読書月録2008年
西暦2008年に読んだ本をすべて公開するコーナー。 5段階評価と短評付き。
評価は、★★★★★=名著です。 ★★★★=上出来。 ★★★=悪くない。 ★★=感心しない。 ★=駄本。 なお、☆は★の2分の1。
・水村美苗 『日本語が亡びるとき 英語の世紀のなかで』(筑摩書房) 評価★★★★ 評判の本である。 英語が事実上の国際語になってきている状況下で、今後日本語は現地語としてのみ機能し、学術はもちろん、芸術分野でも英語を使う度合いが飛躍的に高まっていく可能性を指摘し、それを防ぐためには近代日本文学の価値を再認識して、学校でももっと近代文学を教えるべきだと主張している。 その際に、書き言葉と話し言葉の根源的な相違、そして書き言葉が基本的に翻訳によってできあがっていくものであることを指摘している部分が面白い。 また、最初のあたりの、アメリカで作家の国際的な会合に参加したときの体験談もきわめて面白い。 評判に違わぬ本だと思う。
・大高宏雄 『日本映画のヒット力 なぜ日本映画は儲かるようになったか』(ランダムハウス講談社) 評価★★ 1年前に出た本。 この10月末から11月始めにかけて上京したとき船橋のBOOKOFFにて半額購入。 長らく洋画に比べて劣勢だった邦画が最近興行収入で洋画を抜いている。 なぜそうなってきたのかを、主としてメディアの宣伝だとかテレビとのタイアップだとかの外在的な部分から解き明かそうとした本。 うーん、率直に言って面白くなかった。 一応、映画の質は問わないであくまでメディア論だとか商業戦略上のお話として邦画を語っているのだが、はたしてそれで邦画が最近優勢になっている理由が説明できるのだろうか。 たしかにテレビドラマの映画化だとか、一般大衆がそうした映画を主として見に行っているとか、まあ目新しくはないけど間違ってもいないであろう分析もあるけれど、新しい感覚で映画を作る若い日本人監督が出てきていることとか、逆にハリウッドの映画が最近イマイチであることとかが大きいんじゃないだろうか。 後者については、種切れということもあるかもしれないが、おそらく商業ベースを考えすぎることによって逆に映画がつまらなくなる、という側面も無視できないと思うのだ。 そういう意味で、本書は映画の質に触れないことによって大事な部分がすっぽり抜け落ちたつまらない本になっているという印象だった。
・諏訪哲二 『学力とは何か』(洋泉社新書y) 評価★★★ 「プロ教師の会」 の中心的人物として活躍してきた著者の最新刊。 ここでは、ゆとり教育と、その反動としての学力重視路線の双方を俎上に載せて、後者が子供の教育を学力だけで計り、社会の中で生きていくためのエートス (という言葉を諏訪氏は使っていないが) を育成するという、もう一つの重要な要素を忘れていると批判している。 といって、ゆとり教育の理念そのものは評価するものの、教室という場で――教師が一人で時間的にも限られている――その理念を実現することは不可能だとも喝破している。 こうした基本姿勢をもとに、陰山英男や和田秀樹などの学力主義者への批判を展開している。
・小林雅之 『進学格差――深刻化する教育費負担』(ちくま新書) 評価★★★ 日本における教育費負担を、世界各国のデータと比較しながら論じた本。 日本で特に大学進学時の個人負担が大きいことは指摘されて久しいが、データで国際比較してみてもそれが実証されていると分かる。 ただし、先進国は一様に高等教育進学率の上昇とそれに伴う国庫負担の増加に悩んでおり、国庫負担を押さえながらいかに優秀でありながら貧しい子供に進学を断念させないか――つまり税金の節約と、平等性の確保という、二つの急所――を実現するためにあの手この手を使っていることも分かる。 しかし、外国のデータがあまり詳細ではなく、またこの種のデータは単に個人負担と国庫負担のパーセンテージだとか奨学金の貸与・給付率などを比較するだけでは足りず、進学についてどういう国民的なコンセンサスができているのか、国ごとの平均的な生活の水準はどうかなど、様々な要素に左右されるわけだから、もっと詳細なデータを提供して欲しかった。 貴重な本だが、その点で物足りなさが残る。
・井上章一 『日本に古代はあったのか』(角川選書) 評価★★★☆ 日本史の古代・中世・(近世・)近代という分け方が、ヨーロッパ史や中国大陸史の分け方と大きくずれていることを指摘して、日本には事実上古代史はなく、中世から始めるべきではないか、と提言した本。 その一番の根拠は、封建制度の解釈である。 日本史では鎌倉に幕府が開かれた時点をもって封建制が始まったとされ、それは武家政権こそが封建制の根幹だという見方に基づいているが、井上氏によれば平安時代の荘園制も事実上封建制と見てよいので、中世=封建制と見なすならば、平安時代も中世に入れるべきだ、というのである。 他方、ヨーロッパ史では古代はローマ帝国の時代であり、中世は西ローマ帝国が滅んで封建制が始まった時代とされているし、中国大陸の歴史は、東大系と京大系でどこを中世の起点にするかに違いがあるが、いずれにせよ漢は古代であって、つまりローマ帝国的な大帝国が古代とされている以上、日本にはそうした帝国はなく、またそれはヨーロッパでも北部には古代ローマ帝国の勢力が及んでおらず、したがって北ヨーロッパの歴史は中世から始まるとされている以上、日本もそれと同じで構わず、またそのほうが世界史の区分と日本史の区分が一致するから便利なはずだ、ということである。 以上のような主張と、東大系と京大系の歴史区分をめぐっての確執だとか、京都・関西はもともと日本史において重要な役割を担ってきたのを東大系の歴史学はわざと無視しようとしているとか、京都人の怨念がこもっている――と著者は自分でも書いている――ところが、私のように東日本で生まれ育った人間からするとちょっとウザイ感じがする。 京都人って、関西以外ではかなりウザイと思われていることを、井上氏はもっと自覚すべきじゃないかなあ(笑)。 まあ、それはともかく、下 (↓) の今谷明氏の本もそうだったが、昨今では封建制が改めて注目を浴びているようだ。
・神谷秀樹 『強欲資本主義 ウォール街の自爆』(文春新書) 評価★★★★ 金融危機に陥り、いまや青息吐息状態のアメリカ経済。 新自由主義で活気があるように表向きは見えていたアメリカ金融の実態はどうだったのか。 ながらくアメリカで金融関係の仕事をしてきた著者が、法律に触れさえしなければいいとして、自分が儲けるためだけにカネを操り、次代を担う企業を育成するという、金融機関の根幹をなすはずの仕事をまったく怠ってきた経済エリートの堕落を解明しつつ批判し、日本にあってアメリカの後追いだけをしてきた小泉・竹中ラインの経済政策をも撃った本。 私は経済にうといので投資に関する細かい説明にはよく分からない部分もあったが、大筋では強い説得性を感じた。
・西尾幹二 『三島由紀夫の死と私』(PHP研究所) 評価★★★☆ 西尾幹二氏が三島由紀夫についてまとまった本を出すのは初めてである。 ただし、中でも断っているが、いわゆる三島論ではない。 生前一度だけ会う機会があった三島の印象、そして自決直前の三島が、西尾氏が雑誌に載せた三島論を読んで評価していたこと、三島の自決の原因は結局は他人には分からないのではないかといった控え目な見解など、西尾氏と三島の関わりについてともかく一冊の本にまとめておこうとしてできた本である。 しかし西尾氏の三島由紀夫に関する見方はそれなりに伝わってきて、三島ファンなら興味深く読むことができるだろう。
・大久保一彦『寿司屋のカラクリ』(ちくま新書) 評価★★★ さまざまなランクの寿司屋の魅力と楽しみ方を紹介した本。 まあ、私のように寿司屋というと1皿百円を大きく越えない回転寿司にしか行かない人間からすると高級店の紹介――1人前1万円以上する――などは 「読むだけ」 だけれども、時間を潰すにはそれなりの本ではないか。 あと、日本の漁業を担う人たちが高年齢化しており、なおかつ年収も少ない現状についての批判的な紹介もあり、世の中についての勉強になります。
・今谷明 『封建制の文明史観 近代化をもたらした歴史の遺産』(PHP新書) 評価★★★★ 著者は1942年生まれ、京大経済を出て一時期大蔵省に勤めたあと大学院に入り直して日本中世政治史を専攻し、大学院を出たあとは大学教授を勤めてきた方である。 本書は、封建制という、いっとき (或いは西洋史では今も) よく使われたが、その実概念規定が必ずしもはっきりしない用語について、どのように用いられてきたか、また 「封建制」 をどう評価すべきかを詳細に辿った本である。 つづめて言えば、封建制を経験することによってしか近代的な民主主義にたどりつくことはできず、中国やロシアなど専制帝国は経験しても封建制を経験していない地域にはいまだに民主主義が根付かない、ということのようである。 また、そうした 「封建制」 という言葉が、戦後間もない頃には民主主義の対極にあるものとして批判され、当時マルクス主義史観全盛期だった日本で異常に貶められたことにも触れられており、日本の史学界のイデオロギー性も浮かび上がってくる。 好著である。
・シェイクスピア (福田恆存訳) 『マクベス』(新潮文庫) 評価★★★ 教養の演習で読んでみた。 私としては若い頃に一度読んで以来である。 緊密な構成をもった作品だが、余分な部分があまりないために学生と一緒に読むのにはやや向いていなかったかな、という気もした。 やっぱり若い男女間のやりとりのある 『ハムレット』 や 『ロミオとジュリエット』 のほうが教材としては華があるのである。 なお、福田恆存の訳には、固有名詞表記で一部不統一があることにも気付いた。
・片山杜秀 『音盤博物誌』(ARTES) 評価★★★★☆ 前著 『音盤考現学』 に続く片山杜秀の本。 雑誌『レコード芸術』に100回に及び連載した記事の後半50回分を収めている。 前著もそうだったが、博覧強記という言葉がぴったり当てはまる人で、当方の知らないことばかりが次々と登場する。 クラシック音楽や日本の作曲家に詳しいだけでなく、映画や文学、現代思想、近現代史への言及もあって、帽子屋が品切れになるくらい 「脱帽」 しながら読みました。 ほんと、スゴイ人ですね。
・宮下誠 『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書) 評価★★ タイトル通り、クラシック界の帝王と呼ばれた故ヘルベルト・フォン・カラヤンがクラシックを、ひいては芸術をダメにした、と断罪した本。 対照的に、クレンペラーとケーゲルは賞賛されている。 どうも著者は悪しき哲学に染まり、そこから現代社会を呪い、現代社会がかくもダメになったのは資本主義と大衆社会のせいであり、そうしたダメさを象徴するのがカラヤンだと言いたいらしいのだが、カラヤンがそんな大それた存在だとは思えないし、そもそも著者のように現代社会のすべてダメだとする見方そのものがおかしいのである。 昔はそんなによかったのか? 格差は昔はゼロだったのか? 搾取は昔はなかったのか? と書くと、読んでいない人はびっくりするかもしれないけど、この人、要するに世の中がダメだと呪詛したくて、その材料にカラヤンを選んでいるらしい節があるのだ。 カラヤンの好き嫌いはともかく、こういうやり方で攻撃するのは良くないと思うなあ。 嫌いだと言いながらカラヤンのディスクをこんなに沢山聴いているのは、或る意味スゴイ (笑) とは思うけど。
・マイケル・ケント公妃マリー・クリスティーヌ (糸永光子訳) 『異国へ嫁した姫君たち』(時事通信社) 評価★★★☆ 20年前に出た訳書を、東京のBOOKOFFで昨年見つけて購入。 「貴族」 をテーマとした学部の演習で読んでみた。 タイトルどおり、ヨーロッパで外国の皇太子などに嫁いだ王家・貴族の姫君たちの生涯を綴っている。 全7章で計8名のお姫様が取り上げられている。 中で一番有名なのはフランス革命で断頭台に消えたマリー・アントワネットであろうが、ほかにドイツ貴族の娘ながらロシアの女帝になったエカテリーナ、そしてナポレオン三世の妃になったウジェーヌも出てくるし、ブラジル王(ポルトガル王家から移る)に嫁いだレオポルディナなど日本ではあまり馴染みのない姫君の記述も面白い。 最後では、デンマーク王室の姫君などが英国をはじめヨーロッパ各国に嫁して、結果として第一次大戦時にドイツを包囲する形になったという指摘も出てきて、王族貴族の婚姻が意外な形で国際政治に関わっていることも分かり、興味深い本だと感心したことであった。
・夏目漱石 『三四郎』(岩波文庫) 評価★★★☆ 大学の演習形式の教養授業で読んでみた。 私としては、大学生時代に初めて通読し、10年近く前に人文学部1年生向けの演習で再読しており、これで精読するのは3回目になる。 今回は、特に視覚的な表現の含みに気づかされるところが多かった。 これには学生からの指摘もあって、なかなか勉強になりました。 あと、言うまでもなく美禰子の人物像をめぐって学生たちとああでもない、こうでもないと議論に花が咲きました。
・渡辺将人 『見えないアメリカ 保守とリベラルのあいだ』(講談社現代新書) 評価★★★☆ 共和党と民主党の二大政党しかないアメリカ。 しかし人間世界は複雑であり、ふたつの政党で懸案が処理できるほど単純にはできていない。 そこで、同じ共和党支持、民主党支持といっても、そこに色々な層が入り込んでくるわけで、そこを出発点としてアメリカ社会の複雑さを語った本である。 それだけでなく、特に最初のあたりでアメリカの大学のコンサバディブな学派が紹介されているところも参考になる。 日本と違って、あちらの学者は結構現実派(つまり保守派)が強いわけで、そこいらから、今の日本の大学のあり方を逆照射するような本である――といっても、著者のスタンスはあくまで中立的なのであるが。
・重松清 『君が最後に出会った人は なぎさの媚薬4』(小学館) 評価★★☆ 重松清の連作小説 「なぎさの媚薬」 シリーズの最終巻。 私は第1・2巻は読んでいるが、第3巻は未読。 官能小説の体裁をとっているけど、主役の娼婦なぎさの設定に独特のところがあり、最終巻で彼女の秘密が明かされるという筋書きになっている。 そこに興味があって読んだわけだが、実在の東電OL殺人事件をベースにして、なぎさがなぜ過去に戻って女を救うための娼婦になっているのかが分かるようになっている。 ただし、謎解きとしてはあまり面白くなかった。 もう少し彼女自身の痛切な体験に根ざした動機が考えられなかったのだろうか。
・エーリヒ・ケストナー (高橋健二訳)『ふたりのロッテ』(岩波少年文庫) 評価★★★ ケストナーの有名な児童文学だが、未読だった。 最近、映画化されたものをDVDで見る機会があったので、原作も読んでみた。 原作は戦後まもなく発表されているけど、映画のほうは90年代に作られていて同時代のお話だということになっているので、当然ながら色々違いがある。 その辺がなかなか面白かった。 高橋健二の訳は、時代的に古い表現――例えば未婚女性を○○嬢とするなど――は別にしても、部分的にやはりあまり上手ではないなと思えるところがある。 今は池田香代子の訳も出ているらしいし、時間があったら比較してみたいところだが (接続法第二式)。
・デュラン・れい子 『一度も植民地になったことがない日本』(講談社+α新書) 評価★☆ ベストセラーになっているようだが、古本屋にあったので買ってみたけれど、中身は薄い。 間違いも多い。 こんなものがベストセラーになるようじゃ、日本の知的状況はまだまだですね、と呉智英みたいなことを言ってみたくなる、その程度の本です。
・朴三石 『外国人学校 インターナショナル・スクールから民族学校まで』(中公新書) 評価★★★ 日本にあるインターナショナル・スクールや外国人学校 (アメリカン・スクール、フランス人学校、ドイツ人学校、中華学校、朝鮮学校など) を網羅的に紹介した本。 著者によるとこの種の本は今まで出ていなかったそうで、その意味では貴重な書物と言えるだろう。 へえ、なるほどと感心したり、びっくりしたり (ブラジル人学校が現在の日本では急速に増えていることなど)、色々教えられるところが多い。 ただし、著者の記述は全体的に浅く、各学校の抱える問題点を指摘するところまでいかず、タテマエの紹介に終わっている。 また、著者が在日朝鮮人ということもあって、朝鮮学校が他の学校との対比で出てくる頻度が高いし、また多文化主義を単純に賞揚していて、民族と文化との関わりについてあまり深く考えていないから、あくまで外国人学校を知るきっかけとして用いるべきで、各学校についてもっと知りたければ自分で調べるなりしたほうがいいだろう。
・山野良一 『子どもの最貧国日本 学力・心身・社会におよぶ諸影響』(光文社新書) 評価★★★☆ 最近社会の貧困について書かれた本が増えているが、これもその一冊。 タイトルはやや大げさだが、子供の貧困の実情やそれにともなう問題点を指摘した本である。 著者はアメリカの大学院で貧困の勉強をしてきた人なので、アメリカの状況についてもかなり言及がなされている。 ついこないだまで経済大国日本なんていう言い方で日本人は舞い上がっていたけれど、実は貧困により困難な状況に置かれた子供は結構いるのである。 またそういう家庭に対する公的な援助という点で日本はかなりお寒い状況にあるし、何より、そうした子供たちについての学問的なデータが未整備なのだという指摘は、重く受け止めるべきであろう。 日本の文系学問のお粗末さを指摘した本としても貴重だと思う。
・永井義男 『江戸の下半身事情』(祥伝社新書) 評価★★★ タイトルどおりの本である。 江戸時代の性生活・性風俗・売春事情などについて書いてある。 江戸時代はシーボルトも驚くほどその方面の活動(?)が盛んだった。 といっても、著者(時代小説作家)はいたずらに江戸をユートピア扱いせずに、あくまで実態に即して、エピソードを中心に話を進めている。 陰間についても書かれているし、当時も性同一性障害はあったという指摘もある。 僧侶が女郎屋に行くときは医師の格好をした、なぜなら当時は医師も丸坊主のことが多かったから、というようなさりげない知識が随所に盛り込まれていて、面白く読むことができる。
・鈴木謙介 『サブカル・ニッポンの新自由主義――既得権批判が若者を追い込む』(ちくま新書) 評価★★★☆ 新自由主義は、このところのアメリカの金融危機ですっかり評判を落としているけど、日本人の新自由主義的な心理状態はそう簡単に変わるわけではない。 本書は、「既得権批判」に典型的に見られる新自由主義的な思考傾向が、単に小泉政権支持者だけではなく、若者論をものする論者全体に広がっており、人によって微妙に異なりながらも、最終的には「自分は別だが、既得権はケシカラン」というカタチになりやすいことを指摘している。 新自由主義の左翼ヴァージョンと右翼ヴァージョンの違いや、1960年代の先進国に見られた 「若者の叛乱=反権威主義」 が新自由主義の淵源なのであって、単に経済的な理由からだけ新自由主義が流行ったわけではない、など貴重な指摘もある。
・ゴットフリート・ケラー 『ケラー作品集 第1巻 ゼルトヴィーラの人々』(松籟社) 評価★★ 19世紀にスイスのドイツ語圏で活躍した作家ケラーの短篇集。 私はケラーは、若い頃に長篇教養小説である 『緑のハインリヒ』 を読んだきりで、あとは短篇にちょっと目を通した程度だったので、腰を入れて読んでみようと思い本書を通読してみた。 スイスの架空の小さな町ゼルトヴィーラを舞台にした短篇集で、いわばスイスの人間喜劇といったところ。 『ふくれっつらのパンクラーツ』、『村のロメオとユリア』、『アムライン夫人とその末子』、『三人の律儀な櫛職人』、『ぶち猫シュピーゲル』 の5編を収めている。 このうち一番有名なのは 『村のロメオとユリア』、つまりスイス版 「ロミオとジュリエット」 だろう。 まとめて読んでみた限りでは、実際、これが一番まとも。 あとはあまり面白くない。 何より、作者ケラーの分かったようなことを言う態度と平板な人生観が、読んでいて鼻につく。 たいした人じゃなかったんだな、と思いました、はい。
・カフカ (丘沢静也訳)
『変身/掟の前で 他2編』(光文社古典新訳文庫) 評価★★★ 学生相手の教養の授業
(演習形式) で読んでみた。
カフカの代表的な短篇を4つ収めている。 私も 『変身』
を全編通しで読んだのは、高校生時代以来かも知れない。 『変身』
は平凡なサラリーマンが眠りから目覚めると虫に変わっているという冒頭部分が有名だが、あらためて読んでみるとむしろ家庭を描いた物語なのである。 最初に収録されている
『判決』
にしてもそうで、父へのアンビバレントな感情がつじつまの合わない物語となって結晶しているという印象だ。
丘沢氏の訳は昔の高橋義孝訳などよりはるかに口語的だし、また特に女の子――『変身』
の妹――の言葉遣いにおいて現代的だ。 女の子が
「それしか方法がないよ」
「きっとこの家だって占拠するつもりだよ」
なんて言葉遣いをすることは、少なくとも戦後間もない頃の邦訳ではあり得なかった。
なお、丘沢氏は訳者あとがきで、丘沢訳についで新しい池内紀訳に批判的に言及している
(ただし池内氏の名は挙げていないが)。 ドイツ文学者が同業者にこういう率直な物言いをすることは、わりに珍しいが――どうもドイツ文学者というのは変な人種で、同業者批判はやってはいけないと思い込んでいるらしい――邦訳の質を高めていくためには有用なことだと思う。 敢えてあとがきにこういうことを記した丘沢氏の姿勢を評価したい。
それから、その池内紀氏が邦訳に用いた原書は、カフカの
「批判版全集」
で、これは長らく使われてきたマックス・ブロート編集のカフカ全集に代わるものとして評価されているが、この光文社古典新訳文庫の丘沢氏は、「批判版全集」
のさらに後にあらたに出た 「史的批判版全集」
を底本に用いている。 そして、新潟大学にはマックス・ブロート編集のカフカ全集も、「批判版全集」
も揃っているが、「史的批判版全集」
は1冊もない。 なぜこんなことをわざわざ書くかというと、最近の大学改革がいかにダメかを示すためだ。 マックス・ブロート編集の全集と
「批判版全集」
は、まだ新潟大学に教養部があった時代にドイツで出され、そして新潟大学によって購入された。 しかし、「史的批判版全集」
は1995年になってから出始めたため、すでに教養部解体をへた後の新潟大学では購入する余裕がなくなっていた。 それどころか、その後、以前から購入を続けていた各種全集や辞書事典類すら少なからぬものを購入中止しなければならなくなっている。 新潟大学は大学ではなくなりつつある。 そして奇妙なことに、そういう現状を真っ向から批判する新潟大学教員は、ほとんど存在しない。 大学教員も大学教員ではなくなりつつあるということだろう。
・組坂繁之+高山文彦 『対論 部落問題』(平凡社新書) 評価★★☆ 長年部落解放同盟で重要な役割を果たしてきた組坂氏と、戦前から戦後にかけて部落解放運動を主導した松本治一郎に関する著作のある高山氏の対談集。 タイトルには 「対論」 とあるけれど、読んだ限りではお互いの立場が異なってぶつかり合うような箇所はなく、非常に協調的な話し合い、という印象である。 松本治一郎についてのよもやま話や、今なお残る結婚差別などについての言及を初めとして、それなりに説得力のある部分も多いが、他方で、いわゆる同和利権への反省は語られているものの、70年代に朝田委員長のもとで言葉狩りと行きすぎた糾弾行動が行われたり、八鹿事件のような暴力事件まで起こっていることへの反省が見られないのはどういうわけか。 また、最近の新自由主義のもとでの格差拡大や、天皇制などを、安易に部落差別と結びつけたりするのも単純すぎるように思える。 特に暴力的な糾弾行為については、同じ平凡社新書から出ている山下力 『被差別部落のわが半生』 も批判的な言及をしていただけに、本書は内容的に見て後退しているという印象を免れない。
・小島英俊 『文豪たちの大陸横断鉄道』(新潮新書) 評価★★★ 満州への 「東亜旅行」 をした漱石や志賀直哉、さらにできて間もないシベリア鉄道を経由してヨーロッパに旅した林芙美子、行きは航路、帰りは鉄道でヨーロッパに旅した横光利一などの書いた文章をとりあげながら、当時の旅行事情や、まだまだ海外旅行が珍しかった時代に作家がどのように外国を見ていたかを明らかにした本。 当時の鉄道についてのウンチクも傾けられている。 私としては特に林芙美子のヨーロッパ旅行記に興味を惹かれた。 岩波文庫に収められているようなので、買ってみようかな。
・樋口尚文 『「月光仮面」を創った男たち』(平凡社新書) 評価★★★ 昭和30年代にテレビドラマとして一世を風靡した 『月光仮面』。 本書はその制作の実態を解き明かすという意味ではタイトルどおりの本ではあるが、狭い意味での 「創った」 に限定してはいない。 すなわち、当時はまだ映画全盛の時代であり、テレビドラマは映画製作者や映画俳優からははるかに次元の低い存在と見られていた。 またテレビドラマはまだまだアメリカからの輸入ものが大手を振るっていた時代でもあった。 そうしたなかで、少ない予算や恵まれないスタッフをもとにして国産のテレビドラマである 『月光仮面』 がなぜどのようにして創られたのかを、主演の大瀬康一へのインタビューも含めて明らかにしようとしている。 なお、著者は昭和37年生まれで、つまり 『月光仮面』 をリアルタイムでは見ておらず、またその後の予算も潤沢でスタッフも充実したテレビドラマを見慣れているので、『月光仮面』 を実際に見て貧弱な印象を受けたということを隠さず書いている。
・西尾幹二『真贋の洞察』(文芸春秋) 評価★★★★ 西尾幹二氏が最近雑誌などに書いた文章を集めた本。 論考は多方面に及んでいるが、戦後の保守・革新という枠組が壊れて、保守思想や保守政治家のあり方自体も揺らいでいる最近の情勢をふまえた文章で埋められている。 最初の文章が「生き方としての保守」というタイトルなのも、そうした本書の方向性を明瞭に示すものだろう。 中国や旧共産主義を叩いていれば保守なのではなく、むしろそういうイデオロギー的な態度から距離を置き、日本の孤独を見つめる目を養うことが大切だと説いている。 ほか、上野千鶴子や板東真理子といったフェミ系統の女性思想家を批判した文章や、福田恆存氏との交際を回顧した文章、原発の設計・製作は実は日本とフランスにしかできないという事実を指摘した文章などが面白い。
・福地誠 『教育格差が日本を没落させる』(洋泉社新書y) 評価★★★ 最近の流行語である格差や教育問題に棹さしたようなタイトルでちょっと白けるが、現代日本の教育事情や格差の存在について、それなりに情報が得られる本である。 下流家庭の子の親 (30代) には読み書きができない者もいるとか――私は、日本人でまさかと思ったが、実際にいるらしい――、下流の子供は高校生はバイトをするために生きていると(親も含めて)思っているとか、そういうバイト主体の高校生は男女でくっつきやすいとか、いわゆる公園デビューにまで家庭格差による区分けができているとか、アメリカでは家庭教師までインド人にというようにアウトソーシング化されており、教育関係でも新自由主義による海外への産業移転?が進みそうだとか、考えさせられる事例が多く収録されている。
・片山杜秀 『音盤考現学』(ARTES) 評価★★★★ 雑誌 『レコード芸術』 連載の文章をまとめたもの。 音楽について論じた本だが、従来のクラシック音楽関係の本とは一味違っている。 著者の関心は、例えば日本のクラシック音楽作曲家に向く。 こういう方面は従来盲点になっていたわけで、私なども 「はあ、はあ、さようでございますか」 と教えられるところだらけであった。 また、それも単に従来あまり話題になってこなかった作曲家や曲目を取り上げるということだけでなく、色々な視点から意外な結びつきを指摘するところにも新味がある。 音楽だけでなく、映画や文学や思想にも結構ウンチクを傾けているのだ。 うーん、こういう人って、マスコミにとっては貴重だろうなあ。 ワタシも次の本に期待しています。
・柴田明夫 『飢餓国家ニッポン 食料自給率40%で生き残れるのか』(角川SSC新書) 評価★★★☆ 日本の食料自給率が40%しかなく先進国中でも最低であることは、最近新聞でも時々言及がなされている。 本書はこの問題を様々なデータや国際的な情勢から検討し、石油などをも含めた資源高騰時代に世界は入りつつあり、日本はいますぐ食料の増産や、輸入先の多角化に踏み切るべきだと提言した本である。 食料を食料だけで論じるのではなく、石油などの資源全般と関連づけて、さらに国際的なマネーや投資の動向などにも目を向けつつ展開される議論はなかなか説得的だと思う。 オイルショック時代(1973年)、物の値段が一気に上がった経験を私はしている。 私が大学に入学した1971年、大学生はアパート家賃を含めて月3万円で暮らしていけたが、卒業する1975年にはそれが2倍の6万円になっていた。 あの時代が再び来るのかも知れない。
・『現代思想 9月号 特集=大学の困難』(青土社) 評価★★★ 新潟市立図書館に行って、本当は別の本を読むつもりだったのだが、雑誌棚にあったこの雑誌を読み始めたら結構面白くて、特集のほぼ全部を読んでしまった。 ここでは特に注目すべき2つの記事を紹介しておく。 一つは岩崎稔+岡山茂+白石嘉治による鼎談 「大学の困難」 である。 いいところばかりでなく、サラリーマンをバカにしたりする発言があったりして、文系大学人の昔からの度し難さが表れている箇所もないではないが、COEがいかに役に立たないか・無駄であるかについて岩崎氏が説明した箇所など、それなりに読ませる部分が多い。 COEがついたと鬼の首でも取ったように騒いでいる輩には煎じて呑ませたい文章。 もう一つは理系研究者の竹内淳が書いた 「日本の研究教育力の未来のために」 という文章である。 最近は世界の大学ランク付けもしばしば話題になり、実際にいくつかの機関によってなされているが、ランクを造る側の価値観によって順位は結構上下する。 ここではトムソン・ロイターのデータベース"Essential Science Indicators"をもとに、1997-2007年の全理系分野での論文数によるランキングを採用している。 それによると、日本では東大が6位に入っているほか、京大・阪大・東北大・九大・名大・北大・東工大が100位以内に顔を見せている。 100位以内に日本の大学は8校入っているのだ。 そこまではいい。 ところが、その後、つまり101位から200位までに入っている日本の大学は、筑波大と広島大しかない。 200位以内に合計10校というわけだ。 これはアメリカが100位以内に45校、そのあと200位までに25校入っているのに比べると大きく見劣りするのはもちろんだが、英国が200位以内に16校、ドイツが15校入っているのに比べても劣っている。 特に英国やドイツは日本に比べて人口が半分か3分の2程度であることを考えれば、日本の大学政策が今のままでいいとは到底言えないのは明らか。 竹内氏は、旧7帝大+東工大に次ぐランクの大学にもっと投資をして101位から200位以内に入るランクの大学を多く育成すべきだと提言している。 つまり旧帝大・東工・筑波・広島に次ぐ国立大や、公立大・私大にもっと資金を投入すべき、ということだ。
・吉田秀和 『吉田秀和全集第15巻 カイエ・ド・クリティクU』(白水社) 評価★★★☆ 吉田秀和氏が1970年代末から80年代半ばにかけて書いた文章を集めたもの。 単行本 『響きと鏡』 に収録されているものも含まれており、私は 『響きと鏡』 はすでに読んでいるが、その部分をふくめてこの本全部を読んでみた。 なんで第15巻をそうしたかというと、別段深い理由はなく、最近この巻を入手したから、というだけの話である。 最初に収録されている 「自伝抄」 が結構面白い。 著者は他の文章でも断片的に自伝的なことを書いているが、これを読むと、結構色々な女人とつきあいがあって、へえ、こんなにモテた人だったのか、と感心してしまった。 失礼ながら吉田氏は美男とはいえない容貌であるが、やはり父が医者で比較的裕福な家庭に育った育ちの良さみたいなものが小さいときから身に付いていたからかなあ、なんて考えたりしました。 文学や美術などの他の芸術分野にも触れながらの吉田氏の音楽論が説得的であるのは、あいかわらず。 そのほか、80年代の前半はLPレコードがCDに切り替わる時期で、またLDなどの視覚ディスクが初めて一般向けに出てきた時代でもあり、その点について考察した文章も収められている。
・東京学生教育フォーラム『学生による教育再生会議』(平凡社新書) 評価★★★ 1年前に出た新書を東京の古本屋で300円にて購入。 東大・早大・慶大・明大・筑波大・首大の首都圏6大学の教育に関心をもつ学生が集まって、安倍総理(当時)の肝いりでできた教育再生会議の提唱した教育改革案を批判的に吟味し、自ら代案を提出した本である。 ゆとり教育問題、ダメ教師は本当に増えているのか、公立義務教育における学校選択制の是非、教育委員会のありかたなどが論じられている。 学生、つまり若い世代の議論なので、自分自身の体験をもとにした主張が繰り広げられるのかと思いきや、案外そうでもなく、一方ではデータに基づいた議論がそれなりにあるけど(ただしデータ量不足と思われるケースもあり)、他方では教育に関心のある学生らしく――というと偏見だと言われそうだけど――日教組の言っていることとあんまり変わりないんじゃないかと思えるところもないではない。 ただ、教育改革にあたっては現場の意見を尊重すべきだ、というのは賛成。 他方で、「総合学習」 の時間を活性化し実りあるものにするために、この時間で上げた成果を各校ごとに競い合わせて賞を出したらどうかという意見は、アイデアとしては面白いが、もともと学校外の人材に大きく頼ることを前提とした 「総合学習」 であるから、そうなると人材豊富な大都会にある学校の圧勝に終始し、「格差」 の再確認に終わってしまうのではないかと、私は思いますけど。 それに関連して私が気になるのは、最後のページにこの本を作った学生の所属大学・学年・学部は書かれているけど、出身地域 (首都圏なのかそれ以外なのか) が書かれていないこと。 これ、大きな手落ちじゃないですかね。
・彌勒忠史(みろく・ただし)『イタリア貴族養成講座――本物のセレブリティとは何か』(集英社新書) 評価★★☆ 著者はカウンターテナー歌手。 歌手として活動を続けながらルネッサンス期のイタリア貴族に関しても文献を漁っているようで、この本では当時の貴族の生活を、食事 (饗宴を含む) とそのマナー、ダンス、音楽といった面から説明している。 期待して読んだのだが、うーん、イマイチ面白くなかった。 変に細かいところにこだわる書き方で、逆にいうと全体が見えにくい。 たしかに神は細部に宿りたもうとは私も思うのだが、全体としてのルネッサンス貴族の肖像がうまく頭の中に浮かび上がってこないのも事実なのである。
・東浩紀+北田暁大(編) 『思想地図 vol.1』(NHKブックス) 評価★★★★ 以前なら柄谷行人と浅田彰の出していた 『批評空間』 が若い世代の知的羅針盤であった時代があった。 また 『現代思想』 や 『ユリイカ』 が今よりはるかに広範な層に読まれていた時代もあった。 『批評空間』 がすでになく、青土社の2雑誌が昔に比べて精彩を欠き執筆者の層も限定されてしまっている昨今、新しい雑誌を出していこうとする東浩紀と北田暁大の姿勢にまず敬意を表したい。 もっとも4月末に出たこの本 (雑誌?) の存在を私は見逃してきており、ようやく9月8日に東京に行った際に高田馬場の書店で平積みになっているのを見るに及んで知ったのである。 すみません。 で、私は9月10日にベルリン旅行に出発したのだが、旅行中に読了した。 内容的には、サブカル論あり、宗教論ありと多彩だが、やはりナショナリズムを議論の中心に据えているところが興味深い。 左翼色が強い日本の人文系学界は長らくこの問題に真正面からぶつかることを避けてきた。 私の見るところ、それこそが人文系の学界のダメなところであり、ひいては一般の人々から人文系の学問自体が信用されなくなる一因ともなっていた。 したがって若い論客がこの問題と取り組まざるをえないのは、古い世代が避けてきた領域に踏み込まなければ人文系の学問自体が危うくなるという危機意識の現れでもあろう。 その意味で、今後彼らがこのメディアを通してどんな活動をしていくかには興味をそそられるし、また古い世代が無視してきた保守系・右派系の論客をも登場させるくらいの雅量を期待したいものだ。 ただ、これだけの内容量の本をきちんと評価できる日本人って、少ないみたいね。 amazonのレビューを見てみたけれど、6人のカスタマー・レビューのうち、まともにこの本の価値を捉えることのできているのは皆無だった。
・大塚英志+東浩紀 『リアルのゆくえ』(講談社現代新書) 評価★★ 大塚と東の対談集。 といってもこの本のために対談した部分は最後のあたりだけで、2001年から始まって数回分にわたって行われてきた対談を収録している。 おおざっぱな見取り図を言うと、関心の対象をサブカルを中心とした現代文化現象に絞ろうとする東に対して、政治的な言論をすべきだと批判する大塚、という図式である。 で、大塚の言う政治的言論というのは、平和憲法を守れという類の、戦後日本にはびこった一国平和主義のくびきを全然逃れていないシロモノで、とてもじゃないが同意する気にはなれず、あきれながら読んでいた。 しかし最後に来て、将来に希望を持てない青年による秋葉原殺人事件が起こるに及んで、東も政治的な関心を持たざるを得ない、と言い始めて、ようやく両者の話は噛み合うかに見えるのだが、そうなると逆に東の限界みたいなものが露呈してくるし、一方大塚はと言えば、私の見るところ秋葉原の事件が起こったことに政治的な意味を見いだすなら、大塚が自称 「政治的な」 言論を続けてきたにもかかわらず起こってしまったことをどう釈明するかをまず述べるべきだと思うのだが、無論大塚にはそんな反省はみじんもないわけで、やっぱり大塚って頭が悪いんじゃないか、と思いました。
・上杉隆 『ジャーナリズムの崩壊』(幻冬舎新書) 評価★★★★ 話題の書物である。 NYタイムズに勤務した経験のある著者が、日本の新聞がジャーナリズムの本道を大きくはずれていることを様々な視点から指摘して批判している。 日本の記者クラブの閉鎖性や、他者は批判しながら自分への批判はまともに受け止められない体質などを具体的に説明しつつそのおかしさをえぐりだしている。 NHK番組改変騒動 (保守系政治家からの政治的な圧力がかかったとされた問題)についても、具体的に根拠を挙げながら朝日新聞報道はおかしいと批判している。 その他にもなるほどと思う部分が多い。 ただ、NYタイムズには批判もあるわけで (邦訳も出ている)、あちらをすべての基準にするのはどうかな、という疑問も湧かないではない。 まあ、それでも読む価値は十分ある本だと思う。
・遠藤雅子 『オーストラリア物語』(平凡社新書) 評価★★★☆ 8年前に出た新書を仙台の古本屋で半額購入。 ちょっとわけがあってオーストラリアに興味を持っていたら、たまたま見かけたので即購入。 著者はオーストラリア滞在歴の長いノンフィクションライター。 オーストラリアの歴史、そしてオーストラリアと日本の交流史の本である。 特に後者については著者が独自の調査に基づき、江戸時代にすでにオーストラリアの捕鯨船と日本人との間に多少の交流があった事実を明らかにしており、このあたりは貴重な資料だと思う。 オーストラリアの、新興国なりに複雑な歴史や、原住民アボリジニーの悲惨な扱いなどについても、要領よくまとめられている。
・三浦展 『下流大学が日本を滅ぼす! ――ひよわな”お客様”世代の増殖』(ベスト新書) 評価★★☆ 「下流社会」 で当てた三浦展が、それに乗じたかのようなタイトルの本を出した。 要するに少子化によって若年世代の人口は減っているのに大学は増えているので、選ばなければ誰でもどこかの大学には入れる時代にあって、下流の大学生はかなりおかしな様相を呈するようになっているということを、一方で大学教師からの聞き書きで、他方でいくつかのデータを挙げつつ、主張したもの。 昔だと 「頭は悪いけど元気」 というのが成績のぱっとしない人間の属性だった――と思われている――わけだが、昨今は逆で、頭も悪いし精神も傷つきやすく体力もない、という 「まるでダメ」 的な若者が大学生に目立っているという話なのだ。 まあ、体験的には私にも思い当たるふしはあるけれど、大学によっても学生の様子は異なるはずで、ところが教授の見解は大学をも含めて匿名でしか出てこないので、いったい一流大学のことなのか定員割れして倒産寸前の大学のことなのか分からず、したがって説得力があまり出てこない。 もっとも親の仕送りだとか収入額については独自のデータに基づいた例示があり、この辺はそれなりに面白いけれど、どうも全体としてオヤジのグチふうの印象が消えないのである。
・浦沢直樹 (手塚治虫原作) 『PLUTO 第3巻』(小学館) 評価★★★ 手塚治虫原作の 『鉄腕アトム』 のなかの1巻 「地上最大のロボット」 を浦沢直樹が自分なりにリメークしたマンガというので評判。 第1・2巻は単行本になった当時読んだのだが、その後ご無沙汰していた。 たまたまネット上の古本屋に格安で出ていたので、第4巻と合わせて注文したら、第4巻は店頭品で売れてしまっていて、第3巻だけ届いた。 ま、気長に待ちましょう。 さて、第3巻ではウランが文字どおり女の子の姿で出てきて変な直観能力をもっているとか、原作では最後に出てくるボラーがすでに (ごく短くではあるが) 登場するとか、ドイツにKKK団まがいの白頭巾をかぶった反ロボット団体があるとか (だけどその割りには頭巾をはずしているシーンが多い)、エプシロンは原作でも小さな孤児を育てているのだがここでは第X次中東紛争による孤児というふうに現代に合わせた形になっているとか、まあ色々ありますわな。
・安田敏朗 『金田一京助と日本語の近代』(平凡社新書) 評価★★ アイヌ語と国語学の研究で有名な金田一京助。 戦前から戦後にかけての金田一の言説を追い、彼の実像とそのイデオロギーとに迫ろうとした本。 ううむ、この安田という人の本は前にも読んで全然感心しなかったのだが、今回も、前回よりは多少マシかなとも思うが、やはり感心しない。 理由は変わらずで、この人、材料はよく集めているのだけれど、切り口がまずいのである。 というか、この人の批評は非常に浅く、ちょっとサヨクがかった中学生なら思いつく程度のことしか書けない。 本書でも、部分的には悪くないところもあるが――例えば息子の金田一春彦が父の像を歪めていることを指摘している箇所――全般的には浅い批評によって金田一京助を撃った気になっているだけで、読んでも腑に落ちた感じがしないのである。
・有栖川有栖+篠田真由美+二階堂黎人+法月綸太郎 『 「Y」 の悲劇』(講談社文庫) 評価★★☆ 8年前に出た文庫本。 BOOKOFFにて半額購入。 推理小説史上屈指の名作として名高いエラリー・クイーンの 『Yの悲劇』 を素材に、4人の日本人推理作家が競作するという文庫オリジナル・アンソロジー。 しかし出来栄えからいうとイマイチではないか。 有栖川と法月はダイイング・メッセージにYを登場させているが、いずれも扱いはやや苦しかったりひねりすぎていたりする。 篠田はワンアイデアでの作品だし、二階堂は相当に開き直っている分、トホホ感も出ているみたい。
・アクセル・ブラウンズ(浅井晶子訳) 『ノック人とツルの森』(河出書房新社) 評価★★★☆ ドイツの現代作家による小説である。 大人向けというより、今風の言い方をすればヤングアダルト向け、もしくはジュヴナイルかも知れない。 ハンブルクに住む少女の成長譚であるが、その母親がゴミを絶え間なく自宅に持ち込む病気、という設定である。 父はすでにない。 その少女がいかにして母にもたらされた思いこみから脱出していくかがこの本のミソなのであるが、変に深刻ぶらずに軽やかで独特の風味のある文体が魅力となっている。 詳しくはいずれまた。
・中井浩一 『大学 「法人化」 以後 競争激化と格差の拡大』(中公新書ラクレ) 評価★★★ 国立大学の法人化以降、どういうことが起こっているかを扱っている。 研究費不正使用の問題、産学協同の模様、教員養成系学部の問題、医学部の問題、地方国立大学の苦悩などが扱われている。 この問題は多様であり、1人の人間で扱うには限界があるわけで、まあこれも一つの見方かなとは思うけど、私の実感からするとまだまだ実態に迫れていない。 もっと普通の教員から意見や情報を集めた方がいいんじゃないか。 学長や官僚の声ばっかり集めても、本質的なことは分からないと思うな。
・フリードリヒ・ヘッベル(鼓常良訳)『マリーア・マグダレーナ』(岩波文庫) 評価★★☆ 19世紀ドイツを代表する劇作家ヘッベルの戯曲だが、未読だったので思うところがあって読んでみた。 昭和16年4月に出た岩波文庫は、印刷も薄れ、なおかつ文字が小さいので読みにくい。 訳は、うまいなと思うところと下手だなと思うところがある。 原題は"Maria Magdalene"で、新約聖書でイエス・キリストにしたがった女として登場するマリア・マグダレーナのことだが、ヘッベルは貧しい生まれで独学したものの教養に欠陥があって、Magdalenaとすべきところを語尾を間違えてMagdaleneとしてしまったらしい。 本訳ではそこを修正して 「マグダレーナ」 としてある。 ただし本作は市民悲劇であり、本物のマリア・マグダレーナやキリストが登場するわけではない。 19世紀ドイツを舞台に、ヒロインのクララが当時の市民道徳では罪の女とされる行為をしたことをタイトルで暗示しているだけである。 彼女は偽善的な婚約者と結婚前に肉体関係をもち妊娠してしまうが、その婚約者は彼女の父が持参金と目された財産を使い切ってしまったことを知って婚約解消を告げる、というお話。 筋書きはまあさほど目新しい感じもしないが、ヒロインの父のセリフには結構面白いところがある。 ヘッベルはやはり女よりは男を描くのに優れた作家だと思う。
・山本直治 『実は悲惨な公務員』(光文社新書) 評価★★★ タイトル通りの本である。 公務員バッシングの強い昨今だが、本当に公務員は仕事をしていないのか、なぜ予算を年度内に使い切らないといけないのか、なぜ公務員は自分の立案した政策が失敗しても責任をとらないのか・・・・・などなどの疑問点に答えた本。 まあ、読んで本当に納得するかどうかはまた別の話。 ただ、福祉関係の仕事をしている公務員がものすごく大変だという記述には私は納得。
・高田里恵子 『男の子のための軍隊学習のススメ』(ちくまプリマー新書) 評価★★★ 中公新書から 『学歴・階級・軍隊』 を出したばかりの著者が、今度は高校生くらいの年代を対象にしたちくまプリマー新書から本書を出した。 高田さんは、本書でも述べているが、軍隊や兵士の出てくる小説を読むのが好きらしい。 こういう人が、特に東大卒の女性学者 (著者のことです) にいたりすると、私などはすごく安心してしまう。 何しろ、「女性=差別された被害者=平和を愛する=反軍的=軍隊のことは知りたくもない」 という、ものすごく短絡的な図式が通用してしまっているのが、なぜか大学という知的なはずの世界であったりするからだ。 というわけで、年少者に昔の軍隊に関してレッスンしようとする魅力的なおばさまの本として推奨したいわけだが、ただ少し注文をつけるなら、今どきの若者は旧制の学制についても知識がないのだから、最初にその辺を図解でちゃんと教えておいた方がいいのじゃありませんか? 私などは、数年前に1年生 (もちろん新潟大学のです) 向けの演習で田山花袋の 『田舎教師』 を教材として使ったのだけれど、最初に、この小説が書かれた頃は小学校6年間だけが義務教育で中学はそうではなかったと言っておいたにも関わらず、左の耳から右の耳を通って頭の外に通り抜けた学生もいて、途中で 「先生、このころの中学って、義務教育じゃなかったんですか?」 と改めて質問する輩がいたからです。 また別の授業では、高等女学校が男子なら旧制中学相当の学校であることを知らず、旧制高校相当の学校だと思い込んでいる学生もいました。 陸軍士官学校や幼年学校に入る年齢と、旧制の中学や高校に進む年齢を図にして明示しておくべきでしょう。 文系学者は得てして図の効用を忘れがちです。 ご一考を。
・リッカルド・カショーリ+アントニオ・ガスパリ (草皆伸子訳) 『環境活動家のウソ八百』(洋泉社新書y) 評価★★★ 本書は、第4部がタイトルに相当する部分。 グリーンピースやWWFなどの欺瞞を斬っている。 しかし全体の中では頁数が少なく、物足りない。 あとは、地球環境にまつわる俗説を批判している。 木を切るのはイケマセンとか、地球温暖化は破滅への道などの俗説がいかにおかしいかを指摘している。 それと、著者ふたりはカトリックで、この本はカトリックから見た地球環境問題がいかなるものかを訴えた本であるのだ。 ところ変われば色々あるものだ、と思いますね。 私としては、第4部をまず読み、暇があったら他の部分も読んでおけばいいと思うな。
・佐藤卓己 『言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書) 評価★★★★☆ 4年前に出た新書だが、出たときはスルーした。 しかし先月末、高田里恵子さんの本を読んで、その中で言及されていて興味を抱き、買って読んでみたところ、これが素晴らしい本であった。 鈴木庫三とは、戦時中出版の統制にあたった軍人で、しばしば自由主義的な出版人を威嚇した悪役として登場する。 本書は、そうした鈴木庫三にまつわる伝説を吟味し、鈴木自身の残した日記などと比較検討しながら、彼にまとわりついた汚名をはらそうとした本である。 まず、鈴木の汚名は石川達三の 『風にそよぐ葦』 という小説に基づくところが大きいのだが、石川の戦時中の言動や、他の作品をも参照しつつ、石川のこの作品のなかで描かれた鈴木庫三は石川自身が時局迎合的だったことをごまかそうとしたための歪曲だったことを著者は証明する。 次に、鈴木庫三の生い立ちを著者は追う。 比較的裕福な農家に生まれながら、兄弟が多かったためか貧しい農家に養子に出され、そこで大事にはされたものの貧しさ故に、頭脳優秀ながら 「中学→旧制高校→帝大」 というコースをとることができず、陸軍に入り、そこから士官学校入学を目指し、それを果たしてからは陸大進学を希望したものの、陸士に入るまでに年数を要したために年齢制限にひっかかって果たさず、しかしそれにもめげずに日大夜間部で勉強し、さらには東京帝大への派遣学生となって勉強を続けていく鈴木庫三の姿は、まさしくかつての日本に見られた、貧しいながらも勤勉によって上昇を目指す人間の姿そのものである。 そして鈴木の抱いた思想とは、貧しくとも能力のある人間には高等教育を受けられるようにするという、どちらかというと当時としてはコミュニズムに近いものであった。 そうした彼の思想は、逆に、裕福な環境に育ち、親のお金で高等教育を受け、貧しい農民や工員の仕事などには一瞥もくれず、カネにあかせて贅沢な芸術をのうのうと楽しむ階層の人間を憎悪させた。 日本軍のなかの良質な思想家がむしろ共産主義に近かったという、或る意味皮肉な現象を、見事に解き明かした名著と言える。
・東浩紀 『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社現代新書) 評価★★★ これまた卒論指導の関係で読んでみた本。 パソコンゲームやいわゆるライトノベルの最近の傾向をもとに、従来の小説のリアリズムとは異なった新しい局面が文学に開けてきたのではないかというようなことを、大塚英志の説を批判的に取り入れながら主張している。 うーん・・・・。 最近のライトノベルやゲームの勉強にはなったけれど、文学論として見た場合どうだろうか。 大塚英志と違って東浩紀は慎重だから含みのある言い方をしているけれど、もともとメタ性というのは近代文学が成立した時点からつきまとっているわけで――『トリストラム・シャンディ』だとか――、また広義のSFを考えた場合にもやはりその種のメタ性は備わっていると考えられるわけで、はたして現代日本のパソコンゲームやライトノベルだけでまったく新しいものができあがったのだと言えるだろうか。 もう少し検証を重ねたほうがいいような気がする。
・魚喃(なななん)キリコ 『Blue』(マガジンハウス) 評価★★★ 97年に出たコミック本。 卒論で魚喃キリコ (新潟県出身のマンガ家) を取り上げたいという学生の副査をしなければならなくなったので、ネット上の古本屋から取り寄せて読んでみた。 新潟市を舞台に、卒業を控えた女子高生たちの日常と進路の悩みを描いている。 東京に出るか、地元に残って親の面倒を見る将来を考えて暮らすか、というあたりの選択が、都会とちょっと違った新潟的なところかなという気がするが、それを別にすると昔からまあありがちなマンガかな。 篠有紀子の 『フレッシュグリーンの季節』 なんてのは今からすると古いかも知れないけど、あの頃からあるお話だよね。
・高田里恵子 『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(中公新書) 評価★★★ 本来的に言えば、副題どおり、戦前の高学歴の日本人と軍隊との関わりを追求した本、なのだろうと思う。 いや、そうなのだ。 そしてそう読んでそれなりに面白い。 だけど、それにともなって付随する問題が色々と出てきて、それにも律儀に言及しているので――例えば、旧制高校内部の平等性、軍隊内部の平等性、旧制高校進学派と陸士進学派の裕福さの相違など――だんだんテーマが拡散して、何を言いたいかがつかみにくい本になってしまったような気がする。 高田ファン(?)の私としては残念である。 まあ、情報量は非常に多いので、読んで損はないことは請け合います。 でも高田さんとしては、もしかしたら、もう一冊の新書――ちくまプリマー新書――のほうで本領を発揮しているかも知れないな。 そちらもなるべく早く読んでみますけど。
・林真理子 『RURIKO』(角川書店) 評価★★★ 戦後昭和を代表する美人女優・浅丘ルリ子の生涯を小説の形で描いたもの。 あとがきによると、著者の取材をもとにしつつ実在人物をモデルにしたフィクション、だそうである。 ということはどこまで真実でどこまでフィクションなのか分からないという難点があるわけだが、まあ事実関係はおおむね真実なのだろうと思って読んだ。 ヒロインが幼い頃、父が一時期満州にいて、(悪)名高い甘粕大尉が父にお嬢さんをぜひ女優にと言ったくらい小さい頃から美貌が目立っていたことに始まって、映画界に入ってから当時爆発的な人気を誇った石原裕次郎に惹かれるが、彼は北原三枝と結婚してしまい、その後小林旭や映画監督と関係を持ち、やがて石坂浩二と結婚するが、ハイソな家庭に育ち、フランス料理だとかワインだとかヨーロッパ文化などについて饒舌に語る石坂とは住む世界が違っていてやがて別居する、といった筋書きである。 浅丘ルリ子だけでなく、石原裕次郎、北原三枝、小林旭、などとの群像劇として読める。 小林旭と一時夫婦になっていた美空ひばりも何度も登場し、戦後日本で映画が娯楽の王様だった時代、そしてひばりなどの歌謡歌手が庶民の女王だった時代がそれなりに浮かび上がってくる。
・堀内都喜子 『フィンランド 豊かさのメソッド』(集英社新書) 評価★★★★ 数年前、国際的な学力調査でフィンランドの生徒が世界一とされたことがあった。 その頃からこの国に対する日本人の関心も高まった感があるが、分かりやすくフィンランドの全体像を教えてくれる本書が出たので一読してみた。 IT産業が発達していること、教育においては少人数で落ちこぼれを出さないやり方が徹底していること、高校や大学への進学率は低い(別の言い方をすれば狭き門)だが、大学生になると国家からの金銭援助がかなりあるので安心して学業に励めること、などなどが説明されている。 無論、いいことだけではなく、医師数が少ないのでどうしてもという時でないと医者にかかれないことや、酔っぱらいが多いといったマイナス面にも触れられていて、バランスの取れた記述が説得的な本である。
・エドワード・W・サイード (今沢紀子訳) 『オリエンタリズム 下巻』(平凡社) 評価★★★ 大学院の授業で精読してなんとか読了。 サイードの本ってのは、『文化と帝国主義』 もそうだったが、記述が整理されていなくて、同じようなことが何度も出てくるので閉口するのだが、本書下巻の最初のあたりでも同じような印象だった。 ただし、その後、話が現代に至るとまた或る程度面白くなる。 文系学問のあり方に一石を投じるという意味でそれなりの本ではあるが、やはりここで言うオリエントとはイスラムのことであって、日本人にはあまりなじみのない世界であることが、本書をその知名度に比して実際にはあまり読まれない本にしている理由だろう。 東アジアを材料にだれかこのテーマで本を書かないかなあ。
・ロルフ・デーゲン (赤根洋子訳) 『オルガスムスのウソ』(文春文庫) 評価★★★ ドイツ人ジャーナリストが書いた本を邦訳した文庫オリジナル版。 邦訳が出たのは2年前、原本はさらにその2年前。 私はネット上の古書店から格安で入手。 男女のセックスにおけるオルガスムスのうち、特に分かりにくい方、つまり女性のオルガスムスについて現代の性科学でどの程度のことが分かっているかを分かりやすく説明している。 フロイトの膣オルガスムス説やいわゆるGスポット説を否定しつつも、フェミニストにありがちなクリトリス単独説になるわけでもなく、要するにテクニックだとか相手男性の魅力だとかよりも、女性の個人的な資質の差によるところが大きい、ということらしい。 その他、多方面から性の問題が扱われている。
・島田裕巳 『日本の10大新宗教』(幻冬舎新書) 評価★★★☆ タイトル通りの本である。 天理教、大本教、生長の家、立正佼成会、創価学会などを扱っている。 その成立、教義、活動、信仰者数などが要領よく説明されている。 オウム真理教などのカルトは取り上げていない。 新宗教とカルトの差も微妙であるが、その辺についてはあとがきで著者自身が説明している。 こうしてみると、日本人も結構宗教的だなと思うし、宗教によってしか生きることの意味を見いだせない人間とは何者なのか、あらためて考えないではいられなくなる。 宗教団体の内実を調べるのは難しいので、著者の労を多としたい。 なお宗教はカネ儲けとも切り離せないわけだが、個人的な話で申し訳ないけど、先日新潟駅のすぐ近くの通りをクルマで走っていて信号待ちで停車したら、脇に 「○○○○第6駐車場」 という、50台くらいとめられそうな空き地があった。 ○○○○は新興宗教の名らしいのだが、私は聞いたことがなく (本書でも取り上げられていない)、そんな程度の新興宗教でも駅近くにこれだけの土地を借りられるのか、しかもそれが 「第6」 駐車場だというのだから、よほどカネがあるのかなあ、などと思ったことでした。 新潟大学もいっそ宗教法人化すればカネが集まるかも・・・・ (冗談です)。
・斉藤環 『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』(NHKブックス) 評価★★ タイトル通りのテーマを精神分析家が論じた本。 私はテーマそのものには以前から興味があって、なぜ娘は母から自立できないのか、マザコンという言葉はむしろ女に当てはまる場合が多いのではないか、と考えていたので、書店の店頭で本書を見つけてすぐ買って読んでみたわけだが、どうも納得できない部分が多かった。 まず、著者は最初のあたりで、本質主義はとらないと明言している。 つまり男女の差異はすべて社会的な刷り込みから出てくるものであって、男女の生物学的な差異から出てくるものではないという立場をとっているわけだが、論じ方を見る限り、この原則が守られているとはとても思えない。 本書を読めば読むほど、男女の差異は生物学的なところから来ているとしか思えないのである。 また、個々の論点についても、ある時はこう言い、別の時はああ言いという具合で、あまり一貫性が感じられない。 女がこういう風に言っている、というのと、女とはそういうものだということとは違うと思うのだが、著者にはその辺の区別がついていないようだ。 (例えば、「生活が苦しい」 と多くの人が言うことと、実際に多くの人の生活が苦しいこととは、別であるということである。) 精神分析の本を私はあまり読まないけれど、この程度なんだろうか。 或いは著者のレベルがこの程度なんだろうか。
・潮木守一 『フンボルト理念の終焉? 現代大学の新次元』(東信堂) 評価★★★★ 世界的に見て、大学の大衆化と、その反面で予算が限られるようになっていることなど、現代の高等教育は大きな岐路を迎えている。 近代の大学理念の大本と見られるフンボルト。 そのフンボルトは実際にはどういうことを言っていたのか、本当に彼の理念が近代大学を築く基礎になったのかという問題から始まって、現代に至るまでの大学の歴史をたどり、これからの大学がどうあるべきかを追求したのが本書である。 これまで著者の潮木氏が何冊もの書物で論じてきたことを取り入れていて、いわば過去の仕事の集大成となっているが、同時に最近の研究による知見を取り入れて以前の主張を修正している部分もあり、全体としてまとまりのよい、そして現代的な問題意識にも富んだ、すぐれた本になっていると思う。 ただし最後近くで、マーガレット・ミードの学説を信じ切って論を進めている箇所があるのは、弘法も筆の誤りか。 ミードの学説は最近では疑問視する声が高まっているはず。
・松尾弌之 『共和党と民主党 二大政党制のダイナミズム』(講談社現代新書) 評価★★★ 演習で読んでみた本。 アメリカ論ということでやっている演習だが、学生から、アメリカの政党について説明した本を読みたいとリクエストがあったので、探してみたところ、この程度しか見つからなかった。 他には、かなり専門的で政治学者以外には興味が湧きそうにもない本が少しあっただけである。 それで13年前に出たこの新書を読むしかなかったわけだが、共和党と民主党についてまあひととおりのことは分かる本ではある。 ただし、ところどころ叙述に 「?」 がつくし――例えばケネディの対外政策とニューディール政策 (ニューディール政策はF・D・ルーズヴェルトからケネディまで続いているというのが著者の見解) との関連だとか、民主党と南部との関係など――、何しろレーガンまでしか登場しないのだから、いかにも古いという感じがする。 テーマ的には結構重要だと思うのだが、こういうタイトルでもう少し突っ込んだ、そしてブッシュまでを論じた本を、誰か書かないものだろうか?
・喜多尾道冬 『シューベルト』(朝日新聞社) 評価★★★★☆ 1997年に出た本。 いつだったかどこかの古本屋で定価1300円+税のところ520円で購入。 ずっとツンドクになっていたのを、思うところあって読んでみた。 シューベルトの評伝として、たいへん面白い。 時代背景、交友、当時のウィーンの音楽状況、音楽史的な流れ、ゲーテやミュラーといった文学者の音楽との関わり、などなど多方面からシューベルトの生活と音楽に迫っており、この作曲家の実像や音楽的価値が手に取るようによく分かる。 著者に敬意を表したい。 この本が現在は品切れになっているのは残念である。 復刊してほしいものだ。
・西尾幹二 『GHQ焚書図書開封』(徳間書店) 評価★★★★ 日本が第二次世界大戦に負けたあと、日本を占領していたアメリカは、日本の制度や憲法をいじるにとどまらず、戦時中に流通していた本を多数没収して、事実上の焚書を行った。 日本人に対する思想統制がもくろまれていたことは明らかであるが、この事実は長い間闇に葬られていた。 独文学者で評論家の西尾幹二氏がこのたび、こうした事実を明らかにするとともに、アメリカによって焚書対象とされた本の内容を紹介したことは、日本の戦後史および戦前から戦後にかけての思想史に光を当てるものとして注目される。 焚書は日本人が書いた本ばかりが対象ではない。 アメリカ人が真珠湾攻撃について報告・考察した本も、当時日本でいちはやく邦訳されていて、それも没収図書になっているのである。 西尾氏は日本人が書いた本だから注目するという見方はせず、外国人が書いた本でも冷静な筆致で当時の日米の社会や心理を浮かび上がらせる本を取り上げている。 なお、アメリカによるこうした焚書に東大の教員たちが協力したらしい事実も明らかにされており、日本の知識人が戦前から戦後にかけて何をやってきたかが改めて問いなおされることになろう。
・廣瀬陽子 『強権と不安の超大国・ロシア 旧ソ連諸国から見た 「光と影」』(光文社新書) 評価★★★★☆ 数カ月前に出た新書で、2年生向けの演習で読んでみた本。 ソ連は解体後、ロシアを初めとするいくつかの国になったわけだが、その実態は必ずしも日本人によく知られていないし、また外国にオープンな情報が公開されているわけでもないので、日本人に限らず外からはよく分からないのだ。 著者は東京外大准教授で、実地で研究に当たっており、また女性であるためしばしば危険な目に会いながらも果敢に現場のいりくんだ事情を分析している。 説明は分かりやすいし、国家というものがどういうものなのかも、島国に住んでいる日本人は海が自然な国境になるからあまり意識しないけれど、熾烈なせめぎ合いの実態を通して分かってくる本である。
・伊東乾 『バカと東大は使いよう』(朝日新書) 評価★☆ 東大准教授が書いた本だが、内容はイマイチである。 東大生が一定の枠内の問いを早く解くことにしかたけていないことを嘆き、日本の大学のあり方を批判し、西洋の大学の起源や歴史に言及し、これからのあるべき大学像・大学生像を探っている、ということに一応はなるが、内容に首尾一貫性がなく、ばらばらで不十分な知識を継ぎ合わせただけであり、しかもその知識に間違いが目立ったりする。 分野が違うとは言え、加藤徹(↓)と比較すると頭の出来がかなり違う感じで、東大は優秀な卒業生は他大学に送り、さほどでもない人を自学教員にする主義なのかなあ、博愛主義だからかなあ(笑)、なんて考えてしまいました。
・中嶋聡 『「心の傷」は言ったもん勝ち』(新潮新書) 評価★★☆ 著者は精神科医。 最近の日本で 「心の傷」 を言い立てる傾向が強まっていることを 「被害者帝国主義」 と名付け、個人としての責任感や、多少理不尽なことにも耐えていく強さを現代人は失いつつあるのではないか、と警告を発している。 心情的には分かるのだが、記述法があまり芳しくない。 中年オヤジのグチ、ふうになってしまっているので、説得力がもう一つ出てこないのである。 もっとデータや個別的な事件を材料にしていれば、有無を言わさない迫力が出た本になったかもしれないのにね。
・大橋健三郎 『わが文学放浪の記』(南雲堂) 評価★★★ 渋谷の古本屋で半額購入。 高名な英文学者がおのれの半生を綴った本で4年前に出版されている。 京都の商家に生まれ、東京外国語学校 (戦前なのでまだ外国語大学ではなかった) を出てさらに東北帝大英文科に学び、戦争のため繰り上げ卒業して、予備士官として鹿児島などに勤務し、戦争が終わると仙台工専、そして横浜市立経済専門学校に英語教師として勤務。 横浜経専はやがて横浜市大となるが、そこでアメリカに留学するあたりまでを本書は扱っている。 私は主として戦前の東北大文系学部の雰囲気などが知りたくて読んでみたのだが、著者の記述はかなりまどろっこしくて、一つのことを書いても時代的に先のことまで一緒に書いたり、逆に過去のことにふれたりと、あっちに行ったりこっちに行ったりするので、読みやすくない。 伊藤整 『若い詩人の肖像』 のすっきりした客観的な筆致を見習ってほしいものだ。 あと、145頁に仙台の地図があるが、そこに入っている市電の経路がデタラメである。 曖昧な記憶 (著者は出版時点で85歳) に頼るのではなく、ちゃんと調べて書いて下さいね。 ついでに、「奥津重彦」 は 「奥津彦重」 の間違いでしょう (258頁)。
・浅羽通明 『昭和三十年代主義 もう成長しない日本』(幻冬舎) 評価★★★ 最近の昭和三十年代ブームを丹念に読み解き検証し、その上で、ブームの幻想部分や今と明らかに価値観が違う部分――例えばあの頃は今に比べれれば蠅も多かったしトイレはくみ取り式だし、全体としてはるかに不潔だった――はそれとして、成長を追い求めてきた日本にあってはすでに消費をあおる政治は功を奏さなくなっていると喝破して、立身出世を願わず地域においてまったり生きる 「木更津キャッツアイ」 的な生き方がこれからは必要なのではないか、というようなことを書いた本。 まあ、以上のようにまとめてしまうとつまらなそうだが、現代やブームを読み解く著者の博覧ぶりはいつもながら見事なので、そういうところを愉しみながら読んでいけばいいのではなかろうか。 結論に賛成できるかどうかはともかくとして。
・藤沢周平 『蝉しぐれ』(文藝春秋) 評価★★☆ 藤沢周平原作の映画は何本か見ているが、小説のほうを読んだのは初めてである。 この作品も映画を先に見て、かなり良かったので、ネット上の古本屋から原作を入手して読んでみた。 400頁あまりの長篇小説。 主人公の少年が養父を藩内の陰謀で死罪とされ、日陰の暮らしを強いられるが、やがて成人後に元の禄高に戻るものの、彼自身も陰謀に巻き込まれていくさまを、同年の友人二人との交友、おさななじみの女性との数奇な関係、剣の修行などをまじえながら淡々と描いている。 読んでみて、やっぱり通俗小説の範疇かなと思う。 別に通俗で構わないのだけれど、通俗なりの楽しみが十分にあるかというと、もう一つのような気がする。 おさななじみの女性との関係に重きをおいた映画のほうが良くできているような気がした。
・加藤徹 『貝と羊の中国人』(新潮新書) 評価★★★★☆ 2年生向けの演習で読んでみた本。 中国文学者が中国人の本質や中国という国のあり方を分かりやすく説いている。 タイトルの 「貝と羊」 とは、中国人を形成した古代2大帝国のそれぞれの本質をなす文字で、この文字が漢字の中に使われているところが価値観にも結びついているという。 こうした専門家ならではの指摘を始め、色々教えられるところが多い。 著者は、『漢文の素養』 でもそうだったが、中国や漢文にとどまらない博識の主であり、しかもその知識を活かしながらシロウトにも分かりやすく物事を説明する能力にも秀でている。 頭のいい人ってのはこういう人のことを言うんだろうなあ、とひたすら感心してしまう私でした。
・橘木俊詔+森剛志 『日本のお金持ち研究』(日本経済新聞社) 評価★★★ 社会学者がタイトル通りの研究をした本。 3年前に出たハードカバーを少し前にBOOKOFFにて半額購入したけど、最近文庫本にもなったようだ。 日本の高額所得者というのはやはり企業家か医者である、ということのようである。 弁護士は個人差がかなりあって、意外に収入は少ないらしい。 税制度の国際的な比較や過去から現在にかけての変化も分かりやすく説かれていて、経済が不得手という人にもそれなりに楽しめる本である。
・エドワード・W・サイード (今沢紀子訳) 『オリエンタリズム 上巻』(平凡社) 評価★★★ 現代人文科学の世界ではすでに古典的な書物だが、4月から大学院の授業で取り上げて精読しているところ。 ようやく上巻を読了したが、サイードの本はどうにも読みにくい。 本書はそれでも 『文化と帝国主義』 よりはマシかなと思うけど、批判対象の分類が微妙に分かりにくいし、文学作品の評価にしても、例えばフローベールの文学的幻想がオリエンタリズムと比較的に無縁かというと、どうかなという気がしてくる。 ちなみに本書のオリエンタリズムとは、主としてオリエントを対象とした学問の謂いであり、オリエント幻想という意味はそれに付随して出てくるものとされている。 ただし、18〜19世紀のオリエント学につきまとっていた偏見に対する指摘は、それなりに重要である。 例えばルナンなどは、今でも日本では 『イエス伝』 を書いた立派な学者くらいにしか思っていない人が多いだろうが、実は相当な人種的偏見を持つ人物だったと分かる。 人文系学者の持つ偏見は、現代でもバカにならない害毒を振りまくものなのだから、ここら辺は押さえておく必要がある。
・斉藤美奈子 『文学的商品学』(文春文庫) 評価★★★ 文学作品を、ファッション、グルメ、ホテル、バンドなどなどの風俗がどの程度しっかり描かれているかで判断しようという本。 単行本は2004年に出、この2月に文庫化された。 ファッションとグルメは、私には趣味がないので、渡辺淳一の不倫小説は登場人物のファッション描写がお粗末、なんて指摘されても、渡辺の読者にはそんなことはどうでもいいんじゃないですかと言いたくなるが、オートバイとかバンドなどについての章は、なるほどと思うところが多かった。 最後の章は貧乏小説になっているから、現代格差社会に興味のある人には面白いかも。
・筑波君枝 『こんな募金箱に寄付してはいけない 「ボランティア」 にまつわるウソと真実』(青春新書) 評価★★☆ 街角で募金している人たちを見ると、募金してもどの程度実際に困った人に渡るのかなあ、事務経費だとかに消える分も結構多いんじゃないか、と考えるのは普通のことだろう。 本書はそうした疑問から始めて、ボランティアにまつわる様々な問題、環境保護にまつわる問題などを扱っている。 全体的にバランスはいいが、突っ込んだ議論にはなっておらず、浅い印象を残す。
・重松清 『なぎさの媚薬 第2巻』(小学館) 評価★★★ 重松清の連作ポルノグラフィーの第2巻。 ここには2作を収録。 いずれもシリーズの定石で、過去の女性関係に悔いを残す主人公が娼婦・なぎさの助力で過去に戻り、その女性との性的関係をまっとうし、同時に彼女の人生を救う、という内容。 本書に収録されている2作では、後半のほうが設定が古典的――酒造で有名な旧家の次男坊と跡取りである兄の嫁さん――であるだけにある意味安心して読めるけど、前半の作はバンド仲間の話で、現代的な分、定型にはまらない人間関係が描かれていて、こういうのは通俗文学としては書きにくいし効果が上がりにくい代わりに、ある種の純文学性を持つような気がする。 村上龍的な。
・城繁幸 『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』(光文社新書) 評価★★★ 2年近く前に出てベストセラーになった新書を、BOOKOFFで半額購入して読んでみました。 中途半端な成果主義の導入、そして根底的な年功序列は変わっていないという日本企業の内実が若者から希望を奪っている、という趣旨。 なるほどとも思うけど、ここで推奨されているヴェンチャー企業的な生き方は誰にでもできるものではないんじゃないか、という感想も同時に浮かんできました。 誰もが有名人になれるわけではないように、だれもが模範的なヴェンチャー・ビジネスで生きていけるわけではないだろうと。
・小倉孝誠 『パリとセーヌ川 橋と水辺の物語』(中公新書) 評価★★★ フランスの首都パリといえばセーヌ川という言葉がすぐに連想される。 本書はそのセーヌ川と、そこにかかる橋について、文化史的な観点から語った本である。 河川というものについての意識が日本人とヨーロッパ人とでは違うというあたりから始まって、内陸都市パリは実は港町であるとか、運河によって地中海とドーヴァー海峡はつながっているなどの、なるほどと思える指摘が次々となされる。 そしてオスマンのパリ改造とセーヌ川の関係や、文学や絵画とセーヌ川の関わりなど、興味深い話が続いていく。 労作である。 ただ、読了してものすごく充実感があるとか、すごい名著に出会ったという感銘がないのは、最近流行の文化史というものの限界からだろうか。
・岩戸佐智夫 『著作権という魔物』(アスキー新書) 評価★★★ 録画技術の進展、ネットの浸透などで、いわゆる著作権の問題がクローズアップされている。 昔、書物や放送だけで物事を考えていた時代の基準が現代の情報システムに合わなくなってきたのだ。 といって、著作権という概念をまったく無視するわけにもいかないし、或る面では著作権の縛りは昔よりきつくなってきているとも言えるのである。 そうした問題を、外国の例をも参照しつつ、様々な現場の人間にインタビューしてまとめられたのが本書である。 私は最新情報技術にはうとい人間なのでよく分からない記述もあったけれど、著作権概念を見直すことは今後の日本の産業や社会体制を考える上で欠かせない作業だということは理解できました。
・ミュリエル・ジョリヴェ(鳥取絹子訳) 『移民と現代フランス――フランスは 「住めば都」 か』 評価★★★★ フランスの移民問題についての本。 5年前に出ている。 下 (↓) の本だけでは移民問題が十分に分からないので併読してみた。 ややまとまりに欠ける感じもあるが、移民問題について当人たちの声をも含めて総括的に紹介している点で、貴重な本と言えるだろう。 面白いのは、例えば多文化主義との絡みで、一夫多妻制はフランスでは禁止だが、移民にそれを厳格に適用したため、第二夫人以下は法律の保護を受けられず一種の移民二重差別が生じているという指摘。 ここで、純粋なフランス人だって最近は愛人を持つ人が増えている、それは人が長生きになって昔なら子育て終了と同時にあの世行きだったのに近年は子供が巣立ってからも夫婦生活が続くので倦怠状態になりやすいからだ、という意見が紹介されている。 それから、移民を擁護している左翼はむしろタテマエ主義的で信用がおけず、同化を強調する右翼の方が理にかなっているという意見 (移民のです) も出ていて、移民問題に対する多様な受け取り方を知ることができる。
・陣野俊史 『フランス暴動 移民法とラップ・フランセ』(河出書房新社) 評価★★★ 一昨年に出た本。 2年生向けの演習で取り上げてみた。 フランスへ流入してくる移民たち。 彼らの置かれた差別的な立場が暴動を生んだ。 本書は、そうした状況のなかで移民たちがラップ音楽でいかに自分たちの立場を表現しているかを、そうした社会問題に限定されないラップ・フランセの現況をも含めて報告したものである。 音楽と社会の関係を考える上で興味深い本だが、社会問題としての移民について知るためには上(↑)の本を併読したほうがよい。 著者の政治的なものの見方については、やや物足りない感じもある。
・北村稔 『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP新書) 評価★★★★☆ 3年弱前に出た新書をBOOKOFFにて半額購入。 マルクス主義の要を得た説明があり、そして中国にマルクス主義が入ってくる過程、日本との戦争の中で国共合作が行われ、やがて共産党が国民党を追い出していく有様がたどられている。 そのあと、毛沢東が中国にもたらした悲惨な結果もあますところなく記されている。 著者は国共合作について専門書を出している人であり、この部分については従来の歴史書などがあまり重視していなかった要素などにも触れているのが貴重。 また中国の公式的見解に縛られがちな日本の歴史家をも批判しつつ、説得力ある記述を展開しているのがよい。 中国知識人の悲惨さにも言及しているし、最近の政経分離であれば蒋介石の国民党で十分可能だったと最後で結論付けている。 戦時中から最近にいたるまでの中国史を新書一冊で理解できる良書である。
・池部敦 『さらば「受験の国」――高校生ニュージーランド留学記』(朝日新書) 評価★★★ 副題にあるとおり、日本の高校生がニュージーランドに留学した体験を、「青年の主張」 をまじえながら書いた本である。 アメリカやイギリスならともかく、ニュージーランドに留学してその体験を綴った本というのは珍しいと思い、購入してみた。 もっとも、著者はどちらかというと自らの 「青年の主張」 に重きをおいているので、NZの高校全般についての客観的な知識を得ることは難しい (ただし巻末に留学案内がある)。 ただ、やる気満々の日本青年がかの地でどういう活動をしたかは、読んでいてそれなりに面白いし、こういうふうに積極的に海外に飛び出していく若い日本人が増えて欲しいとは思った。 NZとオーストラリアの共同のもよおしなども興味をそそる。 著者の主張内容にはいささか疑問もないではないが、現在はアメリカ東部の大学に学んでいるという彼の成長を祈りたい。 ただ、この人、フェミニストでエコロジストであるというのはともかく、ベジタリアンでもあるそうなので、政治家志望だそうだけど、もう少し普通の人間の感性を身につけることも大事じゃないの、と老婆心ながら言いたくなる。 なお、タイトルには 「さらば、受験の国」 とあるが、これは多分編集部が付けたもので、著者自身あとがきで断っているように、NZにも受験はある。
・潮木守一 『いくさの響きを聞きながら――横須賀そしてベルリン』(東信堂) 評価★★★★ 教育学者として数々の名著をものしている元・名大教授が、自伝的な要素の濃い本を出した。 この人の書くものは例外なく面白いと確信している私としては読まざるを得ない。 そしてそういう期待に違わぬ本だった。 前半は小学生時代、つまり戦時中、著者が父の故郷である伊豆半島に疎開した経験をもとに、父と母の生まれと育ち、そして郷土との関係を改めて調べた上で綴っている。 伊豆半島は土地に恵まれず住人は半農半漁の貧しい暮らしを強いられた。 そこに生まれ育った著者の父は海軍に最下級の兵隊として入るが、もともと頭のいい青年だったようで、海軍エリート養成所である海軍兵学校卒以外にはきわめて限られた者にしか開かれていない海軍士官への道を歩んだという。 それに付随して、作家の芹沢光治良が、やはり伊豆の出身で、貧しい家に育ちながら、篤志家を自ら見つけて学資を出してもらい旧制・沼津中学に3番の成績で合格するという話が出てくる。 しかしその後東大経済学部を出ていったんエリートコースに乗った芹沢は、思うところあって作家への道を目指す。 そしてかつて貧しい家柄なのに中学進学を目指した自分を揶揄した故郷には、長らく帰らなかったという。 田舎の風土と立身出世の屈折した関係を考えさせられる前半部分。 そして後半は1968年に著者がベルリンに留学した体験を基盤に、戦後まもなくベルリンの壁ができる経緯、そして89年にベルリンの壁が崩壊する経緯を書いている。 壁ができた当時ベルリン市長だったブラント――のちに西ドイツ首相――とアメリカのケネディ大統領のやりとりが興味深い。
・池内了 『疑似科学入門』(岩波新書) 評価★☆ 池内了と言えば有名な科学者だし、その科学者が書いた本だからさぞ面白いだろうと思って買ったのが間違いの元。 はっきり言って、カネの無駄だから 「買ってはいけない」 本である。 一応疑似科学を何種類かに分類してそれぞれ論じてはいるのだが、きわめて大ざっぱで、要するに常識的なことを言っているだけであり、とても著名科学者が書いた本とは思えない。 この世代 (昭和19年生まれ) にありがちな政治的な偏見も時々顔をのぞかせるし、まあ、有名な科学者ってこの程度なのだ、と見切るためにはいい本かもしれないな。
・岩淵達治 『ブレヒト』(清水書院) 評価★★★ タイトル通りの本。 1980年に出ているが、私は今回必要があって読んでみた。 20世紀のドイツ劇作家の代表的な一人であるブレヒトについて一通りの知識が身に付く書物である。 ただ、ブレヒトの演劇作家としての活動についてはまあいいのだが、彼の政治的な意見がその時々の政治情勢に照らし合わせて現在から見てどうか、といった観点からするとやや物足りない。 まだソ連が崩壊していない時代に書かれたこともあろうし、昭和2年生まれの著者は、決して教条的な人ではないけれど、やはり時代的な限界が感じられるし、ブレヒト擁護に傾きすぎていると思われるところがある。 ブレヒトが単なる社会主義政府の御用作家にはならなかったのは確かだろうが、しかしその時々の政治的見解は今から見れば批判の余地がかなりあるし、ハンガリー動乱が起きる直前に世を去ったという幸運 (?) もある。 そうした限界を見据えていく視点が必要になっているはずだ。
・岩崎昶 『ヒトラーと映画』(朝日新聞社) 評価★★★ 第三帝国時代のドイツ映画について書かれた本。 1975年に出ているが、私は今回必要があって読んでみた。 きちんと経年的に書かれてはいないし、現在からすると視点が古くなっているところも散見されるが、ナチズムと映画の関わりについてひととおり知識が得られる本ではある。 ただし、下↓の瀬川裕司の本が出た現在では、この本のように直接ナチズムに関わりのある映画だけでナチス時代のドイツ映画を割り切ることはできなくなっている。 その点に注意すれば、今でも一読に値する本だと思う。
・瀬川裕司 『ナチ娯楽映画の世界』(平凡社) 評価★★★★☆ 2000年に出た本。 当時すぐに買ったはよかったが、ずっとツンドクになっていた。 今回、必要があって読んだところ、たいへん優れた書物と分かって、もっとはやく読むべきだったと後悔。 ナチが政権の座にあったドイツでは、文化面でもさまざまな統制が敷かれていたことは一般によく知られている。 また、一部の映画作家や俳優が国外に亡命したのも事実だ。 しかし、ではナチ時代のドイツはナチのプロパガンダ映画ばっかりやっていたのか、というと、そうではなく、実は娯楽映画の黄金時代と呼べるほど、ニュートラルな娯楽映画がたくさん作られ、観客を多数呼び、しかも戦後になってもそれらの映画はしばしば上映されていたのである。 本書はまずそういう事実を淡々と記し、そうした映画の内容、俳優や監督について詳しく紹介している。 ナチ時代だから映画も真っ暗、なんてのが大ウソだと分かるし、また逆に、戦後のドイツでは非ナチ化政策のため、知識人はナチ批判というフィルターを通してでなければ文化を論じることもできなかったという事情も見えてくる。 著者は、ドイツ人がそうであるのはやむを得ないが、外国人までそうしたタテマエに縛られる必要はないのではないか、と明快に言い切っている。 著者は1957年生まれ、東大独文卒のドイツ文学者・ドイツ映画研究家だが、1903年生まれの岩崎昶 (この人も東大独文の出身なので、瀬川氏の先輩である) とははっきり世代の違いを感じさせる。 映画やナチ時代に興味のある人には必読書である。
・島田裕巳(編)『異文化とコミュニケーション オタク国家・日本の危機』(日本評論社) 評価★★ 1991年末に出た本。 少し前、首都圏のBOOKOFFで見つけて、今年度の2年生向け演習に使ってみた。 内容は、アメリカ・中国と比較した日本人のコミュニケーションの特質や会社のあり方の特質、そして日本人の対外的なコミュニケーション能力を向上させるにはどうすればいいのか、といった類のことである。 編者以外に、苅谷剛彦、園田茂人、山田真茂留、馬淵昌也が書いている。 苅谷氏はこのあと専門の教育問題に関する発言や出版で有名になって行くが、ここではアメリカ留学から帰って東大の専任講師になったばかりのころで、アメリカ人とのコミュニケーションについて発言しているのだけれど、一応説得的ではあるのだが、苅谷氏のような知的エリートがあちらの同類と付き合うやり方が、どんな日本人にもあてはまるわけではなかろう、という印象を持った。 まあそれは大したことではないが、大問題は編者の島田氏が書いた第五章である。 つまり日本は副題にあるようなオタク国家である、という主張を古代から現代にいたるまでの日本史をたどりながら展開しているのだが、私の見るところ、きわめて恣意的で、岸田秀の俗流心理学にのっとった怪しげな議論であり、また日本人が戦時中中国で行った残虐な行為をオタク的と決めつけながら、英国の植民地主義や米国のインディアン虐殺や黒人差別は棚にあげて両国を 「大人の国」 と称揚するなど、ちょっとこれはヒドすぎる、と言いたくなる内容なのである。 この章は★1つ。 周知のように、島田氏はこのあと、オウム真理教の害毒を見抜けなかった責任をとって日本女子大を辞任することになるわけだが――この点は居直った中沢新一よりマシだけど――、ここでの島田氏の主張を読むとむべなるかな、という気がしてくる。 ダメな人は最初からダメなのである。
・後藤和智 『「若者論」を疑え!』(宝島社新書) 評価★★★ 著者は若者論を検証するサイトを主宰する大学院生。 少年犯罪が近年増加している、なんて言説が大ウソであることは、ようやく一般に知られてきたが、この種の思いこみによる若者論を撃ったのが本書。 香山リカを初め、医師や教育評論家などがいかに基本的な事実を調べずにいい加減な発言をくりかえしているかがよく分かる。 ただ、最初に著者と本田由紀 (東大准教授) との対談が載っているのだが、この本田って人、どうもものの見方が窮屈というか、いかにも東大の左派系学者が後継者に選びそうな感じの人なのである。 著者には、こういうお姉さんの言説に惑わされず、あくまで独自に議論を展開してくれることを望みます。
・岩崎昶 『チャーリー・チャップリン』(講談社現代新書) 評価★★★ 1973年に出た新書。 タイトルどおりの本で、チャップリンについて一通り分かるようになっている。 ただし、著者は1903年生まれで、視点が今から見るといくぶん古くなっているところもある。 その辺をふまえて新しい本が書かれてもいいような気がするのだが・・・・・。 映画に関する新書って、あるようで意外にないのである。 場当たり的な評論じゃなく、ちゃんと学問的な成果を基礎とした書き手、不足しているのじゃないか?
・大山眞人 『団地が死んでいく』(平凡社新書) 評価★★★ 戦後、都会の周辺に次々と作られた団地。 しかし団塊の世代が老齢期を迎え、少子化が進むなか、特定団地では住人が老齢化したり、いなくなったりして、問題が起こっている。 また、いわゆる孤独死も頻発するようになっている。 本書はそういう問題を見据えて、老齢化社会にあっていかに団地を健全に保つか、孤独死をいかに防ぐか、また老朽化した団地を建て替える政策は正しいのかどうかを論じている。 著者自身、1944年生まれで、この問題に他人事ではない年齢であり、自分のこととして取材しながら検討を進める姿勢がなかなかリアルだ。
・鹿島茂 『SとM』(幻冬舎新書) 評価★★★ サディズムとマゾヒズムについて書いた本。 一般に思われているのとは違って、マゾヒズムというのは要求が多く、それに合わせて存在するのがサディズムなので、サディズムのほうがはるかに希少価値があり難しいのだそうである。 うーん、そうなのだろうか。 そうするとマゾヒズムはわがままなご主人様、サディズムはその召使い、ってことなんですかね。
・チャールズ・チャップリン (中野好夫訳)『チャップリン自伝』(新潮社) 評価★★★★ かの有名なチャップリンの自伝であるが、1966年に邦訳が出ている。 2段組600ページ近い分厚い本。 必要があって読んだのだけれど、実に面白かった。 英国に生まれ、両親が別れて、その後母親が発狂して貧しい暮らしを強いられ、やがて劇団に入って活動、その劇団とともにアメリカに渡り、二度目の渡米で映画会社と契約して、後世の喜劇王チャップリンの人生が始まる。 有名人との逸話あり、映画を作る際の思惑や工夫あり、女とのいざこざあり、戦争の影あり、米国社会の思想統制との闘いあり――実に多様な事件や観察が盛り込まれていて、飽かずに読み進めることができる。 映画やチャップリンに興味のある人には必読書であろう。
・ジョン・C・リリー (菅靖彦訳)『サイエンティスト 脳科学者の冒険』(平河出版社) 評価★★ 同じくリリーが書いた自伝を必要があって読んでみた。 原著は1978年に出ている。 下の本とは違って、すでにマッドサイエンティストの面目(?)躍如たるものがあり、空想科学小説か何かを読んでいるような趣きがある。 なお、リリーには90年に出した自伝もあって、こちらも邦訳されており (ちくま学芸文庫刊)、この欄でも以前紹介した。
・ジョン・C・リリー (川口正吉訳)『人間とイルカ』(学習研究社) 評価★★★ イルカ高知能説で知られたアメリカの学者リリーが1961年に出した本。 必要があって読んでみたのだが、後年マッドサイエンティストとして名を売った彼だけれど、この本はまだ正気を保っていた時代の著書で、内容はまともである。 イルカ研究に手をつけて或る程度進捗するところまでを、シロウトにもよく分かるような筆致で綴っている。 最初の当たりは、イルカの扱い方も分かっていなくて、次々とイルカを死なせたりしているが、まあ時代の限界だから仕方がないでしょう。
・吉田秀和 『永遠の故郷 夜』(集英社) 評価★★★☆ 音楽評論家・吉田秀和氏の最新刊。 氏もすでに94歳になられるが、筆の勢いが衰えていないのは、驚嘆すべきことであろう。 本書は歌曲に焦点を合わせて、氏の人生のよしなしごとから話を始めてふっと歌の話に移るという見事な芸を披露している。 また、直接的にそう書いているわけではないが、この年になって歌について語りたくなったというところに、何か必然性のようなものがあるような気が、読んでいるとしてくるのも、芸の内だろうか。 なお、18頁のドイツ語に関する記述には疑問が残る。
・北野圭介 『ハリウッド100年史講義 夢の工場から夢の王国へ』(平凡社新書) 評価★★★★ 以前は新潟大学で、現在は立命館で教鞭を執っておられる映画研究者・北野先生の本。 2001年に出版されたときにいただいたのだが、ずっとツンドクになっており、このたび必要があって読んでみた。 ハリウッドの歴史を1冊の新書で綴るという、ある意味大胆な試みだが、たいへん分かりやすく、映画の技法、有名な監督や俳優、映画製作のシステムなど多様な側面に触れながら話が進められ、一読、アメリカ映画の概要が頭に入るすぐれた書物である。
・橋本勝 (文・イラスト)『チャップリン』(現代書館) 評価★★★ 約20年前に出た本。 俳優・映画監督として名高いチャールズ・チャップリンについて、イラスト入りで書かれた本。 「For Beginners」 というシリーズの一冊。 チャップリンの生涯、作風の変化、時代との関わり、その本質などなどが結構詳しく説明されていて、これからチャップリンを見ようという人にはもちろん、或る程度彼の映画を見ている人にも参考になるところが多い。
・鈴木透 『性と暴力のアメリカ 理念先行国家の矛盾と苦悶』(中公新書) 評価★★★ アメリカ合衆国の 「性と暴力」 を歴史的にたどり分析した本である。 性については、フェミニズムの文献に影響されているせいか、わりに単純だったり、俗流精神分析的な安易さがあったりしてイマイチだが、暴力に関する部分はわりによくまとめられていて、それなりに説得力がある。 「小さな政府」 とリンチの伝統などは、現在のアメリカにも通用しそう。 軍隊と大学との関係に触れた箇所も興味深いが、記述が簡単すぎるのが残念。
・伊東信宏(編)『ピアノはいつピアノになったか?』(大阪大学出版会) 評価★★★★ ピアノという楽器の成立から現代に至るまでの変遷や、その時代ごとの作曲家との関わりなどを、14人の論者が論じたもの。 私は論者の一人である松本彰先生から1年前にいただいて、ずっとツンドクになっていて、ようやく読んでみたわけだが、たいへん充実した本である。 ピアノが現代の形や音に落ち着くまでには紆余曲折があったわけで、例えばベートーヴェンにしても必ずしも現代のピアノを予見して、それに合うような曲を作ったわけではなく、歴史の中で消えてしまった側面を念頭において作曲したところもあったという渡辺裕の指摘に端的に現れているように、今に残った部分を歴史的必然性と見る結果論的な見方から脱却することが、学問的な視点を確保する上では欠かせないと痛感させられた。 その意味で、ピアノに関する知識が増えるだけでなく、物事の認識のしかたそのものを考えさせられる本である。 CDが付録として付いていて、作曲家自身が愛好したプレイエルのピアノで演奏されたショパンの曲などが聴ける。
・門倉貴史 『 「夜のオンナ」 はいくら稼ぐか?』(角川oneテーマ21) 評価★★★ 約1年半まえに出た新書をBOOKOFFにて半額購入。 風俗産業に勤める女たちの収入だとか、またそうした産業にどういう種類があるか、日本に来ている外国人の風俗嬢とその稼ぐオカネの行き先、はたまた外国の風俗産業事情などなど、多方面から風俗産業にアプローチした本である。 いくら政府が規制しても、性的な欲望を人間が抱くかぎりは、なんらかの形で存続するのが風俗産業なのであり、オランダが売春を合法化したのも、法で規制するとかえって裏産業化して犯罪の温床になるから、というあたりが人間のサガを感じさせて、納得してしまう私でした。
・法月綸太郎 『法月綸太郎の冒険』(講談社文庫) 評価★★★ 単行本は92年に、文庫版は95年に出ている。 その文庫版をBOOKOFFにて105円で購入。 著者と同名の探偵を主人公とするミステリー短篇集だが、エラリー・クイーンの影響が非常にはっきり見て取れるし、著者自身それを隠していない。 そもそもこの短篇集のタイトルからしてそうだし、最初に収録された 『死刑囚パズル』 では、死刑執行直前の死刑囚が殺されるという思いっきった設定が用意されているが、殺人にはニコチンが毒として用いられ (『Xの悲劇』 と同じ)、最後では死刑執行の部屋で関係者全員を前にして探偵が謎解きと犯人指摘を行う (『Zの悲劇』) し、二番目に収録された 『黒衣の家』 は、『Yの悲劇』 もどきの家族で殺人が起こり、しかも・・・・・・というような案配なのだ。 後半に収録されている短篇数編ではおちゃめな女助手が出てくるところも同じ。 このくらい徹底しているといっそさわやかですよね。 でも、著者は古今東西の文学に詳しいようだが、『八百屋お七』 を知らなかった、というのは意外。
・荒岱介(あら・たいすけ)『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎新書) 評価★★☆ 1945年生まれで新左翼の活動家だった著者による、新左翼の紹介本。 いまの若い人には新左翼も旧左翼も分からなくなっているかも知れないが、共産党の戦後の武闘路線が六全協によって方向転換し、そこから学生運動が共産党離れを起こす辺りから話を初めて、やがて内ゲバによって自滅していくまでをたどっている。 反省も随所に見られるが、私に言わせればそれでもかなり新左翼に大甘だし、事実認定に左翼特有の片寄りもある――樺美智子の死因については学生側主張の警察暴行説しか書かれていないなど――のであまり信用できないところもあるが、運動の内側にいた人間の限界と同時にそういう人間ならではの視点もあって、まあまあ面白く読める本だろう。
・前田高行 『アラブの大富豪』(新潮新書) 評価★★★☆ タイトルから判断すると、アラブの石油成金=大富豪のカネにあかせた生活を面白おかしく描いた本かと思いたくなるが、そしてそういうところもないではないが、むしろ日本人には馴染みの薄いアラブ諸国の慣行や宗教、ものの考え方などを紹介した本である。 著者はアラビア石油社員として長らくあちらで生活し、アラブ人の暮らしぶりを観察してきた人。 アラブと言っても国ごとに国情は違うし、ヨルダンのように経済力がないのを政治力でカヴァーしている国もあったりして、アラブ諸国入門書として悪くない出来だと思う。
・許光俊 『クラシック批評という運命』(青弓社) 評価★★★ クラシック音楽評論書を何冊も出している著者の、初期の評論を集めた本。 単なるクラシック音楽論にとどまらない幅の広さ――例えば文芸批評との関わりだとか、クラシック音楽を日本人が聴く必然性があるのかという議論とか――が随所に見られ、やや才気走った感じはあるけれど、それもまあ若さ故の特権と思えば鼻につくほどではなく、面白く読める本である。 それにしても、18歳にしてミュンヘンでオペラ三昧の時を過ごしたりして、ずいぶん恵まれた人なのだなあ、と嫉妬混じりに感心もしてしまいました。
・法月綸太郎 『一の悲劇』(祥伝社文庫) 評価★★★ 私は時々ミステリーを読みたくなる発作に襲われるのだが、今回はこの本で対処した。 原本は91年。 著者と同名の探偵が活躍する――つまりエラリー・クイーン方式で、探偵の父親が警視であるところまで同じ――シリーズのうちの一冊。 子供の誘拐事件が起こり、身代金受け渡しに失敗した挙げ句に殺されるのだが、実は相手を間違えての誘拐であり・・・・・というところから始まる物語。 全体の構図はかなり分かりやすく、犯人の目星もつきそうな感じがかなりつきまとうミステリーだけど、さすが私に見破られる程度では終わらず、そのさらに先にもう一枚あるのは悪くない。 ここ、ちょっとD・カーのバンコラン・シリーズの某作品を思わせるかな。
・伊藤千尋 『反米大陸――中南米がアメリカにつきつけるNO!』(集英社新書) 評価★★★★ 中南米の政治にいかに米国が口出しをし、しかもそれだけでなくCIAを使って裏工作をしたり、海兵隊を用いて軍事的な侵攻までしてきたかをたどった本。 日本にいると中南米は盲点になりやすいが、米国は自分の裏庭みたいに思っており、ちょっとでも左翼的な匂いのする政権だと転覆をはかり、あまつさえ軍事政権ができても意に介しなかったりしてきた醜悪な歴史がよく分かる。 記述はちょっと分かりやすすぎる感じもするが、米国の負の歴史を知るために貴重な一冊であろう。
・宇野功芳 『魂に響く音楽』(音楽之友社) 評価★★★ 1999年に出た本。 クラシック音楽評論家で指揮者でもある宇野の評論集。 92年から98年にかけて『音楽現代』に連載された文章をメインに、同時代の短文も収録している。 色々教えられるところもあるし、また、いかにも宇野節だなと思うところもある。 また、首を傾げるところもあって、「リサイタル」という言葉をオーケストラの演奏会に使っているのだが、これは正しいのだろうか。 それと、近衛秀麿について、「学習院卒業後、東京帝大文学部に再入学したが中退」 なんて書いてあるのだが、近衛は明治時代に生まれた人間で、その頃だと学習院は大学ではなく (旧制) 高等学校までの学校に過ぎないから、帝大に 「再入学」 っておかしいんじゃないですか。
・馬場錬成 『ノーベル賞の100年』(中公新書) 評価★★★★ タイトル通りの本である。 出たのが2002年3月なので同年の小柴昌俊教授と田中耕一氏のノーベル賞受賞には触れていないが、20世紀の初めの年に開始されたこの賞では、当初から日本人科学者が有力候補に上がっていたこと、どんな傾向の研究が受賞しやすいか、間違った研究に授賞した例など、さまざまな側面からこの賞に光が当てられている。 アインシュタインが相対性理論ではなく彼の研究のなかでは地味な業績によって受賞していたりするなど、学問的な業績の評価というものが非常に難しいということもよく分かる。 著者は科学ジャーナリストだが、白川英樹氏と福井謙一氏の受賞は予想外だったという。 他方で、小柴教授の受賞は、上述のように受賞以前の出版だが、本書で予見されている。 その点でも、学問的業績の評価はやさしくないことが分かるであろう。
・白川英樹 『私の歩んだ道』(朝日新聞社) 評価★★★ ノーベル化学賞を受賞した白川氏と、若干の科学者による本である。 白川氏のあくまで謙遜な態度と、研究条件に関しては性急に一つの結論を求めない態度が、逆にきわめて科学的と見えた。 アメリカ式の、目的をはっきりさせた研究にのみ資金を出すやりかたに対して、従来の日本のように一定の研究費が出るシステムにそれなりの長所を認めているところなど、特にそうである。 最近の日本の大学はアメリカに追随しているけれど、はたしてそれで良くなるのかどうか。
・日垣隆 『常識はウソだらけ』(ワック) 評価★★★☆ ジャーナリストの日垣隆がラジオ番組で対談したもののなかからよりすぐりの内容のものを書物化した本。 8つの対談のうち2つが捕鯨問題に充てられていて参考になるほか、リサイクルは本当に有効なのか、若者の犯罪は本当に増えているのか、妊娠中絶の現状などが私には興味深かった。 この本で興味を持ったテーマについては、対談出演者の本を読めばさらに理解が深まるであろう。
・石井陽一 『民営化で誰が得をするのか 国際比較で考える』(平凡社新書) 評価★★★ 「民営化」が流行語になっている昨今だが、本当に民営化で国の財政状態や国民経済はよくなるのかを検証した本。 とはいえ、これは実はかなり大変なテーマで、外国の例などにも触れているので、全体に概論的になり、浅い感じもないではない。 しかし一応日本と外国の例を総体的に取り上げて検討している。 外国には民営化の圧力をかけるアメリカが、自国ではあんがい民営化を進めていないという指摘や、英国サッチャー政権の国鉄民営化が日本の例を見ながらなされ、しかし車両とレールを別会社にしてしまって失敗したという記述などは参考になろう。 また、民営化で本当によくなったのかどうかを明らかにするためには情報公開が欠かせないという指摘も、忘れてはならないところだろう。 いずれにせよ、民営化したからいい、と単純に物事を捉えるのは間違いだと分かる本である。
・伊藤章治 『ジャガイモの世界史 歴史を動かした貧者のパン』(中公新書) 評価★★☆ 南米原産で、新大陸の 「発見」 を機にヨーロッパにもたらされたジャガイモ。 その歴史をたどった本、ということで面白そうに思えたのだが、出来はイマイチである。 というのは、まずジャガイモの伝播については分かっていない部分が多いということ。 ヨーロッパにもたらされた時期や経路も曖昧であるらしい。 もう一つは記述の仕方がまずいこと。 ジャガイモに関するエピソードをたくさん入れているのだが、ジャガイモに直接関係ない話が多い。 例えばアンネ・フランク。 彼女が隠れ家でジャガイモを食べたという話を持ち出す前に彼女の経歴を長々と述べているのだが、どう見ても無駄である。 こういう箇所が目立っていて、肝心のジャガイモが前面に出ていないのである。
・白川英樹 『化学に魅せられて』(岩波新書) 評価★★★ 2000年にノーベル化学賞を受賞した白川氏が、受賞を機に行った講演だとか、書いた短文、受けたインタビューなどをまとめて本にしたもの。 化学を専攻するまでのいきさつだとか、少年時代の思い出、大学での研究のあり方など、化学のシロウトが読んでもそれなりに面白い箇所が多い。
・古田博司 『新しい神の国』(ちくま新書) 評価★★★ 内容が分かりにくいタイトルの代表例に挙げたくなる本ではある。 著者は韓国留学6年の経験を持つ筑波大学教授。 本書は、日本は中国および朝鮮とは根本的に異なった文化圏であることをさまざまな観点から主張し、戦前の 「アジアは一つ」 イデオロギーや、最近の 「東アジア共同体」 イデオロギーを根拠のない妄論として批判したものである。 それと並行して、戦後左翼がいかに中国と朝鮮についていい加減な知識に基づいたデタラメを垂れ流してきたかを実例を挙げつつ斬っている。 日本で北朝鮮に批判的な論考を出せるようになったのは日本人拉致を金正日が認めてからであり、それ以前に北朝鮮の実情を暴くような論文を書いた著者は斯界の大物から叱られたそうである。 文系学界のイデオロギー性がうかがえるエピソードである。
・新城カズマ 『ライトノベル「超」入門』(ソフトバンク新書) 評価★★★ タイトルどおりの本である。 最近ブームのライトノベルについて、実作者でもある著者が分かりやすく紹介したもの。 なぜジュブナイルなどの既成用語を使わずにライトノベルと言うか、に始まって、この分野の歴史と多様性、特殊性、アニメとの結びつきなどなどを論じ、代表的作家と代表作を紹介している。 まあ、でも自分で読んでみないと本当のところは分からないと思うのだが、何しろ紹介されている作品が多くて、かえって二の足を踏んでしまいそうである。
・城島充 『ピンポンさん 荻村伊智朗伝』(講談社) 評価★★★★ 昭和30年前後に卓球の世界チャンピオンとして活躍した荻村伊智朗。 現役引退後は世界卓球連盟会長となるなどの新たな活動を見せたが、1994年に62歳で亡くなった。 本書は、彼の本格的な伝記である。 野球少年だったが体が小さいからという理由で高校に入ってから卓球に転向したこと、日本卓球界で活躍してロンドンの世界選手権に出ることになったが、当時の日本は貧しくて渡航費用が自弁であり、今なら一千万円を超えるような金額を調達しなければならず、周囲の募金活動などでなんとかお金を作れたこと、当時の英国の激しい反日感情、などなどから始まって、外国との交流や日本卓球界内部での確執など、さまざまな視点から彼の生涯が語られている。 また彼を支え続けた 「おばさん」 の存在にも光が当てられており、戦後日本の高度成長を支えた婦人のありかたのようなものをも考えさせられる。 卓球に興味のない人でも面白く読めることは私が保証します。
・堤未果 『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書) 評価★★★★ 新自由主義的なイデオロギーが蔓延して、格差が開くばかりのアメリカ。 その下層階級の人々がいかに悲惨な暮らしを強いられているか、また、そうした状況が軍隊で兵士や軍勤務者を募集するのにどのように利用されているかを明らかにした本。 公的な医療保険制度がないせいで貧乏人が病気で医者にかかると大借金を抱えてしまい立ち直れなくなるとか、学生も学費や生活費が足りなくてローンを組むが卒業後もあまりまともな就職口がなくてやはり立ち直れなくなってしまうなど、悲惨な例がたくさん挙げられている。 さらに、こういった借金生活者が軍隊に言葉たくみに勧誘されて戦地に赴いてさらにひどい目に会うケースが多いことも指摘されている。 乳児死亡率などで見る限り、アメリカはとても先進国とは言えない。 新自由主義がいかにイカサマであるかが分かる。 日本もアメリカの二の舞にならないように注意しましょう!
・林壮一 『アメリカ下層教育現場』(光文社新書) 評価★★★ 著者はジャーナリストだが、アメリカの大学に学び、そこの恩師に頼まれたのをきっかけにアメリカの底辺高校で日本文化に関する授業を受け持つことになった。 その体験記が本書である。 底辺高校に通う生徒は経済的にも家庭的にも(片親が圧倒的に多い)恵まれない場合が目立つという事実の指摘に始まって、著者がいかに苦労して授業をしたか、また生徒たちがどのようにその後の人生を生きていったかが綴られている。 あくまで一つの事例ではあるが、格差が著しいアメリカ社会の一面がくっくり浮かび上がってくる本だと言える。 また、著者自身、日本では底辺高校と三流私大を出たという精神的負い目があって、教師をやる際に自分の体験を話したところ生徒たちが熱心に聞き入ったというあたりも面白い。
・浅見雅男 『華族たちの近代』(NTT出版) 評価★★★ 8年前に出た本だが、授業で取り上げて読んでみた。 華族についての基礎知識、華族になるための条件から、始まって、華族は国際結婚が困難であることや、軍隊との関係、スキャンダル、華族廃止論、華族一代論などなどの問題が扱われている。 華族についての知識が一通り得られる本である。
・エリック・ゼムール(夏目幸子訳)『女になりたがる男たち』(新潮新書) 評価★★☆ フランスで話題の本だそうである。 フェミニズムを真っ向から批判し、女性化したヨーロッパに未来はないのではないか、と主張している。 ただし書き方はエッセイ風で、学者みたいにデータにものを言わせるというふうにはなっておらず、かなり独断と直観が支配的なので、そのつもりで読む必要があろう。 フェミニズムへの批判と言うよりは、それへの反動と言ったほうが適切かもしれない。 ヨーロッパの男は女性化しつつあるのに対し、アメリカはブッシュ大統領がカウボーイ風のイメージで売っているなど男性性をそれなりに保っており、また移民としてヨーロッパに増えつつあるアラブ人も男性性を保っているので、やがてヨーロッパは没落してしまうのでは、というようなことを主張していて、いわば21世紀のシュペングラーかなあ、とも感じられた。 ちなみに、フランスの出生率はヨーロッパの中では高い水準にあるが、これは著者によればアラブ系の移民がたくさん生んでいるからで、本来のフランス人の出生率は低いという。 これにはフェミニストから異論もあるようだが、なにしろフランスには民族別の統計が存在しないので、どちらが正しいのか分からないのである。
・赤木智弘 『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か』(双風舎) 評価★★☆ 昨年11月に出て話題になっている本を、ネット上の古本屋から多少安く入手して読んでみた。 それ以前に 『論座』 誌で、丸山真男をひっぱたきたいとか戦争大歓迎とか挑発的な文章を書いていた人でもある。 団塊ジュニアの世代に属し、フリーター生活を余儀なくされ未来に希望を持てないでいるため、建前左翼を批判し、フェミニズムも槍玉に挙げて、本当の弱者救済をしろ、オレは専業主夫になりたいから男女平等を唱える女はオレと結婚しろ――それが実現しないのはフェミニストの欺瞞だという――などと書いている。 うーん。 定職が団塊ジュニア世代に集中的に足りなかったのは気の毒だとは思うけど、書いている内容にはあんまり共感できないなあ。 フェミニズム批判にしても、まあ批判自体はだいたいその通りだとは思うけど、フェミニズムをまともに信じる方が悪いんじゃないか、と言いたくなっちゃう。 ああいう類のイデオロギーとは距離をおいて付き合わないと生きていけなわけで、それが分からないってのは、やっぱり能力が足りないんじゃないか。 いや、団塊ジュニア世代を救う手だては政治家がちゃんと考えるべきだとは思いますけどね。
・長山靖生 『貧乏するにも程がある 芸術とお金の”不幸”な関係』(光文社新書) 評価★★★ 副題にあるように、芸術とお金の関係を、いくつもの事例を挙げながら考えたエッセイ。 本来、王侯貴族のものだった文化が、市民社会の到来とともに「ボヘミアン」という芸術家概念を生み出し、芸術と貧乏との結託 (?) が進行していく過程を分かりやすく説明している。 漱石、鴎外、芥川、有島などの日本作家にも言及している。 長山氏の著書がいつもそうであるように、物事の判断は中庸を得ていて、ほどほど面白いけど、インパクトがあるというほどではない。
・田村秀(しげる) 『自治体格差が国を滅ぼす』(集英社新書) 評価★★★☆ 著者は新潟大学法学部教授だが、以前は自治省の役人をしており、香川県庁など地方自治体にも出向したことがあって、日本全国の事情に通じている方である。 その著者がいくつかの地方自治体をとりあげて、現在財政などで厳しい状況に置かれている日本の地方自治体の多様な表情を描き出している。 勝ち組自治体と負け組自治体というように財政事情の大きな差ばかりでなく、市町村ごとの意外な特色や悩みにも言及していて、これからの日本を考えていく上で参考になる本である。
・高橋敏 『江戸の教育力』(ちくま新書) 評価★★★ 寺子屋など、江戸時代の教育システムや、文化の伝達システムについて書かれた本。 章立てにややまとまりを欠くが、寺子屋では礼儀作法も教えていたとか、中国古典に分かりやすい和訳を付した本が出回っていたとか、子供を勘当するにはどうすればいいかとか、それなりに知識が詰め込まれているので、一読すると色々物知りになれる本である。
・藤原和博 『公立校の逆襲』(朝日新聞社) 評価★★★ 3年前に出た本。 東大卒のエリートサラリーマンながら、東京都の公立中学校長に就任した藤原氏の奮戦記である。 民間人の校長だからと言って必ずしも成功するとは限らないし、また藤原氏自身書いているように、人事とカネは校長の自由にならないので、校長のできることは限られているわけだが、その範囲内で色々な工夫を凝らしているところは、頑張ってますね、と言ってあげたくなる。 とはいえ、学校は校長一人で動いているわけではないから、あらためて公立中学というものがどういう仕組みで、どういう人たちによって動かされているのかを知るために読むのがいいんじゃないかと思う。
・梅原淳 『鉄道用語の不思議』(朝日新書) 評価★★☆ 鉄道マニアにして法律用語マニアのための本である。 私としては、もう少し一般読者向けの記述がしてあるのかと思って購入したのであるが、話がかなり細かく、あまり面白いとは思えなかった。 いわゆる鉄ちゃんは、でもこんなものでも喜んで読むのかなあ。 私も鉄道は嫌いな方ではないのだけれど、この本にはちょっと参りました。
・山崎正和 『文明としての教育』(新潮新書) 評価★★★ 中教審の会長をしている山崎正和の教育論である。 遠く時代をさかのぼり、西洋や中国の故事にも目を向けつつ、教育の本質を語ろうとしている。 まあ、一般論としてはそう悪くない。 ただし具体的な日本現代教育論となると、いささかあやしいところもあって、教育論の難しさを改めて実感させられる。 狼に育てられた子の話など、今では非現実性が指摘されているエピソードなども入り込んでいる。 私が一番感心したのは、日本には欧米と違って反アカデミズムがなかったが、日本の大学はそのせいで逆にひ弱になった、と述べている箇所である。 宗教権力や、庶民の反アカデミズムと闘う姿勢こそが、欧米大学の組合結成による強化をもたらした、という指摘は、文科省や大衆的な学生に媚びへつらってばかりいる昨今の大学教師どもに読ませたいところだ。
・伊藤剛 『テヅカ・イズ・デッド』(NTT出版) 評価★★★ 2年前に出た本。 私はネット上の古本屋で買っておいたのだが、必要があって読んでみた。 戦後子ども文化の主流を占めてきたマンガであるが、90年代になってマンガ終焉論も出てきて、それに対する反論をものしている。 内容的にはかなり細かい技術論が入っているが、要するに世代の違いなどによるマンガ・リテラリシーのズレが出てきているということのようである。 マンガ論の最前線でどのような議論がなされているかを知るには悪くないが、マンガの面白さがこの本で増すか、というと、いささか疑問もないではない。