読書月録2014年

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西暦2013年に読んだ本をすべて公開するコーナー。 5段階評価と短評付き。

  評価は、★★★★★=名著です。 ★★★★=上出来。 ★★★=悪くない。 ★★=感心しない。 ★=駄本。  なお、☆は★の2分の1。

 

・中村元 『原始仏教 その思想と生活』(KHKブックス) 評価★★★★ 1970年に出た本で、長らくツンドク状態になっていたが、何となく読んでみた。 碩学が原始仏教を分かりやすく解説してくれている本である。 日頃は宗教心に乏しい私のような人間にもたいへん分かりやすく、当時のインドの政治経済状況や風土、時としてはキリスト教との比較なども入れながら、原始仏教にさまざまな角度から光を当てている。  例えば死後に人間はどうなるかは問わないなど、現代日本人にもうなずける常識的で平易でバランスの取れた哲学とも言うべき仏教の姿が浮かび上がってくる良書である。

・中川右介 『悪の出世学 ヒトラー、スターリン、毛沢東』(幻冬舎新書) 評価★★★ 副題にある20世紀を代表する歴史的人物3人の生涯を分かりやすく、主として出世という側面に光を当てながら解説した本。 中川が言うところでは、この3人のうちヒトラーとスターリンは悪人として評価が定着しているが、毛沢東は必ずしもそうではない、なぜなら現在まで国家として続いている中華人民共和国の建国の祖を全否定するわけにはいかないし、後半生はともかく前半生はまともだという評価もわりにあるから、というのである。 でもそれを言うならヒトラーだってナチが政権をとるまでは、或いはとってからも戦争を始めるまではユダヤ人差別を除けば評価する声もないではないのだから、どうかな。 ・・・・それはさておき、3人の半生が1冊で分かるので一読の価値はある。だけど、「出世学」 というタイトルに縛られたせいか、或いはハウツー本でないと売れないと思われたのか、3人のその時どきの処世術を箇条書きにしてまとめているんだけど、3人に共通した処世術があったわけじゃないし、そもそもどんなに偉大な、或いは悪い人間でも、偶然とか運というものには無縁ではないわけで、この3人が 「出世」 したのも運がからんでいるとすれば、ハウツーにまとめても仕方ないんじゃないか。 ちなみに、現在は殺した人間の数で言うと、毛沢東、スターリン、ヒトラーの順とされており、第二次大戦後は悪の権化のごとく言われてきたヒトラーは殺した人間の数では横綱ではなく大関クラスとされている。

・河村幹夫 『ドイルとホームズを 「探偵」 する』 (日経プレミアシリーズ) 評価★★★ 4年前に出た本。BOOKOFFに半額で出ていたので暇つぶしにと思って買ってみた。著者は1935年生まれ、一橋大卒業後三菱商事にながらく勤務し、その後多摩大学教授。本書はシャーロキアンである著者が蘊蓄を傾けた本・・・のはずだけど、新書の体裁で指数も限られているせいか、タイトルに反してホームズのほうはあんまり新規な事柄は出てこない。むしろ著者ドイルの生涯や問題点への関心が前面に出ている本となっている。 が、その部分はそれなりに面白い。 ドイルは医学部を出た直後に船医として西アフリカ航路の船に乗り込むのだが、アフリカ人が白人宣教師に手ひどく扱われているのを見てカトリックへの不信感を高めた、とある(42ページ)。キリスト教のいかがわしさが分かりますね。 なお、細かいことだが、『ボヘミアの醜聞』のモデルに言及した箇所で、女優のラドミラ・ヒューベルがフランツ・ヨーゼフ皇帝の甥であるジョン・サルバトール大公と一緒に写真をとり後に結婚したとあるけど (76ページ)、オーストリー人なんだからヨハン・サルバトール大公とするべきだし、私が調べた限りではこの女優はルドミラ (ミリー)・ヒルデガルト・シュトゥーベルである。 それからホームズの引退年はいつかという問題に触れた箇所で、引退年は1903年で、ホームズの生年は1854年頃とされているので、「還暦の年あたりで引退したことになる」(159ページ) ってのは、いくら文系大学出身だってマズイんじゃないですか?

・矢野久美子 『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書) 評価★★★☆ 去年 (新潟では今年初め)、映画 『ハンナ・アーレント』 が公開されて大ヒットし、この女性哲学者に対する一般の関心も高まっている。 そうした状況の中、彼女の生涯を一般人にも分かるように紹介した本書は時宜にかなったものと言えるだろう。 著者は1964年生まれ、東外大博士課程修了のフェリス女学院大学教授。 アーレントの生い立ちから始まって、大学に進んでまもなく著名な哲学者ハイデガーと恋愛関係になったことや、その後別の男性と結婚したこと、ナチス時代はかなりあやうい状況下でフランスに逃亡し、やはりあやういところを逃れてアメリカに亡命したこと、二度目の結婚、交友関係、主要著書の解説、そして映画でも扱われたアイヒマン裁判で囂々たる非難を浴び、親しかった友人の多くと断交せざるを得なかったことなどが紹介されている。 アイヒマン裁判で彼女が浴びた批判は、映画で描かれていたよりはるかにきついものだったようだ。 そういうわけで悪くない本ではあるけれど、新書という枠があって仕方がないのだろうが、ちょっと物足りないと思ったのは、シオニズムに対する彼女の関係 (の変化) をきっちり述べて欲しかったのと、主著 『全体主義の起原』 の解説があんがい簡単であることかな。

4月  ↑

・西尾幹二 『GHQ焚書図書開封 9 アメリカからの「宣戦布告」』(徳間書店) 評価★★★☆ 西尾幹二氏による、戦後すぐアメリカ占領軍の指令によって図書館や書店から姿を消した図書を紹介するシリーズも9冊目となった。 今回は、前半と後半の2部構成である。 前半は満洲、国際連盟、松岡洋右の連盟脱退演説、シナ事変と英ソが、後半ではアメリカによる開戦以前からの日本への圧力が取り上げられている。 前半では国際連盟というものの性格や、シナと英国およびソ連の一筋縄ではいかない関係が指摘されているところが面白いが、やはり本書で読むべきは後半のアメリカによる日本への、いじめと言いたくなるような執拗な圧力であろう。 西尾氏も言うように、真珠湾以前から実際は日米間の戦争は始まっていたのであり、ルーズヴェルトは戦争がしたくてたまらなかったのだと納得できる。 また、日本によるいわゆる印仏進駐についても、最新の研究書を援用しつつ、加藤陽子などが主張する日本の印仏進駐によりアメリカが戦争を決断してもやむをえなかったという説を批判している。 印仏進駐はそれなりにきちんとした手続きを踏んでいること、そもそもアメリカが同じような行為を戦前からやっていること、また同じ連合軍のはずのフランスと英国の間に確執があったことなど、並みの歴史書に書かれていない様々な事実が挙げられていて、この辺の歴史に興味のある人には参考になろう。

・ノルベール・デュフルク (秋元道雄・秋元美都子訳) 『パイプオルガン』 (文庫クセジュ=白水社) 評価★★★ 最近オルガン音楽に凝っている私だが、日本ではクラシック音楽の解説書 (どういう作曲家がいてどういう曲が名曲なのかを教えてくれる) は数多いし、ジャンル別、例えば交響曲に特化した解説書とか、オペラに特化した入門書というのもそれなりにあるわけだが、オルガン音楽についてはそういう本があまりない。 探してみると、フランスの文庫クセジュに入っている本書があったので、一読してみた。 原書は1970年、この邦訳は1975年に出ている。 2部構成で、第1部は楽器の歴史と楽器製造者について、第2部はオルガン音楽の主要な作曲家について語っている。 私はシロウトなので、第1部のほうは正直よく分からない部分が多かったが、第2部は簡略ながらも重要な作曲家を時期や楽派を示しつつ挙げてくれているので、体系的にオルガン音楽を聴いていくのに役立ちそう。 なお、最後に重要作曲家の索引もついているのはいいけれど、各作曲家について1回ずつしかページが挙げられていない。 その作曲家を説明した一番大事なページだけ挙げればいいでしょ、という方針らしいが、ちょっと不親切な感じがした。

・瀬木比呂志 『絶望の裁判所』(講談社現代新書) 評価★★★★ 著者は1954年生まれ、東大法学部卒業後裁判官となって長年勤務したが、2012年から明大法科大学院教授になっている。 タイトルがかなり重いけど、要するに現在の日本の裁判所では一般の国民が期待するような公正中立でしかも裁判を受ける人の身になった判決は期待できないし、また裁判官をめぐる事情は悪化の一途をたどっている、と自分の体験をもとに告発した本である。 日本の裁判所が信頼できない理由は、最高裁判所および最高裁事務局による下級裁判所統制が年々強まっており、裁判官になると早い時期から異動などにより上からの評価の高低が分かってしまい、なおかつ評価の基準がどこにあるのかが判然としないので、カフカの小説のごとくで、理由がはっきりしない評価により裁判官は若い時分から萎縮してしまい、人によっては早々と辞職して弁護士などに転身し、逆に出世する裁判官はあくまで上に逆らわない体質の人ばかりなので、そうなると最高裁判所の裁判官は性格的にも判断能力的にも一般の国民からは遠く離れた存在になってしまうのだと言う。 昔は、上からの評価はあっても少なくとも若いうちはどういう判決を出しても横並びで昇進していたのに、現在は統制が強まった分、裁判官の質も落ちており、司法試験合格者の中でも優秀な人材は裁判官ではなく弁護士になりたがるのだという。   この辺は、成果主義の良し悪しと捉えれば、現在の企業や大学にも当てはまりそうだ。 このほか、裁判官の性格のタイプ分類もあるし、また最高裁の長官 (つまり裁判官の頂点) が誰のときに状況がどうなったという解説では長官の実名を挙げて述べており、長官にまでなるような人は、昔はともかく、今は怪物のような性格の人だけだと言っている。 ・・・・うーん、読み終えると本当に絶望的な気分になっちゃうなあ。 ちなみに著者は、本来自分は裁判官になるようなタイプの人間ではないと言っており、裁判官として長年務めながらも違和感を抱き続けていたそうで、人文系の学者になるのがいちばん向いていたとしている。

・加藤哲郎 『ゾルゲ事件 覆された神話』(平凡社新書) 評価★★☆ 著者は1947年生まれ、東大法卒、長らく一橋大教授を務め、現在は早大客員教授。 本書はタイトルどおり、有名なスパイ事件を取り上げて、長らく日本では (この事件で処刑された尾崎秀実の異母弟である) 尾崎秀樹や松本清張、さらにはGHQのウィロビー報告書による解釈が広まっていたが、例えば伊藤律のスパイ行為によって関係者が一網打尽にされたという見方は誤りであり、ソ連や中国の資料による研究の深化によって、鬼頭銀一なる人物の重要性が浮かび上がってきたと主張している。 ただし、この事件の真相はまだまだ藪の中で、これから新しい資料をも探索しつつ核心に迫っていくことになるというのだから、話はかなり先が長いというか、本書を読んだからすっきりゾルゲ事件が分かるのではなく、分からないことが分かってくるというような本。 というか、ここまでは確かに分かっていて、ここら辺はまだ未解明ということが一読明快に分かればいいのだが、内容は従来の尾崎や松本清張の説を批判するところにページ数が割かれていて、記述もごたごたしており、あんまりお薦めできない。 ゾルゲ事件について従来いろいろな文献を読んできている人には、まあ悪くない本かもしれないが。 ただ、いわゆるインテリジェンス研究にあってはソ連崩壊による資料の公開や中国側資料の発掘で、いまだに色々な新事実が浮かび上がってきているという状況は分かる。

・上田伸治 『アメリカで裁かれた本 公立学校と図書館における本を読む自由』(大学教育出版) 評価★★★★☆ 2008年に出た本。 学術書なので横書きである。 著者は1967年生まれ、創価大学法学部とその修士課程を卒業後、米国クレアモント大学大学院で博士号を取得、アメリカ創価大学図書館職員をしているという人。 私はたまたま県立図書館の書棚に本書があるのを見つけて読んでみたのだが、教えられるところの非常に多い本である。 アメリカの学校では、様々な図書が生徒に読ませるにふさわしくないと批判されて、裁判沙汰にまでなっている。 本書はそうした例をいくつも取り上げて、具体的にどのようなクレームがどんな勢力からついて、裁判ではどのような論点が検討されてどのようは判断が下されたのかを詳しく報告している。 最初に来るのがシェイクスピアの有名な 『ヴェニスの商人』 だ。 ユダヤ人の金貸しとして登場するシャイロック像、および彼に対して作中人物が投げかける言葉がユダヤ人差別であるとして、学校で教えたり蔵書としておいたりすることを禁止するよう、ユダヤ人人権団体が訴えたのである。 裁判では結局、ユダヤ人側の訴えは退けられたが、こういう動きがあるため、学校の教材として使ったり、或いは校内での発表会で 『ヴェニスの商人』 が取り上げられるケースは少なくなってきているらしい。 ・・・・次の第2章ではミシシッピ州の歴史教科書が取り上げられている。 そこでの黒人の実態に関する記述が当を得ているかをめぐって、その本を教科書として採用することがふさわしいかどうかの争いが起こった。 日本でも歴史教科書の採択をめぐっては類似の問題が生じているが、ちょっとそれを想起させる例で、日本の歴史教科書問題に興味のある人には必読の章であろう。 ・・・・このほか、ダーウィンの進化論をめぐってのいくつかの争い、『スローターハウス5』――第二次大戦中の連合軍によるドレスデン空爆を扱っている。なおこの空爆は1963年まで公表されていなかったそうだ(136ページ)――を教えたり学校図書館に置いたりすることが許されるかどうか、『ハリー・ポッター』 を学校図書館に置いていいかどうか (魔術を肯定している内容はキリスト教に反するそうだ)、同性愛を扱った本はどうか、社会主義国キューバの実態を誤って伝えている本はどうか (キューバからの米国への亡命者からすると不当なキューバ賛美の本であるということらしい)、などの例が取り上げられている。  ・・・・総じて見ると、本を学校から排除せよと主張するのはキリスト教道徳の熱心な擁護者であるケースが多く、州の裁判所ではそういう訴えが通ることもあるが、連邦裁判所、特に最高裁では本を読む自由のほうが重視され、こうした訴えはほぼ退けられている。 学校の図書館と一般の図書館は違うという論理もあり得るが、連邦最高裁としては基本的に学校図書館でも一般図書館と同じく本を読む自由の擁護を最優先ということのようである。 ・・・・まあ、そういうわけで良書なんだけど、新潟大学には某研究室にしかなくて、誰でも読める図書館開架には入っていない。 入れておこうと思うけど、今の新潟大学の制度下では今年の夏ごろになるかな。  

・岡田温司 『黙示録 ――イメージの源泉』(岩波新書) 評価★★★☆ 近年多数の著作を出して脂が乗っている感のある京大教授の最新刊。 今回は聖書の黙示録をとりあげ、そのさまざまな含意を明らかにするとともに、黙示は新約聖書のヨハネ黙示録だけでなく、外典も含めて聖書内に多く見られること、そして黙示録が後世の思想や芸術に多大の影響を与えたことを明らかにしている。 内容的にはまさに博覧強記、実に多様な黙示の形があり、また至るところにヨハネ黙示録の影響が及んでいることが分かる。 サヴォナローラや宗教改革にも黙示録は影を落としているし、ダンテやブレイクの文学作品もその例外ではない。 さらにはアンチキリストという概念 (この概念自体は黙示録ではなく新約聖書のヨハネの手紙に出てくるが) がサダム・フセインにまで適用されているなど、西洋の思考様式はいまだにそこから抜け出していないのである。 あまりに多くの現象や思想や芸術に触れられているので、かえって読後感が散漫になるが、自分に興味のある領域と黙示録との思わぬ結びつきに気づかされる本と言えるだろう。 

・林英一 『戦犯の孫 「日本人」 はいかに裁かれてきたか』(新潮新書) 評価★★★ 著者は1984年生まれの慶大卒で大学非常勤講師などを務めており、 『残留日本兵』(中公新書) などの著作で注目されている人。 本書は2部構成で、本の主タイトルと副タイトルが第一部と第二部に対応している。 第一部は第二次大戦後に東京裁判でA級戦犯として処刑された東条英機や広田弘毅などの孫に焦点をあて、その生き方や祖父をどう見ているかなどを綴ったもの。 生き方や歴史観は各人各様だが、祖父が戦犯であることはそれぞれに影響を少なからず与えている。 第二部は、主としてアジア各地でBC級戦犯として裁かれた人々の思想や、(生き延びた場合は) 戦後の生き方、アジア各地の戦後間もない時期の対日感情や裁判の結果の相違について書かれている。 また最後に、朝鮮や台湾出身で日本の軍人として戦い戦犯とされた人たちが、本土の日本人とは違い戦後は法的な保護や補償を受けられないままに大部分が放置されてきたことにも触れている。 この辺は (今からでは遅すぎるが) 政府のすみやかな法的措置を願いたいものだ。 

・島薗進 『国家神道と日本人』(岩波新書) 評価★★★ 2010年に出た新書。 タイトルどおりの本である。 著者は日本宗教史専攻の東大文学部教授。 明治維新以降の国家神道の歴史と現在について詳しく述べている。 神道と天皇の関わりは古代にもあったが、やはり明治以降に近代化が進む中で、西洋とは異なる日本なりの道徳体系を作ろうとする中で、また江戸末期の国学の台頭もあって、神道は天皇を頂点にすえることで国家の道徳観のいわば総本山となっていった。 ただしその過程は結構複雑だし、神社や仏閣との関係も色々あって、その辺は本書を読めば的確な説明が分かりやすく展開されているので、お読みいただきたい。 ただ、ないものねだりをするなら、著者はキリスト教や近代における欧米の宗教と世俗道徳との関係についても少し言及はしており、日本の近代の神道がいい意味でも悪い意味でも独自のものだとは言っていないが、やはり明治以降の道は、西洋がキリスト教道徳の下地のもとにアジアへの植民地支配を行っいる中で明治維新が行われ、日本は植民地にはならなかったが不平等条約を押し付けられたりしたという背景の中で形成されていったわけだから、その辺に対する洞察がもっと詳しく書かれていないと、本当に説得的な神道論にはならないと思う。 特に本書はその意味で占領期のアメリカの神道観や、戦後の神道の歴史についての叙述に物足りなさを感じた。

・大西直樹+千葉眞(編著) 『歴史のなかの政教分離 英米におけるその期限と展開』(彩流社) 評価★★★ 2006年に出た本。 内容は副題のとおりで、計12人の研究者が執筆している専門書。 ただ、英米と書かれているけれど、英国についてはジョン・ロックの思想についての論文は入っているが、制度として英国の政教分離がどうなっているかについての論文がないなど、内容的には米国が大きな比重を占めており、バランスが悪い。 また、まだ9・11のショックが残っていた時分でもあり、米国のキリスト教原理主義についてや、9・11とそれに続く対イラク戦争についてキリスト教各派がどういう態度をとったかについての論考も含まれている。 そういうわけで、内容の説得性についてはこういう論集の性格上どうしても執筆者ごとに差があるわけだけれど、米国の政教分離について色々な角度から考えるためには悪くない本だと思う。 

・エドウィン・S・ガウスタッド (大西直樹訳) 『アメリカの政教分離 植民地時代から今日まで』(みすず書房) 評価★★★ 著者はアメリカの大学教授で、原著は1999年、この邦訳は2007年に出ている。 ひととおりアメリカの政教分離の歴史が分かる本というふれこみである。 ただし記述はどの時代も均等にとは行かず、独立後に連邦憲法が作られて修正第一条の政教分離の原則が導入されたいきさつだとか、政治学者であり第4代大統領となったジェイムズ・マディソンの貢献については詳しく書かれているが、その後は20世紀になってからの連邦最高裁判所の判例について詳細な解説があるものの、その中間の時代についてはあまり記述がない。 要するにあまり政教分離が問題にならなかったということで、これは、連邦裁判所は宗教の問題については州の法律にゆだねて介入を避けていたということのようだけど、こちらとしてはむしろ州の法律でどうなっていたのかを知りたいわけで、その辺はやや物足りない。 しかし、20世紀になってからの連邦最高裁の判例は豊富なので、この問題の細部を考えるのには役に立つ。 連邦最高裁は似たような事件でも判断を変えたり、5対4という微妙な差による決定を下したりする例も紹介されていて、また一般大衆は言うまでもなく、政治家も連邦最高裁の判決に不満を表明する場合が珍しくないことからしても、政教分離というのが非常に厄介な問題であることが分かる。 訳文は悪くはないが、判決文の訳で分かりにくいところが若干あった。 また独立時の経緯については訳者あとがきの説明を読んだほうが分かりやすい。 巻末に索引と年表もついている。

3月  ↑

・三土修平 『頭を冷やすための靖国論』(ちくま新書) 評価★★★ 7年前に出た新書。 著者は経済学が専門だが宗教問題にも長らく関心があるという1949年生まれの大学教授。 靖国神社の成立や首相の公式参拝問題について、穏健左翼の立場から書いた本である。 穏健左翼というのは、靖国神社に首相が公式参拝するのには反対だが、戦争犠牲者の遺族が戦没者への公的な慰霊を要求すること自体は分かる、とする立場のこと。 だから結局は、アメリカのアーリントン墓地のような、宗派に囚われない公的な施設を作るのがベスト、という結論になる。 この問題の経緯についてはそれなりに細かく、かつ客観的に綴られていて勉強になるものの、やはり左翼なので、戦後アメリカ軍が日本を占領して行った政策についての評価はかなり甘いし、また靖国問題では中国や韓国の異議申し立ては本質的なことではなくささいなことだとしているけれど、実際には日本の政治家は中国などの物言いを気にしたり、気にすることを気にしたりしているわけだから、的をはずしているんじゃないかな。 この問題は結局、著者が主張するような神学問題ではなく、政治的な問題だと私は思う。 また、最後のあたりでは最左翼の高橋哲哉の言説が批判されているが、どことなく物足りない。 左翼同士がもっと本気でバトルをしないと、左翼の質向上は遠いという気もする。 さらに、政教分離についてはもっと外国の例を参照しないと説得力がない。 著者の姿勢はこの点でもやや逃げ腰の印象が残る。

・岩渕潤子 『ヴァティカンの正体 究極のグローバル・メディア』(ちくま新書) 評価★★★ 著者はジャーナリスト兼会社運営に携わる人物で、2012年まで慶応大教授。 副題にあるような観点からヴァティカンの歴史をたどりつつ、その特質について考察している。 ただ、メディアという観点そのものについて言えば、あんまり新鮮だとか目からうろこといった印象は受けず、流行語を適当に当てはめただけというのが感想である。 しかし、ヴァティカンの歴史紹介にはなるほどと思えるところもあり、金融との黒い関わりだとか、ルターが批判した贖罪符はいうならば国債のようなもので、しかも国債と違って償還する必要もないから、むしろ豪華な聖堂を建設・維持したり、芸術家を養ったりするお金を合法的に手に入れる手段としては評価すべきとする指摘には、なるほどと思わせられた。 大きな聖堂だとかルネッサンスを初めとする美術は現代では観光資源として多大の資金を稼いでいるわけで、キリスト教会といえどもお金がなくては運営できないことを考えれば、そういう割り切り方もあるだろう。 また、英国王室には貧弱な美術コレクションしかないが、これは清教徒革命時代に革命政府が美術品を安価に売り払ったためであり、視野の狭さが今に至るまで響いているという指摘もある。 

・長沼毅+井田茂 『地球外生命 われわれは孤独か』(岩波新書) 評価★★★ 生物学者である広島大准教授の長沼氏と天文学者である東工大教授の井田氏による本。 太陽系およびそれ以外の恒星系に生物がいる可能性についてそれぞれの立場から書いている。 生物とは何か、生命体はどのような条件があれば存在するのかといった問題から始まって、太陽系内に生物 (原始的な微生物であっても) が存在する可能性がある天体 (火星、および木星・土星の衛星) の様子、そして近年急速に宇宙研究の精度が上がり、太陽系以外の恒星系にも多数の惑星が発見されている現状、などなどが語られている。 宇宙に実際に人間が出て行かずとも、或る程度のことは観測で分かる時代になってきているのだと実感。 私が小学生時代に愛読していた天文学の子供向けの本だと、太陽系外の惑星が発見されていなかったのは言うまでもなく、冥王星は地球より少し大きいとされていたし、木星の衛星は12ということ (現在は60) になっていた。 隔世の感があるなあ。 この調子で研究が進めば、知的生命体はともかく、地球外にも微生物くらいは近い将来に発見されるかもという期待が湧いてくる本だ。

・大理菜穂子+栗田隆子+大野左紀子+水月昭道 『高学歴女子の貧困 女子は学歴で「幸せ」になれるか?』(光文社新書) 評価★★ 『高学歴ワーキングプア』 で名を売った水月昭道が、「高学歴女性の問題をアンタは見過ごしている」 と言われて、その気になって何人かの高学歴女性と組んで出したのが本書。 で、読んでみたのだが・・・・あんまり共感できなかったな。  いちばん面白かったのは、大野左紀子の書いた部分。 「芸術」 を19世紀的に信奉する父の薫陶を受けて東京芸大に進み彫刻を専攻するが、芸大を出たって一人前の芸術家として食っていくことはほとんど不可能。 大学や高校・中学の教師の道も狭い。 というわけでワーキングプアへの道を進むが、幸いにして結婚して、といっても相手も定職がない人のようだが、何とか食ってはいけるので、子供は作らずに (少子化ですなあ) やってきたけれど、そのうち自分のやっていることを距離をおいて見られるようになり、そこからライターへの道が開けてきた、というお話。 いたずらにフェミに走らず、芸術系大学を出るということがどういうことなのかを冷静に語っていて、なかなか読ませる。 ・・・・これ以外の3人の書くものにはどうも共感をもてない。 女子の高等教育が男子と違って職業や専門性と結びつくのではなく良妻賢母的な方向性をとっていた、なんてことを水月は今さら大発見でもしたかのように書いているけど、そんなことは私が大学生だった1970年代前半でも (或いは、には) 常識だった。 そして当時は、一部の女性を別にすれば、それがおかしいことだとは思われていなかったのだ。 男性と女性を同じ扱いをしないと差別、って考え方自体がそもそも正しいのかどうか、その辺から考え始める能力がないから、だからアンタは今も定職がないんじゃないの、と酷な言い方をしたくなっちゃう、すみませんが。 それから、最初に書いている大理菜穂子だが、かなり遅くフェミに目覚めた人らしく、本人も遅すぎることに自覚的で、出身が保守王国の群馬県で、家が両親も祖父母も公立学校の教員で、しかも最初に入った大学が地方にあったから、と言っているのだけれど、その程度のことで目覚めが遅かったのだと言い訳するのはみっともないと思うな。 要するに頭が悪いから気づきませんでした、って話じゃない? それから、この人は英語の非常勤講師をやっているのだが、私みたいに非英語圏の文学をやった人間からすれば、英語をやる奴ってのは安全パイ志向で語学力はともかく思考能力があんまりない (そのほうが処世には便利だけど) 場合が間々あるから、自業自得じゃないかと思うけどね。 だいたい、非英語圏の文化をやっていれば語学の非常勤をそんなにたくさん掛け持ちすることだって不可能なんだぜ。 甘ったれるな、と言いたい。 それから、52-54ページの表にも疑問がある。 現在、女子の大学院進学者は全体の33%程度、つまり男女比は2:1だという。 そして、日本の大学教員における女子の割合は、教授で14%、准教授で22%、専任講師で30%だという。 これをもとに、大理菜穂子は、女性はアカデミズム・ポストから脱落してしまうと結論付けているのだが(55ページ)、院生の女子比率と専任講師の女子比率はほぼ同じだし、教授の場合はたしかに女子比率は小さいけれど、教授に昇任するのはだいたい45〜50歳であることを考えれば、つまり、院を出てから20年くらいかかることを考えれば、どうなのかな。 20年前の院生の女子比率は、正確な数字が挙がっていないけれど、グラフを見る限り男子よりかなり低い。 つまり、昔は院に進む女子自体が少なかったから現在教授になれている女性も少ないんじゃないの? もし私の誤解なら正していただきたいけれど、要するに表を示しながら、それを説得的に読み解くことができていないような気がするわけ。 つまり、執筆者の能力が低いんじゃないか、という疑いを抱かせる書き方になっているってことなのだね。 その辺、少し考えないと。  ・・・・むかし、私が大学の教養部生時代に同じクラスだった山形美人の女の子は、まじめな人で学年トップの成績で卒業して院に進んだが、やがて2年先輩で同じ国語学専攻のイケメン (当時はそういう言葉はなかったけど) 男子院生と恋仲になり、修士は出たが博士には行かずに結婚。 院を出てからは会う機会もないけれど、旦那は関西の名門私大の教授となり、彼女は家庭を守りながらも多少は仕事もしているようだ。 そういう生き方をする女性も少なくないし、それはあくまで本人が納得ずくでやっている場合が多いのじゃないだろうか。

・武田知弘(著)、森永卓郎(監修) 『 「新富裕層」 が日本を滅ぼす 金持ちが普通に納税すれば、消費税はいらない!』(中公新書ラクレ) 評価★★★★ この本、以前に著者の武田知弘が出した『税金は金持ちから取れ』(2012年7月、金曜日) と内容的にかなり重複している。 (また、その前著はこの欄でも紹介した。) そのくせ、著者・武田の経歴紹介には前著が挙がっていないのは、いささか怪しい。 内容がほとんど同じであることを隠そうとしているかのようだ。 しかし、まあ、内容的には優れているので、ここでは評価は★4つとする。 要するに、日本には富裕層がかなりたくさんおり、そのくせ税金は他の先進国より安く済んでいる。 例として、『税金は金持ちから取れ』 ではトヨタ社長の名が挙げられていたが、本書では微温的に匿名となっている。 その辺が物足りないけど、とにかく金持ちに甘い国が日本であること、先進国としては社会保障がきわめてお粗末で弱者に厳しい国が日本であることがよく分かる。 最近の日本のデフレだって、企業がカネを溜め込んで、しかも社員の給料は上げず、あまつさえ派遣社員などを使って人件費を不当に安くあげているから起こっているのだ、と明快に主張している。 前の本と違うのは、前の本では富裕税をもうけよと言っていたのに対し、本書では無税国債を発行せよ、という主張に変わっていることか。 無税国債とは、利子が付くどころか逆に年1%ずつ目減りする国債のことだそうで、そんなもの誰も買わないと思うだろうが、大金持ちに買わせてその代わり買った分は減税にしてやれば、それなりに売れて、日本の経済のためにも役立つのだそうだ。 うーん、私は経済に弱いのでその当否はよく分からない。 前著の、富裕税を金持ちに課せという主張のほうが分かりやすかったと思うけど。

・藤岡信勝 『教科書採択の真相 かくして歴史は歪められる』(PHP新書) 評価★★★★ 2005年に出た新書。 首都圏のBOOKOFFで105円で購入して読んでみたが、内容的にはかなり充実している。 著者は 「新しい歴史教科書をつくる会」 の創立にかかわり主導的に活動した人として著名。 そこから、本書の内容に先入観を持つ方もいるだろうが、まずそういう偏見を排して虚心坦懐に読んでみることをお薦めする。 立場の違う人が読んでも、それなりに教えられるところがあるし、たとえ著者と歴史観が異なっていても、教科書の採択が現在のような状態でいいのか、という疑問を持つのではないだろうか。 また、教科書採択がなぜ現在のような状態になっているのか、教科書採択の権限が法律的にどうなっているのかという基本的な説明をしている最初のあたりは、誰が読んでも面白いと思う。 歴史的な経緯から現状のようになっているわけだが、その歴史的経緯が一筋縄ではいかないのである。 また、教科書業界に新規で参入することがきわめて困難であり、「つくる会」 とは逆の方向から新しい教科書を作ろうとした勢力もあったが結局挫折していることなども指摘されている。 業界そのものがきわめて保守的なのだ。 考える材料がいっぱいつまった本と言える。 

・森口朗 『日教組』(新潮新書) 評価★★★★ 3年前に出た新書。 市立図書館で見かけたので借りて読んでみたが、悪くない本だった。 日教組の成り立ち、勢力が強かった頃の主張、その後の崩落などの歴史が分かる。 もともと社会党系が主流で日本共産党系は非主流だったが、現在は共産党系は独立して全教という独自の組合を作っている。 しかし、社会党系が主流だから非主流の共産党系より主張が緩やかだったかというと、これが逆で、むしろ共産党系のほうが民意を汲んでいたという。 戦後日本の左翼(共産主義を是とする思想の主)は共産党系と社会党左派に分かれていたわけだが、それが講座派と労農派の違いから来る(124ページ以下)といった、団塊の世代やその直後の私の世代には常識だったけれど最近の若い人は知らない戦後日本思想史にも触れているので、必ずしも日教組に興味のない人でも勉強になる本である。 北朝鮮に拉致された横田めぐみさんについての映画『めぐみ』の学校での上映を妨害したりする(32ページ)非常識な日教組の有様が分かるが、著者はしかし戦後日本の教育の荒廃はすべて日教組のせいなんてことは言っていない。 日教組での活動をメインに考える活動家タイプの教師より、むしろ教室で生徒達を教育することが教師の使命だとする普通の教師が多いわけだから、著者はむしろ保守政党であるはずの自民党が日教組と妥協してきたこと自体が問題だと考えているようだ。 ほか、体罰禁止のきまりは戦前からあったとか(90ページ以下)、色々勉強になる部分が多い。 なお、日本共産党が戦後間もなくソ連から批判されて、ソ連を是とする国際派と非とする所管派に分かれたとあるが(126ページ)、所管派ではなく所感派でしょう。

・橋本紡 『流れ星が消えないうちに』(新潮文庫) 評価★★☆ 著者は1967年生まれの作家。 たまたまこの作家を卒論で取り上げる学生がいて、その副査に私がなったので、全然読まないで卒論を審査してはいけないと思い、BOOKOFFから本書を買って読んでみた。 一種の三角関係を扱ったお話で、女子大生と男子大学生が交互に語り手となって話は進む。 二人は現在は付き合っているが、女子大生は高校時代は別に恋人がいて、また男子学生は彼と親友だった。 しかしその男が大学入学後に外国旅行中に事故死してしまう。 残された二人はトラウマを抱えながら生きていて、いつしか付き合うようになるが、それぞれに現在進行形の問題をも抱えている。 この小説はそういう事情が徐々に明らかになるように構成されており、最後は事故死した恋人/親友の思い出を抱えつつも残された二人がしっかり生きていこうと決意するところで終わっている。 特に文章に妙味があるわけでもなく、思春期の悩みを扱っているところはまあまあかとも思ったけれど、特に印象に残る箇所もなく、うーん、何で売れているのかな、と首をかしげた。 ちなみに卒論でこの作家を扱った学生によると、料理のシーンが面白いのだそうである。 そういう趣味の人にはいいのかも。

・尾木直樹 『いじめ問題をどう克服するか』(岩波新書) 評価★★★ 著者は1947年生まれの著名な教育評論家・法政大教授。 本書はタイトルどおりの本である。 いじめの年代ごとの増減、過去と現在におけるいじめの質の変化、大津中のいじめ自殺事件の詳細、アメリカやオランダなど外国でのいじめ対策などが綴られている。 いじめの質の変化や大津中いじめ自殺事件については他にも文献があり、必ずしも目新しい内容ばかりではないが、現代のいじめについて考える場合、一定の知識が得られる本であることはたしか。 ・・・ということを大前提とした上で、私が本書を一読して感じた違和感を書いておきたい。 著者は日本でいじめが起こるのはその集団主義、或いは近年進んでいる成果主義的な思考様式に基づく学校選択制によるものとしている。 しかし、それを証明するデータは示していない。 そもそも、集団主義と学校選択制度は矛盾する思考様式である。 集団主義で言えば日本は昔からそうだったと言えるだろうし、学校選択制は最近になって出てきた考え方だ。 これらがいじめの原因だと証明するには、もっと具体的な証拠を挙げる必要があるはずだが、著者はそれをしていない。 要するに著者は自分にとって気に入らない制度をすべていじめの原因にしてしまっているのではないか。 また、仮に日本の集団主義がいじめの原因なら、欧米ではいじめは存在しないかきわめて少ないはずだが、アメリカやデンマークでいじめ対策がたてられているということは、むしろ著者の意見を反証しているように思える。 また、そのアメリカやデンマークの対策で具体的にどの程度いじめが減ったのかのデータも著者は示していない。  さらに、著者はいじめの加害者が心からの謝罪をするように解決をすべきだと言っているけれど、加害者の謝罪が心からのものだとどうして分かるのだろう? 謝罪しておかないと後がまずいからというだけの理由で謝罪していないとどうして言えるのだろう。 そんなことは第三者には分かるはずがない。 実際の子供はもっとしたたかなものだろう。 それは現代においてはいじめを大人の目から隠す方法がかなり巧妙になっていることからも分かるはず。 要するに著者は一種の童心主義なのであって、子供の心にも悪が潜んでいる可能性に目をつぶっているとしか思えない。 子供の変質は、教育制度の側に問題があると言うより、プロ教師の会の主張するように、消費社会の到来で子供の質自体が変わったからと見るほうが適切なのではないか。  たしかに厳罰主義でいじめが解決するという主張は単純かもしれないが、同時に子供に寄り添うことでいじめは解決するという著者の主張も、空想的科学主義に過ぎないように思えるのである。

・山口果林 『安部公房とわたし』(講談社) 評価★★★ 昨年8月に出た本。 1993年に亡くなった作家・安部公房と20年あまりにわたって関係を続けた女優の回想録。 安部公房との関係を綴った部分と、自分の生まれてからこれまでの生涯をたどった部分から成っている。 果林というのは芸名だが、これも安部につけてもらったという。 本書は出たときすぐ読みたいと思い、昔なら買って読んでいただろうが、最近金欠病で借りて済ませられる本は図書館でという方針になってきているので、この本もそのつもりでいたのだが、人気があるらしくて市立図書館でも県立図書館でもなかなか借りられず (言うまでもなく新潟大学図書館はこういう場合全然アテにならない、つまりこの本を所蔵していない)、半年たってようやく市立図書館から借り出したもの。 安部公房との馴れ初めから、最期までを主として記憶に頼って書いている。 最期のときは、彼女自身の実母の最期と時期が重なってしまい、大変だったようだ。 また、安部の本妻や娘からも遠ざけられていた。 安部の担当だった編集者は、安部がノーベル賞を取るまではスキャンダルを避ける方針で、そのため離婚や再婚は避けるべきだという意見だったようだが、その編集者も安部が逝ってまもなく亡くなり、亡くなる間際は逆に安部と山口を結婚させなかったことを後悔していたという。 表紙と裏表紙に著者の若い頃の写真があるほか、グラビアには全裸写真まで載っている。 細かいことは読んでもらえば分かるからここで紹介することもないと思うけど、一読して感じたのは、東京の本屋さんの四女として1947年に (私より5歳年長、安部より23歳下) 生まれた著者はやはり経済的には恵まれた育ちかたをしているということ。 中学高校はお茶の水女子大付属だし、習い事も色々させてもらっている。 安部と懇意になってからクルマを買う相談をするときは外車しか候補に挙がっていない。 (もっとも、女優は外車でないと困るからかも知れない。 島倉千代子の半生記を以前読んだら、一時期大借金をして家や財産を全部手放したけど、クルマを国産車にしたら公演先の建物が島倉千代子と認識してくれず入れてくれないので、仕方なく外車にしたと書いてあったっけ。) また、色々な人との付き合いが記してあるが、その人は有名人である誰それと兄弟だとか親戚だとかいう記述も多い。 東京の芸術やマスコミ関係って、案外狭い範囲からの人脈でできているんだな、と改めて痛感した。

2月  ↑

・菅原出(すがわら・いずる) 『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』(草思社) 評価★★★★ 著者は1969年生まれ、中央大法卒の国際ジャーナリスト。 本書は2002年に出ている。 第二次大戦でアメリカはナチスドイツと戦ったが、実はナチスの進出を助けたのはアメリカの財界や政治であったという実態を明らかにした本である。 第一次大戦で敗戦国となり、ヴェルサイユ条約で多額の賠償金を課せられたドイツ。 そのドイツがヒトラー時代になぜ急速な経済成長や (軍事を含む) 技術面での進歩を遂げることができたのか。 それは第一次大戦後にアメリカがドイツに多方面での投資をしており、その果実を受け取るためにもドイツがつぶれることは好ましくなく、また第一次大戦末期にロシア革命により共産主義国家ソ連が誕生したこともあって、共産主義への防波堤としてのドイツの役割を評価するという目的から、アメリカの政財界は実は第二次大戦が始まるまではナチスドイツに協力的だったということが、色々な文献を駆使して説得的に論証されている。 また、第二次大戦が始まってからもアメリカ内部には親ドイツ的な人脈が強く残っており、ナチスのユダヤ人虐殺があったにもかかわらず、アメリカ国内にも反ユダヤ的な思想や人間がいたこともあり、たいしたことではないと見なす空気が強かったことが分かる。 また、アメリカと日本の戦争が始まるにあたってはハル・ノートでアメリカが対日強攻策を打ち出したことが大きいが、その直前までアメリカでは対日妥協的な考えも強くあり、それが覆ったのは、ヨーロッパ戦線でドイツ相手に苦闘していた英国のチャーチル首相がアメリカを大戦に参加させようとして日本がアメリカへの攻撃を準備しているという電報を打ったのが原因はないか、つまり、日米開戦は英国の策略だという説も紹介されていて、勉強になる。 このほか、9・11で露呈したイランとアメリカの対立関係が、アメリカが対ソ工作のためにイランを長らく利用してきたことの結果だという指摘も貴重。 

・レイ・ブラッドベリ (宇野利泰訳) 『華氏451度』(ハヤカワ文庫) 評価★★ SFをテーマとする2年生向け演習で学生と一緒に読んだ本。 1950年代前半に書かれた小説で、書物が禁じられすべて焼き払われるという法が支配する近未来の世界を描いている。 主人公はその焚書署に勤務する男だが、あるきっかけから自分の仕事に疑問を感じ始め、やがて反逆して逃走し、書物を頭の中に記憶している老人たちの集団と邂逅する、という筋書き。 著者の代表作のひとつとされるようだが、率直に言ってそんなに面白いとは思われなかった。 書物が禁じられて若者などが刹那的な娯楽に没頭し、主婦たちは壁面テレビに夢中という (この小説が書かれた頃、アメリカはテレビが急速に普及した)、いうならば総白痴の世界だけど、なぜそうなったのかが要するに大衆・愚者支配社会ということで説明されていて、底が浅い感じが消えない。 なお、タイトルは紙が発火する温度を示している。

・吉田新一郎 『校長先生という仕事』(平凡社新書) 評価★★ 著者は1976年にMITを卒業し、国や地方自治体、企業などのコンサルティング、海外協力NGOの普及啓発にたずさわっている人だそうである。 本書は、日本やアメリカの校長という職業を比較して、校長はどうあるべきかを論じたものである。 出たのは2005年。 実は下 (↓) で紹介した 『アホ大学のバカ学生』 と同じく市立図書館にあったので借りてきたのだが、一読、首をかしげてしまった。 本書は最初に、日本とアメリカのそれぞれ2人ずつの校長にインタビューして、また日常の校長業務を紹介し、そのあと比較考察するところから始めているのだが、まず、日本とアメリカを無媒介的に比較するという方法がダメじゃないんだろうか。 校長は校長だけで仕事をしているわけではなく、一般教員や教育委員会との関連において動いている。 日米を比較するなら、まずその点で日米がどう異なるかをきっちり調べて明らかにした上で、校長の裁量権や選ばれ方などを含めて、またサンプル数ももっとたくさん集めた上で論じるべきじゃないだろうか。 著者は、以上のような点にも触れていないわけではないのだが、一読した印象では体系だって比較するのではなく、アットランダムに思いつくままに比較しているので、読後感は非常に散漫である。 また、日本で或る校長がヒラ教員時代、30年間で20人の校長に仕えたと言っていたと述べた上で、「ということは平均して1・5年に1回の割合で校長が替わっていたことを意味する」 と述べているのだが (81ページ)、著者はヒラ教員だって勤務先が数年おきに替わっているということを計算に入れていない。 勤務校が替われば上に立つ校長だって替わるのだから、それを勘定に入れれば1・5年に1回という数字にはならないはず。 こういう凡ミスは、著者がMIT卒なのにまともな思考能力がないことを暴露してしまっている。 こんな 「コンサルティング」 が役に立つとは到底思われない。 残念。

・ハンス・カロッサ (手塚富雄訳) 『美しき惑いの年』(岩波文庫) 評価★★ 教養科目の文学演習で学生と一緒に読んだ本。 1878年生まれで医師兼作家であるドイツ人の自伝の一部。 実は私も初めて読んだ。 ドイツ文学者としては怠慢を責められても仕方がないが、学生時代、自分が専門としたトーマス・マンと同時代の作家はなるべく読むようにしていたのだが、カロッサだけはどうにも手をつける気にならなかった。 で、還暦になった今になって学生と一緒に読んでみたわけだが、そしてカロッサは自伝を何冊も書いているけれどこれは大学生時代を回想しているから学生と一緒に読んでみればそれなりに面白いのではと考えたから選んだのだが、あてがはずれた。 面白くないのである。 いや、私はドイツ文学者だから面白いと思えるところもあるけれど、一般の読書好きの若者でこれを読んで面白いと思える人は稀だろう。 少なくとも、これは世界文学ではない。 あくまで地域的・時代限定的な書物で、日本の岩波文庫に入っているのが不思議なくらいである。 また、大学生時代を回想しているといっても、いい加減年をとってから (還暦を過ぎて) 書いているから、書き方がくどいし、悪い意味で思弁的で、若さゆえの盲目的な行動や感受性をそのまま感じ取れるようになっていない。 ついでに、訳者の手塚富雄は名訳者だということになっているけど (実は専門家筋では、誤訳が案外多い人だとも言われているのだが)、意味の通りにくい箇所や誤訳ではないかと思われる箇所がところどころ目に付いた。 この文庫本は2012年に改版されているのだが、その際に編集部が古くなった訳語や言葉遣いの一部を変更したらしい。 岩波文庫は最近こういうやり方をよくしているが、どうせなら若い専門家に新しい訳を頼んだほうがいいと思う。 昔の専門家の誤りや足らざる部分をそのまま保持するのは好ましくない。

・カレル・チャペック (千野栄一訳)『ロボット (R.U.R.)』(岩波文庫) 評価★★★ 3・4年生向けの演習で学生と一緒に読んだ本。 チェコの作家による戯曲だが、世界で初めて 「ロボット」 という単語を使ったことで有名な作品である。 ただし、ここでのロボットとは、純粋に機械で作られた産物ではなく、有機体であり、今日の観念で言えば人造人間と言ったほうがよさそう。 産業としてそのロボットを量産している男たちのところに、ヘレナという名の人道主義的な、しかし実は世間知らずの若い女性が抗議にやってくるところから始まり、やがて彼女は男たちのうちの一人と結婚するのだが、しかしあくまで善意からロボットに心を与えるように仕向け、それが人類の滅亡につながる、という筋書き。 地獄への道は善意で敷き詰められている、ということわざを思い起こしてしまう。 或いは、人類に代わって世界を支配するロボットは、新人類スランであるのかも知れない。 

・石渡嶺司+山内太地 『アホ大学のバカ学生 グローバル人材と就職迷子のあいだ』(光文社新書) 評価★★★   かなり軽薄なタイトルなので、2012年の初頭に出たときには買う気がしなかった新書だが、最近、市立図書館の書棚に発見し、タダならまあいいかと思い借りて読んでみた。 前半はバカ学生や、少子化の時代に学生を集めようとして逆に遠ざけているアホ大学を紹介する (?) 内容であんまり感心しなかったが、後半は多少まともになっている。 つまり、こんにちの大学がどうあるべきかを、多少まじめに考えており、海外の例も紹介されているのだ。 また、全体に、頁のいちばん下に横書き2行で色々な情報が盛り込まれており、真偽のほどは確かではないが、これが結構面白い。 例えばとほほな名称の大学や学部名が挙がっていたり、大学ごとのウリの授業が紹介されていたり。 また第8章では海外有力大学の教育なども紹介されているが、教員数と学生数の比率が、ハーヴァードでは1対8、プリンストンでは1対6であるのに対して、早稲田では1対38だと書いてるけど (236ページ)、何で日本の例が私大なんだろうか。 ハーヴァードもプリンストンも私大だからということなのかも知れないけど、国際大学ランキングあたりを念頭におけば、東大とか京大を例に出すのが妥当じゃないの? ちなみに新潟大はどうかというと、理系のことは知らないけど、人文学部に限って言えば、学生数は院を入れて千人程度、専任教員数は現在67 (助教を含む、助手は除く) だから、だいたい1対15ということになる。 自然科学系はこれよりマシなはずだから、新潟大だって、というか日本の国立大は、教員数と学生数の比率で言えばハーヴァードやプリンストンにそんなに劣らないと思いますけどね。 あと、日本の大学はお金がないなら経済界に直訴せよと書いているけど (239-240ページ)、独法化して少なからず時間がたっているのに貧困化が進む国立大の現状を見れば、もともと寄付文化がない日本でアメリカの真似をしたのが間違いだってこと、分かりそうなもんだけどなあ。

・須賀敦子 『須賀敦子全集 第1巻』(河出文庫) 評価★★★☆ 昨年11月に上京したとき渋谷の映画館近くの古本屋店頭で目に付いて購入した本。 須賀敦子の本は以前1冊だけ読んだことがあったが、なかなか面白いと思っていたので。 本書は 『ミラノ 霧の風景』、『コルシア書店の仲間たち』、それから単行本化はされていないが雑誌 『ミセス』 に連載されたエッセイ 『旅のあいまに』 が収録されている。 若くしてイタリアに渡りイタリア人と結婚し、多数のイタリア人と付き合った経験がエッセイとして語られている。 貴族あり、ブルジョワあり、貧乏人あり、ユダヤ人あり・・・・実に多様なイタリア人たちの風貌や挿話が含まれていて、楽しんで読むことができる。 ただ、私は一気に読み通すということができなかった。 少しずつ読み、購入して2ヶ月近くかかってようやく読了。 450ページの文庫本で、本来単行本3冊分あるということもあるけど、なぜかいちどきに沢山読むことができないのだ。 まあ、こういうエッセイ集は本来は文字が詰まった文庫本じゃなく (最近の文庫本には珍しく、1頁18行もある)、フランス装丁かなにかの単行本で、しかもペーパーナイフでいちいち頁を切りながら読んでいったりするのがいいんだろうなあ、と思う (ペーパーナイフが必要な本なんて日本の出版社では出してないけどね)。 

・勝新太郎 『俺 勝新太郎』(廣済堂文庫) 評価★★★ 俳優の勝新太郎が自分の半生を語った本。 1990年代に出ているらしい (らしいというのは、そう奥付に書いてあるのに、奥付の初版日付はなぜか1980年代だからである)。 長唄の三味線方の父のもとに生まれて、小さいときから伝統芸と近いところに育った環境や、兄・若山富三郎との関係など、独特の語りで読者を惹きつけるところがある。 若い時分に女を作ったが、女が老いた芸人のところにもこっそり通っているので怒ったら、その老芸人から女に家の一軒も持たせるどころか、女の稼ぎで食っていては女を作る資格がないと説教された話だとか、妻・中村玉緒との結婚譚だとか、色々な話が出てくる。 『悪名』のような映画を撮っている最中だと街に出てもケンカになりやすく、逆に『座頭市』のような映画だと街に出ても態度が穏健になるという箇所には、なるほど、そんなものかと感心してしまった。

・寺脇研 『文部科学省 「三流官庁」 の知られざる実態』(中公新書ラクレ) 評価★☆ 寺脇研といえばゆとり教育で悪名高い元文部科学省官僚であるが、その彼が書いた文部科学省の実態本ってどういうものかと思って一読してみた。 しかし結論から言えば、バカにつける薬はない、というのに尽きる。 寺脇は私と同じ年齢で、東大法学部卒だから本来はエリートというか秀才のはずなのだけれど、東大法学部出てもこんなバカもいます、という見本みたいなものだ。 そもそもこの本、文部科学省の打ち出した政策の是非をきっちり吟味したり過去をふりかえって総括したり、といった姿勢が全然ない。 いかに文部科学省の雰囲気が家庭的であり、いわゆるキャリアじゃない役人にもそれなりのポストが用意されているかを、何のつもりかしらないが自慢げに書いている。 そして、学校歴にこだわらない文部科学省の姿勢を自画自賛しているのだが(209ページ)、それじゃ訊くが、国立大学の大学院重点化を進め、旧帝大だけじゃなくいわゆる駅弁にも文系博士課程を作り、定員に満たないと文句をつけてきたのはいったいどこの官庁なんだ!? お前、言っていることとやってることが全然違うって自覚、ないの!? 国立大に大学院を押し付けてきたくせに、自分、つまり文部科学省は低学歴のままだったってこと、おかしいと思わないのかよ!? なるほど、高卒や二流大卒のノンキャリアは国立大の事務長のポストについていたってことを教えてくれたのはなかなか正直でよろしい。 つまり、国立大では高卒の事務長が大学院博士課程修了の教授や准教授の上にいて威張っていたってわけだ。 いや、高卒や二流大卒だって優秀な人はいるだろうと私も思う。 だけどね、教養部が解体するとき、新潟大での説明会に出て来た事務長は全然物事を知らず、脇にいた事務員から助言されながら答えていたのを私ははっきり覚えている。 なるほど、ノンキャリだからあんなに物事を知らなかったのだな、と腑に落ちました。 ああいうボンクラを国立大事務長にするなよ! お前みたいな東大法学部の落ちこぼれが行くから文部科学省ってのはいつまでたっても三流なんだよ。 ちなみに文部科学省の官僚が自分に都合が悪くなると嘘をつき、裁判でも負けているってことは私のサイトでも紹介しているけど (→こちらを参照)、そういう件については本書は一言も触れていない。 また、国立大の教養部廃止について文部科学省は命令していないなんて書いているけど(72ページ)、そういうやり口自体が文部科学省の悪質なところなんだよ。 当時、全国国立大学教養部長会議に出てきた文科省官僚が教養部は必要ないというような言い方で教養部解体を誘導したのはその頃国立大に勤めていた教員なら誰でも知っている。 責任はとらずに誘導して物事を進めるのが文部科学省のやり方なのだ。 それを隠そうとするお前の態度こそが、まさに文部科学省官僚の悪質さををそのまま表しているんだよ。 お前みたいな奴はとっとと死んでしまえ!

・石川明人『戦争は人間的な営みである 戦争文化試論』(並木書店) 評価★★★☆ 著者は1974年生まれ、北大およびその大学院を出て北大助教をしている人。 戦後日本ではとかく平和こそ絶対的な善であり戦争や軍人は悪であるという風潮があるが、本書はそれに抗して、軍人憎悪は決してまともな平和主義ではないし、そもそも人間は兵器や軍隊に、少なくとも映画や小説の形ではそれなりに魅力を感じているという実情からすれば、そして戦争というものが史上なくならずに現代まで行われ続けていることを見るならば、人間の本質と戦争とは深く結びついていると考えなければならず、単に平和=尊いと叫ぶだけでは何の解決にもならないと主張した本。 著者はもともとは宗教学者で、欧米の軍隊には聖職者が同行するのが原則というあたりから話を始めているのも面白い。 とにかく、人間が様々な悪や抗争を必然的に伴う存在であることを認め、人間同士の軋轢の中でちゃんとした生き方を模索することだけがまともな方法であるように、戦争を含めて人間の歴史や文化を見つめていかなければ本当の平和を達成することだってできないのだ、という著者の主張には極めて共感できる。 なお、この本は古市憲寿 『誰も戦争を教えてくれなかった』 で紹介されていてその存在を知りました。

・ジョージ・オーウェル(高橋和久訳)『一九八四年』(ハヤカワepi文庫) 評価★★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 この授業のテーマはディストピアである。 本書は有名な作品だけれど、実際に読んでいる人は案外少ないのでは、とあとがきに書かれているが、私も読んだのは初めてだった。 近未来の英国が舞台だが、地球上が三つの大国に分かれている世界であり、英国が含まれるオセアニアは他の二つの地域と絶えず戦争を行っている。 そして、「戦争は平和なり」「自由は隷従なり」「無知は力なり」 という三つのスローガンがいつも唱えられている。 住民は機械によって常時監視下におかれている。 この世界に生きる主人公のウィンストンは、体制に疑問を抱きながらも積極的に歯向かうほどの気力はない。 ただ、この社会に反逆する組織があるという噂を聞いて、漠然とシンパシーを抱くだけ。 しかしあるとき、若い女性と偶然知り合い、恋愛関係になる。 自由な恋愛もタブーな社会なので、二人は場所を変えながら密会を重ねていく。 やがてしかし・・・・。 この小説が書かれたのは第二次大戦の少しあとで、社会主義国家ソ連の監視体制や、物質が不足しがちな実態を描写にとりいれつつも、極端なディストピアが究極的にはどういう原理で動いているかを、小説的な面白さを維持しつつ綴った佳品。 こういうディストピアは、しかし現代社会とも全然無縁ではない、と感じられてしまうところが、恐ろしい。

・渋谷望 『ミドルクラスを問いなおす 格差社会の盲点』(NHK生活人新書) 評価★★ 2010年に出た新書。 たまたま市立図書館で目にとまったので借りて読んでみた。 著者は1966年生まれ、早大院を出て現在は千葉大准教授をしている社会学者。 本書は新自由主義の風潮の中で日本のミドルクラスがどういう場所にいるのか、また現代の資本主義の本質は何かを問うた本である。 しかし、一読、芳しからざる印象が残った。 著者は1966年、つまり昭和41年生まれで私より14歳も若いのだけれど、思考法はむしろ古臭く、団塊の世代の左翼と基本的に変わらない。 本書に書かれているのは、要するに日本のミドルクラスは不安定な基盤の上にあり、消費至上主義によって欲望を掻き立てられる存在である、というだけのこと。 かつて共産主義を至上とする左翼が 「資本家」 や 「ブルジョワ」 を批判すればそれで正しいと思い込んでいたのとまったく同じパターンの思考法なのである。 そして 「プレカリアート」 こそミドルクラスに代わって新しい生活や思考をにない、「資本」 に決別する存在なのだ、と最後にのたもうている。 そんなに単純なものかなあ。 ・・・・それにしても、NHK出版の新書って読んであまり感心したことがないんだが、どういう基準で執筆者を選んでいるのだろう。 その辺が気になる。 NHKって、いちおう公共的な組織だしね。 

1月  ↑

 

 

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