場したあたりで会場を出なくてはならなかった。 このあとアンコールがあったのかどうかは、したがって不明。 すみません。

3月18日(木)     *ワーグナー: 『ニーベルングの指環』 第3夜 『神々の黄昏』    

 今回の上京の主目的は、これ。

 新国立劇場でのワーグナー 『ニーベルングの指環』 もようやく最終日にたどりついた。 思えば、昨年の2月に 『ラインの黄金』 を聴いてからだから、1年がかりである。

 新国の入口では例のごとく、合唱団員の契約打ち切り問題でチラシが配られていて、世界各国のオペラハウスに比べていかに新国が異常であるかが訴えられている。 オペラハウスの合唱団員は労組に加入して安定的な雇用を保障されることが普通であるのに、新国はそれをしてこなかったこと、合唱団員を労働組合法上の労働者に該当すると認めてこなかったということである。 どうもこの辺は最近の貧困問題とも連動しているような気がするし、日本人が先進国なら当たり前の基本的な労働者の権利を実は全然分かってなかったのではないか、日本のポストモダンは実はプレモダンだったのではないか、という疑念にもつながってくるだろう。 日本の左翼も、日の丸君が代反対だとか憲法九条は世界遺産だとか腹の足しにもならないことを叫ぶのではなく、労働者の基本的な権利を擁護する運動をちゃんとやってもらいたいものだ。 じゃなきゃ左翼とすら呼べないんじゃないか。

 話がいささかズレた。 先月の『ジークフリート』に続いての 『神々の黄昏』 観劇。 演奏者は、これまでと重なっている部分も多いが、以下の通り。

  ジークフリート: クリスティアン・フランツ
  ブリュンヒルデ: イレーネ・テオリン
  ハーゲン: ダニエル・スメギ
  アルベリヒ: 島村武男
  グンター: アレクサンダー・マルコ=ブルメスター
  グートルーネ: 横山恵子
  ヴァルトラウテ: カティア・リッティング
  ヴォークリンデ: 平井香織
  ヴェルグンデ: 池田香織
  フロスヒルデ: 大林智子
  ノルン: 竹本節子、清水華澄、緑川まり
  合唱: 新国立劇場合唱団
  演奏: 東京フィルハーモニー交響楽団
  演出: キース・ウォーナー
  指揮: ダン・エッティンガー

 午後4時開演で終演は午後10時30分、全4夜のなかでは最も長い公演だが、こちらも慣れてきたせいかバカ長いとは感じられなかった。 恐らく、説明的な部分が短く、筋書きがそれなりに展開を見せるので、退屈せずに済むこともあろう。 座席は前回と同じく3階のBランク席で14700円。 1列目の中ほどより左寄りの座席。 前回同様座布団を持参したが、やはり途中で尻が痛くなった。

 演出はこれまでの続きなので、基本的に前回までのモチーフを活かして、病院ふうだったり、合唱団員は看護人ふうだったりと、あんまり神話的な重々しさは出ないようになっている。 『神々の黄昏』 での新登場人物というとハーゲンだが、彼の住処の場面では大きな巻き角を持った雄山羊の映像が背景に出てくる。 悪魔の暗示だろうか。

 上にも書いたように物語としては筋書きが迅速に展開されるので退屈しないのだが、音楽的に言うとこれまでのライトモチーフの集積みたいで、あまり新鮮味を感じないし、最後なりの盛り上がり、或いはまとまった感興のようなものが湧いてくるとも言えないような気がする。 現代風の演出のせいもあるだろうが、それ以上に 『ニーベルングの指環』 という巨大な作品が果たしてオペラとして成功しているのかいないのかという本質的な問題にも通じているようにも思える。 もちろん、4夜かかるこの作品に初めて生舞台で接した私のような人間には容易に結論を出せる問題でもないのだけれど。

 歌手では、前回から引き続き出ているジークフリート役とブリュンヒルデ役 (は前々回からだけど)、そしてハーゲン役の3人が特に傑出していた。

3月16日(火)      *HMV渋谷店のクラシックCD売場の衰退

 朝の新幹線で上京する。 渋谷で映画を見て、ついでに久しぶりにタワーレコードとHMVのクラシックCD売場に寄ってみた。 タワーレコードは昔と変わりないけど、HMVのほうは・・・・・ちょっと唖然とするような衰退ぶり。

 以前、新潟市にもあったHMVは、結局撤退してしまったのだけれど、撤退目前頃のクラシックCD売場を思い出した。 こうなったらもう駄目、って奴だね。 品数が大幅に減り、美人歌手だとかのジャケットが表に出るような並べ方をしているんだから。 HMVはネット販売では頑張っているけれど、店舗としてはもうアテにできません。 渋谷ではタワーレコードしかないか。

3月14日(日)      *日本の研究者は管理職になるとバカになる

 本日の毎日新聞記事より。

 http://mainichi.jp/select/today/news/20100314k0000m040109000c.html 

 国立大学法人化: 経営側は評価 研究者は否定的     2010年3月14日 2時31分 更新:3月14日 2時31分

 04年度に始まった国立大法人化について、全86大学の学長の3分の2が肯定的に評価する一方、研究現場を預かる学部長の半数は研究面で否定的な反応を示したことが、国立大学財務・経営センターのアンケート調査で判明した。新谷(しんや)由紀子・筑波大准教授(科学技術政策)らの調査でも現場教員の6割以上が研究や大学運営に悪影響があったと受け止めており、大学トップと現場の意識の乖離(かいり)が浮き彫りになった。【西川拓、江口一】

 国立大学財務・経営センターの調査は08年12月〜09年2月、全国立大86校の学長や学部長らを対象に実施。全学長と学部長の7割が回答した。

 学長の66%は 「自校によい結果をもたらしている」 と回答したほか、「大学の個性化」 「管理運営の合理化・効率化」 など15項目中7項目で8割以上が自校の法人化をプラス評価。 「研究活動の活性化」 「競争力向上」 など5項目でもプラス評価が6割を超えた。 逆に研究活動の活性化について学部長の21%は 「マイナス」、30%は 「ややマイナス」 と答えた。

 一方、新谷准教授らは08年8月、全国の国立大の自然科学系の教員1000人を無作為抽出してアンケートを実施、183人から回答を得た。

 69%が予算配分の削減など「研究に悪影響があった」と答えたほか、「教員や部局の意思が反映されない」 「教員が減り授業コマ数が増えた」 など、「大学運営」 で66%、「教育」 で51%が悪影響があったと回答した。

 大学から教員に配分される基礎的な研究費は、回答者の平均で法人化前の年約150万円から法人化後は72万円余に半減したことも分かった。 研究テーマの変更や小規模化を余儀なくされたケースも多く、こうした不満が法人化への低評価につながったとみられる。

 国立大学財務・経営センター研究部の水田健輔教授 (高等教育財政) は 「法人化後、教育・研究の現場がどれだけ傷ついたかを明らかにすべきだ。 国立大が果たすべき役割や位置づけとそれを支える土台作りを国全体で考える必要がある」 と指摘する。

     *        *       *

 以下、当サイト製作者のコメント。

 新潟大学に勤務していて感じることだが、日本の大学の研究者というのは、管理職になった途端、バカになるということである。 今回、毎日新聞の記事を読んで、新潟大学だけじゃなく、日本全国に言えることなんだな、と痛感した。

 学長の3分の2は独法化を評価しているということだが、記事の中にあるように、独法化以降、研究費は半減しているのである。 念のため言っておくと、この記事は文系理系合計で出しているから、文系ではとても記事の中にあるような額 (72万円) にはならない。 何度もこの欄にも書いているが、独法化以降、私の研究費 (教育費も含む) は年額20万円程度で推移している。

 ごく大ざっぱに言うと、学長たちはこういう状態を評価しているわけだ。 これをバカと言わずして何と言うのだろう。

 もう少し突っ込んだ言い方をすると、日本の研究者は、管理職になった途端、研究者であった時のことをあっという間に忘れてしまうのである。 そして文科省官僚だとか、外部の言うことばっかりを基準にものを考えるようになる。 大学の運営である以上、研究者としての視点も含めてモノを考えて行かねばならないはずだが、そのあたりのことはきれいさっぱり忘れてしまうのである。 君子豹変す、ですな。

 その原因は何か。 以下、推測と独断を交えて書くが――

 第一に、研究者はもともと臆病な人種だということだ。 肝っ玉がすわっておらず、上に立つ人間――文科省官僚など――に逆らう気力がそもそもない。 社会に出て立身出世しようというような、いい意味での上昇志向が薄く、今で言う草食系男子みたいな輩が学者になりがちなのだから、当然とも言えるだろう。

 第二に、もともと大学内部では内部調整型、つまり外に向かってはっきりモノを言うのではなく内部でのごたごたを調整する内務型の人間が管理職になりやすい、ということである。 そもそもが外務型ではないのだから、外に対してモノを言えるわけがないのである。

 第三に、研究者はしばしば世間的な常識、というか、実務についている人なら誰でも知っていることを知らなかったりする。 だから官僚からあなどられて、挙げ句の果てに言うことを聞くしかなくなるのである。 新潟大学で私が知っている例を挙げると、独立行政法人の情報公開法に基づいて情報公開を求める、という言葉の意味を理解していない人が学系 (いくつかの学部を集めたもの) の長になっていた。 なっていた、と過去形で書いたけれど、現在はさらに出世して理事になっている。 私としてはこんなにものを知らない人がどうして理事になるのか、まるっきり分からないのである。

 第四に、研究者の中で特に優秀な人というのは、しばしば事務処理能力に優れた人でもある。 そういう人は重宝されて管理職になってしまったりするのだが、事務処理能力に優れた人というのは往々にして自分の意見をはっきり言わない人なのである。 つまり官僚型なのであって、上に立つ人間の意向に従って仕事をするだけであり、自分から積極的に立案をしたりすることが少ない。 また、立案しても、押しが弱いので、実際には物事をよく分かっていない人間の押しの強さに負けてしまうことが多い。

 第五に、もともと日本人には定見といったものがないので、置かれた立場が変わるとたちまちにして脳味噌の中身も変わってしまう、ということである。 これは学長などの管理職になる場合に限らない。 教養部時代は第二外国語の意義を唱えていて、教養部解体した途端にドイツ語は不要だと言い出すドイツ語教師は、新潟大学にも複数いたからである。 つまり、大学の研究者なんてその程度なのである。

 第六に、日本社会はそもそもが真のエリートを生み出すことができない社会なのかも知れない。 第二次世界大戦のとき、日本の軍隊についてアメリカなどが 「下半分は非常に優秀」 と評していた、という有名な話がある。 逆に言えばエリート軍人は駄目だ、ということであもる。 戦後日本の復興にしても、普通のサラリーマンの働きぶりが大きかった。 これに比べると、日本では上の方に立つ人間はあんまりぱっとしない。 日本社会がエリートを生まない社会だとすると、大学だって同じことなのではないか。 

3月11日(木)     *シロウト支配ということ――新潟市の場合

 一昨日、新潟市美術館がクモが入り込むなど、管理が悪いということで、この4月に予定されていた国宝などの公開が文化庁から拒否されるという事件があった。

 (以下、ネット上のニュースから引用)

  新潟市の市美術館で4月下旬から開催予定の 「奈良の古寺と仏像」 展で、文化庁が国宝・重要文化財の計14点の展示を認められないと同市に通知したことが9日、わかった。2月に空間芸術の企画展で展示された電動カートから計30匹のクモが発生し、管理態勢の甘さを重くみた。
  同展は、平城遷都1300年を記念し、奈良の法隆寺や東大寺などの仏教美術43点を展示する予定だった。なかでも中宮寺の国宝 「菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう)」 の展示は、東京以外で県外に出るのは初めてとなる一番の目玉だった。
  同館では昨年7月にも展示作品の土壁にカビが発生した。 文化庁は 「カビの発生後は館内をクリーニングし再発防止態勢が整ったと聞いていたが、再びこのような事態が起こり、あまりにも意識が低すぎると判断した。このままでは同館での指定文化財の公開は認められない」 としている。
  カビの発生は空調機を止めたため館内の湿度が上がったことが、クモの発生は電動カートの消毒が完全でなかったことがそれぞれ原因だった。文化庁は 「指定文化財の管理にも慣れた人がいない」 と同館の人材配置の問題も指摘している。
  異例の事態を受け、北川フラム館長の今月末での更迭を決めた篠田昭市長は 「不安の払拭(ふっしょく)に全力をあげたい。 さらに(管理上)必要な調査をし、科学データも取って文化庁にお伝えし、展示できるような判断をいただけるよう努力したい」 と話した。  (引用終わり)

 http://www.asahi.com/culture/update/0309/TKY201003090383.html

 かと思ったら、本日は、佐渡のトキ保護センターで、トキが何羽も殺されるという事件が起こった。 動物が侵入したためらしいが、新潟県や新潟市の管理のできなさ加減は、ちょっとマズイなと思った。

 (以下、ネット上のニュースから引用)

 新潟県の佐渡トキ保護センターで、トキ9羽が死んだ。2010年秋の放鳥に向けた訓練中の惨事で、トキ関係者に衝撃が広がっている。
 環境省は10日午後3時、会見で「残念なお知らせでございます。順化訓練をしていたトキが今、11羽いるんですが、そのうち8羽がけさ、死亡を確認いたしました」と話した。
 国の天然記念物、トキが外敵の餌食となった。
 10日午前8時すぎ、新潟県の佐渡トキ保護センターで、野生に戻るために訓練中だったトキ11羽のうちの8羽が死んでいるのを出勤してきた職員が発見した。
 瀕死(ひんし)の状態だった2羽のうち1羽が、午後7時半すぎに死に、死んだトキはあわせて9羽となった。
 環境省は「(外敵に襲われたことは?)これが初めてのケースです」と話した。    (引用終わり)

 http://fnn.fujitv.co.jp/news/headlines/articles/CONN00173321.html 

 さて、話はがらっと変わるようだが、実は同じではないかと私が日頃から思っていることである。 新潟市唯一のミニシアター系映画館シネ・ウインドが出している 『月刊ウインド』 誌の最新号に掲載された2009年映画回顧の座談会のことだ。

 実はこの話題、昨年も取り上げた。 だからまた書くのは気が引けるのだが、状況がまったく良くなっていないので、どうもこの問題は、今回の新潟市美術館やトキ保護センターの事故とつながっているのかもしれない、と思い始めていたところなのである。

 『月刊ウインド』 誌3月号に掲載された2009年映画回顧座談会では、9人が参加しているのであるが、2009年1年間に見た映画の本数はというと、人によりかなり差があって、多い方から順番に並べると、285本、125本、95本、70本、59本、45本、34本、15本、5本、となっている。

 こういう座談会だから、色々な人が登場するのは結構なことだと思う。 映画評論家はだしの人、まったくシロウトの視点から映画を見る人、邦画好き、洋画好き、韓流好き・・・・・各種勢揃いでいいとは思う。

 だけど――映画の座談会に出る以上、本数は一定数以上見ていないとマズイのではないか。 1年間に映画を5本しか見ていない、15本しか見ていない――こういう人が、たとえ地方都市のミニシアター系映画館の、ヴォランティア・スタッフが出している雑誌であれ、年間回顧の座談会に出てしまうというのは、マズイのではないだろうか。 ちなみに、『月刊ウインド』はタダではない。 いちおう、値段をつけて売っているのである。

 にもかかわらず1年に5本しか映画を見ていない人が年間回顧座談会に出てしまう。 意地の悪い人からすれば、所詮その程度の雑誌にすぎないからだよねと言われかねない――そういう意識が、ウインドの編集部にどの程度あるのだろう? こういう場に出てくるからには、どんなにヒドくても、最低30本は見ている人であってほしいものだ。 5本や15本の人というのは、基本的にこういうところに出る資格は、どんなに言い訳をしようと、ないと知るべきであろう。 最低30本というのは、映画好きと言われるための最低条件みたいなもので、決して過大な要求ではないと思う――月平均2,5本ということですからね。

 所詮その程度に過ぎない――そう言われたっていいじゃん、とウインドの編集部は言うかも知れない。 だけど、そういう気分でやってきて、新潟市美術館や佐渡トキ保護センターは全国に対して大恥をかいたのではないのか。 

 実はこの問題は根が深く、私が勤務している大学の、勤務している場所にも同様の傾向がある。 あんまり具体的なことを書くわけにはいかないが、例えば映画をろくに見ておらず映画について知識をほとんど持たない学生がなぜか映画で卒論を書いてしまう――そういう、ちょっと信じられない傾向があって、しかしそれが深刻な問題だという意識は教師に必ずしも共有されていないのである。 (例として映画を挙げたが、映画の卒論だけのことではない。)

 新潟市という場所のシロウト支配の問題は、もしかするとかなり広範囲に渡っている可能性がある。

3月10日(水)     *最近聴いたCD

 *シューベルト: シラー歌曲集 第3&4集 (NAXOS、8.557369-70、2003-04年録音、2005年発売)

 以前、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんで買ったCD。 歌曲の王シューベルトが、ドイツ古典期の文豪シラーの詩に曲を付けた全歌曲シリーズ全4枚中の後半2枚組CDである。 1枚目はテノールのロイター・オディニウスが、2枚目はソプラノのマヤ・ボークが歌っており、ピアノ伴奏はいずれもウルヒッヒ・アイゼンロールが担当している。 1枚目の収録曲は8曲で、「小川のほとりの若者(第1作)」D.30、「秘めごと(第1作)」D.250、「屍の幻想」D.7、「ハプスブルク伯爵」D.990、「小川のほとりの若者(第2作)」D.192、「期待」D.159、「秘めごと(第2作)」D.793、「小川のほとりの若者(第3作、第1版)D.638。  2枚目は10曲で、「春に寄す(第1作)」D.283、「ギリシアの神々の一節」D.677、「おとめの嘆き(第1作)」D.6、「おとめの嘆き(第2作、第1版)」D.191、「おとめの嘆き(第3作)」D.389、「ケレスの嘆き」D.323、「テクラ(精霊の声)(第1作)」D.73、「テクラ(精霊の声)(第2作、第1版)」D.595、「テクラ(精霊の声)(第2作、第2版)」D.595、「春に寄す(第2作、第2版)」D.587。   ――私の印象では、1枚目に面白い曲が多い。 特に1枚目第3曲の 「屍の幻想」 は19分近い大曲で、内容的にもかなり聞かせる曲である。 そのほか、「小川のほとりの若者」 の第2作と第3作も悪くない出来――似ているんだが、微妙に違う、そこを聞き比べるのがまた面白い。 同タイトルの第1作もちょっと似ているが、やはり第2作以降のほうが断然上出来である。 天才シューベルトにしてそういう調琢の過程があるということが、よく分かる。  ――これに対してCD2枚目にあまり印象に残る曲がないのは、ソプラノのマヤ・ボークの歌のせいかもしれない。 美声ではあるのだが、歌詞が極端に聞き取りづらい。 早い話が、声はあくまで楽器なのであって、歌詞を伝えようとする意志みたいなものが感じられない。 もっとも、歌に限らず、外国人の話す外国語では、男性話者に比べて女性話者の発音は聞き取りづらいものだが。 1枚目担当のテノールのオディにウスは美声であるのに加え、歌詞もしっかりと発音していて、とてもいい感じである。 シューベルトの歌曲は、やはり男声のものなのだろうか。

3月7日(日)      *なぜか大伴家持の歌を思い出す今日この頃

 大伴家持に有名な歌がある。 万葉集第十九巻に載っているもので、私も昔、高校時代だったかに習った。

 わが屋戸 (やど) の いささ群竹 (むらたけ) 吹く風の 音のかそけきこの夕 (ゆふべ) かも

 なぜか最近この歌がしきりに思い出される。 どうも、体の調子がイマイチで、オレの人生も晩年に入ったなと痛感しているからであろう。 「いささ群竹」 というのは小さな竹林の意味で、私の家には竹林はないのであるが、竹林の音が 「かそけき」 というのが、体の老化・衰えを連想させるのである。 そして 「夕べ」 が人生の夕べを思わせる。 勝手読みかな?

 ところで、上の歌で最初の5音が 「わがやどの」 というふうに ”の” で終わり、その次の7−5音がまた 「いささむらたけ ふくかぜの」 と ”の” で終わっているのは、単に意味上の都合からだろうか? 私には、同じ ”の” を続けることによって、同じ場所にとどまっているような、つまり閉塞感というか、動けずに同じ所でじっとしているような感覚が出ているように思うのだが、こんなことを言う国文学者はいるのかな? それとも、逆に専門家には常識なんだろうか? 

 もっとも、”の” を続けて使う例は、私も知っているような有名な和歌でも他に例がある。

 石 (いわ) ばしる 垂水 (たるみ) の上の さ蕨 (わらび) の 萌え出づる春になりにけるかも

 万葉集第八巻にある志貴皇子 (しきのみこ) の、これまた誰でも知っている歌である。 ここでも ”の” は続けて使われているが、やはり 「垂水の上の」 と 「さ蕨の」 と続けることによって、場所が一定であることが強調されているのではないか。 シロウト見解かも知れませんけどね。

3月6日(土)     *山本真希オルガンリサイタルシリーズ第9回 「オルガン交響曲」

 午後、ウインドで映画を見てからりゅーとぴあまで歩く。 15分くらい。 開演約40分前に着いたら、ロビーがにぎやかなこと。 若い女の子がいっぱいなのである。 一瞬、「今の若い女の子にはオルガンリサイタルがブームなのか」 と思いかけたが、理性 (?) を取り戻して、他の催し物に来ているのであろうと推測した。 入口脇の電光掲示板によると、SOPHIAのコンサートが劇場である模様。 開演時刻はオルガンリサイタルと同じく午後5時だが、すでに劇場からは長蛇の列で続いている。 おじさんにはSOPHIAが何者なのか分からない(すみません)。 後で調べてみたら、5人組のロックグループだそうだ。

 劇場が若い女の子の長蛇の列で華やかなのとは対照的に、オルガンリサイタルの行われるコンサートホール前の列は短いこと! 年齢も高めだし、若い女の子は、いないではない、という程度。 あっちがピンクのイメージならこっちはネズミ色かな。 うーん、あまりに差がありすぎる。 むろん中高年には中高年の楽しみがあるので、何でも若い女の子が多けりゃいいってもんでもないけど、でも何となく寂しい。 こういう状況を改善するにはどうすればいいのか。 答えは明瞭である。 りゅーとぴあの専属オルガニストに、イケメンの若い男性を起用すればいいのである。 りゅーとぴあ専属オルガニストはずっと若いチャーミングな女性で続いており、私個人としては言うまでもなくそのほうがいいのだが (笑)、でも今回も入りは200〜250人くらいかという状態で、会場の広さとは逆に劇場に負けている印象だし、山本真希さんはあと2年契約が続行されるようで、それはそれでいいけれど、その後くらいにどうだろうか、イケメン・オルガニストという路線では・・・・・。

 閑話休題 (ほんとに閑話でした、すみません)。
 さて、今回はフランスのオルガン交響曲ということで、プログラムは下記の通り。

  ヴィエルヌ: オルガン交響曲第3番嬰ヘ短調op.28
  (休憩)
  ヴィドール: オルガン交響曲第6番ト短調op.42-2より第2楽章アダージョ
  フランク: 交響的大作品嬰ヘ短調op.17

 前半のヴィエルヌ、私はこの作曲家は晦渋という印象を持っていたのだけれど、山本さんの演奏のせいか、りゅーとぴあのオルガンのせいか、結構味があった。 特に第4楽章のアダージョとその後の第5楽章フィナーレが独特の節回しというか、色合いで楽しめた。 なお、私はヴィエルヌの伝記関係は全然知らなかったのであるが、生まれつき盲目に近いということで苦労したものの、最終的にはノートルダム大聖堂のオルガニストという、名誉ある地位につけたということである。

 後半は最初がヴィドールの第6番からアダージョだけ。 これはこれで楽しめたが、第2楽章しかやらないのが残念。 私もヴィドールのオルガン交響曲に親しむようになったのは最近のことで、全10曲のうち5曲だけディスクを所有しているが、そのうち第6番はとても親しみやすい曲だし、オルガン交響曲の世界への導き手として悪くないと思うので、全曲は無理にしても、せめて全5楽章のうちどこかもう1楽章くらいは、と思ったことであった。

 これは、実はこのリサイタルの所要時間とも関わる問題である。 前回もそうだったのだが、どうもプログラムの量が足りない気がするのである。 途中20分休憩を入れて1時間半でおしまい、アンコールも無し、というのは昨年11月のハイドン・プロと同じ。 足まで用いて演奏する曲だし演奏者としても大変なんだろうと拝察する。 また山本さんも他に色々仕事があってお忙しいのだろうとは思うけれど、ここのところのリサイタルが何となく事務的に行われているような感じがわずかながらもないとは言えない。 聴衆は少ないけど、ほとんどの方は熱心なオルガン音楽ファンなのだから、その期待に応えるためにも、「何かもう一品」 精神で行って欲しいと願うものである。

 余計な話が入ったが、最後のフランクの曲、これはフランクのオルガン作品の代表作で、以前にもりゅーとぴあで取り上げられたことがあったと記憶する。 私もディスクを持っている曲だけど、何度聴いても把握ができない(笑)。 美しく壮大だけど複雑で容易に人を近づけない、そんな印象が今回も残った。 無論これは演奏云々の問題ではない。

 最後になったが、チケット代金は昨年からのオルガンリサイタルシリーズ・セット券で900円 (安い!)。 これで文句を言うとバチがあたるかも知れないなあ。 席は、今回も前回と同様、3階正面左寄りであった。

3月1日(月)     *最近聴いたCD

 *ラインベルガー: オルガン協奏曲第1・2番 (NAXOS、8.557787、1999年録音)

 ラインベルガー(Joseph Reinberger, 1839-1901)は、リヒテンシュタイン生まれで、ドイツのミュンヘンで活動した作曲家である。 最近、新潟でもラインベルガーの音楽を普及させる会ができて、しだいに知られるようになっている。 その流れに私も乗って、このCDを買ってみた。19世紀の後半に活動した作曲家で、生まれた年で言うとブラームスの6年後、ということになる。 ここには彼のオルガン協奏曲2曲が収められており、第1番はヘ長調、第2番はト短調の曲である。 曲の作りはきわめて保守的というか、聴きやすいけれど、もう少し何かが欲しい、という気持ちにもなるようなものだ。 例えば第2番ならト短調という調性から何かパセティックで日常からはずれた感覚を期待したくなるが、あんまりそういうものはないようなのだ。 2曲とも、どちらかというと緩徐楽章のほうが面白い感じがした。 オルガン独奏はポール・スケヴィントン、バックは、ティモシー・ロウ指揮のアマデウス管弦楽団。 アメリカはヴァージニア州マックリーンのセント・ルーク・カトリック教会での録音である。  

 *シューマン: マンフレッド (全曲) (Kontrapunkt、32181、1994年録音、デンマーク盤)

 わけあってシューマンの 「マンフレッド」 全曲盤を探していた。 ところがなかなか見つからない。 序曲だけならいくらでもディスクがあるのだが、全曲盤がないというのも意外だった。 ようやく、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんに探していただいた。 原作はロード・バイロンだから英語だが、シューマンはディートリヒ・シュタインベックによるドイツ語訳・編による歌詞に曲を付けている。 ミヒャエル・シェーンヴァント(Michael Schonwandt, 名字のoは実際にはoに斜めの線が入るアルファベット)指揮、ベルリン交響楽団(Berliner Sinfonie-Orchester)、ベルリン放送合唱団(Rundfunkchor Berlin)。 ナレーターはイェルク・グーズーン (Joerg Gudzuhn、oeはo-Umlaut)。 序曲の苦みのこもった勇壮さはわりによく知られているが、本編もなかなかで、特に最後の第3部は美しい。 そのあと、序曲がもう一度演奏されて終わる。

2月26日(金)     *北陸大学不当解雇事件、原告勝訴なるも控訴審へ

 昨日のことだが、以前金沢市の北陸大学からいきなり解雇された田村光彰氏 (ドイツ語教授) とルート・ライヒェルトさん (同左) を支援する会の方からメールをいただいた。 原告勝訴である。 しかし大学側は控訴したそうなので、裁判はまだ続く。 こういう長期的な裁判は、関連する人たちで支え合わないと闘い抜くことはできない。 今後も引き続き支援体制を継続して行かなくてはならない。

 いただいたメールは下記の通り。 この件に興味のある方は下記URLをごらんください。

 http://www.tars.jpn.org/    

 〔最初の2文は省略。〕 三浦先生には、日頃からご支援をいただき感謝しております。 一昨日、金沢地裁において判決が申し渡されましたので、その報告とお礼を申し上げたいと思います。 判決は、予想通り、原告二人の解雇を無効とするものでした。 二人のためだけでなく、これからの諸状況を考えると、意味のある判例になったと思います。 本当にうれしい判決でした。 しかし、大学法人は即日控訴しましたので、裁判自体はまだまだ続きます。 二人の教育現場復帰もずっと先のことになるように思われます。 ご報告とお礼旁々これからもお二人のご支援よろしくお願い申し上げます。
 裁判の詳細は添付ファイル 〔ここでは省略〕 の判決速報をご覧下さい。
 本当にありがとうございました。

 「田村・ライヒェルトを支援する会」世話人

2月25日(木)     *東大教授の質

 東大教授というのは何かにつけて注目される存在だから、或る意味では気の毒だが、本日の毎日新聞を読んでいたら、どうかなあという例にまた会ってしまった。 「また」 というのは時々そういう例に会うからで、伊東乾 (『バカと東大は使いよう』) だとか、樺山紘一 (『エロイカの世紀』) なんかがそれに当たる。

 今回は毎日新聞の 「論壇をよむ」 欄の、林香里・東大教授による 「制度外の幸せを求めて」 という文章である。 『中央公論』 誌に載った山田昌弘の文章を批判しているのだが、例えば、「(山田が)”元”若者(中高年男性)の読者たちに丁寧に説明している」 なんて文章がある。 どうして 『中央公論』 の読者が中高年男性に限定されるのだろう。 若者や女性が読んだって逮捕されるわけじゃあるまいし。

 またその後にはこういう文章もある。 「戦後、経済基盤や制度を通して得られるわかり易い幸福を享受してきたのは、男性と男性的秩序の下に機能してきた社会の一部分だけだ」。 何というのかなあ、十年古いフェミニストって感じですよね、これは。

 毎日新聞も、もう少し人選を考えたらどうだろうか。 毎日の書評欄はその独自性で読書人のあいだでは評価が高い。 それが 「論壇をよむ」 の林香里で帳消しになってしまいそうだ。

2月21日(日)     *第20回にいがた国際映画祭

 毎年2月に開催されているにいがた国際映画祭も、今回でちょうど20回目を迎えた。 人間なら二十歳で成人式である。

 毎年欠かさず見に来ている私だが、今年は映画祭の日程が上京時期と重なってしまったため、本日のスタンダール原作 『赤と黒』 の1本だけを見ることとなった。 会場の市民プラザはかなり人が入っていた。

 上映に先立って映画祭委員長の田中一広氏からあいさつがあった。 実は今回で一区切りと当局からは言われていて、次回があるかどうか分からないのだそうである。

 また、今回は集客がイマイチだという話もあった。 私としても、仮に東京に行っていなくとも、見たいと思う作品が少ないなというのが実感だった。 ヨーロッパ系がもう少しあっていいのではというのが私の印象だが、これが集客力に欠ける原因だったのかどうかは、よく分からない。 あくまで私の好みでは、という話である。

 新潟に来ないヨーロッパ系の映画は少なくない。 映画祭で拾ってもらわないとどうしようもないわけで、例えば今回なら数少ないヨーロッパ系映画として 『マンデラの名もなき看守』 が上映された。 私は東京で見てしまったが、なかなか良い映画で、映画祭で拾ってもらえて良かったと思うが、逆に言うと、シネコンのスクリーン数は新潟は結構多いのに、こういう良作が映画祭で拾われないと上映されないのは、新潟映画業界の怠慢だと言いたくなる。

 というような、落ち穂拾い的な意味もあるので、映画祭はぜひ続けてほしいものだ。

2月19日(金)     *モーツァルト 『偽りの女庭師』

 本日は新潟に戻る日。

 紀尾井ホールで午後2時から、モーツァルト中期のイタリア・オペラ 『偽りの女庭師』 を鑑賞。

 紀尾井ホールにはこれまでも何度か来たことがあるが、どうも不親切だと思うのは、JR四谷駅のホームに紀尾井ホールに行くにはどちらの階段を上ればいいか書いていないし、また駅を出ても地図にホールが載っていないことだ。 改善を求む。

 閑話休題。

 このオペラ、もともとはイタリア語を用いたオペラ・ブッファで、セリフに当たる部分もレチタティーヴォ形式で歌われるのであるが、それとは別にドイツ語のジング・シュピール版もあるそうで、こちらは 『魔笛』 と同じくセリフは歌うのではなく普通の芝居のように語られるという。

 この日の上演では、アリアはイタリア語での歌唱だったが、レチタティーヴォ部分も歌うと長くなるからという理由で、セリフは歌ではなく日本語で語られるという、言うならばイタリア語のオペラ・ブッファとドイツのジング・シュピールを合わせたような方式で上演された。 イタリア語のアリアは訳の字幕付き。

 私の持っているイタリア語のレチタティーヴォ付きオペラ・ブッファ形式のCD (レオポルド・ハーガー指揮、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団) だと全曲で3時間25分かかるが、この日の上演は途中20分の休憩1回込みで3時間ちょうどであった。

 紀尾井ホールは小編成オケや室内楽やピアノ独奏用のホールだが、この日は正面最前列の数列分の座席をはずして、そこに楽器奏者が陣取った。 オペラ用のホールではないので、舞台上には簡略な書き割りがあるだけで、必要な場合は映像を用いて背景を変える方式である。

 私の席は正面やや左寄りの前から数列目。SS席で11000円。 好んでSSを買ったわけではなく、上京数日前に新潟のチケットぴあで購入したらこれしか残っていなかったのである。 ただしパンフが500円なのは良心的。

 指揮: ヴィート・クレメンテ
 演出: 飯塚励生
 演奏: 東京室内歌劇場管弦楽団
 キャスト:
 ドン・アンキーゼ 羽山晃生(テノール)
 女庭師サンドリーナ、実は侯爵令嬢ヴィオランテ 増山のり子(ソプラノ)
 ベルフォーレ伯爵 森靖博(テノール)
 アルミンダ(ドン・アンキーゼの姪) 前澤悦子(ソプラノ)
 騎士ラミーロ 醍醐園佳(ソプラノ)
 セルペッタ(女中) 赤星啓子(ソプラノ)
 ナルド(ドン・アンキーゼの下男、実は本名ロベルト、ヴィオランテの下男) 鴨川太郎(バリトン)
 ダンサー 水那れお、たまえ

 このオペラのあらすじは以下のとおり。
 侯爵令嬢のヴィオランテは名前をサンドリーナと偽ってドン・アンキーゼ (原作では市長だが、この上演ではホテルのオーナーに変更されている) の庭師をしている。 召使いのロベルトが彼女を守るためにやはり名前をナルドと変え彼女の従兄と偽ってドン・アンキーゼに雇われている。 ドン・アンキーゼはかつては女中のセルペッタに夢中だったが、今はサンドリーナに惚れて求婚している。 一方、ナルドはその女中のセルペッタに夢中。
 そこへドン・アンキーゼの姪のアルミンダが結婚相手のベルフォーレ伯爵とやってくる。 実は伯爵はかつてはヴィオランテ (サンドリーナ) の婚約者だったのだが、彼女が他の男と話をしているところを見て嫉妬にかられて彼女を刺してしまい、その結果彼女は死んだものと思い込んでいるのである。 伯爵はサンドリーナを見てヴィオランテが生きていたのを知りびっくりするが、彼女はあくまで自分はヴィオランテではなくサンドリーナだと言い張る。 また、ドン・アンキーゼの屋敷にはかつてアルミンダの婚約者でありながら彼女に捨てられた騎士ラミーロ (男だけれど、ソプラノが担当することになっている) も来ており、まだアルミンダをあきらめずに説得しようとする。
 伯爵がサンドリーナ (ヴィオランテ) に好意を持っていることを知ったアルミンダは一計を案じてサンドリーナを誘拐させ暗い森に捨てさせるのだが、彼女を追って伯爵が、そして伯爵を追って他の登場人物も森に入り込んでしまい、暗いために誰が誰か分からないまま思い違いをして思わぬカップル同士で愛を誓い合ってしまう。
 それやこれやの混乱ののち、伯爵はヴィオランテ (サンドリーナ) と、アルミンダはかつての婚約者騎士ラミーロと、ナルド (ロベルト) はセルペッタと結ばれ、残ったドン・アンキーゼは当分は独り者だなと納得して幕となる。

 というようなオペラであるが、本公演では演出により、時代が今から約100年前の婦人参政権運動が高揚していた時代に変更され、それにともなって作中の女たちの無軌道な振る舞いや男を振り回すワガママぶりも、一種の女権運動という解釈で筋書きが進行していた。 ここをどう見るかが、本公演を成功と見るか失敗と見るかの分かれ目かも知れない。 私は率直に言って、理屈が勝った知識人向けの演出であり、あまり買えないなと思った。 演出の飯塚励生 (いいづか・れお: 男性) は日本人だが、生まれも育ちもNYで、NYの大学で演劇を修めたようである。 最初は俳優として、のちに演出にも手を染めるようになったとのこと。 日本でもいくつものオペラを演出しているらしい。

 歌手では、羽山晃生と増山のり子のふたりが傑出しており、前澤悦子も悪くなかった。 逆に、森靖博は声があまり通らず、イマイチの感。

 2回公演のうち2日目だったが、あまり大きくない会場とはいえ、平日の午後の上演ではどうかなという気もしたのだが、ほぼ満席だったようである。 さすが東京は文化水準が高いと言うべきか、或いは暇人が多いと言うべきか (笑)。

2月18日(木)      *ヴェルディ 『オテロ』

 ワーグナーの 『ジークフリート』 を聴いた翌日は、東京文化会館で夜6時半からヴェルディの 『オテロ』 を聴きました。

 1階正面後ろの方のAランク席で13000円。 入りは8割くらいだったろうか。 ただ、私は通路すぐ右脇の席だったのだが、同じ並びの座席は次に通路が来るまで客が誰もおらず、また前席にも客がいなかったので、ゆったりした気分で鑑賞できた。 チケットは次の日の 『偽りの女庭師』 と同時に新潟のチケットぴあで購入したのだが、もしかするとこの並びは地方都市用に割り当てられてでもいたのかも。

 指揮: ロベルト・リッツィ・ブリニョーリ
 演出: 白井晃
 合唱: 二期会合唱団
 児童合唱: NHK東京児童合唱団
 演奏: 東京都交響楽団
 キャスト:
 オテロ 成田勝美(テノール)
 その妻デズデモナ 日比野幸(ソプラノ)
 イアーゴ 大沼徹(バリトン)
 イアーゴの妻エミーリア 加賀ひとみ(メゾソプラノ)
 副官カッシオ: 岡田尚之(テノール)
 ヴェネツィア貴族ロデリーゴ 与儀巧(テノール)
 ヴェネツィア大使ロドヴィーコ 三戸大久(バスバリトン)
 前キプロス島総督モンターノ 鹿又透(バリトン)
 伝令 倉本晋児(バス)

 前日に 『ジークフリート』 を見たせいか、対比的にと言うべきか、とても楽な気持ちで音楽や舞台を堪能できたというのが率直な感想である。 ワーグナーみたいに肩肘張った感じにならないのだ。

 途中休憩25分をはさんで3時間ほどとちょうどいい長さだし、このオペラについてよく言われることであるが、合唱 (群衆) の使い方がたいへんに良くできていて、動きに満ちた舞台と、合唱を効果的に活かした音楽が相互にとてもよくマッチしている。 舞台装置は全体としてシンプルで、あまりごてごてした飾りだとか建物の模型だとかはなく、必要に応じて色の違う背景が織物のように降りてくるだけ。 そして舞台の平面にはゆったりした起伏が。 それが群衆のダイナミックな、時として波のような、或いは流砂のような動きを容易にしていたように思われた。

 このオペラの劇的な出だしは有名だが、そこのところ、つまり始まりは、文字どおり幕が切って落とされるのである――幕が上がるのではなく、幕が二つに割れて下に落ちるのである。 このように、幕や幕に準じる背景を効果的に使った舞台であった。
  
 歌手は、主要な3人はいずれも水準に達していたと思うが、なかでもイアーゴ役の大沼徹は見事。 声がよく通り、歌も安定している。 パンフによるとまだ若くこれからの活躍を期待される人材だそうだ。 オテロ役の成田勝美は、ただ朗々と声を張り上げていればいいところでは立派なのだが、技巧的な歌になるとちょっとぎこちなさみたいなものが感じられた。

2月17日(水)      *ワーグナー 『ニーベルングの指環』 第2夜 『ジークフリート』

 一昨々日までに何とか年度末のレポート採点と成績評価を終わらせて、一昨日から東京に来ている。

 東京の街を歩いていると中国人が大声でしゃべっているのが目につく。 バブルの頃は欧米人の姿が目立ったものだが。 首都はその時代の経済状況を如実に反映するのだろう。

 さて、昨年の初めに 『ニーベルングの指環』 のうち 『ラインの黄金』 と 『ヴァルキューレ』 を新国立劇場で鑑賞。 今年はその続きをというわけで、本日、新国での 『ジークフリート』 公演に出かけた。

 座席はBランク席で14700円。 早めにチケットをゲットしておいたので、3階の左端近くながら1列目。 同じ3階席でも、1列目とそれ以降では全然違う。 2列目以降だと、場合によっては前列の客の頭が邪魔になるのだが、1列目にはその心配がない。 だから安心して鑑賞できる。

 ただし、いつもながら新国の座席は尻が痛くなる。 今回は座布団を持参したが――といってもふだん愛車の運転席に敷いている奴で安物だけど――時間がたつとやはり尻が・・・・。 音楽評論家の許光俊も同じことを書いていたし、また今回の上京中にオペラを東京文化会館と紀尾井ホールでも聴いたが、尻は痛くならなかったので、新国の座席は欠陥品なのだと思う。 高い料金をとってるんだから、何とかしろと言いたい。 パンフが千円というのも内容に対して高い!

 また、去年もそうだったが、入口近くで労組の人から新国の労働条件を批判するチラシをもらった。 主役級だけではなく、舞台に関わるすべての人たちを大事にするオペラ劇場であってほしいものである。

 出演や演奏者は前2公演と同じだが――

 指揮: ダン・エッティンガー
 演出: キース・ウォーナー
 演奏: 東京フィルハーモニー交響楽団
 キャスト:
 ジークフリート: クリスティアン・フランツ
 ミーメ: ヴォルフガング・シュミット
 さすらい人(ヴォータン): ユッカ・ラジライネン
 アルベリヒ: ユルゲン・リン
 ファフナー: 妻屋秀和
 エルダ: シモーネ・シュレーダー
 ブリュンヒルデ: イレーネ・テオリン
 森の小鳥: 安井陽子

 舞台は、当然ながら前2作との共通性が見られる。 第1幕のミーメの住まいは、『ラインの黄金』 の舞台と類似しているし、第2幕でヴォータンがエルダの助言を得ようとする箇所は、『ヴァルキューレ』 の第3幕が病院の内部に擬されていたが、それに似ている。 そして最終場面のジークフリートとブリュンヒルデが結ばれるところでは、病院のベッドみたいな巨大な寝台が置かれている。 またヴォータンの武器である先のとがった槍のモチーフがいたるところに現れている。

 オペラの解説書にも書いてあることだが、この 『ジークフリート』 では第3幕で二人が結ばれるところで音楽が変わる。 最初の2幕は前2作で用いられたライトモチーフの織物で音楽ができているのであるが、ここに来ると叙情的で愛の場面にふさわしい音楽になる。 暗いトンネルを抜け出したような感覚。 逆に言うと、最初の2幕は辛抱辛抱なのだが――何しろ長いので――、前の 『ヴァルキューレ』 でも、説明的な部分の音楽と愛し合う二人 (ジークムントとジークリンデ) の音楽の出来がかなり違うと感じたので、ワーグナーの長大な作品の、部分部分ごとの音楽の仕上がりの違いがあらためて痛感されたといったところであった。

 歌手は粒ぞろいで、特に不満は感じなかった。

 でも、とにかく長い! 1時間半やって50分休憩し、また1時間半やって45分休憩し、また1時間半やってやっとおしまい。 開演が4時で終演が10時。 ったく、体力がないと聴けないのである。 第1幕が終わった後の休憩時間、ロビーで気分が悪いと言っているおばあさんがいたが、下手をすると命だって危ないかも。 演奏中に指揮者が倒れて亡くなったり (カイルベルト)、ピアニストが気分が悪くなって演奏を中断して数日後に亡くなったり (バックハウス) といった例はあるが、ワーグナーの作品では聴衆だって安全ではないのである。

 さて、あとは来月の 『神々の黄昏』 で終わりだが、体を大事にして体力を貯えておかなきゃあ。

2月13日(土)    *大学教授が殺人に走るとき――または、人を評価することほど困難な仕事はない

 朝日新聞インターネットニュースより。

 http://www.asahi.com/international/update/0213/TKY201002130135.html 

 米大学の女性教授、会議中に乱射 教職員3人死亡     2010年2月13日10時2分

【ニューヨーク=山中季広】    米南部アラバマ州ハンツビルにある大学で12日午後4時(日本時間13日午前7時)すぎ、教授を務める女性が銃を乱射する事件が起きた。居あわせた同僚教職員3人が撃たれて亡くなったほか、少なくとも3人が重傷を負い病院に運ばれた。警察は容疑女性を構内で取り押さえた。

 拘束されたのは、同州立大学ハンツビル校の生物学教授エイミー・ビショップ容疑者。 大学広報によると、この日、応用科学棟の生物学講座の教官会議の最中、いきなり銃を取り出し、同席者に向け次々に発射したという。

 地元メディアは、容疑者は同日朝に大学から終身教授の座に就けないと告げられたことに腹を立て、午後の会議で先輩教官らを撃ったと報じている。 会議には夫も同席しており、やはり警察に取り押さえられたとされる。

 ビショップ容疑者はハーバード大学で神経科学を専攻。人体細胞の培養研究で実績をあげていたという。

 同キャンパスには学生約7500人が在籍。事件直後、警察は構内の学生を避難させ、キャンパスを閉鎖した。

 ハンツビルは、州都モントゴメリーから北へ約300キロで、テネシー州境にも近い。

    ◇

 米国の大学では、特にすぐれた業績をあげた教授に 「テニュア」 と呼ばれる終身在職権が与えられる。 テニュアを得ると、本人の意に反して退職を強いられるおそれがなくなり、研究の自由度も高まる。 給与や講座維持などの面で一般教授より優遇されることも多い。

 テニュアを得るための審査は厳しく、しかも競争率が年々、高くなっている。 米教育省によると、1970年代には全米の大学教員の36%に与えられていたテニュアが、最近では21%の教員しか獲得できなくなっている。

      *

 以下、当サイト製作者のコメント。

 米国の大学教授のテニュアって、教授になれば皆与えられるのだとばかり思っていたが、そうではないらしい。 年々獲得が厳しくなっているというのは、大学教員という仕事の市場が厳しさを増していることの反映だろう。 競争社会の行き着く果て、と言うべきか。

 殺人を犯すのは論外だが、多分この事件では、女性教授の自己評価と大学による評価にズレがあって、そこから殺人に至ったものと考えられる。 その点でいえば、人ごとではないのである。

 といって、日本の大学ではテニュアという制度はなく、定年に達すればどんな有能な人でも退職することになっている。 今回のような事件を見ると、日本的な制度が必ずしも悪いわけではないことが分かる。 A教授にはテニュアを与えるがB教授には与えないという判断は、場合によってはきわめて難しく、当事者の不公平感を高めるばかりだからである。 

 しかし他方で、日本の大学でも教員に対する評価がかなり行われるようになっているという現実がある。 つまり米国の制度に近づきつつあるわけだ。

 新潟大学でも教員に対する評価が行われているが、はっきり言ってかなり問題が多い。 「評価によって分かるのは、評価する側の力量だ」 とはよく言われることだが、新潟大学でも評価する側にどのくらい力量があるのか、かなり怪しい現状が浮かび上がっている。

 それだけではない。 独法化以降、学内で准教授から教授に昇任することが、従来より困難になっている。 私などは独法化以前に教授になっていたからこの点ではラッキーだったと言っておこう。 日本のように、同じ職業間での勤務先移動があまりない社会で、「教授は学内の准教授を昇任させるのではなく学外から連れてこい」 というのはナンセンスであり、ひいては教員のやる気を損なうばかりである。 その辺が分かっていないから、新潟大学の上層部はダメだというのだ。

 二十年あまり前だが、広島大の万年助手が学部長を殺す事件があった。 あれも、たしか助手から昇任できない不満が原因だった。 新潟大学でも同じような事件が起こらないとも限らないのである。

2月12日(金)     *雑用に取られる時間

 朝、電気カミソリでひげを剃っていたら、表刃が欠けてしまった。 刃を買い換えようと思って、職場に行く途中で自宅近くのK電器に立ち寄ったが、在庫はなく、取り寄せになると言う。 困った。 取り寄せると来週になるそうで、来週は私は上京している予定だからである。

 この電気カミソリ、Y電器で購入したものだが、私には珍しく舶来品、なんて言葉は死語かもしれないので言い直すと、外国製品である。 やや重いのが難点だが、充電式であると同時に電気コードをコンセントに差し込んでも使えるので便利。 剃り心地もなかなかよく、アゴ下のあたりもきれいに剃れるので、電気製品は何でも日本製がベストとばかり思っていた私としては、外国製品も悪くないなと実感していた。

 しかし、これを買ったY電器は自宅から離れたところにあるので、街に用事のあるときでないと行くのが億劫だし、最近高騰しているクルマのガソリン代もかかるし、と思ってしまう。 明後日の日曜日に某シネコンに映画を見に行こうと考えていたので、そのときにY電器に立ち寄って、替え刃の在庫があればいいけど、なかったらどうしよう。

 こういう細かいことで時間や労力がとられるのは、暇な時期ならいいが、1年で一番忙しいこの時期には厄介だ。 この日は、K電器に立ち寄って替え刃がないと分かった後、某靴店に立ち寄る。 ゴム長を買い換えるためである。

 ここのところ雪の日が多いのでゴム長にはお世話になりっぱなしなのだが、一昨日、大学の構内で融雪して深い水たまりができているところを歩いていたら、右のゴム長内部に水が入ってきた。 どうやらどこかに小さな亀裂ができているらしい。 ずいぶん長く使っているから仕方がない。 しかし、買い換えるとなると、そう遠くはないものの靴屋まで行かねばならず、一昨日も昨日も教授会やら講座会議やらレポートの採点やらで忙殺されており、とても靴屋に出かける余裕はなかった。 というわけで、本日、やっと買い換えることができた。

 追記: 電気カミソリの替え刃は、結局購入したY電器にも在庫がなく――怠慢!――、東京に出かけた15日に新宿のヨドバシカメラで買うことができた。 さすが東京! しかし替え刃が3000円強もするのは高い! これじゃ、安い電気カミソリなら本体を含めて買えてしまう価格だ。 とほほほ。

2月11日(木)      *文学の好み

 文学読解演習という、少人数の教養科目を昨年度から始めた。 内外の有名文学作品を、演習形式で読んでいくというもの。 対象は新潟大学の人文学部以外の8学部の学生。 人文学部の学生なら専門の演習で文学をやることもできるが、人文学部以外の学生にはなかなかそういう機会がないからだ。 また、私自身、若い頃に読んだきりになっている有名作品を読み直す、或いは読み残してしまっていた作品を今さらながらに読んでおく、という意味もある。

 始めた昨年度第2期は10人に満たない学生しか来なかったので前途多難かと思っていたが、2回目になる今年度第2期は定員の15名がいっぱいになった。

 今年度取り上げたのは、シェイクスピア 『ロミオとジュリエット』、夏目漱石 『草枕』、バルザック 『谷間の百合』、三島由紀夫 『絹と明察』 の4作品である。

 集まった学生はあらかじめ締め出してある人文学部、それからなぜか誰も来なかった農学部と歯学部を除く6学部 (法、経済、教育、理、医、工) の学生たち。 演習形式なので毎回必ず発言しないといけないと定めてあるが、存外に色々な角度からの発言があり、私も 「なるほど」 と思わせられる場合が少なくなかった。

 もっとも、優秀な学生がいる反面、何でこの授業を取ったのかな、と首をひねる学生もいないではなかった。 また、今どきなので学期末に授業アンケートをとるのだが、その自由記入欄に 「 『草枕』 と 『谷間の百合』 は全然面白くなかった」 と書いた奴もいた。 まあ、文学に興味がある学生という前提での演習だけれど、好みは人それぞれだから、4つの作品がどれも等しく面白いということはないだろうとは思うが、4つのうち2つが全然面白くないというのは、文学に向いていないからじゃないか、と言いたくなってしまう。

 期末レポートとして、この4つの作品のうちから一つを選んで論じさせたのだが、内訳は、『ロミオとジュリエット』6名、『草枕』4名、『絹と明察』4名であった (1名はなぜかレポートを出さず)。

 気になるのは、『谷間の百合』 を選んだ学生が一人もいなかったことである。 うーん・・・・西洋文学を本来の専攻とする人間としては気になるところだ。 それにさっき言及したようなアンケートの回答もある。 西洋の風俗をバックとした物語に対する感性が、今の若い人にはなくなってきているのだろうか。

 たしかにバルザックの描写はやたら事細かいし、長たらしい――『谷間の百合』 は今回の4作品の中ではダントツで大部の作品である。 しかし、読むのに面倒くさいというなら、漱石の 『草枕』 だってかなり面倒くさい。 難しい漢語的な表現を濫発している箇所が目立ち、私のような年寄りでも註釈がないととても読めたものではないからだ。 それに比べれば 『谷間の百合』 は、一文一文ということならはるかに読みやすい。

 私は 『谷間の百合』 を高校生時代に読んだけれど、当時はあくまでプラトニックを装いながら実は・・・・というヒロインの振る舞いや心理に、それゆえのエロティックなところを感じ取って、そこに面白さを見いだしていたと思う。 今回は、フランス貴族の風俗、英国貴族との対比、作品内で詳しく叙述されている財産管理や資産運営、革命期の人間模様や処世術などに興味を惹かれた。

 私の考えでは、西洋文学への興味の持ち方として、私の高校生時代と現在 (五十代後半) の差は、普遍的なものではないだろうか。 若い頃は細かい風俗描写なんかには興味がわかず、とにかく作中人物の心理を追うことに夢中だ。 今回の授業でも、時代との関わりや昔の風俗習慣が今と異なっていたことが分からないと理解できない箇所――これはバルザックだけでなく 『絹と明察』 のように戦後間もない頃の日本を舞台とした小説についても言えることである――については私が縷々説明を施したが、作中人物の心理がどうなっているかということについては、学生諸君からなかなか鋭い、そして意表をつく発言が続出した。

 つまり、西洋文学への興味とは、若い頃の心理学的興味、年取ってからの昔の風俗習慣への興味、この二面に支えられていたわけだが、それが崩れて来ているのではないか。

 これは文学だけではない。 ヨーロッパの市民階級や貴族階級の風俗をバックとした映画には集客力はあまりないらしい。 例えば今で言えば、『ヴィクトリア女王 世紀の愛』 は 『アバター』 などに比べると問題にならないくらいの客数らしいし、東京ではどちらもほぼ同時期に始まって上映されているが、新潟市では 『ヴィクトリア女王』 のほうは大幅に遅れており、いまだに映画館に来ていない――春には来る予定だが。

 いや、もともと世界名作文学などは、限られた人間しか読んでいなかったわけではある。 昔だってバルザックより吉川英治や柴田錬三郎や司馬遼太郎を読む日本人のほうがはるかに多数だった。 しかし、現代において問題なのは、知識人やその予備軍である大学生も、好みが大衆化、或いは噛みやすく分かりやすい方向に行ってしまっている、というところなのである。 

2月6日(土)     *東京交響楽団第57回新潟定期演奏会     

 本日は、今年初めての東京交響楽団新潟定期演奏会である。 だが、2月3日夜以来の大雪で、新潟市内の交通事情がはなはだよろしくない。

 結局、私はバスで東響新潟定期に出かけた。 私の自宅のもよりバス停から新潟駅行きのバスに乗ると、まず弥彦街道を走るのであるが、ここの除雪がなっていない。 道路が凍結した雪のかたまりで凸凹。もともと道幅が狭いので、大型車同士は左右の揺れで接触事故を起こしかねず、超のろのろ運転。 それが116号線に出るとがらりと変わる。 新潟市当局には何とかして欲しい。 バスに乗っていた時間はちょうど1時間。 普通なら40分のところ。

 帰りは市内のクラシック音楽愛好仲間であるTomoさんにクルマで送っていただき、たいへん助かった。 御礼申し上げます。

 さて、今回の東響新潟定期、チケット完売ということだったが、雪の影響で逆に客席は空きが目立つ。 特にいつも満席に近い1階と2階正面が寂しかった。 雪の中をコンサートに来た客のために、指揮者の飯森さんが特別サービスでプレトークを行った。

 プログラムは、飯森範親指揮、ピアノ=河村尚子、ソプラノ=吉原圭子、テノール=高橋淳、バリトン=高田智宏、合唱=にいがた東響コーラス+新潟市ジュニア合唱団、コンミスが大谷康子で、下記の通り。

 モーツァルト: ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」
 オルフ: 世俗的カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

 苦労してりゅーとぴあまで出向いたせいかも知れないが、この日の演奏はことのほか身に沁みた。

 最初のピアノ協奏曲だが、少し大げさに言うと奇跡的な名演であった。 河村さんのピアノは音の粒が揃っていて、明晰すぎず暖かすぎず、ちょうどいい感じ。 出だしのあたりから、東響の弦の美しさもあいまって 「おっ、これは」 と思ったのだが、第2楽章の何とも言えない情感、第3楽章の独特のリズムをこめた表現と、本当に音楽が音楽になっていた。 曲が違うから比較するのも変だけど、こないだのN響とエッカートシュタインのグリーグよりはるかに良かった。

 楽団の配置は飯森さんのプレトークでの言われていたが対向型で、左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンの順。 コントラバスはチェロの後ろ。 この配置は後半も変わらず (演奏者の数は増えたけど)。

 後半のオルフも満足できる演奏。 テノールの高橋淳は、最初は舞台に出ず、途中で客用の扉から1階に現れ、そこから舞台に上がる演出で、身振りも堂に入っており、むろん声は独特に印象深かった。 バリトンの高田智宏もなかなかいい声。 この曲、東響新潟定期で聴くのはたしか2度目のはずだが、前回の演奏はすっかり忘れていて、あれ、この曲ってピアノが2台も要るんだっけと、休憩時間に舞台作りをしているのをぼおっと眺めていて思ったけど、合唱の迫力、そして言うまでもなく東響の演奏も含め、入魂の演奏と言えるものであった。

 多忙な中 (行きのバスの中では学生の卒論を読んでいた)、苦労してりゅーとぴあまで行った甲斐があった。 最後に飯森さんの 「気を付けてお帰り下さい」 の一言があり、これもプレトークにもまして良かったなあ。

2月5日(金)     *26年ぶりの大雪

 新潟市内は一昨夜から大雪に見舞われている。

 私は昨朝は1時間以上かけてクルマの前と上の雪を取り除きなんとか職場までクルマで来たが、一夜明けたら昨朝よりひどい有様に、とうとう本日はクルマ使用をあきらめてバスにした。 自宅からバス停まで、普通に歩けば5、6分だが、本日はその倍の時間が。 さいわいあまり待たずにバスは来たけど、のろのろ運転でやはりふだんの倍か3倍程度の時間を要した。

 でもバスで正解。 職場に来てみたら、駐車場の入口が放置自転車でバリケードされている。 もう入れませんよ、ということらしい。 昨日も、私はクルマに積んでいるスコップで除雪をして何とかクルマをとめるスペースを確保したのであるが――駐車場は全然除雪をしていないのである。 大学当局は何をやっているのか??

 私が新潟市に住むようになって今年でちょうど30年だが、もしかすると30年間で一番の大雪かも知れない――と思ったけど、ネットのニュースによると、26年ぶりの大雪なのだそうである。 てことは、私的なことで恐縮ながら、私が結婚した年以来ということになる。 

 もしかすると天は私の節目の年に大雪を降らせているのかも知れない。 前回は私の結婚記念で、今回は私の新潟在住30周年を記念して、ということで (笑)。

2月1日(月)     *原研二氏の遺稿2冊目が出版 "Offenheit und Ambivalenz"

 一昨年の秋に亡くなった原研二氏――学生時代私の1年先輩でその後は東北大学文学部独文科教授――の遺稿が3冊出版予定であることは以前この欄にも書いた (一昨年の9月29日を参照)。 そしてその第1冊目が出たというニュースは昨年12月24日のこの欄でお知らせした。

 このたび、遺稿の2冊目が刊行された。 1冊目はドイツ語による創作であったが、今回は学術論文集である。 内容もさることながら、ドイツ語で書かれていることもあり、専門家以外には近づきがたい本ではあるけれど、興味のある方はご購読いただきたい。

 出版社はPeter Lang、副題を含めたタイトルは、"Offenheit und Ambivalenz. Dichterische Modellierung von Geschichte und Politik bei Goethe, Sealsfield, Musil und Burckhardt" (率直と矛盾。ゲーテ、シールズフィールド、ムージル、そしてブルクハルトにおける歴史と政治の文学的モデル化) である。 なお、この本の序文として、原研二氏の兄君である英文学者・原英一氏 (前・東北大学文学部英文科教授、現在は東京女子大学教授) が英文で弟の紹介をしている。

1月28日(木)     *最近聴いたCD

 *ブルックナー: 交響曲第8番 〔ジュリーニ/ウィーンフィル〕 (Deutsche Grammophon、UCCG-3605/6、1984年録音、日本盤)

 ブルックナーの第8をまた買ってしまった。 コンチェルト2号さんお薦めのジュリーニによる演奏である。 ジュリーニらしくと言うべきか、テンポを動かしたり音の強弱をやたらつけたりということをせず、良く言えば悠長迫らず、悪く言えば何もせずに、ゆっくりと演奏している。 合計の演奏時間が87分を越えていて、この曲の演奏の中でもかなり長い部類に属するだろう。 正直言って、いくらなんでも第2楽章はゆったりし過ぎていて、もう少し緊迫感が欲しいと思った。 全体的にも言えることだが、とにかく緊張しない演奏なのである。 昨年末に買った同じ曲のムラヴィンスキー盤とは対極にある解釈。 このCD、貧弱なCDラジカセなどで聴いてはいけない。 曲の捉え方より響きを重視しているようなので、或る程度音の良いオーディオ装置で、音量も大きめにして聴くと悪くない、んじゃないだろうか。

 *水の音楽 〜オンディーヌとメリザンド〜 〔ピアノ=青柳いづみこ〕 (キングレコード、KICC 363、2001年録音)

 ピアニストの青柳いづみこさんは文章家としても知られている。 彼女には 『水の音楽 オンディーヌとメリザンド』(みすず書房) という著書があって、文学・美術・音楽にわたって登場するファム・ファタル (宿命の女) を論じているが、その音楽の部分をみずから演奏したディスクがこれである。 リストの 「エステ荘の噴水」、ラヴェルの 「水の戯れ」、ドビュッシーの 「水の反映」、ラヴェルの 「オンディーヌ」、ショパンのバラード第2・3番、リストの 「ローレライ」、リストの 「波を渡るパオラの聖フランチェスコ」、ラフマニノフの 「バルカロール」、フォーレの 「シチリアーナ」 が収録されている。 演奏は、悪くはないが、日本人的でやや平板な感じがする。 特にフォルテのときの打鍵の強靱さが不足していて、欧米人との骨格の差が音に出てしまっているのである。 私が好む女性は骨の細い華奢なタイプなのだが、音楽となるとちょっと別なのだ。 世の中、なかなか難しい。

1月25日(月)      *久しぶりに本を処分する

 文系研究者の悩みは、本置き場である。 私も例に漏れず、自宅書斎も学校の研究室も本を置くスペースがなくなりかけている。

 それで、本日、久しぶりに本を古本屋に売り払った。 といっても段ボール3箱半くらいで、焼け石に水なのであるが。 ちなみにこのくらい売って得たのは5000円である。

 もっと思い切って処分すればいいと自分でも思うのだけれど、売れない本には理由がある。

 (1) この先読まないと分かっているが、昔読んで感銘を受けた記憶が残っているので売れない。

 (2) せっかく苦労して買いそろえた本なので、いざとなったら同じ本を図書館などで探せばいいと分かっていても売れない。

 (3) 今は使わないが、この先使う可能性もあるので売れない。

 問題は(3)である。 使う可能性がある、といってもその度合いは本によって差がある。 多分使うだろうというものもあれば、万が一のために、程度のものもある。 なぜ万が一となるかと言えば、私の場合、研究と授業とがかなり乖離しているからだ。 研究用にはまず使わない本でも、授業用にはもしかしたら使うかもしれないと考えると、売れなくなる。

 授業と言っても、今は専門性にこだわらなくなっていて、おまけに私のいる場所は何デモアリなので、可能性は無限に広くなるばかりである。 そうなるとどんな駄本でも使う可能性はあるということになってしまう。 そして、正統的な学術本はともかく――もっとも新潟大学の図書館にはそれすらない場合が多いことは下で (1月20日) 書いたとおりだが――駄本の類は大学図書館にはまず置いていないから、自分で持っているしかないのである。 

1月23日(土)     *アメリカの病――公立大学長 (私立大もそうだが) の報酬がこんなに高くていいのか?

 CNNのニュースより。

 http://www.cnn.co.jp/fringe/CNN201001190027.html 

 首位はオハイオ州立大の1億4千万円余、公立大学長の報酬調査

ニューヨーク(CNNMoney) 米国の公立大学長の報酬調査で、オハイオ州立大学の学長が昨年、160万ドル(約1億4560万円)を受け取り、2年連続の首位だったことが教育関連の出版会社のまとめで18日分かった。前年から30万ドル増えている。

次いで、ワシントン大学の90万5004ドル、3位にはデラウェア大学の81万603ドルが入った。

調査は、ワシントンに拠点がある「Chronicle of Higher Education」が185公立大を対象にまとめた。年俸、その他の手当が含まれている。

唯一、100万ドルの大台を超えていたオハイオ州立大の学長は報酬のうち32万850万ドルを同大の奨学金基金に寄付していたという。米景気の低迷で、大学が授業料値上げ、クラス削減などに動いている中、学長の高額報酬は学生、両親や政治家らの不満を買うことが目立ち始めているという。

基本年俸額が変わらなかったのは3分の1以上の大学で、削減したのは10%あった。

同社は昨年11月、米国のトップ私立大の学長で報酬が2008年に100万ドル超だったのは23校と報告していた。

昨年の公立大学長の報酬の中間水準は43万6111ドルで、08年比で2.3%増。インフレ率を考えれば、1.1%増だった。

 実は、昨日から堤未果 『ルポ 貧困大国アメリカ U』(岩波新書) を読んでいる。 これはベストセラーになった 『ルポ 貧困大国アメリカ』 の続編だが、その第1章で、アメリカでは最近公立大学の学費が無茶苦茶に引き上げられているという指摘がなされている。 州立大の名門カリフォルニア大の例が挙げられているが、インフレや州予算の逼迫などが原因とされるけれど、その一方で学長や理事にはきわだった高額の報酬が支払われているという。 

 具体的には、カリフォルニア大では2007年に数人の役員に対して総額8億5千万ドル (約850億円) のボーナスが支払われ、これはこの大学の年間予算の12%に当たるという。 一方、カリフォルニア大学バークレイ校の教員の給与は、准教授で平均7万7千ドル (770万円)、教授の平均で17万五千ドル (1750万円) だという。 (さすが、カルフォルニア大学バークレイ校だけあって、教授の給与はワタシなんぞよりはるかに高いと感心。 もっとも准教授よりはワタシのほうが高いので、少しほっとしたけれど。)

 要するに近年のアメリカの格差拡大を、公立大学もやってます、という話なのだ。 そうでなくともアメリカの名門私大は学費がバカ高くて、裕福な家庭の子女以外はほとんど入れないのに、本来恵まれない家庭の優秀な子女に高等教育の機会を与えるべき公立大学まで同じことをやっているのだから、こうなるとアメリカという国はもうダメなんじゃないか、と言いたくなってしまう。

 くれぐれも日本がこの点、アメリカの後追いをしないように、用心しなくてはなるまい。

     *      *

        *弘法も筆の誤り?

 久しぶりに山形浩生のサイトをのぞいてみた。 雑文に色々教えられるところが多い。 例えばグーグルによるブック検索の意義を説いている文章なんか、「なるほど」 と思わせられた (↓)。

 http://cruel.org/other/googlegreat.html 

 だけど一方で以下のような文章もあって、あれ?と思う。 「各種の噂」 の2009年11月なんだけど。

 >そういえば、こないだ歌舞伎を見に行ったら、福田赳夫もきてたんだよなあ。その後鳩山もきたそうだし、政治家の必修演目かなんかの?

 福田赳夫はとっくに死んでるんじゃなかったけ?と思い、念のため調べてみたが、やはり1995年に死去している。 息子の福田康夫と間違えている?

 橋本治はもう読む価値がないからその本を処分したけれど、呉智英はまだ価値を失っていない、と書いてあるのには、ちょっとびっくり。 いや、その意見には必ずしも反対ではないが、山形浩生が呉智英を読んでいるとは知らなかったので。

1月20日(水)     *新潟大学の幹部は何も考えてない――「学生」の視点に立った研究って何だ?

 私はかねてから、新潟大学の幹部はバカだという意味のことをこのサイトで書いてきた。 本日もまた、そう言いたくなってしまう通知が送られてきたので紹介しよう。

  本日午後、下記のようなメールが当局から舞い込んだ。

   新潟大学行動規範の制定について(通知)

  このことについて,学長から,本学の役員並びに教職員が,本学における教育・
 研究活動に関する法令を順守するとともに,社会から信頼される大学づくりを目指
 すことを大学内外に示すため,新潟大学行動規範を下記のとおり制定した旨の通知
 がありましたので,お知らせいたします。

 で、その 「新潟大学行動規範」 とやらは次のようなものである。

 新潟大学行動規範

 本学は,高志の大地に育まれた敬虔質実の伝統と世界に開かれた海港都市の進取の精神に基づいて,自律と創生を全学の理念とし,教育と研究を通じて地域や世界の着実な発展に貢献することを全学の目的としています。
 本学が,地域社会と一体となって発展を遂げていくためには,全ての教育・研究活動において,社会からの信用をいただくことが重要です。
 本学の役員及び教職員は,教育・研究活動に関する法令を遵守するとともに,教育・研究倫理を徹底し,社会的良識をもって公正・公平かつ透明に業務を遂行し,地域社会からの期待に応えるとともに,総合大学としての一層信頼される大学づくりに全力を尽くします。

 私たち役員及び教職員は,「学生」の視点に立った学生主体の取組を行います。
 安全で働きやすい職場環境を確保し,明朗にして自由闊達な教育・研究環境をつくります。
 地域に生きる大学として,地域へのまなざしをもった社会貢献活動を行います。
 政治・行政とは,健全かつ透明な関係を維持し,また,取引先は全て透明・公正に選定し,法令遵守の下,質的に高く安全確実な取引を行います。

 こういう文章を読むと、私は絶望的な気分になる。 「学生」 の視点に立った学生主体の取組? へえ、研究を学生の視点に立って行うんですか? じゃあ、中等教育(つまり高校)を終えて大学に入ってきたばかりの、或いはせいぜいその後4、5年学んだだけの、20歳前後の年齢層の人間に興味が持て、なおかつ理解できる範囲内での研究しかやらないということなんでしょうね。 

 冗談も休み休み言いなさいって! そんな「研究」 しかやらない大学がいったい世界のどこにある!?

 要するにこれは、新潟大学は大学じゃありません、20歳前後の年齢層の人間だけを対象とした教育機関に過ぎないのです、と言っているのと同じことなのである。 つまり、この 「行動規範」 は事実上の研究放棄宣言にほかならない。

 学長がこういうことをやっているわけだから、教職員の志気が上がるわけがないのである。 実に情けない。 早い話が、「学生主体」 という流行語をいれておけば受けるだろうという、まったく何も考えていない貧しい精神しか、この 「行動規範」 からは読みとれないのである。

 追記 (2/10): その後、人文学部教授会で某教授から、私が問題にした箇所について疑義が出された。 誰が読んでもおかしい文章なのだということがここからも分かるだろう。 学部長のお答えによると、大学上層部から出てきたもので、事前に内容等についての相談はなかったそうである。 新潟大学上層部の知性の程度がここからも知れてしまう。 ね、そうでしょう、S藤先生?

               *

    *「学生主体の取り組み」 をするなら、ちゃんと図書館の蔵書を充実させるべし

 少し前、大学からもらう年間の個人研究費に1人当たり2万3千円ほどの追加があったので、私はそこから本を3冊買って新潟大学図書館に入れてもらうことにした。 事実上、私の個人研究費からの寄付だが、こうでもしないと新潟大図書館はどうしようもない状態だからだ。

 念のため。 前から何度も書いているけど、国立大学の独立行政法人化以来、新潟大の教員の研究費は激減しており、今年度も個人研究費 (教育費も含む) は約20万円しかない。 ここには学会出張旅費や、パソコンプリンターで使うインク代なども含まれている。 2万3千円の追加は、まあ、ないよりあったほうがいいけれど、雀の涙である。 独法化以前は、年間の研究費は約40万円であり、それ以外に出張旅費が年間6万円あった。 つまり半分になっているということだ。 上で引用した学長の手になるという 「行動規範」 なるものがいかにしらじらしいかが分かるだろう。

 ちなみに、今回私の個人研究費で買って新潟大図書館に入れてもらうことにした3冊は以下のとおり。 いずれも基本的な図書である。 このうち、『傲慢な援助』 は、OPACで調べれば分かるけどすでに日本の大学の多くに登録されている。 新潟大にないのが恥ずかしい、というくらいの基本図書なのである。 教員の個人研究費が半減しているといっても、こういうところを充実させているのなら納得もするのだが、いったいどこにカネを使っているのか分からない。 ったく、新潟大ってのは何をやってるんだろうねえ。

 ・ウィリアム・イースタリー 『傲慢な援助』(東洋経済新報社、3570円)

 ・塚本哲也 『メッテルニヒ』(文芸春秋、3150円)

 ・ジョージ・M・フレドリクソン 『人種主義の歴史』(みすず書房、3570円)

1月19日(火)      *靴を買い、眼科に行く

 午前中の授業を済ませてから、午後は外出して靴を買い、眼科に行く。 靴を買った理由は17日の記述を参照。 ただしT先生の勧めにも関わらず、デパートではなく、某ショッピングモールで買いました。 底が滑りにくいとわざわざ銘打ってある品なんだけど、どうかな。

 眼科に行ったのは、もう2〜3年来だが、特に右の目がよく霞がかかったようになって見えづらいからである。 診察の結果、白内障の初期症状だということで、しかしまだ手術をするほどの段階まで進んでいないと言われた。 ともあれ、見えづらさの原因が分かったということで、良しとする。

1月18日(月)      *小林繁氏を悼む

 プロ野球のジャイアンツとタイガースで投手として活躍した小林繁氏が昨日急逝された。 私は野球には特に関心はないが、報道で57歳とされていたので、あれ、オレと同年齢だったのかと今さらのように思った。 調べてみたら、小林氏は1952年11月、つまり私より約2カ月後の生まれである。 同じ学年だとは知らなかった。 まあ、それだけ私がプロ野球に興味が薄いということでもあるわけだが。

 57歳での死というと今どきの日本人の平均寿命から言っていかにも早いわけだが、私自身、50歳を過ぎてからは、いつ死んでもおかしくないと実感しており、小林氏もその意味では決して早すぎる死を迎えたわけではないと思う。

 小林氏がプロ野球の投手として活躍したのは70年代半ばから80年代初めにかけてである。 つまり私が大学を卒業して大学院に進んでから新潟大学に赴任する頃にかけてである。 こちらが専門的な職業に就くための訓練をし、職業人としてのスタートを切った時期に、小林氏は職業人としての全盛期を迎えていたことになる。

 私は小学生時代はともかくとしてその頃は野球に興味をなくしていたので、小林氏の活躍についても一つの例外を除いて記憶に残るところはない。 また有名な江川事件については私が触れるまでもないだろう。 以下では、その 「一つの例外」 について書いておこう。

 それは1976年の日本シリーズであった。 この年、巨人と阪急が日本一の座を争ったが、巨人は初戦から3連敗し、もう後がないというところに追いつめられていた。 そして第4戦は、10月29日午後、西宮球場で行われた。 

 この試合は、8回終了時点で2対2の同点。 巨人の投手は先発の堀内から小林に代わっていた。 そして9回表の巨人の攻撃。 7・8番打者が凡退し、ツーアウトで走者なしという場面で9番打者の小林投手が打席に入った。 ここで小林はシングルヒットを打って出塁した。

 私は後で述べる理由からラジオで実況放送を聴いていたのだが、この場面でラジオの解説者はこう言った。 「ツーアウトになって小林が出塁するのは良くないですね。 9回裏のピッチングに影響するかも知れないし、このまま延長戦になったら巨人は10回表は1番打者から攻撃が始まるほうが好都合なのだから、ここでは小林は凡退すべきだったでしょう。」

 いかにももっともらしい解説ではある。 しかし野球では何が起こるか分からない。 小林の次に打席に立った1番の柴田は本塁打を放ち、2点が巨人に入った。 つまり小林投手のシングルヒットは柴田の本塁打を、そして巨人の勝ち越しを呼び込んだのである。

 そして9回裏、小林は阪急打線を0点に押さえ、巨人にこのシリーズの初勝利をもたらした。 ラジオの解説者が面目丸つぶれであったのは言うまでもない。

 ところで、野球に興味のない私がなぜその時に限ってラジオの実況放送を聴いていたのだろうか。 聴いていた場所は、大学のドイツ文学研究室であった。 本来なら、そこでドイツ文学講読の授業がこの時間帯に行われるはずで、これは学部3・4生から大学院博士課程の学生、そして研究室助手までが参加する重要な授業なのである。 この時の私は修士課程の2年生であった。

 ところがこの日、学生たちが研究室に集まって授業開始を待っていると、教授宅から電話がかかってきた。 教授は大学から歩いて5分ほどの宿舎に住んでいたのだが、プロ野球日本シリーズをテレビで観戦していて、ちょうど試合がクライマックスにさしかかっているから少し待ってくれないかというのであった。

 仕方なくわれわれも、研究室にはテレビはないがラジオはあったので、日本シリーズの実況中継を聴くことにした。 そして小林のシングルヒットと柴田の勝ち越し本塁打、小林の力投による巨人勝利を知ったのである。

 少しして、教授が研究室に現れた。 われわれはニヤニヤしながら教授を迎えた。 巨人ファンの教授もニヤニヤしながら席についた。 

 今なら教授がこういうことをやると大学当局にクレームが行きかねない。 古き良き時代だったのかも知れない。 しかし、投手としてだけでなく、打者としても全力で野球をやる姿勢を、この時の小林氏は示したのではないかと今でも思うのである。 合掌。 

1月17日(日)     *今年2度目の転倒・・・・靴を新調しなきゃと思う

 昨日から大学入学センター試験の監督である。 以前にも書いたが、入試の監督としては個別学力試験よりはるかにきつい。 拘束時間が長いし、全国一律の進行からはずれてはならないからだ。

 大学 (試験会場) の集合時刻は朝の8時20分だが、万が一にも遅れてはいけないし、受験生の乗ったクルマで大学周辺の交通が渋滞することが予想されるので、かなり早めに到着する気構えで家を出る必要がある。 したがって起床は朝6時過ぎ。 ふだんは1限の授業があるときでも7時過ぎに起きているので、比較してみればセンター試験の大変さが分かる。 そして2日間とも業務が終わるのは午後6時を過ぎるのである。

 もっとも、今回は私は試験室主任ではなかったので、まだしも楽である。 3年ほど前にやったときは試験室主任で、主任は受験生への口達事項を全部口頭で言わなくてはいけないし、出欠表の作成など仕事が多いので、まさに激務なのである。

 閑話休題。 この日は、ここ数日もそうだったが冷え込みが厳しく、自宅前の道路は先日降った雪が凍結していた。 そのせいで、私は自宅の玄関を出てクルマに乗り込もうとした直前に滑って横向けに倒れてしまった。 幸いにして骨折とかそういう事態にはならなかったが、今年はこれで滑って転ぶのは2度目である――1度目については1月3日の記述を参照されたい。

 滑っての転倒は運が悪いと骨折や、頭を強打して致命傷になることもあるから、注意しないといけない。 3日の場合はうっかり滑りやすい靴を履いていったため床が濡れていただけで転倒してしまったが、本日は別の靴を履いていたにも関わらず滑ってしまった。 お陰で、靴を新しく買わないとダメだなと痛感した。

 今履いている靴は1万円くらいの品で、むろん高級品ではないが、さればといって安かろう悪かろうというほど格安だったわけでもない。 買ってからさほどの時が経過しているわけでもないのに、すでに底がすり減ってきている。 本日の転倒もそのせいであろう。

 試験監督jの休憩時間に、同じ部屋で一緒に監督をしているT先生に、どこで靴を買っているか訊いてみたら、私が上記の1万円の靴を買ったのと同じ店であった。 大学からあまり離れていない郊外型の量販店である。 しかしその店の品物は品質に問題があるということでは意見が一致した。

 デパートで買ったらどうですかとT先生に言われたが、デパートって、私はめったに行かないんだなあ。 さて、どうしようか。 しかし迷っていてまた転倒して致命的な打撲を負ったりすると困るので、決断は早くしなくては。

1月15日(金)      *大地震に見舞われたハイチを救え!――またはサユリストになってハイチに寄付を!

 カリブ海の小国ハイチが大地震に見舞われた。 近年、地球上ではしばしば大地震が起こっているが、日本からすれば地球の裏側ではあるけれど、個々人のできる範囲で寄付などにより救いの手を差し延べたいものだ。

 というような綺麗事というか、一般論だけ書いても面白くないので、この際、少し楽しめる記事を書くことにしよう。 面白いと思った人は寄付をお願いします。

 と言っても、ワタシはハイチに行った経験はない。 そもそも、ハイチに行ったことのある日本人はそんなに多くないと思う。

 だがしかし、日本映画でハイチを舞台にしている作品はちゃんとあるのだ。 それをご存じの方はどのくらいいるだろうか?

 それは 『ミラクルバナナ』(2005年) という作品である。 そしてこの映画のヒロインをしているのが、女優の小山田サユリなのである。 小山田さんは新潟県の、現在は新潟市になっている巻町出身である。 そして彼女のファンをサユリストという。

 えっ、サユリストって吉永小百合のファンのことじゃないの?と思う人は、古いのである。 いまやサユリストといったら小山田サユリのファンのことなのだ・・・・・・というのはちょっと大げさな表現だが、しかし小山田サユリの知る人ぞ知る魅力に通じていない人は、映画を知らない人だと断言しよう。

 彼女の素晴らしさが活かされた映画というと、まず 『好きだ、』 がある。 この映画ではヒロインは宮崎あおいで、小山田サユリはその姉という役どころなのだが、ワタシに言わせれば宮崎あおいなんかより小山田サユリのほうがはるかに魅力的なのである。

 そしてこの 『ミラクルバナナ』 で小山田サユリは堂々の主演をはっている。 この映画、ハイチをタヒチと間違えて (笑) 大使館派遣員に応募してしまったドジなヒロインが、ハイチの子供たちが貧しくてノートも買えないという実態を知り、ハイチの特産品であるバナナの木から紙を作ろうと考え、日本の紙漉職人に頼み込む、という筋書きである。 この紙漉職人を、一昨年亡くなった名優・緒形拳氏が演じているところも見どころなのだ。

 途上国への援助・国際協力をするという、実話に基づいた映画だけど、変に教訓めいているとかお説教臭いということもなくて、さわやかで、とってもいい映画なのである。

 この映画は現在DVDにもなっているから、未見の方は是非ごらんいただきたい。 そしてこの映画を見てハイチの実態を知り、なおかつ小山田サユリの魅力にイカれて無事に (?) サユリストになったら、今回の地震被害に寄付をしましょう。

 実は有言実行ということで私も本日、某郵便局に行ってみたのだけれど、まだハイチ大地震災害への寄付を受け付けてなかった。 何やってるのだろうねえ。 遅い! というわけで本日は寄付をしそこねましたが、来週は絶対に寄付をしますので、皆さんもどうぞ。

 追記(1月18日): 本日、ようやくハイチ大地震災害への義捐金を郵便局にて振り込みました。 15日の郵便局とは別の局。 みなさんもハイチを支援しましょう!

1月12日(火)      *トンデモなレポート

 教養科目・西洋文学の第1回レポート (12月下旬〆切) を読んでいるところ。 この授業、ふだんは150人定員なのだが、今期だけ事情があって200人定員にしたので、レポートを読むのも例年にまして大変なのである。

 学期初めに、「ドイツ文学に関しては、日本語のネットにはろくな情報がないから、私の授業をちゃんと聴くのが一番だが、自分で調べるなら図書館で専門家の書いた本を読みなさい」 と忠告しておいたにもかかわらず、こういう時代だから仕方がないのかも知れないが、ネット情報を頼りに書く学生が少なくない。

 今回はトーマス・マンの 『トニオ・クレーゲル』 を論じることが課題だが、ネット上のシロウトの意見を参考にするとトンデモナイ間違いをしでかす。 例えばトニオは16歳でダンスを習い、その際に同席するインゲという女の子に恋をするのだが、「トニオはクラスメートのインゲに恋をする」 なんて記してあるサイトがあるらしく、それをそのまま引用している学生がいたりするのである。

 私はちゃんと授業中に次のように教えておいたのであるが。 「トニオは町の上流家庭の子供だから、そういう少年少女ばかり集まる場所で社交上必要なダンスを習うんですよ。 ちなみに、この頃のドイツは男女別学だから、トニオが学校でインゲに会うということはあり得ないわけ。」 

 かと思うと、主人公の名前を間違えて記す学生もいる。 クレーゲルをグレーゲルと間違えるくらいならまだマシなほうで、グレーデルなんて書いてある奴もいる。 これほど片仮名が読めないんじゃ、日本で生活するのも不便なんじゃないか。

 このくらいじゃトンデモ度が足りないと思う方もいるだろうから、もう少し愉快な例を紹介しておこう。 『トニオ・クレーゲル』 を論じるにあたって 「私がよく読む作家である大沢在昌と比較しながら論じる」 と最初に書いてあるレポートがあった。 私は残念ながら大沢の作品は読んだことがないのだが、大沢在昌とトーマス・マンを比較するという発想自体は奇抜で、もしかしたらかなり面白いレポートなのではないか、と一瞬期待したのである。

 ところが、その先を読むと、『トニオ・クレーゲル』は難解である、それは100年前のドイツ作品だからで、表現も難しいからである、それに対して大沢の作品は現代日本の大衆小説だからすらすら読める・・・・・・比較っていっても、これだけなのだ。 うーむ、でも、これだけ書くのにもかなり頭を絞ったのかもしれないなあ。 ネット上のシロウト見解を引き写しにするよりはマシ・・・・・だろうか、どうだろうか。

1月10日(日)     *ヨーロッパ系映画がさっぱり来ない新潟市――これでも政令指定都市か!?

 昨年も同じようなことを書いたけど、全然改善される気配もないので、しつこくまた書く。

 新潟市には現在、シネコン4館とミニシアター系のシネ・ウインドを合わせてスクリーン数で言うなら35に及ぶ映画館がある。 にも関わらず、そこで上映される映画はあまりに最大公約数的で、ハリウッド大作か邦画大手の作品、或いは逆に非常にマイナーで客が集りそうもないような作品と二極化しており、中間的な映画、東京で言えばシャンテ・シネ (現在はTOHO系列となり名称が変わっているけど) だとかル・シネマだとかガーデン・シネマだとかでやるような、特にヨーロッパ系の映画があまりかからない。

 東京やほかの政令指定都市に比べて劣っているのは言うまでもないが、近隣の、政令指定都市でない県庁所在都市と比較しても露骨に劣っているのである。 スクリーンの総数では負けていないのだから、これはもう、文化度の差、と言うしかない。 要するに新潟市は人口に比べてきわめて田舎なのだ!

 最近のヨーロッパ系映画で新潟市に来ない――現在作品サイトで見る限りでの判断である――映画が、近隣の9県、つまり東北6県と長野県と富山県と石川県にはどの程度来ているか比較してみよう。 言うまでもないが、この9県の中で新潟市をしのぐ規模の都市は宮城県の仙台だけである。

 『戦場でワルツを』        青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、長野、富山、石川で上映

 『ずっとあなたを愛してる』    青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、長野、富山で上映

 『倫敦から来た男』        石川で上映

 『ボヴァリー夫人』         石川で上映

 『マラドーナ』           宮城、長野、石川で上映

 『カティンの森』          富山、石川で上映

 『シャネル&ストラヴィンスキー』青森、岩手、宮城、福島、長野で上映

 こうしてみると、石川県、いや、金沢市が実にダントツで頑張っているのが分かる。 東北6県はフォーラム系映画館があるから、という言い方もできるかも知れないが、でも富山だって新潟よりはマシなのである。

 新潟市の映画館経営者の奮起を期待したい。 

 なお、『ヴィクトリア女王 世紀の愛』 も上の一覧に入れるつもりだったが、本記事アップぎりぎりの時点で、Tジョイ新潟万代で春に上映されると判明。

 追記: この記事をアップしてまもなく、『シャネル&ストラヴィンスキー』はシネ・ウインドで春 (3月から4月にかけて) に上映されると、ウインドのサイトに掲載された。 このほか、上には出さなかった映画だが、『クララ・シューマン 愛の協奏曲』 も4月にウインド上映される。 なぜ上に出さなかったかって? そりゃ、この 『クララ・シューマン』 は東京じゃあ去年の夏に上映されたからです。 いくら何でも8カ月遅れって、そりゃないでしょ、と言いたくなっちゃう。 やらないよりはマシだろ、と言われれば、まあそうかなとも思うんだけれど。

 追記2: その後、『マラドーナ』 はシネ・ウインドで4月に上映されることが決定した。

 追記3: その後、『ずっとあなたを愛してる』 はシネ・ウインドで上映予定と作品サイトに掲載された。 時期は現時点では (2/12) 書かれていない。

 追記4: その後、『カティンの森』 はユナイテッドシネマ新潟での上映が決定した。 (2/26)

1月6日(水)     *ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団 ニューイヤー・コンサート2010

 夜7時から、今年最初の演奏会に出かけた。 りゅーとぴあのコンサートホールはさすがに客がよく入っており、満席ではなかったものの、9割は埋まっていただろう。

 私は3階正面Iブロックの5列目で聴いた。 Aランク席で7000円。

 指揮 (ときどきヴァイオリンを弾きながらの弾き振りも披露) はヨハネス・ヴィルトナーで、曲目は以下のとおり。

 (前半)
 ヨハン・シュトラウスU: 「コウモリ」序曲
 同: 山賊のギャロップ
 ヨーゼフ・シュトラウス: 燃える恋
 ヨハン・シュトラウスU: ウィーン気質
 同: 農夫のポルカ
 同: 無窮動
 同: 皇帝円舞曲
 (後半)
 ヨハン・シュトラウスU: 「ジプシー男爵」入場行進曲
 同: 浮気心
 ヨーゼフ・シュトラウス: 鍛冶屋のポルカ
 ヨハン・シュトラウスU: ウィーンの森の物語
 ヨハン・シュトラウスT&U: ピチカート・ポルカ
 ヨハン・シュトラウスU: 観光列車
 同: 美しく青きドナウ
 (アンコール)
 上真行: 一月一日(唱歌)
 ヨハン・シュトラウスU: シャンパン・ポルカ
 同: ポルカ「雷鳴と電光」
 ヨハン・シュトラウスT: ラデツキー行進曲

 指揮者も団員も、客を愉しませることをよく心がけており、楽しい雰囲気のなかでコンサートが進行した。 途中休憩時間には、主催のNSTと新潟日報によるプレゼントのくじ引きも行われ、いかにも新年のイベントといったところ。 私が当たれば言うことなしだったのであるが(笑)、くじ運の悪い私のことで、残念ながら涙を呑む。 7時開演で終演は9時20分過ぎ、時間的にも十分。 強いて物足りないところを挙げるなら、「無窮動」 はタイトルどおり、もう少し長くやってほしかったことくらいかな。 アンコールの最後はお決まりのラデツキー行進曲で、客の拍手も堂に入っており、みなさん満足して会場を後にされたようである。

 余談ながら、NSTのアナウンサーは、りゅーとぴあホールの席番号を知らないようだ」。 くじ引きの時、例えば3階Iブロック1−5を 「3階、11の5」 と読んでいた。 修行が足りないのでは (笑)。

1月3日(日)     *卓球の打ち初め

 本日は少しだけ早起きして、新潟市の東総合スポーツセンターで午前9時から行われた卓球の練習に参加。 行われたといっても、特定の卓球クラブではなく、MM氏が私を初めとする知り合いの卓球人に声をかけて、それに応じたメンバーが初打ちをしたというもの。 合計12人が集まった。

 この日は少し積雪があったが、私の住居から東新潟に向かうバイパスは雪もなく交通はスムース。 もっとも、底が減って滑りやすい靴で出かけてしまったので、スポーツセンターの入口を入ってすぐの床が濡れていて滑ってしまい、仰向けに倒れてしまった。 新年早々危うい。 幸いにして後頭部を打つことはなかったので、事なきを得たけれど。

 12人で最初は基礎練習をして、後半は2人ずつでペアを組んでダブルスの試合を総当たりで。 十二分に汗をかいて、いい運動になった。

 われわれとは別に、三十代くらいのお父さんと小学校1年生くらいの可愛い女の子が卓球の練習にきていた。 以前、西総合スポーツセンターでもお父さんと美少女予備軍みたいな親娘ペアを見かけたことがあって (この欄にも書いた)、最初はあの親子かと思ったが、よく見るとあの時のお父さんは中国式ペンだったけれど今回のお父さんは日本式ペンだし、女の子もあの時よりちょっと小さく、別の親子のようだ。 女の子は、小学校1年くらいながら、フォアハンド・ロングのラリーはきちんとできるようで、感心。 将来が楽しみだ。 (フォアハンド・ロングのラリーがきちんとできる、なんて大したことがないみたいだけど、私の次男は中学時代いちおう卓球部だったのだが、一度一緒にやってみたら、フォアハンド・ロングのラリーもまともに続けられないので、あきれ果てたことがある。 いや、私が現在通っている社会人クラブだって、同様の人が結構いるのである。)

 閑話休題。 練習が済んだ後、せっかく東新潟まで来たのだからと、こちらのBOOKOFF2軒に寄ってみたが、たいした掘り出し物はなく、新書本を数冊買ったにとどまる。

 そうこうしているうちにお昼時になり、運動して腹も減ってきたので、大学に向かう途中の回転寿司屋で昼食にする。 午前中から卓球の練習をして、昼に回転寿司とはいえ寿司を食うというのは、私としては贅沢な一日。 新年だから、このくらいの贅沢は許されるであろう。 7皿食って735円だしね。

 寿司といえば、昨年末に某週刊誌を読んでいたら、不況で失業者が増えているという記事がある一方で、東京の銀座にある高級寿司店でも昼時は3千円台で寿司が食える、というような記事も載っていた。 昼飯に3千円以上かける奴の顔を見てみたいものだ。 不況だというのにこういう記事を平気で載せている週刊誌が大衆の味方で正義漢みたいな態度をとっているのは、滑稽千万。 ひょっとして週刊誌の記者はいつもそういう昼飯を食っているのだろうか。 国賊、じゃないか (笑)。

1月2日(土)      *初詣

 昨日はどこへも出かけなかったので、本日は、午前中に大学に行く途中で、内野町のあまり大きくない神社2社に初詣に寄った。 内野町には神社が何軒かあるのだが、どれも小ぶりで、新潟市内なら白山神社だとか護国神社みたいな大規模で人が沢山あつまる場所ではない。 私は混むところは嫌いだから、身近で手軽なところで済ませてしまいます。 神社、大きいが故に尊からず。

1月1日(金)     *新年のごあいさつ

 明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。

 さて、元旦だが、新潟市は冷たい風が猛烈に吹きすさぶあいにくの天気。 なので、一家三人、どこへも出かけず、家に籠もって過ごしました。

 私は書斎で、しばらく前にコンチェルトさんに問い合わせて先日ようやく入荷したシューマンの 『マンフレッド』 全曲盤CDと、ヘンデルのオラトリオ 『マカベアのユダ』 のCDを聴いて過ごしました。 後者は、新潟では毎年年末にヘンデルの『メサイア』が上演されるけれど、それ以外のヘンデルのオラトリオがさっぱり上演されないのはいかがなものか、という議論をさるところでしたので、そこからかける気になったもの。

 これに限らないけど、いつも同じモノをマンネリ的にやるのではなく、新潟市内の各方面の方々にも、何か新しいことに挑戦してほしいものである。 古町の没落だとか、新潟市内の状況は決して明るくないけれど、何か新しい芽が出れば気持ちだって明るくなるだろうし。

 じゃあお前は何をやるのかと問われそうだが、言行不一致で、新しいことはあまり始められそうもない。 すみません。 目下のところ、昨年刊行された 『シュトルム名作集』(全2巻、三元社) の続編が出る話が水面下で進行しており、実現すればまた私も一部分の訳を担当することになりそうだ、ということだけお伝えしておく。  

 

 

 

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