音楽雑記2004年(1)

                                                   音楽のページ              →トップページ

 

8月以降はこちらのページをごらん下さい。

 

7月31日(土) 午後6時30分より、だいしホールにて渡辺靖子帰国チェロリサイタル。 ピアノは水戸博道。 プログラムは、ベートーヴェンのチェロソナタ第2番、ベリオの「言葉は消える」、ルトスワフスキのザッハー変奏曲、ファリャのスペイン民謡組曲(マレシャル編)、フランクのチェロソナタである。 アンコールはエルガー 「愛の挨拶」 ほか。

 渡辺さんは、新潟市出身で、新潟大学教育学部特別音楽科および同大学院修士課程でチェロを専攻、その後英国のロイヤル・ノーザン大学に留学、同大学の大学院演奏ディプロマを取得した、という方である。

 この日の演奏は、中間に置かれた現代曲とファリャの曲が最も説得性に富んでいた。 一方、最後のフランクは問題が多かった。 技巧の不十分さが露呈していて、この大曲を説得性のある表現で聴かせる以前の段階にとどめてしまっていた。 アンコールでも音をはずした箇所があった。

 2000円也の入場料をとっているのだから、満足感のある演奏を聴かせるためにいっそうの研鑽を積んで欲しいものである。 なお、チラシの写真からスポーティな女性を連想していたのだが、演奏会ではヤマトナデシコ風の髪型と衣裳に、ちょっと驚きました。 

7月29日(木) 2限、1年次向けドイツ語の試験をする。 本来の試験日は来週なのだが、8月に入ると大学対抗のスポーツ大会があって、と訴える学生が何人かいたので、繰り上げ実施することにしたもの。

 本来、学生は学業が第一だから好ましいことではないが、以前は8月初めと言えばどこの大学でも夏休みだったのが、最近の 「大学改革」 でそうでもなくなってきたことの影響だろう。 新潟大学のように7月いっぱい授業、8月初めに期末試験、そのあと9月末まで夏休み、というところが出てきているのだ。

 ところで今年、私は医学部のクラスでドイツ語を教えている。 教養部解体以来10年、ほとんど理工系の学生ばかりにドイツ語を教えてきた私としては、医学部学生を担当するのは久しぶり。

 正直なところ、やはり医学部の学生に教えるのは楽だ。 他学部学生相手だと、言葉は悪いけど犬に算数を教えようとしているかのような感覚に襲われることが時々あるのだが、医学部学生だとそういうことがほとんどない。

さて、学生の一人が、6月に実施した中間試験を病気のために受けていなかったことに気づいた。 代わりに課題を出すつもりでいたのが忘れていたのである。 それで試験終了後にその学生と相談して、本日午後1時頃に私の研究室に課題を受け取りに来るように指示した。

 私はこの日、昼休みは会議が入っていたので、2限の試験終了後すぐに課題を作成して、封筒に入れて研究室のドアにセロテープで貼り付けておいた。 無論、その学生の名を書いた上でである。 会議が終わって12時40分くらいに研究室に戻ってきたら封筒がなくなっている。 くだんの学生が早めに取りに来て持っていったのだろう、そう思った。

 ところがである。 1時少し過ぎにその学生がやってきた。 封筒は受け取っていないと言う。 とすると課題の入った封筒は盗まれたわけである。 いったいどこのどいつが持っていったのやら・・・。 金目のものは入っていないんですがね。 封筒を見て何かいい物が入っていると勘違いした奴がいたのだろう。

 実は数年前にも、私の研究室のドアのボックスに入れられた学生のレポートや教官の書類が紛失したことがあった。 こういう事件が起こるのは新潟大学の恥だが、実際に起こっているのだから仕方がない。

7月25日(日) 朝から新潟東地区親善卓球大会。 於・東総合スポーツセンター。 毎年2回行われるダブルスの大会である。 今回は我がNクラブからは私一人の参加と淋しいが、大会そのものは150人参加と盛況である。

 午前中はYさんと組んで3勝2敗。 午後はW氏と組んで4勝1敗だった。 本来は男女のペアになるのだが、男の参加者が少し多いので、男男ペアができてしまう。 午後はそれで私がハズレクジ?にあたったというわけ。

 しかし午後のW氏とのペアは強力で、もう少しでグループ優勝するところだった。 優勝したペアとの試合で、セットカウント1―1の後、第3セットで9―4とリードしながら逆転負けを喫したのである。 残念無念。

 この大会は勝敗に関係なく最後にお土産が付くが、今回はそのお土産に加えて新しい趣向があった。 大会主催者とじゃんけんをして勝ち抜くと賞品がもらえるというのである。 それが賞品を替えて何度か行われた。 前に立った主催者がグー・チョキ・パーのいずれかを出す。 参加者も同時に出して、主催者に勝った人だけが残る。 負けた人とあいこの人は撤退する。 1回当たり残る確率は三分の一である。 だから150人いても3回じゃんけんをやれば数人しか残らない。 勝ち残った人が数人になったら、その人たち同士でじゃんけんをやって賞品の数になるまで続けるのである。

 ユニフォーム(半袖上着)が2人分という賞品のとき、私はどういうわけかじゃんけんに勝ち抜いて、最後の2人に残ることができた。 で、そのユニフォームの色なのだが、黄色とピンクである。 一応男女共用なのだが、黄色はともかく、ピンクというのは男としては何となく抵抗がある。 しかしもう一人勝ち抜いた男性は若手だったので、将来性を考えて?その人に黄色を譲り、私はピンクのをもらってきました。 もっともピンク一色ではなく、襟は青色で、また脇にも青の太筋が入っている、言うならばツートンカラーであるが。

 とはいえ、実は半袖上着をもう1枚買おうかと思っていたところだったので、儲けものではある。 店で買うと5千円くらいはするのだ。 午前中ペアを組んだYさんも「よかったね」と言ってくれたことではあり、せいぜい利用することにしよう。 

 賞品が当たったことを含め、主催の大形卓球クラブには感謝します。 実は前回の大会の時もそういった意味のことをこの欄に書いたのだが、今回、クラブ員の女性の方から「読みました」と言われて泡を食った。 うーむ、意外なところでこのコーナーは読まれているのだ。 こうなるとあんまり迂闊なことは書けないなあ(笑)。

7月24日(土) 午後6時からりゅーとぴあで東京交響楽団第27回新潟定期演奏会。 指揮はアンドレイ・ボレイコ、ヴァイオリン独奏が神尾真由子で、リャードフの 「3つのロシア民謡」 ”魔法にかけられた湖” ”バーバ・ヤガ” ”キキモラ”、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番、チャイコフスキーの交響曲第4番。 アンコールがドヴォルザークのスラブ舞曲第8番。

 神尾真由子は繊細な表現が持ち味のようだが、やや線が細い。 プロコフィエフの協奏曲がもろいガラス細工のように演奏されたのにはいささか驚いた。 チャイコフスキーは良くも悪くもバランスのとれた演奏。 情に溺れすぎず、爆発力にかけすぎず。 私としては悪くないと思ったが、爆演を期待する人には物足りなかったかも。 本日に限らず、東京交響楽団の演奏はバランスが良く弦が美しいが、ド迫力、という点ではイマイチの気もする。 欲張りでしょうか?

 長岡からわざわざこの演奏会を聴きにきたA君およびBさんと会うことができた。 演奏会終了後、駅まで車でお送りしました。

7月23日(金) 某古書店に注文していた 『最新名曲解説全集』(音楽之友社) 全28巻が届く。 2万5千円。 以前から欲しいと思っていたのだが、インターネットの古本屋に全巻揃いが安価で出ていたので、決断した。 新本で買うと10万円以上する。

 夜、基礎演習の終了を祝って学生3人と大学近くの店で飲む。

7月21日(水) 昨日、指揮者カルロス・クライバーの訃報が報じられた。 カリスマ、という言葉がマスコミのでっち上げでなく当てはまる今どき珍しい存在だった。

 私が彼の生演奏に接したのは一度きりである。 約15年前、ミラノスカラ座を率いて日本公演をした際に、横浜で 「ボエーム」 を聴く機会があった。 幕が下りてからも、何度も聴衆の歓呼に答えて舞台に姿を見せた彼の姿はよく覚えている。

 この時は女房と2人で行ったのだが、駅からタクシーで会場に行くつもりでいた。 時間的に余裕を見て出かけたのだけれど、駅にタクシーがなかなか来ず、行列を作って待っているうちに時間は容赦なく過ぎていく。 せっかくのクライバーの演奏会に遅刻か?というところまで行った。

 その時、行列の前の方にいてタクシーに乗り込もうとしていた30代かと思われる女性が、時計を見ながらぶつぶつ言っている私たちを見て、「オペラですか?」 と声をかけてくれ、うなずいた私たちを同乗させてくれた。 おかげでかろうじて間に合ったのである。 その女性はオペラ・マニアで、クライバーの来日公演も全部聴くつもりでいて家族に呆れられているが、さすがにS席だとオカネが続かないから、今回は全部A席にしたといったことを話してくれた。 お名前もうかがわなかったけれど、ここで改めて感謝します。

 話をクライバーに戻す。 これとは別の来日公演の時、ベートーヴェンの第7交響曲をやった。 私はFMで聴いたのだが、ぶん殴られるような衝撃を受けた。 こういう体験は珍しい。 彼が並みの指揮者ではなかった証拠だと思う。

7月20日(火) 木曜4限の1年次向け人文総合演習にここ3回ほど連続欠席をしている女子学生がいる。 先週から連絡をとろうとしてうまく行かなかったのだが、本日、なんとかコンタクトをとることができた。 鬱病きみで、ちょっと実家に帰る予定だという。

 実はこの授業、2カ月前にも同じ理由で長期欠席をした女子学生がいた。 全体で18名のクラスであるから、半年で同じ症状が2人というのは多すぎる。 偶然かも知れないが、最近の若い人の傾向が現れているのかも知れず、要注意である。 

  *    *    *    *    *

 昼、生協教職員委員会。 ここで毎年2回、学生向けに書評誌 『ほんのこべや』 を出している。 この手の雑誌は、以前は全国の主要大学では珍しくなかったのだが、長続きしない場合が多く、わが 『ほんのこべや』 が創刊以来10年以上続き、この春で第26号を数えているのは威張ってもいいことらしい。

 ただし、問題も多い。 私と共にこの雑誌を編集している教育学部のS先生が教養の授業で、大人数の学生を前に 「『ほんのこべや』 を知っている人は?」 と訊いたら、手を挙げた者はほんのわずかだったとか。

 『ほんのこべや』 が学生に意外に知られていない、という話は、以前から出ている。 ポスターを貼って宣伝したらとか、置く場所が悪いのでは (現在は、生協書籍部と生協食堂に置いてある) などの意見が出るが、根本的には、書評誌というものに対する興味が学生側に希薄だということに尽きるのではないか。 要するに、本を読まない学生が多い、ということだ。

 加えて、これは学生だけを非難して済む問題ではない。 大学教師の側はどうなのか、という問題もあるのだ。 『ほんのこべや』 は毎回、新潟大学の全教職員にチラシを配布して原稿を募集しているが、寄稿して下さるのはいつも決まった方々なのである。 つまり、原稿を書いてくれない教職員が大多数 (95パーセント以上) である、という現実がある。

 はっきり言おう。 学生に対して本の2冊や3冊の紹介もできない大学教師が、「最近の学生は本を読まない」 などと文句を垂れる資格はないのである。 なぜ学生に本を紹介できないのかといえば、恐らく最大の原因は、自分も本を読んでいないからなのだ。 この教師にしてこの学生あり、なのである。

 つまり、専門バカはまず教師から始まり、そして学生に伝染するのだ。 かつて立花隆は、日本の大学教師は教養がないと批判したが、こうした状況は新潟大学の場合、かなり深刻である。 「大学改革」の進め方の無茶苦茶なことを見てもそれは想像が付く。 基本的人権、なんて紙上のことだと思っているのだ。

 先の見通しは、暗い。

7月18日(日) 小学校時代の恩師が、自家栽培した野菜を送って下さった。 小学校時代に2年間お世話になり、なおかつその奥さんに4年間習字を教えていただいた、文字通りの恩師である。 すでに定年退職して十数年、息子夫婦と同居し、自家製の畑を耕して毎日を悠々自適で過ごしておられるようだ。 

 少し前、知り合いの息子さんが新潟大受験を目指しているので、合格するのにはどの程度点数が必要なのかと問い合わせてこられた。 こういうことは大学よりも予備校の方が情報を持っているのだが、最近はネットで予備校情報も閲覧できるようになっているから、某大手予備校の難易度ランキングをコピーし、なおかつ新潟の地理や大学への道筋などをひととおりお教えしておいた。

 今回は、新潟県が豪雨に襲われたことと、上記の件の返礼を兼ねて、ということであった。 故郷の人々の情の厚さを痛感する。

 偶然と言うべきか、夜、藤沢に住む旧友から電話がかかってくる。 やはり豪雨の災害は如何、ということで。

 この際だから、日本全国のワタシを気に掛けてくださっている方々 (そんな人いるかっ〔笑〕?) にご報告申し上げます。 新潟県の豪雨は中越、つまり長岡や三条を中心とする地方に集中しておりまして、新潟市を含む下越地方は災害を免れておりますので、ご安心下さい。

   *     *     *     *     *

 本日の毎日新聞書評欄で、富山太佳夫がエドゥアール・グリッサン 『レザルト川』 (現代企画室) とインゲボルク・バッハマン 『ジムルターン』 (鳥影社) を同時に取り上げている。 いずれも日本人にはあまり馴染みのない作家で、私は一応独文学者だからバッハマンは知っていたけれど、グリッサンは初めて聞く名だ。 フランスの植民地だったカリブ海の島国マルチニックの作家らしい。

 富山氏は、植民地時代の影を引きずる小説と、ナチ時代の影を引きずる小説を並べて紹介している。 あまり世間の眼の及ばない作品に光を当てる好書評だと思う。

 毎日新聞の書評欄はわりにこういう部分に目配りが効いているのがいい。 ただし、その代わり新書や選書方面への配慮が弱い。 月曜にも書評欄があり、多少補いにはなっているけれど、もう一歩の頑張りが期待される。

 一方、産経新聞の書評欄はこのところ不調である。 数年前までの産経はほぼ毎日書評を掲載していて、1週間あたりにするとその量は相当なものがあった。 「斜断機」 といったコラムを含めて、知的な刺激にあふれていたと思う。

 ところが 「斜断機」 は廃止されるし、書評は現在では週2日だけになりページ数が減ったばかりか、内容的にもイマイチなのである。 このあたり、一考を願いたいところだ。

7月16日(金) 夜7時から、古町でH卓球クラブの納涼会。 13名参加。 Kという全国チェーン店が会場だが、ふだん古町方面に来ることの少ない私は初めて入った。 内部がこまかく仕切られていて、少人数にも大人数にも独立した空間が保たれるようになっているのが目を惹いた。 とはいえ、古町の通りは、夜7時頃でも人通りが少なく、長期低落傾向は否定できない。 直前に万松堂に寄ったが、いい本を揃えているのに客があまりいないのは気の毒である。 

7月14日(水) 本日の毎日新聞の報道によれば、オーストラリアは、96年の総選挙で保守政権が誕生して以来、アジア寄りの政策から米国寄りの政策に大きく方向転換しており、これはアジア言語文化教育プログラムが2002年限りで廃止されたことにも現れているという。

 このプログラムは、労働党政権時代の95年に導入されたものだが、日本語、中国語、韓国語、インドネシア語の4言語を教える学校に補助をしてアジア語の修得を助けるというものであった。 打ち切りにより、教師や教材の確保に支障が出始めているという。

 もっとも日本もこのところ英語一辺倒主義が蔓延しているから、他人様のことは言えた義理ではあるまい。

7月13日(火) 中学3年の時に同じクラスだったYさんから突然電話がかかってきた。 やはり同じクラスだったF君が元気かどうか知らないか、と言う。 F君は私と同じ高校に進み、東京の理工系の大学を卒業してから、いったん会社勤めをした後、仲間と起業をして、今は首都圏でIT関係の会社を運営している。

 Yさんの言うところでは、中学時代の別の同窓生 (女子) が最近F君の夢を見て、元気かどうか気になりだして、3年次に同じクラスだったYさんに電話してきたのだそうだ。 で、YさんはF君と同じ高校に進学した私なら消息を知っているのでは、と思ったらしい。 しかし、私も年賀状をやりとりしているだけの仲なので、近況を知っているわけではない。 

 Yさんにせっつかれたので、やむを得ず、「調べておく」 と答えておいた。 内心では、F君は私と違ってスポーツマンタイプで女の子にモテたからな、とやっかんでいたのだが。 

 それはさておき、Eメールで問い合わせたところ、F君は元気も元気で、この春健康診断をしてどこも悪いところがなかったという。 さっそくYさんにその旨知らせておいた。

 他愛もない出来事のようだけれど、昔の知り合いの夢を見て急に消息が気になり出す、ということは、私にも経験がある。 今回は、私のように親切な男 (?) がいたから夢に出てきた同窓生の無事が確認できたわけだが、知りたくても知りようがない場合もある。 人はパンのみにて生きるにあらず、という言葉の重みを実感する。

7月12日(月) 新潟大学の外国人教師への処遇をめぐって、或る方 (外国人) と話をする機会があった。 詳細は省くが、ともかく独立行政法人化がかなりいい加減で、なおかつ 「走りながら考える」 方式で進められていることがあらためて実感された。 ご協力くださったH先生 (日本人) にも感謝します。

7月10日(土) 午後2時から、りゅーとぴあコンサートホールで、オルガン・レクチャーコンサート。 今回は 「スペイン・オルガン音楽紀行」 と題して、濱田滋郎氏の解説、和田純子さんのオルガンで行われた。 カベソン、カバリーニェス、アウラホ、エレディア、ブルーナといった、私は名前も知らない16〜18世紀のスペインの作曲家たちのオルガン音楽が奏でられた。

 ただし、濱田氏はクラシック音楽の専門家ではないので、話がスペインのことであるのはいいとしても拡散しがちで、眠くなってしまう。 私としては、話はいつも通り和田純子さんでよかったのではないかと思う。 それにおしゃべりより音楽の比率を高めて欲しかった。

7月8日(木) 仕事の依頼が入った。 私のサイトを見て、ということだそうである。

 サイトを見た人から仕事が入ったのは、これで3回目だが、なぜか依頼そのものは電話で来る。 そういうものなのだろうか。

 それで、当サイトに研究室の電話番号を書いておくことにしました。 くれぐれも悪用しないようにお願いします。

 なにしろ日頃から、利殖用にワンルーム・マンションを買わないかというしつこい電話には悩まされっぱなしなので。 FJネクストさん、あなたのことですよ。 断っても懲りずに何度もかけてくるあの図々しさは、どうにかならないものなのでしょうかねぇ。 犯罪的、いや、犯罪そのものだと思うんですが。

 閑話休題。 詳しくはあとで別のページを設ける予定だけど、独立行政法人化したとたん、新潟大学人文学部の研究費はガタ減りなのである。 2年前までは、個人研究費が40万円ほどあり、それと別に出張旅費が6万円あったのだが、今年は両方合わせて20万円しかない。 半分以下、ということだ。 ここにはコピー代、電話代なども含まれている。 これでまともな研究ができると思っているのだろうか? ったく、新潟大学ってのは!!

 であるからして、本代を何とかして自分で稼がなければならないのである。 インターネット時代で、このサイトの 「読書月録」 を見て、著者が直接メールをよこすこともある。 こないだ、浅羽通明氏からメールが来たので、何か物書きの仕事がないかと返事をしておいたのだけれど、当然ながら(?)、応答はなかった。

 私も手をこまねいているわけではない。 というか、そういうわけにはいかないのだ。 で、インターネット上の書店で書評を掲載している某サイトに投稿してみたりしている。 お薦め書評に採用されると、3000円分の本代がタダになる。 念のため、変名で投稿してますので、私の名前で探しても出てきませんよ(笑)。 でも同一人を続けては採用しないようなので、あまり効率がよろしくない。

 以前はPHPのサイトが同様の趣向で書評を募集しており、採用されると図書券3枚をくれたので、時々投稿していたのだが、少し前に打ちきりとなってしまった。 インターネット社会も、なかなか容易には稼がせてくれないのである。

 7月5日(月) 昨日、金沢出張から帰宅したら、穂高町学者村というところから封書が届いていた。 長野県穂高町にある学者村という別荘地で売り地が出ているから買わないか、という勧誘である。 この別荘地そのものは完売しているのだが、所有者が売りに出した区画が6箇所あるので、という話なのだ。

 何年か前にも、この学者村なる別荘地を買わないかという勧誘の封書が届いた記憶がある。 なぜ覚えているかというと、学者のくせに別荘を買うカネがある奴がいるのか、という不快感、別名やっかみ、に襲われたからである。

 ふつうに考えれば、国立大の安月給で別荘なんぞ買えるわけがないのである。 買えるとすれば、親か嫁さんが金持ちであるか、よほどマスコミなどで売れている学者であるか、一部の給料の高い私大の教員であるか、どれかであろう。 まあ国立大の給与でも、子供を作らず共働きで行けば買えそうな気はするけれど。

 ところで、送られてきた封書にはその学者村に別荘を持っている人間のリストが同封されている。 こんなもの公開していいのか、プライヴァシーの侵害じゃないか、とも思うが、まあ同封されているということは公開しても構わないということだろうと考えるから書いてしまうけど、その一番最初に掲載されているのが東大の社会学者 ・ 瀬地山角なのである。

 この人、まだ40歳くらいだと思う。 なのに別荘を所有しているのである。 たしか数年前に送られてきた封書でも載っていた記憶がある。 その時ならまだ30代半ばである。 いくら何でも自分の給料では買えないだろうから、恐らく親の代から持っているのだろうと思う。 

 私は別荘を持っている学者にはやっかみのようなものは感じるが、マスコミなどの副業による収入が多いから別荘を、という人にはそれなりに敬意を表したい。 なぜならその人は自分の才覚と努力によって別荘を所有したのであるから、他人がとやかく言う筋のものではないからである。

 しかし瀬地山角のようなケースは、はっきり言って、佐藤俊樹 『不平等社会日本』(中公新書) の主張を裏付けるものであり、不愉快きわまりないと言わざるを得ないのである。 一見良心的な社会的発言をしている学者が、実は親の財産に甘えてぜいたくな暮らしをしている。 これは日本社会が階級社会であることを証明する事実ではないか? 革命を起こさなくちゃ、という気になるではないか(笑)。

 そして、このリストには別荘所有者の名前だけでなくその所属大学も記してあるが、東大の研究者が数で言うと一番多いのである。 これも、東大進学者には金持ちの子女が多いという指摘を裏付ける事実であろう。 ちなみに、東大の次は、京大、早大、阪大、阪市大の順で、慶応は意外に少ない。

 新潟大の研究者も、少数だが掲載されている。 私の存じ上げている先生も載っている。 教養部時代の同僚で、すでに停年となっている方だが、理系で誠実そうな方であり、とりたてて派手な印象もなかったと記憶しているから、あの人にそんなにカネがあったのか、人は見かけによらないなあ、と思ってしまいました。

 *      *      *      *      *

 閑話休題。 本日は午後7時からりゅーとぴあで、ベルギー国立管弦楽団演奏会を聴く。 指揮はミッコ・フランク、ピアノ独奏はフジ子・ヘミング。 席は3階Jブロック3−1。

 この演奏会、サン・プロモーションというところが企画しているのだが、あらかじめプログラムが発表されていなかった。 フジ子・ヘミングの弾く協奏曲は、ショパンの2番かリストの2番のいずれか、メインは、シベリウスの第2交響曲かムソルグスキーの 「展覧会の絵」 のいずれか、ということだった。 

 ピアニストの故リヒテルじゃあるまいし、プログラムがあらかじめ分からないなんて人をバカにしている、と思った。 それで、演奏会の1週間ほど前にプログラムを問い合わせるメールをサン・プロモーションに出した。 返事がなかなか来なかったが、演奏会3日前くらいにようやくメールが返ってきた。 ところが、である。 その返事が以下のような具合いなのであった。 念のため、すべて原文どおりである。

【 お問い合わせありがとうございます。

  7月5日のフジ子さんの曲目は
  ショパンのリスト ピアノ協奏曲2番第
  となっております。
  アンコール曲は未定となっております。

  宜しくお願い申し上げます。】

 サン・プロモーションって、何なんだろうか? もしかしてまったく何も分かってない人間がクラシック音楽の企画をやっているのだろうか? 謎である。

 それはさておき、プログラムは、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」、リストのピアノ協奏曲第2番、シベリウスの交響曲第2番であった。 アンコールは、フジ子・ヘミングが、ショパン: エチュード第1番 「エオリアン・ハープ」、同じくエチュード 「遺作」、リスト: ラ・カンパネラで、最後のメインのアンコールは、シベリウス : 交響詩 「フィンランディア」 とプロコフィエフ: バレエ音楽 「ロメオとジュリエット」 より 「モンターギュ家とキャピュレット家」 であった。

 私はリストの第2協奏曲はディスクも持たずよく知らないので演奏の良し悪しは分からない。 ただ、フジ子ヘミングの音は、あまり通りが良くなく、しばしば管弦楽の音に負けてしまう。 かといって、弱音の美しさで聴かせる、という感じでもない。 音に芯がないのである。 打鍵の仕方が悪いのか何なのか、専門家でない私には判断がつかないけれども。

 シベリウスはよかった。 このオーケストラの、やや渋い、中低音の充実した音色が、重厚なシベリウスを聴かせてくれた。 最後もアンコール2曲で盛り上げて終わったのが良かった。 オケのヴィオラとチェロの第一奏者はそれぞれたいへんな名手である。

 指揮者のフランクは、以前東京交響楽団の新潟定期に登場するはずが、急病でキャンセルした前歴がある。 本日は、なぜか指揮台に椅子をおいて、座ったり立ったりしながら演奏していた。 後で某音楽サイトで知ったところでは、病気で下半身が悪く、持続して立っていられないらしい。 若いのに大変だなと思う。

 客の入りは良くて、座席は9割以上埋まっていたいたようだ。 3月のコリン・ディヴィス指揮、ロンドン交響楽団が庄司沙矢香の独奏を加えても7割の入りだったことを思うと、やはりフジ子・ヘミングの人気にはそれなりのものがあるのだろう。 しかし、ふだんクラシックを聴かない層が多かったせいか、8時と9時には時計のアラームを鳴らした人が数人いた。 困ったものである。

7月4日(日) KKRホテル金沢で目覚める。 朝食。 デラックスなバイキングで、金沢城の石垣と濠を真正面から見渡すレストランでしたためるのは悪くない気分だ。

 本日は学会での発表だが、私の出番は午後1時50分からなので、午前中は学会をサボってヤマチクに行ってみようと思っていた。 金沢市のレコード屋さんだが、通信販売でセットものCDを安く売っているので、私も時々買っている。 せっかく金沢に来たのだから、一度店舗を訪ねてみようと考えたのである。

 ところが、これが予想外に難航したのである。

 まず、ホテルをチェックアウトするときにフロントで、Yahooのインターネット地図からコピーしてきたものを示して、ここに行くにはどういうバス路線を利用すればいいのかと尋ねたのだが、答がなかなか返ってこない。 ヤマチクは、市内の横川というところに店舗があるのだが。

 結局フロントのホテルマンは答えられず、ロビーにいた相談係のじいさんに訊くようにと言われたのだが、このじいさんもあてにならず、パソコンを色々操作しては覗き込んでいるものの、首をかしげるばかりなのだ。

 だいたいにおいて、よそ者にとってはバス路線くらい分かりにくいものはない。 だから相談係であれば当然ながらそこのところを押さえておくべきだと思うのだが、なぜかそうなっていない。 怠慢じゃないか。 それでもじいさんはだいぶ時間をかけて、怪しげながら、路線と、降りるべきバス停を答えてくれた。

 でもって、武蔵が辻バス停に行って、あらためてじいさんから聞いたバス停に行く路線をバス停の路線図で探したのだが、不思議なことに、路線図にはあるものの、時刻表にはその路線がなぜか載っていないのである! 系統別に番号が付いていて、路線図では何番という番号があるのだが、その番号がなぜかバス時刻表にはないのである!

 これだからバスは嫌なのだ。 バスは、路線に通暁している人間には便利だが、知らない人間にとってはクノッソスの迷宮のごとく難解なものなのである。 仕方なく、ヤマチクに電話して訊いてみたが、○○バス停から歩いて15分です、などとトンデモナイことを言う。 そんな不便なところにあるのかよ。 じいさんから聞いたバス停を言ってみたら、そこはバスの本数が極端に少なく、したがって事実上利用できないのだと言う。

 私はこの時、ほとんどヤマチクに行くのをあきらめかけた。 手ぶらなら片道15分歩いてもいいが、昨日買った 『幻滅』 2巻本の入った軽くないバッグを抱えているのだ。 おまけにこの猛暑である。 次回、クルマで金沢に来たときにしようか、と思いかけた。 何年後になるかは分からないが。

 ところが、である。 そこにやってきたバスを見ると、久安経由、と書いてあるではないか。 ホテルのじいさんに聞いたところでは、目指す停留所は久安の次だ、ということであった。 ならば、バス停1区間を歩けばいいのだ、そう思った私はバスに乗り込んで、念のため横川の近くに行きますかと聞いたら、運ちゃんはうなずいた。

 でもって、途中赤信号でとまっているときに、またもや地図を出し、ヤマチクのある場所を指して、ここに行くにはどのバス停が一番近いですかね、と訊いたら、運ちゃんは、「分かりにくい地図だ」 と言って首をかしげるばかりなのである。 おいおい、アンタがふだんバスを運転している路線を含む周辺図なんやで。 それで分かりにくいってありますかいな、と関西弁を使いたくなっちゃう。

 ホテルのじいさんといい、この運ちゃんといい、金沢の人間は地元の地図を見るのに慣れていないようだ。 これって、金沢人の特性なのかなあ。

 途中赤信号で止まるたびに地図とにらめっこしていた運ちゃんは、それでも最終的には降りるべきバス停を答えてくれ、降りる直前にはあちらに行けばいいと指示も出してくれた。 ありがとうございます。 バスの運賃がここまで310円。 くそっ、通信販売の送料は500円だというのに、往復でオーバーしてしまう。 何のために来たのかなあ。

 などと思いながら歩いていたら、5分ほどでヤマチクに到着しました。 やれやれだ。 

 ここまで来るのに時間をくっているし、午後は1時50分から発表なのだから、多少余裕を見て会場に到着しなければならないことを考えると、あまりゆっくりもしていられない。 セットものを中心に見てみたけど、いいなと思うのは1万円以上して手が出ない。 それでもせっかく来たのだからと、チェルビダッケとクレンペラーの安いボックスセットを買いました。

 帰るとき、念のため再度バス停の位置を訊いてみたら、電話をしたときと同じバス停を答えてくれたが、歩いて10分だという。 なぜか電話の時より5分短縮されている。

 で、実際に歩いてみたら、7分ほどでした。 電話で教えられたのの半分の所要時間である。 うううぅぅぅ・・・・・。 地元の人間の言うことって、アテになりませんね。 これは金沢人だけじゃないだろうけれども・・・・・・。 ちなみに帰りのバス賃は230円だった。

 というわけで汗みずくで学会会場に帰った私は、自販機で500cc入りのペットボトルを買って一気に飲み干したのであった。

 午後1時50分からの発表には間に合いました。 ちなみにタイトルは、「イルカイデオロギーについて考える――藤原英司氏の場合――」 でした。

 学会終了後、新潟行きの高速バスまでに1時間近くあったので、公園のベンチでぼおっとしていたら、雀が砂場で遊んでいた。 学会はセトロジー研究会、つまり鯨学研究会で、イルカも鯨の一種だから、発表ではイルカが遊んでいるところを写したビデオ上映もあったのだが、イルカも雀も遊ぶとすると、両者には質的な差はないんじゃないか、などということを何となく考えてしまいました。

7月3日(土) 朝8時、北陸高速道の鳥原バス停から、金沢行きの高速バスに乗る。 金沢市で開かれる第15回日本海セトロジー研究会で発表をするためである。

 高速バスに乗るのは久しぶりだ。 ずいぶん前、池袋行きの高速バスを利用したことがある。 あの時は運転手以外に車掌 (男) がいたものだが、今回はワンマンである。 乗組員二人では採算がとれないということか。

 数日前から猛暑が続いているが、本日も暑く、加えて車内はあまり冷房が効いていない。 冷房の感じ方は人によって差があり、このくらいがいいという人もいるだろうが、私には効かなさすぎで、ハンケチで汗を拭き通しだった。

 しかし運行は順調で、予定より早く、12時前に金沢市の繁華街である香林坊に到着。 金沢に来たのは久しぶりだが、駅前の通りが広くなっているのに感心した。 ただし駅舎は改築途中のよう。 北陸新幹線開通に合わせて、ということか。

 香林坊バス停前の大和デパートが立派なのに驚く。 昔からこんなだっけか? 建て直したのかな?

 予定より早く着いたし、昼飯にするにはちょっとと思って公園の近くをぶらぶらしていたら、古本屋があった。 入ってみたら、バルザックの 『幻滅』 2巻本を発見。 たったの400円。 即、買う。

 実はこの小説、大学院の演習で読んでいる本で言及されていたのだが、私は未読で所有もしていない。 たしか昔河出のグリーン版世界文学全集で出ていたはずと思って調べると、インターネット上の古本屋に在庫があったが、上下2巻で、1冊1000円ほど、つまり2冊で2000円ほどする。 どうしようか、と思って買わないでいたが、5分の1の価格で金沢で入手できたのはラッキーでした。 これも日頃の心がけがいいからでせう。

 古本屋を出てから、通りの同じ並びにある中華料理屋で昼飯にする。 一見して家族でやっていると分かる店で、カウンターが厨房のまわりを囲っていて、その狭い厨房で祖父と嫁さんとその息子とおぼしい3人が忙しそうに働いている。 暑かったが、冷やしものではなく広東麺を頼んでみた。 美味でした。

 それから公園脇の石川県立生涯学習センターへ。 ここで学会が開かれる。 私の発表は明日だから、本日は聴くだけ。 夕方、いったんホテルにチェックインしてから懇親会に出る。 私はふだんは学会の懇親会には出ない人間なのだが、今回は宿泊しているホテル (KKR) 内で開かれること、この学会で発表するのは初めてであることなどから、出てみた。 しかし知り合いが2人しかいないので、いきおい飲み食いに精を出すこととなる。

 でも日本酒は新潟の酒より味が劣るし、ウィスキーはスコッチだったけど、ふだん自宅で飲んでいるブラック・ニッカよりまずかったぞ。 KKRは以前私が金沢に来た後で建て直したようで、部屋の設備はデラックスになっていたが、こういうところでボロが出るのではいけませんね。

7月2日(金) ドイツ語の原書を輸入販売している東京の某書店から通知が来た。 先日、カタログに載っていた中から私が注文したドイツ語原書のうち、1冊は刊行されない本だと分かったので、注文取消をお願いしたい、というのである。

 その書物のタイトルは、日本語に訳すなら、『トーマス・マン = マタ・ハリ往復書簡集』。

 マタ・ハリは、1876年生まれの有名な女スパイである。 ドイツ作家トーマス・マンは1875年生まれだから、同時代人である。 ヘンな本が出たものだ、しかしトーマス・マンは実在した詐欺師の本に構想を得て 『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』 なんて作品を書いているくらいだから、あり得ないことではない、そう思って注文したのだが、ガセだった、ということであろう。

 もしかすると、4月バカの情報に、日本の洋書店がコロリと騙された、ということなのかも知れない。 ま、私も見事に騙されましたけれども。 なはははは。

6月29日(火) 脚本家・作家の野沢尚氏の自殺が報じられている。 私はテレビを見ない人間なのでテレビドラマでの野沢氏の仕事は存じ上げないが、氏の原作による映画 「波線のマリス」 には大変感心した覚えがある。 つつしんでご冥福をお祈り申し上げます。

 はたからは仕事が順調に行っているように見えても、人間はどこかに心の闇を抱えている。 氏の場合は遺書があったそうだから、理由はいずれ明らかにされるかも知れないが、先日の若い俳優の飛び降り自殺未遂にしてもそうで、他人には分からない衝動や焦燥、絶望感に襲われることはあろう。 それは年齢に関係なくそうなのだ。 

6月28日(月) 2限、大学院の授業だが、二人受講しているはずなのに、演習室に誰も来ない。 もっとも一人は交通事故にあって体調が悪いので、そのせいかもしれないが、いずれにせよ二人とも無断欠席というは困ったものだ。 大学院生の質が落ちていることは5月24日にも書いたので繰り返さないが、一事が万事、なのである。

 仕方なく、演習室においてある雑誌で大学特集を組んでいるのがあったので読んでいたら、橋爪大三郎が対談の中でトンデモナイことを言っている。 日本の大学を全部私立化して、学費も米国の一流大学並みに上げろというのだ。 アメリカの一流私大は年間学費が400万円位するそうで、質のいい教育を受けるのにはカネがかかるのだから、それが当然だというのだが、冗談ではない。

 そもそも日本で子供のために年間学費400万円を払える層がどの程度いるだろうか? 少なくも私などは到底払えない。 今の日本で言えば子供を私立の医科大や歯科大にやれるような階層でなければ、払えない額だろう。 そういう階層の子弟でなければ一流大学に入れないようにしろ、と言っているのと同じなのである。

 そして、橋爪は、それだけの学費が払える階層が日本において特権階級に属するという前提条件には、まったく言及していないのだ。

 橋爪という社会学者の言説には、というか社会学者一般の言説には、時々こういうトンデモナイところが見られるけど、これなどその好例であろう。

 社会学者に八つ当たりしたついでに書いておくと、最近の少子化・年金制度破綻問題で、数日前の毎日新聞に、小倉千加子が 「子供に頼らない年金制度を」 などという意見を開陳していたが、じゃあ具体的にどういう制度にすればいいのかは全然書いてない。 無責任の極である。 こんなトンデモな意見を新聞に載せるなよ。

 かとおもうと昨日の産経新聞では某女性キャスターが、女を 「生む性」 と位置づけない限り少子化は止まらないだろうが、それはアナクロニズムだ、というような文章を載せている。 実は私は前半の見解には大賛成なのである。 女を 「生む性」 と位置づけないと少子化はとまらない。 しかして、それが女性の生活を悲惨にしないように制度を工夫すること、そこがポイントなのではないかしらん。 

 ところがこのキャスター、アナクロだとのたもうて、少子化を食い止める方策は何もお書きになっておられない。 現状肯定で、消費社会で満足していれば少子化なんて気にしない、と言っているのも同然なのだ。 なんでこんなバカな文章を産経新聞はわざわざ掲載するのだろう。 産経のこのコラム、女性限定のコーナーなんだが、これじゃあ女性キャスターはオツムが空っぽですと宣言しているようなものではないか。

6月26日(土) 午後6時30分から、新潟大学管弦楽団第25回サマーコンサート。 会場はりゅーとぴあ。 指揮はいつもの河地良智氏。 プログラムは、モーツァルトの 「魔笛」 序曲、 リムスキー=コルサコフのスペイン奇想曲、シベリウスの交響曲第5番。 アンコールに、リムスキー=コルサコフ 「雪娘」 より”道化師の踊り”、J・シュトラウスの 「トリッチトラッチ・ポルカ」。

開演30分前に着いたのだが、駐車場が満車で入れず(何か大会でもあるのか、陸上競技場の駐車場は閉鎖)、泡食って某スーパーに止めてバ
スで会場へ。 ぎりぎり間に合いました。

 学生オケだから団員は毎年異動があるわけで、指揮者がいつもと同じであっても弾く側としてはそれなりに緊張感や達成感があると思う。 ただ、私のように例年行っている側からすると、変化を付けるためにもソリストを招いての協奏曲を入れて欲しいところだ。

 また、シベリウスの5番というのが、私の好みからするとこの作曲家の交響曲中もっともつまらない曲なので、やるなら1番か2番、じゃなきゃ6番か7番にしてほしい。 演奏の良し悪しよりも、選曲のせいでイマイチ満足感が薄いコンサートでした。 

6月25日(金) 夜7時から、音楽文化会館で田部京子ピアノリサイタル。 オール・シューベルト・プログラムで、最初は歌曲を吉松隆が編曲した 「アヴェ・マリア」 「野ばら」 「子守歌」 「ます」、ピアノソナタイ長調D.664、そしてピアノソナタハ短調D.958。 アンコールが、吉松隆の「子守歌」とシューベルトの「セレナーデ」ピアノ編曲版。 なお吉松隆が解説役で登場した。

 田部さんの新潟でのリサイタルは、これで4年連続になる。 すっかりおなじみになった感。 演奏はいつもの田部さんと同じく急がずおとなしめで、ヤマトナデシコ風であるが、今回は最後のハ短調ソナタの第2、3楽章がなかなか良かった。 ベートーヴェン風の 「考える緩徐楽章」 っぽさとシューベルト風の感覚的な表現がないまぜになった第2楽章、きまぐれな第3楽章。 この曲でも私が好きな部分なので、いい気持ちで帰途に就くことができた。

6月23日(水) 1限、教養科目の 「西洋文学」 の講義。 講義中、大教室の一番後ろの座席に並んで座っている男女がおしゃべりをしている。

 この講義は私語厳禁で、私語をしたら即刻退席。 これを同一人が2回やったら聴講許可取消という決まりにしている。 シラバスにそう明記してあるし、最初の受付の時にもそのことは学生に周知してある。

 しかし、それでも私語する奴というのはいるもので、1カ月ほど前に私語していた女子学生2人を退席させた。

 私語しないコツ (というのも変だが) はごく簡単である。 友人知人と並んですわらなければいいのだ。 私は周知のとおり(?)親切な人間だから、そのコツも最初の受付の際に伝授してあるのだが、言われただけでは耳を素通りしてしまうらしく、実際に痛い目に会わないと分からない奴が結構いるのである。

 本日も、いきなり追い出したわけではない。 途中しゃべるのをやめて、そちらのほうをじっと見た。 イエローカードのつもりだったが、その男女にはどうやら通じないらしく、おしゃべりをやめないので、やむなくレッドカードとなった。 

 ところがである。 追い出す際に所属学部と名前を聞いたのだが、女子学生の方は答えたものの、男子学生は 「この講義はとってません」 と言う。 トンデモナイ奴だ。 授業をとっていない男子学生が、とっている女子学生に付き添ってきて大講義室の最後尾に並んですわりおしゃべりをしているのである。 講義室を喫茶室かなんかと間違えているらしい。 私は即刻、その女子学生に聴講許可取消を申し渡した。

 おおかた同棲でもしていて、起床後も分かれがたく(?)一緒に講義室に来たのだろうが、どうしようもないバカである。

 念のため申しておくと、この講義では出席はとっていない。 だから授業をサボっていちゃついていたいなら、堂々と欠席して、然るべき場所でそうすればいいのである。 何でわざわざ講義室まできておしゃべりをしていちゃついていなければならないのか???? 私にはまったく不可解である。

 名前は挙げないが、教育人間科学部の女子学生であった。 

6月20日(日) 午後2時から新潟交響楽団の第74回定期演奏会に行く。 場所は、新潟県民会館。 ワーグナー:「タンホイザー」序曲、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番、ブラームス:交響曲第3番というプロ。 アンコールとしてブラームスのハンガリー舞曲第5番、グリーグの「二つの悲しい歌」から。 指揮は伊藤浩史、ピアノは伊藤淳子。

 全体にテンポがゆるめで、しかもリズムが一定、というか、生きた感じがなく、機械的に進行するような印象で、イマイチ。 指揮者のせいだろうか。 ピアノ独奏もあまり印象に残らなかった。

 ところで潟響を聴く前にりゅーとぴあで、今度の土曜に行われる新潟大学管弦楽団サマーコンサートのチケットを買っていたら、オバサンが来て職員に 「オーケストラ演奏会はここですかね?」 と聴いた。
 職員 「潟響ですか?」
 オバサン 「いえ、N響です」
 職員 「新潟交響楽団でしたら、県民会館ですから、お隣りです」

 ううむ、分かりが早く実に的確な職員だこと! りゅーとぴあの投稿サイトには時どき職員への苦情が載るけど、新潟交響楽団を勝手にN響に昇格(?)させてしまうオバサンにもきちんと対応しているのだから、賞讃してあげなくてはいけない。

 とはいえ、新潟交響楽団もイニシャルでいけばN響には違いない。 ○○年後、N響と言えば新潟交響楽団のこと、と言われるように精進しましょう(笑)。

6月19日(土) 午後7時から長岡市のリリックホールで、アンサンブル・オビリーの演奏会を聴く。 室内楽だしそんなに客は来ないだろうと思って開演15分前くらいに行ったら、思いのほか混んでいて、びっくり。

 アンサンブル・オビリーは長岡市やその近くに住む演奏家が結成した室内楽アンサンブルである。 ヴァイオリンの牧田由起さんを始め、ピアノの山家慶子さん、チェロの片野大輔氏、フルートの堀井康子さんがメンバー。 本日は小山香織さんがゲストピアニストとして加わった。

 プログラムは、シューマンのアラベスク、ショパンのスケルツォ第1番、ファランクのフルート三重奏曲、ブラームスのピアノ三重奏曲。 アンコールとして、ブラームスのハンガリー舞曲第1番と、「ゴンドラの歌」。

 他はともかく、牧田由起さんのヴァイオリン、良かった。 ドレスも、前回(5月22日)と違って純白で、これまた良かった。 花嫁衣装みたい、というのは妄想に近いか。 牧田さんは、演奏が終わったときの柔和な表情と、演奏中のやや冷たい表情との落差が、何ともいえずチャーミング。

 会場で、5月にも会った高校生のA君と再会を果たして、少々話をしました。

6月16日(水) 明日の1年生向け演習に出ている女子学生からメール。 この学生は体調不良で先週から休んでいるのだが、医者の診断に従って今週いっぱい休みを取り、来週から出たいとのこと。 

 先週はこれとは別のドイツ語のクラスで試験をやったのだが、欠席した学生がいたので続行する意志なしと見なしたら、昨日の授業に現れて、やはり病気で2週間ほど欠席していたのだという。

 なぜか今年はこういう学生が多い。 そういう年なのだろうか? それとも日本人は病弱になってきているのだろうか?

 閑話休題。 給料日は明日だが、1日早く給与明細だけ届いて、4月分からの大学院担当手当が出ることが分かったので、さっそく本をまとめて注文する。 生協書籍部と、某古本屋。

 昨年度は大学院の授業に誰も来なかったので (ドイツ語の原書講読にしたためである。 大学院でも原書講読の授業が成り立たないのは業腹だが、背に腹は代えられないから、今年は軟弱に、大学院の授業でも日本語の本を読むことにしてしまいました)、手当をもらっていなかった。 まあ、それでも非常勤をやっていたから良かったのだが、今年はその非常勤もなくなったし (何しろ少子化で定員割れしている私大だから、仕方がないのである)、バカ息子は仙台の私大に入ったしで、あっという間にヨユーがなくなって、本を買うのにもしばらく考えてから、という状態が続いていた。

 こういう状態は精神衛生上よろしくない。 といって、研究費で買おうにも、国立大の独法化で、今年の研究費+出張費は従来の半分以下になるのでは、という予想が有力なのだ。

 学生の病弱なことといい、入ってくるものが少なくなりつつあることといい、こりゃ没落の予兆だろうか・・・・・。 しかし大学院担当手当が3カ月分まとめて出るので、一時のことではあるが多少ヨユーができそうだ。 刹那的に喜ぼう!!

6月13日(日) 自宅ステレオでCDを聴くと、このところ雑音が入る。 FMやLPでは入らないのに、である。 少し前にも同様の現象があって、その時はCDプレイヤーとアンプをつなぐプラグを差し直したら良くなったのだが、またぞろおかしくなってきた。 プラグをまた差し直してみたが、解決しない。

 それで、アンプ側のプラグをAUXに入れてみたら解決した。 今まではテープデッキ用の2つある入力のうちの一つに入れていたのだった。 どうも原因はアンプのテープデッキ入力の内部接触だったらしい。 このアンプも買って20年ほどになる。 途中2度ほどオーバーホールに出しているのだが、また出す時期になっているのかも。

6月9日(水) 東京の中古CD屋で買ってきたCDをぼつぼつ聴いているが、どうも今回のはイマイチなのである。

 アンネ・ゾフィー・ムターが弾いたラロのスペイン協奏曲。 何というか、元気が良すぎて、この曲の持っているラテン的でメランコリックなロマン性みたいなものがうまく出ていない。 いくらテクニックが優れていたって、それだけじゃあダメだ、ということの見本みたいな演奏だ。

 ヴェンゲーロフの弾いたブラームスの第2ソナタ。 ベートーヴェンのクロイツァー・ソナタと組み合わせで、こちらは持っていたのだが、ブラームスは未聴だったので買ってみたもの。 しかしやはり元気が良すぎる。 クロイツァー・ソナタならいざしらず、ブラームスはもう少し屈折を持って弾かないといけないんではないかね? 

 著名なヴァイオリニスト二人に共通する弱点を発見したような案配になってしまいました。

6月6日(日) 午前10時から、日大文理学部にて、日本独文学会のシンポジウム 「ドイツ語・第二外国語教育の危機とドイツ語教師の姿勢」 を行う。 150人収容の会場は8割かた埋まった。 まずは盛況と言えよう。 この問題に関するドイツ語教師たちの関心の高さを物語っていよう。

 パネリスト5人の発表タイトルは、

1. 東京都立大学の現況 ―地方自治体の大学への介入―                 保阪 靖人 (東京都立大学)
2. 新潟大学における語学教育「改革」の実態 ―ドイツ語教師の転向を中心に―    三浦 淳 (新潟大学)
3. 英語帝国主義に抵抗することによってのドイツ語教育存在の意義             小多田嘉宏 (ウィーン・パリ独仏教室)
4. 漂流する日本、漂流する大学、漂流する私                           栗山次郎 (九州工業大学)
5. 大学改革のなかのフランス語および関連科目の教育                    石川文也 (横浜市立大学)

 パネリストの発表のあとは、活発な質疑応答が交わされた。 特に慶応大のS氏と大阪学院大のK氏からは多方面にわたる示唆に富むご発言をいただいた。 感謝したい。 

 このシンポジウムの内容は、いずれそれなりの形で公けにされるであろう。

6月5日(土) 本日から独文学会である。 会場は、世田谷の日本大学文理学部。 午前中は研究発表はなく、総会があるばかりだが、午後は別の用事があったので、一応受付を済ませるためと、書籍展示を見るために午前中に行ってみる。

 書籍展示では最近ドイツで出版されたゴーロ・マン (トーマス・マンの次男で歴史家。 数年前に亡くなった) の伝記を見つけて買う。 30ユーロ弱の値段だが、これが日本の洋書屋で買うと5000円に化ける。 内心ブータレながらも平静な顔つきで支払いを済ませる。 日本の本だと1冊5000円というと買うのに少し考えるのだが、洋書は考えているヒマがないのである。 とほほほ。

 それから飯田橋に直行して新潟に来なかった映画 「アドルフの画集」 を見てから、3時より新宿にて明日のシンポジウムのための打ち合わせに臨む。 私を入れて5人。 場所は、コーヒーや紅茶1杯1000円というトンデモナイ値段の喫茶店である。 その代わり時間は無制限という話だったのだが、ところが予約して席をとっておいたため、2時間しかいられないとのこと。 詐欺みたいなものだ。

 とりあえず打ち合わせは何とか済ませた。 3人は夕方から用事があるといって引き揚げたので、九州から来られたK先生と私とで2軒ほどハシゴをして飲んだ。 しかし明日午前10時からシンポジウムを行うので、自制して、深酒しないように気をつける。

6月4日(金) 午前中、日比谷で映画を見たあと、渋谷に行き、そこの元祖くじら屋で鯨唐揚げ定食を食う。 903円で、ここのメニューでは一番安い。 というか、これ以外のメニューは高くて、私の財力を越える。

 満席で、ちょっとだけだが待たされた。 繁盛は結構なことだ。 ほどなく席に案内されたが、大きなテーブルに3人と相席。 2人はギャル風の若い女の子同士。 この世代は、日本人がふだんから鯨肉を食っていた時代を知るまい。 そういう世代の若者たちが気軽に鯨唐揚げ定食を食するのは喜ばしい。

 もう1人は私の席の向かいで、初老の小柄な御婦人。 この店には何度も来ているけれど、御婦人の1人客は珍しいと思う。 若い時分にはずいぶん鯨肉のお世話になった世代であろう。

 昼食後、近くの映画館でフランス映画を見てから、渋谷の街の新本屋、古本屋、CD屋を見て回る。

 そのあと、築地の浜離宮ホールで午後7時からセルゲイ・ハチャトリアンのヴァイオリン・リサイタルを聴く。弱冠19才のアルメニア人ヴァイオリニスト。 モーツァルトのホ短調ソナタ、ベートーヴェンの「春」、バッハの伴奏付きソナタ第2番、プロコフィエフのソナタ第2番というプログラム。

 ピアノ伴奏はウラディーミル・ハチャトリアン。 ヴァイオリニストの父だと某サイトに書いてあったが、本当かどうかは知らない。 年格好から言うとそれでも不思議はないが、顔は全然似ていない。 なおヴァイオリニストは同名のアルメニアの作曲家とは血縁関係にはない、と某新聞に書いてあった。

 閑話休題。 音がよく通り美しく、気品があると同時に若々しい息吹のようなものが発散されていて、まずこの点に強い印象を受けた。 テクニック的には前半はちょっとケアレスミスが散見されたものの、後半は安定。 もっとも、曲種ということで言うと、前半の方が合っている感じ。 若々しさ、伸びやかさ、率直な美しさがホ短調ソナタや 「春」 にはぴったり。

 一方、後半になると、たしかに美しく、よく弾けてはいるのだが、曲の持っている複雑さ、屈折、といったものが必ずしもよく表現されていないウラミもなしとしない。 しかし19才の若者にそこまで要求するのは酷であろう。

 いずれにせよ、このヴァイオリニストは買いである!

6月3日(木) 午前中、阿佐ヶ谷で映画を見たあと、上野の東京都美術館に 「栄光のオランダ・フランドル絵画展」 を見に行く。 フェルメールの 「画家のアトリエ」 が初めてアジアに来たというので話題になっている展覧会だが、ウィーン美術史美術館の所蔵品からレンブラントの自画像などが展示されていた。 しかし特に心に残るほどの作品はなかった。

 そのあと高田馬場で古本屋めぐりを少々。

6月2日(水) 朝の新幹線で東京へ。 映画を2本見てから、夜はサントリーホールで東京交響楽団第515回定期演奏会を聴く。 金聖響指揮、第5回浜松国際ピアノコンクールで最高位 (第2位2人のうちのひとり) アレクサンダー・コブリンの独奏で、ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲、ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲、ブラームス:交響曲第4番というプログラム。

 コブリンは、痩せて長身、細面に眼鏡をかけた風貌は、どちらかというと学者のような印象。 演奏も、ダイナミズムや強靱さよりも、ゆっくりとした抒情的な箇所で本領を発揮するタイプのように思われた。

 ブラームスの4番。 早めのテンポでたたみかけるような演奏。 細かいニュアンスや微細な美しさよりは、音のエネルギーとスピード感に聴衆を乗せていくような行き方だった。

 昨年同時期に引き続き、東響新潟定期会員は東響の東京での演奏会チケットをタダでもらえるという制度を利用したが、前回は1階1列目右端から2番目だったけれど、今回は1階3列目右から4番目で、少し良くなった。 といっても、客の入りが7ないし8割程度で昨年より悪かったかららしい。 昨年はエンリコ・ディンドがプロコフィエフのチェロ協奏曲第2番を弾くのがウリだったのにくらべると、イマイチ出演者やプログラムに魅力が欠けていたためだろうか。 私がもらったのはA券だったようだが、左隣が何人分も空いていたのはS席だったからか。 さすがにS席はタダではくれない、ということなのであろう。 ま、私は東響新潟定期もB席で聴いているくらいだから、文句は言えないけれども。

 演奏会が終わってから、ホールと道路を隔てて向かい側にあるラーメン屋で夕食にするが、ここはどうも値段が高い。 フツーの醤油ラーメンが650円、餃子が500円、ビール中瓶が500円で、しめて1650円取られた。 もう少しいい店はないかなあ。 どなたかご存じありませんか。

 何年か前、このあたりに地味な感じの食堂があった。 レストランではない、スナックでもない、まさに 「食堂」 と言うしかないような店であった。 中高年の夫婦でやっている店で、私は一度だけそこに演奏会終了後に入ったのだが、値段も手頃で味も悪くなく、また来ようと思ったのだけれど、いつの間にかなくなってしまったようだ。

6月1日(火) 映画 「サマーストーリー」 のパンフを札幌の古本屋に注文していたのが、昨日届いたので、その代金を払い込む。 といっても送料込みで810円だから安い。

 この映画、英国作家ゴールズワージーの小説 『林檎の木』 を原作とするものであるが、十数年に制作され、新潟ではシネ・ウインドで上映された。 私は少なからず感動し、パンフを買おうと思ったら、売り切れていた。 それからしばらくは東京の映画専門の古書店などで探していたのだが、見つからないので、いつしか諦め、忘れていた。

 それが先日、たまたまEasy Seekのサイトをのぞいているときにふと思い出して、ためしにキーワードに入れて検索してみたら、札幌の古本屋にあるのが分かり、即購入したものである。 インターネット時代になってこういう探し物は実に楽になった。

 パンフの内容も悪くないが、日本人評論家の鼎談の中で、東京の大学に勤めている英文学者だとかいう女が、ヘンにフェミ系の発言に終始しているのが玉に瑕か。 この頃からこういうヒトっていたんですね。 やれやれだ。

5月30日(日) 昼過ぎから西地区コミュニティーセンターで、私の所属する西内野卓球クラブと、浜浦クラブとの親善卓球大会。 毎年春と秋とにやっている行事で、今回は第19回を数える。 

 私はここのところ学会発表 (それも二つ!) の準備で忙しく、さっぱり練習をしていなかったが、この行事にはいつも参加しているので、今日は久しぶりでラケットを握った。 戦績は・・・・・・言わぬが花、である。

 夜は内野駅前の寿司屋で懇親会。 ちょっと飲み過ぎてしまいました。

5月29日(土) 午後6時半から、りゅーとぴあコンサートホールでモザイク・カルテットの演奏会。 古楽器による弦楽四重奏団なので、コンサートホールの舞台上に客席をもうけての演奏である。 もっとも、チケットを欲しがる人が多いため、追加発売として舞台に隣接した2階席にも客を入れている。 私は幸いにして早めにチケットを申し込んでいたので、舞台上の席である。

 ハイドンの 「皇帝」、モーツァルトの 「不協和音」、ベートーヴェンの 「ラズモフスキー第1」 というプログラム。

 最初の音を聴いた瞬間から、ああ、この演奏会にきて正解だったな、と思った。 つややかで美しいだけでなく、非常に柔らかいのである。 第1ヴァイオリンの音がこの3要素を見事に兼ね備えていて、音を聴いているだけでいい気持ちになってくる。 またチェロは、まるで天女の羽衣のようにふわりと、まるで弓で弦をこするのではなく、羽毛か何かでこすっているかのごとくに音が出てくる。 こんなチェロの音は初めてだ。

 このような音によって演奏される各曲は、したがって通常の楽器で聴くのとは違ったイメージで姿を現す。 一言で言えば角がなくまろやかで優しげな音楽になっているのである。 ベートーヴェンですら、鋭角的でも直線的でもなく、あくまで弦の音の美しさとまろやかさが基調になっているので、まるで荒々しい野武士だと思っていたら実は典雅な騎士であった、という具合いなのである。

 それは、ふだんこれらの作曲家に抱いている印象を壊すというよりは、予期せぬ新たな側面を見せてくれるのであり、心地よい音色にうっとりしながらも一つ勉強したなあ、という充実感をも味わえるのである。

 うん、いい演奏会でした。 私は今まで実演を聴いた弦楽四重奏団では、ウィーン・ムジークフェライン四重奏団とボロディン四重奏団が最高だと思っているのだが、そこに今日のモザイク四重奏団が加わりました。

5月25日(火) 2限が1年生向けドイツ語の授業。 今年採用した教科書に付いているテープ、どうも発音が英語流なので困っている。 それで、ほとんど使っていない。 ドイツ人が吹き込んでいるはずなのだが・・・・まさか、英国人に頼んだりしないよね。

 ドイツ語の綴りでEが短母音の場合、日本語のエの音とだいたい同じになるはずなのだが、このテープで聴くと英語流にイに近く聞こえる。 例えば 「英語」 という意味のドイツ語はEnglischで、普通、エングリッシュと発音するのだが、このテープではイングリッシュと聞こえる。

 本日も、Banker (銀行員) という単語が出てきたが、本来は 「バンカー」 と発音するはずが、テープで聞くと英語流に 「ベンカー」 に聞こえる。

 吹き込んでいるのは女性で、齢は分からないけれど、もしかすると若い世代では発音を英語流にするのがはやっているのだろうか・・・・・。

5月24日(月) 2限が大学院の授業。 といっても、ドイツ語の原書講読では学生が来ないので――大学院でも学力低下がいちじるしいので――今年は軟弱に日本語の本を読むことにしている。

 しかし、本日は受講生2人のうち1人しか来ない。 1人は交通事故にあったとか。 実は先日、学部1年生向けの人文総合演習で受け持っている学生も、やはり交通事故にあい、1回休んだあと、足に包帯を巻き松葉杖をついた姿で教室に現れた。 どうも、連鎖反応というのでもなかろうが、交通事故は続くようだ。

 さて、大学院の授業といっても、たいしたことはないのである。 本日出席した学生も、「ボヴァリズム」 も知らなければ 『ボヴァリー夫人』 すら知らず、おまけに知らないにもかかわらず、調べても来ない。 前からちゃんと調べてこいと言ってあるのだが、調べるということがそもそも身に付かないようだ。

 なんでそんな学生が大学院に、と内部事情を知らない方はお思いでしょうが、今どきは大学院に行くのは勉強のためと言うよりは社会に出るのを延ばすためという色彩が強いのである。 また、大学院の定員を文科省が勝手に増やし、定員に満たないと文句を付けてくるので、受験すれば落ちることはほとんどないのが実態なのだ。 大学院進学、と言うより、入院、と言った方がよさそう。

 まさに、大学院はご臨終、なのである。 大学院なんぞを増やすより、学部の基礎教育を充実させた方がはるかにいいのだけれど、なにせ文科省は分かってないですからね。

5月23日(日) 昨日長岡のBOOKOFFで買ってきた中古CD2枚を聴く。 1枚はラティカ・ホンダ=ローゼンベルクという、クロアティア人と日本人のハーフの女性ヴァイオリニスト。 98年のチャイコフスキー国際コンクールで2位に入ったという。 チャイコフスキーとショスタコーヴィチの1番の協奏曲を弾いている。 なかなかしっかりした音を出していて、悪くない演奏家だ。 片親が日本人なのだから、日本に来て生演奏を披露してほしいものだ。

 もう1枚は、ベーム指揮ウィーン交響楽団+ウィーン国立歌劇場合唱団によるモーツァルトのレクイエム。 1956年のモノラル録音である。

 古い音源だが、ベームだから、と思って買ったもの。 聴くと、ところどころで音に歪みがあるが、ま、仕方があるまい。 ベームらしく、誇張もゆるみもないきっちりとしたスタンダードな、安心して聴ける演奏だ。

 ベームは、実演ではかなり乗った演奏をすることもあるが――私は残念ながら生演奏は聴いていない。 生演奏がFMで実況されるのは聴いている――、スタジオ録音ではこういうスタンダードな演奏が多いと思う。 しかしそこが貴重なので、変に 「個性」 を前面に押し出した演奏よりもむしろ曲の特徴をよく伝えていると思う。

 数ヶ月前、平凡社新書から変な本が出た。 クラシックの指揮者をまとめて紹介してあるのだが、指揮者ごとの特質や長所を紹介するのではなく、一人一人にケチをつけるのがポイントになったような記述なのだ。 おいおい、お前は何様だと思っているんだっ、と著者の胸ぐらを掴んで言いたくなるようなスノビッシュな姿勢が、どうしようもなく鼻につく。 

 ベームについても、べームはもうヨーロッパでは忘れられている、などと書いてあるのだが、お前はヨーロッパ人の好みのままにこの本を書いたのかっ、お前自身はどう思っているのだっ、と叫びたくなってしまう。 実に下らない本で、無論買わなかったが、クラシック愛好家には時々こういうどうしようもない手合いがいるのが、玉に瑕なのである。

 変な評論家の本は相手にしないで、CDや演奏会にオカネを使いましょうね。

5月22日(土) 午後7時から長岡交響楽団第41回定期演奏会 (リリックホール) を聴くために、クルマで長岡に向かう。 途中、長岡市のBOOKOFFで古本少々とCD2枚を買う。

 何でアマチュアのオーケストラを聴くためにわざわざ長岡まで出かけるかというと、ヴァイオリニストの牧田由起さんが出演するからなのである。 牧田さんは知る人ぞ知る美貌のヴァイオリニストであり、私も昨年新潟市でリサイタルを聴いて以来のファンなのである。

 指揮は磯部省吾で、ベートーヴェン: 「コリオラン」 序曲、 ブルッフ: ヴァイオリン協奏曲第1番、 ブラームス: 交響曲第4番というプログラム。

 中では、やはり牧田さんの弾いた協奏曲が圧巻であった。 実に堅実で隅々まで神経の行き届いた名演! 

 これほどの技倆、そして美貌を兼ね備えたヴァイオリニストが新潟県の清里村にくすんでいるのは惜しい。 とりあえず、次は新潟交響楽団 (これもアマチュアだけれど)、そしてできれば東京交響楽団とも共演の場を作ってほしいものだ。

 なお、演奏会終了後、会場で、ネットを通じて知り合ったお二人と話をする機会があった。 お一人は仕事の都合で最近長岡に単身赴任をされた中年男性 (といってもワタシより若い)、もう一人は地元長岡の高校生である。

5月18日(火) 最近、ヘンデルのオラトリオをクルマのステレオで愛聴している。 ヘンデルの作品は、同じバロック期の巨匠とされるバッハに比べると演奏機会が少ないし、オラトリオのCDも有名な 「メサイア」 を除くと多くは出ていない。 しかし 「メサイア」 以外にも結構名曲があるのだ。

 私が以前 (十年以上前) よく聴いていたのは 「アレクサンダーの饗宴」 である。 FMからカセットテープに録音したものだが、悪くない曲だなと思っていた。 1年ほど前、この曲のCDを買おうと考えて調べたのだが、入手可能な盤が皆無というのにはいささか驚いた。 ヘンデルがバッハに比べていかに冷遇されているかは、この事実からも分かるだろう。

 その後、通販でヘンデルのオラトリオ4曲組みの安いセットを見つけたので、購入した。 「アレクサンダーの饗宴」 が含まれていないのは残念だが、勝者への頌歌 (表彰式などによく使われる曲) が有名な 「マカベウスのユダ」 などは、バッハの受難曲に比肩する傑作だと思う。

 現在は 「セメレ」 をクルマのステレオで聴いている。 これまたなかなかの佳曲である。 

 CDだけでなく、ヘンデルに関する書籍も少ない。 私が使っているのは、音楽之友社から出ている小型の 「大音楽家・人と作品」 シリーズに入っている渡部恵一郎 『ヘンデル』 であるが、オラトリオ全般についてもう少し詳しく解説した本があれば、という気がするのだが。 日本ではヘンデルを研究している人なんか余りいないのかなあ・・・・。

5月16日(日) 夜、奥村健一&松村牧子デュオコンサートに行く。 実は予定していなかったのだが、チケットをもらったもので。 箏とヴァイオリンの合奏という珍しい趣向。 ほかに奥村京子 (十七弦) と信田みな (チェロ) が出演。

 和楽器と洋楽器の組み合わせ、案外いけるな、という印象。 もっとも私は和楽器の演奏会には行ったことがないので、うまい下手はよく分からないが。

 最後に、チェロと十七弦を加えてメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第2番から第2・4楽章が演奏された。 しかしここに至ってやや違和感が。 ピアノのパートを二台の和楽器で弾くわけだが、音量が小さくて、ヴァイオリンとチェロに負けているのである。 これは曲の作り方のせいもあるかも知れない。 前半の箏とヴァイオリンではそういう不釣り合いは感じられなかったので。

 それと、全体として曲数が少なすぎる。 正味1時間もない演奏会では、物足りない。 せめて最後のメンデルスゾーンは全曲やってほしかった。

 ヴァイオリンの松村さんは、潟響のコンサートミストレスだそうだが、なかなかの実力派。 笑顔も素敵だし。 今度はクラシックの曲でリサイタルを聴いてみたい。

5月8日(土) 午後6時30分から音楽文化会館で新潟室内合奏団第47回演奏会を聴く。 指揮は新井久雄で、モーツァルトのディヴェルティメントK.138、シューベルトの交響曲第3番、メンデルスゾーンの交響曲第3番 「スコットランド」。

 昨年春の演奏会ではメンデルスゾーンの 「イタリア」 で快演を披露してくれた指揮者とオケのコンビだが、今回はシューベルトが一番良かった。 この曲のややパセティックで激しさを伴った情感をよく表現していた。 モーツァルトは、最終楽章がイマイチ。 もう少しモーツァルトの小粋さというか、リズミカルな面白さを聴かせて欲しい。

 メンデルスゾーンについて言うと、この 「スコットランド」 はオケの技術がかなり要求される曲だなと感じた。 技術というのは、音をはずさないとかひっくり返らないといったレベルのことではない。 曲の印象を決定づけるのが音色の美しさそのものなので、一応はずさず弾けましたというだけでは聴衆に満足感を与えることが出来ないのである。 その意味では、アマチュアの合奏団にとっては非常に難しい曲だなと実感した。 今後の精進に期待したいところである。

5月7日(金) こういう時代 (ってどういう時代だ?)、ときどき変な郵便物が送られてくるわけだが、本日は 『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ』 というタイトルの、230ページほどもある、B5判 ( 『ぴあ』 と同じ) の冊子が自宅に届いた。

 富士大石寺顕正会とかいう宗教法人が出したもので、日蓮を宗祖とする団体らしいが、ちょっと読んだ限りでは、池田大作の創価学会を日蓮聖人への裏切り者と決めつけ (しかし、この団体の会長だという人の写真が表紙見返りに載っているが、池田大作にどこか似ているぞ)、日蓮の教えに背いた日本はまもなく国家破産、巨大地震、食糧危機、他国からの侵略 (中国を言っているようだ) など亡国の危機に見舞われるであろうと説いている。

 はあ、それにしてもどうしてこういう冊子が私宛てに送られてくるのだろう? 私にとってはこれが一番の謎なのだ。

5月5日(水) 昨日、東京の中古CD屋で買ってきたうちの1枚、ベーム指揮ウィーンフィルによるモーツァルトのフルート協奏曲2曲&フルートとハープのための協奏曲を収めたCDを聴いてみたら、雑音が入っている。

 最初のフルート協奏曲第1番はいいのだけれど、第2番になるとところどころぷつぷつと、まるでLPのスクラッチノイズみたいな音が入っている。 そして最後のフルートとハープのための協奏曲になると、雑音がかなり目立つ。 ただし第3楽章だけはなぜか雑音が皆無。

 400円と安かったので買ったのだが、安物にはそれなりの理由があるということか。 DGの輸入盤なんですけどねえ。

5月4日(火) 両国のホテルを出て、阿佐ヶ谷と中野の映画館で立て続けに3本の映画を見る。 中野の中野武蔵野ホールは数日後限りで閉館だそうな (詳しくはこちらを)。 安い料金で昔の映画を見せてくれる映画館がまた一つ減る。 困るねえ。

 その後、高田馬場で中古CD屋、BOOKOFF、芳林堂を見て回る。 高田馬場のBOOKOFFに入ったのは初めてだが、早稲田大の近くだけあってわりにマシな本があるようだ。 4冊買う。 中古CD屋では400円コーナーにセル+クリーヴランド管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲が3枚あったので (残念ながら全集ではない) それを含め6枚買う。 午後7時発の新幹線で新潟に帰る。 

5月3日(月) 連休を利用して上京。 横浜のみなとみらいホールでマウリツィオ・ポリーニの演奏会を聴く。

 彼の演奏を生で聴くのは初めてである。 日本にはしょっちゅう来ている人だが、地方都市には来ないので、実演を聴くには上京するしかない。 連休中なので、大枚をはたいて聴きに行ってみた。 (S席2万2千円、プラス新幹線代往復とホテル代、うううぅぅぅ・・・。 さいわいにしてホテル代込み往復18800円という格安チケットがあったので助かったけれど。)

 プログラムを見たら来日公演記録が載っていたが、東京と大阪以外での公演ははなはだ少ない。 今回を入れて13回来日しているが、無論新潟には来ていない。 首都圏と関西圏以外では、福岡、札幌、広島、名古屋が各一度あるだけ。 大阪すら1995年公演が最後で、以後東京オンリー。 ううむ。

 で、演奏だが、シェーンベルク2曲 (6つのピアノ小品op.19、3つのピアノ曲op.11) は初めて聴いたので除くとして、ベートーヴェンのソナタ第7、8番とシューマンの幻想曲。 まずベートーヴェンの7番。 第一楽章がものすごく速いのにびっくり。 これでもか、って感じ。 他の楽章はそれほど極端ではなく、まあきちんと弾いてはいるしそれなりのものではあるが、特にすごいという感じもしない。

 第8番 「悲愴」 は、第一楽章は緩急をはっきりつけていてめりはりが効いているのが特徴。 あとは、まあ普通。

 シューマンの 「幻想曲」。 実は私はこの曲に馴染んだのがポリーニのディスクを通してだったので、若い頃のディスクでの演奏と62歳になった現在の演奏とがどう違うのか、楽しみにしていたのだが、ほんの少しテンポが遅くなり、最初のあたりはニュアンスがちょっと豊かになったかなと思ったけれど、あとは変化なし。

 ううむ。 ポリーニはディスクで聴いても実演で聴いても差がない演奏家、ということになるのだろうか。

 先月だいしホールで聴いたナウム・グルーベルトが想起される。 演奏にヒューマンな、血が通っているような感覚があって、多分ディスクで聴くのとは違いがあるのだろうと想像される演奏だった。 だいぶ前に聴いたルドルフ・フィルクスニーの演奏とちょっと共通するところがあった。 ポリーニはそれとは対極的な演奏家なのだろう。

 しかしポリーニは22000円、グルーベルトは3000円。ううむ・・・・・。

 なおアンコールに、シューマン 「幻想小曲集」 から 「飛躍」、ショパンの子守歌変ニ長調、およびエチュードop.10−4が演奏された。 ショパンは悪くない。 ポリーニはショパン弾きなのかもしれない。

4月28日(水) ちょっと前のことになるが、ヒマができたので備忘のために記しておく。

 自分のサイトを持っていると時々未知の方からメールをいただくということは以前にも書いた。 今月はじめ、Nという方からメールが舞い込み、20日頃まで何度か意見の交換をした。

 慶応の西洋史学科で主として政治思想史を勉強し、その後京大大学院に進学して学者を目指したが、わけあって進路を変更し、今は国立大医学部受験を目指しているという方である。 私のサイトを見て、自分の問題意識を聞いてもらいたい、と思われたようだ。

 その方の抱いている問題意識には、残念ながら私の学識では十分に答えることができなかったが、広い知識とすぐれた思考能力を持つ方で、こういう方が学者になるのを断念ぜざるをえない状況は、日本にとっては損失と言わねばならない。 今の日本は少子化などで学者になるのが非常に難しくなっている。 団塊の世代の頃と比べると雲泥の差があろう。

 しかし一方で、国立大の法人化などで学者の待遇は (もともと大して良くないのに) ひどくなる一方だから、この方のように別の職業を選んで、ディレッタントとして学問や思想に取り組んでいくのも一つの生き方ではないか、と思われたことであった。

4月25日(日) 5月3日に横浜にポリーニのリサイタルを聴きに行く予定にしているが、プログラムのうちシェーンベルクの小品集は聴いたことがなく、ディスクも持っていない。 予習しておこうと考え、一昨日、シネ・ウインドに映画を見に行ったついでに石丸電気新潟店に寄ったが、ディスクは見あたらなかった。 それで本日、東響新潟定期の前に、古町の 「クラシックのモーツァルト」 と 「HMV新潟店」 を訪れてみたが、やはり見あたらない。

 この作品、NAXOSのCDに収められているはずで、「クラシックのモーツァルト」 はNAXOSは全部揃えているという触れ込みなのだが、なかった。 この3店にないとすると、新潟での入手は絶望的だ。 ううむ、新潟の限界を感じる。 東京なら、銀座、秋葉原、渋谷、新宿、池袋など盛り場を回ればどこかで見つかるのだろうが・・・・・・。

 しかし 「クラシックのモーツァルト」 では、せっかく来たのだからと、シマノフスキの交響曲第1・2番などNAXOSを2枚買う。

 りゅーとぴあでは東響新潟定期が始まる前に、5月22日に長岡で行われる長岡交響楽団のチケットを入手。 これは、長岡響でクラリネットを吹いておられるDaa氏とインターネットで交渉し、Daa氏も東響定期を聴きにこられるというので、本日演奏会場で落ち合うことにしたもの。 この種の交渉はインターネット時代になってずいぶん便利になった。

 長岡交響楽団の演奏会は、知る人ぞ知る美人ヴァイオリニスト牧田由起さんが登場してブルッフの協奏曲を弾くので、ミーハーの私としては見逃せないのである。

 さて、いよいよ東京交響楽団第26回新潟定期演奏会。 午後5時から。 指揮は飯森範親、ピアノがファジル・サイで、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番と、マーラーの交響曲第5番。

 ファジル・サイのモーツァルトは素晴らしい。 生き生きとした、生身のモーツァルト。 日本人演奏家にありがちな、形は整っているけど躍動感が全然ないような行き方とは根本的に違う。 あくまで自分の音楽としてモーツァルトをとらえ、自分の感覚で生かそうとしているのだ。 

 アンコールに自作を2曲、ブラック・アースとバラードを弾いた。 このブラック・アースがまたよかった。 片手を楽器上に伸ばしてピアノの弦を押さえるように弾く。 独特の音が出る。

 さて、後半のマーラー。 まず、技術的には抜群にうまい。 ホルンとトランペットの第一奏者に外人を持ってきて、管楽陣がいささかの破綻もないのに加え、弦も実に美しい。 

 だがしかし、恐れていたとおり、かなりテンポを落としての演奏。 マーラーのエグさ、分裂症的でごった煮的なところが、感じられない。 その辺が表現されないと、単に教科書的に上手な演奏をしました、というだけで、苦みやすっぱみの混じったコラージュ風の面白さが出てこないのではないか。

 エラソーな言い方で恐縮だが、飯森さんにはその辺を今後の課題にしていただきたい。

4月19日(月) 夜7時から、新潟グランドホテルで、にいがた音楽協会総会コンサートを聴く。 プログラムは、今成真理子のピアノで、ベートーヴェン: ソナタ第31番、 ドビュッシー:「金色のさかな」、 片野大輔のチェロと山家慶子のピアノで、シューマン: 幻想小曲集、ラフマニノフ: 前奏曲、オリエンタルダンス、チェロソナタ第4楽章、 鈴木涼子のメゾソプラノと斉藤美和子のピアノにより、グノー: 「ファウスト」 より ”花の歌”、「ロミオとジュリエット」 より ”どうしたんだい、白いきじ鳩よ”、ビゼー: 「カルメン」 より ”ハバネラ” と ”セギディリヤ”、サン=サーンス: 「サムソンとデリラ」 より ”あなたの声に心は開く”、ベルリオーズ: 「ファウストの劫罰」 より ”愛に燃え上がる炎が”。

 演奏家はどなたも新潟県在住、或いは新潟と縁のある方々で、水準も一定レベルに達しており、満足できるコンサートであった。 チェロの片野氏は時代劇に出ると似合いそうな美男子で、そのためか私の隣りに座っていたオバサンは彼の演奏には盛大な拍手を送っていた。 なおピアノ伴奏の山家さんも、若い頃の手塚理美にちょっと似たチャーミングな女性で、私としては演奏者ふたりが何となくお似合いではないか、と思ってしまったのだが、こういうことを考えるのも老人になりかかっている証拠でしょうか?

 いずれにせよ、この演奏会が無料とは、申し訳ないような気がする。 しかしにいがた音楽協会という団体は、一般にはあまり活動内容が知られていないし、パンフレットには入会案内がはさんであったが、年会費5000円というのだけれど特典が具体的に書かれていない。 この辺は要一考であろう。

4月17日(土) T氏の主宰する新潟のクラシック音楽サイト掲示板で、4月9日に続いてまた一悶着あった。 しかも今度は私も巻き込まれて、である。 

 詳しくは略すが、どうも女を装ったネカマが紛れ込んでいたらしい。 変質者は発言も変だということなのでしょう。 

 そこで一句。 「若太り 臭気を放つ ネカマかな」。

 或いは、「医者よ、自分を癒せ」。

4月16日(金) マンガ家の横山光輝氏が亡くなられた。 寝タバコによる失火が原因と言うから、人はどういう死に方をするか分からないものだと思った。 69歳で、3年前くらいから足が悪くて一人では歩けなくなっていたというのは、マンガ家商売は机に向かいっぱなしだから体に悪いということなのだろうか。 老母および妹と暮らしていたというけど、家族関係はどうなっていたのだろう。 喪主は長男だというから、結婚はしたわけだよね?

 横山光輝は手塚治虫と並ぶ少年マンガ界の巨匠であるが、手塚に比べると文化論的に取り上げられる機会が少なく、いわば無冠の帝王といった趣きがあった。 横山が手塚のまわりにいたいわゆるトキワ荘グループとは違ったところから出てきた、ということもあったかも知れないが、根本的な理由は、作風の違いであろう。

 たしかに、手塚のマンガは大人になって読んでもそれなりに面白いが、横山の作品にはそういうところはない。 少年期には夢中になって読むが、大人になると卒業してしまう。 文化論をかますのは大人の仕事だから、大人の目には面白いと思えない横山の作品がとりあげられる機会が少なくなってしまうのは必然である。

 しかし、だから横山が手塚に劣っているという結論になるかというと、そうではないのである。 少年時代に夢中になって読めて、その後は見向きもしなくなるマンガを書くことができるということ――これはすごい才能なのだ。 しかも一時期ではなく、長年にわたって横山はそれをやってきたのである。

 そして、むしろ大事なのは、大人には面白さがよく分からないが少年が夢中になって読めるマンガの魅力を解明することではなかろうか。 唐沢俊一も横山光輝論の必要性を説いていたと記憶するが、斯界の人間にはその方面の仕事を期待したい。

 いずれにせよ、横山光輝氏の冥福を心から祈るものである。

4月14日(水) 7時から音楽文化会館で中川詩英 (うたえ) のヴァイオリン・リサイタルを聴く。 ピアノはセリーナ・ツィルヴィンスクで、プログラム前半は、ベートーヴェンのソナタ第8番とブラームスのソナタ第2番。 後半がスペインもので、ファリャ (コハンスキー編曲) の 「スペイン民謡組曲」、サラサーテ 「アンダルシアのロマンス」、ヴィラ・ロボス「黒鳥の歌」、ファリャ 「スペインの踊り」 作品26−8、サラサーテ 「マラグエーナ」、クライスラー 「ジプシー女」。 アンコールとして、エルガー 「愛の挨拶」 とポンセ 「エストレリータ」。

 中川さんは、平出修の曾孫に当たる。 平出修 (1878−1914) は、新潟市出身で、高田 (現・上越市) で弁護士として活躍し、幸徳秋水事件を世に伝えたので知られる文化人である。 今回のリサイタルは、曾祖父の残した文化財保護運動の一環として行われたらしい。

 ・・・・・まあ、能書きはともかくとして、演奏からはあまり芳しい印象を受けなかった。 何となく弾いているだけで、自己主張がない。 この人ならでは、というものが感じられない。 だから何も残らないわけなのだ。 一応最後まで聴いたけど、途中で帰ろうかなと思いかけた。 そのくらい冴えない演奏会だった、ということですね。

 あと、女性の外見にこだわる私としては、せっかく前半と後半で服装を変えているのだから (後半はスペイン風、らしかった)、髪型も工夫したらと言いたい。 中川さんは額が広く、しかもすこし出っ張っている (いわゆる、おでこ)。 その額を丸出しにした髪型にしている。 ところが背丈は小さい。 だから見ていてアンバランスで、何となく不安定な印象になってしまう。 前髪を多少たらして額を少し隠すような髪型にしてはいかがか。

 ところで、この演奏会には県知事と新潟市長も見えていた。 そんなに重要な演奏会だったのかな。 平出修のため? それとも偶然? 

 篠田・新潟市長は、写真で見てもそう思うが、実物もなかなか見栄えがする方である。 最近では首長も外見が重要になっているから――石原慎太郎や田中康夫を見よ――悪いことではない。 無論、中身もともなっていないといけませんが、新潟市を代表する人物がそれにふさわしい外見を持っているのは、結構なことだと思うのである。

4月9日(金) 本日から新潟大学では授業が始まった。 3限の2年生向け基礎演習の教室に行ったら、女子学生2人の他に中年男性が1人すわっている。 外見が教官風なので、てっきり教室を間違えたのかと思ったが、話を聞いてみると高校の先生で、もともと持っている科目以外に某教科の免状をとるために聴講生として新潟大に来ているのだが、面白そうなので免状とは無関係な私の授業もとりたいのだと言う。 無論、大歓迎である。 大学の授業ってのは本来そうあるべきなのだから。

 *   *   *   *   *   *   *

 ところで、一昨日から昨日にかけてのことになるが、新潟市在住のT氏の主宰になるクラシック音楽サイトの掲示板が荒れ模様で、T氏が掲示板の内容を全部クリアするという事件 (?) があった。

 掲示板の新参者と古株との議論というか、言い争いが原因だが、どうもクラシック音楽の愛好家にはスノッブ臭、自己顕示臭がつきまとうのが嫌らしい。 この場合は両者にその傾向があった。

 主宰者のT氏自身は温厚でバランスのとれた思考の持ち主だが、掲示板に出入りする人間は必ずしもそうとは限らないのが残念である。 しかも、掲示板に長年にわたって住み着き、いうならばT氏という他人の掲示板に執着している人間が、必ずしも長年の経験を活かすような、つまり多くの人間が掲示板に書き込みたいと思わせるような書き込みマナーを身につけていないのは、何と言うべきであろうか。

 こうした事件を見るにつけ、人間が必ずしも経験から学ぶ知恵を有していないこと、インターネット掲示板という比較的新しいメディアにある種の限界が付きまとっていることを痛感させられる。 無論、それは私を抜きにして、ということではない。

4月8日(木) 午後7時から、だいしホールでナウム・グルーベルトのピアノリサイタル。 あまり名を聞かない演奏家だが、旧ソ連の出身で、1977年にモントリオール国際コンクールで第二位、翌年のチャイコフスキー国際コンクールでも入賞した後、ソ連を離れてオランダに移住し、ヨーロッパで活動しているピアニストである。

 プログラムは、前半がショスタコーヴィチ: 前奏曲とフーガ作品87-14、シューマン: ロマンス作品28、幻想曲作品17、後半がベートーヴェン: ピアノソナタ第10番と第23番 「熱情」 であった。

 実を言うとさほど期待していなかったのだが、予想を裏切る非常に素晴らしい演奏会であった。 奇をてらうことなく、といって指は動くけど何を表現したいのか分からないという凡手でもない。 CDばかり聴いていたのではダメで演奏会に来ないと曲の本質は分からないよなあと実感させてくれる、そんなピアニストなのである。

 前半は、感興を途切れさせないためであろう、ショスタコーヴィチとシューマン2曲を、途中立ち上がることなく、立て続けに弾いた。

 前半も悪くないのだが、私の好みでいうと後半のベートーヴェン2曲が素晴らしかった。 ちょっと大げさな言い方をすると、近代芸術における感性と思考との相克および統合がみごとに表現されていました演奏であった。

 1曲弾いたアンコールも良かったが、曲名が分からない。 シューベルトみたいな感じだったけれど。

 客の質は悪くないとはいえ、ちょっと入りが淋しかった。 定員300人弱のだいしホールが半分埋まっていたかな。 音楽文化会館 (約500人定員) で満席、というのでもおかしくない内容だったと思うのだが。

 ところで、3月12日に続いて、また或る方をお見かけする機会があった。 ううむ。

4月3日(土) 東京・高田馬場の中古CD屋で買ってきたCDのうち、トン・コープマンのチェンバロ演奏によるバッハの平均律クラヴィーア曲集を聴く。

 昔、ビンボー学生だった頃、私はこの曲はFMから録音したテープで何度も聴いたものだ。 ヘルムート・ヴァルヒャのチェンバロ演奏と、リヒテルによるピアノ演奏と。

 その後、CD時代になってからピアノ演奏はアンドラーシュ・シフのを備えたが、なぜかチェンバロ演奏のものは買わずにきた。

 というわけで、特に第2集は久しぶりに聴いたのだが、第1集に比べるとやはり凡作が多いような気がする。 大バッハにしても人間であり、傑作だけを残すわけにはいかなかったということか。

4月2日(金) 東京の山野楽器で買ってきたCDのうち、ユリウス・レントヘン (ドイツ語流の発音ならレントゲンだが、オランダ人なのでこうなるはず) のチェロソナタ集を聴く。 この作曲家は某クラシック音楽サイトで初めて知り、聴いてみる気になったもの。 

 1855年生まれ、1932年死去という人だが、現代音楽風のところはなく、シューマンやブラームスなどのロマン派の音楽づくりを受け継いでいるようだ。 そのせいで、と言っていいかどうか分からないが、とても聴きやすい。

4月1日(木) 船橋を出て新潟へ向かう。 途中のサービスエリア売店で、H卓球クラブの人たちへの土産にお菓子を買ったが、春限定発売、という桜饅頭が出ていたので、それにする。 高速道路の売店も少しずつ進化しているのだろうか。

 土産をH卓球クラブのために買ったのには事情がある。 このクラブでは、練習日の休憩時間におやつがしばしば出るのである。 それも、どこかの温泉に行ったお土産だとか、男性会員のよく出来た奥さんが料理の腕を活かしておはぎを作ってくれるとか、女性会員が自分でプリンを20個も作ってもってくるとか、結構美味なものが出る。

 私もいただくだけでは申し訳ないので、時々こうしてお菓子を持参する。 私自身や愚妻には自作能力が欠けているので、店で買うしかないのは残念無念である。

 話を戻す。 新潟で高速道を降りて一般道を走っていたら、ガソリンスタンドに 「やる気のあるフリーター募集!」 という看板がでっかく出ていた。 フリーターって言葉、こういう使い方をするようになったのかね。 「やる気のあるアルバイト要員募集!」 というなら分かるが、「フリーター募集」 とは・・・・これじゃ 「やる気のある自由業者募集」 ってなもので、私の語感ではどうもおかしいのだが・・・・・。

3月31日(水) 2日前から老母の住む船橋に来ているが、本日は私の外出日とし、銀座に出て映画を2本見、山野楽器でCDを2枚購入してから、上京するといつも寄っている高田馬場の中古CD屋に行ってCDを6枚買う。

 途中、総武線から山手線に乗り換える東京駅で、4台のエスカレータが全部上昇になっているのに驚く。 朝9時半頃である。 といってもエスカレータは何箇所もあるから、ホームに降りる客は他の場所でエスカレータに乗りなさい、というわけなのだろうけど、世の中は少しずつ変わってきているのだろうか。

 銀座では昼食時に吉野家に入って、話題の?豚丼を食べてみた。 これが320円とは安い。 ふだん新潟では昼食は生協食堂か愚妻弁当で、吉野家には行かないので (というか、大学のすぐそばに吉野家はないので)、牛丼も久しく食べていないが、牛の方が高級感があると思うのは私が昭和20年代生まれのせいかなあ? 

3月29日(月) 4月から国立大は独立行政法人化されるが、それに先だって予算の使い方の変更点について、事務方からの説明会が午前中にあった。 実は本日の説明会は理系向けで、文系向けは明日なのだが、私は今日の午後から休暇を取って子供連れで老母の住む船橋に出かける予定なので、理系向けの説明会に出席したものである。

 どうも事務も、大枠は決めたものの、細かいところは実際にやってみないと分からない、らしいのだが、一つだけ重大な事柄を書いておくと、予算の次年度繰越はできない、つまり、その点では今までとまったく同じだということである。

 たしか、独立行政法人化のメリットとして、国家予算の単年度主義にとらわれず自由な使い方ができる、ってのが挙げられていたと思うんだけど、これじゃ何も変わらないんじゃないの、と言いたくなっちゃう。 どうします、小泉さん??

3月28日(日) 午後5時から、東京交響楽団第25回新潟定期演奏会。 秋山和慶指揮、中村紘子のピアノで、ルトスワフスキの「オーケストラの書」、ショパンのピアノ協奏曲第2番、ペンデテツキの交響曲第3番。 中村紘子のアンコールが、ショパンの軍隊ポロネーズ。

 ショパン以外はあまり馴染みのない曲で、私はペンデレツキの曲は少し前にNAXOSのCDを買って予習していった。 しかし実演を聴くとやはり面白いものだ。 打楽器が活躍するのでそれだけで10人以上の奏者を必要とするし、私が名前も知らない珍しい打楽器もある。 全5楽章で、真ん中の第3楽章がアレグロの静かな曲だが、それを中心にシンメトリカルな構成になっているようだ。

 演奏前の秋山さんのお話では、ペンデレツキは東響としても前日のサントリー定期で初めて演奏した曲だそうで、新潟でこういう曲が聴けるのも東響新潟定期のおかげであろう。 願わくは満員の聴衆が集まるように。 この日はB席とC席が寂しかった。

 ショパンは、まあ普通かな。 もっともこの曲、やはり演奏前の中村さんのお話では、リズムが独特でバックの演奏が案外難しいのだそうである。 そう言われて聴くとそんな気もしてくる。 その意味では、普通に演奏するのも結構大変なのかも知れない。

3月25日(木) 長男の高校の吹奏楽部・合唱部合同演奏会が夜、音楽文化会館であり、息子が出る第2部 (吹奏楽部) に途中まで顔を出す。

 それにしても長男も高3で、ということはつまり実はすでに卒業してしまっているのにもかかわらず、発表会に出るというのだから、ヨユーである。 というか、この高校はそういうしきたりになっているのだそうで、学力中堅どころで進学校じゃないからだろうけれど、いくら何でものんびりしすぎているのではないかしらん。

 しかし、我が身を振り返るに、高3の秋を過ぎてもなお部活はやっていたから (音楽関係でもスポーツ部でもない、個人の活動に重きをおいたクラブだったけれど)、人のことは言えませんね。 ははは。

3月23日(火) 自分のサイトを持っていると、時々未知の方からメールをいただく。 

 昨日は匿名の方から、昔大学で読んだオーストリア作家による小説をまた読みたいのだが、作家名とタイトルを失念してしまった、かくかくの筋書きだが分からないだろうか、というメールをいただいた。 私の知らない作品で、手元のドイツ文学史や文学辞典を見てみたが分からず、ドイツ文学会のメーリングリストに投稿して問い合わせてみたが、分かるかどうか。

 以前も、ゲーテがこういうことを言ったと昔教わったが、出典を知らないか、というメールを或る方からいただいたが、分からず、やはりドイツ文学会のメーリングリストに投稿して、ご存じの方はいませんか?と問い合わせたのだが、結局分からなかったことがある。

 こういうシロウトの方からの問い合わせには専門家としてもなるべく答えてあげたいのだが、調べるのは案外難しいものなのである。 特に教科書版で読んだ小説というと、必ずしも文学史上で有名な作品とは限らないから、厄介だ。 日本人学生相手の語学授業の教材となる小説は、むしろ 「文章がやさしい」 「筋書きが面白い」 「長さが適当である」 を基準に選ばれることが多いからだ。 そしてそういう小説は概して三文で、ドイツ・オーストリア本国ではとっくに忘れ去られたりしていることが珍しくない。

 おまけに、最近の第二外国語の退潮で、初級文法以外の教科書版は大幅に少なくなりつつあるし、中にはドイツ語教科書そのものから撤退してしまった出版社もあるから、なおのこと調べるのが困難なのだ。

 もっとも、上記のようなメールは、ドイツ語教師に宛てたものとしてはまともな内容と言える。

 本日は、新潟大学の受験生から、何で自分は後期入試に落ちたのですか?というメールが来て、往生した。 全然知らない人からである、念のため。 

 うーん、そんなことを私に訊かれても、困るのだなあ。 だいいち、受験生の名前は合否判定の教授会資料には出ないし、仮に出たとしても何百人もいる受験生の名前や受験番号をこちらが覚えているわけがないのである。 まあ、覚えていたって、こういうことには答えられませんけどねえ。

 それで、その類の質問は本部の入試課にしてくれ、アドレスはかくかくです、という返信を送ったら、分かりました、すみませんという返事が来た。 返事をよこすだけまともな受験生だと言えよう。 来年は合格するよう頑張ってくれよ。

3月21日(日) 午後2時から、りゅーとぴあにて、合唱団にいがた+新潟メモリアルオーケストラによるハイドンのオラトリオ 「四季」 演奏会を聴いてく。 指揮は山岡重信、ソプラノが川口聖加、テノールが松浦良治、バリトンが箕輪久夫。 合唱団にいがた結成10周年記念コンサートだそうである。

 この大曲、私は生で聴いたのは初めてであるが、コンサートホール舞台の背後にスクリーンが掛けられて歌詞の訳が出て、お陰でハイドンのユ
ーモラスな側面もよく理解できた。 指揮者以外は新潟在住もしくは出身者による演奏会だが、こういう作品を取り上げて立派に演奏してくれたことに拍手を送りたい。

 3人の独唱者では、川口さんが安定したバランスのとれた歌を聴かせてくれ、印象に残った。 箕輪氏 (新潟大学名誉教授) も、こういう言い方は失礼かも知れないが、70歳を越えている (だったかな? 違ったらご免なさい) とは思えない若々しい声で、ちょっと大げさに言うなら、居住まいを正さざるを得ない思いだった。

3月15日(月) 以前新潟大学の同僚だったO氏が、法事で新潟に来て、ついでに私の研究室で茶飲み話をしていった。 氏は私と同時期に新潟大に赴任し、現在は埼玉大学に勤務している。

 国立大の抱える問題はどこも似たり寄ったりだ、と思う。 埼玉大でも古い校舎の改修計画があるのだが、さっぱり実行に移されないという。 氏の研究室も古く、雨漏りしていたが、それは修理してもらえたとのこと。 しかし天井板は破れたままだというから、国立大の、特に文系の施設のボロさは明らか。

 この20年間、地方都市の道路や施設はずいぶん良くなったけれど、国立大の施設、少なくとも文系のそれはさっぱり良くなっていない。 バブルの頃だって国立大にはロクに金がかけられなかったのである。 それでいて不況になると、とたんに国立大への税金の使われ方がどうだ、という話になる。 どこか変なのだが、こういう変さはまともに報道されたためしがない。

 *   *   *   *

 さて、本日はアテネ五輪のマラソン日本代表の選考があり、高橋尚子が落選した、というのが大ニュースとなった。 

 私の感想を言うと、陸連としては最も無難な選び方をしたのだと思う。 無難だという意味は、世間の民主主義的な非難を浴びる心配が最も少ない、ということである。 これ以外の選び方、つまり高橋を入れて坂本か土佐を落としていたら、陸連に対する世間の非難は今回の比ではあるまい。

 しかし問題が難しいのは、無難な民主主義的な選考・イコール・好成績を狙える選考、ではないというところなのである。

 メダルを狙える、ということで言えば高橋が最も有力なのはシロウト目にも明らかだ。 しかし高橋は選考会を兼ねた大会で結果を出せなかった。 もし陸連が、メダルを狙えるというホンネだけで選んでいたら、高橋を入れていただろう。 

 実際、昔だったら陸連はそうしていただろうと私は思う。 瀬古や有森がらみで、陸連は過去にそういう選び方をしているからだ。

 しかし、近年はマスコミを通じて、陸連などのプロ集団による選手選考に批判的な意見が集中するようになっている。 先のシドニー五輪での水泳代表での騒動は記憶に新しい。 専門家集団も世論を相当に気にせざるを得なくなっているのだ。

 たしかに、陸連などのプロ集団には学閥や人脈や利権などの好ましからざる要素が見られるかも知れない。 けれども、そうは言っても彼らがプロ集団であることは動かしがたい事実であり、したがって五輪代表を決めるのにふさわしい目利きが集まっていることは否定できないのである。

 小出監督が、高橋が選考会を兼ねた大会で2位に終わった後、「誰が強いか、専門家は知っている」 という発言をしたのは、必ずしも高橋への身びいきではなく、専門家のホンネだったと私は考える。

 よく、一発勝負で代表を選考したら、という意見があるけれど、専門家であればあるほど、一発勝負がアテにならないことは認識している。 これはスポーツに限らない。 試験や選考会を通じて人材を選択するという業務に携わっている人間であれば、一発勝負の場で有力な人材が不調に終わるケースが珍しくない事実は心得ているはずなのである。

 たとえば野球を考えてみればいい。 年間ペナントトレースを通じた打率や本塁打数や打点を見て初めて、誰が好打者かが分かるのだ。 もし一試合だけで好打者を判定せよと言われたらどうだろうか? ゴジラ松井だって、試合によっては4打数無安打で終わる。 そして松井より誰の目にも劣る打者が、たまたま同じ試合で4打数3安打を放ったり、満塁ホームランをかっとばしたりすることは十分に考えられるのである。

 選考会を兼ねた大会が4つもある、というのは、たしかに分かりにくいけれども、私にはその分かりにくさを通じてプロの目が最大限に活かせるようなシステムなのだと見える。

 けれども、選考会を兼ねた大会にはもう一つの機能がある。 その大会での成績を通じて、「この人が選ばれるのは当然だ」 と世間を納得させるという機能だ。 近年のマスコミ報道の過熱により、選考会のこの後者の機能が重みを持ってきたように思う。

 今回、高橋尚子が落選したのはその結果であろう。

 何にせよ、こうなったからには、選ばれた3選手は本番で結果を出すしかない。 メダルをとるか、最低でも入賞しなければ、今回の選考結果を正当化することはできないだろう。 「一生懸命やりましたから」 という浪花節はアテネでは通用するまい。 なぜなら、プロ集団の目ではなく、世間から見た公正さを基準に選んだ以上、もし本番で結果を出せなかったなら、世間から見た公正さで選ぶのは間違いだ、という結論になってしまうからである。

3月12日(金) 午後7時から、音楽文化会館で石井朋子帰国ピアノリサイタルを聴く。 

 あらかじめチケットを買わずに当日券で入るつもりで行ったのだが、会場に着いたら 「チケットは売り切れです。 パイプ椅子が出せるかも知れませんので、入場ご希望なら開演5分前までお待ち下さい」 と言われてしまった。 実は某音楽サイトに、チケットが売れなくて苦戦しているという情報が載っていたのだが、どうやらガセネタだったらしい。

 幸いにして入場でき、パイプ椅子ではなく普通の座席にすわれたけれど、入りの良いのには驚嘆。 ほぼ満席なのだ。 過去3年間の田部京子さんのリサイタルとは雲泥の差。

 石井朋子さんは、新潟出身で、1994年に新潟中央高校を卒業して桐朋音楽大学に入学、同大学を卒業後、モスクワ国立音楽院に留学して大学院を修了したという経歴の方である。 

 私としてはそれだけの予備知識で演奏会に出かけたのだが、会場で或る人に会って、世の中の意外な結びつきに気づいたのである。 或いは新潟という地域社会の狭さ、とも言えるだろうか。 いずれにせよ、私としてはそのことに小さなショックを受け、穏やかならざる心理状態で演奏会を聴いた。

 プログラムは、前半がバッハのトッカータ ニ短調BWV913とシューマンのクライスレリアーナ、後半がラフマニノフのプレリュード作品23−1、作品32−12・8・10、作品23−6、スクリャービンのソナタ第5番。 アンコールがスクリャービンのポエム作品32−1とシューマンのトロイメライ。

 演奏は――テクニック的には弾けているのだけれど、聴衆にインパクトや感銘を与えるにはもう一歩の印象。 自分なりの音、ダイナミズム、解釈、といったものを打ち出していかないと、数多いピアニストの中で頭角を現していくのは難しい。

 しかし、まだ若いことだし、また演奏会を開いて欲しい。 私は 「動機不純」 の人間だから、応援しています。

3月10日(水) 午後7時から、りゅーとぴあにて、ロンドン交響楽団演奏会を聴く。 指揮はコリン・デイヴィス、ヴァイオリン独奏が庄司沙矢香で、シベリウスの 「大洋の女神」、シベリウスのヴァイオリン協奏曲、ストラヴィンスキーの 「火の鳥」。

 入りがイマイチ。 7〜8割くらいの入りか。 東京交響楽団新潟定期公演の入りの悪いときよりも劣る。 今年度の新潟市は、11月にウィーンフィルが来て、3月にロンドン交響楽団と、外来オケの当たり年だったわけだが、ウィーンフィルが 「騒動」 と形容されるほどの激しいチケット争奪戦に見舞われて、買えない人からの苦情が殺到したのに比べると、英国ナンバーワンの声望高いロンドン響のこの不入りは何としたことだろうか。

 私が庄司沙矢香を生で聴くのは2度目になる。 3年前は同じりゅーとぴあで、アシュケナージ指揮のフィルハーモニア管弦楽団との共演でメンデルスゾーンの協奏曲をやった。 小柄な体に似合わぬスケール感のある演奏で、急がずにテンポを自分なりの表現意欲に従わせる弾き方に感銘を受けた。

 そして今回、3年前は少女と言うよりは子供という印象だった彼女もそれなりに成長した姿を見せ、水色のドレスで舞台に登場、いやが上にも期待は高まった。 十分なテクニックを持ちながらそれを誇示せず、また部分部分でテンポを落としてじっくり曲の真価を伝えようとする弾き方は、以前と変わらず、こちらの期待を十二分に満たすものだった。 しかし曲が曲だけにそうしたテンポの変化が細部にまで及ばざるを得ず、バックは昨日の京都公演に続いて2度目の共演だったはずだが、ソロと合っていないところもあった。

 それと、問題なのは庄司の音量である。 3年前と比べると音量が小さくなっているような気がした。 曲が違うから一概には言えないし、私の記憶もアテにはならないが、ヴァイオリンは難しい楽器で、体の成長が必ずしも音の大きさにつながらないとすると、神童といわれるヴァイオリニストが順調に成長するのは案外大変であるという事実が想起されないでもないのである。

とはいえ、充実した演奏であることは確かで、盛大な拍手が寄せられ、アンコールにイザイの無伴奏ソナタ第2番のプレリュードが演奏された。 バッハの旋律を使ったコラージュ的な小品で、これはこれで面白く、演奏会に来た甲斐があったと改めて感じ入った。

 さて、ロンドン響メインの 「火の鳥」 だが、私はストラヴィンスキーが余り好きではなく、この曲もディスクで数回聴いた程度である。 だから何を言う資格もなさそうだが、聴いていて実にうまいな、と感心した。 音は決して派手ではないし、これ見よがしなところはなくて、むしろ渋めで、重いところに特色があるのだが、それでいて安定して底力のある響き。 まさに 「男は黙って・・・・・」 の世界である。 オーケストラを聴いたなあ、という充足感にたっぷり浸れる演奏会だった。 

 アンコールに、チャイコフスキー 「エフゲニ・オネーギン」 からポロネーズが演奏された。

3月9日(火) 出身高校から同窓会報が送られてくる。 年1回発行の新聞形態のものである。

 余り読むところもないが、「訃報」 欄だけは目を通す。 3年ほど前、クラブ活動で1年後輩だった人が亡くなったのを知って、少しショックを受けた。 自分より年下の人間が40代で死んでしまう、というのは、ちょっと予想外だったので。 でもそういう年齢になってきた、ということなのかなあ。

 今回、その訃報欄で、同学年だったH君が亡くなったのを知った。 特に親しくしていたわけではないけれど、記憶に残る人だった。 国木田独歩の 『忘れがたき人々』 ではないが、親しく付き合ったわけでもないのに何となく記憶が鮮明な人と、そうでない人とがいるものである。

 H君は、すらりとした長身で、白皙で面長の美男子であった。 クラブ活動は卓球部で、リーチの長さを活かしてということだったのか、シェークのカットマンであった。

 成績も良く、一橋大学に進み、卒業後は有名商社に就職したと聞いた。 50か51で亡くなってしまうのは本当に惜しい。 謹んで哀悼の意を表します。

3月8日(月) 出来の悪い長男が仙台の私大に入ることになったので、本日は休暇を取って、アパートを探しにクルマで仙台に出かける。

 当初は私と長男で行くはずが、女房が一緒に行くと言いだして、3人になってしまった。 それなら私は行かなくてもいいだろうと思う人もいようが、女房は仙台の地理に通じておらず、また 「地図が読めない女」 でもあるので、とてもじゃないけど長男と二人だけでクルマで仙台に行かせられないのである。

 というわけで3人で朝8時15分頃出発。 磐越道は路面がかなり痛んでいて方々に穴ぼこがある。 冬期間はチェーン装着車が多いから、痛みがひどいということなのだろう。 道路公団さん、すみやかな補修をお願いします。 12時頃仙台に到着。 めざす大学は東北自動車道の泉インターからすぐである。 大学の生協で昼食をとってから、生協の世話でアパート探し。

 私も昔、学生時代を仙台で送ったので、そのイメージからいい物件を探すのは難しいのではと思っていたのだが、これがまったくの誤算。 うれしい誤算ではあるが。 この私大の周辺にはアパートがものすごく沢山あり、どうやら供給過剰になっているようで、安くて内容もまあまあの物件がいくつもあるのだ。

 中には、入居者には電気冷蔵庫と洗濯機をプレゼント、などという信じがたいプレミアム付きの物件もある。 冗談みたいな話だが、本当なのだ。 家主からすると、1年間空室にしておくよりも、冷蔵庫と洗濯機をプレゼントしても1年分の家賃が入った方がもうかるわけだから、必死なのだろう。

 あらかじめ場所と間取りと設備を掲示板で確認してから、実際に3つほどの物件を見て回り、結局鉄筋コンクリート製のマンションの1階に決めた。 7畳ほどの広さの居室に台所・風呂・トイレ付き (ホテルのように風呂とトイレが一緒、というのではない) で、家賃が3万円! 別に水道代が定額で月額2千円。 バカみたいに安い。 新潟より安いよねえ。

 私も実のところ、息子をマンションに住まわせることになるとは予想していなかったので、びっくりした。 世の中、意外性に満ちていますね。 年収ウン千万円の開業医になった気分だったりして。 ははは。

3月6日(土) 午後7時から、見附市のアルカディア・ホールで、ホール開館10周年記念コンサート。 井上道義指揮、アルカディアホール管弦楽団 (この催しのためだけに井上氏の呼びかけで結成されたオーケストラ) の演奏で、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲 (独奏=久保田巧) と田園交響曲。

 うーむ、久保田巧さんのヴァイオリン、もう一つ印象に残らなかった。 ちょっと音程が狂ったところもあったけれど、それ以上に、彼女ならでは、というものが感じられないのが不満。 一流のヴァイオリニストは自分なりの音というものを持っているはずだが、「これが久保田巧だ」 という音色が出ていなかったと思う。 第二楽章では微妙なニュアンスで勝負しようとしているのは分かるけど、それが100パーセント音となって表現されておらず、こちら (聴き手) が頭の中で補って理解しているような具合になる。 これはちょっとまずいのではないか、と。

 これに対して井上道義の指揮は面白かった。 ヴァイオリン協奏曲第2楽章での冒頭の音の作りや、田園交響曲第五楽章の最初のあたりのヴァイオリンでの非常にソフトな感触には感心した。

最後のアンコールでは、春の到来を、ということでヴィヴァルディの 「四季」 から 「春」 第1楽章が演奏され、途中から久保田巧さんも舞台に登場する趣向が良かった。 井上の話術も巧みだし、楽しい締めくくりとなりました。

3月5日(金) 長嶋茂雄倒れるのニュース。 大丈夫かなあ。 

 先日、相撲の元横綱・鏡里が死去したというニュースが入った。 私は鏡里の現役時代の記憶はほとんどないが、新聞記事を読んでいたら、初代・若乃花がコメントを寄せていて、これで自分の先輩横綱は全員故人になってしまった、と。 私は初代・若乃花のファンだったのだが、その若乃花も60代半ばを過ぎている。 長嶋茂雄もしかり。 

 私も、子供時代の英雄がそろそろこの世から退場する年齢にさしかかった、ということだろうか。 トシはとりたくないものです。

 ところで、カタール (サウジアラビアに隣接した半島国家) の首都ドーハで行われている世界卓球選手権団体戦で、日本の女子は健闘し、3位以内が確定した。 今回は若手中心のメンバーだったので、果たしてどうかという懸念もあったのだが、緒戦のイタリアで惜敗した時は懸念が現実になったかと思われたものの、その後は勝ち進んで予選リーグ1位。 念のため説明すると、世界卓球選手権の団体戦は、12チームを2つにわけ、それぞれリーグ戦を行い、上位2チームずつ、つまり合計4チームで決勝トーナメントを行うのである。

 そして本日インターネットニュースで確認したら、日本女子は決勝トーナメントで中国と対戦し、2−3で惜敗した。 中国チームはダントツで実力世界一と見られているのだから、これは賞讃すべき結果であろう。

 日本は男子がさえず、予選リーグでは5戦全敗で、11位か12位という結果となったが、ともかく女子は大健闘したのだ。 しかし本日の新聞のスポーツ欄を見ると、女子の決勝トーナメント進出を伝える記事の小さいこと! 産経は2段、毎日に至っては1段で隅の方に申し訳程度に載っているだけだ。

 どうもこの辺、マスコミにおける卓球の扱いに不当性を感じる。 例えばテニスなら、日本が世界選手権団体戦で優勝の可能性があるところまで行ったことがあるだろうか?

 というわけで、本日はスポーツの話をしてみました。

3月4日(木) 先月16日に購入したズスケ・カルテットによるモーツァルトの弦楽四重奏曲集6枚組、ようやく聴き始める。 本日はK.168〜170の初期作品3曲を1枚に収めたのを聴いてみた。 私が今までディスクを持っていなかった曲だが、初期作品とはいえ、結構いけるのである。  例えばK.168の第二楽章アンダンテなんぞ、しずしずと歩むようなテンポの中にかすかな悲しみが込められている。

 モーツァルトの弦楽四重奏曲というと、ハイドンの作品に学んだK.387以降が充実しているということになっているが、どうして、初期作品だって十分聴き応えがある。 やはりモーツァルトは天才だったのか・・・・・

2月29日(日) 朝から大形卓球大会に出かける。 クルマで、途中同じクラブの人を2人拾って、北地区体育館へ。

 ダブルスだけの大会である。 原則として男女のペアで、午前午後とで組み合わせを変え、6〜7チームごとのリーグ戦をやる。 私は午前も午後も3勝2敗でした。

 この大会は大形卓球クラブの方々の世話で年2回行われているが、組み合わせ抽選や、昼食の手配や、お土産の購入 (この大会は、昼食・お土産付きで、参加費1700円) などで大変なご苦労があろうかと思う。 160人もの参加者で、特にミスもなく大会が運営されているのには、感謝しなくてはなるまい。

 おまけに大形クラブには美人が多い。 その意味で理想的な (?) 卓球クラブと言えるかも知れない。

 この大会は親善第一をモットーにしているので、お年寄りが目立つが、中には現役の大学生もいる。 午前中、東京の大学生 (多分、春休みで帰省しているのであろう) を含むペアとやって勝利した。 しかし、70歳をはるかに越えるお年寄りを含むペアには負けてしまう。 というのも、お年寄りは卓球のペースがゆっくりしているので、こちらとしてもタイミングが狂って、スマッシュミスを重ねてしまったのである。 卓球にはそういう意外性を含む面白さもある。

2月26日(木) 昨日・今日と、大学入試の前期試験監督を務める。 昨日は午後だけだったが、本日は朝からである。 昨日はいたのに、本日は欠席の受験生もいる。 昨日は地歴の1科目だけで、本日が英語と国語の2科目なのに、あきらめがいいんだなあ。

 やる側にも細かいミスがある。 昨日は監督者用具箱に、指サックが入っていなかった。 答案用紙を回収した後、枚数を確認するのに必要なのだが。 これがないと、薄い答案用紙の数を数えるのに難儀する。

 かと思うと、本日は午前中の英語の試験会場に監督が入ろうとしたら、施錠してあって入れない、というハプニングがあった。 各教室は、昨日の試験が終わった後はいったん施錠され、本来は本日の朝に開けておくはずが、忘れてしまったらしい。

 また、国語では問題訂正が試験中に2度に渡って出された。 人間のやることには完璧はあり得ないが、ミスが目立つという印象は免れませんなあ。

2月23日(月) 夕方、西日本の某国立大学のドイツ人教師の方から電話がかかってきた。 面識はおろか、手紙やメールのやりとりもしたことのない方である。 たいへん日本語がお上手で、ドイツ語会話が下手くそな私としては大助かりだった。

 内容だが、来年度から国立大学が独法化されるにあたっての語学教員、それも外国人教師や非常勤講師の待遇の変化について文献がないか、という問い合わせだった。 私は自分のサイトに 「外国人教師を酷使する新潟大学の非常識」 という文章を載せているので、他にも何か知らないかと考えたらしい。

 しかし残念ながらあまりお役には立てなかった。 なにしろ独法化されてみないと分からないことが多すぎるのだ。 ただ、国立大学で非常勤講師の大量首切りが行われるようだという情報は飛びかっているから、その点はお教えしておいた。 もっともあちらも多少情報を入手しているようではあったが。

 どうも、このあたりの不透明な事情についてはもっと公けの場で問題にされないといけないのだが、大学人は沈黙を守りがちであり、マスコミもアテにならないから、結局は上層部(大学内、および官僚)の独断でトンデモナイ決定がなされたりしてしまうのである。

 もっとも、外国人教師がこの点で運動をしてくれるのは、いいことだと思う。 何てったって、日本は外圧に弱い国ですからね!

2月20日(金) 長らく新潟大学でドイツ語を教えておられた Stefan Hug 先生が今年度限りで新潟大学から高知大学へ転任されるため、最終講義が午後5時から行われた。 会場には学生や各学部の教官など40人あまりが集まった。

 先生の講義は日本におけるドイツ語教育をテーマに、長年の経験をもとにお考えを述べられたものであるが、拝聴していると、やはり語学教育には 「こうすればたちどころに実力がつく」 というような特効薬はないということが分かる。 いくつかの提言を含む内容ながら、大言壮語を戒める誠実さのこもった講義であった。 最後に学生から花束が贈呈され、会場は大きな拍手に包まれた。

 それにしても、こういう有能な人材を辞めさせようとする新潟大学の姿勢には、多大の疑問を感じる。 最近の 「大学改革」 が 「改悪」 でしかない証左であろう。

 講義終了後、私は急いで大学を出、内野駅近くに最近出来た飲み屋に向かう。 6時半からN卓球クラブの新年会 (にしては遅すぎるが) があるので。 11人参加。

 この店は私は初めてだが、中は暗く、おまけに全体で空間が一つだけで、予約の集団客もそうでない客も同じスペースを共有するので、やかましく、落ち着かない。 また、テーブルの下が深く掘られていて掘り炬燵式に腰掛けられるのは一見楽なようだが、畳と違って酒が進んでも簡単に座を移せないのが不便。 というわけで、イマイチの店というのが私の評価である。

 ところで、飲んでいる途中、私に電話がかかってきた。 女房からである。 大した用件ではなかったのだが、出来たばかりの店の電話番号がよく分かったものだと翌朝尋ねてみたら、女房殿は実に非常識なことをやらかしていた。

 つまり、私の行く予定の店の名前を知らず、単に内野駅近くに最近出来た飲み屋、としか聞いていなかったので、女房は何と、内野駅に電話をかけたというのである。 そして、「駅の前に最近出来た飲み屋があると思うんですが、なんて名前ですか?」 と訊いたのだそうな。

 内野駅の駅員は、「ちょっとお待ち下さい」 と言って外に出て店の名を確認して女房に伝えてくれたとか。 いくら何でもこんな仕事はJR東日本の駅員の職分に入っていないと思うんだけどねえ。 これだから女は非常識。 亭主である私の苦労もしのばれようというものだ!? 

2月16日(月) 昨年末に金沢の山蓄に注文を出していたCDがようやく届く。 ズスケ・カルテットの弾いたモーツァルトの弦楽四重奏曲集(第8番以降の16曲、6枚組)と、Brilliantから出ているモーツァルトの四重奏をのぞいた弦楽室内楽曲集(二重奏曲、三重奏曲、五重奏曲、6枚組)。

 ズスケ・カルテットは、ベートーヴェンの晩年の曲を入れたCDを若干持っている程度だが、なかなか実力のあるカルテットだと思う。

 本日は届いたばかりなので、まずオルランド・カルテットと今井信子が共演している弦楽五重奏曲ト短調&変ホ長調から聴く。 響きがたっぷりとした、急がない演奏である。

2月9日(月) 午後、私が後期に出していた講義 「芸術コミュニケーション基礎論」 のレポートを法学部生が持ってくる。

 この講義は、クラシック音楽と唱歌についての文献を読みつつ、その歴史や音楽論のあり方を探ると同時に、そこで扱われている音楽を聴いていく、というもの。 私としては、小さいときからピアノやヴァイオリンなどの楽器を習っていながら、クラシック音楽自体については知識をあまり持たないという学生が多いので、それをなんとか改善したいという気持ちから例年半年だけ出している授業なのである。

 この授業では、中間レポートとして、実際にクラシックのコンサートに行ってその体験をまとめる作業を課している。 といっても提出期限は最終レポートと同じで、学期末までに出せばいいのである。

 くだんの法学部生 ――この授業は人文学部向けだが、法学部生も結構とっている―― も最終レポートと中間レポートを一緒に持ってきたのであるが、見ると、中間レポートでの演奏会が、なんと、県立S高校吹奏楽部演奏会、となっているではないか・・・・・・・!

 おいおい、君はこちらの意図を全然分かってなかったのだね。

 こちらとしては、クラシックコンサートなんか一度も行ったことがない、という人間に、とにかくクラシックの演奏会がどういうものかを体験させる意図でレポートを課しているのだ。 そのために、私のサイトにも 「新潟市コンサート情報」 を掲載しているのだよ。

 高校の吹奏楽部演奏会・・・・・・。 それ自体が悪いとは言わないが、これでは君が高校時代まで体験した文化的体験の範囲を一歩も出ていないじゃないかいな。 そういう枠を越えた次元の文化に接してもらうためにこそ、大人向けのクラシックコンサートを聴いての体験レポートを課しているんだがねえ。 君はいつまでも高校生にとどまっていたいのかな?

 私が案じるのは、すでにレポートを提出している他学生と比較してのこともある。 やはり法学部生で、首都圏の高校出身で、冬休みに帰省したときに首都圏でクラシックコンサートを聴いてレポートを作成してきた学生がいる。 或いは、やはり首都圏出身で、或る程度コンサート体験も積んでいて、新潟のクラシックコンサートを批判的に扱ったレポートを書いてきた学生もいる。

 そうした学生と比較して、県内の高校を出て、県内の大学である新潟大学に進み、この種のレポートを書くときも地元高校のクラブ活動というような範囲から一歩も出ることなく終わってしまう学生に対して、私はかなり危惧を持たざるを得ないのである。 

 要するに、井の中の蛙、という奴なのだ。 こちらが他の井戸を指し示しても、自分勝手な解釈で自分の井戸で間に合わせてしまうのである。 せめて大学生でいる間くらい、足が地についていなくてもいいから、普段の活動範囲を超えたところにある別の井戸を体験してもらいたいのだが。  

 別に入場料の高いプロ演奏家のコンサートでなくたってかまわない。 新潟大学管弦楽団のコンサートなら、たったの700円だ。 同じ学生のクラブ活動でも、高校生の吹奏楽団とは別次元の体験ができるはずだ。

 これ以外でも、新潟ではアマチュアによるヘンデル 「メサイア」 演奏会が毎年12月に行われている。 入場料は2000円しない。 また、アマチュアのオーケストラである新潟交響楽団も年に2回演奏会を行っている。 自由席なら1000円だ。

 いや、プロの演奏会だって、東京交響楽団新潟定期演奏会の一番安い席は、2000円だ。 これはけっして無理な出費ではないはずだ。 それを惜しんで、高校生のクラブ活動でレポートを済ませてしまう新潟大生の、なかんずく新潟県出身の新潟大生の、意識の狭さを、私は憂れうるのである。 

2月8日(日) 朝から亀田町の体育館に行く。 ベテラン卓球大会があるので、 同じN卓球クラブのメンバーである御婦人2名を拾って私のクルマで出かけたもの。

 30代、40代、50代、60代と、10歳刻みで分けて、4〜5名で予選リーグ戦を行い、その後は各リーグ2位までが決勝Aトーナメント、3位以下が決勝Bトーナメントに進む。

 私の出た50代予選リーグ (いくつかあるうちの一つ) は4名からなり、シェークのカットマンM氏がダントツの実力の主で、あとは私と御婦人2名がドングリの背比べ、いわば1強3弱、といった構成。 私はSさんに2−3で負け、Iさんに3−0で勝った。 M氏には言うまでもなく0−3で敗退。 というわけで予選3位で、Bトーナメント進出(?)となった。

 Bトーナメントでは1回戦でS氏に0−3で敗退し、日程終了となりました。

2月2日(月) 2限、ドイツ語の授業。 今学期最後。 ところが練習問題をやらせていたら、あまりにできない学生がいて、つい雷を落としてしまった。 「できない」 にも色々レベルがあるわけだが、練習問題だから当該の課でやった文法事項が出てくるのは明瞭で、3ページ分の文法が分かっていれば簡単にできるはずなのに、それが全然分かっていないのである。 つい4日前に説明したばかりのことが頭からすっぽり抜け落ちている。

 というと、そんな学生は珍しくないと言われそうだが、このクラス、一応 「集中ドイツ語」 と称して、やる気のある学生を集めている、という触れ込みになっているのである。

 しかし問題なのはこの「やる気」なのだ。 「やる気のある人間」、と言われて集まってくる人間に 「やる気」 があるという保証がどこにあるのだろうか? 本人がそう思っているだけで、実態が伴っていない可能性は十分考えられる。 また、単に英語が嫌だからそれを逃れるために時間数の多い (といっても普通のクラスより週1回多いだけ) ドイツ語の授業をとっている奴も結構いるのである――これは私の体験的な見解である。

 その裏で、大半の学生は第二外国語を形ばかりの講義を半年受ければやらずに済むようになっているのである。

 「大学改革」 と称するものは、だいたいがこういったものだ。 まともな検証もせずに、制度をいじればいいということになっている。 それをまともだと思う奴はバカである。

 だが、世の中にはバカが多い。 大学教師も例外ではない。 バカが多くて疲れることの多い昨今ではある。

 ところで、本日は学期最後の授業だから、最後に授業評価の学生アンケートがあった。 こういう日に雷を落とすと評価がテキメンに悪くなりそうだが、ガキに媚び売っちゃあ教師はおしまいである。 とはいえ、おしまいな教師も割りにいるかもしれないのですけれども・・・・・。

 私、漱石の 『坊っちゃん』 の味方です、はい。

1月29日(木) 午後6時から、大学近辺の店でゼミの新年会をやる。 私と、4年生2人3年生3人の、合計6人。 いささか遅い開催だが、4年生は13日が卒論の〆切なので、それ以前というわけにはいかず、またその後も学生はアルバイトの日程などもあって全員に都合のいい日がなかなかなく、この日にずれこんだものである。

 4年生2人は就職が決まっているが、3年生にはやはり気になるようで、最初の話題はこの点に集中。 冬だということもあり、最初はビールや酎ハイでスタートしたが、やがて私を含めて4人は熱燗に。 新潟の日本酒人気は根強い?

 ここの店はホヤを出すので、私は学生と来るといつも注文して食べさせてみるのだが、本日の学生たちも怪訝な表情でホヤを初体験していた。 ホヤは岩手県から宮城県の海岸沿いでは珍しくないが、その他の地域ではなかなか食べる機会がないので、無理もなかろう。

 3年生のうち2人 (男女各1) は寮生活だという。 トレンディドラマなどでは学生はファッショナブルなマンションなどに暮らしているという設定が多い、と思う (私はテレビはほとんど見ないので、違っているかも知れません) が、現実の学生はかなり足が地に着いた生活を送っているのである。

 2次会として近くの店で全員ケーキを食して、お開きとなった。 

1月25日(日) 午後5時からりゅーとぴあにて東京交響楽団第24回新潟定期演奏会。 飯森範親の指揮により、細川俊夫の新作 「オーケストラのための『海からの風』」 とR・シュトラウスのアルプス交響曲。 演奏開始前に飯森と細川のプレトークがあった。

 細川の新作は、いわゆる現代音楽風の曲で、表題を様々な音の手段を用いて表現しているのだろうと思うが、面白いかと言われるとどうかなという気がする。 プレトークによると、海を写実的に表現したのではなくイメージとしての海を思い浮かべながら作曲したとのことだが、曲を聴いてみての印象は逆であった。

 後半のアルプス交響曲は大編成のオーケストラならではの醍醐味が楽しめた。 実は最初はなぜか眠くて、半分居眠りしながら聴いていたのだが、半ば頃から目が覚めて、風の音を出す見慣れぬ楽器や、ものすごい数にのぼる金管楽器群の響きや、オルガンまで持ち出しての音の絵巻物を堪能した。

 アンコールはなかったが、満足できた演奏会。 ただし入りはイマイチ。 3階の脇の方はがらがら。 あんまり大衆性のない演奏曲目のせいであろうが、こういうプロで満員になれば新潟の音楽状況も悪くないと言えるのだが。

 それかあらぬか、配布されたプログラムに新潟大学教育学部音楽科教授の横坂康彦氏が一文を寄せ、昨秋のアルテミス・カルテットの演奏会が不入りだったことに触れて残念がっておられた。 まったく同感だが、ピアノだのヴァイオリンだのを教えることでカネを稼いでいる人間は新潟市とその周辺にはかなりいるはずだから、彼らの怠慢さを打破することがまず先決ではないか。 音楽会にもろくに行かずに音楽専門家づらしている連中は、全員死刑! とは言わないまでも、鞭打ち刑くらいは喰らわしたい気分だ。

1月24日(土) 午前中映画を見てから、昼食をとりに青山のSという蕎麦屋に行く。 この店、バス通りから少し入った閑静な住宅街の中にあり、名前もいかにも蕎麦屋らしく、以前から何となく心惹かれていたのだが、入ったことがなかった。 私はグルメ趣味も蕎麦屋通い趣味もない人間であるが、まあ一度くらい行ってみようと決心し、本日訪れてみたわけである。

 ところが。 入ってみたらカレーの匂いがする。 あれ、蕎麦屋と銘打っているけれど何でもありの大衆食堂なのかしらん、と思った。 内部は、靴を脱いで上がるようになっており、田舎の民家風の造りである。 よく見ると壁に 「鍋焼きうどん」 などという札が貼られている。 要は、蕎麦専門ではないわけだ。 別にそれはそれでいいけれど。

 ところが。 「おしながき」 を見ると、値段は大衆的とは言い難いのである。 高級蕎麦専門店並みなのだ。 が、せっかく来たのだからと思い、天ざるを注文した。

 ところが。 出てきた蕎麦には海苔がかかっていない。 ざる蕎麦は海苔がかかっており、盛り蕎麦はかかっていないのが普通だと思うのだが、そして私は 「天ざる」 を頼んだのであって、「天盛り」 ではないのだが、どうなっておるのだ? 念のため 「おしながき」 をもう一度見てみたが、天ぷらの付かない蕎麦としては 「盛り蕎麦」 と 「ざる蕎麦」 の両方が載っており、ざるは盛りより100円高く、なおかつ 「海苔がかかっています」 と注記までしてあった。

 繰り返すが、私はグルメ趣味も蕎麦屋通いの趣味もない人間だから、味についてはノーコメントとします。 が、食べ終えて勘定を払ったら、なぜか 「おしながき」 に書いてあった値段より100円安かった。

 ってことは、やはりあれは 「天盛り」 だったのだろうか? もっとも 「おしながき」 には 「天ざる」 はあっても 「天盛り」 なんてなかったんですがね。 それとも、たまたま海苔を切らしていたのでざる蕎麦じゃなく盛り蕎麦とし、その代わり100円値引きをした、ということなのだろうか?? ううむ、どうにも謎の多い蕎麦屋だ。

 いずれにせよ、この店に来ることは二度とないだろうと思う。 

 午後2時から、だいしホールで枝並千花さんのヴァイオリン・リサイタル。 枝並さんは新潟出身で、現在桐朋音大の2年生。 昨年のミケランジェロ・アバド国際コンクールで優勝しての凱旋公演である。

 ヴィターリのシャコンヌ、パガニーニの奇想曲第24番、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタよりアダージョ・フーガ、サラサーテの 「序奏とタランテラ」、休憩後は、武満徹の 「11月の霧と菊の彼方から」、ピアソラの 「リベルタンゴ」、サンサーンスのヴァイオリン・ソナタ第1番。

 客の入りは上々。私は開演20分前に行ったのだけれど、中央部付近はすでに空席なし。 前売り券を持っている客を優先して入れたようだが、受付には 「前売り券買ったのになくしちゃったのよ、だから入れてよ」 とオバサン的文句を垂れているオバサンもいた。

 演奏もよかった。最初のヴィターリでは前半ややエンジンがかかっていない感もあったけれど、次のパガニーニとバッハで技巧の冴えを見せてくれた。 最後のサン=サーンスのソナタ、私はさほどいい曲だとは思っていなかったのだけれど、今日の演奏で、ううむ案外悪くない曲だな、と考え直した次第。 演奏者の力量があればこそ、だと思う。

 欲を言えば、プログラムにもう少し量があれば。 前半のバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタを全曲やって、サラサーテは後半に回すくらいでちょうどいいような気が。 そして自分なりの解釈や感受性をもっともっと演奏にこめていけるようになれば、怖いものなし。 まだ大学2年生、伸びる余地は十二分にあるはず。

1月23日(金) 本日は敬和学園大学に非常勤で行く日。 今年度最後であり、なおかつ非常勤は今年度限りなので新発田に来るのもこれで最後となる。

 昨日寒波で積雪があって、自宅近くの道路は雪で走りずらくなっていたので、新発田まで行くのにも時間を食うかと思いかなり早めに家を出たのだが、新新バイパス(新潟・新発田間のバイパス) は普通通りにクルマが流れていた。 お陰でいつもより1時間も早く到着してしまった。 というわけで、新発田のBOOKOFFに寄る。

 こないだ見かけて買わなかった渡辺暁雄と日フィルによるシベリウスの交響曲全集 (4枚組、3980円)、結局買ってしまう。 新発田とのお別れ記念?ということで。 それとオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団によるレスピーギのローマ三部作も買う。

 夜、帰宅してからローマ三部作を聴いてみたが、録音が極上である。 ダイナミックレンジが広く、金管が生々しく豪勢に鳴ってくれる。 とても30年前の録音とは思えないお買い得品であった。

1月22日(木) 昨日来、日本は猛烈な寒波に襲われている。 新潟も言うまでもなく強風と雪に見舞われている。 しかし新潟市内では雪の量はさほどではない。

 今日はH卓球クラブの練習日である。 行こうかどうしようかと迷ったのだが、午後になって荒天はおさまったので、夜、クルマを慎重に運転しながら練習場であるH小学校に向かった。

 さすがに参加者は少なく、私を入れて4人だけ。 同時に練習しているバドミントン・クラブは5人だった。

 約75歳になるS氏と練習をする。 この人の卓球は独特である。 正式に習ったことがないのであろう、完全に自己流なのだ。

 普通、卓球の練習はまずロングで緩やかに打ち合うところから始める。 通常ならロングで打ったボールには前進回転がかかっている。 回転の度合いは人によって違いがあり、回転がほとんどないナックル気味の人もいるが、とにかくわずかであっても前進回転がかかっているものなのだ。

 ところが、S氏は逆なのである。 フォアハンドで打つときにラケット (ペンホルダー) の打球面が垂直よりやや上向きになっており (通常は垂直よりやや下向き)、ボールの斜め下を前に向かってこするように打球するのである。

 といってカットというのではない。 本人にもそういう意識はないのだろう。 要するに自己流にラケットを操って相手コートに入るように打っているうちに、自然にそうなってしまったのだと思う。

 さらに、この人と試合をすると、ネットインやエッジボールが非常に多いのに悩まされる。 これも、ボールをネットの高さをぎりぎり越えるくらい、そしてコートの端ぎりぎりに打つように習慣がついているからだろう。

 そういうわけで、こういう言い方は失礼だが、見かけより試合には強い。 私も負けたことがある。 その時も、ネットインやエッジボールの連発にしてやられたのである。 特に現在は昔と違って1セット11本だから、こういうポイントもバカにならない重みがあるのだ。

 で、何を言いたいかというと、N卓球クラブに最近来ている中学生と正反対だということを指摘したいのだ。 フォームがいくらきれいでも空振りしたり、ボールが相手コートに入らないのでは何にもならないわけだが、どうも最近の中学生はそういう傾向が強いようだ。 約75歳のS氏に見習うべき点は多いと思うのだが。

1月18日(日) 夜、一家五人でホテル・イタリア軒に食事をしに行く。 一昨日が○○記念日で、この日は5年ごとにイタリア軒で食事をするのが我が家の習慣である。 本当は毎年にしたいのだが、こういう高級なところに毎年詣でるには我が家の家計は・・・・・・・なので、5年に一度、ということにしているのである。

 本来はそういうわけで一昨日行くはずが、今年は出来の悪い長男が大学入試センター試験を昨日と今日の二日間にわたって受けたので、それが済んでからにしたわけである。 (出来の悪い、というのは謙遜ではなく、本当のことである。 この日も、国語の問題としてバッハなどの音楽家を扱った現代文が出題されたらしいのだが、バッハの勤務した都市ライプツィヒを 「ライプニッツ」 と勘違いしていた。 これでは・・・・・・・)

 イタリア軒の最上階のレストランから夜の街を眺めると、少し離れたところに車がカーブする道が浮かんでおり、そこがどこなのか、妙に気になった。 

 ちなみに私と女房は8000円也のディナーにしました。 この値段じゃ、5年に一度でないと無理だとお分かりいただけたでしょうか?

1月17日(土) 全日本卓球選手権男子シングルスで41歳の偉関晴光が優勝した。 中年の頑張りは立派だが、それにしても40代に優勝させてしまうとは、男子の若手もダラシがなさすぎるのではないか。 日本卓球の再建は相当に難しいかも。

 女子の方はこれほどひどくはないが、福原愛などは人気先行だから、これからの勝負だろう。

 たまたまこの日は、芥川賞に若い女性二人が選ばれたというのでニュースになっていた。 実力勝負の卓球選手権と違って、ブンガク賞は話題づくりで選ばれることもあるから、実際に読んでみないと何とも言えないけど、卓球も人気実力双方で文句のでない若手が登場してほしいものだ。

 さて、本日は夜からN卓球クラブのN小学校体育館での練習日だった。 体育館が使えるのは、今年になってからは今日が初めて。 そのせいか11人が参加。 10人を越えるのは最近では珍しい。

 ところで最近中学生が3人ほど練習に来ているのだけれど、どうも技倆がイマイチなのである。 いくらフォームがきれいでも、打ったボールが入らなきゃ意味がないのだが、その辺がどうも、なのだ。 

 実際にボールを数多く打って、どの程度の打ち方をすると相手コートに入るのかという感覚を掴むことが大事なのに、なぜか格好のいいフォームばかり身につけていて、試合にはからきし弱い、と来ている。

 これ、卓球に限らず最近の若い人の全般的な傾向じゃないかしらん?

1月15日(木) 午後7時からウィーン・リング・アンサンブル演奏会、のはずだった。 ところが6時半頃に会場のりゅーとぴあ (新潟市民芸術文化会館) に車で着いたら、駐車券発行機に、「悪天候で演奏者の到着が遅れるので、開演時刻を1時間遅らせて午後8時とします」 という掲示板がぶらさがっているではないか。 

 1時間遅れ、というのではわざわざ外に出て時間をつぶすほどではないし、館内で本でも読んでいようかな、と思った。 しかしりゅーとぴあ側の対応が非常に良かった。 まず、駐車券2時間分無料の措置をとったうえ、飲み物券配布、そして劇場 (コンサートホールではない) を待合室として開放した。 お陰でタダでコーヒーを飲んだ後、劇場でゆっくり本を本で過ごせました。 遅れは1時間だったのに駐車券は2時間無料だったし、得をした気分。

 さて、この団体は、ヴァイオリンのライナー・キュッヒル氏を初めとして、ウィーンフィル・トップメンバー9人 (ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン) によって構成されており、今回はお正月用にウィーンのワルツやポルカをまとめてやるという趣向。 前半は、J・シュトラウス :オペレッタ 「こうもり」 序曲、ヨーゼフ・シュトラウス: ワルツ 「天体の音楽」、J・シュトラウス: 「シャンペン・ポルカ」、ツィーラー: ポルカ・シュネル 「人生は喜び」、J・シュトラウス: ワルツ 「ウィーンの森の物語」、ポルカ 「観光列車」。 後半に行って、J・シュトラウス: オペレッタ 「くるまば草」 序曲、ツィーラー: ワルツ 「天国の幸せ」、J・シュトラウス: ポルカ 「クラップフェンの森で」、ライターマイヤー: ワルツ 「ウィーンの心」、レハール: オペレッタ 「メリー・ウィドウ」 から”唇は黙していても”、”女の研究はやさしくないよ”。 アンコールに、J・シュトラウス: 「ギャロップ・プリオーソ」、「美しく青きドナウ」、そしてJ・シュトラウス1世: 「ラデツキー行進曲」。

 途中、遅れたいきさつについても説明があり、昨日札幌で演奏会を開き、本日は新潟に飛行機で来るはずが、悪天候で欠航となってしまい、札幌から函館に出、そこから名古屋に飛び、名古屋から新潟に来た、のだそうである。 長旅でしたね。

 にもかかわらず、充実した楽しい演奏会で、最後はアンコールで定番の 「美しく青きドナウ」 と 「ラデツキー行進曲」 で締めくくってくれ、1時間遅れながら今年初めての演奏会として合格点でありました。

1月13日(火) たまたま思い出したので、別段本日ここに記す必然性は全然ないのだけれど、この際だから銘記しておきます。

 私はサッカーには全然興味がありません。

 なぜこんなことを書くかというと、昨秋学会出張で仙台に行った際、友人のI氏と2年ぶりで会って酒を飲んだのだけれど、待ち合わせの場所で顔を合わせるなり、「新潟アルビレックスは1部に昇格しそうで」 と、おめでとうございますという口調で言われたのに加え、今年の年賀状でも別の友人が1部昇格がどうのこうの書いてきたからである。

 新潟アルビが1部に昇格しようが4部に転落しようが、或いは交通事故か飛行機墜落事故でメンバー全員が死のうが、私には地球の裏側で蚊が一匹殺される程度の感慨しか喚起しませんので、その点はご承知おきいただきたい、ということなのであります。 以上。

1月10日(土) 午後1時、火曜日の夜に引き続きコスポに卓球の練習に行く。 今回は4名。 そのせいで少しく疲れた。

 なぜ4名だと疲れるかというと、火曜日は3名だけだったので1台で1対2の練習だったのが、今日は偶数の参加だったので、1台ごと1対1の練習になったから。 これは1対2の練習よりはるかに体力を消耗するのである。 40分くらいぶっ続けにやっていると顎が出て一休み、となる。

 もちろん、トシのせいで体力が落ちていることもある。 私は高校生時代も友人と卓球場に行ったりしていたが、あの頃は1時間ぶっつづけにやっても疲れなかった。 さすがに2時間だと疲れたが、1時間半くらいがちょうどいいか、という感じだった。

体重も、高校生時代と比べると3割強も増えているし。 うーん、やはりトシはとりたくないなあ。

 夜7時から、県庁ちかくの 「ととや」 で開かれた 「新潟・市民映画館=シネ・ウインド」 の新年会に出る。 私はこれまでウインドのこの種の催しには出たことがなかったのだが、先日ウインドに映画を見に行ったときに代表のS氏と支配人のH氏に誘いを受け、私には珍しく、お二人に誘われたのだから出てみようかという殊勝な気持ちになったためである。

 というのも、私は気心の知れた人間少数と一緒に飲むのは好きだが、不特定多数の人間が集まる会は嫌いで、それでも若い頃は無理をして出ることもあったが、最近トシのせいで 「嫌いなことはやらない」 主義が高じているので、この種の会は一切お断りにしているのである。

 というわけで、実はさほど期待しないで出たのだが、案外に面白かった。 どう面白かったかは、差し障りがあるところもあるので、省略します。 (色仕掛けで面白かったというようなことではありません。 為念。)

1月8日(木) 卒論指導学生が数日前においていった卒論草稿に朱を入れたものを渡す。 文章がまともに書けていないので、A4用紙30枚の草稿を直すのに2日がかりだった。 もっとも、つたない草稿でも内容は一応それなりにまとまっているからマシなほう。 もう一人の指導学生は挫折して留年が確定。 だいたいにおいて、マンガをテーマにしながら自力でマンガ評論を探すことも読むこともできない手合いだから、どうしようもないのである。

 また、冬休みが終わって本日から授業が再開となり、2コマの授業をこなしたら、休みで体がなまっていたためか、疲労してしまう。

 それやこれやで、夜、自宅に帰ってからブラームスのピアノ協奏曲第2番を聴く。 これは私の大好きな曲で、LP・CD合わせて10枚くらい所有しているのだが、たまたま今日は以前中古CD屋で買って一度聴いただけだったギレリスとライナー指揮シカゴ交響楽団による演奏を聴いたら、気分が悪くなってしまった。 気分を良くしようと思って聴いたのに逆効果。 胃のあたりがおかしくなってきた。

 なぜかというと、この演奏、どうにも含蓄がなさすぎるのだ。 ただ弾いていますってだけで、情感も興奮も何もない。

 口直しにルービンシュタインとオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団による同じ曲のCDを聴く。 こちらははるかにまとも。 音質もいい。

1月6日(火) 夜7時、西新潟総合スポーツセンターでN卓球クラブ員が集まって練習。 今年の卓球のやり初めでもある。

 本来は4、5名くらいはクラブ員が集まるはずだったのだが、皆さん忙しいようで、私以外は御婦人2名だけ。 でも、両手に花、という言い方もできるかな?

 昨年末に練習に来たときは混んでいて、台もいっぱいだったが、今日は空いている。 我々以外では中年の男女 (夫婦か?) と男子高校生のペア (クラブでやっているらしく、結構うまい)、それと若夫婦と小学校低学年くらいの子供二人の家族連れ。

1月4日(日) 昨日たくさん歩いて疲れたせいか寝坊してしまう。 朝食をとってから、車に次男と長女を乗せて出発。 途中、BOOKOFFに寄る。 1日に来たとき買おうかどうしようか迷ったCDが3枚あったのだが、結局この日に3枚とも買ってしまう。 そのあと墓参をしてから新潟へ向かう。

 最初の予定では、常磐道と磐越道経由のつもりだった。 というのは、従来は1月の2日か3日に新潟へ戻っており、その日だといつも常磐道から首都高速に向かう車が非常に多く、常磐道の終点である三郷インターで渋滞し、関越道に直通する外環道になかなか入れないので、距離的には遠いものの磐越道経由の方が時間的には節約できるからだ。

 ところが、この日は常磐道の柏インターに着いたら掲示板には渋滞情報が全然載っていない。 ということは、三郷インターで渋滞は起こっていないということだ。 ならば距離的に近い関越道を選ぼうということで、予定を変更し、三郷に向かった。 実際、渋滞はまったくなく、順調に関越道に入ることができた。 よかった、よかった。

 自宅に戻ってから、東京と船橋で買ってきたCDを聴く。 ミュンシュとボストン響によるメンデルスゾーンの 「スコットランド」 と 「イタリア」。 メンデルスゾーンというとさわやかなイメージだが、この演奏、特に 「スコットランド」 ではまるでベートーヴェンかブラームスの交響曲みたいで、ひどく大仰であり、金管も派手に鳴る。 「イタリア」 は曲のせいかそれほどではないが。 1950年代末の、ステレオ最初期の録音だが、音の状態も悪くない。

 ついで、今日買ってきたジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団による 「イタリア」 と 「真夏の夜の音楽」。 セルのイタリア交響曲はテンポが速く、端正で、きっちりした造型感がある。 この曲の一つの典型的な演奏スタイルか。 ただ、惜しいことに録音がイマイチ。

1月3日(土) 本日はかねてから娘にせがまれていたジブリ美術館 (三鷹市) を訪れる日である。 宮崎駿の作品の博物館だが、人気があって、なかなかチケットが手に入らない。 予約なしでは入れないのである。

 チケットは1カ月分が前月の10日に全国のローソンで売り出される。 私は先月の10日、1限の授業を終えて10時20分頃に新潟大学前のローソンに駆けつけ、そこのコンピュータ端末を通じてチケットをとった。 それも、入場は1日4回で、10時・12時・14時・16時となっているのを、最初は14時で申し込んだところ、売り切れと言われ、次に16時で申し込んでようやく入手できたのである。 受付開始は10時だから、20分たたないうちに14時の分は売り切れたことになる。 人気のほどが知れよう。

 さて、今日はまず恵比寿の映画館に行って昼から娘と映画を見 (この間、次男は写真美術館に)、それから昼食をとってゆっくりと三鷹へ行く。

 時間があったので、美術館まで15分ほど三鷹駅から玉川上水沿いの道を歩いた。 玉川上水は、水量もたいしたことはなく、小川と言った感じだが、木が川沿いにずっと生えていて、一種の並木道になっており、落ち着いた雰囲気を作り出している。 東京でもこういうところに住んでいるのはリッチな人たちなんだろうなあ、と思う。 そして緑豊かな井の頭公園の端にジブリ美術館はある。

 建物は大きそうに見えたが、内部はトイレのスペースがかなりあったりして、見所はそれほど多くないという感じ。 ただ、宮崎駿がアニメを描く際に参考にした美術書や写真などが展示されており、また彼が好きな古いメカに関する文献などもあって、一見子供向けと見えるアニメを描くにもそれなりに勉強が必要なのだと分かる仕組みになっている。 その意味では、小さな子供より、中高生以上の人間にとって面白い美術館かも知れない。

 帰りは三鷹から船橋まで地下鉄東西線経由で帰る。 その方がJR中央線・総武線経由より170円も電車賃が安いのである。 ふつう、2社を通しで乗る方が、1社の電車だけで行くより高いと思うのが常識だろうが、それが逆になっている。

 また、地下鉄経由の運賃には不思議なところがさらにある。 三鷹から船橋まで510円なのだが、途中の中野から西船橋までの地下鉄区間は300円のはずだから、三鷹−中野と西船橋−船橋の2区間のJR料金が210円という計算になる。 ところがJRの運賃は最低でも130円で、別々の2区間乗ったら最低でも260円かかるはずなのに、そうなっていない。 何らかの特例で割引になっているのか、或いはこの場合だけ2区間を1区間と見なして料金を設定しているのか、どちらかであろう。

 それと、やはり不思議なのは、三鷹駅ではこのような船橋までの割安の切符を買えるのに、船橋では買えない、ということなのだ。 船橋駅の東西線用の自動券売機上方のパネルには、中野までの表示しかなく、三鷹までの東西線経由の切符は買えないのである。 この非対称性、どうしてなんでしょうか?? どなたか理由をご存じの方、教えて下さい。

 老母宅に戻ったら、夜、友人から久しぶりに電話があった。 ここ1年半ほどロクなことがなかったが、一昨日のズーカーマンの名盤と合わせて、少しはまともな年になるかな、という予感。 

1月2日(金) 本日は私の外出日とする。 もっとも、私の母からお年玉をもらった次男は、さっそく使うべく、秋葉原に行きたいというので、途中まで同行する。 父親(つまり私) と同行するとそこまでの交通費が浮く、という理由からである。

 私は渋谷に出て映画を見、さらに井の頭線で下北沢に行ってまた映画を見る (詳しくは 「映画評2004年」 を参照)。 下北沢は、以前にも一度だけ映画を見にきたことがあるが、どうも方向感覚がつかみにくい街だ。 今回も 「ぴあ」 に載っている粗末な地図を頼りに映画館に行こうとして、一度は間違えて90度はずれた方角に行ってしまい、途中でなんとか方向転換してたどりついた。

 映画を見終えた後、駅に行こうとしたらディスク・ユニオンがあるのに気づいた。 お茶の水のディスク・ユニオンは知っているが、下北沢にもあったとは。 入ってみると、クラシックはあまりないけれど、アルバン・ベルクSGによるバルトークの弦楽四重奏曲全集2枚組が1500円で、シャルル・ミュンシュ+ボストン交響楽団によるメンデルスゾーンの 「イタリア」&「スコットランド」 が800円で出ていたので買う。 ミュンシュのCDは新品の売れ残り横流れのようで、ほかにもベートーヴェンの交響曲などがあったが、いちいち買っていると財布の中身があっという間に消えてしまうから断念する。

 渋谷に戻って、HMVに行ってみるが、目指すCDがない。 NAXOSから出ているはずのペンデレツキの交響曲第3番で、これは東京交響楽団新潟定期でこの3月にやる予定の曲である。 しかし私は未聴でCDも持っていないので、買っておこうと先月に新潟の某クラシックCD専門店に行ってみたのだが、見つからなかったもの。

 天下のHMV渋谷店にもないとは、これいかに。 というわけで次はタワーレコード渋谷店に行ってみたら、今度は見つかりました。 よかった、よかった。 しかしここのNAXOSは1枚税込み1039円と高い。 新潟の某クラシックCD専門店なら、税込み1000円ぽっきりですぞ。

 1月だというのに暖かい。 地下鉄の中ではコートを着ていると汗ばむほどである。 地球温暖化が進んでいるのだろうか?

1月1日(木) 船橋の老母宅で次男・長女と共に目を覚ます。 お雑煮を食べた後、近くの瀧不動まで初詣に行く。 このお寺、昔はひなびた郊外にあったわけなのだろうが、近年の船橋の都市化に伴って初詣に訪れる人が増えている。 そのせいか、数年前には本殿も新築した。 儲かっているんでしょうね。

 いつもながら本殿への参拝には長蛇の列ができている。 並んで待つのもいつものことで、正月行事の一つである。 境内にはタコ焼き屋や綿あめ屋など、昔ながらの出店がならんでいる。

 帰り道、正月からあいている近くの古本屋に寄って千円ほど買う。 さらに老母宅まで子供を帰してから、車で4キロほど離れたBOOKOFFまで行ってみる。 船橋のBOOKOFFは首都圏にあるせいか、新潟の同名店に比べて新しい本の出が早い。 1カ月前に出たばかりの新書が並んでいたりする。 本を2千円余り、それとCDとしては1枚だけ、ズーカーマンが弾いたモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3,5番を買う。 750円。

 このCDをさっそく車のステレオで聴いてみたが、これが結構いけるのである。 ズーカーマンはゆったりとしたテンポをとり、美音を惜しみなく振りまくようにして豊かに歌っている。 私がもともとズーカーマンびいきだということを差し引いても、名盤だと思う。 去年の11月に東京で聴いたビクトリア・ムローヴァの実演なんかよりよほど音楽的な魅力にあふれている。

 新年早々、良い音楽を聴けた。 今年はいい年になるかな。  

本・漫画・DVD・アニメ・家電・ゲーム | さまざまな報酬パターン | 共有エディタOverleaf
業界NO1のライブチャット | ライブチャット「BBchatTV」  無料お試し期間中で今だけお得に!
35000人以上の女性とライブチャット[BBchatTV] | 最新ニュース | Web検索 | ドメイン | 無料HPスペース