音楽雑記2008年(1)                           

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 5月以降の音楽雑記2008年はこちらをご覧下さい。

 

4月30日(水)       *パソコンの相性?

 本日、私が加入している某学会の研究誌に投稿された論文を査読してくれと頼まれた。 他大学の先生からメールでの依頼である。

 引き受けたは良かったが、メールに添付されていたWordファイルが開けない。 私のパソコンではWordファイルはどういうわけか時々開けないことがあるので、この時点ではさほど驚かず、相手の先生にかくかくしかじかで、と返事をした。

 すると相手の先生は次に一太郎ファイルで原稿を送って下さったのだが、これがまた開けないのである。

 私がその旨返事をすると、次にPDFファイルとテクストファイルで送ってくださったが、両方とも開けない。 特にテクストファイルが開けないなんて、そんなのありかと思うのだが、開けないものは開けないのである。

 仕方なく、メール本文として送っていただき、合わせてプリントアウトしたものを郵送していただくことにした。 うーん。

 ほぼ同じ時刻、同じ某学会に所属する別の大学の先生が別件でメールを下さったのだが、こちらに添付されていたWordファイルは問題なく開けた。 どうなっているのだろう。 パソコン同士にも相性があるのだろうか??? 

4月27日(日)      *東京交響楽団第47回新潟定期演奏会――伝説のイダ・ヘンデル登場     

 午後5時から、りゅーとぴあで標記の演奏会を聴く。 東京交響楽団による新潟定期演奏会の、本年度第一回目である。 今回は、最近の東響定期としてはやや入りが悪かった。 ふつうはS席とD席が売り切れるのだが、今回はD席のみ売り切れということのよう。

 指揮は中国人の女性指揮者シャン・ジャン、ヴァイオリン独奏は 「伝説の」 と形容が付く女流ヴァイオリニストのイダ・ヘンデル。 プログラムは、ベートーヴェンの序曲レオノーレ第3番、シューマンの交響曲第4番、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。

 さて、女性指揮者シャン・ジャン登場。 東洋系女性ということを念頭においてもずいぶん小柄な方だな、というのが第一印象。 で、音楽はどうか。
最初のレオノーレ序曲第3番では管が露骨にミスったのであれれと思う。 編成も、メインが協奏曲だからということだからか、いつもより小さいし、ふだんならチェロ首席のベアンテ・ボーマンさんがいるのにいないし、大丈夫かなあという不安感が。 でも第2曲目のシューマンの第4交響曲は早めのテンポで凝縮した魅力があって、良かった。 小柄な女性指揮者の濃い音楽性を見せつけられたといったところか。

 休憩をはさんで後半。イダ・ヘンデルが登場。 今年80歳 (一説には84歳) だそうで、指揮者に付き添われてよたよたという歩き方で出てきたので、演奏はどうかなと懸念されたが、結構良かったのではないか。 第1楽章では音もあまり出ていなかったし危なっかしい感じだったが、第2楽章は音もよく出ていて感情も十分こもっていたし、ここで調子が出てきてそのまま第3楽章もうまく弾ききったという印象。 老人の演奏ではあるけれど、べートーヴェンのこの曲にはそういう演奏を許容する性質があると思う。 指揮者と東響も独奏者にていねいに寄り添っていた。

 で、そのあとにアンコールを2曲もやってくれた! まずバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番のアンダンテ。 これ、ゆっくりな曲でやはり老人が弾くのに向いていそうなだけあって、うん、いいじゃないかと思いながら聴いていたわけだが、そのあとにラロのスペイン交響曲 (第3楽章) とは! ちょっとびっくりしましたけど、弾いてしまいましたね。 最初からそのつもりだったのか、調子が出てきたのでその場の感興でやってしまったのか知らないが、このコンサートに来た人はものすごく得をしたのだと思う。 伝説のヴァイオリニストがここまでサーヴィスをしてくれたわけだから。 忘れられない演奏会の一つになりそう。

 というわけで、今年度の東響新潟定期は幸先の良いスタートを切ったと言えよう。 この調子で楽しめる演奏会が続くことを期待したい。

4月25日(金)         *徳永希和子&三又瑛子 デュオリサイタル    

 夜、午後7時開演の標記の演奏会に出かける。 会場はだいしホール。 が、色々あって遅刻してしまい、最初のスプリングソナタが終わるまでロビーで待つ羽目に。第1楽章の途中で到着したのだが、楽章間は入れてくれないのだ。

 余計な話をすると、急ぐあまりに、ふだんならだいしホールから数百メートル離れた駐車場にクルマを止めるんだけど、昨夜はだいしホールの入口のすぐ前にある路上駐車に止めた。 1時間200円という奴。 着いたのが7時7分くらいだったかな。 いったんロビーに入って、しかし楽章間には入れてくれないと分かったので、あらためて戻って路上駐車機 (?) を見ると、使用時間は20時まで、と書いてある。 これ、どういう意味? 20時までは1時間200円でクルマを止められるけど、それを過ぎたら駐車禁止という意味か、それを過ぎたら自由に止めておいて構いませんという意味か。 書いてないんで分からないのですよね。 日本的曖昧さかなあ。

 私は勝手に後者だろうと決めてしまい、終演までクルマをとめっぱなしにした。 さいわい警察にもクレームはつけられなかったけど、万一上の解釈が間違っていても、済んだことですから、警察さん、罰金を取りに来ないで下さい(笑)。

 閑話休題。 これは、新潟市出身のヴァイオリニスト徳永希和子さんと、仙台市出身のピアニスト三又瑛子さんによるリサイタル。 いずれも若くてフレッシュな印象。 本日は新潟でやって、同じプログラムで数日後に仙台でもやるようだ。 

 プログラムは、前半がベートーヴェンの 「スプリング・ソナタ」、ヴィエニャフスキの 「華麗なるポロネーズ第1番」、シューマンの 「ダーヴィト同盟曲集op6」 から第1−9曲 (これだけはピアノ独奏曲)、シューマンの 「3つのロマンスop9」 より第2曲、クライスラーの 「愛の喜び」 「愛の悲しみ」。 後半がR・シュトラウスのヴァイオリン・ソナタ。 アンコールにシューマンのトロイメライ(ヴァイオリン+ピアノ版)。

 最初のスプリング・ソナタを聴き損ねたので、もう一つのメインであるR・シュトラウスのソナタについて感想を書いておく。 大過なく弾けていて悪くなかったとは思う。 だけどもう少し踏み込んだ弾き方をしてほしい。 感情移入というのかな、ここぞというところで自分を出すこと、そこがちょっと不足気味。 或いは、優等生的と言うのかな。

 これは徳永さんのヴァイオリンの音のせいもあったかもしれない。 美しい音だけど、ちょっと硬めと言うか、例えて言えばおろしたてで十分引き込んでない楽器で弾いているみたいな印象の音。 それがやや取り澄ました感覚を与えるのだ。 この曲ではピアノの三又さんはかなり自己表現をしていたと思う。 ヴァイオリン側がそれに見合った自己表現をしていれば、名演と言える演奏になったのではないか。 アンコールのトロイメライもそうで、何かもう一つ感情がこもっていないのである。

 終演は8時45分。 プログラムの量としてやや不足気味のような気がする。 デュオリサイタルなのだから、三又さんにもう少し出番があってもよかった。 後半がR・シュトラウスのソナタだけというのがちょっと物足りないから、その前に三又さんが何かピアノ独奏曲を披露してくれればちょうどいいくらいだったのでは。

4月21日(月)       *税金の無駄遣いの好例

 昨日、車のライトのことで警察に文句を付けたついでに、もう一件、道路のことで苦情を書いておく。

 最近、新潟市内をクルマで走っていると、変なものが道路脇に設置されている。 気温が表示されて、あと、人畜無害な交通安全用語が電光掲示板方式で出るようになっている。 これがところどころに新しく設置されているのだ。

 こんなもの、何の役に立つんだい? まあ、高速道路なら路面が凍っていると危険だから気温表示も有用かもしれないが、一般道路ではそんなにスピードは出さないし、もしスピードを出して凍った路面で事故を起こしたとしても、それは起こした奴の自業自得。 だいたい、そういう無鉄砲な奴なら気温表示なんか無視して飛ばすに決まっているから、どのみちこんなものは無用の長物なのである。

 国家財政が大赤字だとか、公務員を削減しろとか、色々言っているくせに、何でこんな役立たずの代物に税金を使うのだろう。 わけが分からない。 くだんの設置物には 「新潟市」 と書かれているから市がやっているのだろうが、即刻やめて、その分の税金を還付して欲しい。

4月20日(日)      *クルマのライトは上向きが基本? そんなわけないだろう!

 最近、市内をクルマで走っていると妙な文句が路上の電光掲示板に出る。 車のライトは上向きが基本だ、というのである。 おいおい、何言っているんだ、新潟県警は血迷ったのか、と思っていたが、ネットで調べてみると全国的に同じような掲示が出ているらしいので、新潟県警だけがバカをやっているわけではないようだ。

 冗談もいい加減にして欲しい、 車のライトは下向きが基本に決まっているだろう! 上向きだと対向車のライトがまぶしくて、まともに前方を見られないのだよ。 そうなるとかえって危険だ。 これはドライヴァーなら誰でも知っていることじゃないかね。

 電光掲示板には、対向車がある時は下向きに、という文句も出るけど、いまどき或る程度の規模の都市をクルマで走っていれば、早朝にかかる時間帯ならいざしらず、基本的に対向車は常時やってくるものなのである。 したがってライトも常時下向きにしておくのが礼儀なのだ。

 ライトを上向きというのは、人里離れたド田舎の、下手をすると熊が出そうな場所を走るときだけに通用する文句だ。 日本の警察はいったい何を勘違いしているのだろう。 殿、ご乱心!と言いたくなるではないか。 変なキャンペーンは即刻やめてほしい! 

4月17日(木)    *教養科目の配置がまずい新潟大学。個人情報保護法は過剰適応を考慮して改善せよ

 昨日、1限に私が出している教養科目・西洋文学は、150人定員のところに380名あまりが押し寄せ、競争率は2,5倍強となった。 この講義、毎年出しているのだが、以前は定員に達しない場合が珍しくなかったのに、ここ2、3年は満員で、定員以上の学生が来るので抽選せざるを得なくなっている。 しかも年々その倍率が高くなっている。 明らかに、教養科目が数の上で足りないか、少なくとも配置がうまくいっていないのだ。 

 今期、水曜1限に置かれた教養科目の定員を合計してみると、1000人にしかならない。 新潟大学の学生は1学年2200人余りいる。 特に1限は専門科目があまり置かれないから、教養科目はその分多めに置いた方がいいわけだが、そして教養部があった時代はそういう配慮がなされていたはずだが、教養部が解体して14年、そういう配慮が薄れてきているのではないか。

 となると、混乱は管理側の責任ということになるが、管理側と言っても、特に教養科目の場合、個々の教員にこういう授業を絶対ここの時限に出せ、と命令できるシステムにはなっていない。 おまけに、以前なら教養科目を受け持てば研究費に使えるオカネを多少もらえたけど、最近はそれも事実上――なぜ事実上なのかは説明が複雑になるので省く――なくなっているので、これでは学部授業を優先しろと言っているようなものだ。

 そう思っていたら、それに沿うように、理系学生から、「どうしても先生の授業が取りたいのですが」 というメールが舞い込んだので、管理責任者である某先生に転送しておいた。

 それはさておき、抽選をして当選した学生の名前を本日貼り出した。 昨年同様、個人情報保護法がどうとかで事務からクレームがついたけど、それならあんたの胸につけている名札をはずしたらどうだ、私の授業も匿名で出すのか、と言って押し通した。 まったく、個人情報保護法、常識はずれのバカ、と言って差し障りがあるなら過剰適応、を生み出すだけである。 法律は過剰適応があり得ることを前提に作るものだろうから、さっさと改善して欲しい。

 掲示は学務掲示板だけでなく、私の研究室のドアにも貼りだしたが、見に来た学生が研究室の前で大声を出すのには閉口。

 「えーー、ない、うっそー、どうしてないの?」 (どうしてって、競争率2,5倍強の狭き門だからですよ)

 「やったー、受かったあー!」 (おいおい、大学に合格したわけじゃないんだから、もう少し控え目にしろよ)

    *           *           *

            *生協理事会への出席率は、学生理事が教員理事に圧勝

 本日、夜は6時から新潟大学生協の理事会に出る。 本日から、法の改定により、これまでの 「書面出席」 という変なやりかたができなくなり、かならず本人が出席で過半数以上で成立、となった。 まあ、私は原則いつでも出ているから問題ないのだが。

 こないだ、来年度も理事をやってくれと頼まれ、「いつも出席いただきまして」 と言われたのだが、理事なのだから理事会に出るのは当たり前じゃなかろうか。 その当たり前のことをやらない理事が少なくない、という現実があるわけですがね。

 というわけで、本日はどの程度理事が集まるかが注目されたのだが、学生理事と教員理事では出席率に大きな差が付いた。 学生(院生を含む)理事は14名中12人出席したのに、教員は12名中5名、終わりかけた頃にさらに1名というテイタラク。

 なにしろ1年間をとおして理事会で1回も顔を見たことのない教員理事も何人かいる始末だから、どうしようもないのである。

 私は教養部時代にも数年理事をやったが、その時の経験と合わせて言ってしまうけど、だいたい学生から 「やさしい先生」 「ユーモアがあって面白い先生」 と言われている教員ほど、こういう場は平気でサボるものである。 人間ってのはそういうものなのだ。 学生諸君、覚えておこう。

 もう少し突っ込んだことを書くと、多分、学生へのウケと、社会の中での責任感みたいなものとの間には、微妙なズレがある、ような気がする。 それは、むかし、芸人というものが社会から必ずしも信用されなかったことと、どこかつながっている、ような気もする。

4月15日(火)     *「耳で聴く風景」 井上静香+成嶋志保リサイタル――充実した音楽会!     

  午後7時から標記の演奏会に行く。 午後7時からだいしホールにて。 開演14分前にホールに入ったら、すでに空席はわずか。 右側ブロックの後ろから2列目の中ほどにかろうじて入れていただいたが、最終的にはほぼ満席になったよう。

 プログラムが意欲的。 前半がフォーレのヴォイオリンソナタ第1番とプーランクのヴァイオリンソナタ。 後半は、ホアキン・ニンの 「4つのスペインの歌」、ドビュッシーの 「亜麻色の髪の乙女」、ラヴェルのヴァイオリンソナタ。

 3つのフランスのヴァイオリンソナタをメインにしているところからしてもこの演奏会のコンセプトがしっかり伝わってくる。 ホアキン・ニンは私は知らなかったが、キューバのピアニスト兼作曲家で、作家アナイス・ニンの父親だとか。

 3曲のヴァイオリンソナタの性格に応じた表現が、とてもよかった。 最初のフォーレ、これは数あるヴァイオリンソナタの中でも私が特に好きな曲なんだが、実演で聴く機会は案外少ない。 青春のためらいと憧れ、なんてちょっと恥ずかしい言い方をしてしまいたくなる美しい曲なんだけど、曲の特質がよく表現されていた。 次のプーランクは、現代的なエグさと断絶感覚が、これまたシャープに表現されていた。音もよく出ていた。 最後のラヴェルでは、特に第一楽章での音色がすごかった。 圧倒的、と言っておこう。

 というわけで3曲ともそれぞれに見事。 プログラムの意図を完全に表現しきっていたのではないか。 言うまでもなくピアノの成嶋さんもすばらしく、新潟出身の音楽家2人によってこういうレベルの演奏会が開かれるのは新潟市にとっても自慢していいことではないかと思う。 是非、またやっていただきたい!

 アンコールに 「からたちの花」 とモンティのチャールダッシュを弾いて、終演は9時を少し回った頃。 したがって量的にも満足。 新潟市でリサイタルをやる日本人ヴァイオリニストは結構いるけれど、どうも量的に物足りない場合が結構ある――7時開演で、途中休憩を入れて8時40分に達しないうちに本プログラムが終わってしまうなど――なかで、3曲のソナタをメインにした今日の演奏会は、文字どおり、質量とも充実したものだったと断言できる。

4月13日(日)        *肝心要のことが分からない書評

 毎日新聞の日曜の書評欄は、1原稿あたりの字数も多いし、充実しているとは思うのだが、無論それは時と場合によるわけで、本日の書評には首をかしげるものが2件あった。 いずれも当該の書物を私は読んでいないのだが、それでも書評を読むと 「はあ?」 と思わざるを得なかったのである。

 まず、田中優子による水野直樹著 『創氏改名』(岩波新書) の書評である。 まあ田中優子だからそれほどいい書評になるとは期待していなかったが、それにしても、なのだ。 日本が朝鮮半島で押し進めようとした創氏改名は朝鮮の伝統的な宗族集団と矛盾する。 結局宗族は解体できなかった、と書かれている。 私が知りたいのは、とすると近代化の大原則――つまり宗族や血族の集団主義ではなく、少なくとも建前上は個人の能力と努力によってその人の社会的立場が決定される、別の言い方をするなら立身出世主義――は朝鮮にあっては貫かれなかったのか、或いは或る程度は浸透したのか、浸透したならば宗族概念との矛盾はどう解決されたのか、というところなのである。

 これはかなり本質的な問題だと私は思うのだが――なぜなら伝統と近代化という、必ずしも反りが合わないもの同士をどう融合させるかということだから――田中優子の書評を読んでもそのあたりが全然分からない。 『創氏改名』 という本自体にそういう記述がなかったからかも知れないけど、しかしその場合は書評者としては当然そこに物足りなさを覚えて注文をつけるべきではないか。

 次は森谷正規による山之内秀一郎著 『JRはなぜ変われたか』(毎日新聞社) の書評である。 国鉄がJRになっていかに赤字を脱し技術的にも向上しサービスも良くなったか、を内部で尽力した著者が書いた本である。 たしかに民営化されて良くなったところが沢山あることはよく分かった。 しかしこれはあくまでJR東日本の場合である。 JR西日本で、電車が脱線してマンションに激突して多数の死傷者を出す事故があったことは記憶に新しい。 とするなら、少なくともJR西日本とJR東日本の違いはどこで生じたのかくらいは説明して欲しいものだ。 またいわゆる3島会社、つまりJR北海道、JR四国、JR九州はどうなのか。

 つまり、JR東日本で民営化が成功したのは、無論内部の人たちの努力もあるのだろうけれど、しかし首都・東京を基盤とする地の利があったからではないか、という疑問が抜けないのだ。 そこを説明してくれないと、とてもじゃないけど内容を無条件で肯うことはできないし、その程度のことはちょっと考えれば誰でも思いつくことなわけだけれど、書評を担当した森谷氏はそういう疑問を思いつかなかったらしい。 困った人である。  

4月12日(土)       *官僚出身の学長は、所詮この程度である

 現在、山形大学の学長を務めている結城章夫氏が文科省官僚の出身であること、そして山形大学の学長選では1位を取れなかったのに選考委員会の選択で学長の座についたことは、このコーナーでも紹介してきたし、わりに知られている事実だと思う。

 その結城・山形大学長が以下のように発言したようだ。

 「大学は学生のために存在するというのは、極めて誰でも納得できる常識論だと思う。 しかし、場合によっては、大学は自分のためにあると誤解している教職員がいる可能性があると思った。」

 http://www.yamagata-np.jp/news/200804/11/kj_2008041100167.php 

 所詮、官僚出身の学長ってのは、この程度だろうな。 やっぱり官僚なんかを学長にするとろくなことがないよ。 なぜ 「大学は学生のために存在するのは常識論」 なのだろう? 「大学は学生のために存在するのは常識論」 と言うなら分かるけどね。 しかし同時に、「大学は教職員のために存在する」 んだよ。 そんなことが分からないのですかね、元文科省官僚ってのは? これじゃ、山形大学は研究なんぞ放棄します、と言っているのと同じこと。 それは、山形大学の存在価値を低めるものでしかあるまいよ。 田舎の、研究を放擲した学校なんかに誰が行きたがりますかね?

 いや、他人事ではない。 国立大学の独法化以降、この種のことを言い出す理事だとか学長だとかが増えている気がする。 バカの一つ覚えで、上から言われたことを繰り返すしか能がないんだろうなあ。 何も考えていないのだ。 考えない人が学長や理事になると、大学もご臨終じゃないかな。 新潟大学も教員に研究費をろくに出さなくなっているし、ご臨終を目指しているのかもしれないね。

4月8日(火)      *新潟市立図書館ほんぽーと

 新潟市には、言うまでもなく新潟市立図書館がある。 市立図書館なので地区に密着した分館がいくつもあるが、しかし合併して政令指定都市 (人口80万人) になる以前から、人口50万を越える都市としては中央図書館にあたる建物が貧弱で蔵書数も少ないのでは、と言われていた。

 もっとちゃんとした中央図書館を作れというような請願運動があって、だいぶ前に私も署名した覚えがある。 その運動のせいかどうかは知らないが、少し前にようやく立派な中央図書館――愛称ほんぽーと (港町の図書館だから、ということかな)――が完成した。

 私はやっと先週、初めて行ってみたのだけれど、本日も用事があって夕方出かけた。 新しくなって良くなったのは、休館日が減ったこと。 ほかの分館は毎週月曜日が休みなのだけれど、ここは月の第一水曜日と第二金曜日が休みなだけ――ただし他に図書整理日として休館になる期間が一年に数日あり。 それから、平日と土曜日は夜8時までやっているのもいい。

 街の中心部に近いので、長時間いても駐車場無料とはいかないのが残念だが、30分までは無料なので、借りたり返したりするだけならクルマで行っても大丈夫である。

 私も、最近入った仕事に必要な資料が新潟大学にほとんどないので、ここを訪れたわけ。 どうも、分野にもよるけど、新潟大学の蔵書や視覚資料にはかなり問題があるな、と痛感する。 その仕事に必要という目で見ると、相撲に喩えるなら、市立図書館は前頭、新潟大学はせいぜい序二段程度ではないか。

 3月3日にも新潟大学の図書整備が遅れているのでは、と書いたが、ここ1週間ほど、その感を強くするばかりなのである。 

4月7日(月)      *毎日新聞の記事に感心

 朝日新聞のデタラメぶりに愛想が尽きて毎日新聞に切り替えて数年経つ (ほかに産経新聞を購読)。 朝日に比べるとイデオロギー的な統制色みたいなものがあまりなくて、同じような進歩派ではあっても読んでいて腹が立たないところがなかなかいい。 あと、時々一見目立たないがよく調べてあって感心する記事が載るのだが、昨日の一面を飾った記事もその一つだった。

 今月1日、八戸市で母が9歳の息子を締め殺した事件があった。 事件当初は、最近よくある理由のよく分からない殺人事件の一つとの指摘だとか、息子が学校の作文でお母さんのことを書いていたという感傷的な記事だとかばっかりだったけど、昨日の毎日の記事を読むと、それなりに理由のある事件だったことが分かる。 

 すなわち、容疑者である母は八戸市でも中心部から遠く離れたところで育った。 ここは戦後新たに切り開かれて農地になったところで、容疑者も祖父母の代に開拓者としてここにやってきたのだった。 したがって容疑者の家はぽつんと建っていて、隣家とは距離がある。 70年代初めに農地以外の開発に規制をかける市街化調整区域に指定されたが、日本の他の農家同様に後継者難・高齢化・少子化に悩まされた。 農業停滞で農地は荒れ、といって売買には規制があるので、やっていくのは容易ではない。

 容疑者は高校卒業後、岩手県に出て年長の男性と結婚したが、相手が定職につかず借金を重ねたため離婚、子供をつれて実家に戻っていた。 もともと父は容疑者の結婚に反対で勘当同然だったが、孫がいたため特に赦したとも言われる。 容疑者はアルバイトをしたがいずれも長続きしなかった。 また家族は親族の借金問題に悩まされていたともいう。 

 結局、こうした状況が重なって、将来への見通しに悲観的になった、ということのようだ。 ここから、日本の農業のあり方や地方経済の低迷といった問題が浮かび上がってくるのである。 殺人には、それなりに背景があったのである。

 最近、朝日と読売と日経が共同で 「あらたにす」 なんてサイトを作ったり、またこのところ文字を大きくするのが日本の新聞の流れだが、その際の広告の寸法の関係で毎日新聞が――そうでなくとも朝日や読売に比べると広告が少ないのに――広告をあまり取れなくなるのではといった噂が出たりして、何となく微妙なところに毎日は立っているようなのだが、私としては、朝日か読売のどちらかがつぶれてもいいから、毎日を残すべきだと思う。 どっかカネのあるところが支援に乗り出しませんかね? もちろん、宗教団体以外で、ということなんですが。

4月6日(日)     *茂木大輔のオーケストラ・コンサート第4回

 午後4時からりゅーとぴあで、標記のコンサートを聴く。 すでに新潟市ではおなじみの茂木大輔さんの解説付きコンサート。

 今回はベートーヴェンの交響曲第7・8番を中心にしたプログラム。 題して初演再現プログラム (1814年2月27日のコンサートの再現) というのであるが、厳密には初演は第8番と作品116の三重唱曲 「おののけ、不敬な者ども」。 第7番と、戦争交響曲は初演ではない。 演奏順序は、前半が第7と作品116、後半が第8と戦争交響曲。

 当初の予定では1階と、舞台の脇・後ろを除いた2階だけに客を入れるはずだったようだが、人気が高く、3階にも追加で客を入れていた。 茂木さんのユーモラスで分かりやすい解説が評判になって新潟市民にも浸透してきているのであろう。

 もっとも、今回はユーモアのほうはやや控え目。 なにしろ時間を食うプログラムであり、なおかつ 「再現」 を厳密にするために、1814年の演奏会で起こったのと同じように、第7の第2楽章終了後に大拍手を聴衆がして、同楽章がアンコールで繰り返されるというところまで同じにやったからである (ただし第2楽章全部ではなく、最初のあたりだけ)。 おしゃべりの時間自体が少なかった。 しかし楽曲の分析は背景のスクリーンに出るので、問題なし。

 今回の 「人間的楽器学管弦楽団」 のメンバーはなかなか豪華。 コンサートマスターは永峰高志さん、その脇には昨年新潟市でリサイタルをやった磯絵里子さんがすわっているし、フルートには何と高木綾子さんが! だから見ても楽しめるコンサートであった (笑)。

 というわけで、満足度の高い演奏会だった。 強いて不満を言えば、第2曲の作品116、これは茂木さんもおっしゃるとおり誰も聴いたことがないという曲だが、ソプラノとテノールとバスの3人の歌手が登場するなかで、バスがあんまり声が通らなかったことだろうか。 この曲、ベートーヴェンがサリエリに教わっていた頃、当時はオペラが書けないと作曲家と認められなかったので、その練習として書いたのを、後年引っぱり出してきたものだとか。 その頃は声楽がプログラムに入らないとコンサートに客が入らなかったのだそうだ。 勉強になりました。

 久しぶりにりゅーとぴあに行ったせいか、新しいチラシがかなり目に付いた。 建物付近の桜は1ないし3部咲きくらい。 先月末に東京に行ったときは桜が満開に近かったので、やはり新潟市とは差があるなあ、と痛感した。 何はともあれ、今年度の初コンサートであった。

4月4日(金)      *個人情報保護法、何とかしろ! そして高専の校長について

 新学期の授業開始が迫っているので、本日はそれに向けての会議があったのだが、なぜか学生名簿が配られなかった。 個人情報保護法のためだという。 今までなら人文学部生の名簿は教員に配布されており、どの学生の指導教員がどの先生かも分かって便利だったのだが、個人情報保護法で名簿の公開を禁じているからダメだという。

 あきれはてたのは私だけではなかったようで、ちょっと不便ではないかとの某先生の声が出て、再検討することになった。 どうも、おかしくなっている。 いや、名簿がダメならダメでいいので、その代わりそこから来る不便さの責任をこちらにかぶせてこないなら、それで一向に差し支えないのだが、そうではない以上、この種のふざけたやり口は根本的に改めてもらわないと困るのである。 個人情報保護法って、相当おかしいぞ、何とかしろ!

 閑話休題。 本日、読売新聞のサイトに以下のようなニュースが載ったのだが――

 文科省の前部長、国立大整備巡る収賄で逮捕…五洋建設関連社員から現金

 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080404-OYT1T00491.htm?from=top 

 文部科学省文教施設企画部の大島寛・前部長(59)(昨年3月退職)が在職中、国立大学の施設整備事業を巡って、大手建設会社「五洋建設」の関連会社社員から現金を受け取っていた疑いが強まり、警視庁捜査2課は4日、収賄容疑で大島容疑者を逮捕した。

 大島容疑者は国立の文教施設の整備を統括する同部のトップに上り詰めたキャリア技官で、捜査2課では、五洋建設側との長年の癒着の中で、施設整備計画などの情報も漏らしていたとみて解明を進める。

 発表によると、大島容疑者は、国立大に関する工事の入札などで受注に有利になるよう便宜を図った見返りに、五洋建設の関連会社社員から現金数十万円を受け取った疑い。

 大島容疑者は東北大工学部出身のキャリア技官。1972年、旧文部省に入省し、国立大学の校舎や付属施設の整備を担う文教施設企画部の課長や技術参事官を歴任、2005年4月に同部長に就任した。同部は、国立大学が法人化した2004年以降、スポーツ施設や遺跡など、その他の国立施設の整備を主に担当しているが、現在も国立大学の整備計画や予算の配分を行っている。


 (中略)

 大島容疑者は退職後、国立高等専門学校機構に移り、現在は沼津工業高専(静岡県沼津市)の校長を務めている。

 私がこの記事のどこに注目したかというと、実は最後の1行なのである。 大学工学部出身の技官とはいえ、文科省の役人が高専の校長に?!とびっくりしたのである。 

 いや、私も高専の実情をよく知っているわけではないから誤解だったらどなたか訂正していただきたいが、工業高専の校長というのは、だいたいが大学工学部の教授だった人が横滑りでなるものじゃなかっただろうか? 例えば、今ちょっと調べてみたのだが、新潟県の長岡高専の場合、現在の校長は前に長岡技術科学大学教授だった人である。

 私がこの点に注目するのは、以前書いたように、山形大学の学長に文科省の役人が就任したりして、国立大学の独法化以降、かえって文科省の国立大学への介入が強まっているからだ。 高専もそうなのか、と考えたわけだ。 いずれにせよ、芳しいことではない。

3月31日(月)      *最近の新潟大学教員による出版

 英語などを講じておられる新潟大学教授の鈴木利久先生が、『羅英対訳・詳註 『変身物語』 を読む』 (渓水社)の第4巻を出版された。 第3巻が出たときはこの欄で紹介したけれど、あれからあまり時間がたっていないのにまたその続きを出される勤勉さには脱帽である。 ラテン語の初心者がオウィディウスを読んでラテン語を勉強しようと思うときに役立つ本である。

 新潟大学教員による最近の出版としては、社会学の松井克浩先生による 『中越地震の記憶 人の絆と復興への道』(高志書院)、日本近現代史の芳井研一先生による 『近代日本の地域と自治 新潟県下の動向を中心に』(知泉書館)もある。 いずれも新潟県の地域の問題を綿密に調べ上げた書物である。

 まあ、以上の書物は学術的なもので、あまり一般的な興味をそそらないかもしれないが、基礎的な研究というのはそういうものであって、こういう研究がなされていないと人目を惹くような研究だって成立し得ないものなのだ。

 他方、市販性のある本も新潟大学の先生はそれなりに出している。 法学部の田村秀先生による 『自治体格差が国を滅ぼす』(集英社新書)、同じく西野喜一先生による 『裁判員制度の正体』(講談社現代新書)、経済学部の桜内文城先生 (ただし昨秋退職され、故郷の四国で政治家を目指されているとか) による 『公会計革命』(講談社現代新書)、人文学部の白石典之先生による 『チンギス・カン ”蒼き狼”の実像』(中公新書)なんかは、購入しやすい新書である。

 以上は私の目の届く範囲でのことで、これ以外にも色々な出版がなされているはずである。 こうしてみると新潟大学教員による出版物も結構あるのだと分かっていただけるのではないか。

3月29日(土)      *大形地区卓球大会

 本日は半年に一度開催される大形地区卓球大会の日である。 新潟市北地区体育館にて。 例年だと2月の日曜日に開かれるのが通例で、3月末の土曜日というのは異例だが、たぶん体育館の確保ができなかったのであろう。 西内野卓球クラブのM氏とふたりで出かける。

 いつものように男女のペアによるダブルスを、いくつかのグループに分けてリーグ戦で行う。 午前でひととおりリーグ戦が終了すると、昼食後はペアを組む相手を変えてまたリーグ戦である。

 私は午前中は4勝2敗で、7ペア中3位であった。 黄金の中庸、より少し良い成績で、まあまあでしょうか。

 午後はやはり7ペアでリーグ戦をやったのだが、全部できないうちに終了時間となってしまった。 4連勝して、5戦目はセットカウント0−2で敗色濃厚ではあった。

 なぜ午後だけ全部やらないうちに終了になったかというと、午前中は3セットマッチで、つまり2セット先取で勝ちとなる方式だったが、午後は5セットマッチで、3セット先取で勝ちとなる方式だったからである。 その分時間を食ったということだ。 でも昔のように1セット21本ならともかく、今はルールが変わって1セットが11本しかないので、3セットマッチだと物足りない。 やはり5セットマッチのほうが面白い。

 朝は雨模様の荒天だったが、午後3時半過ぎに試合を終えて外に出ると青空も少し見える天気に変わっていた。 

3月27日(木)     *忙しい一日、そしてズーカーマンの弾くフランクのヴァイオリン・ソナタ

 昨日書いたような事情で、本来は明日まで東京にいるはずが、本日中に新潟に戻る羽目になったので、この1日を有効に利用しようと、忙しく動き回る。

 東京駅のコインロッカーに余計な荷物を入れてから、まず午前9時半すぎに上野の西洋美術館に行き、ヴィーナス展を見る。 ウフィッツィ美術館の有名なウルビーノのヴィーナス (ティツィアーノ) をはじめ、古今の西洋美術に現れたヴィーナスを集めた展覧会。 うん、やっぱり女のあるべき姿はヴィーナス、つまり美の女神であって、ということはつまり女はすべからく美人でなくてはならない、という日頃のワタシの持論があらためて納得できる展覧会でした、はい。 良かったので、カタログを買いました。

 展覧会を見てから、三軒茶屋に急行し、そこの二番館 (三軒茶屋中央) で2本立ての映画を見る。 昼食をとっている暇がなかったので、渋谷の駅でサンドウィッチを買い、映画の合間に腹に入れる。

 見終えて――というか、途中から見始めて、その途中まで見て映画館を出たのだけれど――渋谷に急行し、ユーロスペースでまた映画。 これは思いのほか良かった。

 それから高田馬場に行って、中古CD屋の「タイム」に入る。 ここに前回来たのは多分1年以上前だが、変化があり、以前はクラシックCDは二階に置いてあったのだが、今回は一階に引っ越していた。 通路が以前より広くなって快適。 値段はでもどうかな。 ズーカーマンの弾いたフランクとサン=サーンスの1番のソナタを入れたCDがあり、ズーカーマン・ファンの私としては買わざるべからず。 それと、ヤナーチェクのミサ曲のCDが目につき、700円と安いし、ヤナーチェクのミサ曲ってどんなものかなと思ったこともあり、買う。 2枚で1900円。

 次に近くのBOOKOFFへ。 2冊だけ買う。 1850円。 ここで夜の7時40分。 日程終了。 いそぎ東京駅へ。

 コインロッカーの荷物を取り出し、構内のコンビニで弁当と缶ビール (正確には発泡酒、500ML) と缶焼酎 (アルコール10%) を買い、かろうじて8時12分発の新潟行き新幹線に間に合う。

 余談だけど、コンビニが駅構内にできて随分便利になった。 私は駅弁はわりに好きなほうだけれど、値段が高いのが難点。 そこへいくとコンビニ弁当は安いし、アルコールもいろいろなものが揃っていて、今回は上記の品揃えで800円ほどだから安い。 昨夜は3500円の豪遊 (?) をしたので、本日は節約の心理が働いて、これで満足。

 夜11時過ぎに自宅に到着。 といっても女房と次男は諸般の事情でまだ東京におり、中学生の娘は義母のところに泊まっているので、私一人。 ブランデーのロックを飲みながら、今日買ってきたズーカーマンのCDを聴く。 うん、フランクは彼特有の輝かしい音色が存分に活かされた名演だった。 ただし併録のサン=サーンスの1番のソナタは、同じ傾向の演奏だが、曲がフランス的な洒脱さやちょっとばかり投げやりな弾き方も必要なところ、ズーカーマンは例のごとく律儀に弾いてしまっているので、これはやや問題ありかも知れない。

3月26日(水)       *次男のアパート探しに一苦労、そして夜はアルド・チッコリーニの協奏曲の夕べ

 次男が調布市にある理工系大学になんとか合格したので、本日は合格手続き、そしてアパート探しである。 私は昨日上京していたが、本人と女房が本日上京。

 最初に相談に乗ってもらった業者が余りよくなかった。 まず聖蹟桜ヶ丘の1ルーム・マンションを見てみたが、大学から遠いし、部屋も採光がよくなくて感心しない。 窓が小さくておまけに曇り硝子だからなのだ。 次に大学から近いという 「南向きの」 アパートを見たが、たしかに南向きには違いないが2m前に別のアパートが建っており、1階は全然日が射さないのである。 これじゃ 「南向き」 の意味がない。

 この業者、どうも物件をあんまり持っていないようなので、いったん大学に引き返して別の業者に相談。 こちらの業者のほうが物件が豊富で、3件ほど紹介してもらい、全部見てみた上でそのうちの1件に決める。 2階建てアパートの2階の端の部屋で、南と東に窓があって採光は申し分なく、設備もまあまあである。 唯一の懸念はアパート西側に往復2車線の道路が通っていることで、クルマの音が多少気になりそうだが、部屋はアパートの中では道路から一番遠いところにあるので、まあ耐えられるレベルであろう。 大学から歩いて10分、調布駅から5〜6分程度だから、交通の便は非常によい。

 家賃は51000円ということで、仙台の私大に通っていた長男――今月どうにか卒業して東京に就職――が3万円で1ルーム・マンション暮らしをしていたのと比べると差があるが、東京都下だから仕方があるまい。 実はもう少し高いのではないかと恐れていたので、内心ほっとする。 午前11時半頃から探し始めて、決まったのが午後5時直前である。 アパート探しも楽ではない。

 ただし、手続きが厄介。 長男の時はたしか決めるとその場ですぐ敷金などを払って契約したと記憶するが、今回は次男の住民票、および私の収入証明書 (!) と印鑑証明書を添付せよ、と言われた。 引っ越しは来週月曜の予定なので、その日が契約日となるが、となると土日は役所と学校は休みだから、金曜日に書類を揃えなくてはならず、実は私は金曜日の夜に新潟に戻るつもりでいたのだが、やむを得ず、明日の木曜日に戻ることにする。 やれやれ。

 夕刻からは女房次男とは別行動。 錦糸町のすみだトリフォニーホールで、アルド・チッコリーニの協奏曲の夕べを聴く。 伴奏はペトリ・サカリ指揮の新日本フィル。 1階前から19列の右よりの席。 当日券のS券で7000円。

 プログラムは、前半がシューマンの協奏曲、後半が、まずオケだけでシベリウスの交響詩 「タピオラ」 をやって、その後ラフマニノフの2番の協奏曲。

 チッコリーニの名は無論知っていたが、実演を聴くのは初めてである。 すでに80歳を越えているそうで、舞台に登場した姿を見るとやや背が丸くなっている。 それを別にしても西洋人としては小柄で、第1ヴァイオリンの日本人男性などと比べても身長は低めだ。

 しかし出てくる音は結構強靱である。 最初のシューマンでは、初めはエンジンがかからないのかやや危なっかしいところもあったが、曲が進むとアクセントをはっきりつけた、いわば男性的な演奏を聴かせてくれた。 どちらかというと女性的な印象のあるシューマンのピアノ協奏曲だけど、音が必ずしもクリアでなくちょっと雑味の入った独特の音色であり、武骨で、老いの一徹と言いたくなるような、独特のシューマンであった。

 後半の最初が 「タピオラ」。 指揮のペトリ・サカリは今秋アイスランド交響楽団と来日予定で、新潟県にも来るはずだけれど、いわばその予告編を聴かされたみたいなものか。 鮮烈な音の模様をくっきりと浮かび上がらせる演奏であった。

 そしてラフマニノフの2番。 前半と違って、完全に調子が出てきたのか、音色もクリアで、このロマンティックな曲を存分に歌っていた。 オケも乗っていたし、チッコリーニも乗っていて、いわば相乗効果でかなりイケている演奏となった。

 聴衆の熱狂的な拍手に応えて、第3楽章の最後の数分を再演するサービス。 私も終演後、ロビーのCD販売所で、リストとドビュッシーのCDを各1枚購入してコンサートホールを後にした。

 このあと、錦糸町の某ビルに入っている 「四季の蔵」 という店でいっぱいやる。 あてずっぽうに入ったのだが、味はまあ悪くないかな。 でも、お通し、生ビール中1、焼酎ロック2、焼き鳥盛り合わせ(5本)、長芋明太サラダ (わりに量あり)、で3500円という値段は、私としては 「やや高め」 か。 あと、一人で飲みながら本を読む癖のある私には、照明が暗すぎるのが難点。 

3月24日(月)     *JR東日本さん、東京周遊切符発券の改善をお願いします!

 明日から東京に出かけるので、本日のうちに東京周遊切符をJR東日本の内野駅で買ったけれど、例のごとく時間がかかって困る。 この話題、以前にも書いたことがあるが、全然改善されていないので、しつこく再度書く。

 内野駅で東京周遊切符を買うと、いつもスムースに運ばないのである。 東京周遊切符は、東京までの往復乗車券と新幹線特急券の往復分、それに首都圏のJRに5日間自由に乗り降りできる東京ゾーン券の5枚の券からなっている。

 東京周遊券自体は昔からあった。 発券がコンピュータで制御されていない時代、東京周遊券を買うのは簡単で、出来合いのものが駅にあったから、それに特急券をプラスして買えばいいだけの話であった。 頼んで2分とかからずに入手できたのである。

 ところが、その後色々改訂があって、ゾーン券が乗車券や特急券と別になり、しかもコンピュータでボタンを色々押さないと出てこないシステムになってから、やたら発券に時間がかかるようになった。 いつ頼んでも5分以上はかかる。 

 本日はまたものすごく時間がかかった。 頼んで10分を越えても出てこない。 駅員はノートを見ながらコンピュータのボタンを色々押しているが、全然目的のチケットが出てこず、首を傾げてはノートを読み直し、またボタンを押し・・・・・・ということの繰り返しなのである。 いらだっているのは私だけではない。 私の後ろに若い女性が並んでいて、やはりいらだっている。 念のため、内野駅の発券窓口は一つしかない。

 私は本日はこの後、塾に行っている娘をクルマで迎えに行くことになっており、なおかつその後また別の用事があったので、ついに13分を越えたところで堪忍袋の緒が切れた。 何しろその時点でまだ駅員は首を傾げるばかりで、全然チケットが出てきそうな様子はなかったのである。 で、「9時半頃また来るから、その時までに作っておいてくれ」 と言って駅を出た。 時刻は午後6時35分頃。

 9時半頃また行ったら、さすがにチケットはできており、「申し訳ありません」 ということでのし紙入りのタオルをくれた。

 しかし・・・・・・駅員教育が悪いとも思うけれど、私がいちばん分からないのは、東京周遊券みたいな売れ筋の切符がなぜボタン一つで出てくるようになっていないのか、というところなのである。

 内野駅発で、北陸線経由で大阪に行き、そこから山陰線経由で松江に向かい、その後いったん岡山に下ってから四国に渡り、四国を縦断して高知から連絡船に乗って九州に渡り、別府から熊本まで横断して、それから鹿児島中央へ・・・・・・・というような複雑怪奇な切符を申し込んだわけではないのである。 新潟市内の駅から東京まで周遊切符で出かける、なんて客はざらにいるはずなのだ。 なんでそういう切符がすぐ出てくるようになっていないのか、わけが分からない。

3月22日(土)      *シベリウスのCD 「室内オーケストラのための作品集」

 昼、クルマでラーメン屋に昼食をとりにいったついでに、その近くのBOOKOFFに寄ったら、シベリウスの室内オケのための作品集のCDがあり、1000円だったこともあり、買う。 こないだ仙台フィルでシベリウス・プロを聴いてから、シベリウスの交響曲や交響詩外のオケ作品――例えば劇音楽など――が気になっていたこともある。

 ペッカ・ヘラシヴォ指揮のフィンランディア・シンフォニエッタの演奏で、劇付随音楽「クオレマ」、美しい組曲op.98a、田園組曲op.98b、特徴的組曲op.100などが収められている。 「悲しきワルツ」 のように知った曲もあるが、大部分は私の知らない曲だった。

3月19日(水)       *仕事が舞い込む日

 本日は突然仕事が2件舞い込んだ。 数日前にも1件舞い込んだので――これはまあ初夏に始めればいい仕事だが――しばらく超多忙になりそう。 いや、原稿料が入るような仕事ならいいんだけど、私のことで、オカネには全然縁のない仕事なのである。

 研究費を大学からちゃんともらっているなら文句も言わないが、何度もここに書いているように、最近の新潟大学はろくに研究費をくれないので、どうしてくれると文句を言いたくなってしまう。 ・・・・・が、まあ、頼まれたので、やるっきゃないでしょうな。

3月16日(日)      *紅茶のない千円のバイキング朝食、そして墓参・・・・・

 朝、SGホテルで目を覚ます。 朝食。 ところがバイキングなのに紅茶がない。 千円とっているバイキングなのに、である。 コーヒーと緑茶はあり、牛乳、そしてジュースも3、4種類あるのに、である。 従業員に尋ねてみたが、自動販売機でどうぞというそっけない返事しか返ってこない。 困るなあ。

 私はコーヒーはあまり飲まない。 特に朝飲むことは絶対にない。 夕方、仕事に疲れたときには飲むことも時々ある、という程度。 朝は紅茶が原則で、夏の暑い時期なら牛乳である。 なんで紅茶党はこうも迫害されねばならないのか? 仕方がないから牛乳にしたけれど。

 このホテル、安いビジネスホテルで、1泊4100円、駐車料金500円だから、別に多大な要求をするつもりはない。 実際、部屋は狭いし、必要最小限の備品しかおいていないし、ベッドも幅が狭い。 しかし朝食は千円をとっているのである。 それで何で紅茶を置いてないのだ。

 ぎりぎりチェックアウトの10時までホテルにいて、その後、車で出る。 11時半に長男と会う予定だが、少し時間があるので、北四番町通りを東の方に走ってみる。 30年前、私が住んでいた頃の仙台とはまったく様相が変わっている。 巨大化している、という印象。

 しばらく走ってから街の中心部に戻り、県庁裏手のOという花屋で墓参用の花を買う。 この店、墓参の時にはしばしば利用しているが、数年ぶりに来てみたら位置が変わっていた。むかしはNHK前から県庁側に入ると右側 (道路北側) に店があったはずだが、逆に左側になっているのである。 訊いてみたら、3年前に移ったとのこと。 もとの店舗跡は大きなビルの敷地になっている。 年々歳々、店同じからず、といったところか。

 そのあと長男を拾って墓参をする。 本日は彼岸のせいか猛烈に混んでいた。 長男は仙台の私大に通っていたが、なんとか卒業し、まもなく東京の会社で働くことが決まっている。 墓参後、親子でびっくりドンキーにて昼食をとり、仙台北部のアパート近くまで長男を送り、それから引き返して新潟へ。

 時間的余裕があったので、途中山形市で国道を降り、街の中を車で走ってみる。 日曜日であるにもかかわらず、中心街に人が少ない。 何となく元気がない印象。 もっとも新潟市でも最近は郊外ショッピングセンターに人が流れ、中心街にあんまり人通りがないから、同じようなものか。 途中、BOOKOFFを見つけたので立ち寄り、本を3冊とCDを1枚買う。 CDはフィッシャー=ディースカウのシューベルト歌曲集で、似たような内容のLPを持っているが、完全に同じではないし、500円なのでまあ買っておこうと考えたもの。

 その後新潟へ。 途中で雨が降り出す。 新発田のBOOKOFFにも立ち寄って本を少し買ってから自宅へ向かう。  

3月15日(土)      *仙台フィル第227回定期演奏会を聴き、夜は久しぶりに胡麻を摺る

 私用で仙台に出かける。 午前9時少し前、自宅を車で出、新新バイパスで新発田まで行き、そこから290号線に入る。 新発田を過ぎると周囲の景色は雪をかぶりはじめる。 113号線に出て小国に近づくにつれて雪は深くなり、途中、除雪作業で片側交互通行になっているところが何箇所かあった。 新潟市内に住んでいると全然雪とは無縁だけれど、ちょっと内陸に入るとまるで別世界が開けてくる。 日本は狭いようで広い。

 今回は節約モードで、山形から仙台に抜ける笹谷峠のトンネルだけはどうしても高速を使わざるを得ない(200円)が、それ以外は全部一般道である。 といっても、道路は昔に比べると整備されており、南陽から山形に向かう道路も、片側2車線の部分が多くなっているので、さほど時間はかからない。 (1980年代だと、113号線のトンネルなど、灯りがまったくない上に道幅が狭いのがあって、対向車とぶつかるのではないか、しかしそれを避けようとして左に寄ると壁にぶつかるのではないか、とヒヤヒヤしたりした。 今はトンネルには全部灯りがついているし道幅が広くなっているので全然問題がない。)

 笹谷峠のトンネルを抜けて一般道に降り、少し下ったところにある 「渓流」 というラーメン屋さんで昼食。 客が結構入っていたが、なかなかうまい。 麺がシコシコ太麺で量もまあまああり、私はチャーシュー麺 (780円) を頼んだのだがチャーシュー以外の具も結構入っていて、大盛りではないけれど腹がくちくなった。

 昼食で30分、それ以前にトイレ休憩1回があり、それらを含めて4時間50分で仙台の中心部に着く。 午後3時から仙台フィルの定期公演を聴くつもりで、時間的に余裕を持って中心街に到着したので悠々間に合うだろうと思っていたら、東2番町を北上して、県庁のところで右折し、東5番町に入って北上しようとしたところ、途中からひどい渋滞にあってしまう。 北4番町との交差点付近から、仙山線のガードをくぐるあたりまでが無茶苦茶に混んでいて、やれやれである。 しかし時間的余裕を大幅にとっていたのが幸いして、目的地の仙台青年文化センターには2時15分頃到着する。

 ホールにすぐ隣接しているスーパーマーケットの駐車場があり、駐車料金は2時間まで200円、それ以降は1時間ごとに100円なので、車で行っても300円あれば大丈夫である。

 というわけで、午後3時から仙台フィルハーモニー管弦楽団第227回定期演奏会を聴く。 このオケ、サイトによると78年6月に宮城フィルという名でプロ化したらしいのだが、私は80年5月まで仙台に住んでいたけれど、そうとは知らなかった。 全国紙しか取ってなかったから地元の情報があんまり入ってこなかったのかも。 宮城フィルと名乗っていた時代は、たしか1回だけ、「協奏曲の夕べ」 を聴いたことがあった。

 その後仙台フィルと改称してからはまったく聴いておらず、今回が初めてである。 会場の青年文化センター・ホールは800席。 中規模のホールだけど、新潟市ならりゅーとぴあの3階席と舞台後部席を撤去したみたいなものと思えばいいかな。 私は中ほどの右よりの座席で聴いた。 座席は、前後は余裕があっていいけれど、左右はもう少し広く取ってもいいのでは、と思われた。 ただし私の右隣りは空いていたので、窮屈感はなかった。 非会員価格でS席が4200円だから、東響新潟定期や、東京のプロオケより安い。

 予約は一昨日電話でしたのだが、その時、「下手がいいですか、上手がいいですか」 と訊かれて、「はあ?」 であった。 舞台に向かって左が下手、右が上手なのだそうだ。 後で考えてみると、歌舞伎などではそういう言い方をするからということなのかも知れないが、クラシック音楽でそういう言い方をするのだろうか?? 『大辞林』 で 「下手」 を引いてみたら、「演劇において客席から舞台を見たときの左側のこと」 とあって、「演劇」 限定の意味となっているのだが。

 まあ、それはさておき。 仙台フィルの公演は開演20分前にロビーコンサートがある。 今回は、ヴァイオリン3人による三重奏曲だから、ちょっと珍しい。 クラウスエルデルの 「いつもちょっと楽しく」 という小曲集と、ムソルグスキーの 「ホバーク」。 前者にはヴェルナーの 「野バラ」 のメロディーも使われていた。

 配布パンフレットには、定期会員の氏名が全員書かれてある。 それも、通常の定期会員だけでなく、オープン会員というのもあって、年9回の定演のうち好きなものを3回だけ聴けるという制度なのだそうだが、その氏名も全部書かれてあるのである。 ううむ、お客様をすごく大事にしているのだ。 東響新潟定期も、以前は新潟だけのパンフだったからその気になればできたわけだが、現在は東響の東京での演奏会と共通のパンフだから、そういうわけにもいかないだろうな。

 さて、本プログラムはオール・シベリウス・プログラムで、前半はカレリア組曲 (第2曲にバリトン独唱によるバラード ”花咲く墓地での踊り” を含むオリジナル版)、「5つの歌」 op.38より第2曲 ”海辺のバルコニーで”、第3曲 ”夜に”(バリトン独唱付き)、付帯音楽 「クオレマ」 op.44より ”鶴のいる情景”(オケのみ)、付帯音楽「クリスティアン2世」op.27より”クモの歌”、「5つの歌」op.37より第5曲”逢い引きから帰った娘”。 後半が、「トゥオネラの白鳥」op.22-2 と交響曲第7番。 指揮は井上道義、バリトン独唱は大久保光哉。

 800席のホールでの定演なのでいつも2日間行われ、今回は前夜 (金曜日) が最初で、本日土曜のマチネが第2回である。 途中、指揮者・井上氏のトークが入ったが、昨夜は大雨だったが満席、本日は快晴だがやや空きがあり、演奏する側としてはどちらがいいかというと、やはり満席のほうが・・・・・ということであった。

 私としては珍しいオール・シベリウス・プロであり、特に 「カレリア」、「トゥオネラの白鳥」、第7交響曲以外の曲はディスクでも知らない曲なので、興味津々であった。 その知らない曲については井上氏がトークで解説してくれたが、こちらが知らないシベリウスの奥深さ、幅の広さを教えてもらったように思えた。

 しかし本日の圧巻はやはり最後の第7交響曲だったと思う。 幻想曲風の曲だけど、そういう側面を大事にしながら、しかし同時に激しい感情の起伏のようなものも盛り込んだ名演だったと言える。 途中、ティンパニ奏者が強打する場面で、一方のばち (叩く棒) が折れてしまい、折れた部分が前の方に飛んでいって第2ヴァイオリン付近に落ちるというハプニングがあった。 さいわい、奏者には当たらなかったようだが、改めて感じたのは、この曲ではティンパニが大活躍しているということ、そして折れてしまいかねないほどに強く演奏するように曲ができている、とうことであった。 単なる幻想曲にはとどまらないのだ。

 というわけで、最後でおおいに盛り上がって演奏会がおしまいとなった。 会場では仙台フィル・グッズや仙台フィルのCDも売られている。 仙台フィルへの寄付用の募金箱もある。 なかなか多方面からお金をかせごうという趣向のようだ。

 さて、演奏会を終えて車で今夜の宿S・Gホテルに向かう。 そこで一休みしてから、6時半頃、夕食をとるためと映画を見るために外出する。 映画館は街のやや北の方にあるので、そちらにぶらぶら歩いていく。

 夕食はどこでとるか決めていなかったが、地下鉄の北4番町駅の交差点から少し北に歩いていったら、左手に桂苑という麺の店があった。 そばもラーメンもあるというよく分からない店で、最初、少し先に看板が見えた夢庵にしようかとも考えたが、せっかく仙台に来たので新潟にもある全国展開のチェーン店ではつまらないと思い直し、この桂苑に入ってみた。 

 麺類を自作している店らしく、こぢんまりとしているが、ラーメンもあり、そばもあり、それから麦をこねたのを麺にした 「麦切り」 もある。 麦切りというのは初めて聞いたけど、そば切りの麦版ということなのかな、と思った――が、あとで 『大辞林』 を引いたら載っていました。

 それはさておき、その麦切りと、ソーセージ3種類の盛り合わせと、生ビールにする。 店は麺類の自作をベースに、酒のつまみもそれなりに揃えていて、飲物もビールだけでなく地酒もメニューに載っており、飲み屋としても利用できそう。 しかし今夜はこのあと映画を見る予定なので、深酒は慎み、ビール1杯だけで我慢する。 ソーセージ盛り合わせは、出てきたのをみると結構ボリュームがあり、2人でつまみにしたらちょうどいいくらい。 おかげで腹一杯になった。

 で、肝心の麦切りであるが、これは味噌ベースのつゆに薬味を入れるのだが、その薬味としてネギとわさび、そして胡麻が出てきたのである。 しかも小さなすり鉢に入っていて、すりこぎ棒も付いており、客が自分で摺るようになっているのだ。 ううむ、胡麻を摺るのも久しぶりだなあ、と感慨を覚えた。 子供の頃は母の手伝いでやった記憶はあるが、大人になってからは初めてではないか。 少なくとも結婚以降やった記憶は皆無である。 うーん、何だか懐かしい感覚。

 という感慨もあってか、麦切り、なかなかおいしゅうございました。 興味のある方は仙台に行ったらお立ち寄り下さい。 別に宣伝費をもらったわけではないが。 ちなみに麦切りとソーセージ盛り合わせとビールで約1800円。 安くはないけど高くもない、かな。

 このあと、この店の近くにある仙台フォーラムで映画を見たのだが、それは映画評2008年に譲る。 

 ところで、「胡麻をする」 という言葉は 「へつらう」 という意味でも使われるわけだが、なぜそういう意味になるのだろう。 と、今回改めて疑問にとらわれたので、ネットで検索してみたら、こんなのが出てきました。

 http://gogen-allguide.com/ko/gomawosuru.html 

 胡麻をするは、煎った胡麻をすり鉢ですり潰すと、あちこちに胡麻がくっつくことから、人にへつらう意味で用いられた言葉である。
 また、商人などの手を揉む仕草が、胡麻をする姿に似ていることから、その仕草を語源とする説もあるが、あまり有力とされていない。
 胡麻をするは、江戸末期の「皇都午睡(こうとごすい)」にも見られ、「追従するをおべっかといひしが、近世、胡麻を摺ると流行詞(はやりことば)に変名しけり」とある。

3月6日(木)       *大学教授が上からの意向に合わせた発言しかできなくなったらおしまいでしょ?

 教授会。 下でも書いたように、独法化されてから研究費が激減しており、要するに学長から下に降りてくるカネが少なすぎるということなのであるから、もっと増やすよう要求しろと発言しておく。

 現在、各学部の教授会は権限を大幅に削られており、文系なら学系単位で学内行政が行われているのであるが (学系とは、いくつかの学部を集めた単位。 新潟大学では人文・法・経済・教育の4学部でひとつの学系になっている)、この学系の教授会は学部教授会と異なり全員参加ではなく、代議員制である。 私も代議員にはなっていないので、直接発言することができない。 それだけ代議員になっている教授の責任は重いはずなのだが、なぜかこの段階で 「研究費が不足したら外部から」 式の文章が紛れ込んでおり、これは要するに学長の意向=文科省の意向に合わせているのに過ぎまい。 こういう代議員では困るのである。

 だいたい、医学や工学のような実用的な学問ならいざ知らず、人文科学みたいな地味な基礎科学にカネを出す日本人などいるわけがないのである。 そうした実態を知らないわけがない人文系の教授が、なぜか 「研究費は外部から」 などとトンデモない文章を公式文書に入れてしまう。

 要するに自分の頭で考えないで、上意下達でしか行動していないからであろう。 これじゃ、学生に対して 「自分の意見をはっきり言え」 なんて説教する資格もなさそうである。

 山崎正和は 『文明としての教育』(新潮新書) で、日本の大学人の脆弱さにふれて、次のように書いている。

 「ヨーロッパの大学はつねに一方に宗教的権力があり、他方に反アカデミズムの庶民がいて、両者に挟まれていました。 すでに見てきたように、宗教教育から生まれてきた高等教育機関ではあるけれども、主力になったのはユニヴァーシティ、つまり宗教権力から自立した大学組合です。 あるときは両者と闘い、あるときは両者を説得する。 その結果、教育の質が高まっていきました。

 ところが近代日本の場合、大学の先生は政府のお墨付きを得た上、宗教からの圧力もないし、庶民を説得する必要もありません。 自分の色が周囲から脅かされるなどとは一度も考えずにすんだ。 今日でも言えることですが、この環境が大学教師のある意味での夜郎自大、あるいは安眠をむさぼる性質につながったように思います。」

 むかしは大学教師というと反政府の左翼的知識人と相場がだいたい決まっていて、盛んに反体制的な発言をしたものだが、最近はうって変わっておとなしい。 教育基本法改正反対だとか、憲法九条を守れだとか、自分の労働研究条件と直接関係ないところでしか発言しないのは、そういう脆弱さの別の表れだろう。

 私の学生時代は大学の中が学生運動で荒れていて、私がクラス討論で 「大学に入ったのだから勉強したい」 と発言すると 「反動的だ」 と批判されたりした。 あの時の人たちは今何をやっているのだろう。 あの頃、「勉強したい」 と言って孤独だった私は、今、「人文系のような非実用的な学問には大学が或る程度カネをよこすのが当たり前だ」 と言ってふたたび孤独なのである。 実は日本では、大学人こそが反アカデミズムの牙城だったりするのでは、と思ってしまう今日この頃なのでした。

3月5日(水)         *辻井伸行ピアノリサイタル

 午後6時30分から音楽文化会館で標記の音楽会を聴く。 実は当初は予定していなかったのだが、数日前になったら急に行きたくなり、急遽チケットを購入。 3500円。

 プログラムは、前半はオール・ショパンで、幻想曲ヘ短調op.49、子守歌変ニ長調op.57、舟歌嬰ヘ長調op.60、スケルツォ第2番op.31。 後半はベートーヴェンの有名なソナタ2曲で、「月光」 と 「熱情」。

 辻井くんの演奏は、以前東響新潟定期で協奏曲 (2004年秋、モーツァルトのニ短調) を聴いたのが初めてで、今回が2度目。 協奏曲ではスケールの大きさが感じられたのをよく記憶しており、今回も期待して行った。 もっともリサイタルは当然ながらコンチェルトとは違うわけで、結果から言うと協奏曲とはやや印象が異なった、というところか。

 前半のショパンは私はあまり得意ではないのでよく分からないのだが、最後のスケルツォはなかなか良かったのではないかと。
 
 後半のベートーヴェンであるが、かなりテンポの速い演奏。 月光の第1楽章でもあまりゆっくりとは弾かない。 第3楽章になると猛烈に速い。 熱情でも、第2楽章でも速め、第3楽章になると猛烈なスピードという点では似ていた。 たしかに指がよく回るなあと感心はしたのだが、曲の余韻というか、充実感ではイマイチの感があった。

 ベートーヴェンで面白かったのは熱情の第1楽章であろう。 ここはテクニック的に難しいのか、ベートーヴェンの他の楽章とは違ってちょっと曲と格闘しているような印象があり、そこに 「音楽」 が見いだせたように思った。 逆に言うと、他の楽章にはもう少し「音楽」がほしい、ということでもある。 あと、最近のピアニストは鍵盤を叩くときのタッチが洗練されていて、一音一音に魅力があるという場合が多いと思うのだが、その点ではやや物足りない。 とはいえ、まだ20歳。 ピアニズムや曲の本質を追究するのはこれからであろう。 今後に期待したい。

 アンコールに、自作の 「川のささやき」、ショパンの 「24の前奏曲」 から第24番、自作の 「ロックフェラーの天使の羽」 が演奏された。

 客の入りは7〜8割くらいか。 「新潟いのちの電話後援会」 主催ということで、会長から最初に挨拶があった。 また、辻井くんも正規のプログラムとアンコールの間に聴衆に向けて話をしたが、柿の種が好きなので新潟で買って帰るつもりだとのこと。 私も柿の種は好きなので、同好の士を見いだしてうれしく思ったことであった。

3月3日(月)     *新潟大学の図書整備は遅れているのでは?

 2月28日に書いたこととも関連するが、かねてから気になっていたことをまとめて記しておく。

 新潟大学の図書整備は遅れているのではないかということだ。 これにはいくつか原因が考えられるが、大きなものとしては (1)カネがない。 (2)制度が悪い。(3)教員に判断力がない――といったところが挙げられるのではないか。

 いや、その前に、新潟大学の図書整備が遅れているというのは本当か、という声もあろう。 無論私の目の届く範囲はきわめて狭いので、単に特定の分野が整備されていないだけなのかも知れない。 しかし、例えば2007年に出た本のなかで、「このくらい、総合大学なら図書館にあって当然」 と私が思う図書が、なぜか新潟大学にはないのである。 シンダイ、という言い方は、新潟県では新潟大学のことだが、長野県では信州大学、関西では神戸大学のことだそうであるから、この略称を持つ3国立大学を比較してみよう。

 マリー・ドュリュ・ベラ『フランスの学歴インフレと格差社会―能力主義という幻想』(明石書店)――新大なし、信大なし、神大あり

 松村高夫、ほか『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀』(ミネルヴァ書房)――新大なし、信大なし、神大あり

 山崎茂明『パブリッシュ・オア・ペリッシュ』(みすず書房)――新大なし、信大なし、神大あり

 関口裕昭『評伝パウル・ツェラン』(慶應義塾大学出版会)――新大なし、信大なし、神大あり

 わずか4冊の比較ではむろん不完全極まりないが、ここからも神戸大学に対して新潟大学と信州大学が、注目される図書をなるべく早い時期に図書館に入れておく体制になっていないことが分かる。 はっきり言って、これじゃ田舎大学に成り下がってしまうぞ!

 では、なぜこうなってしまうのか。 上に上げた3つの理由をそれぞれ検討してみよう。

 (1) カネがない。 これは新潟大学全体にカネがないということではなく――いや、あんまり沢山はないと思うけど――、図書にカネをかけていない、ということだ。

 教員一人あたりの研究費は何度も書いているように激減しているから、本を買うとすれば他の経費に寄らざるを得ないが、これがお粗末なのである。 学生用図書費というものがあって、各専攻(または学科やそれに準じる教員組織)に推薦依頼が来るが、一専攻あたり数万円程度であり、とても十分とは言えない。 ほかに大学院の共通図書費だとかいくつかあるわけだが、私は2007年度、これに片っ端から図書を推薦した結果、2回は通らなかった。 つまりカネがもうありません、あなたは以前にも推薦して通してあげているので今回はご遠慮願います、ということである。 要するに学長から降りてくる図書費が少なすぎるのだ。

 じゃあ、何にカネを使っているのか。 独法化以降、外部から人を呼んで研究会だとか講演会だとかを開催する回数が増えている。 私の印象では、増えすぎなのである。 内部の図書整備にカネを使わないで、講演会や研究会を増やすと 「評価」 が上がるようになっているからであろう。 しかし、私に言わせればこれは大学にとって自殺行為である。 学術研究の基盤形成を放棄して、イベントばかり増やしているわけだから、ここにも長谷川政権のダメさ加減 (2月28日参照) は見て取れる。 そもそも、外部から人を呼ぶと言っても、必ずしも中身を伴っていないことは昨年12月11日のこのコーナーで書いたとおりである。 中身の薄い講演会をやるくらいなら、ちゃんと本を買え、と言いたい!

 (2) 制度が悪い。 (1)とも関連することだが、本が出たらすぐに購入できる制度になっていない。 本は一年中絶えず出ている。 ところが、自由に使える研究費は大幅削減されているので、(1)で書いたような推薦制度に頼る度合いが増えている。 しかしこの制度で本を買おうとすると、推薦依頼自体が回数においてきわめて限定されており、だいたい夏休み前後(1回目)か、晩秋あたり(2回目)くらいしかないので、臨機応変な対応ができないのである。

 それと、大学で図書を買う場合、置き場所が大別して2つあり、一つは図書館、もう一つは教員の研究室である。 これ以外に学部や学科の図書室である場合もあるが、これは図書館と教員研究室の中間ということだが、使い勝手から言って教員研究室に近い。

 私は、図書館に置く本を増やすべきだと思う。 研究費が――しつこく書くが――激減しているけれど、共通で買えて図書館に置く本の数をちゃんと確保してくれるなら許してもいいと思っている。 ところがそうでないことは(1)に書いたとおり。 しかも、どこかの研究室で買った本だと、共通で申請しても受け入れてくれないのである。 新潟大学全体ですでにあるから、ということだが、個人研究室に本を借りに行くのは、きわめて億劫なものである。 その意味でも、図書館で誰でも自由に閲覧できる本を増やすべきなのだ。 私はこの点について文系大学院である現社研の科長に意見書を出したけれど、全然改善されている様子がないのである。

 (3) 教員に判断力がない。 自分の専攻分野で注目される本が出たら、その本が自学に入るようにする、というのも大学教師の仕事のうちである。 文系教師は、きわめて重要な文献だと自分のカネで買う人が多い――私もそうだけど――が、それとは別に、学生や後世の自学研究者のために大学にも一冊入るようにしておくのが研究者のつとめであるはずだ。

 ところが、その辺で自分の仕事への自覚に欠けている教員が割りにいたりするようなのだ。 或いは、そもそも関心の向く範囲がきわめて狭いので、自分の関係領域でこれなんか他の分野の人にも役立つだろうな、ということを考える能力がなかったりするのかもしれない。

 以前にも書いたけど、私はある時期からクラシック音楽評論を扱った授業をやるようになったので、その関連で図書館にクラシック音楽関係の文献がどの程度入っているかに興味を持つようになった。 ところがこれがきわめてお粗末なのである。 新潟大学の教育学部には音楽科があって、音大や芸大を出た音楽の専門家が何人もいる。 なのに、例えばシリーズもののクラシック音楽の社会史の本が図書館にはまったく入っていなかった。 仕方がないから私が申請して入れてもらったが、クラシック音楽の専門家がやらないで私みたいな音楽の専門教育を受けたこともないシロウトがこういう仕事をやらざるを得ないところに、新潟大学教員の問題がひそんでいると思う。

3月2日(日)     *平野早矢香さんを正当に評価せよ!

 以前にも書いたことだけど、マスコミの卓球報道の偏向には頭に来ているので、くりかえして書く。

 卓球の世界選手権団体戦が中国で行われており、日本は男女とも銅メダルという結果になった。 むかしむかしの 「卓球日本」 時代を知っている人からすると隔世の感もあるだろうけど、最近としてはまずまず健闘したと言えよう。

 しかし、日本のマスコミ報道はどうにも福原愛偏重で、事態を正しく伝えているとは到底言えない。

 日本女子が銅メダルに届いたのは、一にも二にも平野早矢香さんがいたからである。 福原愛は、今回、はっきり言ってお荷物に近かったぞ!

 予選の対韓国戦などその好例である。 福原は最初に負け、平野さんがその後2勝したから日本は2−2のタイに持ち込めて、第5戦でかろうじて福原が勝ったから日本の勝利になったわけだ。 誰が勝利に一番貢献したかは明瞭ではないか。

 予選の対フランス戦でもそうである。 福原は負けており、平野さんが2勝し、藤井寛子が1勝したから日本の勝利になったのである。

 準々決勝まで平野さんは一度も負けていない。 準決勝の対シンガポール戦では日本は0―3で破れたが、平野さんだけが相手からセットを奪っているし、第3セットもジュースを重ねて惜しくも取られている。 もしあそこで逆にセットを取っていたら平野さんが勝っていた可能性もかなりあると思う。

 要するに現在の日本女子で平野さんが実力ナンバーワンであることは明瞭なのだ。 準決勝で破れた相手シンガポールは全員が中国からの移入選手だそうだし、予選のライバル韓国の主軸選手もそうである (予選リーグでこの選手に勝ったのは、平野さんただ一人である)。 つまり、中国選手を別にすれば、世界的に見ても平野さんはナンバーワンのレベルにあると言っていい。

 全日本選手権では、平野さんはこれまで4回女王の座についている。 福原愛は一度も全日本で優勝した経験がないのである。 世界ランキングで言えばたしかに福原の方が上だが、これは今まで平野さんが対外試合に出る機会が福原に比べて少なかったからだろうと思う。 おそらく今回の世界選手権後のランキングでは逆転するだろう。

 むろん全日本で優勝しなくとも対外的な試合に強いというケースもある。 40年あまり前のことだけど、深津尚子は全日本では一度も優勝できなかったが、世界選手権では中国選手を倒して優勝している。 同じ頃の高橋浩も、全日本では一度も優勝できなかったけれど、当時世界一強いとされた中国の荘則棟との対戦では勝ち越している。 しかしそれは、日本が中国と並んで世界最強であり、選手層が厚かった時代のことなのだ。 今とは状況が全然違う。

 今の卓球界は圧倒的に中国が強い。 選手層も厚く、国内では選抜されないと見ると外国に流出して国籍を変えて大会に出てくるほどだ。 女子については上で書いたとおりだが、日本の男子の主力2選手だって中国からの移入選手なのだ。 まあ、それも刺激を受けたり技術を学んだりする点では必ずしも悪くはないが、要するに実力第一主義で選手を養成しなければいつまでたっても中国に勝てるわけがないのである。

 ところが、日本の新聞報道を見ると、どういうわけかいつも福原愛の写真が載っているのである。 談話も福原愛のものが圧倒的に多い。 分かっちゃいないのである。 いや、分かってもアイドル的な報道に堕しているのかもしれない。 マスコミは実力第一主義よりアイドル主義のほうが好きなのだろう。 マスコミがこんなことをやっていては、卓球日本の再建は困難だと私は断言する!

 そこへいくと、世界の目はさすがに実力をちゃんと見ている。 世界卓球連盟(ITTF)サイトに平野さんを評価する記事と写真が掲載された (下↓)。 平野さんのりりしい姿をとくとごらんあれ。  ”Sayaka Hirano was the mainstay of the Japanese victory over Korea in Group D of the Championship Division” ってちゃんと書いているでしょ。 日本のマスコミも見習いなさい!

 http://www.ittf.com/_front_page/ittf_full_story1.asp?ID=14814&Competition_ID=1678& 

3月1日(土)     *ケルビーニの交響曲のCD

 2月は忙しかった。 まず2月6日までは卒論15人分を読むのに追われ、7日と8日は卒論口頭試問に半日を費やし、9日からは授業のレポート延べ300人分あまりを読むのと成績確定に追われ、15日は成績を事務システムに入力するのに追われた。 16日から24日まではわりに時間があったが、25日と26日は前期入試の監督をし、27日から3日間は採点に追われた。 ふう。

 というわけで――前段からの論理的なつながりが希薄だけど気にしないこと(笑)――本日は某BOOKOFFに立ち寄って、ケルビーニの交響曲のCDを買う。 以前この店で見て何となく気になっていたのだが、その時は買わなかった。 しかしずっと記憶しており、本日立ち寄ったらまだ売れていなかったので、買ってしまう。 定価3000円のところ1250円だから、まあ高くはない。 ドナート・レンツェッティ指揮、トスカーナORT管弦楽団。 いずれも知らない名前だ。 録音は1987年。 外盤で日本語解説書付きである。

 ケルビーニというと、私はレクイエムなどの宗教曲の作曲家として覚えていたが、交響曲も書いているのである。 1760年生まれで1842年に亡くなった人だから、時代的に言うとベートーヴェンが生まれてから死ぬまでの期間がすっぽり中に入っているわけだが、この曲は1815年にロンドンからの依頼で書いたそうである。 ということはハイドンが亡くなって数年後だから、当時ヨーロッパ有数の音楽市場であったロンドンがハイドンの後釜みたいな気持ちで頼んだのかも知れない。 時代的にベートーヴェンとの比較をするなら、第7・8交響曲のすぐあと、ということになる。 聴いてみると、ちょっとベートーヴェンを思わせるところがあって、古典的であると同時にロマン派的である。

 他方、このCDにはケルビーニが作曲した歌劇の序曲も3曲収められている。 『メデア』 序曲、『アウリデのイフィジェニア』 序曲、『クレッシェンド』 序曲である。 私はいずれのオペラも見た (聴いた) 経験がないが、『メデア』 序曲などはかなり悲劇的情緒が強くて、一般受けしそうな感じだ。

2月29日(金)    *映画の年間ベストテンを選ぶためには、最低10本は見ている必要ありと思いきや・・・・

 新潟市のミニシアター系映画館シネ・ウインドが発行している雑誌 『月刊ウインド』 が届く (この雑誌については1月30日を参照)。

 今月号には 「月刊ウインド編集部主催・2007年の映画を振り返る座談会」 が載っている。 ただしその前半だけだそうで、後半は来月号に載るのだそうだ。

 参加しているのは、編集部の8人、それに 「見学者」 が2名。 編集部の8人は2007年に見た映画の本数とベストテンを挙げているのだが、ここでまず首をひねる。 一番沢山見ている人が146本、次点が117本、70〜80本台の人が4人。 ここまではいい。 ところが残る2人は27本と8本(!) なのである。 これ、ちょっとマズくないですか?

 映画館が出している雑誌を編集している人たちだから、当然ながら映画をよく見ているだろうとふつう思うわけだが、必ずしもそうではないのだ。 特に8本の人って、若者風の言い方を使うなら、かなりヤバくね?

 それと、編集部による座談会というふれこみでフルネームも挙げず名字だけ掲げてやっているのだが、この辺に私はこの雑誌を編集している人たちの感覚のズレを感じるのである。 はっきり言うと、あんまり周囲が見えなくなっているのではないか、ということ。

 雑誌編集部と言っても、基本的にボランティアである。 映画館シネ・ウインドには給料をもらって仕事をしている人 (専従という) が4人いるが、その4人は配給会社との交渉だとか上映の際の映写機の管理だとか映画館入口でのチケットのもぎりだとかの仕事に追われており、雑誌制作にはほとんどタッチしていないようだ。 雑誌を作っているのは、専従以外の、外部から入ってきて何となく編集部の仕事をやるようになっている人たちなのだ。

 そのこと自体はむろん悪くも何ともない。 そもそもシネ・ウインドという映画館自体が多数のボランティアによって動いているのである。

 ただし、そういうシロウト性を前面に出すなら、自分が何者かははっきり示しておいた方がいいと思うのである。 フルネームと年齢を掲げ、自分がどういう仕事をしているか (学生でも主婦でもフリーターでも結構) くらいは書いておくべきではないか。 つまり、その人が映画を見る感覚のよってたつところを或る程度示しておくべきだろうということである。 それでこそ、「なるほど、こんなに忙しい職業だから年間8本しか見られないのか」 と理解してもらえる (?) のではないか。

 ちなみに、「会員選出ベストテン2007」 という記事も載っていて、シネ・ウインドの一般会員 (この映画館は会員制。 ただし会員でなくとも映画は見られる) が選んだ映画についても言及がなされているが、一般会員からのベストテン応募は40通で、平均鑑賞数は73本だそうである。 まあ、映画好きが映画館で一年間に見る本数ってこのくらいかな、と思いますよね。 ちなみに最高は336本の方だそうで、記事にも 「編集部一同、驚愕」 とあったけど、私も驚愕しました。 

2月28日(木)   *長谷川彰・前新潟大学学長の罪と失政をまとめてみると

 この2月、新潟大学では学長が交代した。 6年間つとめた長谷川彰氏に代わって下條文武氏が就任した。 はたして下條氏が学長としてまともな仕事をしてくれるのか、長谷川政権6年間で新潟大学はかなりガタガタになっているだけに、心配の方が先立ってしまう。

 この欄でも長谷川氏の学長ぶりのひどさについてはたびたび記して来たが、ここで改めて、長谷川・前学長の失政ぶりをまとめて列記しておく。

 (1) 学長選挙の結果を無視して強引に学長2期目を務めた。 1期目は選挙で多数を取ったのだから正当な就任だが、2期目は多数を取れなかったのに学長に就任した。 新潟大学の顔とも言うべき人間が民主主義を理解していない、と天下に知らしめた意味において、悪しき前例を作った罪は重い。 ついでに、そうした学長下では理事などに就任するのを拒むべきだと思うが、平気で就任する人間がこれまた少なくないこともはっきりした。 かつて左翼として学内改革を叫んでいた団塊世代がそうだということは、彼らの左翼ぶりが何であったかを改めて明瞭にしたと言えるだろう。

 (2) 教員の研究費を半分以下に削減した。 おかげで研究に多大の支障が生じているし、基本的な文献を買い集めることもできなくなった。 大学としての基盤を整備することにまったく意味を見いださない人が学長になっているのは、きわめて恥ずかしいことである。

 (3) 現場教員の声を聴こうとしなかった。 (2)について直接話をしようと私は長谷川氏に面会を求めたが、氏は拒否した。 ところがその一方で、新潟市の政令指定都市昇格にあたって区名を決定する委員会の委員長に就任したりしているのだ。 学外の仕事を引き受けるなら、学内の仕事をきちんとやった後にしてもらいたいものだが。 この人がどこに顔を向けていたかは明瞭であろう。

 (4) 教員の研究発表の場を奪った。 各学部に降りてくるカネが激減したために、人文学部では従来年3回発行していた紀要が2回しか出せなくなっているし、『言語文化研究』 という外国語・外国文化研究教員用の紀要が別にあったのに、これにカネを出すのを中止させた。 いったい、研究発表の場を奪って、どうして 「研究をしっかりやれ」 などと言えるのか? 長谷川氏にまともな判断力があるのか疑ってしまうやり口である。

 (5) 学長裁量経費で判断力のなさを露呈した。 教員の研究費を大幅に削減したり、紀要発行を困難にしている一方で、学長裁量経費というものがふくらんでいる。 重要な研究や設備には学長の判断でカネを出すというものだが、これが機能するためには学長およびその取り巻きにまともな判断力があるということが大前提となる。 ところがそんなものはないのである。 教育学部が約1千万円するスタインウェイのピアノを要求して、学長はそれを認めた。 しかしこのピアノはコンサートホールなどにあるフルサイズのグランドピアノではなく、ミニサイズである。 しかも教育学部にはまともなホール設備すらないのである。 楽器はそれにふさわしいホールがあって初めて機能を十全に発揮するものだし、だいたいフルサイズでないピアノでは本格的な演奏会を行うには不足と言うしかない。 要するに、その程度の判断力すら長谷川学長にはなかったわけだ。

2月26日(火)     *2月12日に記したことの余波

 教養科目・西洋文学の授業でネット上の記事に大きく依拠してレポートを書き、しかも引用した事実自体を隠した学生2人を0点にしたことは2月12日に書いた。 そうしたら、その引用元であるブログに次のような文章が載った。

 http://yondance.blog25.fc2.com/blog-date-20080214.html 

 新潟大学教授の三浦淳が学生にレポートを課した。
 テーマはレッシングの「ミス・サラ・サンプソン」(古いドイツ戯曲)。
 複数人の学生がうちのブログからぱくったらしい。まあ、盗んだと。
 それを発見した三浦淳は、当該学生のレポートを0点にしたということである。
 およそ内容というものがないオレ様日記でこの新潟大学教授が憤っていた。
 かわいそうにと思う。悪いことをしてしまったとわたしが申し訳なく思うくらいである。
 もとより、三浦淳にではない。新潟大学の学生さんにである。
 うちのブログのせいで0点になってしまいごめんなさい。
 もし単位をもらえなかったとしたら、どう謝罪すればいいのか心苦しい。
 大学のレポートなんて、いいかげんでかまわないではないか。
 なにをこの三浦淳はむきになっているのだろう。

 おいおい、「大学のレポートなんて、いいかげんでかまわないではないか」 って、勝手に決めるなよ。 そういう物言いをこそ 「オレ様」 というのじゃないかね。 レポートはいい加減じゃダメだというのが私のポリシーなので、外野から無責任なことを言うだけならカバにでもできる。

 「どう謝罪すればいいのか心苦しい」 って、本当にそう思っているなら私にメールをよこしなさい。 当該学生の名前とメルアドくらいは教えてしんぜよう。 ちゃんと謝罪しておきなさい。 それはさておき、こんなことも書いてあったけど――

 このおっさんはサイトの文章の無断引用を禁じている。

 > このサイトのリンクは自由にどうぞ。
 > ただし、記事を引用される場合はメールで連絡をお願いします。

 そのくせ、うちのブログの記事を無断で引用してメールひとつよこさない。
 (「本の山」は基本的にリンク、引用ともにフリーだけれども)

 辻褄が全然あってない。 あなたが自分のブログに 「引用するならメールで断れ」 と一言書いておけば私はそうする。 書いていないから勝手に引用しただけのこと。 私は私の主義で自分のサイトを作り、あなたはあなたの主義でブログを作っている。 自分の主義を言うなら、他人の主義をも尊重するのが当たり前。 仮にそれが自分の主義と違っていたとしてもだ。

 いや、あくまでそうした条件は相互に平等であるべきだ、というなら、あなたの実名をさらしなさい。 私は実名で自分のサイトを作っている。 自分は匿名のままで実名の私を批判するのは、あなたの主義に反するのじゃないかと思うけどなあ。

 で、結論としてこんなことが書いてある。

 なぜこんな記事なを書いたのか。学生諸君に注意をうながすためである。
 この男には注意しろ、だ。
 取らないで済ませられるのならこんな先生の講義など受けないほうがよろしい。

 私の講義を受けたこともない癖に、よくまあ簡単に断言するものだと感心してしまう。 まあ、あなたのブログの文章をそっくり持ってこないとレポートも書けないような学生には、私の講義はとってもらいたくないのも確かなんですがね。

 だいたい、教養科目とはいえ本気でドイツ文学の授業を受けたいと思っている学生がそんなに沢山いるわけないと私も思う。 なのに学期初めには定員をオーバーして多数の学生が押し寄せるので、抽選その他で四苦八苦しているのが実情なのだ。 だからあなたのブログを真に受けるようなダメ学生が最初から私の講義を避けてくれれば、私も少し楽になるだろうな――そんなふうに思ったことでした、はい。

2月24日(日)         *アンサンブル・フィーデル10周年記念コンサート

 本日は昨日に続いて音楽文化会館に出かけた。 午後2時から標記のコンサートを聴くためである。 アンサンブル・フィーデルは新潟市でヴァイオリンを教えながら演奏活動もしている鈴木和子さんが中心になって作っている合奏団体である。

 指揮は小林英昭で、プログラムは、前半がモーツァルトのディヴェルティメントK.136、ヴィヴァルディの合奏協奏曲op.3-5 (Vn独奏=鈴木花恵、鈴木和子)、ボッケリーニのチェロ協奏曲G479(Vc独奏=根津要)。 後半がドヴォルザークの弦楽セレナーデ。アンコールに 「千の風になって」。

 昨日に続いての弦楽合奏の演奏会。 とはいえ、昨日が学生、それも必ずしも音楽を専攻していない学生たちの演奏だったのに比べると、本日の演奏者たちは大部分 (なのかな? よく知らないんだけど) 音大などで音楽を専攻した方々のはず。 だからアンサンブルの出来から言うと本日のほうが上であった。

 だけど、だから音楽の感銘も大きかったか、というと必ずしもそうとは言えないのが音楽の、或いは芸術の不思議なところ。 いや、色々な作曲家の色々な曲種があって、十分楽しませていただいたのでけれど、昨日最後の 「フィレンツェの思い出」 の気迫のこもった演奏を思い出すと、どうもその辺で不足が感じられるのである。 何というのかな、プロ野球に比べるとずっと技倆は落ちるけど高校野球のほうが見ていて面白い、みたいな。

 客の入りは5割くらいだったろうか。 本日は大荒れの天候で、しかもりゅーとぴあで別の催しがあって駐車場が満車という悪条件のなか、これだけの方々が聴きに来られるのでだから、新潟市の音楽文化も捨てたものではあるまい。

2月23日(土)      *第3回ヴァルムジカ・コンサート (新潟大学管弦楽団弦楽器奏者によるアンサンブル)

 本日は午後1時半から音楽文化会館で標記の演奏会を聴いた。 プログラムは、前半がグリーグの 「ホルベルク組曲」 とメンデルスゾーンの弦楽交響曲第10番、後半がV・ウィリアムスの 「タリスの主題による幻想曲」 とチャイコフスキーの 「フィレンツェの思い出」(弦楽合奏版)。 アンコールにチャイコフスキーの 「アンダンテ・カンタービレ」(弦楽合奏版)。

 非常に意欲的なプログラムである。 特に後半の2曲は私の好みなので期待して出かけた。 曲ごとにコンマスを入れ替えて指揮者なしでの演奏。

 新潟でも東京交響楽団の演奏会が頻繁に聴けるようになっているので、どうしてもアマチュアの演奏だとアラが見えてしまうが、なかなか頑張って演奏していたのではないだろうか。 最後の 「フィレンツェの思い出」 は力演と言っていい出来ばえであった。 前半の2曲もわるくなかった。

 問題は 「タリスの主題による幻想曲」 だろうか。 この曲だけ演奏の出来が悪かったということではない。 他の3曲は曲が形式的にかっちり作られていて、合奏がプロほど精妙でなくともそれなりに聴けるわけである。 ところが 「タリス」 はタイトルどおり曲が幻想的に細やかにできており、弦楽合奏がかなり上手でないと曲の趣き自体が損なわれてしまう。 私も今回プログラムの4曲を実演で聴いてみてそのことに気づいた次第。 なかなかプログラム構成も難しいものだな、と痛感した。

 とはいえ、意欲的な試みと言うべき演奏会だから、次回も期待。 客の入りは百人を少し超えるくらいだったかな。 もう少し入ってもいいと思うけれど、宣伝をもっとちゃんとしたほうがいいのじゃないかな。 私も、この演奏会を知ったのは1週間前に東響新潟定期でりゅーとぴあに行ってチラシを見つけた時だった。 もっと早い時期にチラシは出しておくべきだし、新潟大学管弦楽団のサイト(↓)がせっかくあるのだから、そこにも載せておくべきだと思うなあ。

  *     *     *

      *うまいみそ汁のお話

 ところで、演奏会の前に近くのトンカツ屋さんTで昼食を取った。 この店のことは以前にも書いたと思うが、なかなかおいしいのである。 とはいえ、とんかつ定食だと千円以上するので、私の財布の中身に合わせて串カツ定食を頼む。 これだと千円をわずかに割る値段。

 この店、カツもおいしいのだが、ごはんとみそ汁がお代わり自由であるのもうれしい。 そしてこのみそ汁がまた美味なのである。 食事でみそ汁をお代わりなどしない人が多いと思うけど、ここのはあまりにおいしいので、店の主人の勧めにしたがってついお代わりしてしまった。

 こんなことを書くのも、新潟大学生協の理事をやっている関係で、最近の学生はあまりみそ汁を飲まなくなっている、という情報を得ているからだ。 今どきの生協食堂は、むかしと違ってカフェテリア方式であり、自分の好きなものを取って最後に会計をするようにできている。 だからご飯とみそ汁はセットではなく、ご飯は取っても、みそ汁は取らなくて構わない。 まあ、そのほうがみそ汁代 が節約になるわけだが。 お茶はタダでいくらでも飲めるから、それがあれば沢山、と考える学生も少なくないようだ。

 しかし、これは単に節約目的からだけではなく、みそ汁というものにあまり魅力を感じていないからではないかという気がする。 生協で作るみそ汁があまりうまくないのは、大量に作るためと、そもそもあまり原料にお金をかけていないためと、二つの理由があるだろう。

 だけど、そういう学生がこのトンカツ屋さんのみそ汁を飲んだら、認識を完全に新たにすると思う。 「みそ汁って、こんなにうまかったのか!」 とびっくり仰天すること請け合いなおいしさなのだ。 嘘だと思うなら一度行ってごらんなさい。

2月20日(水)       *シマノフスキの弦楽四重奏曲  

 夕刻、にいがた国際映画祭の映画を見に行ったついでに、古町のBOOKOFFに久しぶりに立ち寄る。 本と1冊とCD1枚を買う。 ここんとこ、映画祭でもないと古町に来ることすらなくなっている。 東京なら銀座に当たる繁華街だけど、地方都市は最近郊外の駐車場無料の大型スーパーに客が移っているから、繁華街も閑散街と言い換えた方がよさそうな人通りになってしまっているのだ。

 それにしても、以前にも書いたけど、新潟のBOOKOFFのクラシックCDへの値づけは異常に高い。 店によっても違うが、この古町店は値づけの高さで言うと筆頭に近いのではないかと思う。 セット物で定価1万3千円台のCDに1万1千円なんて値段をつけている。 2割しか安くなっていない。 普通BOOKOFFといったら半額のはずじゃないのか。 ばかばかしくて買う気がしないのだが、これでも買う人間がいるのだろうか。

 それはさておき、本日私が買ったのはカルミナ四重奏団の演奏によるシマノフスキの弦楽四重奏曲2曲を収めたCDである。 これは定価3000円のところ半額だったのと、シマノフスキの弦楽四重奏曲は聴いたことがなかったので、買う気になったもの。 

 で、さっそく聴いてみたのだが、うーむ、現代音楽にかなり近づいていますね。 慣れるのにちょっとかかりそう・・・・・・。

2月18日(月)       *CD2枚、ヴァイオリン小曲集とブルックナー第7

 昨日のことだが、コンサートに行くと不思議なことにさらに音楽が聴きたくなるものである。 で、昨日は東響定期を聴いた後、某BOOKOFFに直行し、古本若干とCD2枚を購入。 本日聴いてみる。

 1枚は、ナージャ・サレルノ・ソネンバーグのヴァイオリン小曲集。 私は彼女のCDは 「フィレンツェの思い出」 など多重奏室内楽を入れたものしか持っておらず、ヴァイオリニストとしての本領が聴けるCDはこれが初めて。 本来ヴァイオリン用でない曲なども積極的に入れているところが独特のような気がするが、演奏ではクライスラーの 「愛の悲しみ」 なんか、テンポを遅めに取っていて、「愛の切なさ」 「愛の苦しさ」 といった印象になっている。 これも一興かな、と思えた。

 もう1枚はマタチッチ指揮、チェコ・フィルによるブルックナーの第7。 これは500円コーナーにあったので掘り出し物だったわけだが (定価が1050円だからなんだけど)、悠長迫らざるテンポの名演である。

 ブルックナーの交響曲というと、最後の3曲がすばらしいことはクラシックファンなら誰でも知っているが、私の場合、時期によってその3曲のいずれかを集中的に聴きたくなる。 少し前は第8で、それ以前は第9だったりしたわけだが、どういうわけかこの1カ月くらいは第7になっているのだ。 私が持っているこの曲のディスクというと、LPでカラヤン+ベルリン・フィル、CDでベーム+ウィーン・フィルおよびチェリビダッケ+シュトゥットガルト放送響のだけなので、もう少しあってもいいかと思っていた矢先に、この発見である。 いつも物事がこういうふうに運ぶと、人生も楽でいいんですがね。

2月17日(日)     *にいがた国際映画祭、そして東京交響楽団第46回新潟定期演奏会 

 忙しい一日だった。 昨日からにいがた国際映画祭が始まり、この日はNEXT21の6階にある新潟市民プラザでドストエフスキー関係の映画2本を上映。 この日しかやらないので見逃すわけにはいかない。

 まず午前10時半から 『ドストエフスキーの生涯の26日』。   そして午後1時からは畢生の大作 『カラマーゾフの兄弟』 の映画版を上映。 途中休憩15分を入れて約4時間強 (のはずだったのだが・・・・) の映画。 世界文学の最高傑作の映画化とあって、会場の市民プラザはほぼ満員の盛況。  映画そのものの感想は 「映画評2008年」 に譲る。

 さて、予定では 『カラマーゾフの兄弟』 の終映時刻は午後5時10分。 この日の東京交響楽団新潟定期が5時開演。 なので、東響新潟定期の第1曲であるベートーヴェンの第一交響曲は聴けないだろう、映画が終わってから早足でりゅーとぴあに行けば第2曲のストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲から聴けるだろう、と思っていた。

 ところが、映画が終わって時計を見ると、まだ4時50分を少し出たところなのである。 予定では5時10分のはずだったのに。 理由の一つは、映画は途中休憩を入れて244分ということなので (配布資料による)、5時10分終映という設定自体が余裕を見て作られていたということであろう。 単純に計算すれば5時4分のはず。 それともう一つは、映画のフィルムが古くて (1968年制作)、今まで何度も途中で切れたのをつないだりしているので、当初作ったときより短くなっていたのだろう。

 というわけで、これは急げば東響定期の第1曲も聴けるのでは、と考え直して、りゅーとぴあまで歩くはずのところを、三越前からタクシーに乗る。 で、かろうじて開演に間に合ったという次第。 タクシーの運転手さんがおしゃべりな人で、私がりゅーとぴあまでと言ったら、神尾真由子さんの話を始めた。 テレビで見たそうなのだが、タクシーの運転手さんがこういう話をするところをみると、案外新潟市民にはクラシック音楽がかなり浸透しているのかも知れない。

 かくして開演ぎりぎりにGブロックの定席に到着。 したがって指揮者・飯森範親さんのレクチャーは聞けなかったのであるが、あとでコンチェルト2号さん (↓) やuma3さん (↓↓) のブログを拝見したら、今回のベートーヴェンは古楽器奏法でやったのだそう。 うーん、全然それと分からなかった。 私の耳はこの程度 (笑)。 楽器の配置がふだんと違うのは無論一目瞭然だったけど。 左から、第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンで、コントラバスは一番後ろの正面。 打楽器とトランペットもいつもと異なり右側。

 http://concerto2.exblog.jp/
 http://uma3.exblog.jp/ 

 で、演奏だが、最初のベートーヴェン第1交響曲についてはいつもの東響かなと。 美しいけれど、もう少し起伏が欲しい感じ。 一定水準を保っているけれど、それを超えるものがあったかどうか。

 次の庄司紗矢香をむかえてのストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲は、技巧的には問題なく弾いていたとは思うけど、音量があまりないせいか、ちょっと物足りない気がした。 管楽器と一緒のところなど、ヴァイオリン独奏がよく聞こえない箇所もある。 むろん、曲が曲で独奏楽器を高音で朗々と響かせるようにはできていないのでそのせいでもあるだろうが、庄司さんは前回新潟にコリン・デイヴィス指揮のロンドン響と一緒に来てシベリウスの協奏曲をやったときにも、ちょっと音量不足を感じたので、その辺が課題かな、と。 もっとも今回はアンコールでバッハの無伴奏ソナタ第3番ラルゴをやってくれて、この時は音量に不足はなかった。 だから、朗々と音を響かせるようにできていないパッセージで、ある種のエグさを音量を伴って表現する力量、とでも言うのかな、そういうものを身につけてもらえたら、敵なしだと思うんだけど。

 帰宅して、チョン・キョンファのこの曲のCDを改めて聴いてみたのだけど、やっぱり録音だから音のバランスがとれているんだろうな、と思う。 ただ、昔N響の定期で一度だけこの曲の実演を聴いたことがあるのだが、あの時は今回より独奏者 (記憶違いでなければギトリスだったと思う) の音は出ていたような気がするので、曲の性質のためだけではないんじゃないか。

 3曲目のベートーヴェン第2交響曲、これは良かった! 私、もともとこの曲が大好きなのだが、その期待に応えるように気合いの入った演奏。 最初の第一交響曲に比べると団員も身体が動いているというのか、硬さが解けて音がよく出ていたように思われた。

 会場は満席。 いつもこうだと団員の方々も演奏に力が入るのでは。 途中休憩では、ぶりちょふさん、アキラくん、Tomoさんとお話ができた。 また、終演後、コンチェルト2号さんのおかげで新潟にて活躍中のピアニスト石井朋子さんと初めてお話することができた。 コンチェルト2号さん、ありがとうございます。

2月15日(金)     *自転車ユーザーよ、おごることなかれ!

 昨日の産経新聞家庭欄に、放置自転車の問題をとりあげた記事が載った。 自転車ユーザーが歩行者の邪魔になるような場所に自転車を好き勝手にとめ、注意されると逆ギレするなどの現象が多く見られる、という記事である。

 私もかねてから新潟大学の自転車ユーザーには立腹していたので、この欄に書いておこう。

 新潟大学に通う手段としては、歩く、自転車、バイク、バス、自家用車が考えられるが、このうちもっとも無法な人間は間違いなく自転車ユーザーである。

 何しろ好き勝手な場所にとめるのである。 いや、好き勝手な場所でも人の迷惑にならなければ別段構わないのだが、迷惑になる場所に平気でとめるのである。 歩行者用の通路にとめる、校舎入口のすぐ前にとめる、新潟大学行きのバスが乗り入れるためのスペースにもとめる――やりたい放題なのである。 ここにとめたら歩行者の邪魔になるだろう、バスが通れなくなるだろう、なんてことはこれっぽちも考えない。 自分の都合しか頭にないのだ。

 私は数年前、この問題について教授会で発言を求め、無法な駐車をしている自転車は撤去し屑鉄業者に売り払うなどの強硬手段をとるべきではないか、と訴えたが、自転車の所有権の問題に触れるからと、構内交通対策委員会担当の教授は、事実上何もしません回答をよこした。 ったく、歴史問題では日本の過去を厳しく断罪するくせに、今現在目の前で行われている無法行為には何もしないのである。 「良心的な」 大学教授なんてのはこんなものだ。

 私はさらに数カ月前、校舎管理の事務部に対し、この問題でもっと厳しい対策をとれと申し入れた。 事務部も何もしていないわけではない。 随時、違法駐輪の自転車を正しい駐輪場に移したり――実に優しいんですよ、まるで幼稚園児相手みたい――、歩行者用通路であることを明示するための置物をしたりしているのだが、無法でバカな学生にはなかなか効果がない。

 しかし、事務部は、自分たちの権限ではこれ以上のことはできない、自転車の違法駐輪をとりしまる学内法の整備などは教員の仕事に入る、と言ってよこした。

 それもそうかもしれないと思ったので、そのすぐあと、つまり今から数カ月前の教授会で、改めて自転車の無法駐輪を取り締まるための学内法を何とかしろと発言しておいた。

 その後どうなったのだろう。 今のところ、回答は来ていない。

2月13日(水)     *北陸大学田村光彰氏解雇事件(2/6)の続き――ドイツ文学者もいろいろ

 2月6日のこの欄に書いた田村光彰氏解雇事件だが、2つ追加しておく。

 (1) この問題を独文学会全体で取り上げるべきじゃないかと、富山大学の名執基樹さんにメールで言ったところ、名執さんは独文学会の北陸地区選出理事でもあるので、さっそく今月9日の理事会で提案してくれた。 時間がなかったりして理事会で決議するには至らなかったようだが、支援する会に理事会幹部が接触をしてこの問題と独文学会の接点を探ることは了承されたとのこと。 とりあえず、独文学会の対応としては上出来と言えよう。

 (2) 新潟地区の独文学会員にこの事件に関するメールを出したことは2月6日に書いたとおりだが、昨日、メールで苦情が来た。 要するに、この件は独文学会に直接関わらないし自分には興味がないことだから迷惑メールだ、というのである。 私は以下のように返信しておいたが。

  興味がないなら、読んで削除されればいいことだと思います。 興味を持てと強制するものではいささかもありませんし、そんな書き方はしていなかったと考えます。
 例えば新潟大学や新潟大学人文学部から配信されるメールも、私に直接関係ない事項も含まれています。 それでも私は文句をつけたことはありません。
 あなたがそういうメールにいちいち文句をつけているとおっしゃるなら、私も考えておきましょう。

 新潟大学という国立大学に定職を持ち、しかも教養部のような脆弱な組織には最初から属さなかった人間は、こういう苦情を持ち出す、という好例のような気がする。 ドイツ文学者のある種のタイプが見える対応ではある。 また、教養部解体後は、こういう人間が学内第二外国語の 「改革」 に関わっている、ということも付け足しておきたい。

2月12日(火)     *レポートを書くときはサイトを丸写しするなっ、って言っているのに、懲りない奴は・・・・

 教養科目・西洋文学の2回目のレポート、日曜日から読み始めていたが、本日なんとか読了。 前回同様120人分以上に及ぶ。 (ちなみに先週土曜日までは別の授業のレポート延べ80人分を読むのに追われ、明日からは別の教養科目のレポート約90人分を読むのに追われる予定。)

 しかし、懲りない奴はいるもので、相変わらずサイトの丸写しをしている学生がいる。 今回は、レッシングの 『ミス・サラ・サンプソン』 の感想を某サイトから引き写している。 1月18日とは違って内容の間違いはないが、こんなサイトのこんな文章である。

 http://yondance.blog25.fc2.com/blog-date-20070107.html 

  マーウッドとかつての情夫とのやりあいはこの芝居の絶頂である(P204-206)。
 愛し合うふたりを見て快いのは、ふたりの破局をまえもって知っているときのみ。
 ほんとうにおもしろいのは、たとえばこの芝居でマーウッドが繰り広げる戦争である。
 男女間の戦争だ。お互い、嘲り、軽蔑し、憎みあう。
 夫婦喧嘩は犬も食わないというのはウソだ。あれほどおもしろいものはない。

 まだ続くのだが、上で引用した最後の行、「夫婦喧嘩は犬も食わないというのはウソだ」 が、バレるきっかけである。 最初この文章を某学生のレポートで読んだときはそのまま読み飛ばしたのだが、再度同じ文章を別の学生のレポートに見つけて、「あれ?」 と思った。 今どきの学生、それも文学専攻でない学生が受講生のほとんどである教養科目のレポートで、こんな表現を複数の学生が偶然の一致で使うことはまずあり得ない。 どこかのサイトを丸写しにしたに違いない、と思ってGoogleで検索したらすぐに分かってしまった。

 「夫婦喧嘩は犬も食わないというのはウソだ」 は3人の学生のレポートに見られたが、そのうち1人は前後を見ると丸写し部分はわずかで、しかも引用サイトを最後に示しているので、許容範囲と見なしたが、残り2人は引用サイトを最後に提示しておらず、丸写しの部分がかなり長い。 加えてその中の1人は、文章を微妙にアレンジして書いており、サイトを写したとバレないように粉飾しているようで、それだけタチが悪い。

 私は学期初めにレポートの書き方を教えており、書物やサイトから引用した場合は最後に明示すること、しない場合は盗作と同じだから0点にすると言ってある――言うのみならずプリントして配布もしてある――ので、この2人は0点で決まりである。 ったく、懲りない奴は懲りないんですよねえ。

 まあ、それはともかく、この 『ミス・サラ・サンプソン』、昼ドラみたいで面白い、と書いた学生がやはり複数いた。 念のため、これはサイト丸写しではない、ようである。 たしかに話としては現代的なのだ。 稀代の悪女マーウッド、逆にお嬢様育ちで悪徳を知らないサラ、元祖ダメ男であるメルフォントなど、役者がそろっている。 ダメ男が悪女とお嬢様の双方から惚れられている、というパターン。 だれか本当に昼ドラにする人、いませんか? たまにはドイツ文学による昼ドラなんかも受けるんじゃないかと思いますけど。

2月10日(日)        *民主主義の基礎をおろそかにすることなかれ

 本日の産経新聞の 「主張」(他紙の社説にあたる) に、「日教組教研集会 司法判断を今後に生かせ」 が掲載された。 今月の2〜4日に行われた日教組の教育研究全体集会で、会場に予定されていた東京都港区のホテルが、いったん日教組と使用契約を結びながら、右翼の街宣活動を理由に取り消したという事件。 裁判にもちこまれ、東京地裁・高裁とも日教組側の主張を認めたが、ホテル側は拒否の姿勢を崩さなかった、というものである。

 産経新聞は、日教組に旧来の体質が残っているとしながらも、基本的に司法判断を支持している。

 すでに毎日新聞はこの件で今月2日に 「言論の自由にかかわる問題だ」 という社説を出している。 今回のホテル側の対応は、集会、言論、表現の自由を損なう前例となりかねない、という内容だ。

 産経の 「主張」 は毎日に比べるとずいぶん出遅れた感があるが、右派系と見られがちな産経も集会の自由を擁護する線を打ち出したことで、大手マスコミの対応はひとまずそろったと見ていいだろう。

 言論や集会の自由を守るには、時として右翼の街宣行動などに対して毅然たる態度をとる必要もある。 ホテルが民間企業であれ、そうした基本は忘れてはならないだろう。 むろん、これはホテルだけの話ではなく、大学人に直接かかわる問題だと思うから私はここに書いているのである。

 私は、労働組合は基本的な労働条件や雇用の問題に専念すべきだという考えで、日の丸君が代反対ばっかり叫んでいる日教組のイデオロギーは嫌いだから、今に至るまで加入していないけれども。

   *     *     *

     *美人の時代?

 さて、本日の産経新聞の文化欄には、「日本画家 松井冬子 ナルシシズムと向き合う」 という記事が載っていた。 私は日本画には興味のない人間だからふだんなら読まないところだが、今日に限って読む気になったのは、松井冬子さんの写真のためである。 フェミニストには叱られそうだけど、絵より本人の方が美しいんじゃないの、と言いたくなる美人だったからだ。 記事にはそう書いてなかったが、美人だからこそ 「ナルシシズム」 のテーマが選ばれたんじゃないですか。 (↓ こちらからウェブ上の記事と写真が見られます。)

 http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/080210/art0802101335001-n1.htm 

 美人と言えば、先ごろ芥川賞をとった川上未映子さんも美人だし、ウェブ上では八戸市の美人市議が話題になっているし、一昨年映画 『ゆれる』 で話題をさらった――もっとも私自身はこの映画は全然評価していないんだけど――西川美和さんも、若い頃の大原麗子にちょっと似た美人なのである。 映画監督なんかやめて女優になったらどうですか、と言いたくなってしまうのである。

 ところで、画家とか作家とか議員とか映画監督とかの世間から注目される職業に美人が就いているのをどう捉えるべきか。 むろん彼女たちは美人だからその職業に就いたわけではなく、また美人だから注目されてその職業に推されたわけでもなく、偶然才色兼備だった、というのが素直な解釈であろう。

 ただ、あえて突っ込んだ解釈をするなら、ビジュアルが重視される昨今、日本人はその時代にふさわしい変貌を遂げているのではないか、という考え方もできる。 つまり時代が才色兼備を求めているので、自然にそういう人間が生み出されるようになっているのではないか、ということである。 なんだか進化論で否定されたラマルクの用不用説みたいで怪しいのは重々承知していますけど (笑)。

 いや、日本だけではない。 もしかしたらアメリカの次期大統領になるかもしれないヒラリー・クリントンだって才色兼備なのである。

 この考え方が正しいとすると、例えば大学を初めとする学校なら、美人ほど成績がいい、という結果になるはずである。 でもそんな調査、フェミニストが怖くてできませんよね。 誰か、勇気のある社会学者か教育学者がいないかなあ・・・・・。

2月6日(水)        *北陸大学田村光彰氏およびライヒェルト氏解雇事件

 北陸大学勤務のドイツ文学者である田村光彰氏とライヒェルト氏が大学から一方的に解雇されるという事件が昨年起こったのを、うかつにも私は数日前まで知らなかった。 富山大学勤務のドイツ文学者・名執基樹氏に情報を提供してもらって、新潟地区の日本独文学会会員に本日、以下のようなメールを送った。

   *     *     *

独文学会北陸支部新潟地区会員各位

 三浦淳です。

 直接学会に関わることではありませんが、学会員である独文・ドイツ語教員に関する問題ですので、お知らせします。
 
 北陸大学勤務の田村光彰氏が昨年一方的に解雇され、裁判で争った結果、田村氏側の勝利となりましたが、大学側は今に至っても復職を認めておりません。(下記サイト参照。)

 http://www.hab.co.jp/headline/news0000000647.html
 http://university.main.jp/blog5/archives/2007/06/post_160.html 

 富山大学の名執基樹さんにこの件についてうかがったところ、支援する会ができているので、できたら協力して欲しいとのことでした。

 http://www.tars.jpn.org/ 

 名執さんの話では、解雇は以下のような状況においてなされたということです。

>解雇の過程については、「薬学部」「外国語学部」「法学部」
>の3学部から新設の「未来創造学部」と「薬学部」の2学部
>体制に移行するのに伴い、ドイツ語の授業がなくなるため、
>教員の首を切ったという形になっていますが
>(http://www.ac-net.org/dgh/blog/archives/000196.html が
>詳しい)、彼の幅広い研究(および社会活動の)内容からすると、
>そもそもドイツ語授業以外でもさまざまな授業担当が
>可能なわけでして(むしろ外国語教師というより、
>国際的な市民運動や平和運動の研究の方が彼の本領、
>とっとも「未来創造」的な筈!)、この授業廃止にともなう
>解雇というのが,理屈が通るものなのか、
>そもそも怪しいところがあります。

>背景には、どうも、大学の経営上の理由だけではなく、
>田村さんのような社会的に市民的な活動を展開し、
>大学内でも教員の権利を擁護するタイプの教員を
>うるさく思っていた北陸大学上層部のなんらかの
>思惑があったように私には思えます。
>組合活動を行っていた教員を担当からはずすなど
>北陸大学は他にも問題を起こしています。

>「変えよう金沢ネットワーク」のリンク
>(http://iijijii.exblog.jp/7038078/ も
>参考になると思います。これを単に経営上の問題と
>みなすことへの問題点についても指摘しています。

>私大経営陣のある種の根深い政治的体質と目先の経営
>とがセットになって引き起こしている問題のような
>気がします。

>署名も700人を超えたそうですが、少しでも
>この問題に関心を持ってくださる方が増えればと、
>私なども願っております

 最初にも書いたように直接学会に関わることではありませんが、我々にも無関係な事件とは言えませんので、可能な方はよろしくご協力をお願いいたします。

2月3日(日)     *新潟オルガン研究会第46回例会

 本日は午後2時から、花園カトリック教会で標記の演奏会を聴く。 入りは良かったけれど、昨年よりは少し劣っていたような。 この日同じ時間帯に新潟交響楽団の室内楽演奏会が行われたので、クラシックファンが二分されたからかも。

 今回のプログラムは――
 *前半:
 C・V・スタンフォードの『6つのショートプレリュードとポストリュード』より、「オーランド・ギボンスの主題による前奏曲へ長調(天使の歌)」「前奏曲ト長調」「オーランド・ギボンスの主題による前奏曲ト長調」(以上、演奏は市川純子)
 パーセルの「グラウンドニ短調」「二重オルガンのためのヴォランタリーニ短調」「新しいグラウンドホ短調」(以上、演奏は海津淳)
 F・トゥンダーの「前奏曲ト短調」
 J・G・ラインベルガーの『オルガンソナタ第8番ホ短調op.132』よりイントロダクションとパッサカリア
 エルガーの『威風堂々』第1番(以上、演奏は大作綾)
 *後半:
 ヘンデルのオルガン協奏曲変ロ長調op.7-1(オルガン演奏は渡辺まゆみ)
 ヘンデルのオラトリオ『メサイア』よりアリア「もし神が私たちの味方であるならば」(ソプラノは西門優子)
 ヘンデルのオルガン協奏曲ヘ長調op.4-4(オルガン演奏は渡辺直子)
 (後半の指揮は八百板正己、合奏はアンサンブル・オビリー〔ヴァイオリンが庄司愛、後藤はる香、ヴィオラが太田玲奈、チェロが片野大輔〕)

 前半は知らない曲ばかりだった (エルガーを除く) が、オルガン音楽の豊饒さ、奥行きの深さを改めて感じさせられた。 特にラインベルガーの曲は良かったなあ。 CDを探してみようと思う。

 後半はおなじみのヘンデルの曲であるが、八百板さんの解説によると、ヘンデルのオルガン協奏曲は多分新潟では初演ではないかとのこと。 言われてみると、たしかにそうかも知れない。 この曲、私はむかしLPレコードで好んで聴いていたのだが、実演となると記憶にない。 そもそもパイプ・オルガンが日本のコンサートホールなどに導入されるようになったのは比較的最近のことだし、ヘンデルは自作の協奏曲を演奏するときはホールの壁に備え付けてあるような大型の楽器ではなく、動かせる小型の楽器でやっていたそうだから、貴重な実演ということになりそう。 今回は弦楽四重奏の伴奏だったが、会場の広さからしてちょうど良く、特に最後は一番有名な作品4の4でシメたので、聴衆の気分も高揚したと思う。 ただ、曲の最後近くでいったん音が途切れる箇所で外から変な音が入ってきたのが残念無念。 専用の演奏会場ではないから外の音が入ってくるのは仕方がないかな。

 アンサンブル・オビリーはしばしばメンバーが替わっているが (一貫して替わらないのはチェロの片野大輔さん。 というより片野さんが主宰しているということなのだろう)、本日はヴァイオリンの庄司愛さんが加わって、しっかりした伴奏になっていた。 今回のような伴奏だけではなく、独自の演奏会も企画されているはずだが、その時が今から楽しみである。

 ――ところで、花園カトリック教会が会場で駐車場がないので、内野駅からJR越後線に乗って新潟駅まで行ったのだが、電車がたったの2両編成で、しかも吉田始発の電車で内野駅ではすでにかなり混んでおり、座れず。 それに対して、帰りは新潟始発内野止まりの電車なのに7両もつないでおり、4人掛けのボックスを一人で占領して楽々。 どうにもアンバランスすぎる。 JR東日本には少し考えて欲しい。

2月1日(金)      *Tジョイ新潟万代が改装オープンしたけれど

 シネコンのTジョイ新潟万代が先週の平日5日間をかけて改装し、先週土曜日から新たにオープンした。 で、私は本日夕刻、映画を見に行ってみたのだが――。

 まず、肝心の映画館自体には変わりがない。 椅子もそのまま。 ライバルのユナイテッドが昨秋の改装で豪華な椅子に替えたのとは対照的。

 では何が変わったのかというと、目に付くところではロビーである。 黒い色調にして、椅子の数も増やした。 喫茶部も充実させたそうだが、私はこういう場所でお茶を飲むことはほとんどない人間なので関係ない。 それ以外では、銀行のように入口近くで番号札を機械から引き出し、その順番にチケットを買う方式になった。 しかしこれもたいした変化ではない。

 では何が一番変わったかというと、料金システムである。

 まず、これは昨年の11月からだが、6回見ると1回タダ、というポイントカードを廃止した。 (ポイントカード復活か、と以前書いたけど、ガセネタでした、ごめんなさい。)

 週1回あったメンズデー (金曜日は男は千円) とレディスデー (水曜日は女は千円) も廃止。 

 と、ここまでだとサービス低下ばっかりなわけだけど、代わりに、シネマチネという方式を導入し、平日の午前11時から午後2時までに上映開始の映画は1200円、ということになった。

 うーん・・・・・・・。 果たしてこれは改善なのだろうか。 改悪のような気がするけど。

 平日の午前11時から午後2時までの時間帯に映画を見に行ける人というのは、どんな人だろう。 主婦か、仕事をリタイアした老人かのいずれかだろう。 現役でばりばり働いている人や真面目に勉強している学生には行けない時間帯だ。 おまけにメンズデー・レディスデーなら1000円だったのに、1200円と値上げしているではないか。 ということは、60歳以上のご老体にはもともとシニア料金1000円という設定があるのだから、シネマチネ制度は無意味である。 したがって、この制度は主婦だけを狙ったものということになる。 発想がどうも貧弱だと言いたくなる。 シネマチネをやるなら、広い年齢層を対象にして、思い切って土日も含めるくらいの度量がないのかね。 じゃなければ、日曜日は逆に午後5時以降は1200円にするとか。

 もともと新潟市に4つあるシネコンの中でTジョイは位置が特殊であった。 つまり、街なかにあるということで、他の3館は郊外型だから駐車料金がタダで車で行くことが前提になっているのに、ここだけはそうではない。 じっさい、車で行くと駐車料金300円を別に取られるのである。

 だったらどうすれば車で動いている人間を呼び込めるかを考えるべきだと思うのだが、逆路線になっている。 街なかでしか動かない主婦 (こういう主婦層自体、少なくなっていると思うけど) を対象にしようというわけなのだ。 だけど、近くのダイエーが撤退したことからも分かるように、街なかの集客力は確実に落ちている。 そういう中で、本当に映画が好きな人間を呼び込む姿勢が見られないTジョイには疑問を感じる。

 ただし現在、『4分間のピアニスト』 と 『ベティ・ペイジ』 を新潟市単独で上映しているのを始め、私が昨年末に東京で見て面白いと思った 『エンジェル』 もTジョイがほどなく取り上げるようだ。 上映作品で他館に差を付けていこうということなのかもしれない。 その点では今後に注目したい。

  *       *       *

       *新潟大学生協日本酒の会・・・・・私は見事、目隠しテストでトップ(笑、いや快笑)

 さて、この日は夜から、新潟大学生協主催の 「日本酒の会」 に参加。 全国各地から集められた何種類もの日本酒を飲み比べることができる、日本酒好きには応えられない催しである。 会費は2000円。 酒の肴も豊富。

 この催し、ここのところ毎年開いており、今年で6回目になるそうだが、私は今年初めて参加した。 従来も出たいとは思っていたのだが、今まではなぜか月曜日とか火曜日とかの週前半に開催されていて、翌日1限から授業だったりすると安心して飲む気になれないからだ。 しかし今年は金曜日開催となったので、出る気になったもの。

 最初に目隠しテストがある。 5種類の日本酒が銘柄を隠して提示される。 最初のブロックではABCDEとアルファベットだけ付けてある。 それを飲み比べて味の特徴を押さえておき、次のブロックでイロハニホと銘打たれた同じ5種類を飲み比べた上で、どれがどれか対応関係を当てるものである。 ABCDEのブロックを出てイロハニホのブロックに入ったら、元に戻ることはできない。 制限時間は合計で15分。  

 世話役の数名を除いた14人がこの目隠しテストに挑んだ。 で、全部正解は3人のみ。 私もその一人だった。 もっとも自信があったわけではない。 まあ、5種類のうち3種類くらいは見当がついたけど、あとはまぐれである。 ビギナーズラックといったところかな。

 そのあと、目隠しテストとは別の銘柄5種類をゆっくり、肴を食べながら飲み比べてみる。 北は北海道から、南は四国まで、実に色々なところから集められた酒である。 うん、実に楽しかった。

 こういう催しもやっていますので、皆さん、新潟大学生協に加入しましょう (笑)。

1月30日(水)      *雑誌 『月刊ウインド』 の問題点

 新潟市のミニシアター系映画館シネ・ウインドから 『月刊ウインド』 が届く。 この映画館が毎月出している雑誌である。 会員になると自動的に送られてくるようになっており、私はシネ・ウインド創立直後に会員になっているので、ずっと読んでいることになる。

 映画館が発行する月刊誌だから、これから1ヶ月の間の上映スケジュールと作品紹介がメインだけれど、それ以外の記事も載っている。 新潟市の総合的な文化雑誌、というには少し足りないけれど、まあ大負けに負けて言えば、そういう性格を持っている。

 ただし、それにふさわしい面白さがこの雑誌にあるか、というと、少しく問題ありなのだ。 中沢敬子さんの 「映画にオペラを探したら」 のように、映画とオペラ双方に対する執筆者の広く深い見識が盛り込まれていて、私も啓発されるところの多いすぐれた連載記事もあるけれど、「もうやめたらどうかなあ、完全に惰性化してるでしょ」 というような連載記事もないではない。

 そのほか、映画の紹介記事でも、執筆者個人の政治的姿勢が露骨に出ている場合があって、編集部に集っている人材の質に首をひねることもある――ここでは詳しくは書かないでおくけれど。

 その意味で、今回の 『月刊ウインド』 誌に石田美紀 (いしだ・みのり) 先生の書いた記事が載ったのは、新しい風を入れるという意味でヒットであろう。 石田先生は昨4月に新潟大学に赴任したばかりの気鋭の映画学者で、特にイタリア映画にお詳しい。 石田先生のあとは、フランス文学の逸見龍生先生、ロシア文学の鈴木正美先生が順次執筆されるそうである。

 別段、学者に書かせればいいと言っているのではない。 せっかくの雑誌なのだからマンネリを排し、なるべく広く執筆者を求める努力をすべきだということだ。 新潟市の文化の厚みを言うのであれば、そういうところで努力が必要なのである。 「シネ・ウインドでやる映画より、『月刊ウインド』 の方が面白いんじゃない?」 と言われるよう頑張って欲しい。

1月27日(日)      *西新潟で卓球をやりたい方は、西内野卓球クラブへどうぞ!

 夜、私の住まいの近くにあるTという飲み屋で、西内野卓球クラブの新年会。 8名参加。 西内野卓球クラブは、西内野小学校の体育館を借りて、毎週土曜日の夜7時から練習している社会人卓球クラブであるが、ここのところ人数が少なくなり、飲み会もあまり開かれなくなっていた。 一念発起、久しぶりの飲み会を開いたわけである。

 しかし、いかにクラブ員を増やすか、という話題には全員が頭を悩ましている。 クラブ員の減少は当クラブだけの問題ではない。 私が別の曜日に行っている浜浦卓球クラブも同じだし、他のクラブでも似たような状況だろう。 社会人卓球クラブは50代以上の人が圧倒的に多く、40代以下の人がきわめて少ないのである。 

 原因は二つあると思う。 一つは、50代以上の人は年少期には日本の卓球が世界的にトップクラスにあったので、自然に自分も卓球をやるようになる場合が多かったということ。 正式に中学高校のクラブ員にならなくとも、何となく町の卓球場などで卓球をやる機会がそれなりにあったのである。 しかし40代以下の年代の人は、子供の頃にはすでに日本の卓球は弱くなってしまっていたので、やる動機があまり生じなかったということであろう。

 もう一つの理由は、日本全体が忙しくなってきているということ。 昔なら家庭の主婦は子供が或る程度大きくなれば余暇の時間がかなりあったわけだが、昨今は仕事を持っている人が増えているので、夜になると疲れ果ててしまって卓球どころではないという話になる。

 例えば今日の新年会に来たMさんもそうである。 Mさんは本日来た8人のなかでは一番若くまだ40代だが、2、3年前から新潟市西地区にある某大型ショッピングセンターに勤め始め、卓球の練習にくる余裕がなくなってしまった。 本日は新年会で久しぶりにやってきたが、某ショッピングセンターではふとん売場に配属されており、一日に何度もふとんを畳んだり広げたりしていてくたくたになってしまい、夕方から卓球をする気力はとてもないそうである。   

 どうも、時代が進むにつれて余暇がなくなっていっているというのはおかしなことのような気がするのだが、ではどうすれば卓球クラブ員が増えるのかというと、私がこのサイトで宣伝するのも一法だろうという話になってしまったので、とりあえずここで宣伝しておきますね。 西新潟で卓球をしたい社会人は、西内野卓球クラブへどうぞ! 問い合わせはメールでこちらに

1月25日(金)     *ドイツ映画 『みえない雲』、 にいがた国際映画祭で上映

 2月16日から始まるにいがた国際映画祭については先日もこの欄に書いたけれど (1月13日)、実は私のリクエストした映画も上映される。 ドイツ映画 『みえない雲』 である。 原発の事故を扱った作品だが、新潟市の商業館には来なかった。

 しかし新潟県では昨秋の中越沖地震によって東電の柏崎刈羽原発は火災が発生して停止してしまい、今なお運転は再開されていない。 そうした状況下でこの映画が上映されることには小さくない意義があると思う。 

 念のため。 私は 「何が何でも原発反対」 派ではない。 しかし今回の東電原発の事故を見ても分かるように、設置場所についての吟味を初めとして色々な基礎調査がいい加減になされていたり、地元の人間に情報が隠されていたり、といった実態があるのであって、この辺で映画を通じて色々な問題を考えていく必要もあるだろうと思っている。

 ところで、なぜ本日この話を書いたかというと、リクエストが採用されたので、にいがた国際映画祭の運営委員会から、この映画のパンフと映画祭の入場券3回分が本日送られてきたからである。

 実は昨年度の映画祭でも私のリクエスト 『戦場のアリア』 が採用されて、やはり入場券をいただいている。 ただし昨年度の場合、私自身は当該作品を東京で見ており、優れた映画なのに新潟の商業館に来ないのが惜しいと思ってリクエストしたわけだが、今回の 『みえない雲』 は私も見ていない。 だから映画の上映を心待ちにしている。 

 そういうわけなので、みなさん、にいがた国際映画祭に行きましょう。 http://www.info-niigata.or.jp/~eigasai/japan/ 

1月24日(木)       *匿名社会

 夜、新潟大学生協の理事会に出る。 例のごとく教員の理事は出席率が悪い。 今回は理事長のY先生と私だけ。 10人近くいてこれじゃね。 たしかに後期末にさしかかっていて多忙な時期ではあるのだが、それにしても、である。

 ところで、新潟大学生協では 『ほんのこべや』 という書評誌を年2回出している。 ここには教員や学生から投稿された書評を載せるわけだが、本日、学生の理事からこういう意見が出た。 「書評を投稿したいんだけど、名前が出るのが恥ずかしいので、匿名投稿を認めて欲しいという人がいます」。

 うーん・・・・・。 私は 『ほんのこべや』 の編集を担当しているので、あとで編集委員の先生方と検討しますとは答えたのだが、同時に、以下のようにも答えておいた。 「新聞の投書欄だって、原則として実名でしょう。 つまり、自分の意見は責任を持って発表して欲しいということなんですよね。 書評だって、この本が面白いよという自分の意見を出すことなんだから、名前を出して責任を持つ、という意味があるんですよ」。

 どうも、こういう意見が出るのは、単に学生の幼児化を言うだけでは的を射ていないように思う。 社会全体が匿名化しているからではないか。 例えば、悪いことをして新聞記事になっても、最近は犯人の、おっと、容疑者の実名が出ない場合が結構ある。 どういう基準なのかはよく知らないが、出すほどのことはないという判断が働いていることは確かだろう。

 なるほど、冤罪という可能性はあるわけで、その場合は実名を出すと実害があるということは考えられる。 しかしそんなことを言ったら、あらゆる犯罪は裁判で有罪が確定するまでは冤罪の可能性があるわけだし、仮に一審で有罪になっても、控訴審や上告審でどうなるかは分からないのだから、最高裁で有罪が確定するまでは名前を出せないことになってしまう。

 以前この欄に書いたように、最近は学期初めの授業で定員オーバーのために抽選をして、クジに当たった学生の名前を発表しようとしてすらクレームが付くのである。 実にばかばかしい。 こういう匿名社会には無論それなりのデメリットがあるのに、実名を出した場合のデメリットだけを言い募る心性が増長しているのだ。 変じゃないかと思いますけどね。

1月21日(月)     *平野早矢香さん、全日本卓球女子シングルスで4度目の女王に!

 昨日は全日本卓球選手権大会最終日。 女子シングルスでは平野早矢香選手が4回目の優勝を果たした。 おめでとう、平野さん! 私が彼女のファンであることはかねてから公言しているが――公言してもインパクトはゼロなんですが (笑)――今回も期待に違わずやってくれました。 

 ここにきて新聞もやっと平野さんをそれなりに取り上げるようになってきた感じ。 これまでは女子というと福原愛一辺倒でケシカランと私は憤っていたのだった。 だいたい、福原愛は全日本女子のシングルスで一回も優勝していないのだよ。 それなのに新聞、それも全国紙といわれる公器に近いメディアが福原ばっかり取り上げるのはおかしいのである。 石川佳純だって、ジュニアでは優勝しても、大人の大会では優勝していないのだ。

 日本のマスコミはそろそろアイドル主義じゃなく、実力主義に切り替えてもらいたいものだ。 じゃなきゃ、スポーツ記者はロリコンの変態ばっかりだと言いふらすぞぉ (笑)。

 本音 (ですよ、これは↑) はさておき、平野さんにはさらに世界の平野めざしていっそうの実力アップを期待したい。 北京オリンピックでの健闘を祈ります。 

1月18日(金)      *レポートを書くときは、デタラメ・サイトにご用心!

 講義科目は半年で2回レポートを出させるのが私の流儀である。 2007年度第2期の第1回レポートは12月の冬休み直前を締め切りにしたのだが、本日、教養科目の西洋文学の第1回レポートをやっと読了する。 なにしろ135人いるので。

 今回の西洋文学は前半は岩波文庫から出ているレッシングの 『エミーリア・ガロッティ、ミス・サラ・サンプソン』 を教科書にし、『ミス・サラ・サンプソン』 のほうはレポート締め切り直前に読了したので、いきおい、レポートでは 『エミーリア・ガロッティ』 を扱った学生が圧倒的に多かった。

 レポートを書くに当たっては、今どきなので最初の授業時に注意を与えておいた。 ドイツ文学に関しては日本語のサイトにはあまり信頼できる情報がないし、また仮にあったにしてもそれを丸写しにすれば同じ内容のレポートばかりが並ぶことになる。 だから、引用サイト名は明示し、くれぐれもサイトの丸写しは慎むように、という注意である。

 だけど、そう注意してもやってしまう学生はいるものなのだ。 しかも、私は 「日本語のサイトには内容的にアテにならないものが案外あるから、そういうのを丸写しすると自分も間違いを犯すことになるぞ」 と言っているのに、律儀にそういう間違いを犯してしまうのである。

 『エミーリア・ガロッティ』 に関してこんなことを書いたサイトがあるのだが――

 あらすじ
 貪欲で好色な公爵ヘットーレ・ゴンザーガは、気のふれたかつての愛人オルシーナに愛想をつかし、清純な少女エミーリアに欲望を抱く。

 http://www.syugo.com/3rd/germinal/review/0046.html 

 おいおい、デタラメ書くなよ。 「気のふれたかつての愛人オルシーナ」 って、オルシーナは気がふれちゃいないよ。 作中、悪役マリネッリが、「オルシーナは気がふれていますから」 とエミーリアの父オドアルドに言い含めるセリフはあるけどね。 でもこのセリフは真実を語っていない。 マリネッリは彼女をオドアルドと二人きりにしたくないのだが――彼女からオドアルドに情報が漏れるのを恐れて――やむを得ず二人きりにせざるを得なくなったので、この女が何を言っても信用しないで下さい、という意味でオドアルドにウソをついたまでのことである。

 で、上記サイトのこの部分をそのまま丸写しした学生が何人かいた。 自分で作品を読めばこんな間違いはしないのに、デタラメ・サイトを丸写しして間違えたのだから、当然ながら大減点である。

 どうもこのサイト主、トップページを見るとフランス文学のほうに興味があり、ドイツ文学はついでに書評を書いたに過ぎないようだが、こんな読み違いをしているんじゃ、フランス文学に関する記述もどの程度アテになるのか、心許ない。

1月17日(木)        *ポストコロニアリズムと知識人の言説

 またポストコロニアリズムの話である。 本日、毎日新聞文化欄に掲載された苅部直(かるべ・ただし)東大教授の一文を読んでの感想なんだけど。

 「負の遺産と中韓観光」 と題された文章で苅部氏は、ソウル郊外の西大門刑務所歴史館を6年前に訪れた体験を語っている。 それは韓国が日本の植民地だった (ママ。 正確には 「併合」 だから植民地とは少し違うと思うが、ここではそこは問題にしない) 時代に、独立運動家が収容された監獄であり、それが現在は保存されて歴史博物館になっているのだという。 苅部氏が衝撃を受けたのは、監獄の位置が独立門のほとんど隣だったからだという。 独立門とは、19世紀末に大韓帝国が清から独質を宣言するためにパリの凱旋門を模して建てられた門だそうだ。

 苅部氏は、独立の象徴である門のすぐそばに監獄を設ける日本のやり方を、現地人の誇りを踏みにじるものとして批判的に記述している。

 たしかにそれはその通りなのかもしれない。 しかし、ここでの苅部氏の記述には大事な要素が欠けているのではないか。 すなわち、大韓帝国の清からの独立がどういう事情でなされたのか、というところである。

 歴史をひもといてみれば簡単に分かることだが、事実上は清の属国だった朝鮮が独立した陰には、日本がいた。 日清戦争で日本が勝利した結果として朝鮮は清のくびきを離れて独立したわけであって、しかもそれ以前から日本は江華島事件などに見られるように朝鮮への影響力拡大を狙っていたのだ。

 つまり、大韓帝国の独立は陰で日本がお膳立てをする中で成立したのであって、刑務所が独立門のすぐそばに設置されているというのは、ある意味、象徴的なことだったと言える。 私は無論、日本のやったことが正しいと言いたいのではない。 ことの善悪は、今からするとはっきりしているからだ。 

 しかし歴史を道徳や現在の価値観だけで論じるのは知的な態度とは言いがたい。 その頃の政治の複雑な駆け引きを頭に入れておけば、「独立門のすぐそばに政治犯を収容する刑務所がある」 のを、独立の誇りを踏みにじるものとして簡単に対立的には記述できないはずであり、もしかすると独立門と刑務所には――少なくとも日本側からすれば――同じ意味合いがあったかも知れないということなのである。 或いは朝鮮人からすれば、独立門自体に、日本なら鹿鳴館が持ったようなアンビヴァレントな意味合いがあったかも知れないということだ。 (これまた歴史をひもとけばすぐ分かるように、当時、朝鮮が宗主国・清から離れることに反対する朝鮮人も少なくなかった。)

 東大教授たるもの、その辺でもう少し読む人間の知的好奇心を刺激するような書き方がどうしてできないのだろうか。 いつまでも 「過去を反省しなさい」 と説教するだけでは芸のなさが際だつだけだろう。

 ついでに苅部氏は、日本で出ているソウル・ガイドブックにはこの刑務所歴史館が載っていないのに英国が出しているソウル・ガイドブックには載っていると書いているのだが、帝国主義という点では時間的に規模的にも日本をはるかに上回っている大英帝国の、しかも英国が自分では支配しなかった地域に関する情報を出して対比しても、あんまり意味はないと思う。 やるなら、英国が長年支配していたさまざまな地球上の土地にどの程度英国の悪行を記録する歴史記念館があり、それを英国ガイドブックがどの程度ちゃんと記述しているかを示すべきではないですかね。 学問的な比較って、そういうものでしょう、苅部さん?

1月13日(日)   *今年の初コンサート、そして第18回にいがた国際映画祭のパンフ

 事実上の2008年初コンサートに行く。 音文で午後1時から行われたスーパークラシック・ジョイントリサイタル。 地元の音楽家中心の新年演奏会である。

 音文に行く前にコンチェルトに寄って新潟オルガン研究会例会(2/3)のチケットを購入。 そのあとすぐ近くのラーメン屋Aで昼飯をとろうとしたら満席で、しばらく待たされ、おかげで時間がなくなってぎりぎり開始時刻3分前に駆け込む始末。 実はコンチェルトに行く前にのぞいたら席が空いていたので大丈夫と思っていたのだが、コンチェルトに寄っている間に満席になってしまったというわけ。 「チケットを買ってから食べる」 のではなく 「食べてからチケットを買う」 のが正解だったか。 実はこのラーメン屋さん、以前から一度入ってみたいと思っていたのだが、機会がなくて本日初めて入ったもの。 結構おいしかったなあ (ただし私の舌はアテになりません)。

 閑話休題。本日の客の入りは7割程度か。

 全体は3部構成。 第1部は市橋靖子さんの舞台で、ヴィヴァルディのピッコロ協奏曲(RV444)とモーツァルトのフルート四重奏曲第3番。 最初の曲のバックは、ヴァイオリンが廣川抄子さんと太田玲奈さん、ヴィオラが庄司愛さん、チェロが渋谷陽子さん、コントラバスが別森麗さん、チェンバロが青柳佐和子さん。ヴィヴァルディが終わった後、パッヘルベルのカノンがオマケとして市橋さん抜きで演奏された。 モーツァルトは廣川さんと庄司さんと渋谷さんが共演。
 第2部は藤井裕子さんのトランペットで、ヴェルディ 『アイーダ』 から 「凱旋行進曲」、同じく 『ナブッコ』 から 「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」、ビゼー 『カルメン』 から 「闘牛士の歌」、マスカーニ 『カヴァレリア・ルスティカーナ』 から 「間奏曲」、プッチーニ 『トゥーランドット』 から 「誰も寝てはならぬ」、ガーシュインの 『ラプソディー・イン・ブルー』。 ピアノは竹川由紀乃さん。
 第3部は桝口玲子さんのパーカッションで、ジヴコヴィッチ 『トゥ・ザ・ゴッズ・オブ・リズム』、ササス 『マトルズ・ダンス』、ジヴコヴィッチ 『スオミネイト』、ササス 『ドラム・ダンス』。 共演はヴォーカルの板倉良治氏 (第1曲)、ピアノの磯田真弓さん (第2,4曲)。

 うん、まとめて言ってしまうと、新潟の音楽家の元気さがよく分かるコンサートであった。 なぜか女性ばっかりなんだけど (第3部の板倉氏はほかからの来演)、ということは新潟の女性音楽家はきわめて充実している、ということなのだろうか。 第1部は古典的な音楽の魅力を堪能し、第2部ではあんなにトランペットを続けて吹いて大丈夫なのかなあ、なんて中年男の心配を吹き飛ばすような見事な演奏、第3部では日頃あまり聴く機会のないパーカッションの曲に熱くなった。

 全体としておしゃべりをまじえてのコンサートで堅苦しさがなくて良かったと思うが、おしゃべりの内容はさらなる工夫を。 ちょっと仲間うちネタが多かったんじゃないかな。 その中で、桝口さんの曲目紹介は簡にして要を得ていて実に見事だと感心。

 別森麗さんは、今までも何度も演奏会でコントラバスを弾くのを拝聴しているので、「コントラバスをやっているのは、昔は背が高かったのでやれと言われたから」 とおっしゃるのを聞いて、「え、今でも高くていらっしゃるのでは」 と思う。 舞台に並んだのを見ても、女性陣の中では一番高かったのではないか。 長身の美女、というのが私の印象。

 渋谷さんは久しぶりにお姿を拝見したが、お元気なよう。 また庄司さん、石井さんとのベルガルモの演奏を聴かせていただきたいもの。

 何にしても、充実した3時間であった。 この調子で今年も新潟の音楽家さんたちが健闘して下さると言うことなしです。

   *       *       *

 コンサートのあと、歩いて万代シティのシネ・ウインドまで行く。 無論、映画を見るためである。 映画の感想はそのコーナーに書くとして、2月16日 (土) から開催される第18回にいがた国際映画祭のパンフが出ていてた。 2月24日までの全スケジュールと上映作品の簡単な紹介付き。

 この国際映画祭、新潟の地勢を反映して、例年だとアジアの映画が多く上映されるのだが、今回はどういうわけか欧米の映画が主体となっている。 ロシアデー、イギリスデー、カナダデー、ドイツデー、アメリカデー、フランスデー、イタリアデーと、各日ごとに国別の企画が組まれていて、なかなか面白そうである。

 無論、これだけではなく、中国や台湾などのアジア映画もある。 しかし、新潟ではヨーロッパ系の映画や、アメリカでもハリウッド大作でない作品は商業館に来ない傾向が強い。 特にヨーロッパ系映画は、東北地方ならフォーラム系映画館が積極的に取り上げているのに、シネコン4館+ミニシアター系1館を誇る大・新潟市では上映されない場合が珍しくない。 要するに新潟はヨーロッパ系映画に関しては陸の孤島というか、空白地帯になっているのだ。 だから、毎年2月に行われる国際映画祭でその穴を補ってくれるのは、たいへんいいことだと思う。 もっとも、補われないうちに商業館で取り上げてくれるのがベストなんですけどねえ。

 なお、にいがた国際映画祭のサイトは以下のとおり。 ただし、現時点ではまだパンフの内容は掲載していないようである。 しばし待たれたい。 (1月22日追記。 本日確認したら掲載されていました。)

 http://www.info-niigata.or.jp/~eigasai/ 

1月10日(木)      *ポストコロニアリズム、そしてその優れた書物を出していた出版社の倒産

 昨年12月11日のこのコーナーで、新潟大学19世紀学研究所主催の講演会を批判的に取り上げたところ、以前は新潟大学勤務で、現在は京都大学で教えておられる西山教行先生よりメールをいただいたのだが、その際、西山先生が某誌に発表された書評の存在を教えていただいた。 ポストコロニアリズムとの関連で有益な内容だと思うので、ご本人の了解を得てここにリンクを張ることにした。 ごらんいただきたい。

 http://kyotofle.sakura.ne.jp/CR_Blanchard_RJDF_2_2007.htm 

 ところで、草思社の倒産が報じられてびっくり。 むろん、私は出版界のふところ事情などは皆目分からない人間だが、草思社といえば、『西欧の植民地喪失と日本』 だとか 『太平洋戦争とは何だったのか』 などの、ポストコロニアリズムの視点に基づくすぐれた歴史書や思想書を出している出版社だったからである。 もっとも、いくらすぐれていてもそれで儲かるとは限らないわけだけれど。 良心的な出版社の倒産もしくはそれに近い事態なんてのは、河出書房や中央公論社の例があるから驚かないが、それにしても、である。 ううむ。

1月7日(月)           *人間の能力は複雑である

 夜、今年初の卓球をやりにH卓球クラブに出かける。 やっぱり身体を動かすと気持ちがいいですね。 初卓球に来た社会人は私を入れて10人であった。

 閑話休題。 今日から冬休みが明けて授業再開である。 2限の講義を済ませて、午後は提出を控えた4年生の卒論を読むのに追われる。 というか、先週末から追われているのであるが。 

 文章を書けている学生と書けていない学生の差が目立つ。 書けている学生は直す箇所が少なくて時間もとられないのであるが、直す箇所がたくさんある学生のはどうしても時間を食う。

 別に名文を求めているわけではない。 文法的におかしいところがなくて普通に意味の通る文章であればそれでいいのだが、それが書けない学生も結構いるのである。 国立大学の文系学生であるからには、文章をきちんと書けるくらいの能力が欲しいわけだが、そういう前提というか常識みたいなものは通用しなくなりつつある。

 ただし、ここが複雑なところだが、文章がよく書けないから内容もないかというと、必ずしもそうではないのである。 内容は悪くないが文章は下手、という学生もいれば、文章はまあまあだが内容が希薄、という学生もいる。 無論、文章も内容もよいという学生もいないではないが、いわば才色兼備 (?) のそういう学生は多くはない。  

 もっとも、昔の私の学生時代をふりかえってみても同じような現象はあったわけで、例えば外国語がよくできる学生が日本語の文章も上手かというとそうとは限らないし、また外国語に達者な学生が思考能力においても優れているかというとそういうこともないわけである。 人間の能力はなかなか複雑にできているものなのだ。

1月4日(金)      *生演奏の聴き初め、そして昼食時に小川未明の童話を思い出す

 娘が音楽教室の発表会に出るので、昼過ぎに今年初めてりゅーとぴあに行く。 といっても私も多忙なので (卒論の締め切りを控えて、見てくれと頼みに来る4年生がいるからです) 第1部しか聴けなかった。 しかしまあ、今年初めての音楽会、生演奏の聴き初め、とも言えるかな。

 その第1部を聴いてから、某ファミリーレストランGで遅い昼食をとった。 トンカツ定食。 ご飯は和式で、茶碗に盛ってある。 それは良いのだが、茶碗を持つと熱くて、指がやけどしそう。 米飯用の茶碗やみそ汁用のお椀というのは、下に円筒形の、いわばのりしろみたいなところがついていて、熱が伝わりにくくできているはずだが、この茶碗はその部分がひどく短いので、米飯の熱がモロに伝わってくるのである。 要するにこの茶碗を作った人間がバカなのだ。

 そこで思い出したのが、小川未明の童話である。 『殿さまの茶わん』 という作品が、まさにこのテーマを扱っていた。 今どきだからと思いネットで調べてみたら、ちゃんと梗概を載せているサイトがあったので、失礼してそこから引用させていただく。

 http://www.h5.dion.ne.jp/~kawazohp/info0211/essay/essay311/essay09.html 

 昭和26年に発行された小川未明童話集 「赤いろうそくと人魚」 の中の 「殿さまの茶わん」 という話です。
 話の筋はこうです。
 街に薄手で軽くて上等な陶器を作ることで有名な陶器師がありました。うわさを聞きつけた殿さまの家臣に頼まれてこの陶器師は、透き通るようにとびきり薄手で軽い茶碗を献上します。
 毎食膳に供えられたその茶碗を使った殿様は、熱い汁や茶を飲むたびに手が焼けるようで難渋しますが我慢の毎日。
 ある日、殿様は山国の百姓家に泊まるはめになり、出された厚く重たい茶わんで食事をしました。
 このとき、茶わんは厚かったので手が焼けるようなことはなく、名もない職人が焼いた粗末でも親切心のこもった茶わんに感激します。
 後日、殿さまが街の陶器師を御殿に呼んでこの話を伝えたところ、以後、この陶器師は厚手の茶わんを作る普通の職人になったという話です。

 梗概で読んでしまうと、小川未明の作品の、あの独特の味が薄れてしまう。 興味をおもちの方はぜひ原作をお読みください。

1月1日(火)     *謹賀新年――新年に考えたこと

 明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願い申し上げます。

 正月といっても、いつものことだが、特別に何かやるわけではない。 午後から妻と娘を連れて初詣に出かけたが――受験生である次男は自宅に残り、仙台の私大に行っている長男は帰省していないだけでなくまったく音沙汰がなく消息不明――有名で混むところは嫌だから、昨年同様、近くの内野町にある神社でまだ行ったことのないところを訪ねてみた。

 内野町はもともとは新潟市とは別の町だったのが、昭和30年代に新潟市に吸収合併されている。 なぜかちいさな神社がいくつもあり、大きな神社がないのである。

 今年は、海に近い産業道路沿いにある神社に行ってみた。 いつも大学に通う途中にあるのだが、今まで一度も行ったことがなかった。 石造りの鳥居には昭和25年と刻まれているから、私の生まれるより2年前ということになる。 ただし鳥居の作られた年代とこの神社が造られた年代が一致するのかどうかは判然としない。

 私は神社について詳しいわけではないが、お寺と違って檀家があるわけでもないから、神主は神主であるというだけで食っていけるわけではなかろう。 よほど大きい有名な神社なら別だろうが、こういう小さな神社だと本職が別にあるのだろうと思う――神主がちゃんといるなら、であるが。

 私もむかし、故郷の福島県小名浜で幼稚園に通っていたころ、その幼稚園の園長先生は近くの神社の神主であった。 

 話はここで突然変わる。

 福島県の矢祭町は、平成の大合併が進行している昨今であるにもかかわらず、合併しない宣言で有名になっていて、そのために図書館を作るときは全国の国民に要らない本を送って欲しいとアピールしたりしてニュース種になったが、昨年末、町会議員の給与を下げるという議案でまたまた話題になった。

 地方の小さな町や村の議員の給与というのは、そうでなくとも余り高くない。 私の給与よりかなり下であるくらいだから、相当に安い。 (地方都市でも新潟市や長岡市くらいの都市だと議員の給与はさすがに私より高い。) これは、本職は他にあるということを前提にしているからだと思う。 つまり、農家だとか、商店主だとかが議員になることを前提にしているからだろう。

 しかし、である。 そうだとすると、一介のサラリーマンは議員になることができない。 亭主が働いている家庭の主婦ならなれそうだけど、専業主婦やせいぜいパート主婦を抱えている亭主なら経済上の理由で立候補を断念せざるを得ないだろう。

 果たしてそれでいいのだろうか? 機会の平等をもって旨とする近代社会では、被選挙権のある年齢に達したら職業・性別・年齢に関係なく議員に立候補できないとまずいのではないか、いくら田舎町であろうと。

 聞いた話だが、アメリカの地方公共団体では、議会は夜にやるということだ。 つまり、日中は議員たちもそれぞれ自分の職場で働いているので、夜にならないと全員集まることができない、という理由からだ。 これなら、議員に払う給与は安くて済むし、なおかつ一介のサラリーマンでも議員になることができるわけだ。 

 日本もこういう制度を検討してみてはどうだろう。 もっとも、これだと議員が独自に調査活動を行う時間がなかなかとれないので、別に議員付きの調査員などをおく必要がありそうだが。

 

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