最近、文学、特に読むのに根気のいる外国文学は、ミステリーなどを除くとはやらない。映像・視覚文化に対して分が悪い。
フランス文学者の鹿島茂によると、大学のフランス文学科やドイツ文学科は、いまや作家の藤本ひとみだけが頼りなのだそうだ。彼女の、ヨーロッパの歴史や文化をしっかりふまえた小説を読んで仏文や独文に進学する学生が、多少はいるらしい。(新潮社『波』98年10月号)
もっとも当方のようなドイツ文学者からすれば、仏文は鹿島茂という有能な広報係がいるだけマシとも思える。『子供より古書が大事と思いたい』(青土社)などのエッセイ集を通して、フランス文学は、或いは少なくとも(?)フランス文学者は面白そうだというイメージを形成するのに孤軍奮闘する鹿島氏。その努力には拍手を送りたくなるほどだ。
それに、鹿島氏はエッセイ集『空気げんこつ』(ネスコ)の中に、「インゲとハンスだけがいる社会」という一文を載せている。インゲとハンスとは、言うまでもなく、トーマス・マンの『トニオ・クレーガー』に登場する人物である。要するに、最近の学生はインゲやハンスのような、生の暗い側面などとは無縁の単純素朴な人間ばかりであるから、単純素朴でない人間が読むことを前提に書かれた小説が読まれなくなるのも当り前かも知れないと述べたエッセイなのだ。
いささか悲観的な書き方とはいえ、わざわざドイツ文学の宣伝をして下さってありがとうと言いたくなる。ドイツ文学者にはこういう形での広報をする人間すら、すでにいなくなっている。ひと昔前は種村季弘や池内紀が頑張っていたが、最近はどうも影が薄い。
また、このエッセイで鹿島氏が伊藤整『若い詩人の肖像』を好んでいることを知って、私は少なからぬ共感を覚えた。私もこの自伝的な小説を愛読書の一つに数えているからである。しかし氏が大学の授業で取り上げたところ、学生にはさんざんな不評だったそうな。むべなるかな、である。
まあ、このような時代なので、ブンガクに学生諸君の興味を喚起するのはなかなかの難事ではあるのだが、逆境の時であるからこそ作家や文学研究者の真価が問われるのだとも言えよう。ブンガクがはやっている時にブンガクをやるのは、バカでもできる。
それでは、あの手この手でドイツ文学への興味をかき立てるとしよう。流行の映像との結託もよし、音楽との結合もよし、場合によっては週刊誌的ゴシップ戦略もとられるかも知れない。無論、正攻法も大いにあり、である。