『新・知の技法』(東大出版会)を採点する

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 2002年度前期、私は新潟大学人文学部・情報文化課程2年生向けの 「情報文化実習」 という授業を担当した。 ものものしい名前だが、要するに論文の書き方、文献の調べ方、テーマの設定と選び方・・・・・・などなどを学ぶ授業である。

 そこで使われた教科書が、東大出版会から出ている 『新・知の技法』 であった。

 ふつう、大学の授業では教科書は担当教員が自分で選ぶ。 しかしこの授業に限っては違っていた。 同内容の授業が例年開講されており、担当教員はその都度変わってきたが、教科書としては 『知の技法』 『新・知の技法』 を交互に使う習慣になっていたからである。

  私は 「新」 のつかない 『知の技法』 はむかし自分で買って読んだことがある。 が、感心しなかった。 それでその続編にあたる 『新・知の技法』 は買わないできた。

 『知の技法』 が世間でもてはやされたのは、やはり東大というブランドの力によるところが大きいと思う。 内容的には賞賛されるほどのものとは思われなかった。 つまり、日本という国においてはすべてがファッションとブランドによってニュースバリューが決まるのであり、内容がどうかといったことを本当に気にかける人間はほとんどいない、ということなのである。 日本の知的水準はまだまだ、なのだ。

 無論、他の大学はこういう 「教科書」 を独力で作ることすらできなかったのだから、東大の実力はあなどれない、という言い方もできる。 私も50%くらいはそういう考え方に賛同する。 

 しかしである。 仮に東大以外の大学がこういう教科書を作ったとして、はたしてニュースになっただろうか。 内容的にまったく同じだったとしても、マスコミの話題にはならなかったのではないか。

 数年前、金沢大学に勤務していた盲目の教官が東大に移るというので全国紙で大きく取り上げられたことがあった。 無論、その人が東大に移って、より大きな場で活躍できるようになったこと自体は慶賀すべきであろう。 だが、問題はその人が金沢大に採用された時点では全然ニュースにならなかったという事実の方ではないだろうか。 金沢大が盲目の教官を採用するのは、相当の勇断だったはずである。 これに対して東大は金沢大での採用実績を見て引き抜いたに過ぎないのではなかろうか。 金沢大の勇断にはニュースバリューがなく、東大の言うならば後追い人事にはニュースバリューがある、これが日本という国の知的風土なのである。

 いずれにせよ、肝心なのは東大が出した教科書をファッショナブルに賛美するのではなく、かといって無論東大の教科書だからつまらないのだと決めつけるのでもなく、その内容を冷静に評価することの方であるはずだ。

 私は今回の授業で、自分が選んだのではない教科書として 『新・知の技法』 を吟味する機会に恵まれた。 そこで、ここに収録されている13の文章を個別的に評価してみた。 結論として、この本は教科書というにはお粗末で使うに値しないということになった。 ただし出来不出来は執筆者ごとにかなり差がある。 丸ごと全部ダメと一緒くたにするのは不当である、と急いで書き添えておこう。

 

  評価は、★★★★★=最高、 ★★★★=上質、 ★★★=まあ合格、 ★★=不満、 ★=原稿料泥棒!

 

・李孝徳 「日本人とは誰のことか」 ★★ エスニシティとシチズンシップの違いを言っているようでありながら、わりに政治性をはらんだ文章である。著者は"Where are you from?"という問いへの自分の答自体は疑ったことがないのだろうか? 外国人お断りの家主をたんに 「先入観からの差別」 とするなど無知も目立つ。ある種のイデオロギーの内部に自分がいる、という自覚がないのが一番困る。

・恒吉僚子 「集団主義対個人主義を超えて」 ★★ 隔靴掻痒、という言葉がぴったり。 論じ方に具体性がなく、本人は自分なりに長年研究したことをふまえてつづめた言葉で語っているのかもしれないが、それが読み手に伝わってこない。 漠然とした印象批評の感濃厚。

・内田隆三 「ペリフェリーの社会学」 ★ 論じ方が不親切で独善的。 東京郊外の地名をずらずら並べられても、東京に住まない人間には位置関係がわからない。 図をつけるなど工夫が欲しい。 内容的にも、要はケチの付けまくりであり、批判の基準がどこにあるか不明瞭。 単なる小言幸兵衛の八つ当たりとしか思えない。

・瀬地山角 「ポルノグラフィーの政治学」 ★★★★ 段階を追ってきちんと論を進めているところがいい(先の内田のとは正反対)。 日米の女性向けポルノグラフィーの違いなど、内容的にも面白い。 ただ、性の本質主義を否定すると言っておきながら、最後に来て 「〔男女の〕 お互いの性に対する誤解」 と言ってしまっているのは、重大な論理的誤謬ではないか? 本質主義を否定するなら 「趣味の不一致」 はあっても 「お互いの性への誤解」 はあり得ないはず。

・佐藤良明 「安室奈美恵への道」 ★★★ ポピューラーソングの研究という比較的新しい分野への道しるべとしての意義は買う。 ただし内容的に非常に面白いという感じはしなかった。 もう少し対象を絞った方がかえって新鮮な視点が提供できたのでは。

・岡本和夫 「数学とはどういう言語なのか」 ★ 面白くない。(文系でない)数学だから、というのではなく、知性とか専門横断的な興味だとかを刺激するようなものがない。 学生の希望者ゼロで飛ばした文章。

・大越義久 「言語を超えるもの」 ★★★ 法律の言語についてというのが表向きのテーマ立てだが、実際は法律の解釈などの微妙性にスペースが割かれている。 まあまあ面白いけれど。 

・北川東子 「ハイデガーにおける論理の身体」 ★★ 最後に、「うごめき合う雑多な論理の欲望に身を任せてしまうべきなのです」 と言っているが、日本の大衆は昔からそうしてきたし現にそうしているのでは、という身近な問いと観察が欠けているのではなかろうか。 肝心なのは、日本ではハイデガーでいることが不可能だということの方なのである。 これも学生の希望者がゼロで飛ばした。

・玉井哲雄 「コンピュータの言語」 ★ 書き方が非常に不親切である。 チョムスキーの生成文法とコンピュータ言語の関わりなど、一読しても理解不可能だし、記号の説明を全くせずに 「S→NP+VP」 などという式を持ち出されても分かるはずがない。 教科書執筆者として失格。

・エリス俊子 「菜の花へのまなざし」 ★★ 蕪村の句をワーズワース風に直してみるとか、外国人に蕪村の句を解釈させてみるなどの試み自体はなかなか面白いと思うが、肝心の著者自身が蕪村の句を分かっていないのが致命的。 最後の注2で、「この原稿を読んでくれた先輩」 から教えられたとして、普通の日本人なら誰でも考えるであろうような解釈を提示しているのだから、相当に鈍い。 また、オーストラリア人学生が英国詩人のワーズワースを模することの政治的意味を見ないまま、あとがきで 「オーストラリアの人々にとって英語を所有しているという意識は希薄」 と書いてしまうなど、かなり問題のある人と言わねばなるまい。

・小林寛道 「100メートルをより速く走る」 ★★★ スポーツ分析科学を説明した文章で、後半はまあまあ面白いが、最初に古代からのスポーツ分析史を振り返っているところが余計。 断片的な知識の羅列だし、アリストテレスの文のタイトルは英語で示し、ウェーバーのそれはドイツ語で示しているのが可笑しい。

・福島真人 「偶然を飼い慣らす」 ★★★★★ 私としては一番面白く読めた文章で、さまざまな現代の現象とのつながりをも考察する材料になると見えたが、学生の反応はきわめて鈍かった。 儀礼や呪術といったものの成立事情を推測しながら、偶然と人間の振る舞いとの関連を見つめるまなざしは、最新技術に囲まれて生活しつつ占いや噂や都市伝説から逃れられない我々の状況を照射しているようだ。

・石光泰夫 「身体の狂気を踊る」 ★★ 教科書として記述が不親切である。 日本人にはバレエを見るという習慣がほとんどないわけだから、通常のバレエではどうであるのに対して (ここで取り上げている) ギエムの独創性がどこにあるのか、といった記述をすべきなのに、費やされるのは著者自身の観念過剰な文章だけである。 また身体の 「深さ」 を言いながら、行き着く先が 「18世紀から19世紀にかけて成立した市民社会の中で抑圧された」 云々という凡庸な言説であるのはいかがなものか。 加えて日本で定着してしまったエリザベートという誤った発音を訂正しないのは独文学者としての良心に欠ける。 

 以上、13の文章の平均点は5点満点で約2,4であるから、本全体として落第点ということになる。 残念でした。

(2002年7月27日掲載)

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