音楽雑記2007年(1)

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 音楽雑記2007年の5月〜8月はこちらを、9月以降はこちらをごらん下さい。 

 

4月26日(木) H卓球クラブに練習に行く。 Sさんが本日限りで来れなくなるというのが淋しい。

 Sさんは、以前にも書いたことがあるが、私とほぼ同年齢の女性である。 卓球の腕前は抜群で、このクラブでは男性を含めてもナンバーワン。 もちろん私などは足元にも及ばない。 女性としても小柄な方だが、反射神経が並みはずれて鋭い。 体力も相当なもので、休日にはよく泊まりがけで登山に出かけ、帰ってくるとその日の夕方には卓球の練習に来たりする。 男勝り、というのではなく、ボーイッシュ、という言葉がぴったりで、年齢よりはるかに若く見える。

 ご主人が関西に転勤になるので来れなくなる、という話を聞いたのはたしか3カ月ほど前だ。 その時、「旦那さんと別れてずっと新潟にいたら?」 と冗談を言ったら、「うん、そうしようかなあ、なあんてね」 と明るく答えてくれた。 色々都合もあってとりあえずご主人が単身赴任で先に着任し、Sさんは当面は新潟にのこっていたのだが、とうとう最後の日になってしまった。

 Sさんは不思議な人で、クラブの飲み会には一度も出たことがない。 決して非社交的なタイプではないのに、なぜか絶対に出なかった。 一度、「Sさんが来ないと盛り上がらないから」 と言って誘ったのだが、適当に返事をしておいてしかし結局来なかった。 どうしてなのか、よく分からない。 まあ、人それぞれではある。

 本日は最後だからということでクラブ全員に山菜のお土産を持ってきてくれ、練習が終わってから全員と握手して去っていった。 会うは別れの始まり、という文句が痛切に思い出された。

4月24日(火) 産経新聞のコラム 「断」 に井口優子が 「ボランティア代理母への違和感」 という文章を書いている。 が、感心しない。

 日本で或る病院長がボランティアの代理母を募集したことを取り上げて、アメリカでは代理母が社会的に認知されているが、アメリカの場合はそれが 「宗教心」 に基づいているのに対し、日本の代理母を支えるのは日本的同情ではないか、と書いて疑問を呈しているのだ。

 日本はアメリカに比べて宗教性が薄いけれども、それに代わるものが同情とか人情であって何がいけないのだろう? このエッセイにはそれでいけない理由がまるで書かれておらず、説得性がない。

 この文章に限らない。 「断」 での井口優子の論法はだいたいいつでも同じである。 アメリカと日本を比較して日本をこきおろすパターンだ。 昨年10月13日の 「断」 では、日本が酔っぱらいに甘い社会であることをアメリカと比較して指弾していたけれども、日本人 (モンゴロイド) が欧米人に比べて体質的に酒に弱いことはよく知られた事実だし、酔っぱらいに寛容だからこそそこでストレスが発散されて社会が円滑に動いているという見方もできるはず。 少なくともストレスをためて銃を乱射するよりよほどマシだろう。

 要するに物事を比較するには多面的に見る必要があるのに、井口の場合そういうところがなくて、いつもアメリカを見習えで文章が終わっているのだ。 比較文化はあってもいいが、昔みたいに何でも欧米に見習えで読者が感心する時代はとうに終わっているのに、それに気づかないのが何ともダサイ。

 以前このコーナーで佐伯順子のコラムをこき下ろしたけれど、どうも 「断」 の女性執筆陣は人材不足ではないか。 私がこれまで女性執筆者でいいと思ったのは、さかもと未明だけである。

 もっとも、このところ男性執筆陣もあまりぱっとしない。 中村文則なんか毎回つまらないし、潮匡人や大月隆寛の左翼批判はもう飽きたという感じ。 こないだ執筆者の大幅な入れ替えがあったのも、産経新聞自体にそういう手づまり状態が見えていたからだろう。 しかしそれでも井口は残ってしまうのだから、人材不足は相当ひどいと見た。

 まあそれでも、東国原・宮崎県知事を起用したあたりは思い切った刷新かもしれない。 地方行政の視点から斬新なコラムを書いてくれればいいのだが。 

4月23日(月) 午後7時から新潟グランドホテルに新潟音楽協会総会コンサートが開催された。 中1の娘を連れて行く。 入場無料なので、私のように会員でない人間は感謝しなくてはいけません。

 前半は井上静香さんのヴァイオリン、酒井雅代さんのピアノで、ヘンデルのヴァイオリンソナタ作品1−12、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ 「春」、タルティーニのソナタ 「悪魔のトリル」。 後半は宮嶋明香さんのソプラノ、藤原桂子さんのピアノで、ヘンデルの 「ああ、ジュヴァルの竪琴があったなら」 「オンブラ・マイ・フ」、カッチンーニの 「アヴェ・マリア」、プッチーニの 「氷のような姫君の心も」、ヴェルディの 「ありがとう、愛する友よ」 (オペラ 「シチリアの夕べの祈り」 より)。

 私は井上さん目当てで行ったのだが、音が私の理想にほぼ一致しているのがうれしかった。 よく通り美しく芯の詰まった音。 3曲ともそれなりに良かったけれど、最後のタルティーニが一番だったかな。 ただ、「ちょい傷」 がちょっと目立ったので、完成度を高めると敵なしではないかと思う。

 宮嶋さんも美声を遺憾なく発揮してくれ、満足できるコンサートとなった。 新潟出身音楽家お二人の今後の活躍を祈りたい。

 なお、終演後披露された情報では、来年5月13日に小沢征爾指揮新日フィルを招くそうである。 チケット入手は協会員が優先されるので、今から協会員になっておくことをお薦めします、とのことであった。

4月22日(日) 午後4時からりゅーとぴあに茂木大輔のオーケストラコンサート第3回:「英雄」徹底解説を聴きに行く。 2階の舞台脇および後部、3階の全部には客を入れていなかったが、満席に近い状態。 このコンサートシリーズも新潟ではすっかりおなじみになったということであろう。

 茂木大輔さんがいつものようにユーモラスな解説で英雄交響曲の作られ方を分かりやすく説明してくれた。 変ホ長調という調性とホルンの関係など、なるほどと思わされた。 また、前半最後には第2交響曲の第3楽章が演奏され、なおかつピアノと木管楽器のための五重奏曲でベートーヴェン自身がピアノを受け持った際の演奏が再現されたり、実にサービス満点であった。

 後半は英雄の全曲演奏のあと、アンコールに「プロメテウスの創造物」の最終曲をやったが、全体があくまで英雄交響曲と関わりを持つ曲で埋め尽くされ、きわめて充実した内容だったと思う。 終わったのが6時40分過ぎだから、量的にもたっぷり。 これで2700円(A席、Nパックメイト価格)は安い! 来年が楽しみ。

4月20日(金) 2限、2年生向けの演習。 学生の発言がきわめて不活発。 先週の受付では、「各自必ず授業中に1回は発言するように」 と言っておいたにもかかわらず、3分の2は黙りこくっている。 居眠りしている奴もいる。 学生数は12人で、2年生向けの演習としてはやや多めだが (昨年度は6人だった)、そのせいもあるかも。 何とかしてカツを入れないと。

 昨日は1年生向けの演習をやったのだが、学生の発言はきわめて活発だった。 こちらは1クラス14人である。 ただ、よく発言する学生と全然発言しない学生の差が目立ってそれなりに問題はあったが、授業の雰囲気自体は本日の2年生たちよりはるかに活気があった。

 1年生向け演習より2年生向け演習の方が退化しているというこの現実。 中だるみと言えば分かりやすいのだろうが、困ったものである。

  *    *    *

 昼食を生協の食堂でとって研究室に戻ろうとしたら、途中で非常勤の某先生に呼び止められた。 某先生はこのたび科学研究費補助金をもらえることになったそうで、それはおめでとうございますと言ったら、その事務処理を新潟大学の事務が引き受けてくれないとグチをこぼされた。

 専任教員の場合は各学部の事務がやるのだが、某先生は非常勤であり専任校がなく、おまけに教養科目担当なのでどの学部の事務と関わっておらず (教養科目専門の事務としか関わっていない)、私は詳しいことは知らないけれど本来こういう場合は新潟大学の教養科目担当の事務部がやるべきじゃないかと思うのだが、教養科目の事務部はそういう仕事をやったことがないので厄介者扱いされてしまったらしい。

 こういうところが新潟大学の駄目なところだと思うのである。 だいたい、大学内部では科研費を申請しろ、取得率を高めろと五月蠅いのである。 なのに、たまたま非常勤講師の方が科研費をゲットすると、このありさまなのだ。 実力のある非常勤講師にはそれなりの援助をする程度のことがどうしてできないのであろう。

 ちなみに某先生は日本の大学で博士号を取得後さらにドイツの大学で博士号を取得された実力派である。 新潟大学専任のゲルマニスト及びドイツ語教師でこういう経歴の人はいない。 日本国内で博士号を取った人間すら、私しかいないくらいだから。 したがって、ちゃんと処遇するべきだと思うんですがね。

 前にも書いたが、新潟大学は1年前から紀要 『言語文化研究』 を勝手に廃止した――つまり発行するカネを出さなくなった。 この紀要は、非常勤の語学教師の方にも執筆権を与えていたところに大きな特徴があった。 周知のように、大学の語学の授業は非常勤講師の方に少なからず依拠している。 そういう方々に研究発表の場を与えるのは大事なことだと思うのだが、長谷川学長初め新潟大学の上層部はそういうことにいささかも配慮をしない。 まったく、研究者として模範的な態度ですよね(笑)。

  *    *    *

 研究室に戻ったら、生協の職員が訪ねてきた。 5月に行われる生協総代会の代表になってくれという依頼かと思ったら――これは毎年やっている (ただし出席は余りせず、委任状で済ませることが多い)――それだけでなく、理事をやってくれという依頼でもあった。

 何でも、これまで理事をやっていた本部事務官2人が辞めると言い出したのだそうだ。 新潟大学の生協は昨年ちょっとした手続き上の不祥事を起こして新聞記事になってしまい、そのためだという。 だけど、そんなことを言うなら、文科省は自分の省庁に不祥事が起こったらすぐに関係者は全員辞職するんですかね。 なんかテイのいいサボリのような気がするんですが。

 私はここ15年ほど生協の教職員委員をやっているが、生協の理事も教養部廃止直前の数年間勤めたことがある――理事と言っても無給である、念のため。 だからまあ、二度目のお勤め、ということだ。 で 理事は、生協職員の理事 (これだけは職員としての給与が出ている)、学生の理事、教員の理事、そして事務官の理事からなる。

 国立大の事務官には2種類ある。 本省採用で全国を渡り歩くキャリア組と、地元採用で定年までずっと新潟大学内で (あるいはせいぜい途中一度近隣大学に出向する程度) 過ごすノンキャリア組である。 ノンキャリアは各学部の事務長か本部の課長補佐が最高位、本部の部長や課長はすべてキャリアである。

 さて、以前理事をやっていたとき、ちょうど教養部が廃止になる1年前のことだったが、その年度の理事全員が集まっての挨拶の場が設けられたのである。

 キャリア組の本部事務官の理事はふつうこういう席には余り出てこないのだが、その時はたまたま一人が出てきたので、生協職員はきわめて丁重な態度でご機嫌をとっていた。 ここからも、国立大学内で文科省の官僚がどういう位置にあるかは分かるだろう。

 それはさておき、理事がひとりひとり挨拶をしていったので、私は次のように挨拶しておいた。 あらかじめ注をつけると、1993年春のことで、自民党の宮澤喜一総理が退陣する直前であり、戦後長らく続いた自民党政治が終わって非自民党の細川政権が生まれようとする頃のことである。 そして繰り返すが、新潟大の教養部解体の1年前のことである。

 「ええ、宮澤さんは自民党最後の総理になるのではないか、と言われていますが、私は教養部最後の理事になるのではないか、と言われております」

 皆どっと笑った。 キャリア官僚氏も笑ってくれた。 ふだんこういう場に顔を見せないのに出てきたことと合わせて、官僚にしては実直な人なのかも知れないな、そう私は思った。

  *    *    *

 さて、生協職員が帰ってから、昼食後事務室のボックスから取ってきた郵便物を調べていたら、N先生からのお手紙があった。 N先生はもともとは独文学者だが、その枠を越えた幅広い言論活動で知られている。 私は一度お話しする機会があっただけだが、いわば私淑しているつもりである。 手紙の一節に 「あなたはまだ若いのだから」 とあって苦笑した。

 たしかに、私は54歳だがN先生は17歳年長である。 つまりもう70歳を少し越えている。 しかし相変わらず言論界で活発な活動をされ、先日も大著を出版されて、その祝賀会が東京で盛大に催されたようだ。 私にも案内状が来たけれど、新潟から出かけて行くだけの根性がなく失礼させていただいた。 しかし祝賀会には新潟よりも首都圏から遠い都市や海外からも出席者が訪れたそうで、N先生の人徳と人脈を改めて印象づけられた。

 私は50歳前後から肉体的にも脳味噌的(?)にも一段階衰えたな、と感じている。 昔 「人生50年」 と言われたのは、人間の生物学的な条件を的確に表したものだと納得した。 今は栄養が良くなっているし医療も発達しているから50歳ではそうそう死なないが、だからといって生物学的な限界まで根本的に変わったわけではないのだ。 こないだ石原千秋の本を読んだら、内容的にかなり柔軟性が失われており、また本人もあとがきで最近がっくり衰えたと書いていたので、同じことなのだろうと思う。 ちなみに石原氏は私より3歳年下である。

 ではN先生はどうなのか。 無論人によって衰える年齢が異なることがまず考えられる。 しかし先生の場合はふだんから新聞や雑誌に寄稿するなど時事的な判断力が試される場所で活動しておられるので、それが肉体的能力と知的能力の衰えを防いでいるのではないだろうか。 もとより、マスコミで活動できる知識人というのは能力が高いわけではあるが、その高い能力を維持できるような場所におられることも大きいのではないかと思う。

4月18日(水) 1限、教養の西洋文学。 先週定員150人いっぱい取って、しかし今日来なかったら聴講許可を取り消すと言い渡してあったが、結局19人が欠席。 その分、新しく聴講を許可する。 学部別に見るとその辺がどうなっているのか、以下で示してみよう。 数字は先週聴講を許可した学生の数、( )内はそのうち本日欠席して事実上聴講を放棄した学生の内数である。 歯学部は聴講申請者がいなかった。

 人文学部     8 (0)

 教育人間科学部 9 (4)

 法学部       1 (0)

 経済学部      9 (5)

 理学部       16 (2)

 工学部       71 (7)

 医学部       33 (1)

 農学部       3 (0)

 これを見ると、一度聴講許可を得ていながら翌週それを放棄した率が最も高いのが経済学部、次点が教育人間科学部だと分かる。 (追記。 そのまた1週間後になって医学部から2人取り消し申し出があった。)

4月12日(木) 最近、ドイツ文学者の注目すべき仕事がいくつも出版されている。 私も必ずしもきちんと目を通していないのだが、参考までにここで紹介しておこう。

 ヨアヒム・ハインリヒ・カンペの 『新ロビンソン物語』(鳥影社)が田尻三千夫・東大教授の訳により出た。 ロビンソン・クルーソーのお話は多数の類似物語を生んだが、これはその一つ。 18世紀に教育的に漂流記を作ろうとするとこうなる、というお話らしい。

 ヨーゼフ・ロートの代表的長篇 『ラデツキー行進曲』(鳥影社) が平田達治・阪大名誉教授の訳により出た。 この作品は以前筑摩書房の世界文学全集に収録されていたが、久しく入手困難になっていた。 ロートの専門家で作品集の翻訳も手がけた平田氏の訳により、詳細な解説を付けて新訳が出たことは喜ばしい。

 渡邊洋子・大阪学院大助教授の著書 『ドイツ「書簡文化」と女性 ゾフィー・フォン・ラロッシュからベッティーナへ』(同学社) が出版された。 18世紀半ばから19世紀半ばにかけてのドイツ女性と文学との関わりを、必ずしも 「作品」 として執筆されたものだけに限定せずに追究した研究書で、なかなか面白そうだ。 この本はなぜかアマゾンなどのインターネット書店に登録されていないが、出版元の同学社のサイトには掲載されている。

4月11日(水) 本日より授業開始。 私は今日は1限に教養科目の西洋文学がある。 講義室に行ってみたら廊下まで人があふれていて明らかに定員オーバー。 その場では抽選ができないので、用紙に学部ごとに氏名と学籍番号を記入させて、あとで研究室で抽選。 定員150名に対して220人が聴講希望だから、1・5倍近い競争率だ。

 授業開始日でもあるし、これが本命ではないけれど本命の授業をとれなかった場合を考えて来ている者もいるだろう。 ということで、来週の授業の最初に評価法などの説明をするから、そこに来なかったら聴講許可取り消しにすると宣告しておいた。

 それにしても、教養科目の時間割を見ると1限の授業の少ないこと! 2限になるといきなり増える。 これは教員側の責任が大だろう。 早起きが嫌だから、ということなんだろうが、時間割のバランスを考えれば我が儘は言っていられないはずだが。 私も1限の授業は今日だけだから偉そうなことは言えないけれど。

 それより、本日の収穫は熟年の御婦人が聴講登録に来たこと。 新潟大学が独法化されてから、一般市民も授業を取れるようになっており、といっても教える側が認めた場合だけだけれど、私は教養の講義については全部認めている。 しかし、実際に聴講者が現れたのは今回が初めてである。 20歳前後の学生だけでなく、人生経験をそれなりに積んだ年齢の方が文学の講義に出席するのは、たいへん結構なことだと思う。

4月4日(水) 新年度最初のコンサートとして、午後7時からだいしホールで 成嶋志保&日馬美帆子・ヨーロッパからの二重奏 を聴く。 成嶋さんは新潟ではすでにピアニストとしておなじみだが、日馬 (くさま) さんはヴィオラ奏者で、現在ベルギー国立管弦楽団のソロヴィオラ奏者を勤めている。
プログラムはシューマンの 「おとぎの絵本」 op113、ヒンデミットのヴィオラソナタop.11-4、ミヨーのヴィオラソナタ第1番、レベッカ・クラークのヴィオラソナタ、というきわめてマニアックというか渋いもの。 アンコールには日本の歌 「さくら」 が演奏された。

 最初のシューマンではヴィオラの音があまりよく出ていないような気がしたのだが、これは曲の作りのせいかもしれない。 次のヒンデミットになると俄然音がよく響くようになった。 私は正直、初めての曲ばかりだったが、ヒンデミットの現代性、ミヨーの独特な叙情、クラークの躍動するような歌と、それぞれに面白く聴けた。

 客の入りは8割くらいか。 プログラムの割りには良かったと言えるだろう。 演奏内容からしても、新年度最初の演奏会にふさわしく充実していたと思う。 今年度がこの調子ですばらしい演奏会の連続になってくれることを祈りたい気持ちである。

4月3日(火) 訳あって、先月高知で起こったボンバルディア機の事故が気になっている。 それでこの件についてネットで調べていたら、知った名前に出くわした。 高校時代学年トップの秀才だったS君である。

 S君は東大法学部に進学、その後官僚になったと聞いていたが、現在は国土交通省の航空局長という要職に就いているようだ。 中央省庁の局長だから順調に出世しておめでとうと言いたいところだが、ネットで出てきた記事ではボンバル機の欠陥問題で国会審議に駆り出され、欠陥飛行機を許可していたのはどういうわけだとする国会議員の追及に四苦八苦して答弁しており、大変だなあと同情してしまった。

 それで思い出したのが同じく高校で同学年だったO君である。 彼とは3年次、3つあった国立文系クラスのうちの一つで一緒だったが、彼もなかなかの秀才で、クラスではトップ、学年でも文系志望ではS君に次ぐ成績であり、やはり東大法学部に進学した。 彼はまた相当なプレイボーイでもあって、可愛い女子高校生とよくデートをしており、女に縁のない我々凡人を切歯扼腕せしめたのであった。

 ネットで調べてみると彼は東京電力の某支店長になっているようで、一流企業で順調に出世しているらしいが、出てきた記事ではこの3月に某支店で事故があり、別段O君に直接の責任があるわけではないだろうが、ニュースになると支店長名も出てしまうわけで、やはり大変だなあと同情してしまった。

 秀才で出世する人もそれなりに大変なのだ、というお話でした。 或いは、責任者として名前が出やすい年齢になっている、ということなのかも知れない。

3月21日(水)〜3月28日(水) 英国旅行に出かける。 といってもパックツアーですけど。 添乗員の大西さん (女性) にはたいへんお世話になり、また色々教えていただきました。 彼女は映画ファンなので、その方面の話もできて楽しかった。 またSご夫妻やUご夫妻などには旅行中話し相手になっていただいたりしてお世話になりました。 感謝申し上げます。

 添乗員さんの話では英国は地味な印象があるので日本人の人気はイマイチとのこと。 そのせいか中高年の参加者が圧倒的に多いツアーだった。 ただ、親に連れられた中高生も数人おり、聞いた範囲ではいずれも東京の名門私立校や県庁所在都市の中高一貫私立校の生徒で、何となく 「格差社会」 という言葉が思い出されてしまった。 そもそもロンドンのバッキンガム宮殿前には日本の女子高校生が群をなしており、修学旅行なのだろうけれど、日本もずいぶん裕福になったものだと痛感させられた。

 リバプールでビートルズも歌ったというキャバレーに入ったり、ストラトフォードでシェイクスピアの生家を見学したり、ストーンヘンジを見に行ったりと、日本人のツアーらしく盛り沢山で短期間に色々な物・場所を見て回った。 また田舎の風景の意外な美しさなど、考えさせられたところが多かったけれど、それはいずれ別の機会ということで、ここではロンドンでの体験だけをちょっと記しておく。

 まず、博物館や美術館が入場無料というのにびっくり。 さすが大英帝国と感心しかけたが、同じ公共料金でも交通関係はバカ高い。 バス (名物の2階建てバスで、私も乗ってみた) が初乗り2ポンド、ということは約450円、地下鉄 (乗らなかった) に至っては初乗り4ポンド=約900円である。 日本の東京メトロなら190円でだいたい都心部はカヴァーしているわけだが、仮にそれが900円になったら暴動が起こるんじゃないか。

 それはさておき、半日自由行動だったのでナショナルギャラリー(美術館) に行ってみた。 入場は無料だが、日本語音声ガイドを借りるのに3ポンドとられる。 しかもこれが英語の音声ガイドと違い、全作品を収録しておらず、ごく一部の作品にしかついていない。 ただし説明はかなり詳細だから、英語のガイドを借りるとそれを聞くだけで時間を相当つぶしてしまうだろう。 そうでなくとも作品数が多く、私は2時間あまりかけたがとても全作品は見られなかった。 添乗員さんからは印象派のコレクションが、という話を聞いていたのだが、ミケランジェロやラファエッロやティツィアーノやレンブラントなどの古典的な作品を見るだけで終わってしまう。

 さて、そうして見て回っているうちに或る発見をした。 といっても大したことではない。 フィリップ・ド・シャンパーニュの描いたリシュリューの肖像画と出会ったということなのだ。 それがどうしたって? 枢機卿にしてフランス首相でもあったリシュリューの名前は、日本人には余り馴染みがないだろう。 一般的には歴史上の人物としてよりも、デュマの小説 『三銃士』 の登場人物として知られているのではあるまいか。 私も小学生のときに子供用リライト版で 『三銃士』 を読んでこの発音しにくい人物の名前を覚えた。 成人してからは改めて全訳を読んだが、ダルタニャンがミレディと寝る、なんてシーンは子供用リライト版では省かれていたから、結構エグイ話だったんだなと再認識した。 いや、これは余計な話である。

 その子供用リライト版の 『三銃士』 には挿絵がついていた。 リシュリューが登場する場面では彼の姿も描かれていた。 そして私の発見とは、日本の子供用リライト版に描かれたリシュリューの姿が、ロンドンのナショナルギャラリーに飾られたリシュリューの肖像画とそっくりだ、ということだったのである。 いや、つまり、日本の子供向けの本に描かれた挿絵が、リシュリューの肖像画として残されている絵画をきちんと模したものだった、ということを私はこの日発見したのである。

 それがどうした?とまた言われるかも知れない。 しかし小学生の私が 『三銃士』 を読んだのは昭和30年代後半である。 今ならリシュリューの残されている肖像画について調べるのは簡単だが、あの時代にはインターネットが存在しないのは勿論、画集だってろくなものがなかった。 海外に行くのも容易ではなかった。 挿絵を描いた画家はどうやってリシュリューの肖像画を知ることができたのだろうか。 実際にロンドンなどでリシュリューの肖像画を見ていたのだろうか、或いは舶来 (懐かしい言葉だ) の画集にリシュリューの肖像画が入っていたのだろうか、それともフランスか英国の百科事典のリシュリューの項目に肖像画をも載せているものがあったのだろうか。 

 いずれにせよ、私が知ったのは、子供の本の挿絵であっても描いた画家はちゃんと調べて仕事をしたのであり、手抜きはしなかった、という事実なのである。

 次のお話。 この日は夜8時からロンドンの中心部にあるCambridge Theatreでミュージカル「シカゴ」 を観劇。 これもツアーの料金に入っているのです。 いかにも日本人ツアーですね。 それはさておき、劇場前に着いてから少し時間があったので付近をぶらぶらしていたら、回転寿司の店を見つけた。 回転寿司は最近欧米にも進出しているとは聞いていたが、なるほどと思った。 なおもぶらぶらしていたら、出版社Taschenが入ったビルを見つけた。 この出版社は美術関係の本を出していて、午後ナショナルギャラリーに行った際、この出版社の出しているティツィアーノの画集を私は購入していたのである。 なるほど、こんなところに会社があったのか、と変な納得の仕方をした。

 さて、開演時刻が迫ってきたのでCambridge Theatreの正面入口から入って、あらかじめ添乗員さんから渡されていたチケットをもぎり係に提示したら、右の方を指された。 はあ?と思ったが、そちらに行ってみたけれど別にもぎり係はいない。 チケット売場にチケットを提示したら、入口の外の方を指された。 で、劇場の外に出てみると、建物の外壁右手に勝手口みたいなドアが付いていて、そこに人が立っている。 彼にチケットを提示したらもぎってくれた。

 たしかに天井桟敷の席だとは聞いていたけれど、まさか出入口まで異なるとは知らなかった。 天井桟敷席の客は、1階席の客とは違って正面の入口から入ってはいけないのだ! あたかも下男や女中が正面玄関からの出入りを許されず、必ず勝手口から出入りしなくてはならないように、である。 私はこの時、天井桟敷席というものの意味が初めて本当に分かった気がした。 階級社会の面目躍如といったところか。

 念のため、天井桟敷席と言っても料金は安くない。 旅行会社がいくらであつらえたかは知らないが、チケットに記された正規料金は39ポンド、つまり約8500円である。 1000円や2000円ではない。

 劇場そのものは比較的小ぶりである。 少なくとも日本の新国立劇場だとか歌舞伎座みたいに大きくはなく、数えてみると1階1列目の座席数は中央の通路の左右に各9席ずつである。 奥行きも同様で、天井桟敷席も日本の新国立劇場や歌舞伎座の3階席よりはるかに舞台に近い。

 で、肝心のミュージカル 「シカゴ」 だが、私はこの作品の映画版は見ているし、ミュージカルも筋書きを書いた紙を添乗員さんにもらっていたのであらかじめ目を通しておいたからおおまかな筋書きは分かったが、英語の歌は意味が分からないし、日中歩き回って疲れていたこともあり、時々居眠りしてしまった。 オペラもそうだけれど、音楽劇というのはどうも筋書きをたどろうとすると大ざっぱだし面白くないように思う。

 しかし歌手の声の素晴らしさ、そして何より動きのすばらしさには圧倒された。 身体表現、という言葉がふさわしいような抜群の踊り、そしてそれを実現するだけの訓練された引き締まった肉体。 この辺は、英国に来る直前に新国立劇場で見たオペラ 「運命の力」 と比較して考えさせられるところである。 クラシックのオペラは、少なくとも肉体による表現という点ではミュージカルに対して完全に負けている。 ううむ。

3月20日(火) 阿佐ヶ谷で映画を3本立て続けに見て、夕刻から友人と会って飲む。 90歳を越えた御尊父が寝込んでいるので大変だという話でした。 日本の少子化+高齢化は、確実に労働人口の労働時間を奪っている。 この先、どうなるのかな。

3月19日(月) 渋谷で過ごす。 映画を3本見て、それから本屋と古本屋を見て回る。 結構収穫があったけれど、収穫があると財布は軽くなり、荷物は重くなるのが難点だ・・・・・・。

3月18日(日) 午前中、上野の東京都美術館にオルセー美術館展を見に行く。 昨日、有楽町の金券ショップに前売券が出ていたので買っておいたのだが、当日入場料より20円安いだけであり、やや自虐的な微笑を浮かべざるを得なかった。 ところが本日来てみたら入場券を買う窓口からして長蛇の列であり、時間を有効に使うという意味でも買っておいて正解だったかと納得する。

 日曜日のことで展示場内も猛烈に混んでいる。 私も東京で日曜日に美術展というのはなるべく避けたいと思っているのだが、諸般の事情でこの日になってしまったもの。 とにかく一つの作品から次の作品に移動するまで時間がかかる。 印象派を中心とした有名画家の作品が並べられており、それなりに充実した展覧会だとは思うが、疲れてしまう。 最後にカタログを買いました。

 それから新宿に向かう。 午後2時から新国立劇場でヴェルディのオペラ 「運命の力」 を観劇。 席はいつもの3階Bランク席で10500円。 ただし早めに買ったせいか1列目 (右端近いけど) で、1列目はやはり前席の客の頭が気にならないから気分がいい。 演出がエミリオ・サージ、指揮はマウリツィオ・バルバチーニ、東京交響楽団の演奏。 独唱陣は、レオノーラ(Sp) がインドラ・トーマス、ドン・アルヴァーロ(Tn) が水口聡、ドン・カルロ(Br) がウラディーミル・チェルノフ、プレツィオジッラ(Ms) が林美智子、ヴルディアーノ神父(Bs)が妻屋秀和。

 今月7日にも同じ劇場でワーグナーの 「さまよえるオランダ人」 を聴いたわけで、オペラにうとい私の言うことだからアテにならないけれど、ワーグナーの方が充実していたと思う。 というか、まず筋書きとして、「運命の力」 はイマイチなのである。 場所がころころ変わり、登場人物の運命の変転もどこかいい加減で、オペラの筋書きなんてそういうものと言ってしまえばそれまでだが、音楽も、序曲の美しさはオペラに縁の薄い人でも知っているとおりだが、その美しい曲想がドラマの展開と十分噛み合っていないような印象がある。 その点、ワーグナーでは音楽と劇の展開とがきちんと対応しており、観客を納得させる力に満ちている。

 また、今回の 「運命の力」 では、ヒロインが黒人歌手、その恋人が日本人歌手で、まあオペラは歌が第一だから仕方がないし、人種問題を抜きにしても、病気で死にそうな椿姫を丸々太ったソプラノが演じたりするとやはり首をひねってしまうということは昔からあっただろう。 それに今どきこういう配役に異を唱えたりすると差別主義者の烙印を押されかねないわけだが、しかしオペラは劇でもある以上、スペインを舞台にしたお話で黒人女性がヒロインというのはどうしても違和感を禁じ得ない。 ヒーローの方はインディアン (政治的に正しい言い方ではネイティヴアメリカンです、はい) の血が混じっているという設定だからまあ日本人でもいいかなとは思うけど、太った黒人女性ソプラノと日本人男性の平均的な体つきのテノールとでは見た目の上でも合わない気がする。 でも、そういう違和感を感じないで、あくまで歌の素晴らしさだけでオペラを堪能できるのがオペラ通なんでしょうね。 私は救いがたい素人なんでしょう、きっと。

 昨秋に新国立劇場で見た 「セビリアの理髪師」 でも類似した問題があった。 ヒーローが黒人男性テノール、ヒロインがそれよりはるかに大柄な白人女性ソプラノで、愛の二重唱では黒人テノールは相手と背丈を合わせるために台に乗って歌っており、観客の笑いを誘っていた。 ただ、「セビリアの理髪師」 は喜劇だから、それも一種の演出かなと思えないこともなかった。 しかし 「運命の力」 は悲劇だから、演出なんだろうなと思うこともできない。 素人の悲しさ、でしょうか。

 これがオラトリオだったら、こういう違和感はまず起こり得ない。 バッハの受難曲やヘンデルのオラトリオを黒人や日本人が歌ったとしても素直に音楽に浸っていられる。 オペラとオラトリオの違いは、こうしてみるとかなり大きいという気がするのだが。 

3月17日(土) 上京する。 有楽町で映画を見てから、新宿の紀伊國屋書店でしばらく時間をつぶし、その後午後7時から東京オペラシティのリサイタルホールで岩住励ヴァイオリンリサイタルを聴く。 ピアノは岩崎淑。

 プログラムは、「イザイの真髄に迫る」というタイトルがついており、前半がドビュッシーの前奏曲集第1集「吟遊詩人」(作曲者自身の編曲)、L・ロックの「レントよりも遅く」、イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタ第5番、フランクのヴァイオリンソナタ、後半がヴィエニャフスキの2つの性格的なマズルカより「旅芸人」op.19-2、イザイのマズルカ「遠い昔」op.11-3、ザルジツキのマズルカop.26、イザイのパガニーニ変奏曲。

 岩住氏は1976年生まれのまだ若い日本人男性ヴァイオリニストだが、主として海外で勉強し活動しているので日本でのリサイタルは初めてらしい。 最初は音の出方がイマイチの感もあったが、次第に調子が出てきたようで、前半最後のフランクでは美音を遺憾なく発揮していた。 繊細な表現力に長けているようだが、望むらくは音の出方に一層の迫力が出れば言うことなしである。

 岩崎淑さんの伴奏は悪くはないが、失礼ながら年齢のせいか微妙に音の出方が遅い気がした。 後半の一曲では、譜めくりがページを飛ばしてめくってしまい、しばらく伴奏が抜けてしまうハプニングがあった。 アンコールは短い曲2曲だったが、後半のプログラムがややヴォリューム不足だったこともあり、もう一段のサーヴィスを望んでしまうのは欲張りであろうか。

 岩住氏は日本では無名と言っていいから、特に予約もしないで出かけたのだが、開演15分前に行ったら当日券は出るかどうか分からないとのことで、10分前になってようやく発売されたが場内はほぼ満席。 知る人ぞ知る演奏家ということなのであろう。 今後の精進を期待したいものだ。

 私はオペラシティのコンサートホールには何度か足を運んだことがあるのだけれど、リサイタルホールは今回が初めてで、そのせいか行きで道に迷ってしまった。 おまけに帰りも駅に行く途中で迷ってしまった。 途中の表示が分かりにくい気がする。 改善を望む。 

3月14日(水) 東大出版会の雑誌 『UP 3月号』 にざっと目を通す。 冒頭、立花隆の南原繁論が載っているが、立花氏の姿勢がここに来て奇妙に守旧的というか、旧左翼的な硬直した印象を増しているのが気になる。 南原繁の言葉の重みというようなことを力説しているが、文部大臣を東大総長が呼びつけた戦後間もない頃とは違い、今は東大総長が文科省に陳情に出向く時代なのである。

 また知識人の重みは確実に減退しているし、戦後日本の知識人の言動を振り返ってみるなら、それも当然と思えなくもない。 ジャーナリスト立花氏に必要なのは、むしろ戦後知識人の言動がどの程度正しかったのかを検証する作業ではないのか。 少なくとも日本国内が戦後ずっと平和だったから南原らの言動が正当化されるといった言い方では、今どき納得する人は少ないだろう。 安保一つ取ってみても、日本の平和と知識人の言動との評価は微妙になるはずだ。

 他方、内藤篤の 「「廃墟としての90年代」 仕込み編」 という一文は面白い。 内藤氏は 「弁護士・映画館主」 なのだそうだが、名画座であるシネマヴェーラ渋谷を経営しており、そこで特集 「廃墟としての90年代」 を組むにあたっての苦労話を書いている。 これが映画業界の内実を垣間見せてくれる。 フィルムの貸し出しを交渉してもなかなかOKをもらえなかったり、OKをもらったと思ったら肝心のフィルムが見あたらないという連絡が来たり、となかなか大変なのだ。  

 フィルムが権利元に見あたらないというのも無責任な話だが、これはメジャー系の映画会社のことではなく、90年代の特集を組むと独立系 (インディー系) の映画会社が無視できなくなるからで、こういう新しい小企業はフィルムの保管ということにノウハウがなく、かなりいい加減であるらしい。

 その一方で内藤氏は自分でも映画を見て歩いている。 『パプリカ』 と 『鉄コン筋クリート』 をいずれも素晴らしいとして、日本アニメの水準の高さを評価している。 同感である。

 シネマヴェーラ渋谷には私はまだ行ったことがないが、今週末からまた上京するので時間があったら寄ってみよう。 調べてみたら、移転した新しいユーロスペースと同じ建物内らしい。

   *     *     *

 ところで、私はしばらく前から新潟大学に出版会を作る運動をやっているのだが、なかなか実現しない。 日本は万事に東京中心に動いており、出版などはそれが著しいから、情報を自前で出せるようにしないと本当の意味での 「地方の自立」 や新潟大学の学術拠点としてのステイタス確立はできるわけがない。 

 昔は国立大学の出版会というと東大ばかりが目立っていたが、そして今も東大の出版会は別格だと思うけれど、それを別にすると名大出版会などはかなり意欲的な活動をしているし、最近ではいわゆる旧帝大以外の国立大学でも出版会を作るところが徐々に増えているのだ。

 実際、弘前大学や富山大学が独法化を機にいちはやく出版会を作っているのに、新潟大学の動きはにぶい。 こういうことは上層部が決断しないと実現しないわけだが、上層部の認識力の差が現れているような気がする。 文科省だとか、文科省の手下みたいな評価委員の方ばっかり向いているからじゃないですかね。

 地方ばかりではない。東京や首都圏の国立大学でも出版会を作る動きが目立っている。 東京学芸大や埼玉大がそうだ。 もっとも、埼玉大学の出版会については、わずかな情報が大学出版部協会のサイトに載っているだけで、実態がよく分からない。 それで先日、新潟大学の元同僚で現在は埼玉大に勤めている人にメールを送って訊いてみたのだが、その人も何も知らないと言う。 念のため、人文系の人である。

 うーん、自学人文系教員も知らない埼玉大学出版会とは、どんなものなのだろうか? どなたか、情報をお持ちの方は教えて下さい。

3月9日(金) 昨夜東京から帰ってきたが、一昨日の朝、クルマを車検に出しておいたので、本日午前とりにいく。 購入して9年、10万8千キロほど走っているが、まだ4年は使うつもりなのである。

 閑話休題。 新潟大生協が年2回出している書評誌 『ほんのこべや』 の校正作業を進める。 学生からの投稿原稿1編について、掲載するに値しないのでは、という意見が某先生から出る。 小説の書評なのだが、その内容にモロに染まって陶酔したような文章。 しかし、まあこれも一つのスタイルだからいいのでは、という擁護意見を私から出しておく。

 学生の投稿原稿が最近増えているのはうれしいことだが (教員には奮起して欲しい)、文章が書けていない投稿者が少なくないので、いつもなら某々先生が直すのだけれど、今回は某々先生が多忙なので私が直しておいた。 学部学生より大学院生の方が文章がひどかったりする場合もあり、困ったことだと思う。

 なお、教員の文章もけっして万全ではありません。 手直しが必要な人もいたりするのです。 

3月8日(木) 水道橋のTGホテルで目を覚ます。 ビジネスホテルだから贅沢は言えないが、部屋がタバコ臭いのが気になる。 最近分煙が進んできたせいか、昔なら気にならない程度だったタバコ臭の気配にも敏感になっているようだ。 タバコを吸う客が何度も宿泊した部屋にはそういう気配が残っているのである。

 ここの朝食はバイキングではなく洋食固定で、それはいいが、飲物がコーヒーとオレンジジュースと水の3種類 (選択ではなく、3つともつくということ)。 これは私のようにコーヒーを好まず、またオレンジジュースなどの甘い飲物もさほど好きでない人間には困ったラインナップである。 せめてコーヒーか紅茶かどちらかを選べるようにして欲しいものだ (私は自宅では朝はいつもパンと紅茶と卵である)。 世の中にはコーヒーを好まない人間もいるってことくらい考えられないのかなあ。

 ホテルを出ていったん東京駅まで行きコインロッカーに荷物を入れて身軽になってから、お茶の水に戻って本屋めぐり。 それにしても、三省堂で見ると、ドイツ文学の棚はフランス文学のそれの3分の1しかない。 日本のドイツ文学者はフランス文学者より少し数が多いはずだが、何をやってるのかと思う。 もっとも、そういうことを言い出すと、英文学者は真っ青になるかもしれないが。

 途中神保町の映画館で映画を見たのを挟んで、古本屋街を歩いて若干買う。 映画の後は神保町裏通りのキッチン南海でカツカレーを食べる。 この店に入ったのは久しぶりだが、相変わらず混んでいる。

 その後、阿佐ヶ谷まで行って昔の日本映画を2本続けて見て日程終了。 7時半過ぎ東京発の新幹線で新潟へ。 新潟行きと言っても、乗客の半数以上は高崎で降りてしまう。 この列車は大宮の後は、熊谷、高崎、長岡、燕三条、新潟の順にとまるが、降りる客の数では高崎が断然多く、ついで新潟、熊谷の順ではないかと思う。 新幹線は東京から100キロ圏の首都圏化を促進しているのではないだろうか。 

3月7日(水) 2日間休暇をとって東京へ。 今冬は暖冬だったが、皮肉なことに2日前から急に寒くなった。 本日も新幹線で新潟市を出た頃はともかく、燕三条に来ると吹雪いており、長岡ではそれなりに積雪が見られた。

 上野で新幹線を降りて、国立西洋美術館で 「イタリア・ルネサンスの版画――ルネサンス美術を広めたニューメディア」 を見る。 版画展ということでモノクロの世界であり、地味な印象をあらかじめ抱いていたが、その先入観はくつがえされなかった。 東京の美術展というといつも混んでいて、作品を見る以前に人混みの中を歩くだけで疲れてしまうものだが、今回は新潟の展覧会みたいに空いていて、また普通なら500円で貸し出される音声ガイドもなく、きわめて素朴でつつましい展覧会であった。

 版画は普通の色彩画と比べて小振りであり、中には顔を至近距離まで近づけ、なおかつ老眼が進んでいる私が眼鏡をとらないとはっきり分からないくらい小さいものもあった。 また、人物のポーズなどが他の画家に模倣され、なおかつポーズの意味がまったく異なってしまう場合が珍しくないことも分かった。 とはいえ、決定的に面白いと思える作品もなく、カタログはもちろん、絵葉書も買わなかった。 実は1枚だけ気に入った版画があったのだけれど、その絵葉書は売られていなかったのである。 残念。

 美術館を出たあと、銀座で映画を見、水道橋の古本屋街をすこし見て歩いてからいったんホテル (水道橋駅近く) にチェックイン。 神保町の古本屋街はともかく、水道橋の古本屋を見て歩いたのは久しぶりだが、昔よりちょっと数が減ったような気がする。

 ホテルで少し休憩を取ってからまた出かける。 今回の上京のメインで、午後7時から新宿の新国立劇場でワーグナーのオペラ 「さまよえるオランダ人」 を観劇。 席はいつものように (といってもここに入るのは3回目に過ぎないが) 3階のB席で10500円。

 光や映像をも駆使した迫力ある舞台 (演出=マティアス・フォン・シュテークマン)。 合唱団の動きもなかなかに面白い。

 主演の4人 (オランダ人=ユハ・ウーシタロ、ダーラント=松位浩、ゼンタ=アニヤ・カンペ、エリック=エンドリック・ボトリッヒ) はいずれも素晴らしく、3階から聴いていて全然声量不足を感じない。 或いは新国は上で聴いたほうが声がよく聞こえる構造なのかもしれない。 オカネのない私としては大助かりである(笑)。

 ミヒャエル・ボーダー指揮の東京交響楽団は丹念に演奏していたが、ワーグナーということで金管の迫力はもう少し欲しかった気がした。 でも途中休憩1回25分を入れて3時間だと、後半途中から尻が痛くなってくる。 オペラを聴くには体力からか・・・・・。

3月3日(土) 午後2時からだいしホールで 「新潟大学大学院生によるコンサート La Feuille」 を聴く。 ただし3時から用事があったので前半だけ。

 ピアノの井波舞子さん、吉田有希子さん、吉村智宏くんが、それぞれシューマンの謝肉祭(抜粋)、フォーレの無言歌op.17-1とヴァルス・カプリス第2番、ブラームスのバラードop.10-1&4を演奏した。 各10ないし15分ほどの持ち時間で、いい演奏をしていたと思う。 ただ、演奏が終わって立ち上がったら少し笑顔を見せて欲しい。 舞台での立ち振る舞いも、案外演奏家および演奏の印象を左右するものだから。

 聴衆の数がちょっと少なかったかな。 無料演奏会だし、演奏水準も悪くないのだから、もっと多くの人に聴きに来て欲しい。

 3時からホテル・イタリア軒での 「19世紀学学会」 設立記念行事に出席する (この学会については昨年の11月24日を参照)。 村上陽一郎・東大名誉教授の記念公演があり、その後、篠田新潟市長と大学上層部の挨拶があってから、パーティとなる。

 私はこの種のパーティが嫌いで、原則的にはほとんど出ないのであるが、今回は実質的な設立者である鈴木佳秀教授からじきじきのメールで慫慂されたのと、おそらく参加者が少ないと核になって活動している人たちの経済的負担が増すのではないかと想像されたので、会費6000円を寄付するつもりで出席。

 それにしても、この学会活動が新潟大学のコア・ステーションに認定され、上層部からカネやヒトの援助を得られるのは結構だが、どうも上層部は今現在新潟大学がおかれている危機的な状況を分かっていないみたい。 危機的というのは、上層部が考えるような文科省の覚えがめでたいかどうかというようなことではない。

 すでに私のサイトでも何度も書いたように、新潟大学では教養部解体以降、英語を含む外国語科目の削減が大幅に進んでおり、国際的な素養を身につけた人材を育成するどころか、逆に日本語能力しかなく日本のことしか知らない学生を育てるような方向性が露骨にとられているのだ。 大学ではなく田舎の専門学校に凋落しつつあるわけだ。

 外部に向けて派手なパフォーマンスを演じる (=コア・ステーションを作る) より、そうした当たり前の教育をちゃんとやる体制を整える方が先決なはずだが、挨拶に立った研究担当理事の発言を聴いてもそういう見識は全然感じられない。 挨拶を聞く限り、村上陽一郎の本を読んだこともなかったらしく、その程度の人が研究担当理事をやっているような大学では私でなくとも将来が案じられると思うだろう。  

 閑話休題。 ここでも音楽に邂逅した。 新潟大学教育人間科学部音楽科で弦楽器を教えておられる宇野哲之先生 (ご専門はチェロ) と教え子3人によるドヴォルザークの 「アメリカ」 四重奏曲第一楽章の演奏。 第1ヴァイオリンは新潟大学管弦楽団のこないだの定演でコンマスを務めた五來貴洋くん、第2ヴァイオリンは山田優花さん。

 この二人とはパーティの席でちょっとお話しできた。 五來くんの先日のコンサートでの見事なコンマスぶりは知る人ぞ知るところだが、山田さんも実は私の娘が習っているヴァイオリン教室で以前模範演奏をしてくださったことがあり、お顔は知っていたのである。 五來くんはまだ学生だが、山田さんは昨年卒業して市内で教えるなどの仕事をしているそうである。 若いお二人の今後の活躍を期待したいものだ。

 話を少し戻すと、新潟大学の教育人間科学部音楽科も、ここ数年停年退職教員や移籍教員の後釜があまり補充されておらず、まともな教育が困難になりつつあるようだ。 本日のように、晴れの席で新潟大学出身の若い音楽家が演奏を披露できるような体制が現在はあるが、将来はどうなるか分からない。 地方の国立大学というのはこのように芸術分野を含めて総合的な人材育成の役割を果たしてきたわけだが、今現在の新潟大学上層部にそういう認識があるとは思えない。 文科省役人や単細胞なマスコミの目に付きそうなコアばっかり作ってもどうしようもないと思うのであるが。

3月2日(金) 万代シティに映画を見に行ったついでに、移転して本日開店したばかりの紀伊国屋書店新潟支店に寄ってみる。

 紀伊国屋書店新潟支店は以前から万代シティにあったけれど、昨年すぐ斜め向かいのダイエーが撤退し、しばらく空きビルになっていたのがこのたび別の店舗が入って再出発したのを期に、その元ダイエーの建物の6階に移ったのである。

 面積が広くなったので、私は本日は時間の関係で念入りに見たわけではないけれど、内容的にはよくなったようだ。 新書のコーナーに行ってみたら、以前より格段に収容量が増え、出版社ごとの区分けも分かりやすくなっている。 ただし、平積み台がなくなってしまい、これは別に話題書という平積みコーナーができてそこにも新書が少なからず並べられているからということがあるのだろうが、一考を要するように思う。

 あと一つ注文をつけると、店内案内図は客がその図を見る向きを全然考慮しておらず、なおかつ客の現在位置も書かれていない。 何とかして欲しい。

 紀伊国屋書店新潟支店は、私が新潟に赴任してきた1980年にはすでにあって、当時は品揃えが悪くなかったが、ここ数年、かなり見劣りするようになっていた。 書店の充実度はその土地の知的レベルに比例すると考えられるから、ということは新潟市の知的レベルが残念ながら低下していたということなのかもしれない。

 しかし、まもなく新潟駅南にジュンク堂が進出する予定でもあり、新潟市の書店も一気に内容充実に向かいそうだ。 客層もそれに見合って知的にアップするといいのですがね。

3月1日(木) 朝日新聞のデタラメぶりに愛想が尽きて購読を止め、毎日新聞に切り替えて数年になる (産経新聞を取り始めたのはその数年前)。 悪くない新聞だとは思うのだが、文芸時評をやっている川村湊の阿呆さは相変わらずである。 もういい加減別の人に替えたらどうかと思うのだが――産経でも朝日でも文芸時評は一定期間で担当者を交代させているが――どういうわけか替わらない。 困ったことである。

 昨日の文芸時評でも単細胞的なことを書いていた。 島本理生の作品について、それを 「オンナノコ」 の小説と位置づけている。 筋書きは、12歳の少女が親切にしてくれた佐倉さんという男性に性的ないたずらを受けてしまい、それについていつか作品に書くという電話を佐倉さんにかけるというものだ。 これを川村は復讐の儀式と捉えて、三十歳の佐倉さんはヒロインを 「一人の女性」 として見ていたのではなく、「オンナノコ」 として見ていたのだ、と述べて、この小説は 「おぞましい男性的暴力の社会から」 オンナノコを救うことを目的としている、と述べる。

 まあ、良識を旨とする教育学者や社会学者がこういうことを書くなら分からないでもないが、文芸評論家がこの程度のことを書いてどうします? 佐倉さんだって、オンナノコにしか性的欲望を抱けない自分に苦しんでいたかも知れないわけでしょう。 三十歳の男性であれ十二歳のオンナノコであれ、一対一で向かい合った場合、そこに倒錯した欲望や一筋縄ではいかない人間関係が生じるのは当然であり、またその程度の認識を示すことができないで、どうして文芸が読み解けます?

 川村はECD (こんな名前の作家がいたのか?) の作品についてもトンデモなことを書いている。 演劇青年の 「僕」 が万引き、置き引き、拾った学生証を用いて学生ローンを使うなど色々な手段でオカネを搾取する話だそうだが、これを川村は 「新聞の社会面で騒がれているほどには 『社会の正義』 が現実的には貫かれていないということが実感される。 オンナノコやオトコノコが反発するのは、こうした大人の世界の二枚舌の使い分けである」 と書く。

 冗談じゃないですよ。 詐欺をやって大人社会からカネをだまし取って、それでバレなかったら 「大人社会の二枚舌」 になるんですか? じゃあ、女を騙して体やカネを奪って、それで文句が付けられなかったら、「フェミニズムが跋扈しているのに、社会の二枚舌だな」 で済ませていいんですか? はっきり言って、この程度のことを大学生がレポートに書いたら、せいぜい 「可」 しかもらえませんよ。

 こういう文芸時評を何年も載せているのは、毎日新聞の恥だと思うんですがね。 科学関係記事や報道のあり方などに関する記事は充実しているのから、文芸時評を何とかすればかなりいい線行くんじゃないでしょうか。 

2月28日(水) 新潟大学の鈴木利久教授が 『羅英対訳詳註 『変身物語』 を読む』(渓水社) の第3巻を出版された。

 オウィディウスの 『変身物語』 はローマ神話の宝庫で、邦訳もあるけれども、原文で読んでみたいという方もいるだろう。 ところが原文はラテン語であり、そう簡単に近づける代物ではない。

 私もラテン語をかじったことがあるから、この言語の手ごわさはよく分かっている。 名詞は何しろ格が7つもあるし (ドイツ語は4つ)、しかも近代語のような冠詞がないから名詞の格変化は全部語形で覚えなくてはならない。 動詞の時制も、近代語のように完了形の場合は助動詞+過去分詞というような作り方をしないので、これまたいちいち語形変化を覚えなくてはならない。 それも1人称の単数と複数、2人称の単数と複数、3人称の単数と複数、という具合に都合6つの形を、である。 品詞を見分けるのも大変なら、語順の見極めも大変な言語なのである。

 鈴木先生のこの著書は、その大変なラテン語原文のオウィデイウスを読みやすくするべく、原文のすべての単語に文法的な註をほどこし、合わせて英訳を付したものである。 これならラテン語の初心者でも原文で読めるわけだ。 これからラテン語に挑戦してみよう、という方にお薦めである。

 鈴木先生は私と時を同じくして新潟大学教養部に赴任され、英語教員として活躍された。 私はドイツ語だから、同期の桜であると同時に、教養部語学教師として同じ釜の飯を食ったといったところである。 教養部解体後は経済学部に移られたが、何事にも積極的に取り組まれる方であるから学部の内外でいっそう広範な活躍をされている。

 昨年は、高校時代から英国に留学しかの地で大学院に進学したばかりの優秀なご子息を亡くされたが、悲報にもめげず上記の本の第2巻を出版、それからわずか1年で第3巻を上梓されるのだから、たいへんな精進ぶりである。 このエネルギーを見習いたいものだ。

2月24日(土) 1週間前に始まったにいがた国際映画祭もいよいよ明日までである。 映画祭で上映される作品を2本を見るために古町へ出向く。 

 午前中に1本見てから、イタリア料理屋でパスタを食べ、午後の上映までにまだ少し時間があったので営所通の古本屋2軒に久しぶりに行ってみたら、何と、そのうち1軒がなくなってしまっていた。 文求堂のほうである。 貼り紙がしてあって、引き続き 「ネット上の古本専問店〔ママ〕」 として西堀通に店舗を維持する (ってのは、買いだけはやるという意味だろうか) のでよろしく、と書いてあった。 昨年の11月にこうなったらしい。

 営所通のもう一軒、学生書房のほうは健在だったので、2冊買う。

 営所通の2軒の古本屋は、私が新潟に赴任してきた1980年以来ずっとあって、私も以前はしばしば訪れていた。 以前、というのは、まだ古町界隈に映画館があった頃、という意味である。 

 しかし、東堀通の東宝2館に始まって、カミーノ古町のシネマ3館、 東堀通の東映2館 (その少し前までは3館だった) と映画館の撤退が続き、ついに数年前、最後まで残っていたピカデリーと松竹 (同一ビル内) がなくなってしまって、私は古町界隈に来ることが至って少なくなった。 映画はもっぱらシネコンで、という時代になったのである。

 同時に、営所通と古町通の古本屋に行く機会も激減してしまった。 古本も主としてBOOKOFFで、という時代になっていた。

 本日古町に来てみて改めて思ったのだが、衰退著しい新潟市の中心街も、人を呼び込む工夫をしないとどうにもならない、ということだ。 それには、人が来たいと思う仕組みと、交通の問題が大事だろう。

 例えば今回、私は映画祭があるから古町に来たわけである。 ふだんは映画館もないし、たまに利用する都銀の新潟支店に用事でもない限りは、まず古町に来ることはない。 そして今回古町に来た私は、イタリア料理屋で昼食をとり古本屋で2冊買ったから、合計2300円ほどカネを使った。 数日前も映画祭で古町に夕方来て、久しぶりに萬松堂書店 (新潟市内で紀伊国屋書店新潟支店と並んで最もまともな書店) に入り、本を2冊 (といっても計2000円弱だけれど) 買った。 だから、客が何らかの理由で古町に来れば、他の店にもオカネが落ちるのである。

 古町界隈に客が来たいと思う理由を増やすことと並んで大事なのは、交通費の問題である。 私は今回、映画祭に来るのに、クルマを某所にとめてバスで来た。 クルマを何時間も古町界隈にとめておくと駐車料金がバカにならないからだ。 今回なら映画2本と途中の時間を合わせて5時間くらいになる。 古町界隈の駐車場料金は、場所にもよるが1時間300円くらいが相場だ。 だから5時間いると1500円もとられる。 バスなら往復400円だし、割安のバスカードを使えば実質300円程度である。 しかし、そうやって古町まで来るのはいかにも面倒くさい。

 映画館を別にすれば、古町界隈のインフラ、つまり人を呼び込む施設はそう悪くはない。 音楽ホールとしてはだいしホールや、少し離れているけれどりゅーとぴあもあるし、最近若い人に自主活動が増えている演劇場もできているようだ。 老舗のデパートや、だいぶ数は減ったが専門店もそれなりにある。 問題は、だからこの辺にクルマで来ると高い駐車料金をとられるというところなのである。 それを何とかしないと、中心街の衰退は挽回が難しいだろう。 タダとは言わない。 1時間100円程度の駐車場があれば、と思うのだが。

2月22日(木) 最近、新聞記事の盗用問題が頻繁に報道されている。 本日も、新潟の地元紙・新潟日報の社説が朝日のそれを盗用したものだったとの記事が毎日新聞と産経新聞に掲載された。

 しかし、思うんだが、新聞の社説なんて真面目に読む人間がどの程度いるんだろうか? 少なくとも私はたまに、自分の気になるテーマについて書かれた社説に目を通す程度で、ふだんはまず読まない。 その時々の事件に対して思いつき的なうわっつらのきれい事を並べているだけで、全然役に立たない社説が多いからだ。 盗用がなされるのも、要するにその程度の、互換性のあるものだからじゃないのかな? 投稿欄に載る読者の意見が各紙ともどこか同じような感じになるのと似ている。

 新聞社は社説を廃止することを真面目に検討すべき段階だろう。 少なくとも毎日載せる意味はあるまい。 必要なときに、必要なだけのスペースをとって掲げるならいい。 本当に主張したいことがあるなら最低1ページ全部を使って、それなりに資料や裏付けを挙げながら論じないととてもじゃないが説得力を持たない。

 一例として、社説ではないが、先週 (2月16日付け) 毎日新聞の 「記者の目」 欄に載った須藤孝記者の 「出生率 『数合わせ』 やめよ」 という文章を俎上に載せよう。 

 この文章は、柳沢伯夫厚生労働相による女性を子供を産む機械に喩えた発言を批判し、政府の少子化対策が社会保障や年金財政の都合から来ている点をも論難して、生みやすい・育てやすい環境を作ることが大事であり、なおかつ生むかどうかは個人の選択の問題であるとして、「選択の結果、人口が減るとすれば、それに対応した社会保障など社会全体の設計を提示するのも政治の責任ではないか」 と述べたものである。

 率直に言って、こういう阿呆なことを大新聞の記者が書いている限り、新聞は信用されないと思うな。 だって、少子化が進めば年金財政が破綻するのは当たり前でしょう。 仮に 「個人の自由」 を尊重した結果、100人の年金受給者を10人の社会人で支える社会になったらどうします? それで 「社会保障など社会全体の設計」 はどうなるのですかね? 須藤記者には是非、具体的にどうするかを書いてもらいたいものだ。 生む生まないだけに 「個人の自由」 を持ち出し、最後の責任だけ政府に押しつけるなんてのは、究極の甘ったれ根性だと思うんだけれどなあ。

 須藤記者は、2年前に少子化問題の企画取材を担当し、多くの母親の声を聞いた、という。 そして2人目に踏み切れない母親が 「2人生めば生活にかかる負担はすごく重くなる。 子育ての事情を 〔厚生労働相は〕 あまりご存じないのでは」 と今回言っていると書く。

 私は、こういう主張は具体的な数字を挙げないと説得力を持つはずがない、と思う。 その 「2人目が生めない母親」 の家計をちゃんと書くべきだろう。 それがいかにも貧しいなら、それをもとに具体的に政府の助成はかくあるべきだと主張すればいい。

 こういう事柄について裏付けなしで本人の意見だけ紹介しても意味はない。 単に自分が遊びたいから、手の掛かる子供を生みたくないから生まないのだけれど、表向きそう言うのは問題があるから、「貧しさ」 を理由にしているに過ぎないかも知れないからだ。 そうではないことを示すためには、家計の中身を掲げるべし。 そしてそういう家計のもとに生めない母親がどの程度いるのかも推計するべきだろう。 それだけのことを書いて初めて、その記事は説得力を持ち得るのである。

 というのは、2月5日(↓)にも書いたように、実際は経済的に恵まれない民族や国家でのほうが出生率が高くなっているからだ。 少子化は、一種の贅沢病である可能性が高いのである。 別の言い方をすれば、生む年齢に達した人間のエゴイズム、ということだ。

 だいたい、昔の出生率の高かった頃の日本を考えてみたって、当時の日本が 「安心して生める社会」 だったとは到底思われない。 安心して生める社会にすれば、という社会学者などの発言は (須藤記者のこの記事にも大日向雅美という学者の説が引用されているけれど) きわめてあやしいのである。

 子供を生まないのは貧しいからか、エゴイズムからか――新聞記者は具体的な数字を挙げて説得的に論証しなければならない。 それができない新聞記者は、それこそ 「そんなもの、いらない」 のである。 

2月17日(土) 本日の産経新聞に、フランス特派員の山口昌子記者が 「大統領選左右のねじれ」 という一文を寄せている。 哲学者のグリュックスマンがルモンド紙に、保守派候補のサルコジ氏を支持するという寄稿をしたことを 「ねじれ」 と呼んでいるので、その記事のなかでグリュックスマンを 「いわゆる左派陣営に属する」 と形容している。

 私はグリュックスマンに詳しくないから、左派陣営に属すると言われるとそうなのかなとも思うけれど、ちょっと違うんじゃないか、という疑問が湧いてくるのを押さえきれない。

 私がよく覚えているグリュックスマンの言動は二つある。 一つは、70年代後半にアメリカの最新鋭ミサイルがNATOの戦略により西ドイツに配備されることになったとき、西ドイツ国内などで大規模な反対運動が左派の平和運動家によっておこなわれた。 この運動は日本にも独文学者・作家の中野孝次の 「日本はドイツを見習え」 という言動となって影響したが、グリュックスマンは 「彼らはこれから西側に配備されるミサイルに反対するだけで、すでに東側に配備済みのミサイルに反対するのを忘れている」 と述べて、平和運動の偏向に冷水を浴びせかけたのであった。 私がグリュックスマンのこの言葉を知ったのは、中野孝次を批判した柄谷行人の引用によってである。

 もうひとつは、90年代にフランスが南太平洋にある自国領土で核実験を行ったときのことだ。 そもそも本土から遠く離れた南太平洋の小さな島がフランス領であるということ自体、フランス帝国主義の明確な痕跡であるわけだが、ともかくこの核実験は世界中から総すかんを食らった。 しかしこのときグリュックスマンは、自国の核実験を擁護した某ヌーヴォーロマン作家を支持した。 つまり、自国の核実験を擁護したのである。

 こうしたグリュックスマンの態度は、少なくとも日本人が左翼という言葉で考えるものとは相当に異なっている。 日本では、左翼と言えば核実験にはいかなる場合も反対 (社会主義国の核実験だけ擁護した過去もあったけれど)、西側の軍事的な行動、就中日本のそれにはいかなる理由があろうと反対、というものだからだ。

 グリュックスマンの言動の核になっているのは、私に言わせるなら、良くも悪くもエゴを貫く姿勢であろう。 日本人にはともかく、ドイツ人にはこういうフランス人の性質はよく見えている。 ブレヒトはどこかで、「フランスにおいては共産党すら愛国的だ」 と皮肉を書いていたと記憶する。 日本人が 「見習う」 べきなのは、そしてジャーナリストや学者がきちんと紹介すべきなのは、こういうエゴイスティックな姿勢なのである。

2月16日(金) ここ10日間ほど、学生の卒論とレポートを読む作業に忙殺されていたが、何とかレポート (のべ500人分!) も読み終えて成績入力も済ませ、ほっと一息。  1月にセンター試験監督が当たったせいか、今回は個別学力試験の監督は前後期とも当たらないらしいので、やっと自分の勉強ができるかな、といったところ。

2月13日(火) 大学生協の食堂で昼食をとった際に気づいたのだが、レジのおばさんが 「ありがとうございました。 またお越し下さいませ」 とのたもうた。 あれっ、と思う。 以前は 「ありがとうございました」 だけだったはず。 どうやらそこらへんのスーパーのレジを模倣したらしい。 「画一化」 ってのは、こういう時に使う表現じゃないかなあ。 何にしても、大学の生協にまでこういう言い回しが入ってきたとは、きわめて気色が悪い。 

2月11日(日) 午後3時から、りゅーとぴあのスタジオAで開かれた上越交響楽団・室内楽演奏会を聴く。 無料コンサートである。 上越交響楽団は上越市のアマチュア・オケであるが、私は聴いたことがない。

 コンサートが少ないこの頃のことで、客は100人ほど集まっており、スタジオAはほぼ満員。 盛況と言っていいだろう。

 プログラムは、モーツァルトのホルン五重奏曲、岸田衿子作詞・中田喜直作曲: 歌曲集 『日本のおもちゃうた』、シューマンのピアノ五重奏曲。 アンコールにモーツァルトのディベルティメント第1番第2楽章。

 シューマンがなかなかの出来。 チームワークの勝利というか、よくまとまって曲の激情を表現していた。 特に第1ヴァイオリン (プログラムによると奈良秀樹氏とおっしゃる方らしい) は、最初のモーツァルトでも感じたが、非常にうまい。 テクニックの堅実さはもちろんのこと、音が美しくまた抑揚が見事で、かなりの腕前とお見受けした。 ピアノの稲田由佳さんもよかった。

 真ん中の歌曲は横田聡子さんのソプラノ。 ちょっと声が固いような気がしたのだが、最後のあたりは少し良くなっていたかな。 横田さんは容姿も悪くないので、3月11日に上越市のリージョンプラザ上越で行われるドニゼッティ 「愛の妙薬」 上演でヒロインを演じるようだが、見ものかも知れない。 私は行けないだろうけれど。

 いずれにせよ、トリオ・ベルガルモの活動がチェリストの事情で休止になっている現在、上越交響楽団のメンバーにはこの企画の続行を期待したいところである。

2月5日(月) 少子化と出生率がマスコミの話題になって久しい。 しかし、本当に的を射た議論がなされている例は多くないように思う。

 たしかに子育て世代に対する様々な支援は、ないよりはあったほうがいい。 けれども、本質的な問題、つまり女性が子供を産んで育てるのは当たり前である、という観念がフェミニズムによって薄らいでいるのが少子化の根本的な原因ではないか、というところにはあまり目が行かないようで、常識的にものを考える人からすればどこかおかしいと言わざるを得ないのである。 マスコミタブーにでもなっているのかな??

 そういう中で、本日の毎日新聞に面白い記事が掲載された。 世界各国の出生率の比較だが、ありがちな 「フランス (一昔前はデンマークだったりスウェーデンだったりした) では出生率が高いから日本も見習え」 式の記事になっていないところが見事。 つまり、出生率の内実までちゃんと調べたり、推測したりしているのである。

 例えば英国は2005年の出生率が1・79であり、01年の1・63から上昇しているが、10代の少女による出生率がヨーロッパで一番高く、キャリア志向の強い女性はあまり子供を持ちたがらない、という内実にも言及している。 貧困世帯の出生率は平均の10倍に及んでいるそうで、単純平均の出生率がままあだから喜ぶというわけにはいかない事情が浮かび上がってくる。

 フランスでは2006年の出生率が2・01で、92年の1・65から大きく回復した。 だから日本の新聞でも、特に女性のコラムニストや紙面批評家は 「フランスを見習え」 式の言い方が最近目立つのだが、問題は民族別の出生率だ。 フランスでは民族別の統計がないので正確なところは分からないが、右翼・国民戦線党首のルペンの言うところでは、移民の出生率が高く、白人の出生率は1・66なのだそうである。 無論彼の主張が正しいかどうかは分からないが、アメリカの事情と比較するとそう的をはずしていないとも考えられる。

 そのアメリカであるが、2005年の出生率は2・05で先進国随一を誇っている。 しかし民族別の統計によれば、白人 (ヒスパニックを除く) は1・84、黒人もかつてより低下して2・02であるのに対し、ヒスパニックは2・88となっている。 女性の社会進出や子供の養育・教育費の高騰が出生率低下の要因としながらも、白人でも日本より出生率が高いのは、民間の育児サービスが充実しているから、としている。 ただ、アメリカについては英国のような問題がないのかどうか、言及がないのが物足りない。 (毎日新聞のこの記事は各国ごとに執筆者が異なっている)

 ドイツはと言うと、95年に1・25だったのが、政府が保育サービスに力を入れて2006年には1・39まで 「回復した」 そうだ。 しかし、あまり元気の出る数字ではありませんね。

韓国では出生率が1・10で日本 (1・26) より低い。 政府としても最近は多産家庭への優遇措置を強化しているそうだ。 しかしそれで出生率が好転するかどうかは予断を許さないようである。

 言うまでもないが、出生率が下がり少子化が進むなら移民を導入しろ、などというのはご都合主義の見解である。 現行社会システムで健全な世代交代ができないのなら、そのシステム自体を疑ってかかるべきなのであって、他のシステムから人間を持ってこないと成り立たないというなら、それは自分のシステムが破綻していると認めたことに他ならないからである。

2月4日(日) コンサートが少ない冬の新潟。 本日は午後2時から新潟オルガン研究会第44回例会を聴いてきた。

 会場の花園カトリック教会は満席で、折り畳み椅子をいくつも補助に出す盛況ぶり。 パンフが足りなくなり会員のを回収してお客に用立てる一幕もあった。 やはりそれだけ新潟市民はコンサートに飢えているのではないか。 前売り800円、当日1000円というリーズナブルな入場料も魅力だろうが。 いずれにせよ、新潟の音楽家には今後もがんばって欲しいもの。

 最初は八百板正己氏によるレクチャーがあり、バッハがコラール旋律をどう料理したかがシロウトにも分かりやすく解説された。 後半は前半説明された曲をオルガン独奏とアカペラの合唱で交互に聴くという趣向。 途中休憩をはさんでたっぷり2時間のコンサートで悪くなかった。 ただ、オルガン曲は、難度と演奏者によりやや危なっかしい演奏も散見されたが。

 ちなみに本日配布されたチラシによると、新潟オペラスタジオと楽路歴程の合同演奏会が3月21日にあり、パーセルの 「ディドーとアエネアス」 を日本語上演(コンサート形式)するそうである。 会場は音楽文化会館 (大練習室11) で午後2時からであるが、この日は渡辺靖子さんのチェロリサイタルもだいしホールであり、時間も完全に重なっている。 私はこの日は新潟にいるかどうか分からないのだが、貴重なコンサートがこうして重なるのは残念なことだ。

 ところで、前日飲み会があったためクルマを大学においたままにしておいた私は、この日のコンサートには行き帰りともバスを用いた。

 行きは自宅から新潟駅前まで、帰りは万代シティから大学までであるが、以前もこのコーナーで言及したことのある気違い君 (2005年の2月19日および4月23日を参照) に行き帰りとも遭遇した。 行きは本町からバスに乗ってきて最後部の席にいた私の隣りにすわり、2つ先の万代シティで降りた。 帰りは私が万代シティからバスに乗ろうとしたら彼がバス停でバスを待っており、やはり最後部の座席に座った。 どうやら最後部が好きらしい。 どこで降りたのかは、私は本に読みふけっていたため分からないが、あまり長く乗っていなかったのは確かだと思う。

 往復とも同じバスになるとは、私と縁が深いのかとも思うが、しょっちゅうこの辺のバスを利用しているからではないか。 ちなみに無料パスらしきものを持っているので、バスに乗車してもお金はかからないようだ。

 (追記: 2月10日に万代シティに映画を見に行ったときにも、バスの中で遭遇した。 うーむ、よく会いますねえ。 類は友を呼ぶ?)

2月3日(土) 夕方ゼミのコンパを行う。 演習室にて。 しかし、欠席者が少なくなく、イマイチ盛り上がらない。 3年生は7名中3名が欠席、4年生も4人のうち留年すると決まった1人が欠席。

 あらかじめ学生全員に都合のいい日を尋ねたのだけれど、全員に都合のいい日というのがなく、仕方がないので卒業する4年生の都合を優先したらこの日になったのである。

 最近の学生はアルバイトだとか色々あって忙しいらしい。 その分、横の連帯感は希薄になっているのかも知れない。 といって、連帯感が強いからいいとも言えない。 詳述は避けるが、同じ学部内でも講座によってその辺の具合いは色々なのである。

1月31日(水) 本日の 「新潟日報」 夕刊第5面の特集記事 「ミステリーを楽しむ」 に、私へのインタビューが掲載されています。 笑っちゃうくらいわずかな言及ですが、興味のある方はご覧下さい。

1月28日(日) 本日はようやく新潟市でも今年最初の本格的なクラシック・コンサートが開催された。 東京交響楽団第40回新潟定期演奏会。 だが、入りはイマイチか。

 ここ数年、新年早々に外来オケなどの正月コンサートがあるのが普通だったのだが、今年は新潟市も放送局も招聘しなかった。 不景気だなあ。

 それはさておき、本日は指揮が大友直人、アルト・サクソフォーンが須川展也で、細川俊夫の新作である 「オーケストラのための空の風景」、イベールのアルト・サクソフォンと11の楽器のための室内小協奏曲、シベリウスの交響曲第2番。

 細川氏は東京交響楽団に定期的に新作を書いている。 だから氏の新作を聴くのは何度めかになるわけだが、いつ聴いても同じような感じがする。 私の頭が古いからか。 ただ、今回は中央にピアノとハープを置いて、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスをそれぞれ左右対称に並べる配置は、私としては初めてで、ちょっとびっくり。

 それと、あとで舞台を次の曲用に整えるのもかなり大変なのだ。 だから、今回は通例の演奏会と違って、第1曲と第2曲の間、そして第2曲と第3曲の間と、2回の休憩時間が設けられた。

 イベールの曲はそれなりに楽しいけれど、短めだということもあって、すごく充実感があると言うほどではない。 でもアンコールにスコットランド民謡 「美しいドゥーン川のほとりにて」 をやってくれて、補いがついたような恰好。

 さて、メインのシベリウスだが、途中までは何となく聴いていたのであるが、最終楽章で盛り上がってまあまあ悪くなかったかな、というところ。 ただ、大友さんの指揮は、昨秋京響を指揮したときも類似した感想を持ったけれど、中庸を行っていて、鋭い切り込みとか迫力とかいうものが余り感じられない。 別段 「爆演」 である必要はないと思うが、どことなくぬるい印象が残るのは、こちらが欲張りだからだろうか。

 (なお、本日はこの演奏会で久しぶりにりゅーとぴあに行ったところ、ジョセフ・リンの無料ヴァイオリンリサイタルが新大の教育人間科学部であるというチラシがおいてあり、早速翌日メールで申し込む。 だけれども、翌々日、2週間も前に満員で締め切ったとの返事。 ヴァイオリン・リサイタルが少ない新潟市なのに・・・・・とほほほ・・・・・)

1月27日(土) 昨日は街で飲み会があってクルマを学校において出かけたので、本日は自宅からバスで大学へ。 バス停で降りてから10分ほど歩くのだが、途中のイタリア料理屋に 「1月26日限りで閉店させていただきます。 長い間ありがとうございました」 の紙が貼られていてびっくり。

 この店、「ロマーノ」 といい、大学近辺では珍しく趣きのある料理屋だった。 といっても私もそれほど足繁く通っていたわけではない。 先週の昼、久しぶりに、多分2年ぶりくらいに、パスタを食べたくなって何となく行ってみたのだが、それが最後になった。 思えば、厨房のおやじさんが丁寧に 「どうもありがとうございまいた」 と2回続けて言ってくれたけれど、閉店のあいさつみたいなものだったのか。

 私はパスタはわりに好きだけれど、店で食べると分量の割りに高額だから――てったって1000円弱程度だけれど――昼食にするにはためらいがある。 たしかこの店に2年前くらいに入ったときは、パスタにパンがついて (イタリア流ですね) 900円だったと記憶する。 それが先週入ったら、サラダ・コーヒー付きで700円だったので、おや、安くなったのかな、と思ったが、それでも生協食堂で定食などを食べるより高いには違いない。 あと、私はコーヒーがあまり好きではないので、できれば紅茶も選択できるようにしてほしいのですが。

 それはさておき、この店はバス通り (私が本日降りたバス停のある通りではなく、そこから数百メートル離れた、大学のすぐ前のバス通りです) から少し入ったところにあって目立たないし、駐車場もないので、狙いは大学の教職員と学生ということになるが、上記の理由でさほど盛況だったとも思えない。 その割りには長持ちした、と見るべきなのかも知れない。

 私も、今日たまたまバスで来て大学まで通じている裏通りを通らなければ閉店にしばらく気づかなかっただろう。 そしてこういう店があったという記憶は、誰かが書いておかないと文字通りに消えてしまうのだ。 だから私はここに書いておく。 

1月26日(金) 最近は学期末になると、授業ごとに授業アンケートをとらねばならない。 新潟大学のそれは、事務に提出する用紙――分かりやすさや面白さなどいくつもの項目に関して5段階評価するもの――と、各教員が読んでおけば済む感想用紙の2種類に分かれている。

 で、本日、差別語問題の講義でアンケートをとって感想用紙をあとで読んだが、どうにも不毛の感。 

 「てんかんを見たことがあるかというアンケートが不愉快。 聞く理由が分からない」 なんて書いた奴がいたのであるが――

 まず、「アンケート」 という言い方は間違い。 本日の授業の最初の当たりで学生に 「てんかんを起こした人を見たことがあるかな? ある人は手を挙げてみて」 と訊いたのである。 (結果は、誰もいなかった。 最近は良い薬が出ているから、人前で発作を起こす患者はめったにいないのだろう。 私自身は学生時代に一度だけ見た経験がある。)

 なぜそんなことを訊いたのか? 本日の講義では十年余り前に起こった筒井康隆断筆問題を取り上げたからである。 周知のように、この問題は高校の国語教科書に採用された筒井康隆の小説にてんかんについての記述があり、そこに誤りがあるというところから始まっている。 だから、てんかんという病気を学生が実際に知っているか、見た経験があるかをまず訊いてみたわけだ。

 それだけの話なのであるが、上述のような理由は普通の学生なら洞察するだろうし、不快を感じる道理もない思うのだが、どういうわけか不快を感じ、しかも 「アンケート」 などという間違った理解で文句を付ける奴がいるわけである。

 私は学生の授業評価はあってもいいとは考えるが、それを盲信する輩はそれこそ信用しない。 そもそも学校という場所が一般企業のようなお客様至上主義で成立するはずがないからである。 その程度のことも分からない大学教師や上層部は、はっきり書くけれど、バカである。  

1月25日(木) 西尾幹二氏のサイトをかねがね私は愛読しているが、休止するという掲示が本日出た。 著作に専念するためらしい。 残念なことだが、これからは氏の著著が順調に刊行されるよう祈りたい。 私としては 『わたしの昭和史』 の続編を待望しているのであるが。

 http://nishiokanji.com/blog/ 

 最近の連載もことのほか面白かった。 「入学試験問題と私」 という記事である。入試の国語・現代文ほど作題者の知識や読書の幅が試されるものはない、と私は思っている。 例えば数年前に東京の某私大の某学部で柄谷行人の 『日本近代文学の起源』 から出したのを見て、おやおや、柄谷のこの本も古典化したのかなと思うと同時に、どうせなら柄谷の最新刊から出す程度の洒落っ気を見せればいいのに、これじゃあ出題者があんまり読書をしていないことがバレバレだな、と思ったものだ。

 西尾氏のサイトの上記連載でまず 「おや?」 と思ったのは、西尾氏の文章がこれほど多く入試問題に採用されている、という事実だった。 いや、私は西尾氏の文章を買っているから入試の材料に選ばれて当然と思うけれど、例の 「つくる会」 での活動で左派系の人間からは蛇蝎のごとく嫌われている氏のことだから、左翼が多い大学人が出題する現代文の問題には選ばれにくいのではないか、と漠然と考えていたからである。

 しかし考えてみると小林秀雄の文章は昔から入試国語に使われることが多かったわけだから、教条的な左翼思想家とは別の場所で物事を考え続けていた西尾氏の文章が取り上げられやすいのは、ある意味当たり前なのかも知れない。 別の言い方をすれば、大学教師にも物事を分かる人は一定数いる、ということなのだ。 少しほっとしますけれどもね。

1月24日(水) 心理学者でフェミニズム批判でも知られている林道義氏が、自作サイトで東京女子大学の哲学科紛争について書いている。

 http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/news.html 

 林氏は2年前に永年勤めた東京女子大を定年退職したが、その際に普通なら与えられる名誉教授の称号を与えられなかった。 氏はそれが保守派である自分に対する教授会の嫌がらせだとして自作サイトで批判していたが、今回、改めてその背後にあった事件について暴露するに及んだ。

 要するにクリスティアンにして北朝鮮シンパの左派系の人脈が林氏に嫌がらせを続けていたということのようだ。 むろんこれは林氏の主張で、書かれた側には別の言い分もあろうが、日本の知識人でクリスティアンという奇妙な連合体があるらしいことが分かる。 大学の人事などにもかなり影響しているらしい。

 もう25年余り前のことになるが、故・倉橋由美子が 『城の中の城』 というクリスティアン批判小説を書いたとき、私は一読してピンとこなかった。 日本の知識人の入信という事例が周囲の身近なところにはそう多くなかったし、東京とは別の場所で学生時代を過ごした私には、日本の近代知識人につきまとう信仰と左翼的体質のアマルガムが見えにくかったということもあろう。

 その後多少知識が増えたこともあり、倉橋が小説で取り上げた問題の所在も何となく分かってきたのだが、今回の林氏の自作サイト記事は、改めて日本の近代知識人の体質――信仰とイデオロギーの癒着、及びその内部でのなあなあ主義――に光を当てたものと言えよう。

1月21日(日) 昨日から2日間、大学入試センター試験の試験監督を務めた。 疲れた〜〜ぁ。 疲れを癒すため (?) これを書いているところ。 現在時刻は午後6時15分。

 幸いにして冬の新潟としては珍しく2日間好天にめぐまれ、雪も降らず地震もなく、火災も飛行機が墜落してくるなどという事故もなく、無事に終えることができた。 神様、感謝します (こんなときばっかり)。

 センター試験の監督は、個別学力検査の監督よりはるかにきつい。 朝は8時半集合で、昨日は解放されたのが午後7時近く、今日だって上記のとおり午後6時を過ぎるまで仕事がつまっていたのだ。

 私は今回、初めて試験室主任をやらされたが、主任は受験生への口達をすべて行うほか、出欠の確認だとか色々仕事が多く、大変なのである。 (その分手当が多いのかどうかは定かでない。)

 一番緊張したのは、昨日最後の英語リスニングである。 これは昨年度から導入されたものだが、昨年は受験生一人一人に配る機械 (ICプレイヤー) の故障が多くて不評だったというので、今年のは改良がほどこされたそうである。 だが、私の試験室では予備操作の段階で機械がうまく作動しない受験生が一人おり、ただちに機械を交換した。 しかし実際のリスニング試験が始まってからは途中で音声がとぎれるなどの故障はなく、ほっとした。 試験の途中で故障があると、試験終了後の時間に再度その受験生だけやりなおさなくてはならないので、やっかいなのである。

 リスニングが導入されたおかげで、事前の監督者説明会は2回になった。 私は昨年は監督をやらなかったので分からないのだが (センター試験の監督は毎年は回ってこない)、以前はたしか1回だけだったはず。 今回はリスニングの機械操作のやり方を知っておくためだけに1回、それ以外の全般的な注意事項についてもう1回、説明会が開催された。 2回の拘束時間は合計3時間以上に及ぶ。 それだけ当局も神経質になっているということであろう。

 以下、センター試験の監督主任をやって、改良した方がいいんじゃないかと思った点を書く。 細かいことなので、関心のない方は飛ばして読んで下さい。

 1) 筆記終了後に 「解答科目欄のマーク」 と 「受験番号のマーク」 のチェックを受験生にさせるのはいいが、そのあともう1回同じことを繰り返すのは時間の無駄である。 親切すぎるのはよろしくない。 終了後1度のチェックで間違いに気づかない奴は、「自己責任」 で零点とすべし。 

 2) 1日目、1時限の 「公民」 で口達開始から 「解答始め」 まで20分あるのは長すぎる。 15分で結構。

 3) 逆に、1日目、3時限の 「国語」 で口達開始から 「解答始め」 まで10分しかないのは短かすぎる。 なぜなら、1・2時限とも受けずに 「国語」 から受験する者が結構いるので写真シールを配布するのに時間がかかるし、また 「国語」 は 「外国語」 についで受験生が多いので、問題用紙と解答用紙を配布するのにも時間を食うからである。 15分にすべし。

 4) 2日目、1時限の 「理科@」 で口達開始から 「解答始め」 まで20分あるのは長すぎる。 15分で十分である。 

 5) 1日目最後の英語リスニングで、受験状況調査を解答開始までに手渡すことになっているが、時間的にかなりハードであり、受験開始後10分程度余裕がほしい。 なぜなら、他の筆記試験は筆記開始後20分の間に出欠の数を確認して用紙に記入すればよいが (といっても欠席者の受験番号のマークをいちいち鉛筆で塗りつぶさねばならなかったりして、それなりに時間がかかる)、英語リスニングの場合は30分の間に受験状況調査を行い、なおかつ受験生へのICプレイヤー操作の指示と音声確認をもやらなくてはならないからである。 実際にやってみれば分かるはずだが、時間的に見て相当きついと言うしかない。 

  *     *     *     *     *

 ……ところで、昨年のセンター試験では、新潟大学会場で受験した生徒から 「会場が寒い」 という苦情が出たというニュースを地元紙が報じたため、今回の試験では大学当局はかなりその点を気にしており、暖房の具合についてくどくどと説明があった。

 私はその地元紙の報道を実際に読んだわけではないが、ちゃんと多数の受験生に取材して記事にしたのか、疑問がある。 マスコミ報道ってのはアテになりませんからね。

 昨年まで新潟大学では、センター試験と個別学力試験とを問わず、入試の暖房は 「解答始め!」 の合図があるまで入れ、解答中は切り、「解答やめ」 でまた入れる、という原則でやってきた。 実際の試験中まで暖房を入れていると暑い場合があるので、受験生が問題と取り組んでいる間は余熱で間に合わせたほうが適温になる、という理由からであった。

 それで受験生全員が満足できる暖かさが確保されたかどうかは、無論、微妙である。 そもそも新潟大学の暖房装置は、建物によって仕組みが異なり、集中管理できるところと部屋ごとに調整するところとがあるし、また集中管理する場合は部屋によって効き方が違うこともあるし、同じ部屋の中でも場所によって温度は違ってくるからである。

 また、暑いか寒いかは個人によって感じ方が相当に違う。 今回、上のような報道があったせいで大学当局は試験時間中は原則ずっと暖房を入れっぱなしというふうに方針を変えたが、そうなると暑すぎて、私の試験室でも上着を脱いだり、上半身のワイシャツとセーターを腕まくりして肘から先は丸出しでやっている受験生がいた。 ところが、そんな中でも膝掛けをして受験している女の子もいるのである。 念のため、ミニスカートではないし、ロングスカートですらなく、ちゃんとズボンをはいているのに、それでも膝掛けをしているのである。

 こういう女の子がたまたま新聞社から取材を受け、「膝掛けをしないと寒くて受験に差し支えるくらいでした」 と答え、新聞記者がおっちょこちょいで他の受験生には腕まくりしてやっている者もいたということも確かめないで記事にしたら、どうなるのだろう?

 私が言いたいのは、新聞はこの種の報道をするとき、上記のように色々な視点からものを見ないといけないということ、そして新聞報道ばっかり気にして、実際に報道された試験室が多くの受験生にとって寒かったのかどうかを調査することなく上っ面の対応ばかりしている新潟大学当局も学問の府としては情けない、ということなのである。

  *    *    *    *    *

 閑話休題。 本日の全日本卓球選手権最終日、女子シングルスで私がファンの平野早矢香選手が、3年前と一昨年に続いて3度目の女王の座についた。 おめでとう、平野さん! 

 試合の模様は本日午後のNHK教育テレビで放送されたようだが、私は上述のとおりセンター試験監督で見られなかった。 残念無念。

 新聞報道は卓球というと福原愛のことばっかり載せるけれど、日本の女子で実力者は何と言っても平野さんである。 私が言うんだから間違いない。 卓球が強いだけじゃないのだ。 容姿だって、私の好みからすると福原さんより上である。 私のサイトのリンクにもあるが、ファンサイトもできていますよ。 卓球を愛する皆さん、平野早矢香選手を応援しましょう! 

1月16日(火) 朝日新聞インターネットニュースに以下の記事が載った。

 http://www.asahi.com/national/update/0116/TKY200701160123.html 

 「火山観測、このままでは水準維持困難」 文科省分科会
 2007年01月16日10時47分

 文部科学省の科学技術・学術審議会測地学分科会は15日、火山観測に必要な費用の確保が難しくなっているとして、「現在の火山監視能力のレベル維持は困難」 とする報告をまとめた。 各大学の観測データは気象庁も利用しており、観測や噴火予知体制の抜本的な見直しが不可欠だとしている。

 分科会は、次期火山噴火予知計画を策定するために、現計画 (04〜08年度) の実施状況と課題を検討した。 報告は、04年の国立大の法人化で国から交付される運営費や人員が減る一方、外部資金の確保も難しく、「近い将来、観測研究の縮小が危惧(きぐ)される」 とした。

 報告をまとめた藤井敏嗣・東京大教授は 「このままでは将来は観測点を減らさざるを得なくなる」 と話した。

 数年前、北海道の有珠山が噴火したとき、近くの火山研究所に勤めている北大教授がテレビに出演して解説をしていたことを、私はよく記憶している。 もし噴火がなかったなら、その北大教授もマスコミに出ることなく、こつこつと地味な研究を続けて停年まで過ごしたであろう。 たまたま噴火が起こったから表舞台に出、研究の必要性が世間からもよく理解されたわけだ。

 しかし、噴火がいつ起こるかはわからない。 起こらないと、昨今の情勢では 「不要な研究所は廃止しろ」 ということになりかねない。

 これではいざというときに飛んでもない事態を招く可能性がある、というところまで考えることは大衆の容易になしえないところだ。 だから、そこまで考えておくのがエリートの仕事であるはずなのだが・・・・・・。

 エリートとは無論、政治家、官僚、知識人・大学人のことである。 独法化に歯止めをかけられず、なおかついったん独法化がなされると文科省路線に乗るしか能がない大学人。 新潟大学の状況もかなりひどいものがある。 この先日本はどうなるのだろう・・・・。

1月15日(月) 不気味なバラバラ殺人事件が続いているが、妻が夫を殺してバラバラにした事件では妻の出身地が新潟市だったため、迷惑をこうむっている方々がいるらしい。

 マスコミの取材攻勢がその原因である。 容疑者 (妻) と同じ高校で同学年だった人の実家に電話が次々とかかってくるのだそうだ。 何とか容疑者の実像をつかもうというのだろうが、某TV局からの電話は相手の都合などお構いなしの無礼なもので、かけられた側もあきれ果てたらしい。 一方、某大出版社からの電話は礼儀をわきまえていたそうである。

 この例だけで判断するのは乱暴かも知れないが、TV局の人間というのはどこかおかしいのではないか。 以前、まだ新潟大学に教養部があった当時、身障者の学生が入学してきて、それについて取材したいというTV局がやってきたことがあったが、応対した教養部長はTV局の人間の傍若無人な態度に立腹していた。

 それから、こういう事件が起こると新聞にも単細胞的な記事が載りやすい。 今日の産経新聞には、容疑者が小学校の卒業文集に 「やられたらやりかえす」 という文章を書いていたことをとりあげて、「小学校時代からの性格がこの事件を招いた」 式の解説を新潟市内の某私大教授がしているとの記事が載ったけれど、おいおい、と言いたくなってしまう。 私はもともと心理学者は信用していない人間だが、いくらなんでも安易じゃないですか? 加えてこういうお気軽な解説を本気で取り上げる産経新聞もどうかしている。

 これじゃ卒業文集にもうかつなことは書けませんね。 お気軽な心理学者や新聞の餌食にされないように、作文には十分注意しましょうね、小学生諸君! いや、私にも小6の娘がいるので、他人事ではないのです。 

1月10日(水) 1月4日に続いて、独文学会ML上のやりとりを収録する。 今回が最終回となる。

(40) 12月7日早朝、F氏より以下の投稿があった。

 >三浦さん

 少々整理しますと、三浦さんのご主張の要点は以下の二点かと思われます:

 (1) 教育基本法の問題はゲルマニストないし独文学会に[直接]関係ない
 (2) [直接]関係ない投稿は明示的に禁止すべし

 (1)については数人が反対意見を述べ、大いに関係あると主張しています。
 (2)についてはFが反対しています。
 (1)(2)両方について、三浦さんに賛同する意見は今のところ出ていません。
 #これが客観的事実(現実)ですよね?

 私は三浦さんのご意見を吟味した結果として反対したつもりですし、他の方々も同様であると見受けました。しかし三浦さんは、真摯に意見を述べたのに、誰にもまともに考慮してもらえていないと本当にお考えなのでしょうか?

 私は、批判 (言論) の自由を実践によって確保し、顧慮すべき少数派の存在を知らしめることもまた闘争の意義だと考えております。 ですから私が仮に三浦さんのような立場であっても、議論が無益とは考えません。

 さてもう少し(2)について述べたいと思います。
 理論上数億人が書き込み可能なWWW掲示板と違い、加入条件が狭い仲間内にあらかじめ限られたMLで、事細かに規則を定める必要はないと私は考えます。平均して月に数通から数十通しか投稿のないMLで、投稿内容がグループの本旨に(直接)関係あるか無いか厳密にチェックすることにはあまり意味がありません。

 私は、例えば 「うちの犬をもらってください」 とかいうようなゲルマンとは無縁な投稿がたまにあっても全然構わないと思っています。 少なくとも、ドイツ製品のspamが毎日百通来るより遥かにマシです。 無関係系投稿が増え過ぎたらその時に対処すればいいのです。 そしてその心配はほとんどありません。

(41) 12月7日昼前、私は以下の投稿を行った。 

 新潟大学の三浦淳です。

 Fさんへの(そして言うまでもなくそれ以外の独文学会員への)返答です。

 >少々整理しますと、三浦さんのご主張の要点は以下の二点かと思われます:
 >(1) 教育基本法の問題はゲルマニストないし独文学会に[直接]関係ない
 >(2) [直接]関係ない投稿は明示的に禁止すべし

 >(1)については数人が反対意見を述べ、大いに関係あると主張しています。
 >(2)についてはFが反対しています。
 >(1)(2)両方について、三浦さんに賛同する意見は今のところ出ていません。
 >#これが客観的事実(現実)ですよね?

 まず、(2)は正確さを欠きます。 私は禁止したほうがいいと思ってますが、広報委員会への要求は、ルールを明文化してくれということです。 しばらく前の投稿に書いて、E先生も多少そのことに言及されました。 「直接関係なくてもかまわない」 と明文化するならそれはそれでよろしい。私も以後そのつもりで投稿しますから。

 私がそう言うのは、昨日の投稿で書いたように、こういうことは明文化しないと党派性で決められてしまう可能性があるからです。例えば、「教育基本法改定反対」 は構わないが 「憲法九条改定を進めましょう」 はダメ、というような言説がまかりとおる恐れがある。 それを防ぐのは、明文化されたルールだということです。

 それから、「客観的事実」 を言うなら、教育基本法改定案は民主主義の原則に従って国会で成立しかかっているわけです。 Fさんはそういう 「客観的事実」 を重んじるわけですか?

 >私は三浦さんのご意見を吟味した結果として反対したつもりですし、他の方々も同様であると見受けました。 しかし
 >三浦さんは、真摯に意見を述べたのに、誰にもまともに考慮してもらえていないと本当にお考えなのでしょうか?

 ここに登場された方々は、私とは意見が反対ですが、考えてはいるのでしょうね。 しかし登場したのは独文学会員のうちほんの一握りです。 残りはサイレントマジョリティを決め込んでいる。
 これは決して難しい問題ではない。 独文学会のMLにドイツやドイツ語教育と直接関係しないテーマを持ち込んでいいか、という、ただそれだけのことに過ぎません。 その程度の問題に意見を述べられない圧倒的多数の独文学会員は、見識を疑われても仕方がないでしょう。 いくら学校の演習で学生に 「積極的に意見を述べなさい」 と説教を垂れていても、自分がこのテイタラクなのではどうしようもないし、化けの皮をはがれた、といったところでしょう。 いや、皮はとっくの昔にはがれていて、気づいていないのはFさんなど少数だけではないでしょうか。

 私がなぜこの問題で「知識人」にしばしば言及したか、お分かりでしょうか?
 日本における知識人の置かれた立場が、戦後20ないし30年くらいと現在とではまるで違っているからです。むかし独文学会が筑波大学法案に反対した、なんてのは、まだ知識人幻想が残っていた時代のことです。あの頃はまだ知識人が何かを発言してもそれなりに反響や影響力があった。今は違います。知識人なんてのは鼻から信用されていません。何かアピールを出しても「またか」くらいにしか思われない。それは、一つには社会構造の変化、もう一つには知識人自身の過去の言説やたくさん出したアピールが後から振り返ってみると必ずしも正確ではなかったという事実から来ています。そういう位置に自分たちは置かれているのだ、ということをまず自覚すべきですね。

 だから何もやるな、というのでは無論ない。もう何度も述べてきたけれど、包括的な問題に口出ししても効果もないし、むしろ自分に直接関わる問題を逃げていることをごまかす口実に使われるという側面が強いと私は考えている。第二外国語問題のシンポは逃げて、教育基本法改定反対にはネットでだけ張り切る、なんて態度はその典型でしょう。
 知識人の活動を有効にするには、テーマは自分の専門性に関わる部分に限定し、なおかつデータを挙げて分かりやすく論じ、さらに、それを現実に活かせるように政策論的な発想をしなければならない。無論これが非常に難しくたいへんな作業であることは承知しています。しかし今までの知識人のやり方を続けてアピールばっかり出していても絶対にダメですよ。

 身近なところからきちんとドイツ文化を宣伝していくことも大事。 例えばWikipediaです。 これは必ずしも信用できないところもあるけれど、現実に多数の人に利用されている。 だけどWikipediaの独文関係の記述はきわめて貧弱です。 ここを何とかするよう、独文学会員で連携してやってみてはどうか。 『若きウェルテルの悩み』 みたいな有名作品ですら、半年前に私がたまたま調べたら間違った記述がなされていた。 ウェルテルとロッテが学校の同級生だなんて書いてあって唖然としました。 仕方なく私が修正しておきましたが、日本に少なからずいるゲーテ・フォルシャーはいったい何をやっていたんだ、と言いたくなる。 それでもゲーテやウェルテルは項目に挙がっているだけマシ。 挙がっていない作家や作品は非常に多いですね。 こういう基本的なことをちゃんとやらないで、教育基本法改定にだけ勇ましいことを言っても無効でしょう。

 >私は、批判(言論)の自由を実践によって確保し、顧慮すべき少数派の存在を知らしめることもまた闘争の意義だと
 >考えております。ですから私が仮に三浦さんのような立場であっても、議論が無益とは考えません。

 私が言っているのは、教育基本法案反対の議論をするなら別の場所でやれ、ということです。 ネット時代、そういう場所はいくらでもあるはずだし、その場所を知らないからここでというのは、自分がいかに怠慢で世の中のことを知らないかを告白しているみたいなものじゃないですか。 ふだんから教育基本法について勉強したり考えたりしていれば、独文学会MLに頼るなんて真似はしなくてすむはずです。 逆に言えば、ふだん教育基本法のことなんか考えていないから、ここでやろう、ということになるのです。

 >私は、例えば「うちの犬をもらってください」とかいうようなゲルマンとは無縁な投稿がたまにあっても全然構わないと
 >思っています。少なくとも、ドイツ製品のspamが毎日百通来るより遥かにマシです。無関係系投稿が増え過ぎたらその時
 >に対処すればいいのです。そしてその心配はほとんどありません。

 前にも書きましたが、こういう場合は個人的な価値判断は入れないで議論する、というのが鉄則だと思いますが。 お分かりいただけないでしょうか? 犬をもらってくれの投稿とドイツ製品のspamのどちらがマシか、という言い方は価値判断を含んでいる。 どちらがましか、というような問題ではそもそもないのです。

 〔このあと、12月8日早朝、F氏からはもう一度投稿があったが、私が言っている 「個人的な価値判断を入れないで議論する」 ということがどうしても理解できない人のようなので、私からはもう返事は投稿しないことにした。 よってF氏の投稿自体もここでは省く。〕

(42) 12月8日午後、G氏より、(41)の三浦の投稿を引用した上で以下の投稿があった。

 「だんまりを決め込んできた」 (決め込んできた訳ではないのですが) 一人として、小生は聡明な知性を感じる三浦氏の論理に自戒の念も込めて全面的に共感し、エールを送ります。

(43) 12月10日夕刻、独文学会広報委員会より以下の投稿があった。

 独文学会ML参加者の皆さん,

 最近のMLで行われている議論について,「広報委員会は何を考えているのか」 といぶかしくお思いの方もいらっしゃると思われますので,手短に見解を述べさせていただきます。

 そもそもこのメーリングリストは,学会サイトの関連ページ (〔URL省略 ) にあるように,「会員間の意思疎通,情報交換のためのメーリングリスト」 と位置づけられ,投稿のテーマに関する規定を設けてはいません。 この位置づけはML創設以来一貫しており,過去のあらゆる記録においてそれ以上の規定は見出されません。 参加者が独文学会の会員であることを前提に、その範囲でそれぞれの参加者が投稿の適切さを自らの良識に照らして判断する、というのが原則です。

 当然そのなかには、自らの良識と他者の良識の齟齬が起こりうるということも想定しておかなければならず、実際に食い違いが発生した場合には互いに寛容と自省の精神を以って行動することが期待されます。 そして管理者として広報委員会が投稿の適切さについて容喙するのはできるだけ避けるのが望ましいと考えています。

 なお,上記の関連ページには,「利用上のマナー」 として次のような注意点が掲げられております。 あわせてご参照ください。

 >>>> なお,ヴァーチァル・フォーラムの利用にあたっては,次のような最低限のマナーはお守り下さい。

 >>>> * いかなる理由でも個人的な誹謗中傷はしないこと。
 >>>> * できるだけ多くの人が議論に加われるよう,きわめて個人的なやりとりは個人のアドレス間で行うこと。
 >>>> * 非常識に長大なメールは避けること。
 >>>> * 発言に対する返答・反応を強要しないこと。

 日本独文学会広報委員会

(44) 12月10日深夜、A氏より以下の投稿があった。 

 みなさま

 **大学のAと申します。

 独文学会MLの利用法につきましては,私が考えていたこと が誤りではなかったことが広報委員会からのメイルによって確認されま した。

 そこでもう一度だけ情報提供させてください。 もしこのメイルによっ て初めてこれを知った方がいらしたとしても,単に偶然そのチャンネル 上におられなかっただけのことです。 教育に携わる者にとって何にもま して重要な問題を重要であると捉える感性を私も忘れずにいたいとあら ためて思います。

 さて本題です。標記の件について,昨日夕刻から教育法学の専門家の呼びかけにより,ネット署名が始まりました。 一般市民の誰もが加われ る形でありますので,ここにご紹介します。

 URL は 〔省略〕 です。(昨日はアクセスが殺到して一時サーバーがダウンしましたが,現在は回復しています。)

 なお明言しますが,この情報提供はこの署名についての賛同を要請するものではありません。 あくまで独文学会ML の利用に則った 情報提供であり,本情報の利用に関しては各自でお考えください。

 また付言しますと,この件について独文学会ML上でなされ る反応について,私は応答しない場合があります。 それには,応答する 時間的余裕がない,私がその反応に建設的な意味を見いださない,などいくつかの理由が考えられますが,そのことを前もってお断りしておこ うと思います。

 最後に,今回の件では私の最初の情報提供を契機に理事会の皆様,広 報委員会の皆様,独文学会ML参加者の皆様にご心配をおかけする結果となりました。 私自身としても大変に困惑しましたが,良識を 持って見守ってくださった皆様に,この場をお借りして心より感謝しておきたいと思います。

(45) 12月12日午後、独文学会理事会より以下の投稿があった。 

 12月6日付の回答に関して、C会員から、同日、質問、再要求そのほかが数通にわたるメールによって送付されました。

 〔配信番号は省略。(36)に該当するメールを指す〕 として配信され 、学会事務局へ送付されたメールで、理事会の今回の方針の 「不整合」 を主張する根拠として第一に挙げられる、筑波大学設置法案に反対する声明は、1973年5月の総会において、会員有志提案にもとづき、賛成多数で 「声明文を日本独文学会の名において発表すること」 という決議が行なわれたものでした (機関誌 「ドイツ文学」 第51号167-168頁参照)。 第二に挙げられる都立四大学の統廃合問題に関する2003年12 月の理事会声明についても、同会員は 「寡聞にして存じ上げない」 まま 「先日知人より」 聞かれた由ですが、声明文は機関誌別冊に掲載されています。 事実関係や会員への正式の報告について確かめぬまま、「学会(理事会だと思うのですが)」 と言って引き合いに出して 「不整合」 を主張するようなやり方の詰問に、理事会が逐一応対する責務はありません。
 さらに、総会の承認を経て実行された機関誌刊行形態の変更を第三の根拠に挙げ、 総会の意義を否定した上で、「現理事会は当時の理事会員個々人に対して謝罪と個人的損害賠償 (学会機関誌発行費増加分の個人的補填) を要求すべきだと、もちろん考えますが、なぜ、しないのですか」 と述べる質問に応対する必要がないことについては、多言を要しません。 理事会が対外的に学会を代表して行動することと、事業方針を策定し総会に提案することとの根本的相違も無視されています。
 会員からの意見にはなるべく対応しようということから、前回の、事実上極度に短い回答期限付きの要求に対しても急遽審議し回答したわけでしたが、上記のような内容や姿勢の質問や要求など、回答の必要がないと判断されるものには、回答しないことがありますので、皆様のご理解をお願いいたします。
 なお、先日の回答中 「会員間で論が分かれると考えられる」 ということは、言うまでもなく、論が分かれる程度についての判断を意味しており、 理事会の行動に関するその判断は、問題ごとにその時々の理事会が下すしかない、ということを、念のため付言いたします。

日本独文学会理事会

(46) 12月12日午後、(45)と同時に、独文学会理事会より以下の投稿があった。 

 E様

 12月6日付で、教育基本法改定審議に関して、参議院特別委員会に対する会長・理事会の公的要請を求めるご意見がありました。
 教育基本法は、「教育の基本を確立」 するものとされており、教育に携わった者、携わっている者、携わろうとしている者として、教育基本法改定について慎重審議を求める、という内容に絞った場合、その主張内容 を共有される会員は少なくないと推測されます。 しかし、国会等に対して学会として要請行動をとることの是非を含めた、対応の全体に関しては、会員間でやはり基本的な見解が分かれると 考えられるところです。 会長・理事会が学会を代表する形で対外的行動をとることはできないと、判断する所以です。 この問題に関する行動は、 個人レベルでお願いしたいと思います。

 日本独文学会理事会

 〔このあと、(44)のA氏の投稿に対する返信の投稿がC氏からあったが、ここでは省略する。〕

(47) 12月12日夜、E氏より以下の投稿があった。 

 日本独文学会理事会 御中、

 >>12月6日付で、教育基本法改定審議に関して、参議院特別委員会に対する会長・理事会の
 >>公的要請を求めるご意見がありました。(・・・)

 のメイルをいただきました。 お手数をおかけしました。
 事態が少し変わったと考えますので、再度、個人的な意見を申し上げます。
 6日の貴メイルでは

 >>問題そのものについても、学会として公の態度表明をすることについても、会員間で論が分かれると考えられるこの場合、(・・・)

 と述べております。理事会は、(A)「問題の理解」 及び (B)「公的態度表明」 の両者において会員間で意見が分かれる、と判断されておりました。

 本日のメイルでは

 >> (・・・)という内容に絞った場合、その主張内容を共有される会員は少なくないと推測されます。しかし、国会等に対して学会として要請
 >> 行動をとることの是非を含めた、対応の全体に関しては、会員間でやはり基本的な見解が分かれると 考えられるところです。

 と述べています。 上記の (A) については (上記「内容」であれば) 会員間で一定の合意はある(だろう)、(B) については一定の合意が得られない(だろう)、と判断されています。
 問題の理解に関して理事会の判断は明らかに変わっております。
 問題の理解(所在)が、ある程度、明確になったのであれば、公的な意見表明に関しては 「会員間で基本的な見解が分かれ」 ているとご判断したとしても、

 >>この問題に関する行動は、 個人レベルでお願い(・・・)

 する、のみではなくて、「(上記「内容」であれば) 会員間で一定の合意」 が得られる (と判断される) 範囲内で何らかの公的レベルでの行動をとることは許容されます。

 貴メイルをこのように理解いたしまして、事情が許すようであれば、「何らかの公的レベルでの行動」 の可能性につきまして再度ご検討いただけますと助かります。

 ご多忙中、恐縮ですが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 E

(48) 12月12日夜、C氏より以下の投稿があった。

 〔独文学会理事会三十名の氏名が宛名として書かれているが、省略〕

 今回いただいたご回答の支離滅裂さ加減から、もはやこの件に対して、あなたがたへの 「三回目のチャンス」 は与えられません。

 しかしながら、今回いただいたあらたなご回答における、その支離滅裂さ加減を引きおこす元となったと考えられる、あなたがたの悟性の混濁に厳重に抗議し、あなたがたの理性の自律のなさ、ならびに人格の本質の崩壊をあわれむとともに、そのような方々が理事をつとめるという日本独文学会の体質、およびとりわけこの現理事会そのもののこの頑迷な体質に、危惧の念を抱かざるをえません。


 理事会が、ほんとうに会議として機能しているのか、私は深い疑念をいだきます。 理事会のうち、知性の最良の部分が、品格にもウイットにも修辞にも文体にも基本的な拙劣さと欠陥に満ちたご回答の日本語表現、およびその論旨に、反映されているとは、とても信じることはできません。
 理事会は、その知性の最良の部分が、惜しみなく、知性のよりいたらない部分を、知的に説得することに、力を出し惜しみせずにきちんと尽くしてください。
 知性の最良の部分に該当せず、名誉欲と、しかしまたその名誉と一体たる威厳とを追求される向きにおいては、最低限、その威厳にふさわしいよう、思想的成熟と、またほんらいは言うまでもありませんが人格の陶冶とに、少しは人間的危機感を持ちつつ尽くしてください。


 ご回答には、形式的に致命的欠陥がいくつもありますので、以下、各項ごとに、論旨上のご確認と、論旨そのものをめぐってのさらなるご回答とを、お願いします。

2−a
 「第二に挙げられる都立四大学の統廃合問題に関する2003年12 月の理事会声明についても、同会員は 「寡聞にして存じ上げない」 まま 「先日知人より」 聞かれた由ですが、声明文は機関誌別冊に掲載されています。 事実関係や会員への正式の報告について確かめぬまま、「学会(理事会だと思うのですが)」 と言って引き合いに出して 「不整合」 を主張するようなやり方の詰問に、理事会が逐一応対する責務はありません。」 とのことですが、これほど笑止な言い分を、私はあまり眼にしません。 (具体名を挙げますが、政府税調会長の本間とやらの発言 〈消費拡大のため給与の原資に法人減税を〉 等々のみが、公共の場での愚昧さにおいてかろうじてこれに比肩しえています。)
 文中で 「理事会声明」 とお書きなので、理事会声明が事実としてあったらしいのですが、理事会声明がもしあった場合に、当該理事会声明と今回の理事会の対応との不整合を私が指摘し、理事会というものの連続性・一体性をどうお考えになるのか私が糾すことを斥けるのの理由に、私がその理事会声明の存在を明確に確認したうえではなかったということが、およそいかなる理由ともなりうるはずがありません。 お書きになった論旨は、天に唾するがごときです。

 また、同会員 (私) が、機関誌別冊の当該箇所を確かめぬまま、先日知人より聞いたことをたよりに、存在するであろうと疑うに十分な理由のある、理事会の対応の不整合を理由として挙げることは、個人である私の対応として、いささかも無責任であるとの認識を、当然ながら持ちません。 個人の文学者および思想者および学究者として、私の能力はきわめて限られた点に重点的に注がれるのはあたりまえであり、私としましては、私がまさにどのていどその事実関係について知っているかをありのままに述べることによって、十分な誠実さの限りを尽くしたつもりでおります。 それなのに、まるで品性の劣るごろつきのような難癖をつける行為が私によってなされたかのような理事会の言いぐさは、まさしくそのものが、品性の劣る知的に頽廃しきったごろつきのような難癖であるにほかなりません。 今回のご回答は、個人の能力を超えた原告適格性を形式的に満たさないかぎりそのうったえを取りあげないと宣言するものであるに等しく、センスも見識もかけらも見あたりません。−−かけらも見あたらないのは私が指導して差し上げる限界を超えていますから放置しますが、「理事会が逐一応対する責務はありません」 との理事会見解は危険極まりないものなので即刻取り消してください。(またこの2−aにたいしてどう答えるつもりやら、ぜひとももちろん、お答えをお願いいたします。)

 なお、この都立大問題で機関誌発表がなされたのは (それを確かめる義務が会員にはありそうでなければ今回のような異議を受け付けないと理事会は主張しているわけですが)、機関誌発行形態問題にかんして学会が笑止千万な暴走をすでにはじめて、日本独文学会からの配布物に眼をちゃんととおすひまを持つことが、神経質とかひま人とか酔狂とかの域をすでに超えた、知性的欠陥に該当するものと堕することと事実上なっていた時点、無駄な学会誌の赤い山積が会員諸賢の書庫のスペースをほんとうに悩ませゴミで出すことを学会員のだれもが検討する時点においてであったことを、蛇足ながら附言しておきます。

2−b
 「さらに、総会の承認を経て実行された機関誌刊行形態の変更を第三の根拠に挙げ、 総会の意義を否定した上で」 ということを副文章のかたちで書かれていますが、これは、一般読者にとっても、また執筆者本人にとっても、非常にミスリーディングで、好ましいことではありません。
 私は、当該理事会決定を追認したその1回の総会の意義を否定したのであり、およそ総会というものの意義を否定したわけでは決してありません。
 あの1回の総会が、「総会というものの意義を否定」 する精神のもとになされたのは、あきらかです。
 議案に対して十分な反応の時間を与えられないまま、しかし理事会がすでに事実そのものとして独断専行をなしている、その 「総会というものの意義を否定」 する精神にまさにあふれた態度であの1回の総会を乗りきろうとした理事会に対しては、数名もしくは十数名ではなく数十名規模で仲間をつのっておいてから総会に大挙出席し、理事改定案を票数の実力で否決する、という以外のやり方では、シャンシャン総会への積極的貢献者の役割しか果たせません。そして、そのような組織的行動は、われわれ個々人の能力において、通常は即座には無理です。
 これに反論できますか。
 しかし、反論しないでは許されないので、反論してください。
 また、このような、自己及び他者の思考を混濁させるような副文章の使用は、今回のご回答に一貫した、稚拙な非論理性のもととおよそなるものですから、やめるよう、今回の具体筆者個人に忠告します。

2−c
 「「現理事会は当時の理事会員個々人に対して謝罪と個人的損害賠償 (学会機関誌発行費増加分の個人的補填) を要求すべきだと、もちろん考えますが、なぜ、しないのですか」と 述べる質問に応対する必要がないことについては、多言を要しません。 理事会が対外的に学会を代表して行動することと、事業方針を策定し総会に提案することとの根本的相違も無視されています。」とのことですが、極めて姑息なるレトリックの使い方が、はじめから破綻の馬脚を露呈しています。 「多言を要しません」 とあるからには、本質的でひとことで片づく理由が挙げられることが当然に期待されますが、そのあとに述べられているのはなんのことはない、「理事会が対外的に学会を代表して行動することと、事業方針を策定し総会に提案することとの根本的相違も無視されています」 とのこと。 文章形式的に、いちばんの 「が」 がこないといけないところが 「も」 であるのが、ちゃんちゃら可笑しい。 しかも、「理事会が対外的に学会を代表して行動することと、事業方針を策定し総会に提案することとの根本的相違」 を私も別に認めても構いませんが、「そのいずれにの場合にも、理事会がなした、独断専行とだれの目にも当然に見える〈決定〉」 のことを私は指摘しているのであり、そこには 「理事会が対外的に学会を代表して行動することと、事業方針を策定し総会に提案することとの根本的相違」 は、まったくなにの関係もありません。
 して、「も」 以外の理由が、ひとつでも挙げられるのですか。 きいてみたいですね。ちゃんとお答え下さい。
 総じて今回のご回答のうちこの項でとりあげた部分は、理事会の忙しい職務の、当方 (私、およびその他の会員一般) のまったく関知するところではないくだらない中身の細分についての、わかってほしいわかってほしいという、駄々っ子のような甘えの表出以外の何ものでもありません。
 また、もちろんのことながら、私のこの第三の質問に答えるには、まさに 「多言を要」 するのであり (さもなくばこのすぐ上の質問にさっさとしかるべくお答え願います)、理事会は、根本的に反省しつつ、私の質問のこの部分に対しては、真剣な検討を重ねるよう、改めてここに要請いたします。

 なお、この部分のご回答を読み直したところ、ほかにも不当な議論のねじまげがご回答には存在するようです。 こちらが足を掬われたら元も子もないので改めて言い添えますが、私がこの第三の質問で指弾したのは、当時の総会にいたる前の理事会の独断専横と、その1回の総会自体の、理事会側による理事会に責任のある非民主的な運営です。 総会のお墨付きを振りまわしても、総会をそこまで追いつめて詰め腹を切らせるように可決させた、その理事会の意図的行為の、有責行為者責任を問うています。

2−d
 「会員からの意見にはなるべく対応しようということから、前回の、事実上極度に短い回答期限付きの要求に対しても急遽審議し回答したわけでしたが」 とのことですが、それは理事会の誠意ではなく不誠意に由来する、早とちりです。 私はなにもE氏の提案した署名活動そのもの (12月4日月曜午後5時締切) に学会理事会として署名するよう要請したのではなく、E氏の見るとおり 「参議院の教育基本法特別委員会」 が事実上の最終的な決定の場となる (参議院本会議では委員会決定事項以上の質疑応答ではなくてもはや牛歩戦術のたぐいしか残されていない) のであって、その「参議院の教育基本法特別委員会」に日本独文学会理事会の意見を送付するように、要請したのです。
 12月10日のA氏のメーリングリスト投稿にもあるとおり、これの時間的な有効期限は、ちょうど、あす12月13日提出、くらいです。
 私が、元の要請文に、「また、最終的に、「日本独文学会理事会」 の名でそのような動きをすることはやっぱりできないとの結論にもしなるのであろうとも、上記の私の要求内容を、理事会にて、緊急にご検討下さい。なにとぞよろしくお願い申し上げます。」 と書いていたにもかかわらず、なぜCは理事会からの1回目の回答をあんなにもはげしく拒絶したのか、いぶかる向きもあったかもしれませんが (個人的に連絡をとりたかったのですが、私と同様に相手もそのようなことはおそらく好まないと考えられ、連絡はせずに、読解にまかせました)、私は、理事会の中での議論、説得が、まったくなされていない、と判断したから、再要請を行なったのでした。

2−e
 このご回答全体には、主文が存在していないように見えます。
 つまり、C会員の再要請には、応じられないとの結論が出た、との文言が、欠落しております。
 それとも、そうではなくて、「上記のような内容や姿勢の質問や要求など、回答の必要がないと判断されるものには、回答しないことがありますので、皆様のご理解をお願いいたします。」
という、一般論に相当する 「合わせて述べおきますと」 という部分に見える箇所が、二度目のご回答の主文でしょうか。
 もしそうだとすれば、それが明確に主文であるように書かれていないのは (自然に読めばついでの表明にしか見えないように書かれているのは) あまりもの文章上の不首尾、不細工、です。ご回答の筆者個人は日本語ネイティヴ話者・筆記者でしょうが、日本語ネイティヴ話者・筆記者として通用しないほどお粗末なので、ただごとではない猛省をうながしておきます。

 合わせて指摘しておきますが、第一回目の私の要求は、私は 「要求」 と明記し、そのうえで、「緊急にご検討下さい。 なにとぞよろしくお願い申し上げます。」 としるしたものでした。 つまり、ご検討を、ひと対ひととしてお願いしましたが、会員として理事会に重要事を要求する、その資格における発言である、という立場でした。それが、なぜか、理事会からの一回目のご回答においては、私の要求は 「要請」 となっていました。しかるに、私の再度ご検討をお願いした理事会各位にあてたメールおよびその追伸(またその訂正等)は、私は、これを、「要請」 として書きました。ところがなぜか、ご回答においては二回目の私の 「要請」 は 「要求」 だったことになっています。
 推測してあげるに、この表記は、二回目の回答文の件名を 「C会員の再要求について」とすることによって、記述本文内での舌足らずな記述を、〈C会員の要求に対して反応をしないという反応をする〉 という文であるとして機能させよう、という期待の現われなのであろうと思いますが、ただただ、まず第一に私の書いていないことを書いている表記として杜撰であり、またそれと相応しつつ記述本文内での舌足らずさにおいて文章として杜撰です。

 私は、知的強者が、知的弱者をただいじめていることになるのではないかということを、はなはだ危惧するのですが、この場合は、いやしくも 「日本独文学会理事会」 を名のる筆者であり、また、「日本独文学会理事会」 のお墨付きで 「日本独文学会理事会」 の名で出されている文書なので、手心を加える必要を感じずにいます。


 「上記のような内容や姿勢の質問や要求など、回答の必要がないと判断されるものには、回答しないことがあります」 とは、わが眼を疑い覆う思いがいたします。
 あなたがたは、ほんとうに、法治国家の国民ですか。
 このように重要な「基本的対応法」のことを、かくも曖昧極まりない言い方で宣言するとは、なにを考えておられるのですか。
 どれほど、民主的な手続きに対して根本的に危険な宣言を、うかつにもなさってしまったか、わかってもおられないのですね。(これでは、極めて恣意的に、理事会は原則的に理事会自身の判断のみを根拠に、答えたくない質問には、運営上いっさいなにも答えなくてもいい、という、法的状態であることになってしまうのですよ。)
 即刻、取り消してください。
 むろん、常識を逸するような、ほんとうに答える必要がない問いには、答える必要はないでしょう。しかるに、今回の私の二回目の要請は、理性的自律、人格的本質にかかわる重要な問題であることは、だれの眼にも明らかでした。
 それに対するこの二回目のお答えの各部分は、上記のように、箸にも棒にもかからないものでした。
 まさに、「回答の必要がないと判断されるもの」の正反対であり、あなたがた個々人が真剣な回答を迫られる場であったことは言うまでもありません。
 「回答の必要がないと判断されるもの」 であるかのような却下をしようということが理事会で可決されたのでしょうが、ことがらがあまりにも無謀というものです。
 理事会の最良の知性である部分の方々には猛省をうながすとともに、それ以外の、金看板屋の方々には、残念ながら看板はつねに楽でのみはなくて、ときにはめずらしいことながら、看板に対応するだけの知性、もしくはそれをいかにしても持ち合わせていない場合にもその捻出の姿勢を、要求されることがあるのだ、ということを、再度警告しておきます。
 また、顔を洗って出直して、私の二回目の要請に対して、あなたがたはまともな知性ある存在として、1回目と同様の、「ご要請に(やはり)応じることはできない、という結論に達しましたので、回答いたします。」 との主文をお寄越しになるよう、それこそ、要求します。

 上記、各項に対し、私の要求する撤回や答え直しの確認と、その他ご検討とご回答を、願います。

 なお、このメール作成途中段階でコンピューターが不明のクラッシュを何度か起こし、文章作成の場をメールソフトからワープロソフトにかえてもそのときはだめで、その後おさまりましたが、思わぬ時間をかけることとなってしまいました。 そうこうするうちに、E氏の二回目の要請メールを拝見することとなりました。 この段階でCの方は、理事会に要請自体は取り下げてしまうことにより、理事会にかかるこの要請の圧力を弱めてしまうことは不本意ではあるのですが、私は上記のとおり、理事会に三回目のチャンスを与えないので、あしからず。そうでなくて、私は上記の各項に対する、もし知性は足らなくても、ひととして最低限の誠意ぐらいはあってもよさそうなものであろうところの、ご対応とご検討とご回答だけを、要求いたします。 E氏の、氏としては二度目の要請 (しかし氏は、私と同時刻に、形式上は筆者がホモ・サピエンスの名にあたいする回答を得ておられますので) には、賛同することだけ、申し添えます。

12月13日〔ママ〕  **大学   C

(49)  12月13日午後、C氏より以下の投稿があった。 なお文中の####は原文では実名であるものを匿名にしたのであるが、対応関係を明らかにするためこの記号(#) を用いた。

 〔独文学会理事会三十名の氏名が宛名として書かれているが、省略〕

 追伸

 いまなにがここで現象しているのか、申し上げます。

 私はこの教育基本法改悪阻止問題を、あたりまえですが理事会への要請以前からしてすでに9割5分方あきらめています。 各学会がすべて動くというところに、突破口を見いだそうとしたのですが、入り口の独文からして無理でした。
 しかし、それは、高々、戦術的問題にすぎません。
 戦略的問題は、憲法改悪阻止、これ一本です。
 しかしながら、教育の憲法と通称される教育基本法改悪は、その日本国憲法に一部分は明示的にしかしまた他方では非明示的ながら精神的根本的に反する内容であり、憲法改悪阻止の砦にとって、外堀と同時にどさくさに紛れて埋められる内堀であるにほかなりません。
 私の戦略は、丸裸の本丸だけとなった憲法改悪阻止の夏の陣に、日本独文学会という駄馬にどう鞭を入れて動かすか、また、独文学会がもしだめでも他の学会という学会をどう動かすかということにほかなりません。 これへの時間も、すでに限られておりますが、私は、この天守閣を守る戦いに、あるていどの勝算をもってのぞむつもりでおります。
 今回の独文学会による参院委員会への声明の要請の件、および、まったく議論と説得の努力が見られなかった一回目のご回答に対していやでも理事会内で議論と説得を (もしくはいやでも議論に巻きこまれかつ説得の対象となってしまうことを) 広げざるをえなくなるような再要請を行なったことは、この私の、戦術のうちの、さらにまたごく一部分であったにすぎません。

 しかるに、理事会は、私の再要請によって無残にもprovozieren 〔挑発〕 され (もしくは、sich provozieren lassen 〔挑発される〕 をされるがままにされ)、混乱し興奮し狼狽して、理事会の戦略面(もしそういうものをなんらかの方面でなんらかのかたちでお持ちであるとしての話と、残念ながらなってしまいますが) において、迷走の限りを尽くした、みっともない、あさましい、あってはならない軽率の極みたる「放言」の「言明」を、ふたつも犯してしまった、というわけです。
 今回の私のメール本文 (きのうのもの、下の日付を署名締切と混同して13日としてしまいましたが12日とお読み替え頂ければ幸甚です) の、「2−a」 と 「3」 がそれです。
 ただちに、それらの放言を撤回するよう、重ねて要求いたします。
 (むろん、「2−c」 もだいじな論点であって、さらなる議論を重ねて望みます。)

 私は、自らにとって業腹であることには、ご回答にある 「ドイツ文学別冊」 のうち03年12月の理事会声明を載せてありそうなものを書庫で探したところ 「ドイツ文学別冊」 のような無用なものを捨てもせずに整理して重ねて置いてあるのが見つかってしまいました。そこで、お命じになる 『ドイツ文学別冊2004年春号』(2004年4月27日日本独文学会発行) 41−2ページにある、「日本独文学会理事会」 と 「日本独文学会会長・**大学教授 ####」 の連名になる、「都立四大学の統廃合を巡って」 「声明 東京都知事 石原慎太郎 殿」 という2003年12月15日付の文書をたしかに確認しました。
 この時点で、前回のご回答が、Cに対して正式にはなされなかったことの根拠は完全に崩壊し、理事会は遅まきながらもともと避けうべからざる私への正式な2回目の返答を寄越されるようにご注意申し上げるとともに、さらには念のため、こうやって根拠もすべて崩されている以上、前便での私の再質問のようなまともな内容の文書に対して、前便のような出鱈目な文書ですでに無視を通告済みとの立場を今後血迷ってもとることは決して許されないという点について、公告し、注意を喚起して起きます。
(ここまで低級な確認作業を私に強いるのも、理事会のご回答のお粗末さゆえですから、改めて、理事各位には猛省を促します。)
 すると、無駄な冊子の中にありつつ、当該文書は、立派な (最低限、正当な、あたりまえの、当然という意味で堂々たる) 内容のものでした。
 あなたたちこそ、今回、「C会員の再要求について」 などという巫山戯きった名称により、私に対する無礼非礼欠礼の倨傲の限りを尽くした、文章も内容も幼稚さと蒙昧さの極致であるあのような二度目のご回答を出されたからには、おひとりたりとも、よもや、今回この文書を読み返していない (あるいは読み返すまでもなく内容を記憶しているのでない) という方はおられないでしょうね? もしもそういう方がおられたら、ありとあらゆる正義の味方が登場して、「やいやい、その節穴の眼ン玉かっぽじってとくと見やがれ!」と一喝するところです。
 当該文書を見て、私はこの追伸を出す気になりました。
 この文書に現われたような精神が、あなたがたに少しでもあれば、初回から回答の内容はまったく違っていたでしょうし、ましてや二度目の回答のような、自縄自縛のうえに他者 (私) に汚物をまき散らしつつ器用に自死、といった、あんな内容には、なりえなかったでしょう。
 二回目のご回答で、理事会を名のる筆者は 「なお、先日の回答中 「会員間で論が分かれると考えられる」 ということは、言うまでもなく、論が分かれる程度についての判断を意味しており、 理事会の行動に関するその判断は、問題ごとにその時々の理事会が下すしかない、ということを、念のため付言いたします。」
とおっしゃっています。 「論が分かれる程度についての判断」 を、「問題ごとにその時々の理事会が下すしかない」 という見解は、実際的なものではあり (それでもあくまで、歴代理事会の統一性、一体性ということも、それはそれでその都度とわれ続けることとなるのもいうまでもありません)、とりあえすその仮定に私も立つことといたします。すると問われているのは、まさしく現理事会の主体性そのものであるにほかなりません。
 もっと言えば、それは、理事会 (日本の会議であるからある種うけ身のもの) というよりも、会長が発揮する、その都度の指導性のいかん、であるかもしれません。 ####声明を読んで、その思いを強く致しました。
 私は、ひょっとしたらうかつであったかもしれないことには、独文学会現会長には、人格、理性、論理力ともに、無条件の信頼を寄せておりました。それを、思えば、頭から信じこみ、検証はなさないできたかもしれません。これはひょっとしたら、フッサール的エポヘーにかけなければならないかもしれません。
 現会長には、私のこれまでの全幅の信頼にこたえるべく、さらなる努力を重ねて頂けますよう、お勉強がお忙しいところ、お疲れでしょうが、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 念のため、『ドイツ文学別冊2004年秋号』 (2004年8月31日日本独文学会発行) 42ページ、日本独文学会第58回総会報告では、当該理事会文書について、総会の事後承認を求めることなく、####会長より「抗議声明を出した」 報告があっただけであることが書かれています。 理事会の、また会長の、そのような主体性が、ありえますので、まだ討議中であろうと思われるE会員の二回目の要請の扱いにさいして、ご参考になさってください。

12月13日  **大学  C



 このあと、この問題に関する投稿はなされなかった。 

 以上で、数回に及び連載した、日本独文学会のML上で2006年11月末から12月中旬にかけて展開された論戦の紹介を終える。 

 私・三浦の見解は私自身の投稿の中に表明されているから、ここで繰り返す必要もあるまい。 知りたい方は、特に (4)(6)(10)(15)(18)(28)(31)(33)(41) を再読していただければ十分であろう。

1月9日(火) 冬休みが明けて、本日から授業。 今日は火曜日だが、月曜の振り替え授業日である。 2限に捕鯨問題に関する教養科目講義をやったら、途中で喉がかれてしまう。 休み明けは喉が弱っていて、大抵こうなる。

 昼食後、届いたドイツの雑誌”Der Spiegel”(昨年の12月11日号)を見たら、就職するには大学のどの学科が有利かという特集記事が載っていた。 いずこも考えることは同じかなあ。

 それによると、大学で経営工学をやった学生は、就職しての初任給 (月給) が平均3227ユーロ、ということは (1ユーロ155円換算で) 約50万円である。 一方、歴史をやった学生は、1731ユーロ、ということは約26万8千円である。

 ずいぶん差があるなとは思う。 だけれども、日本の国立大学の場合、修士課程を終えて助手になったとしても月給 (基本給) 22万円程度、博士課程を終えた助手でも27、8万円程度なのである。 だからドイツの歴史学科卒の初任給もそんなに悪くないんじゃないか、という気もする。

 もっとも経営工学科卒の学生と歴史学科卒の学生の比較はこれだけではない。 卒業後、最初の定職につくまで6カ月以上かかった学生の割合は、経営工学では7%だが、歴史学では29%、最初の定職が期限付きである割合は、経営工学卒では35%、歴史学科卒では76%、それがフルタイムの職である割合は、経営工学卒で96%、歴史学科卒で66%となっている。 ずいぶん差があるものだ。

 ちなみに、初任給の最低は歴史学科ではない。 別の表が掲載されていて、それによると最低はドイツ語学ドイツ文学科 (ドイツの大学でのことだから、日本流に言えば日本文学科に相当する) で、1598ユーロ、約24万8千円である。 ブービー賞は英米語学文学科で、1663ユーロ、約25万8千円。

 ドイツでは英語ができても有利とは限らない、と考える人もいるかもしれないが、ドイツの教育体系だと英語の運用能力は基本的にギムナジウム (日本の小学校高学年と中学と高校を合わせたような学校) で養成されるから、大学で英米語をやったことが専門的な能力とは見なされないのであろう。 無論、ドイツ語と英語が親戚関係にあって日本語と欧米語の遠い距離とは比較にならないということもある。

1月7日(日) 一昨日に引き続いて、Wikipediaにトーマス・マン 『トーニオ・クレーガー』 の項目を投稿する。 あわせて、トーマス・マン、ハインリヒ・マン、およびシュトルムの 『みずうみ』 に関する記述を増補したり改訂したりする。

 『みずうみ』 は、どうもシロウトが投稿したものらしく、露骨な誤りがあったし、記述に不備が目立った。 私は今年度の前期の教養科目・西洋文学でこの小説を取り上げているから、案外、私が教えた学生だったりするかもしれないね。

 ふう、これだけやるのに結構時間がかかるんですよね。 誰か、手伝ってくれ〜〜!

1月6日(土) 午前中は昨日に引き続きだるかったが、午後から持ち直す。 それで、夕方、N卓球クラブに練習に行く。 今年の初卓球。 うん、体を動かすと快適。 実に気持ちがいい。 しかし現在N卓球クラブは会員不足に悩んでおり、本日来たのは私を入れて5人。 どなたか、入りませんかぁ?

1月5日(金) 暖冬が続いているが、本日はなぜか体がだるい。 数日来続いていた下痢がおさまったからだろうか。 このところ、冬になると慢性的に軽い風邪状態になり、しかも、腹の調子が悪いか体がだるいかの二者択一で、腹の調子が悪いときはだるさはなく、だるいときは腹の調子は良い、という、あっちを引っ込めりゃこっちが出る、という具合になる。

 閑話休題。 Wikipediaの 『ヴェニスに死す』 の項目にトーマス・マンの小説についての記事を投稿しておく。 なにしろ、今までは 『ヴェニスに死す』 についてはヴィスコンティの映画作品についての記述しかなかったのである。 いかに世の中、視覚文化が優勢になっているか、またドイツ文学者が怠慢であるか、をうかがわせるものだと言わざるを得ない。

 今後もWikipediaのドイツ文学に関する記述の充実を図っていくつもりだけれど、誰か手伝ってくれませんかねえ。 独文学者は、独文学会に所属している人だけで二千人以上いるはずだっていうのに、先日MLで激論をかわす中で私がそういう提案をしても (この部分は後日掲載) 誰も乗ってこないのである。 なんで独文学者ってこうもやる気がないんだろうか。

 私はそろそろ、独文学者には愛想が尽きかけている、ような気がする。

 本日は夕方から映画を見に行くつもりでいたけれど、10日が卒論〆切で、原稿を読んでくれと学生が持ってくるし、別の学生は今頃卒論の書き方について相談に来たりするので、断念しました。 原稿は文章などに直すべき箇所が多々あって、読むのにも時間がかかるもので・・・・・

1月4日(木) 昨年の12月に連載していた、独文学会MLでの論争 (2006年11月〜12月) の紹介、今回は(34)から。

(34) 12月6日昼、独文学会理事会より以下の投稿があった。

 C様

 さる12月2日発信された、日本独文学会宛の、「教育基本法改正案」 についてのご要請を急遽検討しましたが、ご要請に応じることはできない、という結論に達しましたので、回答いたします。
 問題そのものについても、学会として公の態度表明をすることについても、会員間で論が分かれると考えられるこの場合、学会全体に責任を負い、かつ対外的にも会長と共に学会を代表するとみなされる理事会としては、声明等を出すべきではないと判断することが、その理由です。
 よろしくご諒承ください。

 2006年12月6日

 日本独文学会理事会

(35)  (34)の直後、C氏より以下の投稿があった。 最初を読めば分かるように、(34)と行き違いになっている。

 皆様

 ここへの私の投稿が、2件、私が学会事務局へ別個に送信したことにより、現在、日本独文学会理事会へ送付されていますので、ご報告いたします。(以下、学会事務局からの返信メール全文引用、全4件です。)(「新情報」の多いのは、「2」と「3」の、私から学会本体へあてた部分です。)
 理事会からの公開の回答、もしくは、検討をお願いした一会員たる私への回答は、おってあるだろうと存じます。

12月6日     **大学 C

 −−−−−−−−−−



 >> From: JGG 日本独文学会B
 >> Date: Tue, 05 Dec 2006 10:40:11 +0900
 >> To: C
 >> Subject: Re: FW: 賛同署名要請:参議院特別委員会への要請書
 >> C 様
 >>
 >> 日本独文学会事務局でございます。
 >> 「賛同署名要請:参議院特別委員会への要請書」というタイトルのメールを拝受いたしました。
 >> 理事会の方へ回させていただきました。
 >> ご確認・ご返信が遅くなり申し訳ございませんでした。
 >> よろしくお願いいたします。
 >>
 >> -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----
 >> 日本独文学会事務局 ****
 >> -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----
 >>
 >> C wrote:
 >
 >>>> on 06.12.1 3:53 PM, E wrote:
 >>>>
 >>>>>> 皆さん、
 >>>>>>
 >>>>>> 教育基本法の改悪はゲルマニストにとってもさまざまな影響を及ぼします。
 >>>>>> 参議院の教育基本法特別委員会各委員に当該法案採決反対の要請書を出します。
 >>>>>> 取扱法及び文面は 〔URL省略〕 をご覧ください。
 >>>>>> 取扱法(3)、(4)に記載しております「出来るだけ、(・・・)メイルにて」は「出来るだけ、当 ML 〔アドレス省略〕は
 >>>>>>  使用しないで、)当メイル発送者(E) 〔アドレス省略〕にメイルにて」とお読みください。
 >>>>>> 趣旨をご理解していただけますならば、この要請書への賛同署名をいただけますと助かります。
 >>>>>>
 >>>>>> どうぞ宜しくお願い申し上げます。
 >>>>>> E(**大学教員)
 >>>>>>
 >>>> 日本独文学会御中
 >>>>
 >>>>  私は、日本独文学会メーリングリストに上記投稿のあった1時間後にE先生に賛同書をお送りしました。
 >>>>  E先生の声明文は、冷静で過不足のない、よい中身だと思います。
 >>>>  また、いくつかの経路をもちいて、個人的に、100人ほどの独文学者に、E先生のご投稿を転送し、賛同を呼びかけました。
 >>>>
 >>>>  さて、水曜の朝刊(朝日)に出ていたように、教育基本法改悪法案は、もう「成立必至」のようです。民主党が、成立阻止を、
 >>>> あまりにも不真面目にしかしなさすぎました。
 >>>>  この法案では、審議完全拒否、全議員地元演説回り、を、すべきでした。
 >>>>
 >>>>  いま打てる手は、E先生のご認識どおり、参議院の教育基本法特別委員会での阻止しか、残っていません。
 >>>>
 >>>>  私は、日本独文学会の一会員として、日本独文学会理事会が、緊急に理事会を開催し(メールによる持ち回り理事会という
 >>>> かたちにおいてであっても)、「日本独文学会理事会」の名で、E先生のアピール文と同様の文章を、参議院の教育基本法特別
 >>>> 委員会と、あらゆる学会およびあらゆるマスコミに送付すること(マスコミにはこれをあらゆる学会に送付したとの事実も付け
 >>>> くわえて)を、要求いたします。
 >>>>
 >>>>  また、最終的に、「日本独文学会理事会」の名でそのような動きをすることはやっぱりできないとの結論にもしなるので
 >>>> あろうとも、上記の私の要求内容を、理事会にて、緊急にご検討下さい。なにとぞよろしくお願い申し上げます。
 >>>>
 >>>> 12月2日    **大学 C
 >>>>
 >>>> 私はこの内容を日本独文学会メーリングリストに投稿して、日本独文学会にもとうぜんに届いているものと思っていましたが、
 >>>> 考えてみると、日本独文学会メーリングリストの宛先には、日本独文学会は含まれていないかもしれません。日本独文学会
 >>>> そのものあてに、再送いたします。
 >>>> −−−−−−−−−−
 >>>> 資料(上記、E氏の日本独文学会メーリングリスト投稿は、メールが長文にならないようにするためにアピール内容は
 >>>> ネットページ掲示とし文中にそのURLが示してあるものであって、そのネットページの内容)
 >>>> 〔URL省略〕
 >>>>
 >>>> 1.  参議院の教育基本法特別委員会委員にメイルまたはファックスにより要請します。大きな新聞社にも送付します。
 >>>> メイルによって送付する場合は〔URL省略〕を使用する場合があります。
 >>>>
 >>>> 2.  要請書の大筋は変えませんが、体裁、表記、表現の一部は削除、追加、変更する場合があります。
 >>>>
 >>>> 3.  要請書の体裁、表記、表現などに適切でない箇所がありましたら、(出来るだけ、当 ML は使用しないで、)当メイル
 >>>>発送者(E)にメイルにてお知 らせください。
 >>>>   なお、質問にはお答えできない場合があります。
 >>>>
 >>>> 4.  この要請に賛同していただける方は
 >>>>     12月4日(月)17時までに
 >>>>     氏名、勤務先、または以前の勤務先、または肩書きを、
 >>>>     出来るだけ、当 ML は使用しないで、当メイル発送者(E)にメイルにて下記賛同書にてお知らせください。
 >>>>
 >>>> 5.  余程のことがなければ、要請書の末尾に賛同者名を五十音順に勤務先などとともに記載して、12月4日20時頃にはメイル
 >>>> またはファックスにて上記各方面に送付いたします。
 >>>>   もちろんE一人でも提出いたします。
 >>>>
 >>>> 6.  Eは、要請した件を要請書、署名者名、勤務先などとともに教育基本法 「改正」 反対団体に通知する場合があります。
 >>>>
 >>>> 7.  この要請書賛同募集は、当面、独文学会ML のみで行っています。経過、結果を含めまして他の団体や ML に通知する
 >>>> 場合にはEにご連絡をいただきたく思います。
 >>>>
 >>>> 8.  この要請書賛同者募集は初心者が行っていますので、手違いが出来するかもしれません。その場合にはご勘弁ください。
 >>>>
 >>>> 9.  要請書末尾の賛同者記載例:
 >>>>      大阪 一郎 (AB大学教員)
 >>>>      九州 二郎 (BC高専助教授)
 >>>>      東京 三郎 (CD大学名誉教授)
 >>>>      北海 四郎 (DE大学非常勤講師)
 >>>>
 >>>> 10.  賛同書
 >>>>    ====================
 >>>>     参議院教育基本法特別委員会への採決反対要請書に賛同します
 >>>>
 >>>>     氏 名:
 >>>>
 >>>>     勤務先、または以前の勤務先、または肩書き:
 >>>>    ===================
 >>>> 
 >>>> ------------------------------------------------------------------------
 >>>> 要請:教育基本法「改正」法案を採決しないでください。
 >>>>
 >>>>
 >>>> 私(たち)は大学などでドイツ語を教えることで大学などでの教育の一端に参加しておりました、または参加しております。
 >>>> 現在貴委員会で「教育基本法の全部を改正」する法案が審議されております。
 >>>> 次の理由で私(たち)はこの法案に反対致します。そして、貴委員会にてこの法案の採決を行わないように要請いたします。
 >>>> 
 >>>> 一 教育基本法「改正」を審議する妥当性について:
 >>>>
 >>>>   立法府は行政府に対して、現行教育基本法の実質的実行を要求してください。現在の教育問題の多くは現行教育基本法が
 >>>> 施政者、行政府などによってないがしろにされているところから発生しています。鳴り物入りで開催された政府による
 >>>> タウンミーティングで現行教育基本法の問題点が指摘されました。ところが、それらの問題点指摘自体が「上から」のやらせや謝礼
 >>>> 支給による動員によってなされた意見誘導であり、情報操作であったことが明らかにされています。
 >>>>   現行教育基本法では「個人の価値をたつとび、(・・・)自主的精神に充ちた」国民の育成を目指しています。やらせや「上から」
 >>>> の謝金をエサにした動員は個人の価値の尊重や自主的精神を冒涜しています。「上から」の権威主義的な意見誘導や
 >>>> 情報操作を大目に見たまま「美しい心」を育てようとするのは「木に縁りて魚を求める」政治です。国に災難を導きかねません。
 >>>>  行政府自身が現行教育基本法の精神を遵守していません。立法府はまず行政府に現行教育基本法の実行を求めてください。
 >>>>
 >>>> 二 「案」は「改正」ではなく、「改悪案」です:
 >>>>
 >>>>   今回の「改正案」は「教育基本法の全部」を対象としております。すなわち現行教育基本法の根幹(基本原理)をも「改正」しようとして
 >>>> います。
 >>>>   現行教育基本法には、その根幹の一つとして「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」が挙げられています。ドイツ語圏諸国
 >>>> の言語、文学、文化などを研究し、教える私たちにとって、この規定はきわめて重要です。私(たち)は多くの若者が「普遍的な文化」に
 >>>> 目を向ける、すなわち人類が共有する文化を理解する、とともに各自の個性に見合った文化を求める契機を与えるだけでなく、
 >>>> その手伝いをしているからです。
 >>>>    「改正案」には「普遍的にして個性豊かな文化を創造する」視点がありません。それに代わって「公共の精神や「伝統の継承」
 >>>> が根幹の一つとして強調されています。ここに端的に見られるように、「改正案」は非常に狭い文化観に依拠しています。
 >>>> 狭い文化観はいずれは「自国のことのみに専念して他国を無視」するような国民を育てます。これは日本国憲法の精神に反します。
 >>>> すなわち、今回の「改正案」は「日本国憲法の精神にのっと」っていません。その意味で、今回の案は「改悪案」です。
 >>>>
 >>>> 三 「案」第七条に現れている大学観について:
 >>>>
 >>>>   「案」第七条は大学について規定しています。同様の規定は学校教育法第五二条にも見られます。学校教育法では
 >>>> 広い知識、深い学芸、「知的、道徳的、応用的能力」の展開が求められています。「案」第七条では高い教養、専門的能
 >>>> 力、真理探究、新たな知見の創造、成果の社会への提供が求められています。「案」には道徳的能力養成が見えません。
 >>>> それに代えて、社会への成果還元が要請されています。大学における自由で自律的な教育、研究、学生生活により学生
 >>>> は知的能力を高めるだけでなく、道徳的、倫理的判断力を深化させなければなりません。
 >>>> 日本の社会は、遠くにおいては自国または自分の周囲のみを後生大事にする閉鎖的倫理観は国に災難をもたらすことを
 >>>> 、近くにおいては「洗脳」が実に簡単に行われ、且つ効果を挙げた実例を反面教師として、倫理的判断の重要性を学びまし
 >>>> た。しかし「案」に現れている大学観にはそれらの教訓が生かされていません。 逆にそれらの災難を
 >>>> 防ごうとする志操や行動を無視、または抑圧して、「洗脳」しやすい社会人を送り出そうとしているように解されます。
 >>>>   大学は開放的倫理観をも養成する機関として位置づけていただきたい。
 >>>>
 >>>> *  「案」におけるこれらの疑問や危惧をご理解いただきまして、当該法案を採決しないよう要請いたします。* 



 >> From: JGG 日本独文学会B
 >> Date: Tue, 05 Dec 2006 16:41:41 +0900
 >> To: C
 >> Subject: Re: 先行研究の哲学上・論理上の地位について
 >> C 様
 >>
 >> 前略 日本独文学会事務局でございます。
 >> 先行研究の哲学上・論理上の地位についてのメールも受信し、理事会へお回しいたしました。
 >> 取り急ぎ、確認のみにて失礼いたします。
 >>
 >> -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----
 >> 日本独文学会事務局 ****
 >> -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- 
 >> C wrote:
 
 >>>> on 06.12.5 10:40 AM, JGG 日本独文学会B wrote:
 >>>>
 >>>>>> 日本独文学会事務局でございます。
 >>>>>> 「賛同署名要請:参議院特別委員会への要請書」というタイトルのメールを拝受いたしました。
 >>>>>> 理事会の方へ回させていただきました。
 >>>>
 >>>> 日本独文学会事務局御中
 >>>>
 >>>>  お世話になります。
 >>>>  お忙しいところ、お手をお煩わせし、申し訳ありません。
 >>>>  さて、次のような文章も日本独文学会メーリングリストへの投稿の一部にしるし、今回はしかし、そのメールの総題の宛先
 >>>> として「日本独文学会」を加えることすら、忘れておりました。
 >>>>
 >>>>  私の投稿の趣旨の首尾一貫として、この件も日本独文学会理事会にお回しいただきたく、よろしくお願い申し上げます。
 >>>>
 >>>> 12月5日
 >>>>      **大学 C
 >>>>
 >>>> −−−−−−−−−−
 >>>>
 >>>> 日本独文学会御中
 >>>>
 >>>>  日本独文学会メーリングリストへの投稿記事において、私が(事実上は他者の発言をその理解できる点と理解しがたい点と
 >>>> を明示的にまとめたものとしてでしたが資格上はこの場合はあくまでも発言例文としてであったのですが)「中学生が、道端でな
 >>>> らずものに因縁をつけられても、学校で右翼に脅迫されても、それは世間の冷たい風の一種であって、まさしくそれこそが世間
 >>>> 勉強であり、つまり勉強であるというものだ。これが常識というものである」としるした、その部分に対して、引用がちがって
 >>>> いるとの発言がありました。
 >>>>  およそ、正しいまとめでも、まとめは原文とは別のものとなります。直接引用も、よく考えて頂きたいのですが、前後関係を引
 >>>> 用者がよほど地の文において正確に代替することができていないかぎりにおいては(そして通常は前後関係の異なる引用がな
 >>>> されます)、引用部分の文意が、地の文の中での引用文の文意とは、少なからず異なるものになるはずです。
 >>>>  日本独文学会は、「6)すでにお伝えしていることですが、審査の基準となるのは
 >>>> 、
 >>>> 1 先行研究をしっかり踏まえていること
 >>>> 2 先行研究にはない新しい独創的なテーゼを提起しそれを綿密に立証していることの2点です。古い先行研究のみに
 >>>> 依拠しているもの、テーゼが十分に新しくないものは採用されません。」(『ドイツ文学109別冊』2003年2月5日発行、42
 >>>> ページ)(私はこの冊子をいま書庫で探し当てることができた、そういう無駄を含んでしまった書庫を持っているということにより、
 >>>> 自分に対する軽蔑をかなり感じています)という題目を唱えていますが、これが哲学的に無意味(上記、同一物の同定性
 >>>> の問題、先行研究を「踏まえる」ということの科学的確認の不可能性)であることは明らかです。(なんだか、別の機会に、
 >>>> 「先行研究にはない」ことを確認することの論理的な不可能性をも指摘したこともすでにあった気もしますが。)
 >>>>  これこそ、自然科学の表面的な模倣を手続き的にだけでっちあげる、擬学かつ偽学であるにほかなりません。
 >>>>  また、それこそ、この「6)」の中身をなすテーゼそのものが、何に依拠しえているのでしょう(それ自身の立場からすると、
 >>>> それ自身の主張は依ってたつ参照先をまさに必要としているはずですが)。当時の編集委員会の署名がなされていますが、委
 >>>> 員の方どなたかの頭に浮かんだ、妄想でしょうか。(このテーゼの出どころ、および 、その十分な権威を、ここでは質問しています。
 >>>> そういう「権威」が出てきたとて、上記の「哲学的に無意味」なものはどうしようもないのですが、自己言及的に無矛盾で
 >>>> は最低限あるのか、いまのばあいは、そこのところをきいているのです。)
 >>>>  日本独文学会は、学会誌編集委員会(査読規定か?)のこの公式内容を、早急に、まともなものに改善してください。(「そこで
 >>>> 新しく示されえている見解の値打ちが十二分なものでないかぎりは、バランスを欠いた非常識さにおける先行研究への無知
 >>>> は認められない」、等。)
 >>>>
 >>>> 12月5日    **大学 C

 −−−−−−−−−−


 >> From: "jgg"
 >> Date: Wed, 6 Dec 2006 10:19:25 +0900
 >> To: C
 >> Subject: RE: 先行研究の哲学上・論理上の地位について
 >>
 >> C様
 >> 拝復
 >>  下記メール拝受いたしました。理事会へお回しいたします。〔以下2行省略〕
 >>
 >> ****************************************************
 >> 日本独文学会事務局 ****
 >> ****************************************************
 >>
 >>>> -----Original Message-----
 >>>> From: C
 >>>> Sent: Tuesday, December 05, 2006 6:36 PM
 >>>> To: JGG 日本独文学会 B; Tsuyoshi Minami
 >>>> Subject: Re: 先行研究の哲学上・論理上の地位について
 >>>>
 >>>> 日本独文学会事務局 ****様
 >>>>
 >>>>  申し訳ありません、理事会に、文書の一部差し替えを願い出たく、ご伝達お願い申し上げます。
 >>>>
 >>>> 12月5日      C
 >>>>
 >>>> −−−−−−−−−−
 >>>>
 >>>> 日本独文学会御中
 >>>>
 >>>>  申し訳ありません、12月5日付で提出した意見書の、一文差し替えをお願い申し上げます。
 >>>>  文意は明らかだったとも思うのですが、私の主張が表面上も自己撞着する虞を排除するため、かつ、先行したおろかな
 >>>> 規定との訣別をより明解にするためです。
 >>>>  最終行の括弧内の一文を、差し替えて、全文をお読み下さるよう、お願い申し上げます。
 >>>>
 >>>> 誤:(「そこで新しく示されえている見解の値打ちが十二分なものでないかぎりは、
 >>>> バランスを欠いた非常識さにおける先行研究への無知は認められない」、等。)
 >>>>
 >>>> 正:(「そこでみずからの頭脳により思索されえ示されえている見解の値打ちが十二
 >>>> 分なものでないかぎりは、バランスを欠いた非常識さにおける先行研究への無知は認められない」、等。)
 >>>>
 >>>> 12月5日    **大学 C

−−−−−−


 >> From: "jgg"
 >> Date: Wed, 6 Dec 2006 12:51:59 +0900
 >> To: C
 >> Subject: RE: 参議院特別委員会への要請書の件 追加資料
 >>
 >> C様
 >>  下記メール、理事会へお回しいたしました。
 >> 取り急ぎ。
 >>
 >> ****************************************************
 >> 日本独文学会事務局 ****
 >> ****************************************************
 >>
 >>>> -----Original Message-----
 >>>> From: C
 >>>> Sent: Wednesday, December 06, 2006 11:54 AM
 >>>> To: jgg; C
 >>>> Subject: 参議院特別委員会への要請書の件 追加資料
 >>>>
 >>>> 日本独文学会事務局 ****様
 >>>>
 >>>>  お世話になります。
 >>>>  「参議院特別委員会への要請書」の件で、理事会に、追加資料の提出をお願いいたします。
 >>>>  よろしくお願い申し上げます。
 >>>>
 >>>> 12月6日   C
 >>>> −−−−−−−−−−
 >>>>
 >>>> 日本独文学会御中
 >>>>
 >>>>  先日ご検討いただくようお願い申し上げた、参議院特別委員会への要請書の件で、追加資料を提出いたしますので、ご参照下さい。
 >>>>
 >>>>  以下に引用する内容のメールが、当該日時当該宛先に、発送されました。この宛先は、参議院教育基本法特別委員会委員の全員と、
 >>>> 一部大手マスコミ(どのアドレスがそれか私には確認できませんが、これをまとめられたE先生の当初のご約束ではそういうことに
 >>>> なっていました)です。
 >>>>
 >>>>  またこの内容は、現在確認しましたが、独文学者にこのことの賛同を求めるために開設された〔URL省略〕というネットページに、
 >>>> そのまま、差し替え公開されています。
 >>>>
 >>>> 12月6日   **大学 C
 >>>>
 >>>> ----------
 >>>> From: 〔アドレス省略〕
 >>>> Date: Mon, 04 Dec 2006 21:59:19 +0900
 >>>> To: 〔政治家三十数名のアドレス省略〕
 >>>> Cc: E 〔アドレス省略〕
 >>>> Subject: 要請:教育基本法の採決をしないでください
 >>>>
 >>>>                          2006 年 12 月 4 日
 >>>> 参議院 教育基本法特別委員会委員各位
 >>>>
 >>>> 私たち 17 名は次のように要請いたします。
 >>>> 
 >>>> 要請:教育基本法「改正」法案を採決しないでください
 >>>>
 >>>>   私たちは大学などでドイツ語を教えた経験を持っています。または現在教えています。そのような形で大学などでの教育の
 >>>>  一端に参加しておりましたし、参加しております。
 >>>>   現在貴委員会で「教育基本法の全部を改正」する法案が審議されておりますが、私たちは次に述べる理由でこの法案に反対します。
 >>>>  そして、貴委員会においてこの法案の採決を行わないように要請いたします。
 >>>>
 >>>> 一 教育基本法「改正」を審議する妥当性について:
 >>>>   貴委員会と参議院は政府に対して、現行教育基本法の実質的履行を要求してください。現在の政府および多くの為政者は現行
 >>>>  教育基本法の精神をないがしろにしています。鳴り物入りで開催された政府によるタウンミーティングで現行教育基本法の問題点
 >>>>  が指摘されました。ところが、それらの問題点指摘自体が「上から」のやらせや謝礼支給による動員によってなされた意見誘導で
 >>>>  あり、情報操作であったことが明らかにされています。
 >>>>   現行教育基本法では「個人の価値をたつとび、(・・・)自主的精神に充ちた」国民の育成を目指しています。「上から」の謝金を
 >>>>  エサにした動員や「やらせ」は個人の価値の尊重や自主的精神を冒涜しています。「上から」の権威主義的な意見誘導や
 >>>>  情報操作を大目に見たまま「美しい心」を育てようとするのは「木に縁りて魚を求める」教育です。国に災難を導きかねません。
 >>>>   この例に端的に示されているように、政府自身も現行教育基本法の精神を遵守していませんし、教育行政において基本法の
 >>>>  履行はまだ決して十分とは言えません。
 >>>>   貴委員会は立法府における重要な委員会として、何よりもまず政府に対して現行教育基本法を誠実に履行するように求めてください。
 >>>>
 >>>> 二 「案」は「改正案」ではなく、「改悪案」です:
 >>>>   今回の「改正案」は「教育基本法の全部」を対象としております。すなわち現行教育基本法の根幹(基本原理)をも「改正」しようと
 >>>>   しています。
 >>>>  現行教育基本法には、その根幹の一つとして「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」が挙げられています。ドイツ語圏
 >>>>  諸国の言語、文学、文化などを研究し、教育する私たちにとって、この規定はきわめて重要です。私たちは多くの若者が「普遍的
 >>>>  な文化」に目を向け、人類が共有する文化を理解するとともにそれぞれの個性に見合った文化を求める契機を与えるだけでなく、
 >>>>  その手伝いをしているからです。
 >>>>   「改正案」には「普遍的にして個性豊かな文化を創造する」視点がありません。それに代えて「公共の精神」や「伝統の継承」が
 >>>>  根幹の一つとして強調されています。
 >>>>   ここに端的に見られるように、「改正案」は非常に狭い文化観に依拠しています。狭い文化観はいずれは「自国のことのみに
 >>>>  専念して他国を無視」するような国民を育てます。これは日本国憲法の精神に反します。今回の「改正案」は「日本国憲法の
 >>>>  精神にのっと」っていないのです。すなわち、今回の案は「改悪案」です。
 >>>>
 >>>> 三 「案」第七条に現れている大学観について:
 >>>>   「案」第七条は大学について規定しています。同様の規定は学校教育法第五二条にも見られます。学校教育法では大学に
 >>>>  広い知識、深い学芸、「知的、道徳的、応用的能力」の展開が要請されています。「案」第七条では高い教養、専門的能力、
 >>>>  真理探究、新たな知見の創造、成果の社会への提供が求められています。
 >>>>   「案」は大学に道徳的能力養成を求めていません。それに代えて、社会への成果還元を求めています。大学における自由で
 >>>>  自律的な教育、研究、学生生活により学生は知的能力を高めるだけでなく、道徳的、倫理的判断力を深化させなければ
 >>>>  なりません。
 >>>>   日本の社会は、六十年前には自国の伝統文化のみを後生大事にするよう強制的に教え込まれた閉鎖的倫理観が社会に
 >>>>  甚大な災難をもたらすことを知りました。十年前には多くの若者に「洗脳」が実に易々と行われ、且つ効果を挙げた
 >>>>  実例を目のあたりにしました。そして、それを反面教師として、倫理的判断の重要性を学びました。しかし「案」に現れている
 >>>>  大学観にはそれらの教訓が生かされていません。 逆に、それらの災難や閉鎖的・集団的暴走を防ごうとする志操や
 >>>>  行動を無視、または抑圧して、「洗脳」しやすい社会人を送り出そうとしているように解されます。
 >>>>   大学は開放的倫理観をも養成する機関として位置づけられるべきです。
 >>>>
 >>>> 「案」におけるこれらの疑問や危惧をご理解いただきまして、当該法案を採決しないよう要請いたします。
 >>>>
 >>>> 〔以下、独文学者の氏名17人分省略。 17人の中には、A氏からE氏までの5名が含まれている。〕  

(36) 上の(35)のC氏の投稿から約50分後、再度C氏からの投稿があった。

日本独文学会理事会御中

 日本独文学会は、過去において、東京教育大学解体(いわゆる「筑波化」)に対して正式に抗議をし、それを承けて、日本独文学会と筑波大学との正式上の断交状態は、90年代になって、和解の象徴として筑波大学で日本独文学会の全国学会が開催されるまで続いていたと、承知しています。

 また、私は寡聞にして存じ上げないのですが、石原東京都知事による、東京都立大学の事実上の学問的解体(「首都大学東京」化)のさいにも、日本独文学会理事会は、反対の態度表明を行なうにいたることができた、と、先日知人よりききました。
 (都立大の時のことは、その現場では、石原慎太郎が思いつきで言いだしたことにすぎないわけだけれども、都の官僚組織がそれにしたがってフル回転をしはじめていて(ヒトラーのドイツみたい)、もう手のつけようがなかった、というふうにきいています。私は、「学問」ということにたいする思い入れは非常に少ないのですが(私自身は学問のお仕着せの土俵はごめんです、しかし、学問というものが人文社会科学においてもしあるとすれば、それは、学問を標榜するひとたちが想定する形式においてとはちがったところにおいてであろうとは思っています)、「学問」を好きな人たち(たとえば法学部の人たちでもそうではないかと思うのですけれど)が、あんな、首都大学東京なんていった「Mitsubishi Bank of Tokyo」(東京三菱UFJ銀行になる前の東京三菱銀行の正式な英語名)みたいなぶさいくな名前はいやだとか(「東京三菱銀行」は、「よその三菱銀行ではなくて東京にある三菱銀行なのである」というんじゃあなく「東京銀行と三菱銀行が合体したから東京三菱銀行」なので、あたりまえですが「Tokyo Mitsubishi Bank」か「Bank of Tokyo Mitsubishi」(でも後者はたぶん英語的に不可)じゃないとだめですから)、「都市教養学部」とか「都市環境学部」とかいった学問に縁もゆかりもない名前は名誉剥奪でいやだとかいったことを、全員が本気で言い出しはしなかったんでしょうか。あのとき、たぶん都立大の学内すらが十分にまとまってはいなかったはずで、あの人たちはそれもできないでいながらやぶれかぶれで独文学会にも賛同を求めた、といったふうだと私は感じており、それがゆえに私は都立大独仏文学の方々には常識的共感以上にはあまり共感しませんでしたから、関心がなく、学会の反応もフォローしていませんでした。)

 おっしゃる、「問題そのものについても、学会として公の態度表明をすることについても、会員間で論が分かれると考えられるこの場合、学会全体に責任を負い、かつ対外的にも会長と共に学会を代表するとみなされる理事会としては、声明等を出すべきではないと判断することが、その理由です。」という理由は、教育大問題のときにも都立大問題のときにも、とうぜんにまったく同様にあてはまったはずです。しかし、学会(理事会だと思うのですが)は、反対の表明をした。

 さらには、日本独文学会理事会は、学会機関誌欧文化、学会機関誌発行回数の朝令暮改の改変を、非常に多くの学会員の反対が当然ながら予想されるのもかかわらず理事会で独断決行し(文部省からもらうかねの額の多寡を理由としていたと思いますが、そのようなことは、アメリカのイラク攻撃における「大量破壊兵器の存在」を理由としたがじっさいにはイラクが貿易をドル建てからユーロ建てに変えたのが理由だったのであり「大量破壊兵器の存在」はなかったことが衆知のとおり明らかになっていることと似て、じっさいには、学会の財布にとってなにの利益ももたらさず、たんに学
会誌の質的低下と学会の金銭負担の増加のみを帰結しました)、総会では、手続き的にあまりにも非民主的なやり方で事後承諾をえました。(私はその早朝少人数のシャンシャン総会に出席して反対意見を述べることは、そこまでピエロになるつもりはありませんでしたから、現理事会のうち良識を有されるはずの個々の方々がそうなさらなかったと同様に、しませんでした、できませんでした。)


 これらの声明行為・決定行為と、私の求めるこの件での声明が上記の理由で出せないということとの不整合を、どうご説明されますか。


 また、理事会としての、当時と現在の統一性(一体性)を、どうご認識されますか。


 学会機関誌欧文化、学会機関誌発行回数の朝令暮改の改変を、非常に多くの学会員の反対が当然ながら予想されるのもかかわらず理事会で独断決行し、総会において非民主的なやり方で承諾をえ、じっさいには、学会の財布にとってなにの利益ももたらさず、たんに学会機関誌の質的低下と学会の金銭負担の増加のみを帰結したことについて、現理事会は当時の理事会員個々人に対して謝罪と個人的損害賠償(学会機関誌発行費増加分の個人的補填)を要求すべきだと、もちろん考えますが、なぜ、しないのですか。

 この3点をご検討・お答えの上、再度、私の要請を、ことの重大性にかんがみつつ真剣にご検討いただきたく、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

12月6日   **大学 C

(37) 12月6日午後、(36)のC氏の投稿から1時間あまり後、再々度C氏からの投稿があった。

 〔宛名として独文学会理事三十余名の氏名が最初に記されているが、省略〕

追伸

 ことは、一見、手続的正統性と内容的正義性をめぐる、アポリアであるかのように見えます。

 もちろん、それが一種、アポリア的形式(それこそ形式)の相貌をしていることは、私も認めます。

 しかし、ことはもっとずっと本質的で、かつ、単純です。

 過去の教訓を持っているにもかかわらず、あの第二次世界大戦に巻きこまれていった過去の日本人ドイツ人たちのように手続的正統性を優先してしまうのか、それとも、内容的正義性をちゃんととることができるのか、という、あなかがた個々人の、理性的自律、人格的本質が、まさしく瞬間的に、問われているのにすぎないのです。

 広い意味での「人道上の罪」(狭い意味では、第二次大戦後戦勝国が作り敗戦国を裁くのに用いて以来、また、イスラエルがナチス収容所大量虐殺犯罪人を裁くのに用いて以来、国際法上げんざい有効である概念です)に相当することに、まさに形式的な整合性を理由として、あなたがた個々人が加担してしまうのか、それとも、人道上の罪に類すること(とうぜんに、あなたがたは、私の要請をしりぞければ、わずかなりといえども、のちの歴史によって裁かれましょう)を犯してしまうことをまぬがれるのか、たったそれだけの、問題なのです。

 もっと申しておきます。あなたがたは、私の要請に、第一回目の答としてはご返信のようなお答えしかなさることができなかった、そんなざまで、ほんとうに、ドイツの知識人たちと、ドイツ語で会話が通じているのですか。
 現代ドイツの知識人たち全員にとっては、あなたがたの出された答案は0点以下、ほとんど意味不明なのではないでしょうか。
 私は1989年に京都に赴任して直後、論文のドイツ語レジュメを見ていただくことを、当時知りあったばかりの、**大学に永年勤務されていた(いま学会会員名簿を見ると現会員として名前がないので実名を出すことにしますが)****氏にお願いしたのですが、氏は、私の文章を2回ほどざっと見て、真っ赤になっていかって、「文法だけ合っていて、内容がまったく理解できない。私の知っている限りの日本人は、すべてこうだ、百%こうだ、そしてあなたもこうなのか!」とわめき散らし、私に文章を突っ返して返っていきました。私のその論文は、私が2冊の著書にも再録しなかった、「〔タイトル省略〕」というもので、当時本人が思っていたほどのできでもなく、そしてレジュメは、****さんにはたしかに申し訳ないことに、私としてはレジュメになんかできるわけはないというつもりでたしかにアリバイ的に書いたものでしたから、半ば確信犯
的に「言語明瞭意味不明」にしてあったのですが、私がその後連絡して代わりに見ていただいた****先生(この方も学会会員名簿にお名前がありませんが私はこの方にもドイツ語を習いました)も、「表面的にはin Ordnungだが、たしかに私にも理解はできない、しかし、****さんがおこったということもまた理解できない」と、おっしゃいました。でも、****氏はたしかに、「日本人は、すべてこうだ、百%こうだ」とおっしゃったのです(また私もげんざい、学会機関誌等のドイツ語レジュメを見ていて、これのドイツ文検閲をしたドイツ人はたぶん文意を完全に誤解しているから、標題のこの単語をそのまま残させたのだな、と感じるようなこともあります)。あなたがたは、ほんとうに、会話するドイツ人知識人に、そう思われずにちゃんと会話ができているのでしょうか。

 このことをよくご理解いただいた上で、二回目のご回答を賜りますよう、なにとぞよろしく、お願い申し上げます。
 この件で、よほどご回答に(それこそ)形式上の不都合がないかぎりは、三回目の要請(あなたがたにとっては三回目のチャンス)はありません。

12月6日     C

(38) 12月6日午後、E氏より下記の投稿があった。

日本独文学会理事会 御中

 表記メイルを拝見いたしました。
 この回答には幾分納得しがたい点があります。

 >> 問題そのものについても、学会として公の態度表明をすることについても、会員間で論が分かれると考えられるこの場合、
 >> 学会全体に責任を負い、かつ対外的にも会長と共に学会を代表するとみなされる理事会としては、声明等を出すべきではない
 >> と判断することが、その理由です。

 を次のように(または、次のような趣旨に)改善していただきますようお願い申し上げます。

 「問題そのものについても、学会として公の態度表明をすることについても、会員間で論が分かれると考えられるが、
  この場合、日本における教育機関でのドイツ語教育及び日本におけるドイツ学の発展に責任を負う学会の長とし
  て、かつ対外的にも会長と共に学会を代表するとみなされる理事会として次のように意見を表明する。

    現在参議院教育基本法に関する特別委員会で審議されている教育基本法改正案には、日本の将来の教育や文化全般
   ならびにドイツ学の普及に好ましからざる影響を与える可能性が否定できません。
    私たちは、特別委員会が基本法改正の影響を十分に考慮し、慎重に審議するとともに、国家 100 年の計を審議している
   重責を認識していただき、審議打ち切りや強行採決などによる不本意な採決は避けられるよう求めます。

   2006 年 12 月 x 日」

 どうぞご検討いただきますようお願い申し上げます。

 〔以下、数行省略〕

 
(39) 12月7日早朝、C氏より以下の投稿があった。

皆様・理事会御中

 夕方からは、それまでの現代経済の本を読み終え、納品された柴田翔『詩への道しるべ』を読み始め、こころ洗われる思い。青少年向けなのに、さすが、文学(とは、まさしく「反文化としての芸術」、『内面世界に映る世界』附論第四章507ページ〜参照)、12ページ「人間は生まれてから死ぬまで自分の皮膚の内側に閉じ込められていて、いつも自分の気持ちに囚われ、自分の心や目の見る風景が、世界の唯一の風景だと思い勝ちです。しかし例えば詩を読む。そしていろいろな詩の中に潜む、自分でない人間の気持ちの動き、自分でない人間の心や目に映った風景──そこに自分をゆだねてみる。そのことで、自分の狭い世界が壊れる。その外側の世界を探ってみることができる。自分を閉じ込めている〈自分〉という檻から出ることができるのです。」きょう昼のTagespolitikを離れ、(石に嗽ぎ)流れに枕す思い。(繰り返せばもちろん文学はTagespolitikをも内在しますが。)

 夜、あすの授業準備で、フォイエルバッハ、マルクス、カント、シラー、ゲーテを確認。マルクスの価値論と剰余価値論と資本蓄積論の関係を再確認。ネットでこのまえ見つけた池田信夫という経済学者(的確な小林慶一郎批判)のページに不思議な書評のあった、柄谷行人のマルクス誤読(池田はしかしマルクス正読もマルクス誤読も知らない)が、存外、近経系の現代経済論に近いことの、マルクスとの考え合わせ。

 これから、朝ハードディスクに録ってあるZDFのニュースを見て、寝ます。日課どおり。

 〔以下数行省略〕


12月5日〔ママ〕     **大  C

 まだ終わっていないが、内容的に切りがいいので、以下は次回ということで・・・・・・

1月3日(水) 今年の1月上中旬は新潟市では年始のクラシックコンサートがない。 ここ数年、1月には大抵外来の小編成オケが新年コンサート (と言っても元旦を数日ないし十日以上過ぎてからだけれど) をやっていたのに、今年はどこも (県も市も地元民放も) 呼ばなかったようだ。

 そうなると、やっぱり淋しい。 要するに景気が悪いんでしょう。 市も県も財政難だし、民放の懐具合がどうかは私はよく知らないが、地元の景気が悪いんだからそれに比例して悪いのかも知れない。

 切り抜いておかなかったので正確な引用ができないが、昨年12月の毎日新聞新潟地方欄に、新潟市と首都圏の某都市の住民収入比較が載った。 数年前との比較で、収入の低い下層の割合が新潟市ははっきり増えているのだという。 一方首都圏の某都市はそうでもないということで、首都圏と地方都市の格差が開いていることが示されていた。

 その表によると年収700万以上は上層に入るのだそうで、そうなると私も晴れて上層の仲間入りということになるが、実感がないのはともかくとして、新春コンサートも開けないような状態ではとてもじゃないが景気回復からは程遠いと言わざるを得ないだろう。

 こういう時こそ、外来音楽家の値段の高いコンサートではなく、地元音楽家が安価な新春コンサートをやってほしいものだが、これも全然ないのである。 新潟の春は遠いのだろうか・・・・・

1月1日(月) 明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願い申し上げます。

 元旦、晴れ時々曇り。 新潟にしては珍しくよい天気だ。 仙台から戻ってこない長男を除いた一家四人で初詣にでかけたが、混むところは嫌だから、近くの内野町にある小さめの神社を3社回って済ませました。 そのうち1社は初めてだったが、なんと建物が自治会集会所を兼ねている。 実におおらかで地域社会の知恵 (?) をうかがわせる神社でした。

 そのあと小6の娘のリクエストでジャスコに向かう。 私と高2の次男はやることがないのでジャスコの中にある書店へ。 実はこの書店に来たのは久しぶりだったが、しばらく見ないでいるうちに面積が増えてかなり充実しているのにびっくりした。 雑誌の数も増えている。

 それで 『別冊文藝春秋』 の教育特集を立ち読みしていたら、内田樹がいいことを書いていた。 日本の大学は少子化のあおりで学生のご機嫌とりに終始しており、幼稚園児にも分かる事柄だけを教えるようになる日も遠くないだろう、と苦言を呈しているのである。

 まったく、その通りなのである。 私の身近なところを見てもサブカルを用いての学生のご機嫌とりが目立つ。 

 昨年 (今年度) 前期の授業で 『アメリカの反知性主義』 という分厚い翻訳書を読んだら、学期末の感想に 「難しいからもっと易しい本にしてほしい」 と書いた学生がいた。 困るんですよねえ。 実は内田樹も授業でこの本を読んだことをネット上に書いているので、私は後日、次のように言っておいた。

 「神戸女学院大でも授業でこの本を読んだそうですよ。 皆さんがもし、この本は難しいから嫌だ、と言ったら、皆さんは神戸女学院大の学生に負けていることになる。 新潟大生はもしかすると財布の中身では神戸女学院大の学生に負けることはあるかも知れない。 しかし頭の中身で負けてはいけませんね」

 こういうふうにして遠くにある大学にライバル意識 (?) をかきたてないと、地方大学の学生はどんどん安易な方向に流されてしまう。 文字通りの田舎者になってしまうのである。 大学の授業でサブカルをやるってのは、私には田舎者を大量生産する手段としか思われないのだが・・・・・。

 

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