ドイツ・ナチズム文学集成 全13巻 刊行開始!

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 京都大学教授・池田浩士氏の編訳により、表記の邦訳書が、柏書房から近く刊行開始となる。

 池田氏の「刊行にあたって」から一部分を引用しよう。

 《 ナチズムに対する否定的な評価はすでに確定している。 だが、否定的に評価され断罪されざるをえないナチズムに、圧倒的多数のドイツ国民が、あの当時、熱烈な支持を寄せ、あるいは少なくともナチズムの支配を長期にわたって容認した、という事実は、依然として残ったままなのである。 この支持と容認の根底に届くことのない批判は、いかにそれが理性的であり正当であるとしても、ファシズムの吸引力のまえに、その魅力のまえに無力である。

 ナチズムと、ひいてはまたファシズム総体と真に対決するためには、それが誤りであったという確認のいわば手前まで引き返し、事後の結論以前の生きた現場で、その現時点での人びとの感性や心性を追体験することが、不可欠だろう。 いったいナチズムの何が人びとの心情をとらえたのかを探ることが、必要だろう。》

 この池田氏の姿勢は、氏が20年余り前に出版した『ファシズムと文学』(白水社)以来変わっていない。 この本の「あとがきにかえて」の中で、氏はこう書いている。

 《 ヒトラー・ファシズムの制覇は、まさに「国民」の合意のうえに、「国民」との一対化によってこそ、かちとられたのだった。 ナチス・ドイツを、支配者ヒトラー一派と、これに支配される被害者としての民衆、という構造でとらえることによっては、その本質を把握することはできない。

 (…)この「国民」を、ヒトラー一派によってたぶらかされていたもの、と規定することもまたできない。 かれらにとって、ナチス・ドイツは虚像ではなく実像だった。「第三帝国」の「国民」にとっては、その帝国こそが現実だったのだ。 ヒトラーのドイツにたいして「真のドイツ」の担い手をもって任じていた亡命作家たちは、この現実を撃つことができなかった。

 「フランクフルト学派」にしても、ナチス・ドイツの「国民」にとっては、無であった。 (…)ナチス・ドイツが徐々に形成されていく「ヴァイマル共和国」時代に、すでに活動していたフランクフルト学派は、ファシズムを抑止する現実の力とはなりえなかった。

 のちになって再評価された思想家や思潮を、その時代の隠れた真のモメントとみなすとらえかたは、「内面性」を現実からの逃避としかとらえず、夢や幻想を現実の「捨象」としかみなしえない考え方と同じく、その時代の現実の姿を、「国民」がそのなかに生きる現実の姿を、ついに見ることがないだろう。 ナチス・ドイツの「国民」にとっては、ヒトラー・ファシズムの現実こそが、唯一の、自己の現実なのである。

 だがしかし――だからこそ、「国民」の視点からはけっしてファシズムを撃つことはできないのだ。》

 

 私(三浦)は1997年に出した雑誌『nemo』第4号の編集雑記で、上の池田氏の文章を引用した上で、次のように書いた。

 《 この「国民」には、今ならば「大衆」が、若干の誤差を含みながらも入るのではないか。

 ファシズムというのは、かつて進歩的知識人が濫用した概念で、皮肉な人はまたその論法かという顔をするかも知れない。 しかし私の言いたいのは「狼が来るぞ」といった類のことではない。 ファシズムとは今ここにある現実なのだ。 (日本の場合、むしろ大政翼賛会的と言った方が妥当であろう。)

 ファシズムが問題なのはユダヤ人を大量に虐殺したからではない。 むしろ、ユダヤ人が数百万人殺されたからファシズムは駄目だという人間は、かなり鈍感だと言うべきだろう。 ナチのドイツがそうだったように、ファシズムはきわめて快適な環境を用意してくれる。 その快適さを疑うところからしかファシズム批判は始まらない。 思考力や感受性が計られるのは、そうした微妙な地点からなのである。》

 

 大衆讃美しか脳裏にない大学教師が跋扈する最近、池田浩士氏のねばり強さはそれこそ絶賛に値する。 日本のドイツ文学者の多くは、タテマエとしてはナチス批判を口にするが、それは安全な場所に身を置いた人間がとなえる念仏の域を出ない。 仮に自分がナチ時代のドイツに生まれ育ったなら、ヒトラーに忠誠を誓っていたのではないか、などと想像してみるほどの知性のあるドイツ文学者はたぶん100人に1人くらいだろう。 でなければ、最近の「大学改革」で文部省の意向に盲従しているくせに、それをひた隠しにして「大学改革」を自分で押し進めている気になっている摩訶不思議なゲルマニストが続出するはずがない。 内心とっくにドイツ文学から転向しているくせに、独文学会に入っていることだけをもってゲルマニストを名乗るような輩が少なくないことなど、まさに状況は絶望的なのだ。

 池田浩士氏はそういう破廉恥な輩とは無縁である。 そもそも氏は、独文学会に加入していない。 かつて筑波大学が作られた際に独文学会がとった態度と、その後の学会のいい加減な転向ぶりに愛想を尽かして脱退してしまったのである。

 それでいて氏のゲルマニストとしての仕事ぶりは、凡百の、いや凡千のゲルマニストをはるかに凌駕している。 単にドイツ文学だけにとどまらず、私は読んでいないが最近火野葦平論を上梓するなど、その活躍はまさに超人的である。

 『ファシズムと文学』で表明された氏の原点を受け継ぐ仕事が、このような形で出版されるのは、まことに喜ばしいことである。 某ノーベル賞作家の表現を借りるなら、「持続する志」のお手本というべきであろう。 無事に仕事が完結することを祈ってやまない。

 

 柏書房のHPにはまだ内容紹介が載っていないようなので、以下、内容を簡単に紹介しておこう。

ドイツ・ナチズム文学集成 全13巻  

 ドイツ・ナチズムの現場に生きた人びとの心性を、ナチズムの琴線であった文学表現により再現するはじめての試み。 日本未紹介の作品群の中から、テーマ別・表現形態別にポイントとなるものを選択している。 平均450ページ。 各巻平均予価3800円。 2001年刊行開始、年2回刊。

第1巻(第1回配本) ドイツの運命  ヨーゼフ・ゲッベルス『ミヒャエル――日記が語るあるドイツ的運命』、ほか

第2巻 英雄伝説の創生  メラー・ファン・デン・ブルック『レオ・シュラーゲター――虚無に向かってさまようもの』、ほか

第3巻 「第三帝国」への途上で  ハンス・フリードリヒ・ブルンク『民族の転回点』

第4巻 植民地と戦争と  ハンス・グリム『リューデリッツの国――七つの出来事』、ほか

第5巻 「郷土」をめぐる戦い  フリードリヒ・グリーゼ『最後の顔』、ほか

第6巻 女性作家たちの「第三帝国」  エーリカ・ミュラー=ヘニング『ヴォルガの子供たち――ある逃避行』、ほか

第7巻 民族性としての神秘主義  エルヴィン・グイド・コルベンハイヤー『神に誓いし心――ドイツ神秘主義時代の物語』、ほか

第8巻 反共と反ユダヤ主義の精華  ハンス・ツェーバーライン『良心の命令』

第9巻 屈従と抵抗の果てに  ハンス・ファラダ『だれもが一人で死んでゆく』、ほか

第10巻 短編小説集  パウル・エルンスト『悪魔の耕地』、ほか

第11巻 詩・歌謡・行進歌  ナチ党党歌集、ヒトラーユーゲント歌集、ほか

第12巻 演劇・放送劇・映画シナリオ  フリードリヒ・ベトゲ『老兵たちの行進』〔戯曲〕、ほか

第13巻 評論・文化政策資料・年表  アルフレート・ローゼンベルク『文化の没落に抗する闘争を!』、ほか

 

 

 

 

 

 

 

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