大崎滋生『音楽演奏の社会史』(東京書籍)2524円(税別)

 

 93年に初版、97年に第2刷というから、さほど売れているわけではないらしい。現に私も、たまたま生協書籍部で手に取るまではこういう本があるとは全然知らなかった。

 しかし、これは実に瞠目すべき内容を持った書物である。

 著者の大崎滋生(おおさき・しげみ)氏は1948年生まれ、東京芸大大学院を出た後、マインツ大学客員教授などを経て、桐朋学園大教授をしている方である。専門はハイドン研究。

 内容から言うと、ひとまずはタイトル通り、クラシック音楽の演奏の歴史を、その時々の社会のあり方と関連させながら論じた本、ではある。

 例えば一時期すたれて最近(と言っても、ここ半世紀近く)脚光を浴びているチェンバロ。この楽器が20世紀に入って復活した当初、ピアノに近い音量を得ようとして様々な手段で補強がなされた。ピアノによって蓄積された演奏様式でチェンバロも弾かれたからだ。著者はこれを鉄骨チェンバロと呼んでいるが、やがてこうした改造楽器はバロック時代の音量や演奏様式を無視した邪道だということになり、70年代以降は消えてしまう。

 読者はとりあえず、そうした音楽研究の進歩と演奏様式の変遷の歴史が専門的な立場から講じられるのに耳を傾ければよい。私のようなシロウト音楽ファンが「へえ、そうなの」と感心して頭を振るような知識が、沢山詰め込まれている。

 もう一つ、著者の専門のハイドンから例を挙げると、一時期ハイドンの交響曲には通奏低音が必要だとしてチェンバロによる通奏低音を入れたディスクが続出したのだそうな。その後の研究で通奏低音はなかったと判明したというが、私のようにヨッフム指揮のロンドン響というオールドな演奏でロンドン・セットに親しんだ人間からすれば、お前の寝ている間に革命が起こったのだがすぐに鎮圧されたよ、と朝起きて聞かされたような感じであった。

 しかし、そうした専門的な知識が詰め込まれているというだけでは、この本の価値を半分しか説明していないことになる。問題はその先にあるのだ。

 先のチェンバロの例で言えば、バロック時代のチェンバロと比べれば改造チェンバロはいかにも偽物であるかも知れない。だが、バロック時代のような演奏様式による演奏会があり得ない現代、そして何より、当時と同じような意識で音楽を聴く人間が消滅してしまった現代、バロック時代と同じチェンバロを復興して当時と変わらぬ演奏を再現することにどれほど意味があるのか、と著者は問う。現在のような演奏会形式が確立されている中では、改造チェンバロにもそれなりに存在意義があったのではないか、というのだ。

 ここにはまた、過去の演奏会様式を研究することの困難さが絡んでくる。他の領域でもそうだが、音楽研究も資料が残っていなければなし得ない。たまたま資料が豊富に残されている地域・時代・作曲家の演奏様式が「オーセンティック」なものとされやすい。同じ時代でも地域・作曲家・演奏家により様々な違いがあったはずなのに、「この時代の演奏様式はこうだ」と決めつけられてしまう。また、同じ演奏家でも会場や聴衆の種類によって演奏様式を変えたかも知れない。とするなら、そもそも「オーセンティック」とは何かという問題に我々は向かい合うことになるのである。

 これは演奏様式だけの問題ではない。作曲家に対する評価もそうである。現代の我々はバロック時代の代表的作曲家といえばヨハン・ゼバスティアン・バッハを思い浮かべる。しかしバッハが生きていた時代、随一の作曲家とされていたのはテレマンであった。ここまでは多少ともクラシック音楽に親しんだ人は誰でも知っている話である。

 問題はその先にある。なぜ評価の逆転が起こったのか。バロック時代の人は音楽を聴く耳を持たなかったのか、或いは単に趣味の変遷、と言っていれば片づく話なのか。

 著者は、当時この二人の作曲家がおかれていた立場の違いを説明しつつ、その時代にはテレマンの方が聴かれる機会が多く、したがって高名であり、高く評価されたのは当然であった、しかし自分の音楽を継承する弟子を持っていたバッハに対して後継者を持たなかったテレマンは後世から忘れられる運命に甘んじなければならなかったのだ、と述べる。

 バッハは二百曲あまりのカンタータを残したが、テレマンはこの曲種で現存するだけでも千六百もの曲を残しているという。

 また、バッハがメンデルスゾーンの「マタイ受難曲」蘇演により一般の聴衆からも大きく注目されるようになったのは、クラシック音楽ファンならこれまた誰でも知っている話であるが、著者はここにドイツ民族主義形成との並行現象を見る。「バロック時代」という音楽的時代区分の確定、そして「音楽の父」としてのバッハ像の成立は、歴史記述により自民族のアイデンティティを確立しようとした時代の流れにぴったり添うものであった。

 著者はこうして、歴史主義の問題にたどり着く。ドイツの大歴史家ランケの「それぞれの時代は神と向かい合っている」−−つまりどの時代も固有の価値を持っておりその時代の尺度でしか測れない、という見解を自分の問題として吟味しなくてはならなくなる。

 著者の結論はこうだ。過去を過去の尺度で測るというのは、誰にでもできることだろうか。神ならざる我々は、やはり現代の尺度で過去を見ざるを得ないのではないか。無論これは何でも当世風に割り切れということではなく、過去をいかに現代に甦らせるかとは、過去をどう我々がイメージするかの問題だ、という深い認識なのである。

 以上のような認識を述べた第2部第2章「歴史の復興とは何か」が、大崎氏の著書の白眉と言える部分だと思う。

 ここにはまた、著者がイタリアの都市ラヴェンナを訪れた時の体験が印象深く語られている。この町はモザイクの内部装飾で名高いが、モザイク自体は脆いものなので、絶えざる修復を必要とする。伝統は修復を前提として維持されているのだ。そしてラヴェンナは修復職人を養成するための学校を堅持することで伝統を守っている。だが、修復により本来の美しさを保っているモザイクを見ても、著者は単純に感心はしない。他に取り立てて文化的薫りのしない地方小都市に、ひとつモザイクだけが美しく輝くのを前にして、著者は違和感に襲われる。コンテクストを失ったモザイクの美しさにどれほどの意味があるのか。オリジナルの復興とは何か、歴史の復興とは何か、著者は改めて考え、ランケに向かわざるを得なくなるのである。

この本はこうして、単なる専門的な知識の開陳という域を超えて、哲学的な思考にたどりついた稀有な本である。専門家としての研究は怠りなく、しかし専門という狭い部屋の中に安住することもない著者の姿勢は、まさに知的という言葉の見本と言えるであろう。
                                                                    (1999年8月)

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