音楽雑記2002年

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12月31日(火) 昨日深夜から老母の住む船橋に一家を連れて来ている。 本日は一人で銀座に出て、映画を2本見、山野楽器でオトテール作品集などCDを3枚買う。 

 山野楽器はおおみそかバーゲンをやっていたけど、それより普通のCDを割り引いてくれませんかね。 そうでなくともここの割引システムは、千円でスタンプが1個でそのスタンプが50個たまらないと割り引いてくれないというシロモノで、私のように年に数回しか東京に来ない人間には役立たないものだから。 利用した1割が次回に代金割引に使える石丸電気を見習って欲しい。

12月23日(月) 午後4時から、りゅーとぴあでバッハ・コレギウム・ジャパンによるヘンデル 「メサイア」 の演奏会。 指揮は鈴木雅明。

 メサイアの演奏というと、2年前に新潟に来たシックスティーン合唱団&管弦楽団の公演を思い出す。 あの演奏があまりに強烈だったので、この夜のBCJの演奏も悪くはないけど、あまり強い印象を残さなかった。 中庸を得たヘンデル、という感じ。 日本人がメインだから、ということもあるかも。

 ヘンデルのオラトリオは、私も余り多くを知らないが、バッハの受難曲に比べると求心性に欠けていて、いい曲も含まれているのだけれど、全体として深いインパクトを与えてくれないように思う。

 それと、最後の拍手、もう少し余韻を味わってから始めて欲しかったなあ。

 私の前席のオバサン、前半は2曲目で(!)船をこいだり、羽織ったケープをやたらいじりまくって身体を動かしっぱなし。 後半も左右後ろをきょろきょろするなど全然落ち着かなかった。 どうも隣の友人に誘われて来たらしいのだが、休憩を入れて3時間の公演は興味のないシロウトを誘うには酷だということは、考えておいた方がいいんじゃないでしょうか。

 Cブロック、5列13番にて。

12月21日(土) 夜6時半より、りゅーとぴあにて、新潟大学管弦楽団第39回定期演奏会。 指揮は河地良智。

 この夜は、用事があって7時20分までしか会場にいられなかった。 それでも開演が6時半だから、前半のプログラムは全部聴けるだろう、という目算だったが、はずれてしまった。

 まず、開演が遅れた。 団員が舞台に出始めたのが6時40分。 この日は県民会館でも催し物があったようで、駐車場が満杯になったらしく (ちなみに私は6時5分頃に現場に着いたが、りゅーとぴあと県民会館の駐車場は満車の表示が途中の道路掲示に出ていたので、最初から陸上競技場に入れた。 私が入れたときはまだ相当空いていたが)、遅れてくる客が目立った。 そのことへの配慮からであろうが、私のような客には迷惑である。

 次に、第1曲の 「運命の力」 序曲が終わってから団員がいったん全員引っ込んでしまった。 2曲目のベートーヴェンの第1交響曲は編成が小さくなるからだが、それにしてもわざわざ全員引っ込むほどなのだろうか。

 お陰で時間がとられ、遅れて始まったこともあって、第3楽章が終わったところで私は退席を余儀なくされた。 うーん・・・・・・・・。

12月16日(月) 前期の1年次向け教養演習のレポート、返却するという掲示を出してもなかなか学生がとりにこないので、仕方なく学務情報システムを使って一人一人に 「返却中ですよ」 というメールを10月末に送っておいたのだが、それでも取りに来ない輩が何人かいる。

 今は皆ワープロでレポートを書くから、フロッピーに内容は保存されているわけで、だから返してもらわなくてもいい、という考えなのかも知れないが、教師である私の講評が添付されているのですよ。 成績が決まっちゃったら、講評を読もうが読むまいが関係ない、ということなんだろうか。 しかし、講評を読んでおけば、これから他の授業でレポートを出すときに役立つことが書いてあったりするんだけどねえ。

 ちなみに、取りに来ない学生は、例外なくレポートの出来が良くないし、授業中の発言も少なかった。 これは偶然ではあるまい。 

12月14日(土) 午後3時から、ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場によるモーツァルト 「魔笛」 の公演を見る。 県民会館。

 書き割りはシンプルで、2幕を通して同じだし、演出も特に奇をてらわないオーソドックスなもの。 

 中で目を惹いたのはパミーナであった。 声質が美しく歌がうまいだけでなく、笑顔がチャーミングで身のこなしも優美。 本当に王女様みたいで、うっとりしてしまった。 彼女のアリアが終わるたびに会場からブラボーの声が上がったのは、偶然ではない。 このパミーナの歌を聴き姿を見ることができたのだから、今日は高いチケットを買って来てよかったと思ったことであった。

 ザラストロもよかった。 役に合致した威厳のある歌いぶりだ。 夜の女王は、やや声質が細いが、高音はよく出ていたので、まあまあといったところ。

 一番ダメだったのは、タミーノであろう。 歌もさほどうまくないし、小柄で風采が上がらない中年男で、王子様って感じが全然しない。 下僕ならともかく。 

 1階14列29番の席にて。

12月12日(木) 本日はスコップを持参してバスで学校に行き、車の下の雪をかきだして、どうにか脱出し、ガソリンスタンドに直行する。

 さて、夜7時からいつものようにH卓球クラブに練習に行く。

 このクラブで一番卓球が強いのは、Sさんという30代 (推定) の女性である。 戦型はペンの表ソフトで、低い球でもバンバンとスマッシュを決める。 小柄ながらフットワークがよく、端に球を送っても打たれてしまう。 反射神経がいいので、逆にこちらがスマッシュをした場合には、かなりの頻度で返されてしまうのである。 

 最近は 「男まさり」 という言葉は差別用語になるらしいが、或る婦人に言わせると 「あの人は男なのよ」 ということになるほど、男形無しの強さである。 無論、ワタシなどは遠く及ばない。 それでいて、一方では主婦的な気配りの人でもあるので、皆の受けもいいのである。

 さて、本日の前半はそのSさんと一緒に練習した。 練習時には沢山ボールを使うが、Sさんは途中で 「このボール、小さいのじゃないですか」 と言う。 卓球のボールは以前は直径38ミリだったが、昨年初頭からルールが変わって40ミリとなった。 古いボールは試合では使えなくなったので廃棄処分にしたはずだが、たまに処分しそこねたボールが紛れ込んでいることがある。 その古い38ミリのボールではないか、というのである。

 練習を中断してボールを手に取ってみたら、その通りだった。 「そうでしょう、飛んでいるのを見て小さい感じがしたから」 とSさんが言うので、ワタシはびっくり仰天した。 小さいと言っても、わずか直径2ミリの差である。 ワタシの場合は、手で握ってみれば感触で小さいと分かるが、猛スピードで行き来しているボールを見ても直径38ミリか40ミリかの区別はつかない。 ところがSさんには区別がつくらしい。 ううむ、強い人は目もいいのだな、と痛感したことであった。 

12月11日(水) 昨日から大雪となった。 ここ数年暖冬が続いており、雪も本格的に降るのは年を越してから、という場合が多かったので、いささか泡を食った。 

 車のタイヤを冬用に替えていなかったのである。 12月末に取り替える習慣になってしまっていたからだ。 大学の駐車場は除雪をしないので、昨日の夜8時過ぎに帰ろうとしたら、スリップして車が動かなくなってしまった。 しかし通りかかった学生たちが押してくれたので、どうにか脱出できた。

 本日は1限の授業がある。 朝、冬用のタイヤを車に積んで家を出て、予定では大学近くのガソリンスタンドに直行して車を預け、タイヤの交換を依頼し、そこから歩いて授業に向かうつもりであった。 

 ところが積雪でスピードが出せない。道路は車が数珠つなぎでノロノロ運転である。 大学に着いたのは1限開始直前だった。 車をガソリンスタンドにあずけていたら授業に遅刻してしまいそうであった。 やむを得ず、1限の授業を終えてからガソリンスタンドに持っていこうと思って大学の駐車場に入れたのが運の尽きであった。 

 またしてもスリップして動けなくなってしまったのである。 今日はあいにく親切な学生も通りかからない。 仕方なく、バスで帰宅する。

12月8日(日) 朝から新潟西地区の卓球大会。 西地区総合スポーツセンター(コスポ)にて。 

 午前中は男女シングルスがそれぞれ3階級に分かれて行われる。 ワタシは中間のBクラスで出たが、強豪が多く、予選リーグは4戦全敗であった。 とほほほ。  

 この大会は、市全体で行われる新潟市民卓球大会よりレベルが低いはずなのだが、今年に限って言うとやたら強い人が多かったようだ。 BクラスもAクラスもほとんど差がないみたい。

 名目上は新潟西地区の大会だが、東新潟や隣町の巻からの参加者が多い。 もっともこれは例年のことで、巻町の卓球大会に新潟市民が参加したりもしているのである。 世の中、フレキシブルにできているんですね。

 ワタシの予選リーグにも巻町のY氏がいた。 この人、強面で迫力のある容貌なのである。 何というか、ヤクザ映画で悪役になるとぴったりという感じなのだ。 もともと外見に迫力のないワタシはこれだけでも圧倒されてしまうのである。 念のため書き添えると、外見とは裏腹にY氏は試合マナーもいいし、たいへん紳士的な方である。

 この大会は本来は社会人向けだが、飛び入りで小学生の兄妹が参加していた。 兄は小6だそうで、妹は、多分小4くらい。 ところが二人ともめっぽう強いのである。 兄は男子Aクラスで3位、妹は女子Aクラスで優勝した。 ううむ、将来は世界に羽ばたいて欲しいものだ。

 午後は、男女のペアでAB2クラスに分かれてダブルスのトーナメントとなる。 ワタシのペアはBクラスで2回勝って3回戦に進んだが、ベスト8を目前に破れた。 ここでワタシたちに勝ったペアが結局Bクラスで優勝した。 まあ、組み合わせの運も実力のうちかな。

 参加賞の缶コーヒーをもらって、更衣室で着替え、午後5時からりゅーとぴあで行われる東京交響楽団第19回新潟定期演奏会に直行する。

 秋山和慶指揮、スウィングル・シンガーズで、プログラムは、エルガー: 「エニグマ」変奏曲作品36、「ジェリコの戦い」、「アメージング・グレイス」、「オール・ザ・シングス・ユー・アー」、「イパネマの娘」、「スウィングしなけりゃ意味がない」(以上、アカペラ)、ガーシュウィン:「ストライク・アップ・ザ・バンド」、ガーシュウィン(リチャードソン編)「ポーギーとベス」メドレー、バーンスタイン: 「ウェスト・サイド・ストーリー」序曲、バーンスタイン(リチャードソン編)「ウェスト・サイド・ストーリー」メドレー。 アンコールはいずれもアカペラで、「クリスマス・キャロル・メドレー」、バッハ: 小フーガ・ト短調、「蛍の光」。

 スィングル・シンガーズがマイクを持って歌うのがどうも馴染めない。 りゅーとぴあはそもそもはクラシック専用ホールで、響きがいいから、本来はマイクなしで歌うべきところ。 ワンワン響いて、しっくりこない。 曲も、クラシックというよりポピュラー・コンサートみたい。 

 私はクラシック・コンサートを聴くために定期会員になっているのであるから、一考して欲しいところだ。 ポピュラー・コンサートなら他にいくらでもあるでしょう? 新潟で東京交響楽団が定期演奏会をやることの意味をもう一度じっくり噛みしめてもらいたい。

12月7日(土) 12日ぶりに、このサイトを更新する。 一応、1週間ないし10日に一度は更新するという原則をたてているのだが、ここのところ多忙で更新が遅れました。 すみません。

 多忙で本もあまり読めないが、映画のほうはここ半月、全然見に行っていない。 面白い作品がないせいもある。 来週も、これぞと思う映画が見あたらない。 実は 「8人の女たち」 を心待ちにしているのだが、これは今月下旬にならないと新潟に来ない。 

 もっとも、来るだけマシ。 昔なら新潟に来なかった可能性が高い。 単館系の映画は、以前は新潟ではシネ・ウィンドでしかやらなかったが、最近はシネコン3つの競争激化のためか、時々シネコンでこの種の作品が取り上げられるのである。 よい傾向だ。

 とはいえ、新潟ではまだまだハリウッド系が幅を利かせすぎである。 シネコン3館で同じ映画をやるなど、無駄だと私は思うのだが。 韓国映画 「春の日は過ぎゆく」 も、私がシネコン1つとシネ・ウィンドにリクエストを出したにもかかわらず、結局新潟には来なかった。 もっと多様な映画が上映されるようになってほしいものである。

12月6日(金) いつものように敬和学園大に非常勤に行ったら、今年度はいつも控室でご一緒するフランス語のM先生が、「いやあ、きょうは寒いですねえ」 と言いながらながら入ってきた。

 実際、先生はコート着用で、それでも寒そうに身を縮こまらせており、控室は暖房がきいているのだが、それでも寒いらしく、暖房とは別に設置されているガス・ファンヒーターのスイッチを入れた。

 一方私はといえば、そんなに寒いかな、と首をかしげていた。 私は今日はコートは最初から着てこなかった。 実際、ここ数日は12月としては暖かく、今日も昨日よりはやや冷えたかなと思いはしたものの、コートなしでも大丈夫だろうと判断したのである。

 寒暖の感じ方は、人によりかなり差があるようである。 M先生は私より6歳年長だから、お年のせいかとも考えられるが、若い先生でも寒がりはいる。

 先々週、新潟大で夕方からの会議に出席したところ、先に来ていたB先生が 「今日は寒いですね」 と言って、やはり暖房はきいているのにさらにガス・ストーブに点火した。 私はといえば、むしろ暖房がききすぎて暑いなと思ったのだが、寒いと感じる人がいる以上、やめろというわけにはいかない。 仕方なく上着を脱いだ。 B先生は私より17歳年下の若手助教授である。

 こういう差は天性のものもあるだろうが、育った環境にもよるだろう。 私が義務教育時代、暖房のない教室で授業を受けた人間だから、ということもありそうだ。

 私の育ったのは福島県のいわき市だが、ここは私の小中学時代、学校に暖房がなかった。 たしかにいわき市は東北の最南端で、東北のハワイというヘンな俗称もあり、東北地方としては最も温暖な地である。

 しかし、である。 そうは言っても東京より200キロも北にあるのだ。 当然ながら東京よりは寒い。 その東京の学校には、当時から暖房があった。 なぜ分かるかというと、テレビで 「今日から学校は冬休みに入りました」 というようなニュースが流れると、きまって東京の学校が映し出される。 そこにはちゃんとストーブが入っているのである。 同じ日本でありながら、この差はどこから来るのか?! 

 要するに、東京都に比べると我が福島県はビンボーだったのだ。 私が義務教育を受けたのは昭和30年代半ばから40年代半ばにかけての、いわゆる高度成長期であるが、その頃の福島県はおカネがなく、会津のような寒冷地はともかく、いわき市のような温暖とされる地域の学校には暖房を入れる余裕がなかったのである。 (今はいくら何でも入っているだろう、と思う。)

 当時、いわき市にあってはまだ常磐炭田が健在だった。 地元には石炭が豊富にあったのだ。 なのにその石炭は、地元の学校を暖めるためにはまったく使われていなかったのである!! 何となく、現在の先進国と途上国の経済関係を想起させる話だと思いませんか??

 真冬、学校に行く。 朝は特に寒い。 暖房のない教室では、手がかじかんで鉛筆がまともに握れない。 仕方なく尻の下に手を入れる。 すると多少暖まって、指が動くようになり、ようやく鉛筆が握れるのである。

 こういう環境で育った私だからこそ、寒さに強いのかも知れませんね。

 12月1日(日) 次男を車に乗せて、新潟市の南部にある産業振興センターに行く。 ここで卓球用品の安売りを、昨日と今日の2日間やっているからである。

 この安売りは毎年12月に同じ会場で行われている。 卓球とバドミントンの専門店が安売りをするだけでなく、他業種も出店してバーゲンをするので、駐車場は満杯である。

 次男は今年中学に入学して卓球部に入ったのだが、ずっと既製品のラケット (最初からラバーを貼って売っている安物) を使っていたので、そろそろまともな用具を買ってやろうと考えたわけである。

 既製品は千円か2千円程度で売っているが、本格的に卓球をやる人はラケット本体とラバーは別に購入する。 ラケット本体は定価で言うと安くても3千円台、高いのだと1万円以上するのがある。 ラバーは、安くて千円、高いのは6千円というのもあるが、まあ日本選手権に出るような人でなければ2千5百円から3千円程度の品を使うのが普通だろう。

 このセールは3割引なので、次男用のラケットとラバー2枚が7千5百円程度で買えた。 定価なら1万円以上になる。 私も自分のラケットのラバーを1枚だけ買い換えた。

 実は自分用にショートパンツを、もし安ければ買おうと思っていたのだが、バーゲンなのに4千円近くもするので、やめた。 ショートパンツだから布をたいして使っていないのに、3割引でこの値段というのは納得できない。 ショートパンツは現在4枚持っているのだが、夏だと頻繁に使い、1週間に4回練習すると1週間ごとに同じパンツを使うというローテーションになる。 だからもう1枚くらいあってもいいかな、と思っていたのだが。

 もっとも今日は2日目だからかもしれない。 1日目だと見切り品のようなユニフォームが格安で出ることがある。 私も一昨年、それで上半身用のユニフォームを2千円で買ったものだ。 今年は1日目の昨日・土曜日は仕事があって来られなかったので、逃した格安品があるかもしれない。

 来年こそ1日目に来よう、と思ったが、なんかこういう決心ってオバサンじみているなあ。 私はオバサン化しているのか??

11月30日(土) 事情があってはっきり書くわけにいかないのだが、高校の歴史教師にはかなり問題のあるのが含まれているなと、本日改めて痛感した。

 実は7月、今年度前期の1年次向け教養演習の最終日、学生に授業の感想を自由にしゃべらせたときも、同じ印象を抱いた。 そして、問題教師の言うことを真に受ける学生は、出来の悪いのに多いということも・・・・・・。 

 まあ、昔から社会科の教師というのはイデオロギー色の強い人間がいたもので、今も昔もということだろうか。 私の中学時代の社会科教師も共産党シンパで、自衛隊は違憲だから入るな、などのプロパガンダを授業中にしょっちゅうやっていた。

 だがしかし、その教師が担任をしていたクラスの成績上位の或る生徒は、のちに地域の進学校から防衛大に入り、自衛隊に入隊した。 生徒と教師の関係の、きわめて健全な (笑) 例と言うべきであろう。 教師の言うことを真に受ける生徒は、概して頭が粗雑なものである。 これは別段歴史に限らない。 大学での歴史以外の勉強でも同じことである。

 したがって、くれぐれも私の言うことを信じないように (笑)。

11月26日(火) 午後7時からりゅーとぴあで、ヴァレリ・ゲルギエフ指揮、キーロフ歌劇場管弦楽団の演奏会を聴く。 プログラムは、オールロシアもので、ムソルグスキーの歌劇 「ホヴァーンシチナ」 から前奏曲 「モスクワ河の夜明け」、同じく 「はげ山の一夜」、ボロディンの交響詩 「中央アジアの草原にて」、バラキレフの 「イスラメイ(東洋的幻想曲)」、リムスキー=コルサコフの 「シェエラザード」。 アンコールは、リャードフの 「魔法の湖」 と、リムスキー=コルサコフの歌劇 「雪娘」 より 「道化師の踊り」。

 満席ではないものの、それに近い入りであった。 圧巻はやはり最後の「シェエラザード」で、コンサートマスターのヴァイオリン独奏の素晴らしさも相俟って、しばし恍惚たる気分にさせてくれた。 バラキレフや、アンコールのリャードフの曲の神秘的な表現も悪くなかった。

11月23日(土) 休日だが、朝から新潟大でドイツ語検定試験の監督をする。 いわゆる独検で、春秋2回行われており、秋はいつも勤労感謝の日と決まっている。 そして新潟県の会場は新潟大と決まっているのである。 

 試験室には2教室が充てられているが、私は午前中は4級、午後は3級の監督をした。 4級は80名余、3級は70名弱の志願者があったが、4級は2割、3級は1割が欠席。 独検ができて10年程度しかたっていないが、以前は新潟では4級の受験者は百数十名もいて教室も2つ使ったものだった。 長期低落傾向は否めない。

 4級ではあらかじめ注意しておいたにもかかわらず、試験中ケータイを鳴らした女の子がいた。 それも、1時間の筆記試験中に2回鳴らすのだから、どういう神経しているんだ、と怒鳴りたくなる。

11月14日(木) ドイツ語を教えていると (ドイツ語だけではないが)、時々考え込む現象に出会う。 本日もそうだった。

 ドイツ語の受動態を前の時間に教えたので、この日は練習問題をやらせたのだが、或る学生は 「誰がこのEメールを私に送ったのですか?」 という意味のドイツ文を受動態に変えよという設問に対して、「このEメールは誰かによって私に送られました」 というドイツ文で答えていた。

 おかしさに気づかせようとして、日本語だとどうなるの、と、まず日本語で正しく受動態に直させようとしたのだが、できない。 「誰がこのEメールを私に送ったのですか?」 という日本語の受動態は、「このEメールは誰かによって私に送られました」 だと言うのである。

 こうなると問題は、言葉ではなく、思考力そのものである。 理工系学生のクラスではあるが、重症だと言わねばならない。 処置なしかな、と思ったが、ためしに 「誰がアメリカ大陸を発見しましたか?」 という日本語を受動態に直すとどうなるの、と問うたら、今度は 「誰によってアメリカ大陸は発見されたのですか?」 と正しく答えてくれた。

 意味上のわかりやすさと、構文把握ができるかどうかは、連動しているのであろう。

11月13日(水) 午後7時から、りゅーとぴあにて、エストニア・フィルハーモニック室内合唱団の演奏会。 ポール・ヒリアー指揮。 曲目はすべてアカペラで、ジョスカン・デ・プレの 「サルヴェ・レジーナ」、ジェズアルドの 「3つの聖なる歌」、ペルトの 「勝利のあとで」、ボルトニャンスキーの 「主よ、わが終わりをお知らせください」、ガルッビの 「肉体をまとい、あなたは眠りにつきました」、サルティの 「いまや天の御力が」、ブリテンの 「聖チェチーリア讃歌」、スケンプトンの 「起きて、いとしいひと」(日本初演)、ティペットの「5つの黒人霊歌――オラトリオ《われらが時代の子》より」。 アンコールが、エストニア民謡を2曲、「おお雨、わが兄弟よ」 と 「樫の木よ、なぜ泣くの」。

 2年前に続いての来日公演。 アカペラによる見事な歌声を披露してくれるのだが、取り上げた曲目は15世紀から現代曲までと幅広い。 それだけに聴く側にも多様な感性が要求される。 私としてはボルトニャンスキーの曲が一番楽しめました。 Dブロック2列26番にて。

11月12日(火) 2限の3年次向け演習で、読んでいる本に 「バベルの塔」 という表現がでてきたので、4人いる学生に意味を知っているか訊いてみたが、誰も知らない。 阿刀田高が新潮文庫から出している 『〜を知っていますか』 シリーズを読んでおくよう言ったけど、本当に読むかどうか。 この種の基礎的な素養の欠落はどうすればよくなるのだろうか????

11月9日(土) 本日は、東京で買ってきたCDの中から、ヴァイオリニストのマキシム・ヴェンゲーロフを聴く (高田馬場の中古CD屋で購入)。 ベートーヴェンの「春」、モーツァルトの変ロ長調K.378ソナタ、メンデルスゾーンのヘ長調ソナタが収録されている。

 ヴェンゲーロフはすごい、という噂だけは聞いていたが、CDを買ったのはこれが初めてである。 うーむ、これは噂に違わぬ演奏ですね。 音が輝かしいと同時にしっかりしているし、解釈も奇をてらったところがなく堂々と正攻法で行っている。

 まあ、演奏家というのは生で聴いてみないと分からないが、ヴェンゲーロフは生で聴いてみたい演奏家に入れておこう。

 午後、カー用品店でクルマにCDプレイヤーを取り付けてもらう。 私が今乗っているクルマはトヨタのコロナ・プレミオ1800で、4年半前に購入したのだが、その時はカセットとラジオだけで、CDプレイヤーは付けなかった。 カセットデッキでむかしFMから録音したクラシック音楽のテープを聴いていたのである。 以前はFM放送をよくテープに録音していたので、そのストックを消化するという意味もあった。

 しかし最近は怠惰になって、FMエアチェックは全然していない。また、クルマのカセットデッキの調子がこの頃良くないのに加え、購入してもなかなか聴けなかったり、聴いても1回だけ、というCDが増えてきたので、この際、クルマの中にいる時間を利用してCDを聴こうと思い立ったのである。

 というわけで、クルマの中では、カセットよさらば、CDよこんにちは、ということになりました。 

11月8日(金) 今回の東京出張ではCDを新品・中古でかなり購入してきたので、少しずつ聴いている。

 昨日は、メロス四重奏団によるシューベルトの弦楽四重奏曲第15番ト長調D.887を聴いた(秋葉原の石丸電気で購入)。 シューベルトの四重奏曲というと一般には 「死と乙女」 というニックネームで知られる第14番が有名で、「ロザムンデ」 の愛称のある第13番がそれに次ぐけれど、私はこの第15番が一番好きである。 彼の弦楽五重奏曲と並んで曲想のスケールの大きさという点で、晩年のシューベルトのものすごさを示す大傑作だと思う。

 今までは主としてアルバンベルク四重奏団のCDで聴いてきたのだが、この四重奏団の演奏は (これに限らずそうだが) 変に肩に力が入ったところがあって、私は必ずしも好きではない。 それで別の演奏をと思って買ってきたのである。

 聴いてみると、アルバンベルク四重奏団よりは肩の力が抜けているが、一方でこの曲の気宇壮大さを十分に表現し得ているかというと、疑問なしとしない。 曲が大きすぎて、生身の演奏家では完全な表現が困難なのだろうか。

 さて、今夜は、アン・アキコ・マイヤースのヴァイオリンによるR・シュトラウスとフランクのソナタを聴いた (高田馬場の中古CD屋で購入)。 が、イマイチである。 

 R・シュトラウスのソナタはチョン・キョンファのCDも持っているが、マイヤースはチョンに遠く及ばない。 フランクも、ドライな演奏で、まあこういう弾き方もあるかなとは思ったが、さほど説得力を感じない。 アン・アキコ・マイヤースは一時期かなりもてはやされたと思うのだが、やはり最近流行のヴィジュアル系クラシック奏者に過ぎなかったのだろうか? ヴィジュアル系は、若さが失せれば捨てられるだけですからね。

11月7日(木) 9月に日本独文学会が新潟大で開催されたが、先週その決算報告が出たので、某国立大に勤務している学生時代の先輩にコピーを送ってあげた。 その国立大で来年秋に独文学会が開催される予定だから、参考にしてほしいと思ったのである。 本日、先輩からメールで礼状が届いた。

 独文学会は春と秋の年2回で、秋は東京以外の都市で開催されるのが通例である。 昨秋は松本市の信州大学で開催されたが、そのときの校舎使用料はわずか3千円程度であった。 今回の新潟大では、校舎使用料は9万円、つまり信州大の30倍もかかった。

 ところが、先輩の勤める某国立大では、数十万円かかる見通しだという。

 同じ国立大なのにどうしてこんなに違うのかというと、数年前に文科省が国立大の施設使用料を自由化したため、大学によってはべらぼうな使用料を設定したということらしい。

 冗談ではない。 国立大の管理責任者は、学会を営利団体と勘違いしているのではないか。 特に文系の学会というのは零細でカネもなく、主として学会員の払う会費でまかなわれている。 企業からの寄付金がかなり見込める理系の学会とはわけが違うのだ。 

 実際、独文学会では、このままでは独立行政法人化後は国立大で学会を開催できなくなるのでは、という話が出ているという。

 しかし、問題は文科省による自由化や独立行政法人化ではないと思う。 学会の開催という非営利的で公的な行事に対してべらぼうな校舎使用料を一律に課してしまう国立大学当局の見識のなさ、が一番問題ではないのか。 

 日頃から文科省の文教政策を批判している (その点では私も人後に落ちないが) くせに、肝心の自分が文教を営利手段としてしか見ていないことがこれで露呈したわけだ。 これでは、文科省批判も説得力を持たないだろう。

11月6日(水) 午前中、上野の西洋近代美術館で 「ウィンスロップ・コレクション」展覧会 を見る。 アメリカのハーヴァード大学のフォッグ美術館に所蔵されているコレクションで、これまで門外不出だったのが、今回はじめて、東京やヨーロッパで公開されることになったのだとか。

 大学がこういう美術品のコレクションを持っているというのは、日本では芸術系の大学を別にすれば余り聞かない。 アメリカでは金持ちがこの種のコレクションを大学に寄付する習慣があり、なおかつ大学がそれを活かすだけの度量とシステムを持っているからだろう。 日本の国立大だと、最近は退職教授が蔵書を寄付しようとしても置き場がないという理由で断られるらしい。 日本の大学がいかに貧しいかが分かるではないか。

 見てみると、ラファエル前派やビアズリーなど、やはり比較的新しい作品が多いようだ。 500円出して作品解説を聴けるミニレコーダーを借りたが、解説を吹き込んでいる女性アナウンサーは、ラファエッロを誤ってラファエットと発音していた。 ラファエッロを知らないわけだ。 とんだところで教養のなさがバレましたね。

 この展覧会を見るのに1時間10分ほどかかった。 見始めたのが10時半で、昼から人と会う約束があったので常設展は見られない。 残念。

 神保町で昼に人と待ち合わせて昼食をともにし、楽しいひとときを過ごすことができた。 西脇順三郎風に言うと、宝石のような時間といったところ。

 そのあと日比谷で映画を見てから新潟に戻る。 発車間際の新幹線に乗ったので、最初禁煙車が満員で、やむを得ず喫煙車に席を確保。 むかしは禁煙車なんてなかったから列車内の紫煙は特に気にならなかったが、禁煙車に慣れてしまうと喫煙車はやはりキツい。  

 さいわいにして熊谷で多少空いたので、禁煙車に移ることができた。 高崎では大量に人が下車し、車内はがらがらとなる。 東京発が18時40分で越後湯沢まで各駅停車の新幹線だからということもあるが、それにしても新幹線通勤客は相当に多いわけだ、と実感しました。

11月3日(日) 昨日から東京に来ているが、今日は夜に東京駅で友人3人と待ち合わせ、近くの店で酒を飲みながら歓談する。 3人とも高校まで私と同級だった人たちで、今は首都圏で理系サラリーマンをしている。 

 話を聞くと、一人は最近勤務先をリストラされて、別の会社で単純作業に従事しているが、そのことを家族に秘密にしているとか。 50歳の男はつらいよ、といったところか。 また別の一人は、気づいたら自分の部署に年長者が二人しか残っていない、と話していた。 老社員は死なず、ただ消え去るのみ、といったところだろう。 50歳前後になるとサラリーマンは老社員の仲間入りをするわけである。 

 人ごとではない。 こちらも、大学が独立行政法人になったらどうなるか分かったものではないからである。

10月30日(水) 新聞で坂本多加雄氏の訃報に接する。 学習院大の教授で、論客として活躍されてきた方である。 まだ52歳、これからの仕事が期待される学者だった。 優秀な人は若死にするのだろうか。

 私は氏の 『知識人――大正・昭和精神史断章』(読売新聞社) を演習の教科書に使ったことがあり、『新しい福沢諭吉』(講談社現代新書) と 『国家学のすすめ』(ちくま新書) も氏ならではの好著という読後感を持っていた。

 ツンドクになっていた氏の 『歴史教育を考える』(PHP新書) を読み始める。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

10月28日(月) 夜、H卓球クラブに練習に行ったら、私を含めて5人しかいない。 ここはふだん少なくても8人程度は来るので、5人というのは珍しい。 荒天のせいだろうか。 荒天と言っても真冬と比べればどうってことない天気なんだが。

 しかしこのクラブには新潟卓球界中高年三大美人と私が勝手に呼んでいる御婦人が二人まで所属しており、本日はそのうち一人が来ておられた。 練習日は週2回あるが、この方は月曜しか来ない。 そして月曜なら必ず来るとも限らないのである。

 美人と一緒に卓球をやる、また楽しからずや。 人生、捨てたものじゃないと勝手にいい気分になって帰宅しました。 

10月27日(日) 音楽会のハシゴをする。 まず、午後2時からネーベル室内合奏団の第54回定期演奏会。 音楽文化会館。 プログラムは、パーセルの組曲「アブデラザール」、ジェミニアーニの合奏協奏曲「ラ・フォリア」、ムファットの合奏協奏曲第2番、リュリのコメディ・バレ「町人貴族」の音楽。 アンコールに、最初にやったパーセルの組曲の第2楽章が演奏された。

 ネーベルはバロック期の音楽を積極的に取り上げており、特に今回は意欲的なプログラムで注目された。 特に後半はリコーダ奏者を2人加え、この奏者が3種類の縦笛を持ち替えながら演奏するので音色の変化を楽しむことができた。 前回の演奏会はたしか弦楽合奏の曲だけで、単調な感じがしたので、その意味でも今回のプログラムは評価に価する。

 ただ、弦の合奏能力はもう少し必要な気がする。 アマチュアの団体ではあるが、敢えて要望しておく。 これは奏者のせいだけでなく楽器のせいもあるかも知れない。

 余談だけど、チェロの渋谷陽子さん、美人ですね。 今度はいつお目にかかれるかな。

 午後5時からは、東京交響楽団第18回新潟定期演奏会。 りゅーとぴあコンサートホール。 大友直人の指揮、森麻季のソプラノ、田中勉のバリトンで、フォーレのレクイエムとフランクの交響曲。 アンコールはグノーのバレエ音楽 「ファウスト」 より ”トロイの娘の踊り”。

 フランスの名曲を二つ揃えた演奏会だけど、3階席の脇の方はがらがら。 プレトークで指揮者の大友氏が話をして、新潟定期演奏会で同じプログラムが2日連続でできるようになれば、と言っておられたが、これでは夢のまた夢じゃないかしらん。

 定期会員は1100人くらいいるそうだが、やはりその都度チケットを買う人間が少なすぎるのだと思う。 私だって定期会員になったのは今年からで、それまではプログラムを見ながら聴くか聴かないかを決めていたのだ。

 それと、3階の現行C席はD席にしてしまって、安い値段で提供してはいかがだろうか。 現在、東響の新潟定期ではD席 (通常、1500円) だけは毎回売り切れているようだが、これはD席が安いからだけではなく、数が少なすぎるからだ (20席もない)。 といってC席だと料金も4000〜4500円となって、D席と差がありすぎる。 どうせ客が入らないなら、3階のC席はD席に格下げして安い料金で学生や、ふだんあまりクラシックに馴染みのない人に沢山入っていただく方がいいのではないかと思うのだが。

10月25日(金) ちょっとした出来事があった。 事情があってボカして書くしかないのだが、まあ、一般論としてお読みいただきたい。

 最近の少子化で、大学は学生を確保するのに必死になっている。 いきおい、学生=お客様、という論理が幅を利かせるようになっている。

 たしかに講義が非常に下手、えこひいきが露骨、評価の基準が不明、といった大学教師はいるもので、そういう輩にはそれなりの再教育を施すことも必要ではあろう。

 しかし、大学教師が神様でないのと同様に、学生も神様ではない。 お客様は神様ですというような演歌歌手みたいなことを言っていたのでは、大学は大学ではなく、保育園になってしまう。

 「学生のために」 というような論理を振りかざす輩は、実は 「ために」 の内容を理解していない。 「学生のために」 とは、「学生を喜ばせるために」 ではない。 「学生の学力を高めるために」 なのである。 そこが、普通のサービス業と大学との大きな相違点なのだ。

 しかし少子化で学生数が減ると、学生を大事にするあまり、その辺が分からなくなる。 また、大学教師はだいたいにおいて世間知らずで人間を見る目がない。 少子化により学生の質が低下すると、不良じみた学生も入学してくるわけで、不良のズルさに通じていないとやっていけないのであるが、人間を知らない大学教師は不良の二枚舌にあっさり騙されてしまう。

 私は不良や二枚舌が必ずしも悪いとは思わない。 不良や二枚舌の人間というのは必ず一定数は世の中にいるのであり、そういうものと認識しつつ付き合えばいいだけの話である。 

 ここで大事なのは、成績の良し悪しと、学校という制度に馴染む馴染まないは別物だということである。 前者を学力偏差値、後者を、学校文化偏差値と呼ぼう。 学力偏差値と学校文化偏差値は一致しない。 このことが案外理解されていない。

 私の体験を語ろう。 私は地方都市に育ち、その地区の進学校と呼ばれる公立高校に進んだ。 進学校と言っても地方都市のことだから、中学で成績が上位15パーセント以内に入っていれば受かるのである。

 すると、中に不良も混じっている。 授業をサボったり教師に反抗したりしている生徒だ。 そういう生徒の中にも、生まれつき頭がいい奴はいるものだ。 中学程度のレベルの教科目なら、そういう生徒はろくに勉強せずとも上位15パーセントの成績を修めてしまう。 つまり、学校文化偏差値は低いが、学力偏差値は高い人間ということになる。

 逆もある。 学校が好きで、授業も真面目に出、一所懸命勉強しているのに、成績がどうしても上位15パーセントには入らない生徒である。 つまり、学校文化偏差値は高いが、学力偏差値は低い人間ということだ。 

 人間とはこういうもので、学力が高いから学校文化に馴染むとは限らない。 また、成績がいいから、誠実な人柄で虚言癖がないとも限らない。 教師を務めるからには、最低このくらいの認識は持っていたいものだ。

10月24日(木) 午後、生協の書籍部をぶらぶらしていたら、後期教科書が積んである台に、通俗心理学書で名を売っている某女史の 『ぷち・ナショナリズム症候群』 なる本がおいてあり、人文学部の1年次向け教養演習で二人の先生がこれを教科書に指定していると知って、愕然とした。

 私はこの本は出たときに立ち読みでざっと目を通しただけだなのが、つまらない本だなと思った。 これは私だけの感想ではない。 こちらもどうぞ。

 http://www.ywad.com/books/1274.html

 要するに、内容的に20年は古いんだね。 昔で言えば日高六郎程度なので、日高が呉智英に批判されてから15年以上たっているのに、まだこんな本が出回っている。 そしてそれが大学教師に教科書として採用されてしまう。 無論、批判的に読むという意味で教科書に指定する場合もあるだろうが、批判するにしてももう少しレベルの高い本を選んで欲しいものだ。

 これじゃ新潟大学のレベルは下がりっぱなしになりそう。 学生も気の毒だ。 

10月20日(日) 昼過ぎから、浜浦小学校体育館にて、私の所属しているN卓球クラブと、H卓球クラブとの親善試合。 年2回行われている行事である。 私個人としては団体戦は3戦全敗、であった。 団体戦の後の親善ダブルスは3勝1敗だったが、これはパートナーが強かったからで、いばれない。 とほほほ。

 夕方から某中華料理屋で懇親会があったが、あちらの会長さんから、この行事は年々参加者の平均年齢が上がっているという指摘があった。 ごもっともである。 本日の参加者は、最も若い人で40代半ばなのである。 上は70歳を越えている。 せめて30代の参加者が欲しいところだ。

 どなたか、入会しませんかあ???

10月18日(金) 昼からいつものように敬和学園大に非常勤に出かける。 今年度は非常勤控室でいつもフランス語のM先生と一緒になるのだが、先生は55歳を越えたので定期昇給がストップして、とぼやいておられた。 公務員は55歳までは定期昇給があるが、55歳で打ち止めとなる。 加えて、周知のように今年度の人事院勧告は基本給引き下げを打ち出している。 まさに冬の季節である。

 と書くと、民間企業だって厳しいんだという抗議の声が寄せられそうで、それはその通りなのだが、われわれ大学教師は年齢のわりには子供が小さいという事情がある。 M先生もそうだし、ワタシも50歳だけれど子供が大学に進むのはこれからなのである。

 大学教師は、結婚という点では早いか遅いかどちらかに偏しがちである。 早い人は、学生 ・ 院生時代に相手を見つけてさっさと結婚してしまった人である。 逆に遅い人は、定職に就いてから結婚した人である。 大学教師は事実上は大学院を出ないとなれないし、また大学院を出てもすぐにはポストがない場合も多いから、定職に就く年齢が遅くなる。 したがって就職してから結婚するとなると、結婚年齢も高くなるのである。 (以上は男性の場合。 女性の場合は未婚で通す人も多い。 これはこれで問題ではある。)

 M先生はワタシより6歳年長だけれど、新潟大に定職を得たのはワタシより後である。 したがって結婚年齢もかなり高かったわけで、56歳とはいえお子さんにカネがかかるのはこれからということになる。

 それでも定職を得れば最初から高給取り、というならまだしも、そうではないので、なお苦しいわけである。

 こないだノーベル化学賞をとった田中耕一さんは、43歳の主任で年収800万円というのが話題になったけれど、国立大教師が43歳だと、大学院を終えてすぐに定職に就き順調に助教授 ・ 教授と昇任し、加えて大学院も担当しているという人でそのくらいだろう。 が、こういう人の数は必ずしも多くない。 むしろ43歳だとまだ助教授というケースが多いからこれより低いし、定職に就くのが遅れたり助手時代が長かったりするとさらに低いというのが実態である。 

 だから、国立大教師からすると田中さんはノーベル賞を取らずとも高給取りということになるのです。 

10月17日(木) 午後7時から、りゅーとぴあコンサートホールでトヨタ・マスタープレイヤーズ・ウィーンの演奏会。 ソプラノ=リカルダ・メルベート、チェロ=古川展生。 

 曲目は、「トヨタ・マスタープレイヤーズ・ウィーン」 のための前奏曲 「イントラーダ」、モーツァルト: 「コシ・ファン・トゥッテ」より序曲、モーツァルト: 「コシ・ファン・トゥッテ」 より“恋人よ許してください”、モーツァルト: 「フィガロの結婚」 より “楽しい思い出はどこへ”、ハイドン: チェロ協奏曲第1番ハ長調、ベートーヴェン: 交響曲第7番。 アンコールはモーツァルト: 「フィガロの結婚」序曲。 なお、休憩時間にロビーで、管楽器奏者8名によりモーツァルトのセレナード第11番変ホ長調K.375第1楽章が演奏された (ここの部分は、Tomoさんのサイトの掲示板に寄せられた情報に依っています)。

 この小編成のオーケストラは、ウィーン・フィルの精鋭メンバーにより構成されている。 したがって言うならばミニ・ウィーン・フィルの演奏会であるわけだ。 トヨタのメセナ活動により、こういう演奏会が廉価で (S席5000円) 聴けるのは有り難いことである。 トヨタ様、感謝します。 もっとも私は現在トヨタの車に乗ってますんで、まあお互い様(?)かな。 

 私はウィーン・フィルそのものを生で聴いたことがないのだが、今回このオケを聴いて、特に管楽器の音が柔らかいのに感心した。 ここはウィーン・フィルならではといったところ。 それに比べると弦は、ところどころやや合奏がルーズになるようだった。 これもウィーン・フィルならではかな。 

 私としては、メルベートが歌ったモーツァルトのアリアの2曲目と、ベートーヴェンの第2楽章の盛り上がっていくあたりが特に良かった。 ハイドンは、古川のチェロがかなり現代的で硬い音づくりをしていて、バックの柔らかい音楽と齟齬を来しているようだった。 もっとも、コンチェルトはこういう齟齬がかえって面白いという見方もできるので、だからダメだと一律には決めつけられない。 バックと同じ傾向の独奏者じゃ馴れ合いみたいでつまらないとも言えよう。 私としては、これも一興と考えたい。

 会場はほぼ満員。 95パーセントくらいの入りか。 最近のりゅーとぴあのオーケストラコンサートとしては大入りであろう。 Cブロック2列15番 (正面ほぼ中央) にて。

10月12日(土) 午後6時から、だいしホールにて、テディ・パパヴラミのヴァイオリンリサイタル。 ピアノ伴奏は田中幸治・新潟大助教授。 

 素晴らしいリサイタル! 今年になってから聴いた諏訪内晶子とミドリがともに音量不足を感じさせたのに対し、(会場の大きさが違うから比較は無理だとはいえ) ピアノに全然負けないしっかりした音で、バッハの無伴奏パルティータ第2番、イザイの無伴奏ソナタ作品27−3、サラサーテのカルメン幻想曲、フランクのソナタを弾いてくれた。

  音に力があるので、バッハ、そして他の曲でも力感あふれる楽章に特に感銘を受けた。 アンコールは用意していなかったらしいけど、拍手が止まないのでカルメン幻想曲の最後のあたりをもう一度弾いた。

 これで2千円は安すぎる!

10月11日(金) 夜7時から、りゅーとぴあコンサートホールにて、バーバラ・ボニーのソプラノリサイタルを聴く。 ピアノ伴奏は、マルコム・マルティノー。 曲目は、シューマンの「詩人の恋」全曲、後半はシューベルトの三大歌曲集から数曲と、リストの歌曲を数曲。 アンコールはシューマン「くるみの木」とリスト「おお夢に来ませ」。

 最初は可もなく不可もなしだなと思いつつ聴いていたのだけれど、後半調子が出たのか、良くなってきた。 アンコールで最高といったところ。

 終演後、サイン会があったので、プログラムと買ったCDにサインをもらって満足して帰宅しました。

10月9日(水) 1限、教養の 「西洋文学」 の実質的な第一回授業。 ところが向かい側の建物で改修工事をやっており、ドリルの音がものすごくやかましい。 教室が足りないこともそうだが、何だって新潟大学ってのはこうなのだろう。 ふだんの授業や研究のために環境を保つという配慮こそ大学が第一になすべきことなんだが、それが全然分かってないのだ。 多少の騒音ならともかく、ドリルを使うような工事は夏休みか春休みにやってもらいたいものだ。

 ちなみに、この日は教授会もあったのだが、独立行政法人化後、文科省の役人をどういう風に受け入れるかを大学として考慮中、なのだそうだ。 ロクなことをしない文科省のバカ役人なんぞいりませんよ。 自前の職員を育てた方がよほど有益。 いったい何のための独立行政法人化なのだ!? 国立大の一番の弊害は、文科省のバカ役人なのだからね。

10月8日(火) 今日は2限と4限に後期第1回目の授業があり、聴講受付をする。 2限は3・4年次向けの専門演習。 もしかすると誰も来ないのではないかと恐れていた (或いは、期待していた) が、4人来た。

 誰も来ないのでは、という予想にはそれなりに理由があってのことである。 昨年度受け持った2年次向け基礎演習には誰も来なかったのである。 正確には留学生が一人来たが、日本人学生が誰もいないのにショックを受けたらしいので、他の基礎演習に鞍替えするのを妨げなかった。 したがって結局、基礎演習の授業は不成立となったわけである。

 昨年度は、他の授業でも 「今年の2年生はダメだなあ」 と実感することしばしばであった。 その昨年の2年生が今年3年生になって専門演習をとりにくるわけだから、昨年度の二の舞で誰も来ないのでは、と予想したのであった。 (今年度前期は、私は専門演習は受け持っていない。)

 その予想がはずれたわけだが、それが吉と出るか凶と出るかは、しばらく演習をやってみないと何とも分からない。 

 そして4限の 「テクスト批評論」。 これは講義で、事前のコンピュータによる入力では21人が登録していた。 ところが、教室に行ってみたら11人しか学生がいない。

 ふつう私は第1回の授業では評価の方法や授業の進め方などを説明するだけで終わりにするのだが、この授業に限っては第1回目も導入程度の講義をするつもりでいたのである。 それで、あらかじめコンピュータによる入力で21人が登録しており、入力していない学生も多少は来るかもしれないということで、プリントを30枚用意していったのが、半分以上余ってしまった。 紙資源の無駄ですなあ。

 入力していながら来ない学生は、経済学部の学生に多かった。 私は他学部の学生でも授業内容に興味を持ってとりにくる者なら歓迎するが、興味を持っているのに第1回目の授業に来ないということは考えられないから、要は 「とりあえず登録、実際は取り消し」 という無責任な学生が経済学部生に多いということであろう。 

 ほかに、法学部の学生、そして肝心の人文学部学生にも同様の者が2、3名ずついた。

 コンピュータによる授業登録は今年度から始まったわけだが、今回のような現象を始め、どうも色々問題があるようだ。 入力側の条件を厳しくしないといけないのではないか。

10月6日(日) 午後2時から、新潟駅近くの花園カトリック教会で、「秋のオルガンコンサート」(新潟オルガン研究会第32回例会)を聴く。 

 ムッファトのトッカータ第6番、ヘンデルのリコーダソナタ作品1−7、ブクステフーデのプレリュードBuxW139、バッハの小フーガBWV578、パーセルの歌曲「もし音楽が恋を養う糧ならば」、「あの人が私から逃げてしまう」(劇付随音楽「オーレング・ジーブ」より)、「今や太陽の光も薄れしからには」、モーツァルトのアンダンテ、K.616、J・アラン「空中庭園」、F・ペータース「めでたし海の星」によるトッカータ。

 というわけで、オルガンだけでなく、リコーダや歌曲も含めての解説の付いた楽しい演奏会でした。 八百板正己氏をはじめ数人の演奏家が登場。 ただし技倆は人により差があったよう。

 帰り、石丸電気に寄ったら、改築のためクラシックCDが激減。 先日来たときは改築はすでに始まっていたが、4階のCD売場には入れたのに、今日は1階のみ営業。 憮然として店を出る。

10月3日(木) 夜7時から、りゅーとぴあでボルティモア交響楽団演奏会。 指揮はユーリ・テミルカーノフ、ピアノ独奏は小山実稚恵で、ウェーバーの 「オベロン」 序曲、シューマンのピアノ協奏曲、ブラームスの交響曲第4番。 アンコールは滝廉太郎の 「荒城の月」 とワーグナーの 「ローエングリン」 第3幕への前奏曲。

 このオーケストラは私は初めて聴いたけど、アメリカの中堅オケといったところか。 下手ではないけどどことなく大ざっぱだ。 ブラームスの第1楽章の終わり付近とか、第3楽章はそれなりに迫力があって悪くないと思うが、ブラームス最後の交響曲の陰りというか鬱屈のようなものは感じられない。 シューマンでは小山実稚恵のピアノに彼女なりのコンセプトが感じられなかった。

 アンコールの2曲を聴いて、これが彼らの本音なんじゃないか、という気がした。 つまり、セミクラシックやポップスをやるとそれなりに楽しい演奏を聴かせるという意味で。 シューマンやブラームスみたいな一ひねり必要な曲には向いていないのかも。

 会場の入りは7割くらいか。 座席はCブロック6列20番 (正面中央)。

10月2日(水) 今日から後期の授業開始。 後期の水曜日は、1限に教養・ドイツ文学の講義があるので早起きしなくてはならない。 定員150名の授業だが、講義室に行ってみたら30名程度しか学生がいない。 1限は専門の授業とあまりかち合わないから学生は多いだろうと予想していたのだが、拍子抜け。 ドイツ文学、或いはワタシによほど人気がないのか、或いは他の授業と重なっているからなのか、1限を避ける学生が多いからなのか・・・・・・・。 

 東京で買ってきたCDのうち1枚を聴く。 ジャン・ジルのレクイエム。 ジルは17世紀フランスの作曲家だが、聴いてみるとヘンデルみたいな曲の作り。 ヘンデルより17年前に生まれているから、こちらがご本尊なのかしらん。

10月1日(火) 夕方、日比谷で映画を見てから新幹線で新潟に戻る。 台風が近づいて風雨が激しくなっており、有楽町駅から映画館に行くまでのあいだにかなり濡れてしまった。 それで映画を見た後は地下道を通って有楽町駅まで行ったのだが、地下道は有楽町駅の手前で終わりになるからどうしても短距離、外に出なくてはならない。 そこで傘をさしたら、強風で壊れてしまう。 新潟は風が強いところだから傘はよく壊すのだが、東京で壊れたのは初体験か。 

9月30日(月) 午前中の新幹線で上京。 夜、有楽町駅近くの店で、高名な評論家のN氏とお話しする。 F社があつらえてくれた席である。 詳細は略すが、N氏とは一度お会いしてみたいと思っていたので、貴重な機会であった。

 2次会で近くのカラオケスバーに行く。 ここで旧友のH君と38年ぶりで再会する。 彼は子供の頃、双方の父が同じ会社に勤めていた関係で同じ社宅内に住んでおり、また小学校5・6年のときは同じクラスでもあった。 一緒に中学に進むはずが、彼の父が突然東京に転勤となり、以来、たまに消息を聞くことはあったものの、顔を合わせる機会はなかった。 大学を出てからF社と同系列の新聞社に就職したとは聞いていたのだが、再会の機会があろうとは・・・・・。

 それにしても二次会がカラオケというのは、新潟も銀座も同じですなあ。 N氏は意外に声量があり歌も下手ではないが、60代半ば過ぎというお年のせいか (失礼!) リズム感やテンポ感はもう一つのようだ。 歌と伴奏がしばしばずれる・・・・・・。

9月29日(日) 昨日に引き続き独文学会。 私は、午前中、研究発表の司会を担当した。 学会は一応午前中でおしまいだが、いくつかの分科会は午後に開催され、またそれ以外の会場は午後に後かたづけをしなくてはならないので開催校の人間は大変である。 机を動かしたり、肉体労働。 しかしわけの分からない研究発表を聞くより、ある意味、健康かも。

 夜、シュトルム協会の懇親会を内野駅前の鮨正で開く。 私を含めて9名参加。 シュトルム協会は独文学会員をメインとした小さな研究会で会員数はおよそ30名。 独文学会に合わせて分科会の形で会合を開くのが通例である。 私は日頃はさぼりっぱなしなのだが、新潟在住の会員は私だけだから、こういう場合はご奉仕をしないわけにはいかない。

9月28日(土) 今日と明日、日本独文学会が新潟大学で開催される。 開催校の教員はてんてこ舞いである。 私は比較的暇な業務だったのだが、それでも朝から晩まで入り口付近に控えていなくてはならず、疲れる。 

 大学時代の先輩と廊下で会ってよもやま話をしていたら、一緒についてきたドイツ人女性が日本海を見たいと言い出した。 そういわれると地元の人間としてはリクエストにお応えしないといけないという気になるじゃありませんか。 それで午後、暇を盗んで私のクルマに先輩とドイツ人女性を乗せて海を見に出かけた。 あいにくの雨で佐渡は見えなかったが、まあ満足していただけたようではあった。

 夜、ホテル・イタリア軒にて懇親会。 実は予定より参加人数が大幅に少ないと大赤字となり、その時は新潟のドイツ語関係教員でひとりウン万円ずつ負担しようね、という話になっていてハラハラしたのだが、幸いにして予定通りの人数が入って、ほっと一息。 また、この種の立食パーティでは食い物が不足することがよくあるものだが、そういうこともなく、さすがイタリア軒と拍手したくなった。

 唯一の欠点は、独文学会理事長の話が長かったこと。 20分もしゃべり続けた。 乾杯の前の挨拶は短ければ短いほどよいという常識が欠けているんだなあ。 学者バカか。 途中、私が 「長げえなあ」 とつぶやいたら、前に立っていた日本人女性二人がびっくりしたように振り返った。 日本人って、おとなしい民族ですねえ。

9月24日(火) 今日、新潟大の生協書籍部をぶらついていたら、中央公論社の新しい 『世界の歴史』 が数冊、再入荷していた (8月1日の記述を参照)。 学生諸君、店頭で見て、気に入ったら買ってごらん。

9月20日(金) ついに50回目の誕生日を迎えてしまう。 うーむ・・・・・・。 

 30歳になったときは、若さというやっかいなシガラミから逃れて居直って生きられるというような安堵感があった。 40歳になったときは、取り立ててこれといった感慨もなかったが、振り返ると、30代にかろうじてひっついてていた若さと完全に無縁になったということだったかもしれない。 しかし、40代前半は30代の延長のような気分で過ごしたが、半ばを過ぎると老眼の兆候が出てきたりで50代が迫っているという気分が強くなった。 つまり、40代は前半と後半とで分裂していたのではないか。 50代はどうだろうか。

 50歳になった記念に、古町のCD屋でNAXOSのCDを4枚買う。 マンフレディーニの合奏協奏曲集、フランクのオルガン作品集2枚、ベネヴォリのミサ曲。 ベネヴォリは、私は名前も知らなかったけれど、イタリア17世紀の作曲家だそうだ。

9月17日(火) 朝、FMで吉田秀和の 「名曲の楽しみ」 を聴きながらクルマにて大学に向かう。 ベルリオーズの荘厳ミサ曲をやっていた。 この曲、私は初めて聴くが、出だしがきれいでなかなかいいじゃないかと思っていたら、次の楽章が 「幻想交響曲」 とまったく同じなので愕然。 うーむ。

 夕刻、小泉首相の北朝鮮訪問がらみで、北朝鮮に拉致されていた日本人の過半数がすでに死んでいるとのニュースが入る。 暗澹たる気分。

 北朝鮮を批判することは無論必要だが、今となっては容易すぎる。 むしろ、この問題や北朝鮮の本質について、日本の政治家や知識人やマスコミがどういうことを言い、何をやってきたかの検証の方が大事だという気がする。

9月16日(月) 連休なので午前中は自宅で過ごす。 なぜか突然、シマノフスキのヴァイオリンソナタとヴァイオリン協奏曲2曲とをCDで立て続けに聴く。 シマノフスキはふだんから親しんでいる作曲家ではないが、こうして聴いてみると独特の雰囲気がある。 うん、悪くない。

 こういうふうに、聞き慣れない曲を聴きたくなるのは、多分、ここ数日涼しくなって秋めいてきたからであろう。 猛暑のさなかは、軽い聞き慣れた曲じゃないと聴く気がしない。

9月14日(土) 昨日から急に涼しくなった。 そのせいか昼に熱いラーメンが食べたくなり (猛暑の間は食べる気がしない)、寺尾の行きつけのラーメン屋に久しぶりに行って大盛りを食べる。 550円。

 その後、寺尾駅の国道116号線側の古本屋Nに、これまた久しぶりに行ってみる。 1年ぶりくらいか。 店内の本棚の配置が変わっており、マンガ本が増えたのは時代の趨勢で仕方がないか。 ここは中学校の校長をされていた方が定年後に開いた店だが、さすがに店主も年をとってきた印象。 4冊買って、1080円。

9月10日(火) 夜、N卓球クラブに練習に行ったが、常連が全然来ず、その代わりここのところ来ていなかった、言うならば珍客が2人。 こんな日もある。 

 一人はM氏で、病気のため2年前から休んでいた。 全快とはいかないが、良くなってきたので来てみたという。

 M氏には高校生と中学生の息子さんがおられ、二人とも新潟県内有数の卓球プレイヤーとして活躍している。 と書くと、M氏も昔卓球選手としてならしたので息子たちに仕込んだのだろうと思われるかも知れないが、実はまったく逆なのである。

 すなわち、最初御次男が小学生時代に黒埼町 (今は合併して新潟市の一部) のジュニア卓球クラブに入会。 それを見た御長男も刺激を受けてやり始め、最後にM氏自身も息子さんたちの姿を見てやりたくなり、40代になってからラケットを握った、という順序なのである。

 昔は息子さんもNクラブに練習に来ていた。 ご長男は中学の初めの頃はワタシに軽くあしらわれていたが、卒業の頃はワタシの手には負えなくなっていた。 御次男は当時は小学生だったので、技巧はあるがパワーがなく (同じスマッシュでも、小学生が打つのと大の男が打つのとでは威力が異なりますからね) ワタシに及ばなかったが、今は中学生だからワタシなどよりはるかにうまくなっているだろう。

 もう一人の珍客はH氏である。 他クラブのメンバーながら、ワタシがNクラブに入会した8年前には時々こちらにも顔を出していたのだが、最近はご無沙汰であった。 8年前は新潟市市民大会男子Cクラスであったものが、現在は堂々のAクラス。 ワタシがDクラスから全然浮上できないのとは好対照。 氏はワタシより10歳くらい年下だから、30代半ばくらいからじりじりと実力を付けていったわけだ。

 氏と練習して、やはり勉強になった。 まず体で球を打つということ。 卓球というと、腕を振ってラケットで球を打つと思っている人もいるだろうが、腕の振りだけが目立つのは下手なプレイヤーである。 実際は、腰を軸として体を回転させるようにして打つのである。 氏が打球するのを見ているとそれがよく分かる。 腕が余り動かず、体全体で打っているから、わずかな動きでスピードのある打球ができるのだ。 ワタシも理屈では分かっているのだが、どうしても腕の振りで打ってしまう。 反省しきりであった。   

 次にツッツキ (ショートカット) の技巧である。 相手の左右深いところに送るだけでなく、ネット際ぎりぎりの浅いところにぽとんと落とすツッツキがあることを初めて知った。 このツッツキで相手を右前に引き寄せ、次に反対側である左サイドの深いところにスピードのあるツッツキを送ると、ワタシのようにフットワークの悪い選手はノータッチで抜かれてしまう。 ううむ。

 というような基礎練習を氏は1時間余り続けた。 ここも見習うべきところ。 下手な選手は基礎練習もほどほどにすぐにゲームに入ってしまう。 基礎練習をこのようにみっちりやってきたからこそ氏のAクラス入りも可能だったのだと改めて感じ入った。

 多少プライヴェートになるが、氏は運動神経がいいだけでなく、均整のとれた体つきで顔も悪くないから女にモテそうである。 なのに約40歳の今も独身。 2年前、約30歳の独身女性が氏に惚れてしまった。 なのに氏はすげなく 「友達でいましょう」 と答えたとか。 (この情報は氏からではなく、他の筋から仕入れたものです。 念のため。) ワタシも実はその女性を知っているのだが (彼女も一時期卓球をやっていたので)、結構美人ではあり、氏ももったいないことをする人だなあとハシタナイ感想を抱いてしまったのであった。

 氏は本日は、練習を始める前にラバーを張り替えていた。 シェークだから両面を張り替えると5〜6千円かかる。 卓球のラバーにも色々あって、最近では1枚5千円を越す超高級品まであるが、これは世界選手権や日本選手権に出るような人のためのもので、一般の卓球愛好家だと1枚3千円が限度であろう。 それにしても両面張り替えるのはお金がかかるのである。 練習終了後、体育館を出てみると、氏のクルマは地味な軽自動車であった。 独身貴族の優雅さなどうっちゃって、女にも目をくれず、仕事以外ではひたすら卓球にお金と時間をかけているのだろうか??

9月7日(土) 万代シティに映画を見にいったら、映画館の近くで中古CD・LP市をやっていた。 入ってみたが、クラシックはLPのみでCDは全然ない。 ミレイユ・マチューのLPがないかなと思ったけれど、これもない。 そもそもフランスのシャンソンは、イタリアのカンツォーネなどと一緒くたにされて 「ヨーロッパポップス」 という分類になっており、わずか2箱分しかない。 ううむ、凋落が著しいねえ。

 しかしシャルル・アズナブールのLPが目にとまる。 「イザベル」 が入っているので買うことにする。 帰宅後、卓球の練習に行き、それから夕食をとったので、LPに針を下ろすことができたのは夜10時頃。 いかにもなつかしい! 

9月3日(火) 夜、N卓球クラブに練習に行く。 昨日もHクラブで練習したので、二日連続。 最近では二日連続は久しぶりだ。 ところが一昨日からの猛暑のせいか、はたまた連続で疲労がたまっていたためか、A氏と4セット、N女史と5セットやったらバテてしまった。 

 連続9セットと言っても、今は1セット11本だから、昔の21本1セット換算なら5セット程度である。 これでバテるのであるから我ながら情けない。

 もっとも卓球は軽スポーツのイメージが強いが、本気でやると結構消耗する。 正規の試合でも、勝ち抜いて上位に進むと、最後は気力と体力の勝負になる。

 シングルスとダブルスでも違う。 昨日のHクラブはダブルス主体なので、あまり疲労しない。 卓球のダブルスはテニスやバドミントンと違い、2人が必ず交互に打球しなくてはならないが、1球おきに打球するのは、シングルスの毎回打球とは体力の消耗度が異なる。 また、神経の使い方もそうで、シングルスだとあっという間に球が返ってくるので絶えず精神を集中していなくてはならないが、ダブルスは時間的に余裕があるし、勝ち負けも半分はパートナーの責任であるから、気楽なのである。 

 もっとも、パートナーとの息がぴったり合って難敵に勝ったときの喜びはダブルスならではである。 数年前、親善試合でS氏・S女史ペアと私・U女史ぺアの対戦があり、ぎりぎりでこちらが勝ったことがある。 個人の力量ではあちらが上だと思っていたので、嬉しかった。 できればU女史と抱き合って喜びを表現したいところだったが、他人の奥さんなのでそういうわけにもいきませんでした・・・・・(汗)。 

8月31日(土) インターネットのニュースによると、仙台駅前に丸善が大型書店を出店し、既存の駅前大型書店と激しい競争になりそうだとのこと。 仙台もずいぶん変わったものだと私は感慨にふけった。 

 20年以上前だが、私が住んでいた頃の仙台は、書店不毛の地であった。 繁華街にあるいくつかの書店はどれも規模が中途半端で内容的にもレベルが低く、丸善も日曜は閉店で平日も6時前に閉まってしまうなど、殿様商売根性丸出しだった。 救いは、駅の近くに規模は小さいながら独自の品揃えをした書店があったことと、大学生協書籍部が充実していたことであった。

 その頃で言うと、書店のレベルは新潟の方が高かった。 これは私だけの印象ではなく、当時新潟出身で仙台についてレポートした某ジャーナリストが同じようなことを新聞に書いていた記憶がある。

 私が来た頃の新潟市は、古町通に萬松堂があるだけでなく、北光社も現在と違って4階まで店舗になっていたし、昨年閉鎖されたカミーノ古町の7階にも大型書店があり (のちに新潟シネマ1・2・3が出来た階)、文信堂も2階まで店舗があるなど、現在よりはるかに書店が充実していたのである。 加えて紀伊國屋新潟支店もあった。

 それが今は、古町でまともと言える書店は萬松堂だけ。 それ以外でも万代シティの紀伊國屋書店があるだけである。 先日(8月1日)書いたように、新潟大の書籍部はどうも進歩が見られない。 クルマのとめられる郊外型大型書店も増えているが、品揃えという点ではイマイチである。

 新潟人よ、知的に奮起せよ、と檄を飛ばしたいところである。

8月29日(木) 過日、推理作家・二階堂黎人氏の出している文庫本表紙のドイツ語タイトルに誤りがあることをメールで指摘したのだが、氏がお礼にと署名入りの編著 『密室殺人大百科』 (原書房)2巻本を送って下さった。 恐縮の極みである。

 この種の誤りに対する指摘を私は何度かやっているが、再版で直しますという返事をくれる方は良心的なほうで、ひどいのになると梨の礫でまるで反応がないのである。 間違い指摘でこんなプレゼントをいただいてしまったのは初めてなのだ。 繰り返すが、恐縮の極みである。 氏の誠実さがうかがえるではないか。 みなさん、二階堂黎人氏の作品を読みませう!!

8月26日(月) このところなぜかブルックナーの第8交響曲ばっかり聴いている。 この曲のディスクは何種類か持っているのだが、どうもチェルビダッケ指揮ミュンヘンフィルの世評高いディスクは私の好みに合わない。 死んだ演奏、という感じしかしないのである。 チェルビダッケ・ファンは結構多いようだが、何考えて聴いているのだろうか。 

8月20日(火) 一人、渋谷に出て、映画二本を見、書店で本を見る。 やっぱり東京の大書店は充実していますね。 4階建てなのだが、4階には椅子がおいてあって座り読みできるようになっているのが良心的か。

8月19日(月) 子供3人を車に乗せて、老母の住む船橋へ。 台風の接近が気がかりだったが、さいわいにして (伊豆諸島に住む方々には迷惑だったでしょうが) 東にそれてくれたので事なきを得た。 首都圏は暑いだろうと覚悟していたが、台風のせいか新潟より涼しくて過ごしやすい。

8月9日(金) 人文教養演習でレポートを締め切りまでに提出しなかった学生が5人いたので、過日メールで催促したのだが、それでも出さない者が2人。 やむを得ず、本日事務に電話番号を問い合わせ、電話で直接催促する。 この辺のルーズさ、飽食の時代に育っているからかなあ。

8月5日(月) 某サイトで時々議論を交わしているykさんが、避暑用にとご自分で編集されたCD-Rを送って下さった。 届いたのは3日前で、一昨日の土曜日に聴いてみたのだが、モーツァルトの有名な冗談音楽を始め、抱腹絶倒の曲が勢揃い。 クラシックというと堅苦しいイメージがあるが、音楽が遊びだということを改めて教えられた気がする。 また第8曲目は、名曲と折り紙の付いた様々な作曲家の音楽を融合させたものであるが、予想もしなかった共通性が時代も国も異なる作曲家間にあるという、いわば芸術の秘密を垣間見させてもらったようだ。 

 お礼に拙訳の短編小説集を差し上げることとし、本日発送した。

8月4日(日) 午後2時からりゅーとぴあに第30回全国アマチュアオーケストラフェスティバル新潟大会のフェスティバルコンサートを聴きにいく。

 曲目は、最初が地元・新潟交響楽団の歓迎演奏・ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、次がカナダ・ナショナル青少年管弦楽団による招待演奏で、ラヴェルの「高貴にして感傷的なワルツ」とR・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」、フェスティバルBオーケストラによるラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、休憩をはさんで、フェスティバルAオーケストラによるサン=サーンスの交響曲第3番。 指揮はフェスティバルBオーケストラが下野竜也、それ以外は秋山和慶。 ゲスト・コンサートマスターとして、Bオケには三浦章広が、Aオケには徳永二男が招かれていた。 最後の曲のオルガンは、りゅーとぴあ専属オルガニストの和田純子。

 カナダのオケが来ていて国際親善を兼ねたイベントのせいか、高円宮殿下がご来席。 もっともワタシは3F正面なかほどにいたので見えなかったけれど。 お帰りのとき見えるかなと思ったが、ワタシの前列のオバサンたちが立ち上がって見送っていたので、やはり見えなかった(笑)。

 私はこのアマオケフェスティバルは初めて聴いたけど、第30回というのだから伝統ある催しと言ってよいだろう。 来年は横浜だそうだ。 アマチュアの演奏家が増えてこの種のイベントが行われるのは結構だが、演奏会場が満員でなかったのが残念だ。 特に舞台脇の2F席はがらがら。 正面席が比較的埋まっていたのが救いだけれど、この調子で行くとそのうち、演奏家の方が聴衆より多い、という時代が来るのではなかろうか。

 カナダ青少年オケの金管は結構迫力があって、日本のプロオケに負けないんじゃないかと思った。 その後のフェスティバルオーケストラBとAは全国からアマチュア演奏家が集まっての混成部隊。 演奏者の数の多さは大変なものだが、それだけに演奏の緻密さはイマイチだったかもしれない。 が、まあ、こういうのは演奏することに意義があるんでしょう。

 ただ、休憩があるまで4曲立て続け、というのはいささかバランスを欠く。 ここまで1時間30分かかっている。 やはりカナダ青少年オケの演奏が終わったところで休憩を入れるのが正解だろう。 休憩時間が10分というのも短すぎる。 演奏者側は4団体が代わるがわるだからいいが、聴く方は聴きっぱなしなのだ。 聴く側の都合も少し考えて欲しい。

8月2日(金) 7月23日にメジューエワのリサイタルに行ってT氏とD氏に会い、一緒にお茶を飲んだ顛末はここに書いた。

 本日、D氏がそこのところを読んだらしく、T氏のサイトの掲示板に 「あそこまでボクのことをボロクソに書かなくとも(号泣)」 とグチを書き記した。

 ボロクソ? いったいどこが? 相当な被害妄想に駆られているようである。 体臭のヒドイのは23日に書いたとおりだけど、若いのに肥満の兆候があらわれていていかにも不健康そうだし、どことなく落ち着かない風情で精神も病んでいるのかも知れず、これでは世の中に出てから信用される医者になる可能性はゼロで、となると医師過剰時代、とてもじゃないが生き残るのは無理であろう・・・・・・・・・という具合に書いたのならボロクソですがね。 あ、書いちゃったか(笑)。

8月1日(木) 新潟大学の生協書籍部は、9学部を擁し、1学年2千数百名という学生定員を持つ大学からすると、いささかお粗末である。 本の数も、その品揃えも。

 私も生協教職員委員をしているから責任の一端を負っているわけであるが、文句を言ってもなかなか良くならない。 他大学を出て、新潟大の文系大学院に入った学生が、ここの書籍部を見てそのお粗末さに愕然とした、という話も以前聞いたことがあるのだが、どうも内部の職員にはその実感がないらしい。

 学生には学習環境が大事だ、ということは誰にも分かると思う。 この 「学習環境」 には色々な要素があるけれど、アカデミックな本屋が身近なところにある、というのもその一つだ。 ところがここの生協職員にはそういう意識が、全然ではないかも知れないが、あまりない。 20年ほど前だが、学生の知的レベルは生協書籍部によっても決まるのだと、アンケートに書いて文句を言ってやったら、学生のレベルは受験偏差値で決まるのだとわざわざ当時の書籍部店長が反論をよこしたくらいである。 全然分かってないんですよね。

 そのことを特にここで書くのは、それ相応の理由があってのことである。

 先週、1年生向け人文教養演習の最終授業で反省会をやったところ、高校で受験向けの教育しか受けていないので世界史をろくにやらなかった、だから読んだ本の内容がつかめなくて困ることがあった、という学生の声が出た。

 この傾向はだいぶ前から指摘されていて、文系学生には日本史より世界史の方が大事だと私は思うのだが、受験で世界史を選ばなかった学生は高校で形ばかりの世界史授業しか受けていないのである。

 それで、私はその反省会の席で言ったものだ。 「村上春樹は、中央公論から出ている 『世界の歴史』 シリーズを自分で何度も読み返したから大学受験の世界史では全然苦労しなかった、と言っているよ。 高校で教えてもらわなかったから分からない、じゃなく、せめて世界史の教科書は自分で読んでおくべきだし、 中公からは新しい 『世界の歴史』 シリーズが出ているから、自分に興味のもてそうな巻だけでも買って読んでみなさい。 緑の表紙で、生協の歴史コーナーにおいてあるだろ。」

 ところが、である。 おいてあると思ったのだが、その後生協書籍部であらためて歴史コーナーを見てみると、全然見あたらないのだ。 学生に 「生協においてあるだろ」 と言った手前もある。 職員に聞いてみたところ、以前は置いていたのだが、どういうわけだか置いておくのをやめたのだと言う。

 基本図書をどうして置かないように改悪するのかね。 せめて数冊でもいいから置いておくように頼んで店を出たのだが、一事が万事・・・・・・・なのである。 知的環境を整備するのは、なかなか大変なのだ。 うーむ。

7月29日(月) 2年生向け情報文化実習の小論文の締め切りが今日だったのだが、28名中2人を除いて全員が今日までに提出。 思ったより順調でしたね。 中身がどうかはこれから読んでみないと何とも言えないが。

 しかし、である。 男子学生3人が連れ立って私の研究室にやってきて、一緒に小論文を提出しようとしたが、3人とも綴じておらず、私の顔を見てから 「ホッチキス、ないですか?」 と訊く。 こういう学生は、「私はおバカさんです」 と言っているのと同じである。 注意しようね。

 (1)レポート類はちゃんと綴じて提出すべし。 提出先の教師に 「綴じる道具貸して」 と言う輩は、店に何かを買いに行って店員に 「お金貸して」 と言うのと同類と心得るべし。

 (2)群れるな! 特に同性が3人も連れだって教師のところに来るなんて、最高に格好悪いぞ! 男女のカップルでいちゃいちゃしながら来る方がまだマシである。

7月26日(金) 中学時代の同級生だった御婦人が故郷のいわきから新潟にやってきて、私の研究室を来訪。 お菓子をいただいてしまう。

 8年前の同窓会で久しぶりに再会を果たした人であるが、その後息子さんが新潟大に入ったので、こちらに来る機会も増え、「息子をよろしく」 と頂き物をすることが多くなり、私としては恐縮しているのである。

 というのも、「よろしく」 できるならいいのだが、息子さんは理学部、私は人文学部だから、何もできないのである。 まあ、だから頂き物をしても収賄罪は成立せず、したがって受け取ってもいいですよね、というのが私の言い分なんですが。 なはははは。

 この日、新潟は台風接近によるフェーン現象で36度近い猛暑。 その御婦人も 「新潟は暑いですね」 と驚いていた。 いわきは、東北の最南端だが気候は非常によいところで、夏涼しく、冬は暖かい。 夏は30度を越えることが比較的少ない。 それだけに新潟の気候の悪さはこたえるのであろう。 私も新潟在住20年以上になるが、冬の寒さはたいしたことないと思うものの、夏の暑さには慣れることができないのである。

7月23日(火) 午後7時から、りゅーとぴあコンサートホールでイリーナ・メジューエワのピアノリサイタル。 プログラムは、ベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」、ショパンのノクターン嬰ハ短調、幻想即興曲嬰ハ短調、バラード3・4番、グリーグの叙情小曲集より「アリエッタ」「子守歌」「蝶々」「春に寄す」、メトネルの「3つの小品」作品31、「忘れられた調べ」第2集より「朝の歌」「悲劇的ソナタ」。 アンコールがメトネル「おとぎ話」、グリーグ「ノットゥルノ」、ショパン「子犬のワルツ」、メトネル「春」。

 ダークの衣装で、気品あふれる姿。 こういう感じの御婦人、好きですねえ。 容姿も大事だけど、女はやはり気品ですよ。 「女は気品のあるなしで伯爵夫人にもなれば女乞食にもなるのだ」 という有名な言葉がありますが、まさにその実例と言えましょう。 え? そんな言葉聞いたことがないって? そうかも知れませんね。 これが不肖私の言葉ですので(笑)。

 しかし演奏はさほど感心しなかった。 特にベートーヴェンはテンポを落としたかと思うと変に鋭角的な表情をつけるところがあって、魚の小骨が喉に突き刺さったような感じ。 もっとオーソドックスに弾いてほしい。

 演奏会終了後サイン会があり、私もCDを買ってサインをもらおうかとも思ったが、どうもいいCDがないんだなあ。 ありふれた小品集ばっかりで。 で、サインをもらうのはやめました。

 帰ろうとしたら、新潟でクラシック音楽サイトを主宰しているT氏と、その悪友の医学生D氏にお茶を飲もうと誘われた。 酒なら歓迎だが、今日はクルマなのでダメなんですね。 それで私のクルマで男3人、お茶を飲めるところを求めて街に出たものの、最初行ったファミリーレストランは駐車場が満杯で入れず、その後駅南をさすらったが、この時間帯、飲み屋はあっても喫茶店なんか見あたらない。

 やむを得ず、オークラホテルの最上階のレストランでお茶を飲むことに。 私はトマトジュースを頼んだ。 メニューには500円とあったけど、サービス料1割と消費税を加え577円とられた。 さすがホテルのレストランですなあ。

 それにしてもコンサートが終わってから男3人でお茶を飲むのは様にならない。 気品あふれる御婦人を加え、酒を飲みたいものである。 ついでながらD氏は体臭がひどい。 医者ってのは客商売なんだから、何とかしないと失業しかねないんじゃないか。

7月19日(金) 日頃占いなど信じない私ではあるが、今日ばかりはなるほどと納得してしまったことであった・・・・・・・

 え、何を言うのかって? はい、順序立てて説明いたします。

 頼んだわけでもないのに、某所から私のパソコン当てに毎日メールが配信されてくる。 そこには天気予報だの、パソコンの用語解説だの、注目されるイベント情報だの、まあ雑誌並みの内容が詰まっているのであるが、中に占いコーナーがあって、その日の私の運勢が 「恋愛運」 「金運」 「エンターテインメント運」 に分かれて書き込まれている。

 この日、私の 「金運」 は★一つ、つまり最低というのが占いの予測であった。

 さて、今日は金曜日。 普段なら敬和学園大の非常勤に出かけるのであるが、敬和は先週で授業が終了しており、期末試験は来週なので、この日は完全に空き日であった。 それで私は新潟地方裁判所に出かけたのである。

 なぜ裁判所に行ったのかって? 悪いことをして呼び出されたわけでも、また誰かを訴えるためでもない。(訴えたい奴はいないではないが・・・・以下、略。) 競売物件の資料を見に行ったのである。

 実は先月、新聞に定期的に載る裁判所の競売物件の欄を何となく見ていたら、「おや」 と思うものがあったのである。

 新潟市郊外にある中古マンションの3Kが競売にかけられているのだが、最低売却価格が72万円! 中古車並みの値段である。

 場所は大学から数キロ、私の家からも10キロとないところだ。 しかも私はそのマンションを知っていた。 鉄筋コンクリート4階建てで、以前は貸しアパートだったのが、数年前に外壁を塗り直して (多分、中の部屋もきれいに改装して) 分譲マンションとして売り出したのであった。

 そんなマンションを買おうなんて、自分の子供でも住まわせるつもりか、とお思いでしょうか? 残念でした。 本置き場を確保したいからなのです。 

 同業者なら分かると思うが、人文系の大学教師の最大の悩みは本置き場である (研究費でしか本を買わない一部の怠惰な教師を除く)。

 私も10年前に自宅を新築して (まだローンが残っているのです・・・・〔冷汗〕 )、自分の書斎に10畳とったのでこれで当分は大丈夫と思ったのが、甘かった。 すでに書斎は満杯。 廊下にも1つ書架をおいており、他の場所にも若干おけそうなところはあるが、それとて2、3年しか持つまい。 

 といって大学の研究室にも余裕は全然ない。 どうすりゃいいんだ???????????

 ・・・・・・と、?マークで頭をいっぱいにして悩んでいたところに、この物件である。 住宅ローンの残っている私でも買えそうな値段。 築後25年という古さが気がかりだが、まあ10年、うまくすれば15年くらいは持つだろう。 その後はまたその時のことだ。 少なくとも10年は本置き場に困らずにすむのだ!!!!

 ・・・・・・・というわけですっかりその気になり、来週から入札期間となるので、その前に資料を見ておこう、裁判所なる場所にも慣れておこう、と思って出かけたわけである。

 ・・・・・・・が、行ってみたところ、壁の競売物件一覧表を見ると、お目当ての物件には線が一本引かれて抹消されているではないか。 何かの事情で競売からはずされたのであろう。

 ううむ、世の中、やっぱり甘くないですねえ。 というわけで、中古車並みのお金で10年分の本置き場を確保する夢は一瞬にして消えたのであった。 コンピュータに配信されてくる占いの 「金運★一つ」 とは、このことだったに違いない。

7月18日(木) 午後7時から、見附市のアルカディア・ホールで、鮫島有美子ソプラノリサイタル。 ピアノ伴奏は夫君のヘルムート・ドイチュ。

 行きは高速料金節約のため一般国道を行ったら、1時間20分ほどかかりました。 やはり見附市は遠いですなあ。 ちなみに高速を使った帰路は40分ほどだった。 高速料金800円。 ということは40分短縮で800円だから、10分200円。 1分20円。 高いか、安いか??

  開演は7時のはずだが、なかなか開場しない。 開場は演奏開始30分前が普通なのに、6時40分になっても50分になっても扉が開かない。 ようやく6時53分に開場となる。 この間、説明がまったくない。 ロビーで待っている客にはちゃんと理由を説明すべきであろう。

 プログラムは、前半は日本の歌が7曲とマーラーの 「さすらう若人の歌」、後半はグリーグの歌曲から 「君を愛す」 など5曲と、日本の歌7曲。 アンコールに 「赤とんぼ」 「この道」 など日本の歌が3曲。

 鮫島さん、美しい声で歌もうまいと思うけど、声量がないのが気になった。 会場のホールは定員約800人でそんなに大きいとは言えず、私の席は当日券で10列2番だから、端の方ではあるが前後からいうと前に近い方なのに、歌の迫力というか、マイクを使わないクラシック歌手ならではの生の声の圧力が感じられない。

 この人を生で聴いたのは初めてだが、昔からこうだったのであろうか。 或いは、失礼ながらお年のせいで声量が落ちているのだろうか (プログラムに生年が記載されていないが、多分、私と余り変わらない年齢だと思う)。 また、後半は中音から低音に移る箇所で若干声がしゃがれた感じになることがあって、気になった。

 マイクで曲の説明をしながらの演奏会だが、話は大変上手で、悪くなかった。 客の入りは8割程度か。 

7月14日(日) 午後5時から、りゅーとぴあで、東京交響楽団第17回新潟定期演奏会。 ユベール・スダーンの指揮、小川典子のピアノで、ハイドンの交響曲第1番、モーツァルトのピアノ協奏曲第27番、ブルックナーの交響曲第0番。

 開演15分前くらいに会場付近に着いたが、りゅーとぴあの駐車場は満車、周辺の道路も混んでおり、どうにか某所にクルマをとめて会場に駆け込んだのが5時3分過ぎくらい。 ところが指定された席 (B席) に行ったら、若い女がすわっている。 どう見てもうっかりミスではなく、ランクの低い席 (CかD) から勝手に移ってきたものだ。 無礼者めっ!! こういう輩は3階から (私の指定席は3Fですので) 突き落としてやりたくなる。

 さて、演奏は、前半は弦の響きがいつになく美しかった。 ハイドンの交響曲、チェンバロ付きで演奏していたが、通奏低音付きでハイドンをやるのはその筋では定説になっているのかしらん。 モーツァルトはやや遅いテンポながらオーソドックスな演奏で、もう少し特徴を出してもいいのではと思われた。 ブルックナーは、持っているArte Novaのディスクと全然感じの違う演奏。 ブルックナーというよりブラームスみたい。 でもこういうのもアリなんでしょうね。

7月13日(土) ナント美術館展が新潟市美術館で開かれているが、それを記念してのミュージアムコンサートが、本日美術館のエントランスホールで開催された。 無料 (美術展は有料)。 11時と12時半の2回で、寝坊してしまった私は12時半のを聴いた。

 和田純子のポジティブオルガンと寺田尚弘のオーボエで、40分ほど。 プログラムは、L・クープラン 「シャコンヌ」「ブランクロシェ氏の墓」、ピエール・ドゥ・マーシュ 「レシ」、F・クープラン 「恋のうぐいす」、A・マルチェロ 「オーボエ協奏曲」、クロード・ベニーニュ・バルバトール 「ノエル: 陽気な羊飼いはどこへ」。 「レシ」 と 「オーボエ協奏曲」 がオーボエとオルガンの演奏であるほかは、オルガンの独奏曲。

 オルガンはりゅーとぴあのを持ってきていたが、前のふたがはずされていたので、中のパイプが見えて、なるほどこうなっているのかと思い感心した。 コンサートの後は美術をじっくり鑑賞。 美術と音楽を同時に楽しめるというのは実に贅沢。

 新潟市はかくも贅沢な町なのであった・・・・・・・・・と。 なお、和田純子さんは今年度から新しく新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ) の専属オルガニストになった人で、私は演奏に接したのは今日が初めてだが、前の専属オルガニストだった吉田恵さんより私の好みに合っている。 いえ、演奏がということじゃなくて、外見が、ということなんですが・・・・・・・(何考えて音楽聴いているんじゃ、コラ!)

 美術展では、ルイス=ウェルデン・ホーキンスという画家 (あとで『新潮世界美術辞典』を調べたが、載っていなかった) の 「暖炉」 が気に入った。 タイトルは暖炉だが、深緑色の野外から館の窓を描いていて、その窓に暖炉の火がかすかに映っている、というもの。 幸い絵はがきがあったので (ただし他の作品と合わせて8枚組。 でもこれで400円だから、安い) 購入したけれど、原作の深い緑色は絵はがきでは十分出ていない。 私が富豪ならナント美術館からあの絵を購入するところだが・・・・・・・・夢のまた夢ですなあ、なははは。 

 ところで新潟市美術館にはたしか 「緑窓」 という作品が収蔵されているはずである。 以前、常設展で見て気に入ったのだが、その後お目にかからない。 そろそろまた出して見せて欲しい。

7月9日(火) 午後7時より、音楽文化会館での演奏会 「グローブ座の音楽家たち」 を聴きにいく。 音楽監督とリコーダがフィリップ・ピケット。 ソプラノがジョアン・ラン。 リュートがトム・フィヌケン。 ほか、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、シターン(マンドリンに似た楽器)、バンドーラ(ギターに似た楽器)が各1名。

 英国グローブ座の専属楽士たちがルネッサンス時代の楽器を使い、17世紀当時シェイクスピア劇中で実際に演奏されていた音楽を再現するという注目すべきコンサート。 道化役者も登場し、曲芸を披露したりもした。

 肩肘張らない楽しいコンサートだった。 ソプラノのジョアン・ランも大変上手だが、親しみの持てる声質で、演奏者と観客の一体感を生み出すのに格好という感じ。 トマス・モーリーを初めとする世俗歌曲と合奏曲が多数演奏され、最後にアンコールとしてトーマス・ルポの「マスクミュージック73」をやった。

 良い演奏会だなと思ったので、CDを買って帰りました。   

7月6日(土) 午後7時から、りゅーとぴあ劇場に 「ヴェニスの商人」 を見に行く。 グローブ座カンパニーの公演。 「子供のためのシェイクスピア」 シリーズの一環だそうだが、大人が見ても十分楽しめる舞台であった。 構成=田中浩司、演出=山崎清介。

 開始10分前に出演者による歌が前座代わりに(?)入ったり、劇団員と観客の垣根が低くなるように工夫されており、2時間を楽しい気分で過ごすことができた。 全体としてリズムを重視した演出だったようである。 シャイロック役が女だったのは、何か意味があったのか、それとも団員の男女比の関係からか?

7月5日(金) 敬和学園大の非常勤の日。 暑い一日だったが、冷房が効いているので快適。 ここが新潟大と違うところ。

 が、しかし。 今年度はどういうわけかいつまでたっても独和辞典を買わない一年生が複数おり、専任の先生が仕方なく、見本用に出版社から送られてきた辞書を貸与しているのだが、本日授業をやってみたら、その一人が授業中でも帽子をかぶったまま。 上着とセットになっているデザインのようで、帽子を取るとバランスが崩れるとの判断か? でもなあ、そんなお召し物にカネを使うんだったら、ちゃんと自分で独和辞典を買えっていうの!!

 話はがらっと変わるが、この9月末に日本独文学会が新潟大であるので、先日打ち合わせをやったのだが、新潟市は来ると決まっている学会にはカネを出さないのだそうだ。 来るかどうか分からない学会を誘致するのにはカネを出すのに、である。 つまり、来ると決まった学会にはエサ(?)をやる必要はないという考えなのだろう。

 昨秋は松本市で日本独文学会があったのだが、松本市はちゃんと補助金を出していたのである。 また、以前金沢大の先生にうかがったことだが、金沢市も市内で行われる学会には補助金を出しているという。 松本市や金沢市と、新潟市のこの違いはどこから来るのだろうか?

 新潟市のこうした姿勢と、服装にはカネをかけても独和辞典をいつまでも買わない大学生は、何となく共通項があるような気が私にはするのだが。

6月29日(土) 夕方6時半から、新潟大学管弦楽団の演奏会。 りゅーとぴあコンサートホール。 指揮は河地良智。 チャイコフスキーの幻想序曲 「ロメオとジュリエット」、プロコフィエフの 「キージェ中尉」、ブラームスの交響曲第2番。 アンコールはブラームスのハンガリー舞曲第5番。

 悪くない出来だった。 少なくとも昨年よりはうまくなっている。 コンサートマスターが大柄で童顔で、どことなく相撲取りの大乃国を思わせて愛嬌がある。 

 ただ、客の入りがイマイチのような気がするが (といっても最近の東響新潟定期と同じか、やや少ないくらいだが)、この頃は新潟でも東響や外来オケの演奏会が増えているので、学生オケの演奏会にまで足を運ぶ気にならないのだろうか。 だとすると寂しいことだ。 せっかくりゅーとぴあで演奏しているのだし、入場料も安いのだから、クラシックファンは聴きにきてやってほしいものだ。

6月20日(木) 夜7時から、音楽文化会館でベルリンフィル弦楽四重奏団の演奏会。 ルリィ・サカグチとかいう日系女性ピアニストが同行した。 曲目は、ベートーヴェンのピアノソナタ第30番、同じく弦楽四重奏曲ラズモフスキー第3、ブラームスのピアノ五重奏曲。 アンコールにシューマンのピアノ五重奏曲から二つの楽章を演奏。

 最初のピアノソナタはひどかった。 おい、これでカネ取って演奏するのかよ、と言いたくなる。 ベルリンフィルSQはそれに比べるとはるかにいい。 先に新潟に来たフェルメールSQがアンサンブル重視だったのに対して、これは各奏者の顔が見えるような演奏だった。 特にラズモフスキー第3の最終楽章が迫力だった。

 この演奏会は、角田浜近くにあるカーブドッチ・ホールの記念行事として行われたもので、休憩時間にはワイン・サービスがあり (ワタシはクルマなので、一杯しか飲めず、残念!) アンコールの合間に景品の当たるくじ引きがある (ワタシは当たらなかった、残念!) など、楽しい雰囲気のコンサートではあった。

6月14日(金) 敬和学園大に非常勤に行ったら、控え室でいつも一緒になる先生お二人がサッカーW杯の話をしていた。 うーむ、日本人はいつからこんなにサッカーファン一色になったのだろうか。

 実は、昨日も、夜、H卓球クラブに練習に行ったら、見目麗しい中高年のご婦人方がW杯の話をしているので、愕然としたのである。 卓球をやるようなご婦人は、「孔令輝〔*〕ってキムタクみたいで母性本能をくすぐられるわあ」 とかなんとかいう話をするのかと思っていたので、よもやサッカーなんかに興味があろうとは予想だにしなかったのである。 甘かったか。

   *孔令輝とは、世界チャンピオンにもなったことのある中国人卓球選手。 小柄ながらシャープな卓球で、マスクも悪くない。

 私はサッカーには全然興味がない。 いや、中学のころは割りに好きだったけど、サッカーってのは見るよりやるスポーツだと思っていた。 しかし始終走り回っていなければならないので、体力を相当に食う。 野球や卓球の比ではない。 だから、十代の体力のあるころならやるのにいいけれど、それを過ぎたら縁を切るべきスポーツじゃないかと考えている。

 まわりが皆W杯の話をしているので、へそ曲がりの私としてはそれに同調したくない気持ちもあるわけではあるが、それにしても、いつの間に日本人って、こんなにサッカー好きになったのかね。 気味が悪いな。

 ところで、先週の授業で独和辞典を買っていないと言った女子学生ふたり、「次回までに必ず買っておきなさい」 と命じておいたのだが、本日は欠席でした。 処置なし。 

6月9日(日) 少し前に購入したスクリャービンの「ピアノ前奏曲集・第1集」のCD(NAXOS)、ようやく暇ができたので聴いてみたが、雑音がかなり入っている。 特にピアノが大きな音をたてるところで雑音がひどい。 

 NAXOSのCDって、基本的に輸入品なんだが、輸入品のCDはこの手のトラブルが多いですね。 多分、店で替えてもらっても同じロットの品は全部雑音入りだろうなと思うと返品の気力も失せてしまう。

 このCD、5月の東響新潟定期でアレッシオ・バックスがアンコールで弾いたスクリャービンの左手のための前奏曲が面白かったので買ったのだが、こういう次第でハズレでした。

6月7日(金) 午後、敬和学園大の1年生のクラスでドイツ語を教えていたら、まだ独和辞典を買っていないという学生が2人いて、愕然とする。  3週間前、おしゃべりを注意したら途中で教室から出ていってしまった2人組である (5月17日の項を参照)。

こうなると、気分は底辺高校、といったところだろうか。 念のため付け足せば、こういう学生ばかりじゃなく、真面目に勉強している学生も何人もいるのだが・・・・・・。

6月4日(火) 午前、上野の国立西洋美術館にプラド美術館展を見に行く。 ゴヤを初めとするスペインの絵画を集めたもの。 こういう西洋絵画が貴族文化から出てきたものであることを改めて痛感する。 今の時代じゃ、いくら油絵をやったって後世に残らないんじゃないか・・・・・。

 なお、この美術館の常設展は、年々充実してきている。 常設展を合わせて見るとかなり時間を食う。 今日はこのあと古本屋めぐりをしたのだが、そのための時間が少なくなってしまった。

6月3日(月) 夜7時から、サントリーホール(大ホール) で五嶋みどりのヴァイオリンリサイタルを聴く。 ピアノ伴奏はロバート・マクドナルド。 曲目は、リスト(オイストラフ編)のヴァルス・カプリ―ス第6番、ベートーヴェンのソナタ第10番ト長調、シマノフスキ(コハンスキ編)の「クルピエ地方の歌」全12曲より第9曲 「いななけ、仔馬よ」、R・シュトラウスのソナタ作品18。 アンコールは、サラサーテの 「序奏とタランティラ」、エイミー・ビーチの 「ロマンス」。

 五嶋みどりを生で聴くのは初めてだが、音量がないのにびっくりした。 ピアノに完全に負けている。 これじゃ、ヴァイオリンのオブリガート付きのピアノ演奏会じゃないですか。 いくら技巧や解釈が優れていても、音がこんなに小さいのでは・・・・・・。 独奏演奏家としては致命的じゃないかなあ。

 座席はRCの1列5番。 このチケット、入手するのに苦労した。 発売当日にインターネットで買うつもりが、あっという間に売り切れてしまい、「販売終了」 の掲示にがっくり。 しかし、その後、クラシック演奏会のチケットを購入しながら行けなくなった人が転売するサイトを始終のぞいていたところ、ある日売りに出たので、すぐにメールで購入を申し込んでやっと入手したもの。

 というわけで 「売り切れ」 のはずが、どういうわけか当日券が販売されていた。 このあたり、不可解である。 まあ、当日券は場所的に劣るだろうから、苦労してチケットを入手したことは後悔していないが、1万円でこんな演奏をされたんじゃ、救われません・・・・・・。

 演奏会の後、近くのラーメン屋で醤油ラーメンと餃子とビールで夕食。 ラーメンが650円、餃子が500円もするのは高いと思ったが、出てきたのを見ると餃子はヴォリュームのあるのが6ヶだから、まあまあであろう。 しかしヴォリュームがありすぎたためか、或いは演奏会に不満足だったせいか、後日胃の調子がおかしくなった。

6月2日(日) 午後、というか夕刻近く、東京駅近くのブリジストン美術館に藤島武二展を見に行く。 本日が最終日だというので。 

 私は藤島については日本に洋画を導入・確立した人の一人という程度の認識しか持っていなかったが、75年におよぶ生涯に様々な試みをした画家だということが分かって興味をそそられた。

 特に、朝鮮半島や中国大陸での異文化体験から生まれた数多い作品は、日本の芸術家にも一種の植民地体験があったのだという視点から研究の対象にすべきものだろう。 むろん、歴史的な植民地主義評価とは別に、ということである。

6月1日(土) 朝の新幹線で東京へ。 日本独文学会に出席のため。 会場は獨協大学。

 ナチズムと文学に関するシンポジウムを聴いたが、イマイチであった。 特に、話が非常に分かりにくい人がいたのが残念。 こもった声で、早口で、資料の用意もなく、独善的としか言いようのない発表。 この人、きっと授業も下手なんだろうなあ、と思ってしまう。 (T大学のT先生、あなたのことですよ。)

 でも、人の振り見て・・・・・という諺もあるから、私も注意しなくては。 それにしても今回の学会は、駅から会場への道案内だとか、大学内の会場説明が総じて不親切であった。 獨協大の方々、独善的はいけませんよ。 それとも独文学会も末期症状なのかなあ。

5月30日(木) 4限、1年次向けの人文教養演習。 田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)を読んでいるところ。 

 フランス語は明晰だ、なんて胡散臭い神話はとうに死に絶えて今どきの若い人には無縁だろう、と思っていたら、どっこい、案外生き延びているようだ。

 ドーデの 『最後の授業』 も、タイトルを知っている学生が3分の1くらいいる。 田中や蓮実重彦の批判で国語の教科書に採用されなくなってからだいぶたつから、二十歳前後の学生は知らないだろう、と思っていたのだが、意外だった。 

 ううむ、もしかすると、フランス語にまつわる古くさい神話は、中学高校の教師たちによって延命しているのかもしれない。 学問の最先端に一番遠いのが教師だったりする、ということは案外ありそうな話だから。 いや、大学教師だって例外ではないかもしれない。 自戒の念をこめて。

 でもこの授業、前期に受け持っている中では一番やっていて楽しい。 こういう授業ばっかりだと教師稼業も悪くないと思えるんですがねえ。 

5月27日(月) 4限の情報文化実習、本日は都市の周縁部について論じた文章を読んで、担当者3人の発表の後、討論に入る。 

 最初、全然発言がなかったが、一人の学生が自分の住んでいるところでは繁華街と田圃が隣接していると発言したところから話が広がって、地方都市の伝統ある繁華街の衰退と郊外型スーパーの配置の話になった。 こうなると身近な話題だから、割りに意見が出て、まあまあ活発な授業だったと言えるだろう。

 それにしても、今回扱った論文は、私に言わせるとかなりやばいレベルだと思う。 私より3歳上の、いわゆる団塊の世代の学者の書いたものだが、はっきり言って左翼のなれの果てであり、やたら市民社会をクサしているが、目指すべき方向性も何もない。 要は訳も分からず悪口を並べて当たり散らしているだけ、なのである。

 そもそもこの論文が載っている教科書自体、どうも感心しないのだ。 って、おまえが自分で選んだんじゃないかと言われそうだが、そうじゃないのです。 この 「情報文化実習」 という名の授業で以前から使われていたもので、私はこの授業は今年初めて受け持ったということもあり、教科書も前からのをそのまま受け継いだのだが、読んでみると全然冴えないんだよなあ。 『新・知の技法』 という、東大出版会から出ている本なんだけど、こんなもんで知の世界に誘おうったって無理だよ、知性も糞もない本だもん。

 もし来年度も同じ授業を持つ場合は、この教科書は使わない、とここに宣言しておこう。

5月24日(金) 夜7時から音文で田部京子のピアノリサイタル。 音楽会も3連ちゃんとなると疲れますなあ。 

 プログラムは、吉松隆 「プレイアデス舞曲集」 より5曲、フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」、ドビュッシーの 「喜びの島」、シューベルトのソナタ第21番変ロ長調。 アンコールはメンデルスゾーンの無言歌 「ヴェニスのゴンドラの歌第2番」 とドビュッシー 「月の光」。

 舞台での笑顔からしていかにもヤマトナデシコという印象の田部さんは、演奏もヤマトナデシコだ。 一昨日の諏訪内晶子とは違い、日本的感性から身を反らすことなく、むしろ徹底して日本人的に曲を解釈し演奏しようとする。 アンコールを含め、小曲ではそれが十二分に活きる。 だが、シューベルト最後のピアノソナタではどうだろう。 私としてはやや物足りないものを感じたのだが。

 田部さんは昨年も新潟でリサイタルを開いているが、あのときはピアノの音があまり芳しくなく、聴衆も少なく、気の毒だった。 今年はピアノの状態もまあまあだったし、聴衆もそこそこ入ったので、結構なことだと思う。

 演奏会終了後、サイン会があった。 アンコールが特に良かったので、小曲集のCDを買ってサインしてもらいました。 ちゃんと一人一人にサインする場所を訊きながら丁寧にサインする田部さん、ファンを大事にしていますね。

5月23日(木) 夜7時から音文でフェルメールカルテットの演奏会

 それに先だって空腹を感じたので音文の喫茶店に入った。 ここに入ったのは初めてだが、テーブルにメニューがない。 「メニューは?」 と訊いたが、飲み物か食事かと訊くだけで、メニューを出そうとしない。

 こちらとしては本格的な食事をしたいわけではないものの、演奏会前に空腹をとりあえず鎮めるために入ったので、純然たる飲み物でも困るわけだ。 要は軽食のようなものがあればいいわけだが、それが 「食事」 に含まれるのかどうか判然としない。

 とにかくメニューを見れば何があるか分かるわけだから、重ねて 「メニューはないの?」 と訊いたが、飲み物と食事は別なのでと言うだけで出そうとしない。 店内を見回しても、黒板には食事の品目が4種類あるだけで、飲み物は何も書いてない。何て喫茶店だろう! 同じ質問をもう一度したら、ようやくリストのようなものを渡してくれた。 見ると、飲み物のなかにちゃんと 「ケーキセット」 があるではないか。 最初からこのリストをテーブルにおいておけよ!

 さて、演奏会は、モーツァルトのニ短調K421、リゲティの弦楽四重奏曲第1番 「夜の変容」、ベートーヴェンの 「ラズモフスキー第2」、アンコールが、ハイドンの第44番の第4楽章とメンデルスゾーンの第5番第2楽章。

 演奏の方だが、第一ヴァイオリンの線が細く、引っぱっていくタイプではない。 全体のアンサンブルを重視する四重奏団のようだ。 他のメンバーも、音の出し方は控えめで、よく言えば穏やかで古典的、悪く言えば自己主張が弱い。だからモーツァルトなら、第2,4楽章はいいが、第1,3楽章は物足りないと感じられる。 もっとも一体感を重視するならこういう行き方も悪くないのだろうし、ベートーヴェンにはそうした一体感があった (控えめなベートーヴェンだけど)。 座席は13列14番。

5月22日(水) 本日の朝日新聞新潟版を読んで、私は激怒した。 デタラメを書くな!! いろいろ疑問を感じながらも、親の家にいるときから読んでたからという惰性も手伝って長年購読し続けてきたけど、堪忍袋の緒が切れました、今月限りで朝日新聞はやめるぞ!!

 具体的な理由? それはちょっと待って欲しい。 そのうち明らかにします。 ただ、官僚に取材しただけで記事を書くな、馬鹿野郎! とだけ言っておこう。 国立大学教授なんてのは文部官僚のロボットなわけだが、報道機関までロボットになっているのかいな。 日本はダメだね、こりゃ。

 朝日以外に産経新聞をとっているからこれだけでも間に合うんだけれど、一紙だけというのは情報が片寄るから問題がある。 私はへそ曲がりなので、日本一部数が多いという読売は避けたい。 となると、朝日の後継は毎日新聞か。

 閑話休題。 本日は夜7時から上越市の上越文化会館で、諏訪内晶子のヴァイオリン・リサイタル。 3月7日に続いて、T氏の車に乗せていただいて高速道路で上越市に向かう。

  入りは半分強くらいか。 3月のゲヴァントハウスよりちょっといいみたい。 ピアノ伴奏はマルクス・グローで、シューベルトのソナチネ第2番D385、ベートーヴェンのソナタ第8番、ウェーベルンのヴァイオリンとピアノのための4つの小品作品7、フランクのソナタ。 アンコールは、ラフマニノフのヴォカリーズ、ヴィエニャフシキのスケルツォ・タランテラ、ブラームスのハンガアン・ダンス第5,2番。

 音が思ったより出ていない。 解釈も、日本人的感性から身を反らそうとするのはいいが、何を目指しているのかはっきりしない。 試行錯誤の最中なのか。 アンコールの方が自分を自然に出しているようだ。 笑顔もアンコール時の方が自然。

5月20日(月) 4限、情報文化実習。 担当者3人の発表は悪くない。 先週に比べると、担当者以外の学生からも若干だが発言があり、全体的に良くなってきた。 しかし、発言の大半は中国人留学生からであった。

 本日扱った論文は教育をテーマにしているので、学生にも論じやすいと思うのだが、日本人学生はあいかわらずぼーっとしている輩が大部分。 

 言葉にハンディのある中国人留学生が熱心に発言しているのに、条件に恵まれた日本人学生がだんまりを決め込んでいるのだから、みっともないことおびただしい。 恥ずかしいと思わないのだろうか?

5月19日(日) 午後からコンサート通い。 まず2時から音文で、ネーベル室内合奏団の第53回定期演奏会。

 前半はヴィヴァルディの弦楽のための協奏曲ニ長調F.11−30、コレッリの合奏協奏曲作品6−5、ヘンデルの合奏協奏曲作品6−5、後半は奥村愛と奥村和雄の独奏でヴィヴァルディの2つのヴァイオリンのための協奏曲イ短調F.1−61と同じくニ短調F.1−100。 アンコールがヴィヴァルディの 「調和の霊感」 より、2つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲ロ短調F.4−10から第1楽章。

 前半は、作曲者が違うとはいえ、弦とチェンバロだけの合奏協奏曲3曲というのは変化にとぼしく、やや単調な気がした。 木管の入った協奏曲を1曲くらいいれてほしいところだ。 後半は悪くなかった。 この団体を聴いたのは初めてだが、先週の新潟室内合奏団よりはましなよう。 奥村愛の人気のせいか、客の入りも先週よりいいようだ。

 1時間あまりの間をおいて、午後5時からりゅーとぴあコンサートホールで東京交響楽団第16回新潟定期演奏会。 飯森範親指揮、アレッシオ・バックスのピアノで、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、西村朗の 「東アジア幻想曲」、レスピーギの 「4つの交響的印象 『教会のステンドグラス』」。 アンコールは、アレッシオ・バックスがスクリャービンの 「左手のためのプレリュード作品9−2」、オケがレスピーギの 「古風な舞曲とアリア」 第3組曲から。

 チャイコフスキーを弾いたバックスは25歳の新鋭でリーズ国際コンクール優勝者。 指揮者が演奏前に行ったトークでは 「繊細なチャイコフスキー」 とのことだったが、こちらとしてはごく普通のチャイコフスキーのような気がしましたけど。 でもアンコールのスクリャービンが面白かった。 初めて聴いたけど、ディスクを買ってみようかなと思った。

 後半の西村朗とレスピーギも初めて聴く曲。 西村のはそもそもが日本初演だそうで、曲が終わってから作曲者が舞台に上がって挨拶した。 だが現代曲というのはどうも馴染めない。 レスピーギの曲は各種打楽器が活躍するのに加えパイプオルガンまで出てくる派手目のもので、りゅーとぴあのようにパイプオルガンを備えたコンサートホールでの実演ならではという作品だが、逆に言うとディスクでこういう曲を聴きたいとは思わない。 これはこの曲にとって名誉なことだろうか。

5月17日(金) 午後、敬和学園大の非常勤の授業。 1年生のクラスで、いつも後方の窓際に並んですわり四六時中おしゃべりをしている女子学生が2人いる。 前から気になっていたが、本日とうとう叱責したところ、授業途中で2人一緒に退席してしまった。 「ムカツク」 と思ったのだろうか。

 新潟大ではさすがにまだこれほどひどくはない。 しかし新潟大でも、昨年の2年生向けのクラスでやはり女子学生のおしゃべりを注意したところ、その日は静かになったが、数週後にはまた別の女子学生がおしゃべりを始める始末で、レベル的にはあまり変わらない。

 閑話休題。 夜6時から、1年生向け人文教養演習 (木曜4限) のクラス・コンパを新潟大前の店で行う。 参加学生は女子ばかりで6名。

 実は8日前にあらかじめ出欠をとった段階では11名 (うち男子1名) が参加を表明していた。 クラスの学生は全部で19名 (うち男子2名) だから、半数強で、これまで同じ授業でコンパをやった時にはいつも3分の2以上が参加していたところからすると、少ないなと思ったのである。

 ところが、昨日の授業の際に改めて出欠を確認したら、参加を表明していた11名中5名が欠席すると言い出して、私を愕然とさせた。 やむを得ない事情が全員にあるとはどうも思われないから、要するに責任感に欠けているのであろう。 この辺にも学生気質の変化が現れているような気がする。

 しかし今日参加した6名の女子学生は少数精鋭(?)のためか、論談風発で、私も啓発されるところが多かった。

 飲み物は何でも2時間飲み放題というコースにしたので、初めに乾杯をするときから参加者ごとに希望するドリンクにしたが、カクテルやノンアルコール系のドリンクを頼む学生ばかりか、最初から 「熱燗!」 という剛の者もいて、私を含む他の参加者を驚愕させた。 私だって最初はビールなのである。

 結局、「とりあえずビール」 という普通の(?)手順を踏んだ参加者は私だけ。 なるほど、世の中変わってきているんだなあと痛感した。

5月14日(火) 3限、大学院修士課程の授業。 最近、西洋文化を専攻する学生の基礎知識に問題があると感じることが多い。 大学院に入ってくる学生でも、聖書やギリシア神話を全然読んでいないのである。

 こういう基礎的な本は学部段階で読ませるべきだと思うのだが、そういう指導がなされていない。 これは教師の怠慢であろう。 実はこういう教師が日本の大学では大半を占めており、私のように聖書やギリシア神話は必読文献として強制的に読ませるべきだという意見は少数派なので、問題はさらにやっかいなのである。

 変に細かい知識ばっかり身につけるより、 基礎的なところをちゃんとやるのが大事だと私は思うのだが、日本の大学教師にはこういう正論は通じにくいようだ。 いやはや、である。

5月13日(月) 4限、2年次向け情報文化実習。 月曜は2週続けてつぶれたから、20日ぶりの授業。 情報文化実習といういささか仰々しい名称が付いているが、要は論文の書き方や資料集めなどの練習をする授業なのだ。 色々なテーマの論文を集めたアンソロジーが教科書で、それをもとに授業をやることになっている。

 本日は教科書の最初に収録されている論文を取り上げ、担当者3名の発表をもとに議論をすることになっていたが、担当者3名以外の学生からまったく発言がなく、議論にならない。 仕方なく私がずっとしゃべり通しだった。 立腹。 私のいる場所にはこういう知的怠惰さに満ちた学生が多いと日頃から思っていたが、その実態があらためて白日の下にさらされたようだ。

 そもそも本日扱う論文は、あらかじめ学生に提出させた希望リストでは一番志願者が多かったものなのである。 抽選で担当を3名に絞ったわけだが、抽選にもれた他の希望者からも一言も発言がないというのはどういうわけだろう。

 つまり、自分の興味から希望したのではなく、何となくやりやすそうだから希望したに過ぎなかった、ということなのではないか。 こういう輩が大半を占めるのであるから、前途多難な授業になりそうだ。 Ach! 

5月11日(土) 夜6時半から音文で新潟室内合奏団の第43回演奏会。 指揮が尾崎寛尚(ひろたか)、ピアノ独奏が轟文子で、モーツァルトの交響曲第31番 「パリ」、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」。アンコールはモーツァルトのディベルティメントK136第3楽章。

 最初の 「パリ」 ではホルンが音をはずしっぱなしで、弦の合奏も早いパッセージでは乱れているし、どうなることかと案じられたが、次の2曲はまあまあの出来であった。

5月7日(火) 金沢のCD屋さん 「山蓄」 に注文していたディスクが届く。 合計45枚。 これで1万2千円ほどだから安い!

 まずバッハの 「マルコ受難曲」 から聴く。 バッハの受難曲は 「マタイ」 と 「ヨハネ」 の2曲だけが残されていて、他は楽譜が失われているが、「マルコ」 にはカンタータ第198番 「侯妃よ、さらに一条の光を」 が転用されていたことは分かっており、これは後世の学者がこのカンタータを利用して再現した曲である。

 カンタータの第198番は私も好きな曲で、したがってこの 「マルコ受難曲」 もまあまあ楽しめたが、どこかからバッハの真筆が発見される可能性はないだろうか。 バッハの知られざる楽譜が発見されたという事件は20世紀になってもあったわけだから、可能性ゼロではないと思うのだが。

5月2日(木) 4限、1年次向けの人文教養演習。 連休の谷間での授業ということもあり、19名中7名が欠席。

 県外から来ている新一年生は初めての一人暮らしを経験して一ヶ月になるから、これを機に帰省しているのであろう・・・・・・・と思ったが、授業の後で調べてみると、欠席者7名中5名は新潟市内または自宅通学可能なところに住んでいる学生なのであった。 逆に、出席した学生は半分以上が県外出身者だった。

 うーむ、どうなっておるのだ。 折しも、授業は山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』に入ったところである。 自学通学のパラサイト学生たちは、リッチな気分で旅行にでも出かけてしまったのであろうか? それとも、新潟市周辺出身の学生は学ぶ意欲において県外出身者に負けているのだろうか?

4月27日(土) 先日の、金券ショップ&美容室経営の夫婦殺し (4月15日を参照)、ずっと気になって新潟日報のサイトを随時のぞいていたのだが、本日、以下のようなニュースが載っていた。 (翌日の朝日新聞の報道によると、この男は血の付いたトレンチコートをクリーニング屋に出していたらしい。 また殺害された夫婦の店に出入りもしていたとのこと。 クロの可能性が相当高かったということであろう。)

【新潟の夫婦殺害 重要参考人自殺

 新潟市万代で起きた夫婦殺害事件で、重要参考人として新潟東署捜査本部から任意の事情聴取を受けていた新潟市の50代の男性が自殺
していたことが26日、分かった。事件との関与が疑われていた男性の死亡により、事件の全容解明は極めて困難となった。重要参考人の自殺を
防げなかったことは、重大な捜査ミスの疑いもあり、捜査手法の是非をめぐり批判が高まりそうだ。
 捜査本部は、今月15日に事件が発覚した直後から男性の関与を疑い、任意の事情聴取を開始。犯行時間帯の行動や、殺害された倉島正義
さん(60)と妻の加代さん(58)との関係などについて詳しい説明を求めていた。

[新潟日報 04月27日(土)]( 2002-04-27-10:12 ) 】

4月26日(金)  本日は敬和学園大の1年生は行事で不在ということで、新発田には4限のみ行く。 非常勤に行った帰り、東新潟の古本屋3軒を回る 実際には4軒だったのだが、1軒は久しぶりに行ったら店がなくなっていた。 古本屋の栄枯盛衰も激しいですなあ。

 最初の2軒では全然買いたいものがなく、今日はダメかなと思ったが、最後の店で2冊掘り出し物を発見、やはり粘ってみるものだ。

4月19日(金) 新発田に非常勤に行った帰り、新発田の100円ショップダイソーに寄って、最近評判の100円クラシックCDを5枚買ってみる。 明日から出張なのですぐには全部は聴けないが、少しずつ聴いていこう。 

4月18日(木) ドイツ語の授業、大講義室の代わりに(4月11日を参照)提供された留学生センターの教室を使ってみたが、不可。 黒板が小さすぎて練習問題を次々とやらせる語学授業には向かない。 ったく、新潟大学の三流性は直らないのだろうか。

 4限の人文教養演習、開始直前に私の研究室に電話がかかってきた。 「先生、教室はどこでしたっけ?」・・・・・・・・って・・・・・・・・電話で教師であるワタシに教室が分かりませんと訊いてきた学生は、教師になって22年になるが、初めてだ。 世の中、変わってきているんだなあ・・・・・・。

 しかし、実際やってみると、この演習は学生の発言がなかなか活発で、うまくやれそうな予感。 何でも最初が肝心なんですよね。 

 夜、H卓球クラブに練習に行ったが、体育館の入り口の引き戸にとまっていた蜂に右手中指を刺されてしまう。 それほど強い痛みではないが、何となく気力が萎えて、練習せずに帰宅する。

 新潟に住んで22年、蜂に刺されたのは2度目だ。 それ以前、太平洋岸に住んでいた27年間では一度も刺された経験がないから、新潟は蜂が多いという結論になるのだろうか・・・・・・・・・。

4月16日(火) 小宮正安『ヨハン・シュトラウス――ワルツ王と落日のウィーン』(中公新書)を読了。 バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったクラシックの 「大作曲家」 に比べて、その作品であるワルツやポルカは親しまれていても実像は意外に知られていないヨハン・シュトラウスについての本。 単なる評伝ではなく、副題にあるように没落していくハプスブルク帝国の首都ウィーンとの関係を丹念にたどり、社会と音楽家の関わりを見事に描き出してみせた好著である。 

4月15日(月) 昼過ぎ、インターネットのニュースを見ていたら、新潟市内で夫婦の殺人事件が起こったという記事が目に留まった。 最初に気づいたのは、産経新聞のサイトでであった。

 金券ショップで夫婦殺害 新潟

 15日午前10時すぎ、新潟市万代の金券ショップで女性が死んでいるのを店を訪れた女性の親せきが発見し、110番。新潟東署員が現場で、女性のほか、この店と別棟の母屋で男性が死んでいるのを見つけた。

 同署の調べでは、2人は夫婦で、夫は60代、妻は50代。2人に外傷があることから、同署は殺人事件とみて捜査を始めた。

 現場は新潟市中心部。近くで理容業を営む女性は「ご夫婦とも温厚な人だった。こんなことが起こるなんて」と話していた。】

 それで他の全国紙のサイトものぞいてみたが、朝日と毎日は報じておらず、読売は載せているが産経より簡略な記事だった。 (後記: 朝日は午後6時過ぎに載せたようである。 ここでは省略する。 以下は読売の報道。)

 新潟市の民家に夫婦とみられる2遺体、殺人事件で捜査

 15日午前10時ごろ、新潟市万代5の店舗兼民家を訪れた親類の女性から、「女性が死んでいる」と110番通報があった。新潟東署で調べたところ、店舗兼住宅の室内で女性1人が死亡していたほか、隣接する別棟の室内で、男性1人も死んでいるのが見つかった。2人とも外傷があり、同署は殺人事件とみて調べている。2人はこの民家に住む倉島正義さん、加代さん夫婦とみられる。

 現場は、JR新潟駅の北約600メートル。 (41513:54)  】

 で、地元の新潟日報のサイトを見てみると、さすがに詳しい。

 新潟・万代の美容室で殺人

 15日午前10時すぎ、新潟市万代の美容室で、50歳代の女性が死亡しているのを訪ねてきた親類の女性が発見した。新潟東署員が駆けつけたところ、別棟では、亡くなった女性の夫も死亡していた。遺体には外傷があったため、同署は殺人事件として捜査を始めた。

 現場はJR新潟駅の北西約1キロにある住宅や雑居ビルなどが立ち並ぶ一角。付近にはホテル新潟や万代シテイがある。

 2人が死亡しているのが見つかった美容室の付近では、黄色い非常線が張られるなどものものしい雰囲気。捜査員は遺留品などを調べたり周辺を聞き込みをしたりするなどしていた。

[新潟日報 0415日(月)] ( 2002-04-15-13:52 ) 】

 さて、上の産経と新潟日報の報道を比べてみると、矛盾がある、と思えてくる。 死体が発見された場所を、産経は 「金券ショップ」、新潟日報は 「美容室」 と報じている。 

 どちらかが間違い、或いは双方とも間違いなのだろうか? いや、そうではない。 どちらも正確なのだ。

 すなわち、この夫婦は本業として美容室を営むかたわら、金券ショップも営業していたからだ。

 私がなぜそれを知ってるかって? 私が犯人だから・・・・じゃないですよ、もちろん。 実は私はこの金券ショップを時々利用していたからなのである。

 なるべく本を安く買おうと、金券ショップに図書券がある時は購入するようにしているのだが、この店は割に図書券が豊富においてあるので、近くに用事があったときなど (シネ・ウインドに映画を見にいく時などですね) 立ち寄っていたのである。 だから夫婦の顔も何となく覚えていたのだ。

 以前は図書券は4%引きで売っていた。 つまり1000円分が960円ということ。 1万円の本を買うごとに400円浮くので、まあ生協食堂で昼飯を1度食う分くらいは捻出できるわけ。 

 しかし最近は図書券を金券ショップで買う人も増えたらしく、品薄のため3%引きになってしまった。 1000円分が970円ということですね。

 あの夫婦が殺されてしまうとは、世の中、一寸先は闇だと痛感したことであった。 合掌。

4月11日(木) 昨日から新学期が始まった。 私は今年度前期は、水曜日には授業がないので、本日が実質的な開始日となる。

 午前中の2限は1年生向けドイツ語の授業。 教室に行って、びっくり仰天。 150人収容の大講義室なのである。 それに対して学生は8名・・・・・・・。

 冗談ではない。 語学の授業に大講義室を割り当てる奴があるものか、と思い、あとで教務係に文句を言いに行ったら、驚いたことに他に教室がないのだという。

 実は昨年度後半、私の研究室のある、そして教養の授業が行われる校舎の一部で大改修が行われた。 そして、従来の80人〜100人教室をいくつもつぶして、学生の広大な控え室 (ロビー) とパソコン室をいくつもこしらえたのである。

 その際、従来の教室にどの程度需要があるか、ということをどうやら全然勘案せずに、普通教室をつぶしてしまったらしいのである。

 新潟大学の人間は、どうしてこうも知性に欠けているのであろう! お上から予算が付くと何も考えずにこぎれいなロビーやパソコン室を作り、その結果として普通の授業が普通の教室で行われなくなってしまうということに全然気づかなかったのだ!

 大学改革とは一事が万事こうである。 上からのリーダーシップ? 私はそれに反対ではないが、リーダーに然るべき知性があるという前提においてのことだ。 知性に欠けた人間がリーダーになると、こういう悲惨な事態になる。

 やれやれ、いったいこの先どうなることやら。 寒い、寒い・・・・・・。

 午後の4限、1年生向け人文教養演習の受付。 定員19人のところに44名が来て、半分以上を断らざるを得なかった。 申し訳ない。

 この授業は4年前にも一度持ったが、その時も定員の3倍が聴講を申し込んだものだ。 私は、シラバスを読んで授業の面白さを判断してやってくる学生を信頼する。 これと対照的に、私のいる場所では、去年もこの欄に書いたけれど、風聞と安易さの二つだけが授業を選ぶ基準になっている気配があるので・・・・・・・。 

 ただし、問題もある。 一つは、男子学生が2名しかいないこと。 まるで女子大みたい(笑)。 人文学部はもともと女子学生のほうが多いわけだが、それにしても私の教養演習を取りに来た学生は圧倒的に女子ばっかり。 私の演習はいろんな分野の本を何冊も読ませるのが特長だが、どうやら男子学生は読書意欲において女子学生に負けているようだ。

 4年前の教養演習でも人文学部の男子学生は数が少なく、加えて授業時の発言もさっぱりで生彩がなかったのだが、その時は法学部と経済学部と理学部の男子学生が一人ずつ取りに来て、授業に活を入れてくれた。

 今回は他学部生の聴講申し込みがゼロだった。 これは、教養授業のシラバスにきちんと教養演習の内容を紹介していないことが大きいと思う。

 他の学部も1年生向けの演習を作ったりしているからだろうが、1年次から学部別にセクショナリズムを発揮して自学部学生のみを囲い込むやり方は感心しない。 教養演習と言うからには、多彩な学部の学生が競い合って勉強をするようにしたいものだ。

4月5日(金) 4日ほど休暇をとって新潟を離れていた。 今日、久しぶりに大学に来てみたら、新入生がキャンパスにいっぱい。 特にスーツに身を包んだ女子学生はみんな美人に見える。

 なぜか。 恐らく、受験の緊張と、合格したという喜びと、これからいよいよ大学生活が始まるという期待とが表情に凝縮してあらわれているからだろう。

 そして数カ月が過ぎると、緊張が解けて生活規律もゆるみ、せっかくの初々しい美貌も失われていく・・・・・・なんてことにならないよう、頑張ろうね。

 さて、今日は7時から、樫本大進ヴァイオリンリサイタルに行く。 会場はりゅーとぴあで、ピアノ伴奏はイタマール・ゴラン。 曲目は、モーツァルトのソナタ変ホ長調K.380、プロコフィエフのソナタ第1番、プーランクのソナタ、サラサーテのチゴイネルワイゼン。 アンコールは、「利休とまつ」のテーマと、クライスラーの「美しいロスマリン」。

 プログラムでも分かるが、これはかなりクロウト向けの演奏会である。 同じヴァイオリニストの演奏会でも、4週間前の千住真理子とは対極的な行き方だ。 客の入りは9割くらいか。 ただし千住真理子と違ってA・Eブロックには客を入れていないから、実質ではかなり少ない。 それだけ精鋭の客が集まっているということか。

 演奏会の感想だが、イマイチであった。 樫本大進は独奏ヴァイオリニストとしては音量と音の艶が不足しているという気がする。 特にモーツァルトのような曲ではそうした欠点がモロに出てしまう。 

 プロコフィエフとプーランクはその点、単純な旋律美の作品ではないから、まあまあ聴けた。 しかし有能なヴァイオリニストが次々と生まれている昨今、樫本が独奏家としてやっていくにはいっそうの精進が必要だろう。 

4月2日(火) 岡田暁生『オペラの運命――十九世紀を魅了した「一夜の夢」』(中公新書)読了。 一年前に出た新書で、新刊として出たときは 「最近オペラが流行ってるからな」 と思っただけで買わず、その後東京の古本屋に150円で出ていたので購入したのだが、ツンドクとなり、今回何となく読んでみたところ、もっと早く読むべきだったと後悔した。

 これは相当に中身の濃い本である。 単なるオペラの概説書ではない。 独立した芸術作品としてのオペラという概念がそもそも歴史的なものであることや、バロックオペラが王侯貴族の儀式の一環として存在していたことから説き起こし、作曲家が単なる芸人であった時代から、みずからが国王の席に座ってしまったワーグナーの時代に至るまでのオペラと社会の関わり合いを鋭い視点で描き出した、きわめて刺激的な書物である。 オペラに興味がある方にもない方にもお勧めできる。

3月31日(日) 午後5時から、りゅーとぴあにて東京交響楽団第15回新潟定期演奏会。 例のごとくGブロックの席。 秋山和慶指揮、オーギュスタン・デュメイのヴァイオリンで、ハイドンの交響曲第88番、ウォルトンのパルティータ、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。

 これに先立って、吉田恵のポジティブオルガン独奏によるウェイティング・コンサートがあった。 スウェーリンクの「我が青春はすでに過ぎ去り」「半音階的幻想曲」。 吉田さんの新潟での仕事はこれで完全に終わったわけだ。 ご苦労様でした。

 秋山和慶の出す音は、3月16日にも思ったけど、厚みはあるが高音の輝きがやや乏しいきらいがある。 その辺が私の好みと若干ずれているだが、ハイドンのような音楽は堅実さが必要だから合っているかもしれない。

 デュメイ独奏のベートーヴェンが聞き物だった。 私は生で聴いたのは初めてだが、この人のディスクにはLP時代にフォーレの室内楽集で親しんだが、ややくすんだ音を出す人だと思っていた。 ところが生で聴くと全然感じが違う。 でかい図体に似合わずやや細い、しかし通りのいい音を出す。  そうした音を活用した、繊細なベートーヴェンであった。

 オケも悪くはないが、ホルンがちょっと頼りない。

3月29日(金) 夜7時から、りゅーとぴあ劇場で南果歩の一人芝居 「幻の光」 を見る。 宮本輝原作、鴨下信一演出。 900人収容の劇場は満席に近い。 クラシックの演奏会と違い、若い女性の姿が目立つ。

 この日新潟にいるかどうか分からなかったのでチケットの入手が遅れ、19列19番と、左右で言うと中程だが前後で言うとかなり後ろの席。 それでオペラグラスを持参。 オペラグラス、使ったの久しぶりだなあ。

 あまり演劇を見ないワタシがこのお芝居を見に来た理由? それはワタシが南果歩の大ファンだからである。 自慢じゃないが、彼女が映画デビューをした1984年の 「伽耶子(かやこ)のために」 (小栗康平監督作品)以来のファンだから、相当に年季が入っているのだ。

 彼女が辻仁成と結婚してしまったときには絶望のどん底に突き落とされたが、その後離婚したので希望を取り戻したのである (この行、かなり誇張が・・・・・)。

 この作品、是枝裕和監督 ・ 江角マキコ主演で映画化もされていて、ワタシはそちらも見ているが (原作小説は未読)、芝居の方を見ると改めて言葉の力を感じさせられる。 映画が言葉を省略して主としてイメージによって構成されていたのに対し、この一人芝居は南果歩の演技と言うよりはセリフによって構成されている。 ヨーロッパでは文学作品の朗読会というのが割にあるが、本で黙読するのではなく、声によって表現された言葉の威力を痛感させられた一夜だった。

 無論、生身の果歩さまを見ることができたこともだけれど。

3月25日(月) 長男が通っている高校の、合唱部・吹奏楽部合同発表会。 音文で、夕方5時半から。 私は用事があって7時半過ぎに到着し、最後の1時間弱ほどしか聴けなかったが、前半は合唱部であり、後半が長男の属している吹奏楽部なので、まあ一応息子の発表会にはつきあえたかな、という感じ。

 それにしても今どきの高校生は、昔のように自校の講堂ではなく、こういう音楽専用ホールで発表会を開けるのだから、ゼイタク。 演出もカラフルだし、他校からの祝電の披露などもあって、イベントとしての性格が昔とは違ってきているなと痛感する。

3月23日(土) 午後2時から、りゅーとぴあのスタジオAで、次男が通っているヴァイオリン教室の発表会。 15人ほどが日頃の成果を披露した。 次男について言えば、音色は結構いいのであるが、ナマケモノで練習をさぼり気味なので、指づかいなどはイマイチ。 同じ頃に始めた年下の女の子のほうが技巧的に難しい曲に挑んでいるのだ・・・・・・。

 許光俊『クラシックを聴け!――お気楽極楽入門』(青弓社)を読む クラシック音楽の入門書である。 啓蒙的なクラシック入門と言うより、現状にずばりと切りこんで、本質に触れさせようとしているところがミソか。 したがって副題にだまされて気楽な気持ちで読み始めると面食らうかも。 しかしなかなかに面白い本であることはたしか。 ただあくまで入門書なので、これでクラシック音楽のことは全部分かった、と思うと危険。(その危険性のある本なので。) 文中時々顔をのぞかせる著者のワイン趣味が多少鼻につく。 

3月21日(木) 午後2時から、音楽文化会館での第4回ヴァイオリン・ドルチェコンサートに行く。 最初クルマで行くつもりが、本日はサッカーのある日なのでその近辺の駐車場は満員という情報が入ったので、ジャスコにクルマをおいてバスで行ったのだが、わずかの差で乗り遅れて次のバスまで15分待たされ、ために13分ほど遅参してしまった。

 このコンサート、市内でヴァイオリンの指導に当たっている鈴木和子さんとそのお弟子さんのコンサートらしい。 ヴァイオリン奏者5人とヴィオラ奏者1人、それにピアノ伴奏者が登場する。

 プログラムは、遅刻して半分しか聞けなかったコレルリの 「ラ・フォリア」 をはじめ、シューマンのソナタ第1番、ショーソンの詩曲、シュターミッツのヴィオラ協奏曲第1楽章、プロコフィエフのソナタ第1番、最後がブロッホの組曲「バールシェーム」。 

 全体として、いわゆるヴァイオリン教室の発表会よりははるかに質が高いけど、単独でリサイタルを開く人とははっきり差がある、というレベル。 客は、150人はいたろうか。

 最後のブロッホの曲は初めて聴いたけどなかなか面白い曲だ。 が、次のコンサートが控えているので、全3楽章のうち最後の楽章は聴けなかった。 残念。

 さて、その次のコンサートとは、りゅーとぴあで4時から行われる早島万紀子オルガン・リサイタル。 フランス・オルガン音楽の精華という副題で、フランスオルガン音楽の代表作を次々に演奏するという趣向。 

 ティトゥルーズ「讃歌『天によろこび』3節」、クープラン「ベネディクトゥス(教区のためのミサより)」、ダジャンクール「第2旋法による組曲」、バルバストル「ブルゴーニュ地方のノエル」、フランク「コラール第一番ホ長調」、アラン「リタニー」「空中庭園」、デュリュフレ「前奏曲(組曲作品5より)」、フローレンツ「聖母の涙」「花たちの歌」、メシアン「鳥と泉」「神はわれらとともに」。 アンコールが一曲演奏されたが、何の曲かは分からない。

 この演奏会、プログラムが最初予告されているものとかなり違っていた。 チラシでは7曲やることになっていたのだが、そのうち4曲が取り消され、新たに6曲が追加になった。

 演奏者が急病や何かで出られなくなってプログラムが変わるということはあるが、そうでなくてこんなに変更があるのは珍しい。 勘ぐれば、最初にちゃんと考えずにいい加減に曲目を決めたんじゃあ、という疑惑が湧かないこともない。

 もっとも、昔、ピアニストのリヒテルはあらかじめ曲目を提示せずに演奏会をやったけど、それは超有名なリヒテルだからこそ。 今回のケースはどうみてもそれからは遠い。 

 それと、プログラムに曲目解説がない。 こういう場合は、演奏者から簡単でいいから曲目解説があるとありがたい。 オルガン曲はまだまだ一般にはなじみが薄いものであるから。

3月16日(土) 午後6時から、りゅーとぴあにて、新潟シンフォニックアンサンブルの第3回演奏会を聴く。 指揮は秋山和慶、ピアノは伊藤恵で、モーツァルトのディベルティメントK.136、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調、シューベルトの交響曲第5番。 アンコールは、協奏曲のあと伊藤さんがモーツァルトのピアノソナタK.545ハ長調から第1楽章を弾き、最後にオケがモーツァルトのディベルティメントニ長調K.334から第3楽章メヌエット。 席は2階の正面で。C6―18番。

 この演奏団体は、新潟出身、或いは新潟と縁のある人たちの集まりで、地元の第四銀行の支援により演奏会が開かれていたが、今回が最終回だとか。 不況だから金融業も楽じゃないので、ということなんでしょう。

 演奏は、最初のディベルティメントは肩慣らしのためかさほど感心しなかったけれど、ピアノ協奏曲になって俄然良くなった。 伊藤さんのピアノはクリアな音でケレン味のない素直なもの。 アンコールのソナタも、疾走するモーツァルトと言いたくなるスピード感のある演奏で、これまた良かった。

 シューベルトも悪くなかったが、欲を言えば弦の高音にもう少し輝きがあれば、と思わないでもない。 

 小編成のオケだから3階席は客を入れていないが、9割方の入りで雰囲気もまあまあだった。 時々、がさがさ音を立てる奴がいたけれど。

3月15日(金) 軽い虫歯の治療で歯科に通い続けているが、今日行ったら、今週火曜日に忘れていった帽子が受付に保管されていた。 火曜日、朝自宅を出るときは帽子を携えていたのだが、夜帰宅したときは紛失していて、どこでなくしたのか判然としなかったもの。 歯科の可能性も考えたが、確信はなかった。 まあ、とにかく見つかってよかった。

 ちなみに新潟は天候が変わりやすく、晴れていても突然雨になることがよくあり、また風が強いので傘をさすのに向いていない。 軽い雨や雪なら帽子が便利なのである。

 話を戻すと、どうも最近年のせいかこの種のポカが多い。 若いときにもうっかりミスはあったが、最近多くなったような気がする。

 昨日も、夜Hクラブに卓球の練習をしにいったら、卓球用ソックスを家に忘れてしまい、仕方なく素足のままシューズを履いた。 練習場に行くときに履いていた普通の靴下だとヤワだから、これで卓球の練習をやると穴があく恐れがあるので。

 まあ、これだけなら従来もあったことだが、何とこの日は、ラケットケースを練習場においたまま帰宅してしまったのである。 これは史上(?)初めて。 Hクラブ所属で大学の同僚でもあり、また私の近所に住んでいるF田先生が、あとで届けて下さった。 うーむ、老いの影は確実にワタシにしのびよっておりますなあ。

 信長の時代なら人生50年だったのだから、あとは余生ということになる。 好きなことをやって生きなくちゃあ・・・・・・あ、今までも好きなことをやってきたのではあるんですが、でもまだやりたいことは残っているもので。

3月10日(日) 午前9時半、クルマを1年点検と修理 (後ろのバンパーに凹んだ所があり) で上山のトヨタ・サービス店に預ける。 それからバスに乗って万代シティーに映画を見に行く。

 映画のあと、午後2時から千住真理子ヴァイオリン・リサイタルをりゅーとぴあにて聴く。 ピアノは藤井一興。 バッハのG線上のアリア、ベートーヴェンのソナタ第5番、フランクのソナタ、フォーレの 「夢のあとに」、千住明 「ほんまもんのテーマ」、モンティ 「チャールダッシュ」。 アンコールはマスネの 「タイスの瞑想曲」 とクライスラーの「愛の喜び」。 席はDブロック4列18番。

 この人を実演で聴いたのは初めてだが、FMなどで判断する限りではテクニック的に 「脇が甘い」 と言いたくなるところがあって、この日もそうした面がないではなかったが、思っていたよりいい演奏だった。 特にフランクの第2楽章以降は情感が籠もっていて悪くなかった。 ベートーヴェンもまあまあだが、ピアニストが弾きとばすという感じになる箇所があって気になった。 フランス仕込みのピアノのせいかしらん。

 普通のリサイタルとは違い、一曲ごとに千住の解説がつく。 トークショウだと思えばいいので、別段普通の形式にこだわる必要もなかろうが、話の中身は初心者向けで、まあこのヴァイオリニストの名前の売れ方がそういう風になっているから仕方がないのかも知れないが、色々な客層が混じり合っているのだから、もう少し工夫したほうがいいんじゃないかな。

 会場は満席に近い。 さすが名前の売れた演奏家だけのことはある。 木曜日のゲヴァントハウス管弦楽団の不入りを思って嘆息。 古町のラーメン屋でラーメンを食ってからバスで帰宅。

 映画とコンサートの合間に、遠山一行(編)『名曲 〔日本の名随筆・別巻13〕』(作品社)を読了。 テーマごとにエッセイを集めたシリーズ本のうち、「名曲」 の巻である。 編者はクラシック音楽評論家として著名な人。

 大正から昭和にかけての、知識人のヨーロッパ体験を濃厚にうかがわせる文章が多く、昨今の若い人は国際化が言われながら逆に内向きに
なっているような印象があるので、日本人の精神史としての価値が大きいと思う。 またクラシックだけではなく、ロンドンデリーの歌について考察した団伊玖磨の文章や、古賀政男について論じた田辺明雄の一文がたいへん面白かった。

3月9日(土) 午前10時、歯科に行って昨日の処置の検分と再消毒。 これで100円で済んだ。 ここの歯科 (仮にA歯科としておこう。 Aはイニシャルではない。 以下同じ) は余計なことをしないし、ボラないのがいい。 ただし欠点もあって、指定の時間に行っても10分以上待たされる。 歯科医師も非常に器用とは言い難い。

 新潟市は人口約50万なのに大学歯学部が2つもあるので、歯科医師の数が非常に多い。 私の勤務している大学近辺だけでもいくつもある。 

 私はもともと歯は丈夫な方で、10代はじめに永久歯に変わってからは、40代後半まで歯石をとる以外の目的で歯医者に行った経験がなかった。

 40過ぎてからは大学のそばのB歯科に最初行っていた。 ここは歯石をとるのに何回もかけるのが煩わしかったが、他を当たるのも面倒なので何度か通った。

 ところが一昨年、この年になって親不知が生えてきて、そのとき試しに別のC歯科に行ってみた。 そのとき、軽いが虫歯がありますねと言われてショックを受けた。 自分は歯だけは丈夫だと思っていたので、虫歯になるはずがないという信念(?)を抱いていたのだが、それがあっさり覆されたのである。

 で、この際だからちゃんと治そうと思ったまではよかったが、なかなかそうは問屋がおろさなかった。 というのも、その歯医者は、技術的には器用で歯の疾患を徹底的に治すという姿勢自体はいいのだが、保険の利かない検査などをしきりにやるし治療期間もやたらに長い。 同じ検査を何回も繰り返したりする。 要するにボラれる歯医者なのである。 (保険の利かない検査で5000円とられたが、女房は別の歯科で同じ検査をやったら3000円だったそうである。) でもって、途中で見切りをつけて行くのをやめた。

 というわけで、A〜Cまで歯科は一長一短である。 安くて腕が良くて治療が短期間、という三拍子揃った歯医者はなかなかいないものだ。

 閑話休題。 今日は午後2時から、音楽文化会館での新潟オーボエ協会第18回発表会に行ってみた。 無料。

  この団体の発表会は私は初めてだが、オーボエ奏者だけでこういう協会を結成しているのは、日本広し (?) といえども新潟市だけだそうである。 この楽器を初めて1年たたないという小学校5年生から、新潟のアマチュアオーケストラで活躍している人、この団体から巣立って東京の音大でオーボエを専攻している人まで、年齢も技術レベルも様々だ。

 昭和音大でオーボエを専攻しているという人の演奏したC・P・E・バッハの無伴奏オーボエソナタをはじめ、ドニゼッティのオーボエソナタ、ライネッケの「オーボエ、ホルンとピアノのための三重奏曲」(第1,4楽章)などが楽しめた。

 聴衆は100人くらいか。 ただし演奏者の家族などもいたようだから、純粋な聴衆がどの程度かは分からない。 演奏が一つ終わるたびに演奏者へのインタビューがあるのがNHK素人のど自慢大会みたいだが、発表会だから悪くはない。

 注文を付けるなら、演奏途中の入場はこういう催しだから許容されてしかるべきだが、後ろの扉を半開きにしておいて開閉の音が出ないようにするべきであろう。 むろん、途中入場はこちらから、という張り紙をしておくという前提で、である。 それと、舞台裏のおしゃべりや足音は聴衆の席まで響いてくるから注意した方がいいと思う。

3月8日(金) 歯科に行って、右上奥歯を抜いてもらう。 半年あまり前からまっぷたつに割れていて、まともに噛めなかった。 また、割れた部分から余計な物が入るせいか、その付近の歯茎が時々化膿していた。 

 歯医者というのは行くのがおっくうなもので、ついつい先延ばしにしていたのだが、春休みに入って、成績評価や入試業務も一段落し、また近々医療費負担が上がるということもあるので、この際治しておこうと思ったものである。

 今週火曜日に初めて行って、そのときは歯石取りと、いつ抜くかという相談で終わったが、今日はいよいよ抜いてしまった。 一昨年、別の歯科で親不知を2本抜いたとき以来だが、何となく喪失感がある。 この期に及んで生えてきた親不知と違い、40年近く付き合ってきた歯だからかなあ。

 歯が割れるというのは、多分年のせいだろう。 体の関節が硬くなる現象と並行だと思う。 卓球をやっていると、体の関節が若いときほど柔軟でなく曲がらなくなってきていることがよく分かるものだ。

3月7日(木)  夕刻前、税務署で確定申告を済ませる。 (なぜ私が確定申告をしなくてはならないかは、一昨年のこのコーナーの3月13日を参照のこと。) 昨年は一昨年より年収が25万円ほど減ったこともあり、追加徴税額は昨年より3万円近くダウンした。 ダウンしてゼロになればもっといいんですが、そううまくは行きませんね。

 夕刻、新潟で音楽サイトを主宰しているT氏の車に乗せてもらって高速道路経由で上越市に向かう。 午後7時から、上越文化会館で、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会があるのである。 指揮は、ヘルベルト・ブロムシュテット。 曲目は、シベリウスの交響曲第7番、モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲、ベートーヴェンの交響曲第7番。 アンコールはベートーヴェンのエグモント序曲。 協奏曲の独奏は、フルートがアンナ・ガルツリー、ハープが吉野直子。 私の席は12列、中央よりやや右寄り。

 このオーケストラは世界最古のオケと言われている。 それだけの伝統を誇っているわけだが、旧東ドイツにあったということもあり、その演奏は大都会の洗練されたオーケストラとはちょっと違った印象がある。 精確さだとか、スマートさだとかはなくて、どちらかというといぶし銀という言葉にふさわしいような地味目の響きの管弦楽団である。 管楽器の音もあくまでオーケストラ全体の枠内で出るような感じがあり、人を驚かすようなところがない。 しかし弦の低音は結構迫力がある。

 私はベートーヴェンの第7交響曲が一番よかった。 重厚な響きと、悠長な、しかしリズム感あふれる演奏で、充実した音楽になっていたと思う。

 協奏曲も悪くなかったが、大ホールだとやはりハープの響きはやや小さく聞こえる。 でも見た目が面白い。 くすんだ金髪で肩の露出したドレスのガルツリーに対して、(日本人だから当たり前だけど) 黒髪で、肩の隠れた袖の長いドレス (ハープは座って演奏するから、ちょっと和服っぽいんだよね) の吉野直子はいかにもヤマトナデシコの印象。 こういうとき、私は国粋主義者に変貌してヤマトナデシコ万歳と叫びたくなる。

 シベリウスは、本来演奏会の最初に演奏するような曲ではないと思う。 序曲代わりにやるには重すぎるし、後半にやるべき曲だろう。 また、この日の演奏もこの神秘性をたたえた曲の相貌をうまく出していたとは言えない。

 それにしても入りの悪い演奏会であった。 定員1500人の大ホールは半分入っていたかどうか。 特に後ろの方の席はがらがら。 前の方も空席が目立った。 これでは演奏する側も気の毒である。 

 上越市は人口13万人というが、クラシック愛好家はあまりいないのだろうか。 この日は私やT氏のように新潟市から来ていた人間もいたはずだが、やはり地元の人間がたくさん来ないとどうにもならない。 新潟市からだと時間的にも金銭的にも負担が大きい。 私はこの日はT氏の車に乗せてもらい、高速料金とガソリン代を折半したが、それでも交通費は3千円以上かかったのである。 高速交通時代とはいえ、新潟市と上越市の距離は相当なものだ。

3月6日(水) 来年度のシラバス (講義概要) の校正作業。 今回からシラバスの原稿は教員が事務にメールで送付することとなった。 ということは電子化された原稿をそのまま入力するので、印刷所側の責任による単純誤植はなくなるはず・・・・・・・だったのだが、見てみると冗談ではない、ミスだらけなのである。

 私の名前である 「三浦淳」 が 「三浦純」 になっていたり、今回から授業ごとに掲載される担当教員のメール・アドレスが全部間違っていたり、「現代の」 という単語がどういうわけか 「呪代の」 になっていたり、「バンダ」(人名)が「パンダ」になっていたり (まあ、手による入力だとありがちなミスだよね) トンデモナイ間違いがいっぱいある。

 要するに、余り学力のない人が手で打ち込んだとしか思われない。 特に 「現代」 が 「呪代」 って、どうしてこういう間違いが可能になるんだっ! と叫びたくなるじゃありませんか。 しかも、2カ所に渡って同じミスをやらかしているのである。 まさかいまだに活字を一つずつ拾っているんじゃあ・・・・・??

 以前、生協発行の書評誌で、やはりひどい目に遭ったことがある。 校正の段階ではちゃんとしていた部分が、できあがった雑誌では誤植だらけの無茶苦茶な文章に変わってしまっていたのだ。 調べてもらったら、仕事を印刷会社から回される末端の人間 (たぶんパートか何か) が校正段階の電子原稿を誤って消失してしまい、あわてて自分で紙原稿を見ながら入力し直し、その段階でミスが多数紛れ込んだものと判明した。

 電子社会では、社会末端の低学力がそのまま表に出てきてしまうことが、ままある。 別段パートに限らない。 大学生だって例外ではないかもしれないのだ。 ちゃんと勉強しようね、っていうのは余りに教師的か。

3月1日(金) 数日前、ふだん使っているカバンに不都合が生じた。 肩掛けのベルトと本体を結ぶ金具が壊れてしまったのである。

 このカバン、買って10年くらいになるが、以前一度同じようなアクシデントがあって、購入したカバン屋で直してもらったことがある。 修理代は、たしか1000円だった。

 ところが、このカバン屋さん、新潟の繁華街の古町にあったのだが、その後閉店してしまった。

 仕方なく、今回は職業別電話帳で調べてみたら、あるある、ちゃんと 「カバン修理」 という項目があるのだ。 昨日電話であらかじめ概要を訊いてから、本日出かけてみた。 場所は新潟の地下街・西堀ローサの端っこ。

 ちなみに西堀ローサは日本一小さい地下街だと聞いたことがある。 ほんとかどうかは知らない。 しかし以前、仲村トオル主演の東映アクション映画のロケ地に使われたこともある由緒ある(?)地下街なのである。

 閑話休題。 カバン修理の方だが、ちょうど同じ金具というのはなくて、サイズと色が合う金具で間に合わせることになった。 700円で直ったので、まあよろしい。 でも新しい金具は元のに比べると華奢な感じで、長持ちするかなあ、という懸念もなくはない・・・・・・・。

 それにしても、くだんのカバン屋が閉店したことといい、昨年カミーノ古町がつぶれたことといい、古町の凋落はいちぢるしい。 ワタシも最近は古町にはあまり来ないので、これを機会にと久しぶりに営所通の古本屋2軒に寄り、2冊買いました。

2月28日(木) 夕方、中学時代の同級生だった人から研究室に電話がかかってきた。 昨年6月に新潟・岩室温泉で中3時のクラス会をやった話は去年のこのコーナーに書いたが、そのときの参加者でもあった人である。

 用件は、同クラスだった女の人が子宮ガンで亡くなったので、クラス会として花を捧げたいが、という相談だった。

 49歳、という年齢だと、すでに死んでいる人も当然出てくる。 我がクラスは46名のうち、判明している限りでは2人がすでに鬼籍に入っていた。 いずれも男だが、一人は中学の頃から病弱で、二十歳前後で亡くなった。 もう一人は数年前、勤務中に事故死している。 もっとも、住所不明の人も9人いるから、実際はもっと多いかもしれないのだけれど。

 50年生きると、46人中3人は死んでしまう、というのは、平均的なんだろうか。 

 偶然、この日某雑誌を読んでいたら、気になる記事に出くわした。 夏に生まれた男は短命、冬生まれの男は長命という統計結果があるのだそうだ。 ワタシは9月生まれだから、夏に近い。 ということは・・・・・・。

 ちなみに、女の場合は生まれ月による寿命の差はないそうです。

 その雑誌アテになるのか、と疑問をお持ちの方もいるかもしれませんが、疑ってはいけませぬ。 怪しげな健康雑誌ではありません。 東京大学出版会が出しているマジメ雑誌なのです。

2月27日(水) 佐伯一麦『読むクラシック――音楽と私の風景』(集英社新書)を読了。 クラシック音楽だけを論じた本ではなく、ハイティーン時代の思い出や、妻とノルウェーに長期滞在した経験などを織り交ぜながら、過去の記憶を音楽にからめながら綴った、たいへん味のあるエッセイ集。 クラシック音楽が好きな人にもそうでない人にも勧められる一冊だ。

2月26日(火) 昨日今日と、入試監督をやる。 暖かい日のせいか、暖房が効きすぎて、室内が暑い。 多少窓を開けたけれど、風で答案が飛ぶといけないから全面開放はできない。 ワタシは上着を脱いで監督をやりました。 受験生も、腕まくりしている子が何人もいた。

 古い校舎だから、暖房のさじ加減が利かず、初冬や初春は効きすぎ、厳寒期は効かなさすぎなのである。 学長先生、何とかしてください。

 一昨日の試合の疲れが、今日になって出てきた。 年だなあ・・・・・・。

2月24日(日) 大形地区卓球大会に出る。 この大会、男女の組み合わせのダブルスだけで、午前中はA級 (上手な人) とB級 (発展途上な人〔笑〕) が組み、6組ずつ集まってリーグ戦をやる。 午後はA級同士、B級同士の組み合わせのダブルスで、同じように試合をする。 私はむろん、B級です。

 というわけで、午前中は上手な女性と組んで3勝2敗、午後は私と50歩100歩なご婦人と組んでやはり3勝2敗でした。

 この大会の面白いのは、最後にお土産が付いて、それが成績とは無関係にくじ引きで決まるというところ。 私は今回、ワインだった。 ワインはアタリだってことになっているのだが、予算の関係で安価な、甘口の赤ワインなのがどうもね。 ゼイタクを言ってはいけないけれども。 参加費は、お土産以外に昼食用豪華弁当付き、ドリンク(といってもお茶、コーヒー、紅茶、ポカリスエットだけ)飲み放題、で1700円。  

2月23日(土) 午前11時、りゅーとぴあにオルガンプロムナードコンサートを聴きにいく。 無料。 最初ロビーで、ポジティヴオルガンを使った和田純子によるウェイティングコンサートがあり、パッヘルベルのコラールパルティータ「神のなすことはすべて善かれ」が演奏された。 次にホールのパイプオルガンによる演奏、吉田恵による演奏で、ブラームスの11のコラール前奏曲作品122より『わが心の切なる喜び」「一輪のバラは咲きて」とリストの「コラール『アド・ノス、アド・サレタレム・ウンダム』による幻想曲とフーガ」が演奏された。

 吉田さんの新潟での専属オルガニストとしての活動はこれで最後だそうである。 ご苦労様でした。 新年度から和田純子さんが専属になるそうです。

 演奏会終了後、にいがた国際映画祭でやっている映画を1本、音文で見てから、今パスタについての本を読んでいるので、小針にあるパスタ屋に昼食をとりにいく。 旧116号線沿いの、小針十字路から降りてくる道路より少し寺尾側にある店。

 グルメ趣味がない私のことだから当てにならないが、この店は結構うまいと思う。 興味のある方はお試しあれ。 ランチは、何種類もあるパスタから自由に選べて、それの大盛りと飲み物で900円(税別)。 私はこの日はカルボナラを食べてみたが、きしめんみたいに平たいパスタだった。 はあ、こういうのもあるんですか・・・・。 食通には笑われそうだけど、私としては初体験でした。

2月22日(金) 午後、研究室のパソコンを入れ替える作業。 といっても自分でやるのではなく (ワタシはパソコン音痴なので) 生協の職員の方に全部やってもらうのだが、私のサイトを移すなど予想外に時間を食い、夕方までかかってしまった。

2月21日(木) 夕方、万代シティでにいがた国際映画祭の映画を見てから、3月10日の千住真理子リサイタルのチケットを買いに駅南のプラーカまで行く。 千住さんはクラシックをあまり聴かない人にも名が知れたヴァイオリニストだが、私は正直言って、FMなどで聴く限り、さほど評価できないなと思っている。 しかし実演を聴かないで判断するのもナンなので、この際聴いてみようと思ったわけである。 

 数日前、伊勢丹のプレイガイドでチケットを求めようとしたら、人気演奏家だけあってロクな席が残っていない。 それで今日は、伊勢丹より人が来なさそうなプラーカまで行ってみたというわけ。 案の定、正面席はなかったものの、正面に近い左側の席があったので、買う。 伊勢丹には何しろ舞台脇の席しかなかったのである。

 そのあと、石丸電気に寄り、外盤500円セールから4枚ほど買う。 掘り出し物は、ベーム指揮、ロンドン交響楽団のザルツブルク音楽祭ライブ録音の2枚組CDRである。 うち1枚は、ギレリスをソリストに迎えてのシューマン・プログラムで、ピアノ協奏曲と交響曲第4番。 ギレリスとシューマンというと何となくイメージが合わない感じだが、第1楽章など結構ロマンティックだ。 しかし第3楽章になるといかにもギレリス的で、曲の流れがスムースでない。 ライブだから仕方がないが案外なミスタッチがあったりもする。 

2月14日(木) 本日は一転して工事音が全然しない静謐な日だった。 建物の1階で大学院入試があったので、工事は中断ということらしい。

 今日は聖○○○○○○○○である。 ワタシはここ十数年、古女房からと僅かな 「義理」 を除けばチョコレートとは無縁にこの時期を過ごしているが、どういうわけか、今日、研究室宛てに小包が届いた。 中を見ると、チョコレートと、或るものが入っていた。 「お慕い申し上げております」 というラブレター・・・・・ではない (残念)。 音楽に関係したもの、とだけ書いておこう。

 小包の差出人を見たが、店の名しか記していない。 店に電話して訊いてみたけど、依頼人の名は言わないでくれと厳命されているとのこと。 うーむ、こういう謎かけって嫌いじゃないけれども・・・・・。  

2月13日(水) 数日前から私の研究室のある建物で工事が始まっている。 エレベータを設置する工事だ。

 この建物、4階建てだが、エレベータがなかった。 昔の文部省の基準では、5階建て以上でないとエレベータの設置が認められなかったためだ。

 94年に教養部が解体する2,3年前、この建物の大改修計画が持ち上がった。 その時点で建てて25年あまりが経過していた。 当時の教養部事務長の説明では、「改修しないとこれ以上持ちません」 とのことであった。 大改修に際しては、私の建物にもエレベータが設置されるはずであった。 

 ところがである。 土壇場のところで文部省の予算が付かないことになり、「これ以上持たない」 はずの建物はそれから10年近くに及び放置され、そのまま使われることになった。 いかに日本の文部省と国立大がいい加減かが分かるだろう。

 それが、ここに来て、なぜか突然エレベータが作られることになった。 そのこと自体はいいのだが、建物の一番端の部屋をつぶしてエレベータにしようというのである。 つまり、鉄筋コンクリートの床をぶち抜かないとエレベータは通せないわけだから、かなりウルサイ工事になることは予想できる。

 で、いよいよ今日から鉄筋コンクリートをぶち抜く作業に入ったようで、恐るべき騒音と振動に見舞われた。 私の研究室は工事現場からほんの数メートルしか離れていないからなおさら。

 とてもじゃないが研究室にはいられない。 やむを得ず、本を携えて図書館に避難した。 でも、私の向かい側の部屋のI先生は逃げ出すことなく研究室におられたようだ。 うーむ、私とは段違いの強靱な精神をお持ちなのであろうか・・・・・?

2月9日(土) 午後2時から音楽文化会館で、アンサンブルYu−Yuの演奏会。 この団体は新潟大学管弦楽団のOB・OGによって2年あまり前に作られたばかり。 今日は群馬交響楽団のコンサートマスター・風岡優を迎え、バッハのヴァイオリン協奏曲第1番 (チェンバロは八百板正己) とチャイコフスキーの弦楽セレナーデがプログラム。 アンコールはモーツァルトのディベルティメント・ニ長調K.136(125a)第2楽章。

 演奏は、風岡氏を除くと、「今後いっそうの精進が望まれる」 といったところ。 ややキツめに言うと、千円とはいえカネをとって聴かせているのであるから、演奏技術はもう少し欲しいし、またこの2曲だけではプログラムとしては貧弱すぎるからあと1曲くらい追加する必要があると思うな。 ま、これから頑張ってね〜。

 演奏会終了後、石丸電気に行ってみる。 外盤が一律500円のセールをやっているという話を聞いたので。 で、6枚ほど買い込む。 そのうちの一枚、ベーム指揮、ウィーンフィルによるシューベルトの 「グレイト」 を、早速研究室で聴く。 期待を裏切らぬ名演。 ベームはライブがいいとよく言われるが、この1969年のライブでも豊饒な音で最初の2楽章は悠長迫らぬスケール感と抒情を、第4楽章では緊迫に満ちた盛り上がりを作って、私を狂喜させた。

 こないだ東京に出張して新日フィルの演奏会で 「グレイト」 を聴いて以来、久しぶりにこの曲にハマっているのだが、フルトヴェングラーのようにテンポをやたらいじる演奏はシューベルトには似合わないと思う。 

2月8日(金) 卒業を控えた4年生の成績提出期限が今日である。 つまりこの日までに教員は4年生の成績を事務に提出しなくてはならない。 4年生は卒業判定の関係で3年生以下より成績提出期限が早いのである。

 私は後期の授業では演習と講義で4年生を3人かかえており、成績は平常点と最終レポートの出来具合いで決めるので、レポート提出期限を昨日にしておいたのだが、期限通りに提出したのは1人だけ。

 今日も午後4時40分まで待ったが、残る2人は一向に現れない。 もっとも1人は留年する意向なのでまあいいのだが、残る1人は就職も決まっており、多分私の授業の単位も卒業には必要なはずなのだが、どうするつもりなのかね? レポート〆切が昨日だということは一度電話で伝え、加えて最後の授業日にも念を押しておいたはずなんだが。 午前中と昼すぎに当人のアパートに電話を入れてみたけど、出ない。 処置無しである。

 私の学生時代に比べると大学は色々な意味で親切になっているが、それに反比例して学生の、自分で自分を律する能力は低下している。 なのに、少子化時代ということもあり、大学はますます学生に対して手とり足とりになりつつある。 学生に手とり足とりでない教師には非難の目が向けられたりする。

 こうなると、「大学」 なんて看板は下ろして、「20歳児を預かる保育園」 と改称すべきじゃないかな?

2月7日(木) 夜7時から、りゅーとぴあのギャラリー(4F)にて、吉田恵の独奏によるポジティヴオルガン・サロンコンサート。 

 「スウェーリンクとその弟子たち」 というテーマで、第1部はコラール編曲による作品で、スウェーリンクの 「いざ喜べ、愛するキリスト者よ」、シャイデマン 「我は心より愛す、おお主よ」、プレトリウス 「天にましますわれらの父よ」 第1・3・5変奏、シャイト 「われら唯一の主を信ず」、第2部は自由な形式の曲集で、ルイトン 「愛らしいフーガ」、シルト 「涙のパヴァーヌ」、スウェーリンク 「わが青春はすでに過ぎ去り」、同じく 「半音階的幻想曲」。 これらの作曲家が活躍したのは16世紀末から17世紀にかけての頃だが、それより200年も前の、オルガン音楽出始めの頃の曲が最後のアンコールで演奏された。

 吉田さんの解説付きで、調律が平均律と異なっていることなどが分かり、さまざまな音色を楽しめる一夜となった。

2月5日(火) 私の研究室と同じ建物にある非常勤控室が引っ越すことになり、非常勤控室に置いてあったドイツ語の辞書事典類をとりあえず向かい側の部屋に移す作業が行われた。 教養部時代はドイツ語用の図書室があったのでそこに置かれていたのだが、教養部解体後その図書室がなくなってしまい、仕方なく非常勤室に置かれていたものである。 

 本来ドイツ語関係教員の仕事だが、事務の方々や近隣のドイツ語とは無関係の教員の方々の協力を得て、あっと言う間に作業が終わりました。 感謝いたします。

 それにしても、1994年の教養部解体以来、ドイツ語辞書事典類の移転は2度目になる。 しかも、現在の移転場所も長持ちしそうにない。 最近の大学改革というのはだいたいがこういうもので、研究条件を悪化させるのにしか寄与していない。 そのくせ研究実績の報告などはやかましくなっている。 ふざけるな! と叫びたくなるのは私だけであろうか?

 と、怒ったせいでもなかろうか、今日は大ポカをやってしまった。 クリスティーネ・シェーファーのソプラノ・リサイタルの日だというのに、忘れていたのだ。 なぜか木曜だと思い込んでいたのである。 勘違いに気づいたのは夜の9時半頃。 すでに演奏会は終了してしまった時刻。 チケットも買ってあったのに、何と言うことであろう・・・・・・・・老化の徴候かなあ。 今年は50歳の大台に乗るからなあ・・・・・・とほほほ。 

2月4日(月) 昨日秋葉原で買ってきたロシア聖歌集のCDを聴く。 新世界レコード社が輸入しているロシア盤で、「ロシア正教聖歌の花束――モスクワ・ノヴォデーヴィチ女子修道院の写本より」 というタイトルと曲名だけ日本語訳がついている。 解説は英仏独露の4カ国語。

 このCD、当たりであった。 ロシア聖歌は実に美しく、聴きやすい。 私は、西欧のグレゴリオ聖歌だとか中世ルネッサンスの音楽にはもう一つ馴染めないものを感じているのだが、ああいうのとは違って近代的ともいえる親しみやすい旋律で、素直に音楽に入っていける。

 うーむ、こうなると、石丸電気でロシア聖歌集のCDをもっと買ってくるべきであったか。

2月3日(日) 午後、渋谷の東急文化村のザ・ミュージアムにて、ウィーン分離派展覧会を見る。 クリムトなどの大御所を初め多数の画家や工芸家の作品が集められているが、いわゆる目玉的な作品がなく、どちらかというと勉強のための展覧会という印象。 当時の美術界のさまざまな流派の複雑なからみを垣間見させる催しではあった。

 そのあと有楽町で映画を見たが、新潟行きの新幹線に乗るまでまだ多少時間があったので、秋葉原の石丸電気に行ってみる。 1年ぶりくらいか。 ところが本店のCDコーナーに行ってみたら、クラシックの輸入CDが全然ない。 国内盤だけなのだ。 以前は国内盤と輸入盤が両方とも豊富に置いてあったのだが。 店員に訊いたら、「だいぶ前に」 輸入盤は3号店に移ったとのこと。 で、3号店でロシア聖歌集を1枚買う。 昨年末、ある人から勧められたからだが (昨年の「音楽雑記2001年」の12月28日を参照)、輸入盤だとロシア聖歌集も何種類もあって、どれがいいか分からず、適当に選んでしまった。

2月2日(土) 新幹線早朝割引切符で上京、朝9時に東京駅着。 池袋で映画を見、高田馬場で少し古本屋めぐりをしたあと、午後3時からすみだトリフォニーホールで新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴く。 「名曲シリーズ・クラシックへの扉」 第26回と銘打たれたコンサートで、ウェーバーのファゴット協奏曲ヘ長調、同じくアンダンテとハンガリー風ロンドハ短調、シューベルトの交響曲ハ長調「グレイト」、アンコールがシューベルトのロザムンデ。 指揮はゲルハルト・ボッセ、ファゴット独奏(前半の2曲)は河村幹子。

 当日券ということで、席は正面3階の5列目、中央よりやや左寄り。 私がトリフォニーホールでコンサートを聴くのはたしか3回目だが、前2回はいずれも1階席だった。 3階は傾斜が急で高所恐怖症の私にはちょっと恐い感じだが、それでも前席の人の頭が邪魔になって指揮者が見えない。 ホールの設計は難しいものだ。

 指揮者のボッセは今年80歳という高齢。 長らくライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターを勤めた人だそうである。 前半のファゴットを独奏とした2曲は私はディスクも持っておらず初めて聴く曲だが、特に2曲目が親しみやすい佳曲だと思えた。 シューベルトは、奇をてらうことなく正統的な演奏で、この名曲を堪能できた。

1月30日(水) 4年生向けゼミ (正確には3・4年生向けだが、3年生は誰も来なかったので) の新年会をやる。 といっても学生二人と私だけ。 4年生は12月中は卒論の仕上げがあるので、忘年会よりは新年会がいいという学生の希望で新年会にしたもの。 しかし、学生も私も色々用事があって、2月近いこの時期にずれ込んでしまった。

 場所は大学工学部に隣接した某寿司屋。 実はこの店、入ったのは今日が初めて。 卓球仲間のA氏が推奨していたので来てみたのだが、変わった店だ。 まず建物の外見が普通の民家風。 看板はあるものの、入口があまりにフツーの玄関風なので、人の家に上がり込むみたいで入りづらい。

 中も、よく言えば庶民的、悪く言えばボロい。 最初に刺身を頼んだが、盛りつけがどことなくシロウトっぽい。 鍋ものをつつきながら酒を飲んで、最後に「握りの上」を頼んだら――「特上」なんてのはそもそもここのメニューには存在しないのである――上がないから中にしてくれと言われた。

 ま、刺身3人前、アンコウ鍋3人前、料理2品、握りの中3人前、鉄火巻2人前、ビール3本に熱燗4合で15000円だから安いには違いない。 が、どことなく白タクに乗ったような (私は実際には乗ったことがないが) 気分が残る妙な店ではある。 

1月28日(月) 3月7日に上越市でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会がある。 残念ながら新潟市には来ない。 どうしようか迷っていたのだが、決心して今日、会場の上越市文化会館に電話し、チケットをとる。

 チケット代もさることながら、往復の交通費がイタい。 調べてみたら、クルマで北陸自動車道を使って行くと、もよりの巻・潟東インターから上越インターまでは片道2800円もかかる。 往復5600円。 これに往復約200キロ分のガソリン代を加えると7000円。 チケット代が12000円だから、合わせて2万円近い出費となる。

 もっと安く行く手段はないかと思うのだが、なさそう。 高速バスは安いけど時間的に無理。 なにしろ演奏会は夜9時頃までかかるが、上越(高田)発で新潟市行きの高速バスときたら、最終が夜7時(!)なのである。 JRは時間的には可能だが、特急料金などを考えるとクルマで高速を利用するのとあまり変わらないし、上越市内・新潟市内での動きやすさを加味するとどうもね。

 となると、せいぜい、往きは高速を途中まで使わないようにする程度しか節約手段がなさそう。 或いは、誰か一緒に行く人がいれば高速料金とガソリン代が折半できるのだが。 だれか、一緒に行きませんか〜!?

 話はがらりと変わる。 4限に久しぶりに期末試験の応援監督をやった。 つまり、自分の授業じゃないけど試験監督をさせられたということ。 これは、大人数の講義だと試験会場が複数にわたり、授業担当の先生以外に監督者が必要なので、その場合に頼まれる制度なのです。 これが順番に廻ってくることになっているのだ。

 教養部があった時代には、毎年応援監督をさせられていた。 教養部教員のみが応援監督要員だったからですね。 1994年に教養部が廃止され、教養の授業が減り、また応援監督要員が全学部の全教員を対象にするようになったので、それ以来応援監督は廻ってこなくなった。 教養部が廃止されてから今回が初めての応援監督である。

 で、100人ほどの学生を相手に監督をやったのだが、試験時間が終わった段階でまだかなり学生が残っていたので、「列の最後の人、答案を集めてきて下さい」 と叫んだ。 ところが反応がはかばかしくない。 特に中央列の最後尾にいた男子学生は立ち上がりはしたが、ぼおっとして、まったく動こうとしない。

 何度か同じことを叫んだのだが、答案を集めてこようとしないので、ついに頭に来て怒鳴ってしまった。 怒鳴られると集め始めたから、日本語が分からないとか、耳が聞こえないということではないと思う。

 このトロさはどこから来るのだろうか?? たぶん、日本が飽食化して、学生のある種の能力が低下していることの徴候だと思うんだけど。

1月27日(日) 昨日買ってきた古CDから、ゴールウェイの独奏によるクヴァンツのフルート協奏曲集を聴く。 クヴァンツという名前、どこかで聞いたようなと思っていたが、解説を読んで分かった。 フリードリヒ大王のフルート教師だった人なのだ。

  フリードリヒが音楽好きでフルートを好み、作曲もしたというのは有名な話だが、その音楽の先生となるとかろうじて音楽史に名が残る程度となる。 大バッハより12歳年下。 バッハがフリードリヒの前で御前演奏して、あとで 「音楽のささげもの」 としてまとめて献呈したのも超有名である。

1月26日(土) 。昼前からりゅーとぴあのオルガン・プロムナードコンサートに行ってみる。 無料。 以前からやっていた催しだが、聴いたのは初めて。

 最初吉田恵によるウェイティングコンサートがポジティブオルガンであり、イベールの組曲から3曲を弾いた。 そのあとが本番で、中野ひかりの演奏でパイプオルガンにより、バッハの協奏曲ニ短調BWV596、ヴィエルヌの「24の自由な形式の作品集作品31」より17番歌曲、フランセの組曲「カルメル会の修道女」、トゥルヌミールの「5つの即興曲」より「小狂想曲」、デュリュフレの「アランの名による前奏曲とフーガ作品7」。

 バッハ以外は全部フランスもので、解説付きなのがいい。 ウェイティングを入れても1時間弱のコンサートだが、悪くない。 これが無料というのは贅沢。 次は4週間後だそうだが、この贅沢を味わうためにまた行ってみよう。

 ただし問題もあり。 音楽とは直接関係ないが、りゅーとぴあの空中回廊から駐車場に降りるところ、エレベータと階段が一緒になっているんだけど、そこのガラス戸が閉鎖されていて使えなかった。 エレベータが故障中ということなんだけど、階段は使えるのだから、開けておいて欲しいところだ。

 開けておけないなら、りゅーとぴあの出口にでっかく書いておいて欲しい。 お陰で、またりゅーとぴあの建物に引き返して建物内の階段を使って1階に降りなくてはならなかったので、無駄足を踏んでしまった。

 帰り、BOOKOFF関屋店によって中古CD3枚を買う。 そのうちC.P.E.バッハの作品集をさっそく研究室で聴くが、ピアノとチェンバロのための協奏曲というのが入っていて面白い。 鍵盤楽器と弦楽器、或いは管楽器の組み合わせの協奏曲ならともかく、チェンバロとピアノと、いずれも鍵盤楽器による協奏曲とは、初めてだ。無論、これは大バッハの息子である彼が過渡期に生きた音楽家で、チェンバロとピアノが両方使われていた時代に活動していたからだろう。

 ベートーヴェンとなるともうこういう曲はあり得ない。 ハイドンはチェンバロとピアノ双方の曲があるようだが、両方が同時に出てくる曲があるだろうか? モーツァルトは初期にはチェンバロも使ったが、主としてピアノを用いた。 ただしハンマーフリューゲルと称される種類で、ベートーヴェン中期以降のピアノとはだいぶ違ったものだったようだ。 無論、父・大バッハなら鍵盤楽器はチェンバロかクラヴィコードに限られていたわけだからやはりあり得ない。(もっとも、角倉一朗『バッハ』によると、「音楽のささげもの」 の中にはピアノのための曲があるそうである。 しかし私の持っているディスクではチェンバロで演奏している。) C.P.E.バッハは1714年の生まれだからハイドンより18年早い。 この辺の時代の変遷が面白い。

1月20日(日) 新潟の冬には珍しく快晴。 風もない。 このところ気温はともかくとして雪と風のない日が続いていて、ありがたいような物足りないような。

 午後5時半から、角田浜近くのカーブドッチ・ホールで潮田益子+クリスティーネ・ショルンスハイムのリサイタル。 バッハのヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ2,4,3番とイタリア協奏曲。 アンコールはバッハのフランス組曲第5番第3楽章とヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第6番の最終楽章。

 このホールは始めてだが、分かりにくい場所にあって、車で行く途中一度あらぬ方向に入り込んでしまった。 収容人員百人ちょっとの小さなホール。 演奏はほどほど。 感心するほどではない。 楽器はストラディヴァリウスとのことだが、それにしては音色がくすんで聞こえる。 会場のせい、或いは余りに至近距離で聴いたせいかもしれないし、バロック期を意識した奏法のせいかもしれないが。 それを別にしても何かもう一つ心に入ってこない。

 このコンサートはディナー付きも選べるが、こちらはクルマでありワインを楽しめないディナーでは意味がないからコンサートだけにした。 新潟市から10キロ以上離れている場所で、クルマでないと行けないのだから、ディナーをやるなら交通手段を――例えばバスで送り迎えするとか――考えてやって欲しいところだ。

1月13日(日) 朝起きて、新聞のテレビラジオ欄でFM放送のところを見たら、10時からの 「20世紀の名演奏」 が 「ジュリーン」 特集となっている。

 ジュリーニの間違いだろうと思ったけれど、吉田秀和氏の 「名曲の楽しみ」 を途中から (寝坊したからですね) 聴いたあと、女性アナウンサーによる 「この後の番組から」 でも 「ジュリーン」 と発音していた。

 はて、オレの知らない指揮者がいたのか、と思ったが、10時からの番組が始まってみたら解説の黒田恭一氏はちゃんと 「ジュリーニ」 と発音している。 フルネームで 「カルロ・マリア・ジュリーニ」 だから、間違いない。

 NHKの作った番組表が間違っていたらしい。 それにしても、NHKのくだんの女性アナウンサーがクラシックを知らないことがバレてしまいましたね。
       

1月8日(火)  新潟県民会館で午後6時半から、ハンガリー国立歌劇場によるヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」公演。 今年の初コンサートだ。

 メラニー・ホリデーがヒロインのロザリンデ役を演じるなど、話題性もある。 大変楽しい舞台で、全然退屈しなかった。 字幕があるから筋の進行も非常に分かりやすい。 文字通り、歌あり、踊りあり、笑いありの3時間であった。 客の入りは8割くらいかな。 でも会場が寒いのには閉口。 コートを着ていないと風邪を引きそう。 1階16列だったんだけれど。

 私はオペラは余り見ないけど、たまに見るとやっぱりいいなあと思う。 お金があればもう少しオペラ通を目指すんですが、何分、オペラは大学教師には高すぎますので・・・・・。 今回の公演は一番高い席が1万4千円だから、外来オペラとしては格安と言ってよかろう。 東京あたりの外来オペラは4〜5万するから、とてもじゃないが行けたものではない。

1月3日(木) 卓球用品専門店のサイトウ・スポーツから、年末バーゲンセールの時に引いておいたクジで卓球ラケットケースが当たったという通知が来た。 ワタシはクジ運は悪い方だと自覚しているので、今年は最初からラッキーな滑り出しだと感激してしまう。

 どのくらいクジ運が悪いかというと、例えばお年玉付き年賀葉書でも、生まれてこのかた切手シート以外のものが当たった経験がたった1度だけ、というくらいなのだ。 では、ワタシはなぜクジ運が悪いのだろうか。 実はこれにはワケがあるのだ。

 ワタシが生まれて間もないころ、父が新聞広告に載っていた懸賞にワタシの名を葉書に書いて出したところ、カメラが当たったのだそうである。 言うまでもなく、昭和20年代後半にあってカメラというのは現在よりはるかに貴重品であった。

 つまり、その時ワタシは一生分のクジ運を使い果たしてしまったに違いない。 だから以後、自分で懸賞に応募してもロクなものが当たらないのである。 しかし、ここに来て少し運勢が変わり始めたのかも知れない。 何しろ今年は年齢が50の大台に乗ることでもあるし・・・・・・ 半世紀たちゃ、クジ運の神様も少しは考えを改めてくれるのでしょう。

1月2日(水) 船橋の老母宅から車で新潟に戻ってくる。 常磐道・磐越道経由。 途中から雪がちらついていたのだが、新潟県に入ったとたん、猛吹雪となった。 10メートル先が見えず。 特に新津から先頭になってしまい、悲惨。 中央分離標識を右に見ながら必死に走った。 何とか家にたどりついが、雪かきをしないと自宅駐車場にも入れず。 駐車場といっても、屋根がなく、雪が積もり放題なもので。

 (しかし、翌日でなくてよかった。 翌日は磐越道や関越道は通行止めとなり、その日だったら帰り着けず悲惨なことになるところだった。)

 

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