読書月録2005年

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西暦2005年に読んだ本をすべて公開するコーナー。 5段階評価と短評付き。

   評価は、★★★★★=名著です。 ★★★★=上出来。 ★★★=悪くない。 ★★=感心しない。 ★=駄本。  なお、☆は★の2分の1。

 

・山下史路 『ヴェネーツィアと芸術家たち』(文春新書) 評価★★★ タイトル通り、イタリアの水の都ヴェネツィアを訪れてさまざまな霊感を得た芸術家、或いはこの街に住んだ芸術家たちについて書いた本である。 モーツァルト、ゲーテ、ワーグナー、チャイコフスキー、スタンダール、といった外国の芸術家、そしてイタリア人としてはティツィアーノ、ヴィヴァルディ、ゴルドーニが取り上げられている。 肩が凝らずに楽しんで読める本であるが、ところどころ、著者のうがった見方が挿入されているのも――例えばチャイコフスキー――それなりに面白い。

水木楊 『東大法学部』(新潮新書) 評価★★ 日本のエリート養成所として機能してきた東大法学部の歴史をたどり、現状を探り、東大法学部不要論を唱えた本である。 著者は長らく日本経済新聞に勤務したジャーナリスト。 しかし、歴史記述は表層的だし、現状分析もかなりいい加減である。 欧米の一流大学はほとんど私立なんてデタラメまで書いている (ヨーロッパの一流大学はほとんどが国立州立)。 日本のジャーナリストって、この程度なのかなあ、と思ってしまう。 エリート批判をやるからには、それなりに周到な用意が必要だと思うんだがなあ。 著者はあとがきで自分が自由学園出身だということについて書いているが、失礼ながらこういう本を書いていたのでは自由学園のレベルを疑わせることは必至ではなかろうか。

・田中昌人 『日本の高学費をどうするか』(新日本出版社) 評価★★★☆ 私が国立大学に入った1971年、学費は年1万2千円であった。 今、日本の国立大の学費は年50万円を越えている。 国際的に見ても、日本の対GDP比での高等教育への負担率や学生の学費への支援率は先進国中最低なのだ。 こうした惨状を批判し、公費負担率を高めよと主張した本。 細かい数字を多数挙げて説得的に書かれている。 ちょっとだけ注文をつけると、前半は文章ばかりで読みづらい。 もう少し表やグラフを多くしてもらいたい。 それと、出版社からも推測できることだが、論述に政治的な臭みがあり、反米意識や憲法問題を持ち出しているところがあるが、今どきでは逆効果である。 高学費問題はそれとして論じた方が、かえって広範な支持を得られることを知るべきだろう。

・竹内洋 『丸山眞男の時代――大学・知識人・ジャーナリズム』(中公新書) 評価★★★★ 戦後日本の知識人として一世を風靡し、他方では全共闘学生や吉本隆明から罵倒された丸山眞男。 この本は新書としてきわめて分かりやすく丸山の活動した場所や位置を、副題にあるように知識人の位置、大学のステイタス、ジャーナリズムの影響力などをからめて、と言うよりはむしろ丸山をだしに使ってそういうものを論じた本である。一方で丸山の、日本ファシズムを促進したのは中等学歴の亜インテリで、高等学歴のインテリは戦中の日本主義に消極的ながら抵抗を行ったという説を、具体的なデータを挙げながら無根拠と指摘し、しかし他方で、純粋な学術的論文というよりはむしろ自分の言論で真のインテリを生み出そうとするのが丸山の意図だったと理解を示し、さらに、吉本のような心情倫理的な丸山批判は実は丸山を心理的にも理解していないとして心理的に微細な部分にも光を当てるなど、多様な視点から丸山とその周辺の時代相をあぶりだしている。 いつもながら竹内先生 (私は直接は存じ上げないけれど、その著書を高く評価し、尊敬しているので、先生と言わせていただく) の本は面白く説得力に富んでいる。 先生は京大を定年となったが、引き続き関大で教鞭をとっておられるようである。 今後のさらなるご活躍を期待したいものである。

・木原敏江 『ユンター・ムアリー』(小学館) 評価★★★ 10年以上前に出たコミックスをネット上の古本屋から購入。 かの名作 「摩利と新吾」 シリーズの番外編を3編集めた本である。 このシリーズ、昔私も愛読したが、ここに収められた番外編のうち2編はその存在を不覚にも最近になるまで知らなかった。 本編の方も最後のあたりは少女マンガのハッピーエンドを突き抜けたものすごさがあったけれど、この2編も、摩利を狂言回し的に使いながら、破滅へと突き進む人間の審美的な生き方を描いていて、ううむとうなる私なのでした。

・木下英治 『女たちの東京大学』(PHP研究所) 評価★★☆ 12年ほど前に出た本。 授業で取り上げて読んでみた。 戦後初めて女性に門戸を開いた東大。 その東大で学んだ才媛たちの、入学までと卒業後をジャーナリストが取材したもの。 雑誌 『女性自身』 に連載された記事を単行本化したということもあり、記述はわりに表面的だし、現役学生としてはミス日本に選ばれた学生とテレビタレントとして活躍している学生を取り上げるなど (また、卒業生の中でも加藤登紀子や浜田マキ子など、世間的な知名度の高い人を多く選んでいる)、ちょっと選択の偏りも気になるが、ともあれこの国でエリート大学に学んだ女性の様相を垣間見させてくれる本ではある。

・由紀草一 『思想以前――今を生きぬくために考えるべきこと』(洋泉社) 評価★★★ 6年前に出た本をネット上の古本屋から購入。 著者は高校教師で、以前から教育問題について現場から発言する本などを出してきた人である。 ここでは普通に生きる人間の立場から、個人主義、おたく、現代のヒーロー(麻原彰晃、ジョン・レノン、小林よしのり)、イデオロギーとしての環境問題、伝統主義、などについて論じている。 私の印象では、前半はやや議論がまわりくどくてイマイチの感があるが、後半のヒーロー論やイデオロギーとしての環境問題あたりで著者の本領が発揮され、なかなか読ませる水準に達しているようである。

・入江昭 『歴史を学ぶということ』(講談社現代新書) 評価★★☆ 長年、シカゴ大学とハーヴァード大学で教鞭をとった日本人歴史学者が、おのれの半生を綴り、また歴史学という学問について語った本。 戦後まもなくアメリカに渡って当地の大学に入った頃の苦労話やすばらしい教授との出会いなど、前半はまあまあ面白い。 しかし歴史学について語った後半はイマイチな内容である。 日本の歴史学界の現状についてあんまり分かっていないみたい。 いや、全体としてみてバランスのとれた記述だとは思うのだが、逆に言うと良識的すぎてつっこみがなく、つまらないのである。

・ヘルマン・ヘッセ 『郷愁 (ペーター・カーメンツィント)』(新潮文庫) 評価★★☆ ずいぶん昔に読んだ小説を、1年生向けの演習でとりあげて数十年ぶりで再読してみた。 スイスの山奥に生まれ育った田舎者の青年が、神父に知的能力を認められて都会に出ていき、色々な体験を積んだけれど結局田舎に戻ってくる、というお話。 ドイツ文学得意の教養小説で、最後は平凡な市民で終わるところがミソ。 雲や自然の描写がよくできているが、人間の描写はイマイチのような気もする。

・堂本正樹 『回想 回転扉の三島由紀夫』(文春新書) 評価★★★ 三島由紀夫と親交のあった脚本家が、三島との付き合いを回想した本。 ↓の松本健一の本と同時出版だが、松本のような羊頭狗肉ではなく、ちゃんとした内容である。 といってもかつて福島次郎などが出した本と似たところもあって、義兄弟同士の濃厚な愛情と切腹ごっこなどはさほど新鮮味を感じないが、自作の舞台化や映画化について述べたところはそれなりに新鮮な情報と視点が感じられて、一読に値する本となっている。

・松本健一 『三島由紀夫の二・二六事件』(文春新書) 評価★★☆ 看板に偽りあり、である。 タイトルからは、三島由紀夫がメインテーマであるかのように思われるが、実は北一輝の思想がメインである。 三島への言及はそれに比べると格段に少なく、特に後半はついで程度にしか触れられていない。 著者は最近、北一輝の大部の評伝で賞を得ており、この本はその余滴として生まれたのであろう。 ハーバード・ビックスの『昭和天皇』を批判したり、面白いところはそれなりにあるのだけれど、タイトルが偽りである以上、いい点数は上げられませんね。

・森博嗣 『大学の話をしましょうか』(中公新書ラクレ) 評価★★★ ミステリ作家でもある(ただし私は読んだことがない)名大工学部助教授が、大学の最近の内幕を語った本。 困るなと思うところもあるが(大学教師は好きな研究をやれるんだから給料は払わずともいい、なんて書いてあるのだが、それだと森氏のような副業を持つ人かお金持ちしか大学教師にはなれなくなってしまう)、率直にものを言っているところがいい。建築学科が名目上なくなって、大学組織が外部から見て非常にわかりにくくなっているところを、文科省をも含めて批判しているところには共感が持てた。 私が特に共感を覚えた箇所を以下に引用しておこう。著者の息子さんが数年前に国立大を受験することになり――
 《志望学部・学科をきいてみると、「まだ決めていないけれど、少なくとも 『人間』 と 『環境』 と 『情報』 が付くところだけは避けたいと思っている」 と答えるのだ。 理由は、「みんなも話しているけど、なんか胡散臭いしぃ」 とのことだった。
 そういった名称に変更しなければならなかったのは、学生を見ている振りをしつつ、文部科学省を向いていた明らかな痕跡であるが、若者はおそらく本能的に、その組織がどこを見ているのか、その視線の先を感じ取る、そんな力を持っているようだ。》

12月  ↑

・上原善広 『被差別の食卓』(新潮新書) 評価★★★ 被差別部落出身の著者が、子供時代に自分の居住地では食されているのに他の地域では知られていない料理があったことにヒントを得て、アメリカの黒人、ヨーロッパや中東のロマ民族(ジプシー)、ネパールのカースト制度で差別されている階層などなどを訪ね、そこで被差別民独自の食物を味わってみるという趣向の書物である。 被差別民であるが故に様々な工夫をこらしてそれなりに美味な料理を生み出してきた様子が、なかなか興味深い。 ただ、著者が南アジアのカースト制度の思想が日本の被差別部落を生んだもとだと書いているのは、もう少し検証が必要なのではないかと思った。

・鴻巣友季子 『明治大正翻訳ワンダーランド』(新潮新書) 評価★★★☆ 明治大正時代の、意訳・豪傑訳などなどを紹介して、近代日本文学を生んだ土台の一つである翻訳文学の魅力と素顔を紹介しようとした本。 著者は自分でも翻訳家で、そのために草創期の翻訳に興味を持ったらしい。 今の翻訳の感覚からすると乱暴きわまりない、しかしそれ故にかえって読者を引きつける力が強かった往時の翻訳書がいくつも紹介されていて、時には驚くこともある。 たとえばボアゴベ 『鉄仮面』 である。 この本、私も昔、子供用のリライト本で読んだのであるが、幾多の危険を乗り越えて最後に主人公が凱旋するところで終わっていた。 ところがである、これは実は訳者・黒岩涙香の勝手な創作で、原作では主人公は途中で死んでしまうのだという。 えーっ!? 私が昔読んだ本には 「ボアゴベ原作」 とちゃんと書いてあったぞ! 本当は 「黒岩涙香原作」 とあるべきところだったのだね(笑)。・・・・というような諸々の新知識に出会える本です。

・川口マーン恵美 『ドイツは苦悩する』(草思社) 評価★★★☆ ドイツ人と結婚して長年ドイツに滞在している女性による現代ドイツ報告記。 昨年末の出版だが、今ごろ読んでみた。 かつては福祉が充実していて何でもタダだったドイツも、財政難で日本並みにカネがかかるようになってきていること、東ドイツ合併がいまだにドイツ経済に重くのしかかっていること、ドイツ人の学力低下問題、トルコ人労働者問題・・・・などなど、多方面から現代ドイツを紹介していて参考になる。 何より優れていると思うのは、下記の高田ケラー有子と違ってドイツを等身大に見るすべを著者が心得ており、いたずらに外国礼賛色に染まっておらず、ドイツの長所と欠点をきっちり捉えてわかりやすく説明しているところであろう。 滞在期間の長短によるのではなく、やっぱり頭の善し悪しの問題なんだろうな、と失礼ながら思ってしまいます。

・佐藤唯行 『アメリカ・ユダヤ人の政治力』(PHP新書) 評価★★★★☆ BOKKOFFにて半額で購入した5年前の新書。 記述がブッシュ二世大統領誕生直前を基準にしているのでやや古いかと危惧したが、通読してみると著者の精査と学識が十分に活かされた本であり、今なお読むに耐える内容となっている。 「ユダヤ人はアメリカ政治を牛耳っている」 といった極論に走ることなく、各分野のユダヤ人の実際的な力を、様々な資料を駆使して推測しており、説得力がある。 アメリカにおけるユダヤ人の人口比は少ないが選挙の投票比率は高いこと、アメリカの対イスラエル援助が飛躍的に増加したのは、イスラエル建国直後ではなく、1969年のニクソン政権時代からであること、などなど、教えられるところが多い。

・西部邁 『思想史の相貌――近代日本の思想家たち』(世界文化社) 評価★★ 14年前に出た本を東京の古本屋にて定価の半額で購入。 福沢諭吉、夏目漱石から始まって、小林秀雄、吉本隆明、福田恆存にいたるまでの思想家 (坂口安吾のような小説家、伊藤博文のような政治家も含む)を取り上げて自己流に論じている。 率直に言ってあまり面白くなかった。 多分、論じる切り口があくまで西部流で、概説的かつ客観的な解説ではないので、こちらの関心とは必ずしも整合性がなかったためであろう。

・長島要一 『森鴎外 文化の翻訳者』(岩波新書) 評価★★★★ 独訳を通して北欧文学などを日本に紹介した森鴎外。 この本は鴎外の翻訳家としての側面に光を当て、彼が原文をどのように理解し、取捨選択を行ったかを事細かに吟味するとともに、翻訳作業がその時々の鴎外の思想と密接に結びついていることを論証し、さらには彼の創作活動も翻訳活動と並行関係にあったことをも指摘している。 翻訳というものの本質をも考えさせられる内容であり、文学や翻訳に興味のある方にはお薦めできる書物である。 

・高田ケラー有子 『平らな国デンマーク――「幸福度」 世界一の社会から』(NHK生活人新書) 評価★★ デンマーク男性と結婚してかの地に渡りそこで子供を生んだ日本人女性が書いた本。 デンマークは、日本では一般にアンデルセンの国程度の理解しかないし、私も内実を知っているわけではないので、興味を抱いて読んでみたのだが、あまり満足度は高くない。 書かれている内容が、著者の知っている範囲――育児システム――を中心としておりあまり広くないことがまずある。 また、例えば教育なら大学生に奨学金が手厚いことは指摘されていても、進学率がどの程度なのかは書かれていないといった具合で、記述にバランスが取れていないし、加えて例えば小学校では10時におやつの時間があると書かれているけれど、それはドイツにも見られることで、デンマークとヨーロッパ一般の区別があまりなされていなようである。 そもそも、著者は異国の制度や習慣をかなりプラス・イメージで受け入れる人のようで、日本人ならあちらの制度に違和感を持ち批判的な意見を述べたくなることもあるだろうと思うのだが、そういった側面がほとんど見られないのは、敢えて言えば著者の思考能力の限界を示しているような気がしないでもない。

・ヘッベル 『ユーディット』(新潮社・世界文学全集 『独逸古典劇集』 〔昭和5年〕 所収) 評価★★★ ヘッベルの戯曲を授業上の必要性から読んでみた。 この作品には岩波文庫版もあるが、どうも翻訳がイマイチで――ヒロインの言葉遣いに品が感じられない――古い方のこちらを選んだ。 途中までは結構面白いと思いながら読んでいたが、クライマックスはなかなか晦渋で、一筋縄ではいかないところがある。 ううむ・・・・・。

・岡田暁生 『西洋音楽史――「クラシック」 の黄昏』(中公新書) 評価★★★★☆ 名著 『オペラの運命』(中公新書) の著者による音楽通史である。 といっても、ただただ有力作曲家や有名作品を並べている類の本ではない。 あくまで主役は 「音楽」 であって、作曲家や名曲ではないのである。 そして著者はしばしばつっこんだ私見を述べるのだが、ここがまた面白い。 例えばバロック音楽で言えば、バッハは実はバロック期としては異端の作曲家であったが、その偉大さが誰にも否定できなかったがために、バロック時代全体の見通しが逆につけにくくなっている、としている。 このように、本書は専門用語を極力使わず、また 「なぜそうなったのか」 というシロウトっぽい視点を放棄せずに、「クラシック音楽」 がたそがれてポピュラー音楽が隆盛を迎える――しかしここでも、実はポピュラー音楽は19世紀ロマン派の音楽を下敷きにしていると指摘されている――までを一冊の新書で展開しているのであり、著者・岡田氏の力量はやはり相当なものだと唸らざるを得ないのである。 

・安岡章太郎 『戦後文学放浪記』(岩波新書) 評価★★ 5年前に出た新書を某古本屋から100円で購入。 作家である安岡氏が戦後の自分の歩みを語った本であるが、読んでいて隔靴掻痒の感があるのは、振り返ったときにもう少し分析的に過去や過去の自分が捉えられないものなのかという疑問が最後まで抜けきれなかったからだ。 私は安岡氏の作品は、若い頃 『花祭』 を読んで三文小説だと思い、以後読まなかったのだが、この本を通読しても、氏が作家としての力量を備えているとはどうも思われないのである。

11月  ↑

・小浜逸郎 『 「責任」 はだれにあるのか』(PHP新書) 評価★★☆ 事故だとか戦争で犠牲者が出ると、誰それの責任だ、という言い方がよくなされる。 しかし、「責任」 という概念はよく考えてみると必ずしも明瞭な意味を持っているとは言えない。 その 「責任」 について考えた本である。 前半は微温的な、極論の中間が正しい的な言い回しが続くのでハズレかなと思ったが、後半、人間の行動はほとんどの場合結果を十全に予想してなされているのではないし、またそうした予想は人間の能力では不可能であること、そして 「責任」 概念は事後的な性格を持つので、事件が起こった後に関係者同士で調整するしかなく、原理論的にあらかじめ責任を規定しておくことはできないと、カントやヘーゲルを援用しながら主張するあたりは、まあ悪くなかった。 小浜逸郎の本、私は以前は良く読んでいたのだが、ここ2、3年、面白みを感じなくなって読まなくなっていた。 今回も、復調とまではいかないようである。

・グリルパルツェル 『ザッフォオ』(岩波文庫) 評価★★★ 19世紀オーストリアの劇作家グリルパルツァー ( 「グリルパルツェル」 は昔風の発音) の代表作の一つである。 私は30年近く前、大学院生だった当時に原書を輪読会で読んだのであるが、今回、授業での必要性があって久しぶりに翻訳で再読してみた。 芸術と実人生の相克の問題が、女流詩人の失恋を介して鮮やかに描かれている。 内容的な古さを感じさせない傑作であり、訳も悪くないので、独文や演劇一般に興味のある人にはお薦めできる。

・石角(いしづみ)完爾 『アメリカのスーパーエリート教育』(The Japan Times) 評価★★★ 授業で読んだ本。 著者はアメリカで活動している弁護士。 アメリカの全寮制を建前とするエリート高校――ボーディング・スクール――を紹介している。 高校段階から限られた数の生徒たちに恵まれた環境のもと、エリート教育を課しているアメリカの実態がよく分かるし、また日本人でこういう学校に入りたい人への案内書を兼ねている。 ただ、ややアメリカを理想化しすぎていて日本の平等教育をクサしすぎる傾向があるのと、こういう学校に入ると授業料と生活費で年間500万円ほどかかるという事実を軽く見過ぎているような気配がある。 子供に高校生活を送らせるのに年間500万円もかけられるお金持ちは、そうそういませんって――少なくともワタシには無理である。 つまり、エリート教育=金持ちのもの、という実態が図らずも浮き彫りにされているわけである。 

・許光俊(編著) 『究極! クラシックのツボ』(青弓社) 評価★★★ 3年半前に出た本をBOOKOFFにて半額で購入。 クラシック音楽の入門書である。 主要な作曲家と演奏家の紹介、クラシックに関する初歩的な知識、チケットの買い方、海外で演奏会に行くには、などなどの情報が盛り込まれている。 また著者の仲間たち (鈴木淳史など) が執筆陣に加わっているので、書き方もそれなりに面白く、退屈せずに読み通すことができる。 ただし、例えばベートーヴェンに関する説明などが典型的だが、韜晦で説明が埋められている場合もあるので、完全な初心者は他の本と併読した方がいいかも。 あと、作曲家ならヘンデルやハイドンが入っていなかったり、演奏家ならバックハウスやオイストラフが入っていなかったり、指揮者ならトスカニーニがないのになぜかワルターについて二人の執筆者が書いていたり (もしかして単なる執筆分担作業のミスで、トスカニーニがA氏でワルターがB氏のつもりが、うっかりAB両氏ともワルターにしてしまったのかも)、大バッハのフルネームを 「ヨハン=セヴァスティアン・バッハ」 としてしまったり(48ページ)、「??」 なところも散見される。

・清水真木 『友情を疑う 親しさという牢獄』(中公新書) 評価★★ タイトルだけ見ていると社会学的な本かと思うが、実は哲学者(哲学研究者)が書いた本である。 キケロ、モンテーニュ、ルソー、カントなどの友情論を哲学史的にたどり、公共性と友情の関係を時代の変遷を追いつつ考察している。 その意味では一読の価値はあるだろうが、最初のあたりとあとがきとを読むと、どうも著者 (東大哲学科卒の広島大助教授) の思考力には重大な欠陥がるのではないか、と考えざるを得ない。 短く書くなら、トンデモすれすれの人 (あるいは、すでにトンデモになっていかも)、といった印象なのである。 まさか、と思う方は、立ち読みでいいから、最初のあたりで 「友だち百人できるかな」 という歌の文句に関して著者が何を言っているかを読まれたし。

・小谷野敦+斉藤貴男+栗原裕一郎 『禁煙ファシズムと戦う』(ベスト新書) 評価★★★☆ このところ喫煙行為への有形無形の圧力が強くなっている。 たんに分煙を進めろというだけでなく、タバコを吸うこと自体を罪悪視し、他にも世の中には悪いことがあるだろうのに、タバコを叩いていれば正義の人、といった風潮すらないではないのだ。 また、新聞もタバコのみを擁護するような見解は絶対載せない、これはケシカラン――ということで出たのが本書である。 まあ、へそ曲がりなワタシも、自分では吸わないが、近頃のタバコ・バッシングはややヒステリックだわいと感じていたので、買って読んでみた。 当サイトでも最近活躍している (笑) 小谷野敦氏の健闘ぶりはあいかわらずだが、栗原氏はいいとして、斉藤貴男氏と組むのはどんなものだろうか。 「金持ち−貧乏人」 というような古い対立軸でしか物事をとらえられず、またせっかくアメリカまで取材に行っているのに本陣に迫ることもできずに終わる斉藤氏の限界は、わりに見えやすいような気が。 それと、タバコが体に悪いという (或いは悪くないという) 科学的な根拠は、もう少し広く漁った方がよろしいのでは。 ワタシとしては、この問題は科学の問題というよりは、人間は生きていく上で或る程度の悪を必要とするのであり、その悪を社会全体でどの程度容認すればいいのかという、社会的合意の問題ではないか、と思うのであるが。

・中野晴行 『そうだったのか手塚治虫――天才が見抜いていた日本人の本質』(詳伝社新書) 評価★★★ 手塚治虫の時代ごとの仕事をたどりながら、作品と時代との関わり、時代性に対する手塚の考え方が作品にどう表れたかを検証しようとした本である。 手塚の実に多様な作品群をていねいに検討しながらの記述は、手塚論としては十分に読み応えがある。 ただし時代性についての見方はわりに通り一遍であり、手塚作品との関連づけも辻褄合わせのような印象が残る。 戦後日本を論じた本としてではなく、あくまで手塚作品への道案内として読むべき一冊である。 

・三浦展 『下流社会 新たな階層集団の出現』(光文社新書) 評価★★★ 日本の所得格差が拡大傾向にあることは指摘されているし、そこから「希望格差」なるものが生じつつあると指摘している山田昌弘のような社会学者もいるわけだが、実際に 「下流社会」 なる階層集団ができているということを、独自の調査に基づいて主張したのが本書である。 「下流社会」 といっても、かつての下層階級のように食うにも困るというわけではなく、何となく 「自分らしさ」 を意識しつつ低所得に甘んじている人たちで、頑張らず張り切らず人目を気にせず生きているのが特徴だという。 まあ、この種の本は、「そうも見える」 ということで、データの分析も何となく先入見が混じっていないでもないような気もする。 が、社会のある種の徴候が見えるかも知れないという点で一読の価値はあろう。

・石原千秋 『国語教科書の思想』(ちくま新書) 評価★★★ 小中高の国語の教科書は何のためにあるのか? 国語力をつけるため? そうではなく道徳教育のためにあるのだ、と実例を豊富に挙げながら主張した本。 例えば小学校の国語教科書なら動物を扱った文章がやたらに多く、「自然に帰れ」 「都会は悪、田舎は善」 といった思考パターンが見られるそうである。 環境問題に触れた文章が多い、というのもそういうパターンの延長線上にあろう。 そういう目の付けどころが斬新だという点で、悪くない本だとは思う。 ただ、著者の思考にはある種の狭さがあって、それが随所に顔をのぞかせているのが残念である。 例えば平和主義も国語教科書に頻出するイデオロギーだが、著者はそういうところは丸ごと肯定してしまうようで、 「生徒に内容を鵜呑みにさせるのではなく、内容の良し悪しを考えさせろ」 という著者自身の主張に矛盾している。 そういう矛盾が、例えば落合恵子だとかの系統を国語教科書に採用することへの過大評価にもつながっており、好著というまでには至らない原因ともなっているのが惜しまれる。

・許光俊 『世界最高のクラシック』(光文社新書) 評価★★★ 3年前に出た新書をBOOKOFFにて半額で購入。 著名な指揮者をほぼ時代ごとに、その特徴を説明しつつ評価しうるディスクを紹介するという、啓蒙的な本。 ただし著者の好き嫌いが或る程度指揮者やディスクの選択に見られるから、初心者向けの本ではあるが、鵜呑みは危険である。 

・村上陽一郎 『やりなおし教養講座』(NTT出版) 評価★★★★ 昨年末に出た本をAmazonから古本として送料込み定価の3分の2程度で購入。 長らく東大とICUで教鞭をとった科学思想家が、老境に入って、教養の大切さを改めて説く気になって著した書物。 もともと博識な人だけあって、内容的には多方面に及び、教養という得体の知れないものが知識と規矩 (これは著者が好きな言葉だそうだ) によっているという著者の主張が説得的に展開されていて、教えられるところも多く、お薦めできる本である。 なお、教養を説いている本だから、敢えて誤りを指摘しておくと、「ゲッペルス」(141頁)はゲッベルス(ヘに○じゃなく、ヘに〃)、「ホーフマンスタルをホフマンシュタールとは言わない、書かない」(271頁)とあるが、オーストリア作家 Hofmannsthal の発音は、ドイツ語の発音辞典にしたがえば 「ホーフマンスタール」 だし、本国オーストリアでは第一音節を伸ばさないので 「ホフマンスタール」 である。

10月 ↑

・小田亮 『ヒトは環境を壊す動物である』(ちくま新書) 評価★★★ 1年半ほど前に出た新書。 ツンドクになっていたのを読んでみた。 タイトルから予想していたのとはちょっと違う内容だった。 タイトルからは、ヒトの環境保護運動の欺瞞みたいなものを追及した本なのかと思われるが、そしてそういう部分もないではないが、ホモサピエンスという動物がどういう経路をたどって進化してきたのか、どういう原理で行動しているのかを、生物学的に説明した本なのである。 その中に環境問題との関連も出てくるので、タイトルに偽りありというほどではないし、まあまあ面白いのではあるが、肩すかしを食った感じも残る本ではある。

・井上太郎 『モーツァルトと日本人』(平凡社新書) 評価★★★ タイトル通り、モーツァルトと日本人の付き合いを時代を追ってたどった本である。 最初のあたりは、明治時代に西洋クラシック音楽が日本に輸入された経緯の紹介で、別段この本でなくても書かれていることなので、ちょっと退屈する。 やはり戦後、小林秀雄と河上徹太郎がモーツァルトを論じたあたりから面白くなってくる。 ただ、例えば山口昌男の 『モーツァルト好きを怒らせよう』 への言及がなかったり、網羅的という程でもなく、出来としてはそこそこではないだろうか。

・篠沢秀夫 『愛国心の探求』(文春新書) 評価★★★☆ 6年前の新書をBOOKOFFにて半額で購入。 フランス文学者による愛国心論である。 愛国心というと右翼とか戦争とか結びつける短絡的なヤカラもいるが、実は愛国心とはフランス革命により自由・平等・友愛が唱えられてから生まれたものであり、民主主義や近代と切り離せない存在なのである――という、当たり前なのに意外と知られていないことを、主としてフランスと日本における愛国心の様相を比較しながら、愛国心の正当性と大事さを説いている。 内容的にはなかなか悪くないのだが、フランスやヨーロッパを論じるときはわりに冷静に筆が進むのに対して、日本を論じるときはどうもやや肩に力が入っている印象がある。 この辺をもう少し工夫すると、説得力が格段に増す本ではなかろうか。 まあ、本来フランス文学者こういうことをちゃんとやるべきなので、進歩的知識人風に反日を吹聴しているフランス文学者って信用がおけないと、私も思いますけれども。

・西尾幹二 『民族への責任』(徳間書店) 評価★★★★ 西尾幹二氏の最新評論集。 といっても出てから4カ月ほどたっているが。 西尾氏の関心は守備範囲を広げる一方で、今回は従来から論じてきた中韓の反日的姿勢や歴史教科書問題に加えて、経済問題にまで手を広げているのが目に付く。 この点は、先の総選挙で小泉首相の 「改革を止めるな」 という標語に典型的に現れている「アメリカ式の弱肉強食的な資本主義こそが未来をになう」という観念に異議を唱え、日本式資本主義の長所を見直すように主張しているところがミソ。 リバタニアン的な方向性を強めている小泉自民党に対し、それを批判する動きが保守主義の中から出ていることに注目すべきであろう。

・クライスト(中田美喜訳) 『アンフィトリオン』(白水社版『クライスト名作集』より) 評価★★★ ドイツ19世紀の劇作家クライストの作品。 古代ギリシア神話に材をとった劇で、タイトルのアンフィトリオンは将軍の名。 彼が出征中に、彼の妻アルクメーネにかねてから恋心を抱いていたジュピター(ゼウス)がアンフィトリオンに姿を変えて彼女と一夜を過ごす。 そこに本物の夫が帰ってきたので・・・・という、喜劇とも悲劇ともつかないお話。 古代的観念からすれば神に愛されて一夜を過ごすのは名誉なことなのだが、そこに近代的な貞節の観念を持ち込んで複雑にしたのがこの劇だということになっている。 たしかにそういう読み方を強いる作品ではある。

・小林英起子 『ケルン大聖堂の見える街――ドイツ、ライン河畔の散歩道で』(ブッキング) 評価★★★ 新潟大学でドイツ語を教えておられる小林先生の本である。 ドイツ留学中の体験談を中心に、ドイツ人の日常生活や仕事ぶり、習慣や考え方などを綴ったエッセイ集。 素顔のドイツ人を知りたいという人に向いた本と言える。

・渡辺茂 『ヒト型脳とハト型脳』(文春新書) 評価★★★☆ 4年前に出た新書。 著者は慶大教授で心理学者。 脳の機能がどうなっているのか、動物とヒトとでどう異なるのかを、現時点で分かっている限りで紹介した本。 昔に比べると、動物の認識能力が結構高いことが分かってきているが、どの動物がどの程度の記憶力や思考力を持つのか、また脳の機能のヒトと動物との、また動物同士の違いは、脳の何によって決まるのかを、様々な例をもとに説明している。 やや専門的で難解なところもあるが、脳の複雑さ (例えば或る部分を切り取ったから或る機能が皆無になる、というふうなものでもないらしい) を知ることができ、また動物の進化過程についても知識が得られ、その方面に興味のある方にはお薦めできる本である。

・坂井栄八郎 『ドイツ史10講』(岩波新書) 評価★★★ 2年前に出た新書を、これまた訳あって読んでみた。 ドイツ史を、ヨーロッパの文脈の中において、要点をおさえつつ紹介する書物。 ただし、高校の世界史程度の素養はあることを前提にして記述が進むので、まるっきり世界史を知らない人には薦められない。 高校で得た世界史の知識を深めたい、という人には悪くない本である。

・池内紀 『ぼくのドイツ文学講義』(岩波新書) 評価★★★☆ 10年近く前に出た新書なのだが、今さらという気もするけれど、訳あって読んでみた。 池内氏らしく、網羅的な、或いはお勉強的なドイツ文学講義ではなく、あくまで自分の好みに即して作家や作品を選び、自分の好みに即して論じている。 肩肘張らずに気軽にドイツ文学にアプローチできる好著だと思う。

・フリードリヒ・シラー (相良守峯訳) 『マリア・ストゥアルト』(岩波文庫) 評価★★☆ これまた有名な演劇だが未読だった。 これは授業に使えそうという理由からではなく、或る事情から読んでみたもの。 (まあ、女性二人が主役だけれど、シラーの描く女性像はワタシの授業では使えませんなあ。) 16世紀英国を舞台に、元スコットランドの女王マリアが、イングランド女王エリザベスにより幽閉の身となり、慈悲を願うが処刑されてしまうという、史実に基づいた筋書きのドラマである。 うーん、歴史的な事実を知って読むとそれなりに面白いのだろうが、こちらとしては、せっかく二人の女王が対決するというシーンがあるのだから、史実を離れて自由に展開した方が面白くなったのではないか、という気がする。 なお訳者はEnglandを 「イギリス」 と訳しているが、イングランドとすべきところだろう。

・ヘルマン・ヘッセ 『春の嵐 ―ゲルトルート―』(新潮文庫) 評価★★★ ヘッセの小説としてわりに名を知られた作品だが、なぜか未読だった。 後期の授業に使えるかも知れないという気持ちもあって読んでみた (ドイツ文学の女性像、という授業です。 これを使うかどうかは未定)。 邦訳では副題になっている女性名ゲルトルートが本来は正規のタイトルなのだが、一読、ヘッセの他の作品と同じく、女性像はあまり印象に残らない。 語り手の半生と、変人のオペラ歌手ムオトの姿がメインと見た方がいい。 だからそちらをもっと拡充すればかなりの傑作になったのではなかろうか。 今でもまあ並みの出来だとは思うけれど。 なお高橋健二の訳は相変わらずうまくない。 一例が、ムオトが 「mit seinen Studien fertig」 という箇所を 「研究を終えると」 などと訳しているが (第3章冒頭)、大学を出て、ということでしょう。

・D・トーマ/M・レンツ/C・ハウランド(編、西川賢一訳) 『ドイツ人のバカ笑い――ジョークでたどる現代史』(集英社新書) 評価★★★ タイトルがイマイチ良くないと思うが、戦後のドイツ・ジョークを集めた本である。 ただし漠然と集めているのではなく、戦後の時代的な変遷や、東西ドイツの違い、また西ドイツ内の地域的な違いなどを考慮に入れながら編集されているので、戦後ドイツの時代的流れや地域の特質などが、ジョークで笑いながら自然に分かってしまうという、悪くない企画である。

9月  ↑

・林良博(編著) 『ヒトと動物――野生動物・家畜・ペットを考える』(朔北社) 評価★★★☆ ペット、家畜、野生動物など、動物とヒトとの関わりについて3人の農学者が分担執筆した書物。 3年前に出ているが、私はAmazonから新古書を送料込み定価の3分の2で購入。 動物とヒトとの関わりも多様になってきているが、その分、逆に身近なところにペット以外の動物がいないため、偏見や誤った知識に基づいて動物保護を唱えたりする人も多くなっている。 この本はそうした偏見をただし、動物と人間が正しい付き合いを続けていくためにはどうすればいいのか、具体的に個々の動物に即して教えてくれる好著である。 私としては特に近藤誠司氏の書いた第2章 「家畜」 と、林良博氏の書いた第3章 「ペット」 を面白く読んだ。 

・福田和也(編) 『江藤淳コレクション2 エセー』(ちくま学芸文庫) 評価★★★ 評論家・江藤淳の代表作を文庫で集成したものの第2巻。 通読したのではなく、その中の 「戦後と私」 「日本と私」 「文学と私」 の3編、分量にして全体の5分の2ほどを読んでみた。 特に 「日本と私」 は170頁ほどあって一番長く、それでいて今まで雑誌初出以降、いかなる単行本にも採録されなかったという貴重な一編。 アメリカ留学から夫人と共に帰国し、それがちょうど東京オリンピックの年にあたっていて、貸し家を探すがなかなか見つからないで転々とし、しまいに借金をしてマンションを購入するがそこも壁が落ちてしまうという、当時としては珍しい米国留学から帰国したエリート青年をきわめて不愉快な日本の現実が待っていたという、なかなかに興味深いエッセイである。

・小林章夫 『召使いたちの大英帝国』(洋泉社新書y) 評価★★★★ 召使いというものを文化史的に説明したユニークな本である。 タイトル通り、英国に限っての叙述だが、18〜19世紀の貴族に仕えていた召使いたちの仕事とランク、生涯などが手際よく説明されていて、なかなか面白い。 そして19世紀末頃から貴族社会が没落に向かい、中産階級も召使いを雇うようになるが、そうなると召使いの仕事はかえってきつくなり (中産階級は貴族ほど沢山の召使いを雇えないしカネもないから) 、最終的に召使いという職業は、なくなってはいないものの、きわめて少数になってしまうわけである。 もっとも今でも執事はしかるべき邸宅には雇われており、またナニーは現代もかなり残っていて、執事やナニーを養成する学校もあるのだそうだ。 この辺が、階級社会・英国の面目躍如 (?) たるところで、日本はまだまだ総中流なんだなあ、と痛感させられました (笑)。

・北野圭介 『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』(平凡社新書) 評価★★★★☆ 新潟大学人文学部で映画を講じておられる北野圭介先生の新刊である。 日本映画を作品に即して本質論的に論じるのではなく、アメリカが日本映画をどう捉えてきたかを通時的に観察することで、アメリカにおける日本イメージができあがる仕組みを解明し、ひいては文化交流とは何なのかを考えていこうとする野心的な試み。 黒澤明の 『羅生門』 に始まって、溝口健二や小津安二郎の映画に対するアメリカ側の見方を通して、当時の日本映画へのアメリカ人の眼差しが分かるばかりではなく、映画評というもののあり方やその時代的変遷も明快に説明されていて、勉強になる。 やがて伊丹十三やアニメ映画に至ってナショナルな枠組みの中での受容が終焉に向かっていくあたりが、映画という枠にとどまらない現代文化論としても読めて興味深い。 お薦めできる本だ。

・ジョイ・アダムソン 『エルザの子供たち』(文藝春秋) 評価★★☆ エルザ・シリーズの最後。 エルザが病気で死に、その3頭の子供たちを育てるが、やがて彼らは家畜を襲うようになり、近隣から文句を言われた著者夫妻は3頭を遠隔の地に送ってそこで野生化する試みを行う。 最後は、色々な事情から3頭の面倒を持続して見られなくなり、また3頭もエルザと違って幼児の時から著者に育てられたわけではないので (基本的には母ライオンであるエルザに育てられた) 著者に距離をおいており、中途半端な形で著者と別れてしまうということになる。 しかし著者からエサをもらうのに慣れた3頭がうまく野生化できたのかどうか・・・・・・疑問が残る。 野生化というのは、エルザを含めて、実は成功がきわめて難しいというのが私の得た印象である。 (事実、夫妻はこの後、別のライオンの野生化を試みるが、人を襲ったため射殺を余儀なくされている。)

・アーサー・シモンズ 『知られざる名探偵物語』(ハヤカワ・ミステリ文庫) 評価★★ 18年前に出た文庫本。 いつだったか古本屋で定価の4割で買ったままツンドクになっていたが、何となく読んでみた。 名探偵のパロディもので、シャーロック・ホームズをはじめ、ミス・マープルやポワロやエラリィ・クイーンやマーロウが出てくるが、最初のホームズはミステリ仕立てなのでまだ面白いが、あとは必ずしもそうではなく、原作から探偵の生涯をひねりだすといった趣向なので、イマイチである。 今どきは、この種の試みは日本人のマニアックなミステリ作家の方が巧みなのではないか。

・ジョイ・アダムソン 『わたしのエルザ』(文藝春秋) 評価★★☆ エルザ・シリーズの第3部で、またしても必要から読んだのであるが、エルザが病気で死んでしまい、その子供たち3匹が近所の家畜を襲うので文句が殺到し、結局彼らを遠い場所に移送してそこで完全な野生に返そうという試みをするお話。 うーん、段々飽きてきたのか、或いは内容的な新鮮味が薄れてきたせいか、面白さが減ってきているなあ。

・貞友義典 『リピーター医師 なぜミスを繰り返すのか』(光文社新書) 評価★★★★☆ リピーター医師、とは聞き慣れない言葉だ。 うっかりすると、腕がいいので続けて通いたくなる医師の意味かと思ってしまうが、実は逆で、同じミス、それも人命に関わるようなミスを繰り返してしまう医師のことである。 著者は弁護士で、医療ミスの裁判に長らく携わっている方である。 医師も人間だからうっかりミスは避けられないこともあろうが、ここに言及されている例は信じられないようなケースばかりである。 英語の薬使用説明書が読めず、weekに一度と書いてあるのに毎日投与して患者を死なせるとか、入試の難しい医学部 (カネで入れる私立大医学部卒もわりにいるかな) を出たとは到底思われないようなお粗末な医師が結構いるのが分かって怖くなる。 しかも、市販の 『お薦めできる医師・病院』 といった類の本には、よりによってこういうリピーター医師が名医として掲載されていたりするというから、世の中、何を信用していいか分からなくなる。 また、この種のダメ医師の医師免許をとりあげるとか、医師の技術をふだんから監視する、といった仕組みが日本にはほとんどないともいう。 何にしても、自分の身は自分で守らないと、という気分にさせられる一冊で、そのためにも一読をお薦めする。 

・ジョイ・アダムソン 『永遠のエルザ』(文藝春秋) 評価★★★ 『野生のエルザ』の続編であるが、必要あって読んだもの。 著者の育てた雌ライオンのエルザが野生の暮らしの中で雄のライオンとの間に3頭の仔を作り、しかし著者との間に交流が続いていく様が綴られている。 そこそこ面白いけれど、こういうのは読み続けていくうちにだんだん飽きてくるのは、如何ともしがたいですなあ。 結局、著者の意向にもかかわらず、エルザは完全に野生に戻ることはできず、ネコで言えば (ライオンはネコ科なので) いわば半野良のような状態でいたのだろうと思う。

・松本徹 『三島由紀夫 エロスの劇』(作品社) 評価★★★ 三島由紀夫論である。 彼の女性関係と、そこから来るエロティシズムに焦点を当て、彼の作中に現れる女性像やエロスの様態を論じている。 作品を広く、丹念に読み込み、三島の実生活にも細かい視点を注いで、それなりに説得力ある論考となっているとは思う。 ただ、論理を通しすぎると、何となく三島が小さく見えてきてしまうという弊害もあって、いたしかゆし、と言うべきなのだろうか。

・大賀敏子 『心にしみるケニア』(岩波新書) 評価★★★ 13年前に出た新書だが、必要があってネット上の古書店から買って読んでみた。 筆者は本来は環境庁のお役人で、1988年から2年間UNEP (国連環境計画) の職員として出向し、ケニアのナイロビに滞在した。 その体験記である。 先進国とは万事事情が異なるケニアの暮らしぶりと人の交際ぶりを、ユーモアを交えながら、いたずらに先進国の基準で裁断せずに綴った本。 或る意味、「いい加減な社会」 (これは中の小見出しの一つ) なのだが、そこに意味を見出すべきだ、という結論になるようである。 また、ケニアでも都市部に住む原住民は、野生動物を見たことがない、という記述に感慨を覚えた。

・藤原英司 『エルザとアダムソンの世界』(文藝春秋) 評価★★ 1977年に出た本。 新潟市立図書館蔵。 『野生のエルザ』 とその著者であるジョイ・アダムソン、そしてその亭主であるジョージについて解説した本だが、あまり中身が濃くない。 私は必要があって読んだのだが、『野生のエルザ』 そのものや、アダムソン夫妻それぞれの自伝を読んだ方がはるかに面白い。

8月  ↑

・ジョージ・アダムソン 『ブワナ・エルザ』(講談社、世界動物文学全集第15巻所収) 評価★★★☆ 新潟県立図書館から借りて読んだ本。 25年前に出版、原著はさらにその10年余り前に出ている。 かつて 『野生のエルザ』 で一世を風靡したジョイ・アダムソンの亭主が、長らくアフリカで狩猟監視官として暮らしてきた半生を綴ったもの。 英国人ながらインドに生まれ、やがてアフリカに渡って、金鉱探しや野生動物狩りなど、文字どおり放浪と冒険のなかで過ごしてきた人の体験談だけあって、なかなかに面白い。 私は必要があって読んだのだが、今ではこういう生き方はもう不可能になっているだけに、20世紀半ばくらいまでは可能だった一つの生の記録として貴重であるし、今でも単なる娯楽読み物として読んで十分に興味深い書物だと思う。

・酒井あゆみ 『セックスエリート――年収1億円、伝説の風俗嬢をさがして』(幻冬舎) 評価★★★ 今年の春に出た本だが、ネット上の古本屋から送料込み3割引で購入。 タイトルにある 「セックスエリート」 とは、風俗店で働く女性で、客の指名をダントツで多く受けている人を言うらしい。 実は著者も昔風俗店で働いていて、客の指名をあまり取れなかったというトラウマがあり、どういう女性が客に受けるのか、という問題に悩まされていたという。 というわけで、客観的なルポというよりは、著者の悩みを解決するためのルポ、といった趣きがある。 結局、問題なのは美貌とかプロポーションよりも、いかに客をリラックスさせ楽しませるかという営業的才能である、みたいな結論になるようだ。 その店でナンバーワンの風俗嬢だからといって特段の超絶技巧を駆使しているわけではない、ということ。 ワタシが唸った箇所――某風俗嬢のつけている日記の一節―― 「ある本に 『体だけでなく、心まで売ってませんか』 と書いてあった。 わたしは、この人は甘いと思った。 心を売らないで、何を売るのだろう、と」 

・E・サイード (大橋洋一訳) 『文化と帝国主義 第2巻』(みすず書房) 評価★★★☆ 大学院の授業で取り上げて学生と一緒に読んでみた本。 第1巻はイマイチだったが、第2巻はわりにまともである。 記述はあいかわらずゴタゴタしており、章ごとの重複も多いが、先進国の帝国主義――今なおメディアや価値観の次元で続いている――と、第三世界に蔓延しているナショナリズムを共に批判する姿勢で一貫しているからだ。 日本のサヨク知識人には、先進国のナショナリズムは過敏なまでに批判するくせに、第三世界――日本のそばなら中国や韓国――のナショナリズムには大甘なヤカラが珍しくないが、サイードはさすがにそうしたダブルスタンダードとはまったく無縁である。 これは、途上国の経済や文化的統合が進んでいない現在、けっして見逃せないところなのであり、先進国であれ第三世界であれきっちりと批判していく姿勢を見習うべき人間は、日本の知的世界にも多いと思いますけれど。

・仲正昌樹 『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書) 評価★★★★ 戦後の日本とドイツを思想面から比較した本である。 著者は金沢大学教授で、最近多数の著書を立て続けに出し、活躍が目立っている学者。 テーマ上、戦後処理問題から入るのは必然だが、このあたりは西尾幹二の議論を超えるものがなく、イマイチである。 しかし第2章以降はなかなか読ませる内容で、フィッシャーやノルテやゴールドハーゲンなどの歴史家の論争や、ハーバマスの憲法愛国主義や、ヘーリッシュやボーラーなどのハーバマス批判など、フランクフルト学派からポストモダンに至るまでのドイツ思想が分かりやすく、なおかつ戦後日本と比較されながら提示されており、また日本の戦後知識人の思想的特質にも十分光が当てられているので、たいへん勉強になる本である。 ドイツ現代思想に興味のある人、日本の戦後思想を距離をおいて眺めてみたい人にはお薦めできる。 

・デレック・ボック(宮田由紀夫訳) 『商業化する大学』(玉川大学出版部) 評価★★★ 著者は長年ハーヴァード大学の学長を務めた人。 この本は、タイトル通り、商業化する大学の実情を批判的に分析し、未来の大学のあり方を展望したもの。 私は演習で取り上げて学生と一緒に読んでみた。 アメリカの大学を論じているので、日本とは事情が異なるところがあり、例えばスポーツ学生の問題にかなり紙数が割かれているところなどは戸惑うが、大学には商業化しやすい部分とそうでない部分があり、或る程度の商業化は容認せざるをえないが、しかし大学というものの中立的な規範を守ることこそが世間の大学への信頼を保ち、長い目で見て大学の存立を保持する力になるのだ、ということを説得的に述べている。 昨今、日本の国立大も独法化で浮き足立っているが、大学幹部には是非一読し、大学というものの本質を見失わないように自戒して欲しいと思わせる本である。

・清水美和(よしかず) 『中国はなぜ「反日」になったか』(文春新書) 評価★★★★☆ 著者は中日新聞を経て東京新聞の編集委員をつとめる新聞記者。 ながらく中国報道に携わってきた。 これは戦後の中国が日本に対してどのような態度で臨んできたかを歴史的にたどった書物である。 最近、靖国問題をめぐって中国の反日的姿勢がニュース種になっているが、これは日本側だけの問題ではなく、中国はその時々の国際情勢や内部事情などによって日本に対する態度をを変えてきたのであって、そこに目を向けないと国際情勢の捉え方がきわめて単純かつ情緒的になってしまう。 この本は、毛沢東時代の中国が決して反日ではなく、それはマルクス主義理論がまだ有効だった時代には民族間の反目を強めるナショナリズムに頼る必要がなかったからであること、その後マルクス主義が勢いを失って、中国内部をまとめるためにナショナリズムに頼らざるを得なくなってきたこと、中国の指導者も他国に強く出ないと内部での指導力を問われてしまうという事情、などなど、多角的にこの問題にアプローチしている。 結論や胡錦濤への見方はちょっと甘いような気もするけれど、戦後の日中関係を考えたい人には必読書と言えよう。

・野間寛二郎 『シンバと森の戦士の国』(理論社) 評価★★★☆ 1967年に出た本。 中学生程度向けということになっているが (当時、読書感想文課題図書となった)、40年近く前のものだけあって、最近の子供騙し的な児童書とは違い、大人が読むに十分耐える内容である。 アフリカでケニアが独立するに際して、マウマウ団という、白人を敵視するテロリスト集団が暗躍したという話が、主としてヨーロッパのマスコミによって流された。 しかし、実際はこれはケニアの独立をめざす現地人の集まりであり、彼らが白人を殺した数より、白人が現地人を殺した数の方が圧倒的に多かったのである。 そうしたヨーロッパ人の偽善、ヨーロッパ中心主義のマスコミ、現地人の苦しみと戦いなどを、日本人の少年記者が日本人に伝えるという形式で書かれている。 独立後のケニアが決して順風満帆には行かないだろうというリアリスティックな予想がきちんと示されているところもすごい。 私は必要があって読んだのだが、古さを感じさせない上質の書物と言える。

・ジョイ・アダムソン 『エルザわが愛 ジョイ・アダムソン自伝』(文藝春秋) 評価★★★ 25年前に出た本。 古本屋でいつだったか¥700 (当時の定価は¥1500) で買ったままツンドクとなっていたが、必要があって書棚から取り出して読んでみた。 「野生のエルザ」 で一躍世界的に知られるようになった女性の自伝である。 オーストリアに生まれ、両親の離婚と、両大戦という激動の時代の影響から2度目の夫とアフリカに渡り、やがて3度目の夫となるジェームズ・アダムソンと出会って結婚、アフリカ各地を回るうちに、やがてライオンの子エルザを育て、名が売れ、世界中を講演旅行するようになるあたりまでを回想している。 著者はこの本を出した直後に現地人に殺されているのだが、そうした運命を含めて興味深いところが色々とある本である。 詳しくは別の機会にまた。

・岡崎久彦 『教養のすすめ――明治の知の巨人に学ぶ』(青春出版社) 評価★★☆ 明治期に近代日本を形成した偉人たち――福沢諭吉、西郷隆盛、勝海舟、陸奥宗光、安岡正篤――を、主としてその知的基盤がどのように形成されたか、またその教養が生き方にどう作用したか、という側面から、分かりやすく解き明かした本。 漢文的な教養が、自分が生きる倫理と切り離せないものであったために、困難な時期の日本を背負った彼らの背骨を形作った意味を重視すべきだという著者の主張はよく分かるし、内容的には、安岡正篤のことはほとんど何も知らなかっただけに教えられるところも多かったが、問題は著者がこの本を誰に向けて書いているかという点なのである。 著者によれば、これらの偉人たちは、生まれが貧しくても抜群の資質と想像を絶した努力とによって自らにふさわしい地位を獲得したわけだが、そういう資質の持ち主は限られているわけで――著者は、旧制第一高校にトップクラスの成績で入ったような人材について語っている――とすると、ワタシを含む大多数の日本人には無縁の本だ、という結論になってしまわないだろうか。 また、これらの偉人たちの業績は今の若い人には必ずしも明らかではないと思うから、その辺も含めて説明しないと、説得性が十分に出てこないのではなかろうか。

・遠藤浩一 『小澤征爾――日本人と西洋音楽』(PHP新書) 評価★★☆ 小澤征爾は世界的な指揮者として誰もが知る存在である。 しかし、日本人のクラシックファンのなかには、小澤なんて認めない、という人も結構いる。 この本は、小澤の音楽的特性を分析すると共に、日本人のクラシック音楽との関わり方について縷々自説を展開したものである。 小澤の音楽的特性についてはなかなか説得的なことを言っているように思われるが、日本人とクラシックの関係についてみると、日本人にはクラシックが結局分からないという見解と、フルトヴェングラーを批判してトスカニーニを称揚する価値観、そして本居宣長的な 「からごころ」 批判的な心情がしつこく、同じようなことを手を変え品を変えして述べているところが、いささかウザイ。 西洋盲従がよくないのは分かるけれど、排外的な心情と小澤擁護的な感性が癒着しているところが、どことなく歪んでいる気がするのだ・・・・。

・ジョイ・アダムソン 『野生のエルザ』(文藝春秋) 評価★★★☆ 英国人女性が夫とともにアフリカに渡り、そこでたまたま母を失ったライオンの幼い子供 (雌) をエルザと名付けて育てることになる体験談である。 40年あまり前に世界的なベストセラーとなり、日本でもずいぶん売れた本で、私は今回必要があって読んでみたのだが、奥付を見ると昭和37年7月に初版が出て、39年6月に34刷が出ているから、かなりの売れ行きだったのだろう。 だんだん成長して本能に目覚めるエルザを苦労惨憺の末に野生に返すまでの苦労が語られている。 ふつう、人間に育てられた野生動物は野生には帰れないと言われているが、エルザが最終的に野生に戻ったときの、著者の安堵と別離の悲しみが混じった複雑な気持ちはきわめて人間的であり、往時のベストセラーながら今読んでもそれなりに面白い。  

・浦沢直樹 『PLUTO 第1、2巻』(小学館) 評価★★★ 手塚治虫の 『鉄腕アトム』 の中の一巻 『地上最大のロボット』 をベースとし、それを浦沢流に脚色して新たな作品として 「ビッグコミックオリジナル」 誌に連載している長篇マンガの最初のあたりである。 筋書きの大筋は同じだが、細かいところや絵柄はだいぶ異なっている。 まず、原作では脇役の一人だったドイツのロボット刑事ゲジヒトを主人公にしていること。 発端がスイスのロボットモンブランが破壊された事件であるところは同じだが、それを調査し始めるゲジヒトが、しかしロボットであるにもかかわらず悪夢に悩まされるという奇妙さ。 ゲジヒトGesichtは、「顔」 という意味のドイツ語だが、「幻覚」 という意味もあって、その辺を浦沢が意識しているのかどうか。 またゲジヒトやアトムは、外見的に人間と変わらない姿で登場し、そのあたりも趣向として面白い。 いずれにせよ第2巻まではPLUTOははっきりした姿では登場せず、モンブランのあと、ノース2号とブランドが破壊されたものの、アトムやゲジヒトとの戦いはまだ行われていない。 この先どうなるかが楽しみだ。 

・小谷野敦 『帰ってきたもてない男』(ちくま新書) 評価★★★ 10万部を売ったというかのベストセラー 『もてない男』 の続編である。 続編を書く話はすぐにあったのだけれど、柳の下のどぜうを狙うのが嫌でしばらく書かないでいたとか。 しかし内容的には、この間いろいろな本に書き散らしてきたことと重複するところがあり、そればかりかこの本自体の中でも重複してしまっており (例えば伊藤整の奥さんが美人であることなど)、やや作りが粗雑な感じもするが、さすが小谷野氏と言いたくなるサービス精神に満ちあふれた箇所も少なくなく、まあ全体として前作ほどの切迫感=斬新さはなくて常識的な匂いがないでもないけれど、それなりに楽しんで読むことはできる本となっている。

・亀山健吉 『フンボルト――文人・政治家・言語学者』(中公新書) 評価★★★★ 25年以上前に出た新書であるが、大学改革を扱っている授業で前半部分を読んでみた――フンボルトはベルリン大学の創設者なので――ついでに、残りも自分で読了したもの。 フンボルトは名前は有名だが、その活動は多岐に渡っているのでなかなかまとまった記述がしにくい人である。 しかし著者は、ゲーテやシラーなどの文人との付き合いだとか、政治家としてあくまで自由主義を貫き、保守派の国王やハルデンベルク (この人、若い頃は改革の志に燃えていたが、やがて保守化したらしい) から煙たがられやがて解任される過程だとか、言語学者としてはあくまで単なる言語の様態を問題にしたのではなくそれを使う人たちの精神性との関連を問題にしたのだ、などなど、網羅的でありながら必要な場合にはつっこんで論じてくれているので、非常に分かりやすく面白い。 もっとも筆致は古典的であるが、あとがきで、フンボルトはなかなか気まぐれで気むずかしく、捉えがたいところもある、と正直に書いているのがいい。 この本を土台にして、よりリアルなフンボルト論が書かれることを祈りたい。

・渡辺裕/増田聡ほか『クラシック音楽の政治学』(青弓社) 評価★★★ 「クラシック音楽」 と呼ばれる音楽を、社会や他分野の音楽との関わりの中でとらえようとする試み。 7人の学者の論考を収めている。 冒頭の渡辺裕氏の「音楽の都ウィーンの表象と観光人類学」は、いわゆるウィーン風とされる演奏様式が実は20世紀半ば以降に成立したのであり、交通や通信が発達するなかで観光的なウィーンのイメージに合わせて成り立ってきたものであることを示している。 といって本質主義からそれを批判するのではなく、そもそも 「**風」 というのはそうした観光イメージと切り離せないし、またそれに冒されない本質が別にあるわけでもない、という達観した (?) 見方をしているところがミソ。 ほかの論考は著者により出来不出来が割りにある。 私としては最後の若林幹夫 「クラシック音楽の生態学」 もおもしろかった。 一方、加藤善子 「クラシック音楽愛好家とは誰か」 は、テーマは悪くないが、いかにも調査不足。 難しいテーマには違いないが、発表するにはちょっとどうかと思う。

7月  ↑

・中野孝次 『苦い夏』(河出書房新社) 評価★★★☆ 25年前に出た連作小説集をネット上の古書店から送料込み¥890で入手 (当時の定価は¥1200)。 著者の 『麦熟るる夏』 に続く自伝小説三部作で、「苦い夏」 「険しい朝」 「彷徨の夏」 を収めている。 『麦熟るる夏』 では、戦前貧しい大工の次男に生まれた著者がいったんは義務教育だけ終えて社会に出たものの、専検制度によって旧制第五高等学校 (現・熊本大学) に進むが、戦争になって兵隊に取られるまでを描いていた。 この 『苦い夏』 では、戦争に負けて熊本に戻ってきた著者が住むところを見つけるのにさんざん苦労する話から始まる。 そして東京帝大独文科に進むが、あいかわらず貧しいままで、アルバイトに苦労したり、美しい上流の令嬢から冷たくあしらわれたり、独文研究室でも都会の裕福な家に育った秀才たちと文化資本の差のせいでうまくつきあえなかったりする様が描かれている。 私は、中村真一郎 『女たち』 と同様、↓の高田里恵子さんの本で言及されていたので読む気になったのであるが、中村の小説より迫力があって面白い。 でも、貧乏を描くと純文学としての迫力が出るってのは、日本がまだまだ裕福であることに成熟していないからですかね。 それとも私も (中野ほどではないにせよ) ビンボーなほうだからかなあ (笑)。

・酒井健 『バタイユ――魅惑する思想』(白水社) 評価★★★★ 一昨年新潟大学に集中講義に来られた法政大教授・酒井健先生の新著である。 バタイユについての本であるが、網羅的・入門的にバタイユを扱うのではなく、その多面的な魅力を 「廻遊式庭園」 のように、なおかつ著者自身の私見をあえて交えつつ紹介し、読者の見識とぶつかって火花を散らすような書物たることををめざしたという。 きわめて意欲的な試みである。 「作品の道」への疑問、笑い、宗教、絵画はなぜ存在するか、肛門の意義、などなど多方面からのアプローチによってバタイユの、そして私たち自身の生の営みに肉薄する本。 決して面白おかしい書き方はしておらず、あくまで学究的な記述であるから、そのつもりで読まねばならないが、読んだ後は自分自身の生に新しい可能性のようなものがほの見えてくるような体験をすることができる。

・中村真一郎 『女たち』(中央公論社) 評価★★☆ 今から40年以上前、1961年に出版された小説をネット上の古書店から送料込み610円で買って読んでみた (ちなみに1961年当時の定価は¥280)。 なぜかというと、下の高田里恵子さんの本で言及されており、また竹内洋 『教養主義の没落』でも触れられていたので、興味を持ったからである。 内容は、戦前の旧制高校生 (のち帝大生) が裕福な友人の家庭に出入りするうちに友人の上の妹とお互い好意を抱くようになるが、どちらも気持ちをはっきり言えないでいるうちに彼女は他家に嫁いでしまう。 戦争になって友人は戦死するが、主人公は肺を病んで兵役免除となり戦後を生きながらえるうちに、やがて友人の二番目の妹と再会し・・・・・というような、戦前から戦争直後にかけての学歴エリートである男性が女性とどう関わりを持ったかを描いた小説。 作者が中村真一郎だけにあまりコクは感じられないが、まあ退屈せずに読むことはできた。 ただ、通俗小説すれすれの感じもする。

・今泉文子 『ミュンヘン 倒錯の都――「芸術の都」 からヒトラー都市へ』(筑摩書房) 評価★★☆ 13年前に独文学者が出した本。 思うところあって読み返してみた。 トーマス・マンを道案内人として、19世紀半ばころからバイエルン王の政策で文化的な都としての陣容を整えてきたミュンヘンが、第一次大戦後の革命による短期間のレーテ共和国を生む土台となり、最後にはヒトラーが浮上する都となってしまうまでを描いている。 うーん、それなりに知識は得られるが、特に第一次大戦以降のミュンヘンを、文学や文化からどの程度明らかに出来るのか、疑問なしとしないし、また著者の語り口がどうも物思わせぶりでいやらしい。 例えば <『ジンプリチシムス』〔雑誌名〕 の歴史の中でもっとも有名なあの 「パレスチナ」 号事件、(…)は、一体何だったのか> (127ページ) というような 「あの」 の使い方。 日本人読者が知っているはずもない事件にわざわざ 「あの」 とくっつける神経が私には分からない。 こういう 「あの」 がこの本には多いのである。 そのくせ、<あの斬新でモダン、かつどぎつい風刺性で有名なゲオルゲ・グロスが(…)」>(130ページ)とまたしても 「あの」 をくっつけて登場する風刺画家は、ご本人が望んだとおりに 「ジョージ・グロス」 と発音してすらもらえない。 なお、カフカがトーマス・マンについて 「対象への独特な、有益な愛情のうちにそれはある」 と言ったことを、カイザーからの引用で示しているが (255ページ)、カフカのこの言葉はマンの 『トニオ・クレーガー』 を評した書簡中の言葉としてわりに有名であることを指摘しておこう。

・薬師院仁志 『英語を学べばバカになる――グローバル思考という妄想』(光文社新書) 評価★★★☆ グローバル化の時代だから英語を学ばなければ、とか、英語が出来れば世界中の人間とコミュニケーションができるとか、英語の実力があれば国際的な起業が可能だとか、そういう発想を妄想だとして批判した本。 また、アメリカ的な考え方が決して普遍的なのではなく、同じ先進国でもフランスなどのヨーロッパとは大きな違いがあり、何でもアメリカの真似をすれば良くなるという考え方をも批判している。 私としては特に 「教育はサービス産業だ」 という、近年少子化にともなって日本でも急速に普及している(?)思考を批判したところが、我が意を得たりであった。 ちょっと引用すると、こうである。
  「軍隊は、兵士が嫌がっても厳しい訓練を課し、敵軍を殺すよう指導する。 裁判所は、無罪だとシラを切る被告にでも有罪判決を言い渡す。 そして、学校は、生徒が嫌がろうが不満を持とうが、しなければならない教育を義務として強制するのである。 (…) 教師の仕事もまた、正しいこと、知るべきことを教えることであって、生徒を満足させることではないのである。 / このような教育観は、ヨーロッパ特有の民主主義思想に基づいている。 学校は、知識や文化に触れる機会のない者たちに対しても、上からそれを平等に分け与える任務を担わねばならない。(…) / 現実問題として、書物に触れる機会、外国や外国語に触れる機会、美術や音楽に触れる機会は、生まれ育った境遇によって非常に異なっている。(…) 書物に囲まれた家庭もあれば、文字といえば漫画と競馬新聞しかない家庭だってある。(…) / そのような状況の中で、生徒や保護者の要望に合わせた教育を行えばどうなるか。 間違いなく不平等を固定化することにしかならない。 学問や文化と縁もゆかりもない家庭環境に育った子供たちは、だれか外部の者が強制的にでも教えてやらない限り、上流階級の仲間入りをするために必要な知識や教養を自ら望むことなどありえないのである。」
  というわけで、なかなか悪くない本だが、著者がフランス語で勉強した社会学者であるためか、フランス語圏への見方が甘いのが気になる。 アメリカが帝国主義なら、フランスだってそれ以前は (そして今でも或る程度は) 帝国主義だったのだ。 その辺に、日本人として距離をおく姿勢が求められる。

・高田里恵子 『グロテスクな教養』(ちくま新書) 評価★★★ なかなか変わったタイトルの本である。 教養論ではあるのだが、教養を論じるのは一筋縄ではいかず、また教養を扱った本は、「大正教養主義」 などがバカにされるわりには結構出ているので、いきおい、著者としても既存の文献を意識しながら論じないわけにはいかず、かなり含みの多い、時として曖昧な言い方を多用することになったものと推測される。   とはいえ、知的エリートの男の子にこそ必要とされた教養の実態をたどり、女の教養についても言及し、教養の悲惨さを知りながら、あとがきで 「私は押すに押されぬ立派な教養主義者」 とおっしゃる著者には、私も教養主義者の端くれのつもりなので、共感しました。 ところで、「押すに押されぬ」 って日本語、正しいんでしょうか? 「押しも押されもしない」 なら分かりますが・・・・

・E・サイード (大橋洋一訳) 『文化と帝国主義 第1巻』(みすず書房) 評価★★ 大学院の授業で取り上げて学生と一緒に読んでみた本。 いわゆるポストコロニアリズムの観点から、ヨーロッパの帝国主義がいかに当時の文学作品やオペラなどに反映しているのかを論じた本、のはずである。 しかしかなり問題が多い。 まず、時代性が反映されているというのであれば、芸術を目指した文学や音楽よりも大衆文学などの方が材料には適切なはずであるのに、なぜそうしないのか。 芸術という隠れ蓑のもとにその政治性が隠蔽されているのを批判すべきだとサイードは繰り返す (しかし政治性だけで芸術作品を裁断するのはいけない、とも繰り返す)。 それは分かるのだが、では具体的に芸術作品の政治性がきちんと暴かれているのか、というと、どうもそうはなっていない。 文学作品の本文に沿ってその政治性を丹念に検証していく作業があまりなされておらず、大ざっぱな物言いに終始しているところが、この本の説得性を低くしている。 繰り返しも多い。 いや、純文学作品の植民地主義を検証する作業をしている文献はいくつも挙げられているので、そういう本を読めばいいのかもしれないが、とするとサイードのこの本の存在意義はどこにあるのか、という結論になるのではないか。 

・嶽本野ばら『それいぬ――正しい乙女になるために』(文春文庫PLUS) 評価★★★☆ 98年に単行本が出、2001年に文庫化されたものを、BOOKOFFにて300円で購入。 どうでもいいけれど、定価が505円+税なのだから、BOOKOFFとしてはやや値付けが高めですなあ。 それはさておき、いささか古典的な乙女ちっくを金科玉条とする著者による、正しい乙女になるためのエッセイ集である。 これ、結構面白いのだ。 著者の独断と偏見による美学が貫かれており、ヘンに大衆に媚びていないところが買いである。 公女様は意地悪でなくてはいけないとか、乙女は私鉄やJRではなくあくまで国鉄のホームにたたずまなくてはいけないとか、バランスの取れたちょこざいな面白さを拒絶する決めつけが快感。 下の岸本葉子の、どうしようもない凡庸さに満ち満ちたエッセイとはレベルがまるっきり違う。 エッセイはこうでなければ。

・中条省平(編著) 『三島由紀夫が死んだ日』(実業之日本社) 評価★★ 三島由紀夫が自決して35年。 県立神奈川近代文学館で三島由紀夫回顧展が開かれたのを記念したアンソロジーだそうである。 鹿島茂や呉智英、猪瀬直樹、篠田正浩などが寄稿している。 しかし全体として、三島には遠く及ばない二流の人たちが超一流をネタにして本を出しました、という印象を免れない。 猪瀬の文章はまあ面白いけれど彼が出した単行本と内容的に異なっているわけではないし、瀬戸内寂聴など、こないだ 「九条の会」 を支援するような本を鶴見俊輔と出したくせに、一方で三島を持ち上げるような寄稿をこの本にしているのだから、定見の無さは救いようがない。 こういうどうしようもない輩にかつがれる三島が気の毒だ。

・中野雅至 『はめられた公務員――内側から見た「役人天国」の瓦解』(光文社) 評価★★★☆ 著者は同志社大文学部を出て、いったん某地方都市の市役所に勤務した後、国家公務員第1種に合格して旧労働省に入省し、現在は兵庫県立大学の助教授となっている人。 この本では、こうした経歴を活かして、バブル崩壊後とみに激しくなった公務員批判をクリティカルな視点から分析し、なおかつそれに対処する (無論、公務員が、である) 方法を考えている。 現在の日本は、国家や地方自治体の膨大な赤字を、公務員削減で乗り切ろうとしているが、日本の公務員の人口比での数は世界的に見てもかなり少ない (あの米国と比較してすら少ない!) のであり、無能な政治家が選挙民に媚びて無駄な公共事業を濫発したために大赤字になっているという事態を隠蔽するためにこそ公務員バッシングが横行しているのだと、冷静にして緻密に証明している。 しかし、国家公務員に比して地方公務員は恵まれているし人材にも乏しいという厳しい指摘もある。 これからは地方公務員バッシングが来るだろうとの予測もある。 そして最後に、公務員批判ばかりしている民間人を逆に批判している。 一読の価値が十分にある本だ。 ちなみにこの本、光文社ペーパーバックスというシリーズの第59巻で、ワタシはこのシリーズは初めて買ったけれど、横書き(!)で、おまけにキーワードには英訳まで付いている。 国際化時代の本だからか、はたまた日本人の英語コンプレックスはここまで来たということなのか・・・・・

・岸本葉子 『30前後、やや美人』(文春文庫) 評価★★ 96年に単行本が出、2000年に文庫化されたものを、BOOKOFFにて105円で購入。 小谷野敦氏がファンだという才媛のエッセイストによる本。 しかしすらすら読めはするものの、何も残らない。 というか、コクというかペーソスというか、何かを読み手の心に残らせるようなひっかかりがないのである。 短文ばかりのせいかもしれないけれど、一見面白そうでありながらどこか身を汚しきっていないような器用さが垣間見えるところが、その原因じゃないかという気がしましたけれど。

・長山靖生 『 「人間嫌い」 の言い分』(光文社新書) 評価★★☆ 半年前に出た新書をBOOKOFFにて半額で購入。 『若者はなぜ決められないか』 などが評判の作家によるエッセイ。 タイトル通り、「人間嫌い」 を自認する著者の哲学とでもいったものが披露されている。 ただし、世の中の人間が人間嫌いとそうでない人に二分されるということでは必ずしもなく、一人の人間の中に何割かは人間嫌いの要素が含まれているという柔軟な見方をしている。 それでいくとワタシなんぞはまず7割方は人間嫌いだから、まずまず共感しながら読みました。 でも、後半、種が尽きたのか、ちょっとずつ話がズレたり拡大したりしていくところが難点かな。

6月  ↑

・永井洋一 『スポーツは 「良い子」 を育てるか』(NHK生活人新書) 評価★★★ 1年前に出た新書をBOOKOFFにて半額で購入。 少年向けのスポーツも専門化が進んでいるが、そうした少年向けクラブやチームの弊害に光を当てた本である。 勝ち負けにこだわりすぎてかえって少年の情操教育にはマイナスであったり、指導者の言うとおりに動くばかりで自分で考えない傾向があるとか、運動神経の鈍い子供はクラブから排斥されるので弱肉強食の論理になりがちだとか、「スポーツ」 という、一見健全ですがすがしいイメージのある言葉が、子供向けスポーツ活動の専門化によりむしろ逆の方向に進んでいることに警告を発している。 なるほどと思う箇所が多いが、ただそういう傾向が子供の教育に害を与えると断定するためには、言葉や私的な印象だけでは不十分で、より実証的な研究が必要ではないかと思った。

・子安宣邦 『本居宣長』(岩波新書) 評価★★★ 13年前に出た新書をネット上の古本屋から購入。 本居宣長の『古事記伝』に焦点をあてて、彼の 「漢心を退ける」 という思考法がどのようなものであるのかを丁寧に解き明かしている。 いわば循環論法的な彼の論理が、国学と結びつく一方で、上田秋成などの国際派から批判されていく様子がよく分かる。 ただし内容はかなり細かいので、本居宣長入門書というにはためらいが残る。

・ジェフリー・ウォルフォード 『パブリック・スクールの社会学――英国エリート教育の内幕』(世界思想社) 評価★★★☆ 授業で取り上げて学生と一緒に読んでみた本。 原書は1986年に、邦訳は96年に出ている。 タイトルどおり、英国のパブリックスクールを社会学者が調査したもの。 パブリックスクールには神話も多いが、その当否も含めて、私立のエリート校がどのように動き、そこで教師や生徒はどんな意識を持っているのか、また時代による変遷はどうなっているのかなど、様々な視点から解明が試みられている。 著者の観察と記述は慎重で、一定の価値観から裁断するようなところもなく、また冒頭には訳者による英国教育システムの紹介も付いているので、パブリックスクールを知るには格好の書物だと思う。

・ロナルド・ドーア 『働くということ――グローバル化と労働の新しい意味』(中公新書) 評価★★★☆ グローバル化によって労働者の収入格差が広がりゆく中で、企業とは何なのか、成果主義は是か非か、資本主義の多様性、労働組合と企業との関係など、国際的な視点から労働者のおかれた状況を考えた本である。 アメリカの覇権によって、ビジネス・スクール的な発想法が各国から米国に留学するエリートたちにも感染し、いわば近代以前のヨーロッパにおいて貴族同士は国際的な結びつきを重視し自国の民衆とのつながりが希薄だった状態が再現されつつあるという。 著者の記述は、事態の複雑さを配慮して慎重であり、必ずしも歯切れがよい部分だけではないが、多方面に目配りが効いているし、それだけこの問題が難しいものであることが読んでいて納得できる。 一読に値する本だと思う。

・パトリック・ズュースキント 『コントラバス』(同学社) 評価★★★☆ ドイツの作家ズュースキントが1980年に一人芝居用に書いた脚本の邦訳。 翻訳は10年以上前に出ているが、私の自宅でツンドクとなっていた。 管弦楽団のコントラバス弾きが、オーケストラの中での自分の位置や、思いを寄せるソプラノ歌手について語るという設定。 洒脱な語り口で、長さは中編小説程度だが、一気に読了することができる。 ドイツ文学には珍しい面白さである、というと変なほめ方になるかなあ・・・・。

・小川裕夫(編著)『日本全国 路面電車の旅』(平凡社新書) 評価★★★☆ タイトル通り、日本全国の路面電車のある都市を訪問し、その電車に乗った体験記を集めた本である。 昔に比べると路面電車を持つ都市は減っているが、近年、ヨーロッパでは環境にやさしい路面電車が見直されており、また日本でも一部で区間延長などの動きもあって、ここにきてこの交通形態が注目を浴びているのである。 とはいえ、各都市の路面電車は生き残りのためにそれぞれ様々な工夫をしており、外国製の車両を有する都市も複数あるし、運賃の値下げで乗客確保を図る都市もあるなど、あの手この手の努力が涙ぐましい。 巻頭にはカラー写真も数ページ載っており、旅行記と合わせ、読んで楽しく見て楽しい書物となっている。

・新井潤美(めぐみ)『不機嫌なメアリー・ポピンズ――イギリス小説と映画から読む 「階級」 』(平凡社新書) 評価★★★★ イギリス人の階級意識、主としてアッパー・ミドルとロウアー・ミドルの確執を、小説と映画を材料にして読み解いた本。 『エマ』 『ジェイン・エア』 『メアリー・ポピンズ』 『レベッカ』 『眺めの良い部屋』 などを取り上げている。 また、日本ではSFとして有名なウェルズの 『タイム・マシン』 からも実は労働者階級の影が読みとれるし、『ハリー・ポッター』 にも階級の要素が見られるのだという。 おかしなくらい階級にこだわる (こだわっていた) 英国人の悲しいおかしさがよく分かる本として、お薦めである。

・文藝春秋(編) 『洋画・邦画ラブシーンベスト150』(文春文庫ビジュアル版) 評価★★★ 15年前に出た文庫をネット上の古本屋から購入。 恋愛映画を、その名シーンと名セリフに重きをおきながら写真入りで紹介した本。 1930年代の 『モロッコ』 『未完成交響楽』 から、1981年製作の日本映画 『駅 station』 まで、様々な作品がとりあげられている。 識者の簡単なコメントなども併録されており、色々な楽しみ方ができる。 私の発見は、オーストリアの作家S・ツヴァイクの短篇 『見知らぬ女からの手紙』 が 『忘れじの面影』 というアメリカ映画 (1948年製作) になっていたこと。 ただ、この本では原作と原作者についてはまったく触れておらず、もしかして編者も知らなかったんじゃないか、と思う。 このあたり、映画関係者の文学的素養が問われるところですな。 

・モア・リポート班(編) 『モア・リポート――新しいセクシュアリティを求めて――』(集英社文庫) 評価★★★ いつだったか古本屋の店頭で20円にて購入。 1983年に単行本が出、その3年後に文庫化されたもの。 雑誌 『モア』 誌上でのアンケート調査に基づいて、日本女性のセクシュアリティを解明しようとした書物である。 先日たまたま本棚の整理をしていたら出てきたので、読んでみた。 この本は出た当時、女性のマスターベーションの実態だとか、男性との性交時に 「達した」 フリをする女性が多いという事実を示したことから衝撃的な受け取られ方をしたように記憶するが、まあ女性のセクシュアリティも一様ではなく色々だということを一般に広く分からせた功績は大きいと思う。 ただ、特定の (読者層がそれなりに限定されている) 雑誌のアンケート調査であるだけに、これがどの程度普遍性を持つかは?マークであるし、編集部のまとめ方にも多少のイデオロギー臭を感じないでもないが、一読に値する本ではあろう。 

・バレンボイム + サイード 『音楽と社会』(みすず書房) 評価★★★ ピアニスト兼指揮者として活躍しているユダヤ人バレンボイムと、ポストコロニアリズムの学者として活躍し一昨年没したパレスチナ人サイードの、音楽と社会をめぐる対談集。 原書は3年前に、邦訳は昨年夏に刊行。 私はこないだ東京の古本屋にて定価の3分の2で購入。 バレンボイムは、日本のクラシック音楽界では必ずしも高く評価されていないような感じがするが、これを読むと、現場でどういうふうにものを考えながら仕事をしているかがうかがえて興味深い。 サイードも、その著作からは時としてかなり単調なイデオロギー批判者とも見られるが、ここでは音楽という微妙な領域がテーマになっていることもあり、矛盾含みの発言をしているところが面白い。 なお、細かいことだが、訳の疑問点を挙げる。 〔ユダヤ人収容所〕ブーヒェンバルト → ブーヘンバルト(9ページ)、ワーグナーの歌劇〔ミュージック・ドラマ〕 → ワーグナーの楽劇(55ページ)

・伊藤勝彦 『愛の思想史』(紀伊國屋新書) 評価★★★ 40年前に今はなき紀伊國屋新書として出た本を、東京の古本屋で150円にて購入。 著者は1929年生まれだから、当時30代半ばの北大哲学科助教授である。 キリスト教的な精神の愛と異教的な性愛との葛藤を主軸として、D・H・ロレンス、ジイド、トルバドゥール、ゲーテと 『西東詩集』、フロイトなどを取り上げている。 40年前の本だけれども、内容的には古びてはいない。 といっても現代風というのでもなく、哲学者の本は時代の細かい流れに左右されないのだ、という原理原則の見本みたいな印象がある。 とはいえ、最後近くで、フランクルの指摘を引きながら、今日では生物学主義・心理学主義・社会学主義が支配的で、それ故人間は宿命的な決定論に捕らわれているのだとするところは今もその通りだなと思うし、フロイトの性還元理論はヨーロッパ文明の欺瞞的な精神主義への批判としてあったけれど現代では安易な原初的存在関係の中に生きる人間の自己正当化につながるとするところは、東浩紀の 「動物化するポストモダン」 を想起させ、オーソドックスな哲学書の射程距離の長さを思い知らされもするのである。 ちなみにネットで調べてみたら、この本は最近講談社学術文庫として復刊されたようである。

・金子隆一 『ファースト・コンタクト――地球外知性体と出会う日』(文春新書) 評価★★★★ 6年半前に文春新書創刊第一弾の一冊として出た本。 東京の古本屋にて300円で購入。 タイトルどおり、宇宙人とのコンタクトについて書かれている。 といっても内容はきわめて科学的かつ真面目であり、トンデモ本の類とは一線を画している。 私はこういう本が好きで、非常に面白く読むことができた。 宇宙人探索の歴史を古代からたどり、最新の科学技術を活かした宇宙人探索の現状紹介も詳しく、内容的にきわめて豊富である。 ちなみに、この種の研究には日本政府や日本企業は全然カネを出していないそうで、実利に直結する学問しか重んじない日本人の体質があらためて浮き彫りにされているよう。 残念なことですね。

・長山靖生 『若者はなぜ 「決められない」 か』(ちくま新書) 評価★★★ 1年半前に出た新書を古本屋で105円にて購入。 パラサイトシングルなど、「自己実現」 をだらだらと延期しながらフリーターとして生きている若者たちの分析、および彼らへの呼びかけである。 消費社会の中で自分の能力や可能性を厳しく見つめることなく、それなりの自己研鑽を積むこともなく、何となく漠然とした期待だけを抱きつつ、定職に就かず結婚もせず子供も作らずに中年のとば口にさしかかっている人々へ警鐘を鳴らしている。 高所からものを言うのではなく、自分の生涯にも触れながら、しかし言うべきことははっきり言うという著者の姿勢がなかなかいい。

5月  ↑

・松浦理英子 『ナチュラル・ウーマン』(河出文庫) 評価★★★☆ BOOKOFFにて105円で購入 (ちなみに、最初普通の棚では300円なのを見て、定価が500円なのに高いなと思って105円コーナーで探したら同じ本があったもの)。 女性同士の愛を描いた三部作で、単行本は1987年に出ている。 といっても、ポルノのレズものとは違い、普通の異性愛には違和感を持つ女性同士の、独特の感覚に根ざした関係が、ステレオタイプを排して真正面から丹念に捉えられている。 文章も上手で、私はこの作家は初めて読んだけれど、最近もてはやされる若い女の子の小説とはレベルが違い、かなり力量のある人だと感心した。

・斎藤孝 『座右のゲーテ』(光文社新書) 評価★★★ ゲーテの 『エッカーマンとの対話』 を愛読するという著者が、そこに見えるゲーテの 「生きる知恵」 のようなものを抜き出して解説した本。 分かりやすく書かれているから読めば分かる、で済ませてもいいのだけれど、そこからほの見える斎藤氏の主義のようなものがちょっと面白い。 要するに正当派教養主義、なのである。 例えば美術なら、日本人が好む印象派よりも、デッサンや色彩がちゃんとしている古典派を観るべきだ、という。 磯田光一言うところの (斎藤氏は磯田の名は出していないが) 「正統なき異端」 への傾きを日本人が持っていることに警告を発しているようだ。 ゲーテが、自分の作品はごく少数の人間にしか分からないだろう、と言ったことを強調しているのも、なかなか反時代的でいい。 ワタシのようにサブカル教師に転向している語学教師に囲まれていると、よさが一層身にしみます、はい。 それにしても、こういう本を教育学者に書かれるようじゃ、ゲルマニストもおしまいですなあ。

・芦辺拓 『真説ルパン対ホームズ』(原書房) 評価★★★☆ 5年前に買ってツンドクになっていたパロディ・ミステリー集。 かの有名なルパンとホームズが共演する表題作を始め、ファイロ・ヴァンスとエラリー・クイーンその他が共演したり、明智探偵と二十面相が共演したり・・・・・・最後は探偵小説の鼻祖であるポーの 『モルグ街の殺人』 の別解で締めくくっている。 それぞれ文体や使用漢字にもこるなど、才気に満ちた作品集である。

・山田昌弘 『希望格差社会』(筑摩書房) 評価★★★★ 話題の本を、ネット上の古本屋から半額で購入。 グローバル化によって単純労働の大半が国外に移転してしまうなか、日本国内では高度な産業に適応できる勝ち組と、そうでないフリーターなどの負け組に二極分解してしまい、負け組は結婚もできないし子供も作れない、といった暗い未来像を描いた書物である。 多方面の資料を提示して、産業構造の変化だけでなく、ひきこもりなど心理的な問題をも視野におき、説得的に議論を展開している。 少し説明が明快すぎる感じもする――例えば戦後の日本はバブルまでは希望が持てる社会だということになっているが、果たして事後にそう捉えるほど当時の人間は希望に満ちていたのか――が、一読に値する内容である。 最後に処方箋も提示されているけれど、ここが一番説得力に欠けていました(笑)。 でもまあ、未来予測ってのは当たらないものですから、希望を捨てずに頑張りましょうよ。 ただしいつまでもフリーターでいたり親がかりでいるのはやめようね。 

・井崎正敏 『ナショナリズムの練習問題』(洋泉社新書y) 評価★★☆ ナショナリズムを単なる悪と決めつけるのではなく、近代社会においてそれなりに必要な要素として認め、しかし排外的な側面を排除して健全なナショナリズムを育成するにはどうすればいいのかを考えた本。 基本的なコンセプトとしては悪くないし、欧米のナショナリズム研究は最近かなり進展しているのだそうで、多少その紹介があるのもいいのだが、全体として物足りなさが残るのは、著者が自分の頭でモノを考える能力に欠けているからじゃないか、という感想を失礼ながら抱きました。 例えば学校教育では必要最低限のことを教えておいてあとは個人の自由に任せろとか――そうなると子供の親の資本格差が露骨に出てくるって批判が苅谷剛彦なんかからとっくに出されているでしょ――、北朝鮮の拉致問題では吉本隆明の言うように補償だの何だのは一切求めないという条件付きで拉致被害者を北朝鮮から返してもらうのがいいとか――そういう条件を提示して北朝鮮が素直に応じる国ならこの問題はとっくに解決してますって。 そういう国じゃないから交渉が難航するんでしょ!――相当にオカしい。 欧米のナショナリズム研究の紹介に徹してくれた方が良かったと思うぞ。

・西尾幹二 『人生の深淵について』(洋泉社) 評価★★★★☆ 西尾幹二氏の人生論である。 人間の醜悪さや弱さを見据えて、しかしそれを斬り捨てるのではなく、人間というものが宿命的に悪や弱さを抱え込んで生きていかなければならないことを平明な文章で解き明かしている。 西尾氏には多方面の著作があるが、政治的な理由から氏の著作を読んだことがないという人には、是非この本から入るよう薦めたい。 「羞恥について」 「孤独について」 「退屈について」 など、人間の本性をえぐり出す11の章から成っている。 そしてこの本に得心がいく人ならば、氏の政治的な文章にも決して違和感を覚えることはないであろう。 氏の政治論の根底にあるのも、この人間知であるからだ。

・斎藤環 『 「負けた」 教の信者たち――ニート・ひきこもり社会』(中公新書ラクレ) 評価★★☆ 『中央公論』 誌の時評を本にしたもの。 著者は精神医学者。 毎日新聞でも論壇時評などに登場しているので、どんな人なのかと思って読んでみたのだが、ニートやひきこもりなど、現代社会の抱える若者たちの病理についてそれなりに知識は得られるものの、現代社会がよく分かるというところまでは行っていない。 むしろ、心理学者特有のどうしようもなさ (例えば、保守主義者はサヨクを叩くことで実はサヨクに依存している、というような、あってもなくてもどうでもいい分析など) から免れていないし、また 「モジュール化」 についての説明を読んでも、それが従来の 「分業」 とどう違うのかよく分からない。 当方のオツムの限界からかもしれないが、著者が自分でもよく理解しないで書いているからじゃないか、という気がする。 全体として、香山リカ・レベルからそれほど隔たっていない感じ。

・野田宣雄 『二十世紀をどう見るか』(文春新書) 評価★★★★☆ 6年余り前に出た新書を古本屋にて100円で購入。 しかしもう少し早く読んでおくべきだったと思った。 つまり、中身が濃いから、ということである。 国際連盟を作ったアメリカのウィルソン大統領が民族自決主義を唱えたことは誰でも知っているが、その理念と現実の食い違いから始まって、20世紀を支配した、一方の社会主義、他方の民族国家独立の流れが、20世紀の終わりに至って、一見大きく姿を変えているように見えながらも、実は古来の 「帝国」 と 「エスニー」 のせめぎ合いの中で国際政治が動いている様を見事に描ききっている。 ハンティントンの 「文明の衝突」 を参考にしながらも、あらたな京都学派を形づくらんとするかのような、意欲と博識に支えられた好著と言える。 

・樋口隆一 『バッハ探究』(春秋社) 評価★★★★ 12年前に出た本を新潟のBOOKOFFで半額にて購入。 バッハ研究家による専門書だが、一つのテーマで書き下ろしたものではなく、折に触れて様々な媒体に発表した文章をまとめている。 したがって内容的には多様で、バッハに多少とも興味のある人なら自分なりに楽しんだり、教えられたりすることができるだろう。 バッハ研究がかなり国際的になっていることや、バッハ演奏家もアジア系も含めて幅広くなっていることもうかがえる。 バッハという芸術家が世界的な規模で受容されr研究されていることがよく分かる本である。

・間宮陽介 『市場社会の思想史――「自由」 をどう解釈するか』(中公新書) 評価★★★☆ 6年前に出た新書を船橋のBOOKOFFにて半額で購入。 内容的には経済学の入門書といった趣きで、アダム・スミス皮切りとして、近代の主たる経済学者が経済や市場の仕組みをどう捉えようとしたかが、分かりやすく説明されている。 もともと放送大学用に執筆された教科書をもとに書き直した本なので、私のような経済学音痴(?)にも理解が容易であった。 また、単に経済学の概説書であるにとどまらず、副題にあるように、人間の自由というものをどう捉えるかという根源的な問題が経済学には含まれていることも分かって、勉強になりました。

・浦雅春 『チェーホフ』(岩波新書) 評価★★★★ 2004年はチェーホフの没後100年だったそうである。 昨年12月に出た本書は、タイトル通り、この作家の魅力を様々な面から明らかにしようとしたものだ。 ドストエフスキーやトルストイといった大作家の退場後に登場したチェーホフの、屈折して分かりにくい作品の内実に多方面から光が当てられていて、参考になる。 私個人の思い出を記すと、中学時代、文学に凝り始めていた私に、同級生が 「高校生の姉が好きなんだ」 と言ってチェーホフを貸してくれたが、私にはさっぱり面白く感じられなかった。 それから数年後、大学生時代に某社の世界文学全集の 「チェーホフ」 2巻を購入して通読したが、やはり全然面白く感じられなかった。 私にとってロシア文学とは一にも二にもドストエフスキーであり、チェーホフとはどうしようもなく相性が悪いのだと悟ったものだった。 あれから30年、そろそろチェーホフを再読する時期なのだろうか。

・大塚英志 『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社) 評価★★★★ 650頁、定価2800円(+税) という大著を、インターネット上の古本屋から送料込み半額で入手。 分厚い本なので先月から少しずつ読み進め、3月末から4月初めにかけて残り半分を一気に読了。 著者が以前出した 『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』 の続編、もしくはそれをふくらませたような本である。 江藤淳のサブカルチャーに対する態度の検証から始まって、戦後文学とサブカルチャーとの複雑な関係、もしくは戦後文学におけるサブカルチャー的なものを様々な角度から分析している。 中上健次の知られざる作品におけるサブカルチャー(そしてそのため作品自体が失敗に終わっていること)、村上春樹と村上龍の位相、フェイクとしての三島由紀夫、石原慎太郎文学への批判、などなど、盛りだくさんな内容だ。 私としても教えられるところが多かったが、著者の核心にある 「少女フェミニズム的な戦後」 を無条件に肯定しかねる当方としては、一番肝腎のところを分析できていないのでは、という不満も残った。 その欠陥は、山田詠美や吉本ばななの作品分析が、必ずしも説得的でないところに端的に現れているような気がする。 とはいえ、値段分の価値は十二分にある。

4月  ↑

・伊藤進 『ほめるな』(講談社現代新書) 評価★★ 著者は心理学者。 教育において 「子どもはほめると成長する」 というイデオロギーがあるとして、それを真正面から批判しているのが本書である。 まあ、なるほどと思える本ではあるのだが、ほめると成長に悪影響を及ぼすという主張をするにはデータがいささか不足していて、単に著者の見聞を都合よく解釈しているだけではないか、という気もした。 ただし、65頁に心理学者レッパーの報告として、絵が好きな子供に褒美付きで絵を描かせる場合と、無償で絵を描かせる場合との比較があって、そこはなかなか面白かった。

・諏訪哲二 『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ) 評価★★★★ かつて「プロ教師の会」で活躍した諏訪氏の本である。 長年高校教諭を務め、2001年に停年退職している。 この本は2部から成っており、第1部では諏訪氏のこれまでの著作活動の集大成のような形で、子供の変質と教育の困難さを論じている。 その辺はこれまでの氏の著作と重複する部分が多いし、また必ずしも氏の意図がうまく言えていない印象がある。 しかし第2部になると筆致がさえ渡り、非常に面白くなるのである。 すなわち、宮台真司や上野千鶴子といった社会学者の教育論を、現場を知る教師の立場から批判しており、氏にかかるとこれらの社会学者がいかに現場を知らず空理空論を吐いているシロウトに過ぎないかが痛感されてくる。 教育(だけではないが)はそれだけ複雑なのだ。 その複雑さを痛感させてくれる貴重な本と言える。

・石浦章一 『東大教授の通信簿――「成績評価」 で見えてきた東京大学』(平凡社新書) 評価★★ 筆者は生化学・分子生物学専攻の東大教授。 この本は、最近の大学改革で盛んになってきた学生による授業評価を紹介したものである。 東大の学生が東大の授業をどう評価しているか、という、いわば週刊誌的な興味をそそるようなタイトルではある。 この種の試みはまだ始まって日が浅く、この本でも著者は時として学生の味方をして同僚を批判し、時として学生を批判して勉強時間が少ないと叱責しているが、何となく一貫性がなく、自分に都合のいいような解釈に流されているのではないか、という気もする。 要するにまだ試行錯誤の段階なのだ。 また、教師年齢と学生年齢の差が開くとどうしても評価が落ちることなどは、すでに予備校教師によって指摘されており、著者自身、もっと勉強が必要だろうと思う。 最近の 「学生=消費者」 論に乗って、一部では学生に人気があればすべて良し、という風潮が生まれてきているが (私の身近なところにもそういう教師が複数いる)、教育にあって学生を消費者と見なす考え方には無理があるというのが私の見解である。 といって、この種の調査が無益だというのではないが、少なくとも学生が卒業して20年くらいたつまでデータを集め続けないと本当に有効な結論は出せないのではないか。 なお、著者は授業の持ちコマ数が、なんと、前期2コマ、後期3コマなのだそうだ。 合計5コマ。  「かつては8コマ持ったこともありますので、このくらいで驚いてはいけません」 って、石浦先生、そりゃ驚きますよ、余りに少なくて!! ワタシなんぞは、2004年度は前期7コマ、後期6コマの合計13コマでしたぞ。 新潟大学人文学部には、ワタシよりもっと沢山コマを持っている方もいるのです。 どうか驚いて下さい!!

・藤原明 『日本の偽書』(文春新書) 評価★★★ 『竹内文献』 や 『東日流外三郡誌』 といった偽書をとりあげて、その成立を推測し、あわせて偽書の偽書たる所以を説明した本である。 『先代旧事本紀』 といった、かなり古い偽書の紹介もあって、偽書がそれこそ神世の昔からあったのだと納得できる。 また、最後で『日本書紀』そのものに偽書ができあがる仕組みが内蔵されていた(『日本書紀』が偽書だ、というのではないので、お間違えなく)、という注目すべき主張を行っている。  

・小谷野敦 『恋愛の昭和史』(文藝春秋) 評価★★★☆ 以前 『〈男の恋〉の文学史』 を著した著者がその続編を出した。 タイトルには 「昭和史」 とあるが、明治末から大正期にかけての「家庭小説」から始まって、小説を主な材料としながら、近代日本の男女の恋愛・結婚・純潔のあり方とその変遷をたどっている。 著者は軽いエッセイや、研究書ともエッセイともつかない類の本をも出しているが、これは真面目な研究書であるからエッセイのように面白おかしくはないけれど、膨大な小説などを読破して展開される議論には瞠目すべき点が少なからずあると思う。 また、近代文藝の中にも国文学者が手を着けていない分野がかなりあるのだと知って、意外の観に打たれる。

・内田樹 『子どもは判ってくれない』(洋泉社) 評価★★☆ 1年半前に出た本。 『おじさん的思考』 などが結構面白かったので今さらながら新本で買って読んでみたのだが、残念ながら印象はイマイチである。 コンセプトは 『おじさん的思考』 などと基本的に同じで、左翼的な思考をかなり残しつつも現実に対応した考え方をどのように再構築すればいいのかを著者なりに模索していく、といった体のもの。 ここではそれが、教科書民主主義的な、或いは教科書を蹴飛ばした (?) 援助交際的な思考をしかできない子供たちに、大人になるための思考とはどういうものなのかを、高所から説くのではなく、一緒に考えていこうね、といったスタンスでなされている。 『おじさん的思考』 などもそうだが、うなずけるところと首をかしげるところが併存している。 ただ、私としては、今回で著者の底が見えた、もう読まなくてもいいな、という気がした (でもこの人の書いた映画の本は買ってしまっているので、それはそのうち読みますけど)。 それは、国というものはとにかく社会的な生活を営む上での基礎になっているから、自分も日本という国を背負っている身だと思うので、中国や韓国の人から謝罪しろと迫られたら素直に謝ってしまいます、と言っているあたりに露呈している。 まあ、それはそれでいいが、じゃあ、北朝鮮人に拉致問題で謝罪しろと迫るとか、米国人に原爆を落としたことを謝罪しろと迫るといった行為に著者が及んでいるかというと、全然なのである。 要するに、謝罪するときだけ日本を背負い、相手に何かを要求する時には背負わないのですね、この人は。 これでも著者は、自身の言うところでは 「ネオソフト・ナショナリスト」 に業界内部では分類されているのだそうであるから、驚くではないか。 そりゃあ、「業界」 が非常識なんですよ、内田先生 (笑)。 その分類でいくと、私なんぞは 「極右危険分子」 とか何とかに分類されそうだ。 ・・・・おお、コワ(笑)。

・日垣隆 『売文生活』(ちくま新書) 評価★★★ ジャーナリストの著者が自分の売文生活を収支決算と共に報告した本、かと思ったらそうではなく(自分にも多少は言及しているが)、夏目漱石から始まった日本の近代売文業を、漱石のほか何人かの作家やジャーナリストを例に挙げながら、その収入を検討し、生活ぶりを評価した本なのである。 結論から言うと、作家業は昔は結構実入りが良かったらしい。 一般庶民は持ち家など持てなかった時代に、南限も家を持っていた、なんて作家もわりにいたそうな。 言い換えれば、原稿料は卵と一緒で、ここのところさっぱり上がっていないのだそうである。

・浜野保樹 『模倣される日本――映画、アニメから料理、ファッションまで』(祥伝社新書) 評価★★★ 新書ブームで、ついに祥伝社が新書に進出した。 その第一弾の一冊がこれ。 タイトル通り、日本の文化が世界中に広まっている様を検証している。 ただ、前半と後半がやや論調が異なっていて、前半はアニメなどのオタク文化が世界を席巻する、というサブカル礼賛論に近いのだけれど、後半になると伝統的な日本文化の意義を力説する一種の日本伝統文化礼賛論となり、スーツは日本人には合わないから着物でいくべきだとか、そういう、良くも悪くもナショナリスティックな書き方に傾いてくるところがある。 ちなみに裏表紙の著者近影では、着物姿で写っており、最初のアニメのあたりを読んでいる時は 「???」 と思っていたが、後半に至ってその理由が分かりました。

・山田雄一郎 『英語教育はなぜ間違うのか』(ちくま新書) 評価★★☆ 現代日本における英語教育のあり方、そして英語を小さい時からやらせなくては、という風潮を批判した本である。 著者は言語政策・英語教育学者。 全体のトーンには同調できるのだが、とにかく英語をやらせなくては、という世の風潮への批判として説得的に書けているか、というと、イマイチの感じなのである。 むしろ茂木弘道『文科省が英語を壊す』(中公新書ラクレ)なんかに一歩も二歩も劣っている。 ただし後半、ALT、つまり英語のネイティヴスピーカーを誰でもいいから配置しておけば日本の英語教育はよくなる、という何ともいい加減な文科省・教育委員会の政策を批判しているあたりは、なかなか良く書けている。

・坂本多加雄 『スクリーンの中の戦争』(文春新書) 評価★★★☆ 2002年秋に52歳という若さで世を去った政治学者・坂本氏は映画好きでもあったらしい。 この本では、いくつかの映画をとりあげて、その中で戦争がどのように描かれているかを、戦争に関する歴史学的な知識を交えて分かりやすく解き明かしている。 といっても堅苦しい本ではなく、映画の楽しみのようなものにも十分配慮が払われており、また作品の選定自体にこの碩学の見識と映画鑑賞眼がうかがわれて、まことに興味深い。 

・草野厚 『テレビ報道の正しい見方』(PHP新書) 評価★★★☆ 4年あまり前に出た新書をBOOKOFFにて105円で購入。 いわゆるメディアリテラリシーを扱った本で、テレビ報道が偏見や作為を含みがちであることを、いくつかの事例をもとに論じている。 NHKドキュメンタリーによる日本のODA報道が反政府的な予断をもって作られていることや、民放各社のニュース番組がそれぞれの長所と欠点を持っていることが、何人かの研究者との共同作業により明らかにされている。 テレビ記者の育成は新聞記者のそれに比べてお粗末だという指摘が興味深い。 また、テレビ報道の偏向やそれによって蒙った迷惑に対処するにはどうすればよいかについての提言もなされており、一読に値する本である。 

3月 ↑

・北尾トロ 『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』(ちくま文庫) 評価★★★ 4年ほど前のハードカヴァーを文庫化したもの。 ライターでもある著者が、インターネット上で古本屋を始めたいきさつ、およびその成り行きを書いている。 ネット社会になってからこういう商売に手を染める人が増えているので、自分もやってみたいと思う人には参考になろう。 私も大学をやめたら、始めてみようかなあ。 でも、著者は東京に住んでおり、既存の古書店などからのセドリを結構やりながら商売をしているので、地方都市では難しいだろうか・・・・・。

・西尾幹二 + 八木秀次 『新・国民の油断』(PHP) 評価★★★★ ジェンダーフリーを徹底的に批判した本である。 平成11年に 「男女共同参画社会基本法」 なる法律が国会で成立した。 ところがこの法律、先鋭的なフェミニストが 「こんな過激な法律、よう通したな」 と評するシロモノであった。 そしてこの法律に基づいて、お役所や学校が信じがたい政策や教育をし始めたのである。 トイレの男女別はイケマセン、というような、ちょっと常識はずれの主張をする社会学者が紹介されているけれど、まあそういったおかしなおかしな例が沢山紹介されている。 問題は、それが一部の過激な思想家や非常識な社会学者の主張ではなく、中央省庁の役人や小学校の先生にまで浸透しているところなのだ。 まあ、私はフェミニストというのは 「違いが分からない女 (男)」 だと思うけど、違いが分からない人間がこれほど多くなると社会全体がおかしくなる。 その辺の 「違い」 を大切にしたい人にとっては必読書であると思う。

・伏見憲明 『〈性〉のミステリー』(講談社現代新書) 評価★★★ 8年近く前に出た新書をBOOKOFFにて105円で購入。 この著者の本は以前 『クィア』 を読んで面白かったので買ってみたのだが、内容的には、まあ大同小異である。 男女の性別というものが世間で思われているほど確固とした境界線で仕切られてはいない、ということを、性転換者や女装趣味者、おかま、等々への取材を元にして語っている。 そこそこ面白いのは確か。 ただ、問題は、そうした性のゆらぎみたいなものが誰にでも或る程度はある――例えば女装をしてみたいという気持ちは私にも多少はあった――ということと、それが社会で生きていく上での性役割を変えるべきだという主張との間には差がある、ということに著者がどの程度自覚的なのか、という点である。 むろん、著者はかなり慎重な書き方をしており、一部の単純なフェミニストのようなジェンダーフリー的な主張はしていないが、例えばジョン・マネーの 「男女の性別ごとの特徴は後天的な刷り込みで決まる」 という主張を途中であっさり受け入れており(166ページ)、しかし後になってマネーの説の誤りが証明されたことに言及するなど(195ページ)、記述自体が混乱しているのだ。 また、性転換者やおかまが、全人口のどの程度の割合を占めるのかも問題だろう。 いくら例外的な現象を書いても、例外で全体を規定することはおかしいのだから。 私の意見では、こうした性的な例外者の記述は、あくまで個別的な事例としてなされるのが良く、それを一般論に持っていくことには禁欲的であるべきではないか。

・李策 『激震! 朝鮮総連の内幕』(小学館文庫) 評価★★★ 2年近く前に出たときすぐ買ったものの、ツンドクになっていた文庫本。 北朝鮮による日本人拉致が明らかになったのを受けて、タイトルどおり朝鮮総連の内幕を綴った本である。 今よりも日本が貧しく在日も貧しかった時代、そして今よりも社会主義の声望が高かった時代に朝鮮総連が作られてから、日本も在日も豊かになった今日に至るまでの経過をたどっている。 朝鮮学校についても記述されている。 著者はもともと朝鮮総連と関わりを持っていた人で、北朝鮮に渡った経験もあり、本書も一方的に総連や北朝鮮を批判するものではない。 一般人からするとややあちら寄りと思われる部分もなくはないが、拉致問題についての総連の態度や、時代が変わったのに硬直したイデオロギーにしがみついている部分は手厳しく批判しており、一読の価値がある本となっている。

・堀江珠喜 『「人妻」の研究』(ちくま新書) 評価★★★ 何となく週刊誌的なタイトルであるが、内容も実際に週刊誌的であった。 私も週刊誌的なノリで読みました。 フリンの対象となるという含みを持った 「人妻」 という言葉がいつ頃から使われるようになったのか、から始まって、「鎌倉夫人」 「芦屋夫人」 「武蔵野夫人」 「軽井沢夫人」 「自由が丘夫人」 などの高級住宅地や避暑地の有閑マダムが、明治以降の日本でしばしば通俗小説の中で描かれてきたことを論証(?)している。 そこそこ面白いけれど、文章や記述法はあくまで週刊誌的なので、そのつもりで。 ついでに、裏表紙に載っている著者近影も、さすがに下着や水着姿ではないけれど、何となく 「人妻」 風情で、フケンゼンな匂いがする。 著者は某大学の女性教授だけれど、既婚なので、いちおう人妻です。 文章は大学教授というより女性ライターといった感じですけどね。

・木村幹 『朝鮮半島をどう見るか』(集英社新書) 評価★★★★ 38歳という気鋭の若手朝鮮研究者による本。 朝鮮半島を特別な存在として見るのではなく、普通の国として、他の植民地経験国家と比較しつつ、客観的に冷静に研究すべきだと訴えている。 様々なデータを挙げて、例えば朝鮮人のナショナリズムは決して強くはなく、むしろ他の植民地が宗主国に対して起こした反乱などと比べると朝鮮人が日本に対して起こした反乱は脆弱で動員数も少ないので、ナショナリズムの弱い民族だと結論できるとしているところなど、なかなか新鮮でなるほどと思わせる。 また、日本の朝鮮研究が、もともとは宗主国であったことの利を活かして他国をリードしていたのに、最近は左右のイデオロギーに囚われた対立がたたって遅れてきており、ハーバード大学の収集している朝鮮関係の文献にあっても日本の文献は少なくなってきているという。 朝鮮半島に興味を持つ人には必読書と言えよう。

・鄭大均 『在日・強制連行の神話』(文春新書) 評価★★★★☆ 半年前に出たときすぐ買っておいたのだが、色々あって読むのが遅れた。 現在日本に居住している在日朝鮮(韓国)人は戦時中に朝鮮半島から 「強制連行」 されて日本に来た人たち及びその子孫だ、という説が嘘八百であることを、さまざまな資料を駆使して明らかにしている。 この点については8年前に出た野村進 『コリアン世界の旅』(講談社) でも明らかにされているのだが、どういうわけかさっぱり知識として普及せず、相変わらず謝った認識に基づいた在日論が幅を利かせている。 論を進めるときに誤った知識を土台にしていては話にならない。 在日を論じる人は最低、この本に書かれている事柄程度は頭に入れておいてほしいものだ。 「強制連行」 説が実は北朝鮮シンパの歴史観を基盤に編み出されたものであるというあたりの論述も、在日問題を考えるときの重要な鍵になるであろう。 

・多木浩二 『ヌード写真』(岩波新書) 評価★★ 13年前に出た新書をBOOKOFFにて105円で買ったもの。 タイトル通り、ヌード写真を扱った本だが、ヌードの歴史をたどるというよりは、ヌード論が主体で、それも、この著者特有の 「論多くして知識少なし」 と言いたくなる体の書き方で、余り生産的な感じがしない。 複雑な言い回しをしているようだが、所詮は 「体制=反体制」 の二元論に収斂する古いタイプの本だと思う。 フェミニズムへの評価が恐ろしく甘いのも、この本が出た年代の限界と言うよりは、1928年生まれの著者の限界、もしくは生来の思考力の限界を示していると言わざるを得ない。

・内田樹 『先生はえらい』(ちくまプリマー新書) 評価★★★ 中高生向けに新たに創刊された 「ちくまプリマー新書」。 その第一弾のうちの一冊。 番号は002となっている。 イリア・クリアキンみたい、という洒落の分かる人は私と同年齢かそれ以上であろう。 閑話休題。 この本は、先生はとにかくエライのだから、中高生はつべこべ言わずに先生の言うことを聞きなさい、と説教を垂れた本で・・・・・はない。 先生とは、どういう人のことなのか、学ぶとはそもそもどういうことなのか、を、最新鋭の現代思想を用いて説明した本である。 ・・・・・が、相当に韜晦して(?)語っているので、この本の真意を理解できる中高生は、かなり優秀といっていいであろう。 分からなくても気にしないこと。 私の見るところ、著者は、「教養」 と 「学ぶことの不条理」 とを語っているのだ、と思うが。

・マイクル・ヤング 『メリトクラシー』(至誠堂) 評価★★★☆ 授業で取り上げて途中まで読み、残りは自分で読了。 英国の社会学者が1950年代に書いた小説仕立ての未来予測である。 つまり、人が完全にその知的能力によってランクづけられる社会がどういうものになるかを描いている。 上流階級とはすなわち知能の高い人たちの集まりであり、下層階級とは知能が低く単純労働しかできない人たちの集まりである。 そういう社会になると、下層階級の労働運動もなくなるという。 なぜなら、下層階級には知能の低い人間しかいないので、社会運動を指導できるような人物もいないということになるからだ。 同じ理由で下層階級の中からは国会議員も選出されないから、下院は廃止され、知能の高い人間だけの貴族院だけが残る、という予測がなされている。 まあ、世の中はこういうふうな完全なメリトクラシー社会にはならないだろうけれど、近代社会は基本的に親の身分や地位を子に引き継ぐのではなく、あくまで本人の能力と意欲によって地位や収入が決まるという建前になっている以上、こうした未来小説の存在意義は今でも小さくなってはいないと言えるだろう。

2月  ↑

・岡田温司 『マグダラのマリア――エロスとアガペーの聖女』(中公新書) 評価★★★★ 著者は京大教授。 新約聖書の中に登場するマグダラのマリアが、西洋美術史の中でどのように捉えられ表現されてきたかをたどった本である。 イエスによって触発されて自らの罪を悔いる原型から始まって、貞節にしてエロティック、美しいと同時に謙譲、時として誘惑げな、つまり女性のあらゆる側面を兼ね備えた人物が、さまざまな画家や彫刻家によって多様な姿を与えられてきたことがよく分かる。 マグダラのマリアをまとめて扱った本は日本では初めてだそうで、その意味でも貴重な本だ。 一つだけいちゃもんを付けておくと、「おわりに」 で文学に現れたマグダラのマリアにも触れているのだが、ヘッベルの 『マリア・マグダレーネ』 が抜けておりますぞ。 ドイツ文学者としては残念至極である。

・桐生操 『人はどこまで残酷になれるのか』(中公新書ラクレ) 評価★★★ 拷問や大量殺戮のエピソードを世界史から拾って集めた本。 古代ローマの残虐な皇帝から、20世紀の連続殺人鬼にいたるまで、これでもかこれでもかと血にまみれた事件や人物が並べられている。 気色の悪い本ではあるが、それなりに面白い。 それにしても、こういう一種の歴史物が入るとは、中公新書ラクレのポリシーがよく分からないなあ。

・岡留安則 『『噂の真相』25年戦記』(集英社新書) 評価★★★☆ スキャンダル誌『噂の真相』を25年間出し続け、昨年黒字のまま休刊とした著者が綴った回想録。 創刊のいきさつを初めとして、扱った記事や受けた抗議の数々、そして裁判所や検察への仮借ない批判など、反骨精神を貫いた岡留氏の生き方が伝わってくる。 といっても、抗議を受けた時にはわりに素直に謝罪するなど、結構柔軟なところもあり、そこが雑誌の長持ちした秘訣だったのだろうと思う。

・阿部勘一+細川周平+塚原康子+東谷護+高澤智昌 『ブラスバンドの社会史――軍楽隊から歌伴へ』(青弓社) 評価★★★ 東京のBOOKOFFにて定価の半額で購入。 純粋なクラシックでもなく、かといってポピュラー音楽でもないブラスバンドに、様々な側面から光を当てた本。 数人の共著なので、部分ごとの出来不出来はある。 私としては細川周平氏 (東工大助教授) の書いた、ブラスバンドと植民地主義の関係を扱った文章が特に面白かった。 日本も西洋優位の世界情勢の中で明治維新を迎えてブラスバンドを受け入れたわけだが、その受け入れ方には日本なりの特質があり、他のアジアアフリカなどの植民地とはかなり違った様相を持っていたという。 他にブラスバンドと軍楽隊と大衆音楽の関係を扱った塚原康子氏の文章にも教えられるところが多かった。

・麻生誠+潮木守一 『学歴効用論』(有斐閣) 評価★★★☆ 25年ほど前に出た本。 どこかの古本屋で100円で買ったまま書棚に眠っていたが、授業で盛田昭夫の 『学歴無用論』 を読んだ直後に、いわばバランスを取る目的で学生たちと一緒に読んでみた。 実際、発行年からして盛田昭夫の本を意識して付けられたタイトルであろう。 内容的にも、教育学者が中心になって書いているので、盛田本よりよほどしっかりしている。 学歴というものが近代社会の中で個人の能力を測る手段として否応なく登場せざるを得ない側面を含めて、この問題を多方面から扱っている。 イリイチの脱学校論やアリエスの 「子供=近代の発明」 論など、今からするとやや怪しげな議論も登場するが、当時の知的ニューウェーブの紹介と理解して歴史的に読めばそれなりに面白い。

・渋井哲也 『ネット心中』(NHK生活人新書) 評価★★★ 11カ月前に出た新書を東京のBOOKOFFにて105円で購入。 タイトル通り、最近流行している(?)ネット心中について、当事者や、その方面のサイトを開いている人たちにインタビューして、この現象の細部を明らかにすると同時に、その防止対策にも触れている。 こういう本は読んでいると憂鬱になってくるのであるが、現代社会の一側面を知るために一読の価値はあると思う。 ただ、どんな問題もそうだが、絶対コレ、という対策はないので、結局のところは各人が各様に考え、行動していくしかない、という気がする。

・泉三郎 『岩倉使節団という冒険』(文春新書) 評価★★★★ 明治4年(1871年)11月、岩倉具視を初めとする政府首脳が、アメリカとヨーロッパに視察旅行に出かけた。 その旅は2年近くに及ぶ。 彼らはアメリカとヨーロッパ各国で何を見、何を考えたのか。 それは明治の日本を形成するのにどう役だったのか。 また留守中の日本では何が起こっていたのか。 維新直後の日本の進路を決定した使節団の旅路を詳細にたどり、分かりやすく解説した書物。 当時日本がおかれていた国際的な政治状況 (帝国主義) や、ヨーロッパ各国ごとのお国ぶりの相違など、興味深い内容。

・畑中敏之 『「部落史」の終わり』(かもがわ出版) 評価★★★☆ 10年近く前に出た本だが、今なお一読の価値を失っていない。 被差別部落に関して、それを固定的に大昔から存在したものとして見るのではなく、またマルクス主義的な階級史観でとらえるのでもなく、明治期以降の日本に見られた社会的な差別であるという見地からとらえるべきだと主張している。 すなわち、例えば江戸時代には武士は一定の身分としてあったが、明治期以降の士族は武士から血縁的にはつながっていたとしても社会内の身分として固定化したものではなかった。 被差別部落民にしても同じことだ、というのである。 また、被差別部落の 「文化」 を固定的に考えて存続を主張したり、部落外でふつうに暮らしている人で先祖の一部が部落民である人間を探し出して 「部落民と自覚せよ」 と強制するような運動はナンセンスとして批判しているのも説得的。 ただ物足りないのは、部落の捉え方に関して既存の学説を批判しているのはいいが、明治期以降の部落差別の性格付けについての持論がいささか弱い。 天皇制下の社会が生んだ差別というだけでは説得性が乏しいと思う。 この辺、別の本で展開しているのかもしれないが、一考してほしい。

・山本夏彦 『男女の仲』(文春新書) 評価★★☆ 1年あまり前に出た新書を船橋のBOOKOFFにて半額で購入。 著者は約2年前に鬼籍に入っている。 東京育ちの老人が、若い記者相手に昔の日本や者の道理を説く、という内容。 体系だった本ではなく、暇つぶしの読み物としてはまあまあといったところか。 ただ、若い記者の方が余りに物を知らなくて、銀座の話になって 「日本中いたるところに銀座がありました。 仙台銀座だとか」(248ページ) なんて言っているのは困りますね。 仙台には銀座なんてないの。 仙台の繁華街は一番町と名掛丁ですって。

・布施克彦 『島国根性を捨ててはいけない』(洋泉社新書y) 評価★★☆ 島国根性、なんて表現は、昔は日本国内でよく使われたけれど、高度成長期以降の日本ではあんまり見かけなくなっている言葉だなあと思う。 だけど、この著者によれば、日本人には島国根性が抜きがたくあり、アメリカや中国などの大陸国家をヘンに見習うより、むしろこの根性を保持した方がうまくやっていけるのだ、という。 で、前半はわりに面白い。 つまり、日本以外の島国国家を取り上げて、隣接する大陸国家に比べて島国国家の方が、教育水準も経済水準も高く、しかも国内の紛争も少ない、といった事情を明らかにしているからだ。 日本では普通の人は名前すら知らないバーレーンだとかカベボルデだとかの島国国家が紹介されていて勉強になる。 しかし、後半は、島国国家の代表格であるイギリス論になってしまい、しかもヘンに讃美しているのだが、イギリスに関する書物はこれ以外にも多いし、最近は英国讃美論を叩く本も出ているくらいだから、どうも説得力に乏しいのである。 というわけで、前半だけなら読む価値がある。

1月  ↑

 

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