本日の毎日新聞記事より。
http://mainichi.jp/select/today/news/20100314k0000m040109000c.html
国立大学法人化: 経営側は評価 研究者は否定的 2010年3月14日
2時31分 更新:3月14日 2時31分
04年度に始まった国立大法人化について、全86大学の学長の3分の2が肯定的に評価する一方、研究現場を預かる学部長の半数は研究面で否定的な反応を示したことが、国立大学財務・経営センターのアンケート調査で判明した。新谷(しんや)由紀子・筑波大准教授(科学技術政策)らの調査でも現場教員の6割以上が研究や大学運営に悪影響があったと受け止めており、大学トップと現場の意識の乖離(かいり)が浮き彫りになった。【西川拓、江口一】
国立大学財務・経営センターの調査は08年12月〜09年2月、全国立大86校の学長や学部長らを対象に実施。全学長と学部長の7割が回答した。
学長の66%は 「自校によい結果をもたらしている」
と回答したほか、「大学の個性化」
「管理運営の合理化・効率化」
など15項目中7項目で8割以上が自校の法人化をプラス評価。
「研究活動の活性化」 「競争力向上」
など5項目でもプラス評価が6割を超えた。
逆に研究活動の活性化について学部長の21%は
「マイナス」、30%は 「ややマイナス」 と答えた。
一方、新谷准教授らは08年8月、全国の国立大の自然科学系の教員1000人を無作為抽出してアンケートを実施、183人から回答を得た。
69%が予算配分の削減など「研究に悪影響があった」と答えたほか、「教員や部局の意思が反映されない」
「教員が減り授業コマ数が増えた」 など、「大学運営」
で66%、「教育」 で51%が悪影響があったと回答した。
大学から教員に配分される基礎的な研究費は、回答者の平均で法人化前の年約150万円から法人化後は72万円余に半減したことも分かった。
研究テーマの変更や小規模化を余儀なくされたケースも多く、こうした不満が法人化への低評価につながったとみられる。
国立大学財務・経営センター研究部の水田健輔教授
(高等教育財政) は
「法人化後、教育・研究の現場がどれだけ傷ついたかを明らかにすべきだ。
国立大が果たすべき役割や位置づけとそれを支える土台作りを国全体で考える必要がある」
と指摘する。
* * *
以下、当サイト製作者のコメント。
新潟大学に勤務していて感じることだが、日本の大学の研究者というのは、管理職になった途端、バカになるということである。 今回、毎日新聞の記事を読んで、新潟大学だけじゃなく、日本全国に言えることなんだな、と痛感した。
学長の3分の2は独法化を評価しているということだが、記事の中にあるように、独法化以降、研究費は半減しているのである。 念のため言っておくと、この記事は文系理系合計で出しているから、文系ではとても記事の中にあるような額 (72万円) にはならない。 何度もこの欄にも書いているが、独法化以降、私の研究費 (教育費も含む) は年額20万円程度で推移している。
ごく大ざっぱに言うと、学長たちはこういう状態を評価しているわけだ。 これをバカと言わずして何と言うのだろう。
もう少し突っ込んだ言い方をすると、日本の研究者は、管理職になった途端、研究者であった時のことをあっという間に忘れてしまうのである。 そして文科省官僚だとか、外部の言うことばっかりを基準にものを考えるようになる。 大学の運営である以上、研究者としての視点も含めてモノを考えて行かねばならないはずだが、そのあたりのことはきれいさっぱり忘れてしまうのである。 君子豹変す、ですな。
その原因は何か。 以下、推測と独断を交えて書くが――
第一に、研究者はもともと臆病な人種だということだ。 肝っ玉がすわっておらず、上に立つ人間――文科省官僚など――に逆らう気力がそもそもない。 社会に出て立身出世しようというような、いい意味での上昇志向が薄く、今で言う草食系男子みたいな輩が学者になりがちなのだから、当然とも言えるだろう。
第二に、もともと大学内部では内部調整型、つまり外に向かってはっきりモノを言うのではなく内部でのごたごたを調整する内務型の人間が管理職になりやすい、ということである。 そもそもが外務型ではないのだから、外に対してモノを言えるわけがないのである。
第三に、研究者はしばしば世間的な常識、というか、実務についている人なら誰でも知っていることを知らなかったりする。 だから官僚からあなどられて、挙げ句の果てに言うことを聞くしかなくなるのである。 新潟大学で私が知っている例を挙げると、独立行政法人の情報公開法に基づいて情報公開を求める、という言葉の意味を理解していない人が学系 (いくつかの学部を集めたもの) の長になっていた。 なっていた、と過去形で書いたけれど、現在はさらに出世して理事になっている。 私としてはこんなにものを知らない人がどうして理事になるのか、まるっきり分からないのである。
第四に、研究者の中で特に優秀な人というのは、しばしば事務処理能力に優れた人でもある。 そういう人は重宝されて管理職になってしまったりするのだが、事務処理能力に優れた人というのは往々にして自分の意見をはっきり言わない人なのである。 つまり官僚型なのであって、上に立つ人間の意向に従って仕事をするだけであり、自分から積極的に立案をしたりすることが少ない。 また、立案しても、押しが弱いので、実際には物事をよく分かっていない人間の押しの強さに負けてしまうことが多い。
第五に、もともと日本人には定見といったものがないので、置かれた立場が変わるとたちまちにして脳味噌の中身も変わってしまう、ということである。 これは学長などの管理職になる場合に限らない。 教養部時代は第二外国語の意義を唱えていて、教養部解体した途端にドイツ語は不要だと言い出すドイツ語教師は、新潟大学にも複数いたからである。 つまり、大学の研究者なんてその程度なのである。
第六に、日本社会はそもそもが真のエリートを生み出すことができない社会なのかも知れない。 第二次世界大戦のとき、日本の軍隊についてアメリカなどが 「下半分は非常に優秀」 と評していた、という有名な話がある。 逆に言えばエリート軍人は駄目だ、ということであもる。 戦後日本の復興にしても、普通のサラリーマンの働きぶりが大きかった。 これに比べると、日本では上の方に立つ人間はあんまりぱっとしない。 日本社会がエリートを生まない社会だとすると、大学だって同じことなのではないか。
一昨日、新潟市美術館がクモが入り込むなど、管理が悪いということで、この4月に予定されていた国宝などの公開が文化庁から拒否されるという事件があった。
(以下、ネット上のニュースから引用)
新潟市の市美術館で4月下旬から開催予定の
「奈良の古寺と仏像」
展で、文化庁が国宝・重要文化財の計14点の展示を認められないと同市に通知したことが9日、わかった。2月に空間芸術の企画展で展示された電動カートから計30匹のクモが発生し、管理態勢の甘さを重くみた。
同展は、平城遷都1300年を記念し、奈良の法隆寺や東大寺などの仏教美術43点を展示する予定だった。なかでも中宮寺の国宝
「菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう)」
の展示は、東京以外で県外に出るのは初めてとなる一番の目玉だった。
同館では昨年7月にも展示作品の土壁にカビが発生した。
文化庁は
「カビの発生後は館内をクリーニングし再発防止態勢が整ったと聞いていたが、再びこのような事態が起こり、あまりにも意識が低すぎると判断した。このままでは同館での指定文化財の公開は認められない」
としている。
カビの発生は空調機を止めたため館内の湿度が上がったことが、クモの発生は電動カートの消毒が完全でなかったことがそれぞれ原因だった。文化庁は
「指定文化財の管理にも慣れた人がいない」
と同館の人材配置の問題も指摘している。
異例の事態を受け、北川フラム館長の今月末での更迭を決めた篠田昭市長は
「不安の払拭(ふっしょく)に全力をあげたい。
さらに(管理上)必要な調査をし、科学データも取って文化庁にお伝えし、展示できるような判断をいただけるよう努力したい」
と話した。 (引用終わり)
http://www.asahi.com/culture/update/0309/TKY201003090383.html
かと思ったら、本日は、佐渡のトキ保護センターで、トキが何羽も殺されるという事件が起こった。 動物が侵入したためらしいが、新潟県や新潟市の管理のできなさ加減は、ちょっとマズイなと思った。
(以下、ネット上のニュースから引用)
新潟県の佐渡トキ保護センターで、トキ9羽が死んだ。2010年秋の放鳥に向けた訓練中の惨事で、トキ関係者に衝撃が広がっている。
環境省は10日午後3時、会見で「残念なお知らせでございます。順化訓練をしていたトキが今、11羽いるんですが、そのうち8羽がけさ、死亡を確認いたしました」と話した。
国の天然記念物、トキが外敵の餌食となった。
10日午前8時すぎ、新潟県の佐渡トキ保護センターで、野生に戻るために訓練中だったトキ11羽のうちの8羽が死んでいるのを出勤してきた職員が発見した。
瀕死(ひんし)の状態だった2羽のうち1羽が、午後7時半すぎに死に、死んだトキはあわせて9羽となった。
環境省は「(外敵に襲われたことは?)これが初めてのケースです」と話した。 (引用終わり)
http://fnn.fujitv.co.jp/news/headlines/articles/CONN00173321.html
さて、話はがらっと変わるようだが、実は同じではないかと私が日頃から思っていることである。 新潟市唯一のミニシアター系映画館シネ・ウインドが出している 『月刊ウインド』 誌の最新号に掲載された2009年映画回顧の座談会のことだ。
実はこの話題、昨年も取り上げた。 だからまた書くのは気が引けるのだが、状況がまったく良くなっていないので、どうもこの問題は、今回の新潟市美術館やトキ保護センターの事故とつながっているのかもしれない、と思い始めていたところなのである。
『月刊ウインド』 誌3月号に掲載された2009年映画回顧座談会では、9人が参加しているのであるが、2009年1年間に見た映画の本数はというと、人によりかなり差があって、多い方から順番に並べると、285本、125本、95本、70本、59本、45本、34本、15本、5本、となっている。
こういう座談会だから、色々な人が登場するのは結構なことだと思う。 映画評論家はだしの人、まったくシロウトの視点から映画を見る人、邦画好き、洋画好き、韓流好き・・・・・各種勢揃いでいいとは思う。
だけど――映画の座談会に出る以上、本数は一定数以上見ていないとマズイのではないか。 1年間に映画を5本しか見ていない、15本しか見ていない――こういう人が、たとえ地方都市のミニシアター系映画館の、ヴォランティア・スタッフが出している雑誌であれ、年間回顧の座談会に出てしまうというのは、マズイのではないだろうか。 ちなみに、『月刊ウインド』はタダではない。 いちおう、値段をつけて売っているのである。
にもかかわらず1年に5本しか映画を見ていない人が年間回顧座談会に出てしまう。 意地の悪い人からすれば、所詮その程度の雑誌にすぎないからだよねと言われかねない――そういう意識が、ウインドの編集部にどの程度あるのだろう? こういう場に出てくるからには、どんなにヒドくても、最低30本は見ている人であってほしいものだ。 5本や15本の人というのは、基本的にこういうところに出る資格は、どんなに言い訳をしようと、ないと知るべきであろう。 最低30本というのは、映画好きと言われるための最低条件みたいなもので、決して過大な要求ではないと思う――月平均2,5本ということですからね。
所詮その程度に過ぎない――そう言われたっていいじゃん、とウインドの編集部は言うかも知れない。 だけど、そういう気分でやってきて、新潟市美術館や佐渡トキ保護センターは全国に対して大恥をかいたのではないのか。
実はこの問題は根が深く、私が勤務している大学の、勤務している場所にも同様の傾向がある。 あんまり具体的なことを書くわけにはいかないが、例えば映画をろくに見ておらず映画について知識をほとんど持たない学生がなぜか映画で卒論を書いてしまう――そういう、ちょっと信じられない傾向があって、しかしそれが深刻な問題だという意識は教師に必ずしも共有されていないのである。 (例として映画を挙げたが、映画の卒論だけのことではない。)
新潟市という場所のシロウト支配の問題は、もしかするとかなり広範囲に渡っている可能性がある。
*シューベルト: シラー歌曲集 第3&4集 (NAXOS、8.557369-70、2003-04年録音、2005年発売)
以前、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんで買ったCD。 歌曲の王シューベルトが、ドイツ古典期の文豪シラーの詩に曲を付けた全歌曲シリーズ全4枚中の後半2枚組CDである。 1枚目はテノールのロイター・オディニウスが、2枚目はソプラノのマヤ・ボークが歌っており、ピアノ伴奏はいずれもウルヒッヒ・アイゼンロールが担当している。 1枚目の収録曲は8曲で、「小川のほとりの若者(第1作)」D.30、「秘めごと(第1作)」D.250、「屍の幻想」D.7、「ハプスブルク伯爵」D.990、「小川のほとりの若者(第2作)」D.192、「期待」D.159、「秘めごと(第2作)」D.793、「小川のほとりの若者(第3作、第1版)D.638。 2枚目は10曲で、「春に寄す(第1作)」D.283、「ギリシアの神々の一節」D.677、「おとめの嘆き(第1作)」D.6、「おとめの嘆き(第2作、第1版)」D.191、「おとめの嘆き(第3作)」D.389、「ケレスの嘆き」D.323、「テクラ(精霊の声)(第1作)」D.73、「テクラ(精霊の声)(第2作、第1版)」D.595、「テクラ(精霊の声)(第2作、第2版)」D.595、「春に寄す(第2作、第2版)」D.587。 ――私の印象では、1枚目に面白い曲が多い。 特に1枚目第3曲の 「屍の幻想」 は19分近い大曲で、内容的にもかなり聞かせる曲である。 そのほか、「小川のほとりの若者」 の第2作と第3作も悪くない出来――似ているんだが、微妙に違う、そこを聞き比べるのがまた面白い。 同タイトルの第1作もちょっと似ているが、やはり第2作以降のほうが断然上出来である。 天才シューベルトにしてそういう調琢の過程があるということが、よく分かる。 ――これに対してCD2枚目にあまり印象に残る曲がないのは、ソプラノのマヤ・ボークの歌のせいかもしれない。 美声ではあるのだが、歌詞が極端に聞き取りづらい。 早い話が、声はあくまで楽器なのであって、歌詞を伝えようとする意志みたいなものが感じられない。 もっとも、歌に限らず、外国人の話す外国語では、男性話者に比べて女性話者の発音は聞き取りづらいものだが。 1枚目担当のテノールのオディにウスは美声であるのに加え、歌詞もしっかりと発音していて、とてもいい感じである。 シューベルトの歌曲は、やはり男声のものなのだろうか。
大伴家持に有名な歌がある。 万葉集第十九巻に載っているもので、私も昔、高校時代だったかに習った。
わが屋戸 (やど) の いささ群竹 (むらたけ) 吹く風の 音のかそけきこの夕 (ゆふべ) かも
なぜか最近この歌がしきりに思い出される。 どうも、体の調子がイマイチで、オレの人生も晩年に入ったなと痛感しているからであろう。 「いささ群竹」 というのは小さな竹林の意味で、私の家には竹林はないのであるが、竹林の音が 「かそけき」 というのが、体の老化・衰えを連想させるのである。 そして 「夕べ」 が人生の夕べを思わせる。 勝手読みかな?
ところで、上の歌で最初の5音が 「わがやどの」 というふうに ”の” で終わり、その次の7−5音がまた 「いささむらたけ ふくかぜの」 と ”の” で終わっているのは、単に意味上の都合からだろうか? 私には、同じ ”の” を続けることによって、同じ場所にとどまっているような、つまり閉塞感というか、動けずに同じ所でじっとしているような感覚が出ているように思うのだが、こんなことを言う国文学者はいるのかな? それとも、逆に専門家には常識なんだろうか?
もっとも、”の” を続けて使う例は、私も知っているような有名な和歌でも他に例がある。
石 (いわ) ばしる 垂水 (たるみ) の上の さ蕨 (わらび) の 萌え出づる春になりにけるかも
万葉集第八巻にある志貴皇子 (しきのみこ) の、これまた誰でも知っている歌である。 ここでも ”の” は続けて使われているが、やはり 「垂水の上の」 と 「さ蕨の」 と続けることによって、場所が一定であることが強調されているのではないか。 シロウト見解かも知れませんけどね。
午後、ウインドで映画を見てからりゅーとぴあまで歩く。 15分くらい。 開演約40分前に着いたら、ロビーがにぎやかなこと。 若い女の子がいっぱいなのである。 一瞬、「今の若い女の子にはオルガンリサイタルがブームなのか」
と思いかけたが、理性 (?)
を取り戻して、他の催し物に来ているのであろうと推測した。 入口脇の電光掲示板によると、SOPHIAのコンサートが劇場である模様。 開演時刻はオルガンリサイタルと同じく午後5時だが、すでに劇場からは長蛇の列で続いている。 おじさんにはSOPHIAが何者なのか分からない(すみません)。 後で調べてみたら、5人組のロックグループだそうだ。
劇場が若い女の子の長蛇の列で華やかなのとは対照的に、オルガンリサイタルの行われるコンサートホール前の列は短いこと! 年齢も高めだし、若い女の子は、いないではない、という程度。 あっちがピンクのイメージならこっちはネズミ色かな。 うーん、あまりに差がありすぎる。 むろん中高年には中高年の楽しみがあるので、何でも若い女の子が多けりゃいいってもんでもないけど、でも何となく寂しい。 こういう状況を改善するにはどうすればいいのか。 答えは明瞭である。 りゅーとぴあの専属オルガニストに、イケメンの若い男性を起用すればいいのである。 りゅーとぴあ専属オルガニストはずっと若いチャーミングな女性で続いており、私個人としては言うまでもなくそのほうがいいのだが
(笑)、でも今回も入りは200〜250人くらいかという状態で、会場の広さとは逆に劇場に負けている印象だし、山本真希さんはあと2年契約が続行されるようで、それはそれでいいけれど、その後くらいにどうだろうか、イケメン・オルガニストという路線では・・・・・。
閑話休題 (ほんとに閑話でした、すみません)。
さて、今回はフランスのオルガン交響曲ということで、プログラムは下記の通り。
ヴィエルヌ: オルガン交響曲第3番嬰ヘ短調op.28
(休憩)
ヴィドール: オルガン交響曲第6番ト短調op.42-2より第2楽章アダージョ
フランク: 交響的大作品嬰ヘ短調op.17
前半のヴィエルヌ、私はこの作曲家は晦渋という印象を持っていたのだけれど、山本さんの演奏のせいか、りゅーとぴあのオルガンのせいか、結構味があった。 特に第4楽章のアダージョとその後の第5楽章フィナーレが独特の節回しというか、色合いで楽しめた。 なお、私はヴィエルヌの伝記関係は全然知らなかったのであるが、生まれつき盲目に近いということで苦労したものの、最終的にはノートルダム大聖堂のオルガニストという、名誉ある地位につけたということである。
後半は最初がヴィドールの第6番からアダージョだけ。 これはこれで楽しめたが、第2楽章しかやらないのが残念。 私もヴィドールのオルガン交響曲に親しむようになったのは最近のことで、全10曲のうち5曲だけディスクを所有しているが、そのうち第6番はとても親しみやすい曲だし、オルガン交響曲の世界への導き手として悪くないと思うので、全曲は無理にしても、せめて全5楽章のうちどこかもう1楽章くらいは、と思ったことであった。
これは、実はこのリサイタルの所要時間とも関わる問題である。 前回もそうだったのだが、どうもプログラムの量が足りない気がするのである。 途中20分休憩を入れて1時間半でおしまい、アンコールも無し、というのは昨年11月のハイドン・プロと同じ。 足まで用いて演奏する曲だし演奏者としても大変なんだろうと拝察する。 また山本さんも他に色々仕事があってお忙しいのだろうとは思うけれど、ここのところのリサイタルが何となく事務的に行われているような感じがわずかながらもないとは言えない。 聴衆は少ないけど、ほとんどの方は熱心なオルガン音楽ファンなのだから、その期待に応えるためにも、「何かもう一品」
精神で行って欲しいと願うものである。
余計な話が入ったが、最後のフランクの曲、これはフランクのオルガン作品の代表作で、以前にもりゅーとぴあで取り上げられたことがあったと記憶する。 私もディスクを持っている曲だけど、何度聴いても把握ができない(笑)。 美しく壮大だけど複雑で容易に人を近づけない、そんな印象が今回も残った。 無論これは演奏云々の問題ではない。
最後になったが、チケット代金は昨年からのオルガンリサイタルシリーズ・セット券で900円
(安い!)。 これで文句を言うとバチがあたるかも知れないなあ。 席は、今回も前回と同様、3階正面左寄りであった。
*ラインベルガー: オルガン協奏曲第1・2番 (NAXOS、8.557787、1999年録音)
ラインベルガー(Joseph Reinberger, 1839-1901)は、リヒテンシュタイン生まれで、ドイツのミュンヘンで活動した作曲家である。 最近、新潟でもラインベルガーの音楽を普及させる会ができて、しだいに知られるようになっている。 その流れに私も乗って、このCDを買ってみた。19世紀の後半に活動した作曲家で、生まれた年で言うとブラームスの6年後、ということになる。 ここには彼のオルガン協奏曲2曲が収められており、第1番はヘ長調、第2番はト短調の曲である。 曲の作りはきわめて保守的というか、聴きやすいけれど、もう少し何かが欲しい、という気持ちにもなるようなものだ。 例えば第2番ならト短調という調性から何かパセティックで日常からはずれた感覚を期待したくなるが、あんまりそういうものはないようなのだ。 2曲とも、どちらかというと緩徐楽章のほうが面白い感じがした。 オルガン独奏はポール・スケヴィントン、バックは、ティモシー・ロウ指揮のアマデウス管弦楽団。 アメリカはヴァージニア州マックリーンのセント・ルーク・カトリック教会での録音である。
*シューマン: マンフレッド (全曲) (Kontrapunkt、32181、1994年録音、デンマーク盤)
わけあってシューマンの 「マンフレッド」 全曲盤を探していた。 ところがなかなか見つからない。 序曲だけならいくらでもディスクがあるのだが、全曲盤がないというのも意外だった。 ようやく、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんに探していただいた。 原作はロード・バイロンだから英語だが、シューマンはディートリヒ・シュタインベックによるドイツ語訳・編による歌詞に曲を付けている。 ミヒャエル・シェーンヴァント(Michael Schonwandt, 名字のoは実際にはoに斜めの線が入るアルファベット)指揮、ベルリン交響楽団(Berliner Sinfonie-Orchester)、ベルリン放送合唱団(Rundfunkchor Berlin)。 ナレーターはイェルク・グーズーン (Joerg Gudzuhn、oeはo-Umlaut)。 序曲の苦みのこもった勇壮さはわりによく知られているが、本編もなかなかで、特に最後の第3部は美しい。 そのあと、序曲がもう一度演奏されて終わる。
昨日のことだが、以前金沢市の北陸大学からいきなり解雇された田村光彰氏 (ドイツ語教授) とルート・ライヒェルトさん (同左) を支援する会の方からメールをいただいた。 原告勝訴である。 しかし大学側は控訴したそうなので、裁判はまだ続く。 こういう長期的な裁判は、関連する人たちで支え合わないと闘い抜くことはできない。 今後も引き続き支援体制を継続して行かなくてはならない。
いただいたメールは下記の通り。 この件に興味のある方は下記URLをごらんください。
〔最初の2文は省略。〕 三浦先生には、日頃からご支援をいただき感謝しております。
一昨日、金沢地裁において判決が申し渡されましたので、その報告とお礼を申し上げたいと思います。
判決は、予想通り、原告二人の解雇を無効とするものでした。
二人のためだけでなく、これからの諸状況を考えると、意味のある判例になったと思います。
本当にうれしい判決でした。
しかし、大学法人は即日控訴しましたので、裁判自体はまだまだ続きます。
二人の教育現場復帰もずっと先のことになるように思われます。
ご報告とお礼旁々これからもお二人のご支援よろしくお願い申し上げます。
裁判の詳細は添付ファイル 〔ここでは省略〕
の判決速報をご覧下さい。
本当にありがとうございました。
「田村・ライヒェルトを支援する会」世話人
東大教授というのは何かにつけて注目される存在だから、或る意味では気の毒だが、本日の毎日新聞を読んでいたら、どうかなあという例にまた会ってしまった。 「また」 というのは時々そういう例に会うからで、伊東乾 (『バカと東大は使いよう』) だとか、樺山紘一 (『エロイカの世紀』) なんかがそれに当たる。
今回は毎日新聞の 「論壇をよむ」 欄の、林香里・東大教授による 「制度外の幸せを求めて」 という文章である。 『中央公論』 誌に載った山田昌弘の文章を批判しているのだが、例えば、「(山田が)”元”若者(中高年男性)の読者たちに丁寧に説明している」 なんて文章がある。 どうして 『中央公論』 の読者が中高年男性に限定されるのだろう。 若者や女性が読んだって逮捕されるわけじゃあるまいし。
またその後にはこういう文章もある。 「戦後、経済基盤や制度を通して得られるわかり易い幸福を享受してきたのは、男性と男性的秩序の下に機能してきた社会の一部分だけだ」。 何というのかなあ、十年古いフェミニストって感じですよね、これは。
毎日新聞も、もう少し人選を考えたらどうだろうか。 毎日の書評欄はその独自性で読書人のあいだでは評価が高い。 それが 「論壇をよむ」 の林香里で帳消しになってしまいそうだ。
毎年2月に開催されているにいがた国際映画祭も、今回でちょうど20回目を迎えた。 人間なら二十歳で成人式である。
毎年欠かさず見に来ている私だが、今年は映画祭の日程が上京時期と重なってしまったため、本日のスタンダール原作 『赤と黒』 の1本だけを見ることとなった。 会場の市民プラザはかなり人が入っていた。
上映に先立って映画祭委員長の田中一広氏からあいさつがあった。 実は今回で一区切りと当局からは言われていて、次回があるかどうか分からないのだそうである。
また、今回は集客がイマイチだという話もあった。 私としても、仮に東京に行っていなくとも、見たいと思う作品が少ないなというのが実感だった。 ヨーロッパ系がもう少しあっていいのではというのが私の印象だが、これが集客力に欠ける原因だったのかどうかは、よく分からない。 あくまで私の好みでは、という話である。
新潟に来ないヨーロッパ系の映画は少なくない。 映画祭で拾ってもらわないとどうしようもないわけで、例えば今回なら数少ないヨーロッパ系映画として 『マンデラの名もなき看守』 が上映された。 私は東京で見てしまったが、なかなか良い映画で、映画祭で拾ってもらえて良かったと思うが、逆に言うと、シネコンのスクリーン数は新潟は結構多いのに、こういう良作が映画祭で拾われないと上映されないのは、新潟映画業界の怠慢だと言いたくなる。
というような、落ち穂拾い的な意味もあるので、映画祭はぜひ続けてほしいものだ。
本日は新潟に戻る日。
紀尾井ホールで午後2時から、モーツァルト中期のイタリア・オペラ 『偽りの女庭師』 を鑑賞。
紀尾井ホールにはこれまでも何度か来たことがあるが、どうも不親切だと思うのは、JR四谷駅のホームに紀尾井ホールに行くにはどちらの階段を上ればいいか書いていないし、また駅を出ても地図にホールが載っていないことだ。 改善を求む。
閑話休題。
このオペラ、もともとはイタリア語を用いたオペラ・ブッファで、セリフに当たる部分もレチタティーヴォ形式で歌われるのであるが、それとは別にドイツ語のジング・シュピール版もあるそうで、こちらは 『魔笛』 と同じくセリフは歌うのではなく普通の芝居のように語られるという。
この日の上演では、アリアはイタリア語での歌唱だったが、レチタティーヴォ部分も歌うと長くなるからという理由で、セリフは歌ではなく日本語で語られるという、言うならばイタリア語のオペラ・ブッファとドイツのジング・シュピールを合わせたような方式で上演された。 イタリア語のアリアは訳の字幕付き。
私の持っているイタリア語のレチタティーヴォ付きオペラ・ブッファ形式のCD (レオポルド・ハーガー指揮、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団) だと全曲で3時間25分かかるが、この日の上演は途中20分の休憩1回込みで3時間ちょうどであった。
紀尾井ホールは小編成オケや室内楽やピアノ独奏用のホールだが、この日は正面最前列の数列分の座席をはずして、そこに楽器奏者が陣取った。 オペラ用のホールではないので、舞台上には簡略な書き割りがあるだけで、必要な場合は映像を用いて背景を変える方式である。
私の席は正面やや左寄りの前から数列目。SS席で11000円。 好んでSSを買ったわけではなく、上京数日前に新潟のチケットぴあで購入したらこれしか残っていなかったのである。 ただしパンフが500円なのは良心的。
指揮: ヴィート・クレメンテ
演出: 飯塚励生
演奏: 東京室内歌劇場管弦楽団
キャスト:
ドン・アンキーゼ 羽山晃生(テノール)
女庭師サンドリーナ、実は侯爵令嬢ヴィオランテ 増山のり子(ソプラノ)
ベルフォーレ伯爵 森靖博(テノール)
アルミンダ(ドン・アンキーゼの姪) 前澤悦子(ソプラノ)
騎士ラミーロ 醍醐園佳(ソプラノ)
セルペッタ(女中) 赤星啓子(ソプラノ)
ナルド(ドン・アンキーゼの下男、実は本名ロベルト、ヴィオランテの下男) 鴨川太郎(バリトン)
ダンサー 水那れお、たまえ
このオペラのあらすじは以下のとおり。
侯爵令嬢のヴィオランテは名前をサンドリーナと偽ってドン・アンキーゼ
(原作では市長だが、この上演ではホテルのオーナーに変更されている)
の庭師をしている。 召使いのロベルトが彼女を守るためにやはり名前をナルドと変え彼女の従兄と偽ってドン・アンキーゼに雇われている。 ドン・アンキーゼはかつては女中のセルペッタに夢中だったが、今はサンドリーナに惚れて求婚している。 一方、ナルドはその女中のセルペッタに夢中。
そこへドン・アンキーゼの姪のアルミンダが結婚相手のベルフォーレ伯爵とやってくる。 実は伯爵はかつてはヴィオランテ
(サンドリーナ)
の婚約者だったのだが、彼女が他の男と話をしているところを見て嫉妬にかられて彼女を刺してしまい、その結果彼女は死んだものと思い込んでいるのである。 伯爵はサンドリーナを見てヴィオランテが生きていたのを知りびっくりするが、彼女はあくまで自分はヴィオランテではなくサンドリーナだと言い張る。 また、ドン・アンキーゼの屋敷にはかつてアルミンダの婚約者でありながら彼女に捨てられた騎士ラミーロ
(男だけれど、ソプラノが担当することになっている)
も来ており、まだアルミンダをあきらめずに説得しようとする。
伯爵がサンドリーナ (ヴィオランテ)
に好意を持っていることを知ったアルミンダは一計を案じてサンドリーナを誘拐させ暗い森に捨てさせるのだが、彼女を追って伯爵が、そして伯爵を追って他の登場人物も森に入り込んでしまい、暗いために誰が誰か分からないまま思い違いをして思わぬカップル同士で愛を誓い合ってしまう。
それやこれやの混乱ののち、伯爵はヴィオランテ
(サンドリーナ)
と、アルミンダはかつての婚約者騎士ラミーロと、ナルド
(ロベルト)
はセルペッタと結ばれ、残ったドン・アンキーゼは当分は独り者だなと納得して幕となる。
というようなオペラであるが、本公演では演出により、時代が今から約100年前の婦人参政権運動が高揚していた時代に変更され、それにともなって作中の女たちの無軌道な振る舞いや男を振り回すワガママぶりも、一種の女権運動という解釈で筋書きが進行していた。 ここをどう見るかが、本公演を成功と見るか失敗と見るかの分かれ目かも知れない。 私は率直に言って、理屈が勝った知識人向けの演出であり、あまり買えないなと思った。 演出の飯塚励生
(いいづか・れお: 男性)
は日本人だが、生まれも育ちもNYで、NYの大学で演劇を修めたようである。 最初は俳優として、のちに演出にも手を染めるようになったとのこと。 日本でもいくつものオペラを演出しているらしい。
歌手では、羽山晃生と増山のり子のふたりが傑出しており、前澤悦子も悪くなかった。 逆に、森靖博は声があまり通らず、イマイチの感。
2回公演のうち2日目だったが、あまり大きくない会場とはいえ、平日の午後の上演ではどうかなという気もしたのだが、ほぼ満席だったようである。 さすが東京は文化水準が高いと言うべきか、或いは暇人が多いと言うべきか
(笑)。
ワーグナーの 『ジークフリート』
を聴いた翌日は、東京文化会館で夜6時半からヴェルディの
『オテロ』 を聴きました。
1階正面後ろの方のAランク席で13000円。 入りは8割くらいだったろうか。 ただ、私は通路すぐ右脇の席だったのだが、同じ並びの座席は次に通路が来るまで客が誰もおらず、また前席にも客がいなかったので、ゆったりした気分で鑑賞できた。 チケットは次の日の
『偽りの女庭師』
と同時に新潟のチケットぴあで購入したのだが、もしかするとこの並びは地方都市用に割り当てられてでもいたのかも。
指揮: ロベルト・リッツィ・ブリニョーリ
演出: 白井晃
合唱: 二期会合唱団
児童合唱: NHK東京児童合唱団
演奏: 東京都交響楽団
キャスト:
オテロ 成田勝美(テノール)
その妻デズデモナ 日比野幸(ソプラノ)
イアーゴ 大沼徹(バリトン)
イアーゴの妻エミーリア 加賀ひとみ(メゾソプラノ)
副官カッシオ: 岡田尚之(テノール)
ヴェネツィア貴族ロデリーゴ 与儀巧(テノール)
ヴェネツィア大使ロドヴィーコ 三戸大久(バスバリトン)
前キプロス島総督モンターノ 鹿又透(バリトン)
伝令 倉本晋児(バス)
前日に 『ジークフリート』
を見たせいか、対比的にと言うべきか、とても楽な気持ちで音楽や舞台を堪能できたというのが率直な感想である。 ワーグナーみたいに肩肘張った感じにならないのだ。
途中休憩25分をはさんで3時間ほどとちょうどいい長さだし、このオペラについてよく言われることであるが、合唱 (群衆) の使い方がたいへんに良くできていて、動きに満ちた舞台と、合唱を効果的に活かした音楽が相互にとてもよくマッチしている。 舞台装置は全体としてシンプルで、あまりごてごてした飾りだとか建物の模型だとかはなく、必要に応じて色の違う背景が織物のように降りてくるだけ。 そして舞台の平面にはゆったりした起伏が。 それが群衆のダイナミックな、時として波のような、或いは流砂のような動きを容易にしていたように思われた。
このオペラの劇的な出だしは有名だが、そこのところ、つまり始まりは、文字どおり幕が切って落とされるのである――幕が上がるのではなく、幕が二つに割れて下に落ちるのである。 このように、幕や幕に準じる背景を効果的に使った舞台であった。
歌手は、主要な3人はいずれも水準に達していたと思うが、なかでもイアーゴ役の大沼徹は見事。 声がよく通り、歌も安定している。 パンフによるとまだ若くこれからの活躍を期待される人材だそうだ。 オテロ役の成田勝美は、ただ朗々と声を張り上げていればいいところでは立派なのだが、技巧的な歌になるとちょっとぎこちなさみたいなものが感じられた。
一昨々日までに何とか年度末のレポート採点と成績評価を終わらせて、一昨日から東京に来ている。
東京の街を歩いていると中国人が大声でしゃべっているのが目につく。 バブルの頃は欧米人の姿が目立ったものだが。 首都はその時代の経済状況を如実に反映するのだろう。
さて、昨年の初めに 『ニーベルングの指環』 のうち
『ラインの黄金』 と 『ヴァルキューレ』
を新国立劇場で鑑賞。 今年はその続きをというわけで、本日、新国での
『ジークフリート』 公演に出かけた。
座席はBランク席で14700円。 早めにチケットをゲットしておいたので、3階の左端近くながら1列目。 同じ3階席でも、1列目とそれ以降では全然違う。 2列目以降だと、場合によっては前列の客の頭が邪魔になるのだが、1列目にはその心配がない。 だから安心して鑑賞できる。
ただし、いつもながら新国の座席は尻が痛くなる。 今回は座布団を持参したが――といってもふだん愛車の運転席に敷いている奴で安物だけど――時間がたつとやはり尻が・・・・。 音楽評論家の許光俊も同じことを書いていたし、また今回の上京中にオペラを東京文化会館と紀尾井ホールでも聴いたが、尻は痛くならなかったので、新国の座席は欠陥品なのだと思う。 高い料金をとってるんだから、何とかしろと言いたい。 パンフが千円というのも内容に対して高い!
また、去年もそうだったが、入口近くで労組の人から新国の労働条件を批判するチラシをもらった。 主役級だけではなく、舞台に関わるすべての人たちを大事にするオペラ劇場であってほしいものである。
出演や演奏者は前2公演と同じだが――
指揮: ダン・エッティンガー
演出: キース・ウォーナー
演奏: 東京フィルハーモニー交響楽団
キャスト:
ジークフリート: クリスティアン・フランツ
ミーメ: ヴォルフガング・シュミット
さすらい人(ヴォータン): ユッカ・ラジライネン
アルベリヒ: ユルゲン・リン
ファフナー: 妻屋秀和
エルダ: シモーネ・シュレーダー
ブリュンヒルデ: イレーネ・テオリン
森の小鳥: 安井陽子
舞台は、当然ながら前2作との共通性が見られる。 第1幕のミーメの住まいは、『ラインの黄金』
の舞台と類似しているし、第2幕でヴォータンがエルダの助言を得ようとする箇所は、『ヴァルキューレ』
の第3幕が病院の内部に擬されていたが、それに似ている。 そして最終場面のジークフリートとブリュンヒルデが結ばれるところでは、病院のベッドみたいな巨大な寝台が置かれている。 またヴォータンの武器である先のとがった槍のモチーフがいたるところに現れている。
オペラの解説書にも書いてあることだが、この
『ジークフリート』
では第3幕で二人が結ばれるところで音楽が変わる。 最初の2幕は前2作で用いられたライトモチーフの織物で音楽ができているのであるが、ここに来ると叙情的で愛の場面にふさわしい音楽になる。 暗いトンネルを抜け出したような感覚。 逆に言うと、最初の2幕は辛抱辛抱なのだが――何しろ長いので――、前の
『ヴァルキューレ』 でも、説明的な部分の音楽と愛し合う二人
(ジークムントとジークリンデ)
の音楽の出来がかなり違うと感じたので、ワーグナーの長大な作品の、部分部分ごとの音楽の仕上がりの違いがあらためて痛感されたといったところであった。
歌手は粒ぞろいで、特に不満は感じなかった。
でも、とにかく長い! 1時間半やって50分休憩し、また1時間半やって45分休憩し、また1時間半やってやっとおしまい。 開演が4時で終演が10時。 ったく、体力がないと聴けないのである。 第1幕が終わった後の休憩時間、ロビーで気分が悪いと言っているおばあさんがいたが、下手をすると命だって危ないかも。 演奏中に指揮者が倒れて亡くなったり
(カイルベルト)、ピアニストが気分が悪くなって演奏を中断して数日後に亡くなったり
(バックハウス)
といった例はあるが、ワーグナーの作品では聴衆だって安全ではないのである。
さて、あとは来月の 『神々の黄昏』
で終わりだが、体を大事にして体力を貯えておかなきゃあ。
朝日新聞インターネットニュースより。
http://www.asahi.com/international/update/0213/TKY201002130135.html
【ニューヨーク=山中季広】 米南部アラバマ州ハンツビルにある大学で12日午後4時(日本時間13日午前7時)すぎ、教授を務める女性が銃を乱射する事件が起きた。居あわせた同僚教職員3人が撃たれて亡くなったほか、少なくとも3人が重傷を負い病院に運ばれた。警察は容疑女性を構内で取り押さえた。
拘束されたのは、同州立大学ハンツビル校の生物学教授エイミー・ビショップ容疑者。 大学広報によると、この日、応用科学棟の生物学講座の教官会議の最中、いきなり銃を取り出し、同席者に向け次々に発射したという。
地元メディアは、容疑者は同日朝に大学から終身教授の座に就けないと告げられたことに腹を立て、午後の会議で先輩教官らを撃ったと報じている。 会議には夫も同席しており、やはり警察に取り押さえられたとされる。
ビショップ容疑者はハーバード大学で神経科学を専攻。人体細胞の培養研究で実績をあげていたという。
同キャンパスには学生約7500人が在籍。事件直後、警察は構内の学生を避難させ、キャンパスを閉鎖した。
ハンツビルは、州都モントゴメリーから北へ約300キロで、テネシー州境にも近い。
◇
米国の大学では、特にすぐれた業績をあげた教授に 「テニュア」 と呼ばれる終身在職権が与えられる。 テニュアを得ると、本人の意に反して退職を強いられるおそれがなくなり、研究の自由度も高まる。 給与や講座維持などの面で一般教授より優遇されることも多い。
テニュアを得るための審査は厳しく、しかも競争率が年々、高くなっている。 米教育省によると、1970年代には全米の大学教員の36%に与えられていたテニュアが、最近では21%の教員しか獲得できなくなっている。
*
以下、当サイト製作者のコメント。
米国の大学教授のテニュアって、教授になれば皆与えられるのだとばかり思っていたが、そうではないらしい。 年々獲得が厳しくなっているというのは、大学教員という仕事の市場が厳しさを増していることの反映だろう。 競争社会の行き着く果て、と言うべきか。
殺人を犯すのは論外だが、多分この事件では、女性教授の自己評価と大学による評価にズレがあって、そこから殺人に至ったものと考えられる。 その点でいえば、人ごとではないのである。
といって、日本の大学ではテニュアという制度はなく、定年に達すればどんな有能な人でも退職することになっている。 今回のような事件を見ると、日本的な制度が必ずしも悪いわけではないことが分かる。 A教授にはテニュアを与えるがB教授には与えないという判断は、場合によってはきわめて難しく、当事者の不公平感を高めるばかりだからである。
しかし他方で、日本の大学でも教員に対する評価がかなり行われるようになっているという現実がある。 つまり米国の制度に近づきつつあるわけだ。
新潟大学でも教員に対する評価が行われているが、はっきり言ってかなり問題が多い。 「評価によって分かるのは、評価する側の力量だ」 とはよく言われることだが、新潟大学でも評価する側にどのくらい力量があるのか、かなり怪しい現状が浮かび上がっている。
それだけではない。 独法化以降、学内で准教授から教授に昇任することが、従来より困難になっている。 私などは独法化以前に教授になっていたからこの点ではラッキーだったと言っておこう。 日本のように、同じ職業間での勤務先移動があまりない社会で、「教授は学内の准教授を昇任させるのではなく学外から連れてこい」 というのはナンセンスであり、ひいては教員のやる気を損なうばかりである。 その辺が分かっていないから、新潟大学の上層部はダメだというのだ。
二十年あまり前だが、広島大の万年助手が学部長を殺す事件があった。 あれも、たしか助手から昇任できない不満が原因だった。 新潟大学でも同じような事件が起こらないとも限らないのである。
朝、電気カミソリでひげを剃っていたら、表刃が欠けてしまった。 刃を買い換えようと思って、職場に行く途中で自宅近くのK電器に立ち寄ったが、在庫はなく、取り寄せになると言う。 困った。 取り寄せると来週になるそうで、来週は私は上京している予定だからである。
この電気カミソリ、Y電器で購入したものだが、私には珍しく舶来品、なんて言葉は死語かもしれないので言い直すと、外国製品である。 やや重いのが難点だが、充電式であると同時に電気コードをコンセントに差し込んでも使えるので便利。 剃り心地もなかなかよく、アゴ下のあたりもきれいに剃れるので、電気製品は何でも日本製がベストとばかり思っていた私としては、外国製品も悪くないなと実感していた。
しかし、これを買ったY電器は自宅から離れたところにあるので、街に用事のあるときでないと行くのが億劫だし、最近高騰しているクルマのガソリン代もかかるし、と思ってしまう。 明後日の日曜日に某シネコンに映画を見に行こうと考えていたので、そのときにY電器に立ち寄って、替え刃の在庫があればいいけど、なかったらどうしよう。
こういう細かいことで時間や労力がとられるのは、暇な時期ならいいが、1年で一番忙しいこの時期には厄介だ。 この日は、K電器に立ち寄って替え刃がないと分かった後、某靴店に立ち寄る。 ゴム長を買い換えるためである。
ここのところ雪の日が多いのでゴム長にはお世話になりっぱなしなのだが、一昨日、大学の構内で融雪して深い水たまりができているところを歩いていたら、右のゴム長内部に水が入ってきた。 どうやらどこかに小さな亀裂ができているらしい。 ずいぶん長く使っているから仕方がない。 しかし、買い換えるとなると、そう遠くはないものの靴屋まで行かねばならず、一昨日も昨日も教授会やら講座会議やらレポートの採点やらで忙殺されており、とても靴屋に出かける余裕はなかった。 というわけで、本日、やっと買い換えることができた。
追記: 電気カミソリの替え刃は、結局購入したY電器にも在庫がなく――怠慢!――、東京に出かけた15日に新宿のヨドバシカメラで買うことができた。 さすが東京! しかし替え刃が3000円強もするのは高い! これじゃ、安い電気カミソリなら本体を含めて買えてしまう価格だ。 とほほほ。
文学読解演習という、少人数の教養科目を昨年度から始めた。 内外の有名文学作品を、演習形式で読んでいくというもの。 対象は新潟大学の人文学部以外の8学部の学生。 人文学部の学生なら専門の演習で文学をやることもできるが、人文学部以外の学生にはなかなかそういう機会がないからだ。 また、私自身、若い頃に読んだきりになっている有名作品を読み直す、或いは読み残してしまっていた作品を今さらながらに読んでおく、という意味もある。
始めた昨年度第2期は10人に満たない学生しか来なかったので前途多難かと思っていたが、2回目になる今年度第2期は定員の15名がいっぱいになった。
今年度取り上げたのは、シェイクスピア 『ロミオとジュリエット』、夏目漱石 『草枕』、バルザック 『谷間の百合』、三島由紀夫 『絹と明察』 の4作品である。
集まった学生はあらかじめ締め出してある人文学部、それからなぜか誰も来なかった農学部と歯学部を除く6学部 (法、経済、教育、理、医、工) の学生たち。 演習形式なので毎回必ず発言しないといけないと定めてあるが、存外に色々な角度からの発言があり、私も 「なるほど」 と思わせられる場合が少なくなかった。
もっとも、優秀な学生がいる反面、何でこの授業を取ったのかな、と首をひねる学生もいないではなかった。 また、今どきなので学期末に授業アンケートをとるのだが、その自由記入欄に 「 『草枕』 と 『谷間の百合』 は全然面白くなかった」 と書いた奴もいた。 まあ、文学に興味がある学生という前提での演習だけれど、好みは人それぞれだから、4つの作品がどれも等しく面白いということはないだろうとは思うが、4つのうち2つが全然面白くないというのは、文学に向いていないからじゃないか、と言いたくなってしまう。
期末レポートとして、この4つの作品のうちから一つを選んで論じさせたのだが、内訳は、『ロミオとジュリエット』6名、『草枕』4名、『絹と明察』4名であった (1名はなぜかレポートを出さず)。
気になるのは、『谷間の百合』 を選んだ学生が一人もいなかったことである。 うーん・・・・西洋文学を本来の専攻とする人間としては気になるところだ。 それにさっき言及したようなアンケートの回答もある。 西洋の風俗をバックとした物語に対する感性が、今の若い人にはなくなってきているのだろうか。
たしかにバルザックの描写はやたら事細かいし、長たらしい――『谷間の百合』 は今回の4作品の中ではダントツで大部の作品である。 しかし、読むのに面倒くさいというなら、漱石の 『草枕』 だってかなり面倒くさい。 難しい漢語的な表現を濫発している箇所が目立ち、私のような年寄りでも註釈がないととても読めたものではないからだ。 それに比べれば 『谷間の百合』 は、一文一文ということならはるかに読みやすい。
私は 『谷間の百合』 を高校生時代に読んだけれど、当時はあくまでプラトニックを装いながら実は・・・・というヒロインの振る舞いや心理に、それゆえのエロティックなところを感じ取って、そこに面白さを見いだしていたと思う。 今回は、フランス貴族の風俗、英国貴族との対比、作品内で詳しく叙述されている財産管理や資産運営、革命期の人間模様や処世術などに興味を惹かれた。
私の考えでは、西洋文学への興味の持ち方として、私の高校生時代と現在 (五十代後半) の差は、普遍的なものではないだろうか。 若い頃は細かい風俗描写なんかには興味がわかず、とにかく作中人物の心理を追うことに夢中だ。 今回の授業でも、時代との関わりや昔の風俗習慣が今と異なっていたことが分からないと理解できない箇所――これはバルザックだけでなく 『絹と明察』 のように戦後間もない頃の日本を舞台とした小説についても言えることである――については私が縷々説明を施したが、作中人物の心理がどうなっているかということについては、学生諸君からなかなか鋭い、そして意表をつく発言が続出した。
つまり、西洋文学への興味とは、若い頃の心理学的興味、年取ってからの昔の風俗習慣への興味、この二面に支えられていたわけだが、それが崩れて来ているのではないか。
これは文学だけではない。 ヨーロッパの市民階級や貴族階級の風俗をバックとした映画には集客力はあまりないらしい。 例えば今で言えば、『ヴィクトリア女王 世紀の愛』 は 『アバター』 などに比べると問題にならないくらいの客数らしいし、東京ではどちらもほぼ同時期に始まって上映されているが、新潟市では 『ヴィクトリア女王』 のほうは大幅に遅れており、いまだに映画館に来ていない――春には来る予定だが。
いや、もともと世界名作文学などは、限られた人間しか読んでいなかったわけではある。 昔だってバルザックより吉川英治や柴田錬三郎や司馬遼太郎を読む日本人のほうがはるかに多数だった。 しかし、現代において問題なのは、知識人やその予備軍である大学生も、好みが大衆化、或いは噛みやすく分かりやすい方向に行ってしまっている、というところなのである。
本日は、今年初めての東京交響楽団新潟定期演奏会である。 だが、2月3日夜以来の大雪で、新潟市内の交通事情がはなはだよろしくない。
結局、私はバスで東響新潟定期に出かけた。 私の自宅のもよりバス停から新潟駅行きのバスに乗ると、まず弥彦街道を走るのであるが、ここの除雪がなっていない。 道路が凍結した雪のかたまりで凸凹。もともと道幅が狭いので、大型車同士は左右の揺れで接触事故を起こしかねず、超のろのろ運転。 それが116号線に出るとがらりと変わる。 新潟市当局には何とかして欲しい。 バスに乗っていた時間はちょうど1時間。 普通なら40分のところ。
帰りは市内のクラシック音楽愛好仲間であるTomoさんにクルマで送っていただき、たいへん助かった。 御礼申し上げます。
さて、今回の東響新潟定期、チケット完売ということだったが、雪の影響で逆に客席は空きが目立つ。 特にいつも満席に近い1階と2階正面が寂しかった。 雪の中をコンサートに来た客のために、指揮者の飯森さんが特別サービスでプレトークを行った。
プログラムは、飯森範親指揮、ピアノ=河村尚子、ソプラノ=吉原圭子、テノール=高橋淳、バリトン=高田智宏、合唱=にいがた東響コーラス+新潟市ジュニア合唱団、コンミスが大谷康子で、下記の通り。
モーツァルト: ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」
オルフ: 世俗的カンタータ「カルミナ・ブラーナ」
苦労してりゅーとぴあまで出向いたせいかも知れないが、この日の演奏はことのほか身に沁みた。
最初のピアノ協奏曲だが、少し大げさに言うと奇跡的な名演であった。 河村さんのピアノは音の粒が揃っていて、明晰すぎず暖かすぎず、ちょうどいい感じ。 出だしのあたりから、東響の弦の美しさもあいまって 「おっ、これは」 と思ったのだが、第2楽章の何とも言えない情感、第3楽章の独特のリズムをこめた表現と、本当に音楽が音楽になっていた。 曲が違うから比較するのも変だけど、こないだのN響とエッカートシュタインのグリーグよりはるかに良かった。
楽団の配置は飯森さんのプレトークでの言われていたが対向型で、左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンの順。 コントラバスはチェロの後ろ。 この配置は後半も変わらず
(演奏者の数は増えたけど)。
後半のオルフも満足できる演奏。 テノールの高橋淳は、最初は舞台に出ず、途中で客用の扉から1階に現れ、そこから舞台に上がる演出で、身振りも堂に入っており、むろん声は独特に印象深かった。 バリトンの高田智宏もなかなかいい声。 この曲、東響新潟定期で聴くのはたしか2度目のはずだが、前回の演奏はすっかり忘れていて、あれ、この曲ってピアノが2台も要るんだっけと、休憩時間に舞台作りをしているのをぼおっと眺めていて思ったけど、合唱の迫力、そして言うまでもなく東響の演奏も含め、入魂の演奏と言えるものであった。
多忙な中
(行きのバスの中では学生の卒論を読んでいた)、苦労してりゅーとぴあまで行った甲斐があった。 最後に飯森さんの
「気を付けてお帰り下さい」
の一言があり、これもプレトークにもまして良かったなあ。
新潟市内は一昨夜から大雪に見舞われている。
私は昨朝は1時間以上かけてクルマの前と上の雪を取り除きなんとか職場までクルマで来たが、一夜明けたら昨朝よりひどい有様に、とうとう本日はクルマ使用をあきらめてバスにした。 自宅からバス停まで、普通に歩けば5、6分だが、本日はその倍の時間が。 さいわいあまり待たずにバスは来たけど、のろのろ運転でやはりふだんの倍か3倍程度の時間を要した。
でもバスで正解。 職場に来てみたら、駐車場の入口が放置自転車でバリケードされている。 もう入れませんよ、ということらしい。 昨日も、私はクルマに積んでいるスコップで除雪をして何とかクルマをとめるスペースを確保したのであるが――駐車場は全然除雪をしていないのである。 大学当局は何をやっているのか??
私が新潟市に住むようになって今年でちょうど30年だが、もしかすると30年間で一番の大雪かも知れない――と思ったけど、ネットのニュースによると、26年ぶりの大雪なのだそうである。 てことは、私的なことで恐縮ながら、私が結婚した年以来ということになる。
もしかすると天は私の節目の年に大雪を降らせているのかも知れない。 前回は私の結婚記念で、今回は私の新潟在住30周年を記念して、ということで (笑)。
一昨年の秋に亡くなった原研二氏――学生時代私の1年先輩でその後は東北大学文学部独文科教授――の遺稿が3冊出版予定であることは以前この欄にも書いた (一昨年の9月29日を参照)。 そしてその第1冊目が出たというニュースは昨年12月24日のこの欄でお知らせした。
このたび、遺稿の2冊目が刊行された。 1冊目はドイツ語による創作であったが、今回は学術論文集である。 内容もさることながら、ドイツ語で書かれていることもあり、専門家以外には近づきがたい本ではあるけれど、興味のある方はご購読いただきたい。
出版社はPeter Lang、副題を含めたタイトルは、"Offenheit und Ambivalenz. Dichterische Modellierung von Geschichte und Politik bei Goethe, Sealsfield, Musil und Burckhardt" (率直と矛盾。ゲーテ、シールズフィールド、ムージル、そしてブルクハルトにおける歴史と政治の文学的モデル化) である。 なお、この本の序文として、原研二氏の兄君である英文学者・原英一氏 (前・東北大学文学部英文科教授、現在は東京女子大学教授) が英文で弟の紹介をしている。
*ブルックナー: 交響曲第8番 〔ジュリーニ/ウィーンフィル〕 (Deutsche Grammophon、UCCG-3605/6、1984年録音、日本盤)
ブルックナーの第8をまた買ってしまった。 コンチェルト2号さんお薦めのジュリーニによる演奏である。 ジュリーニらしくと言うべきか、テンポを動かしたり音の強弱をやたらつけたりということをせず、良く言えば悠長迫らず、悪く言えば何もせずに、ゆっくりと演奏している。 合計の演奏時間が87分を越えていて、この曲の演奏の中でもかなり長い部類に属するだろう。 正直言って、いくらなんでも第2楽章はゆったりし過ぎていて、もう少し緊迫感が欲しいと思った。 全体的にも言えることだが、とにかく緊張しない演奏なのである。 昨年末に買った同じ曲のムラヴィンスキー盤とは対極にある解釈。 このCD、貧弱なCDラジカセなどで聴いてはいけない。 曲の捉え方より響きを重視しているようなので、或る程度音の良いオーディオ装置で、音量も大きめにして聴くと悪くない、んじゃないだろうか。
*水の音楽 〜オンディーヌとメリザンド〜 〔ピアノ=青柳いづみこ〕 (キングレコード、KICC 363、2001年録音)
ピアニストの青柳いづみこさんは文章家としても知られている。 彼女には 『水の音楽 オンディーヌとメリザンド』(みすず書房) という著書があって、文学・美術・音楽にわたって登場するファム・ファタル (宿命の女) を論じているが、その音楽の部分をみずから演奏したディスクがこれである。 リストの 「エステ荘の噴水」、ラヴェルの 「水の戯れ」、ドビュッシーの 「水の反映」、ラヴェルの 「オンディーヌ」、ショパンのバラード第2・3番、リストの 「ローレライ」、リストの 「波を渡るパオラの聖フランチェスコ」、ラフマニノフの 「バルカロール」、フォーレの 「シチリアーナ」 が収録されている。 演奏は、悪くはないが、日本人的でやや平板な感じがする。 特にフォルテのときの打鍵の強靱さが不足していて、欧米人との骨格の差が音に出てしまっているのである。 私が好む女性は骨の細い華奢なタイプなのだが、音楽となるとちょっと別なのだ。 世の中、なかなか難しい。
文系研究者の悩みは、本置き場である。 私も例に漏れず、自宅書斎も学校の研究室も本を置くスペースがなくなりかけている。
それで、本日、久しぶりに本を古本屋に売り払った。 といっても段ボール3箱半くらいで、焼け石に水なのであるが。 ちなみにこのくらい売って得たのは5000円である。
もっと思い切って処分すればいいと自分でも思うのだけれど、売れない本には理由がある。
(1) この先読まないと分かっているが、昔読んで感銘を受けた記憶が残っているので売れない。
(2) せっかく苦労して買いそろえた本なので、いざとなったら同じ本を図書館などで探せばいいと分かっていても売れない。
(3) 今は使わないが、この先使う可能性もあるので売れない。
問題は(3)である。 使う可能性がある、といってもその度合いは本によって差がある。 多分使うだろうというものもあれば、万が一のために、程度のものもある。 なぜ万が一となるかと言えば、私の場合、研究と授業とがかなり乖離しているからだ。 研究用にはまず使わない本でも、授業用にはもしかしたら使うかもしれないと考えると、売れなくなる。
授業と言っても、今は専門性にこだわらなくなっていて、おまけに私のいる場所は何デモアリなので、可能性は無限に広くなるばかりである。 そうなるとどんな駄本でも使う可能性はあるということになってしまう。 そして、正統的な学術本はともかく――もっとも新潟大学の図書館にはそれすらない場合が多いことは下で (1月20日) 書いたとおりだが――駄本の類は大学図書館にはまず置いていないから、自分で持っているしかないのである。
CNNのニュースより。
http://www.cnn.co.jp/fringe/CNN201001190027.html
ニューヨーク(CNNMoney) 米国の公立大学長の報酬調査で、オハイオ州立大学の学長が昨年、160万ドル(約1億4560万円)を受け取り、2年連続の首位だったことが教育関連の出版会社のまとめで18日分かった。前年から30万ドル増えている。
次いで、ワシントン大学の90万5004ドル、3位にはデラウェア大学の81万603ドルが入った。
調査は、ワシントンに拠点がある「Chronicle of Higher Education」が185公立大を対象にまとめた。年俸、その他の手当が含まれている。
唯一、100万ドルの大台を超えていたオハイオ州立大の学長は報酬のうち32万850万ドルを同大の奨学金基金に寄付していたという。米景気の低迷で、大学が授業料値上げ、クラス削減などに動いている中、学長の高額報酬は学生、両親や政治家らの不満を買うことが目立ち始めているという。
基本年俸額が変わらなかったのは3分の1以上の大学で、削減したのは10%あった。
同社は昨年11月、米国のトップ私立大の学長で報酬が2008年に100万ドル超だったのは23校と報告していた。
昨年の公立大学長の報酬の中間水準は43万6111ドルで、08年比で2.3%増。インフレ率を考えれば、1.1%増だった。
実は、昨日から堤未果 『ルポ 貧困大国アメリカ U』(岩波新書) を読んでいる。 これはベストセラーになった 『ルポ 貧困大国アメリカ』 の続編だが、その第1章で、アメリカでは最近公立大学の学費が無茶苦茶に引き上げられているという指摘がなされている。 州立大の名門カリフォルニア大の例が挙げられているが、インフレや州予算の逼迫などが原因とされるけれど、その一方で学長や理事にはきわだった高額の報酬が支払われているという。
具体的には、カリフォルニア大では2007年に数人の役員に対して総額8億5千万ドル (約850億円) のボーナスが支払われ、これはこの大学の年間予算の12%に当たるという。 一方、カリフォルニア大学バークレイ校の教員の給与は、准教授で平均7万7千ドル (770万円)、教授の平均で17万五千ドル (1750万円) だという。 (さすが、カルフォルニア大学バークレイ校だけあって、教授の給与はワタシなんぞよりはるかに高いと感心。 もっとも准教授よりはワタシのほうが高いので、少しほっとしたけれど。)
要するに近年のアメリカの格差拡大を、公立大学もやってます、という話なのだ。 そうでなくともアメリカの名門私大は学費がバカ高くて、裕福な家庭の子女以外はほとんど入れないのに、本来恵まれない家庭の優秀な子女に高等教育の機会を与えるべき公立大学まで同じことをやっているのだから、こうなるとアメリカという国はもうダメなんじゃないか、と言いたくなってしまう。
くれぐれも日本がこの点、アメリカの後追いをしないように、用心しなくてはなるまい。
* *
久しぶりに山形浩生のサイトをのぞいてみた。 雑文に色々教えられるところが多い。 例えばグーグルによるブック検索の意義を説いている文章なんか、「なるほど」 と思わせられた (↓)。
http://cruel.org/other/googlegreat.html
だけど一方で以下のような文章もあって、あれ?と思う。 「各種の噂」 の2009年11月なんだけど。
>そういえば、こないだ歌舞伎を見に行ったら、福田赳夫もきてたんだよなあ。その後鳩山もきたそうだし、政治家の必修演目かなんかの?
福田赳夫はとっくに死んでるんじゃなかったけ?と思い、念のため調べてみたが、やはり1995年に死去している。 息子の福田康夫と間違えている?
橋本治はもう読む価値がないからその本を処分したけれど、呉智英はまだ価値を失っていない、と書いてあるのには、ちょっとびっくり。 いや、その意見には必ずしも反対ではないが、山形浩生が呉智英を読んでいるとは知らなかったので。
私はかねてから、新潟大学の幹部はバカだという意味のことをこのサイトで書いてきた。 本日もまた、そう言いたくなってしまう通知が送られてきたので紹介しよう。
本日午後、下記のようなメールが当局から舞い込んだ。
新潟大学行動規範の制定について(通知)
このことについて,学長から,本学の役員並びに教職員が,本学における教育・
研究活動に関する法令を順守するとともに,社会から信頼される大学づくりを目指
すことを大学内外に示すため,新潟大学行動規範を下記のとおり制定した旨の通知
がありましたので,お知らせいたします。
で、その 「新潟大学行動規範」 とやらは次のようなものである。
新潟大学行動規範
本学は,高志の大地に育まれた敬虔質実の伝統と世界に開かれた海港都市の進取の精神に基づいて,自律と創生を全学の理念とし,教育と研究を通じて地域や世界の着実な発展に貢献することを全学の目的としています。
本学が,地域社会と一体となって発展を遂げていくためには,全ての教育・研究活動において,社会からの信用をいただくことが重要です。
本学の役員及び教職員は,教育・研究活動に関する法令を遵守するとともに,教育・研究倫理を徹底し,社会的良識をもって公正・公平かつ透明に業務を遂行し,地域社会からの期待に応えるとともに,総合大学としての一層信頼される大学づくりに全力を尽くします。
| ○ | 私たち役員及び教職員は,「学生」の視点に立った学生主体の取組を行います。 |
| ○ | 安全で働きやすい職場環境を確保し,明朗にして自由闊達な教育・研究環境をつくります。 |
| ○ | 地域に生きる大学として,地域へのまなざしをもった社会貢献活動を行います。 |
| ○ | 政治・行政とは,健全かつ透明な関係を維持し,また,取引先は全て透明・公正に選定し,法令遵守の下,質的に高く安全確実な取引を行います。 |
こういう文章を読むと、私は絶望的な気分になる。 「学生」 の視点に立った学生主体の取組? へえ、研究を学生の視点に立って行うんですか? じゃあ、中等教育(つまり高校)を終えて大学に入ってきたばかりの、或いはせいぜいその後4、5年学んだだけの、20歳前後の年齢層の人間に興味が持て、なおかつ理解できる範囲内での研究しかやらないということなんでしょうね。
冗談も休み休み言いなさいって! そんな「研究」 しかやらない大学がいったい世界のどこにある!?
要するにこれは、新潟大学は大学じゃありません、20歳前後の年齢層の人間だけを対象とした教育機関に過ぎないのです、と言っているのと同じことなのである。 つまり、この 「行動規範」 は事実上の研究放棄宣言にほかならない。
学長がこういうことをやっているわけだから、教職員の志気が上がるわけがないのである。 実に情けない。 早い話が、「学生主体」 という流行語をいれておけば受けるだろうという、まったく何も考えていない貧しい精神しか、この 「行動規範」 からは読みとれないのである。
追記 (2/10): その後、人文学部教授会で某教授から、私が問題にした箇所について疑義が出された。 誰が読んでもおかしい文章なのだということがここからも分かるだろう。 学部長のお答えによると、大学上層部から出てきたもので、事前に内容等についての相談はなかったそうである。 新潟大学上層部の知性の程度がここからも知れてしまう。 ね、そうでしょう、S藤先生?
*
*「学生主体の取り組み」 をするなら、ちゃんと図書館の蔵書を充実させるべし
少し前、大学からもらう年間の個人研究費に1人当たり2万3千円ほどの追加があったので、私はそこから本を3冊買って新潟大学図書館に入れてもらうことにした。 事実上、私の個人研究費からの寄付だが、こうでもしないと新潟大図書館はどうしようもない状態だからだ。
念のため。 前から何度も書いているけど、国立大学の独立行政法人化以来、新潟大の教員の研究費は激減しており、今年度も個人研究費 (教育費も含む) は約20万円しかない。 ここには学会出張旅費や、パソコンプリンターで使うインク代なども含まれている。 2万3千円の追加は、まあ、ないよりあったほうがいいけれど、雀の涙である。 独法化以前は、年間の研究費は約40万円であり、それ以外に出張旅費が年間6万円あった。 つまり半分になっているということだ。 上で引用した学長の手になるという 「行動規範」 なるものがいかにしらじらしいかが分かるだろう。
ちなみに、今回私の個人研究費で買って新潟大図書館に入れてもらうことにした3冊は以下のとおり。 いずれも基本的な図書である。 このうち、『傲慢な援助』 は、OPACで調べれば分かるけどすでに日本の大学の多くに登録されている。 新潟大にないのが恥ずかしい、というくらいの基本図書なのである。 教員の個人研究費が半減しているといっても、こういうところを充実させているのなら納得もするのだが、いったいどこにカネを使っているのか分からない。 ったく、新潟大ってのは何をやってるんだろうねえ。
・ウィリアム・イースタリー 『傲慢な援助』(東洋経済新報社、3570円)
・塚本哲也 『メッテルニヒ』(文芸春秋、3150円)
・ジョージ・M・フレドリクソン 『人種主義の歴史』(みすず書房、3570円)
午前中の授業を済ませてから、午後は外出して靴を買い、眼科に行く。 靴を買った理由は17日の記述を参照。 ただしT先生の勧めにも関わらず、デパートではなく、某ショッピングモールで買いました。 底が滑りにくいとわざわざ銘打ってある品なんだけど、どうかな。
眼科に行ったのは、もう2〜3年来だが、特に右の目がよく霞がかかったようになって見えづらいからである。 診察の結果、白内障の初期症状だということで、しかしまだ手術をするほどの段階まで進んでいないと言われた。 ともあれ、見えづらさの原因が分かったということで、良しとする。
プロ野球のジャイアンツとタイガースで投手として活躍した小林繁氏が昨日急逝された。 私は野球には特に関心はないが、報道で57歳とされていたので、あれ、オレと同年齢だったのかと今さらのように思った。 調べてみたら、小林氏は1952年11月、つまり私より約2カ月後の生まれである。 同じ学年だとは知らなかった。 まあ、それだけ私がプロ野球に興味が薄いということでもあるわけだが。
57歳での死というと今どきの日本人の平均寿命から言っていかにも早いわけだが、私自身、50歳を過ぎてからは、いつ死んでもおかしくないと実感しており、小林氏もその意味では決して早すぎる死を迎えたわけではないと思う。
小林氏がプロ野球の投手として活躍したのは70年代半ばから80年代初めにかけてである。 つまり私が大学を卒業して大学院に進んでから新潟大学に赴任する頃にかけてである。 こちらが専門的な職業に就くための訓練をし、職業人としてのスタートを切った時期に、小林氏は職業人としての全盛期を迎えていたことになる。
私は小学生時代はともかくとしてその頃は野球に興味をなくしていたので、小林氏の活躍についても一つの例外を除いて記憶に残るところはない。 また有名な江川事件については私が触れるまでもないだろう。 以下では、その 「一つの例外」 について書いておこう。
それは1976年の日本シリーズであった。 この年、巨人と阪急が日本一の座を争ったが、巨人は初戦から3連敗し、もう後がないというところに追いつめられていた。 そして第4戦は、10月29日午後、西宮球場で行われた。
この試合は、8回終了時点で2対2の同点。 巨人の投手は先発の堀内から小林に代わっていた。 そして9回表の巨人の攻撃。 7・8番打者が凡退し、ツーアウトで走者なしという場面で9番打者の小林投手が打席に入った。 ここで小林はシングルヒットを打って出塁した。
私は後で述べる理由からラジオで実況放送を聴いていたのだが、この場面でラジオの解説者はこう言った。 「ツーアウトになって小林が出塁するのは良くないですね。 9回裏のピッチングに影響するかも知れないし、このまま延長戦になったら巨人は10回表は1番打者から攻撃が始まるほうが好都合なのだから、ここでは小林は凡退すべきだったでしょう。」
いかにももっともらしい解説ではある。 しかし野球では何が起こるか分からない。 小林の次に打席に立った1番の柴田は本塁打を放ち、2点が巨人に入った。 つまり小林投手のシングルヒットは柴田の本塁打を、そして巨人の勝ち越しを呼び込んだのである。
そして9回裏、小林は阪急打線を0点に押さえ、巨人にこのシリーズの初勝利をもたらした。 ラジオの解説者が面目丸つぶれであったのは言うまでもない。
ところで、野球に興味のない私がなぜその時に限ってラジオの実況放送を聴いていたのだろうか。 聴いていた場所は、大学のドイツ文学研究室であった。 本来なら、そこでドイツ文学講読の授業がこの時間帯に行われるはずで、これは学部3・4生から大学院博士課程の学生、そして研究室助手までが参加する重要な授業なのである。 この時の私は修士課程の2年生であった。
ところがこの日、学生たちが研究室に集まって授業開始を待っていると、教授宅から電話がかかってきた。 教授は大学から歩いて5分ほどの宿舎に住んでいたのだが、プロ野球日本シリーズをテレビで観戦していて、ちょうど試合がクライマックスにさしかかっているから少し待ってくれないかというのであった。
仕方なくわれわれも、研究室にはテレビはないがラジオはあったので、日本シリーズの実況中継を聴くことにした。 そして小林のシングルヒットと柴田の勝ち越し本塁打、小林の力投による巨人勝利を知ったのである。
少しして、教授が研究室に現れた。 われわれはニヤニヤしながら教授を迎えた。 巨人ファンの教授もニヤニヤしながら席についた。
今なら教授がこういうことをやると大学当局にクレームが行きかねない。 古き良き時代だったのかも知れない。 しかし、投手としてだけでなく、打者としても全力で野球をやる姿勢を、この時の小林氏は示したのではないかと今でも思うのである。 合掌。
昨日から大学入学センター試験の監督である。 以前にも書いたが、入試の監督としては個別学力試験よりはるかにきつい。 拘束時間が長いし、全国一律の進行からはずれてはならないからだ。
大学 (試験会場) の集合時刻は朝の8時20分だが、万が一にも遅れてはいけないし、受験生の乗ったクルマで大学周辺の交通が渋滞することが予想されるので、かなり早めに到着する気構えで家を出る必要がある。 したがって起床は朝6時過ぎ。 ふだんは1限の授業があるときでも7時過ぎに起きているので、比較してみればセンター試験の大変さが分かる。 そして2日間とも業務が終わるのは午後6時を過ぎるのである。
もっとも、今回は私は試験室主任ではなかったので、まだしも楽である。 3年ほど前にやったときは試験室主任で、主任は受験生への口達事項を全部口頭で言わなくてはいけないし、出欠表の作成など仕事が多いので、まさに激務なのである。
閑話休題。 この日は、ここ数日もそうだったが冷え込みが厳しく、自宅前の道路は先日降った雪が凍結していた。 そのせいで、私は自宅の玄関を出てクルマに乗り込もうとした直前に滑って横向けに倒れてしまった。 幸いにして骨折とかそういう事態にはならなかったが、今年はこれで滑って転ぶのは2度目である――1度目については1月3日の記述を参照されたい。
滑っての転倒は運が悪いと骨折や、頭を強打して致命傷になることもあるから、注意しないといけない。 3日の場合はうっかり滑りやすい靴を履いていったため床が濡れていただけで転倒してしまったが、本日は別の靴を履いていたにも関わらず滑ってしまった。 お陰で、靴を新しく買わないとダメだなと痛感した。
今履いている靴は1万円くらいの品で、むろん高級品ではないが、さればといって安かろう悪かろうというほど格安だったわけでもない。 買ってからさほどの時が経過しているわけでもないのに、すでに底がすり減ってきている。 本日の転倒もそのせいであろう。
試験監督jの休憩時間に、同じ部屋で一緒に監督をしているT先生に、どこで靴を買っているか訊いてみたら、私が上記の1万円の靴を買ったのと同じ店であった。 大学からあまり離れていない郊外型の量販店である。 しかしその店の品物は品質に問題があるということでは意見が一致した。
デパートで買ったらどうですかとT先生に言われたが、デパートって、私はめったに行かないんだなあ。 さて、どうしようか。 しかし迷っていてまた転倒して致命的な打撲を負ったりすると困るので、決断は早くしなくては。
カリブ海の小国ハイチが大地震に見舞われた。 近年、地球上ではしばしば大地震が起こっているが、日本からすれば地球の裏側ではあるけれど、個々人のできる範囲で寄付などにより救いの手を差し延べたいものだ。
というような綺麗事というか、一般論だけ書いても面白くないので、この際、少し楽しめる記事を書くことにしよう。 面白いと思った人は寄付をお願いします。
と言っても、ワタシはハイチに行った経験はない。 そもそも、ハイチに行ったことのある日本人はそんなに多くないと思う。
だがしかし、日本映画でハイチを舞台にしている作品はちゃんとあるのだ。 それをご存じの方はどのくらいいるだろうか?
それは 『ミラクルバナナ』(2005年) という作品である。 そしてこの映画のヒロインをしているのが、女優の小山田サユリなのである。 小山田さんは新潟県の、現在は新潟市になっている巻町出身である。 そして彼女のファンをサユリストという。
えっ、サユリストって吉永小百合のファンのことじゃないの?と思う人は、古いのである。 いまやサユリストといったら小山田サユリのファンのことなのだ・・・・・・というのはちょっと大げさな表現だが、しかし小山田サユリの知る人ぞ知る魅力に通じていない人は、映画を知らない人だと断言しよう。
彼女の素晴らしさが活かされた映画というと、まず 『好きだ、』 がある。 この映画ではヒロインは宮崎あおいで、小山田サユリはその姉という役どころなのだが、ワタシに言わせれば宮崎あおいなんかより小山田サユリのほうがはるかに魅力的なのである。
そしてこの 『ミラクルバナナ』 で小山田サユリは堂々の主演をはっている。 この映画、ハイチをタヒチと間違えて (笑) 大使館派遣員に応募してしまったドジなヒロインが、ハイチの子供たちが貧しくてノートも買えないという実態を知り、ハイチの特産品であるバナナの木から紙を作ろうと考え、日本の紙漉職人に頼み込む、という筋書きである。 この紙漉職人を、一昨年亡くなった名優・緒形拳氏が演じているところも見どころなのだ。
途上国への援助・国際協力をするという、実話に基づいた映画だけど、変に教訓めいているとかお説教臭いということもなくて、さわやかで、とってもいい映画なのである。
この映画は現在DVDにもなっているから、未見の方は是非ごらんいただきたい。 そしてこの映画を見てハイチの実態を知り、なおかつ小山田サユリの魅力にイカれて無事に (?) サユリストになったら、今回の地震被害に寄付をしましょう。
実は有言実行ということで私も本日、某郵便局に行ってみたのだけれど、まだハイチ大地震災害への寄付を受け付けてなかった。 何やってるのだろうねえ。 遅い! というわけで本日は寄付をしそこねましたが、来週は絶対に寄付をしますので、皆さんもどうぞ。
追記(1月18日): 本日、ようやくハイチ大地震災害への義捐金を郵便局にて振り込みました。 15日の郵便局とは別の局。 みなさんもハイチを支援しましょう!
教養科目・西洋文学の第1回レポート (12月下旬〆切) を読んでいるところ。 この授業、ふだんは150人定員なのだが、今期だけ事情があって200人定員にしたので、レポートを読むのも例年にまして大変なのである。
学期初めに、「ドイツ文学に関しては、日本語のネットにはろくな情報がないから、私の授業をちゃんと聴くのが一番だが、自分で調べるなら図書館で専門家の書いた本を読みなさい」 と忠告しておいたにもかかわらず、こういう時代だから仕方がないのかも知れないが、ネット情報を頼りに書く学生が少なくない。
今回はトーマス・マンの 『トニオ・クレーゲル』 を論じることが課題だが、ネット上のシロウトの意見を参考にするとトンデモナイ間違いをしでかす。 例えばトニオは16歳でダンスを習い、その際に同席するインゲという女の子に恋をするのだが、「トニオはクラスメートのインゲに恋をする」 なんて記してあるサイトがあるらしく、それをそのまま引用している学生がいたりするのである。
私はちゃんと授業中に次のように教えておいたのであるが。 「トニオは町の上流家庭の子供だから、そういう少年少女ばかり集まる場所で社交上必要なダンスを習うんですよ。 ちなみに、この頃のドイツは男女別学だから、トニオが学校でインゲに会うということはあり得ないわけ。」
かと思うと、主人公の名前を間違えて記す学生もいる。 クレーゲルをグレーゲルと間違えるくらいならまだマシなほうで、グレーデルなんて書いてある奴もいる。 これほど片仮名が読めないんじゃ、日本で生活するのも不便なんじゃないか。
このくらいじゃトンデモ度が足りないと思う方もいるだろうから、もう少し愉快な例を紹介しておこう。 『トニオ・クレーゲル』 を論じるにあたって 「私がよく読む作家である大沢在昌と比較しながら論じる」 と最初に書いてあるレポートがあった。 私は残念ながら大沢の作品は読んだことがないのだが、大沢在昌とトーマス・マンを比較するという発想自体は奇抜で、もしかしたらかなり面白いレポートなのではないか、と一瞬期待したのである。
ところが、その先を読むと、『トニオ・クレーゲル』は難解である、それは100年前のドイツ作品だからで、表現も難しいからである、それに対して大沢の作品は現代日本の大衆小説だからすらすら読める・・・・・・比較っていっても、これだけなのだ。 うーむ、でも、これだけ書くのにもかなり頭を絞ったのかもしれないなあ。 ネット上のシロウト見解を引き写しにするよりはマシ・・・・・だろうか、どうだろうか。
昨年も同じようなことを書いたけど、全然改善される気配もないので、しつこくまた書く。
新潟市には現在、シネコン4館とミニシアター系のシネ・ウインドを合わせてスクリーン数で言うなら35に及ぶ映画館がある。 にも関わらず、そこで上映される映画はあまりに最大公約数的で、ハリウッド大作か邦画大手の作品、或いは逆に非常にマイナーで客が集りそうもないような作品と二極化しており、中間的な映画、東京で言えばシャンテ・シネ (現在はTOHO系列となり名称が変わっているけど) だとかル・シネマだとかガーデン・シネマだとかでやるような、特にヨーロッパ系の映画があまりかからない。
東京やほかの政令指定都市に比べて劣っているのは言うまでもないが、近隣の、政令指定都市でない県庁所在都市と比較しても露骨に劣っているのである。 スクリーンの総数では負けていないのだから、これはもう、文化度の差、と言うしかない。 要するに新潟市は人口に比べてきわめて田舎なのだ!
最近のヨーロッパ系映画で新潟市に来ない――現在作品サイトで見る限りでの判断である――映画が、近隣の9県、つまり東北6県と長野県と富山県と石川県にはどの程度来ているか比較してみよう。 言うまでもないが、この9県の中で新潟市をしのぐ規模の都市は宮城県の仙台だけである。
『戦場でワルツを』 青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、長野、富山、石川で上映
『ずっとあなたを愛してる』 青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、長野、富山で上映
『倫敦から来た男』 石川で上映
『ボヴァリー夫人』 石川で上映
『マラドーナ』 宮城、長野、石川で上映
『カティンの森』 富山、石川で上映
『シャネル&ストラヴィンスキー』青森、岩手、宮城、福島、長野で上映
こうしてみると、石川県、いや、金沢市が実にダントツで頑張っているのが分かる。 東北6県はフォーラム系映画館があるから、という言い方もできるかも知れないが、でも富山だって新潟よりはマシなのである。
新潟市の映画館経営者の奮起を期待したい。
なお、『ヴィクトリア女王 世紀の愛』 も上の一覧に入れるつもりだったが、本記事アップぎりぎりの時点で、Tジョイ新潟万代で春に上映されると判明。
追記: この記事をアップしてまもなく、『シャネル&ストラヴィンスキー』はシネ・ウインドで春 (3月から4月にかけて) に上映されると、ウインドのサイトに掲載された。 このほか、上には出さなかった映画だが、『クララ・シューマン 愛の協奏曲』 も4月にウインド上映される。 なぜ上に出さなかったかって? そりゃ、この 『クララ・シューマン』 は東京じゃあ去年の夏に上映されたからです。 いくら何でも8カ月遅れって、そりゃないでしょ、と言いたくなっちゃう。 やらないよりはマシだろ、と言われれば、まあそうかなとも思うんだけれど。
追記2: その後、『マラドーナ』 はシネ・ウインドで4月に上映されることが決定した。
追記3: その後、『ずっとあなたを愛してる』 はシネ・ウインドで上映予定と作品サイトに掲載された。 時期は現時点では (2/12) 書かれていない。
追記4: その後、『カティンの森』 はユナイテッドシネマ新潟での上映が決定した。 (2/26)
夜7時から、今年最初の演奏会に出かけた。 りゅーとぴあのコンサートホールはさすがに客がよく入っており、満席ではなかったものの、9割は埋まっていただろう。
私は3階正面Iブロックの5列目で聴いた。 Aランク席で7000円。
指揮 (ときどきヴァイオリンを弾きながらの弾き振りも披露)
はヨハネス・ヴィルトナーで、曲目は以下のとおり。
(前半)
ヨハン・シュトラウスU: 「コウモリ」序曲
同: 山賊のギャロップ
ヨーゼフ・シュトラウス: 燃える恋
ヨハン・シュトラウスU: ウィーン気質
同: 農夫のポルカ
同: 無窮動
同: 皇帝円舞曲
(後半)
ヨハン・シュトラウスU: 「ジプシー男爵」入場行進曲
同: 浮気心
ヨーゼフ・シュトラウス: 鍛冶屋のポルカ
ヨハン・シュトラウスU: ウィーンの森の物語
ヨハン・シュトラウスT&U: ピチカート・ポルカ
ヨハン・シュトラウスU: 観光列車
同: 美しく青きドナウ
(アンコール)
上真行: 一月一日(唱歌)
ヨハン・シュトラウスU: シャンパン・ポルカ
同: ポルカ「雷鳴と電光」
ヨハン・シュトラウスT: ラデツキー行進曲
指揮者も団員も、客を愉しませることをよく心がけており、楽しい雰囲気のなかでコンサートが進行した。 途中休憩時間には、主催のNSTと新潟日報によるプレゼントのくじ引きも行われ、いかにも新年のイベントといったところ。 私が当たれば言うことなしだったのであるが(笑)、くじ運の悪い私のことで、残念ながら涙を呑む。 7時開演で終演は9時20分過ぎ、時間的にも十分。 強いて物足りないところを挙げるなら、「無窮動」
はタイトルどおり、もう少し長くやってほしかったことくらいかな。 アンコールの最後はお決まりのラデツキー行進曲で、客の拍手も堂に入っており、みなさん満足して会場を後にされたようである。
余談ながら、NSTのアナウンサーは、りゅーとぴあホールの席番号を知らないようだ」。 くじ引きの時、例えば3階Iブロック1−5を
「3階、11の5」 と読んでいた。 修行が足りないのでは (笑)。
本日は少しだけ早起きして、新潟市の東総合スポーツセンターで午前9時から行われた卓球の練習に参加。 行われたといっても、特定の卓球クラブではなく、MM氏が私を初めとする知り合いの卓球人に声をかけて、それに応じたメンバーが初打ちをしたというもの。 合計12人が集まった。
この日は少し積雪があったが、私の住居から東新潟に向かうバイパスは雪もなく交通はスムース。 もっとも、底が減って滑りやすい靴で出かけてしまったので、スポーツセンターの入口を入ってすぐの床が濡れていて滑ってしまい、仰向けに倒れてしまった。 新年早々危うい。 幸いにして後頭部を打つことはなかったので、事なきを得たけれど。
12人で最初は基礎練習をして、後半は2人ずつでペアを組んでダブルスの試合を総当たりで。 十二分に汗をかいて、いい運動になった。
われわれとは別に、三十代くらいのお父さんと小学校1年生くらいの可愛い女の子が卓球の練習にきていた。 以前、西総合スポーツセンターでもお父さんと美少女予備軍みたいな親娘ペアを見かけたことがあって (この欄にも書いた)、最初はあの親子かと思ったが、よく見るとあの時のお父さんは中国式ペンだったけれど今回のお父さんは日本式ペンだし、女の子もあの時よりちょっと小さく、別の親子のようだ。 女の子は、小学校1年くらいながら、フォアハンド・ロングのラリーはきちんとできるようで、感心。 将来が楽しみだ。 (フォアハンド・ロングのラリーがきちんとできる、なんて大したことがないみたいだけど、私の次男は中学時代いちおう卓球部だったのだが、一度一緒にやってみたら、フォアハンド・ロングのラリーもまともに続けられないので、あきれ果てたことがある。 いや、私が現在通っている社会人クラブだって、同様の人が結構いるのである。)
閑話休題。 練習が済んだ後、せっかく東新潟まで来たのだからと、こちらのBOOKOFF2軒に寄ってみたが、たいした掘り出し物はなく、新書本を数冊買ったにとどまる。
そうこうしているうちにお昼時になり、運動して腹も減ってきたので、大学に向かう途中の回転寿司屋で昼食にする。 午前中から卓球の練習をして、昼に回転寿司とはいえ寿司を食うというのは、私としては贅沢な一日。 新年だから、このくらいの贅沢は許されるであろう。 7皿食って735円だしね。
寿司といえば、昨年末に某週刊誌を読んでいたら、不況で失業者が増えているという記事がある一方で、東京の銀座にある高級寿司店でも昼時は3千円台で寿司が食える、というような記事も載っていた。 昼飯に3千円以上かける奴の顔を見てみたいものだ。 不況だというのにこういう記事を平気で載せている週刊誌が大衆の味方で正義漢みたいな態度をとっているのは、滑稽千万。 ひょっとして週刊誌の記者はいつもそういう昼飯を食っているのだろうか。 国賊、じゃないか (笑)。
昨日はどこへも出かけなかったので、本日は、午前中に大学に行く途中で、内野町のあまり大きくない神社2社に初詣に寄った。 内野町には神社が何軒かあるのだが、どれも小ぶりで、新潟市内なら白山神社だとか護国神社みたいな大規模で人が沢山あつまる場所ではない。 私は混むところは嫌いだから、身近で手軽なところで済ませてしまいます。 神社、大きいが故に尊からず。
明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。
さて、元旦だが、新潟市は冷たい風が猛烈に吹きすさぶあいにくの天気。 なので、一家三人、どこへも出かけず、家に籠もって過ごしました。
私は書斎で、しばらく前にコンチェルトさんに問い合わせて先日ようやく入荷したシューマンの 『マンフレッド』 全曲盤CDと、ヘンデルのオラトリオ 『マカベアのユダ』 のCDを聴いて過ごしました。 後者は、新潟では毎年年末にヘンデルの『メサイア』が上演されるけれど、それ以外のヘンデルのオラトリオがさっぱり上演されないのはいかがなものか、という議論をさるところでしたので、そこからかける気になったもの。
これに限らないけど、いつも同じモノをマンネリ的にやるのではなく、新潟市内の各方面の方々にも、何か新しいことに挑戦してほしいものである。 古町の没落だとか、新潟市内の状況は決して明るくないけれど、何か新しい芽が出れば気持ちだって明るくなるだろうし。
じゃあお前は何をやるのかと問われそうだが、言行不一致で、新しいことはあまり始められそうもない。 すみません。 目下のところ、昨年刊行された 『シュトルム名作集』(全2巻、三元社) の続編が出る話が水面下で進行しており、実現すればまた私も一部分の訳を担当することになりそうだ、ということだけお伝えしておく。