『プッチーニ ボエーム』(音楽之友社「名作オペラブックス・シリーズ」、1987年第1刷)

(『nemo』第3号1996年掲載: なお、掲載誌を版元の音楽之友社に送りつけておいたが、返事はまったくなかったことを付記する。) 

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 【付記: 2004年3月1日】 このページをご覧になった或る方からメールをいただきました。 ここで提示された原文(ドイツ語) の綴りと 〈試訳〉 にいくつか誤りがあるという内容でした。 ご指摘は多くがその通りでしたので、直しておきましたが、私としては冷や汗をかく思いでした。 メールを下さったのは長年勤めた職場から第二の職場に移ったのを機に、学生時代にやったドイツ語の勉強を再開されたという方で、特にドイツ語の専門家ではないのですが、ドイツ語を一字一句おろそかにせずに読解する姿勢には頭が下がりました。 今までドイツ語の専門家からこの種の指摘を受けたことがなかったので、改めて、ドイツ語教師もうかうかしていられない時代になったのだと痛感したことでした。

  英文学者の別宮貞徳氏によると、「日頃不審にたえぬことの一つは、美術・音楽など芸術関係図書の翻訳の悪さである」 という (『誤訳迷訳欠陥翻訳』)。

 実を言うと私はクラシック音楽は好きだが、音楽関連書を熱心に読む方ではない。 オタマジャクシや調性などの専門的知識が欠如していることもあるが、趣味を仕事にしたくないという意識があるからでもあろう。 またバッハを例外として声楽を好まず、器楽作品を主に聴いているのも、ブンガクみたいに言葉に束縛されたくないという気持ちからだろう。 したがって持っている歌曲のディスクはシューベルトの三大歌曲集など超有名なもの十数枚程度だし、多少聴き込んだといえるオペラは 「魔笛」 だけという有様である。

 その私が音楽之友社から出ている 「名作オペラブックス」 シリーズの 『プッチーニ ボエーム』 (1987年第1刷) を買ったのは、記憶が定かでないのだが、何年も前にカルロス・クライバー指揮のミラノ・スカラ座による 「ボエーム」 公演を横浜で観る機会があった頃だったろうかと思う。 ただし買ってもろくすぽ読まずに書棚に放り込んでおいた。 或る晩、何かの機会にたまたまその本を手にとってみて、解説でトーマス・マンやハインリヒ・マンに触れている箇所があるのに気づき、気を入れて読み始めたのだが、どうにも分かりにくい。 訳が悪いのではなかろうかと思って原書を取り寄せてみた。 (Giacomo Puccini: La Boheme. Texte, Materialien, Kommentare. Mit einem Essay von Ulrich Schreiber. Rowohlt, 1981)
 

 以下、■で訳文(誤訳)、□で原文、(試訳)で私の考える訳を示す。

 この訳、全体として生硬で分かりにくいが、部分的には流麗と言えるところもなくはない。例えば、冒頭にエピグラフとして、本文でも引用されるハインリヒ・マンの自伝 『一時代の検討』 の一部分が掲げられている。 彼が生まれて初めてプッチーニの 「ボエーム」 を耳にした体験が語られる場面であるが、

 ■(…) 1900年の11月、私は馬車の後ろの座席に身を沈めてぼんやりとフローレンスからフィエゾレへの道を辿っていた。(6ページ)

 これだけ読むと、なるほどそうかと思う。 「座席に身を沈めてぼんやりと」 という訳文などなかなかうまいじゃないかと言いたくなってしまう。 ところが原文は、

 □...als ich im November 1900, ... auf der hinteren Plattform einer langsamen Pferdebahn von Florenz bergan nach Fiesole fuhr,...

 問題はPlattformの訳だ。 これはプラットホームという日本語にもなっている意味では無論なくて、といって訳文にあるような 「座席」 でもなく、車両前後のデッキ部分を表わす言葉である。 だからハインリヒ・マンは 「座席にゆったり身を沈めて」 いたのではなく、車両後部のデッキに立っていたととるべきだろう。 またPferdebahnだから単なる馬車ではなく鉄道馬車である。 それからこれは些細なことだが、地名の読み方は、フィエゾレをイタリア語読みしているのだから、フローレンスもフィレンツェにしたいところだ。

(試訳) 1900年の11月のこと、私はフィレンツェからフィエゾレへの上り坂をゆっくりと走る鉄道馬車の後部デッキに立っていた。

 しかし、これはまあたいした誤訳ではない。 雰囲気を出すための意訳だといっても或る程度通りそうな箇所である。 しかし本文に入ってウルリヒ・シュライバーの解説になるととたんに怪しくなってくる。 それでも最初の数ページは訳者も気を入れていたのか、ひどい誤訳は余りないようだ。

 問題は4ページ目以降である。 論者は 「ボエーム」 や 『魔の山』 では恋愛関係にある二人に対する第三者の介入という図式が共通して見られるとして、心理学者の見解に言及し、プッチーニの他のオペラにもそうした構図が見られるとした上で、「ボエーム」 では詩人ロドルフォとお針子ミミのカップルに介入するのはロドルフォの友人たちで、このシーンは喜劇的だと言い、

 ■つまり、詩人〔ロドルフォ〕の友人たちは、中庭から2人の二重唱に呼びかけるのであるが、この新しい恋人である娘にとっては、面識のない友人たちが通りで追い回しはするが、すぐにはベッドを共にしないという面白味を増す可能性を持っているのである。(12ページ)

 前半の「…娘にとっては」までは分かるが、後半が分からない。原文は、

 □hier rufen die Freunde des Dichters vom Hof hoch in das Duett der beiden, was dem Maedchen die luststeigende Moeglichkeit eroeffnet, den ihr unbekannten Freunden des neuen Liebhabers auf die Strasse und nicht diesem sogleich ins Bett zu folgen.

 (試訳) (…)呼びかけるのであるが、これによって娘にとっては面白味を増してくれる新しい可能性が開ける。つまり、新しい恋人からまだ紹介してもらっていない友人たちの呼びかけに応じて通りに飛び出し、恋人とすぐさまベッドに直行するのを避けるという可能性である。

 要するに第三者を利用して恋人をじらす戦術をミミがとっていると言っているのだ。 そして恋人とのやり取りをわざと途切れさせるという滑稽なシーンを、音楽を神聖視するハンス・カストルプに糞真面目に聴かせるトーマス・マンの筆はイローニッシュだと述べて、

 ■マンの主人公、カストルプは、肺病に苦しみ、プッチーニのミミは、死のベッドに身を横たえているのだが、いずれにしても、マンの登場人物はプッチーニのそれよりも賢くなければならず、しかも小説の中では、プッチーニによって書かれた音楽は、それが作られた時あるいは上演された時点から、すでに機械による多様化へと移行しているのであるから、彼は2人の関係を観る者(ヴワシェール)としてではなく、聴く者(オーディテール)として享楽的に追い求めている第三者の役割を演じている。(12ページ)

 □Jedenfalls ist bei ihm, der ja geschichtlich klueger als seine Gestalten sein muss, die beschriebene Musikkunst Puccinis vom Stadium der Produktion oder Auffuehrung schon in den der mechanischen Vervielfaeltigung uebergegangen, und sein Held Castorp―seinerseits an jener Auszehrung leidend, die Puccinis Mimi auf das Totenbett geworfen hatte―spielt hier die Rolle des geniesenden Dritten, der einer Zweierbeziehung nicht als Voyeur, sondern als Auditeur folgt.

 最初からいくと、まずbei ihmのihmがカストルプではなくトーマス・マンを指しているのは、前文の主語がThomas Manns Ironieであることからも、またこの文の中程でsein Held Castorp「彼の主人公カストルプ」という言い方をしているところからも明らかだろう。 seine Gestaltenにしてもプッチーニの登場人物とは続き具合いからいって絶対に取れない (もしそうなら中程にあるようにPuccinis Mimiといった言い回しになるはず)。 問題はder ja geschichtlich klueger als seine Gestalten sein mussという関係文の意味が分かりにくいことであるが、第一次大戦後に 『魔の山』 を書いた作者は大戦前を舞台とする小説の登場人物より万事に見通しがきくはずだという意味と考えてみると (この箇所は念のためネイティヴに訊いてみたが、そうだという答だった)、前半の訳はこうなるだろう。

 (試訳) いずれにせよ、マンは自作の作中人物より後の時代に生きた分だけ賢明であり、プッチーニの音楽を描写するに際しては、この作品が作曲され舞台で上演された段階とは違ってすでにレコードによる多様な享受の仕方を許す時代へと移っていることを見逃さなかった。

 後半はこのくらいだろうか。

 (試訳) そしてマンの主人公カストルプは、プッチーニのミミを死に追いやった肺病に彼自身とりつかれつつも、ここでは第三者として 〔恋人二人の関係を〕 楽しむ役割を演じている。恋人二人の関係を 〔実演を〕 観る者としてではなく、〔レコードを〕 聴く者として追っているのだ。

 その次の文に行くと、

 ■しかしながら、トーマス・マンの場合の方が、プッチーニの恋人たちよりずっとうまくいっているというわけではない。 彼は、また恋の享楽を妨げられる立場を甘んじて受けなければならない。 たとえ、彼の主治医が、助手と共に、明らかに自由な治療を施すとしてもである。(12〜13ページ)

 最初の 「トーマス・マンの場合」 がおかしいのは原文を見なくとも分かる。前文と逆の取り違えをしている。

 □Doch ihm ergeht es nicht viel besser als den Liebenden bei Puccini: auch er muss sich eine Stoerung seines Liebesgenusses gefallen lassen, wenngleich der ihn unterbrechende Arzt mitsamt seinem Laboranten eine offenbar liberale Therapie verfolgt.

 (試訳) しかしカストルプにしてもプッチーニの恋人たちと同様な目に会うのである。 彼もまた 〔音楽を聴くという〕 恋の享受を医師の来訪によって妨げられるからだ。 もっとも医師の方は代診と一緒になって非常に自由な治療法を試みているのではあるが。

 医師がそれでもプッチーニの音楽を治療法の一環として利用していることを論者は指摘し、トーマス・マンも病状と治療法の関係に精通していたと (ここでも、zeitaufhebendを 「時代に導く」 なんて訳している箇所があるが、先に行く) 述べて、

 ■トーマス・マンが、彼の小説の登場人物をプッチーニの知人関係に合わせてつくった内的で同時に心を燃やすような感情の接近は、プッチーニにおける満たされた瞬間の勝利に一致している。つまり、感情による克服である。(13ページ)

 「プッチーニの知人関係」? 今まで 『魔の山』 や 「ボエーム」 の登場人物のことを言っていたのに、何だって作曲家の知人の話になってしまうのか。

 □Die innige und sogleich ergluehende Gefuehlsernaeherung, in die Thomas Mann die Puccini-Bekanntschaft seiner Romanfigur einbaute, entspricht dem Triumph des erfuhlten Augenblicks bei Puccini: einer Ueberwaeltigung durch das Gefuehl.

 Bekanntschaftには確かに知人という意味もあるが、ここでは 「知り合うこと」。後ろに 「マンの登場人物」 が属格で続いているのだから、カストルプがプッチーニの音楽を知ったことを意味するのは明らか。

(試訳) トーマス・マンは、作中人物がプッチーニの音楽を知って即座に燃え上がるような内的親近感を覚えるように話を進めているが、この親近感は 「ボエーム」 で 〔男女二人が出会って〕 愛を感じる瞬間の勝利に一致するものである。 これは感情による 〔困難な状況の〕 克服と言えるものだ。

 さて、次にハインリヒ・マンが登場するのだが、

 ■トーマス・マンの小説 《魔の山》 の出版20年後に、兄ハインリヒは回想録 《一時代の検討》 を執筆しようとした時、プッチーニに対するトーマス・マンの関係を、〈精神的恋愛〉 という章におさめた。 それは、まるで彼が弟によって永遠化された 〈楽音の泉〉 と、より崇高なもう一方のイメージをくらべようとしているかのようである。(13ページ)

 訳文だけ読むと、そうですかと思う。ところが原文は、

 □Als Thomas Manns Bruder Heinrich zwanzig Jahre nach dem Erscheinen des Romans 〈Der Zauberberg〉 daran ging, seine Lebenserinnerungen 〈Ein Zeitalter wird besichtigt〉 zu Papier zu bringen, ordnete er sein Verhaeltnis zu Puccini dem Kapitel 《Die geistige Liebe》 unter, als wolle er der von seinem Bruder verewigten 《Fuelle des Wohllauts》 ein sublimeres Gegenbild an die Seite stellen.

 主語は 「トーマス・マンの兄ハインリヒ」 であり、文中の 「sein彼の」 という所有詞は全てハインリヒを指している。 訳者も他の箇所ではそう取っているのに、なぜsein Verhaeltnis zu Pucciniだけは 「プッチーニに対するトーマス・マンの関係」 にしてしまったのだろう。

 (試訳) トーマス・マンの兄ハインリヒは 『魔の山』 出版の二十年後に回想録 『一時代の検討』 を著したが、この中でプッチーニに対する自分の関係を 「精神的恋愛」 の章に書き綴った。 まるで弟によって永遠化された 「楽音の泉」 の章に対抗して、より精妙なプッチーニ論を書いておこうとでもいうかのようだった。

 そしてハインリヒ・マンもプッチーニの音楽がレコードによって普及していることを見逃していないと述べて、

 ■もしトーマスが、プッチーニの音楽は、エリートたちのための高度な芸術だとして制限されるべきでないということをレコードを通しての音の広がりがいかに音楽的であるかという指摘と共に、ほのめかしていたならば、ハインリヒもまた、プッチーニに対する精神的愛着をもっと深めていたであろうし、更に手回しのバレル・オルガンのような通俗的伝達の領域においても定着させることをいとわなかったであろう。 (13ページ)

 □Hatte schon Thomas mit dem Hinweise auf die musikalische Klangdistribution mittels eines Grammophons angedeutet, dass Puccinis Musik nicht auf die elitaeren Gefilde von Hochkunst beschraenkt sei, so scheute sich Heinrich nicht seine geistige Liebe zu Puccini noch tiefer in der Sphaere der Trivialvermittlung von Musik anzusiedeln: bei einem Leierkasten.

 基本的な構文であるが、初めに動詞が出て主語が後にきているのをwennの省略形と読み取ったところまではいい。 しかしwennがどういう意味で使われるかの知識が十分ではなかった。 wennには仮定の 「もしも〜なら」 という意味もあるが、他に 「一方に〜ということがあるのだけれど」 という意味の、いわゆる 「事実のwenn」 という用法もある。 ここでは最初の副文 (従属節) が直説法過去完了、後半の主文 (主節) が直説法過去であることからも、事実のwennと取らねばならないところだ。

 (試訳) トーマス・マンはすでに 〔『魔の山』で〕 レコードを通して音楽が幅広く享受されるようになった状況を描き、プッチーニの音楽がエリートだけを相手にした高級芸術の領域に留まるものではないことを暗示したのであったが、ハインリヒはさらに、自分の精神的なプッチーニ好みがもっと低俗な媒介物――すなわち手回しオルガン――を通して生じたことをためらうことなく告白したのである。

 それから最初に引いたハインリヒ・マンの 『一時代の検討』 からの引用がなされるのである。 ハインリヒ・マンは、初めて 「ボエーム」 を耳にした時の体験に触れつつ、プッチーニ人気は一つの時代が終焉するという予感から来ると述べている。 論者はそれを受けて、ハインリヒ・マンのプッチーニへの言及は、トーマス・マン 『魔の山』 の上述箇所への一種の解説 ( 「一種の」 だから、直接 『魔の山』 論を展開しているとは言っていない。 先にseinを取り違えた誤訳はここからきたのかも知れない) になっているとして、

 ■その中で、世紀末感情の展望という見地から、プッチーニの音楽は、増大する悲劇性の時代において、没疎外の状態をしばし人間に示唆する感情的な吸引力をもっていると考えられている。音の輝き、つまり感性の豊かさは、この音楽が素材である。(14ページ)

 どうにも分からない訳文ですね、これは。

 □Aus der Perspektive eines Endzeitgefuehls wird hier der Musik Puccinis eine emotionelle Sogkraft zugeschrieben, die dem Menschen in Zeiten einer wachsenden Katastrophalitaet fuer Augenblicke den Zustand von Nicht-Entfremdung suggeriert. Schmelz, also sensualistischer Reichtum, ist der Stoff, aus dem diese Musik gebaut wird;

 (試訳) ここでは、一時代の終わりという観点から、プッチーニの音楽の持つ情感的な吸引力が説明されている。 この吸引力が、崩壊を目前にした時代の人間に、しばしの間ではあるが疎外を忘れさせてくれるのである。 音の輝き、つまり感覚面での豊かさこそが、プッチーニの音楽を形作っている素材に他ならない。

 さて、すぐ次に来るのが超弩級の誤訳である。 訳文をじっくり味わっていただこう。

 ■それをローベルト・シューマンが幻想小曲集op.12の中で次のように言っている。 「あらゆる地上の制約をぬぐい取ろうとするロマンティックな憧れから、全く攻撃的な響きに置き換えたような飛翔は、プッチーニの音楽が憧れた目標でもある。 (…) 《ラ・ボエーム》 におけるロドルフォとミミのあいだの関係が際立っているように、感性と世間からの逃避、親密な感情の接近と死の近さがひとつになっていることは、トーマス・マンやハインリヒ・マンにおける以外は、精神的世界の中で、ほとんど愛し返すことのない結果となっている」。 (14〜15ページ)

 !!!と、ビックリ・マークを連発したくなる訳文ではあるまいか。 まず、シューマンの 「幻想小曲集・作品12」 といったらピアノ独奏曲である。 ピアノ曲の中でどうして 「次のように言っている」 ことができるのか。 曲に篭められたイメージが明白で、誰が聴いてもここに引いたような複雑怪奇な文章が即座に脳裏に浮かぶのだろうか。 というのは冗談だが、まあシューマンは音楽評論を本格的に始めた人の一人でもあるから、「幻想小曲集」 の楽譜に音楽論をオマケにつけて出版したのだという想像も、こじつければできなくはない。

 しかし、である。 その次の引用箇所はどうこじつけても理解不可能である。 文章の分からなさはひとまず措く。 シューマンが言ったことの中に、「ボエーム」 やマン兄弟が出てくる……!? 

 シューマンが死んだのは1856年である。 ハインリヒ・マンとトーマス・マンが生まれたのは、それぞれ1871年、1875年である。 プッチーニの生まれたのは1858年で、「ボエーム」 初演は1896年である。 いったいどうすればシューマンに 「ボエーム」 やマン兄弟が論じられるというのだ!? 私はこう書きながら震えているのだが、怒りのためか笑いの発作のためか自分でも分からないくらいだ。

 訳者が何を本職とする人なのかは知らない。 しかしこの箇所をおかしいと思う脳ミソがないなら、はっきり言って魯鈍である。 出版社も然り。 担当者はこの訳文を読んで変だと思わなかったのだろうか。 音楽之友社には音楽史のイロハもわきまえない人間がそろっているのだろうか。
 原文を少しずつ見ていこう。 当然ながら驚きの連続である。 まず最初はどうなっているかというと、

 □Aufschwung, wie ihn Robert Schumann in einem der Fantasiestuecke op.12 aus der romantischen Sehnsucht nach dem Abstreifen aller irdischen Bedingtheiten in einen schon aggressiv fordernden Klang umgesetzt hatte, ist auch das Traumziel der Musik Puccinis;

 ご覧のように、「シューマンが言った」 なんてどこにも書いてない。 引用符すらないのである。 いったいどういう経路をたどって 「言った」 と引用符とが出てきたのやら……。

 最初の単語Aufschwungは 「幻想小曲集・作品12」 の第2曲の題名で、これを 「飛翔」 と訳しているのはどうやら日本音楽界の慣行に合わせたらしい (とすると訳者は、シューマンの没年と 「ボエーム」 初演年の前後関係は分からないくせに、姑息な日本音楽業界内部の通例にだけは詳しいわけだ)。 しかしAufschwungは 「飛翔」 というよりは 「飛躍」 の方だろう。 ちなみに私の持っている同曲のレコードに解説を書いている石井宏氏も、「ふつうは 〈飛翔〉 と訳されているが、これはむしろ 〈跳躍〉 のほうが正訳ではあるまいか」 と書いている。

 (試訳) ローベルト・シューマンは「幻想小曲集・作品12」の一曲の中で、あらゆる地上の制約を消滅させてしまいたいというロマンティックな憧れを、「飛躍」 といういささか攻撃的とも言える挑発的な響きの曲として表現したのだったが、こうした飛躍こそがプッチーニの音楽にとっても夢のような目標だったのである。
 
 後半だが、この飛躍によっても地上的なものを逃れることはできないという意識がすでに最初から組み込まれており、それが死への願望へと転化するところにプッチーニの音楽の魅力がある、一幕物の 「修道女アンジェリカ」 もそうだとした上で、

 □Dieses Ineins von Sinnlichkeit und Weltflucht, von inniger Gefuehlsannaeherung und Todesnaehe―wie es auch die Beziehung zwischen Rodolfo und Mimi in 〈La Boheme〉 praegt―ist in der geistigen Welt auser bei Thomas und Heinrich Mann auf wenig Gegenliebe gestossen.
(試訳)こうした官能性と世捨てとの一体化、内的な親近感と死への思いとの一体化は、「ボエーム」 のロドルフォとミミの関係にも明瞭な影を落としているが、この種の一体化にこだわった人は文人の中ではトーマス・マンとハインリヒ・マンを除いてはほとんど見られない。

 それにしてもどうして引用符が入ってシューマンの発言ということになってしまったのか、わけが分からない。 一つ考えられる理由は、原文では上で試訳した文の最後に註番号が振られているので、そこまでは何かからの引用だと勘違いした可能性である。 しかし註の文章には何かからの引用であるなどとは書かれていないのだ。 本文と註を別々に訳したのだろうか。 そして、この註の訳がまたデタラメなのである。

 ■フランク・ティースの力のこもった試論 〈Puccini―Versuch einer Psychologie seinen[ママ] Musik〉 ハンブルグ 年不明 [1947] を考慮に入れないとしてもプッチーニの 〈救い〉 は彼の音楽を心理学的に分析することによって促進されるであろう。 (15ページ、脚註)

 何を言おうとしているか、何回読んでも分からない。原文は、

 □Sofern man den emphatischen Versuch von Frank Thiess ausser Betracht laesst, in dem Puccinis 《Rettung》 durch eine Psychologisierung seiner Musik betrieben wird:〈Puccini―Versuch einer Psychologie seiner Musik〉. Hamburg o.J. [1947].

 (試訳) フランク・ティースの力作論文を除けば、である。 ティースはここで、プッチーニの音楽を心理学的に分析してこの作曲家を 「救って」 いる。 『プッチーニ―彼の音楽を心理学的に見る試み』 ハンブルク、発行年記載なし [調査により1947年と判明]

 つまり、本文ではハインリヒ・マンとトーマス・マン以外にはプッチーニを心理学的に深く理解した人はいないみたいに書いたけど、この人は例外ですよ、と言っているのである。 後半が関係文であることが読み取れていない。 細かいことを付け足せばHamburgはハンブルグではなくハンブルクだし、論文名を訳さず原文のまま (しかも誤植――写し間違い?――あり) なのは不親切だろう。 原書を買いたい人がいるだろうと思って? それなら日本語とドイツ語原文を並べておいたらいいではないか。 実際、本文では 「ローベルト・シューマンRobert Schumann」 なんて誰でも知っている人名にまで原語を併記しているのだから。

 この後も誤訳・悪訳が頻出する。 訳者がドイツ語を読み慣れていず、何より前後関係を考えて意を移すことをしないで単語の置き換えに終始している様は悲惨ですらある。 しかしきりがないから前半部分はこのくらいにして、急ぎ後半を見てみよう。

 後半のドキュメンテーションだが、最初の辺りはまあまあである。 誤訳がなくはないが、頻出はしないし、無茶苦茶な大誤訳はないようだ。 一つだけ指摘しておくと、プッチーニが自作にこの題材を選んだのは、マスカンニのオペラ 「カヴァレリア・ルスティカーナ」 に刺激されたところが多いとして、

 ■プッチーニのミラノでの勉強仲間たちがこの幸運な素材を選択したことは、非常に似たテーマへのプッチーニの関心を少なくとも高めたと考えられよう。(195ページ)

 問題は最初の部分。原文は、

 □...diese glueckliche Stoffwahl seines Mailaender Studienkameraden .

 だから 「ミラノでの勉強仲間」 は単数であり、マスカンニを指していることは明瞭。

 しかし訳文はおおぬむね大意はつかみ損ねずに続いている。 ところがイタリアの音楽学者カジーニの論文に入ると、またかなり怪しくなってくる。
まずフラッカローリによるプッチーニ伝から、プッチーニ自身の発言が引用される。 ミュルジェの小説 『ボヘミアンの生活情景』 を読んでわがことのように感じ、オペラの素材にうってつけだと思ったという内容である。 その引用の後にカジーニの論考が始まるのだが、

 ■プッチーニが彼自身の伝記に報告していることは、それらの出来事が実際にあったことと一致している。 しかし、ボエームの世界での経験が及ぼしているかも知れないと思われる総譜の構想及び題材の選択への影響に関しては、一致していないと確信をもって言える。(216ページ)

 どうにも分からない訳文である。 原文を見ると、

 □Was Puccini seinem eigenen Biographen berichtete, kann durchaus mit der Wirklichkeit der Vorgaenge uebereinstimmen. Mit Sicherheit aber stimmt es nicht in bezug auf eine etwaige Einflussnahme von Erfahrungen in der Welt der Boheme auf die Konzeption der Partitur und auf die Wahl des Stoffes.

 BiographenをBiographieと取り違えている。 或いはこの訳者、弱変化名詞がよく分かっていないのかも知れない。 先ほどの 「ミラノの勉強仲間」 を 複数と取り違えたのも、弱変化名詞の変化を間違えたという点でこれと似た誤りだった。

 (試訳) プッチーニは自分の伝記作者 〔フラッカローリ〕 に、事実あった通りを語ったのかも知れない。 しかしボヘミアンの世界でプッチーニがした実体験が、この素材の選択やオペラの作り方に何らかの影響を及ぼしたなどということは、確実にあり得ないと言っていい。

 次にプッチーニが若い時分はボヘミアンとは無縁の暮らしぶりでかなりの仕送りを得ていたことに触れてから、

 ■彼は飲食店 〈アイーダ〉 や 〈エクセルジオール〉 で何度もみすぼらしい昼食をとったこと (…) や、〈エクセルジオール〉 の常連客に読まれていた新聞 《トスカーナの喉》 に書かれた多くの戯れ言などから、プッチーニは本当のボヘミアンではなかったと判断される。(216〜217ページ)

 「何度もみすぼらしい昼食をとった」 のがどうしてボヘミアンではないことの根拠になるのだろう。 普通に考えればその逆ではないか。

 □Manches duerftige Mittagsmahl in den Gastwirtschaften 《Aida》 und 《Excelsior》,...manches Scherzwort uber die Zeitung La laringe toscana [Der toskanische Kehlkopf], die bei den Stammgaesten des 《Excelsior》 in Umlauf war, berechtigten noch nicht dazu, Puccini als einen richtigen 'bohemien' zu betrachten.

 (試訳) プッチーニが飲食店 「アイーダ」 や 「エクセルシオール」 で時々お粗末な昼食をとっていたこと、「エクセルシオール」 の常連客が読んでいた 「トスカナの喉」 紙について何度か冗談を言ったことも、彼を正真正銘のボヘミアンと見なすには不十分な証拠でしかない。

 それから、プッチーニが本当に貧乏だった時期もあるがそれもボヘミアンの生活様式とは無縁だったとして、

 ■それは、《エドガー》 の失敗のあとリコルディの援助なしにもどらねばならなかったミラノの音楽プロレタリアートから、《マノン・レスコー》 の成功後、有名な出版社の目の回るような忙しさへ順応するまでの過渡的な困難で、不安定な期間は少しのあいだにすぎなかった。(217ページ)

 分かりにくい訳文だが、なんとなく分かる感じはする。 しかし原文は、

 □Es war nur der schwierige und unsichere Moment des Uebergangs aus dem Mailaender Musikproletariat, wohin er ohne die Hilfe von Ricordi nach dem Misserfolg von 〈Edgar〉 zurueckgemusst haette, in die Einordnung in das geschaeftige Getriebe des angesehenen Verlagshauses nach dem Erfolg von 〈Manon Lescaut〉.

 中程の関係文の動詞が接続法であることが無視されている。 つまり仮定の話なのだ。

 (試訳) それは、ミラノで貧乏な音楽家だった時分から――「エドガー」 の失敗後は、リコルディの援助がなければこの状態に逆戻りしかねなかったところだが――「マノン・レスコー」 の成功によって著名出版社の売れっ子になるまでの間の困難で不安定な過渡期にすぎなかった。

 それからミュルジェの原作をオペラ台本に書き換える話になる。 原作とオペラ台本は別種のものだとして、

 ■もちろん、彼の側とちょうど反対の文学的対象にプチブル的観念論があったが、それが重ねられながら、台本は成立した。(217ページ)

 「彼の側」 ってプッチーニのこと? プッチーニはプチブル的観念論と正反対の人だったという意味かと思うと、

 □Zustande kam es allerdings, indem eine kleinbuergerliche Ideologie einem literarischen Objekt ueberlagert wurde, das seinerseits gerade im Gegensatz zu ihr stand.

 「彼の側」 はseinerseitsを訳したようだが、これは関係文の主語・関係代名詞たるdasを受けていて、dasの先行詞はeinem literarischen Objektだから、「彼」 なんてしちゃいけないのです。 で、einem literarischen Objektだけれど、直訳すれば確かに 「文学的対象」 であるが、これで何のことか分かるだろうか? ミュルジェの小説が描いた対象、つまりボヘミアンのことだと読者に分からせるためには (そもそも訳者は分かっていなかったのだと思う、訳文から見る限り) もう少し噛み砕いて訳した方がいい。 それからIdeologieを 「観念論」 というのは大げさすぎはしないだろうか。

 (試訳) 無論オペラ台本は、原作が描いたボヘミアン像の上に小市民的イデオロギーを重ねることによって成立したのである。 ボヘミアン自体は小市民的イデオロギーとは正反対のものなのであるが。

 それから当時のパリが文学的・音楽的に見てどういう状況にあったかという話になる。 ミュルジェのボヘミアン小説は劇作に改作されたが、これは当時よくあったことだとして、

 ■しばしば好んで、有名な文学の作品の改作がなされた芝居のジャンルが問題であった。(219ページ)

 □Es handelte sich um eine Schauspielgattung, in der oft und gerne Bearbeitungen beruehmter literarischer Meisterwerke Platz fanden.

 この訳文、これだけで見れば間違いはない。 でも、前後の文にしっくり溶けあっていない。 「問題であった」 というから次にそういう芝居の話になるかと思うと、そうではなくやはりオペラ台本の話になる。 つまりes handelt sich umという言い回しはここでは 「問題なのは」 といった重い意味ではなく、ずっと軽くてsein動詞の代用に近いと見ていいのである。 この辺りの感覚は独和辞典にも余り載っていないから (独和辞典はこの辺の説明をもう少し親切にした方がいいと思う。 新しい学習独和辞典には工夫がうかがえるが、より一層の分かりやすさをドイツ語業界には望みたい)、多少ドイツ語を読み慣れた人でないと分かりにくいだろう。

 (試訳) 好んでよく著名な文学作品を改作して舞台にかけるような種類の劇というものがあったのである。

 そしてそうした劇作からオペラ台本も作られることがあったとして、

 ■ある意味で、プッチーニが 《マノン・レスコー》 の題材をマスネーの同名のオペラからとった時、彼はそれをすでにその芝居筋から間接的に知っていた。(219ページ)

 特に生硬な訳文ではないので、うっかりすると読みとばしてしまいそうな箇所だが、立ち止まってよく考えると分からないのである。 「すでにそれを (…) 知っていた」って、何を知っていたの? 劇作をオペラ台本に転用すること? でもここではプッチーニは他のオペラから題材を得たと書かれている。 劇作をオペラに転用することがあると 「芝居筋から」 聞いて、それならオペラから転用しても同じだと思ったと言っているのだろうか。

 □In gewissem Sinne hatte Puccini, als er den Stoff von 〈Manon Lescaut〉 der gleichnamigen Oper von Massenet entnahm, bereits indirekt aus jener Quelle geschoepft,...

 動詞のschoepfenは 「汲み取る」、Quelleは 「源泉」 だが、ここでは文学作品を転用した劇作のことである。

 (試訳) ある意味でプッチーニは、「マノン・レスコー」 の素材をマスネーの同名のオペラからとった時、すでに劇作という源泉から間接的に材料を汲み取っていたのだった。

 それからミュルジェが属していた文学サークルの話をはさんで、小説と劇作の違いが問題になる。 ミュルジェの小説にはイタリア語版もあり、その本には革命を鼓舞するカメローニというボヘミアンの序文がついていた。 その序文の一節が引用される。 ボヘミアンは安寧をむさぼる市民を恐怖させるものだとして、

 ■ボヘミアンは、オデュッセウスの棒がテルシテスの背中にあり、二重の目標を、つまり絶望的状況と、人がユートピアと名づけるものの実現に対する闘いを求める。(224ページ)

 □Sie [die Boheme] ist der Stock des Odysseus auf dem Ruecken des Thersites, und sie strebt ein doppeltes Ziel an, den Kampf gegen die Trostlosigkeit und die Verwirklichung dessen, was man eine Utopie nennt.

 最初の辺りで読者はつまずいてしまう。 オデュッセウスの棒がテルシテスの背中に……いったい何のことだと思うだろう。 オデュッセウスはともかく、テルシテスの名はギリシア神話にかなり詳しい人でないと分からない。 実を言うと私も知らなかったので調べてみた。 これは 『イリアス』 第二巻に出てくる戦士の名で、トロイアを攻めるギリシア方ではあるが、大将のアガメムノンやオデュッセウスに何かと異を唱える醜悪な男であり、戦いを回避して帰国しようとするので、しまいには立腹したオデュッセウスが彼の背中を棒で叩いて叱りつけるのである。 この箇所は訳註をつけるか訳文に工夫を凝らす必要があろう。 もっともそうでなくとも訳自体がおかしいのであるが。 それから後半にいくと、「二重の目標」 とは、「絶望的状況に対する闘い」 と 「ユートピアの実現」 である。 「闘い」 は 「絶望的状況」 にだけかかるので、「ユートピアの実現に対する闘い」 ではない。

 (試訳) ボヘミアンは、オデュッセウスがテルシテスの背中を棒で叩いたように、市民の背中を棒で叩く存在だ。ボヘミアンは二重の目標を目指している。絶望的状況に対する闘いと、ユートピアと呼ばれているものの実現である。

 紙数も限られているのでこれでおしまいにする。 音楽関係書を訳す場合は、音楽専門家と語学の専門家が協力して作業をするのが理想的ではないだろうか。 意味不明の訳書を世に送り出す出版社は詐欺師同然であり、善良な音楽愛好家を食い物にしていると言っても過言ではあるまい。

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