前にも書いたことがあるが、産経新聞の連載小説が面白いので、改めてここで褒めておく。
黒木亮の 「法服の王国」 である。 すでに連載400回近くになっているが、まだまだ続きそうな気配だ。
裁判所や裁判官の内実に切り込んだ小説というだけでも面白そうな気がするが、戦後日本で大きなニュースになった青年法律家協会問題や、まさにホットな話題である原発訴訟などをも取り込んだ、リアルという言葉がよく当てはまる内容なのだ。
個々の最高裁長官の経歴や性格なども描写されていて、裁判所という場所で人事がどのように行われているかもよく分かってくる。
また、物語の上では、出世コース (つまり最高裁判事につながりそうなコース) を歩く裁判官・津崎守と、逆に地方裁判所回りで終わることを覚悟の上で自分なりに良心的に職務を果たそうとする裁判官・村木健吾の二人を中心に据えているが、これまでは山崎豊子の 『白い巨塔』 に出てくる権力志向型の医学部教授・財前五郎と良心派医師・里見脩二みたいに対立関係として描かれてきたように見えたのだけれど、最近になって二人に接点ができそうな具合になってきたのも、興味深いところだ。
新聞の連載小説は、かつては娯楽の王様に近い位置にあったが、今どきはかなり存在感が低下している。 しかし、中には面白い作品もあるのであって、「法服の王国」 はそうした例の一つと断言できるのである。
先々月、先月と、毎日新聞の 「月刊ネット時評」 がダメであることをこの欄で批判してきたが、本日掲載された今月分、つまり宇野常寛の 「いじめ問題 『学級』 という箱を解体せよ」 もひどかった。 これで3連敗である。 執筆陣の総入れ替えをお願いしたい。
宇野は、いじめ問題の解決には、ゲームのルール自体の改善が必要だと述べている。 学級制度こそがいじめを深刻化させているもののひとつだという。 子供は学級内で人間関係の 「箱」 の空気を読む訓練を高校まで12年間もさせられているし、学級という空間から逃れることができないから、その内部での役割も固定化してしまう。 大学のように、授業やクラブ活動を学級という縛りがなく選べるようにすれば、人間関係の固定化は起こりにくいし、自分で自分に合った箱を発見し、箱ごとに距離をとるという、現代社会に合致した人間の養成にもつながるのだ、という。
・・・・・うーん。 評論家って、この程度のことしか言えないんですかね。 困っちゃう。 この程度の文章でカネが入ってくるなら、私も評論家になりたいな。
宇野の議論は、学校教育の基本を全然ふまえていない。 以下、具体的に指摘しよう。
第一に、小学校のような基礎教育に、大学のような授業選択制がなじむのかという基本的な問題がある。 国語は嫌いだから選びません、算数は面倒くさそうだから取りません・・・・・というようなことをやっていて、義務教育が機能するのだろうか。 学力低下が一気に進むだけのことではないか。
第二に、宇野はいじめを固定的な人間関係から来ると捉えているようだが、その捉え方は古いのではないか。 現代のいじめが、昔の、いじめっ子が特定の子供にガンをつけていじめるのと根本的に異なっているのは、いじめる側といじめられる側の逆転が起こりがちで、つまり役割が流動的になっていることなのである。 つまり現代のいじめは、現代社会のあり方そのものが昔と違ってきているということにも起因していると考えられるのである。 もし宇野にそれが分かっていないとすれば、単にいじめについて不勉強なだけではなく、現代社会についても不勉強だということになり、したがって評論家失格ということになるのではないか。
第三に、学級制度により人間関係が固定化しても、それが必ずしもマイナスにだけつながるとは限らない。 一定の人数の中で自分の役割がどこにあるのかを何となく理解し、学級全体で協力して何事かを成し遂げていく術を学ぶのだって、学校教育の一つの目的なのである。 言うまでもなく、社会人になって会社勤めをしても同じ問題はつきまとうからだ。
第四に、宇野の発想は1学年あたりの人数が多くて何クラスもあり、選択制度が人間関係の変化につながる大規模校をベースにしているということだ。 現実には少子化が進み、小規模校が増えている。 1学年に1クラスしかない学校で選択制度が不可能であることは言うまでもない。 また1学年2クラスであったとしても、クラス入れ替えで半分しか生徒は変わらないから、人間関係の流動化は起こりにくい。 これは人ごとを言っているのではない。 現に私の子供たちも、1学年2学級の小学校に通っていたのである。 政令指定都市である新潟市において、である。
では実際には小規模校はどの程度あるのだろうか。 以下のURLは仙台市のサイトであるが―― 「小規模校」 で検索したらこの例が最初に出てきたのでここに引用したまでのことである――これによると、平成19年度で仙台市内の小学校の平均学級数は15だとされている。 つまり、学年あたりだと平均2,5学級ということになり、ということは中には1学年1学級や2学級の小学校も珍しくないだろうと推測できるのである。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/tekiseika/ittei/index.html
以上、宇野常寛の議論は、教育の現実や基本をまったく踏まえていないタワゴトであることが理解いただけたと思う。 こんな文章載せてカネ取るなよ。 毎日新聞はしっかりと人選をやり直してもらいたい。 なお、宇野常寛の文章はネット上の毎日新聞には掲載されていないので、紙の毎日新聞でお読み下さい。
いただいたので、紹介しておきます。 一般にはあまり名が通っていないが (私も知りませんでした)、『女性の権利の擁護』 を18世紀末に刊行した英国の女権運動家・著述家の、一種の北欧紀行であり、形式上は書簡集の形をとったもの。 その方面に興味のある方には一読に値しそう。 訳者の石幡直樹氏は英文学者で、以前新潟大学教養部で英語を教えていたこともあり、現在は東北大学教授である。
本日の産経新聞・文芸時評欄で、担当の石原千秋・早大教授が、文科省の事業として行われてきた現代日本文学の翻訳紹介が「仕分け」によって中止されてしまったことを伝えている。 具体的には、加藤典洋が『新潮』に載せた批判文を引用しながら、仕分けを行った人間の実名を挙げつつ、みずからも批判している。
以下、核心部分を引用しよう。 (産経新聞のネット版には今のところ載っていない。 ただし文芸時評は先月分まではネット版に載っているので、そのうち載る可能性はありそう。 お急ぎの方は紙の産経新聞をごらん下さい。)
【(…) 加藤典洋の危機感と怒りは、文部科学省の平成24年度の 「事業仕分け」 で、文化庁が行ってきたJLPPという現代日本文学の翻訳事業プロジェクトが、デタラメといっていい評価によって、突然中止になってしまったことに向けられている。
問題の中心は、この 「評価者」 の中に翻訳はおろか、文学についてさえ一定の見識を持った人間が一人もいなかったこと、「評価者」 の一人である銀行員の示したデタラメなデータが一人歩きしたことにある。 加藤典洋はおそらく告発の意味で6人の 「評価者」 の名前を挙げている。 調べればすぐにわかることなので、伏せる必要はないだろう。 引用する。 「藤原和博 (教育専門家、東京学芸大客員教授)、和田義博 (公認会計士、税理士事務所長)、市川真一 (クレディ・スイス、チーフマーケットストラテジスト)、南学 (神奈川大学人間科学部特任教授)、鳥飼玖美子 (立教大学大学院特任教授)、小池保 (尚美学園大学芸術情報学部教授)」 である。 この 「事業仕分け」 の様子はニコニコ動画でも見ることができるという。
決定的なまちがいを犯したのは市川真一。 年平均470冊も翻訳されているから助成は不要と主張したのだ。 しかし、これは件数と冊数を取り違えていた。 例えば35篇の短編が収められた本なら35件だが、それを35冊と勘違いしたのだ。 ところがこの数字に誰も疑問を持たず、この数字が一人歩きして、「廃止」 となったのである。】
なかなかいいと思う。 特に、事業仕分けで廃止の評価をした人物の実名を出しているところがいい。
別に事業仕分けに限らず、例えば科研費だとか学内のプロジェクト申し込みだとか、日本ではまともに評価ができる人材は稀だから、むしろ悪平等のほうがいいというのが私の持論なのだが、ここではそれに加え、どういうわけでこういう面々を文学の事業仕分けに持ってきたのかも問われるべきだろう。 つまり、こういう面々を 「評価者」 に選んだ人間の名も出すべきだと思う。 それが文科省の役人ならなおさらのこと。 でないと、この種の 「仕分け病」 の病理を抉り出すことはできない。
こないだ読んだNYタイムスの記者マーティン・ファクラーによる 『「本当のこと」 を伝えない日本の新聞』(双葉新書)でも言われているんだが、日本の報道ではなぜか匿名報道が多い。 もっと実名報道をして欲しい。
個人だけではない。 先日、イジメが行われながら、イジメた生徒ではなくイジメられた生徒に退学勧告を出したという、恐るべき私立高校が仙台市に存在するという報道がなされたが、なぜかこの私立高校の名は出なかった。 報道してくれれば、そういうトンデモナイ高校には行かない、ということで生徒も自衛が出来るでしょう。 ちゃんと高校名も報道しなさい! えっ、その高校の営業妨害にならないかって? そんなトンデモナイ高校は、それこそ仕分けなきゃダメでしょ! つぶれたって構わないのだ。
本日の毎日新聞・時流底流欄に、ジャーナリストの小笠原みどりが、「国民総背番号制 韓国の現状」 という文章を寄せている。
国民総背番号制の導入は日本でも検討されているわけだが、小笠原はこの制度がすでに実施されている韓国の現状を報告し、国民の番号は本来秘密のはずが流出があいついでいること、流出した結果、オレオレ詐欺に使われていること、また政府の言論統制もこれにより行われる場合があること、などを伝えている。
まあ、そういうこともあるんだろうと思う。 ただ、何でもそうだけど、物事には長短両面があるわけで、国民総背番号制が実施されてよかったこともあるはずだが、小笠原はそれについては何も触れていない。
こういう、批判なら批判だけの一面的な議論がもう通用しなくなっている、ってことが分からないのはジャーナリスト失格ではないか。 長短両面を提示して、短所のほうが多いからやめましょう、というなら分かるんだけどね。 長所として誰でも思いつくのは、お金持ちの脱税が防げて、結果、失うもののない貧乏人には有利になるのでは、ということじゃないかな。
国民総背番号制は別段、韓国でだけ実施されているわけではない。 スウェーデンでも行われているし、税や社会保障など目的を限っての導入なら英米などでも行われている。
そうした様々な国の現状を報告し吟味するのが、ジャーナリストの役目であろう。 小笠原みどりは、そして毎日新聞も、反省してもらいたい。
なお、この記事はネット上の毎日新聞には載っていないようなので、紙の毎日新聞でごらん下さい。
歴史学の世界にポスト・コロニアリズムが常識となって久しいと私は思っていたが、本日の毎日新聞の 「View Point」 欄に掲載されたフランス国立科学研究センター准教授アルノー・ナンタ氏の文章を読むと、まだまだこれからだな、と認識を新たにさせられた。
最近日本が領土問題をめぐって中国や韓国と関係が悪化していることは周知のとおりだが、この文章は、日韓関係などを、ヨーロッパの植民地支配と同じ視点で研究することの必要性を強調したものである。
フランスは周知のようにアルジェリアを植民地支配していて、1954年から64年に及ぶ独立戦争の結果アルジェリアは独立を果たしたが、植民地支配についてフランスが謝罪したことはない。 この点については日本人の歴史学者は認識がいい加減で、数年前に新潟大学で行われたシンポジウムでは、あたかも時を同じくしてアルジェリアを訪問したサルコジ大統領が謝罪したかのような言い方をシンポでの発表者が行っており、しかもその誤りを指摘しようにもそもそも質問や討論の時間が全く設けられていないというトンデモ・シンポであり、私もこの欄でいかに新潟大学のシンポが低レベルで現実認識すらデタラメであるかを批判したことがある。
今回のナンタ氏の文章を読むと、西洋の研究者の間では世界で日本の植民地支配のみが過酷だった、とする 「日本特殊論」 が支配的だという。 これなど、私は驚いてしまう。 なぜなら、前・東大教授の山内昌之氏などは、日本の台湾支配はフランスのヴェトナム支配よりはるかに良心的だったと述べているからである。
ナンタ氏はさらに、第二次大戦後は連合国と枢軸国を対比的に捉える見方が支配的だったが、植民地支配ということで言うなら日本とオランダ、フランス、英国を比較したほうがいいのではないかと述べている。 そしてナンタ氏は最後にこう述べている。
「フランスではドイツと和解を達成した模範例ばかりが強調されるが、アルジェリアとの緊張関係は現在もなお続いており、植民地支配をめぐって和解した国は一つも存在しない。 アルジェリアの脱植民地から50年が経過した今こそ、フランスの植民地支配を見つめなおす必要がある。」
日本の歴史学者はこの辺をちゃんと調べてほしい。 日教組は (少なくとも新潟大の日教組は) 韓国が秀吉の朝鮮侵略を扱って作った映画の上映会なんかばっかりやっているけれど、真に学術的であろうと欲するなら世界規模での植民地認識をしっかりやってもらいたい。
なお、アルノー・ナンタ氏の寄稿はネット上の毎日新聞にはないようなので、紙の毎日新聞でお読み下さい。
本日の毎日新聞の書評欄を見たら、『ゲオルク・ビューヒナー全集 全2巻』 (日本ゲオルク・ビューヒナー協会有志訳、鳥影社、2巻で7140円) が取り上げられていた。 いやはや、ドイツ文学者は毎日新聞社本社に足を向けては寝られないね。 全国紙で、いや地方紙を含めた一般紙で、書評欄にこんな本を取り上げるのは毎日新聞くらいだろうな。 (書評は下記のURLから読めます。)
http://mainichi.jp/feature/news/20120819ddm015070006000c.html
そもそも、ゲオルク・ビューヒナーの名を知っている日本人と言ったら、ドイツ文学者以外ではごくごく少数であろう。 いや、戯曲 『ヴォイツェク』 がアルバン・ベルクによるオペラ 『ヴォツェック』 の原作になっているので、オペラ好きなら知っているのかもしれないが、まあいずれにせよ、ドイツ文学の中でもゲーテやシラー、リルケやマン、ヘッセやカフカに比べればきわめてマイナーな名前なのだ。
マイナーな名前ではあるけれど、実は翻訳のビューヒナー全集は以前いちど河出書房から出ている。 若くして亡くなった作家で作品数も少ないところから (私も学生時代に講義でビューヒナーが取り上げられたので、原書の全集を購入した。 といってもペーパーバックでたった1冊なのである)、訳して出すのが容易だったということもあろう。 むろんそれだけではなく、戦後になって再評価されてきたから、ということもある。
今回鳥影社から出た全集は、私はビューヒナーの専門家ではないので推測で言うのだけれど、ドイツ本国できちんとした批判版全集が出たから、ということなのだろう。 いずれにせよ、地味ながら学者として良心的な仕事をしている同業者がいることをここでアピールしておきたい。 教養部が解体したとたん、「ドイツ語は不要だ!」 と叫び始める情けない――むろん勉強もしていない――ドイツ語教師が複数いた新潟大学は、やはり日本のトップ水準から大きく遅れている、ということがこれで分かりますね。 今はともかく、昔の新潟大学は採用人事がいい加減だった、ということもここから分かる。
本国での研究が進んで、作家の新しい全集――テクスト批判 (批判とは綿密な校訂作業のこと) をへているので批判版全集という――が出て、それに応じて日本でも新しい翻訳全集が出ることは、多くはないが或る程度はある。 例えば臨川書店から出た 『ヘルマン・ヘッセ全集』 がそうだし、沖積舎から出た 『ノヴァーリス全集』 がそうだし、白水社から出た 『カフカ小説全集』 もそうだし、これは私も関わっているので手前味噌になるが、三元社から刊行中の 『シュトルム名作集』 もそうである。 用いている底本が、むかし出た全集や作品集とは異なっているのである。
思わずドイツ文学のことばかり書いてしまったが、本日の毎日新聞書評欄には、ほかにも、マーティン・バナール 『「黒いアテナ」批判に答える 上』(藤原書店、5775円) が取り上げられていたりする。 これは、NHKによる 『古代ギリシャ 知られざる大英博物館』(1890円) とセットで紹介されているのだが、古代ギリシャの文化的ルーツをどう把握するかは、今でもヨーロッパ人にとっては自分のアイデンティティに関わる問題であり、賛否両論を呼んだバナールの 『黒いアテナ』 の重要性が改めて強く印象づけられる。 本村凌二・東大名誉教授による書評の文章も分かりやすくていい。 (下記のURLから読めます。)
http://mainichi.jp/feature/news/20120819ddm015070015000c.html
もっともこういうコアな本ばかりが取り上げられているのではなく、マイケル・サンデルの 『それをお金で買いますか』(早川書房、2200円) などの今風(?)な本も書評の対象に選ばれている。
まあ、毎週こんなに充実しているわけではないけれど、毎日新聞の書評欄は、関川夏央いうところの知的大衆しかいない日本にあって珍しく知識人的な世界を形成している、と言えるだろう。
私が同窓会に出かけている間に国会では増税法案が通った。 増税は誰でも嫌なものではあるが、現在の日本の状況を考えればやむを得ない。 この法案を通した野田首相を賞讃すべきであろう。
野田首相は派手なパフォーマンスなどはないけれど、最近の日本の首相の中ではよく出来た人だと思う。 アメリカや英国の政府筋では、野田首相は最近の日本の首相の中ではかなりマシ、との声があるそうだけれど、私も同感である。 いや、別に私やアメリカや英国の政府が言わなくたってその通りと言うしかないのである。
何しろここのところの日本の首相は長持ちせず、しかも見識の疑わしい人間ばっかりだった。 考えても見なさい。 小泉純一郎首相のあと、自民党の安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、そして民主党の鳩山由紀夫、菅直人と、短命首相が5人も続いたのである。 そりゃ、外国からあきれられて当然でしょ。 いかに日本の政治家がダメかはここからしても歴然としているのである。
最近は保守系の雑誌で安倍晋三の再登板を望むという声があるけれど、冗談もほどほどにしてもらおう。 首相と評論家は違う。 首相として実績を挙げられなかった人間に再登板を願うなんてのはキチガイ沙汰。 言い換えれば、いかに政治家に人材がいないかの証明でしかないのである。 首相と評論家は違うと書いたけれど、鳩山由紀夫なんてのはその違いが全然分かってない人だったのだ。
別に歴代首相だけがひどいのではない。 今回の増税法案に関して分派行動に走った小沢一郎なんかも同レベルである。 東日本大震災、そして世界経済の不安定な動向という、いわば国難の時代に、総理の足を引っ張るようなことばかりやっている国会議員は、馘首ものの犯罪人である。
そこへいくと野田首相は政治家として立派だ。 よく、民主党は増税に反対していたではないかという人がいるけれど、そりゃ、日本の大衆は増税を主張する政治家に票を入れるほど成熟していないんだから、仕方ないでしょう。 むしろ自らの主張を改めるに躊躇せずに、自民党の首相がやれなかったことをやってのけた野田首相を讃美すべきでこそあれ、批判する理由はどこにもない。
私は本気で思う。 しばらく日本を野田首相に任せてはどうだろうか。 派手なパフォーマンスでニュース種になるようなことばかりしている地方自治体の某首長や某々首長なんかより、こういうふうに粘り強くことを進める政治家こそ、今の日本に必要なのである。
いわき健康センターを午前9時前に出発。 同窓生たちとは玄関で別れる。
本日は、帰りに新津美術館の手塚治虫展に寄る以外にはこれといって用事もないので、しかも予想外に早くいわき健康センターを追い出されたので――ふつうのホテルならチェックアウトは早くとも午前10時、気の利いたところなら11時だけど、ここは9時までに出ないと追加料金を取られる――、急がずに新潟に向かおうと、国道6号線バイパスから国道49号線に入り、しばらくは高速道を使わずにのんびりとクルマを走らせる。 国道49号線から、途中で県道349号に入り、小野町の近くを通過してさらに北上、県道288号に入って旧・船引町 (現在は旧・大越町などと合併して田村市) の市街地を通過し、船引三春インターから磐越高速道に入る。
途中は山間の、これといって特徴もない山村や小さな町だけれど、そしてクルマで通り過ぎながらの表面的な観察では分からないけれど、東日本大震災の影響はそれなりにあるのだろうと思う。
磐越高速道に入ってから、途中の磐梯山SAで休憩をとったが、土産物売り場を見たら、以前なら福島県の山菜などを利用した食品があったはずなのに、そういうものはきれいになくなっており、何とかまんじゅうだとか、かんとかせんべいだとか、無難なものしか置いていない。 悲しいことだと思う。 山菜や水産物などの地産品が堂々と土産物売り場に並ぶ日が早く来て欲しいものだ。
来たときと同じく津川インターで降りる。 私のクルマはETCが付いていないので、高速料金が高くつくため、こうして節約を心がけているのである。 それにしても、目的の新津美術館は結構遠い。 国道49号線からかなりはずれたところにあるのだ。 こんなにはずれているとは思わなかった。
で、どうにか新津美術館に到着。 新津美術館はもとは新津市美術館だったが、新津市が平成の大合併で新潟市の一部になったので、現在は新潟市新津美術館となっている。
手塚治虫展は2室を使って開催されている。 1室がマンガ、もう1室がアニメである。 手塚の代表作の生原稿だとか、製作過程、作品の特徴などなどが分かるようになっている。
手塚の業績については私などがここで言う筋合いのものでもないが、作品内容の幅の広さにおいては文句なしに日本マンガ界を代表する存在だと思う。 以前、講談社から手塚治虫全集が刊行されるとき私は新潟大学生協に予約を入れたが、そうしたらすでに予約は締め切ったという返事が来た。 新潟大学生協の言うところでは、あまり部数を出さなかったらしいという。 日本一の出版社がずいぶんけち臭いことをするものだ、と私は思った。 その後、手塚全集をこつこつ蒐集しようかと思いながら果たさない。 新潟大学を定年退職したらやろうかなとも思うけど、本を置くスペースがないから無理かな。
実は最近、定年退職後に本をどうするかを考え始めている。 研究室においてある本をすべて自宅に移すことは不可能だから、かなり処分するか、或いは自宅の庭にでも書庫を作るか、それとも本を置くために小規模でも中古住宅か1ルームマンションを買うか・・・・。 40代の頃は、中古住宅や1ルームマンションもありだと思っていたのだけれど (もっとも新潟は首都圏と違って1ルームマンションなんてそうそうないのだ)、年をとってくると段々弱気になってきて、また最近は公務員の退職金が削減されているし、日本全体で老齢化が進む中で年金にどこまで頼れるかも分からないし・・・・ということで、処分の方向で行かざるを得ないかな、という気持ちになってきている。 とすると手塚治虫全集を蒐める、などというのはトンデモナイ、という結論になってしまう。 うーん・・・・・。 どこかから遺産でもころがりこまないかなとも思うけど、金持ちで子供のいない伯父さんだとか伯母さんなんてのは、私にはいないんですよね(笑)。
手塚展を見終えた後、美術館の近くにある蕎麦屋で遅めの昼食。 蕎麦は嫌いではないが、満腹にならないわりには高価なのが困る。 この店も、天ざるだと1200円もする。 といってざる蕎麦だけだと物足りないし。 仕方なく、天ざるよりは少し安いということでミニ天丼セットにする。 これでも千円を少し越えるんですが。 味は悪くないが、蕎麦屋はコストパフォーマンスが悪いので、私はあまり行かない。 今回は同窓会の直後ということで特別である。
ホテルで朝食をとってから愛車に乗って出発。 平から鹿島街道を南下して小名浜へ向かう。
鹿島街道は、いわき市の二大地区、すなわち商業と行政の中心である平地区と、港があり産業の中心である小名浜地区を最短で結ぶ道路である。 二大地区を最短で結ぶのだから昔からあったかというとそうではなく、私は小名浜に住んでいて高校時代はこの街道を走るバスで平に通っていたわけだが、往復二車線の舗装道路としてできたのは、私が中学の頃 (昭和40年代前半) だったのではないかと思う。 私が小学生の頃 (昭和30年代) は、ときどき日曜日に一家で平に買い物に出かけたりしていたが、当時小名浜から平に行くには小名浜と湯本 (今はフラガールで有名なハワイアンズがあるところですね) を結ぶ大原街道を北上し、国道6号線に入って、湯本、内郷を通って平まで行くバス路線を利用していた。 土地勘のない人のために図形で説明するなら、円に垂直な縦線を入れて二分するとする。 円と縦線が上部で交わるところが平で、下部で交わるところが小名浜である。 そして垂直な縦線が鹿島街道、円の左側の曲線が大原街道と国道6号線を通る路線、ということである。
その鹿島街道も、私が高校生だったころは往復2車線だったが、今は往復4車線になっている。 今回、私は約10年ぶりでこちらに来たのだが、前回来たときは小名浜の中心部に近い部分はまだ2車線のままだった。 しかし今回通ってみると小名浜の中心にいたる部分、つまり小名浜地区の警察署であるいわき東警察署から、小名浜支所とカトリック教会のある十字路までの部分も4車線に拡大されていた。
その、支所と教会のある十字路で左折する。 諏訪神社に参拝するためである。 諏訪神社は小名浜地区の東部の、小名浜東小学校に近いところにある神社である。 その歴史はよく知らないが、もともと小名浜は漁港として開け、やがて常磐炭田から出る石炭の積出港となり、その後はこの地区に進出した化学系企業の原料や製品の出入りによって、港も街も西に向かって拡大していったという歴史を持つ。 だからもともとの漁港がある東側のほうが歴史上は古いはずで、したがってこの神社もそれなりの歴史があるのではないかと思う。
といっても、この神社に参拝するのは、昔、私が通っていた若木幼稚園の園長がこの神社の神主さんで、それで幼稚園時代はときどきこの神社に園児全員で参拝に来ていたから、という理由である。 しかし久しぶりに来たので、途中道を間違えてしまい、ええと、神社は森に囲まれていたから、というように樹木の固まっているあたりと見当をつけてたどりつく始末だった。
私が幼年時に物心がつき始めたとき、両親と私は小名浜の横町の民間借家に住んでいた。 当時小名浜地区の銀座通り商店街の裏手に小名浜第一小学校と小名浜第一中学校が並んで建っていたが、そのすぐ東脇が横町である。 私が生まれたときは、父母は父の勤務する日本水素 (現在は日本化成) の弁別地区にある社宅に住んでいたらしいのだが、その頃の記憶は私にはない。 なぜ弁別の社宅から横町の民間借家に引っ越したのかもよく分からないのだが、借家は何軒か並んでいて、いずれも父の同僚が住んでいたので、多分家賃が安くて社宅よりは広いというような情報を父が同僚から聞いて、ということなのではないかと思う。
その横町の借家からいちばん近かったのが若木幼稚園だったのである。 諏訪神社に参拝したあと、昔の小名浜第一小学校の跡地、現在はショッピングセンターとその駐車場があるが、その駐車場にクルマをとめて、昔借家があったところから幼稚園まで歩いてみる。 大人の足ならすぐだが、幼稚園児の私には結構な距離と感じられていた。 小名浜の銀座通りの北側にあって銀座通りと平行に走っている道路である。 途中、この通りと銀座通りを結ぶ脇道があるのだが、そこに映画館がある。 むかしは 「国際」 という名の映画館で、私はここで父と一緒に 『モスラ』 などを見た。 その後、グリーン劇場・ローズ劇場などと名を変えて営業を続けていたらしいが、残念ながら数年前に廃業した。 結果、現在は小名浜地区には映画館は存在しない。 廃業した映画館の建物だけはそのまま残っている。 (小名浜地区の映画館としては、ほかに銀座通りを南側に入ったところに、金星座と銀星座というのがあった。)
(↓ 小名浜の横町に残る石造りの建物。 これだけは私の幼稚園時代からそのままである。)
(↓ 小名浜最後の映画館だった建物。)
東日本大震災の被害は、いわき市では津波にモロに襲われた豊間地区が特にひどかったらしい。 小名浜の街は歩いてみるとさほど被害があったとは思われない。 ただ、幼稚園の近くのしもたやで、道路に面した部分のシャッターが歪んで壊れていた。 多分地震のせいで、家にもう人が住んでいないので放置状態なのであろう。 銀座通りがさびれているのは平地区と同じであるが、それでも昔幼児期の私が利用していた 「ハバナ」 という理髪店は健在だったし、現在のショッピングセンター前、昔なら小名浜第一小学校前の昭和堂という文具店もまだあったし、銀座通りの途中を南側に入ったところにある村上歯科もやはり健在だった。 私の幼稚園時代、この村上歯科の息子が私と同級で、そのせいで時々遊びに行っていた家でもある。 私は小学校1年生の秋に横町の借家から父の勤務する会社のすぐそばにある高山社宅に引っ越し、したがって小学校も2年次から転校しているので、村上歯科の息子さんとも別の学校になったが、高校ではふたたび同じになった。 現在の村上歯科は、その私の同級生があとを継いでやっているはずである。 私の幼稚園時代はお父さんがやっており、おじいさんも同居していたから、たぶんおじいさんの代から歯科でやっていたのだと思う。 しかし、村上歯科の近くにあった馬上鮮魚店はなくなっていた。 ここの息子がやはり幼稚園で私と同級で、そのせいで私はやはり時々遊びに行っていた。 前回、10年前に来たときはまだあったのだが。 ただし私の同級生だった鮮魚店の息子は次男だったから、たぶん跡は継いでいないと思う。
東邦銀行の建物は昔のままだったが、現在は銀行としては使われておらず、別の業者が入っているようだ。 いくらなんでも撤退したわけじゃないだろうな、と思う。 何しろ東邦銀行は福島県のトップ銀行だし、近くにある常陽銀行 (本拠地は茨城県) や七十七銀行 (同じく宮城県) がそのままなのに福島県の銀行が撤退するわけはないだろう、それとも東邦銀行は経営が苦しいのだろうか、と考えたりした。 (あとで調べてみたら、近くに移転したらしい。) むかし、ここに銀行ができる前に、この地所を所有していた家の息子が、やはり幼稚園の同級生だった。 彼とは、私が上記のように小学校の一年次途中で社宅に引っ越したので小学校は別になったが、中学と高校は同じであった。 かなり変わったところのある男で (私も変わっていると言われることが時々あるが、彼の変わり具合は私などの比ではない)、母親が抑圧的な人だったこともその原因のひとつだったらしく、あるとき (中学生時代) 彼は電話で母親と話していたが、途中で立腹し、「あの女、何やってんだ!」 と叫んだのは、わりに有名な話である。 さすがに自分の母親を 「あの女」 と呼ばわるのは、並みの人間にできることではない。 彼は高校卒業後、いったん茨城大学工学部に進学したが、つまらないと言って退学し、福島県立医科大学に入り直した。 そこで精神医学を専攻したようで、いちおう卒業してその方面の医師として活動していたが、精神医学をやる人というのは自分自身も精神に問題がある場合が多い、というのが私の持論なんだけれど、彼もそうだったようで、詳細は不明だがあまり順調な人生ではなかったようである。 同窓会にも、出たためしがない。
*
というふうに幼児期の記憶にある場所をひととおり歩いてから、クルマに乗ってアクアマリンふくしまに向かう。 小名浜港の第二埠頭にある。 ここを訪れるのは私は今回が初めてである。 そもそもできたのが西暦2000年7月だから、約10年前にこの地を訪れたときにはまだ出来て間もなかったということになる。 今回ここを訪れたのは、中学1・2年次の担任だった高橋安子先生が、同窓会でお目にかかるのを楽しみにしていたが都合で出られなくなった、というお手紙にチケットを同封して下さったからである。 駐車場を見ると、福島県外の、東北地方や関東地方のナンバーを持つクルマがほとんどである。
アクアマリンふくしまというと、魚を生きたまま飼っていて見られるのが売りなのかと思っていたが、無論そういう面もあるけれど、海の生物の進化だとかを学術的に、しかし分かりやすく解説することに重きが置かれているようである。 本来は学術のための場所で、一般公開もやってます、というところだろうか。 シーラカンスの調査も、インドネシアまで出かけてやっているそうだ。
そのシーラカンスだが、さすがに生きた姿では見られないけれど、剥製が展示されていて、1メートル余りあり、シーラカンスってこんなに大きな魚だったのかと驚いた。 映像室もあり、そこでシーラカンスに関する短篇映画が上映されているのを見たら、昔はシーラカンスと言うとアフリカの東海岸にしかいないと思われていたのが、何年か前にインドネシアでも発見されたのだそうである。 きっかけは、アメリカの若い海洋学者が新婚旅行でインドネシアに行き、魚市場を歩いていたら、変な魚が (むろん食用として) 売られており、これ何と新婚ほやほやの奥さんから訊かれてよく考えてみたら、あっシーラカンスだ、という経緯だったそうだ。 系統的には、インドネシアとアフリカのシーラカンスは少し異なっており、おそらく遠い遠いむかし、インド亜大陸がアフリカとくっついていた頃には同じ系統だったのが、インドがアフリカから離れてユーラシア大陸にくっついたときに一緒に移動してきたシーラカンスが現在インドネシアに棲んでいるのだろう、アフリカのと分かれてからかなり時間がたっているのでDNA的にも少し違っているのだろう、ということである。 アクアマリンふくしまの調査により、インドネシアでの生息場所も判明してきたとのこと。 また、シーラカンスは表面に白い斑点があり、それが個体ごとに異なっているので個体が識別でき、数年に及ぶ調査で同じ個体が発見されたりするのだそうである。
こういう風に映像で説明してもらうとよく分かるな、と思う。 この映像室ではもう一本、日本の太平洋岸で親潮と黒潮が交わる潮目についての短篇映画も見た。 秋刀魚がどういうふうに生殖をして稚魚が生まれ成長していくかが分かった。 私としては、魚の標本や実物を見せられるより、映像で説明してもらったほうが分かりやすいし、できたらそれで済ませたいなと思ってしまうのは、やっぱり生物学なんかには向いていない人間だからか。
アクアマリンふくしまにはレストランもある。 見たら、鯨カツ定食もあったので、それにした。 東京の渋谷にあるくじら屋は上京時に時々利用しているが、あそこは空揚げ定食や刺身定食、ステーキ定食はあるけれど、カツ定食は確かメニューにない。 むかしはその辺のスーパーの惣菜コーナーにも当たり前のように鯨肉のカツが売っていたものだが。 というわけで、思いがけなく鯨カツを久しぶりに食べることができました。 もっとも、よく考えてみると、1年前くらいだったか、新潟大の生協食堂でも鯨カツをご飯に載せた丼モノを出していて、私も食べたことがあったか。 いずれにせよ、鯨カツは鯨料理の中でも庶民的だししかもうまい、というのが私の考えである。
おみやげコーナーをのぞいたら、いわき市の文学碑を集成した本があり、コンパクトな体裁で価格も千円しないので、購入。 水族館で文学碑の本を買うというのもナンだけど、昨日はヤマニ書房で郷土史の本を探してみたのだけれど、ないことはないが価格や内容に納得がいくものがなかったので (専門的過ぎる、高価すぎる)、この辺で妥協しておこうと考えたもの。
*
このあとクルマで、小学生時代をすごした高山社宅の跡地に行ってみる。 これはとうの昔になくなっていて、大部分は平地になり、一部は林と化している。 二十年前にすでに社宅はなくなっていたのだが、当時はまだ講堂など一部の建物は残っていた。 今は、会社が経営する総合病院である日本化成クリニック (私の子供時代は、社名が現在の日本化成ではなく日本水素だったので、水素病院と呼んでいた) の2階建ての建物だけが昔のままに残っているだけである。
当時、つまり昭和30年代の社宅というのは、単に住宅が建っているだけでなく、このように病院や講堂、理髪店、売店 (今で言うスーパー)、無料の浴場 (社宅の大半は風呂付だったが、自宅で沸かさずここに入りに行くこともあった)、子供が遊べる広場 (当時は男の子の遊びと言うとほぼ野球しかなく、私も学校が終わるとここで毎日のように野球をやっていた) などなど、ひととおり生活に必要な施設は揃っている場所でもあった。
社宅内で揃わないものは、業者が届けてくれた。 例えば薪と石炭である。 社宅の家風呂は薪と石炭で焚く方式だったので、これらは必需品だったし、私も手伝いでよく風呂焚きをやった。 (ちなみにその前に住んでいた横町の借家には家風呂がなく、並んで建っている借家の一軒だけにあったので、そこで風呂を借りるか、或いは近くの公衆浴場に行くか、いずれかであった。)
私は中学に入ると間もなく岡小名にある新しい社宅に引っ越した。 高山社宅は木造住宅だったが、岡小名社宅は鉄筋コンクリート作り2階建てのテラスハウスで、モダンな感じがした。 風呂もガスで焚く方式に変わり、トイレも水洗に変わった。 ここに引っ越したのが昭和40年。 この頃からようやく地方都市にも高度成長の波がはっきりそれと分かるように押し寄せてきたわけである。
ちなみにその岡小名社宅も今はなくなっている。 岡小名は、上に述べた鹿島街道沿いの、いわき東警察署と小名浜支所との間にある。 高山社宅が会社のすぐそばで海に近かったのから比べると、(岡小名という地名がそもそもそうなのだが) 内陸部である。 社宅に限らず小名浜の街は、昔に比べると全体的に内陸部に移ってきていると言える。
このあと、大原方面にクルマを走らせ、むかし二つ橋と呼ばれていたあたりに行ってみる。 二つ橋というのは正式の地名ではないが、大原街道を少し北上したところから西側に入り、藤原川のほうに進んでいくと橋が川の中途にある島を経由して二重にかかっているので、子供たちはそう呼んでいた。 その先は当時農村地帯で、会社や工場関係の人間が多く住んでいるこちら側とは異なる世界に入っていくような雰囲気があった。 しかし、高校生になって以降は行ったことがなくて道筋も忘れているし、昔より途中が住宅街としてたて込んでいるしで、結局見つけることができなかった。 或いは、古い橋自体はもう存在せず、新しい橋は二重には掛かっていないのかもしれないが、その新しい橋自体がどこにあるのかよく分からないという始末。 時の流れは恐ろしい。
*
それから、同窓会に出るために、「いわき健康センター」 なるところにクルマを走らせる。 国道6号線バイパス (このバイパスも私がいわきに住んでいた頃は存在しなかった) の、平行して走っている常磐線の駅名で言うと泉と植田の間くらいにある施設である。 といっても同窓会の会場がここなのではなく、私の所属していた3年2組が同窓会終了後にここで二次会をやり、さらにそのあとここに宿泊もするというので、私のようにクルマで来ている人間はここの駐車場にあらかじめクルマをとめて、同窓会開始1時間前の午後3時に同窓会会場の差し向けるバスに拾ってもらうことにしたのである。 言うまでもなく、同窓会場に直接クルマで乗りつけると、酒を飲んだあとは乗れないから、翌日わざわざクルマをとりに出向かなければならなくなるからだ。
私のようにここでバスに拾ってもらう同じクラスの同窓生は、ほかに2人。 いずれも首都圏からクルマで来た。 F君は私と高校も同じで、その後東京電気大を出て首都圏の企業に就職したが、やがて仲間と一緒に新しい会社を設立、現在に至るまでその会社の運営に携わっている。 彼はカッコよくフォルクスワーゲンのゴルフでやってきた。 集合時刻ぎりぎりになって、もう一人のK君も、大きなワゴン車で到着。 彼も高校まで私と同じで、その後埼玉大学理工学部に進学、卒業後は民間企業に勤めるのかと思いきや、埼玉県の中学理科教員となった。
私を入れて3人を乗せて、バスは同窓会会場の 「パレスいわや」 に向かう。 鹿島街道の平と小名浜の中間くらいにある結婚式場である。 なぜ結婚式場が同窓会の会場になるのかというと、ここの女将が同窓生だから。 学年全体の同窓会は、われわれが42歳のときに初めて行われ、それが第1回で、その後6年おきに開催されている。 会場はいつもここ。 今回は4回目ということになる。 私は前回の第3回は欠席したが、それ以外は出ている。
まず、全員で写真を撮る。 今回配布された式次第の冊子には、式次第以外に同窓生の名簿、そして前回までの3回の同窓会の集合写真も掲載されていた。 そこから判断して、これまで4回行われた同窓会は、参加者数で言うと第1回が最も多く、150人近かった。 学年全体の人数は約500人だから、3分の1近くが集まったということになる。 卒業後25年余りを経ての初めての同窓会だったので、懐かしさのあまり来る人も多かったのであろう。
その後、6年ごとに同窓会は開かれているが、第2回、第3回と続くにつれて参加者は減っていった。 第2回は65人ほど、第3回は (私も欠席したけれど) 55人くらいである。 第4回の今回は100人弱が集まったから、第1回に次ぐ盛会ということになる。 やはり60歳で還暦、人生の節目という意識と、昨年の東日本大震災で故郷を案じる気持ちが募って、ということがあろう。
われわれの学年は1・2年次がクラス替えがなく全10クラス、3年次になってクラス替えがあり全11クラスとなった。 同窓会の連絡通知も3年次のクラスごとに行われており、地元に残っている有志が幹事をやっている。 わが3年2組は14名が参加し、全11クラスの中で最も多い参加者数を誇っている。 いちばん少ない某クラスは、幹事をやっている女性1名のみ参加。 クラスにより結束力の差が出てますね。
ちなみにわがクラスの参加者は、男性8名、女性6名。 男性は地元に残っているのは1名だけで、首都圏在住者5名、三重県四日市から来たE君、そして新潟在住の私である。 女性は、地元3名、首都圏2名、仙台1名。
学年全体を見ても、多くは地元在住か或いは首都圏在住である。 それに次いで多いのは隣県の茨城県、それから福島県の他地域の順となる。 こうしてみるといわき市は福島県ではあるけれど、地政的には首都圏に次いで茨城県とのつながりが強いことが分かる。 以上に挙げた以外の地域は少ない。 だから私のように新潟に住んでいるなんてのは希少価値があるし、四日市から参加したE君はもしかすると今回参加した100名弱の中では最遠隔地ということになるかもしれない。
名簿を見ると、Sさんの住所が福岡県になっているのが目を惹く。 さすがに九州在住というと他にはいない。 Sさんと私は偶然3年間同じクラスだったのだが、彼女は以前は首都圏に在住していたはずで、同窓会にも出ていたし、10年ほど前に(私が新潟にいるからというだけの理由で)新潟でやったクラス会にも参加していた。 福岡県に移ったというのは、詳細は不明だが、夫君が福岡県の人なのかもしれない。 今回は欠席だったのも、福岡からだとさすがに遠いから、ということなのかもしれない。 もっとも、彼女は小さいときに小児麻痺にかかって、成長しても少し足を引きずるようにして歩いていた。 それでも中学生時代は杖などは不要だったのだが、10年前のクラス会のときは杖を持参していた。 年齢によって体が若いときほど自由に動かなくなっているから、ということも考えられる。 ・・・・同窓会に出ると、欠席の人についても色々考えたりするものである。
みな60歳、ということは当然ながら死んだ同窓生もいるということだ。 わが3年2組も男女各1名が亡くなっている。 もっとも、男性のほうは中学時代から病気持ちで二十歳前後で亡くなったものである。 また、住所不明の人もそれなりにいるから、亡くなった人はもっと多いかもしれない。
1・2年次のクラスの同級生では、女性2名が亡くなっている。 そのうち1人は中学生時代から肥満体だったので、まあそうかなという気がしたけれど、もう1人はいかにも健康そうな人だったので、ちょっとびっくりした。
・・・・学年全体で見ると、不良がかっていた男性2名も故人となっている。 これも、まあそうかな、と思う。 このうち1名については私は嫌な思い出がある。 小学生高学年のときだが、いきなり殴られたのである。 彼とは同じクラスになったことが (その後の中学でも) なく、顔見知りではなかった。 話をしたことすらない。 殴られたのも、喧嘩をしたとか言い合いになったとかいうのではない。 その辺を歩いていて、たたまたすれ違ったとき、すれ違いざまいきなり殴られたのである。 からかいでちょっと叩くというレベルではない。 本気でこちらのみぞおちに思い切りパンチを食らわしてきたのである。 そしてその後何も言わずにそのまま歩いていった。 子供にはこういう気違いじみた奴が一定数いるから、学校は危険な場所で、したがっていじめなどの際には教員はちゃんと対処すべきだ、というのが私の持論である。 事なかれ主義者は教師になるべきではない。 ちなみにこの男は体も大きく、中学時代は剣道部だったが、当時の剣道部は不良の巣窟という趣きがあった。 よく高校野球で部員が不祥事を起こして甲子園出場辞退、なんてニュースが流れるけれど、スポーツをやる奴には一定の割合で不良が混じっているに決まっているじゃないか、というのも私の持論である。 高校野球部員を一人残らず聖人君子のごとくに見る輩が非常識なのである。
われわれが60歳、ということは当然ながら恩師はかなり年をとっているということで、今回の出席は3名のみ。 いちばん若いM先生で78歳だそうである。 私の1・2年次のクラス担任だった高橋安子先生がご都合で欠席なのは上述のとおりで、3年次の担任である吉野昌男先生も、ご存命だが体調不良とのことでご欠席。 吉野先生は、われわれの担任だったときに次男が誕生されたので、今風に言うとサプライズでプレゼントをしようと生徒たちが画策したという思い出がある。
今回わが3年2組がいちばん参加人数が多いということは上に書いたとおりだが、どういうわけかテーブル(結婚式場なので丸テーブルがいくつか)では3箇所に分散して配置された。 人数調整のためらしい。 クラスにより参加者数がかなり異なっているから、人数が多いクラスは分散、ということになるようだ。 私は、10組の人たちと同じテーブル。
何しろ1学年500名もいる学校だったので、同じクラスにならなかった人については顔もろくに知らないわけで、感慨をもよおすこともないわけだが、このテーブルにいた中では10組だったKさんが、ああ、この人はこういう風に年をとったのかな、とちょっと感慨をもよおさせてくれた。 彼女はたしか小学生時代に一度だけ同じクラスになったが、成績優秀で字の上手な人であった。 どんなに乱暴に書いても達筆になってしまうという、字の下手な人間からするとうらやましい才能の主だった。 中3のとき、たまたま学校の読書感想文発表大会で彼女と私が学校代表になり、一緒に地区大会に出た。 その後、地元の成績優秀な女子が行く磐城女子高校に進学したが、私とは別の高校だからその頃には顔を見る機会もなかった。 たしか首都圏の大学に進学したはずで、現住所も首都圏だから、たぶんあちらで家庭を築き、子供も独立したということで参加したのであろう。
別のテーブルにいたTさんが、子供が新潟大で勉強していたんですよ、と教えてくれた。 それは知りませんでした。 Tさんは3年次に隣りのクラスの副委員長をしていた才媛で、やはり磐城女子高に進み、福島県の中学教員になった。 現在は福島市在住のようである。
ちなみに、KさんやTさんは地元を離れたわけだが、大雑把な傾向として、男子だと成績優秀者は地元に余り残らないけれど、女子は男子に比べると残る割合がやや高いようである。 つまり、地方都市在住の男性は才媛をお嫁さんにする可能性が高い、ということになるのではないか。 ここには具体的なことは書かないけれど、同窓生でモロにそういう例があるので。
閑話休題。 同窓会ではしかし、いちばん会いたいと思っている人にはまず会えない、というのもまた真実である。 これも詳しくは略しますけど。
最後に校歌を歌ってお開きとなるが、同じ 「パレスいわや」 内に二次会の会場が設定されているということであった。 しかし、わが3年2組は二次会会場を上述のように 「いわき健康センター」 に設定していたので、「パレスいわや」 のバスに乗って早々会場を後にする。
この 「いわき健康センター」 というのは、温泉浴場をベースにして、飲めるスペース、マッサージ器械にかかれるスペース、などなどを併設したところのようだ。 われわれは飲めるスペースで二次会をやり、そのあと宿泊することになったのだけれど、あらかじめ聞いていたところでは 「みんなで雑魚寝する」 ということであった。 私は、(むろん男女別で) 一部屋確保してそこに布団を敷きつめて寝る、くらいの意味かと理解していたのだが、そうではなく、そもそも旅館のように宿泊客ごとの部屋の用意などはなく、「仮眠室」 という大きなスペースが男女別に1つずつあるだけで、クッションが何人分も並んでおり、そこで寝るのであった。 ちょっとびっくりする。 イメージで言うと、大きな連絡船の二等船室、といったところかな。 お陰でよく眠れなかった。 朝、首都圏から来た他の参加者に聞いたら、同じ答であった。 ちなみにここに宿泊したのは男性陣だけで、女性陣は飲み会終了後はここを出て地元在住者の家に宿泊したのだが、そちらが正解だったか。
明日、故郷のいわき市で中学の同窓会があるので、本日は休暇をとってクルマで出発。 途中、新津の美術館で手塚治虫展を見ようかと思っていたが (チケットは前売りで買ってあった)、道を間違えてしまい、新津からそれたルートをとってしまったので、予定を変更して帰りに寄ろうと決める。
それで、逆に、帰りに寄ろうかと思っていた円谷幸吉メモリアルホールに往路で寄ることにして、津川から高速の磐越道に乗り、郡山から東北道に入って南下、須賀川インターで降りる。 降りるとすぐ目の前に大きなスポーツ施設である須賀川アリーナがあり、その一角に円谷幸吉メモリアルホールがあるのである。
円谷幸吉は1964年の東京オリンピックのマラソンで銅メダルをとりながら、その後故障に悩まされ、27歳にして自ら命を絶った悲劇のアスリートとして人々の記憶に残っている。 私も、東京オリンピックのときは小学校6年生であり、学校のテレビ (といっても当時はテレビは貴重品で小学校に常備されてはおらず、小学生にオリンピックを見せるために特別に借り出されてきたもの) で円谷のゴールインを見守った人間である。 同じ福島県出身であるということと、その後の悲劇的な最期もあって、オリンピックと言うとまず円谷のことが脳裏に浮かぶ。 そして円谷のことを思うたびに、涙を禁じえない。
ちなみに、このときマラソンで優勝したエチオピアのアベベ・ビキラは、その前のローマ大会に続いての勝利で、オリンピックのマラソン競技での2連勝を初めて成し遂げた人物として記憶されている。 そしてそのアベベものちに交通事故で下半身不随となり、わずか41歳で世を去った。 私には、アスリートというのは、栄光よりも、むしろ悲劇性と結びつく存在のように思われるのだ。
円谷幸吉の遺品は、東京オリンピックで獲得した銅メダルを含めて、しばらく実家が設けた円谷幸吉記念館に収められていたが、民間の力では維持が困難になり、須賀川市に遺品が寄贈されて、現在は上記のように須賀川アリーナ内に設けられた円谷幸吉メモリアルホールに所蔵・展示されている。
須賀川インターを降りるとすぐ正面に須賀川アリーナがあって、右折してすぐのところから構内に入ると、眼前に円谷の写真が大きく掲げられた建物があるので、探さずともそれと分かる。
(↓ 須賀川アリーナに入っている円谷幸吉メモリアルホール。 円谷の写真が大きく掲示されているのですぐ分かる。)
(↑ 東京オリンピックのマラソンにて円谷がとった銅メダルも展示されている。)
中に入ると、すぐに東京オリンピックのマラソンでゴールのある陸上競技場に円谷が入ってきたときのラジオ実況放送が流される。 人が入ってくると自動的に流れる仕組みのようだ。
さらに奥に入ると、今度はピンク・ピクルスの 「一人の道」 が (またしても自動的に) 流れてくる。 この女性フォーク・グループの歌 (1972年) は円谷の悲劇を扱ったものとして知られているが、私はあまり好きではない。 あえてオジサン的な言葉遣いをしますけど、女子供の平和主義の匂いが芬々と漂ってきて、1960年代の青年が背負っていた公的な意識のようなものを無視しており、円谷の自決をあくまで私的な悲劇として矮小化している感じがするからだ。 うーん、円谷に関わるものなら何でも取り入れておけばいい、ってもんじゃないと思いますけどね。
東京オリンピック時の銅メダルも展示されている。 遺品と言ってもさほど品数は多くないが、家族や、マラソンのライバルであり友人でもあった君原健二が故人について語ったビデオ映像もあって、それなりの内容になっている。
なお円谷幸吉メモリアルホールについては、下記のURLで知ることができます。
http://sukagawa-sports.or.jp/arena/memorial.html
さて、見終えてからふたたび高速に乗り、途中のPAで昼食を取ってから、再度磐越道に入る。 むかしは磐越道は往復2車線のところが多かったけれど、今は郡山・いわき間はすべて4車線化されているようだ。 ようだ、というのは、節約のために小野インターで一般道に降りたから。 郡山以西の磐越道は、郡山・会津若松間は4車線化されているが、会津若松・新潟間は大部分が2車線のままである。 早期に4車線化してほしいものだ。
いわき市に入って、まず市役所に寄る。 大震災からの復興を支援するために、若干の寄付をするつもりだったからだ。 それにしても、いわき市役所の駐車場は無料で誰でも入れるのがおおらかでいい。 新潟市役所だとこうは行きませんからね。 できたら副市長に面会できないかと思っていたのだけれど (昔、高校と大学で私の一年先輩で面識もある方なので)、受付で聞いたら現在市議会に出席中とのことであった。 やはりVIPは忙しい。 私みたいにヒマがある人間とは違う。 仕方ないので寄付だけして市役所をあとに。
(追記: 後日、いわき市副市長の鈴木英司さんからわざわざお手紙を頂戴した。 お忙しいところお手を煩わせてしまったようで恐縮する。 『東日本大震災から1年 いわき市の記録』 という冊子を同封して下さった。 いずれにせよ、大震災からの一日も早い復興をお祈り申し上げる。)
それから、予約していた 「ランドホテルいわき」 にチェックイン――グランドホテルいわき、じゃないですよ (笑)。 いわき駅から歩いて5分という位置だ。 このホテル、初めて泊まったけど、一泊朝食付き5800円と安価。 ただしクルマだと駐車料金として600円を別途とられる。 新しいのと、ベッドが広いのがいい。 ベッド幅は140センチもあって、セミダブルと言うよりほとんどダブルに近い。 ただしそれ以外は標準的なビジネスホテルで、バスルームも狭いし荷物台もない。 ただし冷蔵庫はある。 私に言わせれば、ベッド幅は120センチでいいから――実際140センチも幅があっても無駄という気がする――荷物台を置き、バスルームも少しでいいから広くして欲しいものだ。
それから、これは翌朝のことになるけれど、朝食がお粗末。 このホテルのサイトでは、朝食は 「バイキング」 となっているけど、「バイキング」 じゃなくて、他のホテルなら 「軽朝食」 と表示しているものだろう。 ご飯や味噌汁はなく (だから和食はなし)、パンが3種類、スクランブルエッグ、ソーセージ、ハム、ゆで卵、それに野菜はキャベツの千切りにニンジンの千切りとレタスを加えたものだけ。 飲み物はコーヒーと日本茶とオレンジジュースと水しかない。 紅茶がないのが、私にとっては致命的。 こういうのは、ふつう、バイキングとは言わないの、分かってないよね。
閑話休題。 少し休憩してからホテルを出て、いわき駅前にある 「ポレポレいわき」 で映画を見る。 私が高校生の頃は聚楽館なんて映画館があったものだが、とうになくなっていて、現在はこのシネコンがいわき市唯一の映画館である。 入るのは初めて。 1階がチケット売り場にして飲み物売り場。 本日はこのあとクルマに乗る予定もないのでビールでも飲もうかと思ったけど、残念ながらノンアルコール・ビールしか置いておらず、仕方なくそれにする。
映画を上映するホールは、地階と5・6階に分かれていて、各階2ホールずつある。 途中の階には飲み屋などが入っている。 どうもこのビル自体がそもそも映画館用ではなく、雑居ビルだったところに映画館が入った、ということのようだ。 私は5階のホールだったのだが、入ってみてスクリーンが小さいのにびっくり。 つまり映画館用の建物じゃないから天井が低くて、あまりスクリーンを大きくできないのだね。 私はふだんはシネコンだと後ろのほうの席で見ることが多いが、仕方なく今回は前から3列目に席を取る。 ただし、映像は新潟のシネコンと同様に鮮明だった。
映画を見おえると午後7時を少し過ぎている。 夕食をとる前に街をぶらぶらしようと思う。 映画館の建物内の階段を降りていったら、4階に「わび助」という飲み屋が入っていて、ちょっと面白そうな感じがして、夕食をどこで取るかは決めていなかったのだが、街に適当な店がなかったらここにしようかと思う。
映画館を出てからまずJRいわき駅に行ってみる。 いわき駅 (昔は平駅といって、私には今でもそのほうがぴんと来る) は、私が高校に通っていた頃の駅からすると、すでに三代目である。 私は小名浜地区から平地区の高校にバスで通っており、当時の平駅前がバスの終点で、そこから歩いて15分ほどのところに高校があった。 だから平駅 (今のいわき駅) の駅舎は毎日のように見ていたわけだが、当時の平駅は構内はわりに広かったけれど建物は薄汚くて、ぱっとしなかった。
その後、私が大学に入ってから、初代の平駅は壊されて、店舗などが入った大きな建物となった。 ただし店舗に大きくスペースをとられて、待合室などは狭く、あまり評判はよくなかったようである。 やがてこの駅は、いわき駅と改称された。
現在の駅は、その二代目がまた壊されて、比較的最近できたもののようである。 私は初めてである。 橋上駅となっており、線路やホームをまたいで駅の裏側とつながる通路が大きく取られ、その途中に駅があるといった風情。 券売機や緑の窓口やコインロッカーがある。 しかし、待合室は見当たらない。 通路にベンチがあるから、それで間に合わせろということなんだろうか。 30万都市の代表駅としてはいかがなものか、と言いたくなる。
橋上駅からはペデストリアン・デッキで駅前広場 (とってもあんまり広くないんだけど) の向こう側とつながっている。 駅を出て道路を渡ると、昔はすぐ右側にヤマニ書房という書店があった。 現在そこには大きなビルが建っている。 いろんな店舗が入居しているようだが、私が入ってみたらヤマニ書房もちゃんと入っていた。 昔は、平地区の書店と言うとこれ以外に駅前広場のやや左側奥にマルトモ書店というのがあったのだが、今はなくなっている。
それから平の銀座通りを歩いてみたけど、昔と違って歩道が広くとられており、その代わり車道は1車線分で、一方通行になっている。 歩行者優先で商店街を活気付けようということなのだろうけれど、残念ながら新潟市と同じく郊外の大型スーパーに客をさらわれており、昔日のにぎわいはない。 空き地も目立つ。 昔のままというと、銀行以外には、ヤマニ書房の本店がもとの位置にあった (駅前のヤマニ書房は分店)。 入ってみると、建物自体は新しくなっているようで、学習参考書などが2階にあるほかは1階のみ。 この店は奥行きが深いのだけれど、中央が雑誌コーナーになっていてずっと奥まで続いているのが壮観だ。 ただし、代わりにというべきか、新書コーナーなどは貧弱な感じだ。 高校生の私はここで岩波文庫の外国文学をよくあさったものだが、岩波文庫も少ししかおいていない。 時代の変遷は容赦ない。
ヤマニ書房を出て駅の方角に戻っていったら、鈴藤がもとのままの建物であったのが、なつかしかった。 鈴藤というのは、5階建ての、衣類を中心とする総合的な商店で、敷地面積があまり広くないので百貨店にはなっていないが、私の高校時代には平地区には (いわき市全体でも) 正式な百貨店がなくて、大黒屋 (衣類中心) と藤越 (食品中心) と、それからこの鈴藤が、デパートに準じる店舗として覇を競っていた。 のちに大黒屋が、市の旧公会堂の敷地を入手して正式の百貨店として開業したが、やがて中央資本のスーパーに負けて廃業した。 だからいわき市には現在は百貨店は存在しない、はずである。 (新潟県でも、長岡市や上越市には、大和が撤退したから、百貨店は存在しない。)
というわけで街をぶらぶらしたけれど、これといった飲食店がなかったので、映画館の建物に入っていた 「わび助」 に行ってみる。 焼き鳥5本セットと馬刺しとトマト (あと、頼まなくても出てくるお通し)、それに生ビール大と地酒・栄川 (えいせん) の300ml入り生酒。 会津産だという馬刺しがなかなかうまかった。 焼き鳥も、首都圏でよく利用する魚○なんかに比べるとヴォリュームがあるし、トマトも結構沢山あって、しめて約3500円だったけど、悪くない店ですね。
ホテルに帰って、少し本を読んでから就寝。
午後7時から標記の演奏会に出かけた。 新潟のクラシック・ファンにはもうとっくに御馴染みのTOKI弦楽四重奏団による夏の室内楽演奏会。 客の入りは7〜8割くらいか。 私は11列目右ブロックにて鑑賞。 前売券\3000。
この四重奏団、メンバーがよく変わるだけど、今回は昨年と同じ。 ヴァイオリンが岩谷祐之氏と平山真紀子さん、ヴィオラが鈴木康浩氏、チェロが上森祥平氏。 それに今回はヴィオラの小熊佐絵子さんが加わった。
男性は3人とも黒い礼服姿。 左端が岩谷氏、中央が上森氏、右端が鈴木氏。 それにはさまれて、第2ヴァイオリンの平山さんは水色の、小熊さんは濃紫 (或いは臙脂かな?) のドレス。 つまり、左から黒・水色・黒・濃紫・黒というシンメトリカルな(?)配色になっている。
ヴォーン=ウィリアムズ: 幻想的五重奏曲
ブルッフ: 弦楽五重奏曲イ短調
(休憩)
ヨゼフ・スーク: コラール 「聖ヴァーツラフ」
の主題による瞑想曲op.35a
ブラームス: 弦楽五重奏曲第2番op.111
(アンコール)
? : ?
今回のプログラムは非常に珍しい曲が揃っていて、私が知っていたのはブラームスだけ。 その意味でも貴重な演奏会だ。
まずヴォーン・ウィリアムズの曲だが、「幻想的」 と曲名にあるので、(この曲が終わったあと鈴木氏の解説にも出てきた) 「グリーンスリーヴスの主題による幻想曲」 だとか、「タリスの主題による幻想曲」 のような曲を想像していたのだけれど、実際に聴いてみると 「タリス」 のような幻想味はあまり感じられず、草いきれの濃い草原で遊んでいるような印象を受けた。 鈴木氏のヴィオラから始まるが、ここでいつもながらよく通るヴィオラの音色を楽しむことができた。
次のブルッフは、鈴木氏の解説によると最近楽譜が出版された曲なのだそうだ。 パンフの説明では、ケルン市立歴史文書館の崩壊で彼についての資料が失われてしまったため、今日彼に関する研究は困難になっているとか。 この曲は彼の義理の娘が書き写した楽譜が残っていたために演奏可能になったとか。 ブルッフと言うとよく演奏されるのはヴァイオリン協奏曲第1番くらいで、しかもこの協奏曲は私は好きじゃないので今回も期待していなかったのだが、やや感傷的な第1楽章から始まって、忙しい第4楽章まで、まあまあ悪くない曲なのかな、と思いながら聴くことができた。
休憩後のスーク (岩谷氏の解説にあったように20世紀後半に活躍したチェコの同名の名ヴァイオリニストの祖父にあたる) の曲は、小熊さんが抜けて弦楽四重奏。 前半の2曲と合わせ、今回初めて聴いた3曲のなかでは最も私の好みに合った。 宗教的な敬虔さ、或いは幻想性が感じられる曲である。
最後のブラームス。 ディスクでは比較的よく聴くが実演ではめったに聴けない曲。 5人の奏者が各自自分なりに弾いていて、バラけそうなんだけどぎりぎりのところでバラけない、そんな印象。 ブラームス最晩年の技巧性なのかな、なんて思える。
アンコールは、誰の何という曲か不明だが、さわやかさが感じられた。
昨年も思ったことだけど、第一ヴァイオリンの岩谷氏はよく通る美音が素晴らしく、ヴィオラの鈴木康浩氏のヴィオラと合わせて、この二人が全体を牽引しているような印象である。 このカルテットは最初に書いたようにわりにメンバーが変わるので、以前は第一ヴァイオリンの力量が足りないと思える年もあったが、岩谷氏は申し分のない第一ヴァイオリンだ。 今後もこの布陣で行ってほしいもの。
パンフによると、来年はこのカルテットの10周年ということで、7月30日にりゅーとぴあに舞台を移して演奏会を開くそうである。 楽しみだ。
終演後は、いつものように平山前知事がロビーで客に挨拶をしていた(第二ヴァイオリン平山真紀子さんのお父様)。
それにしても、先週の井上静香さんの演奏会といい、新潟の室内楽演奏会はきわめて充実していると思う。 威張ってもいいのでは(笑)?
*シン・ヒョンス: パッション (エイベックス、AVCL25759、2010年録音、日本盤)
先月、新潟県妙高市まで出かけて、ダニエル・ハーディング+シン・ヒョンス+オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏会を聴いたけれど、その際に購入したディスク。 シン・ヒョンスのファースト・アルバム、というか、今のところ唯一のディスクである。 ヴィエニヤフスキの 「華麗なるポロネーズ第1番op.4」 と 「創作主題による華麗なる変奏曲op.15」、ショーソンの 「詩曲」、それにドビュッシーのヴァイオリンソナタが収められている。 録音会場は浜離宮ホール、ピアノ伴奏は江口玲。 ・・・・で、このディスクの録音なんだけど、あまり大きな音では入っていないので、聴くときはCDラジカセなどではなく、ちゃんとしたステレオ装置のほうがよい。 それで或る程度ヴォリュームを上げて聴くこと。 そうでないと、シン・ヒョンスの演奏の息遣いのようなものが伝わってこない。 逆に言えば、いい装置で音を大きめにして聴けば、シン・ヒョンスの繊細な感覚がよく分かる。 このディスクはいたずらに技巧性をひけらかすような内容にはなっていないので、機器が大事だということは強調しておきたい。 加えて言えば、江口玲のピアノ伴奏はもう少し大きな音で入れてほしかった。 江口氏は南紫音やチー・ユンといったヴァイオリニストとも共演しているけれど、シン・ヒョンスの初録音でも伴奏を務めたのは、それだけ氏の力量が知られているからであろう。 江口氏は輝くような音色を持つピアニストであり、ヴァイオリンとピアノの掛け合いこそがこうした曲の面白みの真髄なのだということを、録音する側には理解してほしいものである。
本日は標記の演奏会に出かけた。 午後7時から、だいしホールにて。
井上静香さんは、ここ数年、毎年新潟で室内楽の演奏会を開いている。 毎回充実したプログラムと演奏で楽しみにしているのだが、昨年の10月の演奏会はたまたまベルリン・ドイツ交響楽団の新潟公演と重なってしまい、聴けなかった。 2年ぶりということで今回の演奏会はふだんにもまして楽しみにしていた。
開演10分前に到着。 客の入りは7割くらいか。 井上さんの実力から言って、満席でもおかしくないと思うんだけど。 今回は昨年と違って他の有力な演奏会とバッティングもしていないはずだし。 右側の後ろのほうで聴く (だいしホールでは大抵この位置。 自由席、前売\3000)。
クラリネット=中秀仁、ヴァイオリン=井上静香、猶井悠樹、ヴィオラ=森口恭子、チェロ=辻本玲
ルクレール: 2つのヴァイオリンのためのソナタニ長調op.3-6
ウェーバー: クラリネット五重奏曲op.34
(休憩)
モーツァルト: クラリネット五重奏曲K.581
(アンコール)
モーツァルト:
クラリネット五重奏曲から〜ジャズ風アレンジ
ウェーバー: クラリネット五重奏曲第3楽章から
最初にルクレールのヴァイオリン二重奏曲が、井上さんと猶井さんにより演奏された。 ヴァイオリン二重奏曲というとあまり聴く機会がなく、またその妙味も当方を含めて一般に知られているとは言いがたいところがあるが、パンフに書かれた井上さんの解説を読みながら聴くと、これもなかなか面白い曲種かなという気がしてくる。 CDを探してみようかな。
ついで、ウェーバーのクラリネット五重奏曲。5人全員が登場。
男性陣3人は、小柄な中さん、中背でがっしりした辻本さん、長身の猶井さんと、外見的にも三者三様である。 中央にチェロ、左にヴァイオリン2人、そして右端にクラリネットという並び方。 女性陣は、井上さんがオレンジ色、森口さんが薄いピンクまたは肌色のドレス。
ついでに、男性陣は黒の礼服で統一されていたが、中さんが赤と緑のちょっと派手目なネクタイだったのに対し、辻本さんは黒(?)の縞、猶井さんは青で、ちょっと地味目。 服が黒なのだから、辻本さんと猶井さんはもう少し派手というか、明るい色のネクタイでも良かったのではないか。 或いは管楽器の中さんを立てたのかもしれないけど、特に猶井さんの青いネクタイは照明のせいか黒っぽく見えていて、やや難、といった感じ。
閑話休題。 クラリネット五重奏曲と言うと、本日の2曲およびブラームスの、合わせて3曲が有名だが、実演ではなかなか聴く機会がない。 それだけに期待も高まるわけだけれど、期待に違わぬ名演であった。 音量が五人ともよく釣り合っている。 強いて言えばヴィオラの森口さんの音があまり聴こえなかったような気もしたが、これも音域がクラリネットとかぶっているからかも知れない。 5人の息がぴったり合っていて、気持ちのいい雰囲気を出していた。 あとでアンコールのときに井上さんから、5人で演奏するようになって7、8年になるというお話があったが、なるほどと納得がいったことであった。
アンコールはモーツァルトの一部を再演してそこからジャズ風に持っていくという趣向。 こういうのも面白い。 どうやら本来はそこで演奏会は終わりのはずだったらしいのだが、客の拍手が続いていたので、ウェーバーの第三楽章の一部が再演された。 最初に書いたように満席でないのがいぶかしいという感じだったけれど、この夜のお客はまさに少数精鋭だったのであろう。
毎日新聞の 「月刊ネット時評」 の内容への疑問は先月にも書いたが、一昨日の26日に載った今月分も冴えない内容であった。 今回は赤木智弘君である。 例の 「丸山真男をひっぱたきたい」 で有名になったニート(?)である。
今回は、例の大津市のいじめ自殺事件を取り上げている。 といっても、いじめ自殺そのものではなく、そこから加害者とされる人物をネット上でさらし上げて叩くという行為が増大していることをとりあげて、これもいじめだからケシカランとのたもうているのである。
彼曰く。 いじめとネット上のさらし上げは、「すごく楽しい」 という点で共通している。
おいおい、じゃあ、[すごく楽しい] ことは何でもイジメなのか?
彼曰く。 「いじめの目的は被害者を苦しめることではない。被害者を苦しめることによって自分たちが楽しむことが目的である。」
あのね。 苦しめることと楽しむことが分かちがたく結びついているからイジメなんでしょ? 楽しむことだけを取り出して論じるのはおかしい、くらいのことが分かりませんか?
そもそも、ネット上でいじめ加害者へのバッシングが広がるのは、いじめがかなり以前から問題視されているのにこの種の事件がなかなかなくならないという現状への、一般国民のいらだちからだと見たほうがいい。 私も、かりに真犯人が叩かれるのであれネット上でのさらし上げはあまり好ましいことではないと考えるが、いじめ自殺事件を無視してネット上のさらし上げだけ叩く行為は一種の倒錯だと言わざるを得ない。
赤木君は、いちばん安易な方策を選んでいるわけだ。 解決が難しいいじめ自殺事件そのものは放置し、誰でも言える 「ネット上のさらし上げはイケマセン」 だけにとどめている。 こんなものが言論の名に値するはずがない。
毎日新聞よ、こんな低レベルの論説、カネとって載せるなよ (私は毎日新聞をちゃんと購読している)。 言っちゃ何だけど、所詮は下層民のルサンチマンが現代社会のある部分を的確に表現しているというだけで注目された人でしょう。 何でこの程度の、どうしようもない議論しかできない輩にわざわざ全国紙に書かせなきゃならないのか。 カネとって読ませるにふさわしいものを載せてほしい。
・・・なんてことを考えていたら、本日の毎日新聞の新潟県版に、橋本定男・上越教育大学准教授へのインタビュー記事が載っていた。
橋本氏は1948年生まれ、長らく新潟県の小学校教諭を務め、定年後に経験を活かして上越教育大学で教鞭をとっている。
ここで橋本氏は自分が小学校でいじめを解決した経験を語っている。 それは小学校6年生の事件で、これを今回の大津市の中学での事件にそのまま使えるかどうかはともかくとして、私が感心したのはそのあとである。
橋本氏は、いじめ事件が悪質な場合は警察を導入することもためらうべきではないし、またそれは加害者生徒への牽制にもなる、とはっきり述べているのだ。 私はここを読んで、さすがプロだと唸ったのである。
私は読んでいないが、新聞の週刊誌広告などを見ると、いじめ事件で安易に警察を導入するな、という見解の評論家もいるようだ。 しかし、それは間違いだと私は考える。 今のいじめ事件は、むかし、不良生徒が特定の生徒にガンをつけていじめていたような牧歌的なものではない。 巧妙で、教師や大人から事件を隠そうとする点で、成人が行う知的犯罪行為とさほど変わりないと見るべきだ。
こういう事件が、ふつうの教師に容易に解決できるはずがない。 そもそも、今の教師は体罰禁止を初めとして、生徒に向かい合う際に厄介な規制を多く受けている。 また、教師は犯罪行為を解決する専門家でもない。 いじめは、悪質な場合は犯罪行為である。 犯罪行為を解決するには、その道のプロにゆだねるのが筋なのだ。
橋本定男氏へのインタビュー記事は下記URLから読めます。 赤木智弘君の駄文は、ネット上にはないようなので、紙の毎日新聞でお読み下さい。
http://mainichi.jp/area/niigata/news/20120728ddlk15040095000c.html
昨夜は標記の演奏会に出かけた。 会場には開演時刻の午後7時ちょうどに到着。 いつもならオルガンの演奏会は3階の席で聴くのだが、ぎりぎりだったので2階のCブロックに通じる入口に誘導され、入ったらびっくり。 Cブロックは満席。 仕方なくぐるりと回って向こう側のBブロックへ。 Bブロックでも中央より舞台に近いあたりで聴いた。 途中休憩後の後半は、3階のJブロックに移動。
あらためて見ると、1階席は最初の4列分の座席がはずされていたが、残りの座席にはかなり客が。 3階正面のIブロックにもかなり客が。 うーん、全部合わせると700〜800人くらいはいたかな。
山本真希さんの本格的なオルガンリサイタルと言えば、200〜300人くらいの少数精鋭(?)の客で、というのが定番なのに、一体全体・・・・と思いかけて、よく考えてみたら今回のオルガンリサイタルのチケットは、東響新潟定期会員にはサービスで無料配布なのであった。 道理で、と納得。 無料配布でなくとも、ふだんからこのくらい来てくれれば言うことなしなんだけどねえ。
今回のプログラムは、バッハのオルガン小曲集 (BWV599〜644)。 山本さんの解説によると当初はバッハ自身が選んだ164曲のコラールをもとにしたオルガン曲集になるはずだったのが、結局三分の一程度しか完成しなかったとのこと。 今回の演奏では、まず元になったコラールを、ソプラノ独唱、少女合唱、弦楽四重奏による演奏、のいずれか (または3組のうち2組もしくは3組での演奏) で聞かせて、その直後にオルガン曲が演奏されるという形式での演奏会であった。
ソプラノ=澤江衣里
弦楽四重奏団=東京交響楽団団員
(廣岡克隆、清水泰明、西村真紀、謝名元民)
新潟ジュニア合唱団から8名の少女
山本さんの解説によれば、この小曲集は季節の流れにそったもので、まず待降節 (アドヴェント、11月30日に最も近い日曜日から開始)、クリスマス、年の変わり目とマリアの潔めの祝日、受難節 (パッション、復活祭の40日前から開始)、復活祭、聖霊降臨祭 (復活祭から50日目の日曜日) と続き、そのあと (BWV632以降)、祝日等にとらわれない信仰生活に関わる曲が並べられているということである。
ふだんCDでオルガン小曲集を聴くときは、そういう曲ごとの意味は考えずに何となく聴いているわけだけど、こういう解説を読みながらだと改めて一曲一曲の個性がよく理解できる。
それにしても、独唱、8人の少女合唱、弦楽四重奏という3種類のコラール演奏をまず聴いてそれからオルガン、というのは実に贅沢だ。 聴いていてしごく満足したが、こんな贅沢な時間を持っていいのかなあ、なんて柄にもないことを考えてしまった。 新潟市民はこんな贅沢ができるのだ、新潟市はこんなに豊かなのだ、というのが私の偽らざる実感。
途中20分の休憩を入れてプログラムが終わったのが午後9時15分頃。 そしてその後、アンコールにカンタータBWV140の 「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」 から一部分が演奏された。 これまた贅沢な気分。
というわけで、リッチな気分で会場を後にした一夜だった。
本日、夕刻から新潟駅に近い某料理屋に社会人の卓球仲間が集まって飲み会を開いた。
色々な話が出たけれど、市内で店を経営しているM氏と議論していたら、新潟市に中国への土地売却問題があるという事実を知らないのである。 ただただ仰天するしかない。
冗談じゃないですよ。 いや、冗談でだけどM氏は新潟市議会に立候補しようかなどとのたもうている方なのだから、このくらいは知っておいてもらわないと困るのである。 新聞は新潟日報しかとってないそうだが、新潟日報にはこの問題が載らなかったのだろうか。
以下、産経新聞に載った桜井よしこ氏の文章を一部引いておく (全体の半分程度)。 全文を読みたい方は下記URLから。
なお、この問題は先ごろ新潟大学法学部教授・田村秀 (たむら・しげる) 氏が出した 『暴走する地方自治』(ちくま新書) でも言及されている。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120308/plc12030803140006-n1.htm
【櫻井よしこ 野田首相に申す】
恥ずべき国土売却 2012.3.8 03:13
野田政権下で中国政府への日本の国土売却が加速されている。
かねて中国政府は新潟市と名古屋市での領事館建設用地の取得にこだわってきたが、2010年秋の尖閣領海侵犯事件で頓挫した。それが後述する野田政権の方針もあり、まず新潟市中心部の民有地約4500坪が中国政府と売買契約された。新潟県庁から徒歩数分の一等地、土地の名義は株式会社「新潟マイホームセンター」である。
マイホームセンター側はこの事案に政治的背景は一切ないと強く否定し、いまは詳しいことは明らかにできないと語った。民間企業の土地事案ながらこれを問題視せざるをえない理由は、その背景に野田政権と外務省の明確な意思があり、政府の国土売却方針は著しく国益を損ねると考えるからだ。
そもそも一旦頓挫した中国への土地売却問題はなぜ復活したのか。発端は北京の日本大使、丹羽宇一郎氏らの気概なき外交にある。昨年7月、北京に新しい日本大使館が完成した。中国政府は申請のなかった建築部分が含まれているとして、新大使館の使用を認めず、新潟と名古屋の土地の件を持ち出し、中国政府による買いとりがスムーズに進むよう、日本政府に便宜をはかるよう要求した。
この筋違いの要求については2月2日の衆議院予算委員会で玄葉光一郎外相が自民党の小野寺五典氏の質問に答える形で認めている。日本政府は「中国側の要請に関連国際法に従って協力する」との口上書を1月19日に出し、その2日後に、中国側が新大使館の建築確認を出していたことも判明した。明らかに、丹羽大使らは大使館新築とは無関係の、新潟と名古屋の土地売却に便宜をはかるという恥ずべき妥協をしたのである。
国益を代表すべき立場でありながらのこの背信の妥協を、小野寺氏は、「日本は政府ぐるみで中国側のハニートラップにかかったのではないか」と評した。中国政府は、中国の国土は一片も売らない。結果、日本は政府も企業も中国の土地はすべて借りるだけだ。互恵主義なら、日本は売るのでなく貸すのが道理である。現に米国は中国政府にはいかなる土地も売ってはいないという。
国家の基本は国土である。国土こそ失ってはならず、手放してはならない。にも拘(かかわ)らず、日本にとって最大の脅威である中国に新潟市中心部の一等地を売ろうという背景には、国家観なき民主党政権の責任とともに、経済交流のためとして中国の要求を安易に受け入れてきた泉田裕彦新潟県知事及び篠田昭新潟市長らの責任もある。
対照的なのが名古屋である。大村秀章愛知県知事、河村たかし名古屋市長は中国への売却は慎重に、との姿勢を崩さず、名古屋城下の約2400坪の候補地を守って現在に至る。これこそ政治の役割である。
7月18日(水) *リタイア願望
学生時代、サークルの同期生だった某君――年賀状のやり取りはしているけれどもう30年以上会っていない――から暑中見舞いを兼ねた挨拶の葉書が舞い込んだ。 このたび長年勤務したA社を定年退職いたしました、引き続きB社に勤務の予定ですので今後ともよろしく、という文面である。そうなのか、と思った。 いや、時々会う友人(中高時代の同級生)にしても、定年後今の会社にいられるか、それとも、といった話はよくしているので、60歳というのが区切りの年齢であることは承知しているわけだが。
その私もこの9月には満60歳になる。 先日、大学の事務から書類が来た。 60歳になると年金の受給権が生じるが、新潟大は定年が65歳なのでそれまでは受け取れないことになっている。 しかしそうであっても満60歳になったら一応の手続きはしておかないといけないのだそうだ。 だからこの書類に書き込んだ上、60歳になったら事務に提出せよ、とのことである。
もう辞めようかなあ、そのとき漠然と思った。 60歳まで働いたんだから、リタイアして好き勝手なことをしてもいい年齢じゃないか。 ええと、働き始めてから何年になるかな。 東北大の助手になったのが1978年の6月16日。 それ以来だから、もう34年も働いている。 大学院に行ったから働き始めたのは普通の大卒の人よりは遅いけれど、昔なら民間企業の定年は55歳だったのだ。 それから考えりゃ、60歳ならもう十分働いたと言えるんじゃないか。
昔は定年は55歳だった。 たしかに。 しかし日本人は真面目だから、機会があれば働き続けようとする。 私の父もそうで、一部上場企業の端くれくらいの化学系企業を定年退職してから、関連する小企業の嘱託社員となり、67歳で死ぬ直前まで勤めた。 というより、入院により勤務することが不可能になってその心理的な落ち込みから死んだような形だった。 葬式のときにたまたまその小企業からもらっていた給与の額を私は知ったが、中卒の新入社員か、と思えるくらいの金額だった。
私の母方の祖父は保険会社勤務のサラリーマンだった。 55歳で退職後、かつての顧客が保険契約を更新するときに媒介するなどのわずかな仕事はしていたが、70代半ばになるとボケ始めた。 明治の男だから家事なんかは一切やらない。 近所の茶飲み友達とおしゃべりをするか読書をする以外には何もすることがない。 そういう環境のせいもあったろう。 祖母 (祖父の妻) と二人暮らしだったが、やがて祖母は自宅で急死し、祖父はボケていて気づかず、数日後に近所の人が郵便受けに新聞がたまっているのを怪しんで上がりこむまで祖母は台所と居間の間にある部屋に倒れたままであった。 その後祖父は施設に入れられ、1980年代初頭に80歳で死んだ。 まあ、悲惨な最期ではある。 体質的に強い人だったらしいから、恵まれた環境で暮らしていればもっと長生きしただろう。
これと対照的なのは父方の祖父である。 開業医だった祖父は、私が物心ついたころはすでに長男に跡を継がせて隠居していたが、長男夫妻や孫に囲まれて暮らしていたせいかボケとは無縁だった。 1964年に死んだときは83歳だったが、その2年くらい前だったろうか、いきなり80キロほど離れた町にある私の家 (社宅) を訪ねてきた。 当時は私の家には電話がなかったが、それでも電報を打つくらいのことはできたはずなのに、まったく予告もなく、単身で、国鉄のローカル線、国鉄の幹線、そして当時はまだあった私鉄を乗り継いで3時間あまりかかる旅をしてきたのである。 多分、不意に末の息子や孫の顔を見たくなり、思い立って出てきたのであろう。 1964年の男の83歳は、今なら90代くらいの感じであったろう。 長寿をまっとうして亡くなりました、というところである。
私はと言うと、50歳を過ぎてから確実に身体が衰えてきており、とてもじゃないが80過ぎまで生きるとは思えない。 まあ、この手のことは分かりませんけどね。 ちなみに長男と次男はいずれも大学を出て首都圏でサラリーマンをしているから、父方の祖父のような環境は私の場合はありえないだろう。 そもそも時代も違うしね。
さて、リタイアしたいとは思ったけれど、現実がそれを許さない。 といっても、私が辞めると新潟大学がガタガタになる、からではなく、大学受験を控えた出来の悪い娘がいるからである。 こいつを何とか大学と名がつくところに押し込んで卒業させないといけない。 年金だけじゃ娘の教育資金はまかなえない。 だから今リタイアするわけにはいかないのである。 世の中、ままならないですねえ。
7月16日(月・祝) *東京交響楽団第72回新潟定期演奏会本日は東響新潟定期の日。 ふつうなら開演1時間前くらいに出かけるのだが、この日は音文で音楽教室の発表会があり、娘が出るので、午後2時頃に某所からバスで音文に行き、1時間弱ほど発表会を聴いてから隣りのりゅーとぴあへ。 しばらくロビーにすわって本を読んだり、昼寝したりしながら過ごし、開場時刻の4時15分まで時間をつぶす。 開場と同時にホワイエに入って、眠気覚ましにアイスコーヒーを。
客の入りは最近の平均的な東響新潟定期くらい。 3階のGHJKブロックはいつになく閑散としていたが、その代わりその隣りのF・Lブロックは前の2列に若い人たちがぎっしり。 学生料金の人たちかもしれない。 どうせなら、空いているんだからもう1ランク上げてGブロックとKブロックにしてあげればよかったのでは。 将来のお客様を大事にしましょう。
指揮=秋山和慶、ピアノ独奏=児玉桃、ゲスト・コンマス=長原幸太
モーツァルト: 歌劇 「コジ・ファン・トゥッテ」序曲
モーツァルト: ピアノ協奏曲第23番
(休憩)
細川俊夫: ピアノとオーケストラのための《月夜の蓮》 ―
モーツァルトへのオマージュ
モーツァルト: 交響曲第29番
今回はゲスト・コンサートマスター。 長原さんはこの春まで大阪フィルの首席コンマスを勤めておられた方のようである。
さて、最初の 「コジ・ファン・トゥッテ」 序曲が始まると、いつもながら東響の美しい弦の響きにうっとり。 左から第1ヴァイオリン12、第2が10、チェロ6、ヴィオラ8、ヴィオラの後ろにコントラバス5という構成。
次がピアノ協奏曲。 本日はピアノは右側のほうから入った。 弦の数は変わらず。
児玉桃さん登場。 白にちょっと青の入った半袖のドレス。 いかにも涼しそうで夏向き。 演奏は、ややゆっくりめのテンポで着実に弾いているという印象。 第2楽章では装飾音を入れて弾いていた。 けれん味のないさわやかなモーツァルトである。
この曲、ディスクではよく聴くけど、今回演奏しているのを見て、あれ、オーボエがいない、と思った。 あとでパンフを見たら、最初はモーツァルトはオーボエ2本で構想し、あとでそれをクラリネット2本に変えたのだそうである。 クラリネットは比較的新しい楽器なので、モーツァルトも考えながら使っていったのかな、と。 ちなみに、次の細川俊夫の曲も、このピアノ協奏曲第23番のメロディーを一部使っており、副題にあるようにモーツァルトへの捧げ物であるせいか、やはりオーボエなしで、クラリネット2本であった。 実演を聴かないとこういうところはなかなか気づかないものだ。
その細川俊夫の曲は、現代曲ということもあり、イマイチよく分からない。 「月夜の蓮」 というタイトルだけど、現代曲にありがちな (幽霊の出てきそうな) 弦の音を聴いていると、お弔いの音楽のように思えてしまう。
最後の交響曲第29番、これは本当に良かった! この曲、クラリネットはなくて、打楽器もなくて、管楽器はホルンとオーボエ各2本だけ。 それだけ弦の響きがモノを言う曲で、私もモーツァルトの30番台未満の交響曲としてはト短調の25番と並んで好きなのだが、秋山さんの指揮はこの曲の魅力を十二分に表現していた。
お年のことを言うのは失礼かもしれないけれど、秋山さんはまだ71歳。 数年前から東響の桂冠指揮者ということなのでもう少し上かと思っていたのだが、まだまだお若いのだ。 指揮者や音楽家は長生きの方が多いことを考えれば、全然枯れる年齢ではなく、この先10年、15年と充実した演奏を聴かせて下さることだろう。 本日の第29番の演奏を聴いて、そう確信したことであった。
本日は標記の演奏会に出かけた。 場所は、同じ県内とはいえ、はるか離れた妙高市。 正午少し過ぎに鳥原から高速バスの高田駅前行きに乗り、約1時間40分。 高田駅からJRで新井駅まで15分ほど。 さらに新井駅から徒歩10分。 で、ようやく目的のホール「妙高市文化ホール」に。
私は新井に来たのは初めてなのだが、建物もあんまり詰まっておらず、よく言えばゆったりとした、悪く言えば閑散とした田舎町という印象。 途中八十二銀行があり、やはりここは長野県圏内なのかなあ、と思う。 ホールもあまり土地のことを考えずにゆったり建っているような印象である。
開演35分前にホール前のロビーOEKメンバー4人による室内楽が披露された。 モーツァルトの弦楽四重奏曲K.465 「不協和音」 から第1楽章。
やはりオーケストラコンサート前の室内楽っていいものだ。 東響新潟定期でも開演30分前くらいにやってくれればいいのだがなあ。 (実際は開演4時間も前の午後1時。) 第一ヴァイオリンは本番では第2ヴァイオリン首席のヴォーン・ヒューズ氏のようだったが、第二ヴァイオリンの日本人女性がなかなか魅力的。 本番でも第2ヴァイオリンで弾いておられたようだが、お名前が分からないのが残念。 (と思ったが、新潟市内で音楽サイトをやっておられる近藤先生によると、若松みなみさんという方らしい。)
今回の会場は収容人員千人ほどの、まあ中型ホールだろうか。 私は11列目の右のほうで鑑賞。 ちなみに左脇がmozart_nobuさんであった。 そのほか、この列は新潟市でチケットを買った人達が並んでいたようで、どうやらチケットぴあの新潟市内の店にはこの列の座席が割り当てられていたようだ。 座席は、もう少し横幅が広ければという気が。 新潟県民会館みたいな座席である。
満席ではなかった。 うーん、上越市は隣りだし、新潟市から駆けつけた物好き (笑) もいたわけだし、定員千人でも満席にならないのは残念。 でも、聴衆はわりに精鋭が揃っていたのかも。
指揮=ダニエル・ハーディング、ヴァイオリン独奏=シン・ヒョンス、コンマス=サイモン・ブレンディス
ベートーヴェン: ヴァイオリン協奏曲
(アンコール)
パガニーニ: 奇想曲より第24番
(休憩)
ベートーヴェン: 交響曲第5番
(アンコール)
ベートーヴェン: 序曲「コリオラン」
オケの配置は、第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンの順で、コントラバスはチェロの左後ろ。正面後ろが木管で、左後ろがホルン、右後ろにティンパニと金管。
まずシン・ヒョンスによる協奏曲である。 オレンジ色のドレスで登場。 指揮のハーディングとは身長がほとんど変わらない。 ヒョンスのほうが (ドレスではっきり分からなかったけど) 踵の高い靴を履いていたせいもあるかもしれないが、ハーディングはヨーロッパ人男性としてはあまり大柄ではないようだ。
で、演奏だが。 うむ、第一楽章がすごい。 この協奏曲はゆったりとした叙情性とスケール感が特徴だけど、シン・ヒョンスにかかるとそこに激情が加わるのである。 聴いていると炎が見える。 といって、派手に燃え上がる赤い炎ではなく、きわめて高温ながら、めらめらじわじわと迫ってくる青い炎である。 うーん、美しい韓国女性にこういう風に迫られてみたい・・・・なんて妄想を抱いてしまう演奏。 しかし第一楽章も終わり近くになるとぐっと演奏が引き締まって静かな緊迫感が前面に出てくる。 カデンツァをへて、第二楽章でもこの緊迫感が持続し、そして第三楽章へ。 ここのカデンツァでまた激情がさりげなく示されたように感じた。 音も、だいしホールでやったときはちょっと金属的な感じが気になったが、今回も音自体が根本的に変わったとは思わないけれども、会場の広さが彼女の音の強度にちょうどいいくらい。 よく音が通っていた。
というわけで、これは (独奏に関しては) 文句なしの快演! 会場からは壮大な拍手。 これに応えてアンコールにパガニーニの無伴奏曲。 これがまた技巧的に見事に決まっていた。 はるばる聴きにきてよかった、と心底思える演奏であった。
感激したので、休憩時間にシン・ヒョンスのCDを買ってしまう。 サイン会がなかったのは残念。
後半はおなじみ、ベートーヴェンの5番。 この曲、私は最近では一昨年の11月に上野の文化会館で、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマー・フィルの演奏で聴いた。 あのときもオケは少人数で、演奏は猛スピード、スポーツカーをぶっ飛ばすかのような印象であった。 今回も少人数のオケなので、悠長迫らざるというよりはスピードで勝負かなと思っていたら、まったく逆。 むしろきわめてオーソドックスで、じっくりと音楽を練り上げ、きっちり造型していくタイプの演奏だった。 でもそれがかえって新鮮というか、当たり前のことをしっかりやっていて聴かせる演奏になっていたと思う。
アンコールの序曲「コリオラン」も、選曲を含めてハーディングの音楽性がよく出ていた。
OEKの演奏だけれど、協奏曲でも感じたのであるが、プロオケとして技倆をもう少し磨いて欲しいという気がした。 協奏曲でも交響曲でもホルンがちょっとあぶなっかしかったし、協奏曲では最初にティンパニで始まりその後を受ける木管の出がわずかにズレていたりと、東京交響楽団を日ごろ聴いている身からするとちょっと物足りなさが感じられる。 表現意欲は十分あるが、意欲だけでは足りないので、いっそうの精進を期待したい。
ともあれ、シン・ヒョンスの快演とハーディングの音楽性に十分満足して、帰途についた。
*アブラハム・ファン・デン・ケルクホーフェン: オルガン曲集 (PAVANE、ADW7381、1996年録音、フランス盤)
ケルクホーフェンは推測で1618年にオランダのMalinesに生まれ、1701年にブリュッセルで死去した。 音楽家、法律家などを多く出した家系の人間だったようである。 幼くして両親を亡くしたが、1632年にはブリュッセルで教会オルガニストとしてのポストを得て、生涯その地位にあった。 同時に彼は宮廷でもオルガニストとして勤務した。 彼の没後は息子ヨハネスが地位を継承した。 彼の作曲スタイルは当時のフランスの影響を受けており、典礼用で短い曲が多い。 しかし厳密に対位法を守るというよりは、叙情的で、ゆったりとしたスタイルである。 (以上は添付の解説書による。) 私の印象では、大バッハの約70年前に生まれた作曲家だが、大バッハのオルガン曲に親しんでいる人には聞きやすい音楽だと思う。 このディスクには全17曲が収録されていて、曲名はフーガ、ファンタジア、プレリュードとフーガとなっている。 演奏はフランソワ・ウータール(1956年、ブリュッセル生まれ)、ルクセンブルク・カテドラルのオルガンによる演奏。 解説はフランス語・オランダ語・英語でついている。 昨年末、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんの店じまい5割引セールにて購入。 (ただしコンチェルトさんは現在も店を運営中。)
最新の 『市報にいがた』 を読んでいたら、「第7回安吾賞 全国から候補者募集」 という記事が載っていた。
安吾賞は新潟市が6年前から設けている賞である。 新潟市出身の作家・坂口安吾の 「飽くなき反骨と挑戦者魂」 を記念し、「挑戦者を応援する都市風土をはぐくみ全国に発信するため、安吾の精神を具現し、さまざまな分野で挑戦し続けることにより私たち日本人に喝を入れた個人、または団体」 を表彰する、という趣旨である。
しかし、である。 この賞のこれまでの6回の受賞者を見てみると、野田秀樹 (劇作家・演出家・俳優)、野口健 (アルピニスト)、瀬戸内寂聴 (作家・僧侶)、渡辺健 (俳優)、ドナルド・キーン (文学研究者)、荒木経惟 (写真家) となっている。
ここから何が分かるかというと、分野の違いこそあれ、どれも有名人ということだ。 わざわざ安吾賞を贈呈しなくても世に知られている人ばかりであり、この賞の目指す 「飽くなき反骨」 にこうした授賞が合致するのかどうか疑問、と言わざるを得ない。
世の中にはたくさんの賞がある。 その中には、その賞の知名度より、その賞を与えられた人の知名度でかろうじて存在感を保っているものもないではない。
安吾賞がそうした賞に堕することのないように祈りたい。 そろそろ、誰も知らない人だけど安吾賞によってその存在を知られるようになった、という人物を発掘して授賞してもらいたいものだ。
この点で私が思い出すのは、数年前にノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏である。 ノーベル賞を取るまで、田中氏の名はほとんど誰も知らなかった。 化学の学界内ですらである。 授賞には批判もあった。 しかしノーベル化学賞の決定者たちは、知名度や学界内部の評価に左右されることなく、自分の基準に従って敢然と授賞者を決定した。
賞とはこういうものではないだろうか。
本日は午後3時から標記の演奏会に出かけた。 あいにくの雨で、りゅーとぴあや県民会館脇の駐車場は満車。 車は陸上競技場の駐車場にとめる。
1階と2階のBCDブロックにのみ客を入れていたが、1階は前方の端を除いては満員。 2階もCブロックはほぼ満員。 BとDは、半分くらいの入りだろうか。 新潟市のヴァイオリンのリサイタルとしては、かなり入ったと言っていい。 私はCブロックの6列目右端の席。 Nパックメイト優待価格で\2000。
ヴァイオリン=前橋汀子、ピアノ=松本和将
エルガー:愛の挨拶
ヴィターリ:シャコンヌ
ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第9番「クロイツェル」
(休憩)
ヴィエニアフスキー:モスクワの思い出
ドヴォルザーク(クライスラー編):わが母の教えたまいし歌
ドヴォルザーク(クライスラー編):スラヴ舞曲op.72-2
クライスラー:愛の喜び
クライスラー:愛の悲しみ
マスネ:タイスの瞑想曲
ファリャ:スペイン舞曲第1番
サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ
(アンコール)
ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女
ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
ブラームス:ハンガリー舞曲第5番
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン
私は前橋さんの演奏を生で聴いたのはこれが初めてである。 前半は黄色いドレス、後半は赤いドレスで登場。
まず音であるが、よく通る美しい音だけれど、わずかに線が細いかなという感じ。 あと、音の感じがやや冷たいというか、こういう言い方は失礼かもしれないが、前橋さんのお顔のようで、美貌だがややキツめかな、と。
最初の2曲は緩急をかなり入れて演奏していた。 この調子で行くのかなと思ったら、メインのクロイツェルではむしろオーソドックスな演奏に徹していて、曲により弾き方を変える人なのだなと思う。 音は上述のようによく通るのではあるが、やはり大和ナデシコで強さとか太さはあまりない。 だから、どちらかというとゆっくりな楽章のほうが本領発揮という印象。 クロイツェルでも第2楽章にうっとりとして聞き惚れてしまった。
後半は小曲集。 おおむねメロディアスな曲が続き、どれもそれなりに充実した演奏であった。 私としてはやはりゆっくりなところで勝負するタイスの瞑想曲や愛の悲しみが殊のほか体に沁みた。
そのあとのアンコールがとってもよかった! まずドビュッシーをやって、次にブラームスのハンガリー舞曲第1番をやり、そこまでは曲名を紹介してから弾いていたのだが、間をおかずにすぐにハンガリー舞曲の第5番を弾き、それからピアニストが楽譜を取りに楽屋に戻って、戻ってくるとすぐに曲名を告げずにツィゴイネルワイゼンを弾き始め、これには聴衆から拍手が。 うん、演奏も良かったなあ。 ヴァイオリンのリサイタルは最後はやっぱりこういう曲で締めなきゃあ、と納得。 アンコールを弾き終えたら、午後5時20分を回っていた。 質量ともに大満足の演奏会。 さすがヴェテラン!
ピアニストは、前橋さんとよく組んでいるのだろうか、ヴァイオリニストの緩急をよく捉えながら弾いていた。 音量的にもヴァイオリンに対してちょうどいいくらい。
なお、クロイツェル・ソナタの第1楽章終了後にかなり拍手があり (第2楽章と第3楽章は連続して演奏)、聴衆層は日ごろのりゅーとぴあ・クラシック演奏会とは違っていたようだった。 それで客席の騒音が目立つということはなかったけれど、Cブロックの最後列にお年寄りがいたようで、のどに痰がからむのか、演奏中に何度もごろごろという大きな音を出し、それが結構耳障り。 付き添いが背中を叩いたりしているのもそれなりに音がする。 生理現象だからやむを得ないのかもしれないが、こういう場合には強めの薬を飲んで抑制するなどの対応が取れないものか。
それから、客を演奏中にも入れていたようで、私の隣りが2座席空いていたのだが、後半、クライスラーの演奏中に老夫婦が来たのにはちょっとびっくり。
せっかくの前橋さんの演奏に集中しようにも邪魔が多かったかな。 残念。
減額されたとはいえボーナスも出たので、本日、ユニセフと国境なき医師団とにわずかながら寄付をしました。 (なぜわざわざ自分の寄付行為について書くかは、2005年7月29日の記述をごらんください。) ただし、例年も少額なのですが、今回はボーナスが減っているのでさらに若干減額してしまいました。 すみません。
作家トーマス・マンのミュンヘン時代の家が再建されたことについては、今年4月末のこの欄で触れた。
本日、ドイツの雑誌 ”Der Spiegel”(5月21日号、116ページ) に目を通していたら、トーマス・マンとその兄ハインリヒ・マンの母であるユーリア・マンの実家についての記事が載っていた。 以下で拙訳により紹介しよう。
【 19世紀末のリューベック市で彼女はエキゾティックで目立つ存在であった。 愛らしく、すこし浅黒い肌で、ブラジルの生まれだった。 彼女はユーリア・ダ・ジルバ=ブルーンス(1851〜1923)で、リューベックから外国に渡った商人とブラジル女性との間に生まれた娘であり、1869年にのちに市参事会員となるトーマス・マンと結婚した。 彼女の息子であるハインリヒ・マンとトーマス・マンはやがて著名な作家となった。 彼女の実家は、リオ・デ・ジャネイロから250キロ西の町パラティにあって、まだ現存しており、ただし改修が必要な状態にある。
ドイツとブラジルの文化人たちによれば、この立派な建物はほどなくドイツとブラジルの作家たちの会合場所となる予定だとのこと。 トーマス・マンの孫であるフリード・マン、サン・パウロのゲーテ・インスティトゥートの前所長ディーター・シュトラウス、そしてハンブルクのマーレ書店主であるニコラウス・ゲルプケがこの屋敷の所有者にすでに150万ユーロを提供しており、さらに100万ユーロを改修のために用意しようとしている。 このカネは、トーマス・マンの娘である故エリーザベト・マン・ボルゲーゼの財団から出ており、この財団の長を務めているのがゲルプケなのである。
この屋敷の所有関係は錯綜している。 ドイツとブラジルの企業家オスカル・ミュラーがこの物件を購入した。 だが先の所有者たちはこの屋敷の使用権をブラジルの極地航海者であり作家でもあるアミュル・クリンクに譲渡しており、彼はこの土地をヨットの係留に用い、屋敷は作業場およびヨット格納庫として使われていた。 ミュラーはクリンクに立ち退くよう要求したが、クリンクはこれを拒否している。 この屋敷はブラジルでも最も風光明媚な海岸部にある。 ミュラーは敷地に休暇用の施設を作りたい考えだ。 記念物として保護されるべきマン・ハウス 〔マン兄弟の母の実家の意味〕 を整備し役立てることをもくろんでいるだけだ、とミュラーはジャーナリストからの質問に答えている。 外務省はこの計画に賛意を表している。 】
6月30日(土) *新潟大学管弦楽団 第33回サマーコンサート午後6時半開演の表記の演奏会に出かけた。 会場はりゅーとぴあ・コンサートホール。
開演5分前に到着。 2階のDCBブロックは多分もういっぱいだろうと思ったので、3階に上がり、Hブロックへ。
客の入りは7割くらいか。 2階の上記3ブロックはほぼいっぱいで、1階も前半の中央部や後半部分はほぼ満席。
指揮=河地良智、コンマス=伊野晴香
ロッシーニ: 歌劇 「泥棒かささぎ」 序曲
メンデルスゾーン: 「夏の夜の夢」
から”序曲”、”スケルツォ”、”間奏曲”、”夜想曲”、”結婚行進曲”
(休憩)
ドヴォルザーク: 交響曲第9番 「新世界より」
(アンコール)
ドボルザーク: スラヴ舞曲第1番
今回のプログラムは、わりにメロディアスで親しみやすい曲で構成されている。 学生オケなのでプロオケのようにはいかないが、まあまあ弾けていたのではないだろうか。 「夏の世の夢」 の ”夜想曲” ではホルン・パートが続くが、大きな破綻もなくこなしていた。 ただ、破綻がないことと満足できることとは違うので、一層の精進を願いたいもの。
演奏の充実度では、やはり 「新世界」 であろう。 気合がかなり入っていた。 アンコール前に指揮者が 「団員はドヴォルザークが好きで」 と言っていたけど、そういう気持ちが音にそのまま出ていたように思う。
アンコールも、まあ、これしかないか、と思える選曲だった。
半年後の演奏会ではチャイコフスキーとプロコフィエフというロシア・プログラムに挑戦するようである。 さらなる充実が期待される。
今月から新潟大学の給与がカットされたことは先日この欄で報告したけれど、本日は夏のボーナス日。 銀行口座振込みではあるけれど、一応袋を見たら、なんだかずいぶん少ない。
後で去年の夏のボーナスの袋を探し出して比較してみたら、愕然。 手取りで11万円強、名目で15万円弱も減っているのである。
えっ、なんでこんなに減るのだ!? あらかじめ聞いていた減額パーセンテージより多いんですけど。 ワタシが年寄りだからだろうか。 いや、昨年はまだ次男を扶養していたけど、今年は大学を出て就職したので扶養からはずれている。 そのせいかなあ。
いずれにせよ、ますます許光俊との生活レベルの差が開きそうだ (苦笑)。
新潟大学構内に生息する動物というと、まずネコ、そしてタヌキ、それから (構内に生息していると言えるかどうかはともかく数の多さではダントツの) カラスであるが、本日はサルが出没したらしい。 らしい、というのは、私自身は見ていないからである。 しかし、午後4時少し前に事務から以下のようなメールが来た。
猿の目撃情報について 人文社会学系棟周辺で猿の目撃情報がありました。ついては、猿を 目撃した場合には刺激をあたえず、総務課会計係へご連絡ください。 猿には目を合わせると攻撃してくる習性がありますので、決して目を 合わせないでください。また、窓から室内に侵入してくる恐れもありますので、 戸締りには十分にご留意ください。万が一被害にあった場合にも、総務課 会計係へご連絡ください。
そしてこの日の午後6時からは新潟大学生協理事会があり、理事 (無給) の私も出席したが、そこでもサルの話題が出た。 生協職員の中にはサルを目撃した人もいたそうである。
この調子で行くと、そのうち新潟大学動物園が開けるかもしれない。 そういえば、学生サークルには乗馬部もあるから、構内には馬も飼われていたんだっけ。
昨夜は私には珍しくテレビドラマを見た。 弘兼憲史のマンガが原作の 「黄昏流星群」 である。 私は映画はよく見るけど、テレビはあまり見ないし、テレビドラマとなるとここんところ全然見ていない。
それが、見ようという気になったのは石田ひかりさんが出ているから。 私は彼女のファンなんだけど、最近映画に出てくれないので、しばらくお姿を拝見していなかったっけ、と新聞のテレビ欄で彼女がこのドラマに出るのを知って考えたら、急に見たくなった。
彼女の映画といえば、何と言っても大林宣彦監督の 『ふたり』 である。 このときの石田さんは19歳。 芳紀という言葉を冠したくなるくらいチャーミングで、またちゃんと入浴シーンもあった (ただし白い沐浴剤を使っているので裸はほとんど見えない)。
その後、あまり映画には出なくなり、結婚して二児を生み、現在40歳ということでどうかなと思ったけど、あまり容姿の衰えは感じなかった。 ただ、さすがに頬の線は若いときのようなナチュラルなみずみずしさを失ってはいたけれど。
ところでこのドラマ、事故で記憶を失った建築家 (高橋克典) が、妻 (石田ひかり) をそれと分からず、昔の恋人であるピアニスト (黒木瞳) を妻だと思い込む、という設定である。 やむをえず妻のふりをした黒木瞳が何とか彼の記憶を取り戻させようと努力し、妻である石田ひかりも家政婦のふりをして同居する、というような筋書き。
最初のあたりは、二人の女性の微妙な感情の行き来があったりして期待したのであるが、何しろ1時間20分枠、実質1時間のドラマであり、その後はありがちな展開で、最後はかなり安易に終わっていた。 テレビドラマだからこんなものかなあ。
石田ひかりと黒木瞳の二人に挟まれる役を演じる高橋克典がうらやましい。 私は黒木瞳さんも悪くないと思うけれど、でも石田さんとの二者択一ならやはり石田さんを選ぶな。
*ザムエル・シャイト: ラブラトゥーラ・ノヴァ (オルガン曲集) (ATMA、ACD 2 2317、2004製作、カナダ盤)
シュッツ、シャインと並んでドイツ・バロックの3Sなどと称されるザムエル・シャイト (1587〜1654)。 このタブラトゥーラ・ノヴァは1624年にハンブルクで出版された。 当時としては革新的な技法が駆使された曲集だったようである。 (タブラトゥーラは記譜法の意味で、ノヴァは 「新しい」 の意のラテン語。 つまり 「新しい楽譜 (曲集)」 というような意味である。) なお、ドイツ・オルガン音楽がバッハに至るまでにどのような経路で発展を遂げたかについては論者によっても意見が異なり、上記3Sという見解はヴォルフガング・カスパル・プリンツ (1641〜1717) のもので、別の学者はむしろヤーコプ・プレトリウスとハインリヒ・シャイデマンを重視しているということが、このCDの解説に書かれている。 それはさておき、聴いてみるとたしかに色々な技巧を駆使した、様々な曲の集成、という印象はある。 シャイトのタブラトゥーラ・ノヴァは全3巻からなるが、ここには8曲が収録されており、1曲の長さは7〜12分と比較的長い。 それぞれには頌歌 (Hymnus) やトッカータ、ファンタジアなどの曲種と、それとは別に例えば 「汝、光であり日であるキリストよ」 といったラテン語のタイトルがつけられている。 演奏はケヴィン・コミザルク、使用楽器はカナダ・トロント大学ノックス・カレッジのチャペルにあるオルガンだそうである。 解説はフランス語と英語で付いている。 昨年末、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんの閉店5割引セールにて購入 (コンチェルトさんはまだやってますけど)。
本日の毎日新聞を読んでいたら、「月刊ネット時評」 欄で高原基彰が変なことを書いていた。 「『従北勢力』 批判 民意からの遊離際立つ政党戦略」 という文章である。 (ネット上の毎日新聞には載っていないようなので、紙の毎日新聞をごらん下さい。)
ここで高原は韓国の政局に絡めて、韓国の有力紙で 「従北勢力」 批判が続いていることを取り上げ、ネットでもこれに近い言論が見られることについて書いている。
学生時代に渡北して逮捕された経歴のある代議士が、脱北者に暴言を吐いた事件がきっかけである。 この代議士が脱北者に酒場で話しかけられ、北朝鮮の体制を批判するジョークを言われたところ、この代議士が激昂し、相手を 「変節者」 呼ばわりしたという。
こういう代議士が批判されるのは当然だと私は思うけれどね。
ところが高原基彰はおよそ次のように論を運んでいく。
韓国の軍事独裁政権時代、言論統制は厳しく、北朝鮮を賛美する言論を禁じた国家保安法があり、その法律は現在も存続している。 これにたいして独裁政権を批判する民主化運動では、次のような思想が存在した。 すなわち、日本の敗戦後の混乱の中で国内の既得権権益層とアメリカが結託することで民族が統一国家を形成する契機が失われた。 その後の韓国は対米対日従属の軍事独裁国家となり、財閥系企業を過度に優遇して経済的発展を遂げた。
以上のように述べた後、高原基彰は次のように書く。
「この文脈上で、北朝鮮を敵国ではなく同一民族と見なすことは、軍事独裁の正当性を否定する意味で重要だった。」
えっ、どうしてそうなるの??
その種の韓国内の過去の言説と類似した言説は、同時代に日本にもアメリカにもヨーロッパ先進国にも存在したわけですよ。 それらは、資本主義・自由主義国内の経済的格差を過度に批判し、その責任をすべて資本主義やアメリカに押し付け、代わりにソ連や中国、挙句の果てには北朝鮮に理想郷を見る倒錯に基づいていたわけ。 (日本の左翼過激派学生が飛行機をハイジャックしてまで北朝鮮に渡った 「よど号ハイジャック事件」 は1970年のことである。)
今から振り返ってみれば、そういう言説には有効性はまったくなかったことは明白でしょ? そもそも、当時の韓国を 「軍事独裁政権」 と定義するなら、北朝鮮だって同じことでしょ? そして同じ 「軍事独裁政権」 のはずが、現在の北朝鮮と韓国の経済的発展度、のみならず政治的な民主化の度合いを見ても、「軍事独裁政権」 と韓国を批判した連中の認識がどの程度のものであったかは一目瞭然なのである。 有効性など全然なかったのだ。
ところが高原基彰は、上記の代議士のような人間が少数存在することはかねてから周知の事実だったのだから、保守勢力がこれをクローズアップすることは品位に欠ける選挙戦略だと批判する。
冗談ではない。 北朝鮮にシンパシーを覚え、脱北者を裏切り者呼ばわりする代議士が存在するのは異常と言うしかない。 そういう代議士も、そういう代議士を党員にしている政党も、批判されて当然なのである。 その程度のことがどうして高原には分からないのであろうか。
そもそも、日本でも戦後の左翼政党はマルクス=レーニン主義 (一党独裁の社会主義) とはっきり袂を分かたず、それが現在の日本で健全な民主社会主義政党が育たなかった原因になっていることを高原はどう見ているのだろうか。 西ドイツでは戦後まもなく社会民主党がバート・ゴーデスベルク綱領によってマルクス=レーニン主義と手を切り、それがやがて政権をとることにつながっていった。 北欧でも議会制民主主義に基づく民主社会主義政党は健在、というか主流になっていおり、政権政党になっていることが珍しくない。 それは、一党独裁の社会主義をきっぱり拒否し、議会制民主主義に基づく社会主義と、ソ連や中国や北朝鮮とはまったく異なるのだという原則と徹底させたが故の成果なのだ。
そうした戦後の政治史や思想の流れを高原がふまえていないことは、この記事ではっきりしたと言える。 毎日新聞も、こんなのに時評なんか書かせるなよ。
人間、年をとってやっと分かってくることも多い。 フィクションの世界の話だけれど、なぜドラキュラは太陽の光に弱いのか、といったこともその一つである。 それは、ドラキュラが年をとっているからなのだ。
私が若い頃は、太陽の光が気にならなかった。
私は瞳の色が平均的な日本人より薄く、黒というより茶色っぽく透明度も高い。 だから太陽の光を真正面から受けると必然的に顔をしかめてしまう。 実際、小学生低学年時に同級生たちと一緒に撮った集合写真があるけれど、太陽が正面にあったようで、他の同級生は普通の表情をしているのに、私だけが顔をしかめて写っている。
しかし、そんな私でも小中学生時代、太陽がさんさんと輝く野外で遊びまわることには何の支障もなかった。 帽子をかぶっていきなさい、なんて母の忠告は小うるさいだけであった。
それが、五十代になった頃からだろうか、太陽の光が不得手になってきた。 暑い季節にかんかん照りの中を歩いていくと、下手をすると日射病にかかってぶっ倒れるのではないかという気がしてくる。 必然的に帽子をかぶったり、日よけに傘をさしたり、といった格好をとらざるを得ない。
若い頃はそんなことはなかった。 日よけの傘をさして歩いている人を見ても不可解だったし、年寄りが好んで帽子をかぶって野外を歩いているのを見ても、年寄り臭いな、と思うだけであった。 今はその年寄り臭い格好を私がしている。 年寄りは太陽の光に弱いのである。 だから、長い年月を生き続けるドラキュラも太陽の光に弱いのだ。 ・・・・これで説明になってるかなあ (笑)。
東日本大震災での復興資金を確保するために今年度から2年間国家公務員の給与が削減されるけれど、わが新潟大学の給与も2ヶ月遅れで今月から削減されました。 というわけでワタシの給与も今月から、名目で4万円強、手取りで3万円強減りました。 つつしんでご報告申し上げます。
え? 何でそんなことをいちいち報告するのかって? それはね、産経新聞が今月1日に以下のような記事を1面トップで載せたからなのだよ。
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120603/fnc12060301340000-n1.htm
わずか14% 給与削減実施の国立大 「7・8%減」 に組合側反発国立大学教職員の給与削減が進んでいない。 政府は3月、国家公務員の平均78%給与削減に準じて国立大学法人の職員にも同程度の削減を求めたが、5月末時点で実施したのは全国立大学のわずか14%にとどまっていることが2日、分かった。 国立大学教職員は非公務員であるため政府の権限は 「要請」 どまり。 職員組合側から 「非公務員なのに下げ幅が大きすぎる」 と反発を受け、労使交渉が難航している実態が浮かび上がっている。
文部科学省によると、5月末時点で教職員の給与削減を実施した国立大学は90法人中13法人。東京大、京都大、大阪大など旧帝大の多くも未実施だ。
(記事はまだ続くが、読みたい方は上記リンクからどうぞ。)
産経新聞も、あんまりせいた報道はしないほうがいいと思うけどね。 多分、これから実施する大学が増えるだろうから。
それにしても、いったい国立大学法人の教職員は、公務員なんだろうか、非公務員なんだろうか。 この曖昧さが、国立大学法人という制度のいちばんダメなところだと私は思う。 非公務員なら給与も自由なはずということを必ずしも言いたいのではなく、万事がこのように国からのお達しで決まっているのなら、わざわざ法人にした意味がないでしょ、と言いたいのだ。 さっさともとの国立大学に戻したほうがいいと思うけどね。
それはさておき、給与が下がったので、支出も抑制しなければならない。 新潟大学周辺の飲食店だとか、新潟市内の○○○や×××××× (特に名を秘す) だとかには、影響があるでしょう。 あしからずご了承下さい。
あ、それから、大震災からの復興のためにはさっさと増税法案を通すように。 加えて世の中にはワタシよりはるかに高額の給料をもらっている民間サラリーマンが大勢いるはずだから、そういう人たちの所得税率を上げるように。
学会に出かけていた留守中に、日本シュトルム協会の会報(第58号)が届いていた。 日本シュトルム協会は19世紀のドイツ作家シュトルムを研究・愛好する人たちの集まりで、私も会員になっている。
ここに、大阪教育大学教授でシュトルム協会の理事も務めている松井勲先生が興味深い文章を載せておられるので紹介したい。
岩波文庫から2008年に 『立原道造・堀辰雄翻訳集』 が出た。 詩人の立原道造がシュトルムの短篇小説を訳したものが4篇収録されている。 松井先生はその訳を検討した結果、かなりひどい誤訳が含まれていることを発見する。
例えば 「二、三週間」 が 「二、三カ月」 になっていたり、「絵を描くこと」 が 「製図」 になっていたり。 後者については、立原の本職は建築家だったからだろうか、と松井先生は推測している。
他にも、「彼らはほとんど気づかなかった」 が 「彼女は気づくようになっていた」 になっていたりするという。 ドイツ語をやった方なら分かるだろうが、「彼ら」 と 「彼女」 を取り違えるのはドイツ語学習の初心者がやりやすいミスだ。 ドイツ語では三人称複数代名詞 (彼ら) と三人称単数女性代名詞 (彼女) がいずれも主格でsieという形になる。 (英語ならtheyとsheで形が異なるところ。) しかし、主格の代名詞が同形でも、三人称複数が主語のときと三人称単数が主語とときとでは動詞の語尾が異なるから、そこで見分けがつくはずなのだが、立原は見分けがつかなかったらしい。
これは私の感想だが、一般的には戦前の学制下では、「旧制高校 → 帝大」 のエリートコースを歩んだ者は旧制高校で語学的訓練をしっかり受けていたから語学ができるはず、と思われがちなわけだけど、どうやらさほどでもなかったのだな、ということである。 立原は 「旧制一高 → 東京帝大」 だからエリートの最たるもののはず。 それがこの程度だというのは、私のように戦後の教育を受けた、つまりドイツ語は大学に入ってから教わった者としては、ちょっと安心してしまったりする(笑)。
松井先生の意見に戻るなら、立原の訳ということで資料的な価値はあるかもしれないが、シュトルムの作品の翻訳としては価値がないに等しいこういう邦訳を、わざわざ大衆向けの文庫に収録する意味があるのだろうか、と疑問を投げかけておられる。 私も同感である。
松井先生はさらに、以前独文学者の国松孝二が岩波文庫と角川文庫から出していたシュトルムの訳が、最近あらためて岩波文庫から出ていることにも触れている。(『聖ユルゲンにて・後見人カルステン、他一篇』)
こちらは専門家の訳だから、訳そのものには問題が少ないが、それでも全然ないわけではない。 今の目で見ると不適切は箇所が若干だがあるという。 それが放置されている。
また、旧漢字と旧仮名遣いが新漢字と新仮名遣いに改められているほか、さらに訳文に多少変更が加えられているという。 例えば語り手の 「私」 が 「僕」 になっていたり、「やうに見える」 が 「ようだ」 になっていたりするというのだ。 これはおそらく岩波書店の編集部の人間が手を入れたのだろうと松井先生は推測している。 また松井先生は、国松氏による解説は充実してはいるが今の目で見ると納得しがたい部分もあるという。
以下は私の見解だが、専門家の訳であっても昔の訳を新たに出そうとするなら、現在の専門家になぜ見せないのだろうか。 どんなにドイツ語ができる専門家でも誤訳はするものだし、また辞書や新全集の注釈の進歩などにより新たな知見も加わっている。 古いものをそのまま出すのは、少なくとも一般向けの文庫本では良心的とは言えない。
岩波文庫の外国文学や哲学書の邦訳というとちゃんとしていると思われがちだが、実際には問題のあるものもある。 (私も以前、この欄で岩波文庫で出ているシュトルム 『みずうみ』 の関泰祐訳に問題があると指摘したことがある。) より良いものを目指そうとするなら、所詮は外国文学の素人である編集部で物事を判断するのではなく、専門家に相談するのが筋だろう。 岩波書店の良心度はそれによってこそ示されるはずだ。
日本では物事は基本的に官僚が決めている。 学会の影響力は、少なくとも文系ではほとんどないに等しい。
約10年前に設立された日本言語政策学会は、そんな中にあって日本の言語政策への実際的な影響力を持とうという理念を掲げていた。 しかし現実はなかなか厳しい。 今のところ、掲げた理念は実現されていない。
だがしかし、今回首都圏で開催されたこの学会では改めてこの理念が確認され、日本の大学に第二外国語必修制を導入させようという趣旨のシンポジウムが行われた。
かつては、日本の大学では2外国語必修は当たり前のことであった。 しかしいわゆる大学設置基準の大綱化により外国語については必須の条項はなくなり、第二外国語の衰退が一気に進んだ。 国際化時代、なんて掛け声とはまったく逆の動きが日本の大学では進行したのである。
これをなんとかしなくちゃ、というので今回のシンポとなった。 まあ、本当にこれが日本の言語政策に影響するかはよく分からないが、することを祈る、と言うしかないのである。
* *
この日の夜は、サントリーホールにコンサートを聴きに行く。 東響新潟定期会員の特権を行使しての、東京交響楽団演奏会の無料鑑賞である。 座席は2階正面の右手やや後ろ寄り。 ランクで言うとA席相当。 東京交響楽団のサービスに改めて感謝したい。
客の入りは85%くらいか。
指揮&ピアノ=ゾルタン・コチシュ、コンマス=高木和弘
リヒャルト・シュトラウス: 交響詩「マクベス」作品23
モーツァルト: ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K.453
(休憩)
バルトーク: 管弦楽のための協奏曲 Sz.116
ゾルタン・コチシュは、以前新潟に来演するはずが、9.11でキャンセルしたという前歴(?)がある。 そのため、生で聴くのは今回が初めて。 略歴を見ると、彼は私と同年生まれなのだ。 コチシュというとシフ、ラーンキと並ぶハンガリー若手三羽烏という印象が強かったけれど、ワタシと同級生だということはもう全然若くないのだ、と今更のように実感してしまった(笑)。 ラーンキだって、昨年東響新潟定期で久しぶりに見たら髪が真っ白になっていたものなあ。 時の流れは速い(しみじみ)。
さて、今回はそのコチシュが指揮もやるというところが見どころ。
最初のR・シュトラウスは、いかにもこの作曲家らしいオーケストレーションの豪勢な音の織物が聴きどころで、東響も健闘していた。 弦もフルの数で、左から第1Vn、第2Vn
、Vla、Vcという配置。 うん、好演! 幸先の良いスタートである。
次はモーツァルトの協奏曲の弾き振り。 ふたをはずしたピアノが、鍵盤が正面を向くように、つまりピアノ独奏者が正面に背を向けるように置かれた。 奏者の数もぐっと減って、ヴァイオリンは第1第2とも6名ずつでピアノの左。 ヴィオラは4、チェロ3、コントラバスは1で、ピアノの右側。 管も十人に満たない数。 室内楽に近いこぢんまりとした編成で、別の言い方をするとアットホームな雰囲気である。
演奏は、コチシュらしくというべきか、あまりテンポを落とさずに、颯爽と進んでいく感じ。 このテンポは、私からするとモーツァルト的で好ましく感じられる。 ピアノの音色もきれい。 ただ第3楽章はアヤの多い作りなのでちょっとテンポを落としていたが、少人数での演奏が生きた快演で、聴衆も盛んな喝采を送っていた。
というわけで、前半は絶好調。 問題は後半なのだが――
バルトークのオケ・コン。 この曲、私はウィーンに行ったときにイヴァン・フィッシャー指揮ブダペスト祝祭管弦楽団のすばらしい演奏を聴いていて、それがいまだに耳に残っている。 で、東響の今回の演奏だが、よくも悪くも混沌とした印象であった。 いや、楽器にミスが目立つという意味ではない。 その点は全然問題がないのだが、リズムだとか響きに切れが感じられず、雑然とした感覚が残るような・・・・。 これがコチシュの意図なのか、或いは彼の力量が足りずオケの統率がイマイチなためにそう聴こえたのか、よく分からなかった。 例えばこの曲の第2楽章は周知のとおり小太鼓の独特なリズムが特徴的な部分であるけれど、今回の演奏ではその小太鼓の音が必ずしもはっきりと聴こえず、リズムもさほど明確に刻まれていない。 その辺で、あまり魅力的な演奏には思えなかったが、もしかするとコチシュとしてはこの曲をそういうふうに捉えているのかも知れず、うーん、どうなんだろう、と疑問を覚えた。 客の反応はさほど熱狂的ではなく、それでも粘り強く拍手を送っていたけれどね。
演奏会が終わってから新橋に出、駅の近くで岡山ラーメンなるラーメンとビールで夕食を済ませた。
むかし私が若かった頃、1970年前後だったと思うが、「最近の映画には、むかしなら女中の役どころの女優が主演で出ている」 なんて文章をどこかで読んだ記憶がある。 もちろん書いたのは中年か老年である。 美の基準、映画でヒロインを張るべき女優の容姿の基準も、時代により変わるということなのだろう、と漠然と思った記憶がある。
その私も年をとった。 すると、やはり 「最近の映画には」 と言いたくなる気分を抑えきれない自分を発見してしまう。 年寄りの繰言と思われてもいいから、とにかく言いたいことは言っておこう。 切り捨て御免、ということで。 今回は日本の女優に限定。 欧米編はいずれまた。
まず嫌いな女優の筆頭は、広末涼子である。 嫌いな女優と言っても役柄によっては赦せる場合もあるが、広末については赦せない。 とにかくあの顔がダメなのである。 見るのも嫌、というくらい嫌なのだ。 美人でないのはもちろん、並の容姿ですらないと思う。 並以下の容姿の女優がなんで映画でヒロインやったり、化粧品会社に採用されたりしているのか、まったく分からない。 美の基準が変わるといっても、ホモ・サピエンスである以上、一定の範囲内に収まるはずだと思うけれど、広末に関して言えば全然収まっていない。 大きく外れている。 こういう女優を魅力的という奴の気が知れない。 多分、時代がそれだけ悪趣味になっているのであろう。 美的センスのない人間が増えている、ということですね。
次が寺島しのぶ。 お母さんの藤純子 (現在は富司純子) は周知のとおりの美人で文句なしだったが、残念ながら娘は母親に似なかった。 寺島しのぶは、親が親だから女優になれたので、そうでなかったらなれていたはずがない。 二世三世政治家の弊害が言われて久しい日本だが、彼女は二世女優の弊害の見本だと思う。 演技がうまいという人もいるが、私にはオーバーアクションにしか見えない。 喩えるなら、味を濃くすりゃ美味と勘違いしている料理人かな。
黒木メイサも嫌いである。 独特の顔つきなんだが、美しいとは言えないし、映画で見ると表情がきわめて乏しくていつも同じ顔つきで出ている。 撮影するほうで光の当て方だとかを変えて苦労しながら表情を出してあげている、といった印象だ。 喩えるならいくら噛んでも味が出てこないスルメの足みたいなものかな。
竹内結子も、今はどちらかというと嫌い。 彼女、ごく若い頃は嫌いじゃなかった。 映画で言うと、『イノセント・ワールド』 に出ていた頃である。 あの頃の彼女は若い女の観念的な硬さ、つまり硬質な色気をうまく出していて、それなりに魅力的だった。 その後、ヒット作 『いま、会いにいきます』 あたりまではまあまあだったのだけれど、その後 『春の雪』 に出るに及んで、こりゃまずいと思うようになった。 『春の雪』 のヒロインは貴族のお姫様で絶世の美女なのである。 失礼ながら竹内には務まらない役柄だ。 このあたりから彼女は人気が本格的に出てくるのだが、私は逆に、このあたりから彼女は魅力がない単なる中年予備軍女にしか見えなくなった。 なのになぜか映画には主役で出てくる。 彼女を選ぶ人間の、あるいは彼女に喝采を送る大衆の趣味の悪さがそのまま出ているということであろう。
小雪も、好きではない。 美人ではないし、どちらかというとブスだと思う。 体つきもやたら大柄なだけで、繊細さが感じられない。 なのになぜか映画ではヒロインをやったりする。 まったく理解できない。 彼女の映画での当たり役は 『嗤う伊右衛門』 であろう。 お岩さんの役だから、彼女にぴったり。 そこでやめておくべきであった。
田中裕子も、昔から嫌いである。 ただ、上に並べた女優たちと違って、この手の顔が好きな男もいるんだろうな、とは思う。 言うまでもなくジュリーこと沢田研二なんかがそれにあたる。 私も沢田研二は美男だと思うけど、女の趣味に関しては同意できない (私が同意しなくてもジュリーは歯牙にもかけないだろうけど・・・笑)。 田中裕子の前はザ・ピーナッツのお姉さんのほうでしたね。 あれも私の趣味に合わない。 ジュリーって、顔が平面的だったり目が小さかったりする女が好きなのかなあ。 私はそういう女はダメなんだけど。
麻生久美子も、嫌いというほどではないが、好きではない。 彼女も最近わりに売れていて映画によく出てくるのだけれど、スクリーンに登場しても、広末涼子のように顔を背けたくなるというほどではないが、美しい女を見るときの感興のようなものが全然湧いてこない。 先日も映画 『ガール』 で4人のヒロインの一人を演じていたけれど、主役4人のうちで私にとって最も魅力のないのが麻生久美子であった。
数えてみたらこれで7人。 ラッキーセブン (?) ということで、ここでお開きに。
昨日、吉田秀和氏の訃報に接した。 氏の業績については私がここで改めて述べるまでもないので、ここでは私の氏との関わりについて述べて追悼の言葉としたい。 関わりと言ってもむろん、私的な付き合いなどはなかったから、私が吉田氏をどう受容してきたかということである。
吉田氏の存在を知ったのは大学生時代のことである。 具体的にいつだったか、どういう本、或いはFMの番組だったかは記憶にない。 氏の著作よりは、FM放送の 「名曲のたのしみ」、或いはクラシック音楽についての座談会で先に氏の存在を知ったのではなかったかと思う。
現在からすると、吉田氏は98歳の長寿をまっとうされ、日本のクラシック音楽評論界の中で保守本流的な道を歩いてきた人のように見えるかもしれない。 しかし大学生時代 (1970年代前半) の私には吉田氏は必ずしもそのようには見えていなかった。
当時は、テレビでクラシック番組の解説をする人として大木正興氏の存在が大きかったし、FMのクラシック番組の解説者としては藁科雅美氏がおなじみであった。 (ちなみに、ウィキペディアで調べてみたら、大木氏も藁科氏も載っていない。 これはウィキペディアの欠陥である。 早急な是正を望む。)
また、FM放送でクラシック時評的な座談会が行われると、よく登場するのが野村光一氏であった。 吉田氏もよく一緒に出ていたが、野村氏が保守本流的な発言をされるのに対して、吉田氏はむしろ、異端というと言いすぎだが、自分の独自な判断に基づいて必ずしも世間的な価値評価にこだわらない意見を率直に述べ、しばしば野村氏と対立していたと記憶する。 例えば、エフゲニ・ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルが来日したとき、当時世界に冠たる評価を得ていたこの指揮者とオケについて吉田氏はかなり否定的な見解を披露されていたと思う。
つまり、1970年代前半、吉田氏はクラシック音楽評論界にあって、保守本流が大木氏や藁科氏や野村氏だとすれば、むしろ異端児的な、或いは風雲児的な印象を与える人であったのである。 むろんこれは大学生になってようやくクラシック音楽に凝り始めた未熟な人間の漠然たる印象に過ぎないが。
氏の著作で最初に読んだのが何だったかも記憶にない。 『名曲300選』 だったか、或いは当時 『芸術新潮』に連載され始めた 『私の好きな曲』だったか。 いずれにせよ、氏の著作をものに憑かれたかのように読むという体験は私はしていない。 しかし、ぼつぼつ、少しずつ、私は氏の著書を読んでいった。
1994年に新潟大学の教養部が解体して、私がドイツ語教師としてだけではなく、他にも人文学部向けに授業を出さなければならなくなったとき、私はクラシック音楽評論を読むという授業を開始した。 なぜそんな授業を始めたかというと、そもそも音楽を専門的に習っていない私にはクラシック音楽についての正統的で本格的な講義などできるわけがないし、しかし他の教員がやっていることをやるわけにはいかず、隙間産業的に独自性を出さねばならないという立場に追い込まれ、ならば自分のできる範囲で人のやっていないことをやろうと考えたからである。
そしてこの授業の教材として、私は吉田氏の文章をほぼ毎年取り上げ、自分でも改めて精読することになった。 そこで痛感させられたのは、今更と言われそうだが、氏が実によく勉強してものを書いているということだった。
一例だけ挙げよう。 氏の初期の文章に 『セザール・フランクの勝利』 がある。 クラシック音楽といえばドイツ語圏という観念が強い中にあって、フランス語圏の作曲家を取り上げているところがまずすごいのであるが、現在の目で読んでみても、この作曲家の根本を作るのに与かった部分、つまり教会のオルガニストとして長年勤め、晩年にオルガンの小曲をおびただしく作曲したという事実、そしてそうした曲の価値に、しっかり言及していることに驚かされるのである。
フランクのオルガン曲は、今でこそその全集がCDで入手できるけれど、氏がこの文章を書いた昭和25年にはそんな恵まれた状況にはなかったはずだ。 無論、氏はフランスなどの文献をよく読まれたのであろう。 けれども、オルガン音楽が西洋クラシック音楽の重要な礎石だという認識がなければ、あえて日本人向けの評論にオルガン音楽のことを書き記すことはしなかったろうと思う。 私自身、吉田氏の記述のそうした部分が重要だと分かってきたのは、新潟市に新潟市民芸術文化会館 (りゅーとぴあ) ができて、そのコンサートホールにパイプオルガンが設置され、オルガンの音楽会がよく開かれるようになってからのことだったのである。
最近の吉田氏は、『永遠の故郷』 という、比較的薄い、しかしシリーズ物の著書を4冊、世に送り出した。 いずれも歌曲を扱ったエッセイ集である。 最晩年に氏が音楽の最も原初的な形態である歌に帰っていったのは、それなりに理由のあることだったろうと思う。
これら4冊では、歌を扱っているだけあって、いわゆる肩肘張った 「クラシック」 だけが論じられているのではない。 例えば 『永遠の故郷 真昼』 は、冒頭、「愛の喜び」 を取り上げている。 「愛の喜び」 といっても、クライスラーのヴァイオリン曲ではない。 一般にはシャンソンなどでおなじみのポピュラー曲である。 「愛の喜びはひとときだけ、愛の悲しみは一生続く」 と始まるあの曲だ。
私はシャンソン歌手ミレイユ・マチューが好きだから、彼女のディスクでこの曲も知っていたが、その由来を考えたことはなかった。 ところが吉田氏は、この曲の作曲家マルティーニがドイツ人のオルガニストで作曲家であり、フランスで名を上げ、オペラや宗教曲などを書いた中で、この曲が現在まで歌われ続けているという事情を教えてくれたのである。 フランス革命のときもよく歌われていたのだそうだ。 なるほど、そんな由来のある曲だったのか、と感心してしまった。
むろん、それだけではなく、この曲にまつわる氏の個人的な思い出も語られている。 未読の方はぜひ、とお薦めする。 こういう文章がもう新しく読めなくなってしまったのは、実に実に残念なことだと思う。
謹んで氏のご冥福をお祈り申し上げる。
本日は東響新潟定期の日。 快晴だったので、某所にクルマをとめて25分ほどやすらぎ堤を歩く。
入りは、まあいつものとおり。 舞台背後のPブロックにはほとんど客がいなかったが、私のGブロックや向かいのKブロックはいつもより多少客が入っていたような。
指揮=ユベール・スダーン、メゾソプラノ=ビルギット・レンメルト、テノール=イシュトヴァーン・コヴァーチハーズィ、コンマス=グレブ・ニキティン
モーツァルト: 交響曲第35番 「ハフナー」
(休憩)
マーラー: 大地の歌
スダーンと東響の 「ハフナー」 交響曲、3月3日にもNEC玉川ルネサンスホールでのモーツァルト・マチネで聴いているわけだが、りゅーとぴあで聴くとやはり弦の美しさが際立っている。 ちょっとうっとりとしてしまう。 テンポ的には、リズムをくっきりと刻んで演奏する行き方なので、私的にはもう少し速めの、爆演とまではいかずともノリのよい演奏でもいいような気がするのだが、まあこれがスダーンのモーツァルトなんだろう。 だから、第2楽章が特によかったかなと思った。
休憩をはさんで後半はマーラー。 弦の数も、前半は第一ヴァイオリンが10だったのが16となり、舞台ほぼ全域に奏者が。 前半は指揮台を用いなかったスダーンも、今度は指揮台に。
演奏だが、第1楽章はオケがかなり大音量を出しているところでテノールが歌うので、私のGブロックは舞台最前列に歌手が立つと音が聴こえにくいということもあるのだけれど、声が楽器の音に隠れがちであった。 まあ、これは仕方がないというか、作曲の技法に問題がありそう。 ディスクだとその辺を調整してちゃんと声も聞こえるようになっているけれど。
第2楽章でケータイの音が鳴ったのは残念。 私は今どき珍しくケータイを所有しない人間なので、こういう場合は、「バーロー、ケータイなんか捨てちまえ!」 と内心悪態をつく。
この曲、どうもまとまりが感じられなくて、マーラーの交響的作品の中でもあまり好きではないのだが、東響の弦楽器奏者や木管奏者たちの健闘でそれなりに楽しんで聴くことができた。
帰りはまた25分ほど歩き。 そうしたら足にマメが。 うーん、運動不足だなあ・・・
新潟大学生協の理事をしている私。 本日は生協の総代会である。 旧年度の総括と承認、新年度予算案などの承認が行われる。 と言っても、私は前のほうにすわっているだけで、議決権はない。 議決権があるのは各部局から選ばれた総代たちである。 私はむしろ、議決をされる側。 つまり、来年度も理事を務めるわけだが、その承認を総代たちから得る必要があるから。
ひととおり議事が終わったあと、試食会があった。 生協食堂で新しい丼物を考案したので、三種類の丼を食べ比べ、一番おいしいと思うものに投票するのである。 全総代と全理事がこの試食会に参加。
詳しくは省くが、丼は通常の量ではなく――だったら三つも食べられないよね――三分の一程度の量だった。 和風あり、洋風あり、イスラム風(?)あり、といったところ。 私はイスラム風に票を入れたのだけれど、あとで集計がなされた結果では、残念ながらこれは最下位であった。 和風が一位。 うーん、今回の投票は学生が多かったのだけれど、案外味覚が保守的というか、新奇性を求めていないのですね。
言い換えれば、私の味覚は大衆の嗜好からズレているということなのであろう。
英語にはエリザベスという女性名がある。 このたび在位60周年となる英国の女王陛下がこの名である。
この女性名、ヨーロッパ各地にあるのだが、発音は地域ごとに微妙に異なり、ドイツ語だとエリーザベトとなる。 第二音節にアクセントがあって、なおかつそこが長母音となる。
ところが、これがいつしか間違って 「エリザベート」 とされるようになった。 その元凶は、例のミュージカルではないかと私は思う。 オーストリー・ハンガリー帝国で皇帝として長らく君臨し国父として敬愛されたフランツ・ヨーゼフの妃であるエリーザベト。 彼女をヒロインにしたミュージカルはヨーロッパはもとより日本でも愛好されている。 ところがどういうわけか日本では、タイトルは誤った発音である 「エリザベート」 になっている。
このお陰で、日本人は英語ならエリザベスという名はドイツ語圏ではエリザベートだと間違って思い込む人が多い。 罪作りなミュージカル (日本版のみ) と言うべきであろう。
しかし大学に行かない、或いは行ってもドイツ語なんかやらない大衆が間違えるなら仕方がないとも言える。 ところが、そういう大衆をまさか記者に雇ったりはしないであろう毎日新聞の記事が同じ間違いをしているのだ。 以下、本日の毎日新聞より。
http://mainichi.jp/feature/news/20120519ddm012040049000c.html
毎日新聞 2012年05月19日 東京朝刊
ベルギー・ブリュッセルのエリザベート王妃国際音楽コンクールの作曲部門で、大阪府出身の作曲家、酒井健治さん(34)の「バイオリンとオーケストラのための協奏曲」がグランプリを獲得し、18日、現地で発表された。日本人の同部門グランプリは77年以来。酒井さんは京都市立芸大卒。
ごらんのように 「エリザベート王妃国際コンクール」 と表記してしまっている。 だがベルギーではオランダ語とフランス語が公用語で、オランダ語ならドイツ語と同じくエリーザベトであり、フランス語ならエリザベトであり、いずれも 「エリザベート」 なんて発音にはならないのだ。
調べてみたら、ウィキペディア日本語版が 「エリザベート王妃国際音楽コンクール」 と表示している。 大衆の無知がそのまま表れているわけだが、毎日新聞が大衆の無知に染まってどうするのだ!! 困っちゃうなあ。
(その後、この件に関して毎日新聞のサイトからメールを送っておいたんだけど、半月たっても返事なし。 日本の全国紙なんてこんなものかね。)
本日はミュンヘンを発つ日。 荷物を持ってフロントに行き、勘定は来る前に日本で済ませているので、「今日、出発します」 とだけ言ったら、「分かっています」 と答が返ってきて、それから 「Auf Wiedersehen」 と言われた。 まあ、この文脈なら 「またのご来訪をお待ち申し上げております」 といったところかな。
このホテル、ミュンヘンに到着した日の日記にも書いたけど、建物が古めで、落ち着いているのはいいが、窓が狭くて暗いのと、設備が旧式なのとが難点。 まあ、落ち着いてゆっくり過ごすのにはいいかもしれない。
朝食は中2階の2間続きの部屋でとるのだが、バイキングは豪華というほどではないがひととおり揃っていて、紅茶ポットもちゃんとあるのがいい。 ホテル全体の部屋数があまり多くないので、つまり客数も多くないので、混雑してうるさいということもない。
しかし客によってはおしゃべり好きな人もいる。 或る朝、一人で来ているらしい中年女性客が、他の客にやたら話しかけていた。 どこから来たのかとか、どのくらい滞在しているのかといったたわいない話であったが、話しかけられた或る中年夫婦は、「3週間の滞在だが、今が3週目だ」 と答えていた。 うーん、やはりヨーロッパ人ってホテルに長期滞在するものだな、と感心。 私は今回は9泊で、日本人としては同じホテルに9泊だとかなり長いという気がするのだが、ヨーロッパ基準からするとさほどでもないということになるのだろう。 それにしても、いくらミュンヘンが都会だとはいっても、3週間もいたら訪れるところもなくなるんじゃないか・・・・なんて心配するのも日本人的かも。
ともかく、4つ星ホテルのわりにはデラックス感はあまりないけど、落ち着くし、東駅のすぐ前で近郊電車の駅に加えて地下鉄と市電の駅もあるので交通の便はきわめて良好だし、東駅構内には色々な店が入っているので便利だし、価格もそんなに高くないし (1泊朝食付き1万円弱程度)、悪くないホテルだと思う。 ミュンヘンにこれから行かれる方にはお薦め。
(↓ 宿泊したホテル・シュタット・ロ−ゼンハイム。 1階には銀行などが入っており、2〜5階がホテル。)
(↑ 東駅前の広場。 東京なら新宿駅や渋谷駅などに相当するが、人通りが少なく閑散としている。 建物も5階建てで統一されている。 青色の市電が走っている。)
さて、本日出発とはいえ、成田行きの飛行機は午後9時発なので時間はたっぷりある。 荷物を東駅のコインロッカーに預けて身軽になってから、英国式庭園の北側にある墓地に再度出かける。 ここは数日前に英国式庭園を訪れた際に行ってみたのだけれど、後で考えてみたら、トーマス・マンの 『ヴェネツィアに死す』 で主人公アッシェンバッハが外国人風の男に北墓地で出会うシーンがあるが、その男の現れた建物が実際にあったかどうか確認していなかったのを思い出したのだった。
で、行ってみたけれど、どうも 『ヴェネツィアに死す』 に出てくる北墓地の、回廊のある建物というのは見当たらなかった。 マンがこの作品を書いたのは第一次大戦前で、つまりもう100年も前だから、老朽化により、もしくは戦時中の爆撃か何かで壊れてしまったのかもしれないし、或いは、建物自体が小説内のフィクションに過ぎないのかも知れない。 うーん、その辺が不明なままに終わってしまいました。
それから、昨日も行ったミュンヘン市内の映画館Cityにまた行って映画を見る。 昨日はチケット売り場にいた若い女性が、今回はもぎりの場所にいて、昨日パンフのことを尋ねた私のことを覚えていたようで、「また来たの?」 と言って笑った。 今回の映画は、しかし昨日のより面白くなかった。
映画を見終えるともう午後4時である。 遅い昼食を、ミュンヘン滞在も最後なので少し有名なレストランでとろうと、マリエン広場からちょっと南東に行ったところにある 「パウラーナー・イム・タール」 という店に入った。 「地球の歩き方」 にも出ている店だ。
そういえばミュンヘンに来たのに白ソーセージを食べてなかったっけ、と思って、メニューで探したけれど、見つからない。 ウェイターに聞いてみたら、「今日の分はもう終わった」 とのこと。 やれやれ、ミュンヘンに来ながらついに白ソーセージを食べずに終わるか。 まあ、私にはグルメ趣味はないからいいようなものだけれどね。 結局、ビールと鮭料理を頼みました。 料理はライス添えで、このライスはふつうに焚いてあるけれどピラフなどに使われる粘り気のない長粒米で、鮭にはたっぷりソースがかかっていたので、このソースに白米を浸して食べたら結構いけて、お腹も一杯に。
食べ終えて、少し早いかとは思ったが、空港に行くことにした。 東駅で途中下車して荷物を取り出す。 海外旅行で帰りの飛行機に乗るときは、いつも手続きがうまくいくか、手続きをする場所がすんなり見つかるか、ちょっと不安になるものだが、その点でミュンヘン空港はきわめて分かりやすくできており、全日空の受付の場所はすぐに分かった。 全日空としてまとめていくつかの受付口を確保しており、エコノミークラスの列はやや混んでいたが、隣りのビジネス・クラスの受付口が臨機応変でエコノミークラスの私の受付をしてくれた。 この辺、成田空港の分かりにくさ、エコノミークラス受付だけ離れてはるか遠くにある不愉快さと対照的。 成田空港はミュンヘン空港を見習いなさい!
全日空の隣りがタイ航空なんだけど、ここにはずいぶん人が多かった。 タイも経済発展を遂げてドイツとの人の行き来が増えてるんだろうな、と思う。
早めに手続きを済ませたので、ロビーでゆっくり本を読んで過ごす。 今回の旅行では、ノイシュヴァンシュタイン城で待たされたときを初めとして、わりに本が読めたな、と思う。 いや、還暦まで数ヶ月という身としては、やたら歩き回ると疲れるので、本を読んだり適当に休んだりしながらの旅程でちょうどいいのです。 ヨーロッパ人を見習って、急がない旅を心がけましょう。
本日は、午前中、美術館のノイエ・ピナコテークに出かける。 4月28日に訪れたアルテ・ピナコテークの隣の敷地にある。 アルテ・ピナコテークが18世紀までの絵画を集めているのに対し、こちらのノイエ・ピナコテークは19〜20世紀の絵画が展示されている。
最初に受付でいきなりチケットを2枚提示されて20ユーロと言われ、「?」 と思う。 あらかじめ読んでおいた 「地球の歩き方」 では入場料は7ユーロのはず。 いや、特別展をやっているからかと思い、おとなしく20ユーロ払ったのだが、何となく腑に落ちない。 2枚の入場券には、それぞれ10ユーロと書いてある。 値上げしたんだろうか。 アルテ・ピナコテークは7ユーロだったけどなあ。
それと、小さな手提げバックを持っていたら、あらかじめクロークに預けるように言われ、地下のクロークに持って行ったら0,70ユーロとられた。 ところが、これは帰る段になって気づいたのだが、クロークの右奥に行くとコインロッカーがあって、コインロッカーなら無料なのである。 うーん、アルテ・ピナコテークでは、クロークに預けようとしたらコインロッカーのありかを教えてくれたっけ。 なんか、万事にアルテ・ピナコテークのほうが親切な感じである。
それはさておき、ドイツ語のオーディオガイドを借りて、最初は特別展の部屋に入る。 英国の動物の絵を特集しているようで、特に馬の絵が多い。 ヨーロッパ人って馬が好きだからなあ。 私は馬には別に興味はなくて、桜なべも60年近く生きてきて2、3回食べたかな、という程度である。
色々な絵があってそれなりに楽しめはしたが、これ!というような感銘を受ける絵はほとんどなかった。 ベルギーの象徴派の絵がわずかにあって、私はベルギーの象徴派はわりに好きなのでよかったが、後で売店に行っても絵葉書がない。 人気ないんだろうなあ。 とうも私の絵の好みは大衆向けではない(?)。 結局、シュトゥックの 「罪」(裸の女に蛇が巻きついている絵)、シュティーラーの 「ゲーテ」(老いたゲーテが右手に書類を持っている有名な肖像)、それにアドルフ・フォン・メンツェルの 「メンツェルの妹がいる居間」 の絵葉書を買う。
あらかじめ 「地球の歩き方」 で調べた限りではノイエ・ピナコテークにはレストランがないと思っていたのだが、実際には地下のクロークの向かい側にレストランがあった。 ヨーロッパでは美術館には基本的にカフェかレストランはあるものなのである。 しかし、このあと映画を見に行く予定で、ゆっくりレストランで食事をしている暇はないと思い、急ぎ美術館を出て、市電に乗って中心街に向かう。
中心街では、足元に容器を置いてヴァイオリンを奏でている男の姿が目につく。 実は、私が宿泊している東駅付近でも、ホームに通じる地下通路の一角でよく若い男がヴァイオリンを弾いている。 やはり足元に容器を置いてである。 これはミュンヘンが音楽都市だからだろうか、或いは実質的に乞食が多いということなのか。 そういえば、ウィーンではシェーンブルン宮殿に近い駅の前で、車椅子に乗った男が乞食をやっていたっけ。
時間がないので、中心街にあったマクドナルドで急ぎハンバーガーとビールの昼食をとる。 私は日本ではほとんどマクドナルドは利用しない。 これまで60年近く生きてきて通算で3回とは行っていないはずだ。 しかしアメリカ資本の店で柔らかいパンを食べると、ちょっと日本が恋しくなる。 なにしろドイツのパン屋でハムやソーセージや野菜をはさんだパンを買うと、パンが滅法固いのである。 私は歯は丈夫なほうだが、歯が弱い人だと齧ることができないんじゃないかと思えるような固さだ。
5分で昼食を済ませてすぐ近くの映画館に向かった・・・・ところが、あれ、と思う。 実は昨日、土産物を買いに中心街に出たときいちど立ち寄って上映時間を調べておいたのだが、昨日掲示されていたのと本日のが違っているのだ。 お目当ては 『王妃と侍医』 というヨーロッパ映画だが、昨日の掲示では午後3時開始のはずが、本日は4時半開始になっているのである。 愕然。 これならノイエ・ピナコテークのレストランでゆっくり昼食をしたためるのだった(涙)。 仕方なくその辺の台に腰掛けて本を読む。
Cityという複合映画館だが、日本のシネコンとは感じが違って、中庭みたいなところを囲むようにして複数の映画館が建っている。 チケット売り場は中庭を囲む一角にある。 そこでチケットを買って、ついでに作品パンフを買おうとした。 この映画は日本では上映されていないし、この先上映されるかどうかも分からない。 ドイツ語の映画を見ても分からないところがありそうだから、それを補うために、と思ったのだが、窓口の若い女性は、パンフはないと言う。 (翌日もこの映画館に映画を見に来て、そのときももう一度、念を入れて音楽会用パンフを示して訊いてみたが、やはりないという答えだった。 このときの窓口は男性係員だった。) 実は私はドイツで映画館に入ったのはこの日が初めてだったのだが、どうやらドイツの映画館にはパンフがないらしい。 そういえば、映画のポスターも、隅のほうにURLが書かれているだけ。 どうやら、細かいことはネットで調べてくれ、というふうになっているようだ。
ここのことを一般化して考えていいかどうか不明だが、上映時間の掲示を見ると、日本に比べて上映開始時刻が遅い。 まず、午前中の上映は皆無。 日本だと遅くても午前11時くらいには映画館は開くものだが、ここは違う。 早くても午後1時台。 だいたい、午後3時くらいにぼつぼつと始まる感じである。 中庭に集まる客の数も、ミュンヘンという百万都市としては多くない。 と書くと、ハリウッドなどの人気映画じゃないからじゃないかという声も出そうだが、ハリウッド製の 『マーガレット・サッチャー』 なんかもここでは上映されている。 それでこの程度なのだ。
だいぶ待ってようやく入場。 スクリーンの前に幕が降りている。 東京だとこういう映画館もまだ結構あるけれど、新潟ではすでにスクリーン幕のある映画館は滅亡(?)している。
予定時刻を数分過ぎてようやく幕が開く。 最初は広告から始まる。 商品の広告だけでなく、NGOの意見広告も結構ある。 そして広告上映の最後に、「意見広告の内容上の責任はそれぞれの広告主にあります」 という断り書きが映し出される。 要するに映画館側は内容には責任を負いません、ということだ。 そんなこと当たり前じゃん、と言いたくなるが、わざわざこういう断り書きが出るところを見ると、クレームをつけてくる輩もいるのだろう。
これはこの日の翌日に同じ映画館 (ただしハコは隣り) で見た広告だが、ヨーロッパの有名時計メーカーの長編広告が面白かった。 豹が様々な土地を走り、龍と闘うなど冒険を重ね、最後に若く美しい女性の隣りにおとなしくすわる、という筋書き。 その女性の腕に時計が光っているというところだけが宣伝になっている。
広告が15分ほど続く。 そして幕が降りる。 あれ、と思う。 日本だと広告のあとは予告編、そのあとが本編で、広告や予告編と本編の間にはいちいち幕は下ろさないからだ。 幕は1分弱降りていて、また開く。 そしてようやく本編の開始。 感想については、「映画評2012年」 を見ていただきたい。
映画が予定より1時間半遅く始まったので、予定では映画を見てからいったんホテルに帰って、それから夜の音楽会に行くはずが、映画を見終えてすぐコンサートホールに直行となった。 とほほ。
*
ミュンヘン最後の夜は、バイエルン放送交響楽団による、musica
vivaという演奏会に出かけた。 現代音楽の夕べで、午後8時開演。
現代音楽には趣味のない私だが、この日はめぼしい音楽会が他にないことと、このホールにはすでに2度来ているものの、ピアノのシュッフとアマオケの演奏会ということで、プロのオーケストラをここで一度聴いておきたいという気持ちから来てみた。 しかし日本を発つ前にネットで調べたときはチケットはさほど売れていないようだったので、「やっぱり現代音楽の演奏会なんか客が入らないんだ。 当日券で間に合うだろう」 と思ってネット予約はしないままにしておいた。
・・・・が、甘かった! 当日、開演35分くらい前に行ってみたら、当日券売り場は結構混んでおり、私の番になって訊いたら、すでに指定席は売り切れ。立見 (立聴) 席券しかないとのこと。 仕方がない。 もともと指定券でも3段階、30、20、10ユーロという安価な演奏会なのであるが、立見席はたったの5ユーロ (約550円)。 パンフは2,5ユーロ。
立見席券なので文字どおり立って聴くのかと思っていたが、すわれた。 1階の平土間には、左右両端の2階脇席を支えている柱の背後に横向きの座席がいくつも並んでおり、そこは普通の演奏会では客がすわらない席なのだが、ここにすわって聴くようにとの係員からの指示があった。 ただしそこは、2階脇席を支えている柱の後ろだから、どうしても柱が邪魔になり、舞台は全部は見えない。 私は指揮者が見えるような位置にすわったが、そのため第一ヴァイオリンの後ろ半分や逆の側の弦楽器奏者の一部は柱に隠れて見えなくなった。 まあ、5ユーロじゃ文句も言えない。
指揮=ジョージ・ベンジャミン、ピアノ独奏=ピエール=ロラン・エマール
リゲティ: Lontano(「遠い、はるか昔〔または未来〕」という意味のイタリア語) (大オーケストラのための: 1967年)
トリスタン・ミュレイユ: 世界の幻滅.ピアノとオーケストラのための協奏交響曲(2011/2012年、初演)
(休憩)
メシアン: 鳥たちの目ざめ (ピアノとオーケストラのための: 1953年)
ジョージ・ベンジャミン: 重ね書き用羊皮紙(Palimpsests)TU (オーケストラのための: 1998−2002年)
指揮のベンジャミンは1960年生まれの英国の作曲家・指揮者で、プログラムの最後の曲目では自作自演ということになる。 前半の2曲目と後半の1曲目でピアノ独奏が入り、ここでのピアノの響きから、初日のシュッフの演奏会での印象と合わせて、ヘラクレス・ホールがそもそもピアノの音響に優れたホールなのだ、ということを確信した。
曲の印象だが、何しろ現代曲ばかりなので、率直に言ってどれもあまり面白いとは思えなかった。 メシアンの曲は鳥のさえずりを模した曲なので、まあ分かりやすいと言えば分かりやすいんだけれど。 最後のベンジャミンの曲は、弦楽器奏者の数が減り、指揮者のすぐ前には木管奏者が並び、ちょっと吹奏楽に近い音楽の印象であった。
2曲目のミュレイユの曲は初演で、ミュレイユは1947年生まれのフランスの作曲家だけど、この演奏が終わると、私と同じ並びの席、つまり端っこの柱の陰になる席だが、そこにすわっていた赤っぽいジャケット姿の初老の男が立ち上がって舞台脇のドアを開けて入って行き、やがて舞台に姿を見せた。 作曲家自身だったのである。 作曲家に敬意を表して長い拍手が送られた。
ちなみにミュレイユのこの曲、パンフによると、バイエルン放送、ニューヨーク・フィル、ロイヤル・コンセルヘボウ管弦楽団、そしてソウル・フィルの委嘱による作曲だそうだ。 ここにソウル・フィルが入っていることに、ちょっと驚く。 最近の韓国の産業面での躍進は私が今さら言うまでもないし、韓国人演奏家のクラシック音楽界への進出も目立つところであるが、こういう風に現代の作曲家への作曲依頼も欧米のオケや放送局と組んでやっているわけなのだね。 日本のクラシック音楽界もうかうかしていられないのではないか、と思ったことであった。
本日はニュンフェンブルク城を見物に出かけた。 この城はミュンヘン市の西のほうにあり、ミュンヘンを中心とするバイエルンが王国だったときにここを支配していたヴィッテルス家の夏用の居城として作られたものである。 ミュンヘン中央駅に出て、そこから市電に乗り、西の方角に向かう。
私は城については専門的なことは分からない人間だが、解説書によるとドイツで最大級のバロック風の城なのだそうである。 市電を降りると、そこに水路があり、水路の向こうに城が見える。 近づいていくにつれ、中心となる建物から、左右両側に対称形をなしながら伸び広がるように建物が続いているのが見えてきて、このスケール感にまず驚く。
(↓ 中心となる建物から左右対称形に建物が続いていく。 全部はとてもカメラに収まらない。)
(↑ 中央の建物2階のバルコニーから、正面の庭をのぞむ。 ずっとまっすぐ進むと市電の停留所があるが、ここからは見えない。)
入場料を払って中に入るが、公開されているのは一部分だけである。 ウィーンの王宮や、ミュンヘンでも市内中心部にある王宮(レジデンツ)やヘレンキームゼー城を見ている私には、さほど目新しさはない。 ただ、ここの売りは 「美人画ギャラリー」 である。 バイエルン王であったルートヴィヒ1世(1786〜1868年、在位1825〜48)が、目にとまった美女36人の肖像画を画家に命じて描かせ、残したのだそうだ。 貴族の女性だけでなく、庶民の美少女も入っているところが、なかなか開けた王様だったと言うべきか、或いは女好きだったと言うべきなのか。
ちなみにこの王様、在位中に美貌の踊り子に惚れて伯爵夫人の称号を与えて愛人にしたという。 しかしこの愛人 (ローラ・モンテス) が政治にまで口出しするようになり、市民たちの反発を買って、王は退位、愛人は追放となった。 まあ、好きものの王様だったんですね。 でも、羨ましい(笑)。
さて、この36人の美女は顔だちも髪の色も色々で、その美貌も様々なのであるが、私の見るところ、ヘレネ・ゼードルマイヤーという少女が最も魅力的だった。 美しさの中にも男を魅了する愛らしさがあって、ちょっとしたタマである。 庶民の娘だったそうで、1813年に生まれ、肖像画は1831年に描かれている。 庶民なりに幸せな人生を送ったようだ。 見物していたドイツ人の中にもこの肖像画だけカメラに収めていた人がいたから、ドイツ人から見ても美少女なのだろう (フラッシュを焚かなければ写真は撮っていいようだ)。
あとで売店に行ったら、36人の美女のうち数人は絵葉書があったが、上記のヘレネ・ゼードルマイヤーのもあったので、それだけ購入。 絵葉書にもなっているのだから、私だけでなく多くの人間の好みに合う容姿なのであろう。 ただし絵葉書は実物の肖像画に遠く及ばず、肖像画の魅力の半分程度しか伝えていないのが残念。 と思いつつ帰国後ネット上で彼女の肖像を探したら、さすがに今どきだけあって、ちゃんとありました。 うーん、絵葉書よりかなりマシだね(↓↓)。 別の言い方をすれば、カネを出して絵葉書を買った甲斐がない(笑)。
ついでに、ウィキペディア英語版にも、彼女の簡単な履歴があります(↓)。 やはり美しいものは永遠なのだ。 いや、王様の残した肖像画により永遠になったのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Helene_Sedlmayr
(↓ ヘレネ・ゼードルマイヤーの肖像。)
さて、ニュンフェンブルク城に話を戻すと、建物の裏側が広大な庭園になっているところも見ものなのである。 中央の水路がずっと延びていて、その左右に森や散歩道が広がっている。 小さな湖もある。 全部はとても回りきれないが、湖のある側を少し散策する。 細い水路も設けられていて、橋もかかっている。 建物もいくつかあり、展示場になっているのだが、時間も限られているので1つしか見物できなかった。 建物の一方には中国関係の美術品が集められており、他方には深い濠のようなものがあったが、プールらしい。
(↓ 森の中の散歩道。 途中、細い水路と橋がある。)
かなり歩いてまた中央部分に戻ると、水路の終点近くに着く。 ただし、水流はこの下をくぐって外部につながっている。 この先で城の庭園は終わりとなるが、門があって日中は開放されている。 城の建物に入るには入場料が要るが、庭園に入るだけならタダであり、そのせいで市民がジョギングをしている姿も結構見られるのだ。
日本もそうだけれど、西洋でも昔は王様と庶民の格差はものすごく、そのせいでこういう広大な城と庭園が残されたわけだが、今ではお陰で市内に大きな緑地が確保され、市民たちの憩いの場となっている。 観光資源としてお金もそれなりに稼いでいる。 物事はどうころぶか分からない。 もっとも、この施設を維持するためのお金も相当なものではあろう。
さて、お腹も減ってきた。 ここはレストランはないのかな、とすると外に出て探さないと、と思って建物中央部の方向に戻っていったら、途中左側にカフェ&レストランがあった (建物から裏側庭園方向を見たときには右側になる)。 この店の存在が案内図には描かれていないのが、不親切。
それはさておき、店に入って注文をしようと思ったが、すわったテーブルには飲み物用のメニューしか置いていない。 ボーイに頼んで料理用のを持ってこさせる。
「鮭のなんとか(よく分からない)、ジャガイモと野菜添え」 というのとビールを頼んだら、出てきたのはスモーク・サーモンみたいな料理だった。 それなりにおいしいのではあるが、薄く切ってあってあまり腹にたまらない。 ジャガイモも、薄く切ったのに衣をつけてトンカツみたいに揚げた料理。 これもおいしいのだけれど、やはり薄く切ってあるので腹にたまらない。 他に野菜が若干添えてはあるが、量的にはたいしたことがない。
昨日はポリングで食べきれない量の料理に参ってしまったが、本日は一転して量的に物足りない料理であった。 チップを少し足して18ユーロ。 値段的にも、昨日に比べると圧倒的にコスト・パフォーマンスが悪いなあ。 昨日が田舎の農夫風料理だったとするなら、本日のはお城のお姫様風料理か。
このあと、市内の繁華街マリエン広場に行き、お土産を買う。 最初、ルートヴィヒ・ベックという百貨店に入ったのだが、食品売り場が見当たらない。 仕方なく、この広場の反対側の角にあるガレリア・カウフホーフという百貨店に入ったら、日本の百貨店と同じで地下が食料品売り場になっており、品揃えもよく、とりあえず土産物類を買いそろえることができた。
買った土産物類をかかえていったんホテルに戻り、少し休んで、夜はオペラに出かける。
*
バイエルン州立歌劇場の本日の出し物は、モーツァルトの
『フィガロの結婚』。 午後7時開演。
この日は1階の中央右寄り最後から3列目の座席。 今回はどうにか舞台上枠の字幕を見られる位置である。 20列794番。
75,50ユーロ (約8300円)
は今回ミュンヘンで聴いた音楽会の最高額。
パンフの7ユーロも最高額。
そのパンフだが、「ルイザ・ミラー」 と同じく、160ページある書籍。 やはりあらすじやリブレット以外に色々な文章、そして絵画も収録されている。 こういうのを見ると、オペラが総合芸術として認知されているんだなというのがよく分かるのだ。
このオペラの初演は1786年であるが、ミュンヘンでの初演は1794年というから、「ルイザ・ミラー」
とは逆にかなり早い時期だ。 今回の演出での初演は1997年6月30日だそうである。
指揮=ダン・エッティンガー
演出=ディーター・ドルン
舞台と衣装=ユルゲン・ローゼ
ドラマトゥルギー=ハンス=ヨアヒム・ルックヘベルレ
照明=マックス・ケラー
合唱=ステラリオ・ファゴーネ
アルマヴィーヴァ伯爵=サイモン・キーンリサイド
伯爵夫人=アーニャ・ハルテロス
ケルビーノ=アンジェラ・ブラウアー
フィガロ=ルカ・ピサローニ
スザンナ=アドリアーナ・クッチェローヴァ
バルトロ=クリストフ・シュテフィンガー
マルチェリーナ=ハイケ・グレツィンガー
バジリオ=ウルリヒ・レース
ドン・クルツィオ=ケヴィン・コナーズ
アントニオ=アルフレート・クーン
バルバリーナ=エフゲニヤ・ソトニコーヴァ
二人の少女=エヴェリーネ・エルトル、ルート・イレーネ・マイヤー
チェンバロ=ファビオ・チェローニ
舞台は、白い壁が三方にあり
(天井を入れると四方)、それぞれの壁の中央に一つずつドアがある空間。
装飾はなく、きわめてシンプルな書割。
場面により椅子などが配置されることはあるけれど、基本的に各場面ごとこういうシンプルな書割の中で各人物が動き回る。 背景がシンプルなだけに、人物の動きや演技がそれだけ目立ち、人間同士の関係や相互の働きかけ、愛情や憎悪やその他の感情がストレートに表現されることになるわけだ。
演技力という点で見ると、スザンナ役のクッチェローヴァが一番であろう。 小柄ながらこまめに動き回り、演劇的な楽しさを十二分に感じさせてくれる。 ただ難点は、レチタティーヴォでの声量がやや小さいこと。 ちゃんとしたアリアだと声量に問題はないのだが、レチタティーヴォだとやはり歌い方が異なるからだろうか。
その点、フィガロ役のルカ・ピサーニは文句なしの歌唱力と声量でタイトル・ロールとしての実力を見せつけてくれた。 背丈も非常に高くて見栄えがいいので、女性のオペラファンには人気が出そうな歌手である。
もう一人、伯爵夫人のアーニャ・ハルテロスも、素晴らしいアリアを披露して聴衆から猛烈な拍手を受けていた。 終わってから改めて舞台に出てきたときの聴衆の反応もきわめて良好。 あのアリアは今回の公演でピカ一かも知れない。 そのくらい美しい歌唱であった。
目立ったのは以上の三人であるが、それ以外の歌手も首をひねるほどレベルに難のある人はおらず、歌と芝居の双方を堪能できた一夜だった。
この日も聴衆の中には私の目に付いただけでも日本人が数人。 オペラとオケのコンサートはやはり違うということだろう。
本日はポリングに行ってみる。 もっともポリングと言って分かる日本人はきわめて少数だろう。 ドイツ文学者と称される人間のうち、トーマス・マンの専門家でないと知らないだろう地名だからだ。
ポリングは、ミュンヘン中央駅から列車で40分ほど南下してヴァイルハイム駅で下車し、そこからさらにバスでしばらく行ったところにある農村である。 そのひなびた風景や古風な雰囲気が魅力的だということで、マン家の人々はしばしばここを訪れ、またトーマス・マンの末弟ヴィクトルはこの土地に魅せられた結果として、農場経営の仕事をしたいと考え、その方面の学校に進んでいる。
私はヴィクトル・マンの自伝 『われら五人』 を訳した人間なので (もう20年も前だけれど)、この書物に詳細に描かれているポリングにはかねてから興味を抱いていた。
また、このポリングは、トーマス・マンが晩年に書いた長編 『ファウストゥス博士』 の舞台ともなっている。 主人公の作曲家アードリアンは、生涯の住居としてポリングを選ぶ。 ただし、作中ではポリングという実際の地名ではなく、プファイフェリングという仮構の地名になっている。 同様に、駅のあるヴァイルハイムはヴァルツフートとなっている。
当時も今も、芸術活動をするには田舎は必ずしも適切な場所とは思われていなかった。 『ファウストゥス博士』 の主人公アードリアンにしても、完全に田舎に籠ってしまうのではなく、ミュンヘンまでは一時間少々で出られる土地で、ミュンヘンで夜の音楽会や社交の場に出たあとでもその日のうちに列車で帰れる距離にあるということで、この地を選ぶという設定になっているのである。
昨日に続きミュンヘン中央駅に向かい、そこから列車に乗る。 中央駅では、昨日もそうだが、往復切符を自動販売機で購入しようとしてもうまくいかない。 片道切符だとすぐ買えるのに、往復切符を買おうとすると日付の指定だとか余計な項目が出てきて、色々入力しているうちに訳が分からなくなってしまうのである。 仕方がないので、まずヴァイルハイムまでの片道切符を買い、そのあと改めてヴァイルハイムからミュンヘン中央駅までの片道切符を買う。
なぜあらかじめ帰りの切符まで買うのかというと、日本にいた間にネットで色々調べたのだが、ヴァイルハイムとポリングを結ぶバスの便は少なく、なおかつ列車との乗り継ぎ時間があまりないということが分かっていたからだ。 ポリングからミュンヘンに戻るときに、ヴァイルハイム駅で切符を買っていると列車に乗り遅れる可能性があるのである。
10時32分発インスブルック行きの列車に乗る。 列車がミュンヘンから南下していくと、やがて左手にシュタルンベルク湖が見える。 風光明媚だ。
(↓ 車窓から見えるシュタルンベルク湖)
列車は10分ほど遅れてヴァイルハイム駅に到着。 あらかじめネットで調べておいたところでは、列車とバスの乗り継ぎ時間は数分しかない。 列車が10分遅れると、バスは時刻どおりならすでに出てしまっていることになる。 しかし、列車が着くのに合わせてバスの時間も設定されているはずだから列車が遅れても待っていてくれるだろう・・・・・なんて思った私は、やはり 「優しい日本人」 なのであろう。 バスは、すでに出てしまっていた。 とほほ。
仕方なく、次のバスが来るまで40分ほど駅前で待つ。 ヴァイルハイムの駅舎は、パン屋と書店が入っているが、少なくともこの時間帯はあまり人がいなくて静かである。 駅前も、集合住宅が建っているけれど、閑散とした印象である。
バスに乗って少し行くと、にぎやかな通りが見えてきた。 ヴァイルハイムの中心街は駅から少し離れたところにあるらしいと気づく。 中心街のはずれに、「ギムナジウム」 というバス停がある。 子供たちが何人も乗り込んでくる。 平日でまだ12時を少々過ぎた程度の時刻だが、ドイツのギムナジウムは今でも終了時刻が早いんだなと思う。 バスがしばらく走って、ポリングの中に入ると、子供たちはほとんどが下車。 ポリングにはギムナジウムがないから、ヴァイルハイムのギムナジウムに通っているのであろう。
私もバスを降りる。 すぐに目についたのは古めかしい教会の塔。 その周囲の建物も古めかしい。 おそらくマン一家がここを訪れた当時からの建物であろう。
少し先に行くと、広大な建物があり、その一部に向こう側に抜けられる通路が設けられている。 そこを抜けると、その建物の一部が役所や記念館として使われていることが分かる。
(↓ 古めかしい建物の向こうに教会の尖塔をのぞむ。)
(↑ 向こう側に抜ける通路が設けられている建物。 ここを抜けて向こう側から見ると、この建物が役所やミュージアムとして使われていることが分かる。)
その辺をぶらぶら歩いていくと、トーマス・マンの『ファウストゥス博士』にも出てくる場所に記念版が設けられている。 ぜんぶめぐると時間がかかるので断念したが、いちおうそういうわけでマンの小説の舞台であることは分かるようになっているのだ。
また、トーマスの末弟ヴィクトルが一時期住んでいた建物にも記念版が付けられていた。
全体としてひなびてはいるけれど、美しく落ち着いた村落である。
(↓ 少し離れたところから教会の尖塔をのぞむ。)
(↓ 「ファウストゥス博士の道 記念板13」 と書かれている。 全部回ると5キロほどに及ぶようだ。)
(↓ ヴィクトル・マンが一時期ここに住み、またその兄のトーマスとハインリヒも滞在した、と書かれた記念板。)
(↓ その辺を歩いていたら、樽型の倉庫に出くわした。)
(↓ やはり古めかしい建物の脇を小川が流れる。 手前は橋の欄干部分。)
役所の入っている大きな古い建物から少し先に行くと、幼稚園や小学校がある。 しかし、さらに周辺に足を進めると、新しい住宅地も見られる。 それらはどう見ても農家ではない。 おそらくヴァイルハイム、或いはミュンヘンまで通っているサラリーマンが住んでいるのであろう。
実を言うと、ヴィクトル・マンの 『われら五人』 やトーマス・マンの 『ファウストゥス博士』 を読んだ印象から、ポリングはせいぜい十数軒の農家しかない村落なのではないかと考えていたのだが、少なくとも現代のポリングはそれよりはるかに大きな地方自治体になっているようだ。 道路を歩いていても、少なからぬクルマがびゅんびゅんスピードを出して走っている。
一とおり歩いて回って、時刻は1時と1時半の間くらい、腹も減ったし、午後2時のバスでヴァイルハイムに戻ろうと思っていたので、教会や役所のすぐ近くにあった料理屋に入る。 「古い修道院料理店 Alte Klosterwirtschaft」 という名で、これも古そうな建物だ。 新しい住宅地もあるとはいえ、決して大きな町ではないポリングにもこうして料理屋があるというところが、ドイツ的。 建物の脇では、野外でビールを楽しむ人の姿もあった。 露店をもうけるのもドイツの料理屋の決まりみたいなもの。
私は露店ではなく建物の中に入って、メニューを見せてもらい、「豚肉のロースト、ジャガイモとたまねぎサラダ添え」 とビールを注文。 ・・・・そうしたら、出てきたのはとんでもない代物だった。
まずビール。 これはいいとして、そのあとにたまねぎサラダが出てきたのだが、これが大きめの皿に山盛り。 たまねぎを小さく切って酢漬けにしたものだが、あまりに量が多くて、これだけで腹いっぱいになりそうなくらい。
次に出てきた豚肉のローストとジャガイモだが、豚肉のローストは、日本のステーキ屋で出てくる牛肉ステーキくらいの厚さがあり、しかも日本の牛肉ステーキ2人分くらいの量がある。 そしてジャガイモは一個だが、私の握りこぶしくらいの大きさ。 私は内心、げえっと叫んだ。 こんなに沢山食べられないよ〜。
とはいえ、あまり残すのも失礼だし、私は必死に食べましたね。 ジャガイモは、食べてみて分かったのだが、いったんつぶして、つなぎのようなものを加えて改めてボール型に握ったものであった。 いくらドイツだって畑でこんなに大きなジャガイモは出来ないよね。
豚肉は4分の3くらい、サラダとジャガイモは半分くらい食べたところで、ギブアップ。 これ以上食べると気分が悪くなり、旅行中だし今後の日程に差し支えることになりかねないと判断した。
給仕をしてくれたのは背丈が190センチはありそうな30歳くらいかと思われるお兄さんだったけれど、「味はどうだ?」 と訊いてきたので、「うまいけど、私には量が多すぎる」 と答えておいた。 だけどこの給仕くらいの体があれば、こんな大量の食事も必要なのかもしれないな、なんて考えた。 もっとも、ミュンヘン市内のレストランではこんなに量が多い店には出会わなかったから、田舎風、ということなのかも知れない。 ポリングは一般的な観光地ではないし、私のようなアジア人が来ること自体稀なのであろう。
こんなに量があって、ビールと合わせて12,90ユーロ (約1400円) だから、まあ安いとは言えますね。 チップと合わせて13,50ユーロ渡しておいた。
最初は店内の客は私だけだったが、そのうち老夫婦と、小さい子供を連れた女性がやってきた。 平日だけど、この辺の人達にそれなりに利用されている料理屋なのだろう。
(↓ 昼食をとったポリングの料理屋。 この左手の空き地にもテーブルが並んでいて、ビールを飲む人たちがいた。)
満腹の腹をかかえて帰途につく。 バス乗り場には木造だが大き目の待合室が作られている。 そこに入って待っていたら、ちょうど2時、教会の鐘が鳴り始めた。 ものすごく大きな音。 しかも1分や2分では鳴り止まない。
やがて、バスが来たのはいいが、2台続けてである。 後ろのほうのはヴァイルハイム駅行きだが、前のバスは行き先掲示が 「Betriebsfahrt」 となっていて、意味が分からない。 実はこのバス、私が待合室で待っている間に2度ほど道路を走っているのを見かけた。 いずれにせよヴァイルハイム行きではないしと思い、ヴァイルハイム駅行きの2台目に乗るつもりで道路に出たら、この1台目が停まって前ドアが開き、運転手が 「乗れ」 という身振りを見せた。 私が 「ヴァイルハイム行きか?」 と訊くと、そうだと答え、また 「乗れ」 という身振りを見せた。 なので乗り込み、料金を払おうとしたら、いらないという身振り。 何だかよく分からない。 バスには後方に若者が二人乗っていた。
こうして、帰りはタダでヴァイルハイムの駅まで行くことができた。 ポリングの教会の鐘は、私を送り出すかのように鳴り続けていた。
*
ヴァイルハイムからミュンヘンに戻り、ホテルに帰って少し休んでから、夜はまた音楽会である。
本日は、午後7時30分からヘンシェル弦楽四重奏団の演奏会。 場所は、フュルステンリート・オスト市民ホール。 この場所を探しに行って苦労した話は、一昨日(4月30日)に書いたとおり。
ベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会(全5回)の2回目
第1番op.18-1
第11番op.95 「セリオーソ」
(休憩)
大フーガop.133
第13番op.130
会場は昔の日本の小中学校の講堂みたいなところで、演壇があって、幕で覆って中央部だけあけて弦楽四重奏団にちょうどいいスペースを作り出している。 聴衆の座席は普通の折りたたみ椅子を並べたもの。 数は80くらいか。 もっとも、その気になればその倍くらいは入りそうな広さである。
入場料は20ユーロ (約2200円)。 パンフはなし。
ヘンシェル弦楽四重奏団はチェリストのマティアス・バイヤー=カールショジュがヘンシェル兄妹3人と出会ったことで1994年から正式にスタートした。 いくつかのコンテストで賞を取っているが、1996年の第2回大阪室内楽コンクールで第1位。 このときクァルテット・エクセルシオは2位であった。 昨年から第二ヴァイオリンだったヘンシェル兄弟の一人が抜けて、代わりにダニエル・ベルが入っている。 第一ヴァイオリンのクリストフ・ヘンシェルとヴィオラのモニカ・ヘンシェルはそのまま。
4人は、男性3人が黒いシャツに黒いスーツ、ネクタイが赤というスタイリッシュな姿で登場。 唯一の女性であるヴィオラは赤っぽいドレス。
で、演奏だが、最初第一ヴァイオリンが弱いのかなと思ったのだけれど、この印象はすぐ是正された。 強弱のニュアンスをかなりつけて演奏しているのだ。 その気になればかなり大きな音を出せる人。 ただ、問題はそういう強弱のニュアンスに他の3人の音が必ずしも連動・対応していないこと。 この辺がこのカルテットの課題なのかな、と思った。
課題といえば、ヴィオラのモニカ・ヘンシェルが弱いことのほうが問題かもしれない。 チェロのカールショジュはすごくふっくらしたいい音を出しているし、第二ヴァイオリンのダニエル・ベルも出るべきところではちゃんとした音を出しているのに、ヴィオラはどうもそうではなく、出番になっても音が弱いのである。 この辺は兄妹を基盤にした団体ならではの弱点と言うべきであろうか。 以前新潟に2度来演したハーゲン弦楽四重奏団も、第一ヴァイオリンが弱いという印象だったから。
4曲やった中では、「セリオーソ」
の暗い情熱をひたすら押し出すような感じの演奏に感銘を受けた。 最初の第1番も悪くなかった。 演奏終了後は、4人に花束が。
なお、聴衆の中には、老夫婦とその娘さんかと思われる3人連れの日本人が。 私を入れて日本人4人だから、オケの演奏会に比べると室内楽のほうが日本人率が高いということかも。
本日は、ノイシュヴァンシュタイン城を見物に出かける。 ルートヴィヒ2世が建てた城で、そのロマンティックな外見ゆえに広く知られており、カレンダーなどに利用されることも多い。
午前9時51分ミュンヘン中央駅発の列車に乗る。 城に行くには、まずフューセンという町まで鉄道で行き、それからさらにバスに乗る必要がある。 フューセンまでは2時間。 しだいに外の景色は山間色を強めていく。 線路もいつしか単線に。 本日は朝から薄曇だったのだが、山間に来て雲が厚くなってきた。 大丈夫かな、と心配になる。 実は、本日は折り畳み傘を持参するのを忘れたので。 しかし、結果から言うと雨は降らなかった。
列車はやや遅れ、フューセン駅に着いたのが12時少し過ぎ。 「地球の歩き方」 には書いてなかったが、ここから城見物のチケット売り場までは無料のバスが出ている。 それに乗って少し行くとチケット売り場やホテルなどが集まっている場所に着く。
ここに有料トイレ (0,50ユーロ) があり、この先トイレがどこで使えるか分からないと思ったので利用したが、結果から言うと必要なかった。 ノイシュヴァンシュタイン城の入口には無料のトイレがあり (入場する以前に入れる)、入場後も、出口近くに無料トイレあるし、城のそばの土産物店にも無料トイレがあるので、これからこの城を見物に行かれる方は、チケット売り場近くの有料トイレは避けましょう、と申し上げておく。
さて、バスから降りてチケット売り場に行くと、長蛇の列。 ここは、ノイシュヴァンシュタイン城と、ルートヴィヒ2世が育ったホーエンシュヴァンガウ城の2つの城のチケットを売っており、両方見物するつもりで来たのだが、どうやらこの混み具合では片方だけになりそうだ。 となるとやはりノイシュヴァンシュタイン城のほうになる。 そちらの行列のほうが当然ながら長い。
40分並んでようやく窓口に。 入場時刻があらかじめ指定されており、独・英・伊・露はその言語で説明する案内人による見物 (だから一言語一グループ)、それ以外のいくつかの言語はオーディオガイドを持って案内人に誘導されての見物となる (だから言語は複数)。 アジア語では日本語と中国語のみオーディオガイドがある。 しかし、チケットを購入したのは午後1時だが、指定された入場時刻がなんと午後4時40分!
やれやれである。 チケットは買ったので、昼食にする。 その辺に出ている露店でソーセージを挟んだパンとビールを買ってそそくさと食事を済ませる。 それから、もう一度バスに乗って城の近くまで。 歩いていく手もあるのだが、上り坂で、歩くと40分くらいかかるというので、バスにする。 馬車もあるのだが、馬車だと料金が高いので。
バスは城の前までは行かず(道が狭くて行けないのだ)、すこし手前の広場まで。 この広場から城と反対側の方向に歩いていくと、城の写真を絶好のアングルで撮れるマリエン橋がかかっている。 私も例に洩れずこの橋まで行って写真を撮ったのだが・・・・あれ、城の正面が普通じゃない。 改修工事中ということで、修理用のカヴァーみたいなものがかかっているのだ。 うーむ・・・・・せっかくの城の姿がちょっとアレだなあ。 でも、こういう写真もかえって希少価値があるかな。
(↓ 改修中で、左側正面やその上部の尖塔に改修用のカヴァーがかかっているノイシュヴァンシュタイン城)
(↑ ノイシュヴァンシュタイン城に行く途中で、ホーエンシュヴァンガウ城と湖が見える)
写真を撮ってから10分ほど歩くと城のすぐ前に出る。 途中でホーエンシュヴァンガウ城や湖が望めて、絶景である。
しかし午後4時40分までにはまだ3時間近くある。 城の前の部分には、入場扱いでなく入れるので、しばらくはそこで写真をとったり色々な角度から城を見上げたりして過ごしたけれど、3時間近い近い時間をつぶすには至らない。 少し先の土産物屋のそばにベンチが並んでいる場所があったので、そこにすわって持参した本を読む。 本を持ってきてよかったなあ。
各国からの観光客が来ているけれど、中国人が目立つ。 団体でも来ているようだ。 地味な服装で、一眼レフかなんかのでっかいカメラ首からぶら下げている。 年齢的には中年が多い。 これに比べると、日本人客は2〜4人連れくらいで、夫婦か、女友達同士である。 若い女の子のペアやトリオは、東京の繁華街に出ても恥ずかしくないくらいのおしゃれをしている場合が多く、中国人とは対照的。 カメラも、ケータイ付属か、私のように片手に収まる小型デジタルカメラだ。
(↓ すぐ近くから見上げたノイシュヴァンシュタイン城)
(↑ ノイシュヴァンシュタイン城の入口付近。 ここに無料トイレあり。)
入場時間が近づいてきたので、本をしまって城の門の前に移動する。 やがて4時40分きっかりに門の電光掲示板にサインが出るので、チケットを機械に挿入して入場。 城に入るとすぐオーディオガイドを渡され、案内人に従って歩く。 最初は尖塔内部の階段をかなり上らされる。 この城は、外見的にはカッコいい尖塔がついているわけだが、尖塔の内部って階段だったのだね。 やれやれ。
しかし、内部見学はきっかり30分で終了。 率直に言って、あんまり見るところがない。 レジデンス(王宮)が急ぎ気味に見物しても2時間かかったのに比べれば、少々、いや、かなり物足りない。 3時間待って30分ですぜ。 これはノイシュヴァンシュタイン城が完成していないということもあろうけれど、そもそも面積的にたいしたことがないからじゃないだろうか。 そんなに広いスペースではないのだ。 この城は、やはり外見を見てうっとりしているのが一番なのだ。 言うならば、外見はすばらしい美人なのだが、話をしてみると知性や教養に欠けている女性、といったところ・・・・なんて比喩は女性蔑視かな。
もう一つ気づいたのは、城はやはり庭園がともなってこその城だということ。 レジデンツも、4月27日に見物に行ったヘレンキームゼー城も、庭園があって、そこを含めて王様の住まいになっているわけだが、ノイシュヴァンシュタイン城は山奥の岩の上に建っているので庭園を造る余地がないのだ。
30分で外に出るのではあまりに物足りないので、城内の土産物売り場をゆっくり見て回ったり (しかし何も買わず)、さらに城内のカフェでジュースを飲んだりしたけれど、結局45分足らずで城外へ。
帰りはフューセン発午後6時頃の列車に乗ったが、これがなぜか冷房が効いていて寒かった。 もっとも、途中のBuchloeという駅で乗換えなので冷房は途中で逃れたが、その代わり乗り換え後の列車は混んでいてすわれなかった。 ミュンヘン中央駅まで1時間ほど立ちどおし。
ミュンヘン中央駅に着いたのが午後8時。 やれやれ、ノイシュヴァンシュタイン城を30分見物するのに丸一日をつぶしてしまった。 世界的な観光資源を訪れるのも楽じゃないですね。