新潟大学広報委員会委員は日本語が読めない――または「語学教育改革」のデタラメ

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  以下の文章は、私が出していた(現在休刊中) 雑誌 『nemo』 第7号 (2000年4月) に掲載されたものである。 元のタイトルは、 「新潟大学広報委員会委員は日本語が読めない――新潟大学学報と 『大学改革』 のデタラメぶりについて――」 であった。

 「大学改革」に際しては様々な言説が飛び交うが、肝心なことは、それが客観的に見て正しいかどうかを具体的なデータを挙げつつ検証することである。 でないと 「改革」 は、文科省の 「ゆとり教育」 のごとく、何ら合理的な理由付けをなされないままシロウトの大ざっぱでいい加減な見通しだけで進められることになる。

 「ゆとり教育」 は、しかし各方面から厳しい批判が行われたために、文科省としても軌道修正をはからざるを得なくなっていることは周知の通りだ。

 では、「大学改革」 はどうだろうか。 実はこれがかなりデタラメなのである。 「ゆとり教育」 のように外部からの厳しい視線が入らず、とにかく制度をいじっているのだから改革してるでしょというナアナア主義がまかり通っているのだ。 おまけに、その改革の方向性は文科省官僚の作文通りだったりするのであり、初等中等教育より高等教育の方で無能な官僚の方針が貫徹されるという悲惨な事態になっている。

 また、そうした大学改革において大学内部で相互批判を抹殺しようとする動きが露骨に出てくることも大問題である。 

 私が自前の雑誌『nemo』を創刊したのも、新潟大のドイツ語教師たちが卑屈な自己検閲をはかり、大学改革の実態を告発した私の文章をドイツ語教員が発行している雑誌から締め出したためである。 

 以下の文章は、新潟大学の「語学教育改革」の内実と、それがいかに実態をねじ曲げて外部に伝えられるかの実例でもある。

 

             

 新潟大学学報第617号 (1997年11月1日付) に、人文学部教授・木村豊氏の 「外国語教育の新しい設計思想」 という文章が載った。 杜撰で誤りだらけの代物なのであるが、まずそのまま引用する。 なお傍線は引用者によるもので、特に問題のある箇所である。

     *             *

 言語に関する教育研究を主とする学部は人文学部である。 人文学部が考案した新しい設計思想に基づく外国語教育がいよいよ来春から始まろうとしている。 それは全国に類を見ないものだ。―

 世をあげて規制緩和が叫ばれている。 大学の太平の眠りを覚ます規制緩和は 「設置基準の大綱化」 という形で始まり、これを承けて全国でさまざまな改革の提案がなされ、また実行にうつされた。 新潟大学も激震を免れず、多大の痛みをともないつつも、制度疲労にメスを入れ、実効の上がらなくなった従来の教育制度の見直しを図っている。

 外国語教育の見直しもそのひとつである。 読めない、書けない、話せない外国語教育にたいする批判は、大学批判の有力な材料になっている。本学の場合、初修外国語ではかつて平均80人を超えるクラス規模であった。 専任教官でいえば高々数十人、それが毎年入学してくる2000人を超える学生を相手にしていたのである。 批判にさらされた教官達は学生の学習意欲を維持しようと、教材や教授法の工夫改善に努めた。 外国語修得は、目に見える成果が期待されるという意味で、「お稽古ごと」 と似たところがある。 しかし80人相手の 「お稽古ごと」 はそもそも成り立つであろうか。 必修の枠があったため、そう問うことは許されなかった。 教官も学生も八方ふさがりだったのである。

 全学一律の必修を見直そう、外国語教育にも規制緩和を、という認識はこうして生まれた。 改革は、平成五年度に実現した 「少人数クラス制」 以来、段階的に少しずつ形を整え、来春にはついに全国初の試み、外国語の 「複層教育」 が始まろうとしている。 習いたい外国語を習いたいだけ習える(重点学習)。 選択したいときは各国語の情報を得たうえで自分の関心に合いそうな言語が選べる(言語文化基礎講義)。学習効果のわかる質の高い教育が受けられる (集中コース)。 このような当たり前のことが今実現しつつある。 役に立たない外国語という批判の前に今なお立ち往生している大学もあると聞く。 幸い新潟大学は外国語教育に関しても先陣をきることができた。 単位を強要する従来の悪平等の 「一律強制教育」 から、自由な 「複層的教育」 へ外国語教育は大きな転機をむかえている。

     *               *

 この学報を読んだ私は、学報の発行に携わっている新潟大学広報委員会第二部会の会長である大熊孝・工学部教授に次のような学内便を送付した。

大熊孝先生

    1998年1月28日  人文学部 三浦 淳

 新潟大学広報委員会の第二部会長をされている先生に、以下の件で申し入れを行いたく、筆をとりました。

 広報委員会第二部会は学報の発行に携わっていますが、新潟大学学報617号に人文学部・木村豊氏の 「外国語教育の新しい設計思想」 が掲載されております。

 この文章は、外国語教育に関する諸問題をいっさい顧慮せず、独断と偏見に満ち、新潟大学の語学教育の実態を歪んで伝えるものと言わざるを得ません。

 したがって、この木村氏の文章に対する同封の反論を学報に掲載していただきたく、お願いするものです。これは新潟大学の教養教育に関わる重大な事項であり、個人的な意見の相違といったレベルの事柄ではありません。

 以上、はなはだ勝手ながらよろしくお願いいたします。

 

(同封した反論文)

 学報617号の木村豊氏の文章を批判する

 学報617号の 「教育研究情報」 に、人文学部・木村豊氏の 「外国語教育の新しい設計思想」 が掲載された。 その内容には到底承伏しかねるので、ここに批判の一文を草するものである。

 まず最初の太字で印刷されている文章に、「言語に関する教育研究を主とする学部は人文学部である」 とある。 しかし数年前の教養部解体にともなう改組の際の旧・人文学部の態度を記憶する者なら、「それは嘘でしょう」 と言うであろう。 人文学部は教養部語学系の提案した言語課程を拒み、言語課程は人文学部にふさわしくないと言い続けたからだ。 そして改組後も単独で教養外国語の責任学部となることを回避したのである。

 過去のことはその程度にして実質的な批判に移ろう。 木村氏は文の締めくくりで、選択制の新システムを紹介した後、「単位を強要する従来の悪平等の 『一律強制教育』 から、自由な 『複層的教育』 へ外国語教育は大きな転機を迎えている」 と述べている。 なるほど、新システムがそれほど素晴らしいなら、人文学部自身がまっさきに採用するのだな、と氏の文章を読んだ人は誰もが思うであろう。 ところが実際はどうか。 このシステムを、「言語に関する教育研究を主とする学部」 であるはずの人文学部は採用しないのである。 採用するのは理系学部だけだ。そして、これが悪質なところだが、そのことに木村氏はいっさい言及していないのだ。

 なぜ人文学部は新システムを採用しないのか。 理由は簡単である。 それが学生の語学力養成に役立たないことが明瞭だからだ。 特に 「言語文化基礎講義」 なるものは、実際に語学をやらずに単位だけはとれるという安易な代物で、教師の側としても大人数で講義ができるからコマ数負担減になるという狙いで作られたに過ぎない。 要するに語学教育からの撤退である。 そしてこれを理系学生にとらせ、しかし自学部の学生には 「一律」の必修制を課す、というのが人文学部の二枚舌的な身ぶりなのである。 他学部の教養語学教育はどうでもいい、しかし自学部学生の語学力は確保しなければ、というのだ。 肝腎な部分を抜かした木村氏の文章は、そうした人文学部語学系教員の意図を覆い隠すためにこそ書かれたのだと言っていい。

 「少人数クラス制」 や集中コースについても、その効果を過大に見るべきではない。 これはすでに5年前に導入されているから、その成果はすでに問われる時期になっているが、ドイツ語に限って言えば大きな効果があったとは思われない。 その指標となるのがドイツ語検定2級受験者の数である。 3・4級は基礎的な語学力で合格するので従来の教養語学でも受験可能だが、2級はハイレベルなので 「目に見える成果」 を測るには格好の物差しである。 ところが新潟の2級受験者数は、ここ3年間を見ると、札幌・仙台・広島・福岡といった地方制令指定都市はもとより、金沢・岡山・熊本といった同規模のどの都市と比較しても少ないのである。 「学習効果のわかる質の高い教育」 の 「先陣をきった」 結果がどの程度のものかは一目瞭然である。 ただし私は集中制の意義を全否定するものではない。 ある程度の効果は認めるが過大な評価は不当だと言いたいだけである。

 そして何より、集中コースの陰で一般コースがないがしろにされたり、集中コースから人文学部以外の文系学生が追い出されたりといったマイナスの現象が少なからず起こっているのだ。 紙数もないのでつづめて言うが、語学のようにつらい授業を 「自由」 の名のもとに選択制にするのは百害あるのみである。 何より人文学部自身がそうしているように、「悪平等」 の必修制こそが学生の学力を維持することを教育者は肝に銘じるべきであろう。

   *                 *

 これに対して大熊氏から次のような返信があった。

 

1998年2月6日〔ファックス〕

三浦淳様

新潟大学広報委員会第二部会長 大熊孝

 お手紙拝見しました。

 あの記事は人文学部にお願いして書いてもらったもので、いまの学報の性格上、私としては単純に反論を掲載するわけにはいきません。

 ただし、現在の学報を活性化するため、4月号から投稿欄を設け、教職員の意見を載せる方向で検討しています。 その趣旨や投稿規定は3月号にのせる予定です。

 時間的にずれが生じ、誠に申し訳ありませんが、改めてそこにご投稿いただきたく、お願い申し上げます。

 ご賢察のほどお願い致します。

            *               *

 私はこれに対し次のような返信を送った。

 

大熊孝先生

    1998年2月9日     人文学部 三浦 淳

 先に手紙を差し上げた件に関して早速お返事をいただきありがとうございました。

 しかし内容には納得しかねますので再度筆をとります。

 私の考えでは、明らかに誤った記事が学報に載った場合、それを取り消したり訂正したりする必要があると思います。 私の批判文はその意図で書かれたものですが、先生は 「学報の性格上、反論は掲載できない」 と書いておられます。

 これは、新潟大学学報はいかに誤った記事を載せても訂正しないという意味でしょうか?

 私の見るところ、学報の編集部には木村氏の文章の内容の不備をチェックするだけの力量がなかったのではないでしょうか。 だから誤りだらけの氏の文章をそのまま掲載してしまったのでしょう。 したがって、第三者 (木村氏と学報編集部以外の新大関係者) からその不備を指摘された場合、批判文の内容が正しいかどうかの確認作業をし、正しいと確認できれば掲載しなくてはならないのではないでしょうか。

 明らかな誤りを、いったん載ったからという理由でそのまま放置するのは、学報編集者として無責任であるばかりでなく、学者としてもあるまじき態度であると私は考えます。

 以上の疑問点について、責任ある回答をお待ちしております。

     *             *

 大熊氏からはさらに次のような返信があった。

 

1998年2月19日〔学内便〕

三浦淳様    

                新潟大学広報委員会第二部会長 大熊孝〔押印〕     

 98年2月9日付けのお手紙拝見しました。

 まず、「新潟大学学報はいかに誤った記事を載せても訂正しないという意味でしょうか?」 と質問をいただきましたが、誤った記事であるならば訂正することは当然と考えています。 ただ、この語学教育に関する記事の場合、木村先生と三浦先生のどちらが正しく、どちらが誤りなのか、判断することは不可能であると考え、近く学報に投稿欄が設けられるので、そこへの投稿をお願いした次第です。

 今回、このお手紙をいただき、私個人で判断する段階でないと考え、2月18日に広報委員会第二部会を開催し検討いたしました。 その結果、ちょうど学報を活性化するために投稿欄を設ける作業を進めてきたところであり、今後とも原則として、このような意見は投稿欄に掲載するということになり、今回は以下のような結論になりました。 よろしく御賢察の上、学報に新たに設けられる投稿欄に、その投稿基準に則り御投稿いただきたくお願い致します。

 なお、投稿募集記事は学報3月号に掲載の予定です。

(1)学報第617号に掲載の教育研究情報 「外国語教育の新しい設計思想」 (文 人文学部ヨーロッパ文化講座教授 木村豊) は広報委員会からの人文学部への依頼原稿であり、広報委員会第二部会は調査機関でもなく研究機関でもなく、誤植や明確な誤りでないかぎり、その内容の是非について判断する立場にはない。

(2)98年1月28日付けの三浦淳氏の 「学報617号の木村豊氏の文章を批判する」 の内容も一つの見解であり、その是非を判断することはできない。

(3)「外国語教育の新しい設計思想」 が明確に妥当性を欠く記事であると判定できないかぎり、これを訂正するという立場で反論を載せるわけにはいかない。

(4)三浦氏の反論は、語学教育のあり方に関する論争という観点から投稿原稿として扱うべき性質のものである。ただ、現行の学報は論争の場ではなく、投稿欄はないが、近く投稿欄が正式に発足するので、そこに投稿をお願いするのが妥当である。

 以上

     *               *

  私はこれを読んで、あきれかえってしまった。まともに日本語を解する人間なら、木村氏と私の文章が両立しないものであることはすぐ読みとれる。 両立しないなら、どちらかが正しくどちらかが間違っているのであり、それを調べることは容易なはずだ。 新潟大学広報委員会の委員たちは日本語を読む能力がないものと断ぜざるを得ない。

 また、「調査機関でもなく研究機関でもな」 い機関であるなら、そもそも誤りかどうかを判断する力もないということになろう。 ならばどんな原稿が提出されても 「是非を判断することはできない」 のだから、すぐに掲載すればよさそうなものだ。 なのに木村氏の原稿は採用し、私の原稿は投稿としてしか扱わないというのは、明らかな論理的矛盾である。

 こういう無能力な教員が教えていて、新潟大学は大丈夫なのだろうか。私は深く憂慮せざるを得ない。

 最後に、大熊氏に送付した文章では触れなかったが、木村氏の文章のさらなる誤りに言及しておく。 「初修外国語がかつて平均80人を超えるクラス規模」 とあるのは嘘である。 外国語によってはそういうクラスがあったことは事実だが、教養部教員の努力により少しずつ改善がなされ、教養部解体直前にはドイツ語でいえば初級クラスで平均70名程度だった。 これは再履修者を含む数であり、新入生だけなら50名台であった。 中級クラスはさらに少なく、50名を割っていた。 無論これでも威張れる数ではないが、根本的な原因は学生数に対して十分な教員数が確保されていない日本の高等教育行政の貧しさにあるのであって、それが現在でも変わっていない以上、「以前は全然ダメ、今は素晴らしい」 というような言い方は悪質なプロパガンダ以外の何物でもない。

 前回本誌で批判した金子一郎氏も、学会発表で教養部存続時のクラス定員を実際より多く述べて、いかにも教養部解体後の 「改革」 がうまくいっているかのような印象を与えようとした。 私は学会の際にはその場で金子氏の誤りを指摘したが、こういう詐術的な論法を使う人間は学者の名に値しないし、そういう人間が前面に出て押し進められる「改革」もまともなものとは到底言い難いであろう。

                                                                               (サイト転載 2002年9月14日)                               

 

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