授業関係 〔新潟大学・三浦淳研究室〕                  

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 2014年度の私の授業 (2014年4月6日掲載)

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私の授業のコンセプト (2010年4月20日改訂)

私の授業がどういう考え方に基づいて行われているか、説明します。 シラバスだけでは授業内容がよく分からない、そう思った人は読んで下さい。(大学院の授業についてはここでは説明していません。)

もくじ: T.西洋文学 (Gコード科目、全学共通科目)、 U.国際教養演習 (Gコード科目、全学共通科目)、 V.文学読解演習 (Gコード科目、全学共通科目)、 W.人文学部向け講義科目、 X.人文学部向け演習科目

 

私の授業は、その種類によりいくつかのコンセプトに分けられます。


T.西洋文学 (Gコード科目、全学共通科目)

 ドイツ文学の基本素養を身につけることを目標とします。 代表的な作品を読みながら、現代日本(人)にも通じる様々な問題に触れると同時に、ドイツ(人)特有の文化や思考法をも学ぶことで、自分の幅を広げていってほしいと思います。 異質なものに触れる、という経験は様々なレベルで可能ですが、文学には過去の文化や歴史をも含めた雑多な材料が集約され詰め込まれていますから、いわゆるブンガクに興味のない人でもアプローチの仕方によって自分なりの接点を見いだすことが可能なはずなのです。
 2010年度は前期・後期とも開講します。

U.国際教養演習 (Gコード科目、全学共通科目)

 海外の文化や社会、国際的な組織や摩擦など、広く国際的な諸問題を扱った本を読んでいく授業。 演習ですので少人数で、受講者には積極的な発言が求められます。 2010年度は後期に開講します。 

V.文学読解演習 (Gコード科目、全学共通科目)

 内外の有名文学作品を少人数の演習形式で読んでいく授業。 演習ですので、受講者は積極的な発言を求められます。 2010年度は後期に開講します。 

W.人文学部の講義科目では、3つの柱を設けて、そのいずれかに属する内容の授業を行っています。

(1)音楽と文字テクスト
 クラシック音楽が文学作品の中にどういう現れ方をするか、また評論でどのように扱われているかを見ながら、音楽と文字テクストという異分野間の交流を考えると同時に、クラシック音楽の基本素養を身につけていきます。

 というと堅苦しく思われるかも知れませんが、クラシック音楽と一口にいっても、数百年の歴史の中に数え切れないほどの音楽家が登場したわけですから、音響芸術の宝庫なのであって、これを知らないでいることは非常に勿体ないこと、なんですね。 宝の山に分け入ってみよう、と思う人は授業に来て下さい。 意欲さえあれば、全然クラシック音楽を聴いたことがない人でも大歓迎。 無論、すでにクラシック・ファンである人も大歓迎です。 1999年度より芸術コミュニケーション基礎論として、2005年度からはテクスト文化基礎論として授業を行っています。 2010年度も後期に開講。

(2)差別語問題を考える
 これこれの言葉や表現は差別用語だから使ってはいけない、と言われることがあります。 自分はそんなつもりはないのに、「その言い方は差別だ」と言われることもあります。 差別表現とは何なのでしょうか。 はたして或る単語や言い回しが固定的に差別だということがあるのでしょうか。 「理髪師」 と言えば差別ではなく 「床屋」 と言えば差別だ、というのは正しい認識なのでしょうか。
 ここでは、マスコミで差別用語とされているものの検討を行いながら、「差別」 を言い立てる構造そのものの中に現代社会の問題性がひそんではいないか、差別をきちんと識別するためには発言者の意図や立場に踏み込まなければ正解には行きつけないのではないか、といった問題を考えていきます。
 ここ10年ほど、テクスト分析論、テクスト批評論、テクスト文化論として、『ちびくろサンボ絶版を考える』(径書房)、『筒井康隆「断筆」めぐる大論争』(創出版)、『「差別用語」(正・続)』(汐文社)、『「弱者」とはだれか』(PHP新書)などを教科書に使いながら授業を行ってきました。 2010年度は前期に開講します。

(3)ポストコロニアリズム――または歴史の見方
 ポストコロニアリズムという言葉はどこかで聞いたことがあるでしょうか。 訳せば、植民地主義以降、ということですね。 最近の思想界や学術研究の重要なキーワードの一つです。
 19世紀及び20世紀初頭はヨーロッパが (そしてアメリカと日本も) アジアやアフリカを植民地にした時代でした。 第二次大戦以降、植民地は続々と独立を果たしましたが、そこには様々な問題が残され、今に至るまで尾をひいています。
 政治上は独立国家が大半となっても、国際政治や国際世論 (そんなものがあれば、ですが) の主導権は相変わらずアメリカやヨーロッパなどかつて植民地主義に染まっていた国々に握られているのではないか、国際的なニュースもこれらの国のマスコミを介して伝えられる以上もしかしたら歪んで我々のもとに届いているのではないか、人種差別は今なお根強く残っているのではないか、歴史を見る目は欧米中心主義に今なお毒されているのではないか、などなど、考えるべき問題は山積しているのです。
 分かりやすく言うなら、最近賛否両論がかまびすしい小林よしのりの漫画も、こうした問題線上で描かれているわけです。

 授業では、特に欧米の文物や思想やマスコミを正しい批判意識を持って見ていくにはどうすればいいのかを、植民地主義に関する知識を習得しながら考えていきます。 言うまでもなく、扱う対象が欧米であっても、人の振り見て我が振り直せ、という諺も忘れてはいけませんね。 

 また、このテーマは広い意味では歴史をどう見るか、という大問題に結びついています。 歴史の見方は自明なものではなく、その時どきにより、また民族や国民により違っているものです。 そうした相対主義的な感覚を身につけておかないと、歴史は単なる偏狭なイデオロギーのかたまりにすぎなくなってしまいます。 柔軟な歴史観を涵養することもこの授業の目的です。

 このテーマは、1998年度に『植民地幻想』(みすず書房)を教科書として言語芸術論で、2000年度には『黄禍論』(草思社)『アーロン収容所』(中公新書)『イエロー 差別される日本人』(栄光出版社)を教科書として文化記号論で、2001年度は『国家と人種偏見』(TBSブリタニカ)を教科書にテクスト批評論で、2003年度は後期開講のテクスト批評論で、E・H・カー『歴史とは何か』とポパー『歴史主義の貧困』をテクストに歴史の見方を真正面から考えました。

 2010年度は、このテーマの講義はお休みです。

 

X.人文学部の2年生以上向けの演習 (文化コミュニケーション論基礎演習、文化コミュニケーション論演習)では、だいたい5本の柱を立てています。 (1)知識人論 、(2)近現代の思想 、(3)欧米を知る、(4)貴族とは何か、(5)物語のあり方


 (1)(2)はつながりを持っています。 「知識人論」 というと難しく思われるかも知れませんが、要するに社会の中でオピニオンリーダーの役割を果たす人間が「知識人」で、その存在と彼らの抱く思想について勉強していこうということです。

 「知識人」 の具体的な職業としては、大学教授などの学者、新聞雑誌テレビ等のマスコミによく登場する評論家などを考えるとよいでしょう。 今なら、宮台真司や宮崎哲弥が分かりやすい例と言えるでしょう。

 一方、政治家や官僚や財界人はどうかというと、厳密な意味では「知識人」には含まれません。 なぜならこれらの人たちはそれぞれの分野で実際に権力を持っているので、自分の意見を世間に周知させる必要はないからです。
 無論、政治家や財界人も雑誌などで自分の意見を述べることはありますから、「知識人」 と完全に無縁な存在ではありませんが、「知識人」 とは基本的に、実際の権力は持たずに言論活動によって権力者や一般の人々に訴えかけ、世の中を動かしていこうとする存在のことを言います。

  そして知識人の思想は、官僚の実体的な政策とは違い、新聞雑誌テレビなどのメディアを通じて流され、「こういう風に物事を捉えるべきだ」 という一種イデオロギーとして作用します。

 ではなぜそういう存在と思想が重要なのでしょうか? 近代の民主主義社会においては、いったん権力を握った人間であっても自分の思い通りに物事を運ぶことは難しくなっているからです。
 政治家は数年おきに選挙によって有権者の審判を仰がねばなりませんし、またマスコミの意向や世論も無視するわけにはいきません。
 そこで、有権者の意識に訴えかけたり世論を作り上げたりするのに重きをなす 「知識人」 の存在とその思想が社会にあって重要とされるわけです。

 しかし、「知識人」 の発言や思想は、政治家や官僚の政策に対していつも優位にあるとは限りません。 実際の権力を持たない 「知識人」 の提言が無力な場合もありますし、それだけならまだしも、「知識人」 の言ったことが誤りであると後日判明することだってあるのです。 例えば、ソ連や文化大革命期の中国を理想郷として喧伝した場合がそうですね。
 その意味で、「知識人論」 とは広い意味では近現代社会のあり方を過去・現在・未来にわたって検討していくことだと言えるでしょう。 この授業が 「近現代の思想」 を追究する場であるというのは、そういう意味です。

 そこで、このテーマを扱う演習では、おおよそ次のような問題意識をもって文献を読んだり発表を行ったりします。
 @ 「知識人」 はどのように発生し、社会の中でどのような位置にあるか。 そして 「知識人」 を含んだ社会全体をどう捉えるべきなのか。
 A 「知識人」 はどのような思想を抱いてきたのか。 要するに、日本や欧米の近現代思想を勉強していくということです。  
 B 過去の 「知識人」 の発言が正しかったか誤っていたかを検討する。 日本や世界の進路については今も色々な議論があります。 そうした議論を聞いて理解し、自分なりの見解を持てるように知識と意識を鍛えていきましょう。 つまり、最終的にあなたなりの思想を確立するために演習があるということです。

 (3) も広い意味では(1)(2)とつながっていますが、大学、特にその人文系の学部は本来は国際文化・国際事情などを学んで広い視野を養うことを目標にしているはずなのに、日本のオタク文化など、狭い視野しか持たない学生が散見されるので、そうした視野狭窄症を打破するためのものです。

 (4) も (2) とつながりを持っています。貴族は近代社会では消えゆく存在とされていますが、逆にそこから近現代とは何かという問題が浮かび上がってくるからです。

 (5) は、グリム童話やSFを勉強することで、とかく日本のアニメやテレビドラマなど身近な分野にしか目がいかなくなりがちな学生に、自分の好きなものをより広い視野から見る能力と知識を養ってもらうことを目標としています。

 さて、以上のような原則をふまえて、2010年度の私の演習を見てみるなら――

 2010年度の3・4生向け文化コミュニケーション論演習ですが、前期は 「アメリカ論」 です。 これは(2)と(3)で、(1) も少し含まれます。 近代的な民主主義国家とイメージされがちなこの大国がどのような実態を持つのかを調べ、「近代」 がはたして教科書にあるようにストレートに実現されるものなのかどうかを考えていく授業です。 後期は 「貴族論」 で、これは (2) と(3) と (4) になります。 前近代的なものとされる貴族の実態を知ることで、近代の意味を考えていこうという授業です。

 2年生向けの文化コミュニケーション論基礎演習はここ数年、物語論を扱っています。 グリム童話、SFなどです。 2010年度はこの授業はお休みです。

 1年生向けの人文総合演習A(前期)は (3) になります。

 

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