音楽雑記2001年

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1月3日(水) 昨日、船橋の老母宅から新潟に戻ってきて、昨年末に買ったヴァルヒャの演奏によるバッハ・オルガン作品全集12枚組CD、ぼちぼち聴いていたら、なんと4枚目の袋に6枚目のCDが入っており、6枚目の袋の中身はやはり6枚目のCD。 つまり4枚目がなくて6枚目が2枚入っていた! 外国製品はわりにこういうことが多いと聞いていたが、ヘンなところで当たってしまった。 この品を買った山蓄に交換を頼まねば。

1月12日(金) 一昨日、人文学部英米文化講座のY先生が急逝された。 本日午後、告別式だったので、3限の授業を休講にして出席。 この授業をとっている学生諸君にはご迷惑をおかけしました。 すみません。 

 式は参会者が多く、亡くなられたY先生も草葉の陰で喜んでおられたのでは。 先生とのお付き合いはさほど深くはなかったが、私が新潟大に赴任して間もない頃いっしょに読書会をやったことがある。 その折り、読書会のあと大学近辺の店で飲んで、やはり読書会参加メンバーで当時宿舎に住んでおられたS先生宅にお邪魔したところ、そこで私とY先生が口論となり、私がぶん殴られたことがあった。

 故人の旧悪をあばくというのではなく、そういうこともあったなあ、というような感じしか今の私にはないので、念のため。 巧言令色の徒よりこういう人間の方が好きだ、と単純に言うつもりもないが、手が早いとかそういう欠点の方が一人の人間を浮かび上がらせるということは往々にしてあるものだ。

 先生を追悼して、研究室でマーラーの第九交響曲をかけた。 ジュリーニ指揮、シカゴ交響楽団。 この交響曲、マーラーの大傑作であることは言うまでもないが、私はこの曲をひそかに「涅槃」と名付けている。 分かる人には分かると思う。

1月15日(月) 敬和に非常勤に行ったついでに新発田のBOOKOFFで古CD3枚を買う。 武満徹のノヴェンバーステップスその他を小沢征爾指揮のサイトウ・キネン・オーケストラが演奏したものなど。 武満の曲はFMなどでは聴いていたが、ディスクを買うのは初めて。 さっそく聴いてはみたが、馴染むのには時間がかかりそうだ。 

1月21日(月) また新発田のBOOKOFFで古CD2枚を買う。 その1枚、ズーカーマン独奏によるメンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、さっそく聴くが、買ってよかった。 特にチャイコフスキーは、メータ指揮イスラエルフィルとのライブ録音で、ライブ故の瑕瑾もないではないが、ズーカーマンの美質、つまり音の美しさとおおらかでありながら繊細な解釈がよく出ている。

 ズーカーマンは、同世代のヴァイオリニストの中では、ソツのない演奏をするパールマンと、個性的な演奏でファンも多いチョン・キョンファに挟まれて日本では今ひとつ人気がないような印象があるが、私は非常に好きなヴァイオリニストである。

 あれは70年代半ば頃だったと思うが、来日したズーカーマンがメンデルスゾーンの協奏曲を弾いたのをFM放送で聴いた。 バックはN響だったろうか、記憶が曖昧だ。 しかし、ズーカーマンの演奏に強烈なインパクトを受けたのを私は忘れない。 特にその音。 あふれんばかりの美しい音色は、まるで水を惜しみなく流出させている泉のような印象があった。 先にも後にも、あんな「あふれでるような」音色は聴いたことがないのだ。

 その後、FMやテレビで何度か演奏を聴く機会があったが、年月がたつにつれ、ソツのない、しかしやや平凡な演奏になっていくように思われて、早く実演で聴きたいという焦りばかりがつのっていった。

 その願いが叶ったのは、10年前のことである。 1991年陽春に学会で上京したとき、池袋の東京芸術劇場でリサイタルを聴くことができた。 演奏は期待を裏切らなかった。 録音では抜け落ちてしまう部分を実演では十分に感じ取ることができたからだ。 ズーカーマンはシャイな人だと思うが、そのシャイな感性が演奏では精妙なニュアンスとして生きてくる。 それが分かった私は、約15年前のFM放送以来彼のファンであり続けてきたことを誇らしく思った。

1月26日(金) 出たばかりの、青木やよひ『ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の謎を解く』(講談社現代新書)を読了。 たいへん面白い本だ。 著者が積年に渡って取り組んできたテーマだけに、多数の文献を参照し、またヨーロッパで楽聖の足どりを追うなどして傍証を固めているその堅実さには脱帽する。 クラシック音楽やベートーヴェンに興味のある人はもちろん、ない人にも、当時のヨーロッパ人の生活習慣や文化・思想を知るための資料としてお薦めできる。

1月29日(月) 石丸電気が直輸入盤定価千円以上を6百円引きセールをやっていると女房から聞いたので、敬和に非常勤に行った帰りに寄ってみるが、何も買わずに帰ってきた。 最近の石丸電気の輸入クラシックCDコーナーはヒドイ。 全然新しいのが入らず、昔から店晒しになってるのばかり。 買う気がしないね。

1月31日(水) ノーマン・レブレヒト『だれがクラシックをだめにしたか』(音楽之友社)を読了。 半月ほどかかって、他の本を合間に読みながら読み進んだ。 外国人の本は書き方がくどいので、こういう読み方になってしまう。 うーん、それにしても、クラシック音楽はかなり危機的な状況におかれているんだなあ、と実感できる本。 商売としてのクラシックになりすぎているわけだね。 一部のスターだけがもてはやされ、その背後にいるマネージャーやブローカーや大企業だけがうるおうシステムを何とかしないと、と思う。

2月3日(土) 市立美術館にアンディ・ウォーホル展を見に行き、ついでにカミーノ古町に寄る。このビル、経営が破綻して数日中に閉鎖されるというので、最後に入っておこうというわけ。 4Fの古CD屋はwithに移転が決まったというが、5Fのタワーレコードは「閉店のご挨拶」なる紙が貼ってあるだけだから、新潟から撤退するのだろう。 古CD屋でインバルとフランクフルト放送響によるマーラーの5番を、タワーレコードでアルテノヴァからクララ・シューマンの作品集とクープランのミサ曲を買う。

 それにしてもカミーノ古町が倒産するのだから、古町の地盤沈下はひどい。 抜本的な対策を講じないとだめじゃないか。 つまり、無料駐車場の設置なんだけど・・・・。

2月4日(日) 午後4時からりゅーとぴあ劇場に出かけ、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」「奥様女中」の公演に臨む。 前者はソプラノ高橋薫子、メゾソプラノ村田淳子、東京オペラシティグループ合唱団。 後者はソプラノ高橋薫子、バス小鉄和広、プラスで新井英夫。 演奏はいずれも東京交響楽団。

 後者が圧倒的にいい。 オペラは演出が肝心だということがよく分かる。 下男を日本人という設定にして身体表現家である新井英夫を起用しているのが成功している。 やや馴染みにくい18世紀イタリアオペラをうまく日本人に架橋する新井の存在が、観客をリラックスさせ、肩ひじ張らないオペラ鑑賞を可能にしている。

 これに比べるとスターバト・マーテルの方はイマイチの感。 この曲、オペラとは逆に切迫感のようなものが必要だと思うんだが、そこがどうも。 メゾソプラノの村田淳子には声の厚みみたいなものが欲しい。 

2月8日(木) 昨日、山蓄に頼んでいたモーツァルト交響曲全集とブラームス室内楽全集のCDセットが届いたのだが、ブラームスの方はノイズの入ったCDが混じっている。 なにしろ12枚組みだから全部を1日で聴くわけにもいかず、数日かけて検分しなくてはなるまい。 外国製品はトラブルが多いとは聞いてたけど、山蓄から買ったCDのトラブルはこれで2件目。 3回買って2回トラブルがあるわけだから、たまらんね。

2月18日(日) 午後5時から、リュートピアのコンサートホールに、東京交響楽団第10回新潟定期演奏会を聴きに行く。 指揮はフィンランドの21歳の新鋭ミッコ・フランクのはずが、急病とかで、イタリア人アントニオ・ピロッリに変更。 プログラムも、最初はシベリウスのエン・サガのはずがヴェルディの「運命の力」序曲に、メインがチャイコフスキー交響曲第4番のはずが第5番に変更。 プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番(独奏はエリザベス・バティアシュヴィリ)はそのまま。

 席は3階斜め右前のA席でした。 ここで聴いたのは初めてだが、音のまとまりはよいものの、3階でステージから遠いせいかやや迫力には欠けますね。 演奏だが、協奏曲が悪くなかった。 この曲、ディスクは持っているのだが、実は日頃そんなによく聴いてはいない。 それで演奏会の前にディスクを一度聴いておいたのだが、やはり実演を聴くとどこでどういう風に楽器が動いているかが分かって面白い。 共に音楽を作るという意味での協奏曲だったんだなとよく理解できました。

 これに比べるとヴェルディとチャイコフスキーはもう一つだ。 全体として、音楽の躍動感というか生気というか、そういうものが不足していて、どことなくぎこちなさが残る演奏だ。 金管も目立ったミスはなかったけどチャイコフスキーではもう一段の迫力が期待される。

2月20日(火) 一昨日演奏会でチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いて、帰宅してから久しぶりに第6番「悲愴」のLPを出してかけてみたのだが、なんと、第4楽章で音飛びが生じてしまっている。 LPってこれがあるからなあ。 最近は聴いていなかったが、昔は愛聴していたムラヴィンスキーによる演奏なので、ショック。

 そこで今日は夕方、街に映画を見に行ったついでに石丸電気に寄り、同じ演奏のCDを買ってきた。 何となくLPとは音が違って聞こえるけど、演奏の迫力はやっぱりすごい。 ムラヴィンスキーだもんなぁ・・・・。

2月24日(土) BOOKOFF寺尾前通店で中古CDを3枚買う。 そのうちの1枚、セシル・リカド独奏、アバド指揮シカゴ響によるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を早速聴く。 15年くらい前の演奏だ。 ほどほどといった感じの。

 セシル・リカドって今も第一線で活動してるんだろうか? 私はこのCDを買って、そういえばそんな人もいたなあ、と思い出したのであるが。 写真が載っていて、名前は欧米風だけどアジア系の、まあ美人とも言えるかなという容貌なんだけどね。

2月26日(月) ローマ・サンタチェチーリア国立アカデミー管弦楽団が5月に新潟で演奏会を開く。 指揮が韓国出身の世界的指揮者チョン・ミュンフン、独奏がその姉でやはり世界的ヴァイオリニストであるチョン・キョンファ。

 チョン・キョンファは私が長らく実演を聴きたいと思っていたヴァイオリニストである。 これを逃す手はない。 先日、電話予約が始まった日に早速SS席を確保して、本日取りに行った。

 チョンは年齢的に言うとパールマンやズーカーマンと同世代。 昔、ハイフェッツ、オイストラフ、スターン、コーガン、グリュミオーなどの世代のあと、しばらくいいヴァイオリニストが出ず、この弦楽器も没落するかと言われた時代があった。 しかしパールマン、ズーカーマン、チョン・キョンファが出て、この不安を払拭したのであった。 私はパールマンとズーカーマンはすでに聴いているので、チョンを聴くと、言うならば三種の神器が揃った感じになる(変な比喩か?)。

2月28日(水) 海野弘『世紀末の音楽』(音楽之友社)を読了。 浅く広い本で、19世紀末の美術や文学との関連を指摘したところが面白く、時代相が浮かび上がってくるけど、個々の問題は掘り下げが浅くて物足りなさが残る。

 昨日、たまたま同僚のF先生にお会いして、チョン・ミュンフンとチョン・キョンファの姉弟が新潟で演奏会を行うという話をしたのだが、今日、最近出たチョン・キョンファによるヴィヴァルディ「四季」のCDを先生が貸して下さった。 CD−ROMもついていて、チョンが曲や演奏について自分で説明している(といっても英語であり、私にはところどころしか分からない。ついてる字幕はハングルだし)。 実は私はパソコンに弱くて、現在のパソコンに買い換えたのは2年前だが、これで動く画像を見た経験がない。 

 しかし、トレイにCD−ROMを入れたら画面にアイコンが出、それをクリックしたらちゃんと画像が出た。 うーむ、私でもできるくらいだから、パソコンはかなり進歩してるんだなあ、と改めて感じ入りました。 Windows98なんですがね。 F先生、ありがとう。

3月4日(日) 以前このページにも登場したN先生から、要らなくなったCDを買わないかと言われリストを見せてもらった結果、8枚を2千円で買うことにして、本日引き取りにお宅におじゃました。 といっても先生宅は拙宅から歩いて5分ほどの場所にある。 天気が悪いので軟弱にもクルマで行ってしまったが。

 取引ついでにお茶をご馳走になってしまった。 先生は、宮崎ますみ(なんていっても今どき誰も知らないかな)似のチャーミングな奥様、そして勉学意欲に燃える小1のお嬢さんと3人で暮らしていらっしゃるのである。

 安価で譲っていただいたCDの中にはヨッフムによるブルックナー8番が含まれているが、先生も奥様もブルックナーとマーラーはお嫌いだとか。 反時代的なところがいいと思うが、吉田秀和も初めてブルックナーを聴いたときは眠ってしまったそうですよとお教えしておいた。

 ま、私もクラシック聴き始めの頃は、ブルックナーとマーラーなんてどこがいいんだろうなと思っていたクチであり、お二人の気持ちは分からないでもないのである。 だが、いったんハマるとやめられないんですね、この交響曲作曲家ふたりは。 といっても私もそれほどディスクを持っているわけではない。 だいたい私は同曲異演をやたら買い揃える人間ではないので。 しかしブルックナー8番、これでカラヤン、クナッパーツブッシュ、インバルに次いで4枚目のディスクになるから、私としては多い方だ。

 ちなみにN先生ご夫妻が好きなのは、ブラームス、メンデルスゾーン、エルガーだそうである。 お二人の高雅な趣味がうかがわれるではないか。

3月9日(金) 和田司『変貌する演奏神話――33回転の精神史』(春秋社)を読了。 クラシック音楽の指揮者とピアニスト合計9人を論じた本。 尖鋭かつ旗幟鮮明な筆者の批判精神が読んでいて心地よい。 特に、近年よく(ベンヤミンを引いて)言われる「複製芸術」という概念をグレン・グールドにからめつつ批判的に分析し、とかく神話化されがちなグールドの限界を、複製芸術は時代の動向だと盲信したという点から指摘した箇所、そしてトスカニーニの「楽譜に忠実な演奏」というイデオロギーを、文学のテクスト中心主義と関係づけて時代の病だと断罪した点が非常に面白い。 その意味で、反時代的考察、とも呼べそうな本だ。

 実は数年前、私自身の博士論文の口頭試問にさいして、私は最近テクスト中心主義に疑問を持っていると言ったら、一部の審査員からかなり反発を食ったので、文学研究者はまだ大多数がテクスト中心主義なのかなあ、と思っていたのだが、この著者はもともと露文専攻で現在は翻訳家をしているそうで、文学専攻でもテクスト中心主義に疑問を持つ人もいるんだなあと、ちょっと心強い気持ちになった。

3月11日(日) 次男が通っているヴァイオリン教室の発表会。 りゅーとぴあのスタジオA。 二十数人の生徒が次から次へと日頃の成果を披露する。 トリを飾ったY君は新大生で、フランクのソナタ第3楽章を見事に演奏した。 

 その帰り、クルマの中でラジオのスウィッチを入れてFM放送を聴いたら、シューベルト「美しい水車屋の娘」が歌われていたが、テノールがすごい美声でしかも非常に自然な歌い方。 ちょっとびっくりするくらい。

 夜、長木誠司『第三帝国と音楽家たち』(音楽之友社)を読了。 タイトル通りの本。 第三帝国時代のドイツの音楽政策や音楽家の運命はかなり複雑だが、要領よくまとめている。 ただし網羅的な内容を250ページの本に押し込めたので、個々の項目は概説的であり物足りない感じがする。 戦中の日本における音楽事情にも最終章で言及しているが、(ナチ時代のドイツ音楽と違い)資料が少なく研究はまだこれから、としているところが、さもありなんと思わせる。 日本人って、記録を残さない民族だからなあ。

3月12日(月) 昨日のテノール歌手について、某音楽サイトで問い合わせたところ、イアン・ボストリッジという英国人テノールで、その筋ではすでに有名なのだと判明。 CDも何枚も出しているよう。 これは買わなくてはなるまい。

 山蓄に注文していたCDが届く。 ギレリスの弾いたベートーヴェン・ピアノソナタ選集、ハイドン・ピアノソナタ全集、ヘンデル・オラトリオ集。 合計27枚! 全部聴くのに時間がかかる・・・・・・。

3月16日(金) 必要があって古町の「クラシックのモーツァルト」に夕方寄った。 目指すCDは見つからなかったが、せっかく来たのだからとNAXOSのを2枚買う。 店には常連らしい男が数人いたが、他に客がいるのも構わず大声でしゃべくっている。 「田部京子のお尻に触りたい」などなど。

 クラシック・ファンがスケベであっても一向に差し支えないんだが(技量が同じなら美人の奏者の方がいいとワタシも思う)、客が他にいるということは公の場なのであって、少しTPOを考えてくれませんかね。 新潟のクラシック・ファンの品位が疑われてしまう。

3月17日(土) 石井宏『帝王から音楽マフィアまで』(学研M文庫)を読む。 先々月読んだノーマン・レブレヒトの本と同工異曲で、音楽のマネジメントにより巨額の利益を得ている人間や一部音楽家の内情暴露めいた内容だが、日本人が書いているので、日本の虚飾に満ちたクラシック・ファンを揶揄した文章も併録されているのがミソ。 日本のオペラブームを皮肉って、日本で本当にオペラが愛されたのは大正時代の浅草オペラだけだったというところなど、なかなか痛烈なトーンを楽しめる。 オペラ以外でも日本のクラシックコンサートのチケットは高すぎることが、一読納得できる!!

3月18日(日) 一昨日買ったグレツキの交響曲第3番のCDを聴いてみる。 この曲、クラシックには珍しく英国でベストセラーになったそうだが、なるほど、現代曲だけど聴きやすいし、最近はやりの「癒し」という言葉がぴったり来る曲だ。

3月22日(木) 先日山蓄から通信販売で買ったヘンデルのオラトリオ4作、「マカベウスのユダ」「ソロモン」「セメレ」「テオドーラ」をひととおり聴いてみた。 「マカベウスのユダ」以外は初めて聴いた曲ばかりだけど、どれもそれなりに面白い。 録音も悪くない。 これで2千円しないのだから、世の中間違っとる(植木等調で発音!)んじゃないかなあ。 だしかにデフレ気味ではあるよな。

3月23日(金) 今月11日にFMで歌声を聴いてショックを受けたイアン・ボストリッジ、その録音がCDR2枚分入手できた。 詳しい事情は省略するが、日本にボストリッジ・ファンを増やそうと尽力されているMさん、ご厚意に感謝いたします。 2000年シューベルティアーデでの「水車屋の娘」、その他。 でもボストリッジは今秋来日するそうで、実演を聴きたいなあ。 新潟には来ないだろうから、東京に行くか? しかし先立つものが・・・・・。 今年は諸般の事情で年収も減る見込みだし。 3人の豚児は食うてばかりいるし。 ダブルバインド的心境。

3月25日(日) 子供を連れて万代の東宝プラザに「ドラえもん」の映画を見に行った帰り、古町の「クラシックのモーツァルト」に寄り、16日に見つからなかったCDを探してみるが、やはりなかった。 16日に店主に聞いたところでは「まもなく入荷しますから、また来て下さい」ということだったんだが、「まもなく」ってどのくらいかね? 贈り物にするつもりなので、余り時間が経過するとまずいんだが。 今月末に船橋の老母宅に一家揃って出かける予定なので、東京で買った方が早いかな?

 それで仕方なく、というのもヘンだが、コンサートのチケットを2枚買う。 新潟室内合奏団と田部京子リサイタル。 田部京子リサイタルはS席からB席までの3ランクに分かれているんだけど、その割り方がユニークだ。 かぶりつきはS、それから数列後の正面中央ブロック右寄りはA(左寄りはS)、その数列後になると中央右寄りでもSになる。 奏者の手が見えるかどうか、ということなんだろうか。 ワタシは10列目の右通路に面した右ブロック最左翼席がAだったので、節約してそこにしたのだけれど。

 今月12日に山蓄から届いたハイドンのピアノソナタ全集、ぼちぼち聴いているが、なかなか面白い。 数人の奏者が分担して弾いているのだが、最初の2枚を担当しているピアニストはベートーヴェン的であり、次の2枚のピアニストはバッハ的であり、その次の2枚の奏者はモーツァルト的なのだ。 まだここまでしか聴いていないが、残り4枚はどうだろうか。

3月26日(月) 私と同じ講座のS・Y先生から、このページの一部に誤記があると指摘され、あわてて直す。 先生はかつて潟響でヴィオラを弾いておられたくらいだから、いわばセミプロなのである。 いくら好き勝手なことを書いているサイトとはいえ、こういう人に読まれているとなると油断がならないなあ。 

 (追記: S・Y先生はかつて潟響でヴィオラを・・・・と過去形で書いてしまったが、後でうかがったところでは、一時多忙のため退いていたものの現在は復帰しておられるとのことである。 謹んで訂正いたします。 6月17日の定期演奏会目指して練習に励んでおられるそうで、その成果が期待される。)

 浅井香織『音楽の〈現代〉が始まったとき――第二帝政下の音楽家たち』(中公新書)を読了。 10年ほど前に出た新書だが、内容は副題にあるとおりで、フランスの第二帝政時代に音楽の大衆化と純粋化が同時進行した、という事態を論述したもの。 大衆と芸術、という一見相反する要素が、第二帝政時代に奇妙に絡み合いながらクラシック音楽の近代化(現代化というよりこちらの方がよさそう)が進行する様は興味深いが、著者の書き方がやや違和感を感じさせるのが惜しい。 最初のあたりはフラヌールだとかベンヤミン的テルミノロギーが頻出して臭みがあるし、その先に行くと翻訳物みたいで、変に細かい記述がある一方でこちらが知りたい事柄がごくあっさり片づけられるなど、著者が材料を十分咀嚼していないのではないか、という疑念が残る。 

3月31日(土) 昨日から船橋の老母宅に一家5人で来ている。 今日は東京に出て、最初上野の森美術館で一家揃ってヴェネツィア絵画展を見た後、別行動となり、私は山野楽器に行き、贈り物用に探していたCD3枚を見つけ購入する。 さすが東京、すぐに見つかりますね。 ボストリッジのシューベルト歌曲集のCDも見つけて購入。

4月8日(日) 夜のFMクラシック・リクエストでボストリッジによるシューベルト歌曲が3曲かかった。 先週東京で買ってきたやつと同じだが、ボストリッジ・ファンは全国にいるんだなあと実感。

4月10日(火) 今日から大学は授業開始だが、朝8時5分からテレビのBS11でボストリッジが歌うので、ビデオをセットしてから家を出た。 この番組のことをご教示下さったMさん、またまた感謝します。 帰宅してからじっくり聴こう。

 みつとみ俊郎『オーケストラとは何か』(新潮社)を読了。 新大の書評誌『ほんのこべや』でブルンネンベルク先生が推薦しておられたので買って読んでみたが、オーケストラの歴史を要領よく紹介した本でなかなか役に立つ。 日欧米の有名どころのオーケストラについて簡単な解説があるのも便利だ。

4月11日(水) 敬和学園大で今週から非常勤の授業。 久しぶりに新発田のBOOKOFFに寄り、中古CDを2枚買う。

 新大に戻ってから教授会、そして面白くもおかしくもない会議。 具体的なことは省くが、ロボットは決して自分がロボットだとは認めようとしないものだということを再認識したに終わった、とだけ書いておく。

 気が滅入ったが、帰宅したらY先生から葉書が届いていた。 先日学会誌に私が発表した論文への感想。 これで少し気分が持ち直した。 Y先生と私は、実は面識がない。 先生は日本でも一、二を競うレベルとされる平安大学(仮称)を3年ほど前に停年退職され、現在は広島の私大に勤めておられる。 6年前に先生が日本初のハインリヒ・マン研究書を出版された際、学会誌で私が書評を担当したのが縁で、時々手紙をやり取りするようになった。 それだけの関係なのである。
 
 で、私は最近出た学会誌にハインリヒ・マンの『一時代を閲する』というメモワールを扱った論文を発表したのだが――詳しくはこのサイトの「私の仕事」を見られたい――『一時代を閲する』はわけのわからないドイツ語(ハインリヒ・マンはこの頃70歳を過ぎており、かなりボケていたらしい)が延々500ページも続くシロモノなので、読むだけでも大変だったのである。

 Y先生はこう書いて下さった。 「何よりもご苦労様でしたと申し上げます。 あれは、知る人は少ないわけですが、へんてこな代物で、僕自身も通読したことは一度もなく、またその気にもなれませんでした。」

 Y先生が『一時代を閲する』を通読していなかったとは、意外だった。 まあ、私にしても、この本を扱った論文を書いてくれと学会誌から頼まれなかったら、とてもじゃないけど通読する気にはなれなかったろう。 箸にも棒にもかからない本なので。 ということは、もしかすると日本人の中でこの本を通読した人間は私だけかも知れないね。 はははは。

 通読していないかも知れないが、少なくともある程度この本に目を通したらしい人間がもう一人はいる。 (こういうことをここに書くのもヘンなのだが、ここは日記を兼ねた欄なのでお許しを。) 故・佐藤晃一である。 今では知る人も少ないだろうが、戦後間もない頃から昭和42年まで日本に冠たる江戸大学(仮称)の独文科教授を務めた人である。 この佐藤晃一には、同じく独文学者である山下肇との共著で『ドイツ抵抗文学』(昭和29年)という本があるのだが、ハインリヒ・マンについての記述に誤りがある。

 これは紙数の関係で今回発表した論文には書けなかったことなので、その筋の方はご注目を。 誤記とは、具体的にはこうだ。 「当時ほとんど70歳であったハインリヒ・マンは、60歳に近いフォイヒトヴァンガアと共に、妻や甥に助けられながら、道なき道を辿ってピレネエ山脈を越え、まずスペインへ、次いでポルトガルへ脱出することに成功したのであった。」(220ページ)

 これのどこが誤記かというと、ハインリヒ・マンがフランスから脱出する際にはフォイヒトヴァンガー(作家)は同行していなかった、ということなのだ。 妻と甥(のちに歴史家として著名になるゴーロ・マン)は一緒だったし、またヴェルフェル夫妻(ヴェルフェルは作家。 日本ではまあ無名だけど、作曲家マーラーの奥さんだったアルマがマーラーの死後別の男と再婚して別れ、再々婚した相手がヴェルフェル。 これで多少「音楽雑記」らしくなるか) も同行していたけど、フォイヒトヴァンガーは違ったのである。

 そこで問題は、なぜ佐藤晃一は誤記をしてしまったのか、ということなのだが、これはハインリヒ・マンに責任がある。 佐藤晃一は巻末文献一覧にハインリヒ・マンの『一時代を閲する』を挙げているが、マンがこの中で間違われやすい記述をしているのだ。 すなわち、フォイヒトヴァンガーとヨーロッパ脱出について話し合ったという記述があって、その直後に我々は出発した、という言い方をしているので、普通に読めば「我々」にはフォイヒトヴァンガーが入っているとしか思われないのである。 ところが実際は彼はヴェルフェル夫妻と一緒にフランスを脱出した。 マンはそのことには全然文中で触れていない。 だからなお誤読されてしまう。

 今は事実関係の研究が進んでいるから、私は最新の文献のお陰で誤読はせずにすんだのである。 そうでなければ佐藤晃一と同じ間違いをしていただろう。 モウロクしてヘンな記述をしたハインリヒ・マンの責任は重大である。 そうでなくともこの『一時代を閲する』はソ連の粛清を讃美したりヨーロッパ植民地主義の讃美をしたりで、「知識人」のダメさ加減が店を並べているような内容なのだが。 彼もある種の固定観念のロボットに過ぎなかったということか。

 「ロボット」でオチがついたので(?)、今日買ってきた古CDの1枚、ビーチャムによるハイドンの交響曲「軍隊」「時計」「ロンドン」を聴く。 「軍隊」と「ロンドン」は好きな曲なので、気持ちが和む。 ハイドンみたいに宮仕えをしながらもちゃんと仕事をしないとね。

4月13日(金) 2限の人文学部向け授業「芸術コミュニケーション基礎論」、聴講受付に行ってみたら、30人教室なのに何と44人も来てしまっていて、立っている学生が10人以上いる。 他学部学生も2名。 「音楽と評論」なんて軟弱なテーマを掲げているせいかしらん。 急遽教室変更の手続きをとる。 しかし100人教室しか空いていない。 この授業、クラシック音楽を聴くというのが眼目なのだが、私のいる校舎には音響装置のある教室は2,3しかないし、それも教養の授業優先だから、この授業ではまず使えない。 それでもってCDラジカセを持参して授業をしているんだけど(笑)、30人教室ならともかく、100人教室では音が後ろまで届かないかも。

 一方、この日3限の基礎演習はというと、中国人留学生Kさん一人が来ただけ。 この落差は何に由来するのか? テーマは「日本近代の学歴と階層」で、学生諸君にも無縁ではないはずなんですがね。 昨年中公新書から出て話題になった佐藤俊樹の『不平等社会日本』のように、日本はヨーロッパと違って階級社会じゃないという定説に疑問の声を上げる人も出ている昨今でもあるし。

 Kさんは、「中国も学歴社会だし、これをどう思っているのか日本人学生に訊いてみたかった」と言っていました。 シラバスをちゃんと読んで自分に興味の持てそうなテーマの授業を選ぶ――これは当たり前のことなんですが、留学生にはそれができるのに、日本人学生には誰もできない(少なくとも私のいる場所では)というのはなぜなんでしょうか? 

 大衆としての学生、というテーマにどのくらいの教師が真剣に取り組んでいるのか? 多分、大衆に迎合するような方法をもって対処しているだけではないのか? 実はこれ、一昨日ここに記した「ロボット」とも関連するテーマなんだが、詳しくは略します(差し障りがありそうなので)。

4月15日(日) 午後二時から、音楽文化会館ホールに新潟室内合奏団第41回演奏会を聴きに行く。 オール・モーツァルト・プログラムで、「劇場支配人」序曲、フルート協奏曲第2番、交響曲第39番。 指揮は新通英洋、フルート独奏は酒井美智子。

 メインとなる2曲はいずれも悪くない演奏。 フルート独奏の酒井さん、ご苦労様でした。 でもあのドレス、もうすこしシンプルな方がいいんじゃないかな。 ソプラノで朗々と歌うプリマドンナあたりならともかく、フルートだとちょっと違和感が残る。

 改修後の音楽文化会館に入ったのは初めてだが、りゅーとぴあから空中回廊で結ばれたことと喫茶の位置が変わったらしいことを除くと、特に目立った変化はないみたい。 椅子は貼り替えられてましたけど。

4月18日(水) 敬和学園大に非常勤でドイツ文学の講義をしに行く。 講義の後、学生二人が質問に来た。 うち一人は、古本屋でエッカーマンの『ゲーテとの対話』を見つけたが、何千円もするので買うかどうかためらっているという。 仮に新本で出たとしても3千円程度はするだろうから買っておいたら、とアドバイスする。

 質問に来た学生がいた、ということに感心する。 私は去年まで敬和では非常勤としてドイツ語を教えていたのだが、今年は事情があってドイツ文学の講義を受け持つことになったのです。 この講義、実は本務校の新潟大で教養の講義としてやっているものと内容は同じなのだが、新潟大では質問に来る学生なんぞ、ここ数年講義をやっていて一人もいない。 たまにレポートに面白いことを書いてくれる学生はいますがね。

 いや、実は昨日新潟大で同じ講義をやったときにも、感心な学生に出会ったのである。 ただし普通の学生ではない。 白髪のご老人で、講義終了後私のところに来て、「私は科目等履修生で、先生の講義には登録していないのですが、聴かせて下さい」と言う。 こちらが指定した教科書(文庫本)以外に、テーマに関連がありそうな研究書の文庫本を自分で買ってきたと言って見せてくれた。 熱心だな、私はそう思い内心頭を下げた。

 改めて、先週金曜日の基礎演習に日本人学生が一人も来なかった件を思い出した。 敬和学園大の講義では質問に来る学生がいるのに、新潟大の講義では質問に来る学生が皆無、という事態とどこか共通しているのではないか。

 関連して思い出すのが、1993年、新潟大で教養部解体直前の年にドイツ語の授業をやったときのことである。 某文系学部のクラスを受け持ったのだが、当時できて間もなかったドイツ語検定試験を受けてみるよう熱心に勧めたにもかかわらず、後で訊いてみたら受験した学生はクラス内に一人もいなかった。

 敬和学園大や長岡工業高等専門学校では受験した学生が何人もいたという話を仄聞していたので、愕然としたのである。 新潟大生のこのやる気のなさ、徹底的な小市民根性と大衆ぶりをどうしたら変えられるのか? 事態は相当に深刻だと思う。

 このところ音楽に関係ない話が多くてすみません。

4月21日(土) シネ・ウィンドに映画を見に行ったついでに、伊勢丹のチケットぴあに寄り、6月10日に東京で行われるアリシア・デ・ラローチャのピアノリサイタルのチケットを買う。 ちょうど学会で上京する時期なので、ついでに聴いておこうというわけ。 この高名なピアニストを生で聴く機会が今までなかったこともある。 もう10年くらい前だったか、FMでブラームスの第2協奏曲を彼女が弾くのを聴いて、特にその第4楽章の見事さに感動したことを憶えている。

 しかしチケぴあは席が自分で選べず、S席であるにもかかわらず余りよい位置を確保できなかった。 或いは買うのが遅かったのか。

4月22日(日) 午後2時から、カトリック寺尾教会に新潟オルガン研究会第27回例会スプリングコンサートを聴きに行く。 第一部では新大人文学部の松本彰先生が「バッハとヘンデル」と題してお話をされ、バッハのコラールファンタジア「来ませ精霊、主なる神」(BWV651)が演奏された。

 松本先生のお話では、ドイツの都市ライプツィヒとハレの対照性が興味深かった。 ライプツィヒが文化都市で伝統ある大学都市でもあることは、文豪ゲーテがここで最初の大学生生活を送っていることもあり、一応ドイツ文学者である私も知っていたが、ハレがそれとは逆の軍事都市であり、しかしそこから明るい開放的な音楽家であるヘンデルが出たこと、小パリと言われたライプツィヒからはいかにもドイツ的なバッハが出たこと、この対比は面白いと思った。

 10分休憩の後の第二部では、ソプラノとオルガンによりバッハの「御身がともにあるならば」(BWV508)とヘンデル「リナルド」から「我を泣かせたまへ」、オルガン独奏でバッハの「フーガの技法」から3曲、ソプラノリコーダとオルガンによりヘンデルのハレ・ソナタ第1番、オルガン独奏でバッハの幻想曲とフーガト短調(BWV542)が演奏された。

 聴衆の中にはやはり人文学部のF先生やT先生、法学部のN先生もおられるなど、たいへんアカデミックな、しかしアットホームな雰囲気の演奏会であった。 F先生は、4月に入ってからとかく多忙なので、雑然としがちな気分をコンサートで切り替えようと思って来られたそうである。 私のような俗な人間とはやはり考えることが違うのだと改めて感心させられてしまった。

 私はと言えばまったく信仰に縁のない徒なので、教会のような場所にはあまり足を踏み入れたくないのだが、りゅーとぴあで行われたポジティヴオルガンのレクチャーコンサートに行き損ねた(チケットが売り切れて)ので、そのことを新潟の某音楽サイトでぼやいたところ、こういうコンサートがありますよと親切にも教えて下さった音楽通の方がいて、ならばこちらで代用しようかというフラチな気持ちで寄ってみたのである。 800円と廉価なのも一因だったかな?

4月24日(火) 5月20日の東響新潟定期、行けるかどうか分からずチケットを買わずにきたのだが、どうやら行けそうなので電話で予約する。 と言っても金欠病気味ではあり、B席にしました。 2月の定期はA席だったから1ランク・ダウンですなあ。 とほほ。 だがB席でも映画2回分なんだから、ちゃんと演奏してくれよ。

4月30日(日) 黒田恭一『はじめてのクラシック』(講談社現代新書)を読む。 「クラシック音楽と評論」なんてテーマの授業をやっているので、クラシック音楽入門用にいい本はないかと探しているのです。 古本屋で買ってみた本書もその一冊。 専門用語を使わずに、なおかつ啓蒙書的なわずらわしさを脱して、クラシック音楽に気軽にアプローチできるようアドバイスをする、という著者の姿勢はなかなかいい。 しかし出て10年余りたっているので、CDとLPレコードの特性が論じられているなど、部分的にやや古くなっている感も否めない。 

 ほかに大町陽一郎『クラシック音楽の勧め』(講談社現代新書)諸井誠『これがクラシック音楽だ』(音楽之友社)もあって、いずれも悪くないとは思うが、「これだ!」という入門書をご存じの方がいたら教えて下さい。

5月7日(月) 金沢の山蓄に3週間前に注文していたCDがようやく届く。 30枚近くまとめて注文を出したのだが、どういうわけかそのうち2点(4枚)が抜けている。 忘れたのか、品切れなのか??

 何はともあれ、まず研究室でフルトヴェングラーを2枚聴く。 チャイコフスキーの悲愴交響曲+プフィッツナーの交響曲作品46、そしてモーツァルトの交響曲第39・40番+アイネ・クライネ。 モーツァルトの40番は、第一楽章冒頭の有名なメロディーが独特の節回し(?)で変にエロチックだ。

 帰宅してから、さらにマニャールの交響曲第1・4番を聴く。 この作曲家の作品は初めて聴いたが、R・シュトラウスの翌年、1865年に生まれ、第一次大戦の勃発直後に戦死した人としてはずいぶん古典的というか前期ロマン派的というか、そういう感じの曲。 この人には室内楽もあるらしい。 聴いてみたいものだ。 

5月12日(土) 午後6時半から、りゅーとぴあにて、チョン・ミュンフン指揮ローマ・サンタチェチーリア国立アカデミー管弦楽団の演奏会を聴く。 ヴァイオリンはチョン・キョンファで、 ロッシーニ「ウィリアム・テル」序曲、ブラームスのヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチの交響曲第5番。 アンコールがヴェルディ「運命の力」序曲。

 ブラームスの協奏曲、チョン・キョンファの熱演が目を惹いた。 ボディアクションの大きな人で、楽器の向きが時により180度も変わってしまう。 これだけ身体表現(?)の激しい独奏者も珍しい。 ただ、音の線が細いのが気になった。 ブラームスの協奏曲は線の太いヴァイオリニストでないと格好が付かないのだが、生演奏ではCDほど独奏楽器が浮き立たないという事情を考慮してもなお音が細すぎる。 もともとそういう人なのか、楽器のせいなのか、調子が悪かったのか。

 ショスタコーヴィチはよかった。 指揮者のためかオケの性質からなのかは知らないが、全体的にソフトな運びで、コントラストをくっきり付ける行き方とは正反対(ブラームスの協奏曲でもそうだったが)。 そして弦の響きが美しい。 「革命」という俗称がある曲だけど、それを無効にするような独自性をもった演奏だった。 ショスタコーヴィチというと、暗さや諧謔といったイメージがあるけど、それとは別の側面が見えてくる。 例えて言えば、ロシアに住みドストエフスキーか何か読んで暗い表情をしていた男が、陽光輝くイタリアに来て、そんなに悩むこともないかなあと思ったとでもいう感じか。

5月15日(火) 悩んだあげく、7月28日のフィルハーモニア管弦楽団の演奏会に行くことに決め、チケットを取る。 B席なんだけど映画4回分。 財布の中身が軽くなるぅ・・・・・・・・・・・。 ま、7月の音楽会はこれだけにしとこう、と自分に言い聞かせつつ・・・・・・・・・・・・。

5月17日(木) 午後7時から、音楽文化会館ホールに、田部京子ピアノリサイタルを聴きに行く。 プログラムは、前半が吉松隆「プレイアデス舞曲集」第6集〜9集より、モーツァルトのピアノ・ソナタハ長調K.545、シベリウス「樹の組曲」作品75より、同じく「花の組曲」作品85より、同じく「ロマンティックな小品」作品101より、グリーグ「叙情小曲集」より。 後半がシューベルトのピアノ・ソナタ第19番ハ短調D.958、アンコールに吉松隆「プレイアデス舞曲集」より「真夜中のノエル」とリスト「リゴレット・パラフレーズ」。

 シューベルトが聴きたくて行ったのだが、過不足なくキズのない演奏であった。 とはいえ、昨今はシューベルトも色々な演奏家が弾いている。 田部京子でなくては聴けないシューベルト、というのを目指して欲しい。 欧米の一流のピアニストが弾くと(例えば昨年新潟に来たアムラン)、日本的感性とは違った側面に触れることができて「うーむ、こういうのもアリか」と思うものだが、田部さんの演奏は良くも悪くも日本人的、ヤマトナデシコ的なのである。

 それとピアノの響きがイマイチよくなかったような気がする。 楽器のせいか、演奏家のせいか、はたまたホールのせいか、よく分からないけど。 これも、昨年りゅーとぴあで聴いたアムランの音は実にきれいだったのを思い出してしまう。

 聴衆の入りが悪かった。 最近はりゅーとぴあができて、クラシックコンサートも増えているので、音楽ファンもお金が続かないのかも。 しかし半分も入っていないのは田部さんに気の毒。  

 4月22日にも演奏会でお会いしたT先生とまたしても顔を合わせてしまった。 それとT先生と一緒にH先生も清楚な奥様同伴で来られた。 このお三方がちょうど私のすぐ前の席。 加えて私の右側には日本歯科大でドイツ語を教えておられるY先生が。 なんだか知人に包囲されたような具合になった。

5月20日(日) パトス音楽村で、6月27日にりゅーとぴあで行われるH・スミス・リュートリサイタルの前売り券を買う。 10日ほど前にも一度来たのだが、まだチケットが入荷していないとのことであった。 以前メールで関係者に訊いたときは、連休明けからパトス音楽村とクラシックのモーツァルトで発売とのことだったのだが。 それにしてもパトス音楽村ってチケットを買っても包んでくれない。 大学生協みたい(笑)。

 午後5時から、りゅーとぴあで東京交響楽団第12回新潟定期演奏会を聴く。 スザンナ・マルッキ指揮、ヴァイオリン独奏が二村英仁で、曲目はティエンスー「ムード−ステレオフォニック・ミュージック」、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番、シベリウスの交響曲第1番。 アンコールとして、協奏曲のあと二村がバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番から第1楽章を、交響曲の後にオケがシベリウスの組曲「恋する人」作品14から第2番「恋する人の通った小道」を演奏した。 私の席はGブロック、つまり3階右側。

 なお、先頃亡くなった團伊玖磨氏を追悼して、最初に弦楽合奏でバッハのG線上のアリアが演奏された。 また開場前にはロビーで吉田恵によるボジティブ・オルガンの演奏があった。

 さて、本来のメニューだが、最初の曲はいわゆる現代曲で、初めて聴いたし、ぴんと来なかった。 次の協奏曲は全体としておとなしい演奏。 特に第3楽章などもう少しエグさを出した方がいいのではないかな。 それと二村の独奏だが、よく鳴る音とそうでない音の差が割にある人だ。 第2楽章は叙情性を十分出していてよかったけれど。 シベリウスは悪くなかった。 ケレン味がない(場合によってはなさすぎる)この指揮者の持ち味が曲とうまくマッチしたようで、バランスの取れた演奏となった。

 余談ながら、金髪をショートカットにした女性指揮者スザンナ・マルッキが黒い服に身を包んでいる様子は、ちょっと美青年風で、悪くない感じ。 こういう要素ってのも案外バカにならないよね。

5月21日(月) 大学生協で、今週土曜に県民会館で演じられる、地元2劇団による三島由紀夫『火宅』『聖女』の前売り券を買ったら、包んでくれました。 前日の記述は取り消します、生協さま。

5月23日(水) 敬和に非常勤に行った帰り、新発田のBOOKOFFに寄ったら、ベーム指揮ウィーンフィルによるブラームスの交響曲が4曲揃って出ていたので、財布の中身が気になっているにもかかわらず、即、買う。

 ところで敬和学園大では講義のあと、また質問に来た学生がいた。 この文章を読んで下さっている方は、4月18日のところをご参照の上、以下をお読み下さい。

 この日の講義では、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』に子供に関するする記述が頻出することを指摘し、アリエス『〈子供〉の誕生』を紹介して「子供」概念の近代的特質を論じ、学校による子供の隔離が狂人や売春婦の隔離と並行する現象ではないかと述べたり、『オシアン』が作中出てくるところに触れて、ヘルダー経由でゲーテが民族文学概念に親しんだことを紹介しつつ、「民衆文化」が実は宮廷文化の変質したものにすぎない場合があることや、ナショナリズムとデモクラシーが実は表裏一体のものであることを、ヴィーレック『ロマン派からヒトラーへ』にからめて指摘したりしたのだが、講義の後やってきた学生は、子供の隔離ということからフーコーの言説を想起したと言い、またいわゆる「疾風怒濤」期の文学の特質や、古代ギリシア悲劇作家のデウス・エクス・マキーナ的手法など、多方面に話が及び、なかなか知的刺激にとむ会話を私と交わしたのである。

 こういう質の高い質問を、私はかつて新潟大生から受けた記憶がない。 この差はどこから出てくるのだろう? 

5月26日(土) 夜7時から、県民会館小ホールにて、市内の2劇団(第二黎明期と五十嵐劇場)による三島由紀夫の『聖女』『火宅』公演を見る。 演劇を音楽の欄で取り上げるのはどうかと思うのだが、演劇のコーナーは当サイトにはないし、ここは日記も兼ねているので、すみませんがお許しを。

 演劇のコーナーが当サイトにはない、というのはつまり、ワタシが余り演劇を見ないからですね。 じゃあなぜ今回は行ったのかというと、三島の作品だから。 といっても芝居には縁のないワタシのことだから、これまで実演で見た三島演劇は4つだけである。 ベルイマン演出でスウェーデンの劇団による『サド侯爵夫人』、松坂慶子主演の『黒蜥蜴』、東京のアマチュア劇団がやった『わが友ヒットラー』、歌舞伎の『鰯売恋曳網』。 ちなみに『黒蜥蜴』は、丸山(美輪)明宏主演で映画化されたものも見ている。 これは、三島由紀夫自身が出演しているといういわく付きの映画なのだ。

 今回の2作はいずれも昭和20年代前半から半ばにかけて書かれたもので、戦争直後の荒涼とした時代精神が吹き付けてくるかのごとき印象があるけれど、最後の作品『豊饒の海』に至るまで変わるところのなかった三島の固定観念のようなものがすでに表現されているのが面白い。

 見ていて『火宅』の夫人役などはやや誇張した演技が楽しめたが、たぶん『聖女』の聖女役のほうが演技をするには難しいんだろうな、などと考えました。 両作品とも書き割りが同じというのも、単に節約したからかもしれないけど、共通した時代背景を暗示するという効果を考慮すればそれなりに意味があったのでしょう。

5月29日(火) 先週買ったベーム+ウィーンフィルによるブラームスの交響曲四曲をひととおり聴いてみた。 70年代半ばの録音で、この頃のベームは老齢のためもあってテンポが遅くなっていると指摘されることが多いが、第2番を除くとさほどではないと思う。 弦の響きが美しくとれている録音で、これはやはりラジカセではなくちゃんとしたステレオで聴くべきディスクと言えよう。 

 といってもワタシのステレオも大した装置ではない。 特にスピーカーは学生時代に買ったパイオニア製20センチ2ウェイのをいまだに使っている。 アンプやLPプレーヤーは2代目なのに、これだけは買い換える気にならない。 来年で満30年になるが、多分、壊れない限り使い続けるだろう。

5月30日(水) 敬和に非常勤に行った帰り、またしてもBOOKOFFで中古CDを買う。 今回は1枚のみ。 モーツァルトの弦楽五重奏曲ト短調+ニ長調をメロス四重奏団その他が演奏したもの。

 この曲、今までバリリ四重奏団が演奏した古いモノラル録音のLPしか持っていなかった。 当然ながらこのCDははるかに現代的なかっちりした演奏になっている。

6月4日(月) 音楽とはゼンゼン関係ない話だけど、本日、大学の私の郵便受けにイオンド大学からの封書が入っていた。 なんでも名誉博士号を授与したいので同封の承諾書にサインして送ってくれというのだけど・・・・・・何のとっかかりもない大学から何でいきなりこういう話が舞い込むのかね? イオンド大学って、ネットでも名前を見たことがあるが、とかくウワサの多いところじゃなかったっけか・・・・・おおコワ・・・・・・・あとは沈黙。

6月6日(水) 午後7時から、音楽文化会館でジュリアード弦楽四重奏団の演奏会。 女房と行く。  曲目は、ハイドンの弦楽四重奏曲変ロ長調op.64-3、バルトークの弦楽四重奏曲第6番、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番op.127.。 アンコールにドビュッシーの弦楽四重奏曲より第3楽章と第2楽章。 席は12列11番。

 長らく第一ヴァイオリンを務めたロバート・マンが引退し、第二ヴァイオリンだったスミルノフが第一ヴァイオリンに就任して初めての日本公演。 といっても私はロバート・マン時代に生でこの団体を聴く機会には恵まれなかったのではあるが。

 全体として、第一ヴァイオリンが引っぱっていくのではなく、全員で協調しあってアンサンブルを作り出していく、という方向性が見えた。 したがって、音楽の輪郭がくっきりせずに融和的で、現代的というより昔風の、何か懐かしさを感じさせる演奏となった。 客の入りは、満席ではないが、8〜9割といったところか。

6月9日(土) 昨日から東京出張。 本日は東京外大で開催される日本独文学会の春季研究発表会に行く。 昨年は会場が都立大で、八王子まで行ってから2度乗り換えてやっと着く遠さに辟易したが、今回は中央線・三鷹の次の武蔵境で西武線に乗り換えて二つ目だから、まあ近い。 大学を移転するにしてもこのくらいにしてもらいたいものですな。 

 学会では、「〈壁〉の崩壊とDDR〔東独〕文学」というシンポジウムを聴いた。 私は東独文学は余り読んでいないが、知識人問題に関連する発表もあり面白そうだと思ったので。

 シンポジウムは若手主体で、大学院生も入っていたようだったが、彼らがよく勉強しているのに感心した。 私はここ7年ほど、日本のゲルマニストのダラシナサには愛想を尽かしているのだが、こういう優秀な若手が育っているならドイツ文学も捨てたものではないなという気持ちになった。 意欲的な大学院生のためにポストを用意してやることができるかどうか、それが問題だが。

 東独は国家としては消滅したが、そのシステム下で育った人間が残存している限りは、旧西独とは違った思考や感性に基づいた東独文学は何らかの形でしばらくは維持されるだろう。 旧西独人のステレオタイプ的な東独観への異議申し立て、それは、とかく「ナチ」と結びつけられがちなドイツ人全体に関する言説への異議申し立てにもつながるはずだ。

6月10日(日) 午後4時から、サントリーホールでのアリシア・デ・ラローチャ・ピアノリサイタルに行く。 曲目は、モーツァルトのピアノソナタイ短調K.310、シューベルトのピアノソナタイ長調D.664、モンサルバーチェの「イヴェットのためのソナティナ」、グラナドスの「詩的なワルツ」、同じく「ゴイェスカス第二部」、同じく「わら人形」。 アンコールがモンサルバーチェの「ハバネラ」、グラナドスの「スペイン舞曲」から第6曲「ホタ」、同じく第7曲。 席は2階Cブロック(2階正面)6列8番。

 よく響くウォーム・トーンで、まったくケレン味のない自然な音楽が展開される素晴らしい演奏会であった。  客の入りは8割くらいか。 今回は東京と大阪で各1回のリサイタルだそうだが、満席にならないのは不思議。 彼女の演奏活動は70年以上に及ぶそうである。

 従来、サントリーホールは交通の便が悪かった。 少し前に銀座線に溜池山王駅が新設され、今回私は初めてこの駅から行ってみたが、なるほど、だいぶ近くなった感じ。 

 それにしてもこの溜池山王駅、ホームから下に降りる階段を通って地上に出るのが珍しい。 ふつう、地下鉄ならホームから階段を上って地上に出ると相場が決まっているのに、その逆なんですね。 銀座線はたしか日本で最初の地下鉄だから、浅いところを走っているので、そこに駅を新設したからこうなっているのであろう。 私は鉄道オタクではないが、こういう地下鉄駅って他にもあるのだろうか(丸の内線や東西線にあるような、地下鉄でありながら地上に設けられた駅は除く)?

6月12日(火) 東京滞在最終日。 上野の国立西洋美術館に、イタリア・ルネッサンス宮廷と都市の文化展を見に行く。 土日を避けたのは混雑するだろうと思ったからだが(月曜は休館)、思惑ははずれ、かなり混んでいた。 えーと、このページ、演劇だとか美術展だとかが入って、だんだん何のページか分からなくなってきたよなあ(笑)。

 「ピッポ・スパーノ」の絵の実物をおがめたのは収穫だった。 何のことかって? 詳しくは私の責任編集になる『ハインリヒ・マン短篇集』第2巻所収の「ピッポ・スパーノ」を読まれたい。

6月13日(水) 東京で買ってきた中古CDから、グリュミオーによるヘンデルのヴァイオリンソナタ集を聴く。 無論グリュミオーは現代楽器で弾いているが、伴奏がチェンバロで、ヴァイオリンばかりが大きく聞こえ、バランスが悪いような気がする。 バロック期の曲を現代にどう演奏するかは難しい問題だ。

6月17日(日) 午後1時半から、県民会館で新潟交響楽団の第68回定期演奏会を聴く。 R・シュトラウスの「ドンファン」、モーツァルトのオーボエ協奏曲、ベートーヴェンの交響曲第7番。 指揮は船橋洋介、オーボエ独奏は田中宏。 席は15列40番。 アンコールもあり、何の曲か私には分からなかったが、後日、S藤Y一先生(下記参照)にうかがったところでは、マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲だそうである。

 アマチュアのオーケストラながら十分に満足できるレベルの高い演奏会であった。 モーツァルトで独奏者となった田中宏氏は、新潟大の教育学部音楽科を卒業後ウィーンに留学して研鑽を積んだ方だそうである。 早めのテンポで快調といいたくなるモーツァルトを聴かせてくれた。 ベートーヴェンも充実した演奏だった。 昨年ヨーロッパ室内管弦楽団が来てこの曲をやったときは、室内オケということもありやたらにテンポが速くて閉口したものだが、やっぱりフルオーケストラの堂々たるテンポ設定はそれなりに説得力がある。

 演奏会には大学で私と同じ講座におられるS藤Y一先生もヴィオラで出演され、出ずっぱりの活躍ぶりであった。

6月19日(火) ここ2,3年、トシのせいで老眼の気が出てきていたのだが、昨日とうとう眼鏡を外さないと独和辞典を使えない状態となり、本日、授業を2コマ終えてから近くの眼鏡屋に行き、老眼鏡をあつらえた。 遠近両用レンズなので、できるまでに数日かかるのが面倒。 値段もフレームを入れて4万円を超えた。 痛い出費だなあ・・・・。

6月20日(水) 敬和に非常勤に行った帰り、また新発田のBOOKOFFに寄り、中古CDを2枚買う。 そのうち1枚、ブルックナーの弦楽四重奏曲とモーツァルトの弦楽四重奏曲「プロシァ王第一」をブルックナー弦楽四重奏団が演奏しているものを早速研究室で聴く。

 ブルックナーの弦楽五重奏曲のディスクは持っているが、弦楽四重奏曲は初めて聴いた。 作曲者名を隠して聴かせたら、初めての人はまずブルックナーの曲とは分からないだろう。 解説によるとまだ作曲家として一人前という自覚がない時代に学習的に作曲したようで、古典派、シューベルト、ロマン派の影響が見られるが、にもかかわらずブルックナー独自の「音楽言語が認められる」のだそうだが、私にはよく分からん。 もっともまだ1回しか聴いていないからかも知れないが。

6月24日(日) 昨日から岩室温泉に一泊して中学3年次のクラス会。 同窓生14名が集まった。 加えて恩師も参加された。 先生は現在65歳、我々も今年度中に満49歳になる。 同クラスにいた46名中、物故者が2名、住所不明者が9名。 残りの35名に招待状を出して14名が参加したわけだから、まあまあであろう。 東京近辺に住んでいる者が一番多く、地元いわきからは3名だけの参加。 いわきには半数強が住んでいるので、地元に残る人間は出不精、という結論が導き出せる? 最も遠くから来たのは、三重県四日市在住者。

 すでに孫がいるという人も数名。 私のように、一番下の子が小学1年というのは、皆無。 私以外では、最も子供が小さい人でも小学4年生である。

 本日は旅館を朝9時過ぎに出てから、弥彦神社、弥彦山スカイライン、シーサイドライン、新潟大学(笑)、北方博物館、と見物して回った。 予定ではこのあと新潟市中心街も見て回るはずだったのだが、「早く帰りたい」と言い出した人がいて、結局ここで日程終了となる。 午後3時頃解散。 あっけないですなあ。 トシのせいで粘りがなくなっているのでしょうか。 幹事役の私としては、拍子抜けであった。

 ちなみに、いわきの中学のクラス会をなぜ新潟でやらなくてはならないのか、私にもよく分からない。 4年前にクラス会を地元いわきでやったとき、なぜか次は新潟で、という決議がなされてしまった。 賛成したのは地元の人間だったと思うのだが、その人たちが今回3人しか参加しないのだから、不条理というしかない。 でも、世の中、こういうものかな。 なお、次回は2年後に鎌倉で、となった。 鎌倉付近に住んでいる同窓生は、今回の新潟と違って複数いるから、幹事は楽だと思うが。

6月27日(水) 7時からりゅーとぴあのスタジオAで行われたホプキンソン・スミス・リュートリサイタルに行く。 老ゴーテェエのプレリュード・ノン・ムジュレとシャコンヌ、ザンボーニのソナタ9、ヴァイスのプレリュード、パッサカリア、ジーグ、そして大バッハのソナタBWV1001(ソロ・ヴァイオリン・ソナタの編曲)とシャコンヌ(ヴァイオリン・パルティータの編曲)。

 会場は100人ほどしか入らないが、満員であった。 私もリュートを実演で聴くのは初めて。 やや音の出方が均質でない感じがしたのは、実演故か、調子がイマイチだったのか。 曲としてはザンボーニが、適度にセンチメンタルで楽しめた。 スミスが疲れているということでアンコールなしだったのが残念。

6月28日(木) 7時からりゅーとぴあのコンサートホールで行われたタリス・スコラーズの公演に女房と行く。 指揮はピーター・フィリップスで、曲目はパレストリーナの「教皇マルチェルスのミサ曲」、クレメンス・ノン・パパの「マニフィカト」、ジョスカン・デ・プレの「御身のしもべへの御言葉を思い起こしたまえ」「御身のみ、奇蹟をなす者」、マンスクール「よりよき生活のうちに」、ゴンベール「クレド」。 アンコールがロッティの「十字架につけられん」。 席はCブロック(2階正面)、1列17番。

 素晴らしい演奏会であった。 8〜10人の男女による合唱団が、見事な声で寸部の隙もない歌唱を繰り広げていく。 私はじつのところ、中世ルネッサンスの音楽は不得手で、よく分からない。 今回もその例にもれなかったが、最後のアンコールがなかなかいい曲だった。 ここから突破口が開けるか?

6月30日(土) 6時半からりゅーとぴあのコンサートホールで、新潟大学管弦楽団第22回サマーコンサートを聴く。 河地良智指揮、語りとソプラノが近藤綾。 プログラムは、ムソルグスキー:交響詩「禿山の一夜」、グリーグ:劇音楽「ペールギュント」より抜粋、ドヴォルザーク:交響曲第7番。 アンコールがドヴォルザーク「スラブ舞曲第8番」。

 9割かた埋まった客席を前に、新大のオケが熱演を繰り広げた。ペールギュントを歌った近藤綾は、声量はさほどないが品のいい声質だ。 ただ語りは、もう一工夫というか、もう少し芝居気があってもいいような気がする。 オーケストラは、昨年のサマーコンサートより少し腕が上がったかな、という印象。 弦の精妙さはイマイチだけれど、全体としてバランスの良く取れた演奏であった。 席はBブロック4列11番。

 会場で、偶然、新潟で知る人ぞ知る音楽サイトを開いているT氏と通路を隔てて隣席となり、T氏は先月東響の新潟定演があった際に私の姿を見覚えておられ、声をかけて下さった。 インターネットのBBSでしか知らなかった人とこうしてコンサートで顔を合わせ会話を交わすのは、やっぱり時代の流れというものであろうか。

 私はペールギュントを生で聴いたのは初めてだが、氏はすでに2回実演に接しているそうである。 さすが、コンサートを聴くために毎月東京に通っているというだけのことはありますね。

7月4日(水) 2日後の授業でブラームスの第一ピアノ協奏曲を学生に聴かせなくてはならないが、この曲、私はLPでしか持っていなかった。 第二協奏曲の方だとLP・CDとも何枚かあるんですがね。 で、 LPからテープに録音してもいいけれど(カザルスによるバッハの無伴奏チェロ組曲を聴かせたときはそうしたのだが)、この際だからCDで新しい演奏を買ってみようと思い、非常勤で敬和に出講しての帰り、石丸電気に寄って、コワセヴィッチ独奏、コリン・デイビス指揮、ロンドン交響楽団のを選んだ。 20年ほど前の録音だが、夕方、会議終了後研究室で聴いてみたところ、たいへんな名演だと分かった。 

7月5日(木) 用事があって市街地にある某都銀に行った。 2年ほど前、同じ用事で来たときは3階が受付だったのだが、今回行ってみたら2階に変わっており、しかも1階の入口にその手の表示が全然ない。 不親切きわまりない。 おまけに15分待たされて3時の閉店時間となったが、椅子のある窓口の客が長々と話をしていて終わらないので、別の行員相手に立ったまま用件を済ませなくてはならなかった。 どうも銀行の権高さってのは、直しようがないのかねえ。 ついでながら、こちらの相手をしてくれた女子行員は多少口臭がありました。 客商売ですし、気をつけましょう。

 と内心ぶつくさ言いながら、用件を終えてから新潟市立美術館にイタリア静物画展を見に行く。 16世紀から20世紀までの静物画を展示してある。 静物画といっても対象は色々で、中には卓球のラケットを描いたものもあった(当然ながら20世紀の作品である)。

7月10日(火) 清水多吉『ヴァーグナー家の人々』(中公新書)を読む。 20年前に出た新書を古本屋で買ったまま読まずにきたのだが、バレンボイムがイスラエルの演奏会でタブーとされてきたヴァーグナーの曲をアンコールでやったというニュースに接し、この機会にと思って読んでみた。 ヴァーグナー家とナチス・ヒトラーの関係がよく分かる本である。 「芸術」がいかに政治とリンクしてきたか、考えさせられる内容。 ゲッベルスやフルトヴェングラーの発言への著者なりの読み込みも興味深い。 ただしヴァーグナー自身の反ユダヤ思想には言及していない。

7月11日(水) 敬和に非常勤に行った帰り、伊勢丹に寄って、今月26日に音文で行われる平山友紀子・真紀子デュオリサイタルのチケットを買おうとしたら、「主催者がすでにチケットを引き取ってしまいました」とのことで買えなかった。 当日までまだ2週間あるっていうのに、早すぎはしませんかね。 ミラ・ゲオルギエヴァ+及川浩治の演奏会のチケット(10月6日だから、まだ先だけど)は首尾良く希望の席を入手できた。 2階正面の最前列。

7月14日(土) 一昨日、BOOKOFF関屋店にマックス・レーガーのCDが480円で出ていたので買ってみた。 レーガーのCDは持っていなかったので。 無伴奏チェロ組曲2曲とピアノ伴奏付きチェロ・ソナタ1曲が収録されている。 今日、やっと暇ができて聴いてみたが、前者は明らかにバッハを意識して書いている。 うーむ。

7月19日(木) 昨日BOOKOFFで古CDを3枚ほど買ったのだが、中に変なのが混じっていた。 バッハのオルガン協奏曲と書いてあって、私はヘンデルはともかくバッハにオルガン協奏曲があったとは知らなかったので買ったのだけれど、聴いてみるとオルガンの音しか聞こえない。 よくよくジャケットを見ると、オルガン独奏者の名前しかなく、オーケストラは書かれていない。 しかし、ジャケットには英文でもConcerto for Organ and Orchestraと書かれているのである。 

 この件について自宅で調べようとしたが、ふだん愛用している角倉一朗『バッハ』(音楽之友社)がどこかにいってしまって、出てこない。

 それで、新潟の音楽サイトTでそのことを書いてみたら、名前は協奏曲でも実は独奏曲なのだと判明した。

7月20日(金) 新潟でクラシックサイトを主催しているT氏とは、先日新大オケのコンサートで会ったが、オフ会をやろうということになり、午後6時に万代橋キリンビアホールにて、やはりT氏のサイトに良く出入りしているD氏と3人で落ち合う。

 D氏は医学部学生だそうだが、やたら人の体にさわる癖があり、今回は男だけの会だったからいいようなものだが (とも言えないか)、女性がいたら問題視されそうだ。 それとも、男性だけにこういう態度をとるのかも。 医者って、むしろ患者の方がお似合いの人間が少なからずいるものだからなあ。 

7月21日(土) 午後2時から、りゅーとぴあ劇場に、蜷川幸雄演出による三島由紀夫「近代能楽集」中の『卒塔婆小町』と『弱法師』を見に行く。  出演は、『卒塔婆小町』が壊晴彦、高橋洋、ほか。 『弱法師』が藤原竜也、高橋恵子、筒井康隆、ほか。 ロンドンでも好評だったという出し物の「凱旋公演」だそうな。

 この公演は昨夜と、今日の午後の部及び夜の部の、計3回、収容人員にして2500人以上で行われるのだが、チケットは売り切れで立ち見席を出すほどの盛況。 藤原竜也人気はすごいなあ。 場内はオバサンと女子高校生がいっぱい。 私は13列30番だったが、前と右隣りも女子高校生。 S席が8000円だというのに、高校生の分際で入るとはケシカラン、なんて書くと中年男の嫉妬としか見られないか。

 こないだ、生協の会議で、新潟大生の一ヶ月の平均書籍購入費がついに3000円を割ったという話が出た。 不況だからとか何とか理由付けがなされるが、私は要するに新大生の知的レベルが落ちっぱなしなだけだと思う。 こういうことをズバリと言う教師が昨今はまことに少なく、学生に媚びてばかりいるから、ロクな「大学改革」ができないのだ。 不況でも、藤原竜也を見るために8000円を惜しみなく投入する茶髪+アイシャドウ姿の女子高生は沢山いるのである。 本を月3000円以下しか買わない新大生も、同じレベルなんだね。

 さて、『弱法師』では、「めくら」という《差別用語》を堂々と使っていたのが目を惹いた。 無論原作にそう書かれてあるからで、三島が生きていれば差別用語などというイチャモンを一笑に付しただろうが、今は新聞やテレビでは事実上使えない言葉になっているだけに、演劇の健全さに拍手を送りたい気持ちになった。 おまけに、この言葉を使う義父役を筒井康隆が演じている。 かつて差別語問題で断筆宣言まで出した彼がこの役であるのは、偶然なのだろうか? 

7月24日(火) 26日の平山姉妹のリサイタル、チケットを買い損ねた話は上に書いた。 この件について、りゅーとぴあの掲示板に投稿しておいたら、本日、「主催者代表」と名乗る人物からの返答が掲載されていた。 が、実に官僚答弁的な内容。 誠意のかけらもない。 立腹。 平山姉妹の演奏会には今後いっさい行かないと決めた。

7月25日(水) 敬和に非常勤に行く。 前期最終日で、期末試験。 終了後、新発田のBOOKOFFで古CD3枚を買う。

 そのうちの一枚、ワーグナーの『ローエングリン』ハイライツ (ショルティ + ウィーン国立歌劇場) を早速新大の研究室で聴く。 私はオペラは不得手で、ワーグナーも『トリスタンとイゾルデ』全曲盤と『ジークフリート牧歌』の、いずれもLPを持ってるだけ。 てことは、CD時代になってからは全然買ってないってことですなあ。

 いつまでもオペラから逃げてるわけにもいかないので、軟弱にもハイライツ盤を中古で買ってみたわけだが、いいとこばっかり抜粋してあるので、まあまあ聴けますね。

 昔、東京で『パルシファル』の実演を映画化したものを見たことがあるが、全然面白くなくって、閉口したものだ。 それに比べれば、『ローエングリン』は聴きやすい。

 ところで敬和の期末試験だが、問題用紙と答案用紙を配布してから監督していたら、手を挙げた男子学生がいる。 何かと思ったら、「ヒロインって、何ですか?」と訊く。

 私の受け持っているのは「ドイツ文学」の授業で、期末試験問題はいくつかの設問から選択して答える形式なのだが、その設問の中に、「『みずうみ』のヒロインと母親の関係について述べよ」というのがあった。 その「ヒロイン」という日本語の意味が分からないというのだ。

 愕然としつつも、「女の主役」と教えたら、やっと分かったような顔をした。 まあ、いくら何でもこんなにヒドイ学生はそうそういないけどね。

 一方、あとで研究室で答案を見ていたら結構面白いのもある。 或る女子学生は解答用紙の裏表にびっしり答を書いた後に、「私語している学生を追い出したりするので恐い先生かと思っていましたが、授業している先生がすごくニコニコして楽しそうにしているので、面白かったです」なんて書き添えてくれていた。

 はあ? と私は思った。 別段、苦虫をかみつぶしたような顔で講義をやっているつもりはないが、そんなに楽しそうな顔をしていたのだろうか??  自分のことってのは、分からないものですからねえ。 もっともこれも一種の心理作戦ととれなくもない。 教師もおだてりゃ木に登る、って言いますからね。 でも深読みするのはよそう。 かつてソ連の大ヴァイオリニストのオイストラフは言った。 「弟子から何も学ばない教師は、悪い教師である」と。

 ここ数日、気の狂うような暑さが続いていたが、今日は日差しは強いものの風が涼しくて、過ごしやすい。 教室 (一部をのぞく) にも研究室にも (少なくとも私の研究室には) 冷房のない新潟大学にとっては、神の恵みのような日だ、というのは大袈裟か。 

 だけどねえ、こんな設備の悪い大学なのに昨年度から7月末日まで前期授業を続けることになっちまったんだから、ホント、気が狂ってますぜ。 学長先生、こういう「改革」をやるなら校舎の設備を整えてからにして下さいな。 ワリをくうのは現場の教師と学生なんですから。 ちなみに今日行った敬和学園大はちゃんと冷房完備。 私がニコニコして授業をしていたのは、もしかしてそのせいだったりして・・・・・。

7月26日(木) 明日、「音楽と評論」の授業でフォレ (一般にはフォーレと表記) の弦楽四重奏曲を学生に聴かせなくてはならないが、私はこの曲はLPでしか持っていないので、夜、カセットに録音しようとしたら、連日の暑さのせいか何とカセットデッキがイカレてしまっていて、録音できない。 マズイ! 明日の授業では、別の曲を聴かせて時間稼ぎをしないと・・・・・。 人生、思わぬところでアクシデントが起こるものですね。

7月27日(金) 2限の「音楽と評論」の授業で、「こないだの三島由紀夫『近代能楽集』を見に行った人、いる?」と訊いたが、40人近くいる学生は誰も手を挙げない。 実は『卒塔婆小町』でフォレ (一般にはフォーレと表記) のレクイエムが使われていて、この授業でも目下フォレを論じた吉田秀和の文章を扱っているので、どうかなと思って訊いてみたのだが、残念でした。

 学内で私のいる場所は、「表象文化論」なる、何だかよく分からない科目が重要だということになっていて、これには演劇も含まれるはずなのだが、というより、ブンガクとかシソウじゃなくて映画だとか演劇だとかをやるのが新しいというウリでやってるはずなんだが、こうしてみるとさっぱりですね。  本も買わず、藤原竜也も見に行かず、或いは三島演劇にも興味持たず、何をやってるのかな?

 ところで、2限の授業が終わったとき、最終レポートを提出した学生が2人いた。 〆切まで10日もあるのに感心感心と思って受け取ったのだが、研究室に戻ってその一つを読んだ私は、バッキャロー、ザケンナと叫んでいた。

 なぜか? そのレポートは、ベートーヴェンの不滅の恋人がテレーゼ・フォン・ブルンスウィッグであると論じていたからだ。 そうじゃないということは、授業できちんと説明したでしょうが。 お前、授業に出ていなかったのだな。 と思って出席簿を調べてみたら、何と、無遅刻無欠席ではないか! 許せん! 断じて許せん! サボってばかりいたから間違ったことを書くというなら許してやる。 だが、無遅刻無欠席のくせに、間違ったことを書く奴があるか!

 善意の方は、ここまで読んで、その学生は敢えて先生 (つまりワタシ) の見解に反論したのではないか、と思われるかも知れない。 そうじゃないのです。 そんなレベルの話ではない。 末尾に挙げてある参考文献は、60年以上も前に出た、学問的にはとっくの昔に時代遅れになり果てたベートーヴェン論なのである。 古い文献は間違いが多いから使っちゃいけない、ということもワタシは授業で力説しておいたはずなのだが、全然聞いていないんですね。

 立腹した私は、この学生は不可にしようと思いかけたが、考え直し、呼び出して書き直させることにした。 でないと新大生のレベルはますます下降の一途をたどってしまう。 嗚呼!  

7月28日(土) 午後6時から、りゅーとぴあコンサートホールにて、フィルハーモニア管弦楽団演奏会を聴く。 指揮はアシュケナージヴァイオリン独奏が庄司沙也香。 当初は一人で行くはずだったが、女房が知り合いから急用で行けなくなったといってチケットを2枚もらったので、次男をあわせて3人で行く。 プログラムは、ベルリオーズ「ベアトリスとベネディクト」序曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチの交響曲第5番。 アンコールがシューベルトの「楽興の時」第3番弦楽合奏版。 席はGブロック3―1。

 庄司沙也香はじつに素晴らしい。小柄な体に似合わぬよく通る音で、こころもちテンポをゆっくりとり、悠長迫らざるメンデルスゾーンを聴かせてくれた。 会場は盛大な拍手。 後日得た情報では、東京での同じプロのコンサートではアンコールをやったそうだが、新潟は時間の関係かやらなかった。 残念無念。

 ショスタコーヴィチはバランスの取れた演奏。 先日のサンタチェチーリアでも同じ曲をやったのでどうしても比較してしまうが、こちらの方が堅実で、特に管楽器がいい。 しかし弦の美しさはサンタチェチーリアの方が勝っていたように思う。

8月3日(金) 先日、私用で東京に行き、たまたま渋谷でHMVの脇を通りかかった。 それまで、渋谷のHMVがどこにあるか知らなかったのである。 それで、立ち寄って、フルトヴェングラーの交響曲第3番を買ってみた。 ARTE NOVAの安い奴。 第1番もあったが、長くて2枚組なため値段が高いので、こちらにしておいたもの。 それを今日やっと聴くことができた。 60分以上もある大曲だが、なんかまとまりがないというか、つかみにくい曲だ。 ちょっとブルックナー風なんだけど。

8月5日(日) 昼から、西新潟スポーツセンターで開催された新潟市民卓球大会に出場。 一般男子Dクラスに出るが、一回戦でフルセットの末、第三セット19―21で破れる。 うーむ、勝てそうな気がしたんだが、もう一歩のところでワタシは勝負に弱い。 今年4月の同じ大会でも、やはり一回戦でフルセットの末敗退している。 うーむ。 うーむ・・・・・・・・。 (言葉が出ない。)

 帰宅してから、斉藤晴彦『クラシック音楽自由自在』(晶文社)を読了。 10年前に出た本。 俳優によるクロウトはだしの、もとい、シロウトはだしのクラシック音楽エッセイ。 この程度の思いつきを書いていて本が出せて印税が入るなら、世の中ちょろいもんだなあ、と思いました。 ただ、最後にモーツァルトのレクイエムは駄作だ、と言っているところだけは共感しましたけど。

8月6日(月) 夜、珍しくテレビを見る。 衛星放送で映画「ベートーヴェン――不滅の恋」をやったので。 7年前に制作された映画だが、私はその頃新宿でロードショウを見ている。 しかし今回改めて見てみたら、内容はほとんど忘れていた。

 ところで、普段テレビを見ない私がなぜ昔ロードショウを見ている映画をわざわざテレビで再度見る気になったかというと、金曜2限の「クラシック音楽と評論」の授業のレポートを昼間読んでいて、「ベートーヴェンについて知識を得るためにこの映画をビデオで見てみました」、と書いている学生がいて、愕然としたためなのだ。

 おいおい、映画はフィクションなのだよ。 ベートーヴェンについて正確な知識を得ようとするなら本を読むべきなので、映画に頼るのは根本的なミステイクと言わねばならない。 

 偶然、その映画がこの日の夜にテレビで放映されると分かったので念のため見てみたわけだが、やっぱりフィクションというしかなく、これでベートーヴェンの生涯が分かると思ったら大間違い。 無論、フィクションとしてのベートーヴェン映画、というテーマならあり得るわけだけど、くだんの学生はベートーヴェンに関する事実関係を知ろうとして映画を見てしまっているのだ・・・・・・・。

 私のいる場所では映画を卒論対象に選ぶ学生も多いのだが、映画のフィクション性について分かっていないんじゃ、マズいと思うんだけど・・・・・。 これは大学での授業を受けてどうこう、ということじゃなく、それ以前の、根本的な認識力の問題ではないかしら。 映画でもマンガでも小説でも芝居でも、何でもいいが、とにかくそういった様々な「作品」が基本的にフィクションであるという認識は、そういったものが好きであれば自然に身に付くものと私は考えていたが、どうやらそうではないらしい・・・・。

8月8日(水) 昨日生協書籍部で買った鈴木淳史『クラシック批評こてんぱん』(洋泉社新書y)を読了。 大正から現代に至るまでのクラシック音楽評論を俎上に載せて、愛情を込めて(?)分析した本だが、あんまり切れ味は鋭くないなあ。 また、自分と世代の近い許光俊などに対しては批評の切れ味がさらに鈍るのはいかがなものか。 

 ちなみに、表紙と中表紙と奥付では著者名が「敦史」となっており、この大ポカを弁解した編集者の一文が小片となってはさんである。 かくも珍本となったこの第一刷を買っておけば、将来価値が上がるかもね。

8月9日(木) 教養科目「西洋文学」のレポートを読む作業に追われる。 この授業、7月初めと8月初めの二度レポートを出すことを義務づけているのだが、ワタシはサボって7月〆切のレポートも読んでなかったので大変。 身から出たサビではありますが。

 それで、聴講生でこの授業をとっているご老体がいるのだが (4月18日の記述参照)、この人のレポートがすごかった。 沢山の文献を読破して高度の議論を繰り広げており、私自身教えられるところがあり、一読、圧倒されました。 正規の聴講ではないので点数が付けられないのが残念だが、99点くらい上げたいところ。

 これに比べると一般学生は、例年より全体のレベルは高いような気はするが、突出したものがない。 最高でも85点止まり。 うーむ。

 それで思い出したことがある。 10年以上前、教養部でドイツ語ばかりを教えていた頃、社会人入学制度が導入されて、その人文学部第一期生であるオバサンを教えたことがあったが、この人がまたスゴかった。 無遅刻無欠席は当然、試験はいつも満点かそれに近く、訳や作文をいつ当ててもきちんとやってあり、また当時は夏休みにドイツの文学書か思想書を読んでレポートを書かせるという課題を出していたのだが、大部分の学生は100ページくらいの短い文庫本でレポートを書いていたのに、このオバサンはマックス・ウェーバーの分厚い本を読破してレポートを書いてきたのだった。

 私は心底感心して、学期末の成績は100点を上げました。 こういう例は後にも先にもこの人だけ。 翌年、また社会人入学の別のオバサンを教えたが、この人は残念ながら優秀とは言いかねた。

 まあ何にしても、文系の学問は、20歳前後の若者ばっかり相手にしていたのでは先が見えている。 社会人入学制度がもっと活かされるよう、また聴講生として授業に出やすくするために、開講時間や開講場所を含めて検討する段階にあるような気がする。

8月10日(金) 昨日、石丸電気で買ってきたヴェルディの『椿姫』のCD、二日がかりで聴き終える。 ヒロインはレナータ・スコット。 超有名なオペラだが、オペラに縁遠い私はこれまでディスクを持っていなかった。 まあ、聴きやすいけど、有名な曲は前半に集中しているわけですね。

 いつまでもオペラを遠ざけているわけにも行かないので、そろそろやるか、という決意を固めたわけです。 こないだ『ローエングリン』のハイライツ盤を中古で買って悪くなかったのがきっかけかな。 

 オペラというと、とりあえずはモーツァルト、ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニといったところだろうが、この中でディスクを全然持たなかったのがヴェルディだけなので、そこから始めようと思ったわけ。 モーツァルトだけはオペラのディスクを4セット持っているからまあまあだが、あとは各作曲家1〜2セットという悲惨なライブラリーを誇っていた(?)のであります。 

 今日はついでに、金沢の山蓄に『ニーベルングの指環』、ショルティ+ウィーン国立歌劇場のCDを発注。 国内盤で買うと4万円近くするのでためらってしまうが、山蓄の外盤だと9千円弱なので。 

8月12日(日) 一家5人で長岡の新潟県立近代美術館にエルミタージュ美術館名品展を見に行く。 ロシアのエルミタージュ美術館は、全部見て回ると20キロも歩くことになるという超巨大美術館だが、今回はそこからごく一部を借り出したもの。 

 全体は5部構成で、先史時代の装飾品類、古代ギリシア(黒海付近を含む)の壺類、敦煌など西域の仏教美術、サンクト・ペテルブルクの風景画、近代西洋絵画となっているが、ちょっとバラけすぎじゃないかね。 私としては、サンクト・ペテルブルクの風景画が面白かった。 ドストエフスキーの街でもあるし、一度行ってみたいなあ(その前に高所恐怖症を克服しないと)。 

 と同時に、王侯貴族がこういう超豪華な美術館だとかをせっせと作っている一方で農奴制が生き延びていたロシアには、やっぱり革命は起こるべくして起こったのかな、という感慨に襲われました。

 ほかに常設展とセーヘルス版画展もやっているので、これから行く人は見るのに1時間半はかかると思っておいた方がいいですよ。

8月18日(土) 最近、私の研究室のある校舎で改修工事が行われており、ふさがれて通れない廊下があったり、ドリルの音がうるさかったりといった状態になっている。 相当に古い校舎だから改修はやむを得ないのだけれども、暑いのに加えて環境がさらに悪化しているわけだ。

 で、今日、改修中の廊下を歩いていたら、廊下と教室の間の壁に「解体」と赤ペンキで大書されている。 一瞬、過激派か、と思ったが、改修工事の指示なのだった。 

 私の学生時代は、学生運動で大学内が騒然としており、極左の学生団体は建物にやたら落書きをした。 「大学解体」だとか何とか。 あの頃が再現したか、と一瞬でも思ってしまったのは、やっぱりあの時代に大学生生活を送った人間ならではの条件反射であろう。

 閑話休題。 昨日BOOKOFFで中古CDを4枚買ったが、今日そのうち1枚を聴く。 シュポーアとアモンのフルートとハープのための曲集。

 シュポーアが19世紀に活躍したヴァイオリニスト兼作曲家だということは知っていたが、ディスクを買ったのは初めて。 ヨハン・アンドレアス・アモンにいたっては名前も知らなかったが、モーツァルトと同時代の作曲家だそうな。

 曲はいずれもモーツァルトやハイドンを思わせ、聴きやすい。 

8月19日(日) T氏の主宰する新潟のクラシックサイトで以下のような話題が出た。 ロシアの作曲家チャイコフスキーはパトロンのフォン・メック夫人から6000ルーブルの年金をもらっていたが、6000ルーブルとは今の貨幣価値でいうといくらくらいになるのか、というのだ。

 貨幣価値を比較するのは難しい。 昔と今とでは生活様式が根本的に違っているわけだから、完全な置き換えは不可能。 しかしそれを承知の上で考えてみよう。

 森田稔『新チャイコフスキー考』(NHK出版、1993年)121ページ以下によると、1867年以来チャイコフスキーはモスクワ音楽院に勤めて俸給を得ているが、最初の年の年俸が1200ルーブル、10年目に当たる1876年 (この次の年にフォン・メック夫人から年金の申し出を受け、78年に音楽院を辞めている) には2475ルーブルを得ているという。 森田氏はこれをもとに、1ルーブルは今の日本なら3千円から5千円くらいではないか、と推測しておられる。

 当時のロシアの音楽院勤務がどの程度のステイタスになるのか分からないが、仮に日本の国家公務員程度だとすると、27歳で音楽院勤務となったチャイコフスキーの年俸が1200ルーブルであるから、1ルーブル3千円強くらいかと考えられる。

 とすると、6000ルーブルの年金とは約2000万円に当たることになる。 相当な額ですね。 これだけもらえるなら、私もさっさと大学を辞めちゃうだろうな(笑)。

8月20日(月) 昨日の森田氏の本、調べてみたら新潟大の図書館には入っていないと分かった。 どころか、チャイコフスキー関係の本がほとんど図書館にないのである。 中村紘子の『チャイコフスキー・コンクール』なんかは入っているのに! 憮然とした私は、自分の研究費で買って図書館に寄付することにした。 ついでに、青木やよひ『ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の謎を解く』(講談社現代新書)も。

 こういう仕事って、本来は音楽専門の先生がおられるK学部のやるべきことだと思うんだが・・・・・・何をやっているのか・・・・・・・ 

 ところで、先日BOOKOFFから買ってきた中古CDの中にテレマンの「ターフェルムジーク」第1集の組曲ホ短調と、組曲変ホ長調「ラ・リラ」とをカップリングしたディスクがあったのだが、これが意外な拾いものだった。 テレマンというと生前の名声は高く、今はバッハの陰にかくれて目立たない存在となっている、いわばエアポケットみたいな作曲家だが、この2曲、いずれも佳曲だと思う。

8月21日(火) 『AERA』誌に「国立大教授のお気楽生活」なる文章が載ったので生協書籍部で立ち読みしてみたが、実に下らない内容。 朝日新聞の大学問題報道はどうしてこうレベルが低いのであろうか。 ポピュリズムへの迎合そのもの。

 以前、『Ronza』誌 (現在の『論座』) に国立大の教養部解体について記事が載ったことがあったが、あれもヒドかった。 デタラメのオンパレードなのである。 私は怒りのあまり編集部に批判の文書を送りつけ、ライターからは弁解の返事が来たが、雑誌自体は記事の誤りを詫びるわけでもなく、朝日新聞の無責任さを天下に知らしめたのだった。

 今回の『AERA』の記事は、朝日新聞がどうしようもなく非知性的な体質であることを物語っている。 

 記事で取り上げられているのは埼玉大学であるが、ここが文科省が最近打ち出しているいわゆる「トップ30大学」に入りそうもないことをあげつらい、なおかつ教養学部において英独仏などの外国文化専攻志望者が激減していることを難じている。 埼玉大の教養学部には奥本大三郎という優秀なフランス文学者がいるのだが、そういうことも今の学生には関係ないと、実にあっさりしたものだ。

 なるほど、そこまでポピュリズムにいくわけですか? それはそれで一つの立場だと思うが、だったら例えば白川・筑波大名誉教授がノーベル賞を受賞したことだって今の学生には関係ないよね? 白川教授の学問的業績を内容に至るまで理解できる学生なんてほとんどいないわけだし、ノーベル賞の権威なんてアカデミズムそのものなんだから、受賞したって騒いだり、新聞の一面で報道したりしないよね? 

 したがって白川教授のノーベル賞受賞の際は、朝日新聞はこういう風に報道したはず・・・・・じゃなかろうか?  「白川教授がノーベル賞を受賞したことは、誠に遺憾である。 一般人や二十歳前後の学生に理解できないアカデミックな理論で世界的な賞をとるには相当額の国費が費やされているはずである。 これは税金の無駄遣いと言わねばならない。 大学などは自分に好きなことをやりたい金持ちだけが行けばいいのであり、決して税金をこれに費やすべきではない。 今後二度と日本人のノーベル賞受賞者が出ないよう、われわれは政府や国立大を厳しく監視して行かねばならない。」 

 朝日新聞はそういうふうにポピュリズムに徹しているわけですか? バカな大衆は一方で 「大学の学問なんてオラに関係ねえだよ、税金をそんなことに使うな」 と言い、ノーベル賞を取る学者がいるとケロッとして 「スゴいもんだねえ、やっぱり学問をする人は違う」 と感心してしまう。 朝日新聞はこの手のバカな大衆を演じて見せてくれているのだ。

8月22日(水) 敬和学園大の「ドイツ文学」の期末試験の採点、一時中断していたのを再開する。 しかし・・・・・「ヒロイン」の意味が分かってない学生が相当数いる! 男の主役だと思っている奴が、3人に1人くらいいる (7月25日を参照)。 うーむ・・・・・。

 しかし、一方で面白いことに気づいた。 シュトルムの『みずうみ』で、ヒロイン・エリーザベトが母の意向に従って裕福なエーリヒと結婚し、幼なじみのラインハルトとの結婚を断念するという筋書きについて、「エリーザベトは自分の気持ちを第一に考えるべきだった」 という意見が多かったこと。 数年前、新潟大の教養の講義で同じ題材でレポートを書かせたことがあるが、そのときは 「エリーザベトの選択はやむを得なかったと思う」 という現実主義的な答え方をした女子学生が多かったのである。

 新潟大と敬和学園大の学生気質の違いだろうか?

8月25日(土) クラシック音楽向上委員会(編)『クラシックB級グルメ読本』(洋泉社)を読む。 4年ほど前に出た本だが、許光俊や鈴木淳史が共同執筆していると言えば何となく中身は分かるか。 明治以降の日本で、ヨーロッパ起源のハイカルチャーとして受容されてきたクラシック音楽の脱構築を狙った、それなりに面白い書物。 

 なお、専門的な(?)評論家の渡辺和彦も書いていて、音楽コンクールによって優秀な音楽家が供給過剰になりつつある現状を憂いているのが印象的。 音楽だけじゃなくて、知的職業 (音楽家が知的かどうかは、この際措く) って、一般的に供給過剰になっているなあ、と嘆息する私なのでした。

9月3日(月) 9月になって少し涼しくなったかなという感じ。 話は音楽と全くカンケイないのだけれど、ここ数年、私は夏になるとやや太ってズボンがきつくなる。 なぜ夏になると太るのだろうか。 食い物の量は秋や冬よりむしろ少ないはずだから、食い過ぎということはあり得ない。 とすると原因は何か? 考えてみるに――

 (1)暑くなると晩酌のビールの量が増えるので (夏以外は350ml缶1本だが、夏は2本になる) ビール太りする。

 (2)ふだんは朝食は紅茶+トースト+αというメニューであるが、暑くなると紅茶の代わりに冷たい牛乳を飲むので、牛乳太り(?)する。

 (3)夏休み中は授業がないため。 授業ではしゃべったり教室内を歩き回ったりして結構エネルギーを使うが、それがないから。

 (4)授業がなくて気持ちが弛緩するので、体まで弛緩してくる。

9月9日(日) 9月だというのに、フェーン現象でバカ暑い。   台風が日本列島に近づくと新潟など日本海沿岸ではフェーン現象が起こりやすいのだ。

 英国の卓越したテノール歌手、イアン・ボストリッジが11月25日に東京でシューベルト 「冬の旅」 全曲を歌うリサイタルを行う。 ボストリッジをぜひ一度生で聴いてみたいと思っていた私は、迷った挙げ句、東京まで聴きに行くことにし、一昨日チケットを予約したところ、今日届いた。 e+というインターネット上の予約会社を初めて利用してみたのだが、きわめてスピーディ。 ただしチケット代以外に送料が500円かかるけど。

 さて、あとは交通費の捻出か・・・・・。 ちなみに11月25日は新潟交響楽団の演奏会もあるのだが、そういうわけで行けなくなりました。 S藤Y一先生、すみません。

9月10日(月) まだ夏休み中だが、色々あって忙しい日だった。 電話で某所から仕事が入った。 インターネットで検索して私のサイトに行き着いたのがきっかけだとか。

 自分のサイトを開いてから、時々ドイツ文学やドイツ語、捕鯨問題、読書や映画に関することで質問や意見が寄せられるようになったが、仕事が入ったのは初めてだ。 自分の専門に関することで外部から仕事を頼まれるのは、悪くない気分。 私のやっている分野はそうでなくても地味で、「現代風」 とは無縁だから、なおさら。

 ドイツ文学やドイツ語、捕鯨問題、読書や映画にしても、日本各地ばかりでなく、海外在住の日本人からも質問や意見が寄せられるので、インターネット時代に自分のサイトを持つことは重要なのだと分かる。

 しかし、私のサイト、肝心の新潟大生からはさっぱり反応がないのである。 これは新大生がインターネット時代に乗り遅れているからではなく、別の部分に欠落があるからではないか。

 言うまでもなく、インターネットの技術を習得しただけでは、私のサイトへの反応は不可能だ。 私のサイトを読んで、理解し、自分なりの疑問や問題意識を持つだけの知性が必要なのだから。 そういう知性を持たないまま 「ITの技術さえ身につければ」 と考える学生は、最低最悪と言わなければならないだろう。 

9月12日(水) アメリカでの例のテロ事件、私は今日の昼になってやっと知りました。 昨夜は一昨日入った仕事の原稿書きをやっていて寝るのが遅くなり、今日起きたら女房は仕事、子供3人は学校に行ってしまったあと。 

 私はテレビを見ない人間で、2種類とっている新聞に目を通しながら朝食をとったが、新聞はいずれも時間的に間に合ってなくてアメリカでの事件を報道していない。

 学校に来ても最初シコシコ本を読んだり、生協の書評誌への執筆依頼を同僚にメールで出したりしていて、昼頃になって某サイトの書き込みでようやく事件を知った。 それも、教育問題を論じるサイトの書き込みでした。

 あわてて新聞社のサイトを見て、事件を知った次第。 新聞社のサイトは各社ともアクセスが殺到しているようで開きにくくなっている。 その中で比較的開けやすかったのは読売であった。

 まるで映画みたいな事件だけど、世の中、一寸先は闇、ですなあ。

9月14日(金) 月曜に頼まれた原稿、ファックスで送る。 折り返し依頼先から電話があり、こういう原稿が欲しかったんですと言ってくれたのが嬉しかった。

 原稿料は1枚5千円だそうで、ということは5枚だから2万5千円。 私が従来稼いだ原稿料は1件2万円が最高だったので、記録更新だ(笑)。

 福田和也は一ヶ月に300枚書くそうだが、上の原稿料だと、一ヶ月150枚書けば大学を辞めても暮らしていけるなあ、と思う。 

 無論、それは夢物語に過ぎない。 私のところに有料の原稿執筆依頼なんぞは、数年に1回しか来ないのだ。 また、大半の大学教員はそうしたものであろう。 いわゆる 「お座敷がかかる」 大学教員は、世間の興味を惹くようなテーマに取り組んでいるごく一部の人たちだけである。

 三島由紀夫はエッセイの中で、自分は月産100枚だと書いている。 純文学、エンターテインメント、雑文、すべて合わせてそのくらいだそうだ。 三島はそれ相応の原稿料をとっていただろうから、100枚程度でよかったわけだ。 彼の公開日記を見ると、当時としては結構いい暮らしをしていたと考えられるから、単行本の印税が入ることを計算に入れても、かなり原稿料が高かったのではなかろうか。 

 福田和也の場合は慶応大助教授としての給与以外に300枚分の原稿料が入るわけなので、相当に裕福そう。 もっとも慶応は私大としては給料が安い方らしいし、一ヶ月300枚書くためには応分の自己投資が必要だから、単純に収入だけで判断してはいけない。 評論家の日垣隆だって毎月40万円本を買うそうだし、売れてる人はやっぱり出ていくカネも多いというのが実際であろう。

9月17日(月) インターネットで見つけた某サイトに注文しておいた 「ミレイユ・マチュー・モスクワ公演ライブ」 のCDが届いたので早速聴く。 1978年の公演だから、私が仙台でマチューの公演を聴いたのとほぼ同じ頃のものだ。 最後に 「モスクワの夜は更けて」 をロシア語で歌っているのが愛嬌。 仙台公演の時は日本語の歌は歌わなかったが、最後に日本語で台詞を言って聴衆にサービスしていたのは覚えている。

 ここ1週間ほど、クラシックは余り聴かず、マチューばっかり聴いている。 時々こういう発作が起きる。 マチューでなく山口百恵の場合もあるが。

 夜、行きつけのHクラブに卓球の練習に行ったら、会員だったO氏とM氏が相次いで亡くなったと聞いてびっくり。 それでもO氏はここ数年病院で寝たきり状態が続いていたので驚きは少ないが、M氏はつい4カ月前まで元気いっぱいにプレーしていたので、にわかには信じられない。 70代後半とはいえいかにも健康そうに見えたのだが。 謹んでご冥福を祈ります。

 この卓球クラブ、臈長けた御婦人が案外多いのだが (これを読んだ人、来たくなりましたか?)、その中でも美貌度において1、2を争うS女史が 「今日は私の誕生日なのよ」 とのたまうので、「何回目ですか?」 と訊いたら、訊くものじゃないと叱られた。 「ぼくの誕生日も3日後なんだけど」 とお教えしたら、「同じ乙女座ね。 ロマンティック?」 と訊かれた。 どうだろうか? 

9月20日(木) 午後、大学で 「科学研究費補助金ガイダンス」 なるものが開かれたので出てみたが、ふざけた催しだ。 詳しくは 「論争のページ」 のここに書いたので、ごらん下さい。 新潟大って、どうしてこう上意下達でしか動かないのでしょうね。

 さて、今日はワタシの40代最後の誕生日。 それを記念して、というわけでもないが、夜7時から音文で村治佳織ギターリサイタルを聴く。 プロは、バッチェラー: ムシュー・アルメイン、J.S.バッハ(セゴビア編): シャコンヌ、ラック: ティ・ノクチュルン(小夜想曲)、ブローウェル: 黒いデカメロン (1.戦士のハープ、2.こだまの谷を逃げていく恋人たち、3.恋する乙女のハープ)、 ホアキン・トゥリーナ: ファンダンギーリョ、ロドリーゴ: ファンタンゴ、デラマーサ: 暁の鐘、ロドリーゴ: 祈りと踊り、ファリャ: ドビュッシー讃歌、ファリャ: 粉屋の踊り。 アンコールが、タレガ: アルハンブラ宮殿の思い出、ディアンス: タンゴ・アン・スカイ。

 Nパックメイト限定コンサートだったが、会場は満員。 日本歯科大新潟校のY先生とは演奏会でよくお会いするので驚かないが、新大人文学部社会学のM先生を演奏会でお見かけしたのは初めて。 クラシックサイト主催者のT氏ともお会いした。 ワタシはギター曲は余り聴く方ではなく、生の演奏会は10年以上前、同じ会場で荘村清志を聴いて以来だが、村治さんの演奏自体はさほど面白いとは思わない。 音量も、席は14列目だったが、あまり大きくは聞こえない。 総じておとなしすぎる印象。 視覚的には、後半はスペイン・プロなのでスペイン風の衣装に替えたり、笑顔がとてもチャーミングだったり、悪くなかったのだが。

 演奏会の後、CD購入者対象にサイン会が行われたので、私も買ってサインしてもらってきました。 CDは何種類か出ていたが、ジャケットの写真が一番美人にとれてるのを買いました(笑)。 ワタシもミーハーですなあ。

9月22日(土) 昨夜から一家を連れて船橋の老母宅に来ている。 夏休み中、事情があって来れなかったので、その代わり。 今日はひとりで銀座に出て映画を見た後、歩いて東京駅前の八重洲ブックセンターに行ってみた。 

 最初にドイツ文学の棚の前に行ったら、学生風の男が一人、色々な本を手にとって吟味している。 と思ったら、何と、ワタシの訳書を棚から取り出してめくり始めた。 さすがに買いはしなかったが、自分の訳書を手にとる人を本屋で見たのは初めて。 感激してしまいました。 そうでなくとも、ワタシの訳書はこういう大書店でないとおいてないもので(笑)。

 音楽学者として有名な礒山雅氏も、どこかにこんなことを書いておられた。 著書を出版した直後、ある本屋に行って自著が山積みされている場所をひそかに窺っていたが、手に取る人がさっぱり現れず、複雑な心境になったというのだ。 本を出す人の気持ちは、共通してますよね。

9月24日(月) 朝刊で、アイザック・スターンの死を知る。 スターンは20世紀後半を代表するヴァイオリニストの一人で、私もクラシックを聴き始めた頃、協奏曲のレコードでだいぶお世話になった。 実演にも2度接したことがある。 謹んでご冥福を祈ります。

9月27日(木) 午後6時から、新潟大学生協の伊藤透・常務の送別会。 伊藤さんは10年以上にわたって新潟大学生協のために尽力されたが、このたび東京で大学生協連の仕事をするために栄転されることになったのである。 私も新潟大生協の出している書評誌『ほんのこべや』の編集に携わっているので、その関係で色々お世話になった。

 意外だったのは、伊藤さんが30代後半でまだ独身だということ。 伊藤さんは背が低いのが唯一の欠点だが (ワタシと並んで記念写真を撮ったけど、そこから判断するに160センチを割っているかも・・・)、人格円満でたいへん楽しい人である。 その証拠に、在任中は生協で活動している学生たちに慕われ、アパートに大挙して押し寄せられるので、近所から苦情が出るほどだったという。

 このサイトを読んでいる未婚女性で、背が低くても人格円満で楽しい男性と結婚して充実した人生を送りたいと思っている方は、ぜひ私までご一報を!

9月28日(金) 長嶋茂雄が巨人軍の監督を今年限りで辞任するとか。 私は昨今は野球から遠ざかっているが、小学生の頃は普通の男の子並みに野球はしょっちゅうやっていた。 というか、あの頃、昭和30年代の男の子のスポーツ、或いはコミュニケーション手段といったら、野球しかなかったのである。

 そして、現役時代の長嶋は私も好きだった。 しかし彼が現役を引退して監督に就任する頃、私はすでに野球に興味を失ってしまっていた。

 長嶋が監督として有能だったとは私は思わない。 だが長嶋には、現役時代からそうだが、理屈抜きで人から愛されるところがあった。 これは天性としか言いようがないと思う。 私は野球から遠ざかったが、新聞などで長嶋の姿を見るのは嫌いではなかった。 

 長嶋の悪口を言う人間を、だから私は信用しない。 多くの人から愛されるのは天から与えられた素質なので、そういう素質に難癖をつける人間は、どこか性根のねじ曲がった卑しさを秘めていると思うからだ。

9月29日(土) 先週末、青森市の古本屋・林語堂からカタログを通じて購入したハンス・グリム『土地なき民』の訳書全4巻、まとめてあった紐を切って内容をあらためる。 この本、東京の専門的な古書店だと4冊揃で1万円以上するのを、たったの千円で入手したのである。 いい買い物をしたと思う。

 ところが、表紙や裏表紙をめくっていたら、書き込みがあるのを発見した。 古本というのは、時々中に葉書や何かが挟んであったりするものだが (紙幣、という場合もあるらしいが、残念ながらワタシは未経験)、書き込みも割に見かける。 大抵は何年何月何日どこそこの書店で購入とかいったたぐいで、たまに感想が書かれていたり、著者や訳者の献呈の辞が記載されていたりするが、今回のはちょっと違う。

 第1巻の裏表紙見返しにはこう書いてある。 「昭和十六年七月二十日 前津さんよりいたく 雅子」。 ペン字だが、雅子という名だけは朱色の判である。

 第2巻のやはり裏表紙見返しにはこう書かれている。 「昭和十六年七月二十日 戦地へ行く出発記念にと前津さんよりいたいた。兄妹見たいにして来たのもこれが最後かしらと少し淋しくなつた。雅子」。 「雅子」が朱色の判なのは同じ。

 第3巻は、奥付の前のページに「17.12.30.北谷書店より 雅子」とある。 「雅子」はやはり判である。 この第3巻は、昭和16年10月に初版が出ている。 つまり、前津という人が出征した昭和16年7月にはまだ出ていなかったわけで、雅子さんは最初の2巻を「兄妹見たいにして来た」前津氏より贈られ、続く第3巻が氏の出征後に刊行されたので自分で買ったのであろう。

 そして第4巻はやはり奥付の前のページに「18.1.10.雅子」と書かれている。 名前が判なのは同じ。 この第4巻は昭和16年12月13日に出版されている。

 うーん、何か想像力をかきたてられる書き込みですな。

9月30日(日) 午後5時から、りゅーとぴあにて、東京交響楽団第13回新潟定期演奏会。 指揮はマルティン・ジークハルト、チェロ独奏はクレメンス・ハーゲン。 曲目は、モーツァルトの交響曲第25番ト短調、シューマンのチェロ協奏曲、バルトークの「弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽」。 アンコールは、協奏曲の後がバッハの無伴奏チェロ組曲第3番よりサラバンド、最後がバルトークのルーマニア舞曲第1,2,5,6,7番。 また演奏会に先立って、ロビーでウェイティング・コンサートとしてオルガン演奏があった。

 前半が素晴らしかった。 モーツァルトは透明で、この曲の悲しみを十分に出した演奏。 次のシューマンのチェロ協奏曲は、オーソドックスで手堅い演奏であった。 後半も悪くはないのだろうが、何しろ当方、バルトークの音楽には馴染めないものを感じているので、まあ聴いておきましょうという感じ。

 席は3階Gブロック3列6番。 今回の定演、3階の脇の席はがら空きだったけれど、勿体ない。 値段は安いし音はいいという、コストパフォーマンスの高い場所なんですがねえ。 ワタシの前列に新潟大人文学部で英語学を教えておられるK先生が奥様同伴で来ておられたが、さすが音楽に造詣の深い先生だけあってお買い得なこの場所をご存じなのであろう。

 実はこの演奏会、高橋尚子のベルリンマラソンと時間帯が重なっており、こちらも気になっていたのだが、演奏会の後クルマに乗ってラジオをつけたけど、7時半近くでニュースは終了してしまっており結果が分からない。 女房はこの種のことに無関心なので帰宅しても判然とせず、結局9時50分のNHKテレビ・スポーツニュースでようやく高橋の世界最高記録を知った。 期待されたとおりに優勝して世界最高記録を出すというのは大変なことだと思う。 何はともあれめでたい。 今日はいい日だった、うん。

10月1日(月) こないだ船橋のBOOKOFFで買ってきたグノーのオペラ「ファウスト」ハイライト盤を聴く。 コリン・デイビス指揮、バイエルン放送交響楽団ほかの演奏。 ハイライト盤とはいえ、序曲と第1幕全部が省略されているのがすごい。 第4幕の 「兵士の合唱」 は著名だからオペラにうとい私でも知っていたけれど。

10月2日(火) 今日から後期授業開始。 3限のテクスト批評論、演習室に行ってみたら7人も学生が来ていた。 実は、4月13日の基礎演習のような事態が前期にあったこともあり、私も弱気になっていて、この授業の教科書を5部しか生協に注文していなかったので、あわてる。

 昔、演習科目の教科書を15部生協に注文したら、授業初日に2人しか学生が来ず、しかもうち1人は 「2人だけだと自信がないので辞めます」 と言いだして、結局1人になってしまったことがある。 私のいる場所はこういう根性のない学生が目立つような気がするのだが、とにもかくにも教科書の部数予測は難しいのです。  

10月3日(水) 敬和に非常勤の講義に行く。 終わった後、前期も質問に来た学生がまた来て、ハイネとゲーテの関係について訊かれたが、こちらもその方面はろくに知らないので、冷や汗をかく。 『トニオ・クレーガー』に 「愛する者は敗北者だ」 というフレーズがあることとの関連でハイネに同様の詩があると述べたための質問だが、もっと勉強しないといけないなと反省。

 しかし、春にも書いたが、こういう鋭い質問を新大生にも期待したいものだ。

10月5日(金) 2限の3・4年生向け演習、教室に行ってみたら去年の演習で教えた4年生ひとりだけ。 春の3年生向け予備調査では3人希望者がいたはずなのに、皆無。 この場所の学生の大衆ぶりは如何ともしがたい。 それも大衆の一番悪い部分を体現している。

 3限の基礎演習は前期が誰も来ず (正確には当初留学生が一人来たが) 授業が成立しなかったので、内容的に続きである後期の今回も期待していなかったが、やはり誰も来ない。 その分、自分の仕事と来年度の授業準備に精を出すことにしよう。

10月6日(土) 午後5時からりゅーとぴあでブルガリアの美人ヴァイオリニスト・ミラ・ゲオルギエヴァと日本人ピアニスト及川浩治のデュオ・リサイタル。 といってもプログラムは、前半がエルガー「愛の挨拶」、ベートーヴェンのクロイツァー・ソナタ、後半がショパン(ミルシテイン編曲)のノクターン嬰ハ短調遺作、ショパンのエチュード「別れの曲」「革命」、ポンセ(ハイフェッツ編曲)「エストレリータ」、シューベルト(ヴィルヘルミ編曲)「アヴェ・マリア」、ハチャトゥリアン(ハイフェッツ編曲)「剣の舞」、ブラームス(ヨアヒム編曲)「ハンガリー舞曲第5番」、サラサーテ「ツィゴイナーワイゼン」、アンコールが「竹田の子守歌」とトリステ?の「新トッカータ」。 つまりピアノ独奏曲は、ショパンのエチュード2曲だけ。

 会場は入りが悪く、リサイタルだから3階には人を入れていないが、2階の脇はガラガラで1ブロック2〜4人くらい。 2階正面もぱらぱら。 私は2階正面最前列中央で聴いたのだが、右隣に中年のご婦人がいただけ。 (上品な方で、演奏会が終わって退席する際、アカの他人である私に挨拶をして行かれた) もっとも、後半ヘンな夫婦が勝手に私の左隣りにおいで召されましたけど。

 聴衆の質も問題で、クロイツァー・ソナタの1楽章が終わったところでかなり拍手が出、そのくせ曲全体が終わったときの拍手がイマイチ。 私を始め、一部の聴衆が必死に拍手して何とかもう1度出てきてもらえたが、演奏は悪くなかったのに全然分かってないらしい。 最後のアンコールねだりの時だけ盛大に拍手するんじゃねえ! 欲を言えば、音の深み、低音の迫力がもう少し欲しいところだが、まずは満足のいく演奏会であった。

 サイン会があったので小曲集のCDを買ってサインをもらってきた。 私のミーハー化もとまらぬ勢いか?

10月10日(水) 敬和で非常勤の講義。 先週とは別の学生が質問に来る。 うん、いいムード。 この授業、登録している学生は90人ほどだが、出席をとらないこともあり、実際に教室に出てくるのは半分以下だし、常連となってる学生となると4分の1程度だろう。 しかし常連の学生は熱心に聴いてくれている。 

10月11日(木) 午後7時から、音文にて新潟室内合奏団第42回定期演奏会。 指揮は新通英洋、ヴァイオリン独奏が鍵富弦太郎で、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲とモーツァルトの「ジュピター」交響曲。

 お目当ては前半。 ヴァイオリン独奏の鍵富くんは中学三年生。 新潟期待の星(?)なのだ。 さて、演奏は、特に第一楽章でやや急ぎ気味なのが気になった。 もっと歌わせるところはゆったり行ってほしい。 カデンツァに入るところも性急すぎる。 第三楽章で暗譜を忘れた箇所があったようだが、それを除くと大きなキズはなかった。 しかし、音楽全体を説得的に聴かせるには一層の精進が望まれる。

 500人強入る音文ホールは、ほぼ満席。 演奏が終わると盛大な拍手。 鍵富くんへの期待がそれだけ大きいわけだ。 バックのオケは、アマだからやむを得ないが、もう少し精妙な演奏ができていれば、と思った。 

 知ってる人には誰も会わなかった。 先週土曜のミラ・ゲオルギエヴァも同様だった。 演奏会も多いから、みなさん全部行っているわけにもいかず、拡散するのだろうか。

10月12日(金) 2限の演習、学生が1人増えて計2人となる。 やっと演習らしくなってきたか(笑)。 しかしこれも4年生で、3年生はゼロのまま。

 今日はうれしい風の便りがあった。 分かる人には分かるので、詳細は省略。

10月13日(土) 午後5時から、りゅーとぴあにてJYCMS(japan young artist chamber music societyの略称)の演奏会を聴く。 5時開始のプレコンサートに7分遅刻する。 しかしプレコンサートなので演奏途中だったが入れてくれた。 ベートーヴェンのピアノ三重奏曲「幽霊」。 ヴァイオリンが漆原啓子、チェロが上村昇、ピアノが迫昭嘉。

 6時からの正規プロが、マーラーのピアノ四重奏曲断章(チェロ・ピアノは同じ、ヴァイオリンが深山尚久、ヴィオラが川本嘉子)、ドヴォルザークのピアノ三重奏曲「ドゥムキー」(ピアノは同じ、ヴァイオリンが景山誠治、チェロが田中正弘)、チャイコフスキーの弦楽六重奏曲「フィレンツェの思い出」(ヴァイオリンが漆原、景山、ヴィオラが川本、深山、チェロが上村、田中)。 アンコールにスラヴ舞曲の3曲メドレーを出場者7人用の編曲で。

 演奏はいずれも悪くないが、特に「フィレンツェの思い出」は生ではめったに聴けないので貴重。 客の入りはよくなく、1階と2階の正面だけで3百人程度か。

 JYACMSは1991年以来、日本の若手演奏家が室内楽をやるために結成した団体だが、今年限りで解散することになり、その最後の演奏会を新潟と東京で行うのだそうだ。 室内楽は地味で客が集めにくい分野だが、10年間に及ぶ活動は貴重なものであったろう。 今後別の機会に演奏を聴かせてくれることを祈りたい。

10月20日(土) 昨夜から日本独文学会で松本に来ている。 今日はホテルを朝8時過ぎに出て、歩いて松本城に行ってみる。 城内を見物してから、城近くの古書店に寄ったら、以前一緒に仕事をしたことのあるS大学のM氏とばったり会った。 氏はこれから城を見物に行くとか。 学会に真面目に出ないで観光を優先したりするのは、学者の悪弊ですなあ。 

 古書を若干買ってから、バスで学会会場の信州大学に行く。 着いたのが11時頃。 学会は10時開始だから1時間の遅刻。 とはいえS大のM氏よりは真面目と自分を慰める(?)。 ところが、受付で配られた資料の中に、市内の観光名所の無料入場券が入っており、そこには松本城入場券もあった。 530円を払って入場した私は、いうならば学会に真面目に出なかった罰をこうむったわけ。 M氏もしかり。 やっぱり学会には真面目に出ましょうね。

(てなことを書くと、税金の無駄遣いだと騒ぐ人も出てきそうなので、誤解なきよう付け足します。 今回の学会出張は、すべて自腹によるもので、大学からは一銭ももらっていません。 なぜか。 国立大学教師は1年間にもらえる出張費が決まっているからです。 その額は、6月に東京の学会に出席するとなくなるほど少額だということも知っておいて下さいね。 つまり、学会は1年に2回以上出ようとすると、2回目以降は必ず自腹となるわけなのです。)

 しかしその後は午前中2つの発表を聴き、午後のシンポも通して聴いたので、まあかろうじて合格点をもらえそう。 午後のシンポは、ソポクレスの『オイディプス王』についてで、これは古代ギリシア文学だからドイツ文学の枠をはずれるが、今回特に理事会の許可を得て、ギリシア古典文学者とドイツ文学者の合同で開かれたものだそうだ。 この種の、専門の狭い枠にこだわらないシンポは歓迎すべきことだと思う。 個人的には面白い発表と退屈なものとがあったが、今後もフランス文学者や日本文学者などを招待して同様の試みをして欲しいところだ。

 夜は、学会の懇親会もあるが、私は出ないのが通例。 今回も松本駅近くの飲み屋で一人酒を飲んだ。 この店、受付でもらった資料の中に入っていた松本観光案内に載っていたので入ったのだが、ビール中ジョッキ、地酒2合、馬刺など4品で、2000円台前半で済んだから、安い!

 だいぶ前だが、やはり学会で金沢に行ったとき、入った飲み屋がヘンに高くて、悪い印象が残った。 こういうことは意外に執念深く覚えているもので、観光地の店は注意してほしいですね。

 学会受付でもらった観光案内や名所無料入場券でも分かるが、松本市はかなり観光を重視しているよう。 松本駅前を歩いていたら、「歓迎・日本独文学会」という大きな看板が立てられていた。 実は来年秋は新潟市で独文学会があるのだが、新潟市はここまでやってくれないんじゃないか、と思った。

10月21日(日) 今日はホテルを出て、車を市営駐車場に止めてから、旧制高校記念館と旧開智学校記念館に行く。 昨日もらった観光名所無料入場券は他にもいくつもの資料館を含んでいるが、全部見ていたら今日一日では足りなさそう。 この種の資料館が多いのが松本市の特徴のようだ。 さらに、今回入った二つの記念館はかなり離れているので、市内の散歩にもなったわけだが、蔵作りの街並みがあったり、昔の円筒形ポストが随所におかれていたり、クラシックな街作りがなされている。 大きすぎず程良い規模の都市だと思うが、全体に落ち着いた雰囲気もあり、住むのには良さそう。

 松本城近くの土産物屋で山菜漬けなどを買ってから、やはり城に隣接したそば屋で昼飯を食ったが、ここはハズレだった。 建物が立派だったので何となく入ってしまったのだが、観光客が多くて相席だし、そのくせ値段が高い。 千円以下のものがほとんどない。 値段相応のものを食わせてくれるならいいが、さほどでもない。 これから松本に行く方に忠告します、お城に隣接した建物が立派なそば屋はやめておいたほうがいいですよ。

 昼食後、車で松本を出て、高速に入り、長野市に寄る。 時間が余りなかったが、善光寺と東山魁夷美術館を見る。 善光寺は観光一色だが、東山魁夷美術館は落ち着いていていいところですね。 作品は2カ月ごとに替えているそうで、また近くに来る機会があったら寄ってみよう。

10月23日(火)  Tジョイ新潟万代に映画「カルテット」を見に行く。 映画のページにも記したが、音楽の映画なのでここにも転載しておこう。

  音大生が弦楽四重奏団を組んでコンクールに出たものの、惨敗。 各人それぞれの道を歩み始めて3年後、偶然再会した4人は再度カルテットを組んでコンクールを目指す・・・・というお話。 作曲家・久石譲が監督をしているという話題作。 第一ヴァイオリンの袴田吉彦が武骨にすぎる若者を好演、第二ヴァイオリンの桜井幸子も、結婚するならこのくらいの美人がいいかと思わせる(ホメ言葉か?)。 またチェロを弾く富豪のお嬢様役の久木田薫は、現役の芸大生だそうである。 

 話題も多いが、映画としての出来もまあ悪くない。 なのに、ワタシが見に行ったときは観客がたったの二人。 新潟の映画ファンよ、見に行きませう! なお、作中の音楽はすべて久石譲の手になるものなので、ベートーヴェンやモーツァルトを聴けるのではと期待して行くと拍子抜けする。 音楽ファン向けに、念のため。

10月24日(水) 敬和に非常勤に行った帰り、車でバイパスを走りながらFMをかけていたら、森山良子の歌を特集していた。 彼女ももう50代だそうで、昭和23年生まれだそうだから私より4才年上、まだ歌っているのかねと言いたくなるが、彼女のファンって今でもいるのだろうか。

 私自身は彼女のファンであったことはない。 私はヘソマガリだから、フォークの女王だとか日本のジョーン・バエズだとかの言い方も胡散臭いと思っていた。 今、車の中で聴くと、彼女の歌声はたしかにきれいだけど、何かそれだけで、芯がない感じがする。 つまり思想を表現するような声の質じゃないということ。

 そして、結局彼女の歌は、デビュー作の 「この広い野原いっぱい」 に尽きるな、と思う。 歌は一般にメロディーが主で歌詞は従かもしれないが、歌詞がまずいと聴いていて気恥ずかしくなる。 少なくとも多少年をとると、歌詞の良くできた曲を聴きたくなる。 

 例えば、いささか古いが、森進一がヒットさせた「襟裳岬」の歌詞は、一大傑作であった。 中島みゆきの歌が評価されるのも歌詞による部分が大きいのではないか。

 今日FMで流れた森山の曲の大半は、しかし歌詞の稚拙なものだった。 だが、「この広い野原いっぱい」 は歌詞もメロディーに劣らぬ出来栄えなのである。

 「この広い野原いっぱい咲く花を、一つ残らずあなたに上げる」 に始まって、「この広い世界中の何もかも、一つ残らずあなたに上げる、だから私に手紙を書いて」 に終わる詩は翻訳調のノーブルさをとどめつつ、真摯な感情を端的に表現し得ている。 名作と言うべきであろう。 

10月26日(金) 午後7時より、りゅーとぴあにてミュンヘン交響楽団の演奏会。 指揮は抜井厚、ヴァイオリン独奏はアラベラ・シュタインバッハー。 プログラムはオール・ベートーヴェンで、「エグモント」序曲、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第5番。 アンコールは、シュタインバッハーが協奏曲の後にクライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ」を、オケが最後にベートーヴェンの「祝賀メヌエット」、日本民謡「赤トンボ」、ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番のフィナーレを演奏した。 席は3階Gブロック3列1番。

 このオーケストラ、外来ではあるけれど知名度がない。 ミュンヘンならバイエルン放送交響楽団やミュンヘン・フィルは有名だが、この「交響楽団」とは別団体。 まあ、知名度があろうがなかろうが演奏が優れていれば構わないのだが、今日の演奏はおおむね凡庸であった。 

 しかし、唯一の例外が、シュタインバッハーの弾いた協奏曲。 バックはともかく、ヴァイオリン独奏が素晴らしい。 美しくよく通る音、歌わせるところはたっぷり歌わせて急がず、微妙なニュアンスもあり、名演というに躊躇しない卓越した演奏であった。 弱冠20歳でこれだけの域に達しているのだから、末恐ろしい。 多分CDも出しておらず、私もこの演奏会で初めて知ったヴァイオリニストだが、彼女の演奏を聴かなかった人は損をした、と言ってしまいましょう。

10月31日(水) 敬和に非常勤に行った帰り、新発田のBOOKOFFに久しぶりに寄ってみる。 ここは中古クラシックCDが割に豊富においてあるということはこの欄でも何度か書いてきた。 ところがである。 今回行ってみたら、CD棚の配置が変わっており、クラシックのCDが激減しているではないか。 ストックがわずか数枚。 買いたい物はなし。 ショック!

 夏休みの間は新発田に来ず、後期の授業が始まってからも水曜日は午後から本務校で会議があることが多かったので、敬和学園大での2限の授業が済むと新潟にとんぼ返りしなくてはならず、3ヶ月間BOOKOFF新発田店に寄る機会がなかった。 この間に何が起こったのか? 誰かがごっそり買い占めてしまったのか。 或いは、ワタシが買わないのでクラシックは売れないと見なされて転売されてしまったのか?

 しかし今日は目新しいクラシックの曲、或いは作曲家を聴きたい気分だったので、新潟市の「クラシックのモーツァルト」でナクソスのCDでもあさろうかと考えて寄ってみたら、閉まっているではないか。 水曜って定休日なのかね? ドアには何も断りがなかったけど。 とにかく、そういうわけで今日はクラシックCDを買おうという意欲はありながら、何も買わずに終わりました。

11月2日(金) 前期にドイツ語講読の授業をやって、やさしいメルヒェンのあとドイツの雑誌記事を読んだ。 ドイツでも最近結婚しないシングルが増えているという記事で、学生にも興味が持てるだろうと思い選んだもの。 しかし結構長かったので、期末までに読み終わらなかった。 それで、単位にはならないが自主ゼミの形で後期も私と学生とで読み続けてみてはどうか、と提案しておいたのだが、今日、代表の学生が断りに来た。 就職活動などで忙しい、というのが理由。

 たしかに最近は学生の就職活動の時期が早まっており、3年生後期になると企業訪問をやったりするようなので、致し方ないのかも知れないが、自主的な勉強会が不可能なのはそのせいだけなのだろうか。 私のいる場所で、そういう勉強会が少なくとも本を読むということに関して行われているという話を聞いたことがないのである。

 最終的には自分で勉強するというのが大学生の勉強のやり方のはずで、本来は学生が自分たちだけでそれができるならベストだが、それができないならせめて教師の方から呼びかけてみようと思って提案しても、こういう具合に不発に終わる、というのは、何か暗示的な気がする。

 30年も前になるが、私が大学1年生だったころのこと。 当時は大学紛争の時代で、ストが頻発するなどして授業はしょっちゅう休講になっていた。 それでも、教養部で同じクラスだった学生数名が秋に集まって、せっかくドイツ語の初級文法はマスターしたのだから何かドイツ語の本を読もうということになり、ドイツ語の先生にやさしいテクストを紹介してもらって、学生だけで読書会を始めたものだ。 独文志望の私や、西洋倫理学志望の学生には、専門課程に進むためにいくぶん役立つ読書会ではあったが、しかし日本史志望などドイツ語が直接は役立たない学生も複数混じっていたのである。

 専門課程に進むと、同じ研究室の先輩である大学院生がラテン語の勉強会を開催してくれた。 私が一応ラテン語をやりましたと言えるようになったのは、そのお陰である。 また、教養部の教授がドイツ語の読書会を開いていたので、授業とは別にそれにも参加した。 

 私自身が大学院に進むと、今度は自分が主宰して学部学生を集め、授業では取り上げられないドイツ文学の作品を原書で読む会を始めた。 ドイツ語だけではいけないというので、英語の読書会をやったこともある。 研究室の助手になっても、大学院生を集めて読書会を続行した。

 大学院生と学部学生が分断されているなど、組織上の問題もあるが、とにかく大学では授業とは別に勉強をするものだ、というエートスが私のいる場所には欠落しているのではないか。 これを何とかしないと、大学の体をなさないのではないかと思うのだが。 

11月3日(土) 上京する。 最初池袋で映画を見るつもりだったが、本日封切りで、しかも東京でも1館のみの上映とあって、リザーブ客(そんな制度があるとは知らなかった)だけで満員。 しかたなくHMVでクラシックCDをあさる。 探していたフローラン・シュミットの作品集2枚組など4枚を買う。

 3時から、これが上京の主目的なのだが、千石の三百人劇場で劇団昴の公演『嘆きの天使』を見る。 原作はハインリヒ・マン、脚本・演出は菊池准。 実は依頼されてこの公演のパンフレットに文章を書いたので、招待券を送ってもらった。 それで東京まで見に来たわけである。 原稿料もこの日受け取ったが、新潟・東京間を往復すると交通費で消えてしまうんだなあ(笑)。

 この作品、1930年代に映画化され、ヒロインのマレーネ・ディートリヒを一躍スターにしたので有名。 今回の演劇上演は、長らく英国にあった上演権がようやく獲得できたためという。 前半は原作や映画とほぼ同じ進行だが、後半は大幅に変更されていて、老いたラート教授と美しい歌姫ローザの関係は曖昧なままに終幕を迎える。 この辺は、原作とも映画とも違っていいが、もう少し方向性をはっきりさせた方が良かったのではないか。

 ローザを演じる湯屋敦子はたいへん美しく、また脚線美もなかなかのものである。 ただヤマトナデシコなので、ディートリヒのような厚みのある妖しさを表現するまでには至っていない。 別段それは構わないので、ディートリヒとは別のローザ像を創出すればいいのだが、脚本のせいもあろうが強い印象を残すローザ像を生み出しえているかどうかは疑問だ。

 パンフレットだが、映画なら主演の二人をメインに紹介し、脇役は名前が出る程度の扱いとなるものだけれど、全然違う。 俳優紹介は年功序列で、トシの順。 そして主役も脇役も紹介に同じスペースを使っているのにちょっと驚く。 だから、ヒロインの湯屋敦子は全登場人物の一番最後に紹介されているのだ。

 まあ、映画と同じにする必要もないだろうが、それにしても窮屈すぎはしませんか。 私はミーハーだから、湯屋さんのアップの写真を収録してくれたら、なんて考えてしまいましたが。

11月4日(日) 昼頃、目黒の東京都庭園美術館でカラバッジオ展を見る。 カラバッジオ自身の作品は少ないが、彼が同時代の画家に与えた影響がよく分かる展覧会であった。

 午後2時から、四谷の紀尾井ホールで、フランク・ペーター・ツィマーマンのヴァイオリンリサイタルを聴く。 バッハの無伴奏ソナタ第1番、シューマンのソナタ第2番、ヤナーチェクのソナタ、ベートーヴェンのソナタ10番というプログラム。 ピアノはエンリコ・パーチェ。

 安定した技巧による堅実な演奏ではあるが、ソツがなさすぎて、何かもう一つ面白みというか、この人ならではというものが欲しい気がした。 アンコールもサラサーテか誰かの小ピースを一曲やっただけ。 メインプロで4曲弾いたので (当初の予定プログラムでは、ヤナーチェクのソナタは入っていなかったようだ) 疲れていたのかも知れないが、何かもう一つ盛り上がらない。

 午後7時から、サントリーホールでラドゥ・ルプー・ピアノリサイタルを聴く。

 予定のプログラム以外に、最初にシューベルトの作品90―3の即興曲を追加し、そのあとがベートーヴェンの作品90のソナタ、エネスコのソナタ。 休憩後、シューベルトのハ短調のソナタという構成。

 全体がシューベルト色に染められた演奏会という印象。 ベートーヴェンの作品90のソナタってのも、シューベルトっぽい曲なので。 アンコールでもシューベルトの即興曲作品90―1が弾かれるなど、ルプーの好みを発揮した演奏会であった。 演奏はかなり自在なもので、自然な音楽会の雰囲気とでも言いたくなる一夜となった。

11月5日(月) 昼前から神保町で古本屋めぐりをする。 12時40分に或る人と待ち合わせて昼食をともにし、楽しいひとときを過ごすことができた。 プライベートにつき詳細は略。

 午後7時から、築地の浜離宮ホールで、アンナー・ビルスマのチェロリサイタルを聴く。 ベートーヴェンのチェロソナタ連続演奏会の2夜目で、ソナタ1、4、5番と「魔笛の主題による変奏曲」というプログラム。 ピアノフォルテは渡辺順生。

 ビルスマはディスクも持っておらず、名前しか知らなかったのだが、思っていたより年寄りで(66歳くらい)、ちょっと意外。 演奏は昨日のツィマーマンとは逆で、非常に武骨。 スマートさには欠けるが、何か印象に残るところがある。

 アンコールに「『恋人か女房があればいいが』による変奏曲」をやったが、拍手がやまないので、ソナタ4番の第2楽章を再演した。 私としては、このときは拍手がしつこすぎるという印象を持った。 適切なときに切り上げるのも聴衆の節度といものであろう。

 ツィマーマンとビルスマで共通して気になったのは、客の入りが良くなかったこと。 いずれも室内楽向けのさほど収容人員の多くないホールであるが、ツィマーマンは3分の2くらい、ビルスマは半分強ほどなのだ。 ルプーも満席ではなかったが、会場がサントリーホールだから、まあ仕方がない。 東京の演奏会がクラシックファンの数に対して多すぎるのだろうか。 ウィーンフィルなど、純粋なクラシック音楽ファン以外の人間が来る演奏会でないと満席にならないとすれば寂しいことである。

11月6日(火) 東京滞在最終日。 昼、東京駅のステーションギャラリーでシエナ美術展を見る。 日本におけるイタリア紹介年ということで、一昨日のカラバッジオ展を初めイタリアに関する催し物が多いが、これもその一つ。 イタリア・ルネッサンスがフィレンツェなどで開花する前、中世美術が咲き誇った町シエナの絵画・彫刻・陶器などを展示している。 技巧的にはルネッサンスより原初的な感じがするけど、イタリア美術の歴史の一齣を知ることができて興味深い。

11月11日(日) 午後5時からりゅーとぴあで第14回東響新潟定期。 マーラーの交響曲第8番。 指揮はジャナンドレア・ノセダ。 ソプラノが佐藤しのぶ、家田紀子、森麻季、アルトが坂本朱と栗林朋子、テノールがアフゲニー・アキーモフ、バリトンがフェドール・モジャーエフ、バスが妻屋秀和、合唱は新潟東響コーラス+東響コーラス、児童合唱が新潟市ジュニア合唱団。

 この曲、生で聞くのは初めてだが、合唱や児童合唱を加えて、ニックネームの「千人の交響曲」とはいかないまでも、五百人ほどの演奏者が舞台と背後の座席にまでぎっしりつまっての演奏には迫力がある。

 しかし、いつもは東響定期は3階の脇の席で聴いているのだが、今回は同僚のK先生から事情があってゆずってもらった1階席で聴いたところ、3階に比べて弦の響きがやせて聞こえるのに気づいた。 演奏終了後、S藤Y一先生に会ったので、車で自宅までお送りした。

11月20日(火) 生協の売店に用事があって行ったら、CDコーナーでたまたま 「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳第2巻より」 が千円の廉価盤で出ていたので、買ってみた。 割に著名な曲集だが、ディスクは少ないと思う。 私もディスクを買ったのは初めて。 バッハ以外の作曲家の曲なども入っているためか。 解説によると第1巻の楽譜は失われてしまったそうで、惜しいことだと思う。 ちなみに新潟大生協のCDコーナーは品揃えも悪くお粗末である。 もう少し充実できないものか。

11月24日(土) 朝5時、決死の早起きをする。 新潟駅発6時28分の新幹線に乗るため。 明日のイアン・ボストリッジ・リサイタルを聴きに東京に行くのだが、交通費がかかるので、節約のために 「東京たび割7きっぷ」 なるものを購入したのである。 これは、朝6時台に新潟を出る新幹線に乗る条件で、新潟―東京往復が1万2千円 (首都圏JR乗り放題、4日間有効) という破格の値段の切符なのである。 (ふつう、この条件で往復すると、2万1千円ほどかかる。) 早朝の新幹線は乗車率が悪いので、それを挽回しようとJRが企画したもの。

 しかし新潟駅始発6時28分の新幹線に乗るには、5時に起きなくてはならない。 自宅のもより駅が越後線・内野なのだが、そこを5時34分に出る電車に乗らないといけないからだ。 (越後線の電車は、このあと1時間、ない。) こんな早朝の電車に乗る奴がいるのかと思っていたが、内野駅に行ってみたら、結構人がいる。 私と同年輩の中年男、オバサン、若い女に混じって、弓道部らしい高校生(弓とおぼしき細長い包みを抱えているので)も数人。 まだ外は真っ暗だというのに、みんなそれぞれに仕事を持っているんですねえ。

 6両編成の電車は、途中の小針や関屋でも人が沢山乗り込んできて、座席はいっぱいになった。 新潟駅着が6時直前だが、空はかすかに青みを帯びてきたかな、という程度。 新幹線での座席は、ドアに隣接し、なおかつ3人座る側の真ん中という、いわば最悪の席。 しかし格安だから文句は言えない。 発車時刻の6時28分にはさすがに空はかなり白んでいた。

 東京着が9時前。 渋谷で映画を見てから、午後2時に横浜のみなとみらいホールで、東京都交響楽団の演奏会を聴く。 ガリー・ベルティーニ指揮による、マーラーの交響曲第3番。 アルトは井原直子、女声合唱が晋友会合唱団、児童合唱が東京放送児童合唱団。

 最初はやや弦が粗い感じがしたが、だんだん調子が出てきたようで、後半はまあまあというところか。 この曲、生で聴いたのは初めてだが、とにかく長い(正味100分)し、退屈なところもある曲だという印象はディスクで聴くときと変わらなかった。

 そのあと高田馬場で古CDと古本を漁ってから、7時半に友人2人と会って痛飲する。 うち1人は、昨年から今春にかけて遭遇した「宿命の女」について話してくれた。 差し障りがあるので詳細は略します。

11月25日(日) 東京に来ると大抵は船橋の老母宅に泊まるのだが、今回は1泊だけということもあり、西葛西のビジネスホテルに宿泊した。 なぜ西葛西かと言えば、申し込んだのが遅かったので山手線沿線のホテルが取れなかったからである。 このホテル、朝食が500円という良心価格なのがいい。 普通、ホテルの朝食というと大した中身でもないのに1000円とるところが多いのだ。 先月学会で行った松本のホテルもそうだったぞ。

 ここはその点実用に徹していて、食堂の作りも地味で家具類も安物。 普通、ホテルの食事をするホールは「すずらんの間」だとか何とか洒落た名前が付いているものだが、ここは単に「朝食室」。 セルフサービスで、和食のみ。 飯と味噌汁、漬け物、鮭の切り身、生卵、海苔、簡単なサラダ。 納豆もあるが、納豆嫌いの私は遠慮する。 食後の飲み物はコーヒーと水だけ。 コーヒーが好きでない私は水で済ませました。 紅茶があると文句なしなんだが、500円じゃしょうがないよね。

 料金の支払いも、あらかじめ大学生協のプレイガイドで払い込んでおいた分が税込みなので、出発時はフロントで鍵を渡しすだけ。 合理的。 いいねえ。 

 最近、石原東京都知事が一泊1万円以上のホテルに泊まった客に宿泊税をかけるという構想を打ち出したので、一部の地方県知事が批判しているようだが、私は課税に大賛成である。 なぜかというと、そういう高級ホテルに私は無縁なので、自分の財布は傷まないからです。 100円なんてケチなことを言わずに、一泊1万円以上のホテルに泊まる金持ちからは5百円でも千円でも好きなだけ税金を取って下さい、都知事どの。

 ホテルを出てから地下鉄で京橋まで行き、東京駅そばの八重洲ブックセンターで本を多少漁ってから、渋谷に行って映画を見る。 これが12時開始で2時少し前に終わる。 ボストリッジの演奏会は錦糸町で3時からだから悠々間に合う、と思っていたのが、甘かった。

 渋谷発2時過ぎの山手線に乗って品川で降り、総武線直通の快速に乗ろうとしたら、10分以上も電車が来ない。 ようやく来た電車が2時31分発で、まあ間に合うかと思ったら、東京駅で5分以上停車。 錦糸町に着いたのが3時6分前。 せっかく新潟から来たのに遅刻して聴けないんじゃ、泣くに泣けない。 私は錦糸町駅からすみだトリフォニーホールまで脱兎のごとく走った。 なんとかセーフだったけれど。

 さて、そのイアン・ボストリッジ・リサイタルである。 ピアノ伴奏はジュリアス・ドレイクで、曲目はシューベルトの「冬の旅」全曲。 私の席は1階5列目右寄り。

 期待した演奏会が期待通り、ということは案外少ないものだ。 だが、この演奏会では期待が100パーセント満たされた。 ボストリッジの歌のうまさ、声の美しさはFMやCDでも知っていたことだが、こんなにダイナミックレンジもあるとは、意外だった。 痩身のボストリッジは2000人近い聴衆が入る大ホールを、朗々たる美声で満たしきっていた。 無論、声量で勝負するタイプではなく、ささやくような声も含め、多彩な音量でシューベルトの世界を見事に表現してくれた。 ん、新潟からこのために来てよかった!!

11月26日(月) 東京の中古CD屋で買ってきた中から、ビーバーのヴァイオリン・ソナタ集を聴いてみたが、アタリのCDだった。 ビーバーのヴァイオリン・ソナタを聴いたのは初めてだが、たいへん情感のこもった佳曲揃い。 録音も極上で、官能的ですらある。 バロック・ヴァイオリンが寺神戸亮(てらかど・りょう)、チェンバロとオルガンがシーベ・ヘンストラ、ヴィオラ・ダ・ガンバが上村かおり。  

11月27日(火) 午後7時から、りゅーとぴあの能楽堂でエマ・カークビー&ロンドン・バロックの演奏会。 プログラムは、ヴィヴァルディのトリオソナタニ短調作品1―8RV64、レグレンツィの宗教モテット「おお、いともやさしいイエスよ」作品17、バッハの半音階的幻想曲とフーガニ短調、A・スカルラッティのカンタータ・パストラーレ「常になく私の魂を捉えるのは」、伝ヘンデルの4声の協奏曲ニ長調、ヴィヴァルディのチェロと通奏低音のためのソナタ第6番変ロ長調、ヘンデルの詩篇第112番「主のしもべたちよ、主をほめたたえよ」。

 失望の演奏会であった。 原因はソプラノのエマ・カークビーに声量がなく、声質もよくないことに尽きる。 これでもプロ歌手かね? 会場が音楽専用ホールではなく、音がデッドなので確かにハンディはあるのだが、それにしてもバロック・ヴァイオリンやチェンバロの音量と比較しても、声が貧弱すぎる。 入場料は一昨日のボストリッジと同じなんだけど、冗談じゃない、ボストリッジの10分の1で沢山。 

 立腹して、予定のプログラムが終わったところでさっさと席を立った。 私がこういうことをするのは非常に珍しい。 つまり、そのくらいヒドイ演奏会だった、ということ。 一昨日のボストリッジと比べると、まさに天国と地獄だ。 

11月28日(水) 夕方、研究室で、東京の中古CD屋で買ってきた中から、フランクのオラトリオ「至福」を聴いてみる。 ヘルムート・リリング指揮、ゲッヒンゲン聖歌隊とシュトゥットガルト放送交響楽団の演奏による2枚組。

 私はフランクと言えば、交響曲、ヴァイオリンソナタ、弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、ピアノ独奏曲若干などしか知らず、こういうオラトリオを作曲していたことはこのCDで初めて知った。 そもそも、オラトリオというと、バッハの受難曲やヘンデル、或いはハイドンの作品を想起するので、ロマン派の時代はオラトリオ自体そんなに数が作られていないのではないか、と思っていた。 ところがこれは私の浅学非才故の大誤解だったのだ。

 このCDに付いている高橋昭氏の解説によると、19世紀フランスではオラトリオが盛んに作曲されており、ベルリオーズ、サン=サーンス、グノー、マスネなど著名な作曲家がオラトリオに手を染めているのだ。 フランクも、この「至福」以外に、「ルツ」「バベルの塔」「贖罪」「レベッカ」といったオラトリオを書いているという。 うーん、音楽の世界の広大さを、改めて教えられました。

11月30日(金) 昨日、金沢の山蓄から、先週注文したフランス・ブリュッヘンによる 「ハイドン疾風怒濤期交響曲集」 5枚組CDが届いた。 4月に注文した 「ルーセル交響曲全集」 2枚組もようやく一緒に送られてきた。

 とりあえずハイドンの1枚を聴いてみる。 ハイドンにもモーツァルトに劣らず悲哀をこめた短調の曲があるのは、弦楽四重奏曲「五度」で知っていたが、中期の交響曲の世界にもそうした一面が垣間見えるのは興味深い。

12月5日(水) 敬和学園大学に非常勤で教えに行く日だが、いつものように車で新新バイパスを走っていたら竹尾インターのあたりでものすごい渋滞に巻き込まれる。 どうやら交通事故があったらしい。 間に合いそうにもないので休講にする。 が、事務にその旨連絡しなくてはならない。 携帯電話を持たない私は公衆電話を利用するしかないが、バイパスの渋滞がひどくてなかなか降りられない。 何とか海老ヶ瀬インターでバイパスを降りて公衆電話に駆け込んだのは、授業開始時刻の7分後であった。

12月6日(木) ボーナスの支給は10日だが、一足先に金額を提示した書類が来る。 昨年より少ない。 3年連続、冬のボーナスは下がりっぱなし。 今年は平成9年とほぼ同じ額になってしまった。 不景気ですなあ。 しかし新潟県では新潟鉄工みたいな大手民間会社もつぶれていることだし、贅沢を言ってはいけませんね。

12月9日(日) 西総合スポーツセンターでの坂井輪西地区合同卓球親善大会に出場する。 この大会、毎年晩秋に行われているが、今年は例年より遅く、12月にずれ込んでしまった。 午前中は男女ともABCの3階級でシングルスがあり、午後はダブルスがある。 ダブルスの形式は階級別のこともあり階級無し男女混合のこともあり、その年によって色々。

 この大会は、新潟市民卓球大会よりレベルが低い。 そのせいもあり私は3年前、男子Cクラスで優勝してしまい、翌年からBクラスに格上げになっているのだが、今年は8月中旬にラケットのグリップを変えたので (長らくペンホルダー〔鉛筆を握るようなグリップ〕でやってきたのを、シェークハンド〔テニスのラケットを持つのと同じようなグリップ〕に変更) まだ慣れておらず、その分弱くなっているのでCクラスにしてくれと言っておいたにもかかわらず、無視されてBクラスに入れられてしまった。

 というわけで、予選のリーグ戦では3戦3敗。 午後のダブルスも初戦敗退とまったく冴えず。 とほほほ。

 試合が終わってから卓球仲間数人と喫茶店に入って一服したが、市内の卓球大会で活躍している人で新潟鉄工勤務、或いはその関連会社勤務という人が何人かいるという話が出た。 やはり新潟市有数の大企業である新潟鉄工の破綻は影響が大きいなと実感。 景気、早く回復しないかな・・・・。

 今日は新潟大学管弦楽団の演奏会がある日なのだが、そういうわけで行けませんでした。 すみません。

12月12日(水) 忘年会シーズンだが、今日は夜7時から、行きつけのH卓球クラブの忘年会が小針の店Yであった。 19人参加。 現在クラブ最年長のSさんは70代で奥さんと二人暮らしだが、家猫2匹に外猫数匹の面倒を見ているのでお金がかかるという話をしてくれた。 でもまあ、人間が飢えずに猫にカネがかかるのが困るというのは、世の中、平和な証拠だろう。

 1次会が終わってから、H卓球クラブ会員で大学での同僚でもあり、なおかつ私の近所に住んでいるF田先生と一緒に、タクシーで内野に行き、バーNに入る。 このバー、ママが美人なので新潟大学関係者には有名な店だが、私は来たのは数年ぶり。 ママは記憶力抜群で、ずっと来なかった私の名も、また数年ぶりにきたことも覚えていてくれ、歓迎してくれた。 何でも娘に赤ん坊ができて日中預かっているので大変だとか。 ママもおばあさんになったか。 でも、美貌は変わらず、とてもそうは見えない。 バーを開いて(場所は途中で一度変わっているが)30周年なのだそうだが。

12月14日(金) 以前新潟大の教養部に勤務していて、現在は仙台に移っておられるI先生が、私用のため新潟に来られたので、教養部で語学を教えていたT先生およびO先生と一緒に歓迎の宴を開く。 小針と寺尾の境にある料理屋Iにて。

 今日から天候は冬型。 新潟は突風の吹きまくる天気。 I先生は車で高速を使って来られたのだが、郡山を過ぎるあたりから猛烈な雪となり、新潟近辺に来ると雪がなくなったので拍子抜けされたということだ。

 新潟大内部の諸問題、各学部の体質、他大学との比較など色々ヤバい話題が出たが、差し障りがあるので内容は割愛します。 I先生は門限11時という健全なお宿を選ばれたので、2次会は成立せず。 残念。

12月17日(月) 明日、私の授業の忘年会をやるので学生の出欠確認をしているのだが、うち2人がつかまらず(先週の授業にも欠席)、困っている。 先週末からアパートに電話しているのだが、駄目なのだ。 1人は今朝8時半頃電話してみたら話し中だったので、10分ほどしてからまたかけてみたら、今度は出かけてしまったらしく、出ない。 こうなると、普段はバカにしているくせに、携帯電話も便利かなという気がしてくるから、人間は勝手なものだ。

 ドイツの雑誌『Der Spiegel』最新号 (12月1日号) が届いたのでパラパラめくってみたら、子供の学力低下問題が特集されていた。 いずこも同じだなあ、と思って見てみると、あちらの方が深刻そう。 

 先に日本でも報道された国際学力比較で、数学においては日本は第1位だったが、ドイツは20位 (全31カ国中)。 理科では日本は2位だったが (1位は韓国)、ドイツはやはり20位。 簡単な文章の読解力に問題のある生徒の割合では、ドイツはワースト第5位 (ワースト1位はブラジル。 日本はベスト4位。 ベスト1位は韓国。)

 原因については諸説あるようで、外国人が生徒数に占める割合が高いからだという説明もなされているらしい。 いずれにせよ、こうも学力に問題があるのでは、日本人のドイツへの憧れはますます低下してしまいますなあ。 ドイツ人よ、勉強しなさい!

 私が10代だった頃、国産自動車の新聞広告で、「スタイルに惚れるフランス人、性能に唸るドイツ人」 というのがあった。 そのくらいスタイル・性能とも抜群の車なんですよ、と言いたいわけだったのだ。 ドイツは科学と技術の国で、そのドイツ人が感心するくらい高性能な車なのです、ってね。 今なら笑っちゃうコピーだけど、あの頃はそれなりに、少なくとも一般大衆へのアピールとしては有用だったのだ。 そのドイツの栄光よ、今いずこ。

 もっとも、この種の学力比較の結果は、国力とは必ずしも比例しないから、あまり神経質になるのもどうかと思う。 アメリカ合衆国は、数学で19位、理科で14位だから、ドイツとどっこいどっこいなのである。

12月18日(火) 夜6時から、大学近辺の店で授業の忘年会。 3年生4人に4年生1人、と私。 

 半年前、別の授業で3年生4人と飲み会をやって、最初に中ジョッキの生ビールを全員に頼んだら、皆一様に 「こんな大きい容器でビール飲むの初めて」 と言ったので、愕然としたのだが (1年生ならともかく、3年生ですぞ)、今日のメンツは皆飲み慣れていて、結構杯が進んだ。 一安心。

 これは偶然かもしれないが、前期の飲み会の時はほとんどが自宅通学の学生だったのに対し、今回の学生は全員アパート暮らしだというところにも原因がありそうだ。 自宅通学の学生は規則正しい生活を送り学業の面でも一所懸命にやるのは良いのだが、反面、中学や高校の延長のような学生生活を送ってしまい、大学生ならではの幅の広さを持てずに終わる危険性がある。 

 それを防ぐには、自学部の学生との付き合いは勿論だが、サークルに入って他学部の学生との交流を持つ機会を作ることも大事だろう。

 逆に言うと、アパート暮らしの学生は寂しさから自然に幅広い人間関係を築くことが多いが、生活が乱れ学業がおろそかになる危険性も高い。 どちらもそれなりに用心や工夫が必要なのだ。

12月21日(金) ここ数年減りっぱなしだとはいえボーナスが出たので、過日金沢の山蓄にCDをまとめて1万円ほど注文しておいたのが、今日届いた。 合計19枚。 少しずつ聴いていこう。

 今日は手初めに、ラフマニノフの宗教曲集(3枚組)から聴く。 「晩祷」作品37と、「聖ヨハネス=クリソストムスの典礼」作品31。 前者は比較的有名な曲だが、私は初めてディスクを買った。 後者は私は曲自体知らなかったのだけれど、聴いてみると非常にいい曲で、むしろこちらが気に入ってしまった。 演奏時間が100分を越え、CD2枚に及ぶ長大な無伴奏合唱曲だが、なにか 「聖なるロシア」 という言葉を実感してしまう、荘厳にして清冽な佳曲だ。

12月22日(土) 引き続き、山蓄からまとめ買いしたCDを聴く。 今日はハイドンの、交響曲第88〜92番に協奏交響曲を加えた2枚組。 有名なロンドン・セット (ザロモン・セットとも) の12曲の直前をなす交響曲群だ。

 ここでは一つ発見があった。 実はだいぶ前から、あるメロディーが何の曲か分からなくて気になっていた。 二重に不思議なことに、そのメロディーをどこで聴いたのか自体が不明なのだが、ともかく気になっていた。

 それが、ハイドンの交響曲第92番「オクスフォード」の第2楽章だと、今日分かりました。 うれしかったなあ。 

 しかしこのメロディーをどこで聴いて気になりだしたかは、多分永遠に不明なままであろう。 この曲、ディスクとして買ったのは初めてだし、FMエアチェックなどもしていない。 

 ただし、演奏会で聴いたことはある。 それも非常に印象的な出会いであった。 私の学生時代、学生オケが定期演奏会で日本人ヴァイオリニストT氏を迎えてブラームスの協奏曲をやる予定にしていたのだが、T氏は急病とかで直前になってキャンセル。 急遽代わりに演奏されたのがこの曲だったのである。

 私は、学生オケの底力に感心してしまった。 だつてさうでせう(丸谷才一調)? 学生オケだから、つまりアマチュアのオーケストラである。 普通に考えたら、上演曲目しか練習してないし、いきなり他の曲をやれと言われたってできないんじゃないかと思うんだが、それをやってのけたのだから。

 しかし、それでこの曲の第2楽章が私の脳ミソにインプットされたのかとなると、疑問無しとしない。 いくら名曲だとはいえ、1回演奏を聴いて十数年後に至るまでメロディーを覚えていられるほど私は天才であろうか? だとすれば日本のモーツァルトとか何とか言われて、別の仕事を今頃しているのではあるまいか?

12月27日(木) 午後6時半から、新潟大学合唱団の発表会。 音楽文化会館にて。 3部構成で、第1部はメンデルスゾーンなどクラシックや外国曲、第2部はアニメの主題歌選、第3部は日本の連作合唱曲。

 演習に出ている学生からチケットをもらったので出かけたのだが、会場はほぼ満員でした。 ドイツ文学のK原先生も来ておられた。 まずは成功した発表会と言えましょう。 おめでとうございます。

 考えてみると、音楽関係のサークルに入っている学生からチケットをもらったのは久しぶりだ。 新潟大学に赴任して間もない頃は、オーケストラに所属している可愛い女子学生からチケットをもらったりしたものだが・・・・・・あの頃はワタシも若くてモテたんだなあ、などと懐古の念にひたってしまいました。

12月28日(金) 先週、山蓄から購入してすぐ聴いたラフマニノフの宗教合唱曲。 外盤なので英訳の歌詞カードが入っているきりで、それ以外解説の類が何もない。 それで、ネットで検索してみたら、或る方がラフマニノフについて詳細に解説したサイトを作っているのに行き着いた。 ロシア文学を専攻された方で、ロシアの聖歌についての解説がとても興味深かった。 

 それで、数日前、お礼のメールを出しておいたら、今日返事が届いた。 ロシアの聖歌は素晴らしいから是非聴いて欲しいという。 参考までに、このサイトです。

12月31日(月) 一昨日から家族を連れて船橋の老母宅に来ている。 昨日は家内と子供を都内に外出させたので、今日は私の日として一人外出する。 まず、上野の森美術館でMoMAニューヨーク近代美術館名作展を見る。 

 私はモダンアートに趣味はないんだが、まあ参考までに、ということで。 モダンアートの考え方は分かったけれど、どうも子供の絵に過大な解説をして曰くありげに見せているんじゃないか、という感覚は捨てきれないんですね。

 ここに来るまでのバスと電車はかなり空いていたが、美術館は結構混んでいた。

 それから銀座と日比谷で映画を2本見てから、山野楽器でナクソスのCDを2枚買う。 「L・クープラン: クラヴサン曲集」 と 「ブクステフーデ: 受難曲『われらがイエスの御体』」。 新潟に帰ったらじっくり聴こう。 

 

 

 

 

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