カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』

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 少し前に、大学の学部学生相手の演習で、マンハイムの『イデオロギーとユートピア』を、中公の『世界の名著』に入っている翻訳で読む機会があった。

 しかし、読んでいてよく分からない箇所が多々あった。

 私はもともとドイツ文学者で、社会学者ではない。だから社会学的な用語や思考法には不慣れである。が、それにしても、何度読んでも腑に落ちないところがあるのは、もしかしたら翻訳が悪いせいではないかと思った。

 それで、インターネットの某サイトにある「社会学」のコーナーでこの本の邦訳について社会学者はどう見ているのかを問うてみたが、無駄であった。返ってきたのは、素人には邦訳の善し悪しが分かるはずがないという嘲笑と、逃げ同然の答のみであった。 どうやら日本の社会学者は、邦訳の善し悪しは分からずにマンハイムを読んでいるらしいなと察しがついた。 そして日本の社会学者がシロウトの質問にまともに答えない習性をもっているらしいこともである。

 専門家 (なんだろうか? 日本の社会学は学問になっているのか? 某サイトでの反応を見る限り、疑念を抑えきれない)がアテにならない以上、自分でやるしかないと決心がついた。

 

 ここで問題にするのは、中公バックス「世界の名著」第68巻、『マンハイム、オルテガ』に収録されている高橋徹・徳永恂訳である。

 しかし以下で訳の質を問題にするに当たって、原書にまつわるやっかいな事情に言及しなくてはならない。

 中公バックス版で高橋徹が書いた解説によると、この邦訳は「英語版序文」を高橋が訳し、「本文」は徳永が訳したことになっている。英語版序文は1936年にロンドンで出た英語版についていたもので、これはマンハイムが英文で書いた原論文をワースが校訂して現在の形にまとめたものだという。戦後にドイツ語版第3版が出たときドイツ語訳された収録されたという。高橋は英語版をもととし、ドイツ語版を参照したと書いている。「本文」は52年のドイツ語第3版によっているという。

 ところがである。私の見た英語版とドイツ語版は、中公バックス版の邦訳とは章の付け方が違っているのである。英語版は高橋が言っているのと同じ版元の、ただし52年の第6版を、ドイツ語版はVittorio Klostermann社版の1995年・第8版を見たのであるが、いずれもワース(Louis Wirth)による「英語版序文」には全然別の文章が収録されているのである。そして、本文第1章が、高橋徹訳の「英語版序文」に当たっている。

 これがどういう事情になるものか、私は目下つまびらかにしない。 私の参照した英語版・ドイツ語版双方の「英語版序文」(中公バックスでは訳されていない)は、ドイツ語版表紙裏の記述によると、ロンドンで出た英語版(発行年は書かれていないが、書肆名は高橋が挙げているものと同じ)から、1952年にドイツ語第3版が出るときにHeinz Musにより独訳されたものだという。

 版が重ねられる途中で、マンハイム自身の指示により、章立てが変わったのかも知れない。まさか、邦訳者が勝手に章や序文を編集し直すことはないだろうから。

 ともあれそういう事情で、邦訳への私の異議申し立ては、序文(中公版の序文のこと。上述の通り、私の見た版では第1章)に関しては英語版とドイツ語版双方をもとに行われる。序文を訳した高橋は、上にも書いたとおり、英語版をメインとしドイツ語版を参考にしたと述べている。 徳永訳の本文は、ドイツ語版から訳したものだそうである。

 


 

 以下、■で訳文(誤訳)を、□で原文を、(試訳)で私の考える訳を示す。

 まず、「序文」の第1章。 冒頭から。

 

■この書は、人々が実際どのように思考しているかという問題を取り扱うものである。したがって、ここでの研究の狙いは、思考が論理学の教科書のなかでどのようなすがたをとるかを検討することにあるのではなくて、それが一般の社会生活や、集合的行為の一手段としての政治のなかで、現実にどのように機能しているかを究明することにある。(97ページ)

 問題は、「それが一般の社会生活や、集合的行為の一手段としての政治のなかで」という箇所。原文は、

□(独).....wie es[=Denken] wirklich im oeffentlichen Leben und in der Politik als ein Instrument kollektiven Handelns funktioniert.

□(英)....how it[=thinking] really functions in public life and in politics as an instrument of collective action.

  「集合的行為の一手段としてals ein Instrument kollektiven Handelns」はドイツ語版の格を見るなら主語esにかかると考えるべきでしょう。したがって、

 (試訳)・・・検討することにあるのではなくて、社会生活や政治のなかで思考というものが集合的行為の道具として実際にどのような機能を果たしているかを究明することにある。

 

 次の段落で、哲学者の思考分析は現実から遠く離れがちで、実際の社会を理解するのには役立たないと言った後、

■これにたいして、実際に行動する人間は、よかれあしかれ、みずからの生きている世界、それも、いわゆる厳密な認識様式に比しうるほどの厳格さで分析されたことは一度もない世界を、経験や知恵をもとにとらえるための多種多様な方法を伸ばす努力を続けてきている。(97ページ)

□(独)Inzwischen sind die Menschen, indem sie handeln, zum guten oder zum schlechten dazu gelangt, eine Mannigfaltigkeit von Methoden fuer die experimentelle und geistige Durchdringung der Welt zu entwickeln, in der sie leben. Diese Methoden sind bisher nie mit der gleichen Praezision wie die Formen des sogenannten exakten Wissens analysiert worden.

□(英)Meanwhile,. acting men have, for better or for worse, proceeded to develop a variety of methods for the experiential and intellectual penetration of the world in which they live, which have never been analysed with the same precision as the so-called exact modes of knowing.

 この訳だと、厳密に分析されたことのないのは現実世界ということになりますが、ドイツ語版を見ればそうでないことは一目瞭然。(高橋氏は本当にドイツ語版を見たんでしょうか?) 英語版でも、which have never...と言っているのですから、このwhichworldを受けるのではないことは、高校生でも分かるはずですけど・・・・。

 (試訳)しかし人間は行動しながら生きているから、現実の世界を実験的・知的に捉えるための様々な方法を、良かれ悪しかれ開発するようになってきたのである。だが、これらの方法はこれまで、いわゆる厳密な学問の諸形態に対するのと同じような精確さでもって分析されたことは一度もなかった。

 

 次の1ページほどの論理展開を見るなら、現実社会ではなく、それをとらえる思考が問題になっているのだから、おかしいと思うべきところなんですがね。

  少し先に行って、個人の言葉や思考が純粋に個人のみに由来するわけではないと述べた箇所。

■自分自身の言葉をもたず、むしろその同時代人の言葉や、今日までの道を拓いてきてくれた先人たちの言葉を使って話をするたったひとりの個人を観察して、その観察だけから、或る言葉の由来をつきとめようとするやり方は、明らかに誤りである。(99ページ)

  誤訳とは言えないかも知れないけど、悪訳ではあるでしょう。或いは、愚訳かな。ここは明らかにドイツ語版のほうが英語版よりすっきりしている。

□(独)Wie es inkorrekt waere, eine Sprache bloss von der Beobachtung eines einzelnen Individuums abzuleiten, das ja nicht eine eigene Sprache, vielmehr die seiner Zeitgenossen und Vorfahren spricht, die ihm den Weg gebahnt haben,......

□(英)Nevertheless it would be false to deduce from this that all the ideas and sentiments which motivate an individual have their origin in him alone, and can be adequately explained solely on the basis of his own life-experience.

 (試訳)言葉の由来を個人を観察することによってのみ説明しようとするのは誤りである。個人は自分自身の言葉というよりは、同時代人や、道を拓いてくれた先祖の言葉を話しているのだから。

 

 そして個人の思考法は、個人のものと言うよりは集団のものである、と繰り返し述べて、

■したがって、彼が意のままにできるのは、ごくわずかの単語とその意味づけでしかない。こうした関係は、個人が彼をとりまく世界に立ち向かう場合の大筋を決定するというばかりではない。同時に、それは、これまで対象が、いかなる角度から、またどのような活動の連関のなかで、集団や個人によって知覚され、受けいれられてきているかをも示している。(99ページ)

□(独)Es [=Individuum] findet bestimmte Worte und deren Sinn zu seiner Verfuegung vor, und diese bestimmen nicht bloss in weitem Ausmass seinen Zugang zur umgebenden Welt, sondern offenbaren gleichzeitig, von weichem Gesichtpunkt aus und in welchem Handlungszusammenhang Gegenstaende bisher fuer die Gruppe oder das Individuum wahrnehmbar und zugaenglich waren.

□(英)He finds at his disposal only certain words and their meanings. These not only determine to a large extent the avenues of approach to the surrounding world, but they also show at the same time from which angle and in which context of activity objects have hitherto been perceptible and accessible to the group or the individual.

 2番目の文章の「こうした関係は」がおかしいことは、英語版を見てもドイツ語版を見ても明瞭でしょう。

 (試訳) 個人が意のままにできるのは一定の意味を持つ一定の言い回しであって、これらの言い回しは自分を取り巻く世界への個人のアプローチを大幅に規定しているだけでなく、同時に、集団もしくは個人が様々な対象を知覚したりそれにアプローチするとき、どのような観点から、そしてどのような活動の連関でそうしたのかをも明らかにしてくれるのである。

 

 そして、知識社会学は哲学と違って高レベルの個人の思考を対象にはしないと述べて、

■そしてそれにかわって、知識社会学は、さまざまに分化した個々人の思考を徐々に生みだすところの歴史的・社会的状況の具体的な仕組みをとらえ、そのなかで思考を理解すべく努める。(99ページ)

 これも誤訳とまではいかないかも知れないれど、どうも隔靴掻痒の訳と言わざるを得ません。

□(独)Vielmehr sucht die Wissenssoziologie das Denken in dem konkreten Zusammenhang einer historisch-gesellschaftlichen Situation zu verstehen, aus der ein individuell differenziertes Denken nur sehr allmaehlich herauszuheben ist.

□(英)Rather, the sociology of knowledge seeks to comprehend thought in the concrete setting of an historical-social situation out of which individually differentiated thought only very gradually emerges.

(試訳) むしろ知識社会学は、思考を歴史的・社会的状況の具体的な関連において理解しようとする。個々人の分化した思考は、こうした状況の中から少しずつ明らかにされるものに過ぎないのだ。

 

 それから、個人の思考は前世代や社会全体にしばられると繰り返し述べてから、個人は二重の意味で束縛を受けているとして、

■すなわち、まず個人は、状況がすでに形成された状況であることを発見する。(100ページ)

□(独)...es[=Individuum] findet eine fertige Situation vor......

□(英)...on the one hand he finds a ready-made situation.....

 この間違い、中学生でも分かりますね。 こういう言い方はよくないでしょうけど (ゴメンナサイ)、東大の先生がこういう間違いをやってくれると、外国語ができない中学生・高校生・大学生に勇気を与えそう・・・。

 (試訳) 個人はまず、すでに形成された状況の中に身をおく。

 

 さて、それから、

■知識社会学の方法を特徴づける第二の特徴点は、それが具体的に実在している思考様式と、集合的行為連関とを切り離さないという点である。それというのも、われわれが知的な意味ではじめて世界を発見するのは、この集合的行為連関を通してだからである。(100ページ)

  「特徴づける第二の特徴点」 なんて、いかにも日本語がマズいと思うよね。

□(独)Das zweite fuer die Methode der Wissenssoziologie kennzeichnende Merkmal ist, dass sie die konkret existierenden Denkweisen nicht aus dem Zusammenhang mit dem kollektiven Handeln loest, durch das wir die Welt erst in einem geistigen Sinn entdecken.

□(英)The second feature characterizing the method of the sociology of knowledge is that it does not sever the concretely existing modes of thought from the context of collective action through which we first discover the world in an intellectual sense.

 英語版だとたしかに誤読の余地があるが、ドイツ語版をあわせ見ていたというなら、間違えるはずがないんですが・・・・。

 (試訳) 知識社会学の方法に特徴的な第二の点は、実在している思考様式を集合的行動との関連から切り離さないというところにある。集合的行動によって我々は初めて世界を知的にとらえることができるのだから。

 

 少し飛びますが、

■・・・・今はやりの分析のなかでこのような思考様式を成りたたせている無意識の動機づけや前提条件を制御することも・・・・(102ページ)

□(独)....die unbewussten Motivationen und Voraussetzungen zu kontrollieren, die in letzter Instanz diese Denkweisen haben entstehen lassen.

□(英)...to control the unconscious motivations and presuppositions which, in the last analysis, have brought these modes of thought into existence.

(試訳)・・・・このような思考様式を最終的に成立させた無意識の動機づけや前提条件を制御することも・・・・

 

 以上で 「序文」 第1章はおしまい。 第2章はもう少しお待ち下さい。 

 

 

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