音楽雑記2009年(1)                           

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  5月〜8月はこちらを、8月以降はこちらをごらんください。

 

4月28日(火)      *気になる大学ランキング

 最近の 「大学改革」 のせいで、大学のランキングがかなり意識されるようになってきた。 受験生向けの入試難易度ではなく、各大学が研究大学としてどの程度の実績を上げているのかが統計的に計られるようになってきたのだ。

 本欄でも2月1日に竹中平蔵を批判しつつ大学ランキングのことに触れたけれど、昨日、新潟大学図書館が定期的に配信してくる図書館便りのメールで、トムソン・ロイター社(引用索引 Web of Science の提供会社)が発表している、国際的にも権威あるというランキングが送られてきた。

 http://www.thomsonscientific.jp/news/press/esi2009/ranking.html 

 詳しくは上記リンクをごらんいただくとして、ここではごく簡単に紹介すると、日本の研究機関は以下のようになっている。 なお、これは自然科学 (医学を含む) に限っての順位である。

国内順位 世界順位  研究機関名
  1     11     東京大学
  2     30     京都大学
  3     34     大阪大学
  4     64     東北大学
  5     80     (独)科学技術振興機構 
  6     108    名古屋大学
  7     120    九州大学
  8     134    (独)理化学研究所
  9     144    北海道大学
  10    165    東京工業大学
  11    171    (独)産業技術総合研究所
  12    231    筑波大学
  13    283    広島大学
  14    290    慶応義塾大学
  15    298    自然科学研究機構
  16    305    千葉大学
  17    335    岡山大学
  18    339    神戸大学
  19    376    東京医科歯科大学
  20    389    金沢大学

 残念ながらわが新潟大学はここに入っていないのだが、新潟大学図書館からの情報では、新潟大学は国内22位、世界394位だということである。 ちなみに国内21位は熊本大学。

 もっとも、上の表には大学ではない純粋な研究機関が3つ入っている。 それを除いて大学だけに限れば、新潟大学は国内19位となる。

 国立大は上から来る予算がおおかた決まっているし、東大をはじめとする旧帝大は最初から予算や研究者数で優遇されているのだから、そういう事情を勘案すれば、新潟大もそれなりに頑張っていると言えるのではないか。 文系学者の私は全然貢献できていなくて、済みません。


4月26日(日)       *耳で聴く風景 第2回――井上静香+成嶋志保リサイタル

 本日は午後2時から標記の演奏会に出かける。 会場はだいしホール。 強い風に雨が混じる日で、あいにくの天気だからどうかなと思ったのだが、行ってみたら満員だった。 開演10分前に着いたら、階段のところまで行列ができていて、当日券を買おうとしたお客は、しばらくお待ち下さいと言われていた。 盛況は結構なこと。 演奏のお二人にはおめでとうございますと申し上げたい。

 ヴァイオリンの井上さんとピアノの成嶋さんの、昨年に続いてのリサイタルである。 今回のプログラムは、前半がイベールの 「物語」 (ヴァイオリン+ピアノ版)、ドビュッシーのヴァイオリンソナタ。 後半がラヴェルのヴァイオリンソナタ遺作と、エネスコのヴァイオリンソナタ第3番 「ルーマニア民謡風」。 こういうプログラム、新潟ではこのコンビでないと聴けないと断言していい。

 4曲とも見事だったが、シャープさを出したドビュッシーと、独特の抒情性を出したラヴェルが特にすばらしいと思った。 どちらもヴァイオリンの音もよく出ていた。 エネスコの 「ルーマニア民謡風」 は、ディスクは持っているのだが生で聴いたのは初めて。 演奏も悪くなかったと思うが、敢えて注文をつけるならエグさをもう少し出していれば、という気がした。 この曲に限らず、井上さんの表現力はすばらしいのであるが、これにもう一段の強さや押しが加われば文句なしだろう。 とはいえ、昨年に続いてレベルの高い演奏会で、満足。

 最初のイベールの 「物語」 はディスクも持っておらず、まったく初めて聴いた。 パンフの解説には 「ピアノ曲として書かれており」 とあったので、てっきり成嶋さんだけが出てくるのかと思ったら、井上さんも出てきたのでびっくり。

 その後調べてみたのであるが、Wikipedia日本語版で 「イベール」 を見ても、この曲については 「ピアノ独奏、またはサクソフォーンとピアノ」 としか書かれておらず、本場のフランス語版のほうでは何も書かれておらず (フランス人ってだからダメなんだよ、と言いたくなる)、ドイツ語版ではいちおうヴァイオリンの曲として載っているけど、もともとピアノ曲だとは書かれておらず、英語版のほうではピアノ曲としてしか載っていない。 また、『最新名曲解説全集』には、ピアノ曲としては載っていて、色々な編曲もなされているとは書いてあるけど、ヴァイオリン版がいつ誰によって編曲されたのかは全然書いていない。 どなたか、詳しい方、この曲の編曲事情についてご教示下さい!

 閑話休題。 拍手に応えてアンコールが2曲、パラディスの 「シチリアーノ」 とファリャの 「ホタ」 が演奏された。 井上さんと成嶋さん、また来年も期待していますよ!

 というわけで演奏はすばらしかったのであるが、客のマナーがイマイチ。 私は中央ブロック11列目で聴いたのでけれど、携帯電話をブーブー鳴らす客が周囲に複数いた。 ほかにパンフの紙音をやたらたてる客、のど飴を出す音をたてる客 (演奏会が始まる前に口に入れておくのがマナーですよ!) など、結構うるさかった。 残念。 あと、ラヴェルがすばらしかったのに拍手はイマイチだった。   一番最後のアンコールのときだけ拍手すればいいと思っている客が多かったのだとすれば、これまた残念。

4月22日(水)      *続々・教養科目の配置がまずい新潟大学 (2)――専門科目とのアンバランスなど

 本日は1限の西洋文学LTで第2次抽選をする。

 先週、定員150名に対してその2・3倍の申込みがあったということは16日のところに書いた。 定員より5名多い155名の仮当選者名を出したが、聴講意志の確認をしに私の研究室に来ないと本当選にはならないことになっている。 聴講意志の確認をしない学生が24名いたので、その分は定員の空きになるため、本日の授業の初めに再抽選をすることにしたのである。

 第1次の抽選で落ちた学生を優先することにしている――前回の授業時にもそのように説明している――ので、あらかじめ尋ねてみたところ、第1次抽選で落ちて再度やってきた学生が24名以上いることが判明。 したがって、第1次抽選に参加しなかった学生は、気の毒だが、抽選をせずにお引き取りいただく。

 残った学生は、数えてみたら52名いた。 抽選にすら進めず帰ってもらった学生と合わせると70〜80名が聴講を求めて来ていたことになる。 2次抽選ではじゃんけんで52名を半分の26名に減らして当選とする。 2次抽選の定員は24名だからちょっと多いが、これ以上減らすのも気の毒だと考えたからである。 もっとも、後で念のため調べてみたところ、「第1次抽選で落ちた人だけ」 という条件を無視して第2次抽選に加わり当選した学生が2名いることが判明したので、その2名にはメールで失格を通知しておいた。 したがって、結果的には2次抽選分の定員24名ちょうどを当選させたことになる。

 それにしても、である。 この教養科目は定員が150名あるのに、第2週目に入っても約50名ほどの学生をお断りしなくてはならないのである。

 これに対して専門科目はどうだろう。 私は今期、火曜4限に人文学部向けの講義科目を持っているが、その授業に聴講を希望した学生はおよそ30名。 法学部生2名と経済学部生1名を入れてこの数字なのである。 むろん、満員だからお断り、なんて学生は一人も出なかった。

 教養の講義科目は定員150名で1週目の競争率2倍以上、第2週目に入ってもなお聴講希望者50名をお断りしているのに、人文学部の講義科目は希望者全員を受け入れて30名。 このアンバランスは、どう見ても尋常ではない。

 したがって新潟大学の教養科目を良くするために何をなすべきかは、はっきりしている。 責任者の方々、実行力が試される場面ですよ。 というか、教養部解体以降状況が悪くなってきて、ここ数年間ずっと試されているのに、成果を上げられずに来たというのが実態だと思うんだけどね。 これを見れば、私が新潟大学上層部の無能を言うのも当然でしょう、斉藤先生?

 追記その1: その後、27日になって医学部1年生が西洋文学LTを取りたいと私の研究室を訪ねてきたが、すでに前週に2回目の抽選をして医学部生を含めて何十人も断っているので受理するわけにはいかないと返事をした。 医学部生は専門課程のキャンパスが別の場所にあることもあり、1年次に教養科目を必要なだけ取っておかないと2年生になれないので他学部生よりキツいのだが、教養科目の配置の杜撰さからいっそうキツくなているということだろう。

 追記その2: その翌日である28日、今度は私がアドヴァイザーになっている人文学部1年生が、履修表に印を押してくれと私の研究室を訪ねてきた。 (今どきは過保護だから、学生ひとりひとりにアドヴァイザーの教員が付き、学期初めごとに履修表を見て印を押し、必要があればアドヴァイスをすることになっている。) 表を見ると、社会科学系の教養科目が1つも取れていないので訊いたところ、落選が続いて結局取れなかったという。 第2期では頑張るよう指示したが、ここから見ても、新潟大学の教養科目はどうもおかしいのである。

4月19日(日)      *東京交響楽団第53回新潟定期演奏会     

 本日は午後5時からりゅーとぴあで標記の演奏会を聴く。 2009年度最初の東響新潟定期である。 指揮は今年から首席客演指揮者に就任したニコラ・ルイゾッティ。 コンミスはおなじみ大谷康子さんで、前半はメンデルスゾーンの序曲 「静かな海と楽しい航海」、ベートーヴェンの交響曲第1番。 後半はブラームスの交響曲第4番。

  客の入りはイマイチ。 3階脇席はがらがら。 舞台後ろのPブロックも、一番安いD席以外はがらがら。ちょっとさびしい。

 あと、今年度から一番安いD席が値上げして2500円になっている。 他のランクの席も上がっているけど。 パンフを見ると東響の東京や川崎での演奏会では一番安い席は2000円なのである。 東響新潟定期の座席ごとの価格はりゅーとぴあ側で決めているのだろうけど、東京や川崎より高いのはいかがなものか。 D席はたしか最初は1500円だったものが、比較的近年2000円になり、今年度は他のランクも値上げするからというのでまた値上げされたのだろうが、同じ500円幅でも6500円のS席が500円上がるのと2000円のD席が500円上がるのとは違うと思う。 その辺の配慮がなかったのは残念。

 でも、演奏はよかった。 今年度の東響新潟定期も好調な滑り出しとなった。

 ベートーヴェンはきわめて正面からこの曲に迫った演奏。 第2楽章が歌に満ちていて、第3・4楽章は迫力満点。 いつものブラヴォーおじさんが叫ぶかと思ったけど、叫ばなかった。 来てなかったのかな?

 で、後半のブラームスなのだが、非常に興味深い演奏だった。 第1楽章はややしずしずと始まる感じであったが、何というのかな、最初の主題は音が下降・上昇・下降・上昇・下降・上昇・下降・上昇と続くけれど、下降のところは控え目にして上昇の部分でアクセントをつけていて、ちょっと独特。 で、第1楽章の後半は盛り上げて終わったが、次の第2楽章がまた面白い。 あんまり角をたてないというか、しずかに丸みを帯びた作りになっていた (変な表現ですみません)。 この第2楽章、第4交響曲の中では目立たない楽章だと思うのだが、そこのところにかなり意識的な表現を、しかし作為を感じさせずにしていたみたいで、とっても面白かった。 第4楽章もそう。 この楽章は結構複雑なところがあると思うのだが、途中のフルートとホルンの掛け合いのところでテンポをかなり落として、楽章のヘソになる部分を明示しようとしていたような気がした。 管楽器の音も安定していたし。 最後の楽章だから一気呵成につっぱしって盛り上げて、という行き方じゃ全然なかった。

 しかし聴衆の拍手、わずかに早くなかったかな?

 アンコールはなかったけど、満足、満足。

 それにしてもルイゾッティはイタリア人だけあって、曲が終わってからの舞台での身ぶりがうまいと言うか、芸達者だ。 コンミスの大谷康子さんを抱きしめたりして、くそっ、羨ましい (笑)。

4月16日(木)      *続々・教養科目の配置がまずい新潟大学 (1)

 昨年度来しつこく書いているが、あいかわらず改善には程遠い状態なので、再々度書く。

 昨日の1限に、私の出している教養科目(正式名称はGコード科目)である西洋文学LTの受付をした。 定員150名のところに倍以上の355名が申請登録をしたので、抽選となる。 定員より5名多く当選者を出したが、実質競争率は約2・3倍となった。 昨年度の同じ授業では約2・5倍だったので、競争率は少し低下した。

 といって、水曜1限の教養科目が増えているわけではない。 むしろ逆で、昨年度はあった音楽関係の講義科目がなくなっている。 第1期水曜1限の教養科目の総定員は879名であり、昨年同期には1001名だったから、事態は悪化しているのである。

 事態が悪化しているのに私の授業の競争倍率が低下したのはなぜか、よく分からない。 1限に専門科目が増えているのかもしれないし、私の授業の評判が悪くなっているのかも知れないし、同名の講義科目ながら内容が異なるのでそのせいかもしれないし、原因は色々考えられる。 なお、新学期が何曜日から始まるかによっても変わってくるが、昨年度も今年度も4月は金曜日から授業が始まっているので、その点での影響は考えられない。

 付け足せば、同じ水曜1限でも第2期は教養科目の定員が増えている。 昨年度は1108名だったが今年度は1283名である。 これは、昨年度この問題で本コーナーに登場された斉藤陽一先生が定員250名の講義を新たに開講されたことが大きい。

 しかし、斉藤先生の講義の定員250名がそっくりそのまま定員増につながっていないのは、昨年度はあった歴史系の講義科目がなくなっているからである。 ちなみに、上で述べた音楽関係講義科目も、この歴史系講義科目も、教育学部の教員が受け持っていた。 なぜか教育学部の教員は昨年度と比べて水曜1限の教養科目から撤退しているようだ。 学部内にも事情があるのかも知れないが、少なくとも他の曜日の1限に出している様子もなく、教育学部教員は教養科目を軽視しているのではないかとの疑いを捨てきれない。

 要するに、斉藤陽一先生の個人的な努力だけではどうにもならないということである。 となると、昨年度私が提言したように、1限に授業を出さない専任教員は給与を1割減にするなどの強制的な措置をとるしかない、という結論になるんじゃないかなあ。

      *        *

          *リマインダー・メールの時代

 本日昼、大学院の教授会のはずだったが、会場に行ってみたらはなはだ集まりが悪い。 結局定足数に大幅に足りず、不成立となる。 もっとも、その場合は後で開く代議委員会で決めるので事実上は困らないらしいのだが。

 なぜ集まりが悪いかというと、おそらくリマインダー・メールを出さなかったからではないか。 今月10日にメールで通知が一度あっただけだから、忘れている人が多いのだろう。 私だって威張れない。 実は昨日まで忘れていて、今朝布団の中で 「あれ、今日の昼に何かあったような気がしたが?」 とふっと思い出し、大学の研究室に来て予定表を確認してようやく完全に思い出したのである。 予定表には一応書いておいたのだが、実は予定表はまめには見ていないもので。

 最近はメールもやたら沢山届くので、いちいち記憶していられない。 今回も、昨日にリマインダー・メールを出しておけば成立していたんじゃないかと思うけど。

         *        *

          *倉橋専務理事の送別会

 夜は新潟大学生協の理事会。 理事25名のうち過半数が出席しないと議事は成立しないが、前半過半数に届かず報告事項のみの進行となる。 後半、ようやく教員理事2名が加わり過半数に達したので、議事を含めての理事会となる。 なかなか理事会も大変なのである。 私も、今回は最初から出席したが、3月の理事会は欠席したから、偉そうなことは言えない。

 専務理事の倉橋氏が今日限りで退任し東京に移ることになっているので、理事会の後で簡単な送別会が開かれる。 私も珍しく出席。 珍しくというのは、私はこの手の行事にはあまり出ないことにしているからだ。 しかし今回は倉橋さんを見送るために出席。

 専務理事というのは、実質的に新潟大生協の最高責任者、つまり会社で言えばCEOである。 名目上は理事長が一番エライのであるが、これは新潟大教授が無給で勤めるもので、それ以外の理事も、理事という名称は偉そうだけど、原則的に私のような新潟大教員か、或いは新潟大学生が無給で勤めるもので、言うならば名誉職である。 名誉職でない理事は専務理事だけ。

 つまり大学生協は、給料をもらって実質的に生協を動かしている専任の職員と、理事という名前ながら実質的には外部からご意見番として無給で勤務する教員・学生の2種類の人間によって構成されているのだ。 

 私が今回送別会に出席したのは、実質的に一番エラく、また仕事も大変な倉橋さんに敬意を表したからである。 と言っても、専務理事なら誰にでも敬意を表するか、というとそうではない。 専務理事はCEOのようなものだから、言うまでもなく無能では勤まらないが、今まで何人もの専務理事を見てきたけれど、倉橋さんは特に有能な方だと思っていたからである。

 有能さにも色々あるが、倉橋さんの偉いところは人の意見をよく聴いて、それをなるべく実行に移すという態度であろう。 専務理事にも、一見人当たりがよくて人の意見にはうなずくものの、実際は何もやらないという人もいるからである。 無論、専務理事は実務的な仕事がたくさんあるので、無給理事の意見なんかにいちいち応じていられないという心理になるのも分からないではないが、倉橋さんはそういう心理とは無縁の人であった。

 年齢的にも私とほぼ同じで、新潟大の専務理事になる以前は関西で生協の仕事をされ、家は千葉県の船橋にあるそうで、すでに単身赴任暮らしが長いという。 おまけに奥様が闘病生活中だとのことで、生協もそういう人に長々単身赴任をさせるのだからあんまり人間的とは言えない組織だな、と思ったことであった。 

 ようやく東京勤務に戻られるということで、奥様の闘病生活も少しは楽になるよう祈りたい。

4月15日(水)      *教養事務職員の退職

 本日は1限の授業があるので早めに大学に行ったら、非常勤講師の先生と会い、ちょっとお話ししたところ、長らく教養の事務をやってこられた小池氏と駒村さんがこの3月限りで退職されたと聞いた。 こちらは全然知らなかったので、ちょっとびっくり。

 お2人とも教養部があった頃から教養関係の事務員として務めてこられた方である。 小池氏は身体にハンディを持っていたが、勤務には人一倍熱心だった。 現在の新潟大学は1限が8時30分に始まるようになっているが、職員の規則上の勤務時間は8時30分からなので、その前に用事があって事務室に行っても閑散としているのだけれど、私が1限の授業がある水曜日に8時頃事務に行くと小池氏はいつもすでに来ておられた。

 駒村さんは、非常勤講師の先生が勤務しやすいように細かいところで気配りをされていたと今回うかがった。

 教養部が存続していれば教授会で退職のあいさつくらいあったと思うのだが、1994年の教養部解体以降、私は人文学部所属となり、人文学部勤務の事務員についてしか通知がないので、小池氏と駒村さんの件は全然知らなかったのである。 年々歳々人同じからず。 

4月11日(土)      *最近聴いたCD

 *Sergey Khachatryan: Music for Violin and Piano  (EMI 7243 5 75684 2 5, 2002年録音)

 3月に上京したときディスクユニオンお茶の水店で購入した1枚。 ジャケット表紙にサインが入っている。 すぐれた若手ヴァイオリニストであるセルゲイ・ハチャトリアンのディスクで、収録曲目は、ブラームスのソナタ第3番、バッハのシャコンヌ、ラヴェルのツィガーヌ、ショーソンの詩曲、ワックスマンのカルメン幻想曲。 ハチャトリアンの生演奏は数年前に浜離宮ホールで聴いたが、音の美しさという点でこの人の右にでる演奏家はそうそういないだろう。 このディスクでも彼の音の美しさは捉えられているが、録音のせいかやや線が細い感じになっている。 生で聞くとよく通る音で決して線は細くないのであるが。 収録曲最初のブラームスのソナタに彼の演奏の特徴がよく出ている。 切れ込みや激しさをこの曲に求める人にはやや物足りないだろうが、たおやかに歌って曲の抒情性を見事に表現している。 こうした演奏は他の曲でも同じで、技巧をひけらかすような演奏ではなく、あくまで歌うことを第一に考えているのである。 ピアノ伴奏はブラームスとラヴェルがルジーネ・ハチャトリアン、ショーソンとワックスマンがウラディーミル・ハチャトリアン。なお、こちら(→)からジャケットなどをご覧になれます。 http://www.amazon.co.jp/Music-Violin-Piano-Johann-Sebastian/dp/B00006JC6V 

 *Anne-Sophie Mutter: Carmen-Fantasie  (Deutsche Grammophon, 437 544-2, 1993年録音)

 少し前にyahooオークションで入手した1枚。 アンネ=ゾフィー・ムターがジェイムズ・レヴァイン指揮のウィーンフィルをバックに、ヴァイオリンの小曲を弾いた1枚。 収録曲は、サラサーテの 「ツィゴイナーワイゼン」、ヴィエニアフスキの 「ト短調の伝説」、タルティーニの 「悪魔のトリル」、ラヴェルの 「ツィガーヌ」、マスネの 「タイスの瞑想曲」、サラサーテの 「カルメン幻想曲」、フォーレの 「子守歌」。 全体としてゆったりとしたテンポで破綻なく堅実に弾いている。 ヴァイオリンを習っている人に模範演奏として聴かせるにはいい演奏なのだろうとは思う。 ただ、面白みといったものはあんまり感じられない。 なお、こちら(→)からジャケットなどをご覧になれます。 http://www.amazon.com/Carmen-Fantasie-Pablo-Sarasate/dp/B000001GII 

 

4月7日(火)      *平野早矢香さん、卓球のドイツ・オープンで優勝!

 ちょっと情報が遅れたが、平野早矢香さんがドイツ・ブレーメンで3月1922日に開催された卓球ドイツ・オープンの女子シングルスで優勝した。 おめでとうございます!

 平野さんは準々決勝ではシンガポール選手を、準決勝では中国選手を、決勝ではベラルーシの選手を下した。

 ちなみに他の日本女子選手はどうかというと、福原愛と石川佳純と藤沼亜衣は1回戦敗退、藤井寛子と樋浦令子は2回戦敗退。 3回戦以上 (3回戦のあとが準々決勝) に行ったのは平野さんだけ。 現在の日本女子卓球界で平野さんの実力がダントツであることが改めて証明された形だ。

 これにともなって、4月の世界卓球ランキングでは平野さんは従来の29位から19位に上がった。 福原愛は逆に27位から31位に下がった。 もともと平野さんが福原愛より世界ランクが下なのはおかしいと私は常々思っていたので、ようやく正当なランキングになったことを喜びたい。

 4月末から5月初めにかけては横浜で世界卓球選手権が開催される。平野さんの健闘を祈りたいものである。

4月5日(日)      *東京都交響楽団 ハーモニーツァー2009→2010 新潟公演    

 本日は午後3時から標記の演奏会へ。 会場はりゅーとぴあ・コンサートホール。 新年度ということで言えば、新潟の2009年度クラシックシーンの始まりとも言えるかな。 開演45分前くらいに行ったらすでに公的駐車場は満車で入れず、仕方なく以前メルパルクだったところの駐車場に止める。 30分100円。

 エリアフ・インバルの指揮、コンマスである矢部達哉の独奏で、モーツァルトの 「フィガロの結婚」 序曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、同じく交響曲第3番 「英雄」。 ちょっとあきれるほどオーソドックスなプログラム。

 今回の座席は3階中央のIブロック3列目。 Aランク席で3500円。 日頃聴いている東響との比較の意味で、東響新潟定期の定席Gブロックか、その隣のHブロックの席が欲しいと思っていたのだが、りゅーとぴあでチケットを買ったらその辺りが売っていなかった。 それもそのはず、今回は3階の脇席 ――FGHJKLブロック――は販売していなかったのである。 入場してみて気づいた。 客の入りは、最初から入れていないブロックを除いて7〜8割くらいか。

 協奏曲、矢部さんのヴァイオリンは高音が美しいが中低音はもう少し迫力が欲しい感じ。 この曲、特に第1楽章には線の太い鷹揚さが必要だと思うのだが、そこは日本人で、繊細なんだけど鷹揚さはちょっと不足している気がした。

 さて、この日の白眉は何と言っても英雄交響曲である。 前半では独奏を担当した矢部達哉さんがコンマスの席についた。 上にも書いたように、あまりにオーソドックスなプログラムなので 「うーん」 という気もあったのだけれど、聴いてみてそういう生意気な気持ちは吹き飛んだ。 これ、掛け値なしの名演だったのである! 都響の弦の音は、東響ほど横の線が揃っていなくて美しさでは負けるかも知れないが、その代わり推進力というのかな、気迫のこもった力が感じられる。 少なくともこの英雄交響曲ではそうだった。 そしてそれをベースにこの曲の雄大さが遺憾なく表現されている。 ちょっと芝居がかったというか、演出が感じられる箇所もあったが、それがまた曲の偉容を高めている。 この辺はインバルのすごさなのかもしれないい。 うん、聴きに来てよかったと心底思った。 どんな演奏会でも聴いて見なきゃ分からない、ということを改めて痛感した一日であった。 アンコールはなかったけれど、あれほどの英雄の名演を聴いたら、付け足しは無用。

4月3日(金)      *ワーグナー 『ワルキューレ』   

 本日は休暇をとって上京する。 先月新国立劇場で 「ラインの黄金」 を鑑賞したので、必然的に 「ワルキューレ」 も、ということになったため。 『ニーベルングの指環』 第1夜である。 前回と同じくAランク席で21000円。 2階3列目の右寄り。 演出はキース・ウォーナー、指揮はダン・エッティンガー、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団は前回に同じ。 歌手も、ヴォータン (ユッカ・ラジライネン) とフリッカ (エレナ・ツィトコーワ) は前回に同じ。

 第1幕のジークムントとジークリンデのシーンでは、小屋の中に巨大な机と椅子がおかれている。 机は、歌手がちょっとだけ体をかがめれば下に入れるくらいの大きさ。 その上方に神剣ノートゥングの収まった赤い矢印 (剣の象徴?) が垂れている。 歌手はこの机の上に上がったり、下をくぐったりしながら演技をし、歌う。 また小屋の左端にはこれまた大きな婚礼写真らしきものが。 この幕での登場3人だけだが、ジークリンデ (マルティーナ・セラフィン) とフンディング (クルト・リドル) は良かったものの、ジークムント (エンドリック・ヴォトリッヒ) は声の通りがイマイチ。 「ワルキューレ」 全体を通しても、ジークムント役が一番冴えなかったという印象である。 しかし生で聴いてみて、この 「ワルキューレ」 では第1幕が音楽的には一番よくできているなと思ったことであった。 他の幕だと説明的な部分がかなりあって、音楽的に面白みが欠けているように感じられるのだが、第1幕はよくまとまった音楽が付けられていて、聴いて楽しめるのである。

 第2幕になると、前夜劇 「ラインの黄金」 でも出てきたヴォータンの根城が使われていて、ようやく前夜劇からのつながりが演出上でも明確になってくる。 もっとも、話が進行すると根城は舞台上から消えてしまうのだが。 ヴォータンの衣裳は前夜劇からのままだし、新たに登場する彼の娘ブリュンヒルデ (ユディット・ネーメット) も特にものものしい衣裳ではないので、現代的な匂いがつきまとっているが、それでもヴォータンの根城に星の模様が入っているし、舞台上に広野(?)みたいな模様が出てくるので、多少は神話らしさが感じられる。

 しかし第3幕がこの神話性をうち砕いてしまう。 なんと、病院の廊下をワルキューレたちが病人を運ぶ車輪付きベッドを押しながら右往左往しているのだ。 廊下の左右には病室に通じるドアが並び、正面奥には手術室と思しき部屋に通じるドアがあり、ドアの上には 「手術室」 ではなくて 「WALHALL」 という文字が。 歌では 「この岩山」 なんて歌いながら、舞台は全然岩山じゃないのでちょっとおかしいのであるが、まあ現代性を極めるとこうなるのかな、と思わないでもない。 今どきあの世に行く直前には病院にかつぎこまれている場合が多いわけだし(笑)。 もっとも、第3幕後半でヴォータンとビリュンヒルデの場面になると背景が変わって多少は岩山らしくなるけれど。

 午後5時開演で、終わったのが10時半頃。 途中2回の休憩がそれぞれ45分、35分もあるということもあるが、それにしてもワーグナーは体力勝負である。 でも映画3本立てだと思えばたいしたことないはずなんで、実際この翌日には新宿でロードショウの映画を1本見てから浅草の名画座に行って3本立てを見たんだけど、なぜか新国の 「ワルキューレ」 だと第2幕の後半に尻が痛くなってくるのに、映画だと痛くならない。 新国の椅子、やっぱり問題があるんじゃないかなあ。 それとも、オペラより映画のほうがリラックスして見ているから尻も痛くならないのだろうか? 

 ちなみに、後日、都響の演奏会で新潟市在住で音楽好きで有名な某氏にお会いしたが、氏も新国の 「ラインの黄金」 と 「ワルキューレ」 に行かれたそうである。 まあ、新潟じゃ 『ニーベルングの指環』 の上演を待っていたら百年河清を待つがごとしだからね。 なお、第2夜と第3夜は来年の2月と3月の上演予定なので、それまでにカネを貯めておかなくちゃ(笑)。

4月1日(水)      *映画館 「Tジョイ新潟万代」 に関すること若干

 映画サービスデーなので夕方からシネコンのTジョイ新潟万代に映画を見に行ったら、駐車料金について変更があった。

 これまでは300円で駐車券 (見る映画の上映時間に応じて2時間半ないし3時間) が出る仕組みだったが、映画を見さえすれば5時間無料で駐車できるようになった。 これはサービス向上であるが、その代わり使える駐車場は、万代第1および第2駐車場のみとなった。 従来は駐車券発行対象だった万代第3・第5駐車場やシルバーボウル駐車場は対象外となったので、要注意。

 それと、これは私からの苦情だが、サービスがサービスになっていないということ。 Tジョイでは映画を見るとサービス券を1枚出していて、これを5枚集めると平日無料鑑賞券1枚と交換してくれることになっている。 ただし、1日70枚限定である。 この日、私はサービス券が5枚になったので交換してくれと言ったら、すでに1日分の70枚は出きっているとのこと。 夕方だから仕方ないかなと思ったら、なんと朝一番で行列に並ばないと1日70枚の枠内に入れないのだそうだ。 

 これじゃ、サービスがサービスになっていないじゃないですか、Tジョイさん! 1日70枚なんてケチなこと言わないで、200枚でも300枚でも出せばいいじゃないの! ライバルのユナイテッドシネマ新潟も、そしてワーナーマイカル新潟および新潟南も、映画6回鑑賞で1回無料というシステムになっていて、どちらも平日限定ではないし、ましてや1日70枚限定なんてケチくさいことはやってないんだよ! ったく、こんなケチなことをやっていて競争に生き残れると思っているのかねえ。

 それかあらぬか、この日は映画のチケットを買ったらアンケート用紙を渡された。 Tジョイ以外にどの映画館によく行くか、その理由は、などという項目があったので、日頃考えていることを率直に書いておいたが、そもそもその程度のこと、アンケートをとらないと分からないのですか、と言いたくなってしまう。 

 ここにも何度も書いているが、私はユナイテッドびいきで、その理由はきわめて明快。 椅子が広くてゆったりしていること、料金の割引制度が充実していること、駐車料金が無料であること。 あとは、新潟市内のシネコンとしてはマイナーな映画も比較的拾っていること。 

 Tジョイとしては今回から駐車料金は無料になったのだから、あとは映画料金の割引制度である。 ユナイテッドは、毎週メンズデーとレディスデーがあるし、カード会員になれば6本見ると1本無料になるし、さらにカード会員としての特典がある。 具体的に書くと、カード提示で映画鑑賞が300円割引になることや、昨年12月から今年2月にかけてはよく映画を見ているカード会員に特別割引券やポイント加算券 (通常は映画1本で1ポイントだが、2ポイントとなる――6ポイントで映画1本無料となる) を出していたし、年度末の3月にはすべてのカード会員にポイント加算を行っていた (映画1本で必ず2ポイントもらえるから、映画3本見れば1本無料)。 ライバルがこの程度のことをやっているんだから、Tジョイも見習いなさいっ!

 ちなみに、駐車場に関する制度変更がTジョイのHPには全然書かれていない。 こういうところも要改善なんですよ、Tジョイさん!

3月28日(土)     *最近聴いたCD

 *French Music for Clarinet and Piano  (Chandos London、CHAN8526、made in West Germany、1987年発売)

 こないだ上京したときディスク・ユニオンお茶の水店で買った1枚。 最近ようやくサン=サーンスにクラリネット・ソナタがあると知ったので、たまたまその曲を収録したCDがあって安かったから、という理由で購入。 クラリネットをジェルヴァーズ・ドゥ・ペイエ、ピアノをグヴィネス・プライアーが弾いている。 収録曲は、サンサーンスのクラリネット・ソナタ作品167、ドビュッシーの第1ラプソディー、プーランクのクラリネット・ソナタ、フローラン・シュミットのアンダンティーノ、ラヴェルの 「ハバネラの形式による小品」、ドビュッシーのアラベスク第2番、ドビュッシーの 「亜麻色の髪の乙女」、ピエルネのカンツォネッタ作品19。 サン=サーンスのソナタは4楽章形式で、哀愁に満ちた第1楽章の旋律が第4楽章で再現される作りはヴァイオリン・ソナタ第1番と類似している。 プーランクのソナタも、第2楽章のしみじみとした旋律が何とも言えず人間くさい。 全体としてクラリネットの淋しげで 「落魄」 という言葉を想起させるような音色、そしてそれに見合った曲が楽しめる好アルバムだと思う。 なお、こちら(→)からジャケットなどをご覧になれます。 http://ml.naxos.jp/album/CHAN8526

 *Vengerov & Virtuosi  (EMI、7243 5 57164 2 2、2001年発売)

 同じくこないだディスク・ユニオンお茶の水店で買った1枚。 ヴァイオリニストのマキシム・ヴェンゲーロフがイスラエルの小編成アンサンブルであるヴィルトゥオージ(11人のヴァイオリニストからなる、と解説にある)、そしてピアノ伴奏のヴァグ・パピアンとともに2001年4月28日〜30日にウィーンの楽友協会ホールで行った演奏会のライヴ・レコーディングである。 ヴェンゲーロフについては私がここで書くまでもないだろうが、天才的な技巧を賞賛されながら肩の故障のために昨年にヴァイオリニストとしては活動をやめ、指揮や教育に従事する宣言した。 私も今まで生で聴く機会を持たなかったので、非常に残念である。 ここに収録されているのは小品のみで、ラフマニノフの 「ヴォカリーズ」、ポンスの 「エストレリータ」、ブラームスの 「ハンガリー舞曲第1・5番」、オトカール・ノヴァチェクの 「常動曲」、ドヴォルザークの 「ユモレスク第7番」、チャイコフスキーの 「懐しい土地の思い出」、シューベルトの 「アヴェ・マリア」、バジーニの 「こびとの踊り」。 そしてアンコールとして、ハチャトリアンの 「剣の舞」、マスネの 「タイスの瞑想曲」、モンティの 「チャルダッシュ」。 どれも達者な演奏だが、アンコール最後の 「チャルダッシュ」 では客席の反応も音として入っているし、文字どおりの超絶技巧を披露している。 これを聴くと、ヴェンゲーロフはエンターテイナー的な資質を備えた人だったのかな、と思う。 なお、こちら(→)からジャケットなどをご覧になれます。 http://mysound.jp/music/detail/tB3GQ/

3月24日(火)       *フィンランドとナチス・ドイツとソ連

 本日の産経新聞に、「フィンランド リュティ元大統領 救国の戦犯に光」 という記事が載った。 注目すべき内容なので私なりの感想も含めつつ紹介しておきたい。

 第二次世界大戦でフィンランドがドイツや日本と同じく枢軸国側だったということは、日本でもそれほど知られていないと思う。 1939年11月、独ソ不可侵条約を結んだソ連がフィンランドに侵攻、フィンランドは当時首相だったリュティが中心となってソ連と戦い、40年3月に講和にいたったが、領土の一部を失った。 ソ連の圧力が増すなか、フィンランドはドイツから武器を購入、ドイツ軍に領内通過権を認める。 41年6月、ドイツ軍のソ連奇襲侵攻が開始される。 この中でフィンランドもソ連から爆撃を受け、大統領になっていたリュティは対ソ継続戦争の開始を宣言した。

 44年6月、リュティは単独でソ連と講話しないとリッベントロップ独外相に誓約するかわりに大量の武器をドイツから購入、これでソ連軍の猛攻をしのぐ一方で、ソ連との休戦を模索。 祖国を守るには単独講和しかないと考えていたリュティはドイツとの誓約書面をいつでも破棄できるよう個人名で署名していたという。

 以上の事実から、国際関係の一筋縄ではいかない複雑さや、祖国を守るためには 「タヌキとキツネの化かし合い」 的な手管も労さなければならない政治家の労苦が伝わってくるだろう。

 44年9月、フィンランドは単独でソ連と休戦、連合軍管理委員会の管理下におかれた。 休戦条件には戦争責任者の処罰が含まれていた。 45年8月、連合国間で結ばれたロンドン条約で、従来の戦時国際法規にはない 「平和に対する罪」 などの戦争責任を指導者に問うことが決まった。

 東京裁判やドイツ戦犯を裁いたニュルンベルク裁判については比較的よく知られているが、フィンランドの場合、リュティは捕虜虐待や民間人殺戮を行ったわけではなく、戦争責任を問う根拠がないという理由で、フィンランド側は自発的引退で処理しようとした。 しかし連合国管理委員会に強い影響力を持つソ連の主張もあり、フィンランドは特別時限立法により戦争責任裁判を行い、リュティなど8人に禁固刑が言い渡され、リュティは最も重い禁固10年となった。 健康を害したため49年に赦免されたが、その後公職に復帰することはなかった。

 リュティは1889年に小作農の息子として生まれ、幼少期から読書好きであり、ヘルシンキ大学で学び、オクスフォード大学にも留学した。 1925年からフィンランド中央銀行総裁になっていたが、ソ連の侵攻により政治家としての活動に大きくカーブを切ったという。

 リュティについては、戦後ずっとソ連の圧力を怖れて公式に功績が語られることはなかったが、ソ連崩壊後になって公式の伝記が出版されるなどして名誉回復が進んでいるという。 

 第二次世界大戦にはさまざまな複雑な要素や局面が含まれている。 単に連合国と枢軸国の戦争と見るとその内実や当時の錯綜した国際情勢は分からない。 リュティについて、そしてフィンランドがおかれていた状況を知ることは、第二次世界大戦の複雑さを知るための一つの手がかりになるだろう。

3月23日(月)      *映画 『ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて』 の紹介記事が掲載されました

 本日の新潟日報朝刊第10面に、映画 『ベルリンフィル 最高のハーモニーを求めて』 を紹介した私の記事 「伝統背負い新しさ追求」 が掲載されました。 興味のある方はごらん下さい。

 この映画は新潟市ではシネ・ウインドにて3月28日(土)から3週間にわたって上映されます。

3月20日(金)       *会議

 本日は春分の日で休みのはずだが、午前中2つ会議が入っているので休日出勤である。 なんで休みの日に会議を入れるのかと思うのだが、色々事情があってどうしてもこの日にやらざるを得ない、ということなのである。

 まあ、私は仲間が少ない人間だから、したがって会議も少ないほうである。 多い人は四六時中会議に出ていて、学期中だと自分の勉強はおろか、下手をすると授業の下調べまで満足にできなかったりする (らしい)。

 なぜ仲間が少ないと会議も少なくなるかと言えば、仲間が多い人は仲間から頼まれて色々な委員会の委員をやらされるので、それで会議も多くなってしまうのだが、仲間が少ないとそういうことがないから、なのだ。 

 それと、いったん或る委員会の委員になると、なかなか辞めさせてもらえなかったりする。 しばらく前、或る人が 「○○委員会の委員をもう何期もやっているのでそろそろ辞めさせて下さい」 と教授会でその委員会委員を決める選挙の直前に訴えたが、開票してみたらやはりその人が選ばれていた。 その人がよほど適任だと思われているからなのか、或いは一種のイジメなのか、その辺はよく分からないのであるが。

 むろん多忙な委員会だとあらかじめ一人何期までと決められているのだが、そうでない委員会もあって、わりに融通無碍というか、いい加減だったりする。 また実権がほとんどなくて、事実上承認機関に過ぎないような委員会もないではない。 こういう委員会はさっさと廃止したほうがいいと思うのだが、なぜか廃止されない。 世の中、無駄で動いているということかもしれないね。 1日24時間有意義なことばかりやっている人間なんていないわけではあるけれど。

3月18日(水)      *映画版 『ラ・ボエーム』、見損ねた演劇、そしてワーグナー 『ラインの黄金』

 午前中、新宿の映画館でプッチーニの 『ラ・ボエーム』 を映画にしたものを見る。 詳しくは映画評のページをごらんください。

 そのあと、予定では午後2時から新国立劇場で現代ドイツ演劇 『昔の女』 を見るはずであった。 私は演劇にはうとい人間だが、独文学会のメーリングリストを通して情報提供があったので、上京時期とうまく合うこともあり、見てみようかと考えた。 

 ところが、である。 開演30分前の午後1時30分に会場の新国立劇場・小劇場に行ってみたら、すでに満席で予約キャンセル待ちだという。 えっ、現代ドイツ演劇ってそんなに人気があるの!?とびっくりしてしまう。 ドイツ文学なんて日本では売れないものの代表格だから、当日券でらくらく入れるだろうと思っていたのは、とんでもない誤りだったのだ。

 仕方なく予約キャンセル待ちの列に並ぶ。 私の前に10人がいる。 つまり私は11人目である。 私のすぐ前にいるおじさん――といっても40代くらいで私より年下だと思うけど――はぱりっとした背広姿で、上着の胸ポケットからは上等そうなハンカチがちょっとのぞいている。 こういう場には慣れているらしく、「チケット求む」 と書かれた紙を掲げているが、やってくる客で応じる人はいない。 おしゃべり好きのようで、「私はオペラ専門で演劇はあまり見ないんですが、演劇っていつもこんなに混むんですか?」 などと前に並んでいる若者に話しかけたり、後ろにいる私にも 「演劇ってそんなに面白いんですか?」 などと訊いてくる。 面白いか面白くないか、見てみないとなんとも言えないんじゃないかな。 かと思うと、上着の裾のポケットに手を突っ込んで折り畳んだ福沢諭吉を出して持ち金を確認したりしている。 映画だと上着のポケットから札を出して飲み屋の勘定を支払ったりするシーンがよく出てくるけれど、実際にあそこにカネを入れている人もいるんだな、と感心する。 ちなみに私はかならず財布に入れておく主義である。

 開演15分前くらいから、ぽつりぽつりと予約キャンセルが出始めたが、結局9人止まりだった。 つまりくだんのおじさんの直前までは入れたが、おじさんと私は涙を飲んだというわけ。 「あさっての分はまだ満席になっていませんから、今から予約されては」 と係りの人は言うけれど、あさっては私はもう東京にいないんだってば。

 昨年も、予約なしで新国の 『リゴレット』 を見ようとして見損ねたけれど、どうも新国立劇場は私にとっては鬼門らしい。 予約しないと入れない場所、という意味で。

 仕方がないので、『ぴあ』 で調べて、時間的にちょうどいい映画ということで下高井戸まで 『ラースと、その彼女』 を見に行く。 映画の感想は映画評のページに譲るとして、映画の後、少し時間があったので下高井戸駅前をぶらついてみる。 この先の桜上水は、むかし友人が住んでいたので何度か行ったことがあるが、下高井戸で降りたのは初めてである。 狭い路地に商店街が続いている。 古本屋でもあれば入るんだが、と思っていたら、一軒あった。 こういうところで、さすが東京だなと思う。 せっかく入ったので、というわけでもないが、1冊買う。

 それから新国立劇場に戻り、午後6時30分からのワーグナー 『ラインの黄金』 を見る。 言わずと知れた 『ニーベルングの指環』 の前夜劇。 今まで一度も実演を見たことがなかったので、やはり一回くらい、と思って見てみたもの。 座席はAランクで2階3列目右寄り。 しっかし、Aランクでも21000円という価格には泣けてくる。 それも新演出ではなく、数年前にやったものの再演なのに。 本当はBランクにしたかったのであるが、チケットを購入した時点でこれ以下の席は売り切れだったのである。 パンフも、以前の新国は 800円だったはずだが、いつのまにか千円になっていた。

 余談だが、劇場入口のところで新国の演奏者労組の方からビラをもらった。 不当に解雇された歌手の方がいて裁判になっているとのこと。 新国の声楽陣は人の出入りが激しく、少し前にやった 『こうもり』 では、舞踏会シーンでダンスをすべきその他大勢が適当に体を動かすだけでごまかしていた、これも理事会側が人員を過度に入れ替えていて充分な練習ができないためだ、との指摘がなされていた。 新国の運営については、監督の人選についても色々言われているのは周知のとおりだけれど、現場で上演を支えている人たちの待遇についても問題があるようで、「蟹工船」 とは実は新国のことだった、などと言われないようにと祈るばかりである。

 話を戻して、指揮はダン・エッティンガー、ヴォータンはユッカ・ラジライネン、ローゲはトーマス・ズンネガルド、アルベリヒはユルゲン・リン、フリッカはエレナ・ツィトコーワ。 演奏は東京フィルハーモニー交響楽団。

 最初のライン川の黄金の場面では舞台に映画館が出てきて、スクリーンにライン川らしい水の映像が映され、それを黄金を守る三人の乙女とアリベリヒが眺めているところから始まる。 乙女たちとアリベリヒの卑猥な鬼ごっこも、座席内で行われる。 というわけで、神々の物語らしい崇高さとか重々しさは全然感じられない。 次のヴォータンの住処の場面では、一応周囲に宇宙空間的な模様が入っているので多少神話らしくなるが、登場人物の服装はきわめて現代的だし、やはり 「神々の抗争」 というよりは、「ヤクザの仁義なき戦い」 といった感じ。 もっともこの物語、そもそも神様のお話的な崇高さとは程遠く、エゴと裏切りの連続だから、これでいいのかもしれないが。

 歌手は粒ぞろいで、特に不満を覚えるような人はいなかった。 それでも2時間40分間途中休憩なしですわりっぱなしだと尻が痛くなってくる。 新国の座席、もう少し上等な椅子にしてくれないかなあ。 Aランク席で2万円以上もとるんだし。 新潟市の映画館ユナイテッドシネマの椅子を見習ってほしい (笑)。 

3月17日(火)      *ルーヴル美術館展

 上野の国立西洋美術館でやっているルーブル美術館展にでかける。 平日だけど猛烈に混んでいる。 嗚呼!

 ルーヴル美術館といっても所蔵している絵画の点数は万を数えるわけで、今回は17世紀のヨーロッパ絵画というテーマで選ばれた作品で構成された展覧会である。 科学的な発見、大航海によって流れ込んでくる珍しい品々、社会の格差、などの時代性が絵画にどのように反映しているか、という問題意識が根底にある。

 なるほどとは思うのだが、美術の美術たる所以はどこにあるのか。 時代性の反映にあるのか、独立した美――なんて言い方は今どき流行らないかもしれなけれど――にあるのか、どうなのだろう。 もっとも、こういう問題は文学や音楽にもあり、特に文学は言葉によって作られているからどうしても社会性から逃れられない部分が残るのだが、美術もそういうものなのだろうか、と感慨を新たにした――と、ちょっと大袈裟に書いてみました。

 でも、クロード・ロランの 「理想的な景観」 も、画家の名前は忘れたけれど貧しい人を描いた社会性の強い絵画も、一緒くたにしてしまえるのだから、時代性って概念も結構いい加減だと思うんですけどね。

3月16日(月)      *読売日本交響楽団第480回定期演奏会

 午前中から夕方近くまで国立国会図書館で調べものをする。 そのあと、映画を1本見てから、午後7時からサントリーホールで標記の演奏会を聴く。

 曲はベートーヴェンの 「ミサ・ソレムニス」。 指揮はスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、ソプラノがインドラ・トーマス、アルトがシャルロット・ヘルカント、テノールがロイ・コーネリアス・スミス、バスがジェームズ・ラザフォード、合唱は新国立劇場合唱団。 コンサートマスターは藤原浜雄。

 指揮者と曲目のせいか満席に近い入りで、私が上京1週間前くらいに予約したらAランク席しか残っていなかった。 2階正面の最後尾近く。 ただし左右で言うと中央で、指揮者がほぼ真向かいに見える位置。

 この曲、生で聴くのは今回が初めて。 地方都市にいるとめったに聴けない曲だから。 演奏はなかなか気合いが入っており、技術的にはほとんど問題がなかったと思う。 ソリストではアルトのヘルカントの威厳ある美声 (という印象だった) が特に記憶に残った。 サンクトゥスでの藤原浜雄のヴァイオリン独奏も見事。

 しかし、この曲、ディスクでは何回も聴いているのだが、私にはいまだによく分からない曲でもある。 サンクトゥスなど、部分的には素晴らしいと思えるところが多々あるけれど、全体としてのまとまり、部分ごとの色合いというか 「ここがこうなるのは当然」 というような感触が、まあ私にはミサ曲自体がよく分かっていないということも大きいのだろうが、腑に落ちるところまで行っていない。 生で聴いて分かるようになるかな、と思っていたのだが、なかなかそう簡単にはいかなかった。 次はいつ生で聴けるかなあ・・・・。

3月15日(日)      *不便になった『ぴあ』

 上京する。 それで、昨日 『ぴあ(首都圏版)』 を久しぶりに買ったら、以前と比べて格段に使えなくなっていて、これじゃ廃刊も近いんじゃないかと危惧してしまう。 『諸君!』 の次は 『ぴあ』 かもしれない。

 まず、週刊だったのが隔週刊に変わっていること。 これはこの雑誌の売り物であるはずの、映画館ごとの上映作品及びその開始時刻を知るという観点からすると、致命的とも言える変更だと思う。 つまり、雑誌が出た1週目はいいけれど、2週目になると未定の部分が多くて、役に立たないからだ。

 たしかに、週刊になる前、『ぴあ』 は長らく隔週刊であった。 しかしそれは時代がまだゆっくりしていたから通用していたに過ぎない。 当時は2週間先でも大部分の映画館は上映作品と上映時刻を決めていたからだ。 しかし今は世知辛い世の中で、映画館も細かく上映作品や上映時刻の変更を行っている。 新潟市ですら、シネコン4館は週単位でプログラムを決めており、翌週のプログラムを発表するのは水曜日前後である。 2週間後のプログラムまで事前に発表しているのはミニシアターのシネ・ウインドしかない。 まして人の流れの変化が激しい首都圏では、今どき2週間あとまでプログラムが分かること自体が奇蹟と言っていいくらいだろう。

 不便なのはそれだけではない。 映画館の位置を示す地図がなくなった。 むかし、週刊になる前に隔週刊だった頃の 『ぴあ』 は映画館ごとに位置を略図で示してあって、きわめて便利にできていた。 週刊になってそれがなくなったが、それでも銀座や新宿や渋谷といった主たる盛り場の地図は掲載していたから、おおかたの映画館の位置を知るのには問題はなかった。 ところが今回買ってみたらいかなる地図も載っておらず、映画館の位置を知ることが雑誌ではできなくなっている。

 映画館の位置なんてそうそう変わるものじゃなし、と言う人もいるだろうが、実は映画館の名称は激しく変わっているというのが実態なのである。 例えば上京すると必ずと言っていいほど行く日比谷のシャンテシネが、今回行ってみたら 「TOHOシネマズシャンテ」 という名に変わってしまっていた。 いや、これはまだ 「シャンテ」 という部分がそのまま残っているから分かるのだが、渋谷ではシネ・アミューズとかアミューズCQNだとかの映画館名がなくなり、まるっきり別名に変わってしまった。 住所やビルの名前だけ示されてもどの当たりなのか見当がつかないのである。

 なくなったのは映画館の地図ばかりではない。 JRと私鉄の路線図もなくなった。 あれ、結構便利だったのだけれどね。

 これもインターネットの普及で、ケータイで分かるようになっている部分が多いからということなのだろうが、世の中には私のようにケータイを持たない人間だっているのである。 それに、2ページ分をばっと広げると新宿や渋谷や銀座といった盛り場ごとの映画館と上映作品と上映時刻が一気に閲覧できる、という雑誌の持つ優位はいまだに失われていない。 インターネットでは、少なくとも現在はこういうわけにはいかない。 映画館ごとにサイトを見ないと作品も時刻も分からないから、何をどこで何時に見るか決めるのにものすごく時間を食うのである。

 『ぴあ』 を出している人たち、もし廃刊するつもりがないなら、上で私が書いたことを読んで再検討をお願いします。

3月13日(金)      *五十代半ばの日本人男性は1年で1パーセント以上死ぬ

 昨日、私が出た高校から同窓会報が送られてきたので、ちょっと意外。 意外というのは、ここ2、3年送られてきていなかったからである。 もともと、卒業してからしばらくは全然送られてこず、それが40歳くらいになったら突然毎年送られてくるようになった。 何でも、住居が落ち着く年齢にならないと送らないことになっているそうなのだ。

 ところがその後は毎年送られてきていたものが、ここ2、3年はなぜかストップしていた。 もしかすると会報代を納入していなかったからかも知れない。 送られてくると 「会報代金三千円をお納め下さい」 と書いてあるのだが、タブロイド版8ページしかない会報に三千円も払う気にはなれない。 五百円というなら分かりますけど。 というわけで、たしか十年近く前に一度だけ三千円を納めたにすぎない。 それがなぜか今年はまた送られてきたわけである。

 といっても、読むところはあまりない。 まず、死亡欄。 見ると私と同学年の人間は5人が死んでいる。 1学年500人だったから1パーセントである。 その前後、つまり1年先輩と1年後輩はどうかというと、どちらも8名が死んでいる。 1,6パーセントである。 五十代半ばの男は――私の出たのは県立男子校。ただし数年前から共学になっている――1年に1パーセント以上死ぬ、ということである。 明日は我が身なのだ。

 知った人間では私と同学年のMT君が亡くなっている。 1年の時に同じクラスで席がすぐ近くだったので話をする機会はよくあった。 もっとも彼は物事を実利でしか見ない人間で、こういう人間とはあまり親しくはなれないものである。 といって仲が悪かったわけでもない。 自分とかけ離れた気質の人間とは、ケンカだってできないからだ。 親に言われたからという理由で医者になったはずだが、医者の不養生だったのかどうか、五十代半ばでお陀仏となったわけだ。 

 上に会報代のことを書いたが、納入者の名前も載っている。 見ると私と同学年では3人しか納めていない。 死亡率より低いパーセンテージだ。 そのなかでSS君の名が目立つ。 私の記憶が正しければ、彼は毎年納入しているからだ。 真面目な人なのである。 彼も1年次に同じクラスだったので多少知っているが、テニスが得意で、1年次には県の新人戦で優勝している。 お父さんは開業医で、彼が硬式テニスを趣味としていたのはそのせいもあっただろう。 私の中高時代、テニスといっても学校のクラブではペコペコしたボールでやる軟式が主流で、硬式のできる中高生は少なかった。 要するに恵まれた環境で育った人なのだ。 そして彼も医者になり、お父さんとは別の場所で開業しているはずである。 体が大きく丈夫そうだが、物腰はたいへん柔らかな人だから、多分患者に慕われるお医者さんになっているのではないかと想像する。 

 そのほか見るところと言ったら大学進学実績だが、私の時代と比べると格段に落ちている。 私のころだと、東大10人前後、東北大20〜30人くらいがふつうだったけど、昨今では東大が1〜2人、東北大も20人以下である。 共学になって、理論的には成績トップクラスの女子も入ってくるようになったから進学実績は上がっていないといけないはずだが、実際には逆になっている。 むかしと比べると地方都市の進学校の進学実績は全国的に低下気味のようだが、私の母校はそのなかでもひどいほうではないかしらん。 困ったことである。 

3月12日(木)      *左利きの割合は?

 本日は後期入試の監督である。 前期入試は監督に当たらなかったので。 

 入試監督については色々言いたいこともあるのだが、書くと差し障りがあったりするので、差し障りのなさそうなことを書く。

 後期入試なので欠席者が多い。 試験室によっても異なるが、私の監督した部屋は欠席率が高く、6割を越えた。 室内には26人の受験生がいるだけ。

 真剣に問題に取り組んでいる受験生をつらつら眺めていたら、左利きが目立つことに気づいた。 数えてみたら4人が左利きなのである。

 しかし左利きの人間がどの程度の割合で現れるのかは知らなかったので、あとでウィキペディアで調べてみたら、8〜15%の割合であらわれると書かれていた。 とすると、26人の受験生中4人が左利きでも、多いというほどではないわけだ。 ちなみに私には3人子供がいるけど、うち1人は左利きである。

 人畜無害なことを書いてしまいました。 当サイトの表紙の記述に反しますね。 すみません。

3月11日(水)      *ウィーン放送交響楽団演奏会

 夜7時から標記の演奏会を聴く。 りゅーとぴあコンサートホール。 県民会館大ホールでも6時半から催し物があるというので早めに出かけたが、6時10分頃に着いてみたら空いている駐車場は陸上競技場のみ。 それも、私が入ったときは満車に近い状態だった。

 指揮は、昨年の東響新潟定期でも振ったドミトリ・キタエンコ。 プログラムは、ウェーバーの 「オベロン」 序曲、ベートーヴェンの交響曲第5番、ブラームスの交響曲第1番。 オーソドックスなドイツ・プログラムである。

 座席は3階HブロックのGブロック寄り。 Aランクで11000円。 私はふだん東響定期をGブロックで聴いているので、比較の意味で近い場所を選んでみたもの。

 客の入りが良くない。 びっくりしたのは、ふつうSランク席だと真っ先に選ばれる2階Cブロックが前寄りの3列ほどを除くと閑散としていたこと。 さらに1階は中央部分はまあまあの入りだが、右と左は空席がほとんど。 一方、舞台を囲む2階のAブロック、Fブロック、Pブロックはかなり埋まっている。 安い席の入りがいいということは不況のせいか、或いは東響新潟定期の料金と比較して決めたのか分からないが――今回はB席でも7000円で、これは東響新潟定期ならS席相当――Sランク席の選ばれ方からすると、チケットの売り方に問題があったか、日頃の東響新潟定期の客とは層が違っていたか、どちらかではないか。 もっとも、客のマナーは悪くなかったと思うが。 全体として、6割入っていたかどうか。

 さて、昨年の東響新潟定期でのキタエンコは――あくまで私の個人的な判断だが――必ずしもノリのいい演奏ではなかったので、期待半分、不安半分といったところだった。 コンマスは若いすらりとした女性でブルネットの髪をポニーテールにしている。 パンフを買わなかったので名前は分からない。 パンフも5百円くらいなら買う気も起きるが、千円もするんじゃ買う気になれない。 興行元には考えてほしい。 パンフなんて、楽団員名と日本公演の公演地とプログラムを載せればいいのだから、千円も取るのは不遜だということに気づいてもらいたいもの。 変わった曲を取り上げるなら曲目解説も必要だろうが、今回のような場合は不要。 それで何で千円もするのか分からない。

 閑話休題。 最初の 「オベロン」 序曲で 「おっ、これは行けるかな」 という気がした。 特に後半の弦の、力を秘めた伸びやかさがすばらしい。 管楽器もウィーン風というのか、東京交響楽団とはひと味違ったひなびた響きで魅力的。 この調子で行って欲しいと思った。

 しかし次のベートーヴェンはイマイチ。 特に最初の2つの楽章は乗れていなかった。 最初の有名な動機は、非常に短く切り上げている。 それが畳みかけるような表現につながっていけばそれなりなのだろうが、どうもそうではなく、昨年のキタエンコを想起せざるを得ない。 それでも後半の2つの楽章は調子も出てきたのかそう悪くはなかった。

 後半のブラームス。 これはベートーヴェンよりずっと良かった。 「オベロン」 序曲で感じられたような力を秘めた伸びやかさがみなぎっていて、このオケ、こういう風な演奏だと力を発揮するようにできているんじゃないか、と思う。 第二楽章など、弦の美しさがすばらしくてうっとりしてしまったが、木管がヨロヨロしてしていたのが玉に瑕。 でもコンサートミストレスのソロがとてもきれい。 全曲を通して見ると惜しかったのは第4楽章の前半だろうか。 ここがなぜかちょっと乗りが悪くて前半のベートーヴェンを想起させてしまったのだが、後半は立ち直って盛り上げて終わった。

 この日、私は塾通いの娘をクルマで迎えに行くことになっていたので、残念ながらアンコールは聴かずにホールを後にしたが、全体として満足のいくコンサートだったと思う。 客の入りがもう少し良ければ、演奏する側ももっと気合いが入ったかも。

3月8日(日)      *最近聴いたCD

 *Mendelssohn: Music for Organ, John Scott (Hyperion, CDD22029, 1990年録音, 1997年発売、英国盤)

 昨年9月にベルリンに行ったとき、コンサートホールでオルガンリサイタルを聴く機会があった。 そこでプログラムのメインになっていたのがメンデルスゾーンのオルガンソナタ2曲であった。 それで、昨年末にHMVからメンデルスゾーンのオルガン音楽を収録した2枚組CDを購入した。 ここにはオルガンソナタ全6曲のほか、「プレリュードとフーガ」 全3曲、そしてその他の小曲が7曲収められている。 バッハなどの伝統をふまえたうえで、メンデルスゾーンらしい甘い、或いは清新なメロディアスな味わいもあって、魅力的なアルバムとなっている。 オルガニストはジョン・スコット、オルガンは聖ポール寺院 (St. Paul's Cathedral) のオルガン。

 *Anne-Sophie Mutter: The Berlin Recital  (Deutsche Grammophon, 445 826-2, 1995年録音、1996年発売、ドイツ盤)

 現代ドイツを代表するヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターが1995年9月にベルリンで行ったリサイタルのCDである。 ただし、拍手や雑音が入っていないところを見ると実況録音ではなく、リサイタルと同じプログラムおよびアンコール曲をスタジオで録音したもののようだ。 曲目は、ブラームスのスケルツォ・ハ短調 (F.A.E.ソナタ)、ドビュッシーのソナタ、モーツァルトのソナタ・ホ短調、フランクのソナタ、ブラームスのハンガリー舞曲第2・5番、ドビュッシーの 「美しき晩」。 全体的にややゆっくりしたテンポでしっかり弾いているが、モーツァルトはいくら何でもゆっくりすぎて、この作曲家独特のテンポ感がなく、ちょっと問題だなと思う。 彼女がよく共演したカラヤンもモーツァルトはまったくダメだったことを想起してしまった。 逆によく曲の特徴を伝えていると思えたのはフランクで、丁寧に細部まで弾き込んでいる。 ピアノ伴奏はランベルト・オルキス。 yahooオークションにて最近購入。

3月4日(水)      *『諸君!』 休刊

 文芸春秋から出ているオピニオン誌 『諸君!』 が休刊になると、毎日新聞が報じた。 朝日新聞の 『論座』 や講談社の 『現代』 が休刊になってあまりたっていない時期の報道だけに、いわゆる総合雑誌やオピニオン雑誌はかなり部数が減っているのだなと改めて痛感する。

 ネットが発達しているからということもあるだろう。 しかしネット上で雑誌のような質の良い専門家の見解や論考が集中的に読める場所があるだろうか。 たしかに雑誌は編集者の目にとまらないと記事にならないし、いかに有能な編集者でも目の届く範囲は限られているから、ネット情報に負ける部分はあるだろうが、編集者の検分を経ないで世に出る情報にどの程度信頼がおけるかもまた分からないのだ。

 もっとも、最近のこの手の雑誌があまり面白くないのも確かである。 世の中、格差社会だとか学力低下だとか (私に言わせれば) デタラメな大学改革だとか問題は山積されていると思うのだが、あまり世人の興味をそそらないみたい。 いや、格差だとか学力低下はまだ自分や自分の子供の将来に関係するからいいが、大学内部がどうなっているかなんてことは、大学内部で何を学ぶかが大事だとは思われていないから、全然世論に影響を与えない。 だからこそエリートがちゃんと問題にしなきゃと思うのであるが、私の見るところ、保守系の総合誌やオピニオン誌はそういう方面にまったくといっていいほど興味を示さない。 要するに取り上げても雑誌が売れないからであろう。

 といって 『世界』 『情況』 などの左翼陣営も、多分同様の理由からであろう、ほとんど触れようとしないテイタラクなのである。 

 中間派の 『中央公論』 は今年2月号でちょっとだけ取り上げているけれど、文字どおりちょっとだけ、なのだ。

 これでこの先どうなるのかなあ。

3月2日(月)      *博士号審査のむずかしさ

 本日は午前中1つ、午後2つの教授会があって、ほとんど自分の仕事ができなかった。

 特に午後の博士号審査の教授会 (人文・法・経済合同) が長引いた。 教授会で指導教員が論文の内容を説明した上で、出席者全員で投票して過半数をとらないと学位が承認されない。 真面目な (?)私は、自分が指導した院生がゼロであるにもかかわらずきちんと出席したのだが、真面目でない教員も少なからずいるので、なかなか定足数に達しなかったりする。 すると教授会の開始時刻が遅延してしまう。

 それと、論文の内容について異議が出されて長引くこともある。 これにはいくつか理由があるが、一番問題なのは、外国人の大学院生が自分の出身地やその周辺のことをテーマにして論文を書くケースである。 日本人の指導教員は必ずしも外国人大学院生の出身地域の諸事情をよく知っているわけではない。 だいたい、外国人が日本の大学に留学して博士論文を書くなら、日本のこととか、最低自分の出身地とは離れた地域の事柄をテーマにすべきだと私は思うのだが、必ずしもそうなっていない。 要するに 「外国に留学して博士号をとりました」 という体裁を整えたいためにやってくる外国人院生が一定数いるということだ。 自分の出身地域の事柄をテーマにするなら留学なんてしなくてもよさそうなのに――これは日本でも同じだけど――「留学して博士号」 ということにすればステイタスが上がるので、そういう人たちのために日本人の教授たちは四苦八苦する羽目になるのである。

 私は幸いにして今までそういう大学院生をあずかったことがないし、そもそも修士課程でも院生の主指導教員になったことがないので、自分の時間がそれなりに取れて満足していたのであるが――大学院生の主指導をやるというと世間的には立派に見えるかも知れないが、時間がとられて自分のやりたいことがやれなくなるから、まっぴらと思っている教員が多いのです――実は来年度から大学院の組織に変化があり、もしかすると院生の主指導をやらされる可能性もなしとしない――もっとも院生主指導は仲間の多い人間がやるもので、私はそうではないから、大丈夫である可能性も高いけど。 その点については、いずれまた稿を改めてということで。

3月1日(日)      *東京交響楽団第52回新潟定期演奏会

 本日は、午後5時からりゅーとぴあで標記の演奏会を聴く。

 それに先だって午後3時過ぎにCDショップ 「コンチェルト」 に寄ったら、東京交響楽団のコンサートミストレスである大谷康子さんが来店されていた。 大谷さんは以前にもこの店でお姿を拝見したことがある。 どうやら新潟定期のある日にはここに立ち寄られる習慣になっているみたい。

 私はこないだ山本真希さんのオルガンリサイタルを聴いて以来スペインのオルガン音楽を勉強しようと思っていたので、その方面のCDがないかとコンチェルト2号さんに尋ねてみたが、あいにく売り切れとのことであった。 山本さんご自身がこの店でスペインのオルガン音楽のCDを買っていかれたそうで、それで品切れになったらしい。 うーん、こうなるとCDも演奏家と聴衆の奪い合い(?)ってことですかね(笑)。

 でもせっかく来たのだし、東京新潟定期の日はCDが1割引になるということもあるので、ナクソスから出ているシューベルト・ドイツ語歌曲全集の中から、「ヨーロッパの詩人による歌曲集」 全3枚を購入した。 これはドイツ語圏以外のヨーロッパの詩でドイツ語に翻訳されたものにシューベルトが歌を付けた曲を集成したCDである。 例えば有名な”アヴェ・マリア”は、英国詩人ウォルター・スコットの詩によっている。 

 閑話休題。 本日は大友直人指揮、チェロ独奏がピーター・ウィスペルウェイで、オール・エルガー・プログラム。 前半が 「威風堂々」 第2番とチェロ協奏曲、後半が演奏会用序曲 「南国にて(アラッシオ)」 と 「威風堂々」 第1番。 アンコールとして、協奏曲の後でウィスペルウェイがバッハの無伴奏チェロ組曲第1番から第4楽章サラバンド、そして後半最後に大谷康子さんのヴァイオリン独奏とバックの共演で 「愛のあいさつ」。

 この日の聴きものは何と言ってもチェロ協奏曲だった。 ウィスペルウェイの朗々とよく響くチェロの音には、最初聴いた瞬間にはっとさせられた。 中低音が豊かで、なおかつ高音もよく通る。 弦楽器の音は演奏者個人の資質によって大きく左右されるけれど、こういう音を出せるということはチェロを弾くために生まれたきた人だということなのであろう。 アンコールも、急がず悠々と音を響かせていて、リサイタルも聴いてみたいなと思わせられた。

 後半のアンコールとしてに大谷さんが独奏部分を弾いて 「愛のあいさつ」 でしめくくったのも良かった。 私は、エルガーの傑作というと弦楽器のための2つの協奏曲(チェロ、ヴァイオリン)だと思っているのだけれど、そのチェロとヴァイオリンの独奏がエルガーの美質を浮き上がらせていた。

 ちなみにプログラムに載っていたエルガーの生涯も興味深い。 私はエルガーの伝記については全然知識がなかったが、彼は 「中の下」 の階級の出身で、学歴は中学どまり。 宗教もカトリックで、国教会が主流の英国内では差別されがちな存在であった。 実家が楽器店で、店を手伝いながらピアノやヴァイオリンを教え、作曲は独学で身につけたという。 そのピアノの弟子だった女性と結婚。 彼女は将軍の娘で、つまり階級的に見て夫より明らかに上、しかもエルガーより9歳年上ということで周囲からは猛反対されたけれど、それを押し切っての結婚だったという。 エルガーが作曲家として認められるに至ったのは、教養豊かで上流とのコネクションも持つ妻の助力によるところが大きかったらしい。

 やがてエルガーは様々な栄誉に包まれるのだが――英国は階級国家であり、また叙勲国家でもある――妻に先だたれると作曲もできなくなってしまったという。 いい奥さんを得ると男も仕事ができる、という好例でしょうか。

2月28日(土)      *産経新聞のコラム 「断」 が終了

 春で、新聞も紙面を改定するようだ。 産経新聞は長らく続いていたコラム 「断」 を終わらせた。 作家・中村文則のコラムが最後になった。

 コラム 「断」 は、むかし産経新聞の名物コラムだった 「斜断機」 の続編的な性格を持っていた。 「斜断機」 は、匿名コラムだけれど、後から判明したところでは呉智英や小浜逸郎が書いていて、何回分かまとめて単行本としても出されるなど、面白さで際だっていた。

 それは執筆者の力量のためだけではなかったと思う。 ジャーナリズムやアカデミズムの左翼的体質の限界が誰の目にもはっきり見えるようになってきていた1990年頃の知的雰囲気をうまくすくい上げたコラムであったからだ。 また当時はコラムというものが新鮮で、コラムニストと名乗る――山崎浩一など――人が少なからず存在した時代でもあった。 長々とした何ページにも渡る論考で何事かを説明するのではなく、短い字数で寸鉄人を刺すように、或いは物事の一面を――必ずしも全体との関係を詰めることなく――指し示すコラムの性格が受け入れられやすい時代だったということだろう。

 やがて 「斜断機」 は終わり、少し後に今度は署名入りのコラムとして 「断」 が登場した。 途中で何度か執筆者の入れ替えがあったが、「斜断機」 と違って単行本になることもなく、結局は今回の紙面改定で消えることになったのは、コラムというものが成り立ちにくくなってきた時代だからだろう。

 実際、最後を飾った(?)中村文則は2年半も書いていたそうだが――最後のコラムでそう述べている――私は彼の文章を面白いと思ったことがほとんどない。 以前、佐伯順子だとか井口優子だとかの女性執筆陣の質の低さをここで批判したこともある。 といっても面白い執筆者が皆無だったわけでもなく、久坂部羊は医師としての専門的な立場からの発言が多く、「なるほど」 と思わせられたし、女性陣では漫画家・さかもと未明の文章に力があった。 

 しかし、いったん執筆陣からはずれた潮匡人や大月隆寛が復活したあたりから、このコラムの寿命は見え始めていたのかもしれない。 彼らの左翼叩きは、ある時代には新鮮だったが、左翼の勢力が退潮しきった現代においては魅力を欠いている。 そしてそれに代わる何かは見えていない。

 私からすると、コラムの評論家的な性格が寿命を迎えているのだと思う。 そういうものはネット上でいくらでも読めるし、飽きられてもいる。 今新聞が掲載すべきなのは、評論家ではなく専門家の文章だろう。 ネットに押されて新聞というメディアが退潮しつつあるとされる時代、ネットとの戦争に勝つためにも新聞は専門家に発言の場を積極的に提供してほしい。

(追記: その後、3月に入ってから産経新聞は 「断層」 というコラムをスタートさせた。 斜断機 → 断 → 断層、という流れか。 しかし、平日は毎日掲載されていた 「断」 に比べ 「断層」 は週1回程度の掲載のようで、あまり重視されていないな、という印象。 おまけに執筆者は大月隆寛、潮匡人と、変わり映えしない。 新しいコラムをスタートさせるなら古い執筆陣は一掃しなきゃダメだと思うのだが、人材不足なのか、新人材を探す能力や意欲に欠けているせいか、旧態依然なのだ。 これじゃね・・・。)

2月26日(木)      *最近聴いたCD

 *ノスタルジア――チェコ・ヴァイオリン作品集 独奏=石川静 (Octavia Records, Japan, OVCL-00089, 2002年録音・発売)

 yahooオークションで入手した1枚。 収録作品は、ドヴォルザークの 「4つのロマンティックな小品」op.75、「ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ」op.100、スークの 「4つの小品」op.17、スメタナの 「わが故郷より」。 石川さんの演奏は清潔で、必要以上に力むことがなく、作品の内実をきっちり伝えていると思う。 なお知っている方も多いだろうが、3曲目のスークは、チェコの名ヴァイオリニストであるヨセフ・スークの同名の祖父で、ドヴォルザークの弟子だった人である。 ピアノ伴奏はクヴィータ・ビリンスカ。

 *シューベルト: シラー歌曲集第2集 (NAXOS、8.554741、2000年録音、2002年発売)

 以前、新潟市内のCDショップ 「コンチェルト」 で、ナクソスから出ている 「シューベルト: シラー歌曲集」 全4枚をまとめて購入したが、そのうちの1枚。 「人質D.246」、「ヘクトルの別れD.312」、「アマーリアD.195」、「タルタロスの群れ(第2作)D.583」、「あこがれ(第1作)D.52」、「あこがれ(第2作)D.636」、「巡礼D.794」、「騎士トッゲンブルクD.397」、「おとめの嘆き(第2作)D.191」、「異国から来たおとめ(第2作)D.252」、「エンマにD.113」、「4つの時代D.391」、「希望(第1作)D.251」、「希望(第2作)D.637」 の全14曲を収録。 歌はメゾソプラノのレギーナ・ヤコビ、ピアノはウルリヒ・アイゼンロール。 ヤコビの歌は、声が華やかすぎず歌曲向き。 私としては、「騎士トッゲンブルク」 が面白く聴けた。

2月22日(日)      *山本真希オルガンリサイタル第6回

 本日は午後3時から標記の音楽会に出かけた。 場所はりゅーとぴあコンサートホール。

 山本真希さんのオルガンリサイタルは毎回積極的なテーマ設定があって魅力的であるが、今回はスペインのオルガン音楽。 パンフを読んで意外に思ったのは、山本さんもスペインのオルガン音楽に取り組み始めたのはりゅーとぴあのオルガニストになってからだと書いてあったこと。 りゅーとぴあでのセア・ガラン氏のオルガン・リサイタルを聴いて目覚めたのだそうだ。 2006年5月の演奏会である。 なるほど、プロのオルガニストといっても最初から何でも知っているわけではないのだ。 考えてみれば当たり前なのであるが、絶えず勉強していく姿勢が大事だということであろう。

 本日のプログラムは、前半が、ホセ・ヒメネスの 「第6旋法のバッターリャ」、アントニオ・デ・カベソンの 「第4旋法のティエント」 「”戦士の歌”によるディフェレンシアス」、フランシスコ・コレア・デ・アラウホの 「第4旋法のティエント」 「第5旋法のティエント」 「分割鍵盤のための第10旋法のティエント」、アントニオ・コレア・ブラーガの 「第6旋法のバッターリャ」。 後半が、アギレラ・デ・エレディアの 「サルヴェ・レジーナ」、パブロ・ブルーナの 「第2旋法の過ったティエント」 「聖母の連祷によるティエント」、ホセ・リドンの 「エレヴァシオン――アレグロ」 「フーガ第6番”キリストの聖体祝日”のための讃歌」。 アンコールがホワン・カバニーリュスの 「イタリア風コレンテ」。

 瞑想的だったり、活気があったり、色々な音楽が次々と演奏された。 前半と後半のそれぞれのシメにはやはりそれなりに迫力のある音楽が選ばれていたようだ。 私が特に面白いと感じたのは、後半の3曲目と4曲目。 3曲目 (聖母の連祷によるティエント) は、前半が比喩的に言うと油絵の具を重ね塗りしているような印象で、後半が活気のある音楽で締めくくられる。 4曲目 (エヴァンシオン――アレグロ) は、前半が清澄な音楽で心惹かれ、後半は一転してエグい音の連続で、対照が見事であった。

 セア・ガラン氏のオルガンリサイタルは私も聴いており、その時はスペインのオルガン音楽を勉強しなくちゃと思ったのだけど、未だに果たせないでいる。 山本さんの今回のリサイタルを聴いて、またしても同じことを考えた。 今度こそ、ちゃんとやらなきゃあ。

 客の入りは、200人くらいか。 どうも本格的なオルガンリサイタルの場合、新潟市の固定客はこの程度みたい。

 山本さんの次のリサイタルは、6月6日(土)で、若いバッハを取り上げるようである。 またきっと聴きに行きますよ、山本さん!

2月18日(水)       *最近聴いたCD

 *GREAT PIANISTS 〔10人の偉大なピアニスト〕 (AURA MUSIC、224095、1999年発売、10枚組)

 新宿のディスク・ユニオンで、多分一昨年だったか、購入した10枚組のCD。 実は買った直後に最初の2枚ほどを聴いただけで、ずっと放置してきた。 最近、これではいけないと思い直し、クルマのステレオでかけるようにしたらあっという間に10枚がはけた。 有名なピアニスト10人の、イタリアの放送局によって実況録音された音源によるCDである。 バックハウスのみ2回の演奏会からの録音、それ以外の9人はすべて1回の演奏会の録音である。 収録された年代も、バックハウスの1953年からカニーノの1993年までかなり幅がある。 演奏はそれぞれに面白いが、例えばグルダが最初に弾いているハイドンの 「アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ」 を、恥ずかしながら私はこのCDで初めて知り、ハイドンにこんな佳曲があったのかと驚いた。 しかも、2枚目のバックハウスも同じ曲を弾いていて、テンポは――大方の予想通り――バックハウスのほうが速いのだが、だから抒情性で劣るかというと、必ずしもそうとは言えないところが音楽の持つ妙味だと思う。 私としてはグルダ、バックハウス、ゼルキンあたりの演奏が特に説得的だと思ったが、これは私がこれらの演奏家を聴いてクラシックのピアノ音楽体験を積んできたからかも知れない。 ギレリスも悪くないのだが、意外にテクニックに危なっかしいところがある。 亡くなる前年の演奏だからだろうか。 また最も若い演奏家であるカニーノがきわめてまっとうなバッハを弾いているのも貴重だろう。 私は残念ながらこの10人はいずれも生では聴いていない。 内容は以下のとおり。

(1)フリードリヒ・グルダ:(1968年) ハイドン「アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ」Hob.XVII-6、モーツァルト「ピアノソナタ第8番ハ短調K.310」、シューベルト「即興曲作品90」、ベートーヴェン「ピアノソナタ第21番”ワルトシュタイン”」
(2)ヴィルヘルム・バックハウス:(1953年、1960年) ハイドン「ピアノソナタ変ホ長調Hob.XVi-52」「アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニHob.XVII-6」「ファンタジア ハ長調Hob.XVii-4」、ベートーヴェン「ピアノソナタ第17番”テンペスト”」、ショパン「エチュード作品25から7曲」「夜想曲作品27-2」「ワルツ変ホ長調作品18」
(3)ルドルフ・ゼルキン:(1957年) シューベルト「即興曲作品142-4」、バッハ「カプリッチオBWV992」、ベートーヴェン「ピアノソナタ第23番”熱情”」、ブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ作品24」、メンデルスゾーン「ロンド・カプリチオーソ作品14」
(4)シューラ・チェルカスキー:(1963年) シューマン「ピアノソナタ第1番」、ベルク「ピアノソナタ第1番」、ドビュッシー「喜びの島」、ストラヴィンスキー「ペトルーシカからの3楽章」、プーランク「トッカータ」
(5)ラザール・ベルマン:(1989年) スクリャービン「ファンタジアロ短調作品28」、リスト「5つのシューベルトの編曲(アヴェ・マリア、糸を紡ぐグレートヒェン、若い修道女、手回しオルガン弾き、魔王)」、ラフマニノフ「楽興の時 作品16」、リスト「”詩的で宗教的な調べ”から”葬儀”」
(6)エミール・ギレリス:(1984年) D・スカルラッティ「”ソナタ”から7曲」、ドビュッシー「ピアノのために」、シューマン「交響的練習曲」
(7)ゲザ・アンダ:(1965年) ショパン「エチュード作品25」、シューマン「ダヴィッド同盟舞曲」、シューベルト「ピアノソナタ第13番ハ長調作品120」
(8)ヴィトルド・マルクジンスキー:(1963年) ブラームス「間奏曲作品118-6」「ラプソディ作品79-2」、ベートーヴェン「ピアノソナタ第23番”熱情”」、ショパン「夜想曲作品48-1」「バラード第3番」「マズルカ作品24-2、24-4」「スケルツォ作品第3番」「マズルカ作品67-4」「ワルツ作品70-1」「エチュード作品10-12”革命”」
(9)ジョルジュ・シフラ:(1963年) ショパン「幻想曲ヘ短調作品49」「スケルツォ第2番」「ピアノソナタ第2番」、リスト「スペイン・ラプソディー」「愛の夢第3番」「ポロネーズ第2番」「グランド・ギャロップ・クロマティク」「ハンガリー・ラプソディ第6番」
(10)ブルーノ・カニーノ:(1993年) バッハ「ゴルトベルク変奏曲」

2月17日(火)       *ドイツ語の 「詩」

 ドイツ語のDichtungという単語はやっかいである。 例えば文豪ゲーテに"Dichtung und Wahrheit"という自伝があって、ふつう 『詩と真実』 と訳されているのだが、だからDichtungを日本語の 「詩」 だと思うと間違える。 むしろ 「(純)文学」 と思っておいたほうがよい。 詩も含むけれど、それだけではなく、小説や戯曲をも含む概念なのである。

 同じようなことだが、同根のドイツ語Dichterも、ふつう 「詩人」 と訳されていて、ヘルマン・ヘッセにこのタイトルの短編があるが、日本語で言う詩人と同じだと思うと間違える。 やはり、詩ばかりでなく、小説や戯曲を書く人もDichterと呼ばれるのである。 ならば 「作家」 と訳せばいいじゃないかと思うだろうが、この単語はしばしば 「作家Schriftsteller」 と対比的に使われたりしたという事情があり、区別するために 「詩人」 という訳語が用いられてきたのである。 Schriftstellerのほうは、言うならば 「職業としての物書き」 といったところか。 露悪的に訳すなら 「売文業者」 となりかねない。 芸術的で高雅なニュアンスを持つDichterとは微妙に異なるのだ。 

 ドイツ文学者・高橋健二は 『ヘルマン・ヘッセ 危機の詩人』 なんてタイトルの本を出しているが、ここでの 「詩人」 もドイツ語のこういう事情をふまえた使い方なのであって、ヘッセは小説家というより詩人だ、と言いたいわけではない。 外国語ってのは、こういう具合に厄介なのだ。 だからこそ教養としてやったほうがいい、というのが私の意見。 最近の大学はそれとは逆方向に走っていますけれども。

2月15日(日)       *第19回にいがた国際映画祭開幕

 毎年2月に開催されている 「にいがた国際映画祭」。 今年は第19回目にあたるが、昨日から9日間の予定で始まった。 

 私も、昨日は忙しくて見に行く暇がなかったが、本日の夕方から何とか暇を作って行ってみた。 暇がないというのは、年度末の成績処理に追われているからである。 第2期の学生成績を決定して、今どきなので学務情報システムに入力しなけりゃならないのだが、延べで400人分あまりのレポートを読まねばならず、〆切が明日だというのに、まだ終了していないのである。 とほほ。

 というような状況なので、本日は新潟市民プラザでロシア映画 『戦争と平和』 の上映もあったのだが、上映時間7時間を越えるこの超大作を見に行っている余裕は残念ながらなかった。

 本日はそういうわけで、シネ・ウインドで韓国映画とスウェーデン映画を見るだけで済ませた。 映画の感想はこちらを見ていただくとして、韓国映画ではほぼ満員で、シネ・ウインドは座席が上等ではないのでかなり窮屈な思いをした。 

 私は以前から言っているのであるが、シネ・ウインドにはそれなりの良さがあるけれども、こういう市民多数を巻き込んでの催しには、狭いのと椅子が良くないのと2つの理由で向いていないと思う。 むしろ、以前映画館ピカデリーが入っていて現在は映像メディア専門学校となっている建物のほうが向いているのではないか。 広いし椅子も良いからだ。 また、あそこならもう一つの会場である市民プラザにも比較的近いから、会場を移動するのにも楽である。

 関係者にはご検討いただきたい。

2月14日(土)      *第4回新潟大学管弦楽団弦楽アンサンブルWarmusiker演奏会

 本日は標記の演奏会に行く。 今年に入ってからやっと2回目のコンサートだが、いずれも無料なので、私にぴったり (笑)。 開演ぎりぎりに会場に到着。 午後1時30分開演というと、昼食をとってから駆けつけてどうにか、という感じになってしまう。 できれば2時にしてもらいたいところ。

 さて、新潟大学管弦楽団の弦楽器奏者によるこのコンサート、今回のプログラムは、ヘンデルの合奏協奏曲第10番ニ長調HWV328、レスピーギのリュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲、ホルストのセントポール組曲op.29-2、ドヴォルザークの弦楽セレナーデop.22。

 最初は第1・第2ヴァイオリンが各5人、コントラバスが1人という小規模な編成から始まって、だんだん規模が大きくなっていき、最後のドヴォルザークではコントラバスが4人になった。 大きく見て、前半と後半とでメンバーが入れ替わったよう。 コンマスは1曲ごとに交代なので、計4人となる。

 東京交響楽団の定演もすっかり定着した新潟市。 それに慣れてしまうと、どうしてもアマチュアの弦楽合奏は粗さが感じられる。 それを気迫でカバーするわけだが、どちらかというと後半の2曲がよかったかな。 ホルストの曲は、私はディスクも持っておらず初めて聞いたのだが、結構面白い。 第4楽章などどこかで聞いたようなメロディーが出てくるなと思ってあとでパンフの解説を読んだら、グリーンスリーブスを用いていると書かれていた。 ドヴォルザークの曲は、奏者の数が最多だったこともあってか響きもそれなりに充実していて、悪くない出来だった。 もっとも私は響きにうっとりしたせいか眠気をもよおしてしまったが。

 客の入りは半分くらいだったか。 前回は音文でやって入りがかなり悪かったと記憶するが、もう少し宣伝をしっかりやって、なおかつ合奏の鍛錬も怠らすに、また来年につなげてほしいものだ。

2月10日(火)      *新潟市の映画上映事情は改善されていない

 以前にも同じようなことを書いたけど、あいかわらず改善されていないので、しつこく書く。

 新潟市は現在政令指定都市になっており、人口は80万人を数えている。 本州の北日本 (東京より北) では仙台に次ぐ都市である。 市内にはシネコン4軒とミニシアター系1軒があり、合計のスクリーン数は35に及ぶ。

 にもかかわらず、新潟市に来る映画は最大公約数的であり、邦画大手会社の作品とハリウッドの大作がメインであり、こうした映画はどのシネコンでも見られるのに、逆にそうした範疇に入らない映画はそもそも新潟市に来ないというケースが目立つのである。

 新潟は東京じゃないから、なんて言い訳は通用しない。 他の県庁所在都市との比較においてすら、新潟市の映画上映状況は劣っているのだ。

 最近の注目作で、新潟市に来なかったか今のところ来る予定がない映画作品を、東北6県・北陸3県・長野県の近隣10県との比較で見てみよう。 なお、来る来ないは作品サイトの上映情報によっている。

 これを見れば、新潟市の映画上映状況が仙台市 (宮城県) に大きく遅れをとっているだけでなく、他の東北5県や石川県や富山県に比べてもお寒いということが明瞭に分かるだろう。 関係者のいっそうの努力を希望したい。

 ・『永遠のこどもたち』 秋田、山形、宮城、石川で上映

 ・『BOY A』 青森、宮城、富山で上映

 ・『戦場のレクイエム』 青森、宮城で上映

 ・『ラースと、その彼女』 青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、長野で上映

 ・『そして、私たちは愛に帰る』 青森、秋田、宮城、富山、石川、長野で上映

 ・『ロルナの祈り』 宮城、石川で上映

 ・『悲夢』 青森、岩手、山形、宮城、福島、石川、福井で上映

 ・『大阪ハムレット』 宮城、富山で上映

 ・『エレジー』 宮城で上映

 ・『愛のむきだし』 青森、岩手、山形、宮城、福島で上映

 ・『英国王、給仕人に乾杯!』 宮城、富山で上映

 (追記: その後、『エレジー』 はワーナーマイカル新潟での上映が決まった。)

 (追記の追記: さらにその後、『ラースと、その彼女』 と 『大阪ハムレット』 はシネ・ウインドでの上映が決まった。)

 (追記その3: さらにその後、『英国王、給仕人に乾杯!』 もシネ・ウインドでの上映が決まった。 しかし東京から半年遅れとは・・・・)

2月8日(日)      *恋愛幻想を捨てなさい――見合い結婚の勧め、もしくは本日の産経新聞の記事

 最近の日本の少子化の一因として、そもそも結婚する男女が減っているから、ということが挙げられる。 ではなぜ結婚する男女が減っているのだろうか。 新自由主義の浸透で定職を得られない若者が増える一方で、定職を持つフェミニスト (女性) は自らの主張に反して専業主夫と結婚しようとしないから――この矛盾を衝いたのが『若者を見殺しにする国』で有名になった赤木智弘くんですね――という状況下で、結婚する男女が減っているのであろうと推測される。

 ヨーロッパだと、結婚しなくても子供を生んじゃう若い女性が多く、英国やフランスの少子化が日本ほどひどくないのはそのせいなのだが、これはこれで問題で、はたしてそれでちゃんとした育児が可能なのかどうか疑問が残る。 一方、日本は東方の君子国のせいか、結婚せずに出産する女性は少ない。

 それはそれとして、しかし、若者を結婚させる社会的な圧力が減っていることも大きいのではないか。 昔なら女性は25を過ぎると結婚が難しくなると言われていて――昔といっても私の学生時代(1970年代)はまだそんなことが言われていた――それが圧力になって婚姻数が維持されていたわけだが、そういう足かせがなくなり、なおかつ最近の親は子供をパラサイトシングルにしておいて全く恥じるところがなかったりするから、なおさら若者は結婚しないのである。 これも昔だったら、いい年して独身の子供がいつまでも自宅にいるというのは外聞の悪いもので、したがって親も必死に子供を結婚させようとしたのであったが。

 加えて、世話焼きおばさんが減っているのも原因だろう。 結婚というのは、ぼおっとしていてできるものではない。 単に偶然だけに頼っていては、いわゆる良縁にめぐりあえる可能性は低い。 あそこにこういう男性がいる、こちらにはこういう女性がいる、というような情報を流通させるお節介な大人の存在が欠かせないのである。

 ・・・・・・というようなことを最近の私はよく考えていたのだが、本日の産経新聞を見たら、「仕事人」 という日曜掲載のシリーズ記事で、「仲人・山田由美子(50) 少子化問題の”救世主”」 が目を惹いた。 関西で 「結婚相談所・お見合い塾」 を開いていて、日本仲人協会――なんてものがあるんですね――から11年連続で 「成婚最優秀賞」 を贈られたという凄腕(?)のおばさんである。 年間で20ないし30のカップルを成婚させるという。

 ご自分も一度結婚に失敗して、結婚相談所によって現在の夫君と出会い、その後大手結婚相談所に勤務したあと、自分なりのノウハウを活かした現在の相談所を立ち上げたという。 「会わずに後悔するより、会って後悔したほうがいい」 という山田さんの言葉は至言であろう。 (この記事、まだ産経新聞のウェブサイトに載っていないようなので、興味のある方は図書館などでお読みいただきたい。)

 私も年をとったせいか、最近酒席などで学生にこんなふうに言ったりするのである。 「見合いを嫌がってはいけませんよ。 現代の見合いは、単に出会いの機会を作っているに過ぎないんだから。 恋愛と見合いを対立させて考えるのは間違いです。 会ってみて、嫌なら断ればいいんだから、会うこと自体を嫌がるのはせっかくのチャンスを捨てるようなものです。」

 三島由紀夫には 『見合い結婚のすすめ』 という文章がある (三島の全集に収録されている) が、そこで三島は、見合いがいかに合理的で結婚のチャンスを広げるものであるかを説得的に説明している。 その三島自身が見合い結婚だったのだし、三島が嫌った太宰治も (最初の恋愛結婚が破綻した後) 見合い結婚をしているし、筒井康隆も見合い結婚なのである。 そして私だって見合い結婚である。

 若者よ、見合いで結婚のチャンスをつかみなさい。

2月6日(金)      *毎日映画コンクール――小池栄子と寺脇研

 毎日新聞の記事によると、毎日新聞主催の第63回毎日映画コンクールの授賞式が4日に行われた。 日本映画大賞が 『おくりびと』、日本映画優秀賞が 『ぐるりのこと。』、監督賞が若松孝二 (『実録・連合赤軍』)、主演男優章が阿部寛、主演女優賞が小池栄子。

 http://mainichi.jp/photo/news/20090205k0000m040067000c.html 

 http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/01/21/20090122k0000m040082000c.html 

 http://mainichi.jp/enta/cinema/mfa/news/20090204ddm010200118000c.html 

 なかなか見識のある選考だと思う。 『ぐるりのこと。』 が入っているのがいい。 大賞の 『おくりびと』 もいい作品だが、広末涼子の演技がよろしくないし、また彼女の役の脚本もよくないのが欠点だと思う。

 小池栄子が主演女優賞に選ばれたことも喜ばしい。 彼女が主演した 『接吻』 は、いくつかの欠点はあるけれど、よくできた作品で、小池栄子の演技によってそのテーマが実に見事に表現されていた。 未見の方はぜひご覧いただきたい。

 小池について選評を書いている寺脇研は、珍しくまともである。 ゆとり教育で悪名高い元文科省高級官僚で、どういうわけか私と同年齢であり、かねてから東大法学部卒のエリートのくせに出来が悪いなと思っていたのだが、そして彼は一応映画評論家ということにもなっていて、私は彼の映画論の本は読んだことがないが、以前毎日新聞で映画について語っているのを読んでたいしたことないなと思ったのだけれど、今回の選評は的確だった。  今後も精進して下さい。

2月5日(木)      *泡坂妻夫氏、死去

 推理作家の泡坂妻夫氏が一昨日亡くなった。 享年75歳。

 泡坂氏の推理小説は、きわめて斬新なアイデアが中核になっていて、昔は愛読したものである。 『11枚のとらんぷ』 などは、長篇のなかに、それとは別の推理短篇がタイトルどおりに11も組み込まれていて非常に贅沢な作りであり、しかもそれが全体の謎解きのヒントにもなっているという凝りよう。 短篇のシリーズ物では、亜愛一郎シリーズが短篇推理のお手本と言いたくなるような傑作を多く含んでいたし、美人奇術師が探偵役の曾我佳城シリーズも忘れがたい。

 しかし、私がもっとも愛読していたのは、短篇集 『ゆきなだれ』 のなかの 『闘柑』 という一篇である。 傑作だとは思わない。 誰でも知っているある小さな事柄から組み立てたらしい筋書きは、やや人工的な感じがして、いかにも作り物という印象である。 しかし、この作品が心に残るのは、恋愛結婚の否定という重いテーマを含んでいるからである。 興味のある方はお読みいただきたい。

 今は時間がないけれど、いつか暇ができたら、泡坂氏の推理小説をじっくり読み直してみたい。 謹んでご冥福をお祈り申し上げる。

2月4日(水)      *自称 「新潟大学准教授 あおやま・ゆうすけ」 氏にご注意!

 本日、教授会があった。 そこで、以前から一部でニュースネタになっている自称・新潟大学准教授氏に関する情報が提供された。

 これは、「新潟大学人文学部准教授 あおやま・ゆうすけ」 と名乗る中肉中背の男が、首都圏の某キリスト教センターにあらわれ、出張でこちらに来ているが財布を落としてしまって困っていると訴えてお金を借り出し、その後姿を消す、という事件が発端になっている。 某キリスト教センターが新潟大学に問い合わせて、新潟大学教職員には 「あおやま・ゆうすけ」 などという人物は存在しないことが分かって発覚したものである。 以下のリンクを参照されたい。

 http://ochanomizu.cc/ 

 http://www.niigata-u.ac.jp/gakugai/im/sunsyaku.html 

 本日の教授会で学部長からお話があったところでは、あおやま氏はその後も首都圏に出没して寸借詐欺をくりかえしており、少ない場合は数百円をだましとっているとのことである。 振り込め詐欺に比べると金額はわずかではあるが、このサイトを読んでおられる首都圏の方々はくれぐれも用心していただきたい。

 〔追記: その後、あおやま・ゆうすけ氏は 「新潟大准教授」 から 「新潟大教授」 に昇任して (?) 詐欺を繰り返していたが、5月1日に東京の某警察署に逮捕された。 40歳で、新潟大学とはいかなる関係も持たない(教員・職員でないのは勿論、卒業生でもない)人物だったそうである。〕

2月1日(日)      *バカの一つ覚え 「民営化」――竹中平蔵に呆れる

 昨日の産経新聞で竹中平蔵が加藤寛と対談をしている。 どちらも私のあまり好まない人たちであるが、その中で竹中が 「東大を民営化して世界でもベスト5に入る大学にすべきだ」 というようなことを言っていて、バカの一つ覚えだな、と呆れてしまった。

 この人、以前から同じような発言をしているのだが、自分の立場を考えればこんなことは言っていられないし、言えば矛盾になってしまうということに気づかないのだろうか? だとすればあんまり有能な人ではないということだろう。

 自分の立場とは何かと言えば、竹中氏が慶応大学教授だということだ。 慶応大学は民営である。 できたときからずっと民営である。 民営化すれば世界でベスト5の大学になるのなら、慶応こそがとっくにベスト5に入っていなければおかしいはずだし、そもそも自分が民営である慶応の教授なのだから、自分で慶応を世界のベスト5に入る大学にする義務があるはずだ。 「民営化=善」 という持論を証明するとはそういうことである。

 なのに、国立である東大を民営化すれば世界でベスト5になるというような発言を繰りかえししているのである。 そんな発言をする暇があったら、なぜ民営の慶応が世界でベスト5に入れないのかを研究しなさいって! 

 ちなみに、これは当サイトの 「読書月録2008年」 にも書いたけれど、昨年の 『現代思想9月号 特集=大学の困難』(青土社) に竹内淳 「日本の研究教育力の未来のために」 という文章が載っている。 トムソン・ロイターのデータベース"Essential Science Indicators"をもとに、1997-2007年の全理系分野での論文数によって世界の大学・研究機関をランク付けすると、日本では東大が6位に入るほか、京大・阪大・東北大・九大・名大・北大・東工大が100位以内に入るのだ。 そのあと、101位から200位までには筑波大と広島大が入る。 民営の慶応は200位以内にも入っていない。

 竹中氏よ、どうしてこうなるか、説明してください。

1月31日(土)        *ポッチャリーノ弦楽四重奏団演奏会――上々の船出

 夜7時から、だいしホールでポッチャリーノ弦楽四重奏団の演奏会を聴く。 なんと、2009年に入ってから初めての演奏会。 会場はほぼ満席。 入場無料ということもあるだろうが、やはりコンサートの少ないこの季節、生演奏会に飢えている新潟市民の気持ちが表れたものと受け取りたい。

 ポッチャリーノなんていうとイタリア語みたいだけど、そして私も最初にこの名を聴いたときには伊和辞典を引いてしまったのであるが、実はイタリア風味の日本語で、演奏者の身体がぽっちゃりしているから、というところから来た命名のようだ。 まあ、それでも日本人だから、本場 (?) イタリア人からすると標準的な体つきではないかと思うが。 過去に新潟大学管弦楽団コンマスを勤め、その後は新潟交響楽団やメモリアル・オーケストラで演奏するなど、いずれも新潟県内で活躍している弦楽器奏者によって新しく結成されたカルテット。 その第1回演奏会が今夜のこのコンサートなのだ。

 プログラムは、ショスタコーヴィチの第8番ハ短調、宮下秀樹の「楽園への歩み」(新作初演)、ベートーヴェンの第4番ハ短調。

 ちなみに宮下氏は新潟市出身、新潟大教育学部音楽科卒、東京学芸大大学院修了。 現在は中学教諭を勤めるかたわら、作曲などの音楽活動に従事。 第6回東京国際室内楽作曲コンクール入選ほかの受賞歴のある方である。

 さて、弦楽四重奏といえばアンサンブルと個人の力量の双方を要求されるジャンルだけにどうかなと思っていたのだけれど、息の良くあった演奏を聴かせてくれた。 船出としては上々の出来であろう。 宮下氏の新作もなかなか面白く聴けた。

 あえて注文をつけるなら、音色の統一感 (4人の音が総和となって迫ってくるような感じ) がもう少しあればと思ったのと、あとベートーヴェンでは解釈がちょっと丸まっているというか、例えば第一楽章の出だしなどがそうだが、曲が正面切って出てくるのではなくちょっと斜に構えて出てくるような印象があって、そのあたりにわずかながら違和感を感じた。

 アンコールに 「崖の上のポニョ」 と 「君といつまでも」(加山雄三) が演奏された。 後者は、演奏家と聴衆の関係がいつまでも続くようにとのメッセージをこめて選んだものだそうであるから、次回の演奏会も期待できそう。 イタリア風の名称の団体なので、今度はイタリアの作曲家の曲なんかどうでしょうね。 例えばヴェルディの弦楽四重奏曲だとか。

1月30日(金)       *最近聴いたCD

 *Historic Russian Archives "Loenid Kogan" Edition  (Brilliant, 93030, Recorded between 1947 and 1981)

 ブリリアントから10枚組で出ている 「レオニード・コーガン・エディション」。 ソ連の大ヴァイオリニストであるコーガンのライヴ・レコーディングを集めたもの。 レオニード・コーガンは、私が初めて生で聴いた世界的なヴァイオリニストである。 1972年か73年だったと思う、コーガンが仙台市の東北大学川内記念講堂で演奏会を開いたとき、後ろの方の安価な席ながら、私もチケットを買って聴きに行った。 プログラムにはベートーヴェンのソナタが2曲入っていたが、当時の私はベートーヴェンのヴァイオリンソナタというと有名な 「春」 と 「クロイツェル」 しか知らず、コーガンが取り上げたのはそのいずれでもなかったので、あまりぴんと来なかった。 何分後ろの方の席だし、また音楽専用ホールではなかったこともあって、音色が美しいと思った記憶もない。 ただ、コーガンがひどく律儀な表情でアンコール曲を弾いていたことを鮮明に覚えている。 コーガンは1924年生まれだから、当時はまだ50歳になっていなかった。 惜しいことに58歳で亡くなってしまい、再度ライヴで聴く機会がなかったのを残念に思う。 さて、10枚組の内容を以下に書いておこう。 多彩なレパートリーがうかがえる。 (4)のチャイコフスキーの協奏曲は、第1楽章で現在一般的に流布している版とは違う箇所があるし、(10)ではフランクのソナタを、ピアノ伴奏をオケに編曲した版で弾いているのが珍しい。 音は、全般的にややハイ上がりか。 昨年末にHMVから購入。
 (1)モーツァルト: 協奏曲第3番、バッハ: イ短調協奏曲BWV1041、同: ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタロ短調BWV1014、パガニーニ: 奇想曲第9・23番、エルンスト・ブロッホ: ニーグン
 (2)エディソン・デニソフ: ヴァイオリンと室内合奏団のためのパルティータ (バッハのパルティータ第2番ニ短調BWV1004による)、ショスタコーヴィチ: 協奏曲第1番、サン=サーンス: 序奏とロンド・カプリチオーソ
 (3)ベートーヴェン: ソナタ第9番 「クロイツェル」、同: ソナタ第10番
 (4)チャイコフスキー: 協奏曲、同: ワルツ・スケルツォop.34、同: 瞑想曲、ヴュータン: 協奏曲第5番
 (5)ショーソン: 詩曲、サラサーテ: カルメン幻想曲、ヴィエニアフスキ: 伝説op.17、バーバー: 協奏曲、モーツァルト: ヴァイオリンとオーケストラのためのアダージョK.261
 (6)ベートーヴェン: 協奏曲、クライスラー: ベートーヴェンのテーマによるロンディーノ、ビゼー/ワックスマン: カルメン幻想曲、マスネ: タイスの瞑想曲
 (7)ハチャトリアン: 協奏曲、同: ヴァイオリンとオーケストラのためのコンチェルト・ラプソディ、シマノフスキ: ノクターンとタランテラ (ヴァイオリンとピアノのための)
 (8)グリーグ: ソナタ第3番、同: ソナタ第1番、アルベニス: 「エル・プエルト」(「イベリア」より)、同: 「セヴィリア」(「スペイン組曲第1番」より)、ドビュッシー: 「我が心の涙」、ヴュータン: ロンディーノ、サラサーテ:マラゲーニャop.21
 (9)ラフマニノフ: ピアノ三重奏曲ニ短調op.9、ケレニコフ: 協奏曲第2番
 (10)フランク: ソナタイ長調 (ピアノ・パートをオーケストラに編曲した版)、シューベルト: 幻想曲ハ長調D.934、シューマン: 幻想曲ハ長調op.131

1月29日(木)      *平野早矢香さんの3連覇および5度目の優勝を記念して、ユニセフに寄付

 全日本卓球選手権女子シングルスで平野早矢香さんが優勝し、3連覇を果たすとともに5度目の女王の座についたことは1/18に書いたとおりである。 そこで、私はそれを記念して、本日わずかながらユニセフに寄付をしました。

 平野さんが全日本卓球で優勝するのとユニセフと何の関係があるんだ、とお思いになる方もおいででしょうが、本当のところは平野さんになにか記念品でも贈りたいのであるが、知らないオジサンから優勝おめでとうと言われてもピンと来ないか、下手をすると気味が悪いと思われる怖れもなしとはしないので、そうであるならむしろ、平野さんの優勝を記念して恵まれない子供に役立つようなことをしたほうが、本当のお祝いになるのではないか、と勝手に考えたからである。

 私の考えに賛成の方は、ユニセフ――でなくてもいいけれど――に寄付をして、平野さんをたたえましょう。

1月25日(日)      *最近聴いたCD

 *ミスリヴェチェク: ヴァイオリン協奏曲集1 石川静独奏 (Supraphon、1983年録音、1984年発売、38C37-7285)

 石川静さんは私の好きなヴァイオリニストの一人である。 むかしむかし、まだ学生生活を送っていた頃、FM放送でベートーヴェンの協奏曲を弾くのを聴き、そのゆったりとした音楽性に一目惚れ、いや、一聴惚れした。 たしか国際コンクールに入賞されたときの演奏だったと記憶する。 その後、石川さんはチェコなどヨーロッパを中心に活躍されていて、日本でも割りに演奏会は開いているようだが、何しろ私は地方都市暮らしなので、生演奏に接した経験は今まで2回しかない。 最初は今から15年くらい前に、新潟市の音楽文化会館で石川さんのリサイタルが開かれたとき。 私はいの一番にチケットを購入し――音楽文化会館で購入したら座席表が真っ白だったからそうと分かった――リサイタルの当日は花束を受け付けに渡して敬意を表したものだ。 次はその数年後、たまたま私の東京出張中に石川さんがヨゼフ・ハーラ氏などと一緒に室内楽の夕べを開かれたので、聴きに行き、終演後はモーツァルトの協奏曲のCDを購入してサインももらってきた。 さて、前置きが長くなったが、このCDは、ハイドンやモーツァルトと同時代の音楽家ヨセフ・ミスリヴェチェク (1737-81) のヴァイオリン協奏曲2曲を収めたもの。 ミスリヴェチェクはボヘミア生まれでイタリアで活躍した人である。 音楽のスタイルもハイドンによく似ている。 石川さんの演奏は自然で上品、曲の特質をよく表現していると思う。 伴奏はリボル・ペシェク指揮のドヴォルザーク室内管弦楽団。 ホールはプラハの 「芸術の家」。 yahooオークションで最近購入。

 *ブラームス: ヴァイオリンソナタ全集+ヴィオラソナタ全集 ズーカーマン独奏 (Grammophon、1974年録音、1998年発売、453 121-2)

 ピンカス・ズーカーマンも私の好きなヴァイオリニストだ。 世代的にはパールマンやチョン・キョンファと同じだが、この3人のなかでは断然ズーカーマンを私は選ぶ。 理由は、その音の美しさと独特の品性からである。 ただし、そうしたズーカーマンの特質は録音だとあまりよく伝わらない。 といっても私も彼を生で聴いたのは一度だけ (1991年) なのだが、彼の素晴らしさを知るためには生演奏が無理でもせめて実況録音で聴きたいものだ。 私が彼の演奏に目覚めたのはやはり学生時代のFM放送である。 来日しての実況録音だったか生演奏だったか記憶は定かでないのだが、そしてバックもN響だったか外国オケだったか記憶が曖昧なのだが、曲目がメンデルスゾーンのホ短調協奏曲だったことはたしかだ。 あのときの、ステレオ装置のスピーカーから音が液体のようにあふれ出るかと思うほどの圧倒的な美音を私は忘れない。 さて、このCDだが、バレンボイムをピアノ伴奏にして、ブラームスのヴァイオリンソナタ3曲とヴィオラソナタ (もとはクラリネットソナタ) 2曲を入れた2枚組である。 ブラームスのFAEソナタも入っている。 演奏は、ズーカーマンらしく、切り込みよりは曲の情緒やニュアンスを重んじていて、したがってヴァイオリンソナタでは第2番が名演というに足るであろう。 ヴィオラソナタも、急がずにヴィオラのゆったりとした響きを丁寧に出すことを心がけている。 最近HMVからまとめ買いしたうちの1セット。

1月22日(木)       *公共施設の充実はうれしいことだけど

 夜、H卓球クラブに練習に行く。 場所はH小学校体育館。 昨年末、体育館が設備更新ということで2週間ほど練習に使えず、市内の総合スポーツセンターなどで練習をしていた。

 で、年が明けてから使えるようになったのだけれど、どの設備が更新されたかというと、照明である。 従来より光の強い大型の照明灯になり、数も従来体育館全体で18だったのが28となり5割も増えた。 このため、体育館内は昨年までとは比較にならないほど明るくなり、卓球のボールもよく見えるようになった。 結構なことである。

 昨秋に別のA小学校で卓球大会をやったときには、今回更新されたH小学校のような明るい照明だった。 一方、私はN卓球クラブにも所属していて、これは市内のN小学校で練習をしているのだが、こちらはまだ昨年末までのH小学校と同じような、旧式の照明しかない。 恐らく、市としてもいちどきに全部設備を変えるとカネがかかるので、何年かかけて更新をしていくつもりなのだろう。

 しかし、貧乏性の私は余計な心配をしてしまう。 少子高齢化が進む今の日本は、こういう高級化した公立小学校の設備を、将来も支えていけるのだろうか。 働ける人が少なくなれば税収も減るし、公共的な設備の維持管理にも支障を来すのではないか。

 考えてみると、昔の学校の体育館の設備は今とは比較にならないくらいお粗末だった。 技術がなかったこともあるけれど、なによりカネがなかったのである。 いや、体育館だけではない。 教室だってそうだった。

 私の学んだ中学では、1・2年生の教室で校舎の2階だとそもそも灯りがついていなかった。 2階は外からの光がよく入るから、ということだろう。 1階だと物陰になって多少暗いという理由からか、廊下側だけ蛍光灯が2本ついていた。 窓側は光がよく入るからということなのだろう、蛍光灯はついていなかった。 今からすると信じられないことだけど、そんな時代もあったのである (私の中学時代とは、昭和40年から43年まで)。

 他方、3年生の教室だと窓側・廊下側とも2本ずつ蛍光灯がついていた。 なぜかというと、3年生は高校受験を控えていて課外授業があり、課外授業は日が暮れる頃の時間帯にかかるので、さすがに灯りなしではできなかったからである。 課外授業といっても、その中学に勤めている教師たちがそのためのカネを徴収してやるのである。 これまた現在の公立中学では考えられないことだ。 そして、今から振り返ると50人の生徒が入る教室で(当時は1クラスの規模はそんなもの) 蛍光灯4本だけではいくらなんでも暗かったはずだが、黒板の文字が見えにくいというようなことを感じた記憶はない。 貧しい時代には、そんな贅沢を感じている余裕などなかったのだ。

 それが昨今では、60を越えたおじさんおばさんたちは (念のため。私自身はまだ50代です)、夜7時過ぎに小学校体育館で卓球をやりながら、「暗くて球がよく見えない」 などとぶうぶう言っていたのである。 別にそのせいで体育館の設備が更新されたわけではないだろうけど、どことなく理不尽なものを感じてしまう私でした。

1月18日(日)       *平野早矢香さん、全日本卓球選手権で3連覇、5度目の女王の座に!

 本日は全日本卓球選手権の最終日。 私がファンである平野早矢香さんが女子シングルスで優勝し、3連覇を果たすとともに、5度目の女王の座についた。 おめでとう、平野さん!

 今回は私もテレビで観戦した。 と書くと、ふだんは観戦しないのかと訊かれそうだが、実は私の家には昨年末までまともなテレビがなかったのである。 数年前、旧型25インチ・テレビがイカれてしまい、それ以来わが家の居間にはテレビがない状態が続いていた。

 テレビを買うカネがなかった……わけではなく、いくら私でもその程度のカネはあったのであるが、新しいテレビを買うとオタク的な次男がさらに勉強しなくなる恐れがあるので、次男が大学に入るまではない方がいいだろうという理由から、そしてもう一つには現行のテレビがやがて使えなくなり新型の横長テレビに置き換わる時期で、早めに買うと割高だからという理由から、買わないできたのである。

 もっとも女房が結婚するとき実家からもってきた旧型14インチ・テレビはあるが――結婚したのはなんと25年前だから長持ちですね――これは女房のピアノ室に置いてあるので、好きなときに見るわけにはいかないし、チャンネルの主導権も主張しづらい。 (おまけに25年前のテレビなのでBSは映らない。)

 しかし次男も昨年春に大学に入ったし、横長型テレビもようやく価格が下がってきたので、昨年12月30日、ついに購入の運びとなったのであった。 といってもバカでかいのは買いませんよ。 今では標準的なサイズと思われる32インチです。

 それはさておき、卓球に話を戻す。 今回、中国から帰化したばかりの選手とフルセットの熱戦の末に優勝を果たした平野さんを心から祝福したい。 この帰化選手、中国にいた当時は世界選手権にも出場しており、今回の全日本選手権は初出場ながら決勝進出まで1セットも落とさないで来たという強者である。

 その強敵を相手に堂々と戦って、セットカウント3−3で迎えた最終セット。 平野さんが1−5とリードされた時にはもうダメかと思った。 しかも2回連続エッジボールで相手の得点になるという不運。 こういう時はがっくりきて戦闘意欲が萎えてしまうものだ。 しかし、そこから平野さんはねばり強く得点を重ね、ついに逆転して優勝を勝ち取ったのである。 なんて辛抱強い人なんだろう!と私はいまさらのように驚嘆した。

 スポーツはメンタル面が大事、ということはよく言われる。 それは真実だ。 しかし、言うは易く、行うは難し。 ああいう場面で自分を保ち、粘りづよく戦い続けることのできる人間は、そうそういるものではない。 無論、私なんぞはまるっきりダメである。 私、平野さんに改めて惚れ直しました。

 平野さんは前日のダブルスでも優勝しており、2冠となった。 これまためでたいことである。 ついでに言えば、平野さんは容姿だってすぐれている。 試合ぶりをテレビでよく見てごらん。 ああいうきりりとした可愛らしさが分からない男は男失格だと言いたい!

 ・・・・・が、マスコミの報道が相変わらずアイドル主義なのが気に入らないのである。 今回の卓球選手権でも、全般的に福原の記事ばかりが目立つ。 おまけに、昨日のダブルスでの平野さんの優勝について、私がとっている2紙のうち毎日新聞は 「平野・石川組優勝」 と見出しを付けたからいいが、産経新聞は、なんと、「石川組優勝」 と見出しをつけたのである。 おい、なんで平野さんの名がないんだ!? コラ、産経、そういうアイドル路線をやっているなら購読をやめるぞ!! 

 (追記: 産経新聞はこの翌日、平野さんの女子シングルス優勝を写真入りで大きく報じたので、赦してつかわす!)

1月15日(木)       *ドイツ文学者はネット時代に不適応?

 本日、日本独文学会のメーリングリストを通して、ドイツ文化センターに勤務されている方から耳寄りな話が舞い込んできた。 「ドイツ連邦共和国建国から60年、壁の崩壊から20年の今年、2009年にあたりドイツの歴史をテーマにしたカレンダー(49,89,2009)が、ゲーテ・インスティトゥート本部より届きました」 というのである。 独文学会員が希望すれば、1部であれば送料込み無料で送るということなので、私もさっそく申し込んだ。

 ところが、である。 メールの返信機能を利用して申込みをする会員がいるのである。 メーリングリストから送られてきたメールの場合、返信機能を使うと、メーリングリストに登録している全員にメールが送られてしまう。 だから返信機能は使ってはいけないのであり、送り手のメルアドを確認した上で、そこに宛てて送らなければならないのである。

 しかし独文学会の会員には分かっていない人がいるようで、数人が返信機能を用いて 「カレンダーを送って下さい」 というメールを送付したので、当然ながら私を含めたML登録会員全員に送られてしまった。 

 私はたまりかねて、「カレンダーの申込みにはメールのリターン機能は使わないで下さい。 カレンダー提供を申し出られた方のアドレス宛てに申し込んで下さい」 という投稿を独文学会のメーリングリストに行った。 また、独文学会の広報委員会委員からも、私の少し後に同じ趣旨の投稿があった。 そこには改めてカレンダー提供者のメルアドが示してあった。

 普通ならこれで一件落着、のはずである。 ところが落着しないのである。 その後も、「私にもカレンダーを送って下さい」 という投稿が何件もメーリングリストになされ続けたのである。

 ここからどういう結論が出てくるだろうか? 日本の独文学者はメールの使い方を分かっていないばかりでなく、そもそも 「返信機能を使うな」 という言葉の意味も分かっていない、ということである。

 まあ、いまどき独文学者をやっている人たちなんだから世事にうとくて仕方がないのかも知れないが、その分しっかり仕事をしていれば文句もつけないけど、第二外国語を守る気概もなければ、独文学者としての仕事ぶりを世に問う作業も――している人はしているけど――あまりしていないように見える独文学者がこれでは、困るのではないか。

 (後記: このあと、この種の投稿に 「返信機能」 を使うやり方は正しい、と主張する独文学者まで現れた。 詳しくは省略するが、独文学者は救いがたいというのが教養部解体以来の私の持論なんだけど、その持論が強化される一方なのでありました・・・・・) 

1月12日(月)        *鈴木佳秀先生の最終講義

 朝起きたら雪が積もっていた。 新潟市では事実上、今冬初の積雪である。

 本日は午前中から新潟大学医学部の某会館で、この3月限りで定年退職される鈴木佳秀先生の最終講義を兼ねたシンポジウムがあった。

 鈴木佳秀先生については以前にも書いたことがあるが、旧約聖書の研究者として世界でも第一線級の方であり、学士院賞を受賞されたこともある。 また学内では人文学部長、大学院現代社会文化研究科長などを歴任され、雑務の処理にも多大な時間と労力とを割かれた。 今回のシンポでは、「学問・教養19世紀」 と題して、他大学から3人の研究者が集まった。

 ただし私は多忙で、最近はお義理でこの種のイベントに出るのはやめており、本当に興味のある講演しか聞かないと決めているので、最初の佐藤彰一・名大教授の 「19世紀フランスの歴史学と歴史教育」 を聞いてからいったん退出し、しばらくして戻ってきて、午後4時半からの鈴木先生の最終講義 「『ヨブ記』 における神義論と19世紀学」 を聞いた。

 佐藤先生の講演は、或る意味で期待をはずしていた。 というのは、フランス革命をどう解釈するかというようなお話ではないかと私は勝手に予想していて、以前に読んだ藤村信の 『美し国フランス』 を持参して予備知識を得るために講演の始まる前にその最初のあたりを読み返してみたのであるが、フランス革命をどう捉えるかが学問上の問題になったのは20世紀に入ってからだったと書かれており、19世紀はまだそこまで至っていなかったらしいということが分かったのである。

 事実、佐藤先生はそういったところには触れず、そもそも歴史というものが学問として成立する原初の段階について説明され、フランスの歴史学が周辺の他国から見て遅れており、ドイツの学問に打ち込む学者などから影響を受けたこと、しかし歴史学はどうあるべきかを述べた当時の本を読むと禁欲的であり、いたずらにイデオロギーを持ち込むような態度は見られないことなどを分かりやすくお話しくださった。 また、日本の大学では日本史学や東洋史学は、学問をやるための基礎を教えられるような体制ができているが、西洋史はそうではない――例えば碑文学だとか文書形式学だとかが必ずしも教えられていない――ところに問題があるということで、なるほど、西洋史という学問をやるための基礎技術 (という表現が適切かどうか分からないが) はかなり多いのだ、たいへんだな、と思ったことであった。

 さて、夕刻からの鈴木先生の最終講義には多数の人たちが集まった。 旧約聖書ヨブ記について、予備知識のない人にも分かるよう簡略に内容を説明された上で、この物語が一種裁判のような形式になっていること、「自業自得」 という日本人には分かりやすい思想が、旧約聖書にあっては必ずしも自明ではなく、それが現れるか否かが重大な鍵となっていることなどをお話しくださった。

 最後には教え子からの花束贈呈もあり、なごやかな雰囲気のなかでイベントは終了となった。 (このあと懇親会もあったが、私は欠席。)

 鈴木先生は定年退職ののちも新潟におられ、具体的なことはおっしゃらなかったが、何か忙しい仕事にお就きになるそうである。 私としては、そろそろ先生には研究に専心できる環境を整えてさしあげることが本来的な心やりだと思うのだが。

 シンポの企画・実行に従事された方々の労を多としたい。 

 ただ、一つだけ注文をつけると、進行の場で内輪話が多いという印象があった。 つまり限られた仲間内でしか通じない話題が少なくない、ということだ。 こういう仲間内主義は、外部にいる人間にあまりいい印象を与えないことは知っておいた方がいいと思う。 今後のために。

 (追記: その後、鈴木佳秀先生は新潟大を定年で退職された後、新発田市の敬和学園大学学長に就任されることが報じられた。)

1月7日(水)       *新潟大学の語学教育に関する学生のまともな感覚

 本日教授会があったが、授業に関する学生側の要望のアンケート調査の結果が書類となって出た。 ただし一人一人に配布されるのではなく、回覧資料として回されるだけなので、今現在私の手元にはない。

 少子化で大学も経営難が言われるようになってから、学生の意見を重視すべきだという声が高まっている。 私としては、学生の意見にはまともなものもあるしダメなものもあるという考えで、要するに是々非々、まともなものは取り上げ、ダメなものは却下すればいいと思っている。 

 また、「人気のある教師=いい教師」 なのかどうかは、その教師が学生に本当に学力をつけさせているかどうかと合わせて判断すべきだろう。 人気があって学生の学力も高い、というのであればベストな教師である。 しかし人気があっても学生に学力がついていないのであれば、要するに漫才師的な人気に過ぎないわけだから、むしろ人気がなくても学生の学力が高い教師の方を評価すべきだろう。 言うまでもなく、教育の目的は学生に学力をつけさせることなのだから。

 ところがこういうことをちゃんと考えておくということが、日本人はなかなかできない。 私は最近、『杉並区立「和田中」の学校改革』(岩波書店)というブックレットを読んだ。 東京の区立中学の校長に民間人の藤原和博氏がなったというので有名な学校について、では実際に 「改革」 の成果があったのかを教育学者が冷静に検証した本である。 この本を読むと分かるが、実は藤原校長になってから和田中学の生徒の学力は低下しているのだ。

 マスコミは、民間人で有名人でもある藤原氏が校長になったということを大きく取り上げて騒いだが、冷静に調べてみれば、民間人校長の 「改革」 は成功どころの話ではなかった、ということなのである。 しかし、こういう事実を新聞やテレビはどのくらい報道しただろうか?

 こういう非知性的な惨状は大学にもあてはまる。 「改革」 と称して制度や組織や授業をいじれば、よそ目には何かをやっているように見えるだろう。 しかし、それが成功したかどうかは、学生の学力を調べることによってしか判断できないのである。 ところが、大学人というのはマスコミと同じくレベルが低く、そういうこと自体が分かっていないのである。 マスコミばかりでなく、大学人みずからも、組織や制度さえ変えていれば何事かをやっているような錯覚に陥っている場合が多い。 学者失格であると言うしかない。

 閑話休題、学生アンケートの話に戻ろう。 その資料の中に、医学部1年生の意見として要約こういうものがあった。 「語学の授業が、ドイツ語が週3回なのに英語が1回というのはおかしいのではないか。 せめて英語もドイツ語も週2回にしてもらいたい。 医学の専門的な文献は今では英語なのだから、常識的に考えてそうあるべきではないか。」

 きわめてまともな意見だと私は思う。 いや、これを読んで驚いた方も学外者には多いのではないか。 新潟大学医学部では、一年次にドイツ語の授業は週3回あるのに英語は1回しかないのか、と。 そのとおりなのである。

 急いで付け足すと、医学部だけではなく、新潟大学の全学部が今は1年次と2年次に週1回しか英語の授業がないのである。

 他方、ドイツ語などの第二外国語 (学内では初修外国語といっているが、一般に分かりやすい用語として、ここではこちらを使う) が1年次に週3回必修であるのは医学部だけである (2年次以降は学ばない)。 人文学部はこれより多く1年次で週4回必修である (必修は1年次だけ)。 しかし、それ以外の学部は事実上、第二外国語をとらなくても構わない体制になっている。 医学部と人文学部の定員を足しても300人台前半である。 つまり、新潟大学の学生定員全体の約7分の1強しかない。 新潟大生の7分の6弱は第二外国語を事実上やらなくても足りるのだ。 

 どう見てもまともではない。 今の時代、英語の通用力が強くなっているのに、英語の授業は1・2年次で全学部週1回、それでおしまいなのだ。 一方、第二外国語は人文学部と医学部だけが必修で回数が多く、他の学部は事実上必修がなくなっている。 学部間のバランスがものすごく悪い。

 1994年の教養部解体まではそうではなかった。 一部の学部を除いて、英語・第二外国語とも週2回で2年間必修だった。 それが、教養部解体後十数年でこのありさまなのである。 

 むろん、授業の充実度は授業回数だけでは測れない。 教養部時代は1クラス当たりの学生数が多めだった。 現在はかなり少人数クラスになってはいる。 しかし、そうであっても、英語の授業が週1回しかないのでは、まともな 「改革」 とはいえまい。

 また、第二外国語を事実上とらなくていいようになっているのは、地方都市の大学としては、田舎者を田舎者のままで放置する体制でしかない、というのが私の持論である。 田舎者を田舎者のままにしておく大学がどうして大学として魅力的であろうか?

 現代は実用ということで言えば英語だから、とにかく英語の授業は週に複数回あったほうがよく、他方、第二外国語はまともな学士であるための教養としてやればいい、と私は考える。 もちろん、第二外国語を実用にしたい人にそれなりのコースを用意しておくべきだが、そういう学生は新潟大学の中ではきわめて少数だという実態を見据えておく必要がある。

 繰り返す。 教養部解体以降の新潟大学はまともではない。 その責任は上層部にもあるし、自学部エゴに染まった教師たちにもある。 しかし、英語のことに限るなら、大学全体として英語教師の数を確保するという制度的保証を考えていない上層部の責任は重大だと思う。

 私が、新潟大学上層部は無能だとしばしば言っているのには、ちゃんと理由があるのです。 ちなみに、ここで書いたのは、「ちゃんとした理由」 の一部に過ぎませんヨ。

1月6日(火)       *最近聴いたCD

 *ヘルベルト・ケーゲル+ライプツィヒ放送交響楽団 : ベートーヴェン交響曲第3&8番 (Weitblick、SSS0051-2、2005年発売、1974/75年録音)

 昨秋、HMVから何枚かまとめて購入したうちの一枚。 東ドイツで活躍した指揮者ケーゲル (1920 - 90) の振ったベートーヴェン。 いずれも実況録音。 2曲とも早めのテンポで緊迫感に満ちているが、特に第8交響曲は入魂と言いたくなるほど気迫のこもった演奏。 録音は、臨場感はあるが音の分離はあまり良くないみたい。

 *ヴァージナル音楽の巨匠達――黄金時代のイギリス鍵盤音楽名曲集 (BMG BVCD-1613、1997年発売、1968年録音)

 年末に新潟市内のBOOKOFF竹尾店にて500円で購入。 16世紀後半から17世紀半ばまでの英国作曲家による鍵盤楽器用の音楽を11曲収録している。 ヴァージナルとはチェンバロの一種だが、私も新潟で最近古楽器演奏会が増えたせいで目にする機会が何度かあった。 ただしここではグスタフ・レオンハルトが普通の――何が普通かも問題だが――チェンバロで弾いていて、あまり古風な感じの音ではない。 収録曲は、トマス・トムキンズの 「バラフォスタスの夢」、ジョン・ブル――なんて名の作曲家がいたんだねえ――の 「国王の狩」 「ニ調のファンタジア」 「イギリスのトイ」、ウィリアム・バードの 「ピーター氏のパヴァーヌとガイヤルド」 「ウォルシンガム変奏曲」、オーランド・ギボンズの 「ニ調のファンタジア」 「ト調のパヴァーヌ」 「ニ調のファンシー」 「ニ調のファンタジア」 〔同名、或いは類似名の曲があるけど、書き間違いではなく、それぞれ別の曲です〕、ジャイルズ・ファーナビーの 「ト調のマスク」。 で、聴いてみて面白かったかというと、どうもさほど面白みがなかった、というのが正直なところでした、はい。

1月4日(日)      *オフ会で高級オーディオ装置を聴かせていただく

 本日は正午から、私が主宰している 「クラシック音楽掲示板」 のオフ会として、北国タクトさんのお宅にお邪魔して、アキュフェーズの総計250万円するというオーディオ装置を聴かせていただいた。 掲示板に出入りしているC5さんと私が参加。 他にもう一人参加の予定だったが、急用とのことで残念ながら不参加となった。

 私はオーディオ装置には全然凝らない人間で、スピーカーなんかは学生時代に購入した20センチ2ウェイのブックシェルフ(当時1個1万2千円)を未だに使っているありさまなのであるが、凝る人というのは凝るもので、クルマの価格以上のカネをオーディオにそそぎ込んでいる。 私とは全然価値観が異なる方とお会いするのも、楽しいものである。

 オーディオというとがんがん鳴らして迫力を、と思う人もいるだろうが、北国タクトさんは決して大音量では鳴らさない。 むろん、オーケストラの量感や広がりはちゃんと出ているが、むしろ自然にゆったりと音が出てくる感じである。 高級車だと長時間乗っても疲れないように、高級オーディオ装置は長時間聴いても疲れないものなのだと分かった。

 私は買ったCDは原則として手放さない主義だが、北国タクトさんは逆で、聴いて気に入らないとすぐ手放す主義だそうである。 CD棚のブラームスの段がめいっぱいに埋まらないのはそのためだとのこと。 また、色々聴いて、近年カラヤンを評価するようになってきたというのも、一つにはオーディオ面からかもしれないが、世間の評価に捕らわれずに自分なりの感性と評価軸を大事にする方らしいお考えだと思ったことであった。

1月3日(土)      *初卓球、そして夜は5年ぶりのイタリア軒

 本日は少しだけ早起きをして、東総合スポーツセンターで午前9時から卓球のやり初めをする。 私は西新潟に住んでいるので、日頃卓球で市の施設を使うときは西総合スポーツセンターなのであるが、今日はH卓球クラブのMM氏から誘われて、Hクラブとはまた別に氏が所属している東新潟を根城にするクラブの練習に参加させてもらったもの。

 卓球も、通い慣れたところだと相手の技倆とか癖が分かっているので新鮮味が薄れるが、こうやって新しい相手と練習すると自分の思わぬ弱点だとか癖なんかに自覚的になれるし、また、こちらには新潟卓球界で五指に入る――と私が勝手に決めている――美人のYさんがいたりしたので、そういう意味でも楽しく練習ができた。

 このクラブ員とは別に、新潟ベテラン卓球界でも屈指の強豪K氏も練習に来ていた。 K氏はベテラン卓球の全国大会で優勝したこともある実力者だが、やはり新年早々練習に励んでいるのは、強い人は練習熱心ということの良い例と言えるであろう。

 夜は、東京から帰ってこない長男を除く家族4人でホテル・イタリア軒にてディナー。 1月は私と女房が結婚した月にあたるが、5年ごとに結婚式を挙げたこのホテルの最上階のレストランでディナーを楽しむというのが我が家の習慣。 なぜ5年に1度かというと、費用の関係からです(笑)。 本来、結婚記念日はもう10日余りあとであるが、東京の大学から帰省中の次男が明日東京に戻るというので、早めにしたもの。 

 不景気のためか、正月の3日からホテルで食事をする人間がもともと少ないためか、レストランは空いていたが、同窓会流れらしい連中がいて前半は騒々しかった。 

 5年前の当サイト日記を見ると、私と女房は8千円のディナーをとったことになっている。 しかし、その後値上げしたらしく、今回はまともなディナーが1万円になっていたので、4人全員それにした。 5年前は子供向けにはもう少し安いメニューがあったと記憶するが、今回は量の少ないコース以外はそうしたものがなくなっていた。 高級化路線ということなのであろうか。 5年前にも同じことを書いたけど、これじゃ5年に1度しか来られませんね。

1月1日(木)        *年頭のごあいさつ

 明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。

 さて、本来なら年頭でなにかもっともらしいことを言うべきところなのでしょうが、どうもその気になれません。

 金融不況だとか、二世三世のお坊ちゃんお嬢さんだらけで実に頼りない日本の政治家だとか、アメリカの相対的な地位の低下だとかについて何か言っても、どこかで誰かが言っていることと変わりなさそうですし。

 かといって、国立大独法化以来の新潟大学の迷走ぶりだとか大学上層部の無能ぶりについては、この欄で何度も書いてきましたし。 (そしてそれにも関わらず一向に是正されませんし。)

 まあ、今年は好きなことを好きなようにやろうと考えています。 と書くと、いつだってお前はそうしてるじゃないか、とつっこみが入りそうですが、まあ、それをさらに徹底するということですね。 悪いことをしなくても大学にはあと9年ちょっとしかいられませんし、その前に何事か起こらないという保証もありません。 といって別に、今を大切に、などという道徳の教科書に載っていそうなことを言いたいわけでもありません。 私は基本的に個人主義で、日本的な集団主義にはどうしても合わない体質ですので、自分に合わないことはこの年になったらなるべくしないで済ませるようにしよう、ということに過ぎません。

 皆さんもどうぞご自由にお過ごし下さいますよう。

 以上をもって年頭のあいさつといたします。

 

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