壊滅に向かう新潟大学の第二外国語教育           2003年3月22日掲載

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目次

〔1〕前がき

〔2〕壊滅に向かう新潟大学の第二外国語教育

〔3〕「やる気があればできるようになる」 イデオロギーを批判するために――または、新潟大学独文の大学院生はいかにドイツ語ができないか――または、教養教育と同様に学部教育も 「形骸化」 している

 

 〔1〕前がき

 (1)

 以下の文章は、当サイト制作者 (三浦) が私的に出していた雑誌 『nemo』 第4号 (1997年4月発行) に掲載したものである。 このサイトに転載するにあたって、漢数字の大部分をアラビア数字に直し、長めの段落にはあらたな段落を入れ、雑誌掲載に関わる若干の文章を削除した。

 このサイトに小文を転載する気になったのは、これを発表して6年たった今、私の予言が成就 (笑) されようとしているからである。

 新潟大学の教養教育実施委員会は、平成16年度からの導入を目指して、新しい第二外国語履修法を導入しようとしている。 それこそ、まさに第二外国語の壊滅の始まりであるような案である。 こうした案を主導したのが、学内のドイツ文学・ドイツ語の教師たちであったことをここに明記しておく。 ドイツ語教師の思考力のなさは今に始まったことではないが、イエス・キリストの言葉を借りて言うなら、「彼らは自分が何をしているか分かっていない」 のである。

 この「改革」案とは、学部ごとに以下の3つの中から選択させようというものだ。

 1)英語2単位、初修2単位を含む計8単位、 2)1外国語6単位(現行法学部方式)、 3)英語4単位+初修8単位(現行人文学部方式)

 このうち1)の 「初修2単位」 とは、実は語学の授業ではなく、「言語文化基礎講義」 なる、各国の文化やその言語の性質を講義形式で教えるものにすぎない。 この 「改革」 案は、医歯をふくむ理系全体が1)を選ぶだろうことを予想しつつ作られたと言っていい。 理論上は、この 「言語文化基礎」 をとった後、初修外国語をあらためてやることもできるが、そうなると必修単位の上で英語を (ほとんど) とる必要がなくなるので、英語力の減退を嫌う理系学部が学生にフリーハンドの選択権を与えるとは考えにくい。

 もっとも、ドイツ語教師たちの思考力のなさだけに 「第二外国語壊滅」 の理由を求めるのは酷であろう。 大学教員の定員削減が進んでおり、語学教師の数も遠くない将来激減する見込みであることも大きな要因である。 が、そうした外的要因に対する対策を考えるのも教養教育実施委員会の役割であるはずだが、どうもまともに考えているとは思われない。 

 事態はことほどさように深刻になっている。 この文章を公にしようと思い立ったのは、そのために他ならない。

 なお、一連の 「語学教育改革」 には、「やる気のない学生に第二外国語を教えても仕方がない」 「やる気があればできるようになる」 というイデオロギーが絡んでいるので、これを反証するために、新潟大学で独文を専攻する大学院生がどの程度のドイツ語能力を有するか、ということを私の経験から書き留めた文章を〔3〕として最後に掲げておいた。

(2)

 一つ付け加えておく。 なお、これは個人攻撃の意図はなく、あくまで新潟大学の機構というか、ムラの寄り合い的な組織構造を批判したものであるから、そのつもりで。

 1994年の教養部解体以来、新潟大学の語学教育 「改革」 に責任者として携わっている人物は、なぜか同一人物である。

 学長だって最大6年しか勤められないし、学部長は4年が限度である。 なのに、このポストには10年近く同じ人間がすわって 「改革」 を主導しているのだ。 これはおかしいのではないか。 外部からの健全な批判も入らないような仕組みになっているし、「改革」 の成果が数値的にきちんと検証されてもいない。 つまり、大学にふさわしい知的で健全な組織構造とは言えないシロモノとなっている。

 関係者の猛省を求めたいものだ。

 

 

〔2〕壊滅に向かう新潟大学の第二外国語教育

 以下の文章は、1996年6月に筆者が新潟大学の大学教育開発研究センター長に提出した意見書である。

 大学教育開発研究センターとは、教養部が廃止された後に作られ、新潟大における教養教育の立案実施等を担当している部局である。 ただし専任の教員等はおらず、センター長は専門学部の教授の中から選ばれている。

 以下の意見書が書かれた事情は意見書の最初のあたりを読めば分かるが、簡単に補足しておくと、教養教育の外国語部門を検討するワーキンググループが九六年に中間報告をまとめ、外国語の集中受講制なるものを提案した。 要するに今までは2外国語必修だったのを1外国語でもいいことにしようというものである。

 これが各学部に提案されたのだが、私の所属する人文学部の教養教育委員会では賛成の答申を出した。 と言っても、自分の学部は2外国語必修をはずさず、人文学部が担当している理学部と工学部の外国語教育についてそれを実施したいという、早い話が自学部エゴ丸出しの答申だった。

 私は中間報告に反対の意見書を教養教育委員会に出しておいたが、これがどう扱われたかについてはついに明瞭な説明を得られなかった。 要するに、人文学部では教養教育委員会が賛成の答申を出す以前には、外国語担当教員全員を集めての会議は一度も開かれなかったのである。 ただし個々の外国語では担当者全員の会議を行ったところもあるようだが (フランス語はそうしたそうである)、私の担当するドイツ語では一度も会議が開かれなかった。これは事実としてここに明記しておく。 「大学改革」なるものがどのように行われているかの好個の例がここにあるからだ。

 やむを得ず私は大学教育開発研究センター長に直接意見書を提出することにした。 返事がなかったこともあわせて書いておこう。

 この種の議論は本来こういう形でオープンにするのではなく、学内で論議を尽くすべきだとの意見もあろう。 私もどちらかというとそう思うが、右で述べたようにそもそも学内で議論を尽くすのを避ける雰囲気がある以上、こうして意見を誌上に公開するしかないと考えた。 

 なお題にある 「第二外国語」 とは英語以外の外国語のことであるが (現在新潟大ではドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語、朝鮮語が開設されている)、以下の意見書では新潟大での呼称に従って 「初修外国語」 (英語と違って大学で初めて学ぶ外国語の意) となっている。 題だけ 「第二外国語」 としたのは、一般にはその方が分かりやすかろうと思ったからに過ぎない。

          *                 *                 *

大学教育開発研究センター長殿

1996年6月27日

 人文学部文化コミュニケーション論講座 三浦 淳

 現在検討が進められている新潟大の教養語学教育の 「改善」 計画に対して反対意見を述べたいと思います。

 この件に関しては、先に教養教育改善検討ワーキンググループが「平成九年度以降の教養科目改善の方向(中間報告)」をまとめ、これに対応して私の所属する人文学部の教養教育委員会が賛成の答申を出していますが、私は同会に対して反対の意見書を提出したにも関わらず、特に語学教育の意義については十分なフィードバックと討議がなされないまま「中間報告」に添うような形で答申が出された形跡があります。それで直接意見を申し述べさせていただくことにしたものです。なお、人文学部では教養教育委員会が答申を出した後で初修外国語担当者全員の会議が開かれましたが(答申を出す前は、こうした会議は一度も開かれませんでした)、その場で委員から、今から何か言いたいなら直接センター長に言えばいいという示唆があったことを申し添えます。

 さて、今回、外国語の集中受講制なるものが提議されたわけですが、私の見解では、これは学生の語学能力養成にいささかも寄与しないばかりか、事実上の英語一カ国語制に道を開くものに他なりません。つまりこれによって新潟大の外国語教育は壊滅状態になるであろうと予想しています。以下、その論拠を述べます。

 普通、外国語能力を養成しようとする場合、個々人の生得的な能力の違いを除くと、その実効を上げるためには次の要素を考慮に入れなくてはなりません。 (1)なるべく多くの時間をかけて、(2)なるべく少人数クラスで、(3)その外国語を学ぶ動機を持って、学ぶということです。

 さて、今回の「改革案」でこの3つの要素が考慮に入れられているでしょうか。 (1)について言えば否です。 3年前の教養課程廃止で教養外国語の必修時間は半減しました。 文系学生は、2外国語16単位必修であったものが8単位に削減されたからです。 それが外国語教育にマイナスにしかならないことは自明です。 今回の 「改革案」 はその点に何らのメスも入れてはいません。

 いったいに素人は外国語教育について誤解を持っています。 「日本人は、数学や理科は学校で教わって世界的にトップレベルの学力を保持している。なのになぜ英語などの外国語は駄目なのか」 というものです。

 まずアメリカ、イギリスなどもともと英語が自国語である国とそうでない国の英語力を比べるのは、語学教育のイロハをわきまえない人間のすることだと肝に銘じていただかなくてはなりません。 幼児期から吸収できる自国語と後天的に学ぶ外国語の能力を同列に論じられないことは語学教育を論じる場合の常識です。 また、自国語にしても自然に身につくというものではありません。 日常的な会話は特に学習しなくても身につきますが、読み書きが(家庭教師を雇える特権階級を除けば)学校制度のもとでしか身につかないことは、大昔には文盲が珍しくなかったことを考えれば分かるでしょう。 その学校制度の国語の時間は、小学校から高校までを換算すると膨大な時間数に及びます。

 また国語の時間だけが学校制度にあって自国語を学ぶ機会なのではありません。 数学の時間に教わるのは数学であると同時に数学を駆使するための国語能力であり (合同や相似を教わる中学生は、同時に合同や相似という国語を教わっているのです)、音楽の時間には音楽の国語を身につけているのです (音楽の時間がなければ、二分音符という国語の意味は分からないままでしょう)。 つまり自国語能力は日常と学校制度を併せたおびただしい時間の学習の結果なのであって、週に2、3回数年間やったという外国語学習の結果とは絶対に同列に論じられないのです。

 では英語を自国語としていない国はどうかということになりますが、一般に外国語能力が高い国とは、(A)フィリピンのように植民地時代を経験している、(B)ベルギーのように大国の狭間にある小国で外国語の必要性が高く、また大国と地続きで距離的に近いため古来交流が活発である、(C)ネパールのように自国語で高度な教育をする能力がなく外国語で書かれた教科書を使わざるを得ない、以上のどれかです。 すなわち外国語を学ぶ条件が自国語を学ぶ場合と似通っている国ほど外国語能力が高いのです。

 以上の点から、新潟大の1〜2年間週数回の教養外国語授業をいくらいじっても何らの改善にもならないことは明らかでしょう。 本気で学生の英語能力の向上に努めようとするなら、上記(A)〜(C)のような条件を新潟大に作り出すことです。 すなわち、授業は教養専門を問わずすべて英語で行うこと。 そのためには教員の採用にあたっては 「英語で授業をする能力を有すること」 という一項を学部・専攻の別を問わず必ず入れることです。 また、ついでに学長や学部長などの幹部も英米のネイティブスピーカーにし、学内の伝達機構でも英語を用いることにするとよろしい。 一種の植民地状態を作り出すこと、これが外国語習得のいちばん手っとり早い方法です。 というと冗談を言っていると思われるかも知れませんが、私は本気です。 半世紀前、戦争に負けたときに日本がアメリカの51番目の州になっていたら、現在の日本州の英語能力は格段に向上していたことでしょう。 逆に言うと、フランスのようにプライドの高い国はだいたい英語下手と相場が決まっている。 英語能力を向上させるには、そのプライドをまず捨てることが肝要なのです。

 英語についてはその程度にして、次に初修外国語の問題に行きます。 私もドイツ語を担当している人間ですから、この問題には重大な関心を持っています。

 先にも述べたように、今回の中間報告なるものは事実上英語1カ国語制に道を開くものであり、教養教育を考えるワーキンググループの出す結論としてはお粗末きわまりないものだというのが私の考えです。その理由を述べましょう。

 「中間報告」では3ページで外国語科目に触れていますが、外国語担当者としての私からみるとその内容は間違いだらけであり、「報告」の名に値しないものと断言せざるを得ません。

 まず 「集中的に」 外国語を学ぶことで外国語習得の実効性を高めることをめざすとしていますが、8単位 (1年間で済ますなら週4回) の授業が外国語の習得にはお笑い草と言いたいほどわずかな時間数であることは上述の通りです。すなわち最初に述べた(1)の条件を 「改革案」 はまるで勘案していない。 集中というからには最低週5回 (つまり毎日) 2年間ぶっとおしで語学をやるくらいでなければ身につくはずがありません。

 次に、では(2)の条件はどうでしょうか。 「中間報告」 は、「平成5年度にクラス受講生の少人数化を図り一定の改善を行った」 として、少人数が学生の語学力強化に役だったとしています。 これが虚偽であることを以下で論証しましょう。

 3年前の教養課程廃止以前とこの3年間の初修外国語授業を比較してみましょう。 3年前までは初修必修で、文系と医歯は1・2年各4単位、理工農は同じく1年4単位2年2単位 (厳密には2年次は英語を含めて2外国語6単位ですから、英語2単位初修4単位でもよかったのですが、現実には英語4単位初修2単位の学生が大部分だったでしょう)、教育は1年4単位でした。 それが教養部廃止とともに人文学部以外は初修1年次4単位のみ必修となったわけです。

 そのとき、教養部の外国語科は、実際には教養部廃止・教養課程縮小という流れの中でそれに対応する案を出したに過ぎなかったのだと私は思いますが、名目上掲げた理由は、従来2外国語とも2年次まで必修だったが1クラスあたりの学生数が多すぎて教育効果が上がらなかった、これを1年次のみ必修にすれば1クラスあたりの学生数は半減するから教育効果は高まるはずだ、というものでした。

 英語の場合がどうなったか、私は知りません。しかしドイツ語の場合がどうかについては明瞭に言うことができます。 すなわち教養部廃止以前の1年次終了時点での学生のドイツ語力の方が、現在の学生の1年次終了時点でのドイツ語力よりも高かった、ということです。 1クラス70人でやっていた3年前までの1年生の方が、現在の1クラス40人の1年生よりも熱心に勉強しドイツ語を身につけていたのです。

 これは、(1)少人数にすれば教育効果が上がる、という条件、或いは条件の仮定を反駁するものといえます。 なぜこういうことが起こるのでしょうか。 原因は実ははっきりしているのです。 (1)の条件そのものは誤りではない、ただしそれは 「他の条件が同じなら」 という前提があればである、ということです。

 つまり他の条件が変わってしまったから、少人数にしたにも関わらず1年次学生のドイツ語力は下降してしまったのです。 では変わった条件とは何でしょうか。 2年次にドイツ語をやらなくともよくなったということです。

 つまり、3年前までの学生は2年次まで (教育学部以外は) 初修外国語が必修だったから、1年次でいい加減にやっていると後でひどい目に会うと分かっていた。 翌年1年次の単位を再履修しなくてはならないだけではなく、2年次の (中級)初修外国語を聴講しても理解できなくなって単位を落とすかも知れない、そうなれば3年次にも響いてきて下手をすると留年に直結してしまう、それを当時の学生は理解していました。 だから1年次で熱心に初修外国語を勉強したのです。

 ところが3年前の 「改革」 で初修外国語は1年次だけでよくなった。 となると仮に落としても2年次で再履修すればいいだけだし、2年次では (中級の) 初修外国語が必修ではないのだから1年次でもぎりぎり単位を落とさない程度にやっておけばよかろう、そう思ってしまったのです。 したがって「少人数教育」を実施したにも関わらず教育効果は逆に下がってしまった。

 3年前の「改革」の結果はこうだったのです。このことを、今回新たに 「改革」 をするというなら肝に銘じておいておいていただきたい。 私なりの言い方をするなら、人間の弱さを知らない者は教育を論じる資格がないということです。

 さて、ここで出てくるのがいちばん最初に述べた (3)外国語を学ぶ動機を持って学習する、という条件です。

 一般には動機というのは学ぶ者の主体的な意欲というふうに考えられています。 ドイツ語なら、ドイツという国やドイツの音楽や歴史に興味があるからドイツ語をやってみたい、そう思う学生が 「動機」 を持っているということになる。

 これがいちばん望ましい形であることは言うまでもありません。 しかし新潟大に入ってくる学生のすべてが、英語国以外の何らかの国の歴史や文化に能動的な興味を持っているなどということが考えられるでしょうか。 文系の学生ですらあやしいのが相当いるのに、理系の学生にそれを要求するのは酷な話です。 そういう意欲を持っている学生は少数派だと見たほうがいい。

 したがって 「動機」 はむしろ大学や教師の側が学生に対して用意してやらなければならないと考えるべきです。 用意してやるとはどういうことか。 ひとつには、授業中に語学教師が単なる語学の勉強だけではなく、その国の文化や歴史について話をするなどして学生の意欲を掘り起こすようにすること。

 しかしこれですべてが事足りるでしょうか。 「意欲を掘り起こせば万事はよくなる」 というほど世の中は簡単ではありません。 もしそうなら、例えば理系の学部では専門科目の必修など定める必要がないということになりましょう。 学生の意欲を掘り起こせば後は必要な科目は学生が自主的にとってくれる――それでは済まない場合があるからこそ、各学部はこれだけはとらなければという科目を必修科目に定めているのです。

 それが教養科目にも当てはまらないはずがありません。 教養科目の必修制というのは、この意味から必要なのです。 すなわち、必修だからとるというのが学生の 「動機」 であるという現実、これを率直に認めることです。 「罰がなければ教育はありえない」 というのは文豪ゲーテが自伝の冒頭で引用している有名な古人の言葉ですが、この 「罰」 とは強制のことと私は理解しています。 

 先に述べた3年前の語学教育「改革」は、この点に目をつぶってきれいごとを言ったがために失敗に終わったのです。 とりわけ初修外国語についてはそれが言えます。 なぜなら新しい外国語を学ぶというのは、漠然と聞いていればいい講義に比べて十倍もつらいものだからです。 この点は私は語学教師として強調しておきたい。 そして苦労して学んでもネイティブスピーカーにかなわないという現実。 効率が悪いと言えばこれほど効率が悪い科目もない。 おまけに英語ならば使用機会もありそうだが、それ以外の外国語は社会に出て実際に使うかどうかも分からない。 これで学生に自主的な動機を持てと言うほうが無理でしょう。

 そこで 「中間報告」 や人文学部の教養教育委員会は1カ国語でもいいという案を出してきたわけですが、私に言わせればこれは教育者失格です。 彼らは自分の都合ばかり考えていて学生や日本の教育体系のことをまるで考えていない。

 まず、現在の日本では英語以外の外国語を学ぶ機会は事実上大学にしかないのであり、この機会をなくしてしまうことは日本の教育体系全体からみて重大な損失であって、言語道断な措置と言えます。 「改革」 などではなく、「改悪」 そのものです。 仮に英語以外の外国語を学ぶ機会が高校時代に設けられているなら、私も理系については大学では必修は英語だけでもいいだろうと思います。 しかし現実にはそうではない。 これはさかのぼれば戦後の教育改革で旧制高校や専門学校を一律に大学にしてしまい、本来中等教育でやるべきことの一部を高等教育に入れてしまったというところに根本的な原因がありますが、しかし現実に非英語を学ぶ機会が大学にしかない以上、四流大学になるつもりがない限り初修外国語必修は堅持すべきでしょう。

 1カ国語でもいいと言ったからといって学生が英語だけにするとは限らないという意見もあるでしょうが、これは大嘘です。 例えば先にも述べたとおり、3年前までは理工農は2カ国語必修で1年次8単位2年次6単位でした。 2年次は英語4単位+初修2単位でも、逆に英語2単位+初修4単位でもよかったわけですが、実際には英語を4単位にする学生が圧倒的多数でした。

 また、中級外国語は人文学部以外は選択になっていますが、私が通年の中級ドイツ語を去年今年と担当した経験では、当初は人文学部生以外も数人来たものの、全員1ヶ月以内に姿を消しています。 新しい外国語を学ぶのはつらいことで、多少の 「意欲」 があってもすぐに挫折してしまう。 学生の学習を保証するのは実際には必修という強制力なのです。 なのに語学を学生の意欲に任せると称して自由選択にするのは人間の本質を知らぬ者のすることです。 すでに何年も学習していて楽な英語に流れる学生の怠惰さをせき止めることこそが、教育者の責務ではないでしょうか。

 さて、ここで強調しておきたいのは、学生に強制的に初修外国語を学ばせるとしてもあくまでこれは教養教育の外国語だということです。1年間、週2回の授業で役に立つ初修外国語を身につけろというのは、最初に述べたとおりできない相談です。 (無論、教養に終わらせたくない学生はアドヴァンストコースに進めばいいわけです。) その点を無視して外国語を1年間でも週3、4回やれば身につくように錯覚するから 「中間報告」 の諮問も出てくる。これは大間違いです。つまり最初の前提が間違っているとしか言いようがない。

 人文学部の教養教育委員会はしかしこの諮問に媚びて、初修は集中にして効率化をはかると言っていますが、これは私に言わせれば欺瞞にすぎない。集中と言っても半年間週4回ですから、現在の1年間週2回と時間数で言えば同じです。 無論、1年間かけていたところを半年でやるから教育効果は多少は上がるでしょうが、それはあくまで多少です。

 実例をふたたび私の経験から挙げましょう。私はこの2年間、法・経済・教育向けの集中ドイツ語を担当しています。 普通1年間週2回のところを半年週4回で済ませる授業で、うち3回を私が、1回をドイツ人が担当しています。 それで学生の学力はどうかと言うと、かろうじて3年前までの (つまり教養課程廃止以前の) 1年生と同じかなという程度なのです。 3年前の 「改革」 以降学生のドイツ語力が下がったということは先に書いた通りですが、やる気のある者をと言って募った集中コースでもこの有様なのです。 

 おまけに半年の授業が終わった後、昨年の例で言うと同じ時間帯の後期に出されている私の半年のみの中級ドイツ語を続けてとった者は4分の1だけでした。 つまり特にやる気のある者と言って募っても、必修単位をとった後は4分の3の学生がドイツ語を捨てたわけです。 人文以外の文系学生にしてそうである。 まして理系だったらどうでしょうか。 私は、これが学生の現実だと思う。 そして学生の現実を知った上で必要と思われる教育は必修単位として課すべきだと考えます。 繰り返しますが、学生の 「意欲」 に期待をかける者は教育者失格です。

 では教養教育としての初修外国語の意義はどこにあるかということになります。 まず英語の (言語としての) 体系が普遍的であるという幻想から逃れられます。 最初に主語があって次に動詞があってそれから目的語がくる、この英語の語順が 「普遍的」 で日本語の語順は特殊だなどと思っている学生が結構います。 これは同じヨーロッパ語でもフランス語やドイツ語をやれば必ずしもそうではないと分かってくる。 また、英語が言語として 「普遍的」 だという思いこみは、英語国の制度や思考法が普遍的だという、いわゆる英語帝国主義的な見方に短絡しやすくきわめて危険です。 教養教育とはこういう単純な見方から学生を救い出すためにあるはず。 初修外国語はその意味で教養教育からはずすことはできません。

 また、現在日本がおかれている立場を考えてみても初修外国語教育を放棄することは得策ではありません。 旧来の外国語教育は、後進国日本が先進国から技術や制度を輸入するために必要とされていました。だから英語を初め、ヨーロッパ先進国の言語たるフランス語やドイツ語を学校で学ぶことに疑問が持たれなかったのです。 しかし現在の日本は後進国ではありません。 一方ではアメリカの動向や最近の情報技術に目を向けるために英語の必要性は高まっていますが、他方では日本も先進国の一員として後進国に目配りをしていかなくてはなりません。

 つまり、先進国以外の制度や文化をそれなりに理解し、必要な援助を押しつけにならないように行う、こうした度量の広さが求められているのです。 英語以外の外国語を学んだ経験は、そうした多様性の理解に、たとえ間接的な形であれ役に立つと私は信じます。またそのためには従来のドイツ語やフランス語に片寄った初修外国語教育は改められるべきで、スペイン語やイタリア語の導入は考えられているようですが、そればかりでなく中国・朝鮮以外のアジア語や、日本では研究が遅れている中東やアフリカの言語なども積極的に導入し、初修外国語教育の多様化をはかるべきでしょう。

 最先端の技術や情報を入手するには英語で足りるから、といった効率一辺倒の見方は、せちがらく余裕のない我利我利亡者の後進国的発想であり、教養教育の否定そのものと言えましょう。 ドイツ学術交流会(DAAD)東京事務所長のシュトゥッケンシュミット氏は、ここ7、8年ほどドイツに学ぶ日本人留学生が1200人で横ばいであるのに対し、アメリカへの留学生は現在5万人に達し7、8年前の10倍になっている事実を指摘し、日本の大学で教養課程の廃止により第二外国語必修がはずされることを原因の一つとしています。 第二外国語必修をはずした大学でも、多分英語一辺倒でいいのだという議論はなされていなかったでしょう。 意欲のある学生が少なからずいて第二外国語に積極的に挑戦するだろうと思われていたのではないでしょうか。しかしそんな皮相な見方は、現実の学生には通用しないのです。実利的な学生は英語に殺到してしまう。 そうしたアメリカ一辺倒の日本、英語一辺倒の日本人の姿勢を是正することこそ教養教育の目的ではないでしょうか。 その意味で、英語1カ国語制につながる提言をする教養教育改善検討ワーキンググループや教養教育委員会はその名に値しません。 むしろ 「教養教育廃止委員会」 とでも改名すべきでしょう。

 私は「中間報告」や人文学部の教養教育委員会の答申に反対の立場からこの文章を書いていますが、最後に、実際の語学授業を担当する者として、外国語担当教員の採用について抜本的な改革が必要であることを指摘しておきたいと思います。

 教養教育における外国語教育の比重が重いことは周知の通りですが、そのために外国語を担当できる教員の授業負担が著しく重くなっています。

 今回の人文学部教養教育委員会の答申も、特にそうした理由から外国語教育からの逃亡をはかりたいという気持ちがほの見えるもので、私に言わせればそれは教育者失格ですが、ただ一部の教員に一方的に重い負担を押しつける現行制度に不備があることは紛れもない事実であり、この点を無視して人文学部教養教育委員会の答申を批判することはできません。

 特に中国語は最近受講学生数が急激に増え、担当教員は授業だけでなく非常勤講師の手配といった実務的な面でも負担が重くなっています。またロシア語と朝鮮語は担当可能な専任教員がきわめて少なく、また非常勤講師の確保も難しいので、専任教員の負担が重くなっています。

 私は、大教センターが外国語担当教員確保のための抜本的な改善策を評議会か部局長会議に提言するよう要求します。 これをせずして語学教育の「改革」のみを求めるセンターは、例えて言えば金を払わずに商品だけ要求する人間と同列でありましょう。抽象的な文言では手ぬるいので、具体的なアイデアを2つ提示しましょう。

 (一)そもそも教養部廃止によって教養外国語を専門に担当する教員がいなくなり、全学出動・二重構造の解消が叫ばれた以上、外国語教育も全学出動でいかなければおかしいはずです。 それができないのは、新潟大教員の語学能力の問題に他なりません。 非常勤講師の採用には金銭面や新潟という地勢の関係から必ずしも頼りきることはできなないわけですが、だからといって一部の専任教員にのみ外国語を週に何コマも負担させる不平等が許されるはずがありません。 少なくとも文系教師は全員が外国語を教えるようにすべきです。 そのために、これからの文系学部の採用人事では 「教養外国語を教えられること」 という一項を必ず入れるよう、教育学部を含む文系学部全部に義務づけてはどうでしょうか。 そして例えば現在なら中国語担当者が不足しているわけですから、人文・法・経済・教育で新しい採用人事が行われるときには、大教センターが 「中国語を担当できること」 という一項を入れよという強制力を持つ勧告を行なえるように、制度を改訂すべきでしょう。教養教育の重視をうたうなら、そして教養部が廃止されたからには、センターはその程度の強制力を持たなければお話になりません。 そうでなけれは、いつまでも少数の人間に重い負担を押しつけることになるばかりか、今回のように教養教育の精神を無視した英語1カ国語制論が出てくる温床を作ることになってしまいます。

(二)教養教育だけを独立して論じていると落とし穴にはまります。 外国語担当者の負担が重くなるのは、外国語のコマ数が多いのに加えて、専門の授業を外国語を担当しない教員と同じ基準で持たせられているからです。 専門の授業と教養の授業を併せて平等な負担になるよう、センターは一度各学部ごとに立ち入った調査をすべきでしょう。

 また、二年前の教養部廃止は同時に専門学部の授業の見直しでもあったはずですが、この点がなおざりにされているとしか思えません。 人文学部で言えば、細かい講義がたくさんあり大して学生数もいないまま授業が進められたり、大学院の授業が出されても誰もとりに来なかったりといった例があります。学部や大学院の無駄な授業を削ることも真面目に検討されるべき課題でしょう。

 専門や大学院の授業というのは、教養教育に比べると教員が持ちたがるので、黙っているといつまでたってもこの状態は改善されません。 学部の教養教育委員会も所詮はそうした教員の集まりですから、専門の授業を見直すよりは教養教育を縮小しようとするでしょう。センターが強力に介入しない限り、教養教育を真面目にやろうとする人間の負担が増えるばかりです。

 

〔3〕「やる気があればできるようになる」 イデオロギーを批判するために――または、新潟大学独文の大学院生はいかにドイツ語ができないか――または、教養教育と同様に学部教育も 「形骸化」 している

 「意欲を持たない学生に第二外国語を教えても仕方がない」 「やる気のある学生なら第二外国語ができるようになる」 というイデオロギーが虚偽であることを示すために、新潟大学の独文専攻 (修士課程) の大学院生はいかにドイツ語ができないか、を私の体験から書き留めておく。

 ちなみに、教養部解体により私が人文学部所属となったのは1994年4月であり、以下の例に挙げた2人は、これまで私が受け持った独文専攻大学院生のすべてであることも書き添えておこう。 つまり、例外的にひどかったのではなく、これが独文専攻新潟大学大学院生の通常レベルである恐れが多分にある、ということだ。

 このようなこと (学生ができない云々) を書き記すのは、或いは露悪的であるとか、趣味が悪いという批判もあるかも知れない。 私がこうした記述を敢えてする気になったのは、教養教育 「改革」 がなされるとき、しばしば 「形骸化した」 というような言い回しが使われるからである。 かりにこの言い回しが一半の真実をついているとしよう。 では、専門教育は形骸化していないのだろうか? 

 「教養語学教育改革」 を主導する人たちは、学部で外国文学・外国文化の専門教育に携わっているはずである。 彼らは、しかし、自分の専門教育の実態はけっして明らかにしようとしない。 ひたすら教養教育の 「形骸化」 を攻撃し、肝腎の自分の専攻の学生の質には口を閉ざしている。 欺瞞的、というのは、こういう態度を言うのだ。

 私は、教養教育も学部教育もお互い様だ、というようなことを主張したいのではない。 そうではなく、現在の大学教育がどういう学生を相手にしているのか、という総合的認識を欠いている人たちが教養教育を語っている――まさにこの新潟大学の実態こそが根本的に疑われるべきだと言いたいのである。

 ドイツ語がろくにできないまま、ドイツ文化やドイツ文学語学を専攻し、学士としてのみならず修士として巣立っていく学生たちにとって、ドイツ語は何だったのだろうか? むろん、彼らは卒業後も職業にドイツ語を活かすことはほとんどないであろう。 彼らにとってドイツ語とは 「教養」 そのものに他ならなかったのである。

 「語学は実用だ」 論者には、こうした実態は間近にあってもいっさい目に入らない。 総合的な視野が欠如しており、それこそ教養がないのだ。 

 総合的な視野がなくては、教養教育だろうが学部教育だろうがまともな 「改革」 ができようはずがないのである。

 

《ケース1》 90年代後半の女子学生。 私はこの学生には学部2年次でも教養中級ドイツ語を教えたことがあって、その時は優秀な学生だという印象を持った。 初級レベルのドイツ語は完全にマスターしていた。 その後、ドイツに1年間留学し、帰国してドイツ語検定2級を取得して大学院に入ったというので、さぞ出来るようになっているだろうと思ったのだが、期待はずれだった。 

 大学院の授業で扱うドイツ語文献がまともに読めないのである。 これには彼女の知的能力 (語学能力とは別) の問題もあったかもしれない。 文中出てくるポストモダンの概念が分からないと言うので、「日本なら浅田彰や柄谷行人が」 といった話をしたのだが、浅田も柄谷も読んだことはおろか、名前も知らないという。 (あとで自宅に帰ってからためしに愚妻に訊いてみたら、柄谷は知らなかったが、浅田の名は知っていた。 愚妻は大学は出ているが、人文系ではない。 1950年代半ば生まれのくせに、民青だとか反代々木系などという単語には 「???」 という反応しか示さない人間である。)

 それはともかく、初級レベルのドイツ語を終えてから習得しておかなければならない中級 (或いは高級)文法がまるで身についていないのが目に付いた。 例を挙げておこう。

 *強調構文: 例えば、Es ist das Buch, das Hans gestern gekauft hat. (ハンスが昨日買ったのはこの本だよ) 英語なら it・・・that 構文に相当。

 *倒置+dochで理由をあらわす用法: 例えば、Ist Hans doch ein Junge! (ハンスは何てったって男の子だからねえ)

 *wie + 人称代名詞(1・4格) によるいわゆる準関係代名詞:  例えば、 Damals war das Buch, wie es Hans herausgegeben hat, unbedingt verboten. (ハンスが出版したような本は、あの頃は無条件で禁書扱いされていたのだ。)

 以上のような用法は、私の考えでは、独語独文専攻ならば学部3・4年次に習得しておかなければならないレベルの文法事項であるが、この大学院生は私が教えるまで身につけていなかった。

 また、ここから、ドイツ語検定による語学能力査定があまりアテにならないことも分かる。

 

《ケース2》 2000年度の男子学生。 実はケース1の大学院生はまだマシだったのである。 何にしても初級はマスターしていたのだから。 このケース2になると、初級文法も理解していなかった。

 発端はこうである。 ドイツ語文献を読んでいて、その大学院生が接続法の時称を分かっていない、という事実が判明した。 本人もそのことは自覚していて、学部1年次に先生から教わらなかったという。

 この学生は、いわゆる人文学部向け「集中ドイツ語」を受講した学生である。 1年次に週4回のドイツ語授業 (日本人教師とドイツ人教師各2回) を通年で受けたはずである。 にもかかわらず、接続法をやらなかったという。

 実はここには、いわゆる教授法に関するドイツ語教師ごとの意見の相違が絡んでいる。 この学生が受講した「集中ドイツ語」 担当の日本人ドイツ語教師は、「文法は最後までやらなくてもいい。 途中までしっかりやって完全に身につけさせれば、あとは学生が自分でやって理解する」 という見解の主であった。

 この見解が誤りであることが、他ならぬ独文の大学院生によって実証されてしまった、というのは、何とも皮肉なことである。

 それはともかく、仕方がないので私はその場で接続法の時称を教えようとした。 接続法過去時称は、完了の作り方が分かっていないとできない。 それで確認のつもりで、「君は直説法の完了の作り方は分かっているよね? Er hat kein Geld. これを現在完了にすると?」 と訊いてみた。 すると驚愕すべきことに、答えられないのである。 (ドイツ語を知らない方のために。 英語ならHe has no money.です。 きわめて基礎的な文章であり、これを完了にするのはきわめて基本的な事柄です。)

 何度でも書くが、私は驚愕した。 冗談じゃないよ、何でこんな奴を独文専攻で大学院に入れるんだ、学部を終えたらさっさと追い出すのが常識だろうが・・・・・・と、内心大学院入試担当者を罵倒しまくった。 が、ともかく現実にこういう大学院生が目の前に座っているのである。 仕方なく、直説法の完了の作り方から教え出したのである。

 なお、こういう調子であるから、肝腎の文献講読の授業がさっぱりはかどらなかったことは、言うまでもない。

 

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