読書月録2012年
西暦2012年に読んだ本をすべて公開するコーナー。 5段階評価と短評付き。
評価は、★★★★★=名著です。 ★★★★=上出来。 ★★★=悪くない。 ★★=感心しない。 ★=駄本。 なお、☆は★の2分の1。
・玉木俊明 『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』(講談社選書メチエ) 評価★★ 2009年に出た本。 著者は1964年生まれ、同志社大の院で西洋史を専攻し、現在は京都産業大教授。 専攻は近代ヨーロッパ経済史だそうである。 大英帝国は19世紀には世界最大の帝国で、日が沈むことなしと言われた。 それは18世紀の産業革命により国力を増強し、フランスなどとの競争に勝って植民地を次々と獲得したからというのが一般的な理解。 しかし英国が地球上の覇権を握る以前、オランダが貿易等によって蓄えた財力に物を言わせ、芸術の花を咲かせた時代があった。 ではオランダはなぜ国力を低下させ英国のその座を譲ったのか。 ・・・・という疑問に答えてくれる本だと思って読んでみたのだが、結論から言うと、この著者は一般人向けの本を書く能力に欠けている。 あとがきによると最初に専門書を別の出版社から出して、それをベースに一般人向けの本としてこの書物を書いたそうだが、この本は専門家以外の人間が読むのに適していない。 そもそも、説明が非常に分かりにくい。 例えば16世紀のポーランドは 「ヨーロッパ随一の穀倉地帯」 と書いておきながら、その直後に 「ポーランドの土壌の生産性は低かった」 と続けている (45ページ)。 土壌の生産性が低いのになぜ穀倉地帯になりえるのかと普通の人なら疑問を持つわけだが、そのあとに来るのは、貴族層の勢力が強くて穀物の輸出で巨大な利益を得ていたという文章なのである。 とすると生産性が低いのに無理に穀物を輸出したら一般ピープルには回らないから餓死者が続出したんじゃないかと思うのだが、その辺には著者はまったく触れていない。 要するに普通の人間が読んでも分からない書き方をする人なのである。 また、こまごまとした学説の紹介をして、ああでもない、こうでもないと書いた挙句に、よく分からないという結論になる箇所も多く、大局的にどういう方向で物事が進んでいたのかを理解することがきわめて困難である。 失礼ながら著者はあまり能力が高くないんじゃないだろうか。 いろいろな学説を参照はしていても、それを自分なりに咀嚼して大きな流れを理解し一般読者に分かりやすく提示する能力が完全に欠如している。 まあ、専門家には学説の紹介がいろいろあるから面白いのかもしれないが、一般人には細かいデータを相互の脈絡もよく分からないまま出されても意味などないのである。 本書でふつうの読者が読むに値するのは、最後におかれた 「終章」 だけである。 ここだけ読めばたくさん。 後は読むだけ無駄である。
・モーリス・ルブラン (平岡敦訳) 『ルパン、最後の恋』(早川書房) 評価★★ 名高いルパンものを書いたルブランは1941年に死去したが、ひとつだけ未公刊のルパン作品があり、それが最近、ルブランの孫娘が原稿を見つけ出し、彼女の了承のもとに刊行された。 というわけで、ルブランの没後70年にしてルパンの新作が読める、といううたい文句で出た本である。 期待して読んだのだが、うーん、ミステリーとしては面白くない。 冒険談と見たほうがいい。 或いは、タイトルどおり、ルパン最後の恋物語ということで。 最初はルパンの曽祖父がナポレオンに仕える将軍であったという話が出てきたりして、そこに後年、怪盗ルパンが巻き込まれる謎解きに関わる書物が出てきていて期待させるのだけれど・・・・どうも竜頭蛇尾の感がある。 なお、ルパンものの第一作 『アルセーヌ・ルパンの逮捕』 の初稿版が併録されている。
・宮崎学+小林健治 『橋下現象と部落差別』(にんげん出版・モナド新書) 評価★★★ 先ごろ、大阪市長・橋下徹に関する連載記事を 『週刊朝日』 が掲載し (第1回のみでストップ)、それが出自と人間性を安易に結びつけた差別的な内容だとして橋下氏がブログで批判、結局 『週刊朝日』 側が謝罪し、連載は打ち切り、責任者は処分となって決着した。 本書はこの問題について、被差別部落出身者で文筆家の宮崎学と部落解放同盟の重鎮である小林健治が対談し、その本質や射程について徹底的に明らかにしようとしたものである。 私は 『週刊朝日』 の当該記事は読んでいないのだが、いちおうここでは記事には問題があったという前提で書く。 橋下の政治家としての姿勢には反対だが、出自と政治家としての性質を安易に結びつけるやり方は差別的だから、きっちり問題視しなくてはとする著者二人の主張は基本的に正しいと思う。 また、これ以前にも文春や新潮といった週刊誌が同様の記事を載せていると指摘し、そうした汚い差別的な記事を、橋下の政治的手法が気に入らないから容認してしまうジャーナリストや知識人の姿勢を批判するところもうなずける。 ・・・・というわけで、基本的な内容には賛成なのだが、特に小林氏の発言は部落解放同盟のこれまでの行動で都合の悪い部分にあまり触れていないように思う。 例えば糾弾権を裁判所も認めていると氏は述べているけど (54-55ページ)、そこで引かれている矢田事件は、部落解放同盟の糾弾行為が暴力をともない負傷者を出したということで部落解放同盟員が有罪となっているのである。 つまり、部落解放同盟のやったこと自体を裁判所が認めたわけではないのだ。 対談者二人は最後のあたりで、橋下氏の今回の主張を糾弾行為だとしているけれど(229ページ)、普通の人間の感覚からすればあれは 「糾弾」 ではなく、「抗議」 や 「批判」 である。 対談者二人はどういうわけか、糾弾行為とは 「暴力的につるしあげたり、問いつめたりして、非を認めさせればいいというものではない」 としているのだが (231ページ)、上記矢田事件をはじめとして部落解放同盟の過去の糾弾行為を見てみれば、「暴力的につるしあげたり、問いつめたりして、非を認めさせ」 るものであったと言うしかなかろう。 だからこそ、藤田敬一のように部落解放運動を支持しながらも 『同和はこわい考』 を書く人間が出てきたのではなかったか。 小林氏は一方では部落解放運動で批判すべき点はどんどん批判して欲しいと言っているけれど、他方でそういう批判を行った 『同和利権の真相』 を 「売らんがために差別意識を利用している」 と述べている (88ページ)。 内容に誤りがあるとして具体的に指摘するならいざ知らず、こういう言い方で済ませていては、部落解放同盟が本当の意味で部落外の人たちから信頼を得ることは難しかろう。
・おおたとしまさ 『女子校という選択』(日経新聞出版社・日経プレミアシリーズ) 評価★★ 著者は1973年生まれ、麻布中高から東外大中退、上智大卒のジャーナリスト。 タイトルどおり、共学化が戦後一貫して進む中で、中学や高校では別学の学校を選ぶのがむしろよいのではないか、と主張した本である。 その根拠は、男女の脳には性差があり、特に十代の受験を控えた時期には男女を分けて学習したほうが進学実績が高まるという内外のデータにある。 私も主としてこの部分に興味があって本書を読んだ。 何しろ私の出身地である福島県も、以前は旧制中学から戦後高校に昇格した学校は長らく男女別学だったのだが (私の高校も私が在籍した当時は男子校)、十数年前からそれらが一律に共学校に変更されていった。 同窓会などは反対したらしいのだが、県側が強引に押し切ったということのようだ。 その結果はどうかというと、大学への進学実績が悪化してしまったのである。 これなんか、男女共学を強引に推し進めた政策決定者の責任問題じゃないかと私は思いますけどね。 福島県の高校生のキャリア形成を不利にしたわけだから。 福島県だけではなく、宮城県なんかでも同じ政策をとっている。 著者は、男女平等だから共学でなければというのはおかしいと述べていて、そこは私もまったく同感なのである。 ・・・・というわけで、前半はなかなか良かったのだが (前半だけなら★★★)、後半がよろしくない。 東京を中心とする女子校の紹介にかなりページを使っており、それも著者が独自にリサーチして各女子校の欠点も含めた特徴を明らかにするというならともかく、そうではなく、各女子校の校長だとか、有名人になった出身者だとかの声をそのまま載せているだけ。 これって、ジャーナリスト失格じゃないですか。 まるで広告特集で本を作ったみたいなものじゃん。 すごく安易な本作りですね。 まあ、私立校だけでなく、別学を残している埼玉県の浦和第一女子高だとか川越女子高といった公立校も載せているのはいいと思うが。 埼玉県は福島県や宮城県の轍を踏むことなく頑張ってほしい。
・フィリップ・K・ディック (浅倉久志訳) 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ハヤカワ文庫) 評価★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 ちなみにこの授業はSFをテーマとしている。 本書は1968年にアメリカのSF作家が出したもので、いわゆるスペースオペラなどが流行した素朴な時代の後に来たSFとして高く評価されているらしい。 近未来の地球が舞台で、最終戦争で荒廃してしまい、人類の少なからぬ部分は火星に移住しており、地球に残された人類は生き物、それもなるべく大きな動物を飼うことを価値として生きている。 主人公の男は、アンドロイド狩りを仕事にしているが、収入が少なくて目下は生きた羊ではなく、人工の電気羊を飼っており、自己のステイタスを上げるためにも何とか人工ではない動物を入手したいと思っている。 そういう男が、アンドロイド狩りをしつつ、アンドロイドと人間の違いはどこにあるのかと悩んだりするお話である。 ・・・・学生の希望もあってこの作品を読んだわけだが、正直、あまり面白いとは思わなかった。 単純なスペースオペラより文学性が高いという評価もあるらしいけれど、うーん、私は素朴なスペースオペラのほうがまだしもじゃないかという気がする。 読んでいて、出版が1968年なので、未来のお話なのにタイプライターに複写紙を使ってコピーをとるとか、お気に入りのオペラ歌手のコレクションをテープで所有しているとかいう描写が何ともおかしい。 筋書きや描写をよく読むと、いくつか辻褄が合わない箇所もある。 また、ジョン・ダンの詩句 「誰も孤島ではない」 を、ちょっと知恵遅れだとはいえ人間がシェイクスピアの詩句だと思い込んでいて、アンドロイドに正解を教えられる箇所がなかなかいい。 ちなみにこの詩句の続きがヘミングウェイの長編小説のタイトルになった 「誰がために鐘は鳴る」 だとは、学生7人は誰も知らなかった。 でも2年生だし仕方がないか。 なお、映画 『ブレードランナー』 は、この小説を原作としている。
・鈴木翔 (解説=本田由紀) 『教室内カースト』(光文社新書) 評価★★☆ 著者は1984年生まれ、群馬大教育学部を出たあと東大大学院教育学研究科で学んでいる人。 本書は、学校の中で生徒が上中下の階層に分かれている現状をリサーチしたものである。 基本的に、男ならスポーツマンでイケメンである者が上となるらしい。 学業の成績は無関係。 スポーツ・クラブ所属者は卓球部を除いてカーストが高くなるとか、文化部は音楽関係を除いてはカーストが低くなり、特に美術や演劇などの芸術系は最低だとか、まあまあ面白い部分もある (これで言うと、中学時代は美術系、高校時代は文学系のクラブに所属し、スポーツというと卓球しかやらない私なんぞは最低のカーストだったわけだ)。 同じ階層に属する人間はその中で群れていて、また下層になると上のカーストへの従属感が高まるらしい。 ・・・・が、読んでみて、期待ほどの内容ではないなというのが率直な読後感。 著者が生徒や、かつて生徒だった大学生、また教師らにインタビューしながらまとめていくのだけれど、インタビューの内容がそのまま綴られ、そのあと著者がそれをまとめる手法が何ともゆっくりしていて、薄いというか、もう少し凝縮性のある書き方はできないのかなという気がした。 また、教師へのインタビューは少ないのだけれど、それは教師でインタビューに応じてくれる人が少なかったということのようで、それはそれでワケありなのは分かったが、著者も言っているように、教師 (いずれも二十代の男性) が教室内カーストを基本的に容認しているということが、かなり問題だと思った。 中には上位カーストに所属する生徒はコミュニケーション能力が高く将来性がある、なんてぬけぬけと言っている教師もいる。 また、教師は上位カーストにある程度敬意を払わないと教室運営がうまくいかないという事実もあるようだ。 たしかに教師もオールマイティではないし、また生徒は教師の見ていないところで過ごす時間も長いから、そして人間が複数集まればこういうものができてしまうのもやむをえない部分もあるのだから、カーストを全面的になくすことは困難だろう。 しかし、こういう若い教師たちにおける素朴な正義感の欠如みたいなもの、これが本書を読んでいちばん気になったというか、目新しく感じた部分である。 いじめの根っこは、案外このあたりにあるかも知れない。
・中勘助 『銀の匙』(岩波文庫) 評価★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 有名な作品だが、私も読んだのは初めてである。 明治期の東京に育った著者が幼少期を回想したもの。 ・・・・・しかし、今回読んでみて、さほど感心しなかった。 まず、描かれている風俗が今では見かけないものばかりで、注はついているがそれでもよく分からない。 著者と同時代、或いは少なくとも戦前に東京で幼少期を送った人には 「昔なつかしい」 という感じで感涙に咽びながら(?)読めるのかも知れないが、私のように戦後生まれで地方都市育ちの人間からすると、ちょっと、いや、かなり距離を感じる。 明治期の風俗を研究する人や、昔の東京の神田や小石川あたりを知りたい人以外に読む価値があるのかどうか、疑問。
・呉智英 『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房) 評価★★★★ 呉智英氏の最新刊。 鹿島茂まで吉本隆明賛美をやっているのに呆れた私だけど (このページの4月を参照のこと)、さすが呉智英、きっちりした吉本批判の本を書いてくれました。 そもそもが鹿島茂まで吉本賛美をやっていると呆れているところが私と呉氏とで共通しているので、最初からかなり高い共感度をもって読み進めることができた。 何より、きわめて分かりやすいところがいい。 言い換えれば、吉本隆明が団塊の世代前後から高く評価されたのは、分かりにくい (或いは破綻している) 文章が分かりにくいがゆえに信仰の対象とされたからだろう。 私の知っている吉本主義者にはろくな奴はいない。 ドイツ語教師の癖に教養部が解体したとたんに豹変してドイツ語は必要ないと言いはじめ、そのくせドイツ語教師をやめるわけでも大学を辞職するわけでもなく、しかしドイツ語蔵書の収集はバカにし、大衆文化論なんて吉本主義丸出しの看板を掲げる奴だとか、その程度である。 要するに地方都市にあっては、日本的日常からついに離れず、田舎の常識に逆らわない凡庸な精神の持ち主こそ、吉本主義者になるということであろう。 吉本の言説は、知識人になることができなかった人間の言い訳としてしか機能しないのである。
・吉田一彦 『無条件降伏は戦争をどう変えたか』(PHP新書) 評価★★☆ 8年近く前に出た新書をBOOKOFFにて半額購入。 著者は1936年生まれで神戸大教授を務めた人。 第二次世界大戦でアメリカはドイツと日本に無条件降伏を求めたが、それがかえってドイツや日本の絶望的な抗戦を激化させ、連合国と枢軸国双方の犠牲者を増大させたのではないかという説を展開している。 まず、無条件降伏という考え方がどこからどういう経路でもたらされたのかについて説明がなされている。 対独強硬策を主張したモーゲンソーという人物 (ドイツ系ユダヤ人の子孫) の人となりや人脈や思想が分かる。 またルーズベルト大統領の、自己保身的で一貫しない戦争方針だとか、アメリカ軍がヨーロッパに入っていくときの問題点や戦略も分かる。 ・・・・というわけでいろいろな知識は得られるのだけれど、どうもタイトルにも表れている著者の主張が全面的にうなずけるかというと、個々の事項に関する記述はともかくとして、全体としてまとまりのある説得力が生じているようには思えない。 あと、例えばドイツでヒトラー暗殺計画を推進したシュタウフェンベルクをシュタウヘンベルクと表記したり、その作戦名をバルキューレ (ヴァルキューレ、もしくはワルキューレでしょ) としたり、またシュタウフェンベルクは暗殺計画決行時には大佐だったはずだが、この本では少佐に昇進したことまでしか触れられていないなど、杜撰さもあり、たまたま私の知っている事項についてこうもいい加減だと、他の記述もそうなんじゃないかと疑ってしまうのである。
・カズオ・イシグロ (土屋政雄訳) 『日の名残り』(ハヤカワepi文庫) 評価★★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 英国1950年代、大きなお屋敷で執事を務めるスティーブンスが、かつて両大戦間期に仕えた主人であるダーリントン卿を回想しつつ、現在はアメリカ人の所有となっているその屋敷の召使い人事に頭を悩ませ、戦前に女中頭(ハウス・キーパー)として仕えていて、その後結婚して退職したミス・ケントンから最近手紙が来たことを思い出し、もしかして屋敷で再度勤務するつもりはないだろうかと考え、現在の主人に休暇をもらったのを機に彼女を訪ねていくという筋書き。 途中で、ダーリントン卿時代への回想が挿入され、卿がナチスが台頭しつつあるドイツと何とか協調路線をとりたいと考え、お屋敷でひそかに英独や米仏の要人を招いて会議を開いていたことが分かるようになっている。 第二次世界大戦以前の階層社会としての面影を濃くとどめていた時代の英国で執事として大きなお屋敷の維持に努めたスティーブンスの勤務や仕事の内実が描かれ、また大衆デモクラシーか貴族による寡頭政治かといった問題も登場する。 スティーブンスは執事として最も多忙だった時期には、仕事に没頭するあまりプライヴェート面で2度大事を逸する。 すなわち最初は父((かつてはやはり執事だった)の死に目に会えず、二度目は自分に恋心を抱いていたミス・ケントンの思いに応えることができなかった。 ミス・ケントンはそのために意に染まぬ結婚をして屋敷を去り、またダーリントン卿は戦後ナチ協力者の汚名を着る。 こうした、スティーブンス、ダーリントン卿、ミス・ケントンの3人の、ベストとは言えない人生模様が語られる。 けれども、スティーブンスはあくまで仕事第一だった自分の人生を悔いず、また愛のないまま結婚をしたミス・ケントンも今は夫を愛し孫がまもなく生まれることを誇らしげに語っており、スティーブンスは回想のなかでかつての主人であるダーリントン卿の行為を擁護する。 ベストの人生でなかろうと、人間はそれなりに生きていくしかない、そうした哲学が、語りのなかからにじみ出てくる。 ・・・・なお、解説を書いている丸谷才一は、これを彼らの悲劇として捉えているようだが、私は違うと思う。 おおかたの人間にとっては人生はベストではありえないのであり、イシグロはそうした真実を書いているに過ぎない。 ダーリントン卿は戦後には対独協力者と断罪されるが、そもそも両大戦間の英国は対独宥和政策が主流だったのであり、ミュンヘン会談でヒトラーの言い分を認めた英国のチェンバレン首相は帰国して国民に大歓迎されたのである。 当時の英国国民は、これで戦争が避けられたと思ったからだ。 後知恵からするとそれは誤りだったのだが、政治に責任を持たない一般国民は戦前のことはけろりと忘れてダーリントン卿のような要人のみを非難する。 そうした時代の流れの持つ残酷さは、スティーブンスが執事を務める屋敷がアメリカン人の手に渡っていることと符合する。 イシグロはあくまでそうした時代の流れを描いたのであり、主要人物三人のベストならざる人生は決して失敗ではないと言っているのではないか。
・藤本夕衣 『古典を失った大学 近代性の危機と教養の行方』(NTT出版) 評価★★★★ 著者は1979年生まれ、京大教育学部で大学院博士課程までやり、現在は東大の特任研究員。 近年、「大学改革」 が進むなかで、実用性や実社会に出てすぐ役に立つ知識が求められ、古典を読んだり、教養を重視したりする授業は分が悪くなっている。 著者はこうした事態に関して1970年代のポストモダンの流行に淵源を見い出し、本書ではA・ブルームの 『アメリカン・マインドの閉塞』 (邦訳名は 『アメリカン・マインドの終焉』) とローティを取り上げることで、古典や教養の意義を改めて考え直そうとしている。 著者によれば、一般には古典重視の保守派というレッテルを貼られているA・ブルームおよびその著書 『アメリカン・マインドの閉塞』 は、実は哲学的にはるかに深い内容を持っているという。 70年以降、ニーチェ主義の左翼系学者による価値観破壊的な論文や著書がアメリカの学界内で主流になり、それはニーチェ本人が持っていた哲学する意志とは無縁で、一定の流儀で物事を処理する怠慢さの産物であり、古典との対話こそそうした怠慢さへの批判を生み出す、つまり真に哲学する態度を生み出す基本になる、というのが、本書の著者の読解したA・ブルームの真意である。 さらに、一般には保守派批判の立場と見られるローティを著者は取り上げ、彼もまたA・ブルームとは別の意味で古典読解や教養を重視しているとしてその内実に迫ろうとする。 この二人以外にL・シュトラウスらへの言及もある。 前半、A・ブルームを読み解くところが著者の力量を示していて、本書の真骨頂だと思う。 ローティについてはやや面白味が減る感もあるが、全体としてとても興味深い書物。 日本でも、団塊の世代から私より少し年少の世代にいたるまでの日本の独文学者の一部にここでA・ブルームに批判されているような左翼系ニーチェ主義の学者がいて、まあそれは70年代の西ドイツにも同じような風潮があったからなのだが、そういう連中には私はうんざりしているので、本書を読んでかなり説得的だなとうなずいたことであった。 また、日本の大学人にはもともと西洋に比べると頑強な古典主義者はあまりいない、なぜなら日本の外国文学者は思想や文化の輸入業者に過ぎず自分の頭で物事を考えないから、というのが私の持論なのだが、本書の著者には今後そういう方面の研究も期待したい。
・ヴァルター・デピッシュ(村井翔訳) 『R・シュトラウス (大作曲家シリーズ)』(音楽之友社) 評価★★★ R・シュトラウスという作曲家はあまり好きではないし、その曲にも詳しいわけではないのだが、それでも最近年をとったせいか(?)、この作曲家についても少し勉強しておこうという気になり、ぼつぼつとオペラを聴いたり、本書を読んだりしているところである。 というわけで本書はR・シュトラウスのまとまった伝記なのだが、あとがきにもあるように原本はドイツの 「rororo Bildmonographie」 シリーズの一冊であり、出たのは1968年なのである。 そもそも著者は1916年生まれ (第一次世界大戦中!) で1990年に没しており、この邦訳は1994年に出ているのだから、何となく 「ちょっと古いんじゃね? もっと新しいのはなかったの?」 と言いたくなってしまうのだが、訳者もその辺は意識しているようで、1994年の段階であちらの書籍目録に載っているR・シュトラウスの伝記はこれ一冊と請け合ったうえで、最後にもっと新しいシュトラウス伝が書かれるべきだと屈折した書き方をしている。 専門家でない私にはこの辺の当否は何とも言いかねるけど、ナチスとシュトラウスとの関わりについてなど、まあ非政治的な人だったから仕方がないかもしれないが、それでも亡命した芸術家からすればR・シュトラウスは事なかれ主義に見えるわけで、そういうところについてはほとんど触れられていないなど、著者は軟弱な人なんじゃないかという疑問が残る。 それでもまあ、悪妻の誉れ高い(?)パウリーネ夫人だとか、ロマン・ロランのR・シュトラウス評価だとか、R・シュトラウスが音楽家として活動し始めたころのドイツ語圏の歌劇場の様子だとか、いろいろなことが分かって勉強になる本ではある。
・芝健介 『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』(中公新書) 評価★★★★☆ 大学院の授業で学生と一緒に読んだ本。 ナチスによるいわゆるホロコーストの過程と全貌を、最新の研究に基づいてまとまりよく紹介している。 ホロコーストというとアウシュヴィッツ絶滅収容所が有名だが、それ以外のいくつかの収容所でも劣らない数のユダヤ人が殺戮されており、しかしそれらの施設は戦中に破壊され証拠隠滅が図られたために実態が遅れて解明されたもので、そうした一般には有名とは言えない収容所も含めて内実が明らかにされている。 また、ユダヤ人殺戮が進行した過程も一筋縄ではいかない複雑さがあるし、そもそも大量殺戮を指令したのがヒトラーなのか、それとも彼から収容所の指揮をゆだねられていたヒムラーなどの部下なのかについても、専門家の間で見解が分かれているらしい。 本書はこのように必ずしも理解が容易ではないホロコーストについて、新書という限られたスペースでアプローチを容易にしてくれる良書である。 また学説史や、学者ごとの見解の相違に関しても最後でまとめてくれているので、同じテーマによる他の書物を読むときにも参考になる。
・森炎(もり・ほのお) 『死刑と正義』(講談社現代新書) 評価★★★★ 著者は東大法学部を出た後、地裁の裁判官として勤務してから弁護士に転じた人。 本書はタイトルどおり、死刑という刑罰を日本で課す際の問題点について自分の体験をも含めながらまとめたものである。 どういう場合に死刑になり、どういう場合にならないかに関して、日本の裁判所の考え方を分かりやすく説明すると同時に、自分なりの批判も書いており、また最近の裁判員による裁判が従来の日本の裁判所の基準をよくも悪くも逸脱しつつあることにも触れている。 日本では死刑と無期懲役との間に終身刑を設けよという主張が、主として死刑廃止論者によりなされているが、実は無期懲役を言い渡す際に裁判官が一言添えることで事実上の終身刑にできようになっているという指摘 (32ページ) は貴重。 また、死刑かそうでないかについて著者は殺人事件をいくつかのタイプに分類することで論じている。 個々の著者の考え方――この場合は死刑で妥当、あちらは妥当ではないなど――については、法律の専門家でない我々には必ずしも説得的であるわけではないが、おそらく著者はその点は承知の上で本書をものしており、我々としては、「うん、たしかにそうだ」 とか、「こういう考え方をする法律家は、常識からズレてるんじゃないか」 などとつぶやきながら読んでいけばよいだろう。 死刑について考えたい人は必読。
・フローベール (生島遼一訳) 『ボヴァリー夫人』(新潮文庫) 評価★★★ 授業で取り上げて学生と一緒に読んだ本。 私としては通読するのはたしか3回目である。 最初は高校生のとき、2回目は教師になって間もないころ。 今回しばらくぶりで通読してみて、改めて細かい描写が多いことにうなった。 これだけの描写をして仕上げるにはかなり時間がかかるだろうな、と。 それから、150年前のフランスの小説だから当たり前だけど、学生の理解がなかなか及ばない部分があるということ。 例えば、エマが結婚して間もないころに一度だけ貴族の夜会に招待されるのだが、そこで貴族の婦人がわざと扇子を落として紳士に拾ってもらい、その瞬間を利用してその紳士の帽子に紙切れを入れるというシーンがある。 ここの箇所がどういうことなのか分からないと学生から質問が出て、他の学生にも訊いてみたが正解 (=アヴァンチュールへの誘い) を出せた学生はいなかった。 また、エマは不倫をして借金を重ね、最後には借金で首が回らなくなって自殺するわけだが、「自分で働きに出て借金を返せば」 という意見が学生から出たのは、やはり現代ならではであろう。 150年前のフランスで中流の奥方が働きに出るわけがないし、この小説の最後でエマの遺児である娘は祖母宅に移り、さらに祖母が死んで貧しい叔母に引き取られるのだが、その叔母によって綿糸工場に働きに出させられていると書かれていて、これは本来は中流家庭の娘だった彼女が下層階級に転落したことを意味するのだ、というようなことは説明しないと学生には分からないようである。
・岡田温司 『アダムとイヴ 語り継がれる 「中心の神話」』(中公新書) 評価★★★ タイトルどおり、キリスト教の旧約聖書に出てくる最初の人間、アダムとイヴを取り上げ、彼らが神学者や絵画によってどのように捉えられてきたかについて薀蓄を傾けた本。 エデンの園の位置であるとか、カインとアベルについての諸説についても詳しく書かれている。 また、アダムとイヴの息子であるカインとアベルが不幸な事情から死んだり追放処分になったりしたあと、次の息子として生まれたセツについても書かれており、セツがなぜカインとアベルについてほど諸家から言及されないのかという問題について最後に見解が示されているところが、シメとして利いている。 結局、罪深さという要素がないと、取り上げられることすらないということなのですね。 善人は人々の記憶に残らないというのが真理なのかも。
・柄谷行人 『哲学の起源』(岩波書店) 評価★★★ 柄谷行人の新刊。 彼の新刊を読むのも久しぶりだ。 前作の 『世界史の構造』 はパスしたので。 で、ここではイソノミア (無支配、自由) こそが自由と平等の両立を可能にするあり方だとして、それが古代のイオニア (トルコの地中海沿岸) にあったとする。 古代にあってはギリシアでなくイオニアが哲学や科学の先進地であったものが、やがてアテネなどのギリシアがそれを受け継ぐ過程の中でイソノミアは消滅し、代わってデモクラシー (民主主義) が新たな価値となっていくが、デモクラシーは僭主など独裁と結びつきやすい。 事実アテネの政治も僭主によっていた時期もあり、また特定の支配者層による政治がなされていたこともあった。 またギリシアはモノを作ることを卑しむ価値観を有していた。 イオニアにはそうした価値観はなかったはずなのに。 そしてイソノミアはソクラテスの段階ではまだ生きていたのに、プラトンによって歪められ、哲人政治というようなものへと変形させられていった、と柄谷は述べている。 論としては面白い。 ただし、イオニアにあったとするイソノミアというものの実態はあまり説得的に詳細に語られてはいないし (資料の関係もあろうが)、また交換形態の中にこそ真のイソノミアはあるとする著者の言い分は、結局きちんと論究されないままに終わっているようである。
・長山靖生 『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』(河出書房新社) 評価★★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 タイトルどおり、幕末・明治のころから戦後に至るまでの日本のSFを通史的に概観している。 といっても、狭義のSFだけではなく、幕末や明治のころなら一種の社会構想小説としてのSFがあったわけだし、大正のころになると、一般には探偵小説の雑誌として知られる 『新青年』 にもSFが登場し、ジャンルとしてのSFが確立していくわけで、またこの頃になると現代でも読むに耐える作品が書かれていく。 労作であるが、多少の注文をつけると、特に幕末明治のころだと作家名や作品名をどう読んでいいか分からない場合が少なくないので、分かる限りでなるべくルビをつけてほしい。 あと、タイプミスと思われる箇所が若干あった。 例えば変革探偵小説 (148ページ →変格探偵小説)、徳川無声 (182ページ →徳川夢声) など。
・原武史 『団地の空間政治学』(NHKブックス) 評価★★★ 団地についての著書が多い原氏だが、今回は戦後の団地と政治についての本を出した。 大阪についても書かれているが、メインになっているのはやはり首都圏である。 皇太子夫妻 (現在の天皇皇后) がひばりが丘団地を訪問したというイベントが意味するところから始まって、団地の形成によって自治組織が生まれ、それが60年安保やいわゆる革新自治体形成にかかわりを持っていく様子が描かれている。 また、のちに日本共産党の幹部となる上田耕一郎や不破哲三なども団地に住んでいた時期があること、団地といっても場所により、団地に直接かかわる生活上の利害を中心に動いていたところと、もう少し高尚な(?)レベルで動いていたところがあることなどなどが指摘されている。 資料が必ずしも完備していないので分からない部分もあり、そこは素直に分からないと書かれているのがいい。
・林英一 『残留日本兵 アジアに生きた一万人の戦後』(中公新書) 評価★★★ 第二次世界大戦で日本が敗れて、東南アジア・中国・ソ連で戦っていた日本兵は帰国したはずだが、実際にはさまざまな事情から現地に残り、そこで独立戦争を戦ったり仕事を得たり家庭を築いたり、或いは強制労働をさせられたりした者も多かった。 本書は主として地域別にさまざまな事例を挙げて、この問題の複雑な様相を描こうとしたものである。 実際、残留兵と一口にいっても事情は多様だし、独立戦争といって必ずしも地域が一丸になってヨーロッパの宗主国に歯向かっていたわけではなく、内部での利害関係などの対立により分裂もあったし、そうした中におかれた日本人兵士が時には時代や地域に翻弄され、或いはたくみに生き延びていく様子を読むと、この問題について大雑把なことを言って総括しようというような気にはならなくなる。 これは単に日本人だけの問題ではなく、たとえばヴェトナムでは戦後しばらくこの問題はタブー視されていたが、最近日本との経済交流が活発になって、改めて日本人が戦後ヴェトナムに残した軌跡を評価しようという気運が生まれているのだそうである。 歴史の見方は、まさに地域次第、時代次第だと痛感させられた。
・新井潤美 『執事とメイドの裏表 イギリス文化における使用人のイメージ』(白水社) 評価★★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 階級国家である英国の使用人にはいろいろな種類があるようで、たとえば下男と従僕の違いなんてのは私も知らなかったが、その辺を含めて、執事、家令 (これが執事とどう違うかは分かりにくい)、ハウスキーパー、メイド、ナニー、料理人など、それぞれの特質が説明されていて、またそれらが出てくる文学作品や映画も紹介されているので、楽しく読むことができる。 1971年ころ、『ぼくらのナニー』 というアメリカ製テレビドラマが日本で放送されていたのを私は覚えていて、当時の私は高3から大学1年生だから時々見ていたに過ぎないが (そのころの私はナニーというのが普通名詞であることすら知らず、てっきり子守女中のファーストネームかと思っていた)、このドラマのナニーが実は英国出身という設定だったと知り、なるほど、ナニーの本場である英国からアメリカにやってきたというところがミソだったのだと初めて分かりました―ーただしこのドラマについては著者は触れていませんが。
・天野郁夫 『旧制専門学校論』(玉川大学出版部) 評価★★★☆ 1993年に出た本。 戦後に学制改革で大部分が新制大学に昇格した旧制の専門学校を論じている。 前半は1978年に日経新書として出た 『旧制専門学校』 を再録、後半は著者の未刊行の論文を収録したもの。 そのため、前半と後半には内容上のダブりが或る程度ある。 さて、戦前の学生においては旧制中学→旧制高校→帝大が正系の学歴であったわけだが、中学を終えたあとに実用的な知識を身につけるために進む専門学校は傍系の、しかし学生の数という点で見るなら戦前の高等教育の大きな部分をになうものであった。 特に首都圏では私立の専門学校が雨後のたけのこのように多数でき、それらのうち慶応や早稲田など少数は戦前から大学に昇格することができたが、大部分は戦後になって学制改革により大学の名を冠するようになる。 また今と異なり、首都圏の私立の専門学校には地方から多数の学生が入っていたことも分かる (今なら都会的なイメージの強い慶応ですらそうであった)。 また、官立の専門学校は私立と対照的に地方都市に多くが作られ、これが戦後に国立大学に昇格することで首都圏や関西圏に出て来れない層にも高等教育を与える重要な役割を果たしたことを著者は強調している。 ただしこの辺は、原著が1970年代に出ているので、データ的にはやや古くなっている。 途中、専門学校出と帝大出の給与の差だとか、学費の差などについて多数の表が入っているのは有益。
・ヨアヒム・フェスト (赤羽龍夫・関楠生・永井清彦・鈴木満訳) 『ヒトラー 第2巻』(河出書房新社) 評価★★★★ 大学院の授業で学生と一緒に読んだ本。 ヒトラー伝の決定版と言われ、原書は1973年に、邦訳は1975年に出ている。 邦訳の第2巻はヒトラーの後半生、つまり1933年にナチがドイツの政権を掌握してから、1939年に戦争を開始し、最初は連勝を続けたものの英国を降伏させることはできず、またソ連にも攻め入ったが冬将軍にやられてしまい、アメリカも正式に参戦して戦況が悪化していき、最後はエヴァ・ブラウンと結婚して自決するところまでを描いている。 個々の状況ごとのヒトラーの心理の変転に重点をおいて描写がなされている。 ヒトラーがヨーロッパ大陸内はともかくとして英国とは最後まで戦争継続をためらっていたことも分かる。
・ジェニフェール・ルシュール(鈴木雅生訳)『三島由紀夫』(祥伝社新書) 評価★★★☆ フランス人のジャーナリストが書いた三島伝である。 思い入れを排して、即物的な記述に徹しており、また私のような三島ファンが読んでもそれなりに教えられる部分もあって、初心者にも或る程度三島作品を読んだ人にも薦められる伝記だと思う。 訳も、三島の好んだ語彙に配慮していて秀逸。 写真もすくなからず挿入されている。 ただし、一箇所だけ、152ページ最後から2行目の 「三島の反対にあい」 は 「瑤子の反対にあい」 ではありませんかね。
・片山杜秀 『線量計と機関銃 ラジオ・カタヤマ震災編』(アルテスパブリッシング) 評価★★☆ 「片山杜秀の本」 と題されたシリーズ第5作。 今回は彼が持っているラジオ番組の内容をそのまま本にしている。 といってもCSラジオだそうで (私は聴いたことがない)、あまりリスナーは多くなさそう。 内容的には東日本大震災の直後だけあって、大震災で受けたショックやその後の原発事故などについての感想が多い。 その分、残念ながら音楽に 関する記述は減っているし、まあいつものように名前すら知らない作曲家も少なからず紹介されているのではあるけれど、大震災だとか今後の日本につ いての記述は、悪くない部分もあるが凡庸に感じられるところも少なくなく、やっぱり片山氏には音楽について語ってほしいと思ったことであった。
・西岡文彦 『ピカソは本当に偉いのか?』(新潮新書) 評価★★★★ 現代美術について一般人が抱いている疑問に答えた本。 著者は1952年生まれ (だからワタシと同年) の多摩美大教授にして版画家。 何であんなヘタクソな絵が何千万円もの価格で取引されているのだ・・・・という疑問は誰でも持ったことがあるのでは? ここで著者は、一方では写真の発明により写実では なく個性で勝負するしかなくなった美術の転換を、他方では第一次大戦少し前から勃興してきたアメリカのマネーが美術品の値段を押し上げ、美術商という商売の成立に加えて、オークションで美術品が売買されることにより、美術品が株のごときものになっていった過程を分かりやすくシロウトに説明 してくれている。 ピカソについては、デッサン力は抜群だからうまい絵であることは間違いないとしながらも、価値評価は人それぞれとしている。
・望田幸男 『ドイツ・エリート養成の社会史 ギムナジウムとアビトゥーアの世界』(ミネルヴァ書房) 評価★★★☆ ドイツの中等教育 (かつては一部のエリートだけが行けるのが中等教育だった) の代表格であった、そして今でもそうであるギムナジウムの歴史について、さらにギムナジウムを卒業すると得られるアビトゥーア (大学入学資格) の変遷や実態について書かれた本。 出たのは1998年で、当時すぐに買ったはいいけどずっとツンド クになっており、このほど必要があって読んでみたもの。 大学生や大学教授についてもある程度書かれている。 ドイツの知的エリートがどのような階層 から出ていたか、またその数はどうだったか、ギムナジウムで行われる教育がどうであったかが表を多用しながら分かりやすく描き出されている。 ラテン語とギリシア語の古典語重視はギムナジウムがきちんと制度化された18世紀末から19世紀初頭にかけての時期以来、ワイマル共和国期まで続き、 それが打破されたのはナチ時代だったというのが示唆的。 古典的教養を敵視し実用を重んじる、良くも悪くも大衆的状況は、ナチの政権取得と軌を一に していた――鈍い(失礼!)著者はそうは書いていないけど、ワタシはそういう洞察を得ました。
・川端康成 『伊豆の踊子』(新潮文庫) 評価★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 川端の短編4編を収録。 このうち表題作の 「伊豆の踊子」 だけは高校生の頃読んだけれど、それ以外の3編 「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」 は初めてであった。 「伊豆の踊り子」 は昔読んでみて特に感銘も受けなかった作品で、今回も特に面白いとは思わなかったが、語り手がエリートの一高生で、そのことが帽子から分かり、小説の中盤で語り手が鳥打帽を購入して一高の帽子はしまい込み、最後に来てまた一高の帽子に変えるあたりに、学歴エリートの意識がかなり明確に現れているのに気づいた。 残り三篇では、解説の三島由紀夫も指摘しているけれど、「抒情歌」 が面白く、川端の本質を考えるのに欠かせない作品ではないかと思ったのであった。
・クリストフ・シャルル+ジャック・ヴェルジェ (岡山茂+谷口清彦訳) 『大学の歴史』(白水社・文庫クセジュ) 評価★★★☆ 第二次大戦以前の大学の歴史をたどった本。 新書版で大学の歴史を一通り説明しているので記述はどうしても大雑把にはなるが、一通り大学史が分かるし、特にヨーロッパの地域ごとの違いや発展史にもある程度は触れているので、コンパクトな割には有用性が高い本だと思う。 また、参考文献もたくさん挙げられているから、さらに詳しく調べたい場合にも役に立つ。 3年前に出たばかりだし、内容的にも新しい研究の成果などを取り入れている。 とりあえず大学史を勉強しようという人は最初に読んでおくべき本の一冊であろう。
・森本達雄 『インド独立史』(中公新書) 評価★★★☆ 1972年に出た新書。 英国帝国主義を知る上では欠かせない本だと思い、ネット上の古本屋で購入して一読してみた。 著者は昭和3年生まれで同志社で神学を勉強し、インドの大学の准教授を経た後、、名城大学教授を務めた人。 専門はインド思想史・インド文学。 インドが植民地にされたところから始まって、いかに英国が過酷な搾取を行っていたかが語られ、そのあとに独立運動の歴史が詳述されている。 といっても新書なので、例えば1857年の大反乱については下 (↓) の長崎暢子の本のほうがずっと詳しいし、個別的な事件については、モノグラフィーがあればそちらを当たったほうがよさそう。 しかし本書もイスラム教徒とヒンズー教徒の対立を含みつつ、最後に独立を達成するまでの過酷な歴史を知るには十分有用である。 ガンジーの思想と、それに対する批判にもページが割かれている。 最後に文献案内もある。 著者は学歴からするとキリスト教徒なのかとも思うけれど、インドにおける白人支配や英国の過酷な政治だけではなく、キリスト教会のマイナスの役割にも容赦ない批判を浴びせている。 こういう常識人の視点を、今どきの歴史学者は身に着けてほしい。
・青木人志 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』(光文社新書) 評価★★★ 7年前に出た新書をBOOKOFFで半額購入したもののしばらくツンドクになっており、最近やっと紐解いたもの。 本書は大まかに言って2部構成である。 前半は、明治維新以降、日本が西洋の法を取り入れようとした過程をたどっている。 と書くと、ようするに西洋化でしょと言われるかもしれないが、結構紆余曲折があって、一度取り入れられたものが捨てられたり、せっかく導入されたものが無駄になったり、という実態が分かってくる。 物事は何にしても一直線にはいかないものだと納得。 最後の第4章がタイトルにもなっている日本人の法意識の問題を取り上げており、よく西洋の法体系は日本人にはうまく当てはまらないとか、日本人は西洋人より法意識が低いといった言い方がなされてきたことを取り上げ、果たして本当にそうなのかが丁寧に吟味されている。 この過程で、専門家 (法文化の研究家) にも色々な意見があり、西洋人といっても一律ではないし、日本人の法意識をどう見るかについても実に多様な意見があるのだということが整然と説明されており、日本人は法意識が低い、なんて言い方は怪しいということがわかってくる。 何事にも単純化した捉え方は慎むべきなのだと納得させられました。
・苅谷剛彦 『イギリスの大学・ニッポンの大学 カレッジ、チュートリアル、エリート教育』(中公新書ラクレ) 評価★★★ 前東大教授で現在はオッ クスフォード大学教授の苅谷氏がイギリスの大学を語った本。 非常に期待して読んだのであるが、うーん、期待が大きすぎたせいか、満足というほどで はなかった。 まず、オックスフォード大学のカレッジについて詳述しているのだが、英国のオックスブリッジにおけるカレッジという特殊な組織につい ては、すでに安部悦生 『ケンブリッジのカレッジ・ライフ』(中公新書) や潮木守一 『世界の大学危機』(中公新書) などが出ており、情報として新鮮さがない。 次に、オックスフォードと日本の大学を比較するなら、まず教員の待遇について触れるべきではないか。 ご自分の報酬を公表しにくいのは分かるが、東大教授時代と現在とでどう異なっているのか。 さらに金銭的なことだけではなく、たとえば授業にとられる時間、雑務にとられる時間なども 重要な要素であるはず。 こういうところに触れないのでは比較の意味が薄れてしまう。 また、日本の大学については大人数の講義が主体で、というようにきわめて大ざっぱで公定相場的な言い方で済ませているけれど、本当にそうなのか、ちゃんとデータをとって論証するべきだろう。 また、英語圏の大学が国際性に富むのはやはり英語国の有利さがあるわけで、先ごろ公表されたTHEの世界大学ランキング2012-2013年版を見ても英語圏の大学が圧倒的に強く、東大は27位だが、東大より上位の大学は米国、英国、カナダと英語圏ばっかりで、唯一の例外は12位に入っているスイスのチューリヒ工科大学だけれど、スイスは小国で英独仏などヨーロッパの大国に接しているかもしくは距離的に近く、英語は公用語ではないけど通用する 度合いが高く人材も呼び込みやすいという立地条件を考慮するなら、非英語圏では事実上、東大がトップと言っていいのである。 ヨーロッパでも独仏の大学はいずれも東大より下位なのだし。 むろん今後どうなるかの予想や対策も大事ではあるけれど、諸条件を吟味しつつオックスフォード大を外から見 る視点も必要ではなかろうか。
・長野伸江 『この甲斐性なし!と言われるとツラい 日本語は悪態・罵倒語が面白い』(光文社新書) 評価★★★ 著者は1967年生まれのライ ター。 本書は副題どおり、罵倒語を扱った本。 主として、その由来や語法の変遷などを追っている。 その点では教えられるところがそれなりにあり、悪 くない本ではある。 惜しいのは、著者の余計な一言が多い点。 余計な一言が面白ければいいのだが、まるで面白味がないのである。 たとえば 「犬畜生」 という罵倒語について書いた箇所で、「子供を生んだけど自分で育てずに保育園に預けたら犬畜生にも劣ると罵倒された」、と会社勤務の女性が国会で訴えたと述べたあとで、「子供を保育園に預ける行為は犬畜生にも劣るとは言いがたい、むしろ育児を妻まかせにする男は南極海でメスと協力して子育てするペンギンにも劣る」、なんて書いているんだけど、力みが感じられるだけで全然面白くない。 もう少し洒落たことが書けないのかな。 ヒステリックなおばさんフェミニストのイメージですぞ。
・柴山桂太 『静かなる大恐慌』(集英社新書) 評価★★★☆ 著者は1974年生まれ、滋賀大准教授の経済学者。 本書は世界経済を原理的に説明しようとした意欲的な書物。 ワタシは経済や経済学のことにはうとい人間だが、本書は非常に分かりやすく、経済学のシロウトが読んでも大丈夫である。 グローバル化と保護主義は対立物ではなくて前者は必然的に後者を招来すること、また資本主義はかえって国家という枠組みを強化することが説かれている。 そもそも20世紀の世界大戦がグローバル化の果てに生じているのであり、現在のグローバル化も戦争を招かないという保証はないということも分かる。 竹中某が主張してたような、規制を撤廃すればするほど経済はうまくいく、なんて簡単な話ではないことが納得されるのである。 ・・・・話はズレるけど、ワタシが数年前にパック旅行で英国に行ったとき、著者のご両親と一緒であった。 女房が行きたがらなかったのでワタシは一人で参加したのだが、パック旅行というと大抵は一人で参加する人間が複数いるものなのにたまたまその時はワタシだけだったので、同情されたのか話し相手になって下さったのが柴山ご夫妻とUご夫妻であった。 柴山さんのご主人のほうが 「まだお仕事は現役で?」 と質問されたので 「ええ、休暇をとって来ま した」 と答えたら、奥様のほうが 「教育関係でいらっしゃいますか」 と衝いてきたので 「鋭いですね」 とお答えした。 3月末の旅行だったのである。 「息子が京大大学院を出て滋賀大の教員になったのですが、国立大学は独法化して大丈夫なんでしょうか」 と母親らしい心配もされていた。 ワタシは 「こんなことをやっていたら大学はダメになりますよ」 と本音をお答えしてしまったのであるが、さすが鋭いお母さんの息子さんだけあって、いい本を出しましたね。 おめでとうございます。
・池田和子 『ジュゴン 海の暮らし、人とのかかわり』(平凡社新書) 評価★★★ タイトルどおり、海に生きるほ乳類ジュゴンについて書かれた本。 沖縄近海にもほんのすこし生息しているジュゴンは、しかし世界的に見ても数が少なく、絶滅が心配されているそうである。 愛嬌のある顔であるが、結 構神経質で、体がでかいけれど草食性だということだ。この動物の生態や分布、研究の現在などについて一通り説明されている。 また口絵にジュゴンのカラー写真も入っており、見てもそれなりに楽しめる。
・小川和也 『大佛次郎の 「大東亜戦争」』 (講談社現代新書) 評価★★★ 3年前に出た新書を、やはり東京のBOOKOFFで半額購入。 著者は1964年生まれ、成蹊大卒業後一橋大大学院で学び、現在はいくつかの大学の非常勤などをしている人。 本書は、作家の大佛次郎が、日本の対中戦争や対米戦争時にどんな作品を書き、どのような言説を行っていたかを詳細にたどったもの。 本来リベラルな人だった大佛が、戦時中は時流に乗った言説をなしながらも、完全に大本営的な発言に終始したわけではなく、それなりの独自性や良心を失うことはなかったということを言いたいらしい。 あとがきにも、時流に乗った日本主義者でも、反戦的な人間でもなく、第三のカテゴリーに入る人間を研究したいというようなことが書かれている。 ・・・・うーん。 読んでいて、著者が大佛の言動を細かく丹念に追っているところが悪くないと思ったが、著者の意図自体はあまり冴えないという印象を受けた。 私がやるなら、大衆作家であった大佛の、純文学とは違う作家的特性が、どのように戦時中の彼の態度に反映したか、そしてもう一つは経済問題に触れるだろう。 恒産があれば時流に迎合しなくてもいいが、恒産がない作家はそうはいかないからだ。 特にこの経済的な問題に著者がまったく触れていないのは、いかがなものかと思う。 前者の問題には、いちおう荷風との比較もあるけれど、荷風で純文学作家を代表させるのは少し狭いだろう し、また大衆作家が大佛しかいなかったわけではないのだから、純文学作家と大衆作家の対比にはもっと広範な知識が要求されるという印象しか受けない。 全体を読了して、努力の人ではあるけれど、失礼ながらあんまり鋭さが感じられないなと思った。 それから、下 (↓) の柳田由紀子と同じく、日本は戦時中は英語教育を廃止したなんて書いているが (169ページ)、間違いである。
・柳田由紀子 『二世兵士 激戦の記録 日系アメリカ人の第二次大戦』(新潮新書) 評価★★★☆ この7月に出た新書本を、東京のBOOKOFFで半額購入。 タイトルどおり、アメリカの日系人が第二次大戦でどう戦ったか、そしてそれだけでなく、日系人でも日本に戻り日本軍として戦った人もいて、そういう人が敗戦後にどういう役割を果たしたかにも触れている。 ヨーロッパに派遣されてナチスドイツと戦った日系人もいた。 勇猛として、あとで勲章をもらったりしたわけだが、そういう苦難による昇進面ではやはり白人より不利だったらしい。 また、日本軍の暗号の解読など、アメリカで諜報活動に従事した日系人も多かったようだ。 アメリカは必ずしも真珠湾以前から日本軍についての情報をしっかり集めていたわけではなく、結構泥縄式だったが、いったんやり始めるとかなり徹底したやった、ということらしい。 いずれにせよ、戦時中の日系人のさまざまな役割や生き方が分かる本である。 なお、日本は戦時中に英語を敵性語として禁じたと書いているが (71ページ)、これは著者の思い込み。 実際には英語は戦時中もそれなりに教えられていたし使われていた。
・スーザン・A・クランシー (林雅代訳) 『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫) 評価★★★ 6年前に出た本。 実は、私が 『鯨とイルカの文化政治学』 を執筆する少し前に参考文献として買い求めたのだが、結局手が回らず、ようやく今頃読む気になったもの。 言うまでもなく、「なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか」 と 「なぜ人はイルカと会話を交わしたと思うのか」 には共通部分があるからである。 ・・・・さて、本書を書いた女性研究者は、もともとは 「抑圧された記憶の再生」 の研究をしていた。 つまり、成人に達した人が精神状態が思わしくなくて精神分析医にかかると、それは幼少期に親に (しばしば性的な) 虐待を受けたからで、その記憶を抑圧して (つまり忘れて) 生きてきたから精神状態が悪くなるのだ、と指摘され、本人も幼少期に虐待された記憶を思い出すという、一時期アメリカで流行した現象である。 そのせいで、何人もの男性が娘を強姦したと訴えられて失業したり妻から離婚されたりするという事態にまでなったわけだが、少し後になってから 「親から性的虐待を受けた記憶をとりもどした」 ということ自体が怪しく、実際は精神分析医から吹き込まれたウソの記憶を、よみがえったと称しているだけではないか、と批判がなされるようになった。 著者も最初はこの路線で研究を行っていたのだが、アメリカの学界には結構政治的なところがあり、「親に虐待された記憶をとりもどしたというのはウソだ」 と主張すると、可哀そうな被害者の主張をウソと決めつけるトンデモ学者、というレッテルを貼られたりするのだそうだ (「抑圧された記憶」 を肯定する派の学者に、である)。 それでこの方面の研究が嫌になり、そういう政治性とはあまり縁がなさそうな、宇宙人に誘拐された記憶、の研究のほうに鞍替えしたのだそうである。 ・・・・で、肝心のテーマ 「宇宙人に誘拐された」 であるが、結局、そういう主張をする人の精神的な問題が一つ (空想癖、よく言えば芸術的な志向の強い人が多いらしい)、もう一つは、誘拐されたという主張の内容だが、結局同時代に流行しているSF映画やテレビドラマなどの内容を出るものではないこと、精液を採取されたとか、子宮内に器具を挿入されたとかいう性的な内容が多く含まれていること、などが指摘できるという。 そして、結論部分で著者は、宇宙人に誘拐されたと主張する人は、ほとんどが誘拐されてよかった、その後は精神状態もよくなった、と言っていることを指摘して、カール・セーガンが疑似科学を批判していたことに自分は以前は同意していたが、この研究をしてからは同意できなくなった、と述べている。 なぜなら宇宙人に誘拐されたという体験は一種の宗教体験であり、宗教が個人を救うものである以上、それを頭から否定するのはよくない、というのである。 ・・・・うーん。 まあ、そういう体験が個人の領域にとどまるなら、私も著者に賛成しますけどね。 でも、著者は宗教についてちゃんと考えているようには見えないな。 なぜって、宗教は個人的な領域にとどまるとは限らず、例えばキリスト教は過去において十字軍や、西洋植民地主義の同伴者として、非キリスト教民族を抑圧し、場合によっては殺戮したのである。 まあ、宇宙人に誘拐されたと主張する人たちは今のところそういう行為には及んでいないけれど、宗教に似ているからいい、ってのは、ちょいと甘いんじゃないですか? ちなみに 「鯨を救え」 の人たちはテロ行為に及んでいるわけだし。
・西尾幹二 『GHQ焚書図書開封 7 戦前の日本人が見抜いた中国の本質』(徳間書店) 評価★★★☆ 西尾氏による焚書図書開封シリーズの7巻目。 今回は戦前に中国大陸を長年にわたって流浪し、中国と中国人の本質を間近なところから観察し続けた長野朗の本を取り上げている。 長野の本は第5巻でもいちど取り上げているが、本書では全巻をその長野の見た戦前戦中の中国を紹介する作業に充てている。 中国が近代的な国家から程遠いこと、中国人も近代的な人間性とはまったく無縁であること、満洲は日本人が入植する以前から漢人によって侵食されており、人口の少ない満人は漢人に同化されてしまったこと、孫文のいわゆる三民主義も近代的な民主主義の原理ではなく、要するに漢人が周辺少数民族を同化してしまうよう求めた理論に過ぎないこと、などなど、様々な興味深い指摘がなされている。 昨今の尖閣列島をめぐる日中対立を見るなら、本書の主張するように、戦前から中国(人)の本質がまったく変わっていないということが身にしみてくるであろう。 タイムリーな出版。
・崔基鎬(チェ・ケイホ) 『歴史再検証 日韓併合』(祥伝社黄金文庫) 評価★★★☆ 5年前に出た本。 著者は1923年生まれ、日本と韓国の大学教授を歴任した人。 本書は、日韓併合によっていかに朝鮮半島が近代化され、経済的に大きく発展したかを、様々な数値を挙げながら実証的に論じている。 そして、朝鮮半島は日本の併合がなければ近代化を成し遂げることはできなかったし、それ以前は中国王朝の貧しく悲惨な属国に過ぎなかったと断じている。 日韓併合を肯定的に、しかも様々な資料を用いて冷静に論じているところが特徴。 また、若干だが、日本人による朝鮮人への差別的な扱いにも触れている。 加えて、北朝鮮での不正に韓国人が目を閉ざしている実態を告発し、北朝鮮は要するに日韓併合以前のレベルの朝鮮王朝に過ぎないと喝破している。 日韓併合の経済的な面を見るには欠かせない本であろう。
・苅谷剛彦 『アメリカの大学・ニッポンの大学 TA、シラバス、授業評価』(中公新書ラクレ) 評価★★☆ おっ、苅谷剛彦先生 (元・東大教授で現在はオックスフォード大学教授) の新刊か、と思い、中身もろくに見ずに買ったのであるが、この本、むかし苅谷氏が出した (そして私も読んだ) 単行本の新書版再刊だった。 ちょっとがっかり。 いや、内容が今でも通用するような新鮮さを保っているならいいのだが、何しろ原本は20年前に、つまり日本がバブルで経済力の頂点にありアメリカを脅かしていたころに出ている。 この20年間で当然ながら事情も変わっているのである。 第1章で扱われているTA (ティーチング・アシスタント) 制は今では部分的に日本の大学にも導入されているし (ただしアメリカの大学ほど本格的にではないが、本書で言われているようにアメリカのTA制には問題が多い)、また第2章で若かった頃の苅谷先生がアメリカの大学で夏休みのあいだだけ日本の教育システムというテーマで教鞭をとる話にしても、当時は日本がバブルでアメリカにも日本の教育に学べという雰囲気があったからこそ可能だったのである。 第3章のアメリカの大学におけるシラバスにしても、現在の日本では以前と違いかなり詳細なシラバスが出ているのだ。 というわけでこの新書、残念ながらあまり買う価値はないと言わざるを得ない。 苅谷先生を尊敬していた私には失望の書物となった。 なお、最後の第6章だけは最近雑誌に掲載した文章の再録で、ここには少し面白い情報が盛り込まれている。 実は大学入学以前の教育こそが入学後の学力の伸びを支える重要な要素であり、そのせいで黒人学生は入学後の学力が伸びない、という指摘もある。 また、最近はアメリカの大学でもグループ学習や体験学習が盛んだが、これらの学習をやった学生ほど学力は低くなる傾向があるという。 ただし、日本の大学では今も大人数での講義が大部分、というような決め付けが見られるのは、苅谷先生としてはちょっとうかつなのではあるまいか。 この辺はちゃんとデータをとって議論を展開してほしい。 また、解説の宮田由紀夫は、日本では受験科目以外は勉強しない高校生が多くて、世界史には詳しいが日本史は全然知らない学生と、その逆の学生が混在している、と書いているけど、日本の教育を知らなさ過ぎますね。 日本では日本史の根幹は中学の社会科で学ぶから、日本史を全然知らないということは (ある程度以上の成績の生徒なら) あり得ないが、世界史は高校でやらないときちんと勉強する機会がないから、世界史を全然知らない学生はあり得るのである。 ・・・・・なお、この新書は 「グローバル化時代の大学論」 というシリーズの第1弾であり、第2弾としてはやはり苅谷先生の、今度は書き下ろしで、オックスフォード大学と東大を比較した本が10月に出るそうである。 そちらに期待したい。
・竹内洋 『メディアと知識人 清水幾太郎の覇権と忘却』(中央公論新社) 評価★★★☆ むかしはマスコミの寵児であり、雑誌などによく登場していた清水幾太郎。 しかし今の若い人は名前も知らないだろう。 その清水について、タイトルにあるようにメディアと知識人という視点から迫った書物である。 日本では、大学に籍を置くアカデミックな学者と、マスコミで活躍するメディア知識人が分離する傾向が強いが、後者の重要な一人が清水なのである。 彼が生まれと育ちゆえに、つまり先祖は旗本であったが自身は東京の下町で貧しい暮らしを強いられたという二重の (上層と下層の) アイデンティティを持っていたこと、旧制東京高校から東大文学部で社会学を学び、秀才と目され、卒業後も副手 (助手の下) として大学に残るよう教授に言われ、将来は東大教授かと思われたのだが、しかし教授からうとまれて東大を辞し、マスコミ知識人として生きるようになっていく過程が描き出されている。 この辺はなかなか説得的である。 マスコミ界で活躍するようになってからの清水の足跡もそれなりに追われている。 ただし、清水の性格付けは必ずしも説得的に行っているようには思われない。 また、マスコミ内部での仲間のあり方だとか、どういう雑誌に登場するかなども、もう少し研究の余地がありそうな印象が残った。 むしろ、彼に対比して論じられる吉本隆明について、学歴も育ちも正統性を欠いていたからこそ、学歴・育ち (東大法学部、東京の山手) とも正統だった丸山真男を叩くという戦略をとることで、大衆化する大学生に受けた、としている部分のほうが腑に落ちた。 清水幾太郎は、丸山や吉本に比べると分かりにくい部分がある、というのが私の読後感である。
・中島岳志 『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社) 評価★★★★ 現・北大准教授である著者の出世作となった書物で2005年に出ており、私もその翌年に買っておいたのであるが、ずっとツンドクになっていた。 英国の植民地主義についての本をこのところ読んでいるため、やっと書棚から取り出してみた。 現在もある新宿の中村屋。 その名物であるインドカリーをメニューに登場させたのが、インド独立の闘士であり、英国人に追われて日本に逃亡してきたラース・ビハーリー・ボースであった。 彼の生い立ちから始まって、インドで独立運動にかかわり、官憲の手を逃れて日本に逃亡、しかし当時は日英同盟の時代であり、英国政府から要請された日本は彼を捕えて送り返そうとするが、日本主義の大立者たちの仲介で中村屋にかくまわれ、やがてそこの娘と結婚して子供をもうけ、英国からの捕縛要請がなくなってからも日本でインド解放を訴え続けたボースの生涯が丹念にたどられている。 また欧米に対しては亜細亜解放を叫びながら、中国や朝鮮には帝国主義的に振舞う日本を最初は厳しく批判していたボースが、やがて日本主義の知識人や運動家と付き合うにつれて妥協的になっていく様子、第二次世界大戦で当初日本が東南アジアで破竹の勢いで進撃していた頃に、これを機にインドの独立を成し遂げようとして、様々な努力をするが、在インドの運動家とはなかなか意見が合わず、ようやくインド解放のための軍隊をしつらえるも不成功に終わってしまい、インドの独立を見ることなく日本で息をひきとるボースの姿が、なんとも言えない感慨を催させる。 数奇な運命、というのだろうか。 ボースだけではなく、ガンジーやネルーなど、当時のインド独立を願った運動家たちの思想や内部対立、思惑などにも的確な言及がある。 ただし、当時の日本主義の思想家、つまり右翼の知識人の限界を言うのはいいけれど、時代相ゆえの限界というものはボースを含めて誰にでもあるわけで、その辺の日本人への記述はややそっけないというか、単純に割り切りすぎという印象を受けた。 なお、私は中村屋のカリーを食べたことがなく、今月下旬に上京する予定があるので、その際に食べてこようと思いました。
・長崎暢子 『インド大反乱 一八五七年』(中公新書) 評価★★★★☆ このところ英国の植民地主義についての本を読んでいるので、当然ながらこの本も読まないわけにはいかない。 1981年に出た新書だけど、だいぶ前にどこかの古本屋で200円にて買い、ずっとツンドクになっていた。 著者は執筆当時東大助教授。 私はこの分野の研究動向だとか進展だとかを知らない。 だから30年前に出たこの本ももしかすると内容的に古くなっている部分もあるのかも知れないが、一読、これは名著と言うに値する本だと思った。 まず、書き方がとても分かりやすく、整然としていて、それでいて細かい機微だとか資料的によく分からない部分にもちゃんと触れており、シロウトにも楽に読み進めることができる。 英国に支配される以前のムガール帝国がイスラム教徒による (ヒンドゥー教徒に対する) 征服王朝であったことから始まって (こういう基本的なことをちゃんと説明していない本が多いのである)、反乱のきっかけとなったのが牛やブタを神聖視するヒンドゥー教徒やイスラム教徒のシパーヒー (インド人兵士のこと。 昔はセポイと日本では言われて、この反乱もセポイの反乱と呼ばれていた) が、技術の進歩で銃に牛脂や豚脂が使われ、それを嫌がったところにあるという指摘がまず面白い。 著者によると、植民地支配に対する反乱はまず伝統的な宗教観に基づく社会が (植民地の支配者によって) 解体し、そこから地元住民が近代的な価値観を身につけて支配者への反逆に走り・・・というふうな図式で捉えられることが多かったが、そうではないというのでである。 また、反乱者側は自分たちの代表としてムガール皇帝を擁立しようとしたが、当時すっかり英国支配に慣れきった皇帝はなかなか首をたてに振らず、またその後反乱軍のトップになることを承諾してもたえず英国側に寝返ろうとしたという。 民族統一という理念をインド人皇帝が信じていなかったわけだ。 反乱の詳しい経過は本書を読めば分かるが、インドといえばカースト制度に基づく厳しい階級社会というイメージが強いわけだけど、そのカースト制度がこの反乱にあっては同カースト同士が連帯を組むために役立ったという指摘も面白い。 植民地主義打倒は必ずしも近代主義からのみ起こるわけではないし、また当時のインドにあっては近代主義に染まった人間ほど英国植民地主義に対して妥協的だったという。 教えられるところの多い本である。 なお、本書が利用している英国側資料は、インド人側に入り込んでいた英国スパイによってもたらされたものが少なくない。 その意味で英国人の狡猾さもよく分かる本なのである。
・川北稔 『民衆の大英帝国 近世イギリス社会とアメリカ移民』(岩波現代文庫) 評価★★★ 1990年に単行本が出て、岩波現代文庫には4年前に収録された本。 先月読んだ同じ著者の 『イギリス現代史講義』 で、孤児や流刑者がアメリカやオーストラリアへの植民者として機能したという指摘を読んで、その方面で著者がこの本を書いているということも知り、入手して読んでみたもの。 17・18世紀イギリスには年季奉公人という存在があり、要するに下層の人間は十代・独身のうちにサーヴァントとして農業や、一部は手工業の徒弟や裕福な家庭の家事使用人としての一時期を過ごし、そののちにレイバラー (労働者) になるというライフサイクルができていた。 ある統計によれば、当時のイギリスにおいて15~24歳人口の60%を年季奉公人が占めていたという。 それにより晩婚が当然のこととなり、総人口が抑制されたのだ。 しかし、サーヴァントを卒業したあとどうしたのか。 レイバラーになるにしても必ずしも経済的に十分な暮らしができるわけではなかった。乞食、浮浪者、売春婦、犯罪人などになる場合もあり、また軍に入る場合もあった。 当時、イギリスは周辺国家としばしば戦争を起こしたが、戦時中は消費が盛んになるし軍人という職に容易に就けるので、景気がよくなり失業者は減り、犯罪は減少するのが常だった。 逆に、平和時には軍人という職もないし消費活動が抑制されるので景気は悪く、職にあぶれて犯罪に走る者が増えた。 そうした中で、犯罪者や職にあぶれて食い詰めた者がアメリカに渡り、殖民として機能するようなルートができていった、ということが分かりやすく、また様々な資料を駆使して説明されている。 また、カトリック国では捨て子や私生児を保護する制度があったが、英国は逆に捨て子や私生児に冷淡であり、それを嘆いた貴族が彼らを集めて教育し、一定の年齢になると殖民として外国に送り出す制度を考えたという側面もあったらしい。 さらに、「囲い込み」 により農業では食っていけなくなった農民家族もアメリカに移民したのだという。
・浜渦哲雄 『英国紳士の植民地統治 インド高等文官への道』(中公新書) 評価★★☆ 1991年に出た本。 だいぶ前にBOOKOFFで買ったままツンドクになっていたが、最近英国の植民地に関する本を読んでいるので、これもあったっけと思い書棚から出して読んでみたもの。 著者は1940年生まれ、大阪外大インド学科卒で日本経済新聞社に長らく勤務した人のようである。 本書は主として、インド統治時代の英国がいかに少数の白人によってインドを支配していたかを強調し、その点が朝鮮・台湾を植民地化していた当時の日本と異なるとして、その少数の白人統治者の教育・選抜はどのようになされたのかを明らかにしている。 すなわちインド高等文官 (ICS、 Indian Civil Service) の人材確保が、時代の変遷を含めて説明されている。 ・・・・・確かにそれなりの知識が得られる本ではあるのだが、どうも構成に問題がある。 というのは最初に白人によるインド支配とうたっていながら、インド人のICSが徐々に増えていった、とも書かれている。 白人支配のはずなのになぜインド人のICSを認めたのか、ということが途中全然説明されていない。 ようやく最後になってインド人ICSについて多少まとまった記述があり、疑問は氷解するのだが、インド人のICSを認めたことこそ、英国によるインド支配が終焉に向かっていく一つの大きな原因であるにもかかわらず、その点が最後近くまで事実上説明されないでいるのは欠陥というしかない。 また、そうしたICSによるインド支配の実態だとか、インド独立運動との関わりについても必ずしも十分な記述がなされていない。 英国のパブリックスクールが指導者養成機関であるといったことには結構ページ数がさかれているけれど、パブリックスクールについては他にも文献があるのだし、インド支配と直接的に関わる事柄をもっと取り上げてほしいと思った。 総じて英国人側の事情には詳しいが、インドやインド人については寂しい本である。
・寺園敦史 『だれも書かなかった 「部落」 』(かもがわ出版) 評価★★★☆ 15年前に出た本。 買ったのはずいぶん前で、拾い読み程度はしていたが、通読したのは初めて。 同和行政、特に京都市のそれについて批判的に論じている。 各種補助金によって普通の市民よりむしろ経済的に恵まれた暮らしが出来ているのに補助金がなくならない不思議、京都市職員には部落解放同盟 (解同) 枠があり、この場合解同が推薦すればそれで職員になれてしまい、京都市側は口を出さない。 しかもそういう枠で採用された市職員には問題が多く、仕事をしなかったり不正行為を働いたりといった例が少なくない。 同和行政がむしろ部落民の意識を「同和地区」住民として固定化し、行政からのお金に依存して自助努力を怠る甘えを生んでいる (ここ、シェルビー・スティールがアファーマティブ・アクションを批判している視点と共通)。 差別落書きがあるから差別は持続しているという見方が正しいかどうか。 しかも、差別落書きには自作自演と見られる例がある――このページの6月の高山文彦 『どん底 部落差別自作自演事件』 も参照。 解同の飲食にともなう支出にまで税金が使われているという事実。 西本願寺が、自寺の僧侶が解同員に差別発言をしたとされ、本人は否定しているのに問答無用で破門しようとし、ところが解同から個人の責任だけではなく宗門そのものの姿勢を問題にしたいと言われると、とたんに破門を解除するという、きわめて自主性に乏しい醜態をさらしたという事実。 マスコミはこういう現状をさっぱり報道しないばかりか、日経新聞や毎日新聞は部落に関わる本の広告を出そうとする著者や出版社に対して解同に気兼ねして拒否したりする、という恐るべき事実――これでも報道機関なのかね。 また、同じ関西でも神戸市は京都市と違い、むしろ同和地区住民の自立をうながすような施策をとっているという。 帥岡佑行は、部落差別問題を行政闘争として行い成功例とされるオールロマンス事件にそもそも問題があったという見方をしているという (216ページ)。 ・・・・冒頭、関西大学で部落差別問題を講じている大学教員が、しかし学生が卒論でこの問題を取り上げようとする場合には慎重を期すよう言っているという例が紹介されている。 少し前の文献を読んで頭で理解している部落差別問題と、しかし実際の同和地区の暮らしぶりなどを比較すると、混乱せざるを得ないからだという。 ・・・・今読んでもそれなりに面白い、考えさせられる本だ。 なお本書は今は講談社プラスアルファ文庫として出ている。
・シェルビー・スティール (藤永康政訳) 『白い罪 公民権運動はなぜ敗北したか』(径書房) 評価★★★☆ 著者は米国の大学勤務の研究者で、『黒い憂鬱』 で日本でも知られるようになった人物。 著者自身は黒人ながら、差別されているという言い分に甘えて自助努力を怠っているのではないかと黒人たちを厳しく批判したのが 『黒い憂鬱』 であった。 実は私は今年度前期に差別語論・差別論を授業でやっていて、そこでも 『黒い憂鬱』 は紹介したのだが、学生の中に同じ著者の手になる 『白い罪』 でレポートを書いた者がいて、私はこちらが昨年出ていることは知らなかったので、まさに 「負うた子に教えられ」、あわててこちらを入手して読んでみたというわけである。 ・・・・著者のスタンスということでは 『黒い憂鬱』 と同じなのだが、公民権運動によって 「黒人差別が当たり前」 という前提がなくなったと思ったら、今度は黒人を白人と同等の個人として扱うのではなく、逆に白人によって差別されてきたが故に優遇措置を与えなくてはならない全体としてみており、結局は見方が逆になったように見えても同じことであると著者は主張する。 そこには70年代以降のカウンターカルチャー・ブームの中で白人が黒人への罪悪感を抱くようになり、その罪悪感を公言しなければ政治的に間違っていると見られて社会的にも葬られかねないという状況がアメリカで生じていることがあるとしている。 著者は、公民権運動によって基本的に黒人は白人と同じ土俵で勝負できるようになったのだから、アファーマティブ・アクションは好ましくないと明言している。 アイヴィー・リーグの大学は8パーセントを事実上の黒人入学者枠としているが、実力では1~2パーセント程度になるのでは、とも述べている。 またそういう洞察に至る前には自分も黒人を優遇されるべき全体と捉える見方に染まっていた時代があるとしていて、この本は著者の思想遍歴の告白という側面も持っている。 ・・・・色々なエピソードが盛り込まれていて興味深いが、以下では2つだけ挙げよう。 アメリカ連邦最高裁でアファーマティブ・アクションが合憲とされたとき、唯一の黒人裁判官が反対意見を付けた。 この反対意見に対して、NYタイムズの女性コラムニストが猛烈な批判を浴びせたのだが、その中で、「結局のところあなただってアファーマティブ・アクションのおかげで今の地位についているのだ」 と言っているという。 つまり、ゲタをはかせてもらっているから黒人のあなたも最高裁裁判官になれたのだ、と言っているわけで、これがどれほど差別的かに気付いていないこのコラムニストこそ、一見良心的に見えて何も考えていない白人の典型だと著者は述べている。 もう一つ。 著者の勤める大学で、英米の主流文学だけでなく、エスニック文学を授業に導入しようと提言した女性教員が、学科会議に際して、著者には意見を聞く必要はないと述べたという。 つまり著者は黒人だからマイナーな存在であり、したがってエスニック文学の導入には賛成するに決まっている、と最初から極めつけているわけだ。 著者がそれに抗議すると、意見を聞かなかったことには謝罪したが、著者がエスニック文学導入に反対であるということにはまったく理解がなかったという。 著者は、エスニック文学やマイノリティ文学という枠をつけないと採用されないような作家・作品はレベルが低い、という見解なのだが。 おかげで著者は 「保守派黒人」 のレッテルを貼られたらしい。
・川北稔 『イギリス近代史講義』(講談社現代新書) 評価★★★★ 2年前に出た新書で、出たときすぐ買ったはいいがツンドクになっていたものを、秋田茂(↓)の本を読んで、そういえばこれもあったっけと思い出し、読んでみた。 著者は1940年生まれで元・阪大教授。 冒頭、最近世界史をちゃんと学ぶ高校生が減っているのに危機感を抱いていること、そして歴史学は現代社会を考えるに際して役立つものだし、学者もそういう面をもっと強調してもいいのではないか、という問題意識が提出されている。 本文では、タイトルどおりに英国の近代史がつづられているが、単に時代に沿って論述するのではなく、研究の動向に触れながら、一つ一つの事象についても必ずしも学者の間で見解が統一されているわけではないことが強調されているし、また研究史に触れて、昔はこう言われていたが最近ではこういうふうに変わってきており、またそれに対して自分はこう考える、というような記述法がとられていて、教科書的に定説を頭に叩き込むのではなく、絶えず新しい資料を取り入れるなどして定説を見直していくことが歴史学のあり方なのだということが分かるようになっている。 ここが本書のいいところであろう。 秋田茂の本でも紹介されていた、産業革命なんてなかったという説にも触れられているが、著者の川北氏はむしろ産業革命時の消費の変化に視点を当てている。 作る側が新しいモノを作っても売れなければ話にならないわけで、産業革命には消費革命が前提とされること、そしてそれは英国の家族のあり方と深いつながりを有していることが指摘されている。 本書は実は英国の家族史でもあり、英国が早い時期から核家族制度をとり、したがって大家族と異なり孤児や配偶者をなくした人間が流動的な労働力となりやすかったこと、そうした労働力がアメリカなどの植民地へ流れていく道筋ができていたことも指摘されている。 ここを読んで私は 「あっ」 と思った。 というのはこないだ見た映画 『オレンジと太陽』 は、20世紀半ばになっても英国が孤児を労働力としてオーストラリアに送り出していたという事実を描いた作品なのだが、その背景が分かったと思ったからである。 また、アメリカが英国の流刑地として使われていたことは知っていたが、流刑者は同時に流刑地で労働者として機能し、流刑地というあり方こそが英国の植民地経営そのものであった、ということも分かったからである。 ・・・というわけで、なかなか面白い本だと思う。
・秋田茂 『イギリス帝国の歴史 アジアから考える』(中公新書) 評価★★★ 著者は1958年生まれ、西洋史専攻の阪大教授。 タイトルどおり、大英帝国とアジアの関係を考察した本である。 最近はアジアの世界経済に占める重要性が増しているが、大英帝国がインドを植民地にしたり中国にアヘン戦争をしかけて香港をわがものとしたりした以前、つまり18世紀の段階ではインド・中国・日本・その他アジア地域が世界経済に占めるGDPはかなり大きかったのであり、それが大英帝国の産業や植民地支配によりどのように変容したのか、大英帝国が帝国主義の時代にアジアとの関係はどうだったのかを明らかにしようとした本である。 といっても、内容は大西洋の三角貿易による奴隷の欧米への導入にも触れており、これが産業構造や英国の経済のあり方に影響を与えたという面もなおざりにできないようだ。 新大陸での砂糖やタバコの生産はアメリカ合衆国の独立とも関わっているが、三角貿易は大西洋だけでなく、英国・インド・中国にもあった。 奴隷貿易が英国の産業革命を引き起こしたという説があって、これは今でも一般には認められていない説らしいのだが、それ以外にそもそも産業革命なんてなかったという説もあるそうで、本書はそういう学説の紹介にも重きがおかれている。 要するに現在でも、18世紀以降の奴隷貿易を含む貿易がどの程度どういう方面に影響を及ぼしたのかは、学者により解釈が異なり、必ずしも一致した見解があるわけではないらしい。 しかし植民地帝国の最盛期には英国はいつも財政的に大赤字で (今の日本みたいですね)、インドは逆に黒字でそこからの収益で大赤字をまかなっていたのが、20世紀になると次第にインドも黒字ではなくなってきて、それが植民地を独立させる原因の一つになっていたのでは、という指摘は面白い。 問題が複雑なだけに、著者の説明も必ずしも明快ではなく、特に金融についての説明は私にはきわめて分かりにくかった。 むろん私が金融にうとい人間だからであろうが。 しかしともかく、この方面の研究がどうなっているかや、問題の所在がいくつも分かるという点では、貴重な本である。 一般向けというよりはやや専門家向けに近いかな。
・関川夏央 『ソウルの練習問題 異文化への透視ノート』(情報センター出版局) 評価★★☆ 1984年に出た本。 関川の 『退屈な迷宮』 が面白かったので、こちらはどうかと思い読んでみたのだが、残念ながらこちらは時代の変化にあって古びてしまった部分が多い。 韓国を何度も訪ねた著者が、自虐的な左寄り路線でも、尊大な右寄り路線でも、無味乾燥な実用路線でもなく、韓国文化に日本人として果敢にアプローチしようとした意図は分かる。 出た当時はソウル・オリンピックの4年前だし、むろん日本では韓流ブームも起こっていなかった。 70年代のように北朝鮮を賛美して韓国は軍事政権でひどい国だとするような偏見はなくなってきていたけれど、まだまだ韓国についての情報は少なかったし、こういう本にも意義はあっただろうなと思う。 しかし今読む価値はあまりない。 韓国についての本は増えているし韓国自体もかなり変化しているだろう。 ただ、在日のあり方も書かれているので、そこは今でも参考になるかもしれない。 なお、呉智英が 「好意ある提言」 をしてくれたとあとがきに書いてあるけれど、その割りには 「バカでもチョンでも」 という日本語の言い回しはバカでも朝鮮人でもという意味だというようなトンデモな誤りがあるし (57ページ)、創氏改名が強制だったと誤解されるような記述もある (217ページ)。 また日本語の起源が朝鮮語と共通なのではないかというような研究がなされず南インドやインドネシアの言語との類縁性だけが研究されているのは問題だという記述 (193ページ) もあるけど、これは著者に知識がなさすぎ。 朝鮮語と日本語の関係については専門家が昔ちゃんと研究をしており、この両言語の起源が同一だと主張することは少なくとも現段階でさかのぼることができる古形からは困難だという結論を出しているのだ。
・奥泉光 『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』(文藝春秋) 評価★★☆ 新潟市立中央図書館で、ちょっと硬い本を読むのに疲れて本棚の間を見て回っていたらたまたま奥泉光の本が並んでいるのが目について、そういえば奥泉の本は読んだことがなかったっけと思い出し、本来なら芥川賞受賞作か何かを読むべきところ、つい軟弱に走ってしまってミステリー (も奥泉は書いているのだね) を手にとってしまいました。 で、読んでみたのがこれ。 出たのは1年前。 タイトルからすると、カッコいい大学准教授が美人女子学生なんかを脇にはべらせながら快刀乱麻に難事件を解決する・・・・・・ような話かと誤解されそうだが、タイトルは意図的なミスリードである。 まず、桑潟准教授なる男は都内の中堅私大で大学院まで進学し、太宰治に関する論文2本を書いただけで関西の四流短大に就職。 それというのも指導教授が斯界の大権威である老学者の女婿であったから、というだけのことでであった。 そしてその四流短大が廃止される直前に千葉県の田舎にある四流私大に転職。 しかし新聞といえばスポーツ紙しか読まず、お堅い本も読まず、DVDといえばアダルトものしか見ず、太宰治が専門のくせに黒板にその名を書こうとすると 「宰」 の字が書けなくなっているというどうしようもない下流学者なので、学内の難事件に出会っても解決するどころではなく、たまたま顧問になった文藝部の部員に一人鋭い女子学生がいて、彼女が仲間たちとあれこれおしゃべりする中で快刀乱麻に事件を解決し、先生である准教授はただそれを拝聴するだけ、というストーリーで3編が収められているのがこの本なのでした。 うーん、この構図、アイザック・アジモフの 『黒後家蜘蛛の会』 のパクリじゃないかという気が・・・・。 それはさておき、事件と言っても殺人は起こらないし、四流大学学生の今風なおしゃべりが長くて、読んでいてややうんざりする。 もう少し短く書けないものか。 あと、第2編が 「盗まれた手紙」 といって、E・A・ポーの有名な短篇のタイトルのパクリなんだけど、そのあとの第3編が内容的におんなじようなストーリーですでにマンネリかと思うし、盗難事件以外にセクハラ疑惑の謎の女子学生も登場するんだけど、そこのトリック (と言うか、からくり) も途中で分かってしまうのですね。 ミステリーとしてはいかがなものかと。 ちなみに奥泉は近畿大学教授でもあるそうだ。 女子学生の会話なんか、教え子との会話から来ているのだろうか、いや、近畿大の学生はいくらなんでもこんなにレベルが・・・・ではないのでは・・・・とか、余計な穿鑿をしてしまいました。
・徳善義和『マルティン・ルター』(岩波新書) 評価★★★ タイトルどおり、ルターの生涯と業績について述べた本である。 ただし、どちらかというとその学者的な側面に重きをおいて、ルターが言葉とどのように関わったのかを詳述している。 ルターが聖書をドイツ語に訳したことは有名だが、彼が初めてそのような試みをしたわけではなかったこと、しかし彼のドイツ語訳には彼なりの聖書研究の成果が活かされていることが、説得的に述べられている。 悪くない本だが、私としてはエラスムスとの関係について、それからユダヤ人に関するルターの見解――のちにナチスによってユダヤ人虐殺の根拠のひとつとされた――について、もう少し詳しく記してほしかったと思う。 総じてルター批判については記述が少ないという印象を受けたが、これは著者自身がプロテスタント信者だから、とするのは僻目だろうか。
・こぺる編集部(編) 『同和はこわい考を読む』(阿吽社) 評価★★★ 下 (↓) の藤田敬一 『同和はこわい考』 の問題提起を受けて、様々な人が考えを述べたものを集めた本。 1988年に出ていて、こちらは私はだいぶ前に購入したものの読んだのは今回が初めて。 ただし、基本的には藤田の問題意識にシンパシーを持つ人たちの本であり、藤田の本に対しては真っ向から批判する意見もあった (小森龍邦や江嶋修作) が、それらも収録したかったが書いた本人からの了承が得られなかったという。 内容的には 『同和はこわい考』 を大きく出るものではない。 「国家権力」 と言えば批判した気になっているところも藤田と同じ。 ただ、どういう人たちがどういう問題意識をもってこういう場所に集まっているのか、ということは何となく感じ取れる本である。 また部落問題でそれなりに業績のある師岡佑行や土方鉄が基本的に藤田を支持し、小森らを批判しているのは注目すべきであろう。
・藤田敬一 『同和はこわい考 地対協を批判する』(阿吽社) 評価★★★☆ 25年前の1987年に出た本。 昔読んだのだけれど、思うところあって再読してみた。 著者は当時岐阜大学助教授で、自身は被差別部落出身ではないがシンパとして部落差別問題に積極的に取り組み、部落解放同盟の同伴者として活動していた。 しかし部落解放同盟の活動や糾弾行為がしばしば一般人に 「同和はこわい」 という印象を与えていることをふまえて、被差別側の言説や活動にも反省すべき余地があるのではないかという趣旨から、日ごろ抱いている部落解放運動への違和感を述べたのが本書である。 ただし同時に、当時政府側の地域改善対策協議会 (地対協) が出した 「基本問題検討部会報告書」(1986,2) と 「意見具申」(1986,12) をも批判しており、副題はそこから来ている。 改めて読んでみると、朝田善之助のテーゼ 「差別かどうか判断できるのは被差別側のみ」 を批判しているのを初め、解放同盟への批判はむしろ今の目で見ると常識とも言えるものだと思う。 見田宗介の 「朝鮮人ナショナリズムへの批判を日本人としては差し控えたい」 という姿勢を批判しているところも同感できる箇所だ。 他方、政府側の姿勢を批判しているところは、やはり時代の限界を感じさせる。 当時は、被差別部落に対する財政的な援助が行われて久しく (同和対策事業特別措置法は1969年成立)、経済的な面では被差別部落はかなり改善されてきており、それどころか小学生への資金援助を通じて部分的にはむしろ一般の子供より部落の子供のほうが恵まれているといった現象まで見られるようになっていた。 政府は、同和対策事業特別措置法が成立してから15年余りたち、以前とは状況が異なってきているということを踏まえたうえで政策の提言を行っていたわけだが、藤田は 「国家権力」 と政府の提言を切って捨てており、政府側に対しては何でも 「国家権力」 と言っておけばそれで知識人内では片付いていた70年代までの日本の言説空間がいまだに部分的に変わらずにいたのだということを、改めて思い知らされる。
・関川夏央 『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』(新潮社) 評価★★★☆ 1992年に出た本。 たまたま或る授業で学生がこの本でレポートを書いてきたのだが、どうも内容を把握していないような気がしたので、確認のために読んでみたところ、これが結構面白かった。 20年前の本だけど今読んでもそれなりなのである。 副題は北朝鮮だけれど、韓国についても書かれている。 北朝鮮については、当時は有名だった左翼知識人で北朝鮮シンパの小田実 (おだ・まこと、妻が韓国人) が無理して北朝鮮を褒めていたのは知る人ぞ知るところだけれど、保守派の論客だった上坂冬子までそうだったというのには驚いた。 宿泊したホテルに家電製品などがそれなりに揃っているということで 「案外まとも」 と思ったらしいのだが、その電気製品が日本製であることに気づかず、つまり在日から送られてきた製品でかろうじて体裁を整えているだけということが見破れなかったというお粗末さを著者は衝いている。 韓国についても、韓国知識人が北朝鮮を冷静に観察・分析することができず、朴政権時代の反共政策に反発するあまり、逆に北朝鮮に好意的な視線を向ければ反体制的で政治的に正しいということになってしまうお粗末な (しかし当時の日本左翼知識人とも類似した) 実態が暴かれている。 これ、韓国映画がしばしば過去の歴史をきちんと踏まえずに作られていることにもつながっているんじゃないか、と思いました。
・マーティン・ファクラー 『「本当のこと」 を伝えない日本の新聞』(双葉新書) 評価★★★ 著者はニューヨーク・タイムズ東京支局長。 アメリカの新聞記者の視点から、日本の新聞の欠陥を批判している。 記者クラブ制度批判は、この本でなくてもすでにさんざん言われていて (だけどさっぱり改まらない) 目新しくないけれど、東日本大震災に際しての原発事故で日本の新聞が政府の発表を鵜呑みにして放射能の危険性を甘く見積もって報道していたことや、いちばん危険な市町村に有力新聞の記者がさっぱり行かないばかりか、放射能の危険性のある地域からは住民をおいて記者がまっさきに逃げ出してしまうなど、日本の新聞記者がサラリーマン化していることに警鐘を鳴らしている。 また、大新聞が一定の有力大学からしか記者を採用しないこと、給与がアメリカの有力紙に比較しても高すぎることにも筆が及んでいる。 日本の新聞を批判するだけでなく、ニューヨーク・タイムズ紙でも誤った報道がなされたことがあるとして、その内容にも触れている。 一読に値する本だと思う。 ただし、安倍元総理が 「(韓国の) 従軍慰安婦は作り話」 という発言をしたと書いているが (177ページ)、安倍氏の言ったのは 「従軍慰安婦の強制連行は作り話」 ということであり、アメリカの有力ジャーナリストもこの問題を正確に理解していないことには驚かざるを得なかった。 さらに著者は、それに対して韓国の従軍慰安婦を呼んで話を聞いたと書いているが、彼女たちの話に虚構が入っていることは日本のジャーナリストがとうに指摘している。 もっと勉強して欲しい。
・青木健 『古代オリエントの宗教』(講談社現代新書) 評価★★★ 著者は1972年生まれ、東大と東大大学院を出て慶応の言語文化研究所の兼任所員なるものをしている人。 本書は、古代オリエントの宗教が、聖書 (キリスト教とユダヤ教) のストーリーを取り入れる形で形成されていった歴史を、今現在の研究水準で分かっている範囲で分かりやすく解説しようとしたもの。 「しようとした」 と書いたのは、私にはかならずしも分かりやすくなかったからだが、これは多分、背後にある知識量が膨大で、それを新書向けに圧縮したためにそうなったのであろう。 ともかく、聖書ストーリーはイスラム教の形成において最終段階を迎え、それ以降新しい聖書ストーリーに基づく大宗教の創出はなされていないということらしい。 また本書を読むと、ゾロアスター教だとかマニ (マーニー) 教だとかマンダ教だとかミトラ信仰だとか、名前は知っているけれどその内実は知らない宗教や信仰について、現代の学問水準で分かっていることを知ることができる。 実は資料不足で、専門的な学者にもよく分からない部分が多いらしいのだけれど。
・冥王まさ子 『ある女のグリンプス』(河出書房新社) 評価★★☆ これまた高田里恵子さんの本に示唆されて読んだ本。 柄谷行人夫人である著者が1979年度の文藝賞を受賞した自伝的小説。 大学院で英文学を学んだヒロインが夫とともにアメリカのニュイーヘンヴンに留学し、そこで出あった一組の男女が忘れられず、再訪して二人のその後を調べるというストーリー。 しかし、描かれている男女の関係は、「魔性の女」 風に見えた女のほうが実は・・・・的な展開で、率直に言ってあまり面白いとは思えなかった。 私としては、1970年代のアメリカ知識人や大学人の生態がもっと描きこまれているのかと期待して読んだのだが、さほどではなく、ちょっと失望した。
・黒野耐 『「戦争学」 概論』(講談社現代新書) 評価★★★ 2005年に出た新書。 授業で学生と一緒に読んでみた。 著者は1944年生まれで、防衛大から陸上自衛隊に入り陸将補で退官、その後防衛大学校や大学で教えている人。 本書は、いわゆる地政学の歴史をたどり、ヨーロッパや近代の地球上でどのような戦略がたてられどのように戦争が行われてきたかをたどっている。 最後には今後日本が進むべき道についても提言がなされている。 軍事学は、戦後日本、特に大学内では長らく一種のタブーのようになっており、そういう偏りを見直すためにもと思い読んでみたわけだが、新書一冊で古今東西の戦争や地政学を扱っているのでやや記述がそれこそ教科書的になっていて、もう少し事情は複雑なんじゃないかと思える部分もあるのだけれど、とにかく入門書としては悪くない一冊だと思う。
・河村英和 『イタリア旅行 「美しい国」 の旅人たち』(中公新書) 評価★★☆ 昨年出た新書。 授業で学生と一緒に読んでみた。 グランドツアーについてはすでに中公新書で定評ある本が出ている (その後、中公文庫に移された) わけだが、本書は英国人だけでなく、ゲーテやモンテーニュなど、広くヨーロッパ人多数がいかにイタリアに憧れ、どのような旅をしたのか、何をイタリアで見、何を持ち帰ったのかなど、現代のイタリア・ツアーとの違いをも含めて、事細かに説明している、はず。 ・・・・・期待した読んだのだけれど、少し予想からはずれた本だった。 原因は著者の記述法にある。 この人、東工大建築科を出てイタリアの大学院に留学したという経歴の主だそうだけど、どうも文系的な面白みが感じられない。 無味乾燥で、いたずらに人名や地名などをずらずら並べるだけで、往時のイタリアの様子だとか、人間模様、外国人が旅行をするときに出会う悲喜劇などが生き生きと眼前に迫ってくるというふうになっていない。 教わるところはあるけれど、栄養豊富だが全然味のない食物を食べさせられているような気持ちになってくる。 或いは、学者向きではあるのかもしれないが、一般書を書けるような資質の人ではない、と言ったらいいのだろうか。
・冥王まさ子 『天馬空を行く』(新潮社) 評価★★★☆ やはり高田里恵子さんの本で言及されていたので読んでみた本。 著者は故人で、評論家・柄谷行人の前夫人。 これは、1970年代にアメリカに幼い二人の男の子とともに留学していた柄谷夫妻が、日本に帰国する直前に、せっかくだからヨーロッパ旅行をしようということになり、有り金をかきあつめて行き当たりばったりの貧乏旅行をする、というお話。 とにかく奥さん (=著者) が万事をやらねばならず、夫 (龍夫という名になっているけど、柄谷行人) がいかに無能で役に立たないかが、滑稽で残酷なほどにきっちり描かれている。 駅で子供が怪我をして出血したとき、医務室を探してきてと妻に言われた夫が、いったん行きかけるものの、戻ってきて妻に 「医務室って英語で何と言ったっけ?」 と訊くシーンがすごい――私ですら、メディカル・ルームか何かじゃないかと思ったし、怪我人がいると説明した上でそう言えば少なくとも意は通じるはず。 いくら教養部だって柄谷は法政大の英語教師。 いや、柄谷は英語ができないとは私も聞いていたけど、いちおう東大大学院英文の出。 こんなにできないとは、ただ驚くばかり。 こういうダメ夫との珍道中や、ヨーロッパの暗部をも含む様々な顔が興味深い一書だ。
・四方田犬彦 『歳月の鉛』(工作舎) 評価★★☆ 著者が東大の学生および修士課程の大学院生だった時代を回顧した本。 私は、著者が高校生時代を回想した本は読んでいたのだけれど、こちらは存在を知らないでいた。 たまたま高田里恵子さんの本で言及されていたので、読んでみました。 面白くなくはないけれど、由良君美については他の本に書いてしまったので省かれていることと、女性関係についても、誰でもやっていることと同じだという理由で省かれているのが残念。 あと、29ページで、1971年まで16000円だった国立大学年間授業料が72年から48000円になったと書いているが、これは誤り。 著者の書いているのは入学金を含めた初年度納入金の額であり、年間授業料は71年までが12000円、72年からが36000円である。 何しろ私は国立大学授業料月額1000円最後の世代だから、ここは確か。 四方田氏は親が離婚しているという理由で授業料免除申請をして、それでずっと通したと書いているから、つまり自分で払っていないから、間違えたのであろう。 まあそれはともかく、修士論文を六百数十枚書いたというのはすごい。 私なんかはその十分の一だったな(笑)。
・高田里恵子 『女子・結婚・男選び――あるいは〈選ばれ男子〉』(ちくま新書) 評価★★★☆ 女はどう男を選んでいるのかを、文学や知識人の結婚を素材として語った本。 ただし下層階級や偏差値が低い男女は省かれている。 漱石の小説に出てくる男女にしても、当時はエリートである学士 (帝大卒) である男や、それにふさわしい知識のある (少数派の) 女性なのであり、また柄谷行人とその妻・冥王まさ子だとか、岩井克人とその妻・水村美苗であるとか、東大や外国の著名大学卒の男女が取り上げられているので、そういう男女の生態に興味のある人でないと楽しんで読めないと思う。 逆に、高学歴の女性が男を選ぶときどうしているのかに興味のある (私のような) 人間には結構面白い。 著者の高田さんの本を私は愛読しているけれど、この本でようやく著者自身の (著者自身に深く関わる) 事柄に筆が及んだのかなあ、と思いながら読みました。 また読書案内としても有益。
・ジェームズ・M・バーダマン (森本豊富訳)『アメリカ黒人の歴史』(NHK出版) 評価★★★★ 授業で学生と一緒に読んでみた本。 内容はタイトルどおり。 アフリカでの奴隷貿易 (アフリカ人自身が奴隷貿易に携わっていた。つまりアフリカ人を純粋な被害者と見るのは誤り) というこころから始まり、アメリカでの奴隷の歴史、南北戦争、その後も黒人への差別的な扱いが続いた事情 (ジム・クロウ法)、有名なプレッシー対ファーガソン訴訟 (ここで 「分離すれども平等」 という有名な、しかし誤った連邦最高裁判決が出る)、大恐慌と戦争の影響、ブラウン判決 ( 「分離すれど平等」 がようやく覆される)、公民権運動、70年代以降の状況、などなどが語られている。 アメリカの黒人問題を分かりやすく、そして1冊で知るのに有益な書物。 この問題を扱った映画も随所で紹介されている。 索引や年表が付いているのも親切。 訳も悪くないが、一部、注を付けたほうがいいのではと思える箇所もあった。
・浅井宏純 『アフリカ大陸一周ツアー 大型トラックバスで26カ国を行く』(幻冬舎新書) 評価★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 著者は1955年生まれで、海外教育コンサルタンツという会社の取締役として33年間日本人の留学に関わる仕事をしたあと、退社してこのツアーに参加した。 ヨーロッパで企画されて毎年行われているツアーで、参加者はほとんどがヨーロッパ人。 北アフリカから入って、西海岸を南下し、南アから東海岸を北上する。 途中訪れた国々の印象を語っている。 全体として総花的で浅いのは仕方がないが、ヨーロッパ人の参加者が過去のヨーロッパの植民地主義を反省するどころか、それを擁護するような言説を振りまいているのに、それに安易に賛同したり、無批判的に受け入れている――逆にマレイ人女性はこうしたヨーロッパの参加者に批判的なのだが、著者はこの女性を批判してヨーロッパ人に同調してしまっている――のは、驚くしかない。 あまりに不勉強で、ヨーロッパ人に対して卑屈であり、こういう日本人が留学コンサルタントの仕事を33年間もしていたのかと思うと、暗澹たる気分になる。 逆に言えば、ヨーロッパ人の傲慢さがよく分かる本だとも言えるかな。
・池上英洋 『ルネサンス 歴史と芸術の物語』(光文社新書) 評価★★★☆ 著者は1967年生まれ、東京芸大とその大学院を出た後、海外での研究をへたのち、国学院大准教授をしている人。 ルネサンスというと漠然と知っている人は多いけれど、本書はその前段階から始めて、経済や政治といった、当時の時代を動かしていた根本的な動因を分かりやすく描くことに意を用いており、その結果としてルネサンスがどうして、またどのように起こり進展していったのかがよく分かるようになっている。 メジチ家の歴史や運命なども興味深い。 芸術家同士の相互影響にも分析が及んでいる。 ただしその分、個々の芸術家の作品分析や生涯については物足りないところもあるが、本書はあくまでルネサンスという時代全体をしっかり捉えるというところに重きをおいた本であり、その点を押さえて読めばかなり教えられる記述が多い。 図版も全部カラーで入っており、貴重である。
・田中純 『建築のエロティシズム 世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命』(平凡社新書) ★★ 著者は1960年生まれの東大教授。 授業で学生と一緒に読んでみた本なのであるが・・・・率直に言って 「失敗した、学生諸君、ごめんなさい」 な本でした。 建築家アドルフ・ロースを中心に据えて、19世紀末ウィーンの画家や思想家など色々な人物 (フロイト、ヴァイニンガー、ヴィトゲンシュタイン、ココシュカ、などなど) の特徴や相互影響などを述べている。 というだけなら別に批判する必要もなく、私も 「多少専門的かもしれないが、それを含めて学生に知的な興味を起こさせるのにはいいだろう」 と考えていたのだが、この本のダメなところはその叙述の仕方である。 因果関係をはっきり書かず、漠然とした類似や相互作用を分かりにくく暗示的に書いているだけで、個人的なエッセイとして私家版で出すのはいいかも知れないけど、東大教授が大手出版社の新書として出すような本じゃないですね。 というか、出してもらっちゃ困るのですよ、こういう本は。 あとがきによると、この本の原稿は数奇な運命をたどり著者の手元で眠っていたものを、平凡社の松井純という編集者が拾ってくれたそうだが、松井純には天罰が下りますように。
・友常勉 『戦後部落解放運動史 永続革命の行方』(河出書房) 評価★★ 著者は1964年生まれで東京外大の専任講師をしている人だそうである。 本書は戦後の部落解放運動をいくつかのテーマやエピソードをもとに語ったもの。 しかし、著者の語りは晦渋で、特定の場所にいる読者以外には通じにくい感じである。 別の言い方をすると、視点がある一定のレベルで止まっており、その先には行かないようなのだ。 また、今どき朝田 (善之助) 理論を批判的に吟味する目を欠いていることにも驚いてしまう。 著者は部落解放同盟の同伴者としての立場からいささかも外に出ず、八鹿高校事件も、解放同盟の暴力行為には最高裁で有罪判決が確定しているのにも関わらず、日共批判という点で有益だったというような見方から出ることができない。 私としては、オール・ロマンス事件が実は在日朝鮮人問題なのだという指摘や、同和地区の病院運営など、いくつか教えられるところもあったものの、全体としては副題の 「永続革命」 も含めてアナクロ的な書物だという印象を強く持った。
・ヨアヒム・フェスト (赤羽龍夫・関楠生・永井清彦・佐瀬昌盛訳) 『ヒトラー 第1巻』(河出書房新社) 評価★★★★ 大学院の授業で学生と一緒に読んだ本。 原著は1973年に出て、ヒトラー伝の決定版と言われた浩瀚な書物。 訳は1975年に出ている。 これはその前半で、注を含めて二段組550ページにも及ぶ。 ヒトラーの誕生から、政権をとるところまでを描いている。 様々な人物に筆が及び、ヒトラーの本質に光が当てられているが、せんじつめて言えば、ヒトラーはあくまで芸術家志望青年的な漠然としたヴィジョンしか持たない扇動家であり、政治家ではない、ということのようである。 なお、特に第一次大戦後はヴァイマル共和国の歴史とパラレルにヒトラーの所業を記述しているが、共和国の政治自体はある程度読者の頭に入っているという前提で話が進むし、個々の政治家については必ずしも一から丁寧に説明をしているわけではないので、(私はそうしたのだけれど) 例えば林健太郎 『ワイマル共和国』(中公新書) などを座右において併読しながら読み進めていかないと分かりにくくなると思う。 ある程度の予備知識があって読めば、教えられるところの多い本と言える。 訳は、人にもよるが、おおむね悪くないけど、ところどころ首をひねる箇所もないではない。
・薬師院仁志 『日本とフランス 二つの民主主義 不平等か、不自由か』(光文社新書) 評価★★★☆ 6年前に出た新書だが、先日上京したおりに秋葉原のBOOKOFFで半額購入。 読んでみるとなかなか面白かった。 著者はフランスの民主主義は自由より平等を重んじており、その点でアメリカと正反対であると指摘する。 つまり、自由は一方で有能な人を金持ちにするがそうでない人を貧乏人に転落させてしまうわけだけど、平等を重視する立場からすればそれはあってはならないことなのであり、フランスの民主主義はそうした平等重視の考え方から構築されているのだという。 多方面に目配りし、かつアメリカの制度との対比も含めながら、論じている。 日本のフランス研究者にありがちな、「フランス万歳、アメリカ反対」 的なところもないではないが、具体的な数値などを挙げつつ、微に入り細をうがちしつつフランスがいかにアメリカや日本と違うかを主張する著者の筆にはそれなりに説得力がある。 アメリカ流の新自由主義に脳を犯されている人には解毒剤になるかもしれない。 もっとも、こうした違いはフランスだけでなく、そもそもヨーロッパとアメリカの違いなのではないか、とも思うけどね。
・許光俊 『最高に贅沢なクラシック』(講談社現代新書) 評価★★★ 贅沢について語った本である。 プルーストの文学は学食でご飯を食べている人間には分からない、トヨタ車に乗っていたりN響を聴いている奴にはクラシック音楽は分からない、というふうな主張をした本。 要するに贅沢の中にこそ真の文化が宿るのであり、日本人はこれまで真の贅沢をしたことがなく、バブル期の振る舞いだって成金みたいなものに過ぎず、したがって真の文化は日本には生まれない、ということだそうである。 そう言われると、還暦近くになっても学食で昼食をとり、1か月に2、3回土曜日に回転寿司で昼食をとると贅沢をした気分になって満足してしまい、1台のトヨタ車に14年以上乗っているワタシなんぞには何も分からない、ということになりそうだが、別に腹も立てずに読みました。 ただ、ニーチェは大学教授をやめても暮らしていくのに困らなかったから売れなくても好きな著書を出せたと書いているけど、それは当時のドイツ語圏の大学教授は若くして辞めても (ニーチェがそれに当たる) ちゃんと年金が出たからでしょ。 ワタシもさっさと新潟大学を辞めたいが、今辞めても年金は出ない。 ニーチェの本は発狂以前はさっぱり売れなかったが、許光俊の本はそこそこ売れている (んだろうな)。この差は、文化の差かもしれないが、ニーチェが大学教授をやっていた頃 (19世紀半ば過ぎ) と今の日本じゃ大衆的状況という点でまったく状況が異なるんだから、許が 「反発を承知で」 と書いても、愛されてしまうのだよ。 まあ、そういう本としてワタシは読みましたけどね。 詳しい中身は、読めば分かるので、省略。 あ、あと、著者はトイレが汚いので横浜国大を辞めて慶応に移ったと書いているけど、著者がお気に入りらしいイタリアだって、フィレンツェのウフィツィ美術館のトイレはかなり汚かったぞ。
・高岡望 『日本はスウェーデンになるべきか』(PHP新書) 評価★★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 著者は1959年生まれ、東大教養学科卒業後外務省に入り、本書執筆時 (昨年初め) にはスウェーデン公使を務めている人。 スウェーデンについてはしばしば理想国家のごとくに語られたり、その反動で内実は結構ひどいといった本も出たりするのであるが、現在のこの国を、自立した個人が重んじられる国柄であることや、男女平等や社会保障といった政治制度、経済の仕組み、中立を旨とする国際政策などの面から、具体的な数字を挙げつつ論じている。 ややスウェーデンに肩入れしすぎといった印象もないではないが、労働組合が強い一方で、民間企業による社員首切りも容易であり、それは失業保険制度が充実しているからだといった指摘など、貴重な説明が随所に見られる本である。 日本人がスウェーデン人のように強い自立した個人になり得るかどうかはともかくとして、学ぶべきところがそれなりにある書物と言える。 ただ、教育政策については、ページ数の関係かほとんど言及がないのが惜しい。
・菊池嘉晃 『北朝鮮帰国事業 「壮大な拉致」 か 「追放」 か』(中公新書) 評価★★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 タイトルにあるように、1960年頃をピークとして80年代まで行われた北朝鮮への在日朝鮮人 (およびその配偶者) の帰国事業を扱っている。 戦後の朝鮮半島の事情や、戦後日本の事情から始まって、日本内部での朝鮮総連 (およびその前身の団体)や民団の活動、日本政府やアメリカ、韓国政府や北朝鮮のどれぞれの思惑が詳細にたどられている。 ただ、そうした前史にかなりページ数を割いているため、北朝鮮帰国者のこうむった悲惨な扱いや、その後の在日朝鮮・韓国人の内部模様についてはやや薄手になっている印象があるが、新書一冊で扱うには大きなテーマであるから、やむを得ないであろう。 結局、政府筋はそれなりに正しい情報を流していたのに、朝鮮総連はもとより、日共系の著述家や、産経や読売などの保守系を含むマスコミがちゃんとした報道をしていなかったということのようだ。 なお、紙数の関係であろう、切り詰めた表現をしているせいでところどころ首をひねる部分もないではない。 例えば 「戦前の植民地統治下で朝鮮人には義務教育が実施されず教育水準の低い在日一世らが多かった」 (150ページ) とあるが、これだとあたかも日本政府が朝鮮半島の教育のために何もしなかったかのように受け取られかねない。 事実は、たしかに日韓併合下の朝鮮半島に義務教育はなかったが、それ以前にあったわけでもなく、日本政府は朝鮮半島に小学校を次々と作り、戦争末期には朝鮮半島の小学校数は日韓併合時の100倍にまで達しており (それでも学齢期の児童全員が行くには足りなかったが)、また識字率も大幅に改善しているのである。 また、1958年に東京都江戸川区で18歳の在日少年が日本人女子高校生を殺して死刑判決を受けたという事実に対して、さる在日が 「日本では未成年の犯罪者は死刑にならないのに、朝鮮人だというだけで死刑宣告を受けた」 と述べたとしているけれど (152ページ)、日本人だって重い罪を犯せば、18歳なら死刑になり得るのである。(絶対死刑にならないのは18歳未満。 ちなみに授業のとき、「ここにおかしいところがありますが?」 と訊いてみたけど、正解を出せた学生 (1年生20人) は1人もいなかった。) というような不備もあることはあるけれど、悪くない本だと思う。
・高山文彦 『どん底 部落差別自作自演事件』(小学館) 評価★★★ 副題にあるように、被差別部落出身者が、自分宛てに自分で脅迫の葉書を出し続け、それが 「部落差別いまだなくならず」 と大きく報じられ、最終的には化けの皮がはがれるまでの顛末を、詳細に追ったルポルタージュ。 単にこの事件だけでなく、それに先立って起こった部落出身の教師に対する脅迫葉書 (これは、犯人不明ながら、本物の脅迫だったようだ) 事件や、事件が起こった土地の歴史や、部落差別糾弾闘争などにもかなり紙数を割いている。 ともあれ事件そのものは詳細に究明されているが、自作自演の犯人の心の闇は結局分からないままである。 というか、こういう場合の犯人に 「なぜそんなことをしたのか?」 と訊いても、彼自身にも答えられないだろう。 部落解放同盟は犯人に対して 「糾弾」 を行ったが、まともな答えは返ってくるはずがなく、それはこの事件にとどまらず、「糾弾」 という手法そのものの限界を示していると思う (山下力は、「糾弾」 は採用差別をした会社など団体相手には有効だったが、個人相手には必ずしもそうではないと述べている)。 また、解放同盟のこれまでの路線に対しては著者の姿勢はどうもはっきりせず、批判しているところもあれば同調しているところもあり、それは是々非々だからというのではなく、何となく腰がふらついているという印象を受けた。 この著者は以前、組坂繁彦と 『対論 部落問題』 という新書を出しているが、そのときも同じ印象を受けたことを付記しておく。
・諏訪哲二 『生徒たちには言えないこと 教師の矜持とは何か?』(中公新書ラクレ) 評価★★★ 著者は川越女子高など埼玉県の高校教師を長らく務めた人で、「プロ教師の会」 の一員として著書も多い。 この本も、内容的には従来の諏訪氏の本と重なる部分もあるが、特に後半、川越女子高勤務時代の内部事情に触れているところが面白い。 日教組系の教師が事実上人事を左右していたという実態だとか、その組合員たちが日共系の全教に大量に移籍し、著者だけが日教組に残されて白眼視されたこと、などなど、組合系の教師が物事を大きく左右していた事情が分かる。 著者はそうした中、世代 (1941年生まれ) 的な価値観には縛られつつも、教師としての責務を全うするべく努力する。 教師は高慢で使えない、というようなことが言われるが、教師はそのくらいでなければ務まらない、と最後に著者は断言している。 また、生徒の変質については、前々からプロ教師の会が主張しているところで、そうした主張に抗して進歩派の教育評論家などがどういう言説を撒き散らしていたかも書かれている。 生徒がカンニングをしてもその事実を認めなくなった、なんてところは、最近の若者の質の変化を端的に示しており、だから肝心なのは 「子供には無限の可能性がある」 などという甘ったるくユートピア的な言説でお茶を濁すことではなく、こういう質の悪い子供たちにいかに対抗するかの戦略なのだ。
・岸本裕紀子 『ヒラリーとライス アメリカを動かす女たちの素顔』(PHP新書) 評価★★★ 5年あまり前に出た新書を秋葉原のBOOKOFFにて105円で購入。 ヒラリーについては、クリントン大統領の 「最強の」 妻だということで以前から多少文献が日本でも出ているが (私は読んでないけど)、ブッシュ(子)大統領の国務長官を務めたライスについては日本で読める文献はほとんどない。 私は、黒人女性で保守政権の国務長官というライスがどういう経歴の人なのかに興味を持っていたので、買って読んでみた。 これによると、ライスは黒人としては裕福で教育熱心な家庭に育ったということらしい。 大学での恩師に見込まれて大学教員になり、また副学長として大学の赤字を解消するという政治的な仕事にも有能さを示したということだ。 ヒラリーについては新聞などで読む機会が多いので多少は知っているつもりでいたが、それでも 「あれ、そうなの」 と思うところもあった。 例えばヒラリーは外国語が全然できないという指摘など、彼女は秀才だというイメージが強いので、意外な気がした。 何にしても、ヒラリーとライスのこれまでの生き方が手軽に1冊で分かる良書である。
・川島浩平 『人種とスポーツ 黒人は本当に「速く」「強い」のか』(中公新書) 評価★★★★ 著者は筑波大からアメリカ・ブラウン大で博士号をとり、武蔵大学教授をしているアメリカ研究者。 本書は、タイトルのとおり、一般的に黒人にはスポーツに高い能力があるとされているが本当にそうなのか、そういうイメージは昔から普遍的にあったのか、を明らかにしたものである。 意外なことに、二十世紀初頭の頃までは黒人は知的能力のみならず運動能力も鈍いと思われていた。 それが変わってきたのは1930年代のアメリカからだという。 この時代にようやく野球やフットボールといった人気スポーツに黒人が出られるようになり、またオリンピックで黒人が活躍する機会も増えて――アメリカには人種差別があったが、ナチがユダヤ人差別をしているのに対抗するために黒人のオリンピック参加に寛容になったという――徐々に黒人はスポーツに強いという言説が広まっていったのだという。 また、近年長距離競技にケニアの選手が圧倒的な強さを見せているが、実は長距離選手はケニアの中でも限られた地域からしか出ておらず、その地域の伝統的な暮らし方が長距離選手を生むのに有利なだけだ、と著者は述べている。 なかなか知的刺激に富む面白い書物でお薦めだけれど、それでも、例えば (近年栄養がよくなっても) 日本人は平均身長で中欧人や北欧人に遠く及ばないわけだし、人種ごとの身体的な特性を全否定できるのかなあ、これは社会学的な手法に限定しての学問的結果なんじゃないか、という疑問が私には残りました。 すみません。
・鈴木眞哉 『NHK歴史番組を斬る!』(洋泉社歴史新書) 評価★★☆ 著者の本を読んだのは私としてはたしか2冊目だが、この本にはあまり芳しくない印象を受けた。 特に前半、御託を並べるだけの箇所が多い。 大事なことは、NHKテレビの歴史番組のどこがどう不適切なのかを具体的に指摘することのはずだが、これまで何冊も著書を出してきて種切れのせいか、或いは自分のことを読者はわかってくれているという思い込みのせいか、話が一向に具体的にならないのである。 後半はよくなるけれど、これに限らず批判は具体的に即物的にやらないと、私は著者の信者ではないのだから、うんざりなのである。 著者は自分に信者がいると思い込みかかっている?
・所澤秀樹 『鉄道会社はややこしい』(光文社新書) 評価★★☆ いわゆる鉄っちゃんの書いた本であるが、鉄道の相互乗り入れや、所属の異なる鉄路を運行される列車について、かなり細かいこだわりをもって説明がなされている。 例えば東京メトロの日比谷線は東横線および東武線と相互乗り入れをしているが、そういう場合に車両の融通はどのような決まりでなされているのか、といったことである。 基本的には平等主義、つまりA社の車両がB社の線区を走るキロ数と、B社の車両がA社の線区を走るキロ数が同じになるようにしているのだそうで、といっても実際には時刻表だとか色々の都合でなかなか同じにはならないから、そういう場合には調整のためにA社の車両がB社の線区内だけを走るという設定もなされるのだそうだ。 ・・・・この本の特徴は、単にそういう原則を示すだけでなく、これでもかといわんばかりに具体例を次々と挙げていくところで、正直、読んでいて辟易した。 原則を示した上でいくつかの例を挙げてくれるだけで満足しちゃう私は、やはり鉄っちゃんになる資格なし?
・郷富佐子 『バチカン――ローマ法王庁は、いま』(岩波新書) 評価★★★ 授業で取り上げて学生と一緒に読んだ本。 タイトルどおりの内容で、バチカンの現状や問題点、歴史、法王の仕事ぶり、イタリアの宗教事情などが書かれている。 著者は日本のカトリック系中学を出たあと、イタリアと英国で学び、現在は朝日新聞の記者。 とりあえずバチカンのことがよく分かるし、カトリックが抱えている色々な問題も見えてくる。 先進国の「政教分離」なるものは、調べれば調べるほど例外や穴が多くて、机上の空論かと思えてきている私なのだが、イタリアで学校の教室から十字架をはずせという訴訟で、裁判所がそれを認める判決を出したら、蜂の巣をつついたような騒ぎになり、裁判所が判決を撤回したという信じられない話を読むと、イタリアっていい加減だなあと思うと同時に、まあ世の中ってこういうものだろうなとも感じるのである。
・マルタ・シャート(西川賢一訳) 『美と狂気の王 ルートヴィヒⅡ世』(講談社) 評価★★★ 原著は2000年、邦訳は2001年に出ている。 先日ミュンヘンに旅行してルートヴィヒ2世の建てた城を見物する機会があったけど、この王様については断片的な知識しかなく、ちゃんとした伝記を読んだことがなかったのに思い至り、帰国してから本書を入手して読んでみた。 ひととおりこの国王の一生が分かる本である。 何となく想像していたより政治はちゃんとやっていたようだ。 父の急死により18歳で早くも王位につかなければならなかったことが気の毒といえば気の毒だ。 叙述は経年的ではあるが、テーマ別にもなっているので、多少前後がある。 例えばワーグナーとの関係は後のほうでまとめて記述されるが、それ以前にもワーグナーの名が出てくるなど。 訳も読みやすいが、エリーザベトをエリザベートをしているのが何とも・・・・訳者もあとがきで断ってはいるけどね。
・田村秀(たむら・しげる) 『暴走する地方自治』(ちくま新書) 評価★★★ 著者は新潟大学法学部教授。 本書は、最近話題性でニュース種になっている地方自治体の知事や市長の構想や政治をとりあげて批判的に吟味したものである。 第1章では、大阪都構想、中京都構想、新潟州構想を取り上げて、この構想が大阪市や名古屋市、新潟市といった、それぞれに歴史を持つ政令指定都市を消してしまうことにしかならず、それは大都市圏という単位で政治を考える世界の潮流に逆行したものだと指摘する。 第2章ではそれぞれの知事や市長たちの具体的な政策を批判しているが、ここはやや薄手な印象であった。 むしろ第4章で、海外の例に触れて、海外は決して日本より地方分権が進んではいないし、むしろ中央政府が舵取りをしないと決められない事項が増えているのであり、今の日本を中央統制の進んだ国だとする現状認識は誤っているし、またこれから地方分権を進めるべきだという認識も誤解に基づいているとしているあたりが、本書の読みどころではないか。
・北川智子 『ハーバード 白熱日本史教室』(新潮新書) 評価★★★ 著者は1980年生まれ、カナダの大学で理系の学問を修めたのち、修士課程ではアジア研究に転じ、その後プリンストン大学の博士課程で日本史を専攻。 現在はハーバード大学で日本史を講じているという人。 本書は、著者が最初理系の学生でありながら文系に転じた経緯や大学院での勉強、そしてハーバード大学で教鞭をとるようになったきっかけと、そこでの授業のありさまを紹介している。 そこそこ面白い本だし、ハーバードでの学生評価や授業での工夫などは参考になる。 ただ、秀吉の正妻ねいがそれなりに政治的権力を持っていたとする著者の説は興味深いけれど、それ以上の何か根本的な新しさは感じられず、むしろ日本史というとサムライという言葉しか知らない米国人学生に寄り添う形での授業をやっているということで、色々工夫をしているのは分かるが、根本的にはあちらの需要に添った教員生活なんじゃないかという気もする。 あと、秀吉の朝鮮出兵がいけないというのは分かるが、秀吉や家康がキリシタンを弾圧したのがいけないというのは、あまりに近代的な宗教の自由という価値観に寄り添った見方で、この人、本当に歴史をやって大丈夫なのかな、という疑問を抱いた。
・内海愛子・梶村秀樹・鈴木啓介 (編著) 『朝鮮人差別とことば』(明石書店) 評価★★☆ 1986年に出た本。 内容はタイトルから分かるとおりで、朝鮮人差別を言葉の側面から追及した本。 今の目で見るとかなり著者たちの視線は窮屈、というか偏向や教条性が目立つけれど、まだ日本に韓流ブームも訪れていなかった頃でもあり、一般の日本人が朝鮮半島について碌な知識もなかったという状況下での本だから、まあある程度は仕方がないかという気がする。 私の見るところ、本書で最も優れているのは、「北鮮・南鮮」 という言葉が日本支配下の朝鮮半島で日本側によって生み出された用語であり、したがって朝鮮人からすると屈辱的に感じられる、と指摘した内海愛子の文章であろう。 ただし、そこで、朝鮮人側の 「朝鮮の鮮だけで略する言い方は、お前たちには頭はいらないという意図からだ」 という文章を根拠付けに使っているのは、明らかに勇み足。 ここはむしろ、 「南北朝」 と混同する恐れがあるから鮮の字のほうを選んだとする指摘が説得的だろう。 日本支配下の朝鮮人の置かれた立場に配慮するのはいいが、朝鮮人が言っているから即正しいとするのは困ったことである。 また、著者は計8人に及ぶのでそれぞれの認識の度合いにも差があり、例えば 「バカチョン・カメラ」 の 「チョン」 が朝鮮人を指すのではないということを正しく認識している朝鮮人著者もいれば、そうでない朝鮮人著者もいる。 さらに、編者でもある鈴木啓介 (都立高校教諭) は、日本人が朝鮮人に対して持つ蔑視をやめさせようとして授業での実践を行っているが、 「私は何もしないのに在日朝鮮人にいじめられた。 朝鮮人は嫌いだ」 という文章を寄せた生徒に、朝鮮人だって日本人からいじめられてきたのだと諭すようなやり方をしているけれど、これじゃダメだと思う。 そういう生徒のためには、自ら朝鮮人学校に断固として抗議しに行き、その上で朝鮮人差別について語らなければ、鈴木の授業は知識人にありがちな机上の空論=単なる綺麗ごとに終わってしまうだろう。 くだんの生徒は、おそらく鈴木のそういうダメさを認識して卒業していったことだろう。
・金昌國 『ボクらの京城師範附属第二國民学校 ある知日家の回想』(朝日新聞社) 評価★★★ 著者は韓国人で1933年ソウル生まれ。 戦中時代にソウルにある標記の学校に通った体験を持つ。 この本は、日本に支配されていた当時の朝鮮半島で少年時代をすごした著者の回想をメインに、戦後に韓国が独立したあと著者がどう生きてきたかにも言及し、私的な韓国戦後史としての性格も持つ書物。 著者の通った学校は一種のエリート校で、そこで出会った日本人教師の思い出が興味深い。 著者は小学生時代に描いた絵画を担任に言われて全国的なコンクールに出し、2等に入選したそうで、そのコンクールでは日本本国の子が1等、台湾の子が3等だったそうである。 うーむ、差別と融和策の結合がすばらしいというか、日本も帝国として色々苦心していたんだな、と感心した。 また、戦時中で朝鮮半島では創氏改名が行われたが、これがしばしば 「強制」 とされるけれど、著者は少数派ながら元の姓をそのまま使い続けた家の子供であることをはっきり書いており、それで罰も受けなかった以上、強制説が誤りであることが分かる。 他方、著者は当時の日本は京城帝国大学へ朝鮮人が入らないような政策をとっていたと書いているが、たしかに京城帝大は日本人の学生のほうが多かったのは事実だけれど、現地出身の学生も一定数おり、この辺の記述にはやや問題があると思う。 しかし、戦中から戦後にかけての時代に生きてきた一人の韓国人の回想録として、それなりの面白さはあろう。
・渡辺靖 『アメリカン・デモクラシーの逆説』(岩波新書) 評価★★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 著者は1967年生まれ、ハーヴァード大で博士号をとり、現在は慶応の教授をしている人。 本書は現代アメリカの政治や社会の状況を報告しつつ、現代アメリカを多面的に分析している。 また、東サモアがアメリカでありながらアメリカでないという独特な立場を維持しているという興味深い指摘もある。 現代のアメリカを細かく見つつも、トックヴィルやジェファーソンなどの昔の知見を引用しつつアメリカという国家が持つ変わらない側面にも光を当てている。 今のアメリカを考える上で必読の書物と言える。
・山内進 『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社選書メチエ) 評価★★★★ 15年前に出た本で、当時すぐ買ったものの、最後のあたりだけ拾い読みして済ませていたのだが、こないだ竹内節子のローマ・カトリック護教的な本(↓)を読んで、この本の存在を思い出し、最初から通読してみた。 ヨーロッパといえばキリスト教圏ということになっているけど、自然にそうなったわけではなく、武力をもって強制的にキリスト教化が推し進められたのである。 その歴史を語ったのが本書。 著者は一橋大教授。 現在入手し得る資料をもとに、北方の非キリスト教地域がドイツ騎士修道会――武力集団である騎士団を修道士扱いすることを当時の教皇は認めていた――などにより強引にキリスト教化されていく過程、その際に征服地域に対する収奪が行われたこと、様々な文化や言語がキリスト教化により消滅していったこと、非キリスト教地域を 「蜜の流れる地」 などと形容してキリスト教化を名目とした征服戦争を正当化するイデオローグが存在したこと、などなどが語られている。 そして最後に、ドイツ騎士修道会のポーランドへの戦闘を批判して異教徒の権利を擁護する学者が登場するが、教皇は結局、1400年代初頭のコンスタンツの公会議においていずれにも加担しない態度をとり、これが事実上征服戦争の暗黙の承認に結びつき、やがてコロンブスの新大陸 「発見」 とともにヨーロッパのアメリカ大陸侵略容認へと結びついていったことが分かるような論述がなされている。 私が大学の教養課程にいたとき、というのは1970年代初めだが、教わったドイツ人教師は授業中に 「ヨーロッパにキリスト教が布教される過程で多くの現地文化が失われた」 と語り、当時の私はポストコロニアリズムも何も知らなかったので、「へえ、そういう見方もあるのかな」 くらいにしか思わなかったのだが、しかし同時にその先生の発言が忘れられなかったのは、他人事じゃないなという気持ちがどこかにあったからだろう。 また、ポスコロ的な研究が当時からすでにある程度ヨーロッパではなされていたこともここから分かる。
・三島由紀夫 『鏡子の家』(新潮文庫) 評価★★ 三島が結婚前後に執筆した長編小説だが、未読だったので、ミュンヘン旅行中に読んでみた。 一般には評価があまり高くない作品だが、読んでみてたしかにそうだなあ、と思った。 この小説、三島がよく書いていたエンタメに似ている。 三島のエンタメ小説では現実離れした主人公が突拍子もない行為に走ったりするのだが、ここではそういうヒーローが4人集まりましたという感じで、全体にリアリティが希薄なのである。 リアリティが希薄でもほかに何かがあればいいのだが、どうもなさそうなのだ。 三島は他面で、社交小説を――この作品に限らず――書こうとした人でもあるが、日本にはヨーロッパみたいな社交界というものがあまりないから、描こうとしてもどこかウソ臭くなってしまう。 特にマンの『ファウスト博士』でミュンヘン社交界の様相の描写を読んだ後だと、それを痛感する。
・トーマス・マン (関泰祐・関楠生訳)『ファウスト博士(下)』(岩波文庫) 評価★★★☆ アードリアンのシュヴェアトフェーガーとの同性愛的な関係、そして彼を介しての某女性への結婚申し込みなど、マン自身の若い頃の体験や、ニーチェの伝記をもとにした筋書きが展開される。 そして可愛い甥ネポムクの登場と死。 ここもマン自身の孫がモデルになっているのだが、孫ですらも作品のためには容赦なく使い、なおかつ作中で死なせる小説家としての容赦なさにはちょっと辟易する。 作曲の部分の描写はあいかわらず入念かつリアリティがある。 最後にアードリアンの告白のシーンがあるが、ここは昔からやや物足りない印象があったけど、今回もこの点は同じだった。
・トーマス・マン (関泰祐・関楠生訳)『ファウスト博士(中)』(岩波文庫) 評価★★★☆ ここでは主人公アードリアンがイタリア旅行をし、またその後ドイツに戻った後ミュンヘンから多少離れたヴァルツフート近郊の農村プファイフェリング――実在するヴァイルハイム近郊のポリングがモデルになっている――に居を定め、作曲業に専念する部分である。 途中に有名な悪魔との対話のシーンがある。 このシーンはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』からの借用とされることがあるが、マン自身が若い頃イタリアに滞在した時分の体験に基づいているらしい。 また主人公の活動の合間に、ミュンヘンの社交界の模様や、マン自身の妹の運命をモデルにした作中人物の描写などが挿入されている。 こうした、当時のドイツ社会の描写の基盤があって、その上で作曲家アードリアンの仕事についての描写がなされるというところが、19世紀ヨーロッパ的な小説の面白みだと今さらながらに思う。 また、アードリアンの手がける曲の描写も、これは哲学者兼音楽学者のアドルノの援助があったらしいけど、かなり入念になされている。
・トーマス・マン (関泰祐・関楠生訳)『ファウスト博士(上)』(岩波文庫) 評価★★★☆ 私がマンのこの長編小説を初めて読んだのは、大学に入って間もない頃、つまり1970年代初頭、円子修平氏の訳によってであった。 その後新潟大学に就職した1980年代の初めに原文で読んだが、それ以降色々あってこの作品からは遠ざかっていた。 岩波文庫の訳は、岩波現代叢書から1950年代の前半に出たものがもとになっており、これがのちに改訳をほどこされ1970年代半ばに岩波文庫に収録されたのである。 この岩波文庫版を私が買ったのも新潟に来てからであるが、時々必要に応じて拾い読みする程度で、通読したことはなかった。 今回、ミュンヘン旅行に出かけるにあたってこの小説――これはミュンヘンの社交界や文化を描いた小説でもある――を再読しようと思い、飛行機に乗る数日前から読み始め、飛行機の中や、ミュンヘン滞在中も読み続けた。 円子修平訳じゃなくこちらを持っていったのは、こちらのほうが文庫本で軽量だから。 もともとこの小説には語られる対象 (作曲家アードリアン・レーヴァキューン) と語る側 (古典学者でギムナジウム教授のゼレヌス・ツァイトブローム) の間に少し齟齬があって、そのことは独文学者の故・川村二郎氏も指摘しているし若い頃の私も気になっていたのだが、年をとって再読してみるとそういう部分はあまり気にならず、むしろ第一次大戦前から両大戦間にかけてのドイツ社会の様相を丹念に文章化していくマンの力量に感心することが多かったのは、年の甲か、年齢ゆえに私もツァイトブローム的な人間になってきたからか。 主人公アードリアンにはニーチェの姿も重ねあわされているわけだが、この上巻はアードリアンの幼少期、そしていちどは神学を志しながら音楽に鞍替えし、やがて性病を患った娼婦と出会い、みずから進んで彼女と交わるあたりまでを描いている。 訳は悪くないが、主人公の姓Leverkuehnを 「レーヴェルキューン」 と旧式の発音にしているのは、ちょっとどうかな。 (アクセントのないerを 「エル」 とするのは旧式で、現代は一般的に 「エァ」 或いは 「ァ」 と母音化される。)
・鹿島茂 『吉本隆明1968』(平凡社新書) 評価★★★ 団塊の世代でフランス文学者の著者が、吉本隆明はなぜ偉大なのかを後の世代向けに分かりやすく語った本。 400ページあまりに及ぶ力作だが、タイトルにある1968年、つまり東大と東教大の入試が中止になった年度であり、日本の学生運動が最も盛り上がった時期でもあるわけだが、その1968年における吉本隆明の意義については、本文では触れられていない。 そこに行く前に紙数が尽きてしまい、「少し長めのあとがき」 でようやくその点に (少し) 触れられているので、タイトルはやや羊頭狗肉かもしれない。 とはいえ、分かりにくい吉本の発言を噛んで含めるように分かりやすく説明していく鹿島茂の筆はほめていい。 もしかしたら書いた吉本自身も分かってなかったところまで分かってしまって書いているんじゃないか、と思えるくらい。 ただ、それで吉本の偉大さが納得できるかというと、それは違う。 例えば芥川龍之介評価に関するところで、吉本は芥川の技巧的な作品 ( 『羅生門』 など) を評価せず、むしろ芥川の出自 (中流下層) をうかがわせる作品を評価するという。 まあそれは一つの考え方ではあるが、裕福な家庭の出身だった志賀直哉には作品の形式的完成はやさしいことだった、なんてされていると、そりゃ違うだろう、と言いたくなる。 志賀直哉は中村光夫も指摘しているように、もともと文学的な素質はない人だった。 文学的素質がないからこそ、逆にその作品は自然と見え、限られた文壇内で 「神様」 扱いを受けたわけだが、戦争直後の彼の発言を見れば分かるようにそもそも知的な資質に欠ける人であって、そういうところが見えなかった戦前から戦後まもない頃の日本の文学 (研究) 者たちの限界をこそ見抜くべきであるのに、吉本の見方だとむしろそういう限界を正当化してしまうことになろう。 そもそも階級で志賀を論じるなら、有島武郎や武者小路実篤だって同じく裕福な家庭の出身だったのだから、彼らも志賀と同じだとしなければならないはずだが、とてもそんなことは言えないわけで、鹿島茂も文学研究者である以上その辺はもっと突っ込んでもいいはずだけれど、なぜかそうしていないのは、吉本主義者の限界なのかなあ、と思えてくる。 あと、27ページで鹿島はうっかり筆を滑らせて、インテリは本当の意味の生活をしたことがない、なんて書いている。 これは実際、筆が滑ったのだと思う。 本の後半ではこんな単純なことを言ってはいないからだ。 が、吉本 (主義者) の根底にある大衆崇拝が、インテリの持つ民衆コンプレックスに過ぎないのではないか、と思わせる筆の滑り方だ。 下らないと思う。 インテリはインテリとしての活動を全うすることでしか 「生活」 できない。 その辺の大衆にインテリのやっていることの意味が分かるかどうかなんて、どうでもいいことなのである。
・竹下節子 『キリスト教の真実 ――西洋近代をもたらした宗教思想』(ちくま新書) 評価★★☆ 著者は1951年生まれで東大と東大大学院を出た後パリの大学で学び、現在もパリにいて研究と著述に従事している人。 本書は、一口で言うとローマ・カトリックの護教書である。 カトリックこそが近代的な民主主義や平等概念や教育をもたらしたのであり、主としてフランスがライシテによって脱宗教化をはかったのも基盤にあるカトリックが普遍性を持っていたからだ・・・・と主張しようとしている。 内容は多岐にわたり、哲学や神学、場合によっては自然科学にも論が及び、またチベットやトルコの状況にも言及がなされるなど著者の学識の広さを示してはいるし、教えられるところもそれなりにあるのだけれども、どうも 「臭いな」 という印象はぬぐえない。 前半では、ヨーロッパの中世が暗黒であり、古代ギリシャの知はアラビアに受け継がれて発展し、ルネッサンスの頃にようやくヨーロッパに再受容されたという、現在一般に受けいれられている説を否定し、この説はプロテスタントの英国の学者がカトリックの権威を否定するために持ち出したものであり、実際にはカトリックの僧侶や教会によって古代の知は保存され発展させられた度合いが大きい (アラビアの貢献を全否定まではしていない) と述べている。 その辺は私には正邪の判断がつきかねる。 カトリックではこういう主張をしているんだろうけど、実際はどうなのだろうか。 また、首をかしげる箇所もけっこうあり、例えば古代アレクサンドリアの図書館を642年に破壊したのはカリフのオマールだと述べていて(82ページ)、つまり竹下の文脈ではキリスト教徒ではなくイスラム教徒こそが古代アレクサンドリアの図書館を破壊した張本人だという意味になるわけだけど、しかしこの説には強い異論もある (詳しくは中公新書のエル=アバディ著 『古代アレクサンドリア図書館』 168ページ以下を参照) のに、そのことには触れられていない。 またアレクサンドリアの図書館といっても一つはなく時期により複数あったわけで、一つはカエサルの戦争で火災にあったというし、また391年、テオドシウス皇帝が異教徒神殿の破壊を許可した際には暴徒と化したキリスト教徒により当時の図書館も破壊されたと考えられている (この事件は最近、スペイン映画 『アレクサンドリア』 により一般にも広く知られるようになった) のだが、その事件には竹下は触れていない。 つまり、こういうふうに、キリスト教に都合の悪い事件には触れなかったり、或いは 「どんな宗教にも暴力は付きまとう」 というような書き方で相対化をはかっているくせに、なぜかカトリックによる近代化だけはフランスを中心とするヨーロッパが世界に贈ったプレゼントだというような書き方になっているのである。 また、同じキリスト教国でもアメリカはかなり批判されていて、どうも日本女性はおフランスに弱くて困っちゃうんだが、東大大学院出の才媛といえどどもそういう弊は免れることができないという事実の見本のような本かもしれないなあ。 なお帯には、「『ふしぎなキリスト教』 共著者・橋爪大三郎氏、推奨!」 と書かれているけど、私は未読だが橋爪の 『ふしぎなキリスト教』 は内容に間違いが多いと指摘されており、その橋爪が本書を 「推奨」 しているとすると、社会学者は信用できないという私の説を補強することにしかならないのではないかしらん。
・秦郁彦 『陰謀史観』(新潮新書) 評価★★★ タイトルだけではよく分からないが、本書は近現代史の中での日米戦争を中心にすえ、そこに至る過程の中で日中戦争にも言及している本である。 明治以降、日米双方に相手の動きに対して過敏に反応したり 「陰謀」 が背後に隠されていると揣摩臆測をたくましくしたりしたことがあったという前史に触れた後、日米戦争について 「真珠湾攻撃をルーズヴェルトは前もって知っていた」 とか 「コミンテルンの陰謀により日米は戦争に追い込まれた」 とか 「ハル・ノートはソ連のスパイの示唆で書かれた」 といった説を逐一取り上げて検討し、否定している。 また日中戦争で張作霖を殺害したのは日本の河本大佐ではなくソ連の工作員だったという説をユン・チアンが 『マオ』 の中で主張し、日本の一部の評論家に影響を与えているが、これについてもユン・チアンの説の出所を調べた上で、ありえない説と否定している。 著者の批判は主として田母神俊雄や藤原正彦や中西輝政に向けられているが、同時に前半では、大戦の首謀者は昭和天皇だとするバーガミーニやハーバート・ビックス、またビックスを持ち上げている吉田裕にも批判が向けられているし、「真珠湾攻撃をルーズヴェルトは知っていた」 説はアメリカ人にも多いことも述べられており、全体として目配りがききバランスのとれた面白い本になっている。 ただ、戦争に至るまでの個々の事件を具体的に検討する著者の手つきは冴えているけれど、大きな歴史の流れを叙述することについて 「どうとでも言える」 で済ませているのは著者の限界かなという気もする。 そういう歴史観や歴史哲学こそが、西洋の知的な武器の一部になっているという事実が見えていないのではないか。
・高木彬光 『破戒裁判』(光文社文庫) 評価★★★ ミステリー作家の高木彬光が1961年に刊行した法廷ものの推理小説。 夫婦2人を殺したという容疑で逮捕・起訴された被告を、弁護士が法廷の場で別の真犯人を名指すことで救うという筋書き。 タイトルは島崎藤村の 『破戒』 を暗示しており、そこからも分かるように部落差別が関係している。 また、このようなテーマを高木が取り上げたのは、自身が嫡子でありながらなぜか戸籍上は私生児と記載され、そのために京都帝大工学部卒という学歴ながら海軍にも陸軍にもしかるべき待遇での採用 (中尉扱いの技官) を拒否されたという体験が絡んでいるという。 ミステリーとしてはまあ普通の出来かと思うが、テーマ性が強いところに著者のこだわりを感じるし、また日本での法廷もののミステリーとしては嚆矢とも言える作品なのだそうである。
・遠藤周作 『対談集 日本人はキリスト教を信じられるか』(講談社) 評価★★★ 1977年に出た本。 ずいぶん以前に購入して一部分読んだきりになっていたが、少し前に授業で 『沈黙』 を扱ったので、改めて通読してみた。 対談 (鼎談・座談会) の相手は、三浦朱門、武田泰淳、田中千禾夫+森有正、北杜夫、小川国夫+堀田雄康+高堂要、井上洋治+山本七平である。 遠藤周作が、親がクリスチャンだったため否応なくクリスチャンになり、それはクリスチャンたることを自明とするのではなく、日本人でクリスチャンであるとはどういうことなのかを考えるという姿勢につながっていったことが分かる。 また、対談相手のほかのクリスチャン (ばかりではないが) が、やはり日本人としてクリスチャンであることの意味についてそれぞれ悩んだり考えたりしていることも分かる。 遠藤周作がかなり勉強しているということも読み取れる本。
・丹下和彦 『食べるギリシア人 ――古典文学グルメ紀行』(岩波新書) 評価★★★ 著者は京大出身の西洋古典学の学者。 タイトルからも想像がつくように、ギリシア古典の中から食に関する記述を抜き出し、当時のギリシア人が何をどのように食べていたかを推測した本である。 西洋というと肉食のイメージがあるが、古代ギリシアは海に面して栄えた文化だから、魚食もかなり盛んだったとか。 また、当時は寝転んで食事するという習慣があったが、それが例外なくあてはまるわけではなく、或る時点で導入されて広まったらしいということも指摘されている。 学者の書いた本だから読んでいてもあんまりお腹が空いてくることはないけれど (といっても、著者もくだけた記述を心がけてはいる)、まあ読んでおいて損はないだろう。
・インゲボルク・バッハマン(生野幸吉訳)『三十歳』(白水社) 評価★★☆ 戦後ドイツ語圏を代表する女流作家・詩人による短篇小説集。 邦訳は1965年に出ている。 私は一部分を以前に原文で読んだが、今回必要があって短篇集全体を邦訳で読んでみた。 一言で言うと、バッハマンはどちらかというと詩人としての資質が勝っている人だなあ、ということ。 原本は1961年で出ていてバッハマンは1927年生まれだから戦争体験の話もあるのではあるが、あんまりテーマ性を露骨に出さず、細かい、しかし必ずしも分かりやすくない感情や思考の襞にこだわりながら物語っていくようなところがある。 しかし現代日本人にこれがどの程度面白く感じられるかとなると、うーん、という気がする。
・桑野隆 『バフチン カーニヴァル・対話・笑い』(平凡社新書) 評価★★☆ ソ連の文学研究者として、特にドストエフスキー論やラブレー論で広く知られたバフチンの生涯と思想について書かれた本。 最後のあたりに著者が書いているところからすると、専門書ではなく一般読者を想定しているはずだが、どうも読んでいてそういう感じがしなかった。 もし一般読者向けと言うなら、バフチン思想の細かい変遷だとか、当局の圧力による書き直しなどにはあまり触れずに、ドストエフスキーやラブレーを論じるバフチンのどこが新しく独自だったのか、またそれによってどういう新しい局面が文学研究に開けてきたのかがまずもって明らかにしなくてはならないはずだが、実際には逆で、時代ごとの細かい考え方の変遷だとか、当局の圧力でどうのこうのとか、まあそれも大事なことには違いないが、専門家同士でそういう話をするならいざ知らず、一般向けの本でそんなことをぐだぐだ長たらしく書き続ける著者の姿勢には疑問符が付くと思いました。 紀要論文を集めたみたいな書き方なんだなあ。
・荻上チキ 『ネットいじめ ウェブ社会と終わりなき 「キャラ戦争」』(PHP新書) 評価★★☆ 2008年に出た新書だが、BOOKOFFに105円で出ていたので買って読んでみた。 著者の名は知っていたけど、本を読むのは初めてである。 下田博次 (この人の名はは本書を読むまで知らなかった) や尾木直樹の言説を取り上げつつ、ネットがいじめに利用されるから中高生は利用しないほうがいいというような、保護主義的な主張を批判している。 そこはなるほどと思って読んだのであるが、といってネットがいじめに使われないわけではなく、後半では使われる場合の例や、その傾向と対策についても論じている。 ただしネットのいじめはネットがあるからという理由だけで起こるわけではなく、現実の中高生の生活や感性を反映しているわけで、その辺も含めた捉え方を、というのは、分かるけれどさほど物珍しい考え方でもなく、読み終えてもあんまり充実感だとか 「そうだったのか!」 という感じは残らない本だった。
・平野嘉彦『マゾッホという思想』(青土社) 評価★★★ 8年前に出た本だが、ちょっと必要があって読んでみた。 著者は当時東大独文科教授だった人。 マゾヒズムの語源となったマゾッホについて、いくつかの面からアプローチしている。 作品にあらわれた (マゾッホは生前は売れていた小説家だった) マゾヒズムについて考えるのに参考になる。 ただ、後半は精神分析的なアプローチをしていて、諸家の説を紹介してくれているところはありがたいが、少し難解で、よく分からないところもあった。 マゾッホについては種村季弘の本もあるけれど、種村の本のほうが内容豊富である。 ただしこちらは最新の研究動向にも触れているので、両方読むにしくはない。
・杉浦一機 『激安エアラインの時代 なぜ安いのか、本当に安全なのか』(平凡社新書) 評価★★★ タイトルどおりの本だが、過去の航空行政やこれからの航空機事情への展望も含まれている。 著者は飛行機に詳しく、これまでもこの手の本を出している人らしい。 日本の飛行機行政が保守的で、欧米の格安化の趨勢に大きく後れを取っていたという事情についても書かれている。 もっとも、欧米にしても何の摩擦もなくこうなったわけじゃなく、それなりにいろいろあって最近のように格安化になってきているということのようだ。 ただ、この本を読む限り格安化はせいぜい飛行時間4時間くらいまでの、比較的近い地域同士での話であり、日本とアメリカとか日本とヨーロッパのように十時間もかかる長距離路線には縁がなさそうなので、私のように国内旅行はクルマか鉄道、海外はヨーロッパ以外は興味が薄いという人間には使えそうもないなあ、残念でした。
・渡辺京二 『ドストエフスキイの政治思想』(洋泉社新書y) 評価★★☆ 私はよく知らなかったのだが、渡辺京二は最近ブームになっているのだそうな。 洋泉社の新書から 「傑作選」 まで出ていて、これはその第4巻。 タイトルどおりの本だけれど、ドストエフスキーの 『作家の日記』 に現れた政治思想を解明しようとしている。 E・H・カーなどは、ドストエフスキーの政治思想は全然リアルじゃないと否定的に言っているわけだが、それに反駁する形をとりながら、現実に必ずしも沿う形ではなくとも無効な思想というわけではない、と言いたいらしい。 なるほどと思うところもあったけれど、全体としてさほど教えられることが多かった、という気はしなかった。 こういう類のテーマは、小林秀雄みたいに思い切って我流に徹してやるか、或いは逆に学者として実証的に行くか、どちらかしかないと思うんだが、中途半端な感じの本ではないだろうか。
・片山杜秀 『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ) 評価★★★☆ 最近は音楽評論家として名高い著者が5年前に出した本業 (?) での本で、出たときすぐ購入したもののツンドクになっており、ようやくこのほど読む気になった。 タイトルどおりの本ではあるが、北一輝や大川周明といった大物の思想は省かれており、どちらかというと周辺的な右翼や、一般には右翼とは思われていない大正教養主義の思想家などが取り上げられ、全体が四段階の流れにまとめられている。 四段階とは、「世の中を変えようとするがうまくいかない」、「変えられないなら変えようとは思わなくする」、「変えることを諦めれば現在をそのまま肯定したくなる」、「すべてを受け入れて頭で考えなくなれば、身体しか残らない」――である。 ちょっと、一般的な右翼のコワいイメージとは違うけれど、読んでみるとなるほどと思えてくる。 右翼といっても様々で、現実との相克で悩むという点で左翼と違いはないのである。 特に四段階目が現代のエコロジーや人生論などにもそのまま流れ込んでいるという指摘は重要。
・成田龍一 『近現代日本史と歴史学 書き替えられてきた過去』(中公新書) 評価★★★ 明治維新以降の日本の歴史を、第二次大戦以降の日本史学者がどう捉えてきたかを述べた本。 歴史学者といっても時代によって受け取り方が、というより物の見方が異なっていて、もちろん新たな史料が発掘されるなど材料が増えてきているということもあり、評価を含めて変遷が見られるわけで、その辺の事情を具体的かつ歴史的に明らかにしている。 戦後の日本史学は時代的におおよそ3期にわけられる、という説明から始まっている。 第1期は1960年頃までで、社会経済史、つまりマルクス主義をベースにした研究、第2期は1960年頃から70年代半ば頃までで、民衆の側から歴史を見るという観点が重要視された研究、第3期はそれ以降の、近代化や進歩という概念が再検討され、また日本史という枠組み自体も再検討される時代である。 通読してみて、大正期までの説明には説得性が高く、教えられるところもそれなりにあり、悪くないと思った。 大正デモクラシーという概念が最初は批判的な意味だったという指摘など、面白い。 しかし昭和史に入るとそうはいかなくなる。 著者自身言っているように昭和史は現代まで直接的に続いているわけで、つまり現代の問題意識、場合によっては国際的な政治の問題と切り離しては論じられないのであり、また一般向けの市販雑誌でもいわゆる専門的な史学者への批判がしばしばなされている。 しかし著者はそういう批判のほとんどを無視している。 専門家以外は論じない、というならそれはそれで一つの態度だが、史学者に都合がいい限りにおいては作家の森村誠一などにも言及しており、また戦時中に女性解放論者の女性が戦争協力したことについて、今の価値観で裁断するのはおかしいという社会学者・上野千鶴子の主張を引用しているけれど、それなら戦争中のすべての行為は今の価値観で裁断してはいけないはずであり、そういうことは保守派からさんざん言われているわけだが、それを無視しているのは左翼仲間でしか言説を交換しないという偏狭な態度だと批判されても仕方があるまい。 また吉見義明の従軍慰安婦についての説には秦郁彦などから批判が出ているのに、そこも素通りである。 さらに、戦時中は日米とも相手の民族を差別するような言説がはびこったというアメリカ人研究者の論考を引用しているけれど、近代の欧米植民地主義が人種差別を内蔵していたのは別にアメリカ人に教えてもらわなくても常識であり――著者は1951年生まれだから52年生まれの私と同世代で、この世代は小学生時代からそういうことは常識として知っていたはず――それに言及するなら戦争以前から特に欧米側に差別的な態度があったということに触れるべきだと考えるが、外国の学者に言ってもらわないとアメリカ人の差別に言及することすらできないのだろうか。 だとすると日本史学者は随分卑屈だと言わざるを得まい。 以上、大正期までは★3つ半か4つ、昭和史は★2つか2つ半ということで、総合評価は★3つとした。
・宮田由紀夫 『米国キャンパス 「拝金」 報告 これは日本のモデルなのか』(中公新書ラクレ) 評価★★★★ 著者は関学教授で、阪大経済を出たあとワシントン大の工学部で学部と修士をやり、さらにワシントン大で経済学の博士を取ったという人。 ハーヴァード大学長の書いた 『産業化する大学』(玉川大学出版部) の邦訳者でもある。 本書は、最近日本の大学がアメリカの大学制度を模倣しつつあることをふまえ、アメリカの大学の実態をコンパクトにまとめたものである。 先に挙げた 『産業化する大学』 からも少なからず学んでいるようだが、アメリカの大学のカネをめぐる諸問題を包括的に理解するのに役立つ本である。 まず、アメリカと日本が違うのは、どちらも国立・州立と私立という、財政基盤的には二本立ての制度になっているけれど――ヨーロッパでは基本的に大学は国立・州立である――、日本では国立大学が研究大学で、私立大学は学生数は過半数だが研究大学としての性格は弱いのに対して、アメリカは逆であり、税金で運営されている州立大学が学生数の過半を引き受け、ハーヴァードなどの有名私立が少人数教育で研究大学としての性格をも強く持っている、というところである。 といっても私立にも公的資金は流入しているわけで、財政基盤をめぐる州立と私立の対立は積年にわたって色々な形で続いているということらしい。 最近はアメリカも財政難だから、州立は本来は税金でまかなわれるべきところ、授業料などの値上げが相次いでいる。 そのほか、大学教員市場の問題とか、研究成果の商業化の問題とか、ランキングの問題とか、各方面での言及がなされていて、著者もすでに副題で言っているわけだが、単純にアメリカの大学を真似ればいいってもんじゃない、ということが分かってくる。 学生による授業評価の問題では、授業評価の高い授業をとった学生はその後の成績が芳しくない、という指摘もある。 そして、最後に著者が力説しているように、最近の日本の大学では 「アメリカの大学では研究は外部資金で行われる」 から教員自ら研究資金を集めよ、ということになっているのだが、実はアメリカの大学では学長こそ外部資金を集めるのに最大の責任を負っているわけで、外部資金を集めてこられない学長は失格なのである。 この辺は、新潟大学をはじめ、日本全国の大学学長に――だけじゃなく理事たちにも―― ちゃんと認識してもらいたいところなのだ。
・シュテファン・ツヴァイク(原田義人訳)『昨日の世界 2』(みすず書房、ツヴァイク全集第20巻) 評価★★★★ ツヴァイクが自殺する少し前に書いた自伝の後半。 第1巻と同様、久しぶりに再読してみた。 前半にもまして興味深い記述が多い。 第一次大戦期の知識人たちのさまざまな行動、ソ連への訪問、そしてヒトラーの政権掌握、オーストリーのナチス化、著者の英国脱出が綴られている。 第一次大戦期は第二次大戦期とは違い、ヨーロッパ知識人たちの言葉がそれなりに通用していたという指摘は重要。 戦時中はオーストリーも物資不足に見舞われ、たまたま中立国スイスを訪れたら食物が豊富で、本物のコーヒーを飲み上等な葉巻を吸ったら目まいがしたという。 オーストリーでは代用コーヒーと代用タバコしか流通しなくなっていたのだ。 また、戦後になってから敵対していたイタリアを訪れて、かつての友人を訪ねたが、戦時中は敵同士だったこともあり、直接会いに赴くのではなく、勤務先を訪れて自分の名刺に滞在ホテルだけを記してボーイに渡してくれるよう頼んだところ、その建物をツヴァイクが出ないうちに友人が階段を駆け下りてきて、感激の再会を果たしたという、心あたたまるエピソードも紹介されている。 ソ連訪問では、この頃のヨーロッパ知識人のソ連訪問は、帰国後にソ連を批判するか賛美するかに二分されており、それもあって著者は躊躇していたが、作家として記念行事に参加するというきっかけがあったので訪問したこと、ソ連の民衆の姿に感銘を受けはしたが、あるとき、「あなたが見せられているものはすべて当局のお膳立てしたものに過ぎない」 という匿名の手紙が知らぬ間にポケットに入っており、またその手紙には 「読んだら焼却してほしい。破って捨てるのはいけない。ちぎれた紙片を集めて元の形を再現されてしまうから」 と書かれていたという。 またツヴァイクは英国に亡命するに先立って英国訪問をしているが、ヨーロッパ各地域の文化人との交流が多い彼であるにもかかわらず、英国作家との交流はそれまで少なかったと書かれている。 フランスはもちろん、ロシアやイタリアの作家たちにも友人知人が多かった彼が、英国についてはそうではないと述べているのを読むと、英国はヨーロッパ内ではやはり大陸から離れた島国なのかと思わせられた。 第一次大戦以前にはそもそもパスポートなどというものは存在しなかった、という記述も重要。 言うまでもなく、英国に赴くにはパスポートが要り、そして第二次大戦が始まるとオーストリー人であるツヴァイクは敵性外国人とされたからである。
・田中慎弥 『共喰い』(『文芸春秋3月号』) 評価★★ 最近芥川賞を取った小説。 どんなものかと思ったけど、面白くない。 ちょっと土俗的な、中上健次的な味もある作品だが、私は中上の作品は (あまり読んでいないけれど) 評価しておらず、この小説も感心しなかった。 この 『共喰い』 が受賞したということを考える上で興味深いのは、高樹のぶ子の選評である。 といっても的確だというのではなく、なぜこういう作品が選考委員から評価されるのかのからくりが分かるという意味で面白かったのだが。 つまり、「都会の青春小説」 が輝きを失い、「土着熱」 が説得力を持ってくる、地方の若者は質量が大きい、などと高樹は書いているからだ。 ある種の地方幻想。 それこそ、こうした 「都会」 の選考委員が抱く幻想に寄り添うのではなく、それをあばくことから文学は始めるべきではないのか。
・亀山郁夫 『チャイコフスキーがなぜか好き 熱狂とノスタルジーのロシア音楽』(PHP新書) 評価★★★★ 副題どおりの本。 つまり、ロシアのクラシック音楽を紹介した本である。 ただし、著者はロシア文学者なので、体系的な、或いは音楽学に基づく学術的な本というより、著者の好みをある程度前面に出し、またロシアの社会や宗教や政治をも視野に入れた上で、ロシア音楽の魅力や「傾向と対策(?)」を明らかにしようとしているのである。 そういう前提で読むなら、たいへんに面白い一冊である。 好みを前面に出していると言っても、紹介されている作曲家の数はかなり多いし、並みのクラシックファンなら教わるところが非常に多い本であることは請け合います。
・阿部彩 『弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂』(講談社現代新書) 評価★★☆ 著者は国立の研究所所属で、貧困や社会的排除について研究している人。 本書は、日本における貧困や社会的排除の実態を報告し、それを克服するにはどうすればいいかを提言した本である。 また、最低生活という概念を紹介している。 必需品の内容も時代によって変わるという指摘もある。 例えば、現代ならケータイがないと日雇い労務者は仕事の情報が得られないので、昔の基準なら贅沢品に見えるけど今では必需品なのである。 また外国の場合と日本の場合の相違についての報告もある。 (著者は外国留学して研究した履歴もある。) ★の評価は少し厳しくしたが、悪い本ではないと思う。 ならばなぜ評価が低いかというと、一冊の本にするだけの十分な内容量がないからなのだ。 もう少し蓄積してから本にしてほしい。 事例の紹介も、興味深いけれど、もっと沢山出してほしい。
・『福田恆存対談・座談集 第2巻 現代的状況と知識人』(玉川大学出版会) 評価★★★ 評論家・福田恆存の対談や座談を集めた本の第2巻。 ここでは、吉田秀和、三島由紀夫、中村光夫、大岡昇平、サイデンステッカーといった芸術・文学系統の人はむろんのこと、和歌森太郎、加藤周一、竹内好などの、福田とは対立陣営にあるとされる評論家も登場する。 竹内好との対談は、対立する二人がその相違を冷静に明らかにしたという意味で好対談となっている。 他方、加藤との対談では、大衆は信頼できるかという根本のところで意見の一致を見ないまま終わっている。 その一方で、埴谷雄高と加藤周一との文学鼎談では、埴谷が孤立して加藤と福田の意見が合うことが多い。 これはやはり教養の問題――つまり加藤と福田は旧制高校から東大に進んだが埴谷は違う――ではないかと思う。 なお、全部を隈なく読んだのではなく、国語問題と名人芸についての部分は飛ばしました。
・スティーブン・ピンカー (山下篤子訳) 『人間の本性を考える 心は空白の石版か (下)』(NHKブックス) 評価★★★☆ 上中巻に続き、下巻では 「5つのホットな問題」 を取り上げている。 (1) 政治。 つまり学問で 「空白の石版」 説が幅をきかせるのも、それが政治上のリベラリズムに合致するからで、一見イデオロギーとは無縁なように見える自然科学ですら、そうした政治上の対立とは無縁でいることはできない、というかアメリカの学問とはそういうものだと分かる。 また、アメリカでシンクタンクが発達しているのは、大学が左派に占められているからで、保守派が政策の学術的基盤をシンクタンクに求めざるを得なかったという指摘 (27ページ) などは貴重だろう。 別の言い方をすると、日本では官僚が物事を決定しているから、大学の知識人が力を持たないのはもちろん、シンクタンクも発達しないわけだ。 しかしアメリカの学会でも一時期はマルクス主義に対立する説はすべて退けられたというから、日本とさほど変わらなかったとも言える。 IQが、最近では左派の学者に評判が悪いけれど (空白の石版説と正反対だから)、当初は左派に支持されていたという指摘も面白い。 なぜならIQは個々人の能力による出世を可能にする考え方で、親が会社経営だから息子があとを継ぐ、というような保守的な因習を崩すものと考えられたからだという (44ページ)。 (2) 暴力。 メディアが暴力的なシーンを (映画やテレビで) 流すから暴力が社会にはびこる、という説は誤りである (60ページ)。 また戦争で兵士は敵兵を銃で撃つことが容易にできない、とする説も誤りである (80ページ)。 警察がストライキを起こすと、その地域には暴力犯罪が増える。 つまり、人間はもともと平和を望んでいるとか、警察という暴力装置があるからイケナイのだ、とする説は誤りで、抑止的な暴力装置は必要 (98ページ)。 アメリカの隣国カナダがアメリカよりはるかに暴力犯罪が少ないのは、入植者より警察が先に入っていたからと考えられる (102ページ)。 (3) ジェンダー。 ラディカル・フェミニズムが男女の性差をすべて後天的な教育に帰するのは誤りである。 日本でも 『ブレンダと呼ばれた少年』 の題で邦訳されいる事例、つまり幼時に事故に会って生殖器が機能しなくなり手術により女の性器を与えられて女の子として育てられた少年が、一時期うまく育っていると報告されていたが、それが虚偽であるという事例も引かれている (131ページ)。 また、平均して女のほうが男より子供に関心を多く向けることは学問統計上否定できず、したがって 「絶対に男は仕事、女は家庭」 というように線引きするのは差別だけれど、平均して女のほうが家庭に多くの時間を割こうとすることはむしろ自然である、とされている (144ページ以下)。 ラディカル・フェミニズムが主婦を選択しようとする女性を否定すること自体が不適切なのだ。 「フェミニズムは選択の問題だと思っていた 〔つまり、仕事か家庭かは本人の選択次第であり、どちらかを選んだからといって批判されるものではない〕」 という現実の女性の声も紹介されている (148ページ)。 また、レイプの研究自体が非難されるような状況があるが、レイプが 「男社会」 によって社会的に構築されたというラディカル・フェミニズムの主張が誤りなのは、むしろ男性中心的な因習の強い社会のほうがレイプは少ないという事実からも、また人間以外の生物にもレイプは広く見られるという事実からも明らかだとしている (165ページ以下)。 (4) 生まれ (生得的な資質) か育ちか。 平均的に見て、背の高い男は低い男より出世する。 また、容姿の優れた人はそうでない人より自己主張が強くなりがちである (184ページ)。 子供は3歳までに脳に色々刺激を与えたほうがいいとか、親がたくさん話しかけたほうが知能が上がるとか、子供がうまく育たないのはすべて親の育て方が悪いとするような説は誤りである (ヒラリー・クリントンもこういう説に染まっていて、そういう趣旨の本まで書いているという)(202ページ以下)。 (5) 芸術。 芸術系や人文系の学問が大学で衰退しているという悲観論がアメリカにはある――日本にもありますけど――が、これは大衆化やテクノロジーによって優れた絵や音楽が安く入手できるようになったからそう見えるだけで、昔は人文系の学問やすぐれた芸術にアプローチできる人は一部分だったのだから、実際には悲観すべきではないという。 また、モダニスト、その後のポストモダニストが大衆性のある美を否定して珍妙な芸術や文学を称揚しているのはナンセンスだとしている。
・辻隆太朗 『世界の陰謀論を読み解く ユダヤ・フリーメーソン・イルミナリティ』(講談社現代新書) 評価★★★☆ タイトルどおりの本である。 著者は北大の大学院生。 ユダヤはともかく、フリーメーソンやイルミナリティについては、名前は知っていても詳しいことは知らなったので、その実像や歴史的な経緯も含めてなかなか勉強になった。 また、今現在のアメリカでどういう陰謀論が幅を利かせているかについての章もあるし、なぜ陰謀論が起こるかについての分析もある。 現代なら、経済のグローバル化にともなって世界状況の変化が捉えにくくなっており、その分かりにくさを避けて物事を単純に割り切る陰謀論が好まれるのだという。
・スティーブン・ピンカー (山下篤子訳) 『人間の本性を考える 心は空白の石版か (中)』(NHKブックス) 評価★★★☆ 下↓の上巻に続いて、ここではまず、「個々人に生まれつきの差異があるなら差別が正当化されるのでは」 「人間の条件を改善する望みはむなしくなるのでは」 「人間が生物的に規定されているというなら自由意志は存在せず、人は自分の行動に責任をとらなくなるのでは」 「人生には高尚な意味や目的が何もないことになるのでは」 という4つの設問をとりあげ、それぞれに1章を当てて著者の考えを説明している。 その辺は常識的穏健派というのか、生物学的な制約があっても人間が人間的に生きる、或いは生きようと努力することには支障がないという結論になっている。 しかし途中で披露される知識には色々教えられるところある。 優生学はむしろ社会主義者などの左派が好んだとか (36ページ)、60年代以降環境問題への関心が高まると自然をロマンティックに道徳化する傾向が強まったが、野生の動物でも子殺しやレイプや不倫などの 「不道徳的な」 行為を行うとか (56ページ)、いわゆるステレオタイプを全部否定するのは間違いだとか (127ページ以下)。 また差別語問題への言及もあるし (142ページ)、マルサス的な 「人口の爆発=地球の危機」 説がテクノロジーの進歩を無視していることへの批判もあるし (189ページ)、キブツなどの集産主義は個人のエゴ、別名家族への愛に勝てないという指摘 (226ページ)、知識人がロマン主義から犯罪者を擁護して (つまり犯罪を犯すのは素質からではなく社会的に恵まれなかったに過ぎないから、という理由で釈放運動などに携わり) ものの見事に失敗した例 (つまり犯罪者はもともとそういう素質を持っているということ、234ページ以下)、ベジタリアンには二種類あり、健康的な理由からなる人と、道徳的な理由(「動物を殺して食べるのは罪」)からなる人とがいるが、後者のほうが他人に対して自分の考えを押し付けようとする傾向が強く、また食行動は奇妙に道徳化される傾向があり、例えばチーズバーガーとミルクシェイクを食べる人はチキンとサラダを食べる人より親切さや思いやりに欠けている、とされやすいのだそうである (258ページ)。 著者の博識ぶりが遺憾なく発揮された本である。
・スティーブン・ピンカー (山下篤子訳) 『人間の本性を考える 心は空白の石版か (上)』(NHKブックス) 評価★★★☆ 一部ではだいぶ評判になった本のようだが、私はうかつなことに最近知り、読んでみた。 原著は2002年に、この邦訳は2004年に出ている。 著者は1954年生まれのハーヴァード大学心理学教授。 副題にあるように、人間の本性というのは生後の教育がすべてを決定するのか (つまり心は何も書かれていない石版のようなものだから、生後の書き込みですべてが決まる)、それとも人間あるいは個人の能力や指向性は大部分生まれつき決まっているのか、という問題を扱っている。 私などは、個々人の知的能力や運動能力は7~8割は生まれつき決まっていると何となく考えてきたし、それはこの本を読んでも変わらないが (というか、著者は基本的に私と同様の考え方をしている)、そういう考え方はケシカランとする人たちがかなりおり、そういう人たちは 「大部分は生まれつき」 説を糾弾するのみならず、そういう説をタブー扱いしようとするらしい。 フェミニストに、男女の生まれつきの性差を認めずすべては教育のせいとする連中がいることは知っていたが、ことは男女問題だけではなく、「すべては生後の教育次第」 とすることが政治的に正しいとする変な風潮がアメリカにはあった (そして今もある) ということのようだ。 最初の三分の一ほどを訳したこの上巻は、一卵性双生児がDNAが一致していることから、ともに統合失調症にかかるパーセンテージが二卵性双生児に比して高いこと、IQでも一卵性双生児は別々に育ってもほぼ一致しているのに対し、同じ家庭で育った (血縁的には他人の) 養子はそうではないこと、等々の心理学の知見が盛り込まれているほか、昔から欧米に見られた「高貴な野蛮人」 説、つまり戦争や争いごとは近代化の産物で原始的な環境ではそんなものはなかったという説を批判し、最近の学問成果からしても、ホモ・サピエンスが近代化される以前の大昔から戦争をしていたことは明らかだとしている。 (これは日本では、縄文時代には戦争はなく弥生時代になって稲作が導入されてから、つまり財産が蓄積されるようになってから戦争が生じた、という一時期流行したイデオロギーを想起させる。) 1970年代がアメリカにあっては政治の季節で、マルクス主義化した学者たちがそうでない学者を 「反動の手先」 と大声で誹謗中傷したということも206ページ以下および231ページ以下に書かれており、これはアメリカという国の学者たちの体質を知るためにも重要な指摘である。
・西尾幹二 『天皇と原爆』(新潮社) 評価★★★☆ 西尾幹二氏の新刊。 氏が最近刊行し続けている 『GHQ焚書図書開封』 と、大著 『江戸のダイナミズム』 を合わせて分かりやすく解いたような内容である。 日米の戦争については、特に日本史の学者や評論家が 「なぜ日本はアメリカとの戦争に踏み切ったのか」 というような問題設定をしがちであるが、西尾氏はこれを誤りとする。 むしろ、アメリカは日本との戦争を望んでいたのであり、なぜアメリカは日本との戦いを望んだのかこそが問われなければならないのである。 その根本にあるのは、まず西洋の19世紀以来のアジアへの侵略であり、第一次大戦を機に英国から超大国の座を奪ったアメリカがその独特な宗教性をもとに太平洋を西進していき、ついに日本とぶつかる過程である、とする。 中国については他の国々に対して経済的な門戸開放を要求しながら、自国からはアジア人労働者を締め出すなどの、身勝手なアメリカの政策から、アメリカという国の本質が何なのかが分析される。 最終的には、アメリカと日本の戦争は、お互いの異なる宗教性のぶつかり合いであった、と結論付けている。 私も、日本史の研究者や評論家が、細かい史実ばかり取り上げて、世界史の大きな流れをつかみそこねている嫌いがあるのにはかねてから疑問を抱いており、西尾氏のこの本はそうした、日米戦争の原因を日本にだけ求めるような視野狭窄症を根治するのに有効であろう。 明治維新以降の日本の歴史は、欧米の植民地主義抜きには絶対に語れないのだ。
・大野茂 『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』(光文社新書) 評価★★★☆ 3年前に出た新書で、出たときすぐ購入したのだけれど、ずっとツンドクになっていたものを、ちょっと事情もあって読んでみた。 タイトルは言うまでもなく、昭和34年に同時に創刊された少年週刊誌 『少年サンデー』 と 『少年マガジン』 を指している。 それまでの少年向け雑誌は月刊誌であったものを、小学館が週刊誌 『少年サンデー』 を創刊する準備を進め、その情報をキャッチした講談社が対抗上 『少年マガジン』 を短期間で準備して、結局同時に発売されたことから始まって、『サンデー』 があくまで小学校上級学年から中学生を対象に雑誌作りをしたのに対し、『マガジン』 は途中からどんどん対象年齢が上がり、これが大学生がマンガを読むという新文化につながっていった過程、そしてやがて新興の 『少年ジャンプ』 に追い越されていくまでの歴史が語られている。 御大・手塚治虫を初め、藤子不二雄、赤塚不二夫、白土三平、梶原一騎、川崎のぼる、ちばてつやなどのマンガ家や原作者にも光が当てられており、雑誌編集部内部で仕事をしていた人たちの個性や人脈にも言及があり、なかなか面白い本になっている。
・下田淳 『居酒屋の世界史』(講談社現代新書) 評価★★★ タイトルどおりの本である。 居酒屋の歴史を、ヨーロッパ、アメリカ、中東、中国、朝鮮、そして日本について概観している。 後半は、多少内容的には前半と重複するが、テーマ別に居酒屋の機能を分析している。 私に面白かったのは、ヨーロッパでは古来修道院が居酒屋の機能を果たしていた、ということ。 今でもヨーロッパの修道院ではワインやビールを作っていたりするけど、あれは単に副業としてやっているのではなく、もともと修道院は居酒屋でもあったからで、巡礼に飲み食いさせたり、或いはその地域の会合が修道院で開かれたり――つまり修道院はムラの集会所だったのだ――していたから酒を作る必然性があったわけだ。 しかし時代が進むに連れて居酒屋としての機能は俗人に譲渡され、修道院は作ることだけに専念(?)するようになったということらしい。 つまり飲酒は神聖なものだから、禁酒運動は神の道に反する、という結論でいいですね(笑)。
・水川隆夫 『夏目漱石と戦争』(平凡社新書) 評価★★☆ 1年半前に出た新書だが、すぐ買ったもののずっとツンドクになっていたのを、何となく読んでみた。 夏目漱石の戦争についての言説を細かく拾い上げて、戦争や軍事や国家についての漱石の思想を明らかにしようとしている。 著者は1934年生まれで京大国文科を卒業、中高の教師をへて京都女子大の教授を務めた人。 漱石の戦争に関する言説を網羅的に拾い上げている、という点では悪くない本だが、そもそもの著者の視点に限界が見える。 世代的なものもあろうが、著者はいわゆる戦後民主主義的なものの見方に終始しており、戦争や国家は悪、平和や個人の自由や民主主義は善、といったかなりステレオタイプ的な価値観で叙述を進めている。 また、漱石の戦争観については 『満韓ところどころ』 などについて批判もあるわけだが (この本でも紹介されている)、著者の見方はかなり漱石擁護的である。 つまり、あくまで漱石は平和主義的で反戦争の立場だというふうに持って行きたいという意図が、透けて見えるのだ。 それが誤りだとは言わないが、漱石の時代が帝国主義戦争の真っ盛りの時代であり、日本だけが平和主義でも欧米がそうではなかった以上、単に戦争を批判すればそれでいいというものでもないはずだ。 漱石の見方はあくまで文士としての見方であり、国家の命運に責任を持つ人間の見方ではあるまい。 私は、漱石がそうであったことを批判せよと言っているのではない。 文士と政治家は違うという冷徹な認識を、第二次大戦後に生きる我々は福田恆存などを通じて得ているはずであるのに、著者の認識が中高生のレベルにとどまっていることを怪しむのである。 ドイツを軍国主義と捉え、英仏を自由と民主主義の国みたいに見ているのを、私は 「中高生レベル」 と言いたいわけなのだ (言うまでもないけど、19世紀のヨーロッパ植民地主義でいちばんひどかったのは英国、二番目はフランスである)。
・時事通信社(編)『世界王室マップ』(時事通信社) 評価★★★ 授業で、学生から世界中の王家について書いた本が読みたいという要望があったので、たまたま私が持っていたこの本を書棚から引っ張り出して読んでみたもの。 もう15年も前に出た本だが、ヨーロッパやアジアや中東の王家を網羅的に取り上げて解説している。 もっともこの15年の間にネパールのように王家自体が消滅してしまった国もあるわけだが、しかしスペインみたいにいったん王制を廃止してから復活する例もあるわけだから、今後のことは分からない。 また、先日ブータンの若い王様と王妃様が来日して、なんだか知らないがやたら好意的な報道がなされていたけれど、本書ではブータンの王家も取り上げられており、現在の王様の一代前の王様について書かれているけれど、周辺国家との軋轢などについてもちゃんと記述がなされていて、今どきの日本の新聞のムード的な記事よりよほど勉強になる。 また、ドイツやオーストリー、そして中国や琉球といった、消滅した王家のことも書かれているので、なかなか便利な本だと思う。
・シュテファン・ツヴァイク(原田義人訳)『昨日の世界 1』(みすず書房、ツヴァイク全集第19巻) 評価★★★☆ 作家ツヴァイクが第二次世界大戦中に自殺する少し前に、亡命先のブラジルで、資料もなく(ヨーロッパに残してきてしまったから)記憶だけを頼りに書き残した遺書的な自伝の前半。 ずいぶん以前に読んだのだけれど、少し必要もあって久しぶりに再読してみた。 第一次大戦以前の世界が、ツヴァイク独特の饒舌で感傷的な筆致で生き生きと描かれている。 ロマン・ロランやリルケなど有名人の横顔も興味深い。 また、著者がウィーンを離れてベルリンの大学で学んだ当時のベルリンの様子、またパリで暮らしたときの体験など、各都市のその時代における様相も活写されている。
・遠藤周作 『沈黙』(新潮文庫) 評価★★★ 授業で学生と一緒に読んでみた本。 有名な小説だが、私も読んだのは初めてである。江戸初期に日本に侵入したポルトガル人神父が、様々な紆余曲折を経た上で幕府役人に捕まり、自分が転ばなければ日本人信徒が拷問を受けるという状況の中で踏み絵を踏み、そこで初めてイエスの教えの深みに到達する、というお話である。 英雄的な殉教ではなく、苦しむ者と共に苦しむことが宗教者の務めであるという認識が、キチジローという、イスカリオテのユダの役割をする醜悪で意志の弱い、しかし憎めない日本人の登場人物と神父との交流などをも含めて、少しずつ説得的に読者に会得されるように物語は進む。 語り手も途中で何度か交代し、一種多面的な構造の中で宗教性の問題が展開されている。
・内藤正典 『イスラムの怒り』(集英社新書) 評価★★★ 授業で学生と一緒に読んでみた本。 著者はイスラム学を専門とする一橋大学教授。 日本ではイスラムについての理解があまりいきわたっておらず、特に9・11以降はアメリカなどのイスラム観をそのまま受け入れてしまいがちなので、そのことに警告を発し、イスラム教が決して恐ろしい原理主義宗教ではなく、むしろ他者に信教を強制しないことこそがイスラムの原理であることをはじめ、イスラム教徒の基本的な倫理観を説解説しつつ、どうすれば彼らとうまくやっていけるかをわかりやすく説いている。 むろんイスラム教徒と言っても一枚岩ではないし、イランやイラクのようにイスラム教が国の運営に深く関わっている国家もあれば、トルコのように政教分離が厳格に守られていて宗教が国家運営に口出しすることを厳に禁じている――だから、宗教系の政党のある日本やドイツより厳格な政教分離である――国もあるわけで、そうした多様性をも理解できる本である。 フランスでのイスラム女性のスカーフ問題などについてもイスラム側の見方が分かって面白い。 ただし、イスラム学の専門家のためか、ややイスラムに肩入れしすぎているような印象もないではない。
・河原忠彦 『シュテファン・ツヴァイク ヨーロッパ統一幻想を生きた伝記作家』(中公新書) 評価★★★ 14年前に出た新書だけど、ずっとツンドクになっていたのを、少し必要があって読んでみたもの。 著者は東大教養学部や明大の教授を務めた人。 ツヴァイクの総体的な伝記ではなく、作家としての側面はごく簡単に触れるにとどめ、第一次大戦期の平和運動について、ロマン・ロランなど他国の作家との関係をも含めて詳述しているところに特徴がある。 第二次大戦期とは異なり、第一次大戦期にはまだ知識人たちによるこうした汎ヨーロッパ的な平和運動が可能だったのだと改めて感慨を催させられる本である。
・紺野登 『幸せな小国オランダの智慧 災害にも負けないイノベーション社会』(PHP新書) 評価★★ 著者は1954年生まれ、多摩大学教授をしている人。 タイトルからしてオランダについて書かれた本だろうと思い、英国やフランスやドイツ、或いは北欧についての本は珍しくないが、オランダを扱った本は多くないので購入して読んでみたが、失望。 著者は1990年代からアムステルダムを拠点として、知識経営を実践するヨーロッパ企業を調査したりマネジメントを研究したりしてきた人で、プロローグでも断っているとおり、オランダを専門的に研究しているわけではない。 別に専門家でなくとも本の内容が充実していればいいのだが、本書はオランダについて知ろうと思う人には薦められない。 色々な方面に言及しているけれどいずれも短く浅く、何よりすぐに日本の現状との安易な比較に筆が移ってしまう。 例えばオランダの抱える重大問題と言ったら移民問題であるはずだが、その点にもいちおう触れられてはいるけれどやはり詳しくはなく、がっかりしてしまう。 そもそも、著者の書き方そのものが、日本の抱える問題をオランダとか他のヨーロッパ諸国と比較してああでもない、こうでもない、と述べていくスタイルで、まとまり感に乏しく、何でこんな本を出したのかと首をひねってしまうのである。
・天野郁夫 『教育と選抜の社会史』(ちくま学芸文庫) 評価★★★★ 1982年に『教育学大全集』の1巻として出版され、2006年に文庫化された本。 そのときすぐに購入したのだが、ツンドクになっており、思うところあって今回読んでみた。 ヨーロッパと日本を対象として、近代的な学校制度がどのように構築され、社会的にどのような機能を果たしてきたのかを明らかにしている。 大雑把に言えば、ヨーロッパの中等教育機関が中産階級のための機関であり下層階級の進出を拒む側面を持っていたのに対し、日本の明治以降の中等教育機関は中産階級を生み出していくための役割を果たしたということである。 また、ヨーロッパでは大学が実務的な職業につくためのコースとしてはあまり機能しなかったのに対し、日本では比較的に早い時期から大学が民間企業への人材供給源となったという。 著者はほかにも 『学歴の社会史』 などの好著を多くものしているが、本書はそれらと内容的に多少重複はしているものの、一読するに十分値する本である。
・川端幹人 『タブーの正体』(ちくま新書) 評価★★★★ 著者はむかし出ていた 『噂の真相』 誌の副編集長を勤めていた人。 本書はそのときに右翼が抗議に訪れ、暴力を振われて負傷したという著者の体験談から始まっている。 タブーを作らないを標榜していた同誌だが、著者はそのときから微妙に自己規制して記事を書くようになってしまったと反省している。 そしてその自己反省の上に立って、日本のメディアが直面している様々なタブーを暴きだしていく。 ユダヤ・タブー、同和タブー、皇室タブー、宗教タブー、大企業タブー、検察タブー、芸能事務所タブー・・・・などなど。 このうち、ユダヤ・タブーと大企業タブーは、批判することによって報道機関に広告が入らなくなるという構図があるためにマスコミが叩けないのだという。 大企業を叩くと広告が入らないと言うのは分かるが、ユダヤ批判がなぜ同じ構図かというと、ユダヤ人の団体が企業に圧力をかけて広告を出させないようにするのだそうだ。 大企業も反ユダヤのレッテルを貼られたくないので同調してしまうのだという。 また、検察タブーは、場合によっては無辜の、或いは微罪の人間に目をつけて検挙してしまうという行為を検察は実際に行うし、また検察から情報を流してもらえないとメディアはニュースを作れないので、どうしても検察批判を控えるのだそうである。 このあたりの記述が私には大変勉強になりました。
・アンドレ・ジッド (山内義雄訳) 『狭き門』(新潮文庫) 評価★★★ 学生と一緒に授業で読んだ本。 私は高校生時代に読んで以来、実に約四十年ぶりの再読であった。 改めて読んでみると、ジェロームがエコール・ノルマルに進学しているから社会的にはエリートであること、卒業後はイタリア旅行をしており、これも当時の恵まれた若者にありがちな卒業旅行だったろうこと、アリサの妹のジュリエットはジェロームへの恋を姉に譲る形で社会的に成り上がってきた男の求婚を受け入れるが、それがむしろ幸福な家庭生活につながっていくという筋書きで、これはおそらく当時の結婚を客観的に描写したものであろうこと、アリサがその妹夫婦が住む南仏に旅行してジェロームに書いた手紙から、彼女が住んでいた北仏とイタリアに近い南仏の文化的相違のようなものが読み取れること、などなど、私も甲羅をへてきただけあって昔より読みが深まったように思えました。 また、アリサの生き方は、今ならカルトにはまった若者みたいで、ちょっと痛ましいというか、ヤバいね、と感じました。 なお、山内義雄氏の訳は、今回読んでも名訳だと思うけど、やはり日本の読者向けに注は付けたほうがいいんじゃないだろうか。 出版社のほうでその辺の配慮をすることが望ましい。
・『中央公論2月号』(中央公論新社) 評価★★ 「大学改革の混迷」 を特集しているので、ずいぶん久しぶりに買って読んでみた。 けど、失望。 中央公論も落ちたものだね。 巻頭の青木保と吉見俊哉の対談からして人畜無害だし、中国や英国から日本の大学を見るという論考もあるけれど、日本の現状は日本固有の問題と密接に結びついているわけであり、無媒介的に比較したからどうなるというものでもない。 少しいいなと思えたのは上山隆大・上智大教授の 「すべての大学人は市場の中で生きるしかない」 である。 内容に全面的に賛成というわけではないが、アメリカの大学がグローバリズムの進展の中で何を考えてどう組織をいじったかが或る程度分かる。 何より、日本における大学改革のダメな部分を最初に列挙し、それを認めたうえで、なおかつ米国大学の動向に学べという姿勢がいい。 うかつにも知らなかったが、この人には 『アカデミック・キャピタリズムを超えて』 という本があるのだ。 読んでみようと思いました。 ここが唯一、この雑誌を買ってよかったと思えたところ。
・石井光太 『ニッポン異国紀行 在日外国人のカネ・性愛・死』(NHK出版新書) 評価★★★ なんやかや言っても日本における外国人居住者数は増えている。 彼らがどういう生活をしてどういう商売をやっているか、日本人との接点はどこにあるか、などをルポルタージュした本。 最初に、外国人が日本で死亡した場合、国籍がある国に遺体を送付するのだが、そのためには腐らないように遺体を処理しなければならず、それが意外にやっかいだしカネを食う、という話が長々と出てくる。 ここ、少し長すぎないかな? まあそれはともかく、日本に来ている外国人たちの風俗がいろいろ分かってまあまあ面白い。 韓国人の廉価なセックスビジネスで日本人のその方面の商売が上がったりになっているとか、農村男性に嫁ぐ中国人女性を紹介するビジネスの今昔だとか、イスラム教徒は日本人にもいるとか、インドや韓国の英才教育は日本なんか目じゃないくらいすごいとか、韓国から進出してきているキリスト教会や新興宗教団体の活動ぶりだとか、外国人占い師の実態だとか、経済大国 (最近あやしくなっているけど) 日本に群がって食っていこうとするたくましい外国人たちの様相が活写されている。 同時に、日本の宗教団体である霊友会が海外に進出しているという指摘もあって、グローバル化の一面が見て取れる。
・小池政行 『現代の戦争被害 ――ソマリアからイラクへ』(岩波新書) 評価★★★★ 2004年に出た新書だが、授業で学生と一緒に読んでみた。 最初に国際法上の戦争ルールについて分かりやすく説明したあと、ソマリア内戦とアメリカの介入失敗、ボスニア・ヘルツェゴビナと民族浄化、コソボ紛争、アフガンとタリバン、イラク戦争が取り上げられている。 様々な文献や情報を駆使してそれぞれの戦争や紛争の実態や問題点を的確に指摘しており、またアメリカ軍の武器が一般住民を巻き込む方向に進化(劣化?)しているという指摘も貴重。 著者の見方はおおむね公平だが、ところによってはやや反アメリカ色が強すぎるかな、と思える箇所もある。 また、旧ユーゴ情勢については情報も錯綜しており、また本書が出てから7年をへているので、著者の記述が果たして妥当かは他の文献で補う必要もあるだろう。 著者は元外務省官僚で、その後日本の大学で教鞭をとっている人。
・宮下規久朗 『ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡』(光文社新書) 評価★★★☆ 20世紀の現代アートを代表する人物であるアンディ・ウォーホルについて、最新の研究成果を盛り込みつつ、1冊で彼の生涯と芸術が一通り分かるように書かれた本。 著者は神戸大准教授。 私は現代美術には実は全然興味がないのだが、授業での必要性もあって、昨年4月に出たときすぐ買いはしたもののツンドクになっていた本書をようやくひもといてみたもの。 読んでみればそれ相応に面白いし、ウォーホルの芸術がよって立つ基盤みたいなものが理論的に基礎付けられているので、それなりに勉強になる。 また彼の同性愛的傾向だとか、有名人好みだとか、カトリック信仰だとかについてもある程度知ることができる。 ただ、私はこの本を読んでもウォーホルの作品がいいとはどうも思えないんだけど、それはまあ私の限界(?)ということで。
・石渡嶺司+大沢仁 『就活のバカヤロー 企業・大学・学生が演じる茶番劇』(光文社新書) 評価★★☆ 3年前に出てベストセラーになった新書だけど、たまたま2011年末にBOOKOFFに入ったら105円で出ていたので、購入してこの正月に読んでみました。 タイトルは、副題からもまあ分かるけど、就職活動のおかしさ・矛盾・ばかばかしさに対して吐きかける言葉ということのようである。 企業がどういう論理で学生を選抜しているか、学生がどういう準備をして就職活動に臨んでいるか、学生を送り出す立場の大学が何をやり内心ではどう思っているか (言うまでもなく、最近学生の就職活動開始時期が早まっているのを苦々しく思っているのである)、さらには昨今では親が大学生である子供の就職活動に口や手(?)を出すなどの実態も紹介されている。 まあまあ面白いとは思うけど、イマイチ評価する気になれないのは、パターン化した自己売込みをするより 「自分はバカ学生で勉強もサークルもろくにやってこなかった。 だけど将来は○○な仕事で世界を変えたいと思っている」 というような学生のほうがよほど好感が持てる、なんて書いてあるから (31ページ)。 勉強でもサークルでも実績を上げたためしのない学生の 「これからはがんばります」 という宣言に、信頼なんかおけるわけがないじゃん。 私は教師として断言するけど、さんざんサボったあげくに 「これからは心を入れ替えて一所懸命やります」 というようなことを言う学生は、まず間違いなく低能力で意志も弱く、そのとおりにしたためしがないのである。