逆襲と言っても、美少女軍団が武器を携えてセクハラ男への復讐に乗り出すというようなコワい話ではない。
遠い昔、少女たちはマンガではなく少女小説を夢中になって読んでいたが、その中に登場する可憐なヒロインたちがどういう風に描かれていたかを現代の目でふりかえって研究した本なのである。「少女小説のヒロインはパンツではなく花を売る」「歌謡曲を歌うのは不良少女、心正しいヒロインはクラシック音楽を学ぶ」など、高度成長期以前の日本で規範的とされた(?)少女像は非常に興味深い。時々吹き出しながらも、アナクロニズムを承知の上でこういう少女の復活を夢想してしまう。
中年男たるわが身から想像してみても、「おじさん、パンツ買わない?」と言われるよりは「おじ様、お花を買ってくださいな」と言われた方が気分がよさそうだ。
いっそマッチ売りの少女なんかどうかな。「おじ様、マッチを買ってくださいな」「買って上げたいのはやまやまだが、おじさんは残念ながら煙草を吸わないんだよ。ウチの風呂とコンロとストーブも電子点火だしね」「まあ、こんな時代がうらめしいわ」――これじゃ様にならないなあ。
なお同じ著者による『トンデモ美少年の世界』(光文社文庫)も読まれたし。
(『ほんのこべや』用に執筆するも掲載にいたらず。2000年1月、ここに初出)
大学生になったら長篇小説を読もう。どうせなら名作と定評があり、「俺はちゃんと読んでるんだぞ」と威張れるような作品がいい(こういうスノビズムも少しは必要)。
そこでおすすめしたいのが谷崎潤一郎の『細雪』。「さいせつ」とか「ほそゆき」なんて読んじゃいけないね。「ささめゆき」という読み方くらいは、文学に興味のない人でも覚えておこう。
さて、独断と偏見で言ってしまおう。『細雪』こそは近代日本文学史上最高の長篇小説である、と。(漱石の『明暗』が完成していたら……という心残りはあるけれど。)しかも面白くて読み始めたらやめられない。『暗×行路』だとか『×明け前』だとかの退屈さとは月とスッポン。
なぜ『細雪』はこんなに面白いのか。またも独断と偏見で理由を挙げよう。
まず四人姉妹の物語であるということ。そう、これは日本版『若草物語』なのだ。(なぜ姉妹ものが面白いのかは、また別の機会に。)次は三女の雪子が見合いを重ねる話であること。恋愛という近代(と近代小説)の仮構に対し見事に背を向けているところに、この小説のリアリティがあるんだね。
(新潟大学生協発行・書評誌『ほんのこべや』第10号〔96年春〕掲載。99年9月、ここに転載)
佐藤春夫、といっても知らない人も多いでしょう。何しろ平凡な名前で、鴎外や漱石といったカッコいいペンネームはもとより、谷崎潤一郎などという、いかにも文豪らしい重みのある名前と比べてもぱっとしませんからね。
しかし騙されたと思って、岩波文庫から出ているこの短篇集を読んでごらんなさい。大正という時代の懐かしさ、その時代に住んでいた人間の想像力の美しさを今に伝えるような、文字どおり珠玉の短篇が並んでいます。私は一読して、文学の初心、という言葉をふと思い浮かべました。
(新潟大学生協発行・書評誌『ほんのこべや』第5号〔93年秋〕掲載。99年9月ここに転載)
短篇小説集というのは、読みやすいようで読みにくい。なぜでしょうか。長篇小説と違って沢山の作品が集積されているからです。
五百ページあっても長篇なら一つの作品ですが、百ページでも短篇が六つ集まっていればそれは六種類の作品です。本当に味わうためには六種類の感受性が必要なのです。
しかし人間はそうそう沢山の感受性を持つことはできません。どうしても、幾つもの短篇の中からこれが好きだとエコヒイキをすることになるのです。
でもこれは考えてみれば当り前ではないでしょうか。沢山いる同級生の中から一郎君や花子さんだけを好きになって他のクラスメイトには鼻も引っかけないように、幾つも並んだ短篇の中から「私ならこれ」と選ぶのは人間の自然な感情でしょう。
例えば、短篇の名手・三浦哲郎(私の親戚、ではありません、念のため)の子供をテーマにした短篇集『木馬の騎手』で私が好むのは「ロボット」という作品。自分が電気で動くと思い込んだ少年の話は、妙にリアルです。
そして推理作家・泡坂妻夫の『ゆきなだれ』では「闘柑」。これも言うならば子供の遊びがヒントになった作品です。
もちろん、皆さんが上記の短篇集を読めば、きっと私とは違った作品をfavoriteとして選ぶに違いありませんね。
(『ほんのこべや』用に執筆するも掲載にいたらず。99年9月、ここに初出)
名前から連想されるのとは違って日系二世や混血児ではなく、人種的には完全な白人である著者が、日本文学を読んだり自ら日本語で小説を書いたりした体験の中で書き綴ったエッセイ集。
在日朝鮮人の小説に単一民族イデオロギーの拘束を脱した「日本語の勝利」を読み取ったり、漱石の『こころ』に登場する猿股の西洋人から日本での外国人の扱われ方に思いを馳せたりする、柔軟で刺戟的な視点が光っています。
文学好きの人だけではなく広く文系の学問を専攻する人に薦めたい本です。
(『ほんのこべや』用に執筆するも掲載にいたらず。99年9月、ここに初出)
或る作家が好きになると、その作家を扱った評論も読みたくなる、これは自然なことですね。逆にたまたま評論の方を先に読んで或る作家の魅力に目覚める、これもよくある話です。
しかし、評論は面白いのに、そこで扱われている作家を実際に読んでもなぜか面白くない、という場合も時々あるものです。私にとって『鴎外 闘う家長』はそんな不思議な本のひとつです。
この鴎外論は単なる文学論ではありません。私たちが生きていく上で必ず遭遇する問題を鮮やかに描き出した、総合的な人間論です。
夏目漱石・永井荷風と比較しながら浮き彫りにされる鴎外の独自性。恋愛も国家経営も有能な青年が自分を賭けるに値する対象であるのに、なぜか恋愛=純粋、国家経営=不純としてきた文学論の浅薄さを衝く『舞姫』論。
そして鴎外の最初の妻との離婚はすでにそれ以前に類似の行動パターンがあったとする指摘等々、文学に興味のない人間でも夢中になれる充実した評論なのです。
にもかかわらず、『山椒大夫』から『渋江抽斎』に至るまで、私は鴎外を読んで面白いと思ったことがないのです。困ったことですね……。
(『ほんのこべや』用に執筆するも掲載にいたらず。99年9月、ここに初出)
昔、子供向けの文学全集には必ず『クオーレ』が入っていた。それで私も御多分に漏れず小学生時代にこの本を読んだ。有名な「母を訪ねて三千里」などがこのジュヴナイルに入っている短篇であることもその時知った。
しかし、『クオーレ』は面白くはあったが、ロビンソンや十五少年や海底二万里といった、掛け値なしに夢中になれる物語とは少し違ったところがあった。
例えば主人公の少年は、学校を卒業すれば友達のガルローネらとも別れ別れになってしまうだろうと日記に書く。それに対して少年の父は、労働者の友を誇りに思うような大人になって欲しいと少年にアドヴァイスする。
ガルローネは労働者階級の子弟だから義務教育を終えるとすぐに就職しなくてはならず、主人公の少年はブルジョワの子弟だから上級学校に進学する――それは『クオーレ』が書かれた時代のイタリアでは註を付けずとも自明のことだったのだろうが、東京オリンピックが間近に迫った時代の日本人小学生である私には(東京オリンピック時に私は小学6年生)そのことがはっきりとは分からなかった。
だからつまらなかった、というのではない。人間は分からないことにでもそれなりに感動するものだ。それに高度成長期に入る直前の日本では、どんな職業にも貴賎はありませんという標語が、今よりはまともに信じられていた。全般的に貧しかった当時の日本には、『クオーレ』の精神を率直に受け入れる基盤があったと言うべきだろう。
以上は私が常日頃ぼんやりと考えていたことであるが、『クオーレ』が書かれた歴史的背景をきちんと学問的に論述した本が出た。『「クオーレ」の時代』である。ただしこれはあくまで歴史の本である。『クオーレ』はダシに使われているだけで、しかもダシにしてもあまり濃くは出ていない。私から見ると歴史家にありがちな視点の窮屈さも感じられる。
著者は『クオーレ』がイタリア統一のイデオロギー的機能を果たした、現代では用済みの作品だという見解をとっているが、これだとなぜ戦後日本でも『クオーレ』が幅広く読まれたかの説明がつかない。文学好きよりは歴史好きの人向きの本である。なお最近私が本屋で確認したところでは、『クオーレ』には少なからぬ部分を削除したダイジェスト版も出回っているようだ。この機会にきちんとした版を読んでみることも学生諸君に勧めたい。
ジュブナイルを扱った本をもう一冊、『「家なき子」の旅』も挙げておこう。
これも『クオーレ』に劣らず有名な『家なき子』などを論じた本だが、バーネットの『小公女』を日本に移植するにあたって付け加えた箇所に関する記述などもあって、私たちがどういう「物語」を必要としているかという点で、色々と考えさせられる。文学好きの人にはむしろこちらの方がお勧めである。
(『ほんのこべや』用に執筆するも掲載にいたらず。99年9月、ここに初出)
ミステリーやSFなどの分野、或いはハーレクイン・ロマンスやシドニー・シェルダンなどの量産型文学を別にすると、一般に外国文学に対する関心は低下しているようですが、たまには海外の小説をひもといてみるのも悪くはありません。それも英米や仏独などのいわゆる主要先進国以外の作品には掘出し物がありそうな気がしませんか。
クヌート・ハムスンはノルウェーの作家で1920年にノーベル賞を受賞していますが、その割には日本では余り紹介されてきませんでした。理由はおそらく、日本では北欧語学文学の専門家が少ないことにあるのでしょう。英語をやる人は多いので英米の作家は二流以下でも結構翻訳が出るのに対し、やる人が少ない言語で書く作家は一流でもなかなか邦訳されない、これはゆゆしき事態と言わなくてはなりません。
しかし良心的な翻訳家はいるもので、ハムスンの代表作の一つ『ヴィクトリア』が邦訳されました。貧しい生まれながら作家として名を上げたヨハンネスと貴紳の令嬢ヴィクトリアの悲恋物語は、擦り切れた現実から遠く離れた神話のような輝きを放っています。訳も秀逸。
(新潟大学生協発行・書評誌『ほんのこべや』第8号〔95年春〕掲載。99年9月ここに転載)