音楽雑記2012年(1)                           

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  音楽雑記2012年の5月1日以降分はこちらから

 

4月30日(月)    *明後日の音楽会会場探しに四苦八苦、うまいレストラン、レジデンツ(王宮)見学、ヴェルディのオペラ 『ルイザ・ミラー』

 一昨日、英国式庭園を訪れながら猛暑のため中国塔付近で挫折してしまったので、本日は地下鉄で「ミュンヘンの自由」駅まで行き、東方向に歩いて、小さな湖のあたりから英国式庭園に入り、そこから北の方向に歩いてみた。

 この後、明後日の夜にヘンシェル弦楽四重奏団の演奏会が行われる予定の会場を探しに行く。

 ミュンヘンに来る前にネットで調べていてヘンシェル弦楽四重奏団の演奏会が5月2日にあると知ったのだが、ホールが聞いたことのない名前。 フュルステンリート・オスト市民ホールというのだ。 ヘラクレス・ホールやガスタイク・ホールみたいな著名なホールではなく、ネットで調べてもよく分からない。 演奏会内容もはっきりせず、当初は何をやるのかも全然出ていない。 ネット上で分かったのは5月2日にこの団体が演奏会をフュルステンリート・オスト市民ホールなる場所でやる、ということだけ。 日本を出る直前になってようやくベートーヴェンのカルテットの全曲演奏会を数日かけて行うのだということが判明したが、その第1回は4月30日で、この日はすでにオペラのチケットをネット予約していたのでダメ。 第3回以降は私が日本に帰国してからだからダメ。 5月2日の2回目に行くしか選択肢がない。 また、この日はこれ以外に有力な演奏会も見当たらない。 しかしネット予約もできない有様なので、とにかく当日会場に行ってみれば入れるだろうと考えた。

 しかし当日いきなり行っても会場の場所を探すのに手間取ると聴き損ねると思い、本日の昼ごろの時間帯が空いていたので、会場を探しに出かけたわけなのだが、これが案外に時間を食った。 会場の住所は分かっていたので、ミュンヘン市の地図を見て、どうやら地下鉄3号線を南下した途中あたりらしいと見当をつけ、まず地下鉄3号線の終点の一つ手前の駅で降りた。 ドイツの町は住居表示がはっきりしているので、見てみると、地名自体は同じだが番地の番号が違いすぎ。 どうやらもう一つ手前あたりらしい。 そこで地下鉄で一駅戻ろうとしてうっかり逆の方向の電車に乗ってしまい、終点の駅へ。 ・・・というふうにドジを踏みながら目的の駅に着いたのはいいけれど、しばらくその辺を歩いたものの目指す建物は見つからない。

 結局人に聞くのが早道。 すれちがった老夫婦に訊いたら、奥さんのほうがすぐに教えてくれた。 教えられた方向に行ったら、大きな建物があり、様々な店が入っているが、角に入っているスーパーのところに貼られた地番が目指す地番ときわめて近い。 最初、道路沿いにその建物の外側を見ていったけど、それらしきものがない。 そこで建物の裏側に入る路地を通っていくと、ヘンシェル弦楽四重奏団演奏会のポスターを貼った飲食店があった。 ここかなとは思ったのだが、ホールという表記はないのである。 そこで近くに立っていた若い女性二人に訊いたら、二人とも首をひねった挙句、一人がとんでもない (と後で判明) ことを言い出した。 先の交差点のところにある別の建物がそうじゃないか、と言うのである。 で、そこに行ってみたがホールはない。 ただ集会所があるので、くだんの女性はそこをホールと勘違いしたのであろう。 そこで先ほどのスーパーに戻り、自転車で買物に来た中年婦人に訊いてみたら、やはりさっきの飲食店がそうだと言うのだ。 で、改めて飲食店に行って、今度はドアを開けて中の人に訊いたら、ここで間違いないとのこと。 飲食店の隣りにちょっと大き目のスペースがあって、そこで演奏会をやるらしい。 やれやれ、やっと見つかった。 しかし 「ホール」 とは表に書いていないのだから、紛らわしいことおびただしい。 間違ったことを教えた女性を責められない。

                       

 とにかく明後日の演奏会場が判明したので、すでに午後2時になっていたこともあり、地下鉄で市の中心部に出て昼食。 たまには有名な店で食事をしようと思い、最初は超有名なホーフブロイハウスに行ってみたのだが、これがおっそろしく混んでいる上に、やかましい。 観光客でごったがえしているから、すわる場所もろくにないし、いつちゃんと注文をとりに来るのかも分からない。

 これじゃ落ち着いて食事などできないと思い、有名なホーフブロイハウスには一応行くだけは行ったということで、店を後にして適当にぶらぶら歩いていったら、レジデンツ(王宮)と州立歌劇場のある広場に出たので、レジデンツと歌劇場が交わる角と正反対の角のところにある店に何となく入ってみた。 後で分かったのだが、「ツム・フランツィスカーナー Zum Franziskaner」 という有名なレストランで、『地球の歩き方』 にも載っている店だった。

 ここで注文をとりに来たウェイトレスが、細身でちょっと世帯やつれした (と言いたくなる) 年増のお姉さん。 お姉さんと言っても年齢はおそらく40歳くらいだろうから、還暦まであと数ヶ月の私よりずっと年下なんだが、何となく少年の気分に帰って甘えたくなっちゃう雰囲気の女の人ではあった。

 その人にメニューを見せてもらって(英語じゃなくドイツ語の、と言ったら、驚いた仕種をしてみせた。 もっともこの仕種、美術館なんかでも出あったけれど)、「鱒 (Forelle) の蒸し焼き、ジャガイモ添え」 とビールを注文。

 ビールはすぐに来たが、料理のほうはちょっと時間がかかった。 が、これがうまいのである! 鱒ってこんなにうまい魚だったのか、と感激。 表面は油で揚げたみたいにこんがりしているけど、中の白身はほっかり暖かく蒸されていて、皮も白身も実においしい。 この料理、今回ミュンヘンで食べたものの中でベスト1であった。

 料理がうまかったので、できたらさっきのお姉さんにチップを多めに上げようかな、なんて思ったのだが、しばらく待ってみたが近くを通らない。 残念無念。 他のウェイトレスにチップを含めて23ユーロ渡す。 今のレートだと約2500円。 この味でビール500MLを入れてだから、まあ高くはないんじゃないか。

 この後、レジデンツ (王宮) を見学する。 オーディオガイドは日本語はないのでドイツ語を借りて、最初はマメに聴いていたのだが、全部まじめに聴いていると時間がかかりすぎることに気づき、途中から適当にはしょって聴いた。 それにしても内部は広いし豪華だ。 第二次大戦で一部破壊されているので、当時の装飾を再現してはいても絵画部分などは失われたままになっている部屋もあったけれど、一つ一つの部屋ごとに装飾のコンセプトが微妙に異なっていて、こういう贅沢な宮殿を造るには相当な経費がかかったろうと考える反面、これで装飾屋や画家たちがそれなりに仕事を得ていたんだろうな、とも思う。

 後半は急ぎ足でオーディオガイドもろくに聴かずに見て回ったけれど、それでも2時間を要した。 ちゃんと丁寧に見て行ったら、3時間はかかるだろう。

 ショップで女房への土産として紙ナプキン・セットを買う。 が、行列の一番前に並んでいた南欧系かと思われる夫婦は、最初カードで支払おうとしたが、係員が提示した入力機に入れた暗証番号が合わず、「ワンス・モア?」 と訊かれて、結局現金で支払っていた。 その次が中国人らしい若い男で、ドイツ語がうまく何事かぺらぺらと係員 (中高年の無表情な男) に話しかけている。 上手なドイツ語だなとは思ったけれど、物を買うのに必要なことをしゃべっているようではない。 おまけに途中で母親らしい中年女が脇に来て、土産物である折り畳み傘を示して中国語で何事かささやいている。 この品も買うということなのかと思ったが、しばらくおしゃべりしたあげく、結局傘は持ったまま離れていった。 ったく、後ろに客 (私、そしてその他) が待っているんだからさっさとしろよと言いたくなる。

 いったんホテルに戻って休憩をとってから、オペラに出かける。 場所はレジデンツ脇だから、戻る形になるけれど。 出し物は、ヴェルディの 『ルイザ・ミラー』 で、午後7時開演。

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 バイエルン州立歌劇場は、上にも書いたようにレジデンツ (王宮) に連なる建物。 私のホテル (東駅前) からは市電で10分ほど。 下車するとすぐ目の前。 ただしここには市電停留場がないので (停留所を設けるだけの道路幅がないから)、クルマが通る車線上に降りなくてはならない。 市電が停まると車線を走っているクルマも停まってはくれるが、市電運転手も 「下車の際は十分注意を」 とアナウンスしており、要注意の場所である。

 ここばかりは私もネクタイ着用。 歌劇場の入口のところに係員がずらりと並んでおり、チケットをチェックされる。 ロビーは階段を経てクロークや飲食のできるスペース (複数) につながっており、それぞれのスペースへの見通しはあまりよくないが、全部を合わせると結構な広さになりそう。 ただし、幕間には入口から外に出てしまう客もいた (これはベルリンの州立劇場も同じ)。

 座席は1階の中央左寄りの一番後ろ。 22列の821番 (この座席番号のつけ方はプリンツレゲンテン劇場と同じ原理のようだ)。 57,50ユーロ (約6300円)、パンフは6ユーロ (約650円)。

   なお、チケットは3日後に見た別のオペラと一緒に日本から事前にネットで予約したが、「事前送付」 を選んだらバイエルン放送交響楽団と同じくすぐに送ってくれた。 おまけに送料無料。 (ったく、ミュンヘン・フィルはケシカラン!)

 パンフがすごい。 140ページもあって、使われている紙も厚いので、パンフというよりは立派な書籍である。 本日の配役などが書かれた紙は別途印刷されて挟んであるだけ。 パンフには、あらすじの紹介だけでなくリブレット (台本) がそっくり収録されており、またそれ以外に重要な場面の写真、今回の演出についての説明、このオペラについての分析、さらには脚本や解釈との関連で有名な文学作品やフロイトなどの文章がいくつも部分的に収録されている。 言うならばバイエルン州立歌劇場もしくはミュンヘンの文化的な実力が秘められたパンフではないだろうか。

 ホールに入れるのは意外に遅く、開演15分前くらい。 入口は指定されており、内部の通路もないので、間違った入口から入ると座席にたどり着くことができない。 ただ、日本人に分かりにくいのは同じ番号の入口が2つずつあること。 左と右なのだが、入口には番号があるだけで、左とか右とかは書かれていない。 これはチケットの記載も同じで、入口の番号は書かれているが、左右は書かれていない (例えば私のチケットなら 「1階22列821番、入口4番」 となっている)。 要するに座席番号が奇数なら左、偶数なら右と決まっているからという理由からなのだが、慣れない日本人には分かりにくい。 実は私もこの日はそれが分からなかった。 ただ、偶然この日は私は正しい入口から入ったので良かったのだが、3日後に別のオペラで来たときは左右を間違えてしまい、正しい座席にたどり着くまでに苦労した。 この 「座席番号が奇数なら左、偶数なら右」 というシステムが分かりにくい証拠に、3日後に来たときには係員が客から座席の位置を尋ねられて案内していたけれど、見ていたら係員にも目指す席がどこなのかよく分かっていなかったこと。 困ったものである。

 さて、ようやくホールに入って、1階最後尾の席に座ったまでは良かったのだが、「ありゃ」 と思った。 2階席が1階席の上にかぶっているのだ。 かぶっていても舞台は見えるが、舞台の一番上の枠部分がかぶっている2階に妨げられて見えない。 一番上の枠にはセリフのドイツ語訳字幕を示す電光掲示板がついている。 つまり、このイタリア語のオペラを鑑賞することはできても、ドイツ語訳は見られない。 「しまった」 と思う。 3日後の別のオペラの時には同じく1階ながら後ろから3列目の座席だったのだが、ここはなんとか字幕が見られた。 これからバイエルン州立歌劇場を訪れる方は、字幕が見たい場合は、1階の最後尾2列は避けられるようお薦めしたい。

  このオペラ、私は実はそれまでディスクも持っていなかったので、ミュンヘンに来る直前にDVD (レナータ・スコットがタイトルロールのメトロポリタン歌劇場のもの) を入手して一度だけ見て予習しておいた。 しかし一度だけなので大筋は覚えていてもセリフの細かいところまでは覚えていない。 仕方がないので、大筋を追うことで満足し、音楽に集中しようと決めた。

 ホールは1階の上の背後にさらに4階分がボックス席としてあり、上述のように1階最後尾にせり出している。 全体の色は赤で統一。 1階を見る限り、ベルリン州立歌劇場よりは広いけれど日本の新国立劇場よりは狭く、多分人間の声を鑑賞するのにちょうどいい大きさなのではないかと思ったが、これは実際に聴いてみてまさにその通りであった。

  指揮=パオロ・カリニャーニ
  演出=クラウス・グート
  舞台と衣装=クリスティアン・シュミット
  照明=ミヒャエル・バウアー
  合唱=ステラリオ・ファゴーネ
  ドラマトゥルギー (脚色?)=ゾフィー・ベッカー

  ヴァルター=クリストフ・フィッシェサー
  ロドルフォ=ラモン・ヴァルガス
  フェデリカ=アネク・モレル
  ヴルム=ラファル・シヴェク
  ミラー (ルイザの父)=ツェルジェコ・ルキエ 
  ルイザ・ミラー=セレナ・ファルノッキア
  ラウラ=シルヴィア・ハウアー
  農夫=ディーン・パワー

 このオペラの初演は1849年だが、ミュンヘンでの初演は1988年と言うから、わりに最近である。 この演出での初演は、2007年5月28日だそうだ。

 まず歌手だが、主要な数人はまったく文句なし。 すばらしい歌唱を披露してくれた。 メインの歌手がこんなに粒ぞろいなのは珍しいと思うくらいであった。 前述のように1階最後尾の席で2階が上にかぶっているので、音響はどうかと心配したのであるが、歌に関しては全然問題なかった。 舞台が見えて、そこから直接歌がこちらに届くからだろうか。

 ただオケの音は、座席から直接は見えないピット内から発しているせいか、ちょっと胴間声めいているというか、やや中抜け的な感じで、物足りなかった。 オケの音は3〜5階など上部の席で聴いたほうがいいのかも知れない。

 演出だが、舞台は真上から見ると円形になっているようで、それを4等分し、それぞれが一つの部屋を表している。 客席にはそのうち2部屋が見えるようになっており、舞台が回転することで別の部屋が現れ、筋書きの展開がなされるのである。 各部屋と隣室の間には壁があるが、各壁には大きな四角い枠があって隣室が見えるようになっている。 しかしこの枠は時には鏡の役割をする。 すなわち、一部屋で或る人物が歌ったり演技したりしていると、その枠の向こうにいる同じ服装の人物が同じ身振りをしたり、或いは逆の身振りをして当該人物の内心の分裂を暗示したりする。 この場合、実際に登場する別の人物があえて同じ服装をして、別のキャラクターとの関係を暗示することもあれば、歌が伴わない言わば影武者が登場して、ドッペルゲンガーとして登場人物の様々な側面を表現することもある。 この手法が最も頻繁に用いられていたのはルイザの父で、彼だけで影武者は4人にも及んだ (最後に歌手だけでなく影武者もあいさつに出るので分かった)。

 こういった演出を私が見るのは2度目になる。 5年前にハンブルクに行った際、ハンブルク州立歌劇場でヴェルディの 『シモン・ボッカネグラ』 を見たが、そこでも影武者を使う手法で演出がなされていた。 そしてそのときの演出も今回と同じくクラウス・グートであった。 どうやらこの演出、クラウス・グートの十八番のようだ。

 今回の場合、ルイザとその父、ロドルフォとその父 (伯爵) という、父と子の関係が機軸になった作品だという解釈が、こうした影武者多用の演出につながったよう。 DVDで予習したメトのオペラがわりに素朴な演出だったのと比べると、演出中心主義をまざまざと見せつけるような舞台ではあった。

 ちなみに、ミュンヘンでの前日までの音楽会では日本人、或いはアジア系かと思われる客の姿はほとんど見なかったが、この晩は日本人かと思われる客を何人か見かけた。 ミュンヘンはウィーンに比べると観光都市になっていないので、音楽会に観光客が来る度合いはウィーンよりはるかに小さいようだが、オペラは別なのか。 或いは、日本のオペラファンはミュンヘンにもやってくるということなのか。 美術館には、日本人観光客がわりに目だったのであるが。

 さて、オペラが終わっての帰り、来たときと同じく市電を利用したら乗り違えてしまい、あせった。 来るとき東駅から乗った市電は必ず歌劇場前を通るが、逆は真ならずということが分かっていなくて、途中から分岐して別の方向に行く市電に乗ってしまい、「あれ、来るときこんな停留所あったっけ?」 と思っていたら、いつの間にか客は私だけ。 運転手から 「もう終点だ、降りろ」 と言われ、全然知らない場所なので愕然。 「乗り間違えた。 東駅に行きたかったのだ」 と言ったら、この車両はもう車庫に入るので元の方向には戻らないらしく、「東駅行きのバスがある。 市電の停留所で待ってろ」 と教えてくれた。 市電の停留所がバスの停留所を兼ねる場合があり、停留所にはバスと市電の時刻表もある。 その時刻表を見たら、たしかに東駅行きというバスがあるようなので、しばらく待っていたら来た。

 というわけでどうにか事なきを得たが、夜10時半を過ぎた時刻に、外国の都市の知らない場所でおっぽり出されるのはどうにも不安なもの。 ヨーロッパの都市は日本と違い流しのタクシーというものもないので、いざとなったらまだ空いている飲食店を探してタクシーを呼んでくれと頼もうかなと考えたりもした。 これに懲りて、3日後に別のオペラを見に行ったときは、行きは今回と同じく市電を使ったものの、帰りは地下鉄を利用した。

 

4月29日(日)    *トーマス・マンの家は再建されていた。 ファジル・サイ ピアノリサイタル、ミュンヘン・アカデミー交響楽団演奏会

 この日は午前11時からファジル・サイの演奏会があった。

 場所はプリンツレゲンテン劇場。 プリンツレゲント (プリンツレゲンテンは後ろに名詞が続くときの形) というのは 「摂政の宮様」 という意味で、19世紀末から20世紀初頭のバイエルン王国で彼の甥にあたる国王ルートヴィヒ2世やオットー1世の摂政として実質的な統治にあたった人物ルイトポルトを指している。 プリンツレゲントの名はミュンヘン市の通りや広場の名として残っており、またこの劇場の名にも用いられている。 この劇場のある広場がプリンツレゲンテン・プラッツ(広場)である。 私のホテルからは地下鉄で一駅行き、別の地下鉄に乗り換えてまた一駅である。

 建物はいかにも古そうで19世紀的な印象 (コケラ落としは1901年だそう。 オペラにも用いられた時期があるようだが、その後改修などを経て現状に)。 ホールの天井に装飾画があるし、演劇の劇場でもあるので両脇高所にライトなどの器具も置かれたスペースも設けられている。 ホールは扇形で収容人員は一千人程度。

 本日の座席番号は22列の873番。 やや左側の後ろ寄り。 39,30ユーロ (約4300円)。パンフが3ユーロ。
 22列はいいとして873という番号がまた分かりにくく、要するに座席の通し番号なのであるが、ヘラクレス・ホールと同じで奇数は左半分、偶数は右半分と決まっているらしく、私の873番の右隣りは875番、次は877番・・・という具合い。 ホールには原則的に通路がない。 原則的にというのは、後ろのほう数列だけ、座席全体を三分の一ずつに区切るように縦の通路が設けられているからで、私はちょうどその通路脇の座席。 いずれにせよ、座席に着くときはロビーの決められた入口から入り、自分の列の端から進んでいくしかなく、途中ですわっている客は先に行く客が来るたびに立ち上がらなくてはならない。 日本人からすると少し通路を作っておけば楽じゃないかと言いたくなるが、ドイツ人からするとこれが合理的なんだろう。

 会場の入りは9割くらいか。 私の後ろにはフランス人 (らしい) 夫婦と8〜10歳くらいの男の子。 隣りは一人客の中年女性。 斜め前も一人客の中年女性。 夜のコンサートだと男女のカップルが圧倒的に多いが、マチネーだと少し違うようだ。

 ファジル・サイは、私は8年前の東響新潟定期でモーツァルトの23番の協奏曲を弾くのを聴いて以来。 リサイタルはたしか初めてだ。

  ハイドン: アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ ホ短調Hob.XVII-6
  ベルク: ピアノソナタop.1
  ストラヴィンスキー: 『ペトルーシュカ』からの3つの楽章(ファジル・サイ自身によるピアノ独奏用編曲)
               1.ペトルーシュカ、2.ロシアの踊り、3.カーニヴァルでの民衆の宴
  (休憩)
  シューベルト: ピアノソナタ ト長調D894
  (アンコール)
  3曲 (多分、サイ自身の曲)

 サイはボロいナイトガウンみたいなものを羽織ったラフな服装で登場。 投げやりに挨拶をし、すわるとすぐに弾き始める。

 演奏では、片手しか使わない場合は空いた片手をメロディーをなぞるように、或いは自分自身を指揮するかのように動かすのが特徴的。 ベルクとストラヴィンスキーについてはよく分からないけど、最初のハイドンは、私の好きな曲なのだが、繊細であると同時に血の通った、生き生きとした音楽になっていた。

 後半のシューベルトのソナタも私の好きな曲である。 私が日ごろ聴いているのはルプーのディスクで、これは細部までよく神経の行き届いた、しかし荒涼とした風景の中に人っ子一人いないような、孤独と絶望を感じさせる演奏になっている。 それに対してこの日のサイの演奏は、柔和で、たしかに荒涼としてはいるけれど人間くささというか、人間の温かみみたいなものが決して失われていない風景を思わた。 この曲では第1楽章と並んで第4楽章が大事だというのが私の持論で、一種の舞曲ではないかと勝手に決めこんでいる。 ここはルプーだと真冬の荒れ野で誰も見ておらず訪れもしない中で一人意味もなく踊り続けているような感じなのであるが、サイはそんなに思いつめなくてもいいじゃないかというような、どんな状況でも希望が失われることはないとさりげなくつぶやいているような、そんな印象に弾いていた。 どっちが正しいということではなく、演奏家の資質の違いであろう。

 アンコール3曲は、多分サイの自作曲。 いずれも一方の手でメロディーを、他方の手で和音を弾くという分かりやすい構造だ。 最初の曲はポピュラーとジャズを足して2で割ったような、次の曲は感傷的なポピュラー曲、そして最後は猛然たるジャズ、そんな曲たち。 聴衆の拍手も熱狂的であった。

                *

 このあと、トーマス・マンの家の跡地を見ようと、プリンツレゲンテン通りを少々英国庭園の方向に歩く。 昨日は快晴かつ猛暑だったが、この日は曇りで、歩きやすい。 イーザル川に着く直前あたりから、プリンツレゲンテン通りと直角に交わっている市電に乗り、北上する。 数駅先のヘァコマー・プラッツで下車。 そこから西の方向に歩く。 地図では高低がはっきりしなかったのだが、めざす場所は市電通りから見るとかなり低い土地で、人間しか通れない狭い道がジグザグ模様を描きながら低地に向かって続いている。

 作家トーマス・マン (1875〜1955) は、生まれは北ドイツのリューベックだけれど、十代で父を亡くし、その後ミュンヘンに移住した母の後を追うようにミュンヘンに移り住み、1905年に結婚した。 結婚の直後は集合住宅の一角に住んでいたが、1914年にポッシンガー通り1番地に一戸建て住宅を新築し、以後、1933年にナチ政権樹立により亡命を余儀なくされるまでそこに住んだ。 家はナチ政権により没収され、第二次大戦中に連合軍のミュンヘン爆撃により破壊された。

 ジグザグ模様の狭い道を降り切ると、閑静な住宅地が広がっている。 めざすポッシンガー通りはすぐに見つかった。 その1番地はジグザグな小道を降りた場所からまっすぐ西の方向に少し歩いたところである。

 上記のようにマンの家は第二次大戦中に破壊された。 したがって、その跡地だけ見るつもりで私は来たわけだが、1番地の付近に来てびっくり。 マンの家があるのだ。 マンの研究書などに載っている建物が現実に私の目の前にある。 むろん、いったんは破壊されたのだから、元の家を再建したものである。 これは予想外だった。 或いは、私の勉強不足と言うべきか。

 (↓ ポッシンガー通り1番地のマンの家。 2000年代になって再建されたもの。)

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 塀に説明版がついていた。 それによると、また以下のネット情報 (ドイツ語) や私自身の補足を交えて書くなら、ドイツが第二次世界大戦に破れナチ政権が崩壊した後、この土地と破壊された建物はマンと妻に返還されたが、マンは1952年に建物を撤去させた上で土地を売却した。 マンは第二次大戦中はアメリカに亡命しており、戦後しばらくしてからスイスのドイツ語圏に移り住んだが、戦後のドイツを訪れることはあってもついに定住することはなかった。 しかし、その後だいぶたってからミュンヘン市当局とこの土地の現在の所有者 (アレクサンダー・ディベリウス、ゴールドマン・サックス国際銀行ドイツ頭取) の合意に基づき、2006年に前面をトーマス・マンの住居とそっくりに似せた形で建物が作られた。

 http://www.literarische-gesellschaft-graefelfing.de/05-1/poschi-c-dpa.pdf 

 そういうわけで、再建はなされても個人の所有物なので、ここをトーマス・マン記念館にするといったことは今のところできないらしい。 もっとも上記サイトによれば、催し物を開催するといったことはあるらしいが。

 なお、トーマス・マンの次男で歴史家として著名なゴーロ・マンが指摘しているように、厳密に言うとポッシンガー通り1番地という住居標記は不適切である。 なぜならこの屋敷の前面にある庭の、さらにその前面に別の土地があり、ポッシンガー通りはその別の土地にしか接していないからだ。 上の写真で見ると左側の側面に細い路地があるけれど、本来はその路地名による住居表示が適切なのである。

 この建物はイーザル川のすぐそばにあり (上記写真で言うと、建物の左側に歩いていくとすぐ)、川沿いの散歩道は 「トーマス・マン並木道 Thomas Mann Allee」 と名づけられており、さらにその向こうにはトーマスの兄の名による 「ハインリヒ・マン並木道」 もある。

 私はトーマス・マン並木道を歩き、ハインリヒ・マン並木道に入り、そこから上に上ってバス通りに出てバスに乗り、シュヴァービングに向かった。

 シュヴァービングはミュンヘンの学生や若い芸術家などが好んで住む地域で、若い頃のマンもこの地域に住んでいた。 そのシュヴァービングの 「ミュンヘンの自由」 というターミナルで下車。 ここには地下鉄の駅、市電のターミナル(昔は市の中心部から市電路線が続いていたが、現在は地下鉄があることもあり市の中心部からここまでの市電路線は廃止され、ここから北に向かう市電路線があるので、そのターミナルになっている)、そしてバスもここをターミナルにしているのだ。

 すでに2時を過ぎていて空腹だったので、シュヴァービングの大通りからちょっと入ったところにある店で昼食。 ピザとビール。 ピザは、直径30センチもあるのが出てきて最初は食べられるかなと思ったが、テイクアウトの店で売っているのとは違いきわめて薄く作られているので、全部たいらげることができた。

 食べた後、付近を散策する。 といっても何となく歩き回るのではなく、トーマス・マンが若い頃に、そしてマンの母もリューベックから移ってきた当初はこのあたりに住んでいたので、その跡地を見て回る。 しかしどこにも 「ここにはトーマス・マンが○○○○年から×年間住んでいた」 といった表示はなかった。 おそらくこの辺は戦災で焼けて戦後建て直されていることもあろう。 とはいえ、多分当時も今もそんなに大きな違いはないはずだ。 5階建てくらいの集合住宅が並んでいるのである。

 このあと、いったんホテルに戻って休んでから、夜はまたコンサートである。

                        

 本日は午後7時からヘラクレス・ホールで、ミュンヘン・アカデミー交響楽団の演奏会があった。

 ミュンヘンにはいくつかオケがある。 今回私が聴いたバイエルン放送響とミュンヘン・フィル、それにバイエルン州立歌劇場管弦楽団、さらにはしばらく前にりゅーとぴあに来演したミュンヘン交響楽団。

 しかし、ミュンヘン・アカデミー交響楽団 (Akademisches Sinfonieorchester Muenchen) と聞いて、「ああ、知ってるよ」 という人はよほどの事情通であろう。 私はといえば、言うまでもなく知らなかった(笑)。

 ミュンヘンでの演奏会をネットで調べていてこの演奏会を知ったとき、聞いたことがない団体であるのとチケットの値段が安いのとで、アマオケかなとも思ったのであるが、それにしては最高席が35ユーロ (約3800円) もして、新潟交響楽団や新潟室内合奏団のチケットが1000円かせいぜい1500円であるのに慣れている身としては 「アマにしては高いかな」 とも思い、「アカデミーと言うからには、もしかしたら音楽を専攻している学生のオケかも知れない。 日本なら芸大や桐朋のオケみたいな」 とも考えました。

 いずれにせよ、日本で調べた限りではチケットもそれほど売れていないようだったので、当日券で十分だろうと思い、あらかじめ入手しておくことはしなかった。

 で、当日開演40分くらい前に行ってみたら、当日券売り場は長蛇の列。 一瞬驚いたが、この列がなかなか進まないのである。 長蛇になっているのは客1人の処理に時間がかかっているから。 自分の番になって分かったのだが、当日券の整理がよろしくない。 図で座席を指定すると、係員はそれから該当チケットを探しはじめるのだけれど、これが容易に見つからない。 何やってんのかな、と思った。 ちょっと怪しげな(?)オケなので、安い席で十分と思い、二階左脇席にした。 15ユーロ(約1600円)。 パンフは3ユーロ。

 さて、パンフを読んでみたら、アマオケであることが分かる。 創立は1968年だそうだから、潟響ほどの伝統(?)もない。 もっともレヴェルは高いらしく、ドイツのアマオケ・コンクールで何度か優勝しているそうである。 解説には 「老いも若きも集い」 と書いてあるが、舞台に現れた団員たちを見ると白髪や禿頭のオジサン、中年太りしたオバサンなんかが圧倒的に多く、若い人はごく一部。 ミュンヘンのクラシックコンサートでも聴衆は高齢層が多いが、弾く側も同じなのだろうか。

 パンフには今後の活動予定も書いてあり、春と晩秋に定演を開いているのは潟響や室内合奏団と同じだけれど、7月にアルベルト・ロルツィングのオペラ 『皇帝と大工』 の演奏を4回にわたり担当する予定になっているところが、日本のアマオケとやや違うところかも。

  指揮=Nazanin Aghakhani、 ヴァイオリン独奏=ロラント・グロイター

  サン=サーンス: オペラ「サムソンとデリラ」から”バッカナール”
  アルバン・ベルク: ヴァイオリン協奏曲
  (休憩)
  ベートーヴェン: 交響曲第3番「英雄」

 客の入りは8割程度か。
 指揮者は若い女性で、少し前からこのオケの常任になっているとのこと。 出てきた姿を見るとそれなりの美形で、日本なら西本智実さんみたいなものかも知れない。 両親はイラン出身だが、彼女自身はウィーン生まれ。 ウィーンのコンセルヴァトリウムでピアノや音楽理論を学び、引き続きウィーン音楽演劇大学で指揮を勉強、その後ストックホルムやフィンランドでも学び、やがてウィーンに戻って音楽活動を続けているとのこと。

 さて、第一曲の出だしが鳴ると、すぐに平土間からケータイの音が。 指揮者は演奏をやめさせ、聴衆に向かって何事か大声で言った。 私は聞き取れなかったのであるが、冗談交じりだったらしくどっと笑い声が。 それから指揮者がまた二言ほど言うと、そのたびに聴衆は笑った。 その後指揮者が引っ込んだので、最後はおそらく 「最初からまたやり直す」 と言ったのであろう。

 というわけでアマオケらしく(?)緊張感のないスタートとなったが、改めて指揮者が出てきて演奏を始めると、アマオケにしては悪くないかな、と思った。 特に金管は景気よく鳴っており、日本の下手なプロオケより音量があるかも知れない。

 次にヴァイオリン独奏のロラント・グロイター登場。 すでに髪が白くなっている中年男性だが、パンフによるとオーストリーの出身でザルツブルクのモーツァルテウムで学んだ後に渡米して研鑽を積み、その後世界各地で一流オケと共演している人だそうである。 私はベルクの協奏曲は好きではないが (というかよく分からない)、ヴァイオリンの演奏は技術的には申し分なく、バックもそれなりだったのではないか。

 後半のエロイカは、さすがにこちらも何度も生で聴いている曲だけあって、プロオケの演奏と比べると精度に劣るなと感じた。 はっきりしたミスがあるわけではないが、微妙に楽器が揃わないとか、音がきっちり決まらないのである。 プロが100とすると70〜80といったところか。 しかしなかなか気迫のこもった演奏で、聴衆からは盛んな拍手が送られた。

 指揮者には花束が (協奏曲でも独奏者に) 贈られた。 ミュンヘンの音楽会では、花束が必ず贈られるようだ。 ここまで5回の音楽会を聴いたわけだが、例外なくそうなっていたので。

 

4月28日(土)    *英国式庭園、アルテ・ピナコテークミュンヘンフィル演奏会

 午前中、明日の午前11時からファジル・サイの演奏会を聴きに行く予定のプリンツレゲンテン劇場の場所を確かめに行く。 ミュンヘンでは有名な劇場だとはいえ、当日いきなり行くと場所が分からない場合も考えられるからだ。

 それから、英国式庭園に出かける。 ドイツでは18世紀頃から英国式庭園の造園が大流行し、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』や『親和力』にも英国式庭園やその造園作業の描写が出てくる。 ミュンヘンの英国式庭園は、ドイツの英国式庭園のなかでも特に有名で規模も大きい。 また、トーマス・マンの『ヴェネツィアに死す』で、主人公の作家アッシェンバハが散歩に出かけてヴェネツィア旅行のきっかけができるのもこの庭園である。 この小説ではアッシェンバハは、自宅のあるプリンツレゲンテン通りから英国式庭園に向かうので、私もプリンツレゲンテン劇場からプリンツレゲンテン通りを歩いて英国式庭園に向かう。

 この日は快晴で、おまけに猛烈に暑い。 ホテルを出たときは上着を着ていたが、とても着ていられない。 帽子をかぶっているので日射病にはなりにくいと思うが、汗水をたらたら流しながら庭園に入る。 ここも、土曜日で好天ということで人が多い。 真夏並みの暑さに、中国塔のところまで歩いたらバテてしまい、一休みしようと思ったが、何しろ人の数が多すぎて場所を探すのもままならない。 この中国塔のある場所はレストランの建物があるほか、臨時に出店が多く設けられている。 ベンチの数もかなりあるのだが、それ以上に人の数が多いのである。 猛烈な暑さにビールを求める人で、各出店も長蛇の列。

 (↓ プリンツレゲンテン通りから英国式庭園に入るあたり。)

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 (↓ 英国式庭園の空き地で日光浴をする人々。 水着姿の女性も目立つ。 ドイツ人は日光浴が好きだ。)

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(↓ 英国式庭園の中国塔のあたり。)

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 何とかビール(飲んでみたらレモネード入りだった) とゼンメル (小型のパン) を出店で購入して、昼飯を済ませたけれど、この暑さと、プリンツレゲンテン劇場から歩きどおしのこともあり、もうこれ以上炎天下を歩くのは無理だと判断した。 アッシェンバハは、ヴェネツィアの街で美少年のあとをつけて歩き回るうちに疲れ果て、熟れすぎたイチゴを買って食べてコレラに感染するのだが、私は美少年のあとは追い回していないしビールとゼンメルだから大丈夫、のはずである (笑)。

 私は今回、1990年に購入した――研究に必要だったから――ミュンヘン市街地図を持参したのだが、それを見ると英国式庭園の中国塔の付近を市電路線が横切っている。 地図を頼りにその方向に行ってみたが、市電の線路はなくなっていた。 代わりにバス停があったので、そこでこのバス路線が地下鉄駅に接続していることを確認して、まもなく来たバスに乗った。 ミュンヘンのバス停には必ず路線図があり、どこで地下鉄駅に接続するか分かるようになっているのが便利。

 バスでプリンツレゲンテン劇場のすぐ近くの地下鉄駅まで戻り、そこから地下鉄を乗り継いで、アルテ・ピナコテーク (直訳すると、古美術館) に行く。 ミュンヘンの有名な美術館である。 18世紀以前の美術品を展示している。 (19世紀以降の美術品は、隣接するノイエ・ピナコテーク〔新美術館〕に展示されている。) 

 一昨日も昨日も、夜のコンサートでは日本人らしい客の姿を見なかったけれど、このアルテ・ピナコテークでは入口に中年の日本人夫婦がいたし、中に入っても若い日本人旅行者を何人も見かけた。

 クロークもあるが、そこに荷物を預けようとしたら、コインロッカーがあると教えてくれた。 コインロッカーは無料なので、親切だなと思う (クロークは有料)。 入場料は7ユーロ。 オーディオガイドがあるが、残念ながら日本語はないので、ドイツ語のを借りる。

 古い時代の美術を集めてあるので、宗教画が多い。 マリアが美人かどうか、というきわめて俗っぼい基準で作品を品定めする。 このマリアは大原麗子さんに少しだけ似てるかな、とか、このマリアはかなり吉永小百合に似ている、とか(笑)。

 でもね。 後で売店に寄ったら、収蔵品の絵葉書を売っているわけだが、1枚の絵画全体ではなく、そこに描かれた若い女性の顔の部分だけアップして切り取る形で絵葉書にしたものが、少なからずあった。 うむ、私の絵画鑑賞法は時代の趨勢に合っている(笑)。

 時間が3時間ほどしかなく、3階の展示は全部見たが、2階は一部を見るにとどまった。

 この日はコンサートが昨日より1時間早い午後7時から。 ホテルに戻る余裕がなく、中央駅の構内でピザを2切れ買い、1切れだけ地下駅のホームの端っこのほうのベンチで食べて空腹をとりあえず満たし、コンサートに向かう。

           

 本日はミュンヘン・フィルの演奏会。 場所は前日を同じガスタイク・ホール。 午後7時開演。

 座席は、Rブロックの1列目。Rブロックというのは、前日のQブロックの左隣で、つまり後方の左端のブロック。 その中の1列目とはいえ、このブロックは1列目座席の前にロビーからの通路のスペースが設けられているので、そこが邪魔になってオケの第一ヴァイオリンが視界から少し隠れる形になってしまう。 「下の上」 くらいの席か。 41,10ユーロ(約4500円)。 パンフは3ユーロ(300円強)。

 バイエルン放送交響楽団 (BRSO) とミュンヘン・フィルハーモニー (MPH) といえば、いずれもミュンヘンを代表するオーケストラである。 その演奏会を連続して聴く形になったが、演奏が始まる前の段階でいくつか相違点があった。 まず、上述のように、BRSOではパンフが無料だったのにMPHでは3ユーロ取られること。 BRSOでは団員が登場している間中拍手が続いていたのに、MPHでは団員の出始めには拍手があるが、すぐにやんでしまったこと。 またBRSOは団員全員が出切るまで団員は立ったままなのに、MPHでは先に出てきた団員から着席すること。

 しかし、一番大きな違いは、チケットの購入である。 私はいずれも事前にネットを通じて購入し 「チケットは事前送付」 を選択した。 BRSOはすぐにチケットを送ってきたのに、MPHは送ってこず、メールをよこして 「理由があって送れない。 当日、当日券売り場でこのメールをプリントアウトしたものを示して受け取るか、或いは演奏会2日前までにミュンヘン市内のプレイガイドで受け取るかを選んで欲しい」 と言ってき。 私は当日券売り場で受け取るほうを選択して、まあそれで問題はなかったのだが、「事前送付」 という選択肢を示しておきながら後で 「送れない」 と言ってくるのはどうにも納得がいかない。 BRSOのほうはすぐに送付してきたのだからなおさらで、さらに付け足すなら送付手数料もBRSOのほうが安いのである。

 と書くと、最初から 「当日受け取り」 を選べばいいじゃないかとおっしゃる方もいようが、実は最初の選択肢には 「当日受け取り」 は存在しないのである。 ネットでの購入では、「事前送付」 か 「2日前までにミュンヘン市内のプレイガイドで受け取り」 か二者択一。 そして 「事前送付」 を選んだあとになってあちらがよこしたメールでようやく 「当日受け取り」 という選択肢が示される。

   今回、私は26日の午後4時すぎにミュンヘン空港に着くわけで、演奏会が28日なのだから、「2日前までにプレイガイドで受け取り」 は無理。 空港から市内へのアクセス時間、ホテルへのチェックインに要する時間、飛行機の延着の可能性、そしてはじめての都市でプレイガイドの場所を探す手間を考えると、プレイガイドの閉まる午後6時までにチケットを受け取る選択はできないのだ。

 実は同じような問題は3年前にベルリンに行ったときにもあった。 ベルリン・フィル演奏会とベルリン州立歌劇場公演のチケットをいずれもネットで購入し、どちらも 「チケットは事前送付」 を選んだところ、ベルリン・フィルはすぐに送付して来たが、歌劇場のほうは今回のミュンヘン・フィルに似て 「送れない。 当日窓口で受け取ってくれ」 という対応だった。 どうもドイツの音楽関係団体のこうした対応の割れ方には首をひねってしまう。

 閑話休題。 プログラムは下記のとおり。

  指揮=パーヴォ・ヤルヴィ、ピアノ独奏=Khatia Buniatishvili

  ブリテン: シンプル・シンフォニー
  グリーグ: ピアノ協奏曲
  (アンコール)
  ?: ?(現代曲風)
  (休憩)
  シベリウス: 交響曲第1番

 パーヴォ・ヤルヴィは、昨日書いたように私は一昨年に上野の文化会館で聴いている。 昨夜のジャニーヌ・ヤンセンともども1年半後にミュンヘンで再会するとは、奇遇と言うべきであろうか。

 ピアノ独奏のBuniatishviliは1987年グルジアの生まれ。 3歳からピアノを始め、6歳でコンサートデビューを果たし、10歳でヨーロッパ各国から演奏会に招かれるという早熟の才能だったようである。 2003年にキエフのホロヴィッツ・コンクールで特別賞を得、またそれまではグルジア国内で学んでいたのをウィーンの音楽演劇大学に鞍替え。 2008年のアルトゥール・ルービンシュタイン・コンクールで3位に入っている。 それ以降、イスラエル・フィル、サンクト・ペテルブルク・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、パリ管弦楽団などと共演する一方、独奏会もしばしば開いているようだ。

 さて、ミュンヘン・フィルの演奏だが、むろん指揮者も違うし曲目も違うので断言はしかねるけれど、昨夜のBRSOが力感の中にも一定の品を秘めていたのに対し、ミュンヘン・フィルは 「力」 を第一にしているような印象がある。 積極的に自分を出していく方向性。 そういう演奏として、ブリテンもシベリウスも楽しめた。

 問題は協奏曲である。 独奏のBuniatishviliは芳紀25歳、黒のドレスに身を包んだすらりとした肢体はなかなかチャーミングだが、肝心のピアノの音に力がない。 一昨日にヘラクレス・ホールで聴いたシュッフのすばらしい音が記憶に残っているなか、こういう音では納得できるべくもない。 音が粒立たず、弱弱しく、オケに埋もれがち。 弦楽器の協奏曲ならいざ知らず、ピアノ協奏曲でこんなに音が弱い演奏会って珍しいのではないか。 曲のテンポも遅め。 グリーグの協奏曲といったら、やはり北欧の清冽な水が滝のように流れ落ちるイメージだと思うのですが、彼女の演奏を聴いていると日照りでぬるくなり量も減った水がよどんでいるような感じがしてしまう。 うーん・・・・。 ルービンシュタイン・コンクールで優勝や2位でなかったのは、それなりに理由があったのでは、と思われた。 聴衆は盛んに拍手を送り、アンコールもあったのではあるが、私は何となくしらけた気分で聴いていた。

 というわけで、ミュンヘン・フィル自体の演奏は悪くなかったものの、協奏曲の印象が悪すぎて、イマイチの気分で演奏会場を後にしたのだった。 

4月27日(金)    *へレンキームゼー城見物、バイエルン放送交響楽団演奏会

 本日はヘレンキームゼー城の見物に出かける。 有名なルートヴィヒ2世が造った城の一つ。 しかしその前に、2日後に聴く予定のファジル・サイ・ピアノリサイタルのチケットを引き取らなければならない。 日本でネット予約して、「演奏会の2日前までにミュンヘン市内のチケットセンターにて引き取り」 を選んだからだ。

 で、ヘレンキームゼー城に行くには、ミュンヘン中央駅から1時間ほど列車に乗る必要があるので、列車に乗る直前に中央駅にあるチケットセンターで受け取るつもりであった。 中央駅の広い構内を見ると中央部に乗車券を売っているコーナーがあったので、てっきりそこかと思い書類を提示したら 「ここじゃない、あっちだ」 と指をさされた。 そちらの方向に歩いていき、もう一回別の人に訊いて、目指す場所が構内ではなく同じ建物ながら外の道路側に面していることが分かる。 入ると、たしかに乗車券売り場のほかに、「ミュンヘン・チケット」 と壁に記した一角があり、そこに一人だけだが係員がいる。 ちなみにこの係員、若い女性で、女優のダイアン・クルーガーに似た美人(笑)。 何人か先客が並んでいたのでしばらく待っていたが、私の直前にいた女性3人組はコンサートや芝居のチケットではなく乗車券が欲しくて並んでいたらしく、美人の係員から 「乗車券はあっちだ」 と言われて苦笑しながら場所を変わっていた。 これを見て私は 「ドイツ人だって間違えるんだ。 日本人のオレが間違えて不思議はない」 と変に安心。 しかしクルーガー嬢 (笑) に書類を渡したら、「IDカードを見せろ」 と言われ、一瞬分からずにクレジットカードを提示したら、「IDカード、パスポートだ」 と言うので、やっと分かってパスポートを見せ、ようやく発券してもらう。 やれやれ、「汗」 の連続なのである。

 10時50分くらいにミュンヘン中央駅を出るザルツブルク行き急行に乗る。 2階建て車両の2階に乗車。 ちょうど1時間でプリーン駅に到着。 ヘレンキームゼー城はキーム湖に浮かぶ島の上にあるのだが、プリーン駅からキーム湖までは少し距離がある。 そこに行くバスがあるのかと駅前をうろついていたら、中国人かと思われる30代くらいの男からいきなり 「ニーハオ!」 と挨拶された。 うーん、私は中国人に見えますかね。 「こんにちは!」 と返したら、日本人であると分かったようで、「こんにちは」 と言い直してくれた。 男はどうも旅行者には見えなかったから、この辺に住んでいるのかも知れない。 中国人ってどこにでもいるからなあ。 多分、ここを訪れる中国人の観光客に挨拶をする習慣なのであろう。

 それはさておき、バスの便のことが分からないので、駅に戻って窓口の女性に訊いたら、湖行きのバスはあるが発車時刻まであと1時間少しあるという。 うーん・・・・。 ミュンヘンからの列車が着いたところだっていうのに、それに接続するようにバス便を設けていないとは、やる気がないなと思う。 歩いても20分くらいだと言われたが、何となく急がなくてはという気分になっていた私は、駅前からタクシーを使うことにした。

 駅前には何台もタクシーがとまっている。 その先頭の1台をのぞいたら、おばさんの運転手。 目的を告げると、運転手脇の席に乗せてすぐ出発してくれた。 城は湖上の島にあるので、湖岸から船に乗らなければならないのだが、その船着場のすぐ近くまで連れて行ってくれ、チケット売り場も教えてくれた。 料金が7,40ユーロのところ8ユーロ渡す。

 チケットを買って船に乗り込んだが、客は多くない。 船内の時刻表を見たら午後1時発となっていて、まだ12時を少し過ぎたくらいだから、1時間近くも待つのかとうんざりしたが、案に相違して船は12時30分に出発。 どうやら船内に貼ってあったのは閑散期の時刻表で、すでに4月も末だから観光シーズンの時刻表に変更になっているらしい。 しかしそれならその時刻表を貼っておいてほしいものだ。 やる気がないな、と再び思う。

 この湖上には複数の島があり、「Herr島」 「Frau島」 と名づけられている。 日本流に言えば 「男島」 「女島」 ということだ。 ヘレンキームゼー城は、その男島にある。 そもそも、ヘレンキームゼーのへレンが男ということで、キームゼーがキーム湖ということ。

 15分ほどで男島に着く。 島の船着場からすぐのところに城の入場券の販売所がある。 入場はガイド付きで開始時刻指定である。 言語はドイツ語と英語しかない。 私はドイツ語を選んだが、指定時刻まで30分ちょっとあり、城までは徒歩20分というので、ここで昼食にしようと、販売所と同じ建物にある売店でハムや野菜をはさんだパンとビールとを買って急ぎ腹に収める。

 そこから城に行くにも経路が二つある。 夏の道と冬の道。 冬のほうが短そうだと見当をつけ、そちらを選ぶ。 夏の道は帰りにしよう。 

(↓ 斜め前から見たヘレンキームゼー城。 右側が正面。)

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 ヘレンキームゼー城は、一般的には正面から撮った写真で知られているが、実物を見ると奥行きもそれなりにある。 しかし全体は上から見て長方形なのではなく、凹型をしている。 凹の一番下の線が正面にあたり、上の凹んだ部分が裏側になるのである。

(↓ 裏側から見たヘレンキームゼー城。 ごらんのように両端が長く、全体で凹型になっている。)

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 (↑ 正面の庭園をまっすぐ見た景観。 遠方に湖の湖面が、そのさらに向こうに湖を囲む山影が見える。)

 城の正面は庭になっているが、まっすぐ一直線に進むと湖面になる。 これは城の裏手も同じである。 この城自体はフランスのヴェルサイユ宮殿を模したものということだが、湖上の島にあることで、水を風景に取り入れることが可能になっているわけだ。

 午後1時半からガイドツアー開始。 小さい乳飲み子を連れた若夫婦も何組かいる。 今日は金曜日で、つまり平日だっていうのに、よく来れるなと思うのは日本人的な感性か。 しかし小さい子供がむずかるので、ガイド(中高年の男性)の説明がしばしば聞こえなくなる。 こっちは日本人で良好な条件でも聞き取れない場合があるわけだから、なおさらである。

 それにしても城内のデラックスさは想像以上。 ルートヴィヒ2世は金ぴか趣味で金を何キロも使用しており、ベッドも金ぴか。 天井の絵画やさまざまな装飾、それにパーティに使う広間の大きさやシャンデリアの数 (全部にろうそくを灯すだけで相当な時間がかかったそうである) など、壮絶。

 この城は完成しておらず、レンガを積み重ねたままでむき出しになっている部屋もあった。 ドイツは地震がないからこういう作り方が可能なのかな、と思う。 

 ちなみに、ルートヴィヒ2世の若い頃の写真を見るとどことなく成熟しきれない少年の面影があるけれど、実際の彼は身長が190センチを越えており、(今だとドイツ人の男はそのくらいのが結構いるが) 19世紀としてはたいへんな大男だったのだそうだ。 人は見かけによらないものだ。 評論家の橋本治が 「俺って (写真だけだと) なぜか小男だと思われる」 と言っていたことを思い出した。

城の右翼部分はミュージアムになっており、ルートヴィヒ2世の生涯や、実現しなかった城造りの計画などが分かるようになっている。 彼は中国風の城も造る計画でいたらしい。 城建造の趣味でバイエルンの国家財政を危機においやったと言われる王様だけど、計画した城を本当に全部造っていたら間違いなくバイエルンは今のギリシア (未来の日本?) みたいになっていただろうな。

 帰りの船は来たときと逆にものすごく混んでいた。 そのため少し遅れて着岸。 プリーン発16時09分のミュンヘン行き列車に乗るつもりだったので、急ぎ足でプリーン駅へ向かう。 しかし船から下りた観光客の大部分は湖岸にある駐車場に向かっていた。 ミュンヘンからの観光客はクルマで来る場合が多いのだろう。 湖岸とプリーン駅の間は徒歩で20分と聞いていたが、早足で歩いてそのくらいかかる。 ゆっくりだと30分はかかりそう。 かろうじて予定していた列車に間に合う。

 帰りは滞在ホテルのあるミュンヘン東駅で降りる。 そこで面白いことに気づいた。 東駅はミュンヘン市内や近郊を走る電車の駅としてはOstbahnhof (東駅、の意味) という名なのだが、ザルツブルク始発で私がプリーンから乗った長距離列車だと Muenchen Ost (ミュンヘン東) という名前なのである。 近郊電車のホームにある駅名と、遠距離列車用のホームにある駅名とが異なっている。 同じ駅が二つの名を持っているわけだ。 ちなみに、プリーンからミュンヘンに来る途中には Ostermuenchen (東ミュンヘン) という駅もあったから、まぎらわしい。

 それはさておき、東駅で降りて、すぐ目の前のスーパーに入る。 ホテルで一休みしてから夜はコンサートに出かける予定なので、食物とアルコールを買うつもりだったのだが・・・・・入ってみて 「え?」 と思う。 まず、パンは何も挟んでないパンしかない。 ふつう、昼食時に食べたような、ハムや野菜を挟んだパンを売っているものだと思うのだが、それがない。 また、ビールは冷えたのが売ってなくて、しかも半ダース単位でしか売らないのだ。 どうもこのスーパー、卸から仕入れたものをそのまま売っているらしく、独自に調理や何かをする人間や設備がないらしい。 仕方なく、スペイン産の赤ワインを一瓶 (ワインは一瓶でも買えるので) だけ買う。 レジも3つしかなくて混んでおり、だいぶ待たされる。 ただし、この赤ワイン (CARLES Priorat)、後でホテルで飲んだら結構うまかった。 値段は6ユーロ弱だから、650円くらい。 日本ではこのくらいうまいワインはこの値段では絶対に買えまい。

 東駅の構内に戻ってみたら、そこにすぐ食べられるパンや、ビールやワインなどを売っている店が複数あるのに気づいた。 (後日気づいたことだが、この構内から別のスーパーに行くことができ、そこでは冷えたビールを1本ずつ安価に買えた。 ただしここもすぐ食べられるパンなどは置いていなかった。)

 ホテルの部屋でビールやパンで夕食をとり、一休みしてからコンサートに出かける。 午後8時からのバイエルン放送交響楽団演奏会である。 場所はガスタイクホール。

             

 ガスタイク・ホールは、私が宿泊したホテルのあるミュンヘン東駅からだとSバーン(日本で言う国電)で1駅、ミュンヘン中央駅からでも4駅という便利なところにある。 大ホールだけでなく、小ホールや教育関係施設も入っている大きな建物。 25年前にできたものでヘラクレス・ホールに比べるとはるかに新しいのであるが、そのせいかロビーの構造は何層にもなっていて、クロークや飲物カウンターは何箇所にも及び、また座席によって入口が指定されていて、当該入口以外からはホールに入れないようになっている。

 ホールはいわゆるワインヤード型だが、ベルリンのフィルハーモニーやサントリー・ホール、りゅーとぴあのコンサートホールと異なるのは、舞台背後の座席がないこと。 また舞台脇の席は一応あるが、2列程度で収容人員は少なく、したがって舞台が谷底にあり、客席が上方に扇のように広がっていく形になっている。 客席の各ブロックは壁で仕切られており、ブロック間の移動はできない。 ロビーからの入口は各ブロックごと1つしかないので、入口を間違えるといったんロビーに出ないと正しい座席にはたどり着けない仕組み。 でも火事のときなどこういう構造は危険だと思うんだけどなあ。

 チケットは前もってネットを通じて入手しておいた。 Qブロックの前方の席。 Qブロックは舞台に向かって後方の左から2番目のブロック。 だからまあ 「中の下」 くらいの席だろうか。 43ユーロ(約4700円)。 パンフは無料配布。

  指揮=アンドリス・ネルソンス、ヴァイオリン独奏=ジャニーヌ・ヤンセン

  ブラームス: ヴァイオリン協奏曲
  (アンコール)
  バッハ: 無伴奏ヴァイオリン曲から
  (休憩)
  ドヴォルザーク: 交響詩「英雄の歌」op.111
  ヤナーチェク: シンフォニエッタ

指揮者のネルソンスは1978年生まれ、ラトビア出身の指揮者で、一度来日しているようだが、私は聴くのは初めて。 独奏のヤンセンはやはり1978年生まれ、オランダ出身のヴァイオリニストで、私は一昨年の11月に上野の文化会館で行われたパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団の演奏会にて、今回と同じブラームスの協奏曲を聴いている。 指揮者もバックも異なるとはいえ、同じ奏者の同じ曲を地球の裏側で1年半を隔てて聴くとは、地球も狭くなったということか。

 聴衆の拍手とともに団員が入場。 独奏のヤンセンは群青色のドレスで登場。 演奏は、一昨年聴いたときとそんなに違わないけれど、ホール或いは座席の位置の違いからか、前回よりやや音量が不足気味のようにも思われた。 その意味では今回は第2楽章のじっくりとした弾き方が一番印象に残った。 また、アンコールで弾いたバッハ (の無伴奏パルティータかソナタの一楽章) もとても良かった。 次回はリサイタルで聴いてみたいヴァイオリニストである。

 後半のプログラムだけど、ドヴォルザークでは旋律の美しさを見事に表現しており、またヤナーチェクに関しては最後尾に13人ずらりと並んだ金管奏者が迫力ある音を出し、同時に他の団員がこの作曲家独特の奇矯な叙情性をよく展開していた。 ドヴォルザークとヤナーチェクは生まれた年も場所も比較的近く、またお互い親交もあったとはいえ、作曲家としてはかなり異なる資質の持ち主だったと思うのだが、そういう 「違い」 がうまく出ていたのではないか。

 ガスタイク・ホールの音だけれど、低音が強調されている感じで、ホールの形としては前述のようにベルリンのフィルハーモニーなどに近いのだが、響きはむしろフルトヴェングラーのディスクを想起させ、以前ハンブルクやベルリンで聴いたシューボックス・タイプのホールを思わせた。 バイエルン放送交響楽団の音も、だからりゅーとぴあで聴く東京交響楽団と比べると、底力みたいなものがある反面、弦の高音の繊細さや美しさでは東響のほうが上ではないかと感じられた。

 

4月26日(木)    *ミュンヘンへ――ヘルベルト・シュッフのピアノの夕べ

 本日、正午に成田発の全日空機でひとりミュンヘンに旅立つ。 

 成田空港の内部は、いつもながら分かりにくい。 どこで受付をしたらいいのか、見回してみても、全日空にはファーストクラス用と書いてあるところとビジネスクラス用と書いてあるところしか見当たらない。 私は言うまでもなくエコノミークラスだから、仕方なくその辺をぶらぶらしていたら、全日空と書いた建物内建物があった。 入って手続きしてもらったところ、終わってから 「実はここはファーストクラス専用ですので」 とやんわり注意された。 訊いてみたら、エコノミークラス用はずっと端のほうにあるらしい。 視界に入らないくらい端のほうなのだ。 ずいぶん差別されているわけだ。 

 後日、ミュンヘン空港から日本に帰国するときに見てみたけど、ミュンヘン空港では同じ航空会社はファーストクラスだろうとエコノミークラスだろうとまとまって並んでいて、成田みたいにエコノミークラスだけ別の遠く離れた場所にあるなんていう、露骨に差別された並び方になっていなかった。 日本ってやっぱり差別社会なんじゃないか。

 まあ、私がファーストクラスに乗ることは考えられないから、手続きだけファーストクラスでしてもらった、ということで満足しよう (笑)。

 11時間数十分の飛行でミュンヘンに着く。 全日空の国際便に乗ったのは初めてだが、食事はかなりうまいけど、座席は奥行きがあまりなくて窮屈。 前にあるテレビ画面も小さめ。

 ミュンヘンの現地時間は午後4時台である。 空港の外に出るとすぐにミュンヘン市内に通じる鉄道の地下駅がある。 ホームに下りて自動販売機で市内までの乗車券を買おうとしたが、どうもよく分からない。 すると後ろから”Can I help you?”と若いドイツ人が声をかけてくれて、これこれの乗車券が買いたいのだと言ったら、すぐにてきぱきと操作をして買ってくれた。 ありがとうございます。

 ホテルはミュンヘン東駅前にとってあったので、東駅で下車。 東駅は、ミュンヘン中央駅ほどではないが、一応ミュンヘン市のターミナルの一つだから、東京で言えば東京駅に対して新宿駅だとか渋谷駅だとかの位置づけで、それなりににぎやかなところかと思っていたが、駅前広場に立ってみたらさほどではない。 立ち並んでいる建物は5階建てばかりで(そういう制限があるのだと思うが)、昔風で、日本で言うと昭和30年代の県庁所在都市の駅前みたいな感じだった。 めざすホテルは、その5階建ての建物の一つの、2階から5階までである。 1階は銀行などに占領されているので、ホテルの入口は目立たないところに付いており、ホテルの名自体は建物に大きく書かれているので迷うことはなかったけど、最初はどこから入っていいか分からなかった。

 で、入口から入ったら、小さな受付があり、男が一人いるだけ。 予約したときの書類を見せたらすぐに手続きをしてくれ、大きな鍵を渡された。 今どき、カードじゃなく大時代的な鍵の部屋か、と思う。 いちおう4つ星ホテルなんですけど。 部屋は2階。 大人が4人乗れば満員というような狭いエレベータで上がる。  部屋は、それなりの広さだが、部屋の大きさに比して窓が小さいので、暗いのが難点。 バスルームは隣室 (ベッドルーム内にしつらえた部屋じゃなく、本当に隣室) で、トイレに洗面台に大きなバスタブもあってそれなりの広さだが、奥行きがベッドルームの三分の一しかないのに窓は同じ大きさだから、こちらのほうがはるかに明るい。 ベッドルームにはベッド二つ (ツインルームなのだ) と、長めのソファーと一人用のソファーと背もたれのないソファーが一つずつ。 最後のソファーは荷物台代わりだろうか。 ヨーロッパのホテルには珍しく専用の荷物台がないばかりか、冷蔵庫もポットも、そして今どきなのにパソコンの端末もない。 (ただし洗面台が、バスルームだけでなく、ベッドルームにもあるけど。 あとテレビもある。 一度も見なかったが。) まあ私は日ごろから持ち運びできるパソコンは使っていないからいいけど、約10日滞在する予定なので冷蔵庫やポットはあったほうがいいのだが。 あと、書き物机もなく、丸テーブルが一つあるだけで、ソファーに座ってこれで書き物をするしかあるまい。 部屋は通りではなく逆の側に面しているので、静かではある。

 少し休んでから、早速だけど音楽会に出かける。 場所はヘラクレス・ホールで、ヘルベルト・シュッフのピアノの夕べである。

         *

 ヘラクレス・ホールはミュンヘンの王宮 (レジデンツ) の中にある。1階が受付や当日券売り場、クロークのある広間にトイレもあり、2階に上がると小広間、飲食のできる広間、コンサートホール前の広間、そしてホール、となっていまる。 ホールはシューボックス型だが、ホール2階の左右両壁にギリシア神話で有名なヘラクレスの10の (12ではない) 冒険譚の絵が描かれている。 それ以外の装飾はあまりなく、ホール1階左右の両側に側柱があって2階脇席がその上に載るように出来ている。 天井にはシャンデリアが並び、それ以外に舞台の上に照明器具が。 また舞台上には5段の段が設けられている。 舞台の左右と背後の壁はコンクリート打ちっぱなしみたいな色で、そこからしてもホールの雰囲気はしめやかな神殿のよう。 舞台背後の上部にはパイプオルガンも設置されている。

 座席は、平土間が30×30列くらい。 それ以外に2階脇席が60×2列、2階後ろの席は150席くらいか。 だから収容人員は千二百くらいであり、さほど多くはない。 平土間の座席には縦にも横にも通路がなく、中央部分の席でも左右端から入っていくしかないのだが、不思議なのが座席番号の打ち方。 この日だけでなく後日またこのホールに入って分かったところもあるのだけれど、左からは1、3、5というふうに奇数番号がつけられており、右からだと2、4、6というふうに偶数番号がつけられているのである。 日本人からすると分かりにくく、素直に左から1、2、3・・・としたらいいじゃないかと思うのであるが、奇数なら左から入り、偶数なら右からという決まりごとなのであろう (この決まりごとには、後日別のホールでも遭遇した)。 私は12列の25番で、ほぼ中央付近。 何しろ飛行機が着く当日の演奏会なので、ネットでこの催しがあることは調べておいたが、飛行機が延着したりすると聴けないので、当日券。 最初は5ランクあるうちの真ん中のランクにするつもりだったが、当日券売り場で訊いたら場所があまりよくないので、奮発して上から2番目のランクの席。 45ユーロ (5千円弱)。 パンフは3ユーロ (300円強)。

 ヘルベルト・シュッフ (Herbert Schuch) は1979年ルーマニア生まれで、最初のピアノ教育はそこで受けたが、その後1988年に両親とともにドイツに移住。 ザルツブルクのモーツァルテウムで学び、Casagrandeコンクール、ロンドン国際ピアノ・コンクール、国際ベートーヴェン・コンクールを次々に制覇して一躍知られるようになった。

 スクリャービン: エニグマop.52-2
 シェーンベルク: 6つのピアノ小品op.19
 モーツァルト: 幻想曲K.475
 リスト: 「嵐」 R10a-5、S160-5 (「巡礼の年第一年」より)
    : 「泣き、嘆き、憂い、おののき」 による変奏曲 (バッハのカンタータBWV12による)
 (休憩)
 シューベルト: ピアノソナタ イ長調D664
       : さすらい人幻想曲D760
 (アンコール)
 リスト: ラ・カンパネッラ
 バッハ: ?

 最初にシュッフ自身から、前半はモーツァルトを引き終えるまで拍手を控えてくれるようにとの要請があった。

 で、弾き初めを聞いてちょっとびっくり。音がすごくクリアなのである。 昨年りゅーとぴあにルイサダが来たとき、強打する音がクリアなのに驚いたが、この日のシュッフは弱音から強打までクリアさが一貫している。 後日またこのホールに来てみて分かったことなのだが、これはシュッフの音の特性だけでなく、このホールの音響特性によるところも少なくないようだ。 つまりピアノの音がクリアに聞こえるホールなのである。

 プログラムはスクリャービンとシェーンベルクの現代風から始まって、モーツァルトの古典性、リストの技巧性、と続いていく。 技巧的にも文句なしではあるが、このピアニストの特質はやはり音のクリアさを介した音楽性にあるのではないかと思われた。

 その意味で、プログラム後半のシューベルト2曲がこの夜の頂点であった。 ソナタも良かったが、特に最後のさすらい人幻想曲は、有機的な構成と叙情的な美しさを洩らすところなく捉えて表現した、まさに名演。 曲が終わると聴衆から声が飛び盛大な拍手。 アンコールの2曲も、とりわけバッハがやはりこのピアニストの音楽性を遺憾なく発揮した名演。

 いやはや、ミュンヘンに来たその夜に当たりの演奏会に出会ってしまった。

 

4月22日(日)    *最近聴いたCD

 ポルトガルの歴史的なオルガン音楽集 (Fabian Records、CD7120、2002年録音・発売、ドイツ盤)

wpe3.jpg (19483 バイト)

  ポルトガルにある古いオルガン2台を用いて、合計22曲のポルトガルのオルガン音楽を録音したディスク。 時代的には16世紀から17世紀がメインで、18世紀初頭のものも一部分含まれる。 作者不詳の曲もある。 曲種(曲名)は、ティエントやファンタジア、トッカータ、バタリアのほか、ObraやPange、Cancion、Cantoといったものもある。 素朴な壮大さ、といった印象の曲が多い。 演奏はドイツ語圏のオルガン奏者ルパート・ゴットフリート・フリーベルガー。 この3月に上京した際に銀座の山野楽器にて購入。 解説はドイツ語のみで1ページ分付いているが、以下に訳出する。 演奏者のフリーベルガーによる文章である。

 「ポルトガルはスペイン同様独自のオルガン文化とオルガン作りの伝統を有している。 沢山の歴史的な楽器があるが、今日、良好で使用可能な状態にあるものは少ない。 しかし古い響きの文化を甦らせ復興しようとする努力もなされている。 / 古いポルトガルのオルガンの復興を、手造りの伝統を活かしつつも科学的な方法を用いて成し遂げようとする拠点となっているのが、ポルトの南、エスモリスにある 「オルガンのオフィス兼学校」 である。 この施設の所長はマエストロ・ペドロ・グイマレス・フォン・ローデン。 このディスクで取り上げられた二つの楽器を私は2002年の夏に知り、主としてポルトガルの写本に載った音楽を録音してみた。 二つの楽器ともペドロ・グイマレスにより立派に修復が行われたものである。/ 18世紀最後の四半世紀に由来する古い楽器で1860年にアントニオ・ホセ・ドス・サントス・デ・マングアルデによって改造されたオルガン(ポルトのセミナール教会)が、もっとゆるい時期のイベリア音楽を演奏するのに適しているというのも、驚くべきことである。 /ドルネスにある小さな村の教会のオルガンもすばらしい楽器である。 これは18世紀半ばに作られ、19世紀になってからこの、素性の不明な教会に移されたものである。 / どちらの楽器もイベリア半島の音楽に、そして同時にポルトガルのオルガンにも興味を向けさせてくれる。 またどちらの楽器も地域の風土がオルガンと結びついていることを示している。 ポルトでは大西洋が激しい風を呼び起こし、録音の際には窓ガラスが震える音をすら聴くことができる。 一方、内陸のドルネスでは、ほぼファティマ(ポルトガルの村の名)の高度にあるが、八月にはかなり暑く、新鮮な雰囲気の口笛ですら太陽の強い光に太刀打ちできない。 だが私にはまさにこの、こんな中でも許されたオルガンの響きこそが生気を与えてくれるのだ。 / (このあとマエストロ・ペドロ・グイマレスへの謝辞があるが省略) 」

4月20日(金)    *トリオ・ベルガルモ演奏会「調和する音の世界」

 午後7時から標記の演奏会に出かけた。 日ごろは狭いスガジオ・スガマタで活動しているトリオ・ベルガルモ。 今回は広い(定員5百名あまりの)音楽文化会館が会場である。 客の入りは半分くらいか。 右ブロックの11列目だったか12列目だったか、その辺で聴いた。

 舞台に登場した3人は、石井さんが赤、庄司さんが緑、渋谷さんが黒、とドレスもきっちり色分けができている。

  ピアノ=石井朋子、ヴァイオリン庄司愛、チェロ=渋谷陽子

  ドビュッシー:ピアノ三重奏曲ト長調

  スメタナ(メルソン編):「わが祖国」より”モルダウ”

  (休憩)

  ラフマニノフ:ピアノ三重奏曲ニ短調op.9「悲しみの三重奏曲」

  (アンコール)

  「明日に架ける橋」(サイモン&ガーファンクル)

 このトリオは、音をはずすといった低次元のミスはしない。 だから、以下に書くことは一定のレベルはクリアした上での高次元の話なのだという前提でお読みいただきたい。

 特に前半、音があまり出ていないなと思った。 まとまってはいるけれど、こぢんまりしていて、音楽がこちらに迫ってこない。 各奏者がもっと音を思いっきり出していかないといけないのではないか。 合わせることばかり考えてはピアノ・トリオにならないのだ。

 同じ室内楽でも、弦楽四重奏とピアノ・トリオは性格がまったく異なる。 弦楽四重奏では第一ヴァイオリンには或る程度の力量 (音の力) が必要だが、それを別にすれば4人のアンサンブルが肝要。 いくら一人ひとりの力量がすごくても、我も我もというような出たがりの4人が演奏したのでは弦楽四重奏の妙味は失われてしまう。

 それに対して、ピアノ・トリオでは逆に、3人が競い合うようにして演奏してこそ味が出てくる。 3人が自分の個性を思い切り発揮してぶつかり合うところに音楽が生じるのである。 これは別に私が勝手にそう考えているのではなく、むかし大木正興氏の本を読んで教わったことなのであるが。

 トリオ・ベルガルモがふだん演奏しているスタジオ・スガマタは狭いので、特に自己主張しなくとも音の強度は出る。 しかし今回はそうはいかない。 五百人あまりが入るホールなのだから、思いっきり自己主張しないと音が、そして音楽が聴衆に届かない。 ドビュッシーの第4楽章の後半でようやく必要な強度が出たかな、と思われた。

 後半のラフマニノフでは、石井さんと渋谷さんは前半より良くなったようだったけれど、庄司さんは最後まで音が出ていなかったような (アンコールでやっと音が出たかな、と感じた)。 曲の作りのせいもあるかとは思うが、会場に合わせた音楽作りも必要なのではないだろうか。 (別にスタジオ・スガマタに怨みがあるわけではないが、あそこはそもそも演奏会用のホールではないので、あそこで日ごろから演奏活動を行うこと自体に問題があるのかも知れない。)

 それから、今回このトリオのデビューCDが出て会場でも販売がなされていた。 私は一種のご祝儀だという気持ちもあって、コンチェルト2号さんの希望に従ってお釣りが出ないようにあらかじめ用意して (笑) 買ったけれど、サイン会がないのはいかがなものかと。 大谷康子さんだって山本真希さんだってルイサダだってクァルテット・エクセルシオだって、サイン会をやっている。 なぜやらないのか。 謙譲の美徳だとしたら、ぜひそういうものは(音文わきの)信濃川にでも投げ捨てていただきたい。 今回の演奏会でもお一人お一人が 「私がいちばん美人で演奏能力も高いのよお!」 という気持ちでやったらもう少し良かったかもしれないし(笑)、同じノリでサイン会もやって下さるよう切にお願い申し上げます。

                 *           *

     *財界人よ、教育・研究に口を出すならカネも出せ! ・・・または冨山和彦と山田昌弘の対照的な記事

 本日の毎日新聞を読んでいたら、対照的な記事が二つ載っていた。 一つは 「経済観測」 欄に掲載された冨山和彦・経営共創基盤CEOなる男の、「9月入学の次は入試・教育改革だ!」 である。 (ネットの毎日新聞には載っていないようなので、紙媒体でお読み下さい。)

 タイトルからも分かるように、東大が9月入学への移行を提言したことを受けて、大賛成としたエッセイである。 この人、言うことがとにかく単純明快で分かりやすい。 (むろん、褒めて言うのではない。)

 日本の大学はかつては入学が世界一難しいとされたが、今はその点でもアメリカに抜かれているし、学問における 「知」 の競争に国境はなく、いわばオリンピックみたいなものだから、国際ルールにあわせるのは当然、というような書き方なのだ。

 この論法、ズレているのは分かりますね。 オリンピックのルールはきちんと国際的な話し合いの場で協議されて決まるけど、大学のあり方にはそんなものはない。 たしかに昨今大学ランキングが話題になることは多く――私のこのサイトでも何度も取り上げている――、それは世界的な趨勢として受け止めるべきものだとは思うけど、それはそれが大学のすべてだと考えるということとは全然別である。

 この人、入試には古文の試験は不要で漢文は中国語に置き換えればとものたまうのだが、置き換えるのはいいけれどいったい高校で誰が中国語を教えるの? 今の日本の高校に中国語を教えられる先生なんてほんの一握りだし、これから中国語教師を高校用に養成するならまずその方面の手当てから始めないといけないんじゃないかな。

 教育もクラスを少人数化して教授と学生の対話と討論を中心にし、教授も学生もたるんだ連中はどんどんクビにする、とものたもうている。 すごく分かりやすい。 でもアメリカだって大学教授にはテニュアってものがあり、簡単にはクビにできないようになっている。 また、佐々木紀彦 『米国製エリートは本当にすごいのか?』 (東洋経済新報社) を読むと分かるが、アメリカのエリート大学も実はあまり学生を中退させないようになってきているし、成績評価も甘くなっているのだ。

 また、日米の大学に大きな違いがあるとすれば、それは財力の相違であろう。 冨山は財界人である以上、日本の大学をアメリカ式にしろと言うなら、当然アメリカの大学の財政基盤に日本の大学が近づけるように配慮しなければならないはずである。 配慮というのは、言うまでもなく、アメリカの寄付文化のことを言っているのである。

 上述の佐々木紀彦の本によれば、冨山和彦が修士号をとったスタンフォード大学の2010年度の寄付金受入額は、約6億ドルである。 1ドル=80円として480億円である。 それに対して同年の東京大学 (これも冨山和彦が出た大学) の寄付金受入額は22億円である。 スタンフォード大学のざっと20分の1以下である。 そして東大でこの程度だから、日本の他の国立大学は推して知るべし。 (なお日本の私大では慶応が55億円となっている。 おそらくこれが日本で寄付受入額の最高なのだろう。 これだってスタンフォードの8分の1以下である。)

冨山和彦は毎日新聞での自分の発言に責任を持つためにも、東大への日本の財界からの寄付金が現在の20倍になるよう粉骨砕身すべし!

 さて、他方、この日の毎日新聞には大学教育に関して全然別の見解も載っていた。 山田昌弘・中央大学教授の 「親の教育費負担の限界」 である。 山田教授がパラサイト・シングルについての本で有名になった人であることはここで指摘するまでもあるまい。

 ここで山田教授は、日本の大学の授業料が国立でも年間50万円を超えており、私大だと文系で安くて70万円、100万円を超えるところもあるとまず指摘している。 (この記事もネット上の毎日新聞には載っていないようなので、紙媒体でごらん下さい。)

 それに対して、ここ10年、大学生を抱える40〜50代の親の家計状況は苦しくなってきている。 本当は裁判官になりたい学生が、しかし法科大学院で学ぶにはお金がかかり、親の経済状況からして無理なので結局公務員への道を選ぶという実話が紹介されている。 1990年代までは親の世代の収入も右肩上がりだったから子供に高学歴をつけさせるのも比較的容易だったわけだが、最近の経済苦境の中ではそうはいかなくなっているわけだ。 日本では教育費負担に占める親の支出がきわめて高いわけだが、これは女性の能力発揮にも悪影響を及ぼすのでは、と山田教授は述べている。

 同時にこの記事にはデータが付されており、高等教育への公費負担の割合において、日本はOECD加盟国中、在学者一人あたりで19位、教育機関への教育支出で27位、政府歳出に占める教育支出で30位と、きわめて低い水準にとどまっていることが明らかにされている。

 ここでまた冨山和彦に戻るが、こういう惨状を冨山和彦はどう考えているのだろうか? まさか考えないでくだんの威勢のいいエッセイを書いたのではないだろうな。 東大を出てスタンフォード大で修士号をとっている人なのだから。 もし考えないで書いたのだとしたら、自分で書いているように、レベルの低い 「経営共創基盤CEO」 はとっととクビにしなくてはならないのだ。

4月18日(水)    *西洋文学LIの聴講受けつけ

 毎年度やっていますが、今年度もやります。 教養科目の西洋文学LIの学部別の聴講申込者数と辞退者数。

 定員=150名、 聴講申込者数 (こちらが指定した締め切り時刻までに登録した者) =301名、 競争倍率=約2倍

 301名の中から仮当選者150名を選び、その中でさらに一定の手続きを取った者を本当選者とする。

   A=申込者数、 B=仮当選者数、 C=Bの中で本当選手続きをとった者の数、 D=残留率(C/B)

 学部  A   B   C  D(%)

 人文 21  11   9   82

 教育 30  15  13   87

 法   6   3   3   100

 経済 32  16  13    81

 理  25  12  12   100

 医  68  34  34   100

 工 109  54  49    91

 農  10   5   3    60 

 ごらんのように、今回は農学部の成績が悪かった。 しかし母数が少ないので、これだけで農学部生を批判するのは早計であろう。 他方、医学部生は申し込み人数が多いのに残留率100%だった。 褒めておこうかな。

 ちなみに、仮当選者の中で14名が手続きをとらず失格となったので、2回目の授業のときに来た学生 (第1次抽選に参加した者限定) についてその分2次抽選を行ったが、2次抽選で採用した学生の学部別数は以下のとおり (29名が来たので、1名余計に取りました)。

   人文学部 1、 教育学部 4、 理学部 1、 医学部 5、 工学部 2、 農学部 2 

 

4月16日(月)    *にいがた音楽協会総会コンサート

 午後7時から標記の演奏会に出かけた。毎年にいがた音楽協会が開催している無料コンサートで、場所もいつもの新潟グランドホテル。

 高橋雅代(ピアノ)
  リスト: 献呈(シューマンの歌曲による)
  ―― : 愛の夢第3番
  ―― : ペトラルカのソネット第104番
  リャードフ: 舟歌op.44
  ――   : 3つの小品op.57(前奏曲、ワルツ、マズルカ)
  メトネル: 「忘れられた調べ」より”春”op.39-3、”花咲く舞曲”op.40-3、”祝祭の舞曲”op.38-3

 根津要(チェロ)+石井朋子(ピアノ)
  ショパン: 華麗なるポロネーズop.3
  ドホナーニ: ハンガリア牧歌
  ドヴォルザーク: 森の静けさ
  ドビュッシー: ソナタ
  フォーレ: ロマンス
  (アンコール)
  ヴィラ=ロボス: 黒鳥の歌

 いつも地元(出身)の演奏家による演奏会なのだけれど、今回もその点は同じ。 前半の高橋さんのピアノでは、私的にはリャードフの曲が好みに合った。 演奏も全般的に悪くはないが、技巧的には完璧とはいかないのは、曲が難しいからか。 この辺は、聴衆の期待値と演奏家の実際との間に少し開きがあったような気がする。

 後半の根津氏と石井さんは、新潟のクラシック・ファンにはとうにお馴染みであろう。 ドビュッシーのソナタの熱演が特に光っていた。 また石井さんがこの演奏会で伴奏の役割というのは勿体ない感じ。 私は、今回登場した3人の中で石井さんがいちばん良かったと思った。

 無料の演奏会だが、先日のキリスト教会でのオルガンコンサートのように大震災の被災者への寄付が要請されていたので、わずかながら寄付をして会場を後にした。

 

4月13日(金)    *明治大学にも出版会・・・新潟大学は周回遅れの自覚もなく

 昨日の毎日新聞を見たら、一面の出版広告欄に明治大学出版会の広告が。 「設立第1回出版」 とあるから、出来立てのほやほやなのだ。 広告では3冊が挙げられているが、そのなかで2冊が映画関係の本であることが目を惹く。 2冊のうちでも、明治大教授で日本を代表するドイツ語圏映画研究者である瀬川裕司氏の 『ビリー・ワイルダーの映画作法』 が注目されよう。 看板教授の本をまず出す、というところに明大の見識を感じる。

 日本の私立大学の出版会というとまず法政大学のが有名で、ほかに私学の両雄である慶応も早稲田も出版会を持っているし、他にも多数の私大が出版会を有している。 私大は国立大よりも自由が利くからということもあろうが、出版社が多い東京にあっても学術的な、或いは一般の出版ルートに乗りにくい本を出す必要性を各大学は感じているわけで、それが出版会の設立を促すのであろう。 別の言い方をすれば、文系の知に関わりを持つ大学人なら、出版会を作ろうとして当然なのだ。

 以前にも書いたけれど、こういう文系的の知の常識が新潟大学では通じない。 すでに山形大学も富山大学も弘前大学も出版会を作っている。 新潟大学の上層部の無能さを私はいつもここで言い続けているけれど、こういうところからもそのレベルが推し量れよう。

 ところで、私は新潟大学生協が年に2回出している書評誌 『ほんのこべや』 の編集をやっており、そこに 「新潟大にも出版会を!」 という連載記事めいたものを書いているのだが、この4月に出たばかりの号に載せた文章を再録しておこう。 名古屋大学出版会が、首都圏と関西圏の狭間にあってこれだけ立派な活動をしていることは、もっと注目されていい。 新潟大の上層部にも名大上層部の爪の垢をせんじて飲ませたいところだ。

           *

 ■サントリー学芸賞と大学出版会

 今まで、このコーナーでは他大学の出版会を取り上げて紹介してきましたが、今回は少し目先を変えて、サントリー学芸賞と大学出版会の関係に触れてみま
しょう。
 サントリー学芸賞は、サントリー文化財団が1979年に創設した賞で、人文・社会科学系の日本語によるすぐれた研究書に贈られるものです。政治・経済部門、
芸術・文学部門、社会・風俗部門、思想・歴史部門の4部門があります。
 その性質上、大学の出版会が版元になっている書物が受賞することも珍しくありません。その場合、著書自体や著者に注目が集まるのは当然ですが、そのよう
な書物を出版した出版会にも、その見識という点で光が当てられることになります。
 そこで、この5年間に限定して、大学出版会から出てサントリー学芸賞を受賞した書物を挙げてみましょう。

 2011年
 ・井上 正也『日中国交正常化の政治史』(名古屋大学出版会)
 ・隠岐 さや香『科学アカデミーと「有用な科学」―― フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』(名古屋大学出版会)
 2010年
 ・倉田 徹『中国返還後の香港 ―― 「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)
 ・石原 あえか『科学する詩人 ゲーテ』(慶應義塾大学出版会)
 ・田中 久美子『記号と再帰 ―― 記号論の形式・プログラムの必然』(東京大学出版会)
 2009年
 ・持田 叙子『荷風へ、ようこそ』(慶應義塾大学出版会)
 ・松森 奈津子『野蛮から秩序へ ―― インディアス問題とサラマンカ学派』(名古屋大学出版会)
 2008年
 ・林 洋子『藤田嗣治 作品をひらく』(名古屋大学出版会)
 2007年
 ・三浦 篤『近代芸術家の表象 ―― マネ、ファンタン=ラトゥールと1860年代のフランス絵画』(東京大学出版会)

 合計9冊が受賞しています。女性学者の頑張りも目立ちますね。
 版元の出版会で見ると、名古屋大学出版会が5冊でダントツ。東京大学出版会と慶應義塾大学出版会がそれぞれ2冊となっています。
 こうしてみると、大学出版会の数は多いけれど、賞を得るような名著を出している出版会は限られているとも言えます。しかし同時に、名古屋大学出版会の頑
張りがひときわ目立つのではないでしょうか。出版社も学者も首都圏一極に、或いはそれに準じる関西圏を含めて二極に集中する傾向が強い日本にあって、名古
屋大学出版会がすぐれた書物をこれだけ出しているのは、それなりの努力と長年にわたる実績の積み重ねによるところが大きいと想像できます。
 むろん、サントリー学芸賞受賞というだけでその書物を評価するのは禁物で、賞にはつきもののこととはいえ不適切な授賞が指摘される場合もあるのですが、
あくまで一つの目安として、大学出版会の仕事ぶりを評価する指標になるのではないかと思うのです。
 あ、ところで、新潟大学図書館にはサントリー学芸賞受賞作があまり入っていないんですよ。図書館関係者の方々、善処をお願いします。

4月12日(木)    *吉本隆明が死去して・・・・・・或いは、鹿島茂よ、お前もか

 先月思想家の吉本隆明が亡くなってから、新聞は少なからぬページを割いて吉本回顧に宛てている。 毎日新聞では3月28日にフランス文学者である鹿島茂が、連載で持っている 「引用句辞典」 を吉本への弔文にあてたし、その後、一昨日と本日には、橋爪大三郎+松浦寿輝+田中和生の三人による鼎談 「吉本隆明氏の思想を語る」 が2回にわたり掲載された (日付はいずれも新潟版による)。 産経新聞に至っては、先日、他の新聞がどの程度吉本回顧の記事を掲載しているかについての記事を掲載した。 まさに左右を問わず、という感じである。

 (橋爪らの鼎談は下記URLから読めます。 鹿島茂の文章はネット上の毎日新聞には掲載されていないようなので、紙でお読み下さい。)

 http://mainichi.jp/feature/news/20120409dde018040098000c.html  

 http://mainichi.jp/feature/news/20120410dde018040009000c.html  

 それにしても、日ごろ尊敬すべき学者にして文筆家だと思っている鹿島茂まで吉本賛美に走っているのを見ると、鹿島よ、お前もか、と言いたくなる気持ちを押さえきれない。

 私自身はというと、吉本のいい読者であったことはない。 私の学生時代、吉本の名声はたしかに高かった。 しかし私は吉本の文章をほとんど読もうとはしなかった。 多少手にとってみるといったことはあったが、吉本の文章はなにしろ分かりにくい。 これに比べれば、いや比べるのも変かもしれないけれど、ドストエフスキーやトーマス・マンの小説のほうがはるかに分かりやすかった。 評論家ということでいうなら、学生時代の私はあまり読む習慣がなく、当時文芸評論家として頭角をあらわしてきていた柄谷行人を好んで読む程度であった。

 1980年に新潟大に赴任してきてからは評論家の文章をそれなりに読むようにはなったが、それでも吉本にはあまり食指が動かず、呉智英、西尾幹二、福田恒存、磯田光一、小浜逸郎といったところが私のお気に入りであった。 柄谷行人も相変わらず読み続けていた。 (追記: 三島由紀夫と中村光夫を挙げるのを忘れてはいけなかったな。)

 ちなみに、柄谷が 『日本近代文学の起源』 によって事実上その地位を確立したのは、私が新潟大に赴任した1980年のことであり、呉智英がやはり 『封建主義 その論理と情熱 さらば、さらば民主主義よ』 によって言論界に新鮮な風を吹き込んだのは、1981年のことである。 いずれの著書も私は出たときにすぐ購入して読んでいるが、明らかに1970年代までの左翼主導の言論界は急速に変わりつつあった、と今にしてみれば思うのである。

 私は昭和27年生まれだから、いわゆる団塊の世代の少し後の世代に属する。 吉本を好んで読むのは昭和二十年代前半生まれの団塊の世代であり、私の世代ならば少し前の世代を後追いしているような人達であったと思う。 自分で言うのも何だけれど、私はその先の時代にむしろ光を見た人間だったのだろう。 もっともこれは昭和二十年代後半の世代に特有のことではなく、団塊の世代でも 「吉本の文章は分からない」 と言う人はいるし、もっとあとの世代でも吉本主義者になってしまう人間もいる。

 また、私が好んで読んだ呉智英にしても小浜逸郎にしても、吉本隆明をそれなりに評価はしていたが、盲従はせず、呉智英は 「吉本は文章が下手だ」 と明言し、吉本の大衆賛美を批判していたし、小浜も吉本がオウム真理教事件でオウムの教祖を擁護するような発言をした際にははっきりと批判を行った。 つまり、世に言う 「吉本主義者」 ではなかったのである。

 これがもっと後の世代、つまり浅田彰になると、吉本の文章は 「てにをは」 からしておかしいとか、花田清輝・吉本隆明論争というのは何が問題になっているのかすら朦朧としている、と言ってはばからなくなる。

 で、上述した橋爪大三郎、松浦寿輝、田中和生による鼎談であるが、この人選が世代を配慮してなされていることは明白だ。 それぞれ、1948年生まれ (団塊の世代)、1954年生まれ (団塊の少し後)、1974年生まれ (日本がかなり豊かになっていた頃) であるからだ。 読んでみて、やはり世代的なものは争えないと思った。 私からすると、私の2年後に生まれた松浦寿輝の言い分がいちばん腑に落ちたからである。 また、松浦は褒めるところでは褒めているが、他方ではっきりとした吉本批判も行っている。

 吉本があれほど評価されたのは、むろんそれなりに分かるところもある。 インテリに対してはまだ日本共産党がそれなりに権威を持っていた時代に、教条主義や党派主義を批判し、主体性を持った自由な思考を促していったという側面はあろう。 また、70年代以降は少女マンガだとかファッションなどの大衆文化に積極的にアプローチし、その個々の指摘が適切であったかどうかはともかくとして、文化の流れの方向性をつかむという点では一定の鋭敏さを示したことは否定できない。

 けれども、それだけでは 「吉本主義者」 や 「吉本信者」 と呼ばれる奇妙な連中が少なからず存在した理由を説明することはできまい。 私は、吉本隆明は一種の宗教としてあったのではないかと思っている。 その核心にあるのは、彼の分かりにくい文章である。 もともと吉本は詩人として出発しており、素質的に言えば散文の人というより直感と詩の人だったのではないか。 分かりにくいからこそ信者が出てくるのであって、これは宗教の教祖と共通した性質である。 また、吉本はしばしば言論界の著名人を手ひどくクサしているけれど、これが読む人間に一種のカタルシスというか、よく分からないなりに爽快感をもたらしたという面もあるだろう。

 吉本の宗教性は、彼がオウム真理教の教祖に一定の理解を示したことにも現れている。 私は吉本が松本智津夫と部分的に似た資質の人だったのではないかと想像している。 (こう言ったからといって、松本のような犯罪人になる資質だと言っているのではないから、誤解なきよう。) 「信者」 がつくのが、何よりの証拠、と言ったら言いすぎだろうか。

 上述の鹿島茂の文章だけれど、何より困るのは、なぜ吉本を評価するのかが全然分からないことである。 吉本が子供時代、親は小金ができたから三男の隆明には学問をさせようと考え塾に通わせ、それで彼は同年齢の子供たちと遊べなくなった、という吉本の回想をいたく評価しているのだけれど、そしてそれが吉本の言う 「大衆の原像」 に結びつくというのだけれど、インテリのこの種の感傷に私は大きな意味を認める気にはならない。 何となく一種のアリバイ作りというか、いやらしいポーズのような気がするからだ。

 もう一ついえるのは、吉本は団塊の世代の転向にいい口実を与えたことである。 左翼性が強い団塊の世代は、70年代に日本が豊かになっていくと思想的基盤を失っていった。 吉本はしかし、そうした世代の転向をそうと見せずに、事実上転向させる便宜をはかったのである。 これは、吉本が左翼的に見えながら実際は現実主義に深く根ざす文筆家だったことから容易に説明できる。 簡単に言えば、抽象性を維持した思考が不得手な連中に、現実べったりでいいんだよと吉本は言って、安心立命の境地(?)を提供したのである。 しかし現実べったりでいいなら知識人や言論人などは不要なはずで、まだ大学進学率が低かった時代に一応エリートの構えをとった団塊の左翼たちは、知識人であることを放棄して大衆化しているくせに、吉本を読んでいるということで知識人であり続けているような錯覚を起こしていたと言っていい。

 そして、なぜ吉本が偉大なのか、鹿島茂は説明できていない。 インテリであることに違和感を覚えるから偉大、というわけではあるまい。 インテリはインテリとして優れた業績を挙げることによってしかその存在を証明できないはずだからだ。

 鹿島茂は 『吉本隆明1968』 という新書本を出しているらしい。 それを読めば吉本の偉大さを鹿島がきちんと説明しているのかなとも考えたのだが、amazonのレビューを読む限りでは、そういう本でもなさそうなのだ。 無論、説明が難しい偉大さというものもあることは分かるが、吉本隆明が一種の宗教的カリスマだったと考えない限り、鹿島ほどの人にも説明不能なわけが分からないのである。 困りましたね。 いや、吉本の愛読者でない私は別に構わないのだけれど(笑)。

 

4月8日(日)    *最近聴いたCD
  
*フェリペ4世時代のスペイン・オルガン音楽集 (Hortus 081、2010年録音・発売、フランス盤)

スペインでフェリペ4世が支配していたのは17世紀の中葉、1621年から1665年のこと。 この頃までのスペインはヨーロッパ随一の強国であり、ポルトガルやネーデルランドをも支配下に収めていたが、この国王の時代にポルトガルやオランダが独立し、スペインは徐々に衰退に向かう。 しかしフェリペ4世は文化にも理解があり、国内では人気の高い王様であった。
  ここに収められたのは、そのフェリペ4世時代のスペイン・オルガン音楽である。 ここで言うスペインとは現在に残るイベリア半島の国家だけではない。 上述のように、フェリペ4世が即位した頃にはポルトガルもネーデルランドもスペイン領だったのであり、したがってこのディスクに収められた作曲家もそれらの地域にまたがって選ばれている。 時代的にはバロック期に入るが、17世紀の初頭は16世紀の伝統を受け継いでポリフォニー的な傾向が強かったものが、徐々にバロック期の特徴を備えた音楽に移行する。
  イベリア半島の作曲家が好んだティエントTientoという形式は、ネーデルランドの作曲家のファンタジーと同じものである。 このCDは、初期バロック期のイベリア半島の作曲家とネーデルランドの作曲家が同じような形式で書いた曲を比較することをコンセプトとして作られている。 具体的には、フランシスコ・コレア・デ・アラウホ (1584〜1654、今日のスペイン)、マノエル・ロドリゲス・コエルホ (1555頃〜1635頃、今日のポルトガル)、ペーテル・コルネット (1575頃〜1633、ネーデルランド)、アブラハム・ファン・デン・ケルクホーフェン (1618頃〜1701、ネーデルランド) の4人の作曲家が取り上げられている。 それぞれ3曲ずつが収録されていて、どれもティエントまたはファンタジーという曲名を持つか、或いはそれと同傾向の曲ばかりである。 大バッハに130年ないし50年先立つ作曲家たちのこれらの音楽は、オルガン音楽のヨーロッパ的な流れと伝統を知るのに欠かせないと言えよう。 またどれも曲として質が高く、聴きごたえ十分の曲集である。
  フェリペ4世は美術にも造詣が深く、美術の蒐集を通じてのちのプラド美術館の礎を築いた王様であった。 ジャケットの絵はベラスケスの代表作の一つである 「女官たち」 だが、ベラスケスはフェリペ4世のもとで宮廷付きの画家として活動したのであり、この絵の左上にある鏡にフェリペ4世夫妻が描かれていることは、よく知られているとおりである。
  オルガン演奏はDamien Colcombで、フランスで音楽を学び、またオルガン製作についても研鑽を積んだ人。 フランスはガティネ (Gatinais) 地方のロリ (またはロリス、Lorris) にある歴史的オルガンによる演奏。 解説はフランス語と英語でついており、選曲についての詳しい説明も含まれている。 今年3月初めに上京したとき銀座の山野楽器にて購入。 

 

Terres D'espagne

 

4月5日(木)     *京都市交響楽団演奏会

  夜7時から標記の演奏会に出かけた。 会場はりゅーとぴあ・コンサートホール。 東京交響楽団新潟定期の+αということで、毎年国内プロオケが一団体招聘されるが、その演奏会である。 東響新潟定期の会員は自動的にチケットが手に入るはずだが、入りは日ごろの東響定期に比べるとイマイチ。 平日の午後7時からという設定だと来れない人も多いということだろう。

 指揮=広上淳一、ヴァイオリン独奏=パヴェル・シュポルツル、コンマス=渡邊穣

  ドヴォルザーク: スラブ舞曲第1番op.46-1
  ドヴォルザーク: ヴァイオリン協奏曲イ短調op.53
  (アンコール)
  ドヴォルザーク: ユモレスク(オーケストラ伴奏版)
  パガニーニ: 奇想曲から第5番
  (休憩)
  リムスキー=コルサコフ: 交響組曲「シェエラザード」op.35
  (アンコール)
  ドヴォルザーク: スラブ舞曲第3番op.46-3

 最初のスラブ舞曲を聴いてびっくり。 管の音が突出しているので、ちょっと別の曲みたいに聞こえたのである。 弦もそんなに弱いわけでもないけれど、管の音とのバランスはあまりよくないかな、と思った。 弦は、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、その後ろにコントラバス、右翼にヴィオラで、14-12-8-7-10だったが。

 次にヴァイオリン独奏のシュポルツル登場。 オケの弦は各パート2〜4人減。 シュポルツルは長身で、白いワイシャツに黒いチョッキを着用。 青いヴァイオリンを携えているのに驚いたが、考えてみればヴァイオリンの色が茶系統でなきゃいけないという理由もないわけで、はあ、という感じ。 このヴァイオリニストは、私は6年前に東京のオペラシティホールで一度聴いている。 そのときはもう一人のヴァイオリニストとのジョイントのリサイタルだったが、悪くない印象であった。

 で、今回だけど、悪くはないけどそんなにすごくもないかなという程度だった。 達者に弾いているのではあるが、音の通り具合だとか音色が特に秀でているわけではない。 まあ平均的かな、と。 音の通りや音色の魅力ということで言えば、後半の 「シェエラザード」 ではコンマスの渡邊穣さんが独奏をやる場面が多かったわけだけど、渡邊さんの音のほうがよく通るしきれいでもあるかな、と思った。

 それはさておき、アンコールを2曲もやってくれたのがよかった。 サービス満点!

 後半はオケの実力が問われる曲だが、なかなかよかったのではないか。 広上さんは外見的には大柄ではないし柔和な表情の方だけれど、音楽にはめりはりをきっちりつけてオケの真価を発揮させるようなやり方をしていた。 弦は、東響と比べるとさすがに美しさではかなわないが、それなりに音は出していたように感じられた。 ただ、東響に比べると管楽器の音量がはっきり大きいので、バランスという点ではやや問題ありかもしれない。 しかし、数年前に大友直人さんに率いられての公演よりははるかに充実した演奏だったと思う。

 ここでもアンコールがあって、終演は9時20分頃。 総合的にはまずまずで、前回来た時よりははっきりよかったという印象が残った。

 しかし駐車場でトラブルが。 Bの屋内駐車場にとめたのだが、途中で出口の機械が故障してしばらくクルマが動かず。 ものすごく長時間待たされたというほどではないが、演奏会の時には係員が出口に必ずいて機械のトラブルには迅速に対応してほしいものである。

4月4日(水)    *停電

 昨日から台風並みの猛烈な強風が吹き荒れている。 そのせいであろう、昨夜11時くらいに我が家は停電に見舞われた。 念のためカーテンを開けて隣家を見たけれど、やはり灯りはついていない。 仕方なく、早めに就寝した。

 で、今朝7時くらいに寝室の灯りで試してみたが、停電のままなのである。 ったく、東北電力は何をやっているのだ! 数年前に新潟市は大停電に見舞われてニュース種になったわけだが、全然教訓が活かされていない。

 仕方なく起きる。 新聞はふつうに届いている。 ガスと水道は使えるので朝食をとるには差し支えないが、トースターが作動しないからパンは焼かずにそのままマーガリンを塗ってかじる。 たまにはこういうのも悪くない、と負け惜しみ風につぶやいてみる。

 これが最新式のマンションだったりすると、こうはいかないはずだ。 ガスコンロは締め出されていて電気コンロしかなく、水も電気で汲み上げているので水道から水はでないは、水洗トイレも使えないは、という風になってしまう。 いや、新潟大学の校舎もそうなっているんですが。 過度に電気に制御された建物はこういう場合に弱いということですね。

 しかしテレビもつかないしネット情報も得られないので、停電がこの辺だけなのか、それとも新潟市全域なのかも分からない。 仕方なく身づくろいをしてクルマで大学に行ってみる。 が、大学も停電だった。 途中の信号もついておらず、一部では警官が出て交通整理をしている。

 相変わらず停電の範囲が分からないので、路線バスのたまり場 (新潟大学前行きバスがUターンして新潟駅行きになるための空き地) に停まっていたバスの運転手に訊いてみたら、街の中心部は停電していないし、国道116号から新潟大学方面に入る三叉路の信号も作動しているという。 どうやら、私の自宅や新潟大学のある、新潟市西区の中でも西側の地区だけが停電しているらしい。

 仕方なくまたクルマに乗って、ユナイテッド・シネマが入っているデッキィ401へ。 ここは停電していない。 時間が合えば先週土曜日から上映されている 『ヘルプ』 を見ようと考えたのだが、残念ながら20分前に始まったばかり。 その次の回まではかなり時間がある。

 なので、またクルマに乗って県立図書館へ。 ここの学習室で本を読んで2時間ほど過ごす。 それから正午すぎに大学の事務に電話して訊いてみたら、少し前に復旧しましたとのこと。 やれやれ、ようやく大学に行ける。

3月31日(土)    *バッハ、オルガン小曲集の世界 2 「受難と復活」

 午後7時から標記の演奏会に出かけた。 会場は新潟市中央区嬰所通りの日本キリスト教団新潟教会。 昨年のクリスマスの頃に行われた演奏会に続いて2回目である。

 オルガン演奏は山本真希さん、解説は前・新潟大教授の真壁伍郎さんです。

 バッハのオルガン小曲集から、以下の曲が演奏された。
 (1)受難
 BWV618 罪なき髪の小羊よ
 BWV619 神の小羊なるキリストよ
 BWV620 われらに幸いを与えるキリスト
 BWV621 イエスは十字架につけられ
 BWV622 人よ汝の罪の大いなるを嘆け
 (2)復活
 BWV625 キリストは死の縄目につながれ
 BWV626 わが救い主なるキリストは
 BWV627 キリストはよみがえりたまえり
 BWV629 栄光の日はあらわれぬ
 (3)アンコール
 BWV727 私の心からの願い(おお頭は血と傷にまみれ)

 前回同様、賛美歌の歌詞内容や聖書との関連などが真壁さんにより分かりやすく解説され、それから山本さんの演奏があって、勉強になった。 バッハのオルガン小曲集は、ふだんCDで聴いていると何となく聴き過ごしてしまうのであるが、賛美歌などとの連関が分かると理解の光が見えてくるような気がする。

 最後にアンコールとして、マタイ受難曲でも5回使われている有名なコラールを元にしたオルガン曲が演奏された。

 第3回もありそうな雰囲気。 ぜひお願いいたします。

 無料の演奏会だったが、大震災の被災者のための寄付が要請され、私もわずかながら寄付をして会場をあとにした。

 

3月28日(水)    *最近聴いたCD

 *20世紀のロマンティックなオルガン音楽集 (ambitus、amb 97 861、1990年録音、ドイツ盤)

 20世紀の音楽というと、いわゆる現代音楽を思い浮かべ、敬して遠ざけたい感じになりがちである。 オルガン音楽は20世紀になってもさまざまな作曲家によって新作が書かれているが、先日のりゅーとぴあでの演奏会で披露された曲みたいにモロ現代音楽という感じの作品だと、ドリルを使った道路工事の音と区別がつかず、ご遠慮申し上げたいと言いたくなってしまう。 しかしそういう現代曲ばかり書かれているわけではない。 それを証明するのがこのCD。 取り上げられているのは、ジークリート・カルク=エラート (1877-1933) の 「バッハ(BACH)の名によるパッサカリアとフーガ」、マックス・レーガー (1873-1916) の 「コラール前奏曲op.79b」 から4曲、そしてモーリス・デュルフレ (1906-86) の 「組曲op.5」 である。 これらの曲がはたしてロマンティックと言えるかどうかは微妙だが、いわゆる現代音楽で聴く気がしない、ということはない。 少なくとも音楽にはなっており、音楽だか騒音だか分からない、ということはない。 ロマンティックという名に値しそうなのは、レーガーの第2・3・4曲や、最後のデュルフレの曲の第2楽章シシリエンヌであろう。 これらは抒情的な感じの名曲だと思う。 演奏はハンス=ディーター・マイヤー=モーアトガート、ブラウンシュヴァイクの聖マグニ教会における1990年7月8日のライブ録音 (ただし拍手や騒音の類は聞こえない)。 解説は演奏者自身により、独・英・仏の3カ国語でついている。 記憶があやしくなっているが、たしか昨年の春頃、ディスクユニオンにて購入。 新宿だったか御茶ノ水だったかは忘れました。

 

3月27日(火)    *岡山温実氏を悼む

 今朝の新聞を読んでいたら、岡山温実 (おかやま・あつみ、元・住友ベークライト専務) 氏の訃報が載っていた。 63歳、死因は結腸ガンだそうである。

 岡山さんとは特に親交があったわけではないが、国木田独歩ふうに言うと 「忘れえぬ人」 の一人であるので、ここにおくやみの文章を書いておこう。

 岡山さんは私が東北大の学生だったとき、所属していたサークル・卓球同好会で2年先輩だった方である。 私の記憶違いでなければ都立新宿高校出身で、法学部生であった。 (当時は今と違い、東京での主たる進学校は都立高校だった。)

 当時の国立大には教養部という組織がきっちりあって、東北大では入学後最初の2年間は教養部所属だった。 今はどうなっているか知らないが、卓球同好会も教養部生の組織であり、したがって練習参加義務も1・2年生のみで、主将などの役員も2年生が務める。 教養部を終えて3年生になるともうOBであり、年に何度かある試合のときにしか来なくなる。 もっとも文系は教養部とキャンパスが隣接しているので3年生になっても時々練習にも顔を出したりするが (これも私の学年からで、それ以前は文系のキャンパスも教養部とは別だった)、医歯を含む理系はキャンパスが教養部から離れているので、顔を出そうにも出せなくなるわけである。

 岡山さんは私より2学年上だから、私が1年生のときはすでに3年生でOB扱いであり、練習を一緒にした記憶はない。 しかし部室には時々顔を見せていた。 当時の3年生は、東大の入試が中止になった年に入学した人たちなので優秀な学生が多いと言われていたが、卓球同好会の3年生はそれ以上に個性的な面々が多かった。 卓球も強かった。 卓球同好会は年に1度、学年対抗の団体戦をやる。 各学年で3チーム程度を作りトーナメントで試合をやるのだが、私が1年生のときの団体戦で優勝したのは3年生のチームであった。

 もっとも、岡山さんは卓球の腕前はさしたることがなかった。 卓球同好会は当時は教養部3大サークルの一つと言われるくらい人気があり、4月の新入生勧誘では例年100名あまりが入会していたが、しかし1年をへて残るのは十数名程度である。 卓球がうまいから残るとは限らない。 下手でも残る人は残るし、卓球がうまくても長続きしない人も多い。 この辺は要するに本人の意思や同期生とのマッチングなど、微妙なところがある。

 岡山さんも、卓球の腕前によってではなく、同期生の中でそれなりに存在感があったので残った人だったのだと思う。 法学部生というのは、だいたい、内面的な(?)文学部生とは違って外向的で攻撃的な人が多いのだが、岡山さんもその例に洩れなかった。

 首都圏出身の学生というと洗練された印象のすらりとした体つきの青年を思い浮かべるかもしれない。 しかし岡山さんは外見的なイメージで言うと、アニメのポパイで、顔はポパイの敵役であるブルートがヒゲをそったという感じであった。 つまり、背は高くなくがっちりした体つきで、ヒゲが濃かった。 そしてその外見にそむかず、力が強かった。 われわれは、「おかやま」 という姓を一字省略して 「おかまさん」 などとふざけて呼んでいたのだが、おかまっぽいところは全然なかった。

 一度、部室においてあったマンガ雑誌 (少年サンデーとかマガジンの類) をびりびり引き裂いてみせたことがあって、こちらは度肝を抜かれたものだ。 むろん、綴じ目を引き裂いたのではない。 厚さが2〜3センチもある雑誌を、閉じた状態で真っ二つに引き裂いたのである。

 岡山さんと同学年かつ同じ法学部生の卓球同好会員にAという人がいた。 やはり首都圏出身だったと記憶するが、この人がまた典型的な法学部気質で、外向的かつ攻撃的で、卓球の試合をやりながらしゃべり続けているのである。 この人も卓球自体の腕前はたいしたことがなかったが、私はA氏が試合をやるのを見ていて、「あれは体じゃなく口でやる卓球だな」 と思ったものである。 ちなみにこのA氏は卒業後弁護士になった。

 岡山さんは卒業して住友ベークライトに入社し、その後顔を見る機会はなかった。 卓球同好会は5年ごとに記念行事を仙台で開いており、岡山さんの同期生はそれなりに顔を見せていたのだが、岡山さんが記念行事に来たことは、私の記憶する限りではない。 もっとも、卓球仲間との縁が切れたわけではなく、私と同期だったM (工学部生だったが中退し、国家公務員の試験を高卒資格で受けて通り、某中央省庁に最近まで勤務していた) と一緒に新宿の飲み屋で酒を飲んでいて近くにすわっていた客と喧嘩になり・・・・という武勇談もあったらしい。 

 新聞の訃報でほんとうに久しぶりに岡山さんのことを思い出した。 ずっと住友ベークライトに勤務して専務にまでなられたのだから、やはり優秀な方だったのだと思う。 謹んで哀悼の意を表したい。

3月25日(日)    *東京交響楽団第70回新潟定期演奏会

 本日は午後5時から東京交響楽団新潟定期演奏会があった。 あいにくの天気の中、開演三十数分前に会場のりゅーとぴあの近くまでクルマで来たものの、りゅーとぴあや県民会館の駐車場は満車。 仕方なく民間の駐車場に留めた。 客の入りは、最近の新潟定期として普通かな。

  指揮=飯森範親、チェロ独奏=石坂団十郎、コンミス=大谷康子
  ソプラノ=吉原圭子、アルト=富岡明子、テノール=児玉和弘、バリトン=与那城敬
  にいがた東響コーラス(合唱指揮=高橋淳)

  バッハ: 管弦楽組曲第3番
  ハイドン: チェロ協奏曲第1番ハ長調
  (アンコール)
  バッハ: 無伴奏チェロ組曲第3番よりジーグ
  (休憩)
  モーツァルト: 戴冠ミサ曲ハ長調K.317
  (アンコール)
  モーツァルト: アヴェ・ヴェルム・コルプス

 とても充実した演奏会であった。
 最初のバッハは、少人数 (第一ヴァイオリン4、第二ヴァイオリン3・・・) での演奏だったが、あとで飯森さんが解説して下さったようにビブラートをほとんどかけないピリオド奏法が効果的で、また3つのトランペットの高音もよく出ていた。

 次の協奏曲との間が椅子や楽器の入れ替えのため少しあいたので、飯森さんが登場して前曲の解説、そして山本真希さん (後半にオルガン奏者として登場) のCD、およびご自身の新刊の宣伝をされていた。 OEKを率いる井上道義さんにも感じることであるが、最近は指揮者のあり方が少し変わってきていて、色々な機会に気軽に顔を出してトークや聴衆へのサービスを行う方向になってきているのかな、と思う。

 次が石坂団十郎を迎えてのハイドンのチェロ協奏曲第1番。 日独混血の青年チェリスト。
 このチェリストは6年前にサントリーホールでのN響定期で一度聴いているけれど、そのときはあまりいい印象を受けなかった。 エルガーの協奏曲を弾いたのだが、技巧はともかく、音色や音の通りがイマイチの感じだったのである。 もっともそのときは1階の前のほうの席だったので、今回のりゅーとぴあのGブロックではどうかな、という期待もあった。

 それでいうと、今回は前回よりは良かった。 まず、技巧的には鉄壁で言うことなし。 心配した音色のほうであるが、前回はチャルメラみたいな感じだったのだけれど、今回は少し籠るようなところはあったものの、まあ悪くはなかった。 ただ、音があんまり客席に向かっていかない、という印象は前回にもあって、それは今回にも多少は言えたことだと思う。 とはいえ、客席は大喝采で、アンコールにバッハを演奏してくれた。

 後半は合唱団と独唱4人を加えてモーツァルトの戴冠ミサ曲。 ソプラノの吉原さんとテノールの児玉氏がいずれも見事。 にいがた東響コーラスも健闘していた。 さらに、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスも演奏するという大サービス。

 今回は、当初は20分かそこらの曲が3曲だから時間的にはそんなにかからないかな、と思っていたのだが、午後5時開演で、終わってみれば午後7時を過ぎていた。 バッハ、ハイドン、モーツァルトという大家の曲でのプログラムだけれど、アンコールも含めて非常に満足度が高かった演奏会であった。 ぜひこの調子を2012年度の東響新潟定期も維持して行ってほしいものである。 

3月21日(水)    *書評掲載

 大木充+西山教行(編) 『マルチ言語宣言』(京都大学学術出版会) については、以前この欄でもお知らせしたし、簡単な感想は当サイトの 「読書月録2011年」 にも掲載したが、私が執筆した本格的な(?)書評が、『人環フォーラム』 誌の第30号に掲載された (48ページ)。

 『人環フォーラム』 は京都大学大学院人間・環境学研究科が年2回発行している雑誌である。 非売品なので一般の方の目に触れる機会はあまりないが、サイト上で読むことができる。

 本日現在ではまだ最新号はアップされていないようであるが、近く掲載されると思うので、興味のある方はご一読いただきたい。 (と書いた翌日にサイトに掲載された。)

 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/93000  

 

3月20日(火)    *栄長敬子ピアノリサイタル ピアノソナタからベートーヴェンを聴く(2)

 本日は午後2時から標記の演奏会にだいしホール出かけた。 あいにくの雪模様。

 定刻に3〜4分遅れて会場に到着したら、すでに演奏が始まっており、受付の中年男性は 「切れ目が来たら入れますから」 「切れ目は短いですからすぐに入って下さい」 と言うので、てっきり第1楽章が終わったら入れてくれるのかと思ったら、第1楽章が終わってもぼおっとしているだけ。 楽章の切れ目がよく分かってない人なんじゃないかと思ったが、しかし演奏では楽章の切れ目にあまり間をおかなかったので、第1曲が終わるまで待つのが正解だったのであろう。 私を入れて6〜7人がそういうわけで第1曲を聴きそびれた。

 いちおう、プログラムは全部書いておく。 右端のJ列で聴いた。

  オール・ベートーヴェン・プログラム

  ピアノソナタ第5番ハ短調op.10-1
  ピアノソナタ第14番嬰ハ短調op.27-2「月光」
  (休憩)
  ピアノソナタ第29番op.106変ロ長調「ハンマークラヴィーア」

 栄長さんのベートーヴェン・プロを聴くのはたしか二度目。 前回から数年たっている。 今回は初期の2曲と、後期の大作1曲。

 「月光」 から聴いたので、そこから感想を書いておくと、最初の2楽章はよかったが、第3楽章でちょっと危なっかしいところがあった。 が、全体としてのまとまりはよかったのではないか。

 「ハンマークラヴィーア」は、後半の最初のトークで栄長さん自身おっしゃっていたように、実演ではなかなか聴く機会がない。 私もたしか初めてである。

 演奏は、技術的に完璧とはいかないが、やはり全体としての形はしっかりできていたような気がする。 第3楽章も、なかなか心に訴えるところがあって聞かせてくれた。 ベートーヴェンの後期のピアノソナタ (だけではないが) は、どういう風に弾いたらいいのか、中期のソナタと違って形がもともとかっちり作られていないような趣きがあり、演奏家により解釈がかなり違ってきたりするところがあると思うが、栄長さんは自分なりに作品を捉えていたような気がした。

 ちょっと注文をつけるなら、楽章ごとの性格の違いをもっと強調したほうがいいのではないか。 第2楽章なんかはもう少し速さを出してもいいように思った。 それから音のダイナミックレンジ、つまり強弱の差をもっと出したほうが、とも。 私の記憶違いでなければ以前の栄長さんはもっとガンガン鳴らすような弾き方をもしていたような気がするが、今回はあまりそういう面が出ていなかった。 むろん景気よく鳴らせばいいというものでもないだろうが、「ハンマークラヴィーア」 の場合は、曲のスケール感はダイナミックレンジによって表現される部分もあると思うので、ピアノが壊れるのではと危惧するくらい強打する箇所があってもと考えた次第。 また、ヨーロッパ人のピアニストは割りにそういう弾き方をするし。

 客の入りは7〜8割くらいだったかな。 ベートーヴェン・プロの継続を期待したい。

 

3月18日(日)    *就職の際の保証人制度って

 次男が今度大学を卒業して某社に就職するのだが、保証人を書いて出さなくてはいけないと言って書類を持ってきた。 長男のときにも同じことがあって、そのときは保証人は1人だけだったので私が署名しておいたのだが、今回は保証人が2人必要だという。

 最初は私と妻が署名すればいいのかと思ったが、書類をよく見ると、保証人は2人とも世帯主でなければいけない、と書いてある。 ということは、1人は私でいいが、もう1人は妻ではいけない、ということだ。 書類に記されている 「例」 を見ると、父と叔父が保証人というふうになっている。

 私の場合は弟が首都圏にいるから、次男は書類の 「例」 に倣って父である私と叔父 (私の弟) を保証人にする予定だが、考えてみれば世の中には叔父も伯父もいない人だっているだろうし、そういう人はどうすればいいのだろう。

 この保証人という制度、昔は高校にもあった。 私が高校に入学したとき、つまりもう40年以上昔だが、保証人制度があり、親族ではいけないというような規定があって、父は会社の同僚に頼んで保証人になってもらった。 私は全然知らない人である。 私が無事に卒業したとき、父はその人に感謝の意味で何か (お歳暮に送るような品を) 贈ったようだ。 念のため言っておくけど、県立高校であり、私立高校ではない。

 むろん、今どきの高校はこういうことはやっていない――と思う。 少なくとも、私の子供たちが高校に入るときは保証人なんてものは求められなかったから。

 私が就職したとき、というのはこれも30年以上前で、東北大学の助手になったときということだが、やはり保証人なんてものはなかった。 ただし国立大学助手は公務員であるから、最初に誓約書を声を出して読み上げるよう求められた。

 民間企業も、保証人なんて制度はやめてくれないだろうか。 上記のように、保証人を探すのに苦労する人だっているだろうし、いかにも大時代的な制度だからだ。 大卒社員は成人のはずである。 すべからく自己責任でやるべし――そういう社員を採用した会社の自己責任という意味も含めて、である。

 昨日の岩波書店といい、日本はポストモダンどころか近代ですらなく、まだまだ前近代的なのだ。 

 

3月17日(土)    *岩波書店の縁故採用について――出版界はこの程度の業界であると知れ

 岩波書店の縁故採用が色々話題というか波紋を呼んでいるようだ。 先日の毎日新聞にも、岩波批判派と擁護派の二人が登場して見解を披露していた。

 私はというと、仮にも良心的で進歩的な出版社という建前を貫こうとするなら、当然縁故はありえないという立場なのだが、問題は、そもそもこれ以前から岩波書店は公正な採用をしていたのか、ということなのである。 

 いや、そもそも、出版という仕事自体がコネによって相当部分なりたっているものであり、無名の人間がいくらすぐれた本の原稿を書いたとしても、コネがなければ名のある出版社から本を出すことなどできない、というのが実態なので、そういう実態をこの際だからはっきりさせておいたほうがいいと思うのだ。

 むろん、出版社側にも色々言い分はあるだろう。 まず、出版業界というのはその影響力に比べて会社としての規模は小さい。 例えば新潮社なら、出版業界のことをよく知らない人は著名な出版社だし何千人と社員がいるんじゃないかと思うかもしれないが、実際は三百人台なのであり、つまりそこから考えれば、1年で何人くらいの社員を新規採用をするのかも分かるだろうものなのである。

 ところで何で新潮社の名を出したかというと、新潮社勤務の奥さんを持つ友人 (小中高時代の同級生) がいて、たまたま他の友人も含めて一緒に酒を飲んだとき、出版業界のことを良く知らない他の友人(理系)は、新潮社というと有名な出版社だから会社の建物も大規模で社員数も相当多いと誤解していたからである。 ちなみにその新潮社勤務の奥さんは東大卒、その亭主 (つまり私の友人) も東大卒 (理系で、最初は東芝勤務、その後系列の別会社に移った) である。 ここから、岩波書店の採用状況も何となく想像がつくんじゃないか。

 つまり、分かりやすく言うと、出版業界というのは、特に進歩的と称される会社の場合が多いと思うが、言っていることとやっていることが全然違うのである。 そしてそのことは、今回の問題について岩波書店側がもらした言葉からも分かるのだ。

 朝日新聞の報道によると岩波側は次のように発言している。

 http://www.asahi.com/job/special/OSK201203010123.html 

 小松代和夫総務部長は、「当社志望度が高く熱意のある学生をじっくり選考するため」 と話す。 1913年創業の岩波書店は、雑誌 「世界」 や岩波文庫で知られる出版社。 「フェア」 や 「リベラル」 を標榜してきただけに今回の件は波紋を呼んだ。 小松代部長によれば、採用は古くから著者らの紹介によるものが中心だったが、03年ごろからは公募。その結果、数人の枠に千人以上が殺到し、「岩波書店の本を一度も読んだことがない」 などの応募者も目立った。 11年からは紹介による採用に戻し、今年は昨年よりも応募者を増やすために、「紹介」 を応募資格に加えて公募としたという。

 「大学生ならゼミの先生に紹介してもらうなどすれば、当社の著者にたどり着ける。 『紹介状をもらう』 こと自体が1次選考だと考えてほしい。 紹介はあくまでも応募資格で、合否の判断基準ではない。紹介者による有利不利もない」 (小松代部長)

 まず、前半を読めば分かるように、岩波はもともと縁故採用だったのだ。 途中から進歩派の建前で平等主義でやろうとしたけどいまくいきませんでした、というだけのことなのである。 そしてこのやり方は、上で私が述べたように、そもそも出版をするときもコネがなければ不可能、という日本の出版業界の体質に深く根ざしている、と言っていい。

 もっとも、岩波の本を全然読んだこともないのに応募してくる、というグチは分からないでもない。 だけど、それをクリアしたいなら、応募の条件に 「小社の本を最低5冊読んで、それについての所見を添えること」 とでもすればいいだけの話である。 5冊でまだ応募者が多いというなら、10冊でも20冊でも、お好きなようにどうぞ! だけど、そういうまともな方法は、多分岩波書店の人間の頭には浮かばないんだろうな。 (今どきだから、それでいくとネット上の書評のコピーで済ませる奴が、という大学教員が抱えているのと同じ悩みを想定したのかもしれないけれど。)

 後半の 「大学生ならゼミの先生に紹介してもらうなどすれば」 のところは、実のところ読んで笑ってしまう大学教師も多いのではないか。 大学教師といっても、岩波書店から本を出したことのある人はごく少数だし (ワタシだって出していない)、岩波書店から本を出した人にゼミ生の紹介状を書いてもらうほど親しい関係を持つ人だって少数派だろうからだ。 この発言は、要するに、「岩波書店の採用に応募できるのは、東大など一流大学で一流の先生に学んだ人だけですよ」 と言っているに等しいのである。

 要するに、日本の名のある出版社ってこの程度なのだ、と知っておくこと。 そしてコネで動いている東京の出版業界に対抗するには、地方の大学も出版会を持つこと、そして持続的な出版活動によってコネを土台としている中央の出版業界の姿勢そのものを破壊していくこと、しかないのである。

 だから私はしばらく前から、新潟大学に出版会を作る運動をやっているのだが、何しろ新潟大学の上層部は無能だから、さっぱりなのである。 そうこうしているうちに、山形大学や富山大学、弘前大学などに先を越されてしまった。 何とかしなきゃね。 

 

3月14日(水)    *最近聴いたCD

 *ロシア・オルガン音楽集 (Lammas、LAMM 101D、EU盤)

 ロシアのオルガン音楽を集めたCDである。 収録されている作曲家は9人におよび、時代的にも19世紀から現代作曲家のシュニトケまで多様である。 最初に収録されているのが、グリンカ (1804〜57) の 「3つのフーガ」 で、解説書によると彼がロシア・オルガン音楽の創始者なのだそうである。 この作品の第2曲イ短調は心に沁みる佳品といえる。 このほか、オドイェフスキー (1804〜69)、ホミリウス (1840〜1918?)、グラズノフ (1865〜1936)、グンスト (1877〜1938)、ニコラーエフ (1878〜1948)、ゲーディケ (1877〜1957)、ニレンブルク (1938〜1993) の作品が収められている。 バッハに学んだと思われるグリンカから、古典主義的な曲、ロマン主義的な曲、そしてシュニトケのいかにも現代風な曲まで、ロシア・オルガン音楽の変遷をたどることできる貴重なディスクだ。 もっとも、時代があとでもバロック的な曲想の曲もある。 演奏しているのはモスクワ生まれのアレクサンダー・フィザイスキー。 ドイツはハンブルク・オッテンゼンの十字架教会のオルガンにて録音。 発売元は英国の会社で、解説も英語のみで付いている。 昨秋、上京したときに渋谷のタワーレコードにて購入。

Russian Organ Music

 

3月11日(日)    *シン・ヒョンス ヴァイオリン・リサイタル

 本日は午後2時30分から標記の音楽会に出かけた。 会場はだいしホール。

 客の入りが心配されたが、コンチェルトさんのご努力が実ったのか、或いは本掲示板での宣伝も効いたのか、9割以上の入りでまずは一安心。 私は右側のJ列に席をとる。

  ヴァイオリン=シン・ヒョンス、ピアノ=佐藤卓史

  ベートーヴェン: ヴァイオリンソナタ第5番 「春」
  サン=サーンス: 序奏とロンド・カプリチオーソ
  (休憩)
  ミルシテイン: パガニニアーナ(無伴奏曲)
  ブラームス: ヴァイオリンソナタ第3番
  (アンコール)
  曲名不明(無伴奏曲)
  クライスラー: 愛の悲しみ
  マスネ: タイスの瞑想曲

 シン・ヒョンスは前半は黒の、後半は赤のドレスで登場。 こういうふうに前半と後半で服を変えるのは、最近は日本の女性演奏家もやるけれど、私的には約10年前、韓国系アメリカ人ヴァイオリニストであるサラ・チャンがりゅーとぴあでリサイタルを開いたときに初めて体験した。 舞台上は、舞台全体を明るくするのではなく、演奏者のところだけに照明を当てていた。 その分、ちょっと日ごろの演奏会とは違う雰囲気。

 シン・ヒョンスの音であるが、形容が難しいのだけれど、ややメタリックでしかしバーナーでいぶしたような感じ、と言ったらいいんだろうか。 使用楽器はガダニーニだそうだが、楽器の個性なのか、彼女の個性なのか、或いは会場のせいもあるのか、その辺はよく分からず。

 演奏は、音の個性のせいもあるが、表現全体が激情や緊張感を表に出すことに主眼を置いているように思われた。 それで行くと、やはりプログラム後半の2曲が彼女に合った選曲ということになるだろう。 決して激情一本槍ではなく、緩急はそれなりにつけているが、音色のせいか緩であってもどこか緊張感が含まれていて、それで全体が統一されているような趣きがある。

 弓の糸が何度か切れて垂れ下がり、その都度合間合間に手で取っていたけれど、1回のリサイタルで1、2度ならともかく、あんなに何度も垂れるのは珍しい。 弓を強く押し付けているのか、動かし方が速いからなのか、あるいはボウイングの癖か何かのせいなのか。

 とはいえ、アンコールのクライスラーとマスネでは、ゆったりした叙情も見事に表現してくれた。 紙切れを見ながらではあるが、ちょうど1年前の東日本大震災へのお見舞いも述べてくれた。 次回はもう少し大き目の (音楽文化会館くらいの) 会場で聴いてみたいと思った。 

3月10日(土)    *2011年度りゅーとぴあオルガン講座修了演奏会

 本日は午後2時から標記の演奏会に出かけた。 会場はりゅーとぴあ・コンサートホール。

 プログラムは前半が以前にオルガン講座を修了した方々による賛助出演、後半が今回の修了生による演奏である。

 渡辺直子 フランク:コラール第3番イ短調
 横山祥子 ブラームス:11のコラール前奏曲op.122より
       第4番「わが心の切なる喜び」
       第8番「一輪の薔薇咲きて」
       第9番「わが心の切なる願い」
 中内泉  フランク:コラール第2番ロ短調
 加藤由香 バッハ:前奏曲とフーガイ短調BWV543
 番場純子 フランク:コラール第1番ホ長調
 (休憩)
 *ジュニアコース
  西脇彩  バッハ:パストラーレヘ長調BWV590より第2楽章
  野口葵  バッハ:トッカータとフーガ ニ短調BWV565
 *一般コース
  山際規子 バッハ:オルガン小曲集より「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」BWV622
 *応用コース
  羽貝一穂 パッヘルベル:アリア・セバルディーナ
         バッハ:アッラ・プレーヴェ BWV589
  山田美由幸 バッハ:オルガン小曲集より「高き天より我は来たり」BWV606
          バッハ:キルンベルガー・コラールより「高き天より我は来たり」BWV701
          バッハ:前奏曲とフーガ ホ短調BWV533

 前半はフランクのコラールが3曲取り上げられた。 たぶん偶然ではなく、そういうプログラムにしたのだろうと思う。

 後半はほぼバッハのみのプログラムだが、その中で羽貝さんがパッヘルベルを弾いていたのが目に付いた。 パッヘルベルがすぐれたオルガン音楽作曲家であることはもっと知られてもいいと私は考えているので、拍手をしたくなった。 むろん、バッハの演奏も各人それぞれ立派なものであった。

 オルガン講座修了生の演奏というと、何となくよくあるピアノ教室発表会と同じようなものと思われる方もいるだろうが、こちらはある程度鍵盤楽器が弾ける人を対象とした講座であるし、レベルがはるかに高いことを知っていただきたい。 どの演奏も音楽としてちゃんと成り立っていて、聴いていて満足できるのである。 途中休憩を入れて2時間にもなる、一人前の立派な演奏会なのだ。 しかも無料! なのに聴衆が百人に満たないのは、本当に残念。 土曜日の午後でもあるし、次回はぜひ沢山の方に来ていただきたいものである。 

3月8日(木)   *東大の美人助教・大木聖子先生の教え――地震は予知できない

 本日の産経新聞を読んでいたら、最新の地震学について3人の学者が語っているページに、宝塚の舞台に立ったら人気が出そうな美人の写真が載っているのが目に付いた。 東大の地震研究所の助教 (昔で言う助手) である大木聖子 (おおき・さとこ) 先生である。

 その大木先生のご説明によると、専門家が地震予知はできないと言うと素人から叱られることが多いのだそうだ。 予知できないというのは、確率論的にしか言えないということだ。 つまり、関東地方にいついつまでにマグニチュード○○の地震が起こる確率は××パーセント、というふうにしか言えない。 これはつまり、「何年何月何日何時何分にかくかくしかじかの規模の地震が起こります」 というのとは全然違う。 予知と確率論は別だからだ。

 1枚の葉っぱを100回落としても落ち方はその都度違うように、地震の発生も地下の複雑な要素が微妙にからんでいるので余地は困難なのだ、という比喩を用いた説明は分かりやすくて説得的であった。

 なお、大木先生の写真と当該記事はネット上でも見られます (↓)。

 http://sankei.jp.msn.com/science/news/120308/scn12030822590004-n1.htm  

       *復興国債は買いませんから、復興は増税でやんなさい

 地震といえば、本日、業界3位のN証券から電話がかかってきて 「復興国債のお話を聞いてもらえますか?」 というので、即座に電話を切った。 数日前には、業界1位のN証券からダイレクトメールが来て、やはり復興国債を買わないかというチラシが入っていたが、即座にゴミ箱行きとなった。

 私は今まで、日本の国債を買ったことがない。 理由は単純で、こんな大赤字の国の国債なんか買う気がしないからである。 専門家は大丈夫だと言うけれど、単純に常識で考えて見なさい。 1年の財政規模の何倍もの赤字を抱えている国の国債が信用できますかいな。 経済オンチとバカにされても結構。 だいたい、専門家なるものが信用できないことは1年前の原発事故で明らかになったばっかりでしょ。 経済学者の言うことだって、竹中某を初めとして当たったためしがないんだから、日本の国債だってごくごく単純に考えて大丈夫なんて言えるわけがないのである。 ましてこんなに国家財政が大赤字で巨額の国債を出しているのに、大地震が起こったからまたぞろ国債で、って発想が私には理解できないのだ。

 もちろん、大震災からの復興にはお金がかなりかかるだろう。 それは、国民が全員で負担するしかない。 つまり、増税である。

 国家公務員の給与の7,8パーセント削減が決まったようだ。 新潟大学も国家公務員準拠だから、同じパーセンテージ給与が下がるだろう。 だから、私も来年度は年間で数十万円給与が下がるはずである。 つまり、1年に数十万円を復興のために寄付するのと同じである。

 だったら、民間企業でも高給取りのサラリーマンには同じような負担をさせてもらいたいものだ。 消費税も上げざるを得ないだろう。 こういう当たり前の政治がさっぱりできないから、日本の政治家はダメだって言うんだよ。 ほれ、さっさとやんなさい!

3月3日(土)   *ユベール・スダーンによるモーツァルト・マチネ第8回

 午前11時から、標記の演奏会に出かけた。 スダーンと東響によるモーツァルト・マチネは一度聴いてみたいと思っていたので、ようやくといったところ。

 会場は初めて行くところで、NEC玉川ルネサンスホール。 川崎ミューザが例の事故で使えないための代替会場。 JR横須賀線の武蔵小杉駅で降りて徒歩5分ほど。 音楽専用ホールではなく、定員は800人くらいか。 客の入りは半分程度。 私は左側の半ばより後ろ寄りに席をとった。 入場料は3500円のところ、東響後援会員証を見せたら1割引の3150円に。

 指揮=ユベール・スダーン、演奏=東京交響楽団
 ヴァイオリン独奏=高木和弘、ヴィオラ独奏=青木篤子、バリトン=甲斐栄次郎、コンマス=グレブ・ニキティン

 ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364
 「フィガロの結婚」 より ”もう飛ぶまいぞこの蝶々”
 「ドン・ジョヴァンニ」 より ”セレナーデ”
 「フィガロの結婚」 より ”訴訟に勝っただと”
 交響曲第35番 「ハフナー」 K.385

 オケの編成は、数え間違いがなければ、1.Vn10、2.Vn8、Vc6、Vla6、Cb4 (Vcの後ろ)。

 会場の響きは、コンサート専用ホールのようにリッチというわけにはいかないが、そんなに悪くもない。 見方を変えれば、楽器のナマの音が楽しめるとも言えるだろう。 特に最初の協奏交響曲では、高木氏と青木さんという二人の独奏者の生の音色が楽しめた。 高木氏はふだんは東響のコンマスとしてのお姿を見ているだけで独奏者としての顔は見られないわけだが、ここではモーツァルト的な優雅さというよりは独奏者としての自己表現のほうが少し勝っているのかな、という気がした。 対する青木さんも高木氏に負けない表現力で、第一曲は総じて聴き応え十分であった。

 次に登場したバリトンの甲斐氏も魅力的な声を披露。 会場は大いに湧いた。
 そして最後のシメであるハフナー交響曲も良かった。
 アンコールがなかったのがちょっと残念だったが、途中休憩なしで約1時間半充実した時間を過ごすことができた。

 終演後、ロビーで久しぶりにぶりちょふさんとお会いすることができた。 お元気そうで何より。 同伴された息子さんは今度中1だそうだが、バッハとモーツァルトが好きとのこと。 将来有望そう。

3月2日(金)    *フェルメールからのラブレター展

 本日は午前と午後に映画を見てから、東急文化村のミュージアムで開催されている標記の美術展を見に行った。 東急文化村が改修されてからミュージアムに行ったのは初めてだが、以前とコインロッカーの位置が変わり、数も増えて便利になった。

 フェルメールの絵画3点と、同時代のオランダ絵画が数十点。 統一テーマとして「コミュニケーション」が掲げられており、手紙を初めとする当時のコミュニケーションを表す絵画を集めたということになっているが、まあこの辺はゆるめに考えておいたほうがよさそう。

 フェルメールの作品としては、「手紙を読む青衣の女」、「手紙を書く女」、そして「手紙を書く女と召使い」が来ている。 特に最初の「青衣の女」は、最近改修が済んだばかりで、青い衣服の色彩が鮮やかになっているというふれこみである。

 私は、フェルメールもさることながら、ピーテル・デ・ホーホの「中庭にいる女と子供」が気に入ったので、これだけ絵葉書を買いました。

 なお、この美術展は東急文化村では今月の14日までである。 美術展の詳細については、下記サイトで。

 http://vermeer-message.com/ 

       *ボロディン弦楽四重奏団演奏会

 美術展を鑑賞したあと、夜7時開演の標記演奏会に出かける。 会場の杉並公会堂は初めてだったが、中央線荻窪駅から徒歩7、8分の場所にある。

 その大ホールは典型的なシューボックス型。 ただし大ホールといっても収容人員は1200名くらいで、やや小ぶりである。 舞台背後の座席が3列分、2階脇席は1列分、2階の後ろの座席は7列分。今回は室内楽なので、それらを除いた平土間 (正面1階) のみに客を入れていた。 客の入りは、平土間内だけの勘定で8割くらいだったろうか。 私は12列目のほぼ中央の席。 4000円。

 ボロディン四重奏団は、以前新潟市の音文で聴いたことがある。 もう20年あまり前だったかと思うが、素晴らしい演奏会だった。 私がこれまで生で聴いた弦楽四重奏団の演奏として、ウィーン・ムジークフェライン四重奏団 (ライナー・キュッヒルが第1ヴァイオリン) と並んで最高だったと言える。 ですから今回も楽しみにしていた。

 ただし、メンバーは当時とは完全に入れ替わっている。 パンフによると、この四重奏団は1945年に結成されまたが、創設メンバーだったチェロのベルリンスキーが2007年に引退 (現在のチェロはバルシン)。 また、現在の第1ヴァイオリンであるアハロニアンとヴィオラのナイディンは1996年から、第2ヴァイオリンのロモフスキーは2011年から加わっているそうである。 つまり、約20年前に新潟で聴いたときのメンバーは一人も残っていないわけだ。 ちなみに、当時の第1ヴァイオリンだった方は、その後一時期東京カルテットの第1ヴァイオリンを務めており、その演奏も私は新潟で聴いたことがある。

 閑話休題。プログラムは下記のとおり。
 
 チャイコフスキー: 弦楽四重奏曲第一番op.11
 ストラヴィンスキー: コンチェルティーノ
 (休憩)
 ボロディン: 弦楽四重奏曲第二番
 (アンコール)
 ボロディン: スペイン風セレナード
 ショスタコーヴィチ: 弦楽四重奏のためのエレジー

 演奏は、期待を裏切らない素晴らしいものであった。 このカルテットの特徴は、よい意味で肩の力が抜けていること。 変な力みがなく、さらりとした洗練さがあり、といってノンシャランスというほどに崩したり気取ったりしているわけではなく、実に程がいいのである。 無論、技巧的にはまったく問題なし。間違いなく、世界的に見て最高のカルテットの一つだと思う。 20年前に聴いたときも、同時期に新潟に来演したアルバン・ベルク・カルテットより洗練と結束で勝っていると思った (アルバン・ベルク・カルテットは、カルテットと言うより、ソリスト4人という感じだった)。

 曲としては、やはりボロディンの二番がいいなと思った。 チャイコフスキーの一番は第二楽章のアンダンテ・カンタービレが有名だが、それ以外の楽章はイマイチ。 それに対してボロディンの曲は、有名な第三楽章のノクターン以外もそれなりによくできている。 また、アンコールのショスタコーヴィチの曲もなかなか心に沁みる名品であった。

 ホールの音響も良好。 聴衆からはブラボーの声が上がり、満足感でいっぱいになって会場を後にした。

2月29日(水)    聖トーマス教会合唱団創立800周年記念 バッハ「マタイ受難曲」演奏会 

 サントリーホールで午後6時30分から標記の演奏会を聴く。

 指揮=ゲオルク・クリストフ・ビラー
 ライプツィヒ・ヴァントハウス管弦楽団、聖トーマス教会合唱団
 ソプラノ=ウーテ・ゼルビッヒ(アリア、ピラトの妻)
 男性アルト=シュテファン・カーレ(アリア)
 テノール=マルティン・ペッツォルト(福音史家、アリア)
 バス・バリトン=マティアス・ヴァイヒェルト(イエス)
 バス・バリトン=ゴットホルト・シュヴァルツ(アリア、ピラト)
 (これ以外の役〔ペトロ、ユダなど〕は合唱団員が担当)

 西洋クラシック音楽の最高峰とされる作品だが、生で聴く機会は多くない。 私が前回生で聴いたのは、たしか先ごろ亡くなられた新潟大名誉教授の久住和麿先生が指揮をして新潟県民会館で開催された演奏会で、もう十年以上前だったかと記憶する。

 外来演奏家の演奏では、ヘルムート・リリングが1985年にバッハ生誕300年記念でシュトゥットガルト・バッハ・コレギウムとともに来日した際、マタイを横浜で、ロ短調ミサを上野で聴いたのが初めてで、今回がようやく二度目。

 聖トーマス教会は、この大曲が1727年に初演されたところでもある。 その意味で、今回の来日公演は興味深い催しと言えよう。

 会場のサントリーホールは8割くらいの入りか。 私は1階838番、というのは右端から2番目の席だけど、これでもSランクで15000円。 しかしベルリン・フィルやウィーン・フィルの来日公演なら最高席が4万円もするご時勢であることを考えれば、安いとも言えるかな。

 聖トーマス教会合唱団は少年合唱団である。 高いほうの声 (ソプラノ、アルト) を担当するのは、変声期前の小さな男の子たち。 セーラー服を着ている。 ただし日本の女の子のセーラー服と違って、背中には布が垂れていない。 低いほうの声を担当する少年たちは高校生くらいか。 こちらは背広姿で、ちょっと大人っぽい印象。 高い声と低い声で制服を分けているのが面白い。

 さて、演奏であるが、最近の傾向に逆らうことなく、比較的速めのテンポで進み、ロマンティックに感情移入したりすることはしない。 私も多くの日本人同様、この曲はカール・リヒターが1950年代末に録音したディスクで聴いてきたが、そこからするとちょっとさらりとしすぎていて物足りない感じもしないではない。

 しかし唯一例外となるのが福音史家で、この曲が彼の語りの曲なのだと改めて感じさせられた。福音史家役のマルティン・ペッツォルトは、テノールには珍しく(?)でっぷりとした大柄な体格だったが、美しい張りのある声で受難の物語を劇的に歌い上げていた。 おそらくずいぶんこの曲のこの役で経験を積んでいるのであろう。 ただ、最初の予定ではテノールのアリアは別の歌手が担当するはずだったのだが、この日はその歌手が体調不良ということで、テノールのアリアもペッツォルトが歌っており、こちらはやや硬い調子の歌で、アリアのほうは普段は歌いつけていないのかな、と思った。 しかし、ともかく福音史家の語るような歌が、いわば屋台骨のようにこの曲を支え、聴衆の心にも強く曲の内実を訴えかけているのだと心底分かるような歌いぶりで、感銘を覚えた。

 25年以上前、ヘルムート・リリングの指揮でこの曲を聴いたときには、一人のテノールが福音史家とアリアと両方歌っていたのであるが、途中で二度ほど声がひっくりかえっていた。 何しろ福音史家は歌いずめだし、それに加えてアリアまで歌うとなると相当にきついわけであろう。 ディスクで聴いているとそういうことに気づかないのだけれど、生で聴くと、この曲は福音史家にはかなりの重労働なんだなと分かってくる。 今回、本来なら福音史家とアリアは二人で分けて受け持つはずが、一人でやるというのでどうかなと案じていたのだが、体格がものを言ってか(?)、その点では難はなかった。 でも、同じ曲での演奏会が前日にオペラシティ・ホールであったはずだし、この日の翌日にもサントリーホールでまたあるので、歌手、特に出番の多いテノールには大変だろうなと思った。

 テノール以外では、男性アルトのシュテファン・カーレが美しい歌声で聴衆を魅了していた。 まだ二十歳で、少年の面影を残したほっそりとした体つき。 以前は聖トーマス教会合唱団に所属しており、その頃からソロでもよく歌っていた逸材のようである。

 ソプラノのウーテ・ゼルビッヒも声がきれいだった。 彼ら高音の歌手に比べると、バス・バリトンの二人はやや劣る印象か。

 パンフレット (\1000) にはバッハ研究家として有名な樋口隆一氏が歌詞対訳をつけていまたが、私が知っている訳とは少し異なるところがあった。 おそらく最新の研究成果によっているのであろうから、私にとやかく言う資格はないが、成立して300年近くたつ曲でも、こうして日々解釈などについて様々な検討がなされているのであろう。 テンポを初めとする演奏形式だけが変わってきているのではないのだ。

 演奏が終わって拍手が続き、その後舞台上から団員が姿を消していくとき、合唱団の少年たちは人懐っこく手を振っていた。 聴衆もそれに応えて手を振った。 私も手を振って会場を後にした。

2月25日(土)    *山本真希オルガンリサイタル No.13 J・S・バッハとスペイン音楽

 午後5時から標記のオルガンリサイタルに出かけた。

 りゅーとぴあの本格的なオルガンリサイタルはいつも入りが悪くて200人程度だが、この日は少し多めに入っていたよう。 250〜300人くらいいたのではないか。 ただし、そのせいかどうか拍手が曲ごとにあり、ちょっと興をそがれた。 例えば前半なら、同じ作曲家の作品が2曲続くときは、途中拍手はせずに、その作曲家の作品が終わってから拍手するくらいにして欲しいもの。

 私は3階正面のIブロック左寄りに席をとった。


 セバスチャン・アギュイレーラ・デ・エレディア(1565-1627):
  エンサラーダ
  第4旋法による過ったティエント
 フランシスコ・コレア・デ・アラウホ(1575?-1654):
  第2旋法による高音部のティエント 第59番
 パブロ・ブルーナ(1611-1679):
  第6旋法によるティエント”ウト・レ・ミ・ファ・ソル・ラ”
  第1旋法による高音部のティエント
 作曲者不詳:
  有名なバターリャ
 (休憩)
 ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750):
  ”目覚めよと呼ぶ声がして”BWV645
  ”ただ愛する神の摂理にまかす者”BWV647
  前奏曲とフーガ ト長調BWV541
 ヨハン・セバスティアン・バッハ/馬場法子(1972-):
  クリスマスの歌”高き天より我は来たり”によるカノン風変奏曲BWV769と4つの間奏曲
   バッハ: 第1変奏 ソプラノとバスのオクターヴのカノン
   馬場: 間奏曲T ノック・アンド・リング
   バッハ: 第2変奏 ソプラノとアルトの5度のカノン
   馬場: 間奏曲U 上へ上へ
   バッハ: 第3変奏 バスとテノールの7度のカノン
   馬場: 間奏曲V バロッコ
   バッハ: 第4変奏 ソプラノと拡大形のバスのオクターヴのカノン
   馬場: 間奏曲W テルツ
   バッハ: 第5変奏 6度、3度、2度、9度の回転カノン
 (アンコール)
 バッハ:
  ”我ら悩みの極みにありて”BWV641(「オルガン小曲集」より)

 スペインとバッハのオルガン曲、という選曲は、山本さんがりゅーとぴあで展開してきたオルガン音楽の核のような気がする。 特にスペインのオルガン音楽はまだまだ日本人には馴染みが薄く、またディスクも少ないのであるが、聴いていて充実感があった。 アラウホとブルーナの作品が特に良かった。

 後半の後半、つまりバッハと馬場法子のコラボ(?)だが、馬場法子の曲はいわゆる一つの現代音楽という奴で、うーん・・・・なのである。 特に最初の間奏曲Tは、現在私の勤務先の図書館では拡張工事をしており、館内に入るとドリルの音がうるさいのだけれど、あれとそっくりだなと思った(笑)。

 オルガン音楽にも現代曲があることは承知しているが、率直に言って、もう少し何とかならないものだろうか。 工事現場で聴くドリル音と同じようなものがお金を払って聴くに値するのかどうか。

 それはさておき、次回の予定(プログラムの内容)がプログラムに記載されていなかったのは残念。 いずれにせよ、次回も楽しみにして聴きにいきたいと思う。

2月22日(水)    *最近聴いたCD

 *アウグスト・フレイエル: オルガン作品集第2巻 (Acte Prealable、AP0054、2003年録音、2005年発売)

 第1巻と第3巻はすでにこの欄で紹介済みだが、第2巻が長らく入手できず、今回ようやく手に入ったのでここに紹介する。 フレイエル(1803〜1883)はポーランドを代表するオルガニストでありまた作曲家であった。 ここには、12の前奏曲op.7、6つの前奏曲と2つの後奏曲op.8、8つの前奏曲op.9、そして8つの前奏曲op.11が収められている。 いずれの曲も神聖さをたたえつつも、バッハのように超越性や厳しさを感じさせるのではなく、民衆的な素朴さや親しみやすさを持っているところが特徴で、この作曲家はパッヘルベルと並んで、オルガン音楽の作曲ということでは大バッハに遜色ない存在と言えるのではないだろうか。 オルガン演奏はWiktor Lyjak、Wloclawek Cathedralのアンティク・オルガンによる (左のアルファベットのうち、Cathedralを除く3箇所のlにはいずれも斜線が入っている)。 解説はポーランド語、英語、フランス語、ドイツ語。 このCDを入手するにあたっては新潟市のCDショップコンチェルトさん (いちおう昨年限りで閉店のはずだったけれど、今年3月までは営業しているそうです) にお世話になりました。 ありがとうございました。

August Freyer: Organ Works Vol

 

2月18日(土)    *大形卓球大会、そして卓球マンたちによる政治談義

 本日は新潟市の北地区体育館で、年2回開かれる大形卓球大会。 M氏のクルマに同乗させてもらって会場に向かうが、新潟市はこのところ大雪で、この日の朝も出るときはそうでもなかったのだが、新新バイパスを東進していく途中から猛吹雪、いわゆる地吹雪になった。 

 それでもどうにか会場に到達する。 いつも参加者が200名を越える大会だが、さすがにこの日はキャンセルが出て、珍しく200名を切る人数となった。 いつものように、午前中と午後でパートナーを変えて、男女のペアによるダブルスのリーグ戦。

 私は午前中は、組んだ相手が良かったので、5戦全勝で、リーグ6ペア中堂々の第1位でした!  午後は、時間が足りなくて1試合を残したが、2勝3敗で7ペア中4位。 まあ、黄金の中庸ですかね。 といっても私はBレベルですから、下手なほうの集団ですけど。

 それにしても、最初に全員で準備体操をするのだが、これをやると確実に老いていることを痛感する。 屈伸運動をやると体が硬くなっているし、上半身を大きく回すと足元がふらついてしまう。  

 試合終了後、いったん自宅に帰って風呂に入った後、午後7時から寺尾のHという店に卓球マンが8人集合して飲み会を行う。 野郎ばかりなので、話は硬い方向に、つまり政治の方向に向かう。

 新潟市の交通政策をめぐっては色々議論があるわけだが、先日、市は2連バスを導入するという発表を行った。 新潟市は道路の幅がたいしてないのに2連バスなんか導入したって効果が出るわけがない、そもそも、新潟駅と白山駅だけを結ぶ路線なんてたいして利用客もないはずだ。 というのが私の意見なのであるが、意外にも他の卓球マンたちも類似した考えを抱いているらしかった。  

 もっとも、私は新潟市の基幹交通はモノレールにせよという見解なのだが、この点については参加者ごとに諸説あるようである。

 この中から市会議員に立候補者を出したら、という話まで出てきたが、まあこれは実現可能性はあまりなさそう。 しかし、卓球マンたちの政治的見解がはしなくも現れた飲み会となったのであった。 

2月17日(金)    *ネットスケープともお別れ

 Eメールが広く使われるようになったのは1990年代のことだが、その頃から私はEメールソフトとしてネットスケープを用いていた。 閲覧用ソフトにもである。

 ネットスケープは最終的にVer.7.1まで行ったが、その後他メーカーのソフトに占有率で勝てず、結局製造中止となった。 それでも私はEメールにはネットスケープを使い続けてきた。 さすがに閲覧用ソフトとしては開けないサイトが増えてきたので、こちらはインターネット・エクスプローラーに切り替えたけれど。

 しかし、昨日大学のサーバーの更新があり、これによって古いメール・ソフトは使い続けることができなくなった。 やむを得ず、サンダーバードに切り替えた。 と言っても、パソコン音痴の私には自分でできるはずもなく、生協職員の方に頼んでやってもらったのであるが。

 ここからも分かるように、私はだいたい使えるものは古くなっても使い続ける人間である。 クルマだって新車で買って14年間乗り続けているし。 最新のものが欲しい、という欲望が私にはないらしい。 そう言えば女房だって28年間・・・・(以下、略)

 (後記) 翌日、卓球の試合の後に卓球愛好者で飲み会をやったら、同じ人文学部の某先生 (やはり卓球マンである) から、Eメールソフトのことを訊かれた。 某先生も、ネットスケープではないが、古いソフトを使ってこられて、やはり今回のサーバー更新でアウトになった口らしい。 同じような人は案外多いのかもしれない。 世の中、新しもの好きばかりではないのだ。

2月15日(水)    *教育学部生に問題あり

 私が毎学期開講している教養科目の西洋文学については、この欄で新学期ごとに学部ごとの受け入れ人数や、くじ引きで仮当選しても 「聴講意志確認」 をせずに終わる――つまりやる気がないくせに登録だけしようとしている――学生数を報告しているが、今回、例外的に学期末のデータについても報告しておこう。 本日、成績付けが終わったところで、教育学部生のタチの悪さが明らかになったからである。

 この講義は定員150名で出欠はとっておらず、レポート2回で成績を決める。 レポートは2回とも出さないと途中放棄と見なされる。 そこで最終的に評点をもらった――つまりレポートを2回とも出した――学生の数を学部ごとに以下に記すと――

      A   B   C       A=登録者数、 B=評点を得た者の数、 C=評点を得られなかった者の数

 人文  27  23  4

 教育  9   4   5

 法   5   4   1

 経済  20  20  0

 理   27  23   4

 医    5   4   1

 工   51  44   7

 農    6   5   1

 

 ごらんのように、教育学部生は他学部に比較して圧倒的に評点を得た者のパーセンテージが少ない。 しかもである。 教育学部生で評点を得た4人の中には0点が一人入っている。 これは、レポートの対象にならない文学作品でレポートを書いてきたために0点となったもので、おそらく学期初めに配布されたレポート要件を記したプリントも受け取っていなかったと推測される。 したがって、それをCに含めれば、教育学部生は実に9人中3人しかこの講義を本当に取ろうとする意志を持っていなかったということになる。

 教育学部生については、1年ほど前にも、或る課程 (=学科) の学生が何人もこの講義を取りながら一人も評点を得るところまでいかなかったので、担当の先生にメールを出して、ガイダンスの際にでも学生に注意して下さいとお願いした。 しかし今回、教育学部全体としてこの手の問題があることが明らかになったと思う。

 そんなことに目くじら立てなくても、とおっしゃる向きもあろうが、この講義をどうしても取りたいのに抽選に落ちてしまう学生だっているのである。 取る意志がないくせに登録だけしておくという学生は、もしかしたら、この講義を取らないと卒業や進級にさしつかえるという学生の当選を妨げているかも知れない、つまり、他の学生を留年に追い込んでいるかも知れないのである。

 取る意志がないくせに登録だけしておくという行為は、このように他の学生に多大な迷惑を及ぼすものである以上、座視するわけにはいかないのだ。

2月13日(月)    *映画配給の差別性――『J・エドガー』 を例に

 映画の配給には、ふつうの映画ファンから見てよく分からない部分がある。 東北地方の各県には来るのに新潟市にはなぜか来ない映画が多い、というのもその一つだが、配給が地域によりすっぱり分けられているということが露骨に分かる場合もある。

 今現在、首都圏などで公開されて相応の評判を呼んでいる 『J・エドガー』 などは、その好例であろう。

 ブルーノ・ディカプリオ主演、クリント・イーストウッドが監督のハリウッド映画となれば、ふつうに考えるなら日本全国一斉公開でもおかしくないはずだ。 ところがこの映画、新潟市には今のところ来ていないし、日本全国で見てもかなり上映地域に偏りがある。

 つまり、首都圏、名古屋圏、関西圏という三大都市圏、そして札幌市周辺と福岡市周辺、そしてなぜか沖縄の1館で上映されており、それ以外の地域ではまったく上映されていないのである。 (沖縄でやってるのは、アメリカ兵がたくさん見に来るから??)

 首都圏で上映されて地方都市で上映されないといっても、いわゆるミニシアター系の映画とは違う。 ミニシアター系の映画なら、首都圏でも1館か2館でしかやらないから、フィルム・プリント数も少ないわけだし、地方都市に来なかったり、来ても遅れたりというのは分からないでもない。

 しかし、『J・エドガー』 はそうではない。 首都圏で言うなら、東京都で24館、神奈川県で17館、千葉県で11館、埼玉県で13館、茨城県で2館、栃木県で3館、群馬県で4館・・・・・これだけの映画館で上映されているのである。 (山梨県はゼロである。)

 これに対して、仙台市や広島市、そしてわが新潟市といった都市圏は無視されている。 静岡市と浜松市という政令指定都市2つを抱える静岡県も無視されているし、岡山市や熊本市も無視されている。 これくらい配給の差別性が明白な映画も珍しい。

 首都圏で70もの映画館で上映するくらいなら、せめてそのうちフィルム数本を他の政令指定都市に回せばいいじゃないか、と私は思うのだが、映画配給会社の論理ではそうはならないらしい。 どうにも不可解である。

2月11日(土)    *最近聴いたCD

 *ヨハン・プレトリウス: オルガン作品集 (cpo、777 344-2、2007年録音、2009年発売、ドイツ盤)

 ヨハン・プレトイウス (1595〜1660) のオルガン作品選集である。 「汝にのみ、主イエス・キリストよ」、「我々を神の怒りから守って下さる救い主、イエス・キリスト」、「おお、父なる神よ」 など、宗教曲ばかり11曲が収められている。 プレトリウスはバッハと同じように音楽家の家系で、ヨハンの父はヒエロニムス・プレトリウス (1560〜1629)、兄はヤーコプ・プレトリウス (1586〜1651) である (なお、兄弟の祖父もヤーコプという名であった)。 ヨハンは父とスウェーリンクから音楽を教わっている。 時代的には大バッハより1世紀弱前の作曲家だが、聴いてみて、宗教曲ながら内面的な音楽というより、どこか外面的な印象がある。 時代のせいか、或いは本人の能力の問題か。 演奏はフリートヘルム・フランメ、ドイツはノルトライン・ヴェストファーレン州の町ビューレン近くにある修道院領ホルトハウゼンのペーター・パウル教会にて、1764年製オルガンによる演奏。 解説はドイツ語、英語、フランス語で付いている。 昨年12月、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんにて、閉店5割引セールで購入。  

Cover (Johann Praetorius: Organ Works:Friedhelm Flamme)

 

2月10日(金)    *何でも 「書類を出せ」 をやめよ!

 私には子供が3人いる。 長男は社会人になっているので、目下大学4年生 (だからもうすぐ扶養からはずれる) の次男と高校生の長女を扶養扱いしているが、新潟大学の事務から、次男の所得証明書または非課税証明書を出せ、と突然言ってきた。 突然というのは、今までそういうことを言われたことがなかったからである。

 要するに文科省の事務次官がそういう通達を最近出してきたらしい。 文科省の事務次官は現在、森口泰孝という人のようである。

 事務の言い分では、不正に扶養手当を取得する例があるから通達が来た、ということのようだ。 しかし私に言わせれば、所得証明書や非課税証明書のような、わざわざ役所に出かけていってカネを払って取得しないといけない書類を出すような仕組みを作るのは無能な輩のやることなのである。 事務次官はだから無能な人間に相違ない。

 と書くと、不正を防ぐためだから仕方ないじゃないか、国立大学の給与や扶養手当は税金から出ているんだし、と言う人もいるだろう。 税金の不正な使用が行われてはならないという点では私も異論はない。 

 私の言いたいのは、大多数の正直な人間に、一部の不正な人間を防止するためだけに、時間とカネを使わせるのは理不尽だということなのである。 今までだって、毎年扶養家族の確認書類は出していたのである。 ただ、それは自分で書いて出せばいいわけで、今回のようにわざわざ外出して役所まで出向いて、カネを払って作ってもらわなくてはならない書類ではなかった。

 じゃあ、不正を防止するにはどうすればいいか、と訊く人もいるだろう。 簡単である。 不正をしたら厳罰に処せばいいだけの話である。

 つまり、今まででも毎年扶養家族の書類は出しているのだから (出さないと事務から催促が来る)、それはそのままとし、もし提出書類に誤りがあったら――例えば大学を卒業している息子を在学中と記すなど――意図的な不正と見なす。 そういう輩には、単に不正に取得した扶養手当を返納させるのみならず、減給5分の1を不正に扶養手当を取得した期間の倍の期間課す、というふうにすればよろしい。

 そうすれば不正をする輩は減るだろうし、それでも敢えて不正をしたら、上記のように減給5分の1が長期間続くのだから、その分のお金が国庫に入り、税金の節約にもなるのである。 そして正直な人間に無駄な時間とカネを使わせることもない。 どうです、きわめて合理的でしょう。

 森口泰孝さん、何でも 「書類を出せ」 というのは、頭が悪い事務官のやることですよ。 分かりましたか?

  そうそう、昨年秋、人文学部長が五月蝿いので久しぶりに科研費に申請したのだが、むかし科研費に申請したときより格段に申請書類の項目が増えていた。 つまり、科研費を申請するのにむかしよりたくさんのページを埋めて書類を作らなければならないくなっているわけで、それだけ時間を食うのである。 万事がこういう具合で、日本の国立大学はそのうち書類を作るだけで1日のうち24時間を要するようになるに違いない。

 ちなみに、これは国立大学だけの話ではない。 先日、産経新聞にこんな(↓)記事が載っていたけど、日本の再生は書類病を断ち切ることから、と言いたくなるじゃありませんか。

                     *

 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120203/bdy12020307450001-n1.htm 

 読者から 在宅医療のやる気そぐ書類の山

  鳥取県米子市 医師 畠史子(53)

 在宅医療の医師をしています。対象の患者さんは高齢者が多く、1人暮らしや老老介護も増えています。在宅の生活を支えるために、医師だけでなく、ケアマネジャー、ヘルパー、訪問看護師、在宅リハビリのスタッフなどが大勢関わっており、職種間で密に連携しています。

 住み慣れた家で過ごすことを手助けできる在宅医療という仕事はとても有意義だと感じていますが、閉口するのは、とにかく書類が多いことです。在宅療養計画書、ケアマネジャーへの情報提供書、訪問看護指示書、特別訪問看護指示書、訪問リハ指示書、さらに、在宅患者訪問薬剤管理指導料のための情報提供といった書類の山です。診察に要したのと同じか、それ以上の時間をこれらの書類に費やします。逆に言うと、この書類がなければもっと多くの患者さんを診ることができます。

 在宅医療は今後もますます必要な分野で、政府も高い保険点数をつけて政策誘導しようとしているため、これらの書類を書くと保険点数が加算されるのですが、あまりに多い書類の山は逆にモチベーションを下げます。最低限の本当に必要な書類だけにしてほしいです。

 病院が施設基準によって入院1日当たりの保険点数が異なるように、在宅を行う医療機関も年間に行った看取(みと)りの数、臨時往診の数などで評価して保険点数に反映すれば、がんばっている在宅医療機関を評価できると思います。 (2012,2,3)

 

2月8日(水)    *歌集 『災難を越えて 3・11以降』 を福島県の歌人たちが発行

 私の中学時代の恩師である高橋安子先生が、歌集 『災難を越えて 3・11以降 コスモス福島支部歌集』 を送って下さった。

 高橋先生は私が中学1・2年次の担任で国語を教えていただいたが、定年後は歌作りをされ、ご自分の歌集を出されてもいる。 コスモスという短歌の結社の福島支部に所属する歌詠みたちが、東日本大震災後の福島の状況を詠んだ歌を集めて刊行したのが、今回お送りくださった歌集である。 46版52ページの冊子である。 22人の歌人の歌が掲載されている。 一人10歌ずつ、2ページに一人分が掲載されている。

 歌の性格は当然ながら歌詠みごとに異なる。 「誘致反対の論拠なりし原子炉爆発放射能汚染が現実となる」 というふうに、わりに詠み手の政治性が前面に出ているのもあるけれど、「小刻みの音の無気味さ部屋中の家具と体を地震(なゐ)が揺さぶる」 というように写実的で地震の恐ろしさが生々しく迫ってくるものもある。

 高橋先生はこんな歌を詠んでおられる。 「大津波の水の怖さと命守る水なき怖さ水は怖しも」

  私自身は歌を詠む趣味はないのだが、福島県の歌人たちが自分の表現手段を用いて福島の現状を伝えようとしていることを、ここでお知らせしておきたい。

 

2月6日(月)    *『文学における不在 原研二先生追悼論文集』 が刊行される

 2008年秋に亡くなった原研二・東北大学文学部独文科教授を追悼する論集がこのたび発行された。 森本浩一・嶋崎啓・田村久男・里村和秋・斎藤成夫(編)『文学における不在 原研二先生追悼論文集』 である。

 亡くなって3年以上たって刊行というのはいかにも遅い感じではあるが、一つには原稿〆切に対する寄稿者ごとの対処の違いがあり、また昨年3月に東日本大震災という大災害に見舞われて事務的な仕事がとどこおったこともあったようである。 私は原稿を出すだけで、あとは自分の原稿の校正しかやらなかったから、とやかく言える筋合いではない。

 合計19人のゲルマニストが論文を寄せている。 原さんの教え子、職場の同僚、留学先や仕事の関係で縁のあった人など、さまざまである。 論文が扱った対象も多様で、時代的には 『ニーベルンゲンの歌』 から、現代作家のギュンター・グラスやマルティン・ヴァルザーにまで及んでいる。 私の寄せた論文は、「"Immensee"と"Eekenhof"に見るシュトルムの小説の構造 ―語られざるものと近親相姦―」 である。

 当初は値段をつけて出版社から刊行しようという話だったが、市販性の乏しい本なので、結局は私家版として、ISBN等は付けずに出すことになった。 そのほうが寄稿者の金銭的負担も少ないということもある。 A5版で258ページ。 奥付では昨年11月に出たことになっているが、私の手元に届いたのは本日である。

 というわけで、一般の書店や通販ルートを通しては手に入らない本であるから、入手を希望される方は東北大学文学部独文研究室 (TEL/FAX: 022-795-5969、メール: xkc-m2rt@sal.tohoku.ac.jp ) にお問い合わせいただきたい。

原先生追悼論文集.jpg (51793 バイト)

2月5日(日)    *三国博子さんを悼む

 昨日、三国博子さんが亡くなられた。 享年64歳。 本日午後7時から通夜が営まれ、私も出席した。

 三国さんは長らく新潟大学でドイツ語の非常勤講師を勤められた方である。 新潟市内のミッション系高校から上智大学に進んでドイツ文学を専攻、卒業後は実家に帰られ、たしか予備校の講師をしておられたところを、新潟大学教養部にスカウトされてドイツ語の非常勤講師になられた。 私が新潟大学に赴任した1980年のほんの少し後のことだったかと思う。

 教え方が丁寧で学生に人気があったが、上品で押しの弱い方だったので、学期初めに図々しい学生たちから定員外なのにクラスに入れてくれと無理に廊下で頼まれて困っておられたところを、たまたま通りかかった私が学生たちを怒鳴りつけて追い払ったというエピソードもあった。

 日本独文学会にも所属され、10年前に全国学会が新潟大学で開催されたときには、私と組んで分科会の司会を勤められた。

 また、3年前の秋に独文学会の北陸支部研究発表会が新潟市で行われたとき、全国学会と違って会場は1つしかないから本来は司会は専任教員がやるのだが、私とK先生が発表をし、もう2人は他の役割に回り、残りの1人は当日都合が悪いということで、司会をする専任がいなくなった。 教養部解体前なら教養部と人文学部で合計15名のドイツ語教師がいたからこういうことはありえなかったのだが、教養部解体後はドイツ語専任がみるみるうちに減少し、また転向して独文学会をさっさと辞めている専任もいるので、結局、非常勤の三国さんに司会をお願いせざるを得なくなった。 むろん、三国さんは立派に役目を果たしてくださった。

 教養部が解体したのは1994年だが、その少し後、たまたま私と会ったときにこう言われた。 「国際化時代なのに、どうして新潟大では外国語の授業が減るのですか?」

 きわめてまっとうな問いである。 実際、教養部解体後の新潟大では外国語の授業は減り続けで、国際化時代に逆行しており、国内でしか通用しない人材の育成に努めている。 要するに田舎の専門学校になりさがっているわけだ。 自分から進んで。

 そしてこれには専任ドイツ語教師たちの責任もある。 教養部がなくなり、ドイツ語教師というレッテルがはずされたとたんに、「ドイツ語は有効性がない」 などと言い出して新潟大学の第二外国語削減に手をつけたのは、人文学部や旧教養部のドイツ語教師たちだったからである。 地方大学の語学教師には碌な奴がいないな、と私は得心した次第である。 もっとも田舎でなくとも都会でも事情は類似しているかもしれないし、何よりこういうふうにドイツ語を裏切っているドイツ語教師たちを影ながら支援したのは、当時の日本独文学会の理事たちだったのである。

 どんな組織にも目立たずに仕事をしてその組織を支えている人達がいるものだが、三国さんはまさにその典型であった。 ドイツ語を裏切ってサブカルの専門家に転向している輩とは比較にならない。

 三国さんは一昨年から体調を崩され、ガンと診断されて闘病生活を送っておられた。 私が最後にお見かけしたのはその一昨年、入院される少し前のことで、学内の廊下をびっこを引くように歩いておられたので、おやと思ったのだが、すでに病魔に蝕まれておられたのであろう。

 終生独身を通されたので、通夜ではお兄様が挨拶をされた。 もともと体は丈夫なほうだったとのこと。 ドイツ語教育への復帰を望んでおられたが、果たされずに終わったのは残念と言うしかない。

 謹んで三国さんのご冥福をお祈り申し上げる。

 

2月4日(土)    *クァルテット・エクセルシオ 弦楽四重奏曲連続演奏会《総集編》     

 本日は午後3時から標記の音楽会に出かけた。 クァルテット・エクセルシオはこの2年間にハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンをそれぞれ3夜のシリーズとして演奏してきたが、その総集編。 ちなみに、今までのシリーズ、私はハイドンのみ1夜だけ、あとは全部聴いた。

 ハイドン: 弦楽四重奏曲op.76-3 「皇帝」
 モーツァルト: 弦楽四重奏曲ニ短調K.421
 (休憩)
 ベートーヴェン: 弦楽四重奏曲第9番 「ラズモフスキー第3」
 (アンコール)
 ボロディン: 弦楽四重奏曲第2番から、第3楽章ノクターン

今回は今までと違って、りゅーとぴあでも広いコンサートホールでの演奏。 場所をどこにとるか迷ったが、やはり演奏者の姿が近くから見えるところがいいということで、1階9列目の右寄りにした。 コンサートホールとして見れば入りはイマイチだが、多分2百人くらいは入っていたろうから、カルテットの演奏会としてはまずまず。

 演奏についてはいまさら言う必要もないくらいであるが、やはり従来の会場であるスタジオAとの音響の違いが目立つ。 空間が広いので音が少し拡散する印象があるが、音量としては全然不足を感じない。 むしろ音の拡散が広がりを感じさせて、なかなかいいじゃないかと思わた。 また、チェロの大友さんの音は、楽器から発しているというより「場」から出ているような、ちょっと不思議な音の出方であった。 思うに、これから四重奏団が演奏会をやるときはコンサートホールでやってもらったほうが、人数も入りきらない心配がないし、いいんじゃないだろうか。

 演奏会終了後、知人S氏のご好意で、楽屋で少しだけ演奏者の方々とお話ができた。 S氏に感謝したい。 そこでも言ったことだが、クァルテット・エクセルシオの公演では今までアンコールは次回の予告になっていたので、今回も是非そうしていただきたいということである。 つまり、これでおしまいではなく、次回もありということでお願いしたいということ。

 とすると、ボロディンを含むプログラムだから、民族派のカルテットを集めて3回連続の音楽会になる。 ボロディン、チャイコフスキー、スメタナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、バルトーク (は私はあまり好きじゃないんだが)、シベリウスといった作曲家でプログラムを構成することになるであろう。

 その次がロマン派かな。 シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスで3夜。 そのまた次はフランス・イタリアもので3夜か。 フランク、ラヴェル、ドビュッシー、フォーレ、ヴェルディ、レスピーギ、ミヨーなど。

 ・・・と独り決めしてしまったが、これは私だけではなく、昨日演奏会場に行った大多数の方々の希望だと信じるので、ぜひ実現してください、りゅーとぴあ幹部様。

1月31日(火)    *仙台以北では冬に水道が凍るのは当たり前

 新潟市に住んでいて、出張で首都圏などに出かけて他地域の人と会ったりすると、たいていは素朴な誤解をしている。 新潟は夏は涼しい、という誤解である。 実際は、新潟の夏はかなり蒸し暑い。 

 私は福島県いわき市小名浜の出身だが、いわき市小名浜の夏のほうがはるかに涼しくて過ごしやすい。 ところが、以前中学校の同級会に出たら、地元の人間で勝手に示し合わせて、次回の同級会は新潟で、と決定していた。 私が新潟にいるからということも理由だが、それ以外に、「夏に涼みに行きたい」 というトンデモナイ誤解からでもあった。  冗談ではない。 いわき市小名浜は、盛夏でも最高気温が30度を超えることが少ない地域であるのに対し、新潟と来たら真夏には最高気温35度くらいの猛暑が延々と続くのである。 先入観とは恐ろしいものである。

 しかしそれとは逆の誤解もある。 新潟は冬はものすごく寒い、という誤解である。 たしかに新潟の冬は暖かくはない。 東京に比べれば寒い。 しかし、私が大学生時代を過ごした仙台に比べれば、寒くはない。 厳密に言うと、新潟は仙台に比べて冬の最高気温は下だが、最低気温は上なのである。 

 つまり、冬の仙台は昼間は太陽が照るので最高気温はそれなりに上がるが、夜になるとひどく冷え込む。 真冬に水道が凍ることも珍しくない。 これに対して新潟の冬は、たいてい曇り空である。 だから昼間も最高気温があまり上がらない。 しかし夜は雲が放射冷却を防ぐので、最低気温もあまり下がらないのである。 水道が凍ることはまずない。 私は仙台から新潟に来て、真冬でも水道が凍らないので、新潟の冬は寒くはないな、と思っていた。

 ・・・・何でこんなことを書くかというと、最近、東日本大震災で作られた岩手県の仮設住宅で水道管が凍結して破裂し、そこに住んでいる被災者の方々が困っているというニュースが流れたからである。 言うまでもなく岩手県は仙台より北だからいっそう寒いはずである。 冬に水道が凍ることはいわば常識だろう。 なのに仮設住宅の水道管が凍らないように作っておくことをなぜしなかったのだろうか。

 もしも仮設住宅の設計者が岩手県の人間なら、相当無能な人なんだろう。 或いは、首都圏の人間が設計したのかもしれない。 ならば無知も仕方がないのかもしれないが、住宅を受け入れる岩手県の側がその辺を考えておくべきであったと思う。

1月28日(土)    *新潟大学文系の困難

 本日は大学近くの寿司屋でゼミの新年会兼4年生の卒論完成祝賀会。

 そこで出た話題だが、大学の図書館のお粗末さである。 現在、新潟大学図書館は改修工事中で閉架の図書が借りられない。 そのことの不満もあるが、何と言っても蔵書が不十分なことと、雑誌コーナーの寒さが問題なのである。

 蔵書のお粗末さについては昨年の末ごろのこのコーナーにも書いた。 その後、人文学部幹部から図書館に申し入れをしてもらい、改善される可能性も出てきた模様である。 ただし、実際にどうなるかは慎重に見守っていく必要がある。

 こうなった理由はいくつか考えられる。 第一にカネをかけていない。 本来なら独法化でその気になれば改善できるはずだが、新潟大学の図書館は蔵書がお粗末だから改善しなければという認識自体が大学上層部にない。 つまり、新潟大学上層部の無能さ、といういつも私が言っている話なのだが。

 また、これまたいつも私がここで言っていることだが、教員にも問題がある。 自分の専攻に関わる図書館蔵書に注意して、不備があれば改善を申し入れたり、色々な経費を使って蔵書を充実させるべく努力するのが大学教師の務めだと私は思うのだが、そう思っていない教員が多いということだ。

 さらに、雑誌コーナーもお粗末である。 最近の日本では雑誌の数自体が減ってきているけれど、それを入れて考えてもお粗末なのである。 新聞も、例えば読書新聞を1種類も置いていない。 新潟市中央図書館(ほんぽーと)の雑誌コーナーや新聞コーナーと比較してみれば、その貧しさは一目瞭然である。 私は学生に、いちど新潟市中央図書館の雑誌・新聞コーナーに行ってみなさいと薦めている。 ちゃんと読書新聞が2種類とも置いてあるし、雑誌コーナーも充実している。 あれが当たり前なのであって、新潟大学の図書館は文系学部がある大学としては信じられないくらいダメなのである。 

 なぜこんなに新潟大学図書館はダメなのか。 カネもないのだろう。 しかし人材もいないのではないか。 逆に言えば新潟市中央図書館には人材がいたということなのだろう。 新潟市だから人材がいないわけではない。 では新潟大学だから人材がいないのだろうか。

 駄目と言えば、新潟大学生協書籍部もダメなのである。 私は昔から (生協の理事や教職員委員をやっている関係で) 色々言っているが、品揃えは一向に良くならない。 職員をいちど、ステイタスが高い大学の書籍部に派遣して、大学の書籍部がどうあらねばならないかを実感させる必要があるのではないか。 あれが普通だと思っていては永遠にダメなままである。

1月25日(水)   *最近聴いたCD

 *カタルーニャのオルガン音楽集U (Torito、TD0064、2009年録音)

 現在はスペインの一部になっているカタルーニャのオルガン音楽を集めたCD。 その2巻目ではあるが、第1巻はまだ所有していない。 昨年の9月に上京したおり、渋谷のタワーレコードにあったので購入したもの。 ここには5人の作曲家の作品が収録されている。 Josep Elies(1690〜1771)、Joan Vila(1711頃〜1791)、Josep Teixidor(1752頃〜1814頃)、Ramon Carnicer(1789〜1855)、Magi Ponti(1815〜1883)で、最初のEliesだけが2曲、ほかは1曲ずつである。 作曲家の生没年からも分かるように、18世紀と19世紀の作品群ということになる。 曲想は、各人各様で、カタルーニャと言っても必ずしも土俗音楽的であったり宗教的だったりするわけではなく、例えば最も年長のEliesの曲はバロック期と古典期を足して2で割ったような印象があるが、4人目のCarnicerの曲"Sis sonates de Menorca"は完全にハイドンなどの古典主義を思わせ、どちらかというと楽観的な感じである。 他方、2人目のVilaや最後のPontiの曲は宗教性を感じさせる、ということはオルガン音楽っぽいということでもある。 というように、色々な曲が含まれているディスク。 演奏はミケル・ゴンザレス(1967年、スペイン生まれ)、スペイン・カタルーニャのSelva del Campにある聖アンドリュー教会のオルガンによる録音。 解説はカタルーニャ語(多分)とスペイン語と英語で付いている。

Msica D'orgue a Catalunya, Vol. II

 

1月22日(日)    *『シュトルム名作集第5巻』 出来!

 日本シュトルム協会による訳で三元社から刊行されている 『シュトルム名作集』 の第5巻がこのほど刊行された。

 計12編の小説を収録しており、このうち 『グリースフース年代記』 が私による訳である。 この作品は、シュトルムの小説としては最後の大作 『白馬の騎手』 に次ぐ長さを誇る。 

 また巻末には 「シュトルム小説散文邦訳作品リスト」 も掲載されていて、明治以降のシュトルム小説の邦訳が網羅されている。

 『シュトルム名作集』 は最初は2巻でスタートして作品選集であったが、予想以上に好評だったこともあり――と言っても印税なんかは出ませんけどね(笑)――3巻分が追加された。 この第5巻を持って小説はすべて訳出されたことになる。 つまり、事実上の 『シュトルム小説全集』 となった、ということである。

 値段は5400円+税だから安くはないが、2段組で480ページもあるから、コストパフォーマンスは決して低くない。 大きな書店で (新潟市ならジュンク堂書店) ごらんいただきたい。

 なお、これに続く第6巻も企画されており、実現すれば詩についても全集となるはずである。

 既刊分についての情報は、下記リンクから。

 http://www.sangensha.co.jp/ 

1月20日(金)    *ワーナーマイカル、またもやサービス低下

 映画 『がんばっぺ フラガール!』 を見に、夜ワーナーマイカル・シネマズ新潟南に行く。 このシネコンは私の住まいや勤務先からいちばん遠いのだけれど、何しろこの映画は新潟市ではここでしか上映していないのでやむを得ない。

 そうしたら、サービス変更のお知らせが出ていた。 現在、ポイントカードで5個スタンプがたまると、つまり5回映画を見ると1回無料になるのだが、3月からこれを6回に変更する、というのだ。 要するにサービスの低下である。 (スタンプ5個で1回無料のカードは2月いっぱい発行される。)

 サービス低下は昨年もあった。 ポイントカードが従来は発行価格100円だったのが、200円に値上げされたのである。

 それにしても、ワーナーマイカルくらいサービスがころころ変わるシネコンも珍しい。 まるで一貫性というものがない。

 このシネコンが新潟にできたのは西暦2000年だったが、最初は4回見ると1回無料というサービスだった。 そのうちそれが6回で1回無料に変わった。 当時は回数券もあって、1枚1200円であり、ばら売りで新潟大学生協で扱っていたので、事実上1回1200円で見ることができた。

 ところが、そのうち回数券はなくなり、6回見ると1回無料というサービスもなくなった。 成人男性向けのサービスは、レイトショーを除くと、毎月1日のサービスデーしかなくなった。

 それからしばらくして再度6回で無料の制度が導入された。 Tカードとタイアップして、Tカードに鑑賞回数によりポイントを記憶させる方式であった。 同時に、20日と30日はカード提示で千円デーとなった。

 さらにその後、Tカードとの提携解消により、紙のポイントカードを1枚100円で買い、鑑賞ごとに1つスタンプが押され、それが5つたまると1回無料鑑賞という制度になった。

 そしてその後の経過は上に書いたとおりである。 某巨大サイトでは 「ケチなシネコン」 と評されているワーナーの面目躍如(?)といったところか。 

 ともあれ、これにより新潟市内ではワーナーマイカルがユナイテッドに勝るところは皆無となった。 ユナイテッドも会員カードに記憶させる方式で6回見れば1回無料という制度をとっているからだ。 

 ユナイテッドはそれ以外に、千円デーが週に2回ある。 月曜日がメンズデー、水曜日がレディスデー、金曜日がカード会員千円デーである。 このほか、毎月1日と14日が千円デーになっている。

 これに対して、ワーナーマイカルは毎月1日以外に、20日と30日がポイントカード提示で千円だが、成人男性にはこれ以外のサービスがない。 女性には毎週1回レディスデーがあるのと比べると実にせこく、男性差別的な体質なのである。

 手っ取り早くお分かりいただくために、今年の3月を例にとり、私のような50代男性にとってユナイテッドとワーナーマイカルの千円デーがそれぞれ何日あるかを比較してみよう。

 ユナイテッドは、月曜日4回、金曜日5回、それに1日と14日を加えて、合計11日千円デーがある。 3月は31日まであるから、実に2,82日に1日が千円デーとなる計算である。

 これに対して、ワーナーマイカルは1日と20日と30日の計3日だけが千円デーである。 千円デーは10,33日に1日しかない。

 座席も、ユナイテッドの座席は幅が広くすわりやすいことは周知のとおり。 要するにワーナーはユナイテッドに比べていいところが全然と言っていいくらいないのである。 これじゃますますワーナーに行く気がしなくなる。 今回のように、ワーナーでしかやらない映画以外は、まず行かないことになるだろうな。 経営がヘタクソだぞ、ワーナー!

1月17日(火)    *第22回にいがた国際映画祭、縮小開催――新潟市の文化政策の今後 

 例年2月に行われて、新潟市の冬の催し物としては恒例と言えるくらい続いてきた 「にいがた国際映画祭」 だが、今年も開催される。 詳細は、以下のサイトを参照。

  http://www.info-niigata.or.jp/~eigasai/

 しかし、新潟市からのお金が入らなくなり、開催はするものの、縮小を余儀なくされた。 期間は短くなり、上映作品数も減っている。 その辺の事情は、以下の産経新聞新潟地方版に書かれている。

  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120117-00000069-san-l15 

 関係者の苦労は並大抵ではないと思うが、がんばっていただきたい。

 と、一応関係者の労はねぎらったうえで、やはり物足りなさもあることを言っておかねばならない。

 もともとこの映画祭は、落穂ひろい的なところがあり、新潟市に来なかった外国映画を少し遅れてではあっても上映するという意味合いがあった。 もちろん、それだけではなく、主としてアジアの映画を上映することで近隣諸国との文化的な相互理解を深めるという意味も小さくなかった。

 その意味では、今回もアジアだけではなく、旧ユーゴやアルゼンチン・スペインの作品をも上映するなど、広い目配りが感じられて、好感が持てる。 しかし如何せん、作品数が限られているだけに、新潟市に来なかった海外秀作を拾うという意味合いからするとちょっとどうかという気もする。

 しかしそれは市からお金が出なくなったことに起因するわけであり、財政難の時代に新潟市が何にお金を投じるか、という文化政治の問題に関わってくる事柄だろう。

 新潟市はラ・フォル・ジュルネを2年前から始めたし (つまり、クラシック音楽にお金をかけている)、ノイズムにも力を注いでいる (つまり、身体表現部門にもお金をかけている)。 賛否両論あったけど、水と土の芸術祭なんてのもあって、というか、過去形で書いてしまったけど、これも今年またやるみたいなのだ (下記リンク)。

  http://www.mizu-tsuchi.jp/ 

 こういった中で、映画が新潟市では必ずしも優遇されていないという点には、映画が好きな人間として私も疑問を感じる。 もともと、「にいがた国際映画祭」 自体、上記のように落穂ひろい的な映画祭であり、山形国際ドキュメンタリー映画祭みたいに膨大なお金をかけているわけではなかった。 なのに、仕分けされてしまうのは、ちょっと納得がいかないのである。

 私がこの欄で繰り返し書いているように、新潟市は映画館のスクリーン数は多いが、上映される作品の種類はそのわりには貧弱である。 「にいがた国際映画祭」 はそれを補う役割を持っていたはずなのだが。

 新潟市が何を考えているのかは分からないが、「選択と集中」 を意図しているのかも知れない。 つまり、落穂ひろい的な映画祭にお金を使うより、ノイズムとか水と土の芸術祭みたいに独自性の強い芸術団体や催しにお金を使いたい、ということなのかもしれない。

 それはそれで一つの考え方ではある。 もしそうだとすると、新潟市の映画愛好者はこれからは市には頼らず、相互の連携と民間資金の導入によって新潟市の映画状況の向上を図っていくようにしなくてはならないだろう。 今現在の日本の経済状況からして、この種の催しを公的資金頼りで行うことは、これからは出来にくくなるだろうからだ。

 新潟市の映画状況がまた一つ悪くなった。 映画ファンの結集が求められているのかもしれない。 

               *

 上記のことに関連して、公的資金による市民サービス削減の一例を挙げる。

 私は趣味で社会人卓球をやっている。 新潟市内には社会人の卓球クラブがいくつかあって、夜小学校の体育館を借りる形で練習を行っている。 (卓球以外にもバドミントンだとかいくつかのスポーツが行われている。)

 従来、使用料は無料であった。 しかし最近この点について見直しが行われ、来年度から1団体が週に1回利用する場合、年間1万6千円を徴収されることになった。 1万6千円と聞くと高い気がするが、あくまで年間での使用料であり、月に直せば1300円ちょっとであり、なおかつ1団体あたりだから、個人負担ということなら月に100円か、少人数の団体でも200円くらいである。 騒ぐほどのこともない。

 だが、こうした例が積み重なっていくとすればどうか。 極論になるが、例えば新潟市や新潟県の図書館で本を借りるのに1冊あたり100円とられるとしたらどうだろう。 今なら公立図書館で本を借りるのは無料である。 しかし、市立図書館や県立図書館の蔵書は税金で購入されている。 税金が足りなくなったら、本を借りるのにお金をとられるという制度が導入されても不思議はない。 現在でも、例えば東京の現代マンガ図書館のような民間の図書館では入館料や閲覧料を取られる。 無料ではないのである。

 これからの日本を考えるとき、こういう問題を避けては通れないだろう。 

1月15日(日)     *東京交響楽団第69回新潟定期演奏会

 今年初めてのコンサート。 会場の入りは、まあ東響新潟定期の最近の平均値くらいか。

  指揮=秋山和慶、ヴァイオリン独奏=セルゲイ・ハチャトゥリアン、コンマス=グレブ・ニキティン

  ベートーヴェン: 交響曲第6番 「田園」
  (休憩)
  ベートーヴェン: ヴァイオリン協奏曲
  (アンコール)
  コミタス: アプリコット・ツリー (ヴァイオリン独奏)

 今回はベートーヴェンの有名な曲が2曲。 名曲コンサートに近い内容。

 最初の田園交響曲は、比較的ゆっくり目のテンポで、のびのびとこの曲の特質を表現していた。 木管も、フルート、クラリネット、オーボエ、いずれも見事。 弦も、最初はちょっと東響にしては粗いかなという気もしたが、第5楽章の冒頭ではいつもの美しい合奏を聞かせてくれた。 秋山さん指揮らしい、満足度の高い演奏だったと思う。

 次が待望のハチャトゥリアン登場。 私は彼の演奏を、数年前に東京の浜離宮ホールでのリサイタルで一度聴いている。 そのとき、非常に強い印象を受けたので、今回も期待が大であった。
 
 で、その期待が完全に満たされたかというと、うーん、悪くはないが、というところ。 まず、かつてのリサイタルでは美しくよく通る音に魅了されたのだが、今回は美しくはあるけれど、ちょっと音の線が細いかなという気がした。 もちろん浜離宮ホールは新潟の音文よりわずかに収容人員が多い程度で、りゅーとぴあとは広さが全然違うわけだから、音の感じも異なるのはやむを得ないが、どうなのかな、その点でかつてより衰えてきたということはないのだろうか、と首をひねった。

 解釈であるが、最初の2楽章をゆっくりと、非常に情感をこめて弾いていて、繊細な感触もあり、この曲の一つの解釈としてなかなかだったと思う。 この曲、いわゆる大家風に弾く場合も多いけれど、曲の性質としてこういう叙情性を前面に出して大家風を避けるという方法もあるわけで、今回の演奏はその極と言えるものだったのではないだろうか。

 ただ、これもかつてのリサイタルではあまり曲をひねらずに素直な解釈に終始していたことを想起すると、どうなんだろう、という気持ちもあったのである。 そして解釈と音の出方には相関関係はないのだろうか、とも。 まあ、その辺はこの人の演奏をもっと多く聴かないと分からないことだけれども。

 アンコールは、ハチャトゥリアンの特性をよく活かす曲が選ばれていて、とても良かった。

 色々書いたが、今年の東響新潟定期もまずは順調なスタートを切ったと言えるだろう。

1月14日(土)    *コンチェルト・メモリアル・イベント

 本日、新潟市三越近くの 「器(うつわ)」 という店で 「ありがとう コンチェルト・メモリアル・イベント」 が行われた。 惜しまれながら閉店した (といってもいちおう1月中は店はあるようだ) クラシックCD専門店コンチェルトさんをやっていた古俣さんと佐藤さんを慰労する会。

 第1部が午後3時開始で、新潟市内の、そして長岡や柏崎や上越市からも音楽家がかけつけ、演奏を披露してくれた。 コンチェルトは新潟市内だけでなく、新潟県全体から注目されていたということが分かる。

 そして午後5時過ぎから飲食を伴う懇親会があった。 私も知らない方ばかりでしたが、それなりに楽しむことができた。 私のクラシック音楽掲示板に出入りされている C5さんやmozart_nobuさん、高橋宣明さん、ピアノ演奏も素晴らしかった品田真彦さん、以前演奏を聴かせていただいた奥谷京子さん、同じく栄長敬子さんなど、ありがとうございました。

 この 「器」 という店には、私は初めて入ったけど、料理も結構うまかった。

 こういう集まりから、何かクラシック音楽の新しい企画などが生まれてくることを期待したい。

 このイベントを企画されたイベント実行委員会の6人の方々には改めて御礼申し上げます。

1月8日(日)    *健康論を超えて――長寿に限定しない新しい価値観の創造を

 本日の毎日新聞に、當瀬規嗣 (とうせ・のりつぐ)・札幌医大教授の 「酒は「百薬の長」か」 という文章が載った。 (毎日新聞のサイトには載っていないようなので、紙の毎日新聞をごらんください。)

 要するに、酒は確かに少量飲めば健康にいいけれど、実際には少量にとどめられない人も多く、つい飲みすぎてしまうから、結論として酒は健康に良くない、という話ある。

 医者ってのは、こういう発想しか出来ないものなんだろうな、と私は思ってしまう。 要するに、長生きしか頭になく、人間がなぜ生きているのかという哲学的な発想がないのだ。 医者は、全員とは言わないが、こういう医大教授のような愚物が少なくないのである。

 人間は長生きすればそれでいいのだろうか。 今のように医学が発達すると、死にたくても死ねない、と思う人間だっているだろう。 少し前に89歳で亡くなった私の伯母 (亡き父の姉) も、数年前に会ったとき、「医療で生かされているような気がする」 と言っていた。 それがいい、ということではない。 本当なら死んでいるはずなのに、無理やり生かされている、というニュアンスでそう言ったのである。

 酒にしても、確かに医者の立場からすればアル中だとか家族関係がそれで破壊されるといった例を見ているから上記のような発言になるのだろうが、逆に言えば、アル中にもならず家族にも迷惑をかけず酒を楽しんでいる人だって多数いるはずである。 上記のような医大教授の発言は、そういう人たちから生きる楽しみを奪うものでしかない。

 少しくらい寿命が縮んでも、生前の楽しさが大きければ充実した人生だと言える――そういう価値観を医者は身につけるべきではないか。 或いは、哲学でも何でもいいけれど、文系研究者はそういう価値観を提唱すべきではないか。

 言うまでもないが、私は酒に限定して言っているのではない。 最近この方面で槍玉に挙げられがちなタバコをも念頭においている。

 新潟大学は長寿に限定されない人生の価値をこそ追求すべきだと私は思うけど、実際には逆に、文科省の言いなりになって近い将来の学内禁煙を決めてしまった。 つまり、考えない人は医師だけに限らない、ということだと思う。

 医師の価値観に異議を唱えるだけの思考力のある文系学者は、新潟大にはいないのだろうか。 (少なくとも幹部にはいないことは、上記の決定から分かるけどね。)

1月6日(金)     *ようやく今年の初映画、そして最近の新潟市の映画館業界

 今年に入ってからなかなか映画館に行く機会がなかったが、ようやく本日夕方、ユナイテッドシネマ新潟に『源氏物語 千年の謎』を見に行く。

 冬休みなのになぜなかなか映画を見に行けないかというと、卒論〆切が1月10日なので、原稿を見てくれという学生が次から次へと来るからだ。 読むだけならまだしもだが、内容に関する意見を述べたり、さらには日本語がまともに書けず文章を逐一直さないといけないという・・・・な学生もいるので、手間と時間を食うのである。 

 むかし、私の学生時代には、教授や助教授はこんなことをしてはくれなかった。 というか、卒論は自分で勝手に書いて提出するもので、あらかじめ原稿を見てもらうなんてことは発想の外だったのだ。 そもそも、卒論指導なんてものが存在せず、自分で構想を考えて自分で書いて自分で提出して、それでおしまい。 ただし、最初はどう書いていいか分からないから、先輩の卒論を借りて読みはしたけれど。 無論そのあと口頭試問があるのだが、教授や助教授はそのときに意見を述べれば仕事が済んでしまう。 つくづく、昔の大学教師は楽だったと思う。 

 話がずれた。 新潟の映画館は、12月は冬休みを控えてお子様向けや一般大衆向けが多く、あんまり食指が動かない作品が目だったけれど、年が改まって1月になると注目作が目白押しである。 といっても首都圏ではとっくに上映してしまった作品も多いわけだが、当方としてもそうそう上京していられないから、忙しいこの時期にも何とか時間を作って見に行くしかないのである。

 ユナイテッドは、10スクリーン体制になって半年以上たつわけで、持って来る映画は新潟市内のシネコンとしてはヴァラエティに富んでいるほうである。 1月から2月にかけては特にその手の作品が並んでいる。 『ミケランジェロの暗号』、『恋の罪』、『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』、『ヒミズ』 などなど。 ただし東京をにらむなら、まだ物足りず、特に東北地方ならフォーラム系に来ているような映画が新潟に来ないケースは珍しくない。 系列の問題もあるかもしれないが、さらなる努力を求めたい。 メンバーズデーとメンズデーとレディスデーがあって、実質1週間で2日は千円デーというサービスの良さは相変わらずだし、座席もゆったりしていることは周知の通り。

 WMCは、新潟南のほうが 『映画 けいおん』 や 『がんばっぺ フラガール!』、『きみはペット』 を持ってきた、もしくは持ってくる予定であり、新潟も 『いちご白書』 を今月下旬から上映するなどしているが、ユナイテッドに比べると努力不足である。 5回見ると1回無料のポイントカードは、昨年秋から100円値上げして200円になったのが、セコイ。 たしかに5回で1回無料は大サービスかもしれないが、ユナイテッドと異なり成年男子には千円デーが月3回しかないという (女性は、レディスデーがある) 男性差別的な体質も変わらない。 あと、これからやる作品をサイトで紹介する時期が、作品にもよるが、遅い。 この点でもユナイテッドを見習ってほしい。 

 Tジョイは、午前10時の映画祭をやったりしているし、ミニシアター系の作品もまあまあ持ってきているが、例えば 『映画 けいおん!』 はWMC新潟南が昨年12月から上映しているのに、同市内にもかかわらずTジョイは1月上映であるなど、どうもちぐはぐなのだ。 映画館サイトも最近リメイクしたようだが、動きが悪くて使いにくい。 料金サービスがあまり良くないことと合わせて、もう少し観客のことを考えた映画館作りを目指してほしい。

 唯一のミニシアター系であるシネ・ウインドはいつもながら独自のプログラムを組んでいるが、マイナーすぎる、或いは一部のマニアが求めている映画が多くかかっているという印象は否めない。 私としてはもう少しヨーロッパ系映画を上映するようにして欲しいのだが、色々あって、なかなか実現しないようだ。 もっともここでしか見られない映画がかかることは事実。 だが、特に国内マイナー映画についてはもっと選別が必要だと思う――多分、業界への義理もあるのだろうけれど。

 ちなみに、昨年の映画を回顧すると、私のナンバーワンは 『アメイジング・グレイス』 だが、春に東京で見たもので、ついに新潟市には来なかった。 その他、秋に東京で見た 『ゲーテの恋』 もなかなか良かったが、今のところ新潟市に来る予定はないようだ (作品サイトによる)。 ヨーロッパ系のすぐれた映画が新潟に来ないという傾向はまったく改善されていない。

 邦画も頑張っているようではあるけれど、私の見るところ、質的に欧米の映画に勝てる作品は少ない。 韓国映画だって最近はけっこう緻密に作られていて、おまけにパワーもある。 昨年の映画から海外作品と邦画あわせてベスト20を選ぶとすれば、邦画は3つか4つしか入らないだろうというのが私の見解である。 安っぽい邦画よりよく出来た海外作品を持ってくる見識を新潟市の映画館業界に望む。 

 

1月3日(火)    *最近聴いたCD

 *ブラームス: オルガン作品全集 (Saphir、LVC 1133、2010年録音、2011年発売)

 ブラームスにもオルガン曲がある、それを知ったのは、りゅーとぴあの先代の専属オルガニスト和田純子さんがオルガン・リサイタルを開いたときである。 そのブラームスのオルガン曲を全部集めたCDがこれ。 といってもCD1枚に収まる程度の曲数ではあるのだが。 ブラームスのオルガン曲は、若い時分と、逆に最晩年と、見事なまでに時代的には二分されている。 若いころの作品は、前奏曲とフーガ、或いは前奏曲で、バッハを勉強した結果としての作曲であり、他方最晩年の作品は 「11のコラール前奏曲」 と題されている。 曲はいずれも 「内面的」 という形容詞がぴったり当てはまりそう。 特に初期の 「オルガン独奏のためのフーガ 変イ短調 WoO8」 や 「『おお悲しみよ、おお心の苦しみよ』 によるコラール前奏曲とフーガ WoO7」 は心に沁みる。 演奏はエドゥアルド・オガネシアン、オルガンはラトヴィアのリガ聖母大聖堂の楽器。 解説はフランス語と英語だが、日本語訳が輸入元により添付されている。 昨年11月に上京した際に新宿のディスクユニオンにて購入。

Smtliche Orgelwerke

 

 *ジャン=ジャック・ボーヴァルレ=シャルパンティエ: オルガン曲集 (Natives、CDNATo8、2006年録音、2007年発売)

  ジャン=ジャック・ボーヴァルレ=シャルパンティエ (1734〜1794) は、フランスのオルガニスト兼作曲家である。リヨンのボーザール・アカデミーのメンバーを経て、パリのノートルダム大聖堂のオルガン奏者となった。 シャルパンティエというと、「真夜中のミサ曲」 などの作曲者であるマルカントワーヌ (マルク・アントワーヌ)・シャルパンティエ (1643〜1704) が有名だが、あちらとは血縁のつながり等はないようだ。 このジャン=ジャックの本来の姓はボーヴァルレだけで、シャルパンティエという名はパリに出てから名乗ったらしい。 さて、この2枚組CDに収録されているのは、(1)「行進開始のためのマーチ」、(2)「デュモンのロイヤル・ミサ」、(3)「オルガンのための12の様々なノエル、万霊節の日に聖歌の後で奏される死者たちのためのカリヨン1曲付き」 である。 曲の印象だが、(1) と (2) は古楽的というよりは、ハイドンやベートーヴェンの時代になってきているんだなあと感じられるような曲想が多い。 他方、(3)はフランスの伝統的なノエル (クリスマスの音楽) をそのまま利用して作られている。 この第8曲目を聴いてちょっとびっくり。 というのは有名なほうのシャルパンティエ――つまりマルカントワーヌ・シャルパンティエの 「真夜中のミサ曲」 の冒頭のメロディーがそっくりそのまま出てきたからだ。 あわてて 「真夜中のミサ曲」 のCDを調べてみたら、冒頭の曲はフランス伝統のノエルの旋律を用いて作られているそうで、つまり、フランスにあってノエルはそれほどに作曲家たちに利用されるものなのだということが、ようやく分かった次第。 ううむ、勉強が足りないなあ・・・・・。  なお、演奏はマリーナ・チェブルキナ、フランスはボルドーの聖十字架修道院のオルガンによる。 解説はフランス語と英語。 昨年末、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんにて、閉店セールの7割引で購入。

Beauvarlet-Charpentier: uvres pour orgue

 

1月1日(日)    *甲子園のヒーロー・田村投手の人生

 明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願い申し上げます。 今年は大きな災害のない年でありますように。

 新潟市は、午前中は晴れていたが、昼ごろから雲が出て雪の舞い散る天候となった。 午後、初詣に出かける。 といって、私は有名なところは混んでいるから嫌で、去年はそれでも娘が要望するので弥彦神社までクルマで出かけてだいぶ時間を食ったけど、今年は省エネで行きたいと考えていた。

 近所の内野にある無名の神社だと近いし混まないしいいと思うのだが、妻が無名神社を差別(?)していて反対するので、今まで行ったことはないが寺尾の旧国道沿いにある神社に出かけた。 といってもその神社は駐車スペースが狭く、すでに入場を待つクルマが何台も数珠繋ぎになっているので、そこから歩いて5分ほどの某スーパーの駐車場にクルマをとめる。 といっても妻のクルマであるが。

 以前は寺尾に住んでいたことがあるにも関わらず、この神社に来たのはまったくはじめてである。 高台の上にあるので道路からはよく分からなかったが、階段を上ってみると本堂は結構立派だし、内野の無名神社とはやはり格が違う感じだ。 参拝客も結構多く、行列に並んで参拝を済ませるまでには10分くらいかかった。

 それはさておき。

 元日の新聞、何か面白い記事はあるかなと思ったら、毎日新聞が社会面で田村隆寿投手の現在を報告する記事を大きく載せていて、おやと思う。

 http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20120101ddm041040098000c.html  

 彼の名は、高校野球のコアなファンなら知っているはずである。 1971年の夏の甲子園、東北地区 (福島県と宮城県。当時はこの2県から1校が甲子園に行っていた) 代表の磐城高校は下馬評をくつがえして勝ち進み、決勝で惜しくも敗れた。 準優勝の立役者が、身長165センチの小柄な体ながら抜群の制球力で有力校の猛打者を押さえた田村隆寿投手であった。 「小さな大投手」 と呼ばれた彼は、一躍有名人になった。

 ちなみに1971年は私がその磐城高校から大学に進学した年でもある。 つまり田村投手は私の1年後輩ということになる。

 田村投手はしかし、体格ゆえにプロへの道が望めないことは、本人にも当時から分かっていたようである。 それからしばらくして、田村が母校である磐城高校の野球部監督に就任したというニュースを聞いた。 そして監督として田村はふたたび甲子園の土を踏んだ。

 それから数年後、同じ福島県内の、野球に力を入れ始めた私立高校に招かれて監督を務めたこともあったと記憶する。 そのころまでは田村投手の消息は比較的はっきりしていた。 しかしその後、たぶん三十代後半か四十代になるころからだったと思うが、彼の消息は新聞等には載らなくなった。

 ちゃんとやれているのかな、と私は思っていた。 私は別に田村の友人ではないし、単なる知り合いですらない。 また野球ファンでもないし、磐城高校は甲子園へは私の在学中にも行っているのだが、一般生に対する応援団の募集にも全然乗る気がない人間であった。 むしろ、野球部は高校内では数あるクラブの一つに過ぎないのに何かと優遇されていることに批判的な気持ちを抱えていた。

 私が田村投手のその後を気にしたのは、若くして日本中に名が知られるということは重圧になるからだ。 高校野球の監督をやっていられる間はまだいいだろうが、いつまでそれが続くのか分からない。 しかも無名の人間ではなく、日本中に名が知られた人なのだ。 それが逆に人生航路を困難にすることはないだろうか・・・・・そう思っていた。

 そしてこの元旦に毎日新聞に載った記事は、私の気がかりが杞憂ではなかったことを明らかにしていた。 詳しくは上記リンクからお読みいただきたいが、彼は膨大な借金を抱え込んでいたのだ。 それも賭け事や酒で、である。 そして自己破産。 かつての甲子園のエースは、あまりに悲惨な転落人生を歩んでいた。

 記事は、東日本大震災による故郷の危機と、それを機に人生を建て直そうとする田村の決意を書いている。 はたしてその通りになるのかどうかは分からない。 けれども重圧に負けた彼を責める気にもなれない。 マスコミは気まぐれで、力弱いひとりひとりの人間を勝手に持ち上げたり落としたりする。 故郷の再生とともに、田村が今度こそ堅実な人生を歩んでいくよう祈るばかりである。

 

 

 

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