2002年7月11日更新 トップページへ
「ゆとり教育」 はここ数年、色々なところで論じられていますが、私のサイトでも立ち上がった当初からこの問題を取り上げていました。
最初は、新聞や雑誌の記事を紹介するという趣旨で 「最新情報」 に入れておりましたが、最近、小論文を書かせる(私の担当する)授業でもこの問題をテーマとして取り上げる学生が出てきましたので、「論争のページ」 に移すことにしました。
ご意見がありましたらお寄せ下さい。 (2002年7月11日記)
もくじ (古い記事ほど下です)
〔4〕 「ゆとり教育」の「ゆとり」はテレビゲームへ、ボランティアは1%のみ (2002年7月11日掲載)
〔3〕 日本の一流大生、数学で北京大生に惨敗! (2000年3月14日掲載)
〔2〕 データを取らずに「改革」をすすめる文部省 (2000年3月1日掲載)
〔1〕 「ゆとりの教育」を推進する官僚・寺脇研はまともか? そして「大学改革」は? (1999年9月13日掲載)
2002年7月8日付けの産経新聞は、千葉県教育委員会の調査結果を報道している。 今年度から導入された公立学校の完全週休2日制について、休日をどうすごしているかを調べたものである。
その結果、休日の過ごし方では、テレビやテレビゲームという答えが小学生57%、中学生64%、高校生53%を占めた。
一方でボランティアは1%に過ぎず、地域活動・行事への参加も小学生でも12%、高校生では1%だという。 休日を勉強に充てている高校生も11%だった。
以下、当サイト制作者のコメント。
こうした結果は実は予想されたことだった。
苅谷剛彦・東大教授の『教育改革の幻想』(ちくま新書)によれば、これまでも中高の教科書内容は削減されてきていて、生徒のゆとり時間は (いわゆる 「ゆとり教育」 以前から) 増えており、その余暇時間は主としてテレビやテレビゲームに費やされているからだ。
予想される事態に何らの対応もせずに拙速でことを進める文部科学省の姿勢は、まさに日本の役人の質の低さを示していると言えよう。
(2002年7月11日掲載)
この問題は、朝日新聞2000年3月12日付も取り上げた。
大学教育の迷走ぶりについて、「まず個性、学力置き去り」 という大見出しを掲げて報じている。
記事自体は学力低下だけを取り上げたものではないが、かつてもてはやされた慶応大学湘南藤沢キャンパス (いわゆる慶応SFC) をも含め、基本的な学力をなおざりにした 「個性化」 路線に疑問を投げかける内容だ。
京大教授・西村和雄氏が98年に、日本と中国の一流といわれる大学の文系学生を対象に数学の問題を解かせる調査を行った。
北京大学の学生が95%の正答率を示した問題に対し、日本の大学生の正答率は、東大でも45%、京大23%、慶応5%、早稲田2%という惨憺たる結果だったという。
入試科目以外は気を入れて勉強しない風潮が蔓延している日本。 しかもその入試科目自体が昔より大幅に減っているのだ。 大学に入っても、専門外の教養科目は削減されている。
朝日新聞の記事は、
【文部省が求めた個性的な人材は、学力低下とひきかえだったともいえる。この間、大学がひた走ったのは、実学重視の路線だった。大学は高等専門学校か、とも言われるようになった。】
と述べている。
何が起こっているのか、マスコミもようやく気づき始めたようである。
(2000年3月14日掲載)
2000年3月1日付産経新聞の「正論」欄に注目すべき文章が載った。
河合塾進学本部長・丹羽健夫氏の「大学生の学力低下の原因は?」である。
ここで丹羽氏は、最近、学力低下をめぐる大学のシンポジウムに招待される機会が多いとして、次のように述べている。
【多くの大学関係者(特に理工系)は、「ゆとりの教育」を基調とする現行教育課程が、大学生の教科学力を大幅に低下させていることを教室で実感していると主張しているのに対し、文部省は断言できないとしている。
この問題については、私どもが長年にわたって実施している模擬試験や各種テストを分析すれば、答は(…)客観的に出すことができる。
分析の結果は、受験生の学力を現教育課程生(99年度)と旧教育課程生(95年度)で比較すると、数学・理科では大幅な低下傾向が見られた。
さらに小中学校では2002年から、高校では2003年から始まる次の教育課程では、学校完全週5日制および総合学習の導入により、従来型の教科の学習時間は大幅に圧迫され、その新教育課程の洗礼を受けた最初の生徒が大学生となる2006年には、大学の研究・教育水準が大ピンチにおちいるであろう。】
実は、昨年秋に掲載した「『ゆとりの教育』を推進する官僚・寺脇研はまともか? そして『大学改革』は?」(下に収録)で、「ゆとりの教育」を主導する官僚・寺脇研を俎上に載せたけれど、そこでも引用した苅谷剛彦・東大助教授が雑誌対談で寺脇を批判している要点の一つに、文部省が客観的なデータを用意せずに教育改革を押し進めている、ということがあるのだ。
その種のデータをきちんと揃えるのが文部省の仕事であろうに、それをせずに感性(?)で俗受けする改革だけを推進する官僚は、一体給与に値する仕事をしていると言えるのだろうか?
同様のことは、「大学改革」でも言える。学生の学力がどうなっているのか、それをきちんと計らずに、何となく学生に受ければいい、式のズサンな思考をする人間が「改革」にしゃしゃり出てくる構図がある。
教育をめぐる病巣は、相当深く進行していると言わざるを得ない。
(2000年3月1日掲載)
数年後に、いわゆる「ゆとりの教育」が実施され、小中学校の教科目の内容がぐっとやさしくなる。
若者の学力低下が言われているこの時代、はたしてそれでいいのかという疑問は、心ある人の胸にはきざしたことがあるはず。
この政策を推し進めているのが、文部省政策課長の寺脇研である。
彼の考えや実像を知るのに打ってつけの記事が、最近の雑誌2誌に相次いで出た。
詳しくは雑誌を自分で読んでみて欲しいが、私が一読した印象では、寺脇という人はまともとは思えない。議論の肝心のところでは逃げてばかりいるし、これが東大法学部出の高級官僚なのかとわが目を疑った。
ここでは、寺脇という人がかつて広島県の教育長に天下って「改革」を推進し、その結果広島県の公立高校からの東大京大進学者が激減し全国最低レベルに落ち込んだ、という事実が指摘されている。
要するに広島県で惨憺たる失敗をしているのに、本人には失敗の自覚がなく、全国規模で同じことをやろうとしているのだ。あきれ果てるしかない。
翻って、最近の「大学改革」を考えてみて欲しい。「学生の意欲」「学生の自主性」「学生の個性」などという美名に隠れて、学力低下を押し進めるような「改革」が行われてはいないだろうか? 寺脇研のような幼稚なイデオロギーに縛られた大学教師は、「改革」の時にはよくしゃしゃり出てくるものだからである。
(1999年9月13日)
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