以下の文章は、「日本シュトルム協会会報」 第43号 (2004年4月) に掲載されたものです。

 もともとは、2003年に上梓した 『〈女〉で読むドイツ文学』 (新潟日報事業社) のために書かれたのですが、原稿量の都合でこの部分は割愛せざるを得ませんでした。

 その後、この本を読んだ日本シュトルム協会会長 ・ 田中宏幸氏 (金沢大学名誉教授) から、〈女〉 をテーマとしてシュトルムの作品を扱った文章を協会会報のために書いて欲しいという要請をうけたので、『〈女〉で読むドイツ文学』 のために書いた原稿に一部修正を加えて協会報に載せていただいたというわけです。

ここで扱われている小説 『インメンゼー』 は、19世紀のドイツ作家シュトルムの代表作であり、日本では一般に 『みずうみ』 という訳題で知られ、岩波文庫などに収録されています。

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私の仕事

『インメンゼー』に表れた母娘の関係  Die Mutter-Tochter-Beziehung in Storms "Immensee"

   三浦 淳

 

(1)『インメンゼー』の重大な欠落

 これからシュトルムの『インメンゼー』に表れた母娘関係について考察したいと思いますが、その前にまず指摘しておかなければならないのは、この小説にはかなり奇妙な欠落があるということです。 作中、主人公のラインハルトとエリーザベトに母はいるのに、父については何も触れられていないのです。 二人の幼年時代を描いた部分からしてそうですし、長じてラインハルトが大学に進学して母から手紙をもらったり、エリーザベトが結局エーリヒと結婚して母と一緒に夫の屋敷に引き取られるに至るまで、二人の父についてはまったく言及がありません。

 二人の父はどうなったのでしょうか? 作中には何も手がかりがありません。 二人とも未亡人の子供だったのでしょうか? それにしても死んだ父について何か一言あってよさそうなものです。 また、母が未亡人であるなら、生活の資をどうやって得ていたのかという問題が生じます。 今とは時代が違いますから、二人の母がキャリアウーマンをやっているという解釈は無理です。 それなりの財産を持つ身分だったのでしょうか? 或いは、二人の母は正規の婚姻をせずに子を産んだのでしょうか? 色々な可能性が考えられますが、いずれにせよ作中の記述には父不在の原因をうかがわせるものは何もありませんから、恣意的な解釈になってしまいそうです。 しかしそうした恣意的な読み方も、してみれば面白いものです。 例えばこんな解釈もできなくはありません――。

 ラインハルトの母とエリーザベトの母は、実は同一の男によって子を産んだのだ、と考えてみます。 ラインハルトとエリーザベトの父について触れられていないのですから、正規の婚姻ではなかったと見た方がいいでしょう。 いずれにせよ、二人は異母兄妹だったということになります。 これで、二人が結ばれない理由も説明できてしまいます。 なぜなら、近親相姦のタブーがある以上、エリーザベトは兄ラインハルトではなく、他の男と結婚しなくてはならないからです。

 

(2)シュトルムの結婚に隠されたもの

 え、いくらなんでも面白すぎる解釈だとおっしゃるのですか? そうですね。 そこで、面白すぎる欠点を補うために、作者シュトルムの伝記的事実に目を向けてみましょう。

 注目すべきは、『インメンゼー』がシュトルムの結婚後余り時がたたない時期に書かれた作品だったということです。 シュトルムは29歳で結婚しますが、相手のコンスタンツェは母方の従妹でした。 シュトルムが彼女と結婚したいという意思を表明したとき、父は驚いて反対しています。 なぜなら従兄妹同士の結婚は近親結婚であり、特に弁護士という知的職業についている人間にとっては避けるべきものと考えられたからです。 当人同士の気持ちが揺るぎないということで結局父は折れるのですが、こういう結婚をしたという事実がシュトルムの意識に何らかの影響を与えていないはずはありません。 近親者同士の恋愛、というテーマが彼の創作活動に現れても不思議はないのです。

 事実、シュトルムの作品には近親相姦を扱ったものがあります。 1854年、37歳で書かれた「兄妹の血」という詩が、兄妹の近親相姦を主題としているのです。 ポーランドの伝説に基づくバラード(物語詩)に触発された、と当人は述べています。 また、1879年、60歳を過ぎてから書かれた年代記小説『エーケンホーフ』には異母兄妹が愛し合うというモチーフが見られます。 この作品も伝説集からアイデアを得て書かれたものです。

 しかしそうした、明瞭に近親相姦が現れた作品だけを見ていていいのでしょうか? 結婚してまもなく書かれた『インメンゼー』にあって主人公二人に関する父の記述が欠けているという事実は、この作品が隠された近親相姦小説であったことを暗示しているのではないでしょうか。 シュトルムは自分の結婚を正当化するために、そして自分の従妹への情熱を弁明するために、近親相姦小説を書きたいと思っていた。 けれどもいかな彼でも露骨にそうすることはできなかった。 弁護士という職業に就いている人間が、遠い異国や時代の伝説や詩歌に依拠したというような、言うならばもっともらしい言い訳を抜きにして近親相姦小説を書くわけにはいかなかったのです。 結局彼に書き得たのは、「父母が揃っていて血縁的には完全に他人と分かる男女」ではない者同士の恋愛譚でした。 父の不在は、そうしたインモラルな男女関係を暗に指し示すヒントと言えるのです。

 

(3)母の存在

 ちょっとばかり面白すぎる解釈をしてみました。 上のような解釈を私が信じているかというと、自分で書いておいて無責任なようですが、あまり信じてはおりません。 ただ言えることは、文学作品というものは様々な受け取り方ができるものだということ、そして『インメンゼー』における父の不在は、そうした解釈を許す足がかりになっているということなのです。

 さて、ではこの小説における父の不在は、改めて考えてみるとどういう意味を持っているのでしょうか。 簡単な断定はできませんが、一つ言えることがあります。 それは女親しかいないという環境が、エリーザベトの生き方に大きな影響を及ぼしているということなのです。

 具体的に作品の筋書に添って見ていきましょう。 ラインハルトとエリーザベトは幼なじみであり、二人はよく一緒に遊ぶのですが、積極的な性格のラインハルトに比してエリーザベトは内気で消極的だという設定になっています。 ラインハルトはよくエリーザベトにおとぎ話をしてあげるのですが、ある時そのお話がきっかけで将来はインドに行こうという話になります。 すると、エリーザベトは、おかあさんと一緒じゃないと嫌だと言い出します。

 言うまでもなく、飛行機もなく交通網の未整備だった19世紀半ば、インドはドイツから見ればはるか遠い国でした。 また、幼い女の子が心理的に母親から乳離れしていないのは当然でもありましょう。 しかし小説全体から見ると、この場面は以後の二人の関係を暗示していると言えるのです。

 やがてラインハルトは成長して、大学進学のために故郷を離れることになります。 その直前に近所の人たちと一緒に二人は森にピクニックに出かけるのです。 お昼時になって、子供たちはパンを支給されますが、パンにつけるイチゴは自分たちで探しなさいと言われ、全員が森の中に散っていきます。

 ラインハルトもエリーザベトを連れて、「僕はイチゴのある場所を知っているんだ」と威勢良く森に入っていくのですが、ついにイチゴを見つけることができません。 それどころか道に迷い、ようやく大人たちのもとに帰ってきたときには、すでに他の子供たちは全員がイチゴとともに戻っていました。 しかし、そこでラインハルトはこの体験から想を得て、森の中に幼い少女がいるという詩を書き留めるのです。

 たしかに、すでに詩を書き始めていたラインハルトからすると、イチゴを見つけるより、森の中でエリーザベトと二人きりで過ごすという体験の方が、また木々に囲まれた神秘的な雰囲気の中に愛らしい少女がいるというイメージを言葉で表現することの方が大事であったのかも知れません。 けれども、一般に女を連れた男に期待されることとは何でしょうか? それは食べられない詩を書くことではなく、飢えないための物質を確保することだったはずです。 この場合はイチゴを見つけることがそうです。 しかしラインハルトはイチゴを見つけられず、代わりに詩を書いたのです。

 このピクニックにはエリーザベトの母も同行していました。 その目に、ラインハルトはどう映ったでしょうか?

 

(4)青年二人と母の評価

 さて、離れた町で暮らすようになって、二人の関係にも変化が生じます。 休暇のおり、久しぶりに帰省したラインハルトはエリーザベトに会いますが、

 「ずいぶん大きくなったね」と、美しくきゃしゃな少女がほほえみながら目の前に現れたとき彼は言った。 彼女は顔を赤らめたが、何も答えなかった。 そして挨拶しながら彼が握った手を、そっと引き離そうとした。 彼はいぶかしげに相手を見つめた。 以前の彼女はこんなことはしなかったからである。 何かよそよそしいものが二人の間に入り込んできたかのようだった。

 この「よそよそしさ」は、しばらく会わなかったためだけではないでしょう。 描写を読むと、エリーザベトが少女から大人になりつつあることが分かります。 つまり、以前は子供同士だったのが、今は一人前の男女同士なので、異性を強く意識するようになっているのですね。

 それでもラインハルトは大学で修得した植物学をエリーザベトに教えるなどして、二人の親密さを回復しようと努力します。 それはとりあえず成功するのですが、ある日彼がエリーザベトの部屋に入ると、鳥かごに見慣れぬカナリヤが飼われているのに気づきます。 実は以前彼は紅雀を彼女にプレゼントしたのですが、その鳥は死んでしまったのでした。 そして彼の学友エーリヒがそのあとカナリヤをプレゼントしたというわけです。

 ここでラインハルトは、エーリヒが最近インメン湖畔の父の屋敷を相続したという話をエリーザベトの母から聞きます。 (この小説の原題『インメンゼー』はここで初めて出てきます。) そして母は、「あの方はとても親切で物わかりのいい青年ですよ」と言います。

 ここに一種の三角関係が成立するのはお分かりでしょう。 女性はエリーザベト、男性はラインハルトとエーリヒの二人という図式です。 そしてここで重きをなすのがエリーザベトの母が下す評価なのです。 大学に入る前のピクニックでラインハルトがエリーザベトのためにイチゴを見つけてやれなかったことは先に見たとおりですが、ここで母はエーリヒに好意的な物言いをしています。 その背後に、エーリヒが最近父から屋敷を相続したという物質的理由があるらしいことも推測がつくでしょう。

 

(5)エリーザベトの結婚

 休暇が終わって大学町にラインハルトが帰るとき、彼はエリーザベトと二人で別れを惜しみますが、彼女は前の晩に母とあなたのことを話し合ったと告白します。 「あなたはもう昔みたいにいい人じゃないって母が言うの」。

 母の意向は明瞭でしょう。 大学で将来お金になるかどうかも分からない学問をやっている青年より、確固たる物質的基盤を持った青年と娘とを一緒にしたいということなのです。

 では肝腎のエリーザベトの気持ちはどうなのでしょうか。 ここでエリーザベトは、母に対してあなたのことを弁護した、と言います。 また、エーリヒはラインハルトが大学に入ってから時々エリーザベトの家を訪れるようになっていたのですが、彼女はラインハルト宛てに出した手紙に次のように書いています。

 「あなたの旧友エーリヒさんが時々訪ねてきて下さいます。 あの方は茶色いコートに似ていると昔おっしゃいましたわね。 あの方が戸口のところにいらっしゃると、私はいつもそのことを思い出しておかしくてたまりません。でもそのことは母には言わないでね。 母はそれを聞くとすぐ怒り出すものですから」。 

  「茶色いコートに似ている」というのは、エーリヒの滑稽なイメージを表現したものです。 ラインハルトのこうした評価をエリーザベトは共有していると見ていいでしょう。 しかし、最後のところを読むと、母はこの頃からエーリヒびいきだったらしいということも分かります。

 ラインハルトは別れに際して、「これから二年間会えないけれど、僕には美しい秘密がある。二年後に帰ってきたら教えてあげる」とエリーザベトに言います。 いささか分かりにくい表現ですが、一種の求愛の言葉と見ることができます。

 しかし二年後、ラインハルトが相変わらず大学町で研究に励んでいると、自分の母からの手紙が届きます。 それはエリーザベトの婚約を知らせるものでした。

 「エーリヒが昨日とうとうエリーザベトから承諾の返事をもらいました。 ここ三カ月の間に二回申し込んで駄目だったのですが。 エリーザベトはずっと決心が付きかねていたのですが、とうとう決断をしたわけです。 何しろまだ若いことですから。 結婚式は近々行われる予定で、それが済むと彼女の母も一緒に当地を去ることになるでしょう」。

 エリーザベトがエーリヒと婚約するに際してさんざん迷ったらしいこと、またこの結婚では、エーリヒがエリーザベトの母をも引き取ることが条件になっていたらしいことが分かります。

 

(6)数年ぶりの再会

 数年が過ぎて、一人の旅人がインメン湖畔のエーリヒの屋敷を訪れます。 それはラインハルトで、エーリヒの招きでやってきたのでした。 ちなみに、旅人を迎えるエーリヒは茶色いコートを着ており、そのイメージが昔から全然変わっていないらしいことがうかがえます。

 エーリヒは、妻には内緒で君を招待したのだと言ってラインハルトを当惑させます。 案の定、エリーザベトはラインハルトと再会して驚愕の表情を隠せません。

 この屋敷でエリーザベトがどんな状況におかれているのか見てみましょう。 まず、彼女は結婚してから数年経つわけですが、子供がいません。 実はこの点については示唆的な描写があります。 旅人を迎えに出たエーリヒが、自分の野菜畑に降り立ったコウノトリを追い払うシーンです。 コウノトリが赤ん坊を運んでくるというヨーロッパの民間伝承は、誰でも知るとおりです。 つまりここでエーリヒは、コウノトリを追い払うという行為によって自ら子供の誕生を遠ざけているのだと暗示されているのです。

 また、エリーザベトはこの屋敷の家政も司(つかさど)ってはいません。 ラインハルトがエーリヒ夫妻と広間で話をしていると、エリーザベトの母親が入ってきて久しぶりですねと挨拶をするのですが、ここで彼女が鍵籠を持っているという描写がなされているところが要注意です。

 鍵籠とは何でしょうか。 屋敷内の部屋の鍵をまとめて入れておく容器です。 なぜそんなものが必要なのでしょうか。 屋敷内には家具調度類などの貴重品があるほか、食品や様々な日用品類が蓄えられています。 今のように日常必要な物資はそのつどスーパーで買う時代ではありません。 一家の家政を司る人間は召使い等に指示を与えつつ、屋敷内で衣食に必要な品を作ったり、蓄えたりしておかなくてはなりません。 そして盗難を防ぐために、部屋には鍵がかかるようになっています。 その鍵をまとめて持っているということは、一家の家政を預かっているというしるしなのです。

 この屋敷の主人はエーリヒです。 普通に考えれば、その妻、つまりエリーザベトが主婦として家政を司るのが自然でしょう。 ところがそうではない。 また彼女には子供もいないのです。

 今のように女性も職業を持って男女平等を目指せという観念が一般的ではなかった時代、結婚した女性の役割は二つありました。 家政を預かること、そして子供を産んで育てることです。 エリーザベトはそのいずれの役割も果たしていないでのです。 また、後を読むと分かりますが、エリーザベトの母はエーリヒの仕事にも関与しているようなのです。 やり手で意志が強いお母さんと、美しくはあっても自分の意志がはっきりしない娘、という図式が見えてきはしないでしょうか。

 

(7)「母の願いは」

 ところでラインハルトは今現在何をしているのでしょうか。 大学時代に始めた研究を続行して、民謡収集の仕事をしているのです。 そのために方々を旅して歩いており、エーリヒの屋敷に立ち寄ったのもその途中でのことでした。 実務の世界に生きているエーリヒとはあくまで対照的な人生と言えましょう。 ラインハルトは収集した民謡をエーリヒ夫妻の前で披露し、一緒に歌ったりします。 そしてそれに続けて次のような詩を朗読します。

 母の願いは君ならぬ/人に嫁ぎてあらかじめ/胸にちぎりしその人を

 忘れはてよというなれど/われには堪えじその願い。

 母に向かいてつれなかる/母の仕打ちを嘆けども/さなくば清きこの恋も

 今は罪となりはてて/せんすべもなき身の哀れ!

 なべての誇り喜びも/消えて得たるはこの悩み/ああ、この憂き目見んよりは

 乞食となりて土赤き/荒野ふみこえ去りゆかん!

 自分には好きな人がいたけれども、母の意向に従って別の人と結婚したために、あの人への恋心は背信となってしまった。 こんなことになるのなら、いっそ乞食に身を落としてどこか遠くに行ってしまいたいと思う――そういう詩ですね。 エリーザベトの人生を暗示するかのような内容です。 この詩を朗読するうちにラインハルトの手は震えだし、エリーザベトは朗読が終わると無言で庭に出ていってしまいます。

 

(8)エリーザベトの選ばなかった人生

 翌日、エーリヒとエリーザベトの母は商用で出かけたので、ラインハルトとエリーザベトは湖畔を二人で散策します。 そして戻ってくると、鋏研ぎ屋と、気の触れているらしいボロ服を着た少女とが屋敷の前に来ています。 手をさしのべて物乞いする少女に、エリーザベトは財布の中身を全部ぶちまけて、すすり泣きながら一人で階段を昇っていってしまいます。

 ここでのエリーザベトの心境を考えてみましょう。 明らかに昨晩ラインハルトが朗読した詩が脳裏にあったのです。 母の意向で好きな人との結婚を断念したけれど、それを後悔する気持ちが強くなり、いっそ乞食になって放浪したいと思う――そんな詩でした。 けれども、目の前に本当の物乞いが現れてみると、自分の意志を貫き通すことの難しさも動かしがたい重みをもって実感されたはずです。

 エーリヒは父から屋敷を受けつぎ、実務の世界で成功を収めている青年です。 彼と結婚すれば自分はもとより、母も一緒に引き取ってもらえ、物質的な心配をいっさいせずに暮らすことができるのです。 それに対してラインハルトはどうでしょうか。 お金に縁のない研究を続けており、今なお定住せずに方々を旅行して歩いている。 自分だけならまだしも、母も含めた生活の安定がラインハルトとの結婚から望めるとは考えられません。

 目の前に現れた物乞いの少女は、自分が選ばなかった人生、つまり生活の安定をかえりみずに好きな人と結婚した場合の結末を暗示するものと見えたのではないでしょうか。 だからこそ、エリーザベトは自分と違った選択をしたのかもしれないこの少女の手に、財布の中身を全部ぶちまけてしまったのでしょう。 あたかも自分の選んだ人生のつぐないをするかのように。

 この時代、生活は市民階級にあっても厳しいものでした。 作者シュトルムは大学法学部を出て法曹関係の仕事をしていたわけですからエリートの部類に入りますが、すでに結婚して四人の子持ちになった頃、地裁判事の職についていても収入が少なくて、実家や義父から仕送りをしてもらっていました。 そして夜は家族全員が一つの部屋で就寝し、しかも真冬は寒いので子供が風邪を引かないかと心配のしどおしでした。 結婚に際して物質的な側面を重視するということにも、それ相応の理由があったのです。

 

(9)母との関係

 しかし、ここで最初に提起した問題、すなわち父の不在がエリーザベトの生き方にどう影響したかという問題を考えてみましょう。 エリーザベトのこの選択に母の意向が強く働いたらしいということが、ラインハルトとの相違点なのです。 ラインハルトにしても母一人子一人であったことに違いはありません。 それでも彼は大学で好きな学問を選択し、今も母から離れて暮らしているのです。

 無論、そこに当時男女がおかれた社会的環境の違いは働いていたでしょう。 ラインハルトは男であるが故に自分の職業を自由に選ぶことができたが、女であるエリーザベトにとっての選択はだれと結婚するかということしかなかった、とも言えます。

 けれど、女性の選択の幅が狭かったにしても、だれと結婚するかは最終的には自分の問題なのです。 選択の幅が狭いからこそ、その部分は自分の意志を貫かなければ、という考え方もできるはずです。 エリーザベトは、しかしその選択を母の意向に委ねてしまった。 幼児期から見られた彼女の母に対する依存心の強さが、最終的に彼女の人生を決定してしまったのです。

 そしてエリーザベトの母のような女性にとって、娘のそうした性格も、また娘婿であるエーリヒの (単に財産だけでなく) 性格も、きわめて都合のいいものだったのではないでしょうか。 その意味で、この物語の鍵を握っているのは実はエリーザベトの母なのだと言えるのです。

 ラインハルトは翌日早朝、書き置きを残してそっとエーリヒの屋敷を立ち去ろうとします。 しかしエリーザベトはその気配を察して彼の前に姿を現すのです。

 「二度といらっしゃらないのね」と彼女はようやく言った。「分かっているの、嘘は言わないで。もう二度といらっしゃらないのね」

 「ええ、もう二度と」と彼は言った。

 こうして二人は別れ、二度と会うことはありませんでした。

 作品の最初を改めて読むと、ラインハルトはエリーザベトへの思いを胸に秘めながら独身を通し、一生を研究に捧げたものと考えられます。 しかし、「身なりのよい」 という形容が冒頭に出てきますから、恐らくは研究の成果が認められて、それなりの地位につくことができたに違いありません。

 (作品からの引用のうち、「母の願いは」 の詩は国松孝二氏の訳をお借りしました。)

 

(2004年5月19日サイト掲載)

 

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