音楽雑記2007年(2)                           

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音楽雑記2007年の1月〜4月はこちらを、9月以降はこちらをごらん下さい。

 

 

8月29日(水) 夜、映画を見ての帰り、バスに乗っていたら、変なことに気づいた。 バス料金についての掲示を眺めていて 「あれ?」 と思ったのだが――。

 バス料金は乗る人間のカテゴリーによって決まってくる。 バス乗車に際して人間は4つに分類されている。 大人 (中学生以上)、子供 (小学生)、幼児 (1歳以上、小学生未満)、乳児 (1歳未満) である。 このうち大人と子供と乳児については問題はない。 子供は大人の半額であり、乳児は何人でも無料である。

 問題は幼児 (1歳以上、小学生未満) である。 幼児は大人もしくは子供と一緒に乗るかどうかで違いが出るのである。 例えば幼児1人が大人か子供と一緒に乗ると、同伴者と見なされるらしく、幼児は無料になる。 つまり、大人1人 + 幼児1人 = 大人1人分の料金、子供1人 + 幼児1人 = 子供1人分の料金、である。

 ところが幼児が1人で乗ると、同伴者にならないので、子供1人分の料金を取られるのだ。 ちょっと理不尽な感じもするが、ここまではまあよろしい。

 では、幼児が2人で乗ったらどうか。 ここが不思議なのである。 この場合は、どちらも同伴者扱いされないので、2人分、つまり子供2人分の料金を取られるのである。

 つまり、子供1人 + 幼児1人 = 子供1人分の料金、なのに、幼児2人 = 子供2人分の料金、なのである。 変でしょう? 重量からいって、子供1人+幼児1人のほうが上なのに、それより負荷の少ない幼児2人は2倍の料金を取られるのである。

 どなたか、この理不尽さに対して立ち上がる方はおられませんかあ(笑)。 もっとも車社会かつ少子化の昨今、幼児が大人などに同伴されずに2人以上でバスに乗るってことは、めったにないと思いますけどね。

8月27日(月) 国立大学が独法化されてから研究費が激減して従来の半分以下になっていることは、繰り返しこのサイトで書いてきた。

 ただし、研究費の大学としての総枠が減っているのかどうかは定かではない。 というのは、学長裁量経費というのがあってそれに通るとカネが出るし、それ以外にも学系長裁量経費というのもあって――学系とは学部で言えば文系三学部と教育を包括するような組織のこと――これに申請して通ればカネが出るのである。

 しかし、言うまでもないが、これらの 「裁量経費」 が本当に合理的なシステムなのかどうかはきわめて疑わしい。 なぜなら、「学長裁量経費」 で言えば、色々な学部から出る申請を比較検討してどれが重要かを判断する能力がそもそも学長にあるかといえば、ないに決まっているからである。 学長と言っても、学者としては要するに特定の学部で特定の学問をやっていた人に過ぎない。 例えば今の長谷川彰・新潟大学長であれば理学部物理学科 (それ以前は教養部物理学科) の所属だったわけで、当然ながら文系や医学系に判断力があるはずはないのである。

 ちなみに私は以前、某外国語の先生に頼まれて某プロジェクトの一員となって申請したが、あっさり蹴られました。

 学系長裁量経費についても同じことが言える。 例えば今の学系長は教育学部所属だから、法律や経済、歴史や外国文学に関する申請を正しく判定できる能力があるとは思われないのである。

 また、学系長裁量経費は個人での申し込みができない。 必ず複数の人間で 「プロジェクト」 を組んで申請しなくてはならない。 ここから予想される弊害とは何か。 仲間の多い人間が得をする、という弊害である。 個人では申請できないのだから、一匹狼的な人間は埒外におかれるわけだ。

 それで、である。 私は今年度の学系長裁量経費に採用されたプロジェクトの構成員を公表してほしいと要請した。 そんなもの、公表されているんじゃないのと思うかも知れないが、これが公表されていないのだ。 公表されるのは、「採用プロジェクト名、金額、代表者名」 だけで、その代表者の下にどんな構成員――はっきり言えばオカネを配分される人――がいるのかは、分からないようになっているのである。

 ところが、である。 この、私からすれば税金の使い道を透明化するために当然と思われた要請に、本日ノーの返事が来た。 学系長、副学系長、学系予算委員長の3人による決定で、理由は 「科研費,学長裁量経費の採択結果公表に準ずるため」 だそうである。

 これじゃ、仲間内なあなあ主義でカネを配分していると勘ぐられても仕方がないんじゃないか。 

 やむを得ないので、別の手段で公表を迫ることにする。

8月25日(土) ドイツの週刊誌 "Der Spiegel" の8月6日号 (2007年第32号) に略奪美術品に関する記事が載っている。 面白いので紹介しよう。

 第2次世界大戦の戦後処理の問題はいまだに尾を曳いており、それも今年日本でも公開された映画 『ドレスデン、運命の日』 や 『ブラックブック』 を見ても分かるように、必ずしも同盟国側が非を認めてというのではなく、連合国側の悪事もそれなりに取り上げられるようになっているわけだが、これもそういうニュースの一つだ。

 戦前はドイツ領だったが、戦後はポーランド領になっている土地がある。 都市で言うとダンツィヒ (グダニスク) だとかクラカウがそうだ。 ところが、こうした都市には戦前、ドイツが高い費用を投じて購入した美術品や、文豪ゲーテの手稿、モーツァルトやベートーヴェンの手書き楽譜などを収めた美術館や博物館が存在した。 建物は動かせないから仕方がないが、本来なら収蔵品はドイツに返却すべきものであるのに、ポーランドはまったくこうした要請に応じていないのだそうである。

 ポーランドだけではない。 ロシアやアメリカ、フランスなども、実は同じ 「罪」 を犯している。 戦勝国が負けた国の所有する文化遺産を奪うのは国際法上禁じられているのだが、ナチスドイツを打ち破った連合国の兵士はそんな国際法があることはご存じなかったらしい。

 略奪美術品については、1998年にワシントンで44カ国が参加して国際会議が開かれ、「フェアで公正に」 返却しようという原則が確認されたが、何が 「フェアで公正」 なのかは、必ずしも明確ではないということのようだ。

 フランスのルーブル美術館にもそういう略奪美術品があると判明している。 もっとも、ドイツ側はかなり及び腰である。 返却を要請すべきだと主張したドイツの美術館員が戒告処分を喰らったそうである。 フランスとの友好関係を危うくした、という理由からだそうだ。 (ドイツ人も、結構自己主張が弱いんですね、極東のどこかの国みたい――笑)

 その一方で、ドイツ・ドレスデンの美術館がある絵を、これは1935年にきちんとカネを支払って購入したものであるのに、(ナチス時代の購入だから、ということなのか――雑誌記事には明瞭な説明がなかったが) 返却したという。

 94年にも当時の首相コールが首脳外交の際にルノワールやモネの絵画をフランス側に返却したが、これも略奪武術品の枠外だったのでは、という声があるそうだ。 来歴がはっきりしていない絵画だったからだ。

 大戦末期や敗戦直後のドイツからはかなり大量の絵画がさまざまな経路で外国に流失している。 ソ連のスターリンは略奪美術品で国内の美術館を充実させようとしたらしい。 ソ連崩壊後のロシアも、こうした美術品は 「ソ連の兵士が血をもってあがなったのだ」 と言って返還を渋っているそうである。

 ナチス時代、「退廃美術」 の烙印を押されてドイツ国内には飾られなくなった美術品も、実は燃やされたわけではなく、ヨーロッパ各国やアメリカに、さまざまな経路で流失しているという。

 ドイツ側は、先にも書かれていたようにそうした美術品の返還運動には消極的だが、それでも徐々に、ドイツから不当に奪われた美術品は返すべきだという声が出てきているということだ。 

8月22日(水) 最近の大学改革に関する新聞記事を論評しよう。

 まず、17日には毎日新聞の 「記者の目」 欄に釣田祐喜記者(山形支局) による 《山形大学長に前文科省事務次官の結城氏――「天下り人事だ」 批判続出――「法人化」 を問う試金石》 が載った。

 言うまでもなく、先の山形大学長に前文科省事務次官の結城章夫氏が立候補し、投票では2位だったにも関わらず、学長選考会議は結城氏を選んだというものだ。結城氏に立候補を依頼したのは、実は現学長の仙道富士郎氏だったという。

 実はこの辺に新潟大学学長選挙にからむごたごたも共通する不透明さがひそんでいる。 新潟大でも、長谷川彰学長が2期目に立候補したときに投票では2位だったのに、選考会議はそれを無視して長谷川氏を選んだ。 その結果裁判にもなっていることは、このサイトでも何度も書いてきた。

 何が共通しているかというと、いずれも文科省の意向を気にしながら、というかそればっかりを考えながら学長選考会議は事を運んでいるということだ。 新潟大では長谷川氏が投票結果を無視して選ばれるにあたって、本部事務サイドから変なコメントが出た。 長谷川氏への評価がきわめて高いからだ、というのだが、この 「評価」 はどこの評価なのだろう?

 無論、学内教員のそれではないことは、投票結果を見れば一目瞭然である。 要するに文科省の評価なのである。 或いは、「どうすれば学外評価が高くなるか、こうすればいいんですよ」 という文科省の指導、と言い換えてもいい。

 学長選考会議の動き方を見ても、大学の上層部に行けばいくほど、文科省の言いなりになる傾向がはっきり出ているのである。 法人化の前に言われていた、法人化はむしろ文科省の国立大学支配を強化するだけだ、という批判が正しかったことが徐々に明らかになってきている。 毎日新聞の記事はそこに肉薄できていない点で、物足りない。 しかしとりあえず山形大の事件を事件として取り上げたところは評価できる。

 次に産経新聞だが、これがいささか迷走ぎみなのである。 15日に 《法人4年目の国立大学 改革進まぬ 「象牙の塔」 学外委員不満 「職員、新しい仕事消極的」》 という記事を載せ、それを受ける形で20日の 「主張」(他紙の社説にあたる)に 《大学改革 なお乏しい生き残り意識》 を掲載した。

 内容はどちらもほぼ同じである。 国立大学法人の学外委員へのアンケート結果をもとに、学長のリーダーシップが必要だと強調していて、教授会の権限をいわば抵抗勢力とする単純な見方に染まっていて、どうしようもないのである。

 まず、山形大の例――つまり現学長が文科省官僚に学長になるよう要請した――から分かるように、国立大学学長は文科省のロボットなのである。 だから学長がリーダーシップを発揮すれば文科省支配から逃れられるというのはまるっきり事態を正反対に捉えていると言うしかない。 逆である。 文科省に最もきちんと(?)逆らっているのは、教授会なのであり、一番忠実にふるまっているのが学長などの上層部なのである。  

 そもそも、産経は山形大学長選挙について何も特別な分析記事を載せていない。 これは怠慢であろう。 学長のリーダーシップなるものがどれほど怪しいか、その好例が山形大学長選挙なのだから、それを分析しない限り、記事や主張に説得力が生じないことは明らかだ。

 もっとも、ダメな 「主張」 を載せた翌日の21日付け産経は 「正論」 欄に森隆夫・日本教育文化研究所長の 《人材立国は 「米百俵」 と教育的良心で》 を載せた。 ここで森氏は、我が国のGDPあたりの教育費が中等教育費で先進国の中で下から3番目、高等教育では最下位であることを指摘しつつ、教育研究のための支出を増やしていかなければ将来に禍根を残すと訴えている。 文字どおりの正論と言うべきであろう。

 毎日新聞にせよ、産経新聞にせよ、大学の抱えている問題点が記者にあまり分かっていないわけで、その点はちゃんと外部の人材を利用するなどしてもらいたい。 また、大学内部で何が起こっているかを具体的に調べた上で法人化の功罪を明確にすべきだろう。 例えば、法人化後、カネを何でも傾斜配分すればいいというバカの一つ覚え――大学教師がいかに自分の頭でものを考えないかの見本――みたいなやり方が横行しており、これは必ずしも実力主義につながるわけではなく、むしろ仲間の多い人間が得をするという、近代以前の藩閥主義みたいな結果になりやすい、というようなことだ。 そのような細部にまでリサーチをして、それを積み重ねた上で記事を書いてほしいものだ。

8月18日(土) 昨日に続き、だいしホールに品田真彦&後藤はる香ジョイントコンサートを聴きに行く。 本日は土曜なので午後2時開演。

 品田氏と後藤さんはいずれも新潟中央高校音楽科卒で、同級生だったとのこと。 品田氏はその後ドイツ国立ロストック音楽演劇大学を、後藤さんは同志社女子大学音楽学科を卒業。

 プログラムは前半が、バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番よりガボット、モーツァルトのディベルティメント第17番よりメヌエット、モーツァルトのロンドニ長調 (ピアノ独奏)、ブラームスのヴァイオリンソナタ第3番。 後半がベートーヴェンのピアノソナタ第26番 「告別」、マスネのタイスの瞑想曲、バルトークのルーマニア民族舞曲、バーンスタインのウェストサイド・ストーリー (富田さやか編曲)、アンダーソンのフィドルファドル、日本の歌メロディー。アンコールにモンティのチャルダッシュ、ミュージカル 「キャッツ」 より 「メモリー」。

 今月に入って3回目のヴァイオリニストの (一部ピアノ曲も含む) 演奏会。 後藤さんの演奏は少し前にオビリーで聴いてなかなか悪くないと思っていたので期待していた。

 最初のバッハで、音がよく通り音量に問題がないことをまず確認。 音の質は、言葉で説明するのが難しいのだが、いぶし銀というと艶消しのイメージがあるけれど、いぶしの度合いを少な目にしたいぶし銀と言ったところだろうか。 艶がきらきら出るような音質ではなく、材木ならやや粗めのサンドペーパーをかけたような肌理の感じ。

 で演奏だが、前半で言うと、無難にこなしているけれどちょっと安全運転過ぎる、或いは教科書的、といったところだった。 「自分」 が出てこないのである。 さすがにブラームスの第4楽章になると曲の性質上否応なく自分を出さざるを得なくなるが、曲によって自分が引き出されるのではなく、自分なりに曲を把握して表現するという観点からすると物足りないと言わざるを得ない。 最初のバッハでは始まったばかりだから硬くなっているのかなと思っていたが、前半は基本的にずっと同じだった。

 で、後半に入って、後藤さんとしては最初のタイスの瞑想曲を聴いたら、あ、肩の力が抜けたかな、と思った。 後半は小曲集だったこともあるだろうが、前半よりはるかに自然で楽しめる演奏になっていた。 アンコールが奇しくも先日の白澤さんと同じチャルダッシュだったが、緩急をうまくつけて独自の表現になり得ていたと思う。

 品田氏はヴァイオリンとの合奏では後藤さんをしっかりサポート。 独奏ではベートーヴェンがよかった。 今度は一人でリサイタルを開いて欲しい。

 客の入りは6割くらいか。 お二人が中央高校出身ということで中央高校の生徒さんも少なくなかったよう。 舞台には (パンフによると後藤憲一氏による) イラストを描いたパネルが左右に2枚おかれていて、昨夜の、花が飾られたステージとはまたちょっと違った面白さがあった。

 なおチケットの売り方に注文。 チラシにはチケットの販売場所が書かれておらず、後藤さん宅に電話して予約するという形だったようであるが (しかし 「コンチェルト」 では販売していたらしい)、数は少なくとも市販場所を設けること、市販場所をチラシに書いておくことは大事だと思う。 新潟島なら大和やりゅーとぴあ、万代なら伊勢丹やヤマハなどのプレイガイドには音楽好きの人たちが始終行くわけだから、そういうところに置いておいてほしい。 私のように電話予約が好きでない人間というのも世の中にはいるのだから。

 それから、昨夜も思ったけれど、どうもだいしホールは冷房がききすぎる。 後藤さんは前半のブラームスで演奏中咳が出て、後半のトークで謝罪していたが、客席でも咳がとまらない方がおられた。 地球温暖化が進み北極が30年後には消えるという話もある現在、一考を要するような気が。

 演奏会終了後、何となくまたヴァイオリンの小品が聴きたくなって、「コンチェルト」 に寄ってCDを2枚買う。 ローラ・ボベスコとシモーネ・ランスマのもので、後者はピアノ伴奏を三浦友理枝さんが担当している (NAXOS)。

8月17日(金) 午後7時から、だいしホールに中村有人&未来 リサイタルを聴きに行く。 ヴァイオリンの兄 (22歳) とピアノの妹 (18歳) によるリサイタル。 父母とも日本人だが、育ちはカナダなので、最後に日本語のあいさつがあったけれど、ふだんから日本に住んでいる人間のようにはいかないかな、という感じ。 お父さんは鹿児島出身だそうだが、新潟に知り合いがいたので演奏会を開けたとのこと。 いずれもカナダの音楽コンクールで優勝している。

 プログラムは前半が、ヘンデルのソナタニ長調、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番からグラーヴェとフーガ、ベートーヴェンのスプリングソナタ。後半は最初の2曲がピアノソロで、ショパンのノクターンop.72とエチュードop.25-11「木枯らし」、次にヴァイオリンが加わってショーソンの詩曲とワックスマンのカルメン幻想曲。アンコールにタイスの瞑想曲。

 まずヴァイオリンの音であるが、最初のヘンデルで聴いて 「高雅」 という単語を思い出した。 美しいだけでなく品があり、ちょっと香を焚いたみたいな印象がある。 美しさに淫することなく抑制がきいているのである。 この音がヘンデルにぴったりで、まずは上々の滑り出しだなと思った。

 次のバッハがまた良かった。 フーガは、最初はもう少し抑制を解いて切り込みを入れては、という気もしたが、抑制の中に静かな気迫が込められていて、それが次第次第に表に出てくるような演奏で、終わったときはブラヴォーと叫びたい気分。 名演、と言っていいであろう。

 と、ここまでは文句なしの演奏で、当然ながら次のベートーヴェンへの期待が高まったわけだが、意外なところにつまずきの石が。 まず、最初の2曲に見られた抑制がここでは裏目に出ているということ。 これはピアノとのバランスから見ても言えることで、妹のピアノはここでは伴奏ではなく、完全に二重奏という意識で自己表現をしていた。 したがって兄のヴァイオリンも同様の自己表現をしないと負けてしまうわけであるが、抑制が先に立って音量的にも不十分。 それと、この曲では余計な音が出るなどの技巧上の難点も目に付いた。 弾きこみが足りないのか、それとも直前のバッハで精力を使ったからなのか。 妹が陽春なら、兄はまだ霜が溶けない 「春とは名ばかり」 という印象。 残念。

後半でも曲による出来不出来がはっきりしていたように思う。 詩曲は文字通り詩的な表現がすばらしかったけれど、カルメン幻想曲となるとイマイチ。 なぜか。 後者は技巧が破綻していなければいいという曲じゃなく、何しろカルメンなのだから、酒場で肌を見せながら踊っているジプシー女に酔った男たちが歓声を浴びせているように弾かないといけないのである。 だけど実際には教室で生真面目に朗読をしているような演奏。 曲ごとの表現のしかたを少し勉強して欲しい。

 客の入りは、開演3分前くらいまでは6割程度だったものが、なぜか開演間際と演奏が始まってから三々五々入ってきて、最終的には9割くらいまでいったよう。 しかし曲が始まってから靴音をたてて入ってくる女性、いったんすわってから演奏中なのに席変えするばあさん、これまた演奏中なのに何事かつぶやいているじいさんなど、マナーはあまり良くなかった。 遅刻者が多かったこと、スプリングソナタの第1・2楽章のあとには楽章間拍手が見られたことと合わせて、チケットの売り方の問題や、新潟市の室内楽愛好家の層の薄さがあらためて実感された。

8月14日(火) 〆切が6日後に迫った論文を書いていたら、バーリッツ著 『謎のバミューダ海域』 をのぞいてみる (読む、のじゃなくて) 必要が出てきて、検索してみたのだが、新潟大学図書館には勿論おいてないし (全国の大学図書館でもこんなキワモノをおいてあるのは数館のみ)、新潟市立図書館にも新潟県立図書館にもない。

 仕方がないので、Amazonに出ている古本を買うことにして、急遽注文。 販売価格は1円だけど (笑)、送料などで340円とられるから、しめて341円。 いくら安価だとはいえ、こんな本を自分のカネで買いたくはないのだが、図書館にない以上仕方がないのである。

 これはほんの一例。 論文を書いていると、研究費だけではどうしても賄えず、私費を投じなくてはならないところが出てくる。 先月から私はこの伝でAmazonから10冊くらい本を買っている。 くどいようだが、全部自分の財布から払っているのだ。 

 え? なんで学術論文執筆にそんなキワモノが必要なのかって? それはこの秋発表されるはずの私の論文を読んでいただければ分かります、はい。

 ・・・・・・しかし、バーリッツの他の著作が3冊ばかり県立図書館にあることが分かったので、昼頃クルマに乗って借りに行くことに。 

 途中、最近できたばかりのカツ屋で昼食をとる。 この建物は以前は回転寿司屋だったのだが、近くに大きく安価な同業者が進出したために廃業に追い込まれた。 しばらく建物が空き家になっていたが、昨日夕刻に通りかかったらカツ屋が新規開業しており、「カツ丼390円」 と書いた旗が立ててあったので、行ってみようかな、と考えたもの。

 本日は残念ながら 「カツ丼390円」 の旗はなかった。 昨日だけの特別価格だったらしい。 しかしそれとは別に 「カツ丼490円より」 と書いた紙が貼ってあるので、入ってメニューを見たら、すぐには490円の品が目に入らない。 メニューの書き方が悪い! 

 カツ丼には松竹梅と3種類あって、価格が違っているわけだけど、普通、高い順に載せるか、安い順に載せるか、どちらかだと思うのだが、この店の掲載順は竹梅松なのである。 つまり、一番上に中くらいの価格の竹が載っており、真ん中にいちばん安い梅が載っており、下にいちばん高い松が載っている。 うーん・・・・・。 何となく姑息なイメージ。 

 つまりメニューを開くと、真っ先に目に入るのは一番上に載っている分ですよね。 逆に最も目立たないのは真ん中に載っている部分である。 安いカツ丼は目立たないように中間に載せている――そこにセコさを感じる。 ちなみに、カツ丼だけじゃなく、ヒレカツ定食も松竹梅の3種類あるが、やはり一番安い梅は目立たない真ん中に載せているのだ。  

 文句を書きましたが、一番安い梅のカツ丼でも私くらいの年齢の人間には十分な量で、味も悪くありませんでした。 ただ、若い人にはご飯の量が物足りないかも。 なお490円は税抜き価格です。

 あと、冷茶を出してくれるのはいいが、できれば卓上にポットをおいて自由に飲めるようにしてほしいもの。 最近はそういう店が多くなっているはずだが、ここはなぜかそうなっていない。 と言って水のポットがあるわけでもない。 ついでに、出入り口のすぐ前に会計台があるが、そこの部分が狭くて、出入りの客と支払いを待つ客がバッティングを起こしそう。 一考を要する。

8月12日(日) 昨日の毎日新聞インターネットニュースから。

 http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/afro-ocea/news/20070812k0000m030063000c.html 

 従軍慰安婦:フィリピン上院で決議案提出 日本に謝罪要求

 第二次大戦中の従軍慰安婦問題をめぐり、日本政府に謝罪などを求める決議案が11日までに、フィリピン上院に提出された。下院でも同様の動きがあり、同国の元慰安婦らがつくる団体などは同日、米下院本会議が7月末に可決した決議を評価するとともに、フィリピン上下両院での動きを歓迎する声明を発表した。

 決議案は日本政府の公式謝罪と補償や、フィリピン政府の医療支援などを求める内容。野党議員が7月末に提出した。過去にも提出例があるが、元慰安婦のフリア・ポラスさん(78)は 「フィリピン議会が米議会と連帯することを願う」 と訴えた。 下院では今月中旬に野党議員数人が連名で提出する予定。

 フィリピンの団体とともに記者会見した日本の非政府組織(NGO) 「戦後補償ネットワーク」 の有光健代表は、参院選の自民党大敗で 「日本の政治が変わりつつある」 とし、日本政府による謝罪と金銭支給を柱とする 「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」 が参院で可決される可能性が出てきたとの見方を示した。(マニラ共同)     毎日新聞 2007811日 2030

 やれやれ、言わんこっちゃない。 先日のアメリカ下院の不当な決議の連鎖反応が起こりかけている。

 アメリカ下院の決議が不当なことは日本国内でさんざん言われており――例えば読売新聞の8/1付け社説を参照――河野洋平だけでなく、安倍総理など、日本の政治家のダメさ加減が明らかになりつつあるわけだが、奇妙なことに産経新聞に最近ダメ政治家を擁護する見解が時々載ることである。 この件については岡崎久彦の見解を批判して当サイトの5/14にも書いたが、その後またぞろ産経に類似した見解を書いた人間がいる。

 8/9の 「正論」 欄に執筆した同志社大教授・村田晃嗣である。 全体的にかなりおかしな論調で、韓国の慰安婦を強制的に連行したという実証的な証拠はないとしてワシントンポスト紙に日本の言論人が載せた広告を、 「政治的な考慮」 から見て 「逆効果」 としている。 ただしマイケル・ホンダ議員によるアメリカ下院の決議は 「きわめて不正確で一方的な内容」 とも書いている。 わけの分からない人だ。 

 学者としてその場合どういう提言をすればいいのか? 言うまでもなく 「きわめて不正確」 なアメリカ下院の決議を撤回させるには、そしてアメリカ下院議員に正確な認識を持たせるにはどうすればいいのか、を自分なりに考えて案を出すことであろう。

 ところがこの人の文章はそうなっていない。 どういうわけか 「歴史的実証と政治的な考慮のバランス」 が大事だとして、先日の久間防衛相辞任に際しての叩かれ方にバランスが欠けていると言い出して、日本人を批判しているのである。

 あきれはてててしまう。 こういうのを内弁慶というのだ。 この人の議論は典型的に進歩的知識人的である。 国際的に見て様々な問題があっても、それに具体的に解決策を提示せずに、まず日本人自らが反省しなければ、と結論付けるのが彼らのやり口だったからだ。 いつから産経は進歩的知識人を採用するようになったのか。 そもそも、そんなことを言っている間に、アメリカ下院の不当な決議はすでに飛び火しているではないか。

 産経の正論欄は以前は執筆者が限られており、したがって内容の幅も狭い印象があった。 それを広げるのは結構だが、こういう役に立たない議論を載せるのはいかがなものかと思うのである。  

8月11日(土) 教養科目の西洋文学の第2回レポートの採点を数日前からやっている。 時々面白い――必ずしも良い意味だとは限らない――レポートに出くわすのだが、本日もありました。

 トーマス・マンの 『ヴェニスに死す』 を読んで、「多感だった私はヴェニスに行きたいと思いました」 なんて書いてある。 うーむ、「多感だった」 って、今の自分に使える形容詞なのかなあ・・・・。

 いや、それだけなら大したことじゃないけれど、少し先に行くと、「美少年と初めて出会ったとき、アッシェンバッハは弟子と 『美』 と 『芸術』 について論争した時のことを思い出す」 なんて書いてあるのだ。 ええとですね、小説の 『ヴェニスに死す』 にはそんなシーンはないんですけど。 映画の 『ベニスに死す』 にはありますけどね。 小説を読まずにレポートを書いていることがバレバレなのである。

 しかも、それまで 「です・ます」 体で書いていたのに、そこの段落だけ 「だ・である」 体に変わっている。 映画すら見ておらず、どこかのサイトから持ってきた可能性が濃厚。 せめてその辺を糊塗するくらいの知恵がないのかねえ・・・・・(嘆息)。 あわてて付け足しますが、これが新潟大生の平均レベルじゃあありません。 平均的な新潟大生は、もう少し悪知恵が働きます (笑)。

 まあ、佐伯啓思みたいな著名な学者ですら、映画の 『春の雪』 しか知らないのに、あたかも三島由紀夫の原作を読んだかのように自著の中で語ってしまい、しかし引用箇所が原作にはないシーンであるためあっさりバレてしまう――というようなこともあるわけだから、こういう世の中なのかもしれませんね。 末世かなあ。

8月10日(金) 今年は東京交響楽団の演奏会でよくハイドンの交響曲が演奏される。 それで、私もやっとハイドンの交響曲全集のCDを買う決心がつき、先日HMVに注文しておいたのが昨日届いた。 33枚組の、アダム・フィッシャー指揮のオーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団による演奏。 送料込みで1万円を少し出る程度のお買得価格。

 実は全集にはアンタル・ドラティによるものもあって、迷ったのである。 それに私はフィッシャーによるハイドンの交響曲は部分的に持っていたので。 だけどドラティのは値段が倍以上するということもあって、ダブりは承知で安い方に決めました。

 本日は1枚目に入っている第1〜5番を聴いた。 これから毎日1枚ずつ聴くとして、1カ月ちょっとかかる計算である。 頑張ろうっと!

 *     *     *     *

 ところで、先日、大学院の共通図書費に申し込んだ図書が全部却下されてショックを受けた件について書いた(7月20日参照)。

 その後、図書館の学生用図書の大学院割り当て分の募集が別途来たので――外部の人には 「大学院共通図書費」 と 「図書館の学生用図書・大学院割り当て分」 との違いが分からないでしょうが気にしないで下さい――7月20日のところに書いておいた本を半分くらいに減らして応募しておいた。 なぜ半分かというと、今回は総枠が30万円弱しかなく、先に却下されたのは100万円の枠に応募してのことだったので、弱気になっていたからです。 〆切は本日のはずだった。

 ところが、である。 本日メールが来て、応募が少なくて総枠に達しないから数日〆切を延ばす、というのだ。 ったく、わけが分からない。 こないだは100万円の総枠に5万数千円の図書を申し込んで全滅だったのである。 それなのに、今回は30万円の総枠に3万円申し込んだら、応募が足りないというのである。 

 それなら、というので改めて先日蹴られて今回応募に入れなかった分も応募することにした。 加えて若干新しい本も追加しておいた。 通るといいんだけどね。

 念のため。 大学はカネが余っていると思わないように。 以前にも書いたが、独法化に際して昔から継続して買ってきたドイツ語の全集類と辞書事典類が、まだ刊行途中なのに、予算難のため購入中止に追い込まれているのである。 

8月4日(土) 午後3時からだいしホールで白澤美佳+金山千春デュオリサイタルを聴く。 いずれも桐朋学園大学出身の若いヴァイオリニストとピアニストで、白澤さんは新潟市の出身。

 プログラムは、前半がベリオの 「バレエの情景」、バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」、ベートーヴェンのスプリングソナタ。 後半はリストの 「愛の夢」、ショパンの幻想即興曲、サラサーテのツィゴイネルワイゼン、ダッラピッコラの 「タルティニアーナ・セコンダ」。 アンコールにモンティの 「チャルダッシュ」 とエルガーの 「愛の挨拶」。 ちなみにこの中でピアノ独奏曲はショパンだけ。

 客の入りは悪くなく、8割くらい入っていたか。

 で、ヴァイオリンの白澤さんの演奏なのだが、うーん・・・・。

  トークを交えながらの演奏会で、そこで白澤さんはピアニストの金山さんを紹介して 「私と反対でおっとりした性格の人」 と評していたが、なるほど、白澤さんのヴァイオリンは性格を反映しているのかも知れれないと思った。 直情径行というか、押しの一手というか、とにかく前進あるのみなのである。 「力をためる」 とか 「波はいったん引くからこそ強くうち寄せることができる」 といった文章は彼女の辞書にはなさそう。

 私は白澤さんの演奏は昨年音楽協会総会コンサートで初めて聴き、その時はフランクのソナタだったと思うが、やはり押しの一手という感じの弾き方に、「まあこういう演奏もあっていいかな」 と思った。 昨年はその数カ月後にだいしホールでリサイタルもやったのだが、私は仕事の関係で聴けず、昨日はそのためもあって期待していたわけなのだ。

 しかしベートーヴェンのスプリングソナタを聴くと、「これはないな」 と言わざるを得ない。 春の馥郁とした香りだとか柔らかな雰囲気はどこにもない。 缶詰の春にお湯をかけて解凍したみたいな感じ。 トークでは、ベートーヴェンはあまり好きではないがこの曲だけは好きだと言っていたけど、好きな曲らしい丁寧な表現があったとは思えない。 むしろベートーヴェンならクロイツァーか第7番あたりのほうが合っているのではないか、という印象だった。

 アンコール2曲でも同じような感想。 「チャルダッシュ」 は合格点。 だけど 「愛の挨拶」 は、愛するが故の胸のときめきと同時に、愛するが故の羞恥心だとかおずおずとした気配りだとかが感じられるように弾くべきだと思うのだが、白澤さんが弾くと一方的に愛情をまくしたてているようにしか聞こえず、愛が醒めてしまいそう。

 あと、全体的に細部の詰めが甘い。 これは昨年フランクを弾いたときにも感じたこと。 昨日はヴァイオリンを習っている中1の娘を連れていったのだが、娘曰く 「私のほうがうまい」。 まあこれは小娘のたわごとと思っていただきたいけれど、ヴァイオリン学習者にそう言われるようなリサイタルをやっちゃ、おしまいですよ。

8月3日(金) 朝方、近所の犬がやたら吠えるので何となく不安になる。 なぜかというと、阪神大震災の時、次のような新聞記事を読んだことを覚えているからだ。 震災が起こる直前、つまり早朝、自宅の犬が吠えているので仕方なく夫婦で早起きして散歩に連れ出したら、ちょうど住宅地を出て広場に着いたところで震災が起こり、揺れが収まってから自宅に戻ってみたらぺちゃんこになっていて、犬のおかげで命拾いしたと判明した、という話である。

 こないだ中越沖地震があったので、なおさらその記事が強く思い出されたのであろう。 しかし、うちの近所の犬は新聞記事の犬のような名犬ではなかったようで、幸いにして地震はありませんでした。

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 さて、本日は午後7時から音楽文化会館で 「TOKI弦楽四重奏団+2」 の演奏会を聴く。  入りは非常によかった。 9割くらい入っていたかな。 ただし楽章間拍手も目立ち、日頃はクラシックなんか聴かない人も一定数いたよう。 前新潟県知事が演奏会終了後ロビーで挨拶していたが、そのご威光だろうか? (第2ヴァイオリンの平山真紀子さんは前知事のお嬢さんなので。)

 プログラムは、R・シュトラウスの歌劇「カプリッチョ」op.85による弦楽六重奏曲、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第4番ハ短調、チャイコフスキーの弦楽六重奏曲「フィレンツェの思い出」。アンコールに「浜辺の歌」とブラームスのハンガリー舞曲第5番。

 ちなみに演奏者は、カルテットがサイモン・ブレンディス(Vn)、平山真紀子(Vn)、鈴木康浩(Vla)、上森祥平(Vc)、それに加えて小熊佐絵子(Vla)と横坂源(Vc)。

 最初にちょっとした演出が。 会場を真っ暗にしておいて、車椅子の人が座るスペースに弦楽四重奏団のメンバーが集まって、いきなりそこだけ光を当てて、シェルホフ(?)の弦楽四重奏曲第1番第1楽章を演奏。 うーん、どうかなあ。 私は最初、こないだの中越沖地震の犠牲者のために何かやるのかと思ったが、そういうわけではなかったらしい。 曲がにぎやかすぎたし。 どうせ演出するならそのくらいのことを考えてほしいもの。 何か、的をはずした印象があった。

 昨年聴いたときも感じたことだが、第1ヴァイオリンのブレンディスがやや弱いのである。 だから、若いベートーヴェンの直截的な表現がうまく出せていないような。 この曲はもっと野蛮にやらないといけないと思う。

 その点、チャイコフスキーは演奏者の数が多い分、重奏の魅力が前面に出て、悪くなかった。 この曲、私はわりに好きなんだが、生で聴く機会が少なく、こないだ東響のロビーコンサートで取り上げたのはいいけど省略が入っていてがっかり。 この日の演奏でようやく満足。 特筆すべきは、ヴィオラの鈴木康浩であろう。 第2・3楽章で実によく通るいい音を出していた。 それに比べると、ブレンディスは第4楽章でやはり音量不足が露呈していて、どうもイマイチ。

 R・シュトラウスの曲は、私は初めて聴いたが、捕えどころのない情緒みたいなものがあって、まあそれなりに面白かった。

 この団体は来年も9月10日に演奏会を開くそう。 私としては昨年のように牧田由起さんの起用を強く望みたい (笑)。

8月1日(水) 産経新聞のコラム 「断」 がまたメンバーチェンジをするようだ。 といっても新顔の登場ではなく、旧メンバーの復活である。 昨日は潮匡人が、本日は大月隆寛が再登場である。

 昨日、潮匡人の書いているところでは、「読者の声援をいただき」 ということだけれど、それだけ新メンバーが冴えない、ということか。 もっとも井口優子のつまらなさ、というかトンデモぶりはこのサイトでも日頃から指摘しているとおりだけど、一方で片山杜秀が先月26日に書いていたようななかなか読ませるコラムもないではない。 片山はそこで、クラシック音楽でもヨーロッパの作曲家だけでなく、日本の作曲家 (大澤壽人や松平頼則) を再評価せよと訴えていて説得力があった。

 本日の大月のコラムは新鮮味がなかったけれど、昨日の潮匡人のは先月23日に産経新聞の正論欄に載った岡本行夫・元首相補佐官の変な文章を批判していて、悪くなかった。 岡本の文章は極めて奇々怪々というしかない代物で、歴史は主観で見るべきだという趣旨であり、とてもまともな知性を持った人間の書くものとは思われなかった。 叩かれて当然である。

 問題は、こういう政府サイドの奇妙な論理が、時々産経新聞に登場するということであろう。 このサイトでも批判した (5月14日参照) 岡崎久彦の文章などもそうで、これらはアメリカとの関係を重視する余りあちらの言い分はなんでも聞こうという、恐るべきメンタリティの持ち主が書いているのである。

 重要なことは、そういう面々が大使だとか首相補佐官といった政府や外務省の要職にあった人たちだということである。 アメリカに追随するあまり歴史までねじまげようというこういう輩を放置するとトンデモナイことになりかねない。

 再登場した潮氏に期待するところがあるとすれば、昔のような左翼叩きはもうたくさんだから、むしろ保守派と目されている人たちの中にひそむこういうおかしな面々をきちんと叩いて欲しい、ということである。

 昨日は慰安婦に関するアメリカ下院のふざけた決議があったが、こういうデタラメ決議を支えているのはアメリカの中国系反日組織だとか日本の左翼組織ばかりではなく、案外、日本の保守派だとか、政府要職に就いていながら (就いているがゆえに?) アメリカに骨の髄までしゃぶられているような連中なのかも知れないからだ。

7月30日(月) 本日、先週月曜日に続いて中越沖地震の被害者ために郵便局から若干の寄付をしました。

 何でふたたび寄付したかというと、以下のような事情による。

 3年前の中越地震のときも2回寄付をした。 最初はとりあえずということで郵便局から寄付をし、その後学内で寄付集めが始まったので再度若干寄付をした。 だからといって別段多額を供出しているわけではない。 私の2回分を学内の寄付1回分で出している人も多かったと思う。

 で、今回もそうしようかと思っていて、先週月曜にまず郵便局から寄付をしたら、その次の日、学内で寄付集めをするからよろしくという連絡が入った。

 しかし、と私はその後考え直した。 私は長谷川彰学長の再選は学内投票を無視した不当なものだと見ているので、可能な範囲で非協力的な態度をとろうと考えている。 したがって、今回、学長名で来た寄付依頼には応じないことに決めた。

 といって、ただ寄付をしないというのでは、単に自分のカネが惜しいから、ということになってしまう。 それで郵便局から再度寄付することにしたのです。

 まあ、何にしても、中越沖地震の被害者への寄付をよろしくお願いします!

7月29日(日) 教養科目の西洋文学の中間レポート採点を数日前から行っている。 中間レポート〆切は6月末日なのだが、その採点を今ごろやっているのだから、私の怠惰さも相当なものだ。 ちなみに期末レポート〆切は本日から数えて5日後。 それまでに中間の採点を済ませておかないと学期末が超多忙になってしまう・・・・。 だけど1クラス約150人分のレポートを読むってのは億劫で、それで仕事に手を着けるのも延び延びになってしまうのである――というのは無論、言い訳に過ぎません、はい。

 教養科目だから、いつもそうだけれど、レポートを書く学生の力量も千差万別である。 こちらがへえと驚くような文献引用や感性を見せてくれる者も多少いる一方で、中学高校時代に作文を書いたことがないのか、何をやっていたんだと首をかしげるようなレポートもある。

 トーマス・マンの 『トニオ・クレーガー』 について、文章 (訳文) が難しいとグチをこぼすのはいいが、《 「倦怠」 「驕慢」 「不遜」 など意味のよく分からない言葉がたくさん出てきて・・・・》 なんてぼやく奴もいる。 驕慢や不遜はともかく、倦怠くらい分からないのかと驚いてしまうが、理系の学生だから仕方がないのだろうか。 もっとも、正直にこういうことを書く学生だけあって、トニオとハンスが男同士なのに腕を組んでいるのにびっくりした、など、それなりに新鮮な感想も綴っていて、こちらが授業中にしゃべったことをそのまま書いてくる学生よりマシかなという気もしないではない。

 実際、こちらが授業中板書したことをそのままレポートに書いてくるけど、実は全然分かってないことが文章の端々から見えてくる、ってな学生もいるわけなので。

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  7月7日に書いた件の続き。 山形大学学長選挙の結果が出たが・・・・以下、産経新聞インターネットニュースより。

 http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/070726/gkk070726003.htm 

 山形大学長に前文科次官を選出 「天下り」批判も

 山形大は26日、仙道富士郎学長の任期満了に伴う次期学長選考会議を開き、前文部科学事務次官の結城章夫氏(58)を選出した。任期は9月から4年間。

 官僚トップの次官経験者が国立大学長に転身するのは極めて異例。4人が立候補し、結城氏は7月に次官を退任したばかりで「天下り」の批判も出た。25日にあった教職員の投票で結城氏は2位だったが、学内外の委員による選考会議で最終的に“逆転”した。

 法人化や大学全入時代により地方国立大が厳しい状況に直面する中で、次官経験者にかじ取りを期待したとみられる。しかし、投票で1位だった小山清人工学部長(58)らは反発している。

 結城氏は記者会見で 「学長は大学が選ぶもので 『天下り』 ではない。事務の合理化など改革に取り組みたい」 と語った。

 結城氏は山形県村山市出身で東大工学部卒。昭和46年に旧科学技術庁に入り、平成17年に旧科技庁出身では初めて文科事務次官に就いた。

 「学内意向聴取」 と呼ばれる教職員の投票では結城氏以外の候補者3人が小山氏に事実上一本化し、投票総数809票に対し、小山氏378票、結城氏355票の接戦だった。

 選考会議は学内と学外の委員7人ずつの構成で、投票結果は結城氏10票、小山氏4票だった。元病院長の坪井昭三議長は 「経歴や経験、事務合理化への姿勢も評価した」 と述べた。
 (2007/07/26 21:54)

 やれやれ、最悪の結果と言うべきであろう。 文科省官僚が投票で最多得票を取れなかったにもかかわらず、選考会議が選んでしまったわけだから。

 実は上記インターネット記事には書かれていないが、本日の産経新聞 (紙のほう) にはもう少し詳しい情報が載っていて、結城氏を学内が嫌うのは生え抜き以外の人材を大学が受け付けないからだ、と文科省筋が言っているということだが、これは真っ赤なウソである。 おそらく対抗馬の小山氏がたまたま山形大学生え抜きだったからそうコメントしたのだろうが、現・山形大学長の仙道富士郎氏は北大医学部出身であり、山形大生え抜きではない。

 こういう見え透いたウソをつく文科省を、マスコミはもっと追及してもらいたいものだが。

 要するに文科省としては、これで有力な天下り先がまた一つ増えた、ということなのである。 国立大学の独法化は、本来、大学・大学人が国家機関・公務員という窮屈なくびきを逃れるために行われたのではなかったのか? 独法化の失敗は、これだけ見ても明らかだろう。 かえって文科省の管理が露骨に進んでいるってことが明らかになったわけだ。

 そもそも、学長選考会議というのは文科省の意向だとか上の方ばっかり見ていて、学内の意見なんか全然見ちゃあいないのだ、 民主主義もへったくれもない。

 恐ろしいのは、こうして選ばれた学長およびその取り巻きが何をやっても、その責任を誰も負わない構造になっているということだ。

 つまり、投票結果そのままに選ばれた学長が失政をしたとしても、その影響をこうむるのは選んだ学内構成員であるから、自業自得なのだが、学長選考会議は投票結果を無視して学長を選んでいるのだから、自業自得とは言えない。 それでいて、投票結果を無視した選考会議は学長の学内政治に対して何の責任も負わない。 これ、究極の無責任構造じゃない? 知性の府であるはずの大学がこれじゃあね。

 新潟大学でもそうである。 悪政ゆえに再選されなかった長谷川学長を強引に学長にした選考会議の無責任。 そして、そもそも長谷川学長が最初に選ばれた選挙の時に彼を推挙していたクミアイがその責任をとったという話も聞かない。 いくら事後に長谷川学長を糾弾するなんて声明を出したってダメですよ。 はっきり分かるような責任の取り方をしないんじゃあね。 要するに、文科省べったりの学長も、口先だけ反体制のクミアイも、究極の無責任体制なのだ。

 これで日本がまともになるわけ、ないよね。

7月27日(金) 午後5時から19世紀学学会の講演会を聴く。 発表者はお二人で、いずれも新潟大学超域機構の准教授。 内容もそろって聖書学関係である。

 最初は最近発見された 『ユダ福音書』 についてで、シロウトが聴いてもそれなりに面白かったが、2番目の発表は教会文書の写本をめぐる細かい異同、及びそれに基づく年代確定の話で、正直、かなり浮世離れした内容だった。 まあ、ワタシがやってる独文なんかも、世間から見れば同じように見えるのかもしれませんがね。

 新潟大学にこんなに浮世離れしたところがあったとは、驚き! 何しろ文科省と大衆的学生に媚びるばかりが能かと思っていたので、若干見直しました。 皮肉じゃないですよ、念のため。

7月23日(月) 本日、中越沖地震の被害者のために郵便局から若干の寄付をしました。 これを読んでいる皆さんも是非お願いいたします。

 ところで、寄付のためではないが、郵便局で郵便振替の払出書を新しく請求しようとしたら、制度が変わっていて困惑。

 私は郵便振替口座を持っている (郵便貯金口座――ぱるる――のことじゃないですよ)。 持っていると送金に便利だからだ。 もともとはドイツの通信販売専用書店から本を直接買うために持ったもので、銀行からの海外送金に比べて格段に手数料が安いのが魅力だった。

 最近は事情があってドイツから直接本を買うことも余りなくなったが、日本国内での送金にも便利だから相変わらず重宝している。 普通、郵便振替での送金手数料は100〜150円だが、自分で口座を持っていると送金金額に関係なく15円で済む。 知ってましたか?

 特によく使うのはネット上の古本屋から本を買うときで、回数が重なると送金手数料の差はバカにならない金額になる。

 口座を持っている人間が郵便振替で送金するときは、自分専用の払出書に相手方の振替口座番号と金額を書いて押印して郵便局に持っていけばいい。 払出書は郵便局に請求すれば20枚単位で送ってくれる (いったん口座を持てば、いくら送ってもらってもタダ)。

 その払出書のストックがなくなったので新たに請求したわけだが、その際に、住所を少し変更しようとした。 今現在私が登録している住所は大学のものだが、その大学内部の所属も色々あって変わっているので、今現在に合うような形に直そうと思ったのである。 今までのは教養部解体直後に登録したものだ。

 ところが、である。 郵便局の窓口で変更しても大丈夫ですよね、と確認したら、大丈夫ではなかったのだ。 最近の改正で、郵便振替口座は個人の住所でなければばらず、大学といえども組織のなかの住所ではいけないことになったというのだ。 少し前から不正送金を防止するために一定金額以上の送金は窓口で本人確認の上で行わなくてはならなくなったが、それと並行する 「改革」 らしい。

 しかし私は本の注文などは基本的に大学にいる時にやっているし、送付先も基本的に大学にしている。 平日の日中はずっと大学にいるわけだし、夜中や朝早くは郵便局は空いていないのだから、その方が合理的なのである。 だから郵便振替口座の住所も大学にしているのだ。

 郵便局もなんとも不便な改正をやってくれたものだ。 しかし従来組織の住所でやっていた人は、住所変更がない限りはそのまま使えるというので、結局そのままで行くことにした。 今の住所でも私宛てに届かないわけではないので。 しかし、うーん・・・・

7月22日(日) 昨日は飲み会があって大学にクルマを置いてきたので、バスに乗って大学へ。 バス停に向かう途中、拙宅の近くに駐車場になっている空き地があるのだが、選挙を間近に控えている時期のことで、共産党の候補者の看板が立っていた。 そういえば、この敷地は選挙の時はいつも共産党の立て板が立つなあ、と思い出した。

 自分が住んでいるわけでもない土地を持っていて、そこを駐車場にして儲ける、というのは資本家の論理だと思うけど、そういう人がなぜ共産党を支持しているのだろうか・・・・・考えてみると不思議なことである。

 閑話休題。 バスから降りて少し歩いて大学の構内にさしかかったら、「緊急ひなん場所」 と書いた看板が入口近くに立っているのに気づいた。 歩いてくると、クルマで来るときとは違って色々なことに気づくものである。 それにしても 「ひなん」 ねえ。 小学生にでも分かるようにということなのかも知れないが、「避難」 という漢字を使わないのは大学という知をモットーとすべき場所としては情けないような気もする。

 そう言えば、昨夜の飲み会の居酒屋が入っているビルでエレベータに乗ったら、「ひじょう用」 と書いたボタンがついていた。 「ひじょう」 ねえ。 これも小学生にも分かるように、ということなのかなあ。 なんか、平成の大合併でできた市の名前にも平仮名が目立つけれど、これでいいのだろうか・・・・。 これも 「閑話」 ですかね?

7月21日(土) 午後6時半から、H卓球クラブの納涼会。 場所は新潟三越近くの店で、最近できたらしいが、バイキング方式の居酒屋である。

 2時間という制限付きで食物と飲物が好きなだけ飲み食いできる。 料金は男性なら飲み食いで合計3千円強、女性は3千円弱 (飲むだけ、食べるだけも可なので、飲みと食いごとに料金設定がなされている)。

 値段が値段だからたいしたものはないが、まあ腹はくちくなるし飲みたいだけ飲める。 ちなみにアルコール類は生ビール、日本酒、酎ハイ、赤白のワイン、ウィスキー (バーボン含む)とひととおり揃っている。 私は最初だけ生ビールで、そのあと赤ワインにした。 赤ワインも何種類かあるが、テーブルワインではないものの2006年という製造年が入っていて味もまあまずくはないなという程度のものである。 この値段だから当たり前だけど。

 ともかく、世の中には色々なものができているのだなあ、と思いました。

7月20日(金) 今月初め、大学院の共通図書費で図書購入を申し込んでおいたのだが、却下されてショック。

 大学院の図書費と言っても、専門的な原書だとか自分の研究に直接的に役立つ本を申し込んだわけではない。 そもそもこの経費で買った本は中央図書館に置くという決まりであるので、「このくらいは大学にあってもいいよな」 と思える本を申し込んだのであるが・・・・。

 その手の本は、昔なら自分の研究費で買って図書館に置いてもらうようにしていたわけだが、独法化と同時に個人研究費は半分以下になっているので、もうそういう真似はできなくなっている。

 というわけでこういう共通経費で基本図書を図書館に入れるしかないので、申し込んだわけだが、「今回は予算総額も少ないため先生の申請分は見送りとなりましたのでお知らせします。 (選定はこれまで共通図書費での購入実績がない方、少ない方を優先して順位をつけています。)」 なのだそうである。

 たしかに総額は多くない。 百万円である。 これを大学院現代社会文化研究科、つまり学部で言えば人文学部と法学部と経済学部と教育人間科学部の、計200名近い教員で使用しようというのだから、競争率が高くなるのは必至だろう。

 とはいえ、今までこの経費に私は毎年申し込んでおり、基本的に毎年採用されていたのであるが・・・・・。 今回却下されてしまったのは、総額が少なくなってきたことに加え、申し込む人間の数が増えてきたからではないか――内実がどうなっているかは私のようにエラくない教員には分からないのであるが、つまりそれだけ皆さん研究費が乏しくなってきているということなのではないかな。

 ちなみに、私がどういう本を購入申請したか、以下に書き出しておこう。 ともかく、これらの本は新潟大学には1冊も入っていないのであり、今年度中に入る見通しも立っていない、という現状をお分かりいただきたいのである。 新潟大学の大学のとしての機能が怪しくなる一方であることは明らかだと思う。

  藤永茂『『闇の奥』の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷』(三交社)2100円〔コンゴにおける大虐殺〕

  フィンケルスタイン『イスラエル擁護論批判―反ユダヤ主義の悪用と歴史の冒涜』(三交社)2625

  フィンケルスタイン『ホロコースト産業』(三交社)2100

  ヴォルフガン・ベンツ『ホロコーストを学びたい人のために』(柏書房)2310

  ワンボイ・ワイヤキ・オティエノ『マウマウの娘 あるケニア人女性の回想』(未来社)2730

  『ヘルマン・ヘッセ全集 第14巻 ナルツィスとゴルトムント・牧歌』(臨川書店) 8月発売予定につき定価未定(たぶん3500円程度)

  『ヘルマン・ヘッセ全集 第15巻 ガラス玉遊戯』(臨川書店)3990

  リオン・フォイヒトヴァンガー『宮廷画家ゴヤ』(エディションq)3465

  小栗浩『続々近代ドイツ文学論集』(朝日出版社)5000

  鈴木良ほか(編)『現代に甦る知識人たち』(世界思想社)2100

  イザベラ・バード『朝鮮紀行』(講談社)1733

  『ルー・ザロメ回想録』(ミネルヴァ書房)3990

  マックス・ガロ『イタリアか、死か―英雄ガリバルディの生涯』(中央公論社)3990

  ランディ・ソーンヒルほか『人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす』(青灯社)3360

  『カンデライオ ジョルダーノ・ブルーノ著作集1』(東信堂)3360

  『原因・原理・一者について ジョルダーノ・ブルーノ著作集3』(東信堂)3360

  『永久的狂気 ジョルダーノ・ブルーノ著作集7』(東信堂)3780

  サイデンステッカー『流れゆく日々』(時事通信)2940円 〔サイデンステッカー自伝〕

7月18日(水) Nさん、地震へのお見舞いメール、ありがとう。 うれしかった。

7月17日(火) 2限が3・4年向けの演習。 一人、柏崎市が実家の学生がいるので、本人は大学近くのアパートに住んでいるからいいけれど、実家がどうだったか訊いてみた。 ご両親に電話したところ、実家は倒壊はしなかったものの、もう住めないかも知れないと言っているとのことであった。

 これを読んでいる全国の良心的な皆さん、新潟県中越沖地震の被災者のためにご寄付をお願いいたします。 と言っても私の研究室では受け付けておりませんので、赤十字などもよりの団体へどうぞ。

7月16日(月) 月曜だが休日なので、朝食後自宅の書斎にいたら、午前10時13分頃激しい地震に襲われた。 壁際に並べた書棚の一番上に置いてある本が3棚分落下。 

 書棚は6段だが、その上に本を並べ、さらに自分で作った木枠 (凹を上下逆にしたような形) を置いてその上にも本を置いているので、事実上8段になっている。 その8段目が落下したということである。 一番上にはセット物を多く並べており、箱入りのものもいくつかあって、箱ごと落ちるとかなり重いので、向かい側のスチール製書棚の途中の段に激突し、棚がぐにゃりと歪んでしまった。

 向かい側とは言っても、私一人が通れればいいので、間は70センチ程度しか空いていないのである。 またスチール製と言っても、1つ1万円弱の安物で、スチール板が薄くできているので、あまり丈夫ではないのだ。 

 3年前の中越地震の時はこうした現象は起こらなかったから、拙宅に限って言えば今回の方が揺れば激しかったということになる。 一応新潟市の震度は西蒲区だけが5弱でそれ以外は4ということだが、拙宅は西蒲区にかなり近いところにあり、5弱に近かった気がする。

 もっとも、午後になってから大学に行ってみたら、研究室では拙宅と同様の方式で一番上に置いてある本が一部分落下しているだけだった。 3年前は研究室では一番上に置いた本は全部が落下したので、研究室の揺れは3年前よりは小さかったということになる。 この辺は、地震の揺れの方向やピッチ、建物の構造、地盤、などなど複雑な要素が絡み合っているのだろうと思う。

7月15日(日) 午後5時から東京交響楽団第42回新潟定期演奏会をりゅーとぴあで聴く。 ユベール・スダーンの指揮、伊藤恵のピアノで、ハイドンの交響曲第1番、シューマンのピアノ協奏曲、ベートーヴェンの交響曲第4番。 アンコールにシューベルトのロザムンデ間奏曲。

 満席ではないが入りはわりに良かった。 演奏会の出来も良かったと思う。 私は特にベートーヴェンの第4に鮮烈な印象を受けた。 中でも第1楽章と第4楽章に指揮者スダーンの強い表現意欲のようなものを感じ、いいかい、この曲はこういうふうにできているんだよと改めて教えてもらったような気がした。 やっぱりスダーンはすごい指揮者だ。 最近の東響定期で聴いた交響曲のなかでも私にとっては思い出に残る演奏になりそう。

ハイドンも面白かった。 初めて聴いた曲だと思うけど、モーツァルト風というか、もちろん曲想なんかは違うけれど一つの曲の中でいくつもの顔を見せてくれるところに魅力があるみたい。

 シューマンは全体にゆっくり目のテンポ。 第1・2楽章はまあ良かったと思うけど、第3楽章はもう少し躍動感が欲しい。 あのテンポでピアノを弾かれると、リズミカルと言うより、噛んで含めるような、と形容したくなってしまう。

7月13日(金) 午後6時半からゼミのコンパを開く。 大学内の演習室にて。 9時過ぎに散会し、バス停まで歩いていったら、途中JR越後線の踏切が降りていて、人文学部長のH先生と心理学教授のM先生が立っておられた。 お二人は近くの店で酒宴があったようで、終わってからバス停に向かわれるところであった。

 お二人は私と同じ町内に住んでおられるので、乗るバスも一緒である。 それにしても、学部長を初め、酒宴が終わるとハイヤーでもタクシーでもなく、バス停までとぼとぼ歩いて帰宅する、というあたりに、国立大学教授の生活が表れていると言っていいでしょう。

7月11日(水) 本日の産経新聞に 「ポストドクター増加中 定職なき研究者・・・・全国で1万5000人超  国の大学院重点化が原因」 という記事が載った。

 内容的には私を初め、心ある研究者が以前から警告していたこと――すなわち大学院の定員をやたら増やしても卒業生の就職先がなく 「博士号は取ったけど」 という浪人を増やすだけに終わる――ということに過ぎないんですけどね。 大学内にいると常識に過ぎないことが、やっと新聞記事になった、というだけの話に過ぎません。

 思うんだけど、日本の中央省庁の官僚って、本質的にバカなんじゃないだろうか。 どうしてその程度のことが予想できないのだろう? 東大を初めとする一流大学を出ていようが、その程度のことも予想できないならバカ呼ばわりされて当然じゃないの?

 文科省だけではない。 医者の数だって、一時期は過剰だとか言って国立大の医学部定員を減らしたけれど、最近になって不足していると判明して逆に増やし始めた。 まったく、10年や20年程度先のこの種の予測すらろくにできないなら、官僚なんて辞めてもらいたいものだ。

 これって、時々言われるように、日本の指導層が法学部に片寄っていて数学がろくにできないからなのか、それともそれとは別の理由からなのか、どちらなのだろう。 うーむ。

 まあ、新潟大だって教室の数と授業の数を考えることもしないで旧教養部の建物の教室を大幅削減するといったチョンボをやっており、こういう醜態を見ていると、日本人ってやっぱり黄色いモンキーで頭が悪いんじゃないか、と言いたくなっちゃうんですよ・・・・。

7月10日(火) ウィキペディアがサブカルチャー偏重で、正統派ハイカルチャーに関する記述がお粗末なのは、小谷野敦氏を初め、つとに指摘されているところである。 そのウィキペディアに、本日、ドイツ文学者の故・井上正蔵の項目を書き込んだ。 たまたま彼の自伝 『私のシュトゥルム・ウント・ドラング』 を読んでいるからだ。

 井上正蔵は都立大教授として長らく勤務し、ハイネや東ドイツ文学の研究で知られた方である。 私が修士課程1年のとき東北大にも出張講義に来られたので、授業を受けたことがある。 良くも悪くもオールド・マルクスボーイ、という印象であった。

 話を戻すと、ウィキペディアはそういうわけでハイカルチャーに関する記述がナッテナイので、私もいくつか書き込んだことがある。 ドイツ文学者で言えば、池田浩士や岩淵達治や平井正や手塚富雄の項目は私が書いたものである。 もっともそのために特に調査をしたわけではないから、簡略な記述にとどまっている。 どなたかこうしたドイツ文学者の経歴にお詳しい方は追加での書き込みをお願いしたい。

 しかし、ドイツ文学者として当然あるべき項目が欠けている ――例えば木村謹治―― 一方で、なくてもよさそうな名前が入っているのである。 具体的な名前は挙げないけれど、こんな人いたの?と私でも首をひねるようなドイツ文学者がウィキペディアに載っているのだ。

 どのくらいの学者ならウィキペディアに載せるに値するかは判断が分かれるところだろうが、単著も単独訳書も出していない人を載せるというのは、かなり問題があるのではないか。 しかし実際にはその程度のドイツ文学者でも載っている例がある。

 なぜそんな学者まで載っているのか? (1) その人自身が自己宣伝のために書き込んだ (2) 友人知人同僚が書き込んだ  (3) 教わった学生が書き込んだ――まあ、このいずれかであろう。 いずれにせよ、高橋健二や高橋義孝といった錚々たる名前と並んで実績に乏しい学者が載っているのはみっともいいものではない。 善処を望む――って、誰に向かって言っているのでしょうね?

7月8日(日) 朝から大形卓球大会に参加。 於・新潟市東体育館。 この大会は半年に一度開催されているが、私は色々あって前回は出なかったので、1年ぶりの出場である。 いつもながら、主催者の大形卓球クラブの方々にはご苦労様ですと申し上げたい。

 男女でダブルスのペアを組んで、7〜8ペアで1グループを作ってリーグ戦をやる。 午前中でそれが終わると、午後は抽選で組み合わせを変えてまた同様のリーグ戦である。

 私は午前の部では3勝3敗でグループの7ペア中4位という黄金の中庸を行く成績だったけれど、午後は5勝1敗で堂々グループ優勝だった。 わっはっははは・・・・(笑)。

7月7日(土) 山形大学の学長選挙に文科省の官僚が立候補するとか。

 http://www.asahi.com/life/update/0706/TKY200707060408.html 

 文部科学省を6日に辞職した結城章夫・前事務次官(58)が退任会見で、10日に公示される山形大学の学長選に立候補することを明らかにした。 結城氏は山形出身。 複数の学部から推薦されているという。

 次官経験者は多くの場合、「天下り」で省庁の外郭団体や関連の独立行政法人のトップに再就職する。 省内では結城氏もこうしたポストに再就職するとの見方もあったが、異例の学長選立候補となった。

 この日は、立候補に必要な「所信」の提出締め切りで、結城氏は夕方提出した。 次官クラスの人事は国会開会中は行わない慣例で、6日の辞職は前日に国会が閉会したことを受けて発令された。 辞職の日と締め切りが重なったため、ギリギリでの立候補となった。

 結城氏は会見で 「地方大学の位置づけが非常に難しくなっている。 私が文科省で得たいろんな知識、経験を何らかの形で役に立て、ふるさとの大学の発展に貢献できれば幸せ」 と述べた。

 学長選は仙道富士郎学長の任期が8月末で満了することを受けて行われ、結城氏の他には現職と前職の学部長計3人が立候補する予定。 25日に教職員による投票で上位3人に絞り、26日に学内外の委員で構成する選考会議が最終的に決める。

 結城氏は東京大工学部卒。 71年に旧科学技術庁に入り、省庁再編で文科省となった後は官房長、文科審議官などを経て、05年1月に旧科技庁出身者として初めて、文科事務次官に就任した。
  (2007年07月06日21時34分)

 うーん。 まあご本人は地元出身ということもあって純粋に善意から立候補しているのだろうけれど、そうでなくとも国立大ってのは文科省の言いなりなんだから、これではっきり国立大学は文科省の下部機関、という位置づけになってしまうのではないですかね。

 中央省庁とパイプを持っていた方が有利という考え方は地方自治体には根強くて、官僚出身者が知事になったり、副知事の一人は自治省から派遣してもらうとかいうことをやっているわけだが、国立大学もここまで来たわけだ。

 もっとも、新潟大学でも組合推薦の学長が、いざ当選してみたら文科省のいいなりで、おまけに再選のときは得票数が2位だったくせに強引に再選されたと言い張って居直るなど、惨憺たる醜態をさらしている現状では、学者なんてのはアテにならないから官僚を呼んできた方がマシだ、という考え方も出てきてしまうのだろう。

 だいたい、左翼系の学者ってのは教壇では理想論ばっかり言っていて、実務的なことは全然考えておらず、いざ自分がその任に就くと保守系の人間よりヒドイ官僚ロボットになりさがってしまう、とういうことなのではないかと私は最近考えている。 村山富市が首相になったとたんに社会党が非武装中立論をひっこめて自衛隊合憲論に鞍替えしたみたいなものでね。 

 学者や知識人の権威ってのは下落する一方なわけだが、ここでまた一つ下落しました、って話なんでしょうか。

7月5日(木) 本日、ユニセフと国境なき医師団とにわずかばかり寄付をしました。 (なぜわざわざ自分の寄付行為について書くかは、2005年7月29日の記述をごらんください。)

 時々寄付をしていると、あちらから私の住所と氏名とを印刷した振り込み用紙をしばしば送ってくるのだが、ユニセフはこの4月の新潟市の政令指定都市移行に合わせてちゃんと 「新潟市西区」 と印字した用紙を先月末に送ってよこしたのに対し、同時期に来た国境なき医師団のそれは区名が入っていなかった。 このあたり、両団体の目配りの差が見えて面白いと思いました、はい。

7月4日(水) 教授会。 最近では珍しく長々と3時間余り続いた。 「最近では」 というのは、このところの 「改革」 で学部教授会の権限がかなり限定されてきているので、そこに出る案件も少なくなっているから、ということです。 長くなったのは本日の案件が多かったせいもあるけれど、もう少しまとまりよく話せないのかなあ、と思う方もいないではない。 

 おまけに本日は教授会のあとでFDまであった。 内容はHPなどには書くなと釘を刺されているので、一般論的に書くならば、文科省のわけのわからない 「改革」 が続いており、その指令に合わせるしか能のない官吏的な大学上層部が文科省の意向を持ち帰り、それに合わせるために現場の人たちが貴重な時間をつぶしているという構図である。

 万事に上からの指示で順応的に動くしかない新潟大学。 そしてそれをさっぱり報道しないマスコミ。 こういうことをやっていると確実に日本の大学は駄目になると思うけどなあ。

 『諸君!8月号』 に東大教授の佐藤良明が文章を載せていて、立ち読みしてみたけれど、あまり感心しなかった。 定年前に大学を辞める? ふうん、それで食っていけるなら恵まれた人生なんですよ、と言いたくなる。

 それでも大学院の乱造に対する批判は全く同感だが、語学教育に関してはどうしようもない内容である。 そもそも、戦前は旧制高校でエリート候補生に語学を叩き込み帝大でそれをもとに学問をやるという体制になっていたのが、戦後の学制改革で旧制高校と帝大を一緒にして、旧制高校でやっていたことを教養部という狭い枠に押し込めてしまった、というあたりから始めないと事態の真の姿は見えてこないはずなんだが、そういう基本的なことにすら触れていない。 東大教授がこの程度でいいのか?! 一人の作家の研究者はそんなに沢山は要らない、というあたりは分かるけれど。

 まあそれでも英語は中学高校でやる体制になっているから大学英語教師は不要という考え方もあるだろうけど、英語以外の外国語をどの段階でやるのか、今の文科省は全然考えていないし、また「改革」を押しつけられて教師数削減をするばかりの国立大学も考えていないのである。 ついでに、語学教師自身も考えていなかったりする。 自分のいる学科さえ良ければ、という視野狭窄的な人間ばっかりなのだ。

 ヨーロッパでは複数外国語教育システムがかなり整っていて、単にヨーロッパ語同士だからというのではなく、日本語など他地域の言語も高校までの段階で選べるようになっている。

 無論日本とは地勢が違うから一律には論じられないが、少なくとも日本みたいに役人も大学教師も何にも考えてない、なんてヒドイ状態にはない。 こんに何にも考えてない人間ばっかりが役所や大学に充満している国が、没落しないわけがないと、私は思います。

7月3日(火) 久間防衛大臣が 「原爆投下はやむを得ない」 発言の責任をとって辞任した。 まあ、妥当な辞任でしょう。 自虐史観もここまで来たか、という見方もあろうが、この人はこれ以前の色々な発言を見ても、あんまり頭が良くないんじゃないかと思えていたんですよね。

 この人、一応東大法学部卒だから秀才のはずだが、生まれは昭和15年だから、東大に入ったのは昭和35年頃ということになる。 この頃の東大生ってかなり玉石混淆だったんじゃないか、と思う。 まだ中等後期教育への進学率自体が低かったころだしね。 戦前もそうでしょう。 といっても、ワタシと同じ年齢の寺脇研――ゆとり教育で悪名高い――みたいな例もあるから、まあいつでもそうなのかも知れないのだが・・・・。

6月29日(金) ボーナス支給日。 今回は昨年同期に比べて名目でも手取りでも7万7千円ほど減りました。 なぜかというと、大学院向けの授業が開店休業だったからです。 今年度は新潟大学人文学部の私のいるセクションには大学院生がほとんど入ってこなかったので、したがって私の授業を取りに来る大学院生もいなかった、というわけなのでした。 無論、毎月の給与も減っています。

 でもまあ、大学院生が入ってこないのは、或る意味、健全なことですけどね。 全員がそうだというわけじゃないけど、うんざりするくらいできない・やる気のない大学院生もいますからね。 学部4年でさっさと就職して働く方が、自分のためにも社会のためにも有用じゃないのかなあ。

 聞いたところでは、文科省も最近やっと文系大学院の実態が分かってきたらしく、大学院が定員に達しなくても文句を言ってこなくなったとか。 分かるのが遅いとは思うけど、永遠に分からないよりはマシでしょう。

 にもかかわらず、新潟大学人文学部では、これまで一部の教員しか担当していなかった博士後期課程を全員担当にするという計画を立てているよう。 まあ、いわゆる一つの平等主義、という奴なんでしょうが、うーん・・・・・それより学部教育に力を注いだ方がいいと思うんだけどねえ。

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 さて、りゅーとぴあで夜7時からマルティン・シュタットフェルトのピアノリサイタルを聴く。

 聴衆の数は400人弱くらいで、入りはイマイチだが、質は悪くなかったと思う。 私はBブロックのCブロックに近い席で鑑賞。 Aランク席でNパックメイト価格2250円。

 このピアニストは1980年、ドイツのコブレンツ生まれ。 2002年のライプツィヒで行われた国際バッハ・コンクールで最年少優勝。 それ以前に1997年にパリのニコライ・ルービンシュタイン国際コンクールで入賞している。

 プログラムは、前半がモーツァルトのソナタ変ロ長調K.333、シェーンベルクのピアノのための6つの小品op.19、モーツァルトのソナタイ短調 K.310。 後半がベルクのソナタOp.1、シューベルトのソナタ変ロ長調D.960。アンコールにバッハのフルートソナタBWV1030からシチリアーノ、バッハのオルガン小曲集より第41番BWV639「主よ、我は汝の名を呼ぶ」。

 すらりとした長身で全身黒い服 (カラヤンなども着ていた胸元まで黒の、日本の学生服みたいな) に身を包んだ姿で登場。 期待が高まったが、満足するまでには行かなかったかな、というところだった。

 音の粒が必ずしも鮮明ではなく、よく聞こえる部分とそうでない部分とに分かれる。 とくに早いパッセージで不鮮明になりやすく、メロディラインがよく浮き出てこなかったりする。 そのため、聴いていて 「この曲ってこんな感じだったかなあ」 と思うところがあった。 モーツァルトのK.333の第1楽章や K.310の第3楽章など。 長身のわりには音があまり大きく出ない (出さない?) タイプのようで、それはそれでいいのであるが、小さい音がはっきり聞こえてこないのは困りもの。

 あと、シューベルトでは単調に聞こえやすいところがあって、そこをどう聴かせるかが一つのポイントになるはずだけど、単調になってしまっていた。 アンコールで弾いたバッハのシチリアーノが一番良かった、と言うと皮肉になってしまうだろうか?
 
 昨年1月に新潟に来たアレクサンダー・ガヴリリュクが素晴らしかっただけに、若手ピアニストによってあの感動をもう一度という期待があったのだが、残念無念な一夜となった。

6月24日(日) 午後2時からスペイン国立放送交響楽団+フジコ・ヘミング演奏会を聴きに行く。 りゅーとぴあコンサートホール。   指揮はエイドリアン・リーパー。

 プログラムは、ファリャ 「恋は魔術師」 よりパントマイム、愛の戯れの踊り、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番 「皇帝」、ベートーヴェンの交響曲第7番。 アンコールが盛り沢山で、前半がショパンのピアノ協奏曲第1番第2楽章、ショパンのノクターン (有名なやつ)、リストの 「ラ・カンパネッラ」、後半がファリャの 「三角帽子」 よりファンタンゴ、エルガーの 「愛の挨拶」、ハイドンの交響曲第49番第4楽章。   こんなにアンコールをやる演奏会は私としては初めてだ! 午後2時開演で終演は4時45分頃。

 このオケ、私は初めて聴きましたが、音量が結構ある。 前半は第1ヴァイオリン12、第2ヴァイオリン10、ヴィオラ8、チェロ6、コントラバス4という、フルよりもやや小さめの構成だったが、これでフルメンバーの東響と同じくらいの音量があった。 馬力がある、という印象。 精緻さでは東響のほうが勝っていそうだが、迫力ではこちらが上だろう。 後半のベートーヴェン第7では弦は各セクション2人増やし、ホルンも倍の4人になって、押しの強さを見せつけた演奏であった。

 フジコ・ヘミングは、ベートーヴェンの協奏曲では第1楽章の中ほどで暗譜が頭から消えたらしく、演奏をいったんやめて途中から仕切り直す一幕があった。 それは別にしても、彼女の演奏はかなり時代がかったというか、現代の演奏様式からは程遠く、よく言えば個性的、悪く言えば好き勝手に弾いているという印象。 19世紀のピアニストはこんな風に弾いていたのかなあ、なんて想像してしまう。 技巧は比べものにならないがホロヴィッツ (ディスクでしか知りませんけど) の演奏に一脈通じるところがある。 演奏家と言うよりは、芸人なのである。 音はきれいで良く立っているが (以前、2004年にベルギー国立管弦楽団と一緒に来た時とはその点で印象が異なる)、pやppで勝負すべきところがそうならない。 ベートーヴェンの第2楽章は楽器で歌わなければいけないと思うのだが、歌っていない。 あくまでピアノという楽器を叩いている、という感じ。 今回は曲目がベートーヴェンかショパンのいずれかということで、当日会場に行かないと分からないというリヒテル並みの興行だったけれど、選ばなかったショパンの協奏曲第2楽章をアンコールでやるというのにはびっくり。 どうも彼女の弾き方からいって、ベートーヴェンよりショパンの方が向いているように思う。

 本日、私は一人で演奏会に行くはずが、女房が知り合いからタダの招待券を回してもらえることになり、会場まで一緒に。 そういう事情なので席は別だったが、Bランク席 (3階Jブロック) の私が11000円出しているのに、Sランク席の女房がタダなのはどうも気分が悪い。 SやAならともかく、B席くらい1万円を切る値段にしろと言いたくなる。 ベルリンフィルやウィーンフィルじゃないんだし、席が埋まらなくて招待券を出すくらいなら、最初からチケット料金にもっとメリハリをつけるべきなのである。

 あと、サモンプロモーションはいつも外来オケにフジコ・ヘミングをくっつけて演奏会をやらせるけれど、彼女ももう75歳だし、少し考えた方がいいんじゃいないか。 もらったチラシによると今秋ヴェンゲーロフが来日するのだけれど (新潟には来ない)、フジコ・ヘミングを伴奏にしてリサイタルをやらせるらしい。 私はヴェンゲーロフは一度聴いてみたいと思っているのだが、フジコ・ヘミングが伴奏じゃあ、そのために上京する気にならないなあ。

6月23日(土) 午後1時から音楽文化会館に新潟県音楽コンクール・ヴァイオリン部門を聴きに行く。 実は中1の娘が出るので。 といっても誰に似たのかナマケモノの娘のことで、親から尻を叩かれて渋々出ることにしたというテイタラクなのである。

 新潟県音楽コンクールというとものものしいが、ヴァイオリン部門出場者は小学生から大卒まで、合わせて10名もいない。 中学生も高校生も大学卒も合わせてやって入賞者を決めようとというのだから、或る意味ものすごく乱暴な話なのである。

 娘はまあまあに弾いていたが、音楽の自主的な解釈ということになるとまだまだである。 まあ、勉強のために出たということで。 こういうコンクールでは演奏が終わっても拍手をしてはいけないのだそうで、なんか堅苦しいなあ。 諏訪内晶子も著書の中で日本の音楽コンクールは海外のそれに比べて雰囲気が硬くて窮屈だと書いていたけれど、こんな地方のコンクールでもそんな感じですねえ。

 さて、午後7時からはアンサンブル・オビリー室内楽演奏会2007を聴く。

 場所が黒埼市民会館ということで、行ったことがなく、あらかじめネットの地図で場所を確認してから出かけたのだが、途中で道に迷ってしまい、人に訊いて右往左往し、最後は親切なおじいさんとお孫さんらしい娘さんが自らクルマで先導してくれて何とかたどりついた。 おじいさんとお孫さんには改めてお礼を申し上げます (汗)。

 というわけで数分遅刻。 オビリーは、名前は同じでも構成メンバーが何度か変わっているけれど、今回はヴァイオリンが後藤はる香と佐々木将公、ヴィオラが太田玲奈と加野晶子、チェロが片野大輔というメンバー。 (ただしパッヘルベルでは太田さんが第一ヴァイオリン。) 曲目はモーツァルトのアダージョKI.411、ミヒャエル・ハイドンの弦楽五重奏曲ハ長調、パッヘルベルのカノン、ドヴォルザークの弦楽五重奏曲第3番。アンコールに 「千の風になって」(ですよね?) と 「見上げてごらん夜の星を」。

 一口で言うと大変レベルの高い演奏会だった。 アンサンブルが精緻で、響きも綺麗で豊か。 これは会場のせいもあろう。 初めてのホールだったが、300人収容で室内楽にはちょうど良い大きさであり、なおかつ弦楽器が豊麗に響く。 ただ、できて1年ほどなので、まだペンキのにおいが気になるのが玉に瑕か。

 上述のように遅刻してしまってモーツァルトの途中から聴いたのだが、私的にはM・ハイドンが良かった。 ヴィオラ2本の弦楽五重奏曲というとモーツァルトとブラームス以外はあまり聴く機会がないが、作品の良さを存分に教えてくれた演奏だった。 ドヴォルザークも演奏自体は良かったけれど、曲が分かりやすすぎるのが難点だろうか。

 客の入りは7割くらいか。 楽章間の拍手も目立ち、客層とチケットの販売法が少し気になるところ。 今回は演奏レベルから言って音文かだいしホールで、新潟の室内楽ファン (と言っても数は限られているが) を相手にしてやるべき演奏会だったと思う。 もっともこのホールも響きはいいし、駐車料金がかからないから、案外今後は室内楽のメッカになるかも。 いずれにせよ場所が分かりにくいので、チラシには大きめに地図を載せておいたほうがいい (今回のチラシにも地図があったけれど、文字が小さすぎて良く分からない)。

 オビリーがこのレベルの演奏を聴かせてくれるのであれば、年に2〜3回新潟市で演奏会を開いて欲しい。

6月20日(火) 午後6時半から県民会館でイタリア・スポレート歌劇場公演: ロッシーニのオペラ 「セビリアの理髪師」 を観劇する。

 このオペラ、私は昨年12月に新宿の新国立劇場で見ているので、どうしても比べる形となるが、やむをえないとはいえ書き割りがお粗末。 特に建物の階段を上るところでは壁が頼りなげに揺れて、壊れそう。

 でも演出はなかなかユーモアがあって良かったと思う。 もともとオペラ用ではない舞台をそれなりに活かして、歌手が役者としての側面を十二分に発揮していた。

 歌手は、プログラムで見ると順位の低そうな人ばかりだったが、レベルはそんなに悪くなかった。 少なくとも立腹するような人はいない。 特に良かったのはバルトロ役のオマール・モンタナーリ。 実に良く通る声であった。

 私は1階最前列で聴いたのであるが、実はもう少し後ろの席が欲しかった。 しかし伊勢丹のプレイガイドに行ったらここしかなかったのだった。 昨夜は1階席だけに限ると、入りは7割程度だろうか。 県民会館はもう少しチケット販売の場所と枚数を考えて欲しい。 伊勢丹はいつも売れ行きが良いのだから、割り当て枚数を増やすなどの措置をとってもらいたいもの。 と書くと、県民会館で買えばいいじゃないかと言われそうだが、オペラなどの高額チケットは色々事情があって伊勢丹で買うようにしているのである。

6月19日(火) 昨日の毎日新聞に井上章一が 「ミス・ユニバース 美人をとりまく社会の変化」 という一文を寄せている。 先日ミス・ユニバースの世界大会で日本の森理世嬢が第一位に選ばれて、それはめでたいことなのだが、同嬢の姿を拝見してそれほどの美人なのだろうかと思ってしまったという。

 私もそう思っていたので、我が意を得たりの気持ちで読んでみた。 顔だけでなくスタイルや知性も問われるコンテストであり、いわゆる普通の美人コンテストとは違うということ、かつて伊東絹子 (53年) や児島明子 (59年) が入賞したり一位になったりした時代からするとマスコミでの扱いが小さくなっていること、今は芸能界以外の場所での美人をもてはやす時代――例えば美人女医や美人弁護士――なのだということ、などなど。

 まあ、そのとおりだと思うわけだが、振り返ってみるにかつての美人コンテスト入賞者はどのくらい美人だったのだろうか。  最近のハリウッド映画でのアジアン・ビューティとされるナタリー・リューやチャン・ツィイーなどを思い返しても、どうも欧米人が美人だとするアジア系美人は少しこちらの基準とちがっているのではないか、と思う。 「こちら」 というのは、東南アジア全体を見てのことである。 香港映画なんかだと、ちゃんとマギー・チャンなどこちら好みの美人が出てくるのだから。

 いや、映画女優とミス・コンテストは違うという意見もあるかも知れない。 となると、ミス・コンテストの存在理由は何かということになってしまう。 顔とスタイルと知性のバランスの取れた女性が理想的、という理念の体現がミス・コンテストなのだろうか?? 

6月18日(月) 午後6時から新潟大学生協の理事会に出る。 私は教養部解体の94年まで3年間理事を務めたことがあるが、今回頼まれてカムバックすることになったもの。 久しぶりだから勝手も忘れていたが、行ってみたら出席理事の少ないこと。

 理事は、生協職員、大学事務員、教員、学生から成るが、教員で出ているのは理事長のY先生と私だけ。 他に何人もいるはずだが、どうしたんでしょうね。 いや、私も先月の総代会・兼・第1回理事会はさぼってしまったので、偉そうなことは言えないんですが。 名義だけ貸した人もいるということでしょうか。 まあ、理事は生協職員以外は無給なので、名義を貸しても全然利益にはならないんですけど。

 だいたい、私は生協理事としては異色の人間で、つまりどういうわけだか生協理事というのはクミアイ系 (日教組系) の人間が多いんだが、私はクミアイにも入っていないし、そちらのイデオロギーとは無縁の人間なのである。 クミアイ系の人間が理事会にさっぱり出てこず、私みたいな異色の人間しか出ない、というのは、なにやら暗示的な気もしますけれど。

 というのは、最近、新潟大学の構内にコンビニができるというので、生協の経営も今までどおりいくかどうか危ぶむ声も出ているからです。

6月17日(日) 東京最終日。 午前中荷物を送りだしてから、渋谷の東急文化村ザ・ミュージアムへ 「プラハ国立美術館展 ルーベンスとブリューゲルの時代」 を見に行く。 が、今回上京して見た4つの美術展の中で一番つまらなかった。 何と申しましょうか、ブリューゲルとルーベンスと称しているけれど、彼らの著名な作品、こちらがうならされるような作品は来ていないんじゃないかな。 周縁的な作品や同時代の他の画家でお茶をにごしている気配が濃厚。 がっかりしました。

 カタログはもちろん、絵葉書も1枚も買わず。 これほど失望した美術展も最近では珍しい。

 この後川崎に急行して、東京交響楽団第546回定期演奏会をミューザ川崎にて聴く。 東響新潟定期会員の特権で無料招待。 席は1階4列目のほぼ中央。 ふつうならS席該当の場所で、東響には改めて感謝申し上げます。

 曲目は、ハイドンの交響曲第93番、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番、ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」。 指揮はラモン・ガンバ、ピアノは仲道郁代。

 ガンバは72年英国生まれだそうで、現在アイスランド交響楽団の首席を務めるかたわら、BBC響やミュンヘン・フィルなどでもしばしば指揮をしているとのこと。 東響には2005年9月の本定期で登場したそうだが、私は初めて。 ちょっと格好を付けた指揮ぶりだけれど、同時に精力的な印象も。

 コンマスは先に就任したばかりの高木和弘。 これまた私は初めてだったが、小柄ながら顔は俳優の大沢たかおに似ていて、好青年という感じ。 ついでに、第1ヴァイオリンで弾いている新潟出身の枝並千花さん、私はふだんはりゅーとぴあの3階席で聴いているので遠くてよく分からなかったのであるが、今回間近に拝見すると、だいぶ女っぽくなって、大人の女の魅力が出てきていた。 動機不純の私としては無論大歓迎 (笑)。

 演奏は3曲とも大変充実していた。 最初のハイドンでは、実演で聴いてみると各楽器の使い方の面白さが視覚的によく分かり、なるほど、ハイドンはこういうところに工夫をこらしていたのだと納得がいく。

 次のモーツァルトでは仲道さんが鍵盤に指をおかないときには指揮者やバックの方を絶えず注目して、全員一体で音楽を作り出そうとしているのが素敵。 無論、演奏自体もすばらしかった。 こういうモーツァルトなら毎回でも聴きたい気分。

 さて、後半はショスタコーヴィチ。 前半と違って重〜〜い曲。 第1楽章の出だしがチェロとコントラバスの合奏で入るのだが、そこですでにチェロ首席のベアンテ・ボーマンさんの弓から切れた糸が1本垂れ下がるなど、力が入っていた。 指揮のガンバも耳まで真っ赤になるほど気合いが入っており、曲の重さを最後まで団員の熱演が維持したという印象を受けた。 無論曲が曲なのでアンコールはなし。 欲を言えば前半で仲道さんが何かやってくれればと思わないでもなかったけれど、まずは満足のいく演奏会だった。

 このあと有楽町の山野楽器に寄ってみたら、探していたM・ハイドンの弦楽五重奏曲集のCDが見つかって感激! 渋谷でも一昨日、大きなCD屋さん2軒を探したのだが見つからなかったもの。 新潟のCD屋については言うまでもない。 やっぱり東京は便利だ!

 このあと渋谷で映画を1本見てから新幹線で新潟に向かった。

6月16日(土) 午前中、上野の東京都美術館に 「サンクトペテルブルク ロシア国立美術館展 ロシア絵画の真髄」 を見に行く。 ロシア絵画は、イタリアやフランスやフランドルの絵画に比べて馴染みが薄いが、リアリズムを主体とした作品群はなかなかに魅力的であった。

 文学でもそうだが、ロシアは西欧を見習いながら近代化を図ったという点で日本と共通性がある。 それでいて日本にはないエネルギーの噴出というか、ストレートに勝負しているような好ましさがあって、見る人間を素直に感動させてくれる。 良かったのでカタログを買いました。

 それにしても、土曜日だというのに客はあまり入っていない。 一昨日のモネ展が平日なのに大混雑だったのと比べると、日本人の好みがはっきり現れていると言えるのかな。 ロシア絵画も素晴らしいのに、惜しいと思う。 ただ、音声ガイドの内容にはやや不満が。 もう少し突っ込んだ解説をお願いしたい。

 そのあと上野駅から電車に乗って午後1時から始まる日本言語政策学会に出ようとしたのだが、予想外に時間がかかって遅刻してしまった。 場所は南柏の麗澤大学なのだが、常磐線の上野発の電車の大半は南柏に停車しない。 仕方なく松戸でいったん降りて各駅停車に乗り換えたのだが、9分も待たされるなど、なんか常磐線の電車って時刻表がうまく作られていないみたい。 いっそ柏まで行って1駅引き返した方が早かったかな。

 南柏駅から徒歩10分と聞いていたので歩いたのだけれど、10分では着かなかった。 途中の道も歩道が狭くて歩きづらいし。 いや、参りました。 (帰りはバスにした。)

 最初は、麗澤大学現代GP共催シンポジウム 「国際共通語としての英語教育と第二外国語」 を聞く。 遅刻したので最初の発表は聞きそびれたが、これは麗澤大学の留学政策を、自学宣伝もかねてこの学会のシンポとして報告・討議するという趣旨。 ほかにヨーロッパの多言語政策についての報告と、ドイツの大学での英語プログラムの紹介とがあった。

 うーん、麗澤大学外国語学部は中国およびドイツの大学と協定を結び、多数の学生を留学に送り出している。 必ずしも中国語・ドイツ語をメインとする学生だけでなく、英語をメインとする学生でもあちらで英語のプログラムがあるので、それを利用するという形のようだ。

 また、ドイツ語検定の2級に学部学生段階でかなりの合格者を出すなど、新潟大学を初めとする中堅クラスの国立大学にとっては見習うべきところが多いように思われた。 麗澤大学というと、受験偏差値で言えば日東駒専よりやや下くらいで、新潟大学の文系学部の学生は自分の方が格上だと思っているだろうが、大学4年間でどの程度勉強してどの程度のものを身につけるか、ということで言うと負けている可能性もある。 問題はそれを学生や教師が自覚しているのかどうか、ということなのである。

 閑話休題。 シンポの後は個別発表が4人の研究者によって行われたが、最初の2人の大学院生の発表はいずれも面白かった。 若い学者の卵は問題意識が鮮明で、方法論もしっかりしているので、話が分かりやすい。 色々勉強になった一日でした。 

6月15日(金) 午前中日比谷で映画を見てから渋谷に。 元祖くじら屋で昼食。 いつもは安価な唐揚げ定食を食べるのだが、本日は少し奮発して鯨ステーキ定食を食べてみた。 結構行ける。 値段は約1500円。 その後、渋谷で映画を見、古本屋めぐりをしたあと、一昨日に続いて新宿へ。

 午後6時から新国立劇場でR・シュトラウスのオペラ 「ばらの騎士」 を鑑賞。 チケットは例のごとく新潟で買っておいたけれど、いつもの3階B席がとれなかったので、やむを得ず2階A席 (右寄り3列目)。 新演出ということもあり、値段は18900円。 とほほほ。 一昨日の 「ファルスタッフ」 はB席 (3階一列目) で10500円だったのに・・・・。 ただ、2階席だと前列の人の頭が気にならないのがいいかな。 3階席だと1列目以外は前列の人の頭が気になる場合がある。

 演出は一昨日の 「ファルスタッフ」 と同じくジョナサン・ミラー。 指揮はペーター・シュナイダー、演奏はこれまた一昨日と同じく東フィル。 歌手は、元帥夫人がカミッラ・ニールント、オクラヴィアンがエレナ・ツィトコーワ、オックス男爵がペーター・ローゼ、ゾフィーがオフェリア・サラ。

 で、オペラだが、うーん、長いですよね。 6時開始で終演は10時半頃。 途中2回休みが入るけれど、疲れてしまいます。 第1幕はまあ悪くないんだけれど、第2幕以降少し冗長な感じがする。 このオペラの特長は第一幕の元帥夫人の悲しみに尽きるわけで、それ以降はオックス男爵のファルスタッフのような定型的な滑稽さの提示に終わってしまう。 これでいいんだろうか、と思うのだな。 

 歌手は全員すばらしかったけれど、ゾフィー役のオフェリア・ロゼは体つきが娘らしくなく、細身のオクタヴィアンと並ぶと釣り合いがよろしくない。 そのせいか、或いは演出のせいか、あるいはもともと作品がそうできているからなのか、単なるがさつなわがまま娘のような印象が残った。 女としての魅力がない、ということですね。

 見終えて京王新線で新宿に戻り、そこの地下街で遅い夕食をとろうとしたが、夜11時近くということで開いている店がほとんどない。 かろうじてカレー屋さんだけが開いていたので、そこでカレーと発泡酒を注文。 発泡酒というのは、この店にはアルコール類がこれしかなかったので、ということです。 オペラを見た後はフランス料理とワインとか、せめて居酒屋で生ビールを、というのがイメージ的に (笑) 望ましいとは思うのですけれども、現実はあくまで厳しいのでありました。 うううぅぅぅ・・・・・・・。

6月14日(木) 午前中、船橋市内の霊園に父の墓参に行き、ついでにBOOKOFFに寄って古本を6000円近く買う。 BOOKOFFってのは、店によって付近の住人の知的レベルが品揃えに出てしまうわけであるが、船橋のBOOKOFFのレベルはかなり高いので、寄ると結構収穫があってお金が飛んでいってしまうのが難点 (?) だ。

 昼過ぎ、六本木の国立新美術館で 「大回顧展 モネ」 を見る。 この美術館は私は初めてだが、ロビーはだだっ広いのに肝心の展覧会場がさほどではなく、休むスペースがあまりない。 平日だったが何しろ日本人の好きな (そして私も好きな) モネの展覧会とあってかなり混雑しており、見て回ると途中で疲れてしまうのである。 休憩スペースの増設を願いたいところだ。 あと、照明の具合がよろしくなく、光が絵画をおおうガラス板に反射して見づらいケースが散見された。

 しかし作品数は十分で、なるほどモネはこんな絵画も描いていたのか、と唸らされることしきり。 また関連する画家や作品の展示もそれなりであった。 カタログを買う。

 美術展を見た後、昼食がまだだったので近くの街路を歩いていて目に付いた店で八戸ラーメンなるものを食べたのだが・・・・詳細は略しますが、この店はお薦めできません。

 そのあと、高田馬場のBOOKOFFに寄ってから新宿で映画を見て本日の予定終了。 2軒のBOOKOFFで散財した一日でした。

6月13日(水) 新幹線で上京する。 上野で降りて国立西洋美術館で 「パルマ――イタリア美術、もう一つの都」 展を見る。 パルマはイタリア北中部の都市で、パルメザン・チーズはここの地名に由来するとか。 コレッジオなど、イタリア・ルネッサンス3大巨匠とはひと味違った味の作品が並んでいたが、特に感銘が深いと言うほどではなかった。 カタログは買わず、絵葉書だけ2種類を買う。

 そのあと渋谷で映画を見てから、午後6時30分より新宿の新国立劇場でヴェルディのオペラ 「ファルスタッフ」 を鑑賞。 演出がジョナサン・ミラー、指揮がダン・エッティンガー、東フィルの演奏。 3階左寄り1列目のB席。

 ファルスタッフ役のアラン・タイタスが圧倒的に良かった。 その他のキャストも、医師カイウス役の大野光彦が冴えないのを除くとそれなりの出来。 最後に 「この世はすべて冗談」 と悟ってしまう (?) 喜劇なのであるが、どうなのだろう、冗談といいながらヴェルディ最晩年のこのオペラ、冗談になるにはやや堅苦しいところもあるような気が。 演出がそうだというのではなく、作品そのものがそうだと言いたいわけだが。 ヴェルディって、モーツァルトとは違ってやっぱり喜劇には向いていなかったんじゃないだろうか。 見ていてそんなことを考えてしまいました。

6月8日(金) 夕方、万代シティに映画を見に行ったついでに信濃川河畔を40分ほど歩く。 老化は足からと言うし、ふだんクルマにばかり乗っているので、少し鍛えないと、と思って最近どきどきそうしている。

 で、改めて気づいたのだが、信濃川河畔を歩いていると新潟という都市から遠く離れた気分になれるのである。 新潟はこの4月に政令指定都市になったけれど、田園型政令指定都市をめざすということになっている。 まあ平たく言うと、自然と都市の調和ということなんだろうけれど、実際、信濃川河畔は散歩道が整備されていて歩きやすいし、途中トイレや水飲み場や四阿などもあって、散歩には恰好なのである。 それでいて人が多すぎない。 無論東京やロンドンと新潟では都市の規模も違うけれど、都市の中で川縁を散歩しているというより、川が主体でたまたまその両側に都市がついでのようにあるという感じなのだ。

 河畔にはかねてから私が目障りだと思っている結婚式場があって、これは西洋の城をかたどった、キッチュと言うしかない代物なのであるが、これも向かい側の岸から見ると 「はるか遠く離れた、自分とは無関係な廃墟」 に見えてくるところが、またいい。

 新潟市民でない方々には、新潟市に来たら是非信濃川河畔を散歩されるようお薦めしたい。  

6月7日(木) ドイツの週刊誌 ”Spiegel” の本年第21号 (5月21日号) で女優のロミー・シュナイダーを特集している。 没後25年という切りのいい年なので、このドイツ語圏出身の女優を見直そうということのようだ。 ドイツでは彼女について新しい本も出たし、テレビで主演映画が放映されたりもしているという。

 私は実はロミー・シュナイダーはそれほど好きではない。 というか、彼女の映画はそれほど見ていない。 一番よく覚えているのは 『ルートヴィヒ・神々の黄昏』 だろうか。

 しかし ”Spiegel” での特集を見るとヌード写真なども載っていて、なかなか興味をそそられた。 私は、女優ってのは基本的に脱ぐべきだと思っている人間ですので (笑)。

 意外なことにドイツでは彼女の評価はさほど高くなく、かえってフランスが彼女を高く買っているという。 しかし60年代以降のドイツ映画が世界的に通用する俳優を生み出せなかったのではないか、という反省がドイツにはあるようだ。

 ”Spiegel”誌の特集には、フランスの俳優ジャン=クロード・ブリアリへのインタビューも掲載されている。 彼は現在74歳でロミー・シュナイダーとも親交があったが、彼の言うところでは、ロミー・シュナイダーはジャンヌ・モローほど知的ではなくカトリーヌ・ドヌーヴほどクールでもないが、エモーショナルだというのである。 アラン・ドロンと彼女の関係についても必ずしもマイナスとは見ていないようである。

 ちなみに、ブリアリはこのインタビューが載った”Spiegel”誌が出た直後の5月30日に死去している。 ロミーが呼んだのだろうか?

6月5日(火) 今年度前期、私は演習を3つ担当している。 1年次向けと2年次向けと3・4年次向けである。 1年次向け以外の演習では、最初の授業時に紙を回して学生の学籍番号と氏名、それに電話番号を書かせている。 電話番号は緊急連絡用で、本来はメールで連絡をとるのが筋なのだが、学生にも色々な者がいるからである。

 一番まともな学生は、私が学内情報システムに依って学生の学籍番号に当ててメールを出すと、それが自動的に自分のケータイに転送されるように設定していて、当方が出したメールにすぐ返事をよこす。 次にまともな学生は、転送の設定はしていないが、学内情報システムをこまめにチェックして自分宛のメールが来ていないかどうかを調べる。 これに対して最低の学生は、転送の設定もせず、かといって学内情報システムをまめにチェックすることもしない奴である。

 そういう怠惰な奴にすぐ連絡したい事柄があった場合、メールは役立たないので、それに備えて電話番号も書かせているわけだが、ところがこれが機能しないケースが最近目立つ。 つまり、女子学生で、家族や友人の番号を登録しておいて、それ以外の番号からかかってくると出ないことに決めている者がいるのである。

 未知の変な男から電話がかかってくると嫌だから、と警戒する気持ちは女子学生としては当然ではあろう。 しかしそうであるなら、当方が最初の授業時に電話番号を訊いた段階で、私からの電話がかかってくる可能性があると考えて私の研究室の電話番号を登録しておいてくれないと困るわけだが、そこまで頭が回らないらしい。 (私の研究室の電話番号は学生便覧に載っている。)

 実際、先日4年生の女子学生2人に大事な用事があって電話したのに、1人が出ず、日を改めて電話してみたがやはり出ないのである。 ここに詳細を書くことはできないが、学生が電話に出なくとも私自身は別段困らないけれど学生本人が損をする用件なのである。

 ところがそれから2日後、電話に出なくて申し訳ありませんでしたというメールが届いた。 どうやらもう1人の学生から話を聞いて、大事な用件で私が電話をしたのだということをようやく理解したらしい。

 困るのは、こういう風に横の (学生間の) 情報だけで動く学生が結構多いということである。 教師と学生という縦の関係や情報を忌避し、横の馴れ合い的な情報だけで動いていると、こういう大事な場面で失敗を犯しやすくなる。 自分の頭で物事を考えず、仲間の動きに同調するだけで行動しているわけだから。 まあ、横の情報にあまりうとすぎる学生にも実は問題があるのだが、横の情報だけで動く学生にも問題が多いのだと、ここでは強調しておきたい。

6月2日(土) 私がふだん晩酌で愛飲しているのがKという銘柄の純米酒である。 ところが最近これを買うのに困難を来している。 (晩酌ではいつも日本酒を飲むとは限らない。 赤ワインの時もあれば焼酎の時もある。)

 といっても、「越の寒梅」 みたいな超有名銘柄だからではない。 Kという酒は某酒造メーカーが、新潟市内のSKという卸売と小売を兼ねている酒屋にだけに卸している銘柄である。 つまり、一般市販はせず特定業者でしか売らないという条件で特別安く生産しているわけで、純米酒といっても1升瓶で1535円である。 無論、それなりにうまい。

 このSKという酒屋は、以前は比較的行きやすいところに支店が複数あった。 シネマコンプレックスのユナイテッドシネマ新潟の入っているビルにも支店があって、私は映画を見にいくついでにそこで純米酒Kも買うというのが習慣のようになっていた。

 ところがそのビルの支店が1年ほど前に撤退してしまった。 しかしそれ以外にも支店が西新潟にあるので (大学や拙宅は西新潟にある)、支店に立ち寄るのにそれほど不便はなかった。 

 ところがこの支店も先週で撤退してしまったのである。 詳しいことは知らないが、SKの経営状況が良くないのかもしれない。 先週、撤退直前の支店で訊いたら、ほかに支店が旧黒埼町 (現在は合併して新潟市) にもあるというのでさっそく行ってみたが、支店と言っても直営店ではなく小規模の酒屋さんが店名を借りて卸も受けているという形式のようで、店の規模がすごく小さいせいか純米酒Kは置いてなかった。 別の純米酒があったので、約1400円と檄安だったこともあり買ってみたが、味はKに遠く及ばない。 やっぱりKじゃなくちゃ。

 となるとSKの本店に行くしかないわけだが、本店は東新潟、つまり拙宅や大学とは正反対の方向にあり、行くのが面倒なのである。 車社会だから簡単でしょうと言われそうだが、最近はガソリン代もかなり高くなっているしね・・・・・。 本店まで赴くとなると、数本まとめ買いするしかあるまい。 トリヴィアルな悩みではありました。 (追記: 4月から新潟市も政令指定都市になって区制が実施された。 拙宅と大学は西区であるが、酒店SKは東区である。 西区と東区の間には中央区がある。 ・・・・それにしても凡庸な区名ですねえ。)

5月29日(火) 以前にも書いたけど、産経新聞のコラム 「断」 にときどき登場する井口優子がトンデモで楽しめる。 本日もすごい内容である。

 最初はわりにまともかなと思った。 井口はグリーンカード (永住権) でアメリカに住んでおり、国籍は取得していないが、ジャーナリストの室謙二は国籍を取得していて、最近のアメリカでは国籍がないときちんとした職業を得ることも困難になっているのだそうだ。 9・11以降、井口はグリーンカードの保持も難しくなっているのだそうで、そのあたりを詳細に (といってもコラムだからスペースは限られているけど) 紹介してくれると面白いコラムになったはずなのだが、話はあらぬ方向に向かうのである。

 室謙二がアメリカ国籍を取得した際の体験である。 最終口頭試験で 「銃をとってアメリカを守るか?」 という質問があるそうで、これに 「イエス」 と答えないと試験にパスしないという。 そこまではいい。 ところがその後、次のように書かれている。 《 「アメリカ」 の意味には、合衆国、政府、アメリカ精神と色々な解釈があり、外敵に対して戦うという単純なものではなく、歴史的に時の政府が憲法に保障されたアメリカ精神に反すると解釈したなら、「ピープル」 は銃をもって立ち上がれるのだという。》

 私はこれを読んで腰を抜かしそうになった。 アメリカという国は、自国政府を転覆する行為を合法的と認めているのか!! なるほど、ケネディ大統領が暗殺されたのも、きっとアメリカ精神に反すると 「解釈」 されたからに相違ない、だから暗殺行為は合法的だったということなのだろう・・・・・

 いや、半分冗談です。 要するに室謙二はインテリバカ特有のトンデモ話を語っているのであって、それをまともに受け取っている井口優子も輪をかけてバカなのである。

 井口はその後、いつものように日本と比較して 「日本の場合、守るべき日本精神とは何かということすら混沌としている」 と書くのだが、じゃあアメリカでははっきりしているのですかね? アメリカの中東政策や経済でのグローバリズム化政策で、アメリカ人は全員意見が一致しているのですかね?

 産経新聞はなんでこういう愚物をコラムニストに採用しているのだろうか? 自紙のクオリティを疑われるばかりだと思うけどなあ。

5月28日(月) 本日の読売新聞社説を以下に引用する。 正論と言うべきであろう。 この問題、ここんところ論議を呼んでいるわけだが、こういう提案をしてくる財務省や財界人のオツムの中身を私は疑いますね。

 読売の社説にも書いてあるように、もともと日本は先進国中でも高等教育にかける公的資金が対GDP比で最低なのである。 総額を増やした上で増やした分を競争的資金に充てるというならいざ知らず、先進国中最低の高等教育資金をさらに傾斜配分すればどうなるか分かり切った話である。 財務省は日本一の秀才の集まる場所であるはずだが、その程度のことも分からないんじゃ、秀才バカの居場所に成り下がっているのでしょうね。

 少子化だから国立大の定員も減らせという声もあるようだが、先進国中で日本ほど私大生の比率が高い国はないのである。 アメリカはハーヴァードやイェールなどの有名私大がいくつもあるから私大生が多いと思っている日本人もいるようだけど、大学生の数で言うとアメリカでは州立大や市立大などの公立大学に通っている学生数のほうが圧倒的に多いのである。 日本とは逆である。 ここにも、いかに日本が高等教育にカネを使っていないかが現れている。

 ついでに書けば、ヨーロッパの大学は基本的にほとんどが国公立である。 欧米では一流大学はほとんど私立なんて書く三流日本人ジャーナリストがいるが (特に名を秘すが、水木楊のことである)、デタラメもいいところなのだ。 少しは物事を調べて書け、っていうの!

 だから、日本は少子化であろうと国立大の学生定員を維持すれば、国公立大学生の比率が高まり、ほかの先進国に多少は近づくことができるわけなのだ。 教育の機会均等は平等主義の基盤である。 その程度のことは分かった上で財務省に入れよ〜!

 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070527ig90.htm 

 国立大交付金 性急な競争原理導入は危険だ

 国から国立大学に交付される「運営費交付金」は、大学運営の基盤的経費だ。教職員の人件費、光熱費、施設維持費、研究室経費などに使われる。

 学生数などを基に算定する今の交付金配分の方法について、財務省や、経済財政諮問会議など政府の有識者会議から、研究成果や実績に基づく配分に改めるよう求める声が強まっている。

 これは疑問だ。財政規律を目的とした競争原理を、交付金の配分にまで持ち込む必要があるだろうか。

 財務省が公表した試算に衝撃を受けた国立大関係者も多かったことだろう。研究内容や成果に応じて配分されている科学研究費補助金の比率で再配分してみると、全87国立大のうち74大学で交付金が減額されることになるという。

 減額が最も大きい兵庫教育大では90・5%減と、今の約1割になる。“ワースト10”のうち9校が教育大だった。地方の国立大も「減額組」がほとんどで、増額組は倍増の東大、京大など旧帝大をはじめ13校にとどまった。

 懸念されるのは、教員養成を目的とする教育大や、地域の「知の拠点」となるべき地方大学の経営悪化である。

 少子化で、再編・統合の波は国立大にも及んでいる。質の維持、向上のための自主的再編・統合ならともかく、経済効率の観点からの「数減らし」では高等教育全体の質の低下を招く恐れがある。

 成果が見えにくい教養系、人文系、純粋基礎科学などの学問分野は衰退してしまうだろう。将来、ノーベル賞に結びつくような萌芽(ほうが)的研究に没頭するゆとりもなくなる。何を「成果」ととらえ、誰が、どう評価するのかも不透明だ。

 競争原理の導入を言い出したのは、経済財政諮問会議の民間議員たちだった。これに財務省などが同調した。

 反発を強める国立大側には、交付金総枠のさらなる減少を危惧(きぐ)する文部科学省がついた。安倍首相は直属の教育再生会議に議論の集約を求めている。

 高等教育への公的財政支援は、日本の場合、対GDP比で先進諸国の半分しかない。厳しい財政の下で、予算拡充は難しいとしても、再生会議には大学の強化につながる前向きな提言を望みたい。

 地方の国立大にも一層の改革努力が求められる。他県からも学生が集まるような特色ある教育をし、強みと言える研究分野を持つことが肝要だ。地域経済への貢献や、地元自治体などへの人材輩出で存在意義をアピールする必要もある。

 そのためにも、基盤となる運営費交付金の安定確保は欠かせない。成果だけを性急に求めたがる競争原理は危険だ。 
(2007年5月28日1時30分 読売新聞)

5月27日(日) 最近、中国製の無認可薬のヤバさが新聞種になっている。 実は私もしばらく前、中国製の薬で怖い思いをしたことがあるので、ここに書いておこう。

 現在私の頭髪はすっかり衰えているが、衰退過程の中で何もしなかったわけではない。 数年前までは有名なロゲインを試してみていたが、呉智英氏と同様、私にもこの薬は効果がなかった。

 ロゲインはネット上の通信販売会社から手に入れていたのであるが、ある時その会社から、ロゲインと併用をお薦めしますという名目で、中国製の飲む育毛剤のチラシが送られてきた。 半信半疑ではあったが、値段も高くないのでまあ試してみるかということで取り寄せた。

 その薬を飲み始めて数日後のことである。 夜、卓球の練習をしていたら、右手の或る指の関節部分が赤黒くなっているのに気づいた。 毛細血管が関節部分で切れて内出血しているのだった。 指をどこかにぶつけたわけではないのに、そうなっているのである。 それまでそんな状態になったことはなかったので、変だなと思った。 例の薬のことが頭をかすめたが、偶然かもしれないし、とも考えた。

 そのまた数日後、別の指で同じ現象が起こった。 やはり、どこかにぶつけたわけでもないのに関節部分で内出血したのである。

 私はその日限りで例の薬を飲むのをやめた。 指の関節ならまだしも、脳の血管が切れたりしたら大変だからである。 3人の子供もまだまだ独立には程遠いわけだし。

 その薬を飲まなくなってから、同じ症状は今日に至るまで一度も現れていない。 

5月26日(土) 新潟大学の文系教員が中心になって昨年結成した19世紀学学会の開く初の国際シンポジウムが新潟市内のホテル・イタリア軒で開催されたので、出席。 題して 「19世紀と神話学」。

 午前10時開始で、途中1時間の昼食休憩と、午後は15分の小休憩を2回入れただけで午後6時まで続くハードなスケジュール。 私は聴くだけだったけれど、結構疲れました。 特に講演者6人中3人はドイツ語での講演だったことでもあるし。 勉強にはなるが、もう少しゆったりしたスケジュールを希望したい。 おまけに私には珍しく懇親会とその後の2次会まで付き合ってしまい、帰宅は午前様となった。

5月25日(金) 夕方、万代シティに映画を見に行ったついでに、3月にオープンしたジュンク堂書店新潟店に初めて行ってみる。 新潟駅南口にあるので、映画館からは歩いて10分強かかる。

 プラーカ1というビルの1階と地階に入っているのだが、最初に新書と選書のコーナーに行った私は、うわあ、すげえと内心歓声を上げた。 従来の新潟市の書店というと、古町の萬松堂書店と万代シティの紀伊國屋書店新潟店であるが、段違い、いや、3段違いくらいの感じなのだ。 新書は各種揃っており――というと当たり前じゃないかと言われるかも知れないが、文庫クセジュがしっかり揃っている店は新潟にはこれまでなかったのである――しかも岩波や中公と言った売れ筋だと新刊でなくとも同じ本が2〜3冊書棚に並んでいる。 誰か直前に買ってしまっても大丈夫なわけで、当然と言えば当然だけれど十分なスペースがないとできることではない。 選書も各種一通りそろっており、新潟大学が新潟日報事業社とタイアップして出している 「ブックレット新潟大学」 シリーズも並んでいました。 

 歴史書の棚に行くと、これまたすごい。 地域ごとに分かれており、ドイツ史だけで書棚1つ分あるのである。 これまでの新潟の本屋だとせいぜい西洋史全体で書棚2つか3つくらいだったのだから、桁違いである。

 文学の棚に行くと、ドイツ文学だけで書棚一つ。 これまた感激である。 従来だと・・・・言わぬが花でしょう (笑)。 もっともドイツ文学は私の専門だから品揃えについては少し言いたいこともないではないが、とにかく分量には圧倒される。

 棚と棚の間の通路がゆったりとできていて、落ち着いて本探しが楽しめる。 またフロアの中央にテーブルと椅子がおいてあるのも良い。

 これまで本格的な書店めぐりは東京でないと、と思っていたが、これなら上京時にあくせく本屋に行かずとも大丈夫かな、と意を強くした。 とはいえ、いささか心配なのは、客がそれほど入っているようには見えなかったこと。 客の入りが悪ければ撤退、或いは縮小ということも考えられる。 新潟市民の皆さん、なるべくジュンク堂に行くようにしましょう。

 問題は立地だと思う。 新潟駅南口というのは、あまり行きやすい場所ではないのである。 新潟市の知的なサラリーマンはだいたい古町界隈か万代シティ近辺が勤務先だから、新潟駅の万代口 (北口) ならともかく、南口は通勤ルートに入らない。 同じ駅の反対側だから少し歩けばよさそうなものだが、通勤ルートの途中にあるというのは案外大事なことだと思う。

 それと、新潟市の知識人 (?) が多く集まっている新潟大学は駅から十数キロも離れているし、下宿学生は大学近辺に、教師もだいたいは大学から数キロ以内のところに住んでいるから、新潟駅まで出かけていくのはなかなか大変なのだ。

 また、新潟市は東京と違ってクルマ社会である。 歩いて行けない場所にはクルマで行くことが多い。 その際は、無料駐車場があることが大事なのだが、新潟駅南口だと無料というわけにはいかない。 つまり普通の新潟市民からすると、むしろ郊外の駐車場無料の場所にあったほうがありがたいし、行きやすいのである。 一応、3000円買うと1時間無料駐車となるようだが、行けば必ずそれだけ買うというわけでもないしねえ。 私も、ジュンク堂が3月に開店して以来、行ってみようと思いながら今日まで行けなかったのは、行きにくい場所にあるからなのだ。

 書店の充実度はその都市の文化的レベルを反映する。 私が新潟大学に赴任したのは1980年。 当時は古町には萬松堂以外に北光社や、名前は忘れたがカミーノ古町7階に大きな書店があった。 しかし北光社は当時は4階まで書店だったのに今は2階までしかないし、カミーノ古町の書店はほどなく映画館に変わってしまった。 (その映画館も今はない。) 紀伊國屋書店新潟店も、私が新潟に来た頃と比べると最近は明らかに品揃えが劣ってきていた。 この春、旧ダイエーの6階に移り、面積が広くなって少し良くなったようではあるが。

 せっかくジュンク堂ができたのだから、何とか今の規模で続けていってほしいものである。 

5月20日(日) 本日は音楽会の3連ちゃんをする。 演奏会に先立ってりゅーとぴあの近くのとんかつ屋で腹ごしらえ。 この店、初めて入ったのだが、メニューを見ると余り安くなく、トンカツ定食は千数百円するので、一番安い串カツ定食にした。 安いと言っても970円だが。

 出てきたのをみると、串カツ定食なのに串がない。 串がない串カツとはこれいかに、と言いたいところだが、肉とネギとをあらかじめ衣に包んで揚げてあるので串は要らないということのようだ。 そうして揚げたものを切って食べやすいようにしてある。 これに量の多いキャベツ千切りと、すごく辛い辛子、それにお新香とみそ汁が付く。 お新香はつけすぎずちょうどいい具合。 みそ汁もうまい。 串のない串カツもなかなかいける。 キャベツ千切りとご飯はお代わりできるそうで、私はご飯だけ半膳分お代わりして腹一杯になった。 この味と内容なら、970円でも高くないかな。

 さて、腹ごしらえが済んで、まず午後1時からりゅーとぴあコンサートホールのロビーで東京交響楽団ロビーコンサート。 チャイコフスキーの弦楽六重奏曲 「フィレンツェの思い出」 だが、残念ながら全曲演奏ではなく、第2楽章の一部分と第3楽章全部が省略された形。 この曲、私は結構好きなのだが、編成が編成なのでなかなか生で聴く機会がない。 思うに、有料でいいから東響メンバーが室内楽コンサートを音文かだいしホールあたりでやってくれないものだろうか。

 無料のロビーコンサートなのでよく分からないまま紛れ込んで来る人もおり、赤ん坊を抱いた母親が第2楽章から入ってきたかと思うと、楽章が終わると同時に出ていった。 たまたま通りがかりで、何かやっているというので入ってきたのだろうが、客質が一定でないのは仕方がないのかなあ。

 ついで午後2時からりゅーとぴあのスタジオAで、太田玲奈さん(ヴァイオリン)と笠原恒則氏(チェンバロ)による 「バッハのヴァイオリン」。 プログラムはオール・バッハで、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第1番、無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番、チェンバロのためのソナタニ短調 (無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番よりバッハ自身の編曲)、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第4番。 アンコールにG線上のアリア。

  聴衆は約60人ほど。バッハの音楽にたっぷり浸れるコンサートだった。 太田さんのヴァイオリンは高音で表情を濃厚に打ち出すときに特に説得的で、強く訴えかけるものを持っている。 逆に言うと緩徐楽章のゆったりした静けさや内面への沈潜などには一層の表現力アップが望まれるような気が。 笠原氏は最近新潟市近辺で活発な活動を続けており、本日の演奏会でも意欲的なプログラムと演奏を披露してくれた。 チェンバロ・ソナタは、ヴァイオリン原曲なので弾きにくいとご本人の解説にあったように確かにやりにくそうではあったが、それなりの演奏であったと思う。

 新潟市がヴァイオリニストや古楽演奏家の招聘に不熱心な現在、お二人のような地元演奏家の頑張りが一層期待されるところである。

 そして午後5時からりゅーとぴあコンサートホールで東京交響楽団の第41回新潟定期演奏会を聴く。 指揮は飯森範親。プログラムは、ベルリオーズの序曲 「ローマの謝肉祭」、アコーディオンのcobaを独奏に迎えて、agua monegros、eye、(アコーディオンとカホンとオーケストラのための) 森の連鎖によるUrbs (世界初演、カホン 〔打楽器〕 は仙道さおり)、ドヴォルザークの新世界交響曲。 前半最後にアンコールとしてcobaがビーナスの誕生→ピアソラのリベルタンゴを演奏。

 会場は久々に満席。 プログラムを見ると、大谷康子さんが東響の 「ソロ・コンサートマスター」 となり、新しい 「コンサートマスター」 に高木和弘氏が就任、グレブ・ニキティン氏の 「ゲストコンサートマスター」 は従来通りということ。 今回は大谷さんがコンマスを担当。

 東響新潟定期も数を重ねているが、最初の序曲を聴くと何となく安心する。 ああ、東響の音だなと思ってほっとするのである。 やはりアマオケとは格段の違いがあるし、数カ月ぶりなので耳も飢えていたよう。 乾いていた喉に水を流し込んでいるような感覚が襲ってくる。 いいですねえ。

 cobaの演奏に会場は沸いた。 普通のクラシックコンサートとはちょっと違った感覚だが、こういうライブ感覚も時には面白い。 仙道さおりさんが弾いた (というか、叩いた) カホンという楽器、まるでステレオのブックシェルフ型スピーカーみたいな形なのだが、その上に腰を降ろして、かがみこんで股の間のスピーカー型の直方体を叩くのである。 初めて見た。 はあ、世の中には色々なものがあるのだと感心。 最後の新世界交響曲は何となく流して聴いてしまう。 おなじみの曲だと言うこともあるが、cobaみたいな熱演を聴くと気が抜けてしまうようだ。 いずれにせよ新しいシーズンが始まり、今年度は6回の定期があるので、次回以降がまた楽しみである。

5月19日(土) 音楽文化会館に榎本正一フルート・リサイタル with ストリングスを聴きに行く。

 実は榎本氏の演奏を聴くのは初めて (と思う)。 フルートだけの演奏会というのが何となく好きではないので今まで行く機会がなかったのであるが、今回はストリングスも加えて多彩なプロだったので行く気になったもの。 演奏は榎本氏以外に、八子真由美 (チェンバロ)、クァルテット・エクセルシオ、石田絵里 (コントラバス)、そして植村泰一 (フルート)。

 プログラムは、前半がM・ブラヴェのフルート協奏曲、グルック 「聖霊の踊り」、モーツァルトのフルート協奏曲第2番 (以上、すべてオケは弦楽四重奏+コントラバス。 最初の2曲はチェンバロも加わる)。   後半が、榎本氏の師である植村氏を迎えて、F&K・ドップラー 「リゴレット・ファンタジー」 (フルート2本+ストリングス)、武満徹 「エア」 (植村泰一のソロ)、ディーリアスの弦楽四重奏曲 「去りゆくツバメ」(クァルテットのみ)、後藤丹 「カタロニアの鳥たち」 (委嘱作品、世界初演、フルート2本+ストリングス)、J・ムーケ 「パンの笛」 (榎本+ストリングス)。   アンコールにヴィヴァルディのピッコロ協奏曲からラルゴ (ピッコロ=植村)、ビートルズ・メドレー (榎本+ストリングス)、そして 「千の風になって」(最初は榎本のオカリナ+ストリングス、その後植村が加わってフルート2本+ストリングス)。

 曲ごとに曲想はもちろん、演奏者の入れ替わりなどもあり、変化に富んだ演奏会であった。 たいへん楽しく、時間的にもアンコールを入れて2時間半あり、満喫できた。 3000円分の価値は間違いなくあった。 客の入りは8割くらいか。

 なお、クァルテット・エクセルシオは桐朋の学生だった人たちにより結成された若々しい四重奏団だが、第一ヴァイオリンの西野ゆかさんがなかなかの美貌の主で、見ても楽しめる。 私は動機不純の人間だから (笑)、このカルテットが新潟で独自に演奏会を開いてくれることを希望したい。

5月16日(水) 毎日新聞の 「記者の目」 欄に滝口隆司記者の 「元高校野球特待生として思う――スポーツを特殊化させるな」 が載った。 この問題については私もここで5月5日 (↓) に意見を書いているが、滝口氏の文章は氏自身がむかし高校野球の特待生だったという体験に基づいており、説得力あふれる内容なので、ここで紹介しておきたい。

 滝口氏は高校時代、野球の強豪校に進学し、そこで学費免除の特待生あつかいを受けていた。 「野球留学」 ではなかったが寮に入り、スポーツ部員だけのクラスで過ごし、一般生徒とは最初から別だったという。 午後3時から8時まで練習し、そのあとは室内練習場で個人練習。 下級生時代はテレビも新聞も見られず、先輩のマッサージや、洗濯やスパイク磨きに明け暮れた。

 それでも滝口氏は結局正選手にはなれずに終わった。 だから野球で大学に進むのは無理である。 改めて受験勉強を始めた氏は、模擬試験の英語の問題を見て、知らない単語ばかりなのに愕然としたという。 いったい自分は何をしていたのかと改めて思い知らされる。 そうした体験をもとに、若者を特殊な環境に閉じこめるのはよいことなのか、と滝口氏は問う。

 氏の母校はその後暴力事件を起こし対外試合禁止処分を受けた。 それ以降はスポーツの特待生だけを集めて寮に入れたりクラスを作ったりするやり方は廃止されたそうである。 スポーツ部員だけで集まっていると正常な感覚が麻痺していく。 暴力事件はそうした中から生まれたという反省にたってのことだったようだ。

 そうなのだ。 スポーツがあくまで教育の一環である以上、教育の中でスポーツを、そしてスポーツが得意な生徒をどう位置づけるかをきちんと考えて行かねばならないのである。

 スター選手をいかに効率よく育成するかしか頭にない人、そうしたスター選手に声援を送るだけで、表舞台に立たずに終わるスポーツ選手が大多数である事情に目もくれない一般大衆は、少し物事を考えて欲しいと言いたい。 

5月14日(月) 産経新聞の 「正論」 欄に岡崎久彦が 「安倍総理と訪米と慰安婦問題の行方」 という文章を載せているが、一読、呆れはてた。 韓国従軍慰安婦問題と河野談話については色々な場所でさんざん議論されているから、ここで詳しく説明する必要もなかろうが、岡崎氏の主張は、事実の黒白をはっきりつける必要はなく、女性の尊厳を傷つけたことに謝罪しておけばいい、それが 「常識」 だというのである。

 岡崎氏は親米派として知られる。 盲目的な親米派、と言ったほうがいいかもしれない。 日本の保守派にも色々あるが、とにかくアメリカを刺激しないようにするのがよく、日本はアメリカの後を付いていけばいいというのが盲目的な親米派である。 そうした人たちがいかにおかしな論法を駆使するかがが、ここに露呈している。

 岡崎氏によれば、この問題に中国などの反日工作を見るのは間違いであり、むしろ米国福音伝道派の慰安婦を悪とする道徳観が基本にあるのであり、それには何人も逆らえないという。 冗談ではない。 そんなに道徳意識が強いなら、まず自国の売春を叩くべきなのだ。 言うまでもなく、米軍が日本を占領した時代にはパンパンと称される日本人売春婦が多数存在したからである。

 河野談話が学問的な検証をきちんと経たものではなく、その場で韓国をなだめるためにいい加減に出されたのではないかという疑いは早くから指摘されていたし、側近の証言も出ている。 そして、その場をしのげばいいという発想で出た 「談話」 でことが収まったかというと、収まらなかったというのが、今回の米国下院でのホンダ議員の活動からくみ取るべき教訓であろう。 黒白をはっきりつけなかったからこそ、今になってこういう事態になってしまったのである。 ところが岡崎氏はまたしても、黒白をつけるなと言うのである。 懲りない人なのだ。

 あたかもバランスを取るかのように、産経新聞は岡崎氏の論考の前のページに石川水穂・論説委員の文章を掲載している。 石川氏は、河野談話をめぐる曖昧な状況を指摘した上で、学問的な検証が必要だと結んでいる。 まったくその通りと言うしかない。

 無論、政治はむずかしく、学問的に正しい結論が出てもその通りに政治家や大衆が動くとは限らない。 そうではあっても、まず学問的な検証をしておくのがこういう場合のあるべき対応なのである。 河野にも、そして安倍にも、そういう姿勢が見られない。 日本の政治家がいかに非知性的であるかが分かってしまう。 岡崎氏もかつては某国大使を務めた外交官だったが、同じ穴のムジナであろう。

 そして今回の事態の最大の教訓は、国際的な知的バトルで勝つために、日本はそれ相応の体勢を整えておくべきだということだろう。 自民党の利益調整型のなあなあ主義では国際問題は片付かない。 今回でそれがはっきりしたと思う。

5月12日(土) 午後7時から音楽文化会館で新潟室内合奏団第53回演奏会を聴く。 高橋裕之の指揮、佐藤さやかのホルンで、モーツァルトの交響曲第32番、同じくホルン協奏曲第3番、ブラームスの交響曲第2番。

 まず、入りが非常に良かった。 音文の座席が9割は埋まっていた。 おめでとうございます。 不況で新潟市の演奏会は減っているような感じだが、クラシックファンは音楽会に餓えているんでしょうか。 いずれにせよ結構なことではある。

 しかし、演奏は前半がよろしくなかった。 まず最初のモーツァルトは何だか音楽が流れていない。 モーツァルトらしく音楽にいつの間にか運ばれているような感覚がないのだ。 合奏もイマイチ。 最近の新潟室内合奏団は演奏レベルが上がったと思っていたのだが、なんか昔に逆戻りしたような印象があった。

 次のホルン協奏曲がさらによろしくなかった。 バックはまあまあだが、肝腎のホルン独奏がよれよれなのである。 私はモーツァルトのホルン協奏曲が好きで、どのくらい好きかというと、学生時代クラシック音楽に興味を持ちレコード収集を始めたとき、モーツァルトの曲として最初にレコードを買ったのがホルン協奏曲集だったというくらいなのである。 (おかげでクラシック通の友人には 「変わってるな」 と言われた。) であるから期待して演奏会に臨んだのだが、100%失望してしまった。

 独奏者の佐藤さんは新潟市出身で桐朋の大学院1年生だそうだが、ホルンの演奏水準ってこの程度なのだろうか。 何もレコードのような傷のない演奏を期待したわけではないが、これは独奏者を務めるレベルじゃないと言わざるを得ない。 いくらアマチュアオケをバックにしての演奏でも、一応カネを取っているのである。 「これはないんじゃないですか、人をバカにするな」と言いたくなる。

 しかし新潟の聴衆ってお人好しですね。 こんな演奏に拍手して何度も呼び出すのだから。 私は拍手どころかブーイングをしたい気分だったが、かろうじて拍手を拒絶するにとどめておいた。 かつて、新潟大学管弦楽団コンサート・パンフの広告に、「お義理の拍手は新潟の演奏会を悪くするばかりです」 というフレーズを掲載した見識ある方がいた。 この演奏に拍手した方々にはぜひ暗記してほしい文句である。

 というわけで前半はきわめて不快で、久しぶりに大失望の演奏会になるかなという嫌な予感でいっぱいだったのだが、後半で失地回復となった。
 室内オケでのブラームスということで期待と不安がないまぜの気分で、というか、前半がひどかったのでほとんど不安一色で聴き始めたのであるが、いや、なかなか結構な演奏でした。 ホルン協奏曲がよれよれだったのでブラームスの出だしのホルンも大丈夫だろうかと固唾を呑んで見守っていたが、きっちり決めてくれた。 (ここに限らず、ホルン・トップの女性奏者――竹野内さんでしょうか――は見事でしたね。) 普通の規模のオケと比べるとどうしても管楽器が目立つ演奏だけれど、これはこれで一興である。 途中の表情の付け方だとか、チェロとコントラバスだけで鳴らすところなどはやはりプロのようにはいかないなど、注文もないではないが、第4楽章で見事に盛り上げて締めくくり、全体としてレベルに達した演奏だったと言っていいでしょう。

 雨のち晴れの演奏会だった、というところかな。 アンコールにはピチカート・ポルカが演奏された。

 なお、次回演奏会 (10月21日午後2時、りゅーとぴあ) では奥村愛さんがメンデルスゾーンの協奏曲を弾くそう。 今回の協奏曲はひどかったので、リヴェンジを期待したい。

5月10日(木) 毎日新聞の 「記者の目」 欄に、先のフランス大統領選挙を評した福井聡氏の文章が載った。 「記者の目」 欄は執筆する記者の力量がはっきり出るので日によって出来不出来の差が激しいが、福井聡氏は実力のある人だけあって――福井氏がアフリカ支局に勤務していた時代の著書 『アフリカの底流を読む』(ちくま新書) は名著である――なかなか読ませる内容だった。

 福井氏によれば、サルコジ氏の勝利は、経済の国際競争が激化する中で有権者が右派の政策に信頼を置いた結果だという。 逆にロワイヤル氏の社会党は破れたわけだが、左派諸党の中でも穏健な社会民主主義者ではない極左の得票率は激減しており、特に70年代には得票率20%以上だった共産党が2%を切ったことは示唆的だという。

 結局、サルコジの訴え、すなわち新しい経済情勢に合わせて 「より働き、稼ごう」 という呼びかけに右派だけでなく中道も賛成したわけだ。 実際、第1回投票では中道のバイル氏の支持率はロワイヤル氏に迫る勢いだった。 ここから新しい政党再編の目も生まれるかもしれないという。

 フランスは長らく官僚支配で、西側諸国の中にあっては社会主義的色彩の濃い政策で知られていた。 それがここにきて大きく変わり始めたわけだ。 移民としてここまで上り詰めたサルコジ氏によってそれが始まったのは、象徴的と言えそうだ。

5月7日(月) 光文社が少し前から古典新訳文庫を出しているが、このシリーズから最近、トーマス・マンの 『ヴェネツィアに死す』 が上梓された。 この小説の新訳は久しぶりだ。 きちんと調べたわけではないが、おそらくは数十年ぶりではないか。

 むかしは 「ベニス 〔ヴェニス〕 に死す」 という訳題が一般的だったが、地名現地読みの趨勢にしたがって 「ヴェネツィア」 となったのは喜ばしい。 ベニスというのは、英語流の言い方だからである。

 訳者は、元都立大教授の岸美光(きし・よしはる)氏である。 私は岸氏とは面識がないが、ずいぶん昔、四国で学会があったとき、当時岡山大学の若い専任教員であった岸氏の研究発表を聞いたことがある。 躍動するような調子の、いかにも新進気鋭の学者らしい発表であったことが印象に残っている。

 その後都立大に移られてからの活動は存じ上げない。 まだ定年前と思うが、都立大を辞められたのは石原慎太郎知事による強引な首都大学東京への改変に抗議されてのことかも知れない。

 いまは訳文をいちいち検討する暇がないのだが、ちょっとだけ注文をつけておくと、ヴェネツィアの簡単な地図を付けておくべきではないか。 世界旅行が簡単になった昨今とはいえ、サンマルコ広場からリドに渡るなどという説明だけを文章で読んでもピンと来ない読者も多いだろうからだ。

5月5日(土) 高校野球でスポーツ特待生制度が認められていないことの是非に対する議論が高まっている。 産経新聞などは、特待生制度が認められないのはアナクロだという論調一色で、本日もコラム 「断」 がそういう内容だったし、数日前の 「産経抄」 は、高野連会長の脇村春夫氏は東大野球部出身の文武両道の人で、稀な資質の持ち主だから普通の感覚が分からないのでは、などという言い方をしていた。 私は 「産経抄」 を愛読している人間だが、この時ばかりは 「下司の勘ぐりじゃないか」 という印象だった。

 といっても、私も高野連の姿勢が時代からずれているとは感じている。 ただし、ずれているから悪いと断じるのはいかがなものか、と考えているのである。

 昨日の毎日新聞はその脇村氏の主張と、それを批判するプロ野球経営評論家・坂井保之氏と、二人とはまた別の立場をとるスポーツライター・玉木正之氏の三者三様の見解を掲載していて面白かった。

 この中で一番単純で分かりやすいのは坂井氏だろう。 他のスポーツでは認められているのに野球だけダメなのはおかしい、生徒の進路に応じた専門教育が学校にはあるのだから野球に特化した学校があってもいい、という見解だ。 要するにこの人の頭の中には野球のことしかないのである。 それもプロ野球でもやっていけるような有能な選手のことだけである。

 脇村氏は、これとはかなり違ったところからものを考えている。 野球には多面的な価値があるのであり、高校が自校の宣伝のために中学生を特待生制度などの条件で勧誘するのは好ましくない。 高校では野球さえやっていればいいというのは教育的ではないからだ。 初戦敗退の2100校にも野球に価値を見いだせるようなシステムを我々は考えて行かねばならない。 高校野球はプロ野球の予備軍養成所ではないのであり、ベンチにすら入れない選手も多い。 そうした選手のことも考えた制度作りが教育の一環としての高校野球に求められる、という意見である。

 私が脇村氏の見解にある程度共感するのは、野球をやる少年たちの大部分は甲子園にも行けないで終わるし、また甲子園に行けてもその中でプロのスター選手になれるのはごくごく一部だということをよく考えているからである。 多分、坂井氏やスポーツ特待生制度を肯定的に見る人たちはそういうことを全然考えていないのではないか。

 よく、男の子の将来なりたい職業として野球選手が上位に挙げられる。 しかし、数多くの野球少年のなかで本当にプロになれるのはせいぜい千人に一人であり、また松井や松坂のようなスター選手になれるのは数万人に一人いるかいないかなのである。 ほかの数万人、或いは十数万人の野球少年たちは敗者として終わる。 もちろん、そうした少年たち全員がプロ選手になりたいと思っているわけではない。 とりあえず中学高校時代にやるスポーツとして野球を、とだけ考えている人間も多数だろう。 初等中等教育におけるスポーツとはそういうものである。

 そういうなかで、時としてものすごい才能に出会う。 これは野球に限らないし、スポーツだけにも限らない。 勉学だろうと、音楽や美術などの文化系クラブ活動であろうと、「すげえ奴がいるな」 と驚愕することはあるのであり、それも教育の一環なのである。 そしてそれは、特待生制度などではなく、同じ条件でやってきたはずなのにこれほどの違いが出るのだと思い知ることによってこそ教育的なのである。

 松井や松坂やハンカチ王子に声援を送る人には、多分そういうことはまったく視野にないだろう。 単にスターに熱狂するだけなのであり、その背後に何があるかは考えたくもないのだ。 坂井氏もスターを育成すること以外は念頭にない。 しかし脇村氏は違う。 そしてそれは脇村氏がエリートだからこそだろうと私は思う。 真のエリートとは、色々な視点から物事を考えるものだからだ。

 とはいえ、脇村氏の見解にも一定の限界がある。 野球が現在のところは国民的スポーツだということを暗黙の前提にしていることだ。 つまり、野球は今なお日本人には特権的なスポーツでそれなりに人気があるということである。 これが例えば卓球ならそうはいかない。

 卓球の福原愛が青森の高校に行っていたことは誰でも知っている。 卓球協会にしても脇村氏のようなことを全然考えていないわけではなかろう。 しかし、卓球協会は同時に、スター育成によって卓球というスポーツを宣伝していくことをも視野に入れないといけないのだ。 放っておくと卓球というスポーツ自体が沈没してしまうかも知れない。 そんな危機意識を絶えず持っているからこそ、卓球協会は特待生制度を認めているわけだ。 そしてこれは、野球以外のスポーツでも基本的に同じ事情であろうと思う。

 そしてそれには奇妙なねじれ現象も与っている。 野球は日本人にとって国民的なスポーツだが、国際的なスポーツとは言えない。 野球に人気があるのは日本やアメリカなど限られた国においてのことである。 一方、卓球をはじめ高校生の段階から特待生制度を公的に認めているスポーツは、国内的な人気はともかくとして、野球よりはるかに国際的である。 そしてそういうスポーツでは、なるべく早い段階から育成を始めないと国際的なレベルの選手を生み出せないというのが実情なのだ。

 (むかし卓球で世界チャンピオンになった荻村伊智朗は高校に入ってから卓球を始めた。 しかしそれはまだこの競技が発展途上段階だったからだ。 今ではどんなに運動能力に優れている人でも、中学から始めないと世界レベルにはならないだろう。 卓球で日本代表として国際試合にしばしば出場した鍵本肇は、すでに30年あまり前にそうした指摘をしている。)

 一方、坂井氏の主張通りに特待生制度を全面的に認めたら、野球の人気は維持されるのだろうか。 今の高校野球に人気があるのは、地域代表対抗戦的な側面が強いからである。 しかし 「野球留学」 によって実際には地域代表ならざる選手が増えていることは指摘されている。 これがひどくなれば、高校野球の人気そのものに陰りが見える可能性は少なくない。 いくら特待生制度で強いチームを作ったところで、野球そのものが沈没してしまえば終わりである。 実際、特待生制度が大手を振っているスポーツでは、そのスポーツの名門校はあるけれども、それが地域代表だとか、インターハイが地域対抗戦だとかいう意識は薄れているのではないか。

 さて、毎日新聞で意見を述べたもう一人の人、玉木氏の見解はどうだろうか。 思うに、この人が一番現実と理想の統合を考えているのではないか。 つまり、学校があくまで教育機関であることを基本に、しかし今の高校野球は興業になってしまっており、教育とは別次元のものになっているとして、スポーツは学校から切り離して地域のクラブでやればよい、と述べている。 そしてそこに現れた才能にプロがカネを出すならそれもよし、とする。 悪くないアイデアだと私も思うのだが、野球を宣伝材料にしている私立校は猛反対するだろうな。

 なお、少年スポーツと教育との関係については、永井洋一 『スポーツは「良い子」を育てるか』(NHK生活人新書) を読まれることをお薦めする。 スポーツマンシップというと漠然と良いもののように思われているが、年少者が集まるスポーツクラブの実態を知ると、むしろスポーツは教育上よろしくない、という結論になるかも知れないのである。

5月4日(金) 数日前の産経新聞に、来年の春から初夏にかけて日本で行われるサミットについて、開催地に選ばれた北海道の高橋はるみ知事が迷惑顔だという記事が載った。 警備その他の手間が大変だということらしい。 もっとも政府側は、北海道 (の洞爺湖近辺) なら警備が楽だということで決めたという。

 実は北海道は当初は開催地として立候補しておらず、〆切を過ぎてから政府側からの働きかけで立候補し、選ばれたという経緯がある。 つまり出来レースだったというわけ。

 私の住む新潟市も横浜市と組んで、港湾都市でのサミットという宣伝文句で立候補していたが、残念ながら落選となった。 

 私は本音で言うと、サミット開催地に当選すると警備やなんかで街なかが窮屈になるし、サミット用にコンサートホールが転用されてしまうので音楽会の数も減るし、落ちて良かったと思っている人間なのだが、新潟市の知名度アップをもくろんでいた市長や、客の増加をあてこんでいたホテル・飲食店業界の方々にはご愁傷様でしたと申し上げます。

 それにしても、政府がこういう出来レースをやっていてマスコミから批判が盛り上がらないのはどういうわけだろうか。 地方の活力を、なんて言うからには、自主的に立候補した都市のなかから選ぶのが政府のとるべき態度でしょう。 こういうことをやっているから、日本はいつまでも中央集権国家から抜け出せないのだよ、と言いたくなっちゃう。

5月3日(木) 連休と言っても特別のことをするわけではない。 女房と映画を見に行く程度。 幸いにして、疲れるために混んでいる道路をクルマで走って遠出する、なんて発想は我が家には皆無である。

 本日は 『クィーン』 を見たが、これがたいへんな傑作であった。 詳細は 「映画のページ」 に譲るが、数日前、女房と娘(中1) を連れて 『神童』 を見て、あまりの不出来に立腹したので (もっとも女房と娘は面白かったらしい)、少し補いがついたかな、という気持ち。

 しかし、客の入りは 『神童』 の圧勝である。 『クィーン』 は連休だというのに10人程度だった。

 もちろん、『クィーン』 はCGを駆使したハリウッド調のバトル映画などとは全然タイプの違う作品であるから、大衆的な人気が出ないのは分かる。 ただ、『神童』 のように全然芸のない日本映画に客が集まるのは、最近の日本人が内向きになっているからじゃないか、という印象を禁じ得ない。 どうしようもないダメ映画なのに、そこいらにいる日本人 (と変わらない容姿や演技力の俳優) が出て、漠然と見ていても何となく理解した気になれると思うからではないだろうか。

 昨年の日本は、興行収入に関して国内映画のそれが外国映画を久しぶりに上回ったというので話題になった。 たしかに日本映画でも傑作はある――今年で言えば 『それでもボクはやってない』――が、全般的に見た場合質的にはどうなのだろう。 「泣ける」 などという単純な基準が横行していて必ずしも芳しくない状態にあるように私には思える。

 日本はアニメ映画の質が高いが、ジブリアニメの 『ゲド戦記』 は、興行収入がすごかった一方で、その出来に関してはかなり厳しい批判があった。 出来が悪いのに興行収入がいいのは困ったことだけれど、批判がちゃんと行われる分だけマシとは言えるだろう。 アニメファンには一定の鑑識眼があって、それが批判という形で噴出していたわけだ。

 しかし 『神童』 のような実写映画の駄作についてはどうか。 どうも批判力が弱いように思える。 アニメに限らず駄作にはきっちり批判ができるようになっておかないと、日本映画の先行きも明るくないのじゃないか。 いや、映画はもともと大衆芸術だから、こういうこうるさい議論には馴染まないのかも知れませんけどね。 

 

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