三浦 淳(著) 『〈女〉で読むドイツ文学』(新潟日報事業社、¥1000)が刊行されました。

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新潟大学の教員が、専門分野について一般の市民に分かりやすい形で書き下ろす 「ブックレット新潟大学」 シリーズの、第18巻です。

以下で、目次と 「まえがき」 を掲げておきましょう。

 

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もくじ

まえがき

第一章 エミーリアはなぜ死んだのか  ――レッシングの『エミーリア・ガロッティ』

第二章 ロッテは聖女か悪女か  ――ゲーテの『若きウェルテルの悩み』

第三章 叔母と甥との微妙な関係  ――リルケの『マルテの手記』

第四章 見えないヒロイン ――ヨーゼフ・ロートの『酔いどれ聖者の伝説』

あとがき

 

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まえがき

 「映画は女優で観るものだ」という言葉があります。 銀幕に登場する女優が魅力的だからお金を払って映画館に入る、或いは映画の出来不出来は女優次第、という意味ですね。

 しかしこれは映画に限ったことでしょうか。 女性をモデルとした絵画や写真のことを考えてみて下さい。 画家や写真家の技倆だけではなく、モデルが作品の出来を左右します。 モデルが魅力的ならば、画家や写真家の表現意欲が鼓舞され、結果として傑作ができあがる可能性が高くなるわけです。

 となれば、文学作品もその例外であるはずがありません。 作家が文学作品を書く場合、登場人物の造型に苦心惨憺するのは当然のことで、男の作家ならだれでも理想的な女性像を作中に盛り込もうとするはずです。 そして登場する女に魅力があるか否かで、駄作が傑作にも、傑作が駄作にもなるのです。

 また、読者にしても変わりはなく、例えば私は男ですから、文学作品に接するときは否応なく作中に現れる様々な女たちに注目します。 素晴らしい女性が描かれていればうっとりとしますし、ひどい悪女が登場すれば気分が悪くなります。 どんな女性像が描かれているかで、作品の印象が大きく左右されるのです。

 ですから、文学作品で女性の登場人物に注目するのは、映画で女優を注視するのと同じことと申せましょう。

 ここでは、ドイツ語で書かれた戯曲や小説を、登場する女たちの魅力によって読み解き、そこから作品全体の見直しや再評価を行うことで、ドイツ文学に親しんでもらおうと思います。

 なお、『〈女〉で読むドイツ文学』というタイトルについても一言。 『ドイツ文学と女性たち』 というような題も考えたのですが、ありきたりでインパクトがないのでやめました。 最近マスコミなどでは 「女性」 という漢語がはやりで、「女」 という大和言葉に侮蔑語的なニュアンスを感じる人もいるようですが、これはおかしなことです。 以前大ヒットしたフランス映画の邦題は 「男と女」 でした。これが「男性と女性」だったらあれほどの人気が出たかどうかあやしいものでしょう。

 また、「女」 という言葉を使ったのは、「女性」 とすると昨今の男女共同参画社会云々という社会学的アプローチのにおいが付いてくるので、それを避けるためでもあります。 この本では、現代社会の価値観に合わせて過去の作品を切り取るという方法はとりません。 もっとつっこんで言うなら、現代の基準で過去の様々な文物の価値を決めつけるのは、学問ではありません。 時代ごと、作品ごとに評価や魅力の基準は異なると考えるのが、人文系の学問の基本です。 文学を読むときには、現代風の視点からは違和感を覚えるような異形の人物や行為をも、それなりの魅力を持つものとして味わっていくべきなので、それは本書執筆の大原則でもあるのです。

(2003年8月25日掲載)

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