音楽雑記2009年(3)                           

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  1月〜4月はこちらを、5〜8月はこちらをごらんください。  

 

12月31日(木)     *無駄が全くない国家予算というものはない――または増税の覚悟

 今年も最後なので、少し真面目なことを書いておこう。 民主党政権になって予算の仕分けということがやかましく言われるようになった。 税金の無駄遣いは、むろんないに越したことはない。 明らかに無駄なものは削減されても当然だろう。

 だけど、世の中には無駄か無駄でないのか、よく分からないものの方が多いのである。 一般大衆から見て分かりやすい 「無駄」 は、実際は専門家から見れば無駄ではない場合が少なくない。

  外交関係の雑誌が、国家予算で大量に買い上げられることを前提にして成り立っていたのを 「無駄」 として削れば、やがては日本と外国との関係にも影響してくるだろう。 これは私が言っているのではなく東大教授の山内昌之氏らが指摘していることで、こういう 「無駄」 は削ってはいけないのである。

 http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091203ddm002010058000c.html 

事業仕分け:異議!! 外交誌 「買い取り継続を」

 外交をテーマにした月刊誌の外務省による買い取り制度が、事業仕分けで「廃止」とされたことについて、東京大教授らが2日、東京・本郷の同大キャンパスで記者会見し、「日本外交の重要な手段を失いかねない」などとして廃止撤回を求めた。近く首相官邸を訪ね、買い取り継続を求める声明文を提出する。

 声明文を呼びかけたのは、東大の田中明彦副学長、北岡伸一、山内昌之両教授ら23人。

 同省は、民間出版社が発行する月刊誌「外交フォーラム」(9000部)▽英字誌「ジャパン・エコー」(5万部)などを年間計約2億1600万円で買い上げ、国内外の有識者らに配布している。【中澤雄大】

 また、ある予算の使い方が無駄になるかならないかは、時間がたたないと分からないことが多い。 言い換えれば、未来への投資は一定程度の無駄を含むもので、あらかじめ見通しがたたないという理由で全部を削るなら、それは未来の可能性全部を削ることに等しいのである。

 ではどうするのか。 私は、現在の日本が人口規模の割りに歳入の規模が小さいことに問題があると見ている。

 2008年度の統計だが、歳入の国ごとの額は以下のようになっている。 http://www.shirabeyou.com/public/yosan.htm 

 主要国歳入(単位 ビリオンダラー・年度 2008推定)
 日本 1672
 アメリカ合衆国 2524
 英国 1107
 フランス 1439
 ドイツ 1614
 イタリア 1139
 オーストラリア 343.6
 ブラジル NA
 ロシア 383.5
 インド 153.5
 中国 868.6

 これを見れば分かるように、日本の歳入額はヨーロッパ先進国で言えばドイツとほぼ同じで、英国の約1,5倍あり、フランスと比べると約15パーセント多い。

 だけれども、人口規模で言うとどうだろうか。 2004年の推定人口の統計によると、日本は128 (単位:百万人)、ドイツは83、フランスは60、英国は59なのである。 日本は人口ではドイツの1,5倍、フランスや英国の2倍なのだ。

 http://www.arida-net.ne.jp/m-gakuin/kunibetujinko.html

 つまり、日本は人口規模の割りに歳入額が少ないということだ。 これが財政赤字につながり、ひいては日本経済の将来への悲観的な見方につながっていることは明らかだろう。

 「仕分け」 のやりすぎや、高校にも行けない子供が出ている格差問題や、日本の将来への悲観的観測を解決するには、したがって増税しかないと思う。 ヨーロッパに比して明らかに低い消費税水準を見直すこと、そして小泉政権時代に露骨になされた金持ちへの税率緩和をも見直すこと――これしかないだろう。

 増税はとかく世論やマスコミの不評を買う。 しかし増税は高校にも行けないような弱者の救済や、上記のような分かりにくいけれども大事な事業の維持につながるのである。 その辺をしっかり見据えた報道を、マスコミはしてほしいものである。 当面の損得だけで騒ぐようなレベルの低いマスコミはもう要らないので、それこそ国民の判断力によって仕分けられるべきだろう。

12月30日(水)      *新聞小説の復権?

 毎日新聞に連載されていた林真理子の小説 『下流の宴』 が明日で終わるらしい。 私は新聞小説を読む習慣を長らく失っていたが、これは珍しく毎日楽しみに読んでいた。 最近流行の階層問題だけでなく、医学部受験をめざす予備校の仕組みだとか、六本木に住まう若い経済エリートの生態だとか、風俗的に見て面白いところが多々あった。

 すでに終わってしまったが、産経新聞に今年の半ばまで連載されていた、なかにし礼の小説 『世界は俺が回してる』 も面白かった。 昭和30〜50年代にテレビプロデューサーとして名を馳せた渡辺正文氏を主人公とする実名小説である。 これまた、当時のテレビ業界の内実や主人公の破天荒な生き方がよく分かり、毎日楽しみに読んでいた。

 私が新聞小説を初めて読んだのは、小学校6年生のときで、当時朝日新聞に連載されていた三浦綾子の 『氷点』 である。 それ以降、しばらくは新聞小説をわりに読んでいたのだが、いつの頃からか、読まなくなった。

 ここにきて新聞小説を二つ面白く読んだのは、やはり内容がこちらの興味をそそるものだったからだろう。 しかし、もしかすると、新聞小説というジャンルの流れに変化のきざしがあるからかも知れない。 今後に期待したい。

12月28日(月)      *2009年の演奏会ベスト10    

 今年の新潟市内の演奏会も終わった。 そこで恒例の (?) 年間ベスト10を。 2009年に私が聴いた音楽会で印象に残るものを挙げてみた。 順位はなしで、聴いた順である。

 ちなみに今年行った演奏会数は44。 昨年は50だったから、減っている。 たぶん、この傾向は来年以降も続きそうな気がする。 ひとつには時間とカネの問題があり、もうひとつにはなるべく質の高い演奏会を選んで行きたいという気持ちが強くなっているからだ。

 ・東京都交響楽団 ハーモニーツァー2009→2010 新潟公演(4/5、りゅーとぴあ) エリアフ・インバルの英雄交響曲が素晴らしかった!
 ・東京交響楽団第53回新潟定期演奏会(4/19、りゅーとぴあ) ルイゾッティの指揮ぶりが何とも。
 ・耳で聴く風景 第2回――井上静香+成嶋志保リサイタル(4/26、だいしホール) このコンビでのこのシリーズ、新潟の星ですね!
 ・茂木大輔のオーケストラ・コンサート第5回 「ハイドン、その生涯と交響曲創作史」(5/31、りゅーとぴあ) 相変わらず勉強になる演奏会でした。
 ・ロシア国立ボリショイ・オペラ公演『スペードの女王』&『エフゲニー・オネーギン』(6/21、NHKホール & 6/24、東京文化会館) 2つで1回分にさせて下さい、すみません。
 ・山形交響楽団演奏会(7/5、りゅーとぴあ) 飯森さんと山響のコンビ、絶妙!
 ・クァルテット・エクセルシオ ハイドン・ツィクルス第2回(10/20、りゅーとぴあスタジオA) このカルテットの実力を遺憾なく発揮した演奏会。3回のうち1回しか聴けなかったのが残念。
 ・東京交響楽団第56回新潟定期演奏会(11/8、りゅーとぴあ) スダーンとオピッツ、ともに良かった!
 ・ヘルベルト・ブロムシュテット+チェコ・フィル: ブルックナー 交響曲第8番(11/23、サントリーホール) うー、実にいい演奏会でした。
 ・オーストリア・ハンガリー・ハイドン・フィルハーモニー演奏会(12/1、りゅーとぴあ) 来なかった方は大損、と言い切れる演奏会でした。

 あと、次点として――

 ・中山良夫 ヴィオラ無伴奏リサイタル「ヴィオラ独り」(8/30、清嘉記念奏楽堂Hill top)
 ・りゅーとぴあ・プライムクラシック1500第6回 「オーボエ&ピアノ  荒絵理子+遠藤直子」(12/8、りゅーとぴあ)

も挙げなくては。 それぞれ、ヴィオラとオーボエの素晴らしさを堪能できたリサイタルであった。 

12月26日(金)      *最近聴いたCD

 *Widor: Organ Symphonies No.9 & 10 〔ヴィドール:オルガン交響曲第9・10番〕   (Classico、CLASSICD 637、2006年録音、ドイツ盤)

 ヴィドールのオルガン交響曲、私としては3枚目のアルバムを、yahooのネットオークションにて入手。 オルガン奏者はHans Ole Thers、コペンハーゲンのHelligaandskirkenという教会にての録音。 この9番と10番だが、先に聴いた5番や6番に比べると書法が複雑になっているようで、親しみやすさから言うとやや後退している印象だが、その代わり何度か聴いていると奥深い魅力が分かってきそうな予感がある曲である。 これでヴィドールのオルガン交響曲は4,5,6,9,10の合計5曲のディスクを入手したわけだが、残りの5曲もなるべく早く手に入れたいものだ。 なおこちらから(→)画像をごらんいただけます。 http://shop.castleclassics.co.uk/acatalog/CLASSCD637_C_M_Widor_Organ_Symphonies_9_10_Hans_Ole_Thers_in_Hell.html 

 *Richard Strauss: Capriccio 〔R・シュトラウス: オペラ「カプリッチョ」〕 (WALHALL、WLCD 0032、1953年録音、2004年発売、EU盤)

 11月下旬に上京して、そこでR・シュトラウスのオペラ 『カプリッチョ』 を聴いたが、その直前に予習に使ったCDがこれ。 HMVより購入。 クレメンス・クラウス指揮のバイエルン放送交響楽団の演奏で、伯爵令嬢はViorica Ursuleac、伯爵がKarl Schmitt-Walter、FlamandがRudolf Schock、オリヴァーがHans Braun、ラ・ロッシュがHans Hotter、クラリオンがHertha Toepper。 クレメンス・クラウスはR・シュトラウス最後のこのオペラ (正式には 「オペラ」 ではなく 「音楽のための会話劇」 と称されている) のリブレットを書き、また初演をも担当した。 ヒロインを歌うViorica Ursuleacはクラウスの妻で初演でもヒロインを演じており、いわばこのオペラの原点をなす演奏と言える。 モノラル時代の録音だが、半世紀という時の流れを感じさせないくっきりした音。 音楽はR・シュトラウス最晩年の、枯れたような、変幻自在でもあるような、そんな印象。 なおこちらから(→)画像をごらんいただけます。 http://www.amazon.co.jp/Strauss-Capriccio-Hans-Braun/dp/B00021TLNE 

12月24日(木)      *原研二氏のドイツ語創作集"Braut des Windes"(風の花嫁)が出版

 東北大学文学部独文科教授の原研二氏が昨秋病没されたことは、この欄でもお知らせした。 その遺稿集の第一弾として、ドイツ語で書かれた創作集が出版された。

 http://www.buchhandel.de/detailansicht.aspx?isbn=978-3-934268-68-5 

 ドイツ語で創作をしてしまうところが、抜群の語学力を誇る原氏らしいところだということは昨秋も書いたが、そうした氏の本領が発揮された創作集。 興味のある方は、ご一読を。 ただし、ドイツ語ができる人でないと読めません、念のため。

12月23日(水)      *第42回メサイア演奏会

 昨日限りで大学も冬休みである。 だからというわけでもないが、本日は午後2時からりゅーとぴあで行われた標記の演奏会に行って来た。 今年の音楽会聴き納め、だろうか。

 ヘンデルの 「メサイア」 演奏会は、毎年この季節に新潟市で行われている。 しかし、私としてはやっと2回目である。 前回聴いたのは2、3年前だったか。

 指揮は久住和麿、ソプラノが半田美和子、アルトが阪口直子、テナーが佐藤淳一、バスが三浦克次、オケが東京バッハカンタータアンサンブル、オルガンとチェンバロが佐藤さおり、合唱が新潟メサイア合唱協会。

 会場は、2階正面Cブロックと3階正面Iブロックがほぼ満席。 1階と2階のB・Dブロックもかなり入っており、あと3階のG・H・J・Kブロックも若干客が入っていた。 私は3階Hブロックで聴いた。 当日の自由席券2800円。 パンフは、アマチュアの演奏会としては珍しく有料で、500円。

 演奏は、何と言うか、部署ごとの実力がわりによく出ていた。 まず東京バッハカンタータアンサンブルが、精妙な弦楽器のアンサンブルと安定したトランペットで聴衆を魅了していた。 独唱陣ではテナーの佐藤氏がすばらしかった。 合唱団も特に後半は頑張っていたと思うが、前半はやや調子が出ていなかったような。 高音もきつく感じられた。

 演奏の終わる直前で、まだ1フレーズ残っているのに、「ブラボー」 を叫んで拍手を始めた男性客が1階にいて、ちょっとしらける。 あと、演奏開始後も客を入れているので、最近の天候もあってゴム靴が床と摩擦音を出し、落ち着かない気分であった。 普通のプロの演奏会と同じく開演後は客を入れず、その代わり始まって少ししたら曲間に少し間をおいて客を入れる、というようにはできないものだろうか。

 毎年、年末に 「メサイア」 をやる習慣は新潟市にしっかり定着しているのだろう。 しかし、音楽ファンからするとヘンデルのたくさんあるオラトリオで 「メサイア」 しかやらないのは、ちょっと物足りない気がする。 ギネスブックものでもある 「メサイア」 演奏は辞められないというのであれば、6月末か7月初めにヘンデルの 「メサイア」 以外のオラトリオを取り上げてはいかがであろうか。 パンフを拝見すると、会員を募集しており、練習は8月下旬から始めると書かれている。 つまり、年の前半はまったく活動していないわけなのだ。 勿体ない。 だから、前半には他のオラトリオを練習して6月末か7月初めに披露すれば、会としての活動が一年中続くことになるし、ヘンデルの色々なオラトリオを新潟市民は聴けるし、一石二鳥ではないだろうか。 ぜひ、ご検討いただきたいものである。

12月21日(月)      *寄付

 ボーナスも出たので、本日、ユニセフと国境なき医師団とにわずかながら寄付をしました。 (なぜわざわざ自分の寄付行為について書くかは、2005年7月29日の記述をごらんください。)

  最近、ユニセフとは別の国連関係機関から寄付を要請する書状が舞い込んだ。 どうも、ユニセフから情報が行っているらしい。 こういうのは個人情報保護法に違反しないのかなあ。 いや、五月蠅いことを言うつもりはないんだけど、首都圏でアパートを借りて大学生をやっている次男と、まもなく高校受験を控えた長女を扶養している身としては、そして来春から国家公務員の給与水準の切り下げに伴って――これは数年前に実施されたが今までは移行措置として実質給与を据え置くことになっていたけれど移行期間が来春で終了するので――給与も下がる見込みの人間としては、ユニセフと国境なき医師団だけで勘弁してもらいたい、と言いたいのです、済みません。

12月18日(金)      *なぜか最近、中国人学生から 「指導教員になってくれ」 のメールが

 一昨日のことだが、中国人の学生から 「是非、私の指導教員になって下さい」 というメールが舞い込んだ。 全然知らない学生である。 実はこういうメールはこれが初めてではない。 今年の初めから数えてすでに3通目なのである。

 3人の中国人学生の置かれている立場はそれぞれ少しずつ異なっており、今回の学生の場合はまだ中国在住で、すでにあちらで4年制の大学を卒業しており、言い分によると私を指導教員として新潟大学の研究生になって勉強し、その後で日本の大学院に進学したい、ということらしい。 しかし、その学生は日本のことを研究しているというのだが、私は日本のことを研究している人間ではない。 専門は独文だし、授業ではもう少し幅の広いことをやっているけれど、くだんの中国人学生のメールから判断するに、やっている事柄が私が授業などで扱っている事柄とは隔たっており、したがって私が指導をするにふさわしいとはとても言えないのである。 

 少し前には、すでに日本に来ていて、福岡の某大学で研究生になっているという中国人から、やはり 「指導教員になってくれ」 というメールが舞い込んだ。 何でも、現在指導教員になっている教授が関西の大学に移るので、別の指導教員を探しているのだという。 どうも分からないのは、今までの指導教員が関西に移るから別のを探すという言い分である。 なぜ一緒に関西に移らないのだろう? 何か事情があって福岡を離れられないというならまだ分かるけど、なぜ関西より遠い新潟くんだりに住んでいる私を指導教員にしたいと思うのだろう? 全然辻褄が合っていない。 それでそういう疑問をメールに書いて返信した。 しかし、返事は来たけれど、全然納得できるような内容ではないし、またやっている領域がやはり私とは基本的にズレているので、お断りせざるを得なかった。

 今年の初めには、やはりすでに日本に来ていて九州在住だという中国人学生から、新潟大学大学院の研究生になりたいから私が指導教員になってくれ、というメールが来た。 しかし、大学院の研究生になるためには修士号がなくてはならず、その学生は中国で4年制大学を出ただけで修士号はもっていないのである。 したがって条件が整っておらず、やはりお断りせざるを得なかった。

 うーん・・・・・。 中国人の出国圧力がものすごく強いということは私も知っていたけれど、こういうメールを受け取ると、それを実感しないわけにはいかない。 それにしても、日本の大学で学びたいなら、こういう方法をとるのではなく、ちゃんと留学生用の入試を受けて入ればいいと思うのですがね。 で、私はこういうメールをよこす中国人たちにはいつもそういう返事を出しています、はい。

12月17日(木)      *久しぶりの大雪

 朝、起きたら、窓の外は真っ白。 久しぶりの積雪、それもかなりの量である。 自宅から車を出すために、久しぶりに自宅前道路の雪かきをする。 雪かきってのは結構重労働で、特に50代も後半になっているワタシとしてはなかなかつらいものがある。

 本日は授業は4限だけなので、昼前に大学から2キロと離れていないイェローハットに出向いて、タイヤを替えようとした。 実はワタシの車はすでに冬用のスタッドレス・タイヤをはいているのであるが、これは購入して7〜8年になる代物で、冬タイヤというのは通常3年くらいが寿命なのである。 おまけにここ3年ほどは、面倒くさくて夏タイヤに替えることもせず1年中はいているので、かなりすり減っており、1年点検で車を車屋に預けたりすると、「このタイヤ、ちょっとアレですね」 と言われたりしていたので、どのみちこの冬には新品を調達しようと思っていたのだった。

 しかし、雪が降ってから出向くと、イェローハットの店はすでに同様の用事で来た客でいっぱいであり、「車を置いていってくれれば本日中には替えておきますが、何時までとはお約束できません」 という。 それでは困る。 本日は授業以外にも用事があり、車で出かけようと考えていたからだ。

 というわけで、すり減ったタイヤでおっかなびっくり走る羽目に。 いざという時にならないと必要な用事を済ませない怠惰な性格への罰、でしょうか(笑)。

 (追記: 後日の報道によると、この日の新潟市は二十数年ぶりの大雪だったそうである。 タイヤは、この2日後、土曜日になってからようやく新品に替えることができた。 交換手数料を入れて約6万7千円。 実はこの17日は給料日でもあり、年末調整で手取額がいつもより7万円以上多かったので、シメシメと思っていたのだが、新しい冬タイヤを買って大部分が消えてしまいました。 世の中、甘くないですね。)

 

12月16日(水)     *拙著 『鯨とイルカの文化政治学』(洋泉社、2800円+税)が出版されました

 書店の店頭でごらんください。 

鯨とイルカの文化政治学

 目次は以下のとおり。

 はじめに
 序章 『野生のエルザ』と藤原英司
 第一部 欧米人の鯨=イルカ観
  第1章 小松錬平−ロビン・ギル論争を再読する
  第2章 マッドサイエンティストのイルカ高知能説――ジョン・C・リリー
  第3章 「科学者」は信用できるか――カール・セーガン
  第4章 映画と現実の狭間――ジャック・マイヨール
  第5章 科学かオカルトか――ライアル・ワトソンとホラス・ドッブスに見る英国知識人の鯨=イルカ観
  第6章 大国意識とダブルスタンダードと神秘主義――ジム・ノルマン、ロジャー・ペイン、ジョーン・オーシャンに見る米国人の鯨=イルカ観
 第二部 日本人の鯨=イルカ観
  第7章 ヨーロッパ植民地帝国の価値観を継承する者――藤原英司
  第8章 人生の蹉跌がイルカ主義を呼ぶ――小原田泰久、野崎友璃香、姫川裕里
  第9章 留学・宣教・商売の間で――水口博也
  第10章 反日言説としての反捕鯨(一)――ジャーナリスト原剛の場合
  第11章 反日言説としての反捕鯨(二)――研究者渡邊洋之の場合
  第12章 反日言説としての反捕鯨(三)――エコロジスト星川淳の場合
 結論に代えて
 あとがき
 使用参考文献
 文献案内

12月13日(日)     *最近聴いたCD

 *ブルックナー: 交響曲第8番 〔ムラヴィンスキー指揮〕 (Melodia、CD10 00803、1959年録音、Mono)

  先月上京して、ブロムシュテットとチェコフィルによるブルックナー第8を聴いて満足したついでに、この曲のディスクは何種類か持っているのではあるけれど、また1枚買ってみたいという気になり、yahooオークションに出ていたこのディスクを購入した。 ムラヴィンスキーとレニングラードフィルによるモノラル録音である。 演奏はいかにもムラヴィンスキーで、ダイナミックレンジが広く――そう聞こえる――引き締まったた感じ。 ただ、こういう引き締まった感じがブルックナーに合うかどうか、ということになると、ちょっと微妙な気もするけれど、これはこれで一つの演奏の仕方ではあろう。 なおこちら(→)から画像をごらんいただけます。 http://raymonda-cd.com/SHOP/MELCD1000803.html 

 *Tchaikovsky: Liturgy of St. John Chrysostom op.41 〔聖ヨハネス・クリソストムスの典礼〕 (Brilliant、93954、2001年録音、EU盤)

 11月28日にも書いたように、チャイコフスキーの未聴の作品を集めてみようと思いたち、お茶の水のディスクユニオンで買ったうちの1枚がこれ。 全15曲からなる宗教音楽である。 演奏は、ディスクの英語表記では、YEVHEN   SAVCHUK指揮のThe National Academic Choir of Ukrauine 'Dumka'である。 たいへん清澄な合唱曲であり、聴いていて姿勢を正したくなるような魅力がある。 ジャケットの標記は英語であるが、歌はロシア語である。 解説には歌詞は収められていないが、英訳を含めた歌詞が読めるサイトのURLが記されている。 なお、こちら(↓)から画像をごらんいただけます。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/B001SNXU6E/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_2?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=B002NWRMP4&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=1Z9ACDTVXEYWDVA61SBD 

12月10日(木)     *タバコ税を上げるなら、酒税も上げるべし

 私はタバコは吸わない人間だが、最近の喫煙バッシングにはちょっと引けているので、敢えて擁護する。 今回は税金について。

 日本は不況で税収不足が言われている。 国債発行は限界に来ているし、となれば増税しかないわけだけれど、こういうときにねらい打ちされやすいのがタバコなのである。 日本のタバコ税は国際的に安いとか何とか言って大幅に値上げしろという議論が結構目立つ。 国際的にはタバコは1箱千円でもいいとか何とか。

 だけど、そうなるとタバコをやめる人間が大量に出てきて、税収がかえって減るのではないか、という懸念もあるから、例のごとく微温的に、タバコ1本につき2、3円の値上げで、という線で落ち着きそうなのである。

 私は思うんだが、タバコを増税するなら酒税も上げたらどうか。 以前、発泡酒の税率を財務省が上げようとしたとき、自民党の政治家は 「庶民の楽しみを奪うな」 とか何とか言って阻止したが、そんなことを言うならタバコだって庶民の楽しみであろう。

 ちなみに、お酒の税率は下記のようになっている。 http://wapedia.mobi/ja/%E9%85%92%E7%A8%8E#2. 

*********** 

税率は種類・品目別に、担税力に応じてきめ細かく設定されている。一般に、アルコール分が高いほど税率は高くなる。清酒ならアルコール分が22度未満で、1キロ・リットル当たり120,000円。2006年以前は、アルコール分1度毎に酒税率が上下していたが、2006年より酒税率の均一化が施行された。焼酎ならアルコール分が25度で、1キロ・リットル当たり250,000円。アルコール分が25度より1度上がるごとに10,000円高くなり、1度下がるごとに10,000円低くなる。

しかし一方で、ビールや果実酒(果実酒類・果実酒)のようにアルコール分にかかわらず定額のものもある。1キロ・リットル当たりビールは222,000円で、果実酒は70,472円と定められている。

上記の通り、ビールの酒税がアルコール分の割りに突出して高く設定されており、国民の健康を考える上ではビールを始めとしたローアルコール飲料の酒税をもっと優遇すべきではないかとの意見が根強い。また、その偏った税制のため、発泡酒や第3のビールといったカテゴリが生まれている。

*********** 

 これを見ると分かるように、ビールはアルコール度数が低いのに税率が高い。 果実酒も、例えばワインならアルコール度数は清酒よりやや低い程度なのに税金で言うとずっと安く、ビールと比べると明らかにアンバランスである。

 だから、ビールはそれこそ今なら庶民の愉しみだし、ビールでアル中になるくらい飲む人もそうそういないと思うので、これは思い切って税率を下げる。 その代わり、それ以外の酒――焼酎、ウイスキー、清酒、ワインなど――は逆に大幅に酒税を上げればよろしい。 ビールの税率を下げてもなお税収が増えるくらいに上げてもいいんじゃないだろうか。

 例えばの話、清酒の現行税率は1キロリットルあたり12万円ということだけど、ということは1リットルあたりだと120円である。 清酒を一升瓶で買っても、税金は200円を少し超える程度なのだ。 私的には、この倍でもいいと思うのだな。

 念のため言うけれど、私はタバコは吸わないが酒は毎日のように飲む人間である。 しかし、だから酒税引き上げ反対というのでは、単なるエゴの表明にしかならない。 日本の財政危機を救うためには、左党は今こそどんどん飲んで税金を払い、日本全体を救う覚悟を決めるべきではないだろうか。

 というふうにすると、酒もタバコもやりませんという人は、要するに税金をあまり収めていない人だから、税収不足の日本にあっては肩身が狭い、という風潮も生まれる・・・・・・わけないか(笑)。

12月8日(火)    *りゅーとぴあ・プライムクラシック1500第6回 「オーボエ&ピアノ」

 本日は夜7時から標記の演奏会に行って来た。 会場はりゅーとぴあ・コンサートホール。

 オーボエのリサイタルは珍しい。 多分、生で聴くのは初めて。 オーボエ独奏の荒絵理子さんは、2004年第73回日本音楽コンクールで審査員全員一致で第1位を取られ、今年春から東京交響楽団のオーボエ首席に採用された実力派。 ピアノ伴奏は遠藤直子さん。

オーボエのリサイタルでどのくらい客が入るのか、見当がつかなかったが、1階は中央付近はまあまあの入り、2階正面Cブロックは前半分がまあまあ、という程度。 合わせると250人くらいはいたろうか。 私はCブロック3列目中央の座席。 両脇には客がいなかったので、ゆったりした気分で聴けた。

 テレマン: 12の幻想曲より第1番イ長調、第6番ニ短調
 モーツァルト: オーボエ四重奏曲(ピアノ伴奏版)
 サン=サーンス: オーボエソナタニ長調op.166
 (休憩)
 ブリテン: テンポラル・ヴァリエーション
 ポンキエルリ: カプリッチョ
 (アンコール)
 テレビドラマ「あすか」より「風笛」

 モーツァルト以外は馴染みのない曲ばかりだったけれど、それぞれ面白く聴けた。 最初のテレマンは伴奏が入らない独奏曲。 もともとはフルートのための曲だそうだが、オーボエで演奏されることも多いという。 次のモーツァルトはディスクではよく聴くけれど、生で聴く機会はあまりない。 逆に言うと、ピアノ伴奏版で聴く機会もあまりないのではないか。 少なくとも私は初め。 サン=サーンスは、晩年の作品らしくちょっと枯れて気まぐれな感じ。ブラームスのクラリネットソナタ第1番を連想させられたし、サン=サーンスには作品番号167のクラリネットソナタがあり、これはディスクを持っているが、そちらともちょっと似ていないでもないような。

 後半は、ブリテンのいかにも現代曲といった趣きと、イタリアオペラを思わせるメロディに満ちたポンキエルリという好対照が、選曲の工夫を感じさせた。

 演奏はきわめて安定した技巧と見事な音色で、やっぱりプロの演奏は違うなあ、としみじみ感じさせられる。 アンコールのあと、聴衆の数が多くないにも関わらず拍手が続いて荒さんが3回も呼び出されたのは、満足した客が多かった証拠であろう。

 だがしかし・・・・私の斜め前にすわっていたオバサンは――私は見るともなく見ていたのだが――前半は全然拍手をせず、後半ではポンキエルリのあと1回だけ3秒ほど拍手をし、あとは最後のアンコール前のトークのあとでこれも3秒ほど拍手をしただけ。 演奏中はオペラグラスを出したり入れたり、のど飴の包みを開く音を立てたり・・・・・こういうオバサンは見ているだけで不愉快になる。 こういうオバサンを撲滅する法律でも作らないとね(笑)。

12月7日(月)       *T・J・クヴィストルプ 『心気症の男』(同学社、1600円+税)

 いただいてちょっと時間がたってしまったが、ドイツ文学に興味のある方のために紹介しておこう。 長年新潟大学でドイツ語の非常勤講師をされ、この10月から広島大学文学部独文科の教授に就任された小林英起子先生の訳になる喜劇が出た。

 作者はテオドール・ヨハン・クヴィストルプであるが、そんな名前知らないなあ、と思っても気にしないでいただきたい。 実は私も知らなかったのである。 この名前を知っているのは、ドイツ文学の専門家の中でも啓蒙主義時代を研究対象にしている人だけだろう。 そのくらい、日本ではマイナーな名前なのである。 

 活躍したのは啓蒙主義を代表する作家レッシングの少し前。 年齢的にはレッシングより7歳年長。 しかし文学史的なことをここに書いても仕方がないし、いやそういう知識が知りたいと思う方はこの訳書の解説をお読みになればいいだけの話だから、私はむしろここではドイツ啓蒙期文学の喜劇をとにかく味わってみては、と言いたい。 喜劇こそ、人間を知る近道なのだし、啓蒙主義っていうと、字面からしてお説教臭くて面白くなさそうな感じがしてしまうが、実は結構人間的だったのだ、ということも分かるのではないだろうか。

12月6日(日)      *新潟オルガン研究会第50回例会 合同リサイタルシリーズ第1回   

 本日は午後2時から標記の演奏会に出かける。 会場は新潟駅近くの花園カトリック教会。 あいにくの天気だったが、さいわい演奏会の直前と直後は雨はやんでいたようである。 ほんぽーとにクルマをとめて会場に向かったら、ちょうど会場の玄関前にコンチェルト2号さんがおられ、ドアを開けてくださった。 チケットの売れ行きは好調と聞いていたが、荒天のせいか、入りは悪くはないけれど満席にはならなかったようだ。

 今回は、これまでのオルガン研究会とは趣向を変えて、全体としてテーマを決めて選曲するのではなく、演奏者ごとに好みの曲を選んで演奏するというもの。 チラシでは八百板正己氏も演奏会に出演のはずだったが、ご都合により取りやめとなったのは残念至極であった。 演奏者と曲目は以下の通り。

 演奏=市川純子 ”フランスとイギリスの小品”
  N・ルベーグ: ノエル「御子が生まれる」
  C・A・ショーヴェ: ノエル「おっしゃって下さい、マリア様」
  スタンフォード: 前奏曲ト短調op.101
 

 演奏=飯田万里子 ”最愛のパーセル”
  パーセル: 二重オルガンのためのヴォランタリー ニ短調Z.719
 

 演奏=戸田加代子 ”バッハの手鍵盤曲の魅力”
  バッハ: コラール・パルティータ「ああ、罪人なるわれ何をなすべきか」BEV.770
 

 演奏=大作綾 ”ラインベルガーのオルガン音楽を普及させる活動をしております、ワタクシ。”
  ラインベルガー: オルガンソナタ第4番イ短調より第1楽章前奏曲と第3楽章フーガ
 

 演奏=渡辺まゆみ ”メンデルスゾーン生誕200年を記念して”
  メンデルスゾーン: オルガンソナタ第4番変ロ長調

 それぞれ個性があって満足できる演奏会であったが、私的には最初のお二人の弾く曲が好みに合致していたかな。 曲に面白みが感じられて、うん、来て良かったと思えた。 花園カトリック教会のオルガンを聴くのはもう何回目かになるが、大きさの割りには大きな音が出るものの、やはりりゅーとぴあのパイプオルガンとは差がある。 りゅーとぴあで演奏会を開くことはできないものだろうか、などと考えてしまう。

 こういった演奏者ごとに曲を選ぶ趣向の演奏会は今後も行われるそうである。 楽しみにして待ちたい。

12月5日(土)       *第45回新潟大学吹奏楽部定期演奏会

 本日は午後4時から標記の演奏会に出かける。 会場はりゅーとぴあ・コンサートホール。 実は予定していなかったのであるが、学生から 「チケット買って下さい」 と言われたので。 新潟大生の音楽クラブというと、管弦楽団の演奏会には何度も行ったことがあるが、吹奏楽部はこれが初めてである。

 吹奏楽部だから男子部員が多いだろう、という予見はものの見事にはずれた。 女子部員が全体の3分の2以上を占めている。 さすがにチューバは3人全員が男子だが、他は、トランペットが男女同数である以外は女子の方が多い。 ホルンも、ユーフォニウムも、トロンボーンもそうである。

 うーん、どうしてなのかな。 最近の若い男は楽器なんかやらないのだろうか。 サキソフォーンとかトランペットを吹いているとカッコよくて女子にモテそうな気がするんだが。 私の知っている某女性も、「男はスポーツと楽器ができるのが理想」 とのことで、息子を理想的に育てようと頑張っているらしかったのである。

 閑話休題。 プログラムは下記の通り。

 第1部(指揮=高橋亮、笹川悠馬)
  鈴木英史: マーチ「スパイラル・タワー」
  P・スパーク: ドラゴンの年
 (休憩)
 第2部(指揮=浅井政尾)
  ムソルグスキー: 展覧会の絵
 (休憩)
 第3部(指揮=高橋亮、笹川悠馬)
  ヘンデル: Joy to the brass rock (もろびとこぞりて)
  星出尚志(編): ウルトラ大行進
  R・カーペンター: 青春の輝き
  ガーシュイン: アイ・ゴット・リズム

 アンコールに、ヨハン・シュトラウス1世のラデツキー行進曲が演奏された。 

  吹奏楽の演奏会にはめったに来ないので、戸惑うことが多い。 まず、途中休憩が2回あること。 指揮者が曲ごとにしつこく変わること。 休憩時間に 「部長挨拶」 があること。 吹奏楽部の演奏会は管弦楽団に比べるとポップな雰囲気が強いのであるが、この 「部長挨拶」 ってのは、何というか、精神主義的というのか、昔風ですね。

 しかし会場は客の入りも良かったし、第3部では部員の服装もポップになりノリノリの演奏会でありました。 技術的にも、まあまあ、かな。 

 ちなみに吹奏楽部は創立50周年なのだそうである。 50周年で定期演奏会が第45回というのは合わないような気がするのだが、最初の頃は定期演奏会という観念がなかったのか、或いは大学紛争の頃などには開催できないこともあったのか。

 あと、「東部正指揮者」とか「西部副指揮者」とか紹介があるんだけど、この東部とか西部って、何のことなのかな? 分かりませんでした。

12月4日(金)      *大学の閉塞状況 

 ここ1年ほど、時々のぞいていた大学教員のブログがあったのだけれど、本日見てみたら、書き込みを今後はしないと書かれていてがっかり。 最近の書き込みも削除されていた。

 http://nangokuyamasan.asablo.jp/blog/ 

 匿名のブログで、以前は地方の弱小私大に勤務し、昨年度から東京の伝統ある私大――推測するに日東駒専という言い方でくくられる大学か――に勤務されている方である。 経済がご専門のようだが、日本の政治家の経済政策だけでなく、自学の経営方針にも忌憚のない意見を述べられていて、私は面白いと思って読んでいた。

 ここにも書かれているように、匿名であっても学内の人が読むとどこのことを言っているのかが分かるので、差し障りがあるのであろう。 差し障りのあることを書いてくれた方が面白いというか、差し障りのないことばっかり書いてある大学人のブログなんか存在価値がないと私は思うのだが、なかなか現実は厳しいということのようだ。 

 大学という場所が、批判精神を受け入れなくなったらそれは自己否定になる。 そういう当たり前のことが分からない大学人は多い。

 他人ごとではない。 実は昨日来ちょっとしたことがあったし、その他、私自身に関わることが2件、間接的に関わることが1件あって、いまだに解決していない。 ここに書いてもいいのだが、書くとまた面倒になりそうで、自主規制している。 

 一つだけ確実に言えることは、学問や自分の好きなことをやっている場合はともかく、大学に管理職として務めて有能な大学教師は、少なくとも新潟大学にはあまりいないという事実である。 むろん、好きで管理職をやっているのではないとは言えるだろう。 また最近の大学は昔より格段に多忙になっている。 その意味で同情に値するとも思えるのだが、例えばある時にミスを犯した職員を厳しく叱責したとすると、同じような失敗を自分がしたら同様に厳しく自分で責任をとらなければならないというような基本的なことも分かっていない人がいると私は言いたいのである。 

 もっとも、事務職員のミスを教員の責任に転嫁する変な管理職も存在した。 これも要するに適切な判断力がないのに管理職になってしまった例だろう (もう数年前のお話です)。

 或いは、ある時ミスを発見したならば、少なくとも同じミスはしないように注意するとか、ミスの原因を突き止めて対策をたてておくといったことは、最低限、管理職としてやるべき仕事だろう。 放置して同じミスが続いたとすると、知的人間であること自体が疑われてしまうからで、これは管理職としてばかりでなく、大学教師としても致命的と言える失態であるはずだ。 そういうことが分かっていない人がなぜ管理職になっているのか、私には分からない。

12月3日(木)     *成田圭市先生の 『英語の綴りと発音 「混沌」 へのアプローチ』(三恵社)

 新潟大学教育学部で英語学を講じておられる成田圭市先生が 『英語の綴りと発音』(三恵社、本体価格\2400)という本を出版された。 

 英語という言葉は、発音が難しいことで知られる。 と言うと、「えっ、そうなの?」 と思う方も多いだろうが、ドイツ語やフランス語やイタリア語をやってみれば一目瞭然。 英語ほど、綴りと発音が一致しない言語は珍しいし、母音も数が多くて外国人には習得が難しいのだ。

 この、(英語以外の外国語を学んだ者には)誰にでも明らかでありながら、学問的に扱うことが困難なテーマに成田先生は挑んでおられる。

 最初のあたりには、英語の発音のデタラメぶりにまつわるジョークが紹介されていたりして、楽しんで読めそうである――じつは私も、いただいたものの、ジョークのところしか読んでいないのであるが。 

 とにもかくにも、英語の発音の問題に興味のある方はご一読を。

12月1日(火)      *オーストリア・ハンガリー・ハイドン・フィルハーモニー演奏会

 午後7時からりゅーとぴあで行われた標記の演奏会に出かける。 女房同伴。 席は3階Hブロックで、Aランク席がNパックメイト価格6300円。

 りゅーとぴあのオーケストラ・コンサートは、まあ新潟大オケの定演や第九コンサートもまだあるけれど、プロオケの演奏会は今年最後である。 さぞいっぱいになっているだろう、悪くても東響定期くらいには入っているだろう、と思ったら・・・・・何と、入りの悪いこと! 愕然とした。 ええっ、という感じ。 半分も入っていない。 3〜4割くらいか。 ブロックによっては (Fブロックなど) かなり入っているところもあったけれど。 うーん、ハイドンってそんなに人気がないのか、或いは不況のせいか、或いは新潟のコアなクラシックファンはこの程度しかいないのか。

 この演奏会、パンフによると「コンサートホール企画連絡会議連携事業」だそうで、新潟のりゅーとぴあ以外に札幌のKitaraホール、すみだトリフォニーホール、所沢市民文化センター・ミューズ、京都コンサートホール、アクロス福岡シンフォニーホールでも行われるそうなのだが、うーん、りゅーとぴあの入りがダントツで最悪だったりして・・・・(肩身が狭い)。

 それはさておき、指揮はアダム・フィッシャーで、プログラムは以下の通り。

 柿沼唯: ハイドンの庭 (委嘱作品、初演)
 ハイドン: 交響曲第92番 「オックスフォード」
 ハイドン: 交響曲第45番 「告別」
 (休憩)
 ハイドン: 交響曲第104番 「ロンドン」
 (アンコール)
 ハイドン: 歌劇 「報われた誠意」 序曲

 編成は普通のオケより小ぶりで、第1ヴァイオリン8名、第2が6名、ヴィオラ5名、チェロ4名、コントラバス2名。ただし、「告別」 では第1ヴァイオリン2名と第2ヴァイオリンおよびヴィオラを各1名削っていた。 配置は左から、第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ (その背後にコントラバス)、第2ヴァイオリンの順。

 さて、演奏であるが、入りの悪さをカヴァーするかのように、素晴らしかった。 ほんと、来なかった方は大損をしたと思うなあ。

 小編成の特徴を活かして、テンポの緩急や音の大小をはっきり打ち出した、めりはりのある演奏。 りゅーとぴあの音響特性のせいもあってか、小編成でも音量に不足はなく、むしろなまなかな大編成のオケより迫力が感じられた。 (これは、ベートーヴェンの交響曲を小編成のオケで演奏するディスクを聴いた場合にも感じられることである。) 「オックスフォード」 では曲のさまざまな仕掛けのようなものが楽しく表現されており、「ロンドン」 では曲の勢いがよく出ていた。

 また、「告別」 の終楽章では、舞台の照明が徐々に暗くなるという演出もあった。 ハイドンの時代の演奏では、楽団員が退席するときに楽譜の照明に使うろうそくを吹き消したということだから、それを現代的に再現したわけであろう。 また今回生演奏で聴いて、終楽章を別にしても結構屈折した感情のこもった曲だったんだな、と思った。

 アンコールの曲は初めて聴いたが、ホルンの2名が楽屋やホワイエなど、色々な場所から音を響かせてくれて、たいへんに楽しい曲であった。 一晩の演奏会を締めくくるのにふさわしい選曲と言える。

 会場では、越乃寒梅のメーカーさんによるくじ引きもあり、当たった人にはお酒がプレゼントされたようだが、残念ながら私も女房もハズレ。

11月28日(土)      *最近聴いたCD

 *Tchaikovsky: The Snow Maiden 〔チャイコフスキー: 雪娘〕 (Chandos, CHAN 9324, 1994年録音, 英国盤〔CD製作はドイツ〕)

 先週上京して、読響の演奏会でオール・チャイコフスキー・プログラムを聴いた。 それで、改めて未聴のチャイコフスキーの曲を集めようという気になり、読響の演奏会の翌日、お茶の水のディスク・ユニオンで4枚ほど購入したうちの1枚がこれ。 指揮はネーメ・ヤルヴィ、オケはデトロイト交響楽団、メゾソプラノはイリーナ・ミシュラ=レフトマン、テノールはウラディーミル・グリスホ、合唱はユニヴァーシティ・ミュージカル・コラール・ユニオン。 イントロからフィナーレまで全19曲からなる劇付随音楽。 33歳の頃の作曲で、作品番号は12。 オストロフスキーの戯曲 「スネグーラチカ(雪娘)」 に音楽を付けたものだが、民謡調の曲が多く、親しみやすい。 若いときの作曲だけれど、それなりのレヴェルに達している作品だと思う。 タイトルは英語だけど、歌唱はロシア語。 ただし解説には英訳が併記されている。 なお私の買ったのはCAHNDOS盤だが、現在はNAXOSで入手できるらしい。 こちらから (→) ジャケットなどをごらんいただけます。 http://ml.naxos.jp/album/CHAN9324

 *Widor: Organ Symphony No.5&6 〔ヴィドール: オルガン交響曲第5&6番〕 (Guild, GMCD 7305, 2005年録音, スイス盤〔CD製作は英国〕)

 今年9月10日にマントゥーのオルガンリサイタルを聴いて、ヴィドールのオルガン交響曲の魅力を知り、ディスクを探し始めた。 とりあえず第4番をyahooオークションで入手し、その感想は9月24日のこの欄に記した。 5番と6番の入ったCDはHMVに同じ頃に注文していたのだが、なかなか届かず、実に注文してから2カ月半を経て最近ようやく届いた。 まあ、遅れても来ないよりは、と言うけれども。 さて、演奏はColin Walsh、使用オルガンはLincoln Cathedral (英国)のもの。 曲はどちらも5楽章構成で、親しみやすいメロディにあふれており、とても聴きやすい。 同じオルガン交響曲でもヴィエルヌの作品に比べて格段に把握しやすく、お薦めできると思う。 こちらから (→) ジャケットなどをごらんいただけます。 http://www.guildmusic.com/catalog/gui7305z.htm  

11月23日(月)     *ヘルベルト・ブロムシュテット+チェコ・フィル: ブルックナー 交響曲第8番

 夕方7時からサントリーホールで、標記の演奏会を聴く。 今回の上京ではオペラを含めて3つの音楽会を訪れたが、その中では何と言ってもこれが白眉。

 会場では久しぶりにぶりちょふさんとお会いしてお話ができた。 演奏会後も夕食のラーメンにお付き合いいただき、ありがとうございます。

 ブロムシュテットは以前ゲヴァントハウス管と来たときに上越市と新潟市で聴いている。 しかしチェコ・フィルとの組み合わせでは初めて。 チェコ・フィルのほうは、遠い昔――30年以上前――にヴァツラフ・ノイマンと一緒に来日してNHKホールで演奏会をやったのを聴いて以来。 もっともその時は、たまたま同時期に来日していたアイザック・スターンとベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をやるのが聴きたくて行ったのであるが。

 チェコ・フィルの今回の来日では、ドヴォルザークの 「新世界」 とベートーヴェンの 「田園」 が主たるプログラムで、ブルックナーの第8はこの日だけ。 そのせいかどうか、会場はほぼ満員。 私は珍しく奮発してS席をあらかじめ買っておいた。 2階正面Cブロックで2万円。 S席でこの値段は、まあベルリン・フィルやウィーン・フィルに比べれば半額だと思えば、高くはないかな。

 オケの配置は、左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンで、コントラバスは8人の奏者が左側最後尾に半円形を描いてずらりと並んでいる。 その前にホルン8名が2列で。 最後尾中央にはティンパニが結節点でもあるかのように陣取り、その右側にトランペット、トロンボーン、チューバが2列で並び、そのまた右側がハープ2名。

 演奏は、一口で言って非常に素晴らしいものであった。 この曲の大きさと抒情の双方を過不足なく表現しきっていたと思う。 ホルンの安定性とトランペットやトロンボーンの迫力 (しかしいわゆる爆演にはならない) は特筆ものだし、弦の中音域がとても充実していた。 第1ヴァイオリンは私の数え間違いでなければ14名で (第2も同数)、ブルックナーとしては多くないが、迫力不足は全然感じられない。 何年か前、スロヴァキア・フィルがりゅーとぴあに来たとき、東響の整然とした弦とは違った野趣に富んだ弦の音が印象に残ったが、チェコフィルはその中間くらいと言うか、洗練され過ぎず、しかし田舎オケと言うほど野性味があるわけではなく、ちょうど程良い厚みがあって、好ましく思われた。

 団員が退場しても拍手がおさまらず、ブロムシュテットがもう一度舞台に出てきてようやく幕となった。 でもね、パンフの1000円は高い。 たいして中身のないパンフを高い価格で売るのは日本の悪習で、やめてほしい。 この内容なら500円で沢山。

11月22日(日)     *ベルギー王立美術館コレクション : ベルギー近代絵画のあゆみ

 昼前から、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開催されている標記の美術展を見る。 当日券1000円。 

  http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/047.html

 ベルギーというと日本ではあまりまとまったイメージがないが、この美術展を見ても、ベルギーとしての独立した動向があるというより、やはりパリからの影響が大きいようだ。 ただしフランスとまったく同じというのではなく、ベルギーなりの独自性もある。 ただ、この美術展は、象徴派だとか印象派だとかをまとめて見せるものではないので、おおよその流れをつかむことはできるが、はっきりこれだと言えるような際だった特徴はつかみにくい。

 昔、象徴派だけを集めた展覧会を見たことがあったが、インパクトとしてはそちらのほうが大きかったと思う。

 もっとも今回は、いわゆる絵になるような景観だけでなく、例えば今日ならあまり絵になるとは思われていない工場を描いた絵があって、面白いと思った。 「自然」 だけが景観なのではなく、工場だって景観のうちだし、近代産業の勃興期には煙を吐き出す工場は人間の智恵と力の象徴であったはずで、そうした感性がこんにち忘れられているのはおかしいのではないか。

 とはいえ、一番気に入ったのは、象徴派の庭の絵であった。 しかし残念ながら売店に展示されてある絵葉書の中にないので、仕方なくカタログ (2000円也) を買う。

      *東京二期会オペラ劇場 R・シュトラウス 「カプリッチョ」 公演

 この日は美術展に続けて、午後2時から、R・シュトラウス最後のオペラ (正確には 「音楽のための会話劇」 と題されている) を二期会の公演で聴いた。 会場は日比谷の日生劇場で、ここには初めて入ったが、クラシック専用ホールとは作りがやや異なっている感じ。 私は1階後方の右端近くの席。 Aランクで1万3千円。 1階の入りは7〜8割程度か。

 計4日間の公演で、キャストはダブルになっているが、この日のキャストは以下の通り。 伯爵令嬢マドレーヌ=佐々木典子、マドレーヌの兄=初鹿野剛、作曲家フラマン=望月哲也、詩人オリヴィエ=石崎秀和、劇場支配人ラ・ロシュ=米谷毅彦、女優クレロン=加納悦子、ムッシュ・トープ(プロンプター)=大川信之、イタリア人ソプラノ=羽山弘子、イタリア人テノール=渡邉公威、執事長=佐野正一。

 演出はジョエル・ローウェルス、指揮は沼尻竜典、演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。

 パンフレットには初演時の舞台装置の絵も掲載されていたが、今回の舞台もそれを踏襲していたようである。 広間の中央から左側にかけての奥が掃き出しのガラス戸になっていて、中央やや左手に鍵盤楽器が置かれ、右端に書棚がおかれるという配置。 ただし本来の時代設定は18世紀後半、フランス革命が起こる十数年前のはずであるが、今回の演出では1940年代前半、つまりナチス時代に変えられていた。 そしてヒロインの伯爵令嬢は、最後の場面では白髪となり杖をついて登場する。 つまり、最終場面だけはそれ以前の場面からかなりの時をへているという設定に変更されているわけだ。

 このオペラ、オペラは言葉と音楽とどちらが大事なのかというテーマの、言うならばメタ・オペラ的な作品で、CDで聴いていると特に後半はまどろっこしく感じられるのだが、実際の芝居を入れた視覚的要素を含めた実演で聴くと、あまり退屈もしなかった。 イタリア・オペラを意識的に再現したりする箇所は、この作品のメタ性というか、R・シュトラウスの音楽家としての遊び心も感じられ、やれることはみなやってみようという意識で作られたごった煮的な作品とも言えそうである。 と当時に、オペラや音楽が行き着くところまで来てしまい、あとはどうなるか分からないというような、いわば世紀末的な雰囲気もあって、一筋縄ではいかない。 コンサートでの有料パンフは高いと思うことが多い私だが、この日の千円のパンフはその意味で高くないと納得したことであった。

 歌手陣は、すごくいいというほどでも、まるでダメというほどでもなく、全体的に程々といったところ。 中では劇場支配人役の米谷氏が、その恰幅の良さも含めて印象に残った。

         *

 オペラを見てから、午後6時に友人3人と1年ぶりで会う。 1年前に会ったときは、次回は築地で寿司を食おうという話になっていたのだが、果たして覚えているかどうかと危ぶんでいたけれど、幸いにして私以外にも覚えている友人がいて、4人で東京駅八重洲口からタクシーに乗って築地に行く。

 入った寿司屋は、靴を脱いで入るのだけれど、椅子に腰かける形式の店で、その椅子や机もあまり上等ではない。 まあ、実質で勝負ということなのだろうけれど、雰囲気作りという面で見るとどうかなあ。 新潟の酒もおいてあるけれど、あまりに高価で、少なくとも私は飲む気がしない。

 私以外の3人はみな首都圏で理系サラリーマンをやっているが、こういう場でもアルコールをセーブして健康に気を遣っているようだ。 最近は、ふだんもあまり酒を飲まないようになっているらしい。 五十代後半になると体も衰えてくるからということだろうけれど、私みたいに毎晩酒を食らっている人間からすると、見習うべきと言うか、或いはちょっと健全すぎると言うべきか、である。

 もっとも1人を除いてはまだ学齢期の子供を抱えているから (私もそうであるが)、あまり不健全なことは子供のためにもできないということはあろう。 日本人男性はかくもマジメなのである。 日本が経済大国と言われるようになったのも、こういう人たちのお陰だと私は思いますけど。

11月20日(金)      *読売日本交響楽団 第166回東京芸術劇場名曲シリーズ

 2限の授業を終えたあと、上京する。 仕事のせいで6月からずっと新潟市内にへばりついていたので、久しぶりの旅である。

 新宿で映画を1本見てから、池袋の東京芸術劇場で午後7時開演の標記の演奏会を聴く。 指揮にゲンナジ・ロジェストヴェンスキーを迎えてのオール・チャイコフスキー・プログラム。 ただし、チャイコフスキーの管弦楽曲としては比較的マイナーな曲ばかり集めたような演奏会。 コンマスはデヴィッド・ノーラン。

 交響的バラード「地方長官」op.76
 幻想序曲「テンペスト」op.18
 (休憩)
 組曲第1番op.43
 戴冠式祝典行進曲

 座席はRBでAランク、6000円。りゅーとぴあで言えばHブロックとBブロックのあたりで、高さは双方の中間くらいだろうか。 客は、1・2階は7〜8割くらい入っていたが、3階はガラガラ。 全体で言うと半分程度かな。

 ロジェストヴェンスキーの指揮を生で聴くのは初めてである。 1931年生まれと言うから、すでに78歳。 そのせいかどうかは知らないが、指揮は主として腕と手先でやっているような印象。 (でもその3日後に聴いたブロムシュテットは1927年生まれだから4歳も年上なのに、指揮ぶりは活発だった。 やっぱり人によるのだろう。)

 組曲第1番だけは直前に新潟市のCDショップ 「コンチェルト」 でCDを買って予習していったのであるが、他はディスクが入手できず、初めて聴いた。 長さから言っても内容的に言っても、組曲第1番が一番聴き応えがあった。 ただし、金管が吠えるなどの迫力面で言うと他の3曲が勝っていた。 最後の戴冠式祝典行進曲は5分くらいの短い曲で、なんでこれを最後に持ってきたのかなと思っていたが、演奏に際しては後部に金管がずらりと並んでいかにもという曲なので、締めくくりにはちょうどいいということだったのだろう。

 読響の演奏は悪くなかったと思うが、会場のせいか座席の位置のせいか、ところどころ音が中抜き的に聞こえた。 管はいいのだが、弦がうつろに響く場合がある。 といってもいつもそうだというわけではなく、同じ曲でも部分により異なっていた。 どうなっているのかよく分からないが、音響というのは難しいものである。

11月18日(水)     *演劇 「サロメ」

 本日は夜7時からりゅーとぴあ劇場で、演劇 「サロメ」 を見る。 原作は言わずと知れたオスカー・ワイルドだが、これは女形の篠井英介がサロメを演じる、ちょっとキワモノっぽい芝居である。 ヨナカーン (ヨハネ) にあたるのが修験者で森山開次、王が上條恒彦、妃が江波杏子。 箏や尺八などの和楽の伴奏がつき、演出は鈴木勝秀。 時代と場所は、古代日本に変えてある。

 姫が舞踏で修験者の首を獲得するという基本的な筋書きは原作に同じ。 しかし姫を演じるのが女形なので、最初からどことなく妖しい雰囲気で話は進む。 場内の観客は、クラシック演奏会のそれと比べると明らかに平均年齢が若く、どことなくミーハーっぽい雰囲気が漂っているけど、舞台もそれにふさわしいように思われた。 観客は、基本的に筋書きだとか会話の内容だとかよりも、役者そのものに入れあげているようで、芝居が終わると篠井は言うまでもなく、森山にも歓声が浴びせられた。

 面白いかと言われると、うーん、どうかな、というのが率直な印象。 演劇では役者の外見や演技だけではなく、また舞台装置の独自性だけではなく、セリフが大きな重みを持つはずだが、その点に関しては物足りない感じがしたと言うしかない。

 パンフレットが1200円もするのも、マイナス印象。 だいたい、パンフと言ってもろくなことが書いていないのである。 この程度のものは500円で沢山。 パンフでもうけようなどという姑息なことは考えないように。

11月15日(日)    *プロジェクト・リュリ第3回演奏会 「フランソワ・クープランを巡って」  

 本日は午後2時から標記の演奏会に行って来た。 あいにくの強風が吹き荒れた日。 そのせいかどうか、客は半分入っていたかどうかといったところ。

 ヴァイオリンが佐野正俊氏と庄司愛さん、ヴィオラ・ダ・ガンバが中山徹氏、クラヴサンが師岡雪子さん、リコーダが柴田雄康氏、ソプラノが風間左智さん。

 曲目は下記の通り。

 F・クープラン: 王宮のコンセール第1番
 モンテクレール: カンタータ「エウロペ」
 モンテクレール: フルート(リコーダ)と通奏低音のためのコンセール第2番
 (休憩)
 F・クープラン: 組曲「スペイン人」
 (アンコール)
 曲目不明

 落ち着いた雰囲気のいい演奏会。 フランスの古楽をまとめて聴けるコンサートは、新潟では貴重である。 今回も、リコーダの曲あり、声楽の入ったカンタータありで、それなりに変化に富んだプログラムだ。

 モンテクレールのカンタータは初めて聴いた。 カンタータというと一にも二にもバッハだと思い込んでいたが、それなりに面白かった。 風間さんは新潟でのこの種の演奏会ではおなじみであるが、今回もなかなかいい歌を披露してくれた。

 最後の組曲 「スペイン人」 では庄司愛さん登場。 先日のネーベルでは女性としての魅力が出てきたと感じられたのだけれど、今回、あらためて、一皮むけて大人の美しさが出てきたと思う。 前にも書いたが、この種の合わせものだけではなく、単独で、或いは石井朋子さんあたりと組んでジョイントリサイタルでもいいから、庄司さんならではの個性を発揮する演奏会をやってほしいものである。

 プロジェクト・リュリの今後の健闘を祈ります。

11月14日(土)     *山本真希オルガンリサイタル・シリーズ No.8 「オルガンで聴くハイドン」    

 本日は午後5時から、りゅーとぴあで標記の演奏会を聴く。 りゅーとぴあ専属オルガニスト山本さんの本格的なオルガンリサイタルはいつも入りがイマイチであるが、今回はいつもよりは客が入っていたようだ。 300人くらいはいただろう。

 前半は、直前に映画を見ていたので開演時刻ぎりぎりで到着したこともあり、2階Cブロックで聴き、後半は3階Jブロックで聴いた。

 プログラムは下記の通り。

 ハイドン: オルガン協奏曲ハ長調Hob.XVIII-8
 ハイドン: 音楽時計による音楽より(6曲)
 ハイドン: トランペット協奏曲変ホ長調Hob.VIIe-1(オルガン伴奏版)
 (休憩)
 モーツァルト: アヴェ・ヴェルム・コルプス(トランペット+オルガン)
 ブラームス: ハイドンの主題による変奏曲(オルガン演奏版)

 トランペットは東響トランペット首席の佐藤友紀氏、最初の協奏曲ではヴァイオリンの廣川抄子さんと佐々木友子さん、チェロの渋谷陽子さんが共演した。

 今回の演奏会では、まず何と言っても佐藤氏のトランペットの素晴らしさを挙げるべきであろう。 前半のトランペット協奏曲も、後半のアヴェ・ヴェルム・コルプスも、よくコントロールされた音と見事な技巧で聴衆を魅了してくれた。

 ブラームスのハイドン変奏曲も、ふだんディスクではオケ版で聴いているせいか、オルガンの音色が新鮮に感じられ、喩えて言えば日頃見慣れている女性ががらっと髪型や服装を変えたら新しい魅力が備わったといったところであった。

 最初の協奏曲では、弦楽器が3人だけでは十分な音量が確保できないのでは、と心配したのであるが、りゅーとぴあの音響特性のせいか、結構よく響いていた。 もっともオルガンもあまり大音量は出さなかったようだ。

 演奏そのものはそういうわけで良かったのだが、どうもプログラムの量が物足りない。 特に後半は2曲だけでは明らかに不足で、もう1曲なければならないのではないか。 アンコールで補うのかなと予想していたら、アンコールもなく、途中20分休憩が入って終演時刻は6時30分。 演奏会は時間長きが故に尊からずだとは思うものの、うーん、もう少し何とか、という気持ちで演奏会場を後にした。

11月10日(火)     *新潟大学名物タヌキ汁は可能か?

 土曜日に学会があり、その後懇親会があったけれど、そこで出た話。 

 新潟大学の構内には色々な動物が住みついている。 最近は、構内ではないが、近くに朱鷺が一時期生息していて話題になった。 残念ながらその後住処を変えたようであるが。

 さて、新潟大学内で目立つ動物というと、一にカラス、二にネコであろう。 カラスはとにかく数が多く、冬になると電線に何十羽、いや、それ以上の数がずらりと並んでとまっているのが壮観、というか、不気味。 「鳥」 という映画がヒッチコックにあるが、あれを想起させるのである。

 次のネコは、学生がエサをやるらしく、肥え太った奴が学内に少なからず住みついているのである。 人間様でも餓死する場合があるこのご時世に、優雅なことではある。

 さて、それ以外に実はタヌキも構内にいるらしい。 私は見たことがないが、法学部の建物の背後に小さな森があり、そこに住んでいるという。 法学部所属のM先生は時々エサを与えているとか。 私も構内では見たことがないとはいえ、新潟市は結構タヌキが多いらしいことは知っている。 何しろ時々海岸道路でクルマにはねられたタヌキが死んでいるのを見ているからである。

 で、それを聞いて私はふと思ったのである。 最近は各大学とも独自に食品を開発するケースが目立つ。 新潟大学でも、新潟大学ビールだとか、新潟大学まんじゅうだとかを作って売り出している。 しかし、私が思うに、それらはありがちな食品で、あまり独自性が感じられない。 タヌキが住んでいるのであれば、それを利用しない手はない。 タヌキ汁を新潟大学名物として売り出したらどうだろう。

 M先生やK先生にそう言ってみたら、動物愛護団体から抗議がくるんじゃないかとか消極的な反応だった。 これだからインテリはダメなんだよ、と言いたくなる。 独自性を出そうとするなら、多少の軋轢はものともせずに蛮勇を奮って(?)タヌキを食用に利用すべきではないか。

 というわけで、その後インターネットで調べてみたのだが、タヌキの肉を食べるには臭みを取るのにかなり手間がかかるらしい。 また、そもそもタヌキ汁というのはタヌキの肉を用いたものではなく、こんにゃくを使ったものをそう言うのだ、という説もある。 言われてみれば、タヌキうどんやタヌキそばだってタヌキの肉は使っていない。

 しかし、である。 本物のタヌキの肉を使ったタヌキ汁があって悪いという根拠はないはずだ。 新潟大学の農学部あたりで、本格派タヌキ汁料理を研究・開発してくれないだろうか。 そのうちミシュランにも載るかも知れないし・・・・・・(笑)。

11月8日(日)     *東京交響楽団第56回新潟定期演奏会 

 本日は午後5時からりゅーとぴあで標記の演奏会。 指揮はユベール・スダーン、ピアノ独奏がゲルハルト・オピッツで、プログラムは下記の通り。

 ブラームス: ピアノ協奏曲第1番
 (休憩)
 シューマン: 交響曲第2番 (マーラー版)
 (アンコール)
 シューマン: トロイメライ (ヴァイオリン独奏+オーケストラ版)


 うん、いい演奏会だったなあ、といきなり言ってしまおう。 本日はスダーン指揮の東響定期ということで、期待度はふだんにも増して高かったのであるが、それを裏切らない演奏であった。

 ブラームスは、第1楽章の前半は悪くないけどわずかに乗れていない印象があったのだが、後半からギアが入ったのかかなり良くなったと感じられた。 オピッツの明晰な音がブラームスにぴったり。 以前、同じコンビの東響定期でブラームスのピアノ協奏曲第2番をやったときは必ずしも満足ではなかったのだけれど (それだけ2番は難しいということ)、本日は大満足。

 シューマンは最初から乗っていた。 実に快調で聴いていて爽快。 実は私はシューマンの4つの交響曲の中で第2番はいちばん分からない曲なのであるが、そういうことが全然気にならず、馴染みの曲を聴いているような気持ちで楽しめた。

 そしてアンコールでコンマス高木和弘さんのヴァイオリン独奏が聴けるとは、何と贅沢で心憎い配慮であろうか。 うーん、満足が2乗されてしまう。

 というわけで、こういう演奏会が毎月聴けたら言うことなしなんだか、という気持ちでホールを後にした。 三重苦状態からの解放のあとには、いい演奏会が待っていた!

11月7日(土)      *日本独文学会北陸支部2009年度研究発表会ならびに総会

 標記の学会が、本日、午後1時30分から新潟市の中心部にある 「クロスパルにいがた」 を会場にして行われた。 学会も、行くだけなら楽だが、今回はレセプションの側で、しかも私は学会事務を引き受けており、なおかつ――発表者が足りなかったので――自分で発表もやることにしたので、忙しさは半端ではない。

 自宅が近いM先生のクルマに乗せてもらって、他にK先生およびバイトの学生も途中で乗せて、学会開始1時間前に到着。 さっそく会場の設営である。 4階の2部屋を借りており、そのうち1部屋は発表会および総会の会場、もう1部屋は受付および控室である。 控室は、ドイツ文学関係やドイツ語教科書を出している出版社の方々が最近出た本を展示する機能も果たす。

 何とか1時すこし過ぎくらいに設営を終えたが、昼食用に買っておいたパン2個のうち1個しか食べるヒマがなかった。

 さて、今回のプログラムは以下のとおり。

   司会: 三國博子 (新潟大学非常勤) 

  発表1 桑原 聡 (新潟大学):  近代ドイツ文学における庭園モチーフについて ――ゲオルゲ、ホーフマンスタール、シェアバルト――

  発表2 三浦 淳 (新潟大学):  シュトルムの小説の構造 ――"Immensee""Eekenhof"の比較を通して――

  発表3 宮内伸子 (富山大学):  翻訳で確認する日本語による「美」の創造力 ――川端康成の『山の音』のドイツ語訳を手がかりに――

  発表4 佐藤文彦 (金沢大学):  ゲルマニストにとってのドナウ河流域の文学と文化 ――ゲルマンの河ラインとの差異を中心に――

  発表5 磯崎康太郎 (福井大学): 世代の交差と集合的記憶 ――ドイツ映画『グッバイ、レーニン!』、『ベルンの奇蹟』を例に――

 質疑応答を含めて1人当たり持ち時間は30分のはずだったのだが、質疑応答が活発で予定時間をオーバー。 全体で30分以上の超過となった。 まあ、意見の交換が盛んなわけで、学会参加者は20名ちょっとという小ぶりな学会なのだけれど、内容は決して薄くなかったと自信をもって言える。

 その後総会があって、午後6時過ぎから10分ほど歩いたところにある古町通りの店で懇親会。 参加は16名。 料理は、おいしいけれど量がイマイチだった。 古町も、もう少しサービス精神を発揮してくれないと凋落に歯止めがかからないのじゃないか、と思う。 そのあと、さらに10名が参加して近くの寿司屋で2次会。

 それにしても、前にも書いたが、新潟大学のドイツ文学者は老齢化する一方で、未来がなさそうだ。 今回の発表でも、金沢大学と福井大学から来た方は30代の若手、富山大学の方は40代の中堅だが、新潟大学の二人は50代半ばおよび50代後半 (こちらが私) で、しかも富山大学の場合はほかに30代の若手もちゃんといるのに、新潟大学は発表された桑原聡先生 (50代半ば) がいちばん若く、二番目に若いのが私なのだから、超高齢化社会(?)だと言うしかない。 いかに新潟大学がこの点で崩壊しつつあるか、そして新潟大学がいかに北陸地方の他の国立大学と異なっているかが分かるだろう。 新潟大学にはいい意味での保守主義がまったくなく、文科省のお先棒をかついで 「改革」 をやった結果がこのテイタラクなのである。

 閑話休題。 私は、この学会の事務的な準備と、発表の準備、それにこれとは別の、初夏以来かかりきりになっていた仕事の最後の仕上げが一昨日まで続いたこともあって、つまりは三重苦だったわけで、それが一昨日および本日ですべて片付いたということで、肩の重荷がいちどきに下りた気分で安心して呑み、食べることができた。

 初夏以来の仕事のせいで夏休みもあまり休めなかったということがあるので――なにしろ6月以降どこへも出かけずずっと新潟にへばりついている――明日から少しゆったり過ごそうと思う。 12月になればまた学生の卒論指導とかレポート読みで暇なしになりそうだが、11月中はせめて授業以外の用事はなるべく遠ざけて、好きな本を読み、好きな映画を見、好きな音楽会に行こうと思うのであった。

11月3日(火)      *最近聴いたCD

 *團伊玖磨 『夕鶴』 (日本コロンビア、COCO78236-37、1994年録音、96年発売)

 チェコの劇団が新潟市で 『夕鶴』 をやるというので (10月30日を参照)、予習しておかねばと思い、新潟市のCDショップ 「コンチェルト」 さんで訊いたら、このCDがあると教えられ、取り寄せてもらった。 つうがソプラノの鮫島有美子、よひょうがテノールの小林一男、運ずがバリトンの久岡昇、惣どがバスの中村邦男、子供たちが鹿児島市立少年合唱団、指揮は作曲者である團伊玖磨自身、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏。 1994年3月2日、『夕鶴』上演600回記念公演 (東京、新宿文化センター) のライブ録音である。 ライブ録音だが、歌手の歌は歌詞がはっきり聞き取れ、鮫島有美子の美しい歌が堪能できる。 ただし、オケはもうちょっとかな、という気がした。

10月30日(金)      *喫煙バッシングに続いて、そのうち飲酒バッシングもあるかな

 喫煙バッシングがひどい世の中だけど、アルコールも怪しくなりかけている――と思わせる記事を見つけた。

 http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2657928/4829483 

 アルコールとタバコはLSDよりも危険、英科学者   2009年10月30日 09:28 発信地:ロンドン/英国

【10月30日 AFP】アルコールとタバコは、大麻、LSD、エクスタシーといった違法薬物よりも危険である――。薬物乱用に関する英政府諮問委員会の委員長をつとめる大学教授が29日、このような見解を示した。

 インペリアル・カレッジ・ロンドン(Imperial College London)のデビッド・ヌット(David Nutt)教授がキングズ・カレッジ・ロンドン(King's College London)の刑事司法研究センターに提出した報告書の中で述べたもので、合法・違法物質の危険性について大衆がより良く理解できるよう、新しい分類体系を構築するよう求めている。

 教授によると、身体的・社会的な危害や依存に基づく有害度ランキングは、アルコールがヘロイン、コカイン、バルビツール酸系催眠薬、メタドンに次ぐ第5位。タバコは第9位。大麻、LSD、エクスタシーは、それぞれ11位、14位、18位となっている。

 英国では今年1月、大麻が「クラスC(精神安定剤や一部の鎮痛剤もこれに含まれる)」から「クラスB」に引き上げられた。これは、大麻の使用が最大14年の禁固刑に、所持が最大5年の禁固刑にそれぞれ引き上げられたことを意味している。わずか5年前、大麻は「クラスB」から「クラスC」へ降格されたばかりだった。教授は、「科学的な根拠を無視するばかりか大衆を混乱させている」と、政府を批判している。

 教授は、大麻が「有害」であることには異論がないが、これを使用しても健康上の大きな問題はないとしている。喫煙による肺がんリスクと比較すると、大麻による精神疾患リスクは「比較的小さい」という。

 教授はまた、「エクスタシーは乗馬ほど危険ではない」としている。同教授は論文などでこうした主張を繰り返しており、論争をを巻き起こしたことがある。(c)AFP

  *        *        *

      *チェコ・オパヴァ・シレジア劇場公演――團伊玖磨 「夕鶴」

 さて、本日は午後7時から新潟テルサで標記のオペラ。 新潟テルサに来たのは久しぶり。 たしか数年前、新年のコンサートがあったとき以来。

 会場は、前半分はまあまあ埋まっていたが、後ろ半分はぱらぱらといったところ。 このオペラ、そもそも宣伝がどの程度行き渡っていたのか。 りゅーとぴあにチラシが出たのも比較的遅かったし、しかもそのチラシがあんまり分かりやすくない。 「opera 夕鶴」 という文字が小さくて、何のチラシなのか一目では分からないのである。 新潟公演の主催は地元新聞社であるが、チェコ共和国ビロード革命20周年記念と銘打ったチェコ文化庁の助成事業だそう。

 オパヴァという町は日本人にはなじみが薄いが、パンフと一緒に配布された資料によると、チェコ共和国の北東、ポーランドと国境を接するシレジア地方の主都であり、人口は約6万、シレジア大学もここに本拠があるとのこと。 ヤナーチェクの生誕地も近く、日常の音楽の営みは盛んなようである。

 私の座席は12列目やや左寄りだったが、隣席は子供二人を連れた御婦人で、そのうち上は小学4〜5年生くらいの女の子で大人しく聴いていたけれど、下は小学3年生くらいの男の子で、落ち着きなく席上で立ったりすわったりしていて、最後あたりでは眠っていたようだった。 よりによってその子が私のすぐ隣りだったのでひそかに閉口。 未就学児童ではないけれど、こういうオペラを見せられるのは今どきの面白おかしいアニメに慣れている子供には迷惑じゃないのかな、と思う。 だけど会場では 「子どもたちに」 というパンフも配布され、小学生が見ることを奨励しているみたいなのである。 私の隣席に限らず、子供の姿が目立ったけど、うーん、どうですか。

 オペラは、つう役のカタリーナ・ヨルダ・クラモリショヴァーが日本女性らしい仕草を含めうまく演じ歌っていた。 ただし、歌詞は全体的に聞き取りにくい。 外国人の日本語の限界ということもあるし、またオペラはそもそも歌詞が聞き取りにくいものだから、ということもあるだろう。 20人ほど出てくる子供たち (これは全員日本人) によってこのオペラの民話らしさが保たれている作品かな、と思う。 男性歌手陣もまあまあだったが、惣ど役のバスは声があんまり通っていなかったみたい。

 第1部と第2部の間に15分の休憩が入ったが、第2部は30分もないので、一気に上演した方がいいのでは。 全体で2時間弱くらいのオペラなのだから。

*10月26日(月)      *日本シュトルム協会(編訳)『シュトルム名作集第2巻』 出来!

 三元社から刊行されている 『シュトルム名作集』 の第2巻が出た。 第1巻は5月に出ており、第2巻は予定では8月末に刊行されるはずだったのであるが、諸般の事情で遅れたものである。

 第2巻には 『オーク屋敷』、『市参事会員の息子たち』、『キルヒ父子』、『ドッペルゲンガー』、『告白』、『白馬の騎手』 の6作品が収録されており、年譜と散文作品リストも掲載されている。 なお、最初の 『オーク屋敷』 は私の訳になる。 

 定価は5000円+税だから安くはないが、A5判2段組400ページで、最後の大作 『白馬の騎手』 を含むシュトルム後期の代表作がまとめて読めるので、決して高くはないと思う。 書店で手にとってごらんいただきたい。

 なお、『シュトルム名作集』 全2巻の内容はこちらを。 2巻でシュトルムの全小説の約4割をカヴァーしているが、わりに評判がいいので、もしかすると第3巻も追加刊行されるかも知れないとのことである。

*10月25日(日)      *新潟市民映画館シネ・ウインドの株主総会

 本日は午前11時から、新潟市の労働福祉会館にて、新潟市民映画館シネ・ウインドの株主総会が開かれた。 私も一昨年から株主になっているので、出席。

 シネ・ウインドができてから24年間支配人を務めてこられた橋本氏の退職が承認された。 このニュースは9月7日にもこの欄でお伝えしたが、原因は最初は腰痛、その後は年齢から来るらしい更年期障害ということのようである。

 代わって、これまで副支配人を務めてきた井上経久氏が支配人兼取締役に就任。 橋本氏が抜けた穴はアルバイトで補うそうで、これまでは斉藤代表を含めて専従4人体制だったのが、専従3人+アルバイトという体制になる。 大変だろうが、経営は昨年も赤字だったそうだから、これで頑張ってもらうしかなかろう。

 総会では、映画界をめぐる情勢についても斉藤代表から話があった。 要約すると、日本の映画界も構造変動で全体として楽観を許さない状態になっているらしい。 また、シネ・ウインド自体、できて24年ということで、この映画館が入っている万代シティの第2駐車場ビルもあと10年位すると建て替えの話がでてくる可能性もあり、その意味でも今後の情勢は予断を許さない。

 また、シネ・ウインドは有限会社であると同時に、会員制の新潟市民映画館でもあるが、従来は斉藤代表が会員代表も兼ねていたものを、今回から市川明美さんが会員代表を務めることになった。 市川さんは、シネ・ウインドが毎月発行している 『月刊ウインド』 誌の編集をされているので、会員にはおなじみの方である。

 総会が終わった後は、近くの中華料理屋で昼食会。 3卓あって、私のすわった卓には前述の市川さんを始め、以前新潟市の映画館に勤務しておられた方などがすわられ、興味深いお話をうかがうことができた。 

*10月20日(火)     *国立大の理学部長会議が短期的成果偏重の大学交付金改善を求める

 本日の毎日新聞によれば、32の国立大学法人の理学部・理工学部の学部長で構成される理学部長会議が、この9日に短期的成果に偏重した評価システムや、国立大交付金の削減政策を改善するよう求めた提言を発表し、今後政財界や関係機関に働きかけていくという。

 いいことだと思う。 文学部系もこういうことをやったらどうだろう。 また、そもそも国立大の幹部が、大学内部での短期的成果偏重をやめるべきだし、申請しないとカネが下りないシステムを見直すべきだ。 怠けている教員にはカネを出さないシステムを作るというなら、、要するに一定期間に論文も書かないし学会発表もしない教員には研究費を削減もしくは全廃するようにすれば事足りるはずであるから。

            *クァルテット・エクセルシオ ハイドン・ツィクルス第2回

 この日は午後7時から標記の演奏会に行って来た。 開演10分前に行ったら、スタジオAはすでにかなり客が入っていた。 最終的には80ほどの席が全部埋まったようだ。 私は中央から右寄り5列目に空席があったのでそこにすわる。 4人の演奏者のうち、右のお2人は顔が見えないが、ヴァイオリンのお2人は見える位置なので、第一ヴァイオリンの西野ゆかさんの美貌にうっとりしながら演奏を楽しむことができた。 クァルテット・エクセルシオは、以前に榎本正一さんの演奏会で聴いたことがあり、今度が2回目になる。

 プログラムは下記の通り。

 ボッケリーニ: 弦楽四重奏曲ハ長調op.2-6
 ハイドン: 弦楽四重奏曲op.50-6「蛙」
 (休憩)
 ハイドン: 弦楽四重奏曲op.103
 ハイドン: 弦楽四重奏曲op.76-3「皇帝」
 (アンコール)
 ハイドン: 弦楽四重奏曲op.64-5「ひばり」第一楽章

 演奏は一口で言ってきわめて充実していた。 4人のアンサンブルがしっかりしており、第一ヴァイオリンの音も美しく、また会場のスタジオAはカルテットの演奏にちょうどいい大きさで、4つの弦楽器の響きとアンサンブルを十二分に味わうことができた。

 前半の2曲はいずれも知らない曲だったが、ボッケリーニも面白かったし、ハイドンの曲は第2楽章に独特の美しさがあって、堪能した。 後半の2曲も、改めて曲のよさを感じさせてくれる名演であった。

 このシリーズ、3回あるうち今回しか聴けないのが残念。 前回はロイヤルフィルとダブっていたのであちらに行ってしまい、次回は 「夕鶴」 公演とダブっているのでやはり失礼してしまう。 東京ならともかく、新潟にあって貴重な演奏会がなんでこうダブるんだろうか。 でもこれからもクァルテット・エクセルシオの演奏会を聴く機会があったら是非行ってみたいものだし、また新潟に来演して欲しいと思う。

*10月18日(日)      *米国って、男子大学があったんだ・・・・・・!

 CNNのニュースより。

 http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200910180008.html 

 名門男子大学が 「女装」 や 「化粧」 を禁止、議論に 米国   2009.10.18 Web posted at:   13:18  JST Updated - CNN

 ジョージア州アトランタ(CNN) 米ジョージア州アトランタにある名門男子大学モアハウス・カレッジがこのほど、女性の衣装や化粧、ハイヒールなどを「不適切な服装」だとして禁止、議論になっている。

 同大学は19世紀に黒人男子向けに設立された教育機関で、米国でも歴史ある名門の男子大学として知られる。学生数は2700人。

 これまでにも服装に関する規定はあり、屋内での帽子着用や公共の場におけるパジャマ姿、ヒップホップ好きに好まれるキャップの「ドゥーラグ」、ずり下げズボン、教室内でのサングラス着用、キャンパス内を裸足で歩くことなどが禁止されている。

 しかし、今回新たに「女装」を、「同大学にとって不適切なもの」と見なし、禁止することに。学生部のウィリアム・バイナム副部長によると率先して女装する、同性愛者の生活様式を取り入れている学生5人と話し合い、本学にはふさわしくないと結論づけたとしている。

 禁止通達の前には禁止項目の是非について投票も実施。27人中の反対者は3人で、賛成多数で可決されたとしている。規則を破った場合は、講義に出席できない。

 この「女装」禁止に対し、学生の反応は様々。4年生のタイロン・マックゴーワンさんは、新たな規則を部分的に認めつつも、授業以外の自由時間にどのような服装をするかは個人の自由だと指摘し、「これまで3年半、問題なかった服装がダメと言われるのはおかしい」と話している。

     *        *

 以下、当サイト製作者のコメント。 男子大学なんて、日本にすら――日本だから?――ないのに、フェミニズムの本場である米国にちゃんとあるんだねえ。 私、感心してしまいました。 広い米国には、世の中の風潮に媚びない人たちが確固として存在しているわけだ。

 ひるがえって日本はどうかな。 別段、問題は別学だけに限らない。 文科省の顔色ばっかりうかがって、結局どこでも同じような 「改革」 ばっかりやっている日本の国立大学には、爪の垢でも煎じて飲ませたいですな。

10月17日(土)      *大和撤退で揺れる新潟市――市は駐車場問題を何とかせよ

 15日に、新潟市にあるデパート大和 (だいわ) が撤退するというニュースが流れ、市長が撤退の撤回 (駄洒落ではありません) を求めるなど、大騒ぎになっている。

 大和は、本店は金沢だが、新潟市にも出店してすでに60年以上になるということで、地元のデパート同然に見なされてきた。 場所も、新潟駅からまっすぐ北西に伸びてくる征谷小路 (名前は小路だが、片側3車線の太い道路) と、東京なら銀座に相当する古町通りとの交差点にあって、まさに一等地を占めている。

 私が新潟に住み着いたのは1980年だが、来たての頃、てっきり大和は地元資本のデパートだとばかり思っていた。 近くに三越もあるのだが、入って食品売場に行こうとして地下に通じる階段を探したら、なんと地下がないというので――現在は一部にできているが――デパートとは地下に食品売場があるものだという固定観念を持っていた私は、「地下がないデパートなんて、モグリじゃないか」 とあきれはて、その分、当時から地下があった大和のほうに一目おくようになったのである。 後で分かったのだが、新潟の三越とはもとは地元資本の小林というデパートで、その経営が怪しくなって三越と提携して名前も変えた、といういきさつがあったのである。 最初から三越として作られたなら、いくらなんでも地下がないってことはなかっただろうな。

 もっとも、私はデパートでしょっちゅう買い物をするような人間じゃないから、大和にもあまり行く機会はなかった。 それでも以前は年に一度の古本市が催し物会場で開かれる時などは欠かさず行っていたのだが、最近はそれもご無沙汰となった。 何しろ本を置く場所が自宅にも研究室にもなくなってきているし、この年齢になると昔出た本で欲しいものはだいたい入手してしまっているからだ。

 しかし、最近、何かの機会に大和に入ると、客がさっぱりいないので、これじゃあ・・・・と思っていた矢先の撤退ニュースである。

 市長や近所の商店街は撤退撤回を求めているけれど、大和からすれば客が来ないのにしょうがないじゃないか、と言いたいところだろう。 特に、市長が自分の無策を棚に上げて大和に撤退撤回を要請するのは無責任ではないか。

 無策というのは、古町を初めとする新潟市旧市街の再開発や交通整備の問題である。 そして郊外型ショッピングセンターをどう規制するか、ということである。

 新潟市は他の地方都市と同様、郊外にショッピングセンターがいくつもできており、市民はそこにクルマで買い物に行くというライフスタイルが定着しつつある。 2年ほど前には、市の南部にイオンの巨大なショッピングモールができた。 日本海沿岸では最大規模だそうである。 こういうものができて客が流れているのは、要するに市がそういう方向で物事を動かしているからである。 そこを放置して、大和に出て行くなと言うのは身勝手というものであろう。 

 もし本当に旧市街の活性化を市長が考えているなら、まず郊外型ショッピングセンターを規制することを考えるべきだろう。 それから、クルマを軸にしたライフスタイルに見合った政策を旧市街地に対してとることだ。 具体的には、旧市街地に無料駐車場を作る方向性を確立することである。

 ところが、この点で、最近の新潟市旧市街は逆行していると言うしかないのである。 私はこの12日に根津要氏のチェロリサイタルを聴きに行ったとき、民間駐車場にクルマを留めたのだが、ついこの間まで30分100円だったはずなのに、いつの間にか20分100円に値上げしていた。 リサイタルを聴くために2時間駐車して600円である。 旧市街地から人が減っているのに、民間駐車場は逆に値上げして、いっそう人を遠ざけているわけだ。

 同じ現象は、万代シティにも見られる。 伊勢丹のそばにある民間駐車場には、以前は30分100円のところがあったのに、最近はなくなり、20分100円になってしまっている。 万代シティにしてもダイエーが撤退するなど、決して状況は良くないはずなのに、クルマで来づらくなっているわけだ。 これじゃ、駐車場無料の郊外ショッピングセンターに客が流れるのを止められるわけがないのである。 

 このままでは旧市街地から人は逃げて行くばかりだろう。 市長はこういう民間駐車場の動きを許さないよう、急ぎ規制を行うべきだろう。 また市が主導して無料駐車場を旧市街に整備するような政策をとるべきだ。 大和にものを言うからには、そのくらいのことをしてからにしてもらいたい。

10月12日(月・祝)      *根津要 無伴奏チェロリサイタル

 本日は標記のリサイタルに行ってきた。 場所は県政記念館、午後2時開演。 ここのところ多忙で行くかどうか迷っていたのだが、ええい、行ってしまえということで本日決断。 予約なしだったので1500円。

 りゅーとぴあの駐車場が満車だったので、少し離れたところにある民間駐車場に留め、多少歩いて開演10分前に着いたら、すでにかなり客が入っており、壁際の席。 壁際はいいけれど、演奏者と楽器があまり見えないのである。 なぜかというと、会場の県政記念館は県政をやるように椅子が配置されており、演奏者が座る正面 ――議会なら議長や答弁者がいる席――が一段高くなっており、議員席は、中央部分が低く、それを囲む部分が議長と同じ高さになっている。 ――と書くと分かりにくいだろうが、縦長の長方形を思い浮かべ、上辺が議長席、その他の3辺が一段高い席、辺に囲まれた部分は低い席と思っていただきたい。 ところが壁際の席は辺の外にあるわけで、それでいて低いので、高くなっている辺の部分が邪魔になって演奏者がよく見えないのである。 会場には1階を見下ろす2階部分もあるので、こういう場合は2階に入れてくれないかな、と考えた。

 まあ、それはそれとして、盛会は喜ばしいことだ。 80人くらいは入っていただろう。 プログラムは下記の通り。

 D・ガブリエリ: リチェルカーレ第6番
 バッハ: 無伴奏チェロ組曲第5番
 H・ディディユ: ザッハーの名による3つのストロフェ
 (休憩)
 黛敏郎: 文楽 独奏チェロのための
 バッハ: 無伴奏チェロ組曲第1番
 (アンコール)
 バッハ: 無伴奏チェロ組曲第3番よりサラバンド

 この会場、音楽を聴くためには初めて入ったのだが、音がすごくよく響いて、チェロの音が豊かに、別の表現をするならだぶつき気味に聞こえる。 (私の座席の位置のせいもあったかも。) 初めはそれに戸惑って、なおかつ上記のように演奏者の姿があまりよく見えないこともあって落ち着かず、最初の曲とそれに続くバッハの初めの2楽章はうまく把握できなかった。 バッハの第3楽章あたりからようやく落ち着いて曲が身体に入ってくるようになる。

 音がだぶつき気味のせいか、ゆっくりした楽章のほうが楽しめた。 速い楽章だと、特に根津さんの演奏は速めの部分は指の動きがいっそう速く、だぶついている音が指の動きに合わせて出てこない感じで、何となく弾き飛ばしているような印象になっているところがあった。 ゆっくりした部分はそれに比べると会場の響きの特性がそれなりにプラスに働いているようであった。

 選曲は、バッハの有名な2曲を中心に、現代物、および日本人作品を配して、よかったと思う。 今後も意欲的な活動を期待したい。 でも会場は、私の好みではもう少し音がデッドなところを選んでいただけるとありがたい。

10月10日(土)      *再度、気になる大学ランキング、だけど・・・・

 大学ランキングの話は4月にもしたけれど、Times Higher Education-QS World University Rankings の2009年版が発表になった。 リンクはこちら。

  http://www.timeshighereducation.co.uk/Rankings2009-Top200.html 

 で、これを見ると、トップがハーヴァード、2位がケンブリッジ、3位がイェール・・・・・といふうに、米英の大学ばっかりなのである。 まあ、アメリカの大学は資金力があるし、英国の大学は伝統があるということなんだろうけど、16位までが米英で占めていて、17位はオーストラリア国立大、18位はカナダのMcGill 大、19位がミシガン大 (米)で、20位がエジンバラ大 (英) とスイスのツューリヒ工科大学だから、20位でようやく非英語圏の高等教育機関が顔を出しているということになる。

 英国のTimes紙によるランキングだし、何となく、英語圏の自己讃美、という感じがしないでもない。 ちなみに東大はその直後の22位で登場。 英語帝国主義的な (?) ランキングであることを考慮すると――と断定していいものかどうか分からないけど――健闘していると言えるのではないか。

 ちなみに、非英語圏の高等教育機関がその後どのあたりに出てくるかというと――

 香港大が24位、京都大が25位、エコール・ノルマル・シュペリオール (フランス) が28位、シンガポール国立大が30位、香港理工大が35位、エコール・ポリテクニーク (フランス) が36位、ローザンヌ理工大 (スイス) が42位、大阪大が43位、香港中文大が46位、ソウル大が47位、アムステルダム大と清華大 (中国) が49位となっている。

 香港の大学が3つ入っているのが目立つ。 いちおう非英語圏としたけれど、香港の学術機関は事実上英語圏に属するのだろうから、ここからもやっぱり英語圏を上位扱いしているランキングだ、という推測が成り立つのではないか。 英国だけなら、現在の国力はともかく、かつての大英帝国以来の長い伝統があってそれなりの力量を大学も維持しているから、という言い方が出来るだろうけれど。

 で、日本は上述のように、東大、京大、阪大が50位以内に入っているわけだが、その後はどうかというと――

 東工大が55位、名大が92位、東北大が97位、慶大が142位、早大が148位、九大が155位、北大が171位、筑波大が174位。

 200位以内に11校である。 英語帝国主義のなかにあって頑張ってはいるけれど、フランスの4校はともかく、ドイツは10校入っている。 日本の人口がドイツの約1,5倍であることを考えると、日本が多いとは言えない。 もっとも、英国は30校も入っており、ここからしても、このランキングは英語国の手前味噌じゃないか、と言いたくなるのである。

 もっとも、理屈の付け方には色々あって、非英語圏でもEUを中心とするヨーロッパ圏はいちおう欧米圏内で仲間うちだ、という言い方もできるから、それも除いて、そして英語圏としてカナダ・香港・オーストラリア・ニュージーランドも除いて考えると――

 中国が6,韓国とイスラエルが3、ロシアとインドが2、シンガポール、台湾、タイ、南ア、マレーシア、メキシコが1となっている。

 ううむ。 英語帝国主義を打破するのは、なかなか大変なのだ・・・・・ 

10月9日(金)      *疲労困憊

 11月上旬に新潟市でドイツ文学会北陸支部の研究発表会があるので、昼頃私を含む3人でうち合わせ。 その後、正式の通知を印刷し発送する作業を一人で行う。 案内状や発表要旨、その他何種類かの印刷物を用意して封書に入れて封をする作業であるが、あらかじめ用意できるものは数日前から印刷しておいたし、封書に宛名と発送元を入れる作業も済ませておいたので、北陸支部会員は約70名程度ということもあり、ほんの2〜3時間で済むだろうと高をくくっていたのが大間違い。 午後2時半に始めて7時半までかかる。 もっとも途中で他の作業――新学期開始で授業受付に関わる仕事――もやっていたので、余計時間がかかったのであるが。

 終わると疲労困憊、ぐったりして、何もする気が起こらない。 私が北陸支部の事務屋を引き受けているからこうなるのであるが、これなら学生バイトでも雇えばよかったかと後悔。 もっとも学会の予算ではこういう作業へのバイト代は出ないから、自腹でということであるが。 

 ぼおっとしてパソコンでインターネット・ニュースを見ていたら、アメリカのオバマ大統領がノーベル平和賞受賞、というニュース。 いくら何でも早すぎるんじゃないかという気がするけど、「賞をやったんだから、ほれ、しっかり最後まで核軍縮を推進しろよ」 ってな叱咤激励だろうか・・・・・などと思いながら、用意のできた封書を紙袋に詰め込んで、クルマに乗って新潟西郵便局まででかける私なのであった。

10月7日(水)      *例によって教養講義 「西洋文学」 は・・・・・

 今月1日から2009年度第2期の授業受付が始まっている。 私の場合は、いつも問題になるのが水曜1限の西洋文学の教養講義。 色々事情があって、今期に限って定員を200名としたので――いつもは150名――競争率も低下するかと思いきや、登録希望者は488名だから、競争率2,44倍であった。 うーん、やっぱり授業の数が足りないんだろうなあ。 この件についてはすでに何度も書いたので、ここでは事実のみ記す。 

10月5日(月)      *ソフィー・マルソーの近況

 ドイツの週刊誌"Der Spiegel" の8月17日号を見ていたら、フランスの女優ソフィー・マルソーの近況が載っていた。 ソフィーは1980年に14歳で映画 「ラ・ブーム」 によりデビューしているが、42歳になった彼女は、「LOL」 という映画で思春期の娘を持つ未婚の母の役を演じているという。 LOLとは、"Laughing out loud" (大声で笑う) の略だとか。

 いずれにせよ、かつてデビューした作品と役を入れ替えての登場ということで、"Der Spiegel" 誌は、「最も美しいママ」 「目が離せない」 なんてセンセーショナルな書き方をしているけれど、この映画、日本に来るのかしら。 昔と違ってヨーロッパの文化動向があまり日本で注目されなくなっているし、ドイツの雑誌に目を通しても彼我の落差を思い知ることが多い昨今である。 ちなみにWikpedia日本語版でソフィー・マルソーを引いても、この映画作品は載っていない。 英語版とドイツ語版には載っていますけど。 うーん・・・・・。

10月4日(日)      *ネーベル室内合奏協会第61回定期演奏会     

 本日は午後2時から標記の演奏会に出かけた。 音楽文化会館は8〜9割りくらいの入り。 盛会である。

 プログラムは下記の通り。

 (前半)
 テレマン: 組曲「ドン・キホーテ」
 カプッツィ: コントラバス協奏曲ニ長調 (コントラバス独奏:別森麗)
 ヴィヴァルディ: ヴァイオリン協奏曲ト長調op.3-3 (ヴァイオリン独奏:庄司愛)
 (後半)
 ラモー: オペラ・バレ「優雅なインドの国々」より
 (アンコール)
 ラモー: 「優雅なインドの国々」より

 前半は何と言っても2曲の協奏曲が聴きどころ。 特にコントラバス協奏曲はあまり聴く機会がないので、貴重。 独奏者の別森さんはいつもネーベルでコントラバスを弾いていて、新潟の音楽ファンにはコントラバスの美女としておなじみであるが、今回は独奏とあって、黒っぽい紅色 (或いはやや赤い濃茶) のドレスを着て登場。 アダルトな魅力が満開で、ちょっとくらっときた。 独奏で聴くと、改めてコントラバスの音域って低いんだなあ、と痛感。 その低音楽器が独奏を務める協奏曲は、ふつうの、高音楽器が独奏として活躍する協奏曲とは違った面白さがあった。 第二楽章の憂愁感なんか、なかなかいいと思う。

 次の独奏者庄司さんは、黒いドレスを着て登場。 庄司さんはネーベルの演奏会でも、またトリオ・ベルガルモその他の市内の演奏会でもおなじみである。 が、何というか、誰からも好かれそうな素朴でソフトな魅力があっても従来はあまり色気のようなものは感じたことがなかったのだけれど、今回の黒いドレス姿では――俗に喪服を着た女性は美しいと言うが――ちょっと今までにない女っぽさが感じられて、またまたくらっときた。 すみません、私は気が多いもので(笑)。 曲は 「調和の霊感」 の1曲としてよく知られたもので、危なげなく弾ききっていた。 去年も思ったことだが、庄司さんはもう少し欲を出して、単独のリサイタルに挑戦してみてはどうだろうか。

 後半のラモーの曲は、全然知らなかったのだが、語りが入っているので、音楽と物語の進行の関係がよく分かり、楽しめた。 別森さんと庄司さんも演奏者の一人として加わっていた。 こういう曲を取り上げてくれるのが、ネーベルの演奏会の魅力なのである。

 途中15分の休憩を入れて、アンコールを含めるとちょうど2時間になる演奏会で、量的にも満足できた。 コンマスの佐野正俊さんから挨拶があったが、来年は結成40周年だそうである。 さらなる飛躍を期待したい。

9月30日(水)     *追悼――アリシア・デ・ラローチャ

 ピアニストのアリシア・デ・ラローチャさんがこの25日に亡くなった。

 私は数年前の引退公演をサントリーホールで聴いたのが、生で演奏に接した最初で最後になった。 全然衰えを感じさせない演奏であったが。

 ラローチャさんの演奏というと、ずいぶん昔であるが、FMでブラームスのピアノ協奏曲第2番を弾いているのを聴き、特にその第4楽章のすばらしさにびっくりしたことがある。 その後ディスクを探したが、見つからなかったのが残念。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 (追記: 上記の追悼文をクラシック音楽掲示板に載せたら、コンチェルト2号さんからメールをいただき、ラローチャの演奏したブラームスのピアノ協奏曲第2番のライブ録音CDが現在はでているとのこと。 お陰様で入手できました。 コンチェルト2号さんに感謝します。)

9月29日(火)      *西本智実+ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団演奏会     

 本日は午後7時から標記のコンサートに出かけた。 西本智実もロイヤルフィルも生で聴くのは初めて。

 りゅーとぴあコンサートホールの入りは、東響新潟定期の最近の入りと同じくらいか。 ただし、東響新潟定期では2階の脇席 (ABDEブロック) は入りが良くて3階脇席 (FGHJKLブロック) は悪いのが通例だが、この日は逆で、3階脇席はほぼいっぱいで、2階脇席は空いていた。 それと真後ろのPブロックが満席に近かったのも異例。 私自身は、3階正面のIブロックの最後尾で聴いた。 これでAランク席9500円。 ただし、最高がSS席だから、上から3番目、下から2番目のランクである。

 プログラムは下記の通り (それにしても、プログラム価格が2000円とは高い! 買わなかったけど)。 ピアノ独奏はフレディ・ケンプ。

 (前半)
 モーツァルト: 「後宮からの逃走」 序曲
 モーツァルト: ピアノ協奏曲第20番ニ短調
 (アンコール ショパン: 別れの曲)
 (後半)
 マーラー: 交響曲第5番

 フレディ・ケンプのピアノは、先日のコブリンに比べるとあまり響きの美しさが感じられない。 ただしコブリンはCブロックで聴いたので場所が違うし、客の入りも違うので、そのせいかもしれないが。 演奏そのものは、わりにオーソドックスというか、ショパンみたいに細かいニュアンスの変化をつけるような演奏 (をモーツァルトでする人もいるが) ではなく、率直な表現をする人だと思った。 ただ、現代なので、装飾音を適宜付け足していたようであるが。 アンコールでやったショパンの 「別れの曲」 も、ショパンとしてはあまりルバートを用いず、やはり率直な演奏、という印象。

 さて、マーラー。 最後尾にずらりと金管楽器が並ぶ様は壮観だが、それに比べると弦楽器奏者が、マーラーとしては少ないような。 第一ヴァイオリン14人、第二が12人、チェロが8人、コントラバスが6人。 うーん、それぞれ2名ずつ増員するべきじゃないか。 遠征だから、旅費の関係か何かでこうなったのだろうか。

 演奏は実際、金管の音が景気よく、非常に安定して出ていたのに対して、弦の輝きはやや足りない感じ。 金管が吠えて迫力を出す箇所は良かったけれど、抒情性で勝負するところはもう一歩か。 あと個人的な趣味で言わせてもらうと、第一楽章は演奏者の解釈によりわりに速いテンポでやる指揮者 (ワルター、クーベリック、ベルティーニ) とゆっくりやる指揮者 (インバル) とに分かれるようだど、私の好みは速い方なんだが、西本さんはゆっくり派みたいで、ちょっと残念であった。

9月26日(土)      *第5回新潟古楽フェスティバル

  新潟の音楽ファンにはもうすっかりおなじみの新潟古楽フェスティバルが、今年もりゅーとぴあ・スタジオAで開催された。 今回は、午後4時半からの第2部だけ聴きにでかける。 会場は、約100席がほぼ満席。

 第2部はバッハ特集。 前半は 「バッハ家の音楽会 アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳より」、後半は 「バッハの宗教音楽」 ということで、下記のようなプログラムであった。

 (前半)
 コラール 「目覚めなさい、と声が私たちを呼んでいます」 BWV645
 プレリュード ハ長調 BWV846
 2つのメヌエット (C・ペツォールト) BWV Anh.114,115
 コラール 「あなたに向けて、エホヴァよ、私は歌いましょう」 BWV299
 ロンドー 「牧歌」 (F・クープラン) BWV Anh.183
 マーチ、ポロネーズ (C・Ph・E・バッハ) BWV Anh.122,125
 フランス組曲第1番BWV812よりアルマンド
 ゴルトベルク変奏曲BWV988よりアリア
 アリア 「あなたが側にいてくれるなら」 (G・H・シュテルツェル) BWV508
 レチタティーフ 「私はもう十分だ」、アリア 「眠りに落ちよ、疲れた眼よ」 BWV82
 (後半)
 カンタータ第106番より 「ソナティーナ」 「合唱”栄光と讃美と誉れと輝きが”」
 オルガンコラール 「いと高き所に神にのみ栄光あれ」 BWV675
 カンタータ第78番より二重唱 「私は急ぎます」
 カンタータ第44番より二重唱 「人々はあなたたちを追放するだろう」
 オルガンコラール 「主なる神よ、われを憐れみたまえ」 BWV721
 モテット「イエスよ、わが喜びよ」 BWV227(全曲)
 (締めくくり)
 バッハ 「ヨハネ受難曲」 BWV245より最後のコラール 「ああ主よ、あなたのいとしい天使に命じて」

 申し訳ないが、演奏者名は省かせていただく。 新潟市やその近辺在住の古楽奏者および歌手たちで、林豊彦氏が司会を、チェンバロと指揮を八百板正己氏が担当するのはいつもの通り。

 前半は映像でバッハゆかりの教会やバッハの住居などが示され、またアンナの結婚から夫の死後の生活までを暗示する資料が朗読されるなかで演奏会が進み、たいへん分かりやすく、楽しめる演奏会であった。

 後半は一転して、余計な解説は付けずに次々とバッハの教会カンタータなどが演奏されたが、最後のモテットだけはそのシンメトリカルな構造について説明がなされてからの演奏。 これまた充実したひとときを過ごすことができた。

 いつも思うことだが、新潟古楽フェスティバルは、音楽を聴衆にいかに聴かせるか、十二分に考え抜き、色々調べたりした上で演奏会が開かれているということである。 こうした開催側の姿勢は聴衆にもよく伝わっている。 私も、いつもこの演奏会ではとても満足した気持ちで会場を後にすることができる。 本日は厄日なのか(笑)気分がくさくさしていたのだが、この演奏会のあとではすっきりして、また頑張ろうかなという気持ちになった。 その意味でも音楽会を開かれている方々に感謝したい。

 ロビーでコンチェルトさんがCDを販売しているのも、いつものこと。 今回は、古楽ではなく、最近入荷したというハイペリオンの廉価盤ヘリオス (コンチェルト2号さんのブログで紹介されている) から、エルガーのピアノ五重奏曲を買った。 エルガーってピアノ五重奏曲を作ってたのか、と目についたもので。

9月25日(金)     *サッポロの 「生搾り みがき麦」 はいずこ?

 夜、帰宅途中、ちょっと回り道をしてUというスーパーに立ち寄る。 毎晩飲んでいるサッポロの発泡酒 「生搾り みがき麦」 を買うためだったが、うーむ、350MLのが全然ないのである。 500MLのはかろうじて箱入り(24缶)が一つ、6缶入りパックがいくつかあるだけ。 そろそろ涼しくなってきているので、350ML缶が欲しかったのだが。

 やばいな、と思った。 私はこの発泡酒が気に入っているのだが、最近他のスーパーに見あたらず、ここの店だけは置いてあるので重宝していたのだけれど、もしかしてこの製品、生産中止なのだろうか?

 何しろ最近、発泡酒は本物のビールと第三のビールに挟撃されてあまり売れなくなっているようだし。 しかし私に言わせれば発泡酒こそ、味と値段のバランスがよくて買い得な商品なのである。 特に、この 「生搾り みがき麦」 は第三のビールのような 「作った味」 の人工性がなく、実に自然でおいしいのだ。

 サッポロはここのところビール業界にあってサントリーにも抜かれて4位に転落したりして冴えないようだが、いいところのある企業だと私は思っている。 以前は、企画品として申込者だけに販売するセット物ビールも出していて、そこには企画品としてだけ作られた、したがって普通には買えないビールが含まれていた。 おそらく企画で出してみて、好評なら一般向けに販売するということだったのだろうが、ドイツの本格的な製法で作られたビールも混じっていて、なかなか意欲が感じられた。 頑張って欲しいものだ。

 あとでネットで調べてみたが、「生搾り みがき麦」 が生産中止という情報は出てこなかった。 うーむ、どうなっているのだろうか。  

 (後日、ジャスコに行ってみたらあったけど、箱入りはなかった。 うーん、品不足なのだろうか?)

 (更に追記。 その後、ジャスコでも見かけなくなってしまった。 仕方なく、某店――卸値というふれこみの割りには安くない店――で箱ごと購入。 私の知っている限りでは、ここ以外には置いていない。 やっぱり生産中止なんだろうか?)

9月24日(木)      *最近聴いたCD

 *Romantische Orgeln IV 〔ロマンティック・オルガン第4巻〕 (Thorofon、CTH2247、1994年録音、1995年発売、ドイツ盤)

 先日、マントゥーのオルガンリサイタルを聴いて、ヴィドールのオルガン交響曲に目覚めたので、CDを買おうと思ったのだが、意外に出ていない。 で、これは1963年生まれのドイツ人オルガニストであるマルティン・ロスト (Martin Rost) が弾いたオルガン曲集で、お目当てのヴィドールのオルガン交響曲第4番ヘ短調のほか、マックス・レーガーの「12のオルガン小曲集op.59」から”ベネディクトゥス”、リストの「Bchaの名によるプレリュードとフーガ」、アレクサンダー・ギルマンのオルガンソナタ第4番ホ短調が収録されている。 ヴィドールのオルガン交響曲第4番は6楽章構成で、音の強弱をも含め、実に陰影に富んだ興味深い曲になっている。 同時収録のギルマンのオルガンソナタも面白いので、買って損はないと思う。 Yahooのオークションを通してネット上のCDショップから新品を入手。 こちらから (→) 画像をごらんいただけます。 http://download.music.yahoo.co.jp/shop/ic/11/282187583-283397479 

 *Spanische Orgelmusik des 16. und 17. Jahrhunderts 〔スペイン16・17世紀のオルガン音楽〕 (Querstand、VKJK9814、1997年録音、1998年発売、ドイツ盤)

 昨年、山本真希さんがりゅーとぴあでスペインのオルガン音楽を特集したオルガンリサイタルをして以来、スペインのオルガン音楽のCDを探していたが、なかなか見つからなかった。 これはHMVに注文して、届くまでに2カ月近く要した代物 (?) である。 1960年生まれのドイツ人オルガニストであるラインホルト・イクス (Reinhold Ix) の演奏で、16世紀と17世紀のスペイン・ポルトガルのオルガン音楽を集めている。 収録されているのは、Joseph Jimenezから3曲、Antonio de Cabezonから1曲、Manuel Rodrigues Coelhoから1曲、Francisco Perazaから1曲、Bernardo Clavijo Del Castilloから1曲、Francisuco Correa de Arauxoから1曲、Pablo Brunaから2曲、Sebastian Aguilera de Herediaから4曲。 バッハやそれ以降の、思索型の音楽ではなく、色彩感がある、といって華やかになりすぎない宗教性も秘められた独特のオルガン音楽の世界が楽しめる。 こちらから (→) 画像をごらんいただけます。  http://www.amazon.de/Spanische-Orgelmusik-Reinhold-IX/dp/B0000286H4  

9月23日(水)      *政治家の身長

 朝刊第一面で、日本の新外相・岡田克也氏がアメリカのヒラリー・クリントン国務長官と並んでいる写真を見て、何となく安心する。 岡田氏の方がクリントン氏より身長が高かったので。 

 後でネットで調べたら、岡田氏は身長176センチだそうである。 クリントン氏は、私 (167センチ) と同じくらいか、或いはハイヒールを履いていたとすればもっと低そうだ。 私は政治家ではないけれど、そう考えるとさらに安心する (笑)。 

 もっとも岡田氏も、日本人としては長身だが、西洋人男性と比較すると特に大柄とは言えなくなる。 が、ともあれ身長であちらの政治家に負けない政治家が日本を代表することはイメージ的に結構なことだ。 政治家にとってイメージは大切である。 むろん、中身も充実してもらわないと困るけど。

 むかし、細川政権時代、細川首相が先進国首脳会議に出て、並み居る先進国首脳たちと比較して、それも英国の女性宰相サッチャーと比べてすらあからさまに小柄であることが分かるような写真が出ていると、何となく気に入らなかったものだ。

 鳩山新首相は、これまたネット情報では177センチだそうである。 身長では合格であろう。 政策でも合格、となることを祈りたいものだ。

    *        *        *

      *新潟ARS NOVA第2回演奏会

 閑話休題。 連休最後の本日、午後2時30分から標記の演奏会に行って来た。 だいしホールの入りは6割程度か。

 演奏者は、廣川抄子、庄司愛 (以上Vn)、重光明愛 (Vla)、渋谷陽子 (Vc)、広瀬寿美 (Cl)、藤井裕子 (Trp)、石井朋子 (Pf)、小武内茜 (Fg)、吉原教夫 (Te)、そして作曲者の小西奈雅子 (こにし・ながこ) さんも会場に見えていた。

 プログラムは下記の通り。

 バッハ: 六声のリチェルカーレ (「音楽の捧げ物」 より)
 モーツァルト: ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲第1番
 小西奈雅子: me! and my! and mine! (S.ゴールドステインの短歌による)〔改訂版初演〕
 (休憩)
 ブルッフ: クラリネット、ヴィオラ、ピアノのための8つの小品op.83から第1〜5、7曲
 マルティヌー: 調理場のレビュー (1930年版)
 (アンコール)
 ドビュッシー: 「子供の領分」 から

 パンフによると、ARS NOVAとは14世紀のイタリアやフランスに現れた世俗音楽で、音楽に人間的感性と生気をもたらした新しいスタイルの音楽。 この団体は新潟からこうした生き生きした音楽を発信していこうという趣旨で名づけられたとか。 ARS NOVAはラテン語で、英語ならNew Artだから、新潟の意欲的な若い音楽家集団にはうってつけの命名かも知れない。

 だが、しかし。 果たして意図のとおりの演奏会になったかどうかは、また別。

 演奏そのものは質が高かったと思うのだが、最初のバッハとモーツァルト以外の音楽が楽しめたか、というと、私の感性の狭さも災いしてか、うーん、というところであった。

 ブルッフは19世紀末の作曲家なのに保守的すぎるし、楽想にも新鮮さが感じられない。 マルティヌーは逆にポピュラーやジャズの影響があるようだけど、ポピュラーそのもの、ジャズそのものを聴いた方がいいんじゃないか、と思ってしまう。

 あと、新旧いろいろな曲をやる積極性は買うけれど、どういうコンセプトで音楽会をやっているのか、よく分からない。何らかのテーマを設けて、そのテーマに合う曲を多様な作曲家から選んで持ってくるというなら分かるけど。 何となく色々雑多にやっていれば面白くなるかというと、ならないと思う。 かえって印象が拡散してしまう。

 やや厳しい物言いになったかも知れないが、次回の演奏会をやるときには考えていただきたい。 客の入りがイマイチだったのも、その辺に難があるためかもしれないし。

9月22日(火)      *音楽学者・渡辺裕の勘違い

 本日の毎日新聞文化欄に東大教授・渡辺裕が月1回連載している 「考える耳」 が掲載された。 本来音楽文化について 「考える」 コーナーのはずだけど、なぜか先の選挙で民主党が圧勝したことから始まっている。 そして戦後50年あまりに渡って民主主義国家であるはずの日本で政権交代がほとんどなかったのはおかかしなことで、日本の常識は世界的には非常識なことだった、などと書いている。

 私は、渡辺氏の悪癖がまた始まったかとうんざりした。 渡辺氏はこの欄で、しばしばこの程度の政治談義をくりひろげる人だからである。 今回のようにいきなり政治的な話から始めることは稀だが、たいていは音楽の話を続けていって、論のおしまいのほうにいくと日本の政治状況とか現況に触れて、おおむねこの程度の批判めいた物言いを入れ、何ごととか語ったつもりになっているらしい。 

 本人は気づいていないようなのでこの際はっきり言ってしまうが、こういう書き方は今どきみっともないだけなのである。 二昔前の、進歩的知識人のやり方とそっくりだからだ。 昔なら、東大教授が何事か語る場合、それが専門に関わらないことでもエライ人の言うことだからと耳を傾ける手合いもいたであろう。 だが今どきなら、音楽学者に政治的なお説教を期待する人間などいないのである。 人が音楽学者に期待するのは音楽についての話だけである。 それが分かっていないところが、渡辺裕という人のイタイところなのである。

 おまけに、今回渡辺氏は、1985年に話題になった 『少女に何が起こったか』 という、音大を舞台とするテレビドラマをとりあげて、スポ根顔負けのシーンが次から次へと出てくるのに笑ってしまった、と書いている。 いちおう、戯画化され極端に描かれているという洞察は入れているけれど、その後に来る考察は、日本の西洋音楽教育に関する批判であって、要するにこのテレビドラマが日本の現実を映している、という前提でものを言っているのである。

 あのですね、渡辺先生、私はあまりテレビは見ない人間ですが、たまたまあのテレビドラマは見ていたので申し上げますけど、世間的な音大イメージにおもねって作られた安っぽいテレビドラマを見て日本の音楽界批判をやっても仕方がないと思いますけど。

 例えば諏訪内晶子はその著書で、日本の音楽コンクールの雰囲気がヨーロッパのそれに比べて閉鎖的であるとして批判しています。 どうせならそういう、具体的な例を挙げて、また具体的な学校や人名にも言及して批判するくらいのことをしたらいかがですか。 それともそういうことをやると波風が立つからヤバイですか? そういうヤバイことがあると黙秘する、ってのは、あなたの批判する日本人的体質そのものなんじゃないですかね? 政治的な批判をやるなら、大いなる波風を覚悟でやらなくちゃ、どうしようもないんでじゃないですか? 昔の進歩的知識人は安全な場所から建前論的なことばっかり言っていたから信用されなくなったんですよ。 そういう反省もないまま、とっくに時代遅れになった物言いを繰り返していても、原稿料泥棒でしかないと思いますが。 音楽学者らしい秀逸な音楽論をちゃんと書いて下さい。

9月18日(金)      *シュトルムの 『みずうみ』 の翻訳について――その後

 昨年のこの欄の8月8日で、シュトルム 『みずうみ』 の翻訳問題を取り上げた。 ところがこの記事に注目して下さった方がおられ、ブログで取り上げ、なおかつそのことを私に通知して下さった。 下記のブログである。

 http://asakaze-st003.at.webry.info/200909/article_7.html 

 この方は、私も知らない戦後すぐの翻訳にまで触れて、この問題を論じておられる。 私も改めて調べてみたところ、『みずうみ』 は大正時代から翻訳があるようで、それも含めて見ることができれば、時代による翻訳事情の変遷に光が当てられるかもしれない。

 なお、問題の箇所は、最近では 「灯りはまだ要らない」 というふうに解釈することで定着しているようだ。 この5月に出た 『シュトルム名作集 第1巻』(三元社) でもそうなっている。

 ちなみに、『シュトルム名作集 第2巻』 は8月刊行予定だったけれど、色々あって、10月末か11月にずれこみそうだとのことである。

9月17日(木)      *喫煙と表現の自由

 本日の産経新聞に「喫煙者にはほほえまない――タイ」という記事が載った。 「アジアの禁煙先進国」 として世界的に評価の高い――のだそうである――タイの事情を報告したもの。 タイでは映画やテレビでの喫煙シーンは御法度で、海外作品では俳優の口元にモザイクがはいるのだという。

 http://sankei.jp.msn.com/life/body/090917/bdy0909170812000-n1.htm 

 うーん、こういう記事を読むと、喫煙や禁煙にからめて実質的な検閲をやっているわけで、これでいいのか、と言いたくなる。 ちなみに、産経の記事にはこういう表現の自由を削る行為について、何の疑問も書かれていない。

 こういう表現の自由についての制限は、アメリカでもささやかれていて、どの程度実際にやっているかは私は知らないのだが、数年前、『サンキュー、スモーキング』 という、そういう風潮を批判した映画が作られ日本でも上映されたが、そのパンフによるとアメリカでも実際にやっている例があるらしい。

 『サンキュー、スモーキング』 は、一方ではアメリカのタバコ会社が映画に喫煙シーンを増やそうとして寄付をしたりしていることを暴露しているが、他方ではいくつかのタブーを設けてそれを批判しさえすれば正義漢ぶれるという現代社会の傾向をも批判している。 そして、喫煙するかどうかは要するに個人で決めることだという主張を打ち出している。 こういう映画が作られるところが、いい意味でアメリカらしいのだ。

 表現の自由は、近代社会最大のよりどころである。 しかし同時に、それを制限するために様々な理由付けも色々な人によって考え出されている。 本当の自由を求める人間は、こういう、表現の自由を侵す行為を断固として批判しなければならない。

 なお、本日の産経新聞の読者投稿欄には、タイ人留学生による、日本は喫煙に甘いという意味の文章も載っていた。 上記の記事と内容的に合いすぎていて、ヤラセ臭い。 こういうのは、かえって記事の信憑性を下落させると思うけどなあ。

9月14日(月)       *映画館が公設で悪いわけがない――発想の転換

 本日の産経新聞に、川崎市アートセンターについて紹介する記事が載っていた。 なお、以下の引用は記事の最初のあたりだけなので、興味のある方は下のURLにアクセスしていただきたい。

 http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090914/tnr0909140807002-n1.htm  

 ■公設民営 育てる「豊かさ」

 小田急線新百合ケ丘駅といえば、映画ファンなら駅前にある日本映画学校を思い浮かべるかもしれないが、この辺りにはもう一つ重要な施設がある。川崎市アートセンター内の 「アルテリオ映像館」 は、新作映画も公開しているれっきとした映画館なのだ。

 「いわゆる公設民営なのですが、公設で映画を見せるというのは、今の日本では最上の方法だと思う。 民間で一からつくるのは並大抵のことではないし、音楽も演劇も公共のホールはいっぱいある。 映画ほど世界中で作られていて、じかに享受できる文化はないですしね」 と映像ディレクターの野々川千恵子さん(58)は熱っぽく語る。

実は野々川さん、公的サイドの人間ではない。 平成7年から開かれている 「しんゆり映画祭」 のボランティアスタッフに参加して映画の魅力にはまり、17年からの3年間は実行委員長を務めていた。 その経験をもとに、アートセンター設立に際して映画館導入を提案し、19年10月の開館当初から業務委託されている。

 野々川さんがプログラムを組む基本にしているのは多様性だ。 作品選定には映画評論家の佐藤忠男さんら外部の委員による会議を定期的に開いてアドバイスをもらい、国やジャンル、客層などあらゆる面での多様性を意識している。

 「民間なら個人の価値観を通してもいいでしょうが、ここは公設ですからね。 それに多様な目で選ぶことで深みや豊かさが生まれてくる」

         *

 以下、当サイト製作者のコメント。 この記事に私が注目したのは、言うまでもなく新潟市の映画館事情と映画上映事情を考えてのことである。 ここでも何度も書いているが、新潟市は人口規模のわりには上映される映画の種類が限られている。 となれば、公営の映画館があったっていいじゃないか、という発想もあり得るわけだ。

 実際、毎年2月に行われているにいがた国際映画祭には、新潟市の商業館に来なかった海外映画を拾う 「落ち穂拾い」 的な意味もある。 また、クラシック音楽や演劇、能については、新潟市民芸術文化会館という立派な公設のハコが設けられている。 映画が例外でなければならないということもないだろう。 無論、ハリウッドや邦画大手の作品は民間に任せておけばいいが、そうでない作品がなかなか新潟市に来ないという実態がある以上、公設映画館はまじめに検討されてもいいのではないだろうか。

9月13日(日)       *映画上映をめぐる事情

 こんなニュースがある。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090913-00000041-jij-int 

 ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判  9月13日14時48分配信 時事通信

 【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画 「クリエーション」 が、米国での上映を見送られる公算となった。 複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。 12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
 映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。 英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
 しかし、米配給会社は 「米国民にとって矛盾が多過ぎる」 と配給を拒否した。 米国人の多くが 「神が人間を創造した」 とするキリスト教の教義を固く信じている。 ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも 「人種差別主義者」 との批判があるという。
 今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」 出版150年の節目の年。 英国では関連イベントが盛り上がっている。 

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 アメリカの宗教的偏見が改めて証明されたような格好だ。 アメリカは映画大国であるだけに――もっとも外国映画にあまり開かれていないという批判もある――余計目立つわけだ。 もっともこの種の、都合の悪い映画にフタ、という現象は中国にも日本にもあるわけで――中国ならチベット問題を扱った映画は製作不可能だとか、日本なら南京事件を扱った中国映画が上映されないとか――アメリカだけの話ではないが。 表現の自由、言論の自由を貫くのはむずかしいものだ。 左右を問わず、この点について筋の通った態度を堅持している人はどのくらいいるのだろうか。

9月10日(木)     *クリストフ・マントゥー オルガンリサイタル

 午後7時から、りゅーとぴあコンサートホールの標記の演奏会に足を運ぶ。

 マントゥー氏は1961年パリの出身。 84年にシャルトル大聖堂国際オルガンコンクール優勝。 ヨーロッパを代表するオルガニストの一人である。

 りゅーとぴあでの本格的なオルガンリサイタルの時はいつも客足が伸びないが、今回もそうだった。 200人に達せず、150人はいたかな、という感じ。 ちょっと寂しい。 もっとも聴く身としてはゆったりとすわれていいという考え方もできるが。私は今回は、3階正面Iブロックの5列目左寄りに席をとった。 客数が少なくとも少数精鋭ならまだしもだが、後半が始まる直前にDブロックあたりから何かを包んでいるような (或いは包みをといているような) ガサゴソという音がしばらく続き、マントゥー氏が演奏に入れなかったりした。

 プログラムは、オール・フランスもの。

 ヴィドール: オルガン交響曲第10番より第1楽章
 フランク: コラール第2番
 ヴィドール: オルガン交響曲第6番より第1楽章
 (休憩)
 J・アラン: 幻想曲第2番
 J・アラン: リタニー
 デュリュフレ: 組曲 作品5
 (アンコール)
 「砂山」による即興演奏

 パンフレットの解説によると、19世紀のフランス・オルガン界は、名匠カヴァイエ=コルの製作になる色彩感豊かで音響的効果がすばらしいオルガンによって刺激を受けた作曲家たちが、様々な名曲を生みだしたということである。 オルガンというと、古くから教会音楽で使われているので昔から変わらない楽器のように思えるが、そうではなく、ピアノがベートーヴェンの時代に大きく進化したように、時代によって変貌を遂げているわけなのだ。

 私には特に前半の最初の2曲に聴き応えがあった。 ヴィドールのオルガン交響曲第10番第1楽章はあたかもタペストリーのように様々な模様が或る種の規則性を含めて織り込まれているかのような印象。 フランクの曲はいくつかの部分から成っているが、音楽の内実というのか誠実みのある情感がしっかり籠められた名曲と言うべきだろう。

 後半ではJ・アランの幻想曲も独特で面白かった。 彼は有名なオルガニストであるマリー・クレール・アランの兄で、惜しくも29歳で第二次大戦により戦死したそうだが、近代的な感覚を持ったオルガン曲である。

 アンコールに、新潟ゆかりの曲である 「砂山」 をベースに即興演奏が繰り広げられた。 即興と言っても結構長く、15分以上に及び、聴衆も満足。 実を言うと正規のプログラムがやや少な目ではないかと思っていたのだが、これで補いがついたような格好になった。 マントゥー氏はフランス人であるが、今回は演奏助手を勤めた山本真希さんとはドイツ語で会話を交わしていた。 オルガンだけでなく語学にも堪能なのかも知れない。

       *上映期間1週間って・・・・・・映画 「3時10分、決断のとき」

 一昨日、ワーナーマイカル新潟で映画 「3時10分、決断のとき」 を見た。 最近では珍しい西部劇で、ラッセル・クロウが魅力的なダーティヒーローを演じており悪くない出来だと思ったが、本日、ワーナーマイカルのサイトを改めて見たら、来週は上映が入っていない。 念のため作品サイトでも確認したが、この映画の新潟での上映はワーナーマイカル新潟のみで、それも1週間限定なのである。 つまり明日まで。 新潟市民でまだ見てない西部劇ファンの方、或いはラッセル・クロウ・ファンの方、明日までですよ、是非!

 それにしても1週間限定とは、セコイ。 いや、やらないよりはマシだけどね。 新潟県だけではなく、他県でも1週間限定のところがいくつかあるようだ。 何か事情があるのかも知れないが、作品の評判が浸透するにはやはり最低2週間は上映しないと。

 こういう悪くない洋画があまり上映されず、薄味で脚本も練れてない邦画が多く上映される現状を見ると、6月12日にここに書いたことが現実味を帯びてきているような気がする。

9月8日(火)      *独文をめぐる事情

 長らく新潟大学でドイツ語の非常勤講師をされてきたK先生から朗報をいただいた。 広島大学文学部に専任職を得られたという。 K先生は国内の大学とドイツの大学とでそれぞれ博士号を取得された実力派であるが、昨今のことでなかなか専任職を得られずに今日にいたっていた。 K先生の今後のご活躍を祈りたい。

 ところでこの11月に新潟市で独文学会の北陸支部学会が開かれる。 その研究発表者がなかなか集まらないので困っているのだが (私が事務とりまとめ役なので)、中でも新潟県は深刻である。 差し障りがあるので詳しくは省くが、要するに老齢化が他の三県――富山、石川、福井――をはるかに上回る速度で進行中なのである。 このままでいくと、早晩、新潟県・新潟大学からは独文教師もドイツ語教師も姿を消す、ということになりかねない。

 以前にも書いたことがあるが、昔は北陸4県のなかで新潟県 (北陸4県の中でダントツ人口が多い) は石川県 (金沢大学やいくつかの大学がある) と並んで独文・ドイツ語教師が最も多い県であった。 しかし90年代半ばの国立大学の教養部解体、そして独法化の過程の中で、いまや新潟県は福井県に次ぐワースト2になっている。 福井県は、福井大学が学部数の少ない小規模大学であること、県内に他の高等教育機関がわすかしかないことを考えれば少ないのが当たり前なので、それやこれやを勘案すると、事実上新潟県はワースト1と言ってもいい状態に転落しているのである。 そしてその主たる原因は新潟大学にある。 新潟大学勤務 (専任) の独文学会会員は、最も若い人で50代半ばというテイタラクなのだ。 富山大学も金沢大学も福井大学も、こんなにひどい状態ではない。

 新しい土地に定職を得られたK先生と、老齢化がいちぢるしい新潟県・新潟大学。 うーん、最近の独文をめぐる地域ごとの動静、そして地域の核たるべき国立大学の県別の体質が分かってしまうのである。

9月7日(月)      *シネ・ウインドの支配人・橋本巌氏が退職

 新潟市唯一のミニシアター系映画館として貴重な存在であるシネ・ウインド。 その支配人を勤めてこられた橋本巌氏が、体調不良を理由に先月末で退職されたという。 シネ・ウインドができて24年ほどになるが、創立以来の支配人であった。

 私も、数年前に日本が 「ドイツの年」 であったときにはドイツ映画特集をやっていただくなど、橋本氏には何度かお世話になっている。

 物腰がやわらかく温厚そうだが、発足当時 「本当にできるのか」 と言われたシネ・ウインドを齋藤正行代表とともに立ち上げて今日まで運営してきた功績はきわめて大きい。 お年はよく存じ上げないが、多分60歳かそれを少し越えるくらいではないかと思う。 いずれにせよ今まで十分に仕事をされてきたのだから、これを機に体を大事にしていただきたいものである。

9月6日(日)      *東京交響楽団第55回新潟定期演奏会      

 午後5時からりゅーとぴあで久しぶりの東京交響楽団新潟定期。 やっと秋の音楽シーズン開幕といった感じ。

 客の入りはいつもと同じくらいか。 3階脇席と舞台背後のP席はかなり空席が目立つ。 しかしどういうわけか、Gブロックの私の定席に限っては、私と同じ並び5席が満席。 私の隣りにすわった御婦人はオペラグラスで合唱団をしきりに見ていたので、多分家族か友人が合唱団員だったのだろう。

 本日はオール・シベリウス・プログラムで、下記の通り。

 交響詩「フィンランディア(合唱付き)」
 悲しきワルツ
 組曲「カレリア」
 (休憩)
 劇音楽「テンペスト」(フィンランド語上演、日本初演)

 指揮は大友直人、コンマスが高木和弘、ソプラノがヘレナ・ユントゥネン (女神ジュノー)、メゾソプラノがティーナ=マイヤ・コスケラ (空気の精エアリエル)、テノールがニアル・コレル (ステファノー)、バリトンがペッテリ・サロマ (キャリバン) と大塚博章 (道化トリンキュロー)、合唱はにいがた東響コーラス。

 前半で言うと、最初の 「フィンランディア」 は悪くなかったが、次の2曲はちょっと物足りない感じがした。 悲しい感情、浮き立つような喜び、といったものがあまり迫ってこない。ほどほどの演奏といったところ。 前半はディスクでなじみ深い曲ばかりだから、ということもあったかも。

 後半の劇音楽 「テンペスト」 はディスクも持っておらず、初めて聴いた。 なかなか面白い曲であるが、歌手の出番にすごく差があるのにびっくり。 エアリエルは狂言回しみたいなものだから出番が多くなるのは当たり前かも知れないが、大塚氏はあれだけのために新潟においでになるとは、プロも大変だなと思ったし、ソプラノだって1回しか出番がないのだから (そのためにフィンランドから地球を半周して来ている!)。 もう少し作曲にあたってバランスというものを考えたらどうかな、とシロウトのくせに生意気なことを考えてしまう。

 演奏終了後、ロビーのCD販売にこの曲がないかと思って見てみたが、交響曲などディスクの珍しくない曲しか置いてなく、ちょっとがっかり。

 秋のシーズン出だしとして、悪くはないけど、順調なスタートを切って大満足というほどでもないかな、という演奏会だったろうか。

9月3日(木)      *最近聴いたCD

 *ピアノ名曲集VOL.1〜3 (Eastern Enterprise、GL504-506)

 ピアノの小品を集めた3枚組CD。 少々前に新潟市内の某BOOKOFFにて購入。 実を言うと1枚250円と安かったので買う気になったもの。 定価表示もないし聞き慣れない社名が入っているから、おそらく雑誌の景品か、新聞などによく広告が載っている企画品の一部分なのだろう。 このうち2枚目はショパン集だから最もオーソドックスだが、1枚目は 「へえ、こんな曲もあったのか」 と思うようなものも収録されている。 文学でもアンソロジーには未知の作家の光る小品が載っていたりするけど、オムニバスCDにもそれは言えるのだ。 特に1枚目の後半はそうした曲が多い。 収録曲は以下のとおり。

(1) エリーゼのために (ベートーヴェン)/舞踏へのお誘い (ウェーバー)/「小人の行進(op.54から)」 (グリーグ)/愛の夢第3番 (リスト)/前奏曲op.3-1 (ラフマニノフ)/春のささやき (シンディング)/「熊蜂の飛行」 (リムスキー=コルサコフ)/白い小さなロバ (イベール)/月の光 (ドビュッシー)/アレグロ・バルバロ (バルトーク)/ガヴォットop.32-3/水の戯れ (ラヴェル)/ピアノのための3つの前奏曲 (ガーシュイン)/トッカータ (エネスコ)/忘れられたワルツ第1番 (リスト)/ラ・カンパネッラ (リスト)/ペトラルカのソネット第104番 (リスト)/3つの演奏会用練習曲第3番 (リスト)――演奏: ジークフリート・シュテッキヒト、ヴァディスワフ・ケドラ

(2) オール・ショパン: ポロネーズ 「軍隊」/夜想曲op.9-2変ホ長調/華麗なる大円舞曲 (ワルツ第1番op.18)/ワルツ第7番嬰ハ短調/子犬のワルツop.64-1/ポロネーズ 「英雄」/マズルカ第23番op.33-2/幻想即興曲/夜想曲op.37-1ト短調、夜想曲op15-2嬰ヘ短調/バラード第1番/スケルツォ第2番/前奏曲第15番 「雨だれ」/練習曲op.10-3 「別れの曲」――演奏: アルトゥール・ルービンシュタイン、サンソン・フラソワ

(3) ピアノソナタK.331 「トルコ行進曲付き」 (モーツァルト)/キラキラ星変奏曲 (モーツァルト)/逝ける王女のためのパヴァーヌ (ラヴェル)/亜麻色の髪の乙女 (ドビュッシー)/沈める寺 (ドビュッシー)/ヒースの荒野 (ドビュッシー)/霧 (ドビュッシー)/落葉 (ドビュッシー)/水の精 (ドビュッシー)/夢 (ドビュッシー)/無言歌第1番 「甘い思い出」(メンデルスゾーン)/無言歌第6番 「ヴェネツィアの舟唄」 (メンデルスゾーン)/無言歌第21番 「胸さわぎ」 (メンデルスゾーン)/無言歌第22番 「心の悲しみ」 (メンデルスゾーン)/無言歌第30番 「春の歌」 (メンデルスゾーン)   

 

 

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