以下の座談会は、当サイト制作者 (三浦 淳) が私的に出していた雑誌 『nemo』 第6号 (1999年4月) に掲載したものである。

今回、出席者の了承を得て、ここに転載することにした。

末尾に出席者紹介と文献一覧があるので、そちらもご覧いただきたい。 ただし文献一覧は1999年当時のものであり、現在は品切れになっているものも含まれている。

(当サイト転載: 2003年5月26日)

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〈座談会〉

英語帝国主義、或いは英語をめぐる諸問題

 

福田 一雄 + 成田 圭市 + 三浦  淳(司会)

 

【目次】

英語を始めた動機と英語への愛憎/ 姓名をどう書くか・外国人は日本では日本語を使うべきか/ ネイティヴの英語・外国語としての英語/ 英語で日本社会は変わるか/ 「外国語は英語だけ」 でいいのか/ 初級英語の教え方/ 英語学習と英米崇拝、学校英語へのうらみ// 出席者紹介// 英語帝国主義について考えるための文献

 

英語を始めた動機と英語への愛憎

三浦 本日はお集まりいただきましてありがとうございます。 今回は、英語に関する諸問題を、主に英語帝国主義ですとか、日本における英語の受容の問題に重きをおいて論じていただこうと思います。 本日ご出席の方々は、いずれも英語が御専門の福田先生と成田先生、司会は私三浦が担当します。 それで、最初から余り抽象的な話をしても仕方がありませんので、とりあえず、お二人がどういうわけで英語を専門的に勉強する気になったのかという、まあ私的な話ですね、そのあたりから始めていただければと思うんですが。 福田さんからいかがでしょうか。

福田 1966年に大学に入ったんですが、大阪の教員養成系大学の英語科でした。高校時代に好きな教科が国語と英語だったんですね。 特に国語の現代文が好きでしたけど、国語に行くか英語に行くか迷った。 学校の先生になろうと考えていて、なぜその時国語ではなく英語を選んだのか、自分でもよく分からないんですが、時代背景として、英語がファッショナブルだという感覚が当時は周囲にあったということでしょうか。 それで大学に入って1年次には高校の延長で英語もよく勉強したんですけれども、その後かなりさぼった時期があったんです。 特に2年生の頃。4年生になって卒業を前にして再び英語をやり始めた。卒論はアメリカ作家のJ・D・サリンジャーの作品論をやったんですけれど、修士課程に進む時に、学部時代の英語の勉強が不十分だったという気持ちになりまして、英語そのものの構造や文法を勉強し直したいと考えて、それで修士では英語学に進んだわけです。

三浦 文学から語学に切り替えたのは、特に何か?

福田 高校の時に文芸部に入っていて、小説を書いたり詩を書いたりして、そういう活動が好きだった。 大学に入っても、英語をさぼっていた時は日本の現代文学や社会科学の本を読んでいて、4年次にはアメリカ文学をやっていたんですが、文学と向き合っているという状態から少し方向を変えてみたいと思ったんですね。時代も自分も不安定でした。 足元を固めたいという気持ちがそれに重なって、文法や英語の構造の方に行ったということです。 それとその当時非常に生意気で、なぜ英米文学をやらないんですかと訊かれた時に、大学の先生の前で、文学は一人でできますと(笑)いう風に言ってしまったんですね。 その先生は一瞬びっくりした顔をされてましたけど、今になって思うと、文学というのは一人でできる側面と、積み上げて学問のトレーニングを受けないとできない側面と双方あることが、分かってきました。

三浦 学部の途中で英語をさぼったというのは、特に理由なく、何となくですか?

成田 それはひょっとして英語帝国主義に目覚めたということじゃなくて……?

福田 まだ早いですね(笑)。

成田 僕が思うに、学生運動で米帝との闘いに……(笑)

福田 時代が67年から69年の頃ですね、アメリカがヴェトナム戦争をやっていた時期で、全体的に反米意識が学生の間にも強かった。 僕もそういう影響が多少あったかも知れませんが、英語の勉強が大学二年の頃嫌になったのはそれとは余り関係がないような気がします。 当時の生意気で未熟な自分にとっては、英詩を習っていても英語の小説を読んでいても、それが現実の社会とか世界を語る時に、或いは見る時に、何の役に立つのかという感じがあったのかも知れません。 つまり自分がいる現実と、授業で英詩を読んでいる教室内の現実とがうまくかみ合わない、という感じだったですね。

三浦 じゃ、成田さんの場合を。

成田 私が大学に入ったのは73年で、東京の私大でしたが、なぜ英米文学科に入ったかといいますと、結局受験勉強をしていた頃、英語が一番できた。 大学に入って何を勉強するかを考えた時、最初から経済学とか法学とかの社会科学には一切関心がないし、となると文学部くらいですよね。 文学部の中でも、まあ文学を読むのは好きでしたが、文学そのものを研究するということは余り考えなくて、漠然と考えていたのは英語で食っていければいいなと。 もう少し具体的に言うと、翻訳家なんぞになれないかなと(笑)、そんなことを考えていたわけですね。 それで英文科に入ったわけなんですが、英文科の実態を見れば翻訳家養成からは程遠いということはすぐに分かってしまう。 それでも受験勉強をやっている頃から英語の文法に興味を持っていたので、英文法を極めるんだという(笑)考えは入学してからもずっと持っていまして、2年生の時に或る先生の授業をとって、後はずっとその先生についているわけです。 大学院に進むということも、まあ経済的には考えましたけれども、それ以外は悩みもなくて、すんなり入りまして、大学院には合計で8年間いたんですけれど(笑)、当時モラトリアムという言葉がはやっていましたが、その状態で現在まで来ていると(笑)、まあそういうことですね。

 その頃はまだ英語帝国主義、或いは英語の植民地化、そういう意識は僕はほとんど持っていなかったんですが、英語だけが唯一の 「国際共通語」 だとも考えなかったわけで、英語は世界中に存在する沢山の言語の一つに過ぎないという意識はその頃から持っていました。 大学内でも、英語さえできればよくそれ以外の言語は必要ないんだという意識はなかったと思うんですね。 そうじゃないですか? 現在ですと第二外国語なんかはやらなくていいという考えが主流になっているようですが、少なくとも1973年、今から25年前の僕の周りの学生を見ると、必ずしも英語だけ勉強すればいいんだということではなくて、自分の興味とか関心に応じて、一人で第二外国語、第三・第四外国語までやっている学生も多かったし、英語が絶対だという考え方は現在ほど満ちてはいなかったと思うんですがね。

三浦 当時はまだ外国文学が学生の興味に占める比重が高かったから、ロシア文学、フランス文学、ドイツ文学、或いはフロイトでもマルクスでも毛沢東でもいいんですが、そういったものを原書で読むためにはそういう言葉が必要だということが、割に学生の意識の中にはあったと思うんですね。 それが最近そうではなくなって、かなり産業化が進行してきまして、産業のために役立つ言葉をやらなければという意識の方が前面に出てきている。 話を進めまして、お二人ともそういうわけで英語の先生になられたわけですが、英語帝国主義とまでは行かなくても、英語をやることに伴う問題、マイナス面を意識するようになったきっかけなどはありますか?

福田 さっき大学四年までの話をしましたが、4年で卒論を英語で書くわけですけど、それをやっていて不思議と面白さを感じたんですね。 自分の英語で書いてみる喜びを初めて味わったということです。 修士に行ってからアルバイトで高校の非常勤講師をやったんですが、いきなり3年生の英作文の授業を担当させられた。そうすると、大学を卒業したばかりの自分が、大阪の或る進学校の英作文を担当するということで、一所懸命に予習したわけなんですね。 時には徹夜で下調べをしてそのまま高校で教えたことがありましたが、それをやっているうちに、いわゆる学校文法の枠組みが自分の頭の中に入ってしまう。 1年くらいの間にですね。それで修士課程を出てから別の進学校に9年勤めることになるんですが、その時に職業としての英語教師、高校の英語の受験指導が中心になるような専任の教諭になったわけです。 すると自分の英語力を徹底的に鍛えなくちゃいけないという気持ちが湧いてくる。 そのために勤め始めて5年くらいたった時に、伝統的な学校文法の枠組みだけじゃなくて、自分は英語を話したり聞いたりできなくてはいけないんだという気持ちが強くなってきた。 一度も外国に行ったことのない英語教師という意識もあって、とにかく一度アメリカかイギリスに行きたいと強く思うようになった。 それで79年に、2ヶ月でしたけれど、イギリスの大学で英語教師のためのサマースクールに参加したんです。 それが日本を出た初めての経験で32歳の時でした。 そうやってやっていますと、英語を話したり、英米人と付き合うと、自分の言いたいことがうまく通じたり、親しくなれた時は、大きな喜びがあるんですよね。 するとますます英語を聞いたり話したり、英米人と付き合ったりすることに熱心になるという時期が確かにありました。 それが二十代の終わりから三十代の初め頃です。 一般的に言って、外国語・外国・外国人に対する素朴な憧れのようなものですね。それが専門家にしろ一般の学習者にしろ、英語なら英語に対して興味を持つ出発点になっていると思うんです、外国と国境を接していない島国に住む者にとっては。

 そういうところから出発して、やはり時々は、英語がうまく通じない時の挫折感などが出てくることはありました。 無料で教える英会話スクールがあって、そこに29歳くらいの時、高校教師になっていましたけど、無料だからということで行ったんですが、若いアメリカ人にすごいスピードで話されると分からないわけですね。ぼおっとしていると、Can you follow me? と訊かれる。 followというのは 「後についていく」 という意味ですから、直訳すると 「あなたは私について来れてますか」 ということで、ちょっと屈辱的に (笑) 感じたことはありましたね。 understand me だったらまだいいんですが。 ですから英語を使っていて、喜びや充実感と、コンプレックスや挫折感が入り混じった体験をしました。

三浦 成田さんはいかがですか。

成田 結局は自分の英語力のなさというものから出発しているのかも知れないんですが、一つには英語はどこまでやっても極められないという思いですね、これは今でも思ってますけど、非常に難しい言葉だなということです。 他に比べられる言葉というものをそれほど知らないわけですが、英語を何十年かやってきて、それでも極められないなということ、それが一つありますよね。 それと、大学・大学院で英語学を専攻していた頃は、いわゆる英語帝国主義というものは余り感じなかったんですが、やはり大学で教えるようになってから、英語だけ習えばいいんだという考えの学生が多いなと感じたということ。 それは僕が学生だった70年代にもいたのかも知れませんが、教えるようになってから――85年から新大で教えてますけど――そういう学生が多いなと。 それが年々増えてきていますね。 それと連動して、社会的な場でもそういう考えを前面に押し出してくる人が多いし、英会話学校の隆盛なんかも80年代頃からじゃないかな。 それはそれでいい、英語ができればいいというのも一つの考え方なのかも知れませんが、それが日本の社会にどういう形で現れているかというと、一言で言ってしまえば奴隷根性ですよね。 表現はやや強いかも知れませんが(笑)。 それをひとたび意識しはじめると、様々なものがそれと関連してきて、日本はアメリカ合衆国の51番目の州になってしまったんではないかと思われるような事例が非常に目につくわけです。

 

姓名をどう書くか・外国人は日本では日本語を使うべきか

三浦 例えばどういうことですか。

成田 最近のことではありませんが、例えば明治以来の、外国人むけの名前の言い方の順番ですよね。僕も学生・院生時代はまったく疑問に感じなかったのがまずかったかも知れませんが。

三浦 名前の順序に関して言いますと、私も恥ずかしながら気がついたのはここ数年のことなんですけれど、日本人は外国人に対しても普通の順序 (姓が前、名が後) で名前を言うのが自然ではないかと。 具体的には中公新書から出ている 『文化の戦略』 という本を読みまして、その著者がそういう主張をはっきり打ち出しています。 それでどちらがファミリーネームでどちらがファーストネームか分からない場合は、ファミリーネームは全部 (アルファベットの) 大文字で書くと。 そうやって日本人がふだん言っているとおりの順序で名を書くのがいいんじゃないかと。 それもそうだと思いまして、それ以来、電子メールで名前を書く時などは、日本式の順序にしています。 成田さんもそうですね。 でもそういうやり方はまだ浸透していない。

成田 日本ではその点で悩んでいる人が多いんですよ。 つまり例えば三浦さんや僕のように書くと、日本について知っている人はいいけど、知らない人はMIURAが名だと誤解するんじゃないかと。 それで姓と名の間にコンマを入れるとか、様々な表記がされていますよね。 過渡的だと思うんですが。 でも中国や韓国・朝鮮の名の順序は絶対にひっくり返さないですね。

福田 コンマを入れるのはよくやりますね。論文の参考文献とか。

成田 だから、日本人はそんなことで悩むより、中国や朝鮮のように、日本では最初が姓なんだということをもっと言っていくべきでしょう。 それをしないで、どちらを先に書いたらいいか悩むというのは、ナンセンスだと思うんですね。

三浦 ナンセンスと言えばそうでしょうが、時間がたてば解決されるだろうと。ファミリーネームを先に書くというのは、或る意味で非常に合理的なわけでしてね。 百科事典で調べる時に、同じ一族の人間は同じ箇所に載っている。 あちらの事典もそういう風になっていますよね。ケネディ一族を調べる時に色々な箇所を引かなければならないというのは面倒ですから。 だから合理性というのは色々あるわけで、日本式に書くのが合理的だという考え方もできる。

成田 いや、合理的だとかいうのじゃなくて、日本人は普通に暮らしている時は姓を最初に言って、それから名を言っているわけですよ。 それが英語なりドイツ語なりをしゃべる時になると、それをひっくり返すというのは、非常に違和感を感じると思うんですが。 一方それに違和感を感じない人もいる。

福田 僕は余り違和感を感じないんです。英語を話したり書いたりしている文脈の中で、Kazuo Fukuda とひっくり返すのは、ほとんど自動的にそうなっている。 英語の場合はJames Brown とか、そういう風に並べるのが順序ですね。 だから英語の中で僕の名前をひっくり返すのも余り抵抗がないんです。 ちょっとした操作だという感じで、それでもって日本固有の文化や慣習を打ち捨てたという感じにはならない。 ただ、文化の相互理解という観点に立てば、日本では普通は、漢字で書く場合は、名字が先なんだということを、英語国や西洋の多くの人が知って欲しいとは思いますが。 だから、漢字で名前を書く場合と、ローマ字で書く時とは別物だと考えているんですね。

三浦 話を進めますと、例えば外国人が日本に来た場合は基本的に日本語で用を足すべきではないか、というような意見がありますが、いかがでしょうか。

福田 それは私も最近は感じますね。 できれば外国人の側に日本語を話して欲しいと。 ところが新大に赴任してきた十七年ぐらい前は、英語を話すことに非常に興味を持っていた。 今はその情熱も消えた感じなんですが(笑)、当時は新大に英国人のS・B氏や米国人のS・G氏がいたわけですね。 その人たちと英語で話をするのが楽しかったんですよ。そうすると西洋人を見かけると反射的に英語で話しかけるようになるわけですね。 そのうち、これはやっぱりおかしいと思い始めました。 外国人が日本にいる場合はなるべく日本語を話すようにして欲しいと。 ただ、短期間日本を訪問する人にはちゃんと日本語をしゃべってくれとは言えませんから、そういう時は英語で。 誰かも言っていましたが、英語を話すというのは妥協の産物なんです。 だから短期間の訪問者が英語を話すのはいいんですが……。

成田 短期間だろうと旅行者だろうと、日本に来るんだったら、少なくとも片言の日本語を学んできて欲しいんですね。 それを、初めから英語は通用するんだろうという高飛車な態度でしゃべるという、その精神が非常にいけないことだと思いますけど。

福田 それは分かるんですよ。 でも今おっしゃったのだと、例えば僕らが短期間にチェコスロヴァキアだとかポーランドに行く時がありますから。

成田 その時は、僕は建て前としては(笑)チェコ語なりポーランド語なりを……。

福田 或る程度は勉強していくんですけど、話にならないわけですよ。 ありがとうとか、さようならくらいは覚えていってもね。 だから、ありがとう程度の言葉でも話そうとする姿勢は買いたいんです。 日本に来ている外国の人たちは、できるだけということですね、日本語を話したり覚えたりするのがいいと思いますが。

成田 それは、実用的・現実的なことを言ってしまえば、福田さんが言ったようになるんです。 知り合いのフィリピン人で、建設労働者として柏崎に出稼ぎにやってきている人がいて、その人が僕の家に来たんですが、その時は当然英語で話をするしかないんですね。 そういう英語の効用は、これは仕方がないことだと。本音を言えばそうなってしまうんですけど。

 

ネイティヴの英語・外国語としての英語

福田 面白いのは、これは英語帝国主義論に関係すると思うんですが、フィリピンの人が来たから英語で話すというのと、英語を母国語としている英語圏の人たちと話す場合とでは、スタンスが違ってくるんですよ。

成田 全然違いますね。

福田 5年前に僕はイギリスに行っていたんですが、するとそこにはインド人や韓国人や台湾人、スペイン人やイタリア人など色々な人たちが来ている。その人たちと英語で話すわけです。 彼らは英語圏に勉強をしに来ているので英語は得意なんですが、そういう人たちと英語で話す時は、対等なんですね。 みんなが外国語を話しているわけですから。 話もよく通じるし、心理的にも対等だという感じになるんです。 そこにイギリス人が入ってきてしゃべると、雰囲気がちょっと変わったりする。 だから津田幸男さんが 『英語支配の構造』 の中で言っていたように、英語を専門に勉強してもなかなか完成の域に達しない。完成の域とは何かと言えば、「英米人のように」 ということなんですね。 職業としてやるにせよ憧れとしてやるにせよ、目指すモデルが英米モデルである。 だからいつまでたっても英米が先生であり、学ぶ者たちは生徒である。 この関係が言語だけにとどまらず、心理的なものにまで影響するという津田さんの意見はまさにその通りだと思います。 ではどうしたらいいか、というのはこれからの問題ですけれど。 英米人と話す場合より、それ以外の人と話す時、インター・ランゲージ (中間言語) としての英語でコミュニケーションする時の方がリラックスできるし、自由な気持ちになるということはありますね。

三浦 英米人は英語の専門家と言いますか、本家本元ですから。 一般に言われることですが、外国人同士がコミュニケーションする場合、英語でもそれ以外の言語でもいいんですが、自国語でない言葉で話した方が分かりやすい。 例えば日本人からみると、英語国じゃない国の人が話す英語の方がかえって聞き取りやすい。 発音もそうですし、内容が或る程度単純だということもあるでしょうけれども、そういう傾向はあるだろうと思いますね。 ただ、英語国じゃない国の人が話す英語が理想的だと考えて、国際英語とか称して、そういうものを勉強すべきだと言われる場合があるんですが、それでいいのかという問題がありますね。

成田 ジャパリッシュとかイングリックとか。 つまり日本人風の発音でいいんだと。

福田 僕はそれについては一つ意見があるんですよ。 英語学習のモデルとして、到達目標として、国際英語とかイングリックとかジャパリッシュとかを考えるのは、無理だと思うんですね。 つまり、英米モデルをきっちり示して、それに向かって学習していきますね、そうすると、日本人はもともと英米人になりきることはできないわけです。 だから日本語や日本的発想に影響された英語ができあがっていくんです。 英米モデルで勉強しても、放っておいても我々は日本人流の英語を使うようになる。 だから目標としては気品のある、decentな、bookishでも教科書的でもいいから、そういう英語を身につけていくということで十分な気がしているんですね。

成田 だから結果的にはジャパリッシュだろうとイングリックだろうと……

福田 それに劣等感を感じる必要はない。

成田 そこが大事だと思うんです。 劣等感を感じる必要はない、というところをちゃんと言わないといけない。 モデルとしては英米人の英語があったとしても。

三浦 そこはその通りだと思うんで、結果としてということですね。 外国語というのはその国の人間ほどうまくならないのは当り前ですから、結果として発音が多少おかしかろうが、言い回しを間違えようが、そんなことは気にせずにどんどんやりなさいという心構えとしてなら、いい。 そうじゃなくて、英米以外に国際英語が実体としてあって、その実体を学ぶべきだという議論が一部にあるので、これは変じゃないかと。 本当に実体としてあればいいんですけれども、実際はないんじゃないかと思うんですね。

福田 ええ、国際英語という形で整理された体系は、ないと思います、実体としては。 国際英語という概念は、各地における英語、例えばフィリピンにおける英語、インドにおける英語、日本における英語など、英語のバラエティ、そういうものを総称して言うわけで、そのそれぞれの特徴を持った英語の変種を認めていこうという方向のようです。 その存在や意義を認めていこうという発想ですね。 だからそれを学習モデルにしてやろうという国は、ないんじゃないかな。 外国語はどうしても母国語の干渉と、発想や文化的影響を色濃く持ったものになると思います。

 ただ、インドにおける英語と日本における英語は違います。持っているステイタスがね。 日本での英語というのは、お茶や生花のようなお稽古ごとのようにして勉強できるし、数学などのように一つの教科としてもあるわけです。 ところがインドやフィリピンやマレーシアなど、旧植民地では英語は生活の中に入っていたり、商売や取引に使ったりする。 そういう意味での英語のステイタスの違いはものすごく大きいと思いますね。 その違いは決定的でしょう。商売や取引で使う英語なんかは、小さな間違いを気にしてはいられないんですよね。 どんどん使わないと。 そういう人たちの英語と、さっきのようにelegantとかdecentとか言っていられる我々日本人の英語学習は違っている……

 

英語で日本社会は変わるか

成田 ただ、そう言ってしまうと、日本における英語教育には本当に緊急の必要性ってのはないんじゃないですか。

三浦 その辺は議論が分かれるところだと思いますね。

成田 社会の要請で、っていう風なことを教育審議会は言ってますけど、社会ってのは結局産業界の要請ということで、社会ではないと思いますよ、社会ってものが何かは別として。 必ずしも社会の人々が皆英語教育の必要性を認めているってわけではなくて、結局産業界だけの要請だと思うんですね。

福田 特に産業界でも外国との取引の多い、トップエリート、商社マンとかね。 だから一般の日本の小さな企業なんかに外国人と直接取引するところは、増えてはきているでしょうが、いまだ多くないと思うんです。 それがどんどん増えてきた時に、産業界としては、英語を使える人間をと……。 そういう需要は増えてくるでしょう。

三浦 さっきおっしゃったフィリピンですとかインドですとか、ああいうところは植民地体験があるわけですよね。 植民地になってしまったので、支配者としてやってきた国の言葉を使えないといけないと。 日本は過去にそういう事態はなかったので、明治時代に、新しく取り入れなければならない語彙は大抵翻訳して、日本語に置き換えてしまって、それによって高等教育をやってきたわけです。 一方植民地ですとか、今でも植民地にならなくてもいわゆる後進国の場合は、高等教育を行おうとしても自分の国の言葉でできない。 語彙もないし教科書もない。 そういう事情があるのでやむを得ず英語やなんかの教科書を使わざるを得ない。 ただ、日本は幸いにして植民地になった経験はないんですけど、いわゆるグローバル化が進むと、実質的にそれに近い状態になっていくという可能性もあるわけなんで、そうすると植民地だった国のように否応なく英語を使わされるという事態もあり得るだろうと思うんですけどね。 勿論、それに対する反発も同時進行的に起こるだろうとも思うんですが。そういう事態に英語の先生はどう対応するのか (笑) ということをうかがいたいんですが。

福田 太田雄三という人の 『英語と日本人』 という大変面白い本があるんですが、日本の明治維新以降の歴史の中で、明治の前半、高等教育を全部英語やドイツ語といった外国語でやっていた時代があったということですね。そんな時に教育された日本人は、一日5、6時間英語を聞いていた。 ところが明治の半ばから現代にかけて、高等教育ではそういうことはやらなくなった。 勿論、日本語で高等教育をやれるようにと明治の人が努力したからですね。 そうすると日本語できっちり学問ができるようになっていくことと、英語などの外国語を駆使する力が落ちていくことというのは、関係がありましてね、日本で今中教審や大学審が言っている 「英語をもっと達者になれ」 というのは、もしそれが実現するなら、日本語による様々な言語活動が弱まっていく可能性があるんですよね。 極端な話、僕の友人にいるんですが、必死になって英語をマスターするために十年間努力して、すごいレベルに到達したんですが、その間日本語を使ったり日本語で手紙を書いたりすることを反比例してやらなくなっていったわけです。 日本で日本人同士が出会った時に英語で挨拶したり会話を交わすというのが、英語を本当に駆使できるレベルなんです。 そういうことは考えられないし、そうなったら日本語による文化はどうなるか。 英語をやっていて大変難しいのは、ふだん日本語できっちりとした生活をやっていて、いざという時英語という伝家の宝刀をすぱっと抜くと、ふだん使っていない刀がそんなに切れ味がいいはずがないんですよね。 だから、しっかりした日本語・日本文化があるなら英語の切れ味が鈍くてもしょうがない、という考え方に立った方がいいと思うんです。では英語教育は何をすべきかというと、今非常に評判が悪い教養的側面なんかを再評価する必要があるし、ゆっくりでもいいから内容のあることを話したり書いたりできるようにするとか、そういう方向の方がいいと思うんですね。

三浦 成田さんはいかがですか。 つまり、もし仮に、いわゆるグローバル化の中で日本人はどうしても英語を身につけないと乗り遅れてしまう、という事態になったら――

成田 いや、その前提は成立しない(笑)。百歩譲って万が一そうなったとしたら、乗り遅れるのもいいんじゃないですか。 或いは、吉本隆明が言ってたそうですが、「絶対に原書は読まないというような倫理的な決意で、馬鹿な学者は俺のために訳していればいい」 ってーのはどうでしょう。

福田 非常によく言われるんですよ。 英語をやらないと取り残されると。

三浦 勿論、その前提が正しいかどうかについては色々考えられるんで、例えばヨーロッパにしても昔々は学問の言葉はラテン語だったんですね。 それに対して各国の民族語によって教育をやることによって民族全体の教育レベルが上がる、ただしラテン語力は落ちていく、ということはあったわけで、それはさっき福田さんが言われた日本語力と英語力の関係も全く同じでしょう。 ただその通りに今後も行くかどうかということ、これは人によって意見が分かれるだろうと思うんです。 高山博という、東大の助教授やっている方の 『ハード・アカデミズムの時代』 という本があるんですが、この方はアメリカのイェール大学に留学されて博士号をとられたんです。 最初に、あちらの大学院は非常にきつい、それに言葉上のハンディもあって非常につらかったということを正直に、こういう恥をかいたということも含めて書いておられる。 そこは面白く読んだんですが、後半は日本の大学は将来どうすればいいかという話になって、はっきり言ってアメリカ化なんですよね、この方の意見は。 このまま行ったら日本の大学には優秀な学生は誰も来なくなる、みんなアメリカの大学に行ってしまうと。 日本の大学に来るのは学力が低かったり親が貧しくて留学できない、そういう学生だけだと。で、そうならないための方策はというと、アメリカ化しかないと。 要するに徹底的にアメリカ化して、授業も、はっきりは書いてないんですが、英語でやるということを前提にしているようです。

福田 日本の大学で?

三浦 というのは、日本の大学を自由化してどんどん優秀な外国人教員を入れるし、留学生もどんどん来るようにすると書いています。 そうすると日本の大学で日本語で教育をするということを前提にしていてはそういう話はできないはずですから、英語でやることを前提にしているんだと思うんですね。 こういう意見も一方にあるわけです。

福田 日本の大学で全ての講義を英語、または他の外国語でやって日本語を使わないというのは、非常に危険というか、大変な問題だと思うんですね。 というのは、そうなると日本語で作った高等教育の概念体系が不必要になるんですよね。 マレーシアの話をどこかで読んだことがあるんですが、従来マレー語で高等教育をできなくて英語でやっていたために、七〇年頃からマレー語で高等教育をやろうという動きが出てきた。 そういう国がある。 一方日本は明治以来ずっと日本語で高等教育を作ってきたわけですね。 今、大学で全てを英語でということだと、これは本格的に英語帝国主義で、英語が日本人の知の大部分を占めてしまう、知から日本語が撤退するということになる。 日本語が 「おはよう」 とか 「これ下さい」 とかいう単なる生活言語にとどまっていき、日本語では音楽も美術も語れなくなると、いうことになるでしょうね。 つまりほとんど日本語の破壊と言ってもいいと思うんです。 だから実際、「講義英語」 と言って講義を英語で出すのは新大もやってますが、それは英語教育との絡みで出してるんですね。 もしそれを理想的なものと考えて大学の全ての授業を英語でやれば、学生たちは絶対英語が達者になる。 新渡戸稲造や内村鑑三なんかは日本語を書くよりはるかに英語の方が楽だと、言っていたそうですね。 漱石の頃から、日本語による高等教育が半分入ってきたために、漱石はロンドンに行ってものすごく苦労したけれども、それ以前の人たちは苦労しなかったんですね。 むしろ日本語で苦労した。

三浦 初めから外国語で高等教育を受けたから、ということですよね。

福田 はい。ですから日本の大学が英語ですべての授業をやるようになると、学生の英語力は飛躍的に向上して産業界は喜ぶかもわかりませんが、日本語は破滅的な状態になるでしょう。

三浦 つまりその場合、エリートとそうじゃない人の格差というのはかなり露骨に出てくるだろうという気は、私もするんです。 例えばアフリカの旧植民地なんかで、一部の現地人は取り立てられて、イギリスやフランスの大学に行かせてもらい、英語やフランス語を身につけて、自国に帰っても一応エリートとして扱われるわけです。 だけど現地に残っていた同国人との間には溝ができてしまう。 現地の人間が二分されてしまう結果になる。 そういう事態が起こる危険性というのは、非常に大きいだろうと思いますね。

福田 ソマリアという国がありますが、そこでも英語やフランス語を話せる人が指導者になり、そうでない人はなれないという話があります。

三浦 英語の先生の間で、そういう事態について例えば学会のシンポジウムなんかで話し合う機会がありますか。 つまり英語が本格的に日本の中に入り込むことによって、日本人の社会自体が変わってしまうのではないかというようなことですが。

成田 本格的に入り込むというけれど、僕はそういう前提が想像できないんですが(笑)。

三浦 それが実際に起こるかどうかは別ですけれど、仮に起こったらということを考えておくのは悪いことじゃないと思うんですが。 そういう考え方をする人って英語の先生にはいませんかね。

成田 そういう可能性は非常に低いと僕は思いますけど。

三浦 自衛隊じゃないけど(笑)、日本が仮に攻撃されたらというような――

福田 二つに分けて考えると、内村鑑三なんかは、小学校までは日本語、そこから後は全部英語なんですよね。 ところが日本の大学でオール・イングリッシュでやった場合、日本人は小中高は日本語でずっと暮らしてくる、そして大学でオール・イングリッシュになるということですね。 そういう教育を受けた日本人がどんな社会人になっていくかを考えると、まず日本語は十分話せますよね。 ところが内村鑑三や新渡戸稲造や津田梅子の場合だったら、津田さんはもう日本語を完全に忘れて帰ってきた。 子供の頃渡米したから。これは極端なケースですが、先ほどの続きを考えると、ふだんは日本語だけれどちょっと難しいことになると英語が先に出てくるという風になる、大学の教育は日本語では受けないということになると。

成田 英語の教師が日本に何万人いるか知りませんが、日本国民が皆ネイティヴスピーカーのように英語をしゃべる社会が来ればいいなんて考えている英語教師は、一人もいないと言うと語弊があるけど (笑)、ほとんどいないと思いますよ。

福田 面白いのは、意識化してそういう風に思っている人はほとんどいないんですよ。 ところが英語教師というのは一所懸命英語を教え、そして周りからは英語を話せるようにしてくれと言われているので、英語をどんどん日常でも使わせたいと思うようになるんじゃないかな。

三浦 それは教師としては無理からぬことではないかと思います。

福田 そうすると、さっき言ったマンガ的な風景ですけど、小中高の場合、友だちと出会ってこんにちわと言うか、ハーイという風に言い合うか、もう一歩進んで How are you? という風に (笑) 口をついて出るとか、そういう段階を産業界や文部省が望んでいるとすると、これはやはり無理だと思いますね、日本人には。英語教師も、そういうのは下らないと思っているけど、余り実用とか運用力とか言われると、それは無理だと分かりつつやっているような、自己矛盾に陥るというのかな――

三浦 ただ、今いわゆるセカンド・スクールが流行っていまして、英会話学校もその有力な一つですね。こないだの朝日新聞の受験特集にも載ってたんですが、慶応の学生ですか、大学に入って色々あるけど本格的な英語力はなかなか授業では身につかないから、やはりセカンド・スクールに通った方がいいと思います、なんて発言をしていたわけですね。 そういう事態が進行しますと、大学の内外から突き上げがあるんじゃないか。 すでにあるのかも知れませんが、そうするとそういう事態に否応なく対応せざるを得なくなるんじゃないでしょうか。 その時、当然英語の先生の中にはこれでいいのかという疑問も強く出てくるだろうと思います。 ですからそういう事態について本格的に議論しておくことは必要じゃないかと、まあ僕は局外者なので無責任に (笑) 何でも言えますから、そう考えるのですが。

福田 大学における英語教育というのは、全く何の意味もないんだったら、止めるべきだと思うんですよね。 ところが僕が思うに、大学でやり得る英語教育というのは、最も中心的には、内容のある英語の書物をたくさん読む、そして味わったり考えたりする。 そういうことを通じて、英語に触れ、英語が基本的に読めるようにする、これが中心でしょう。 一方で、聞き取りの練習というのも日本の大学で、いろいろな方法を駆使して十分でき得ると思うんです。 その二つが中心ですね。 話すという訓練は、難しいんですよ、大学の中で十分にやるのは。

三浦 ええ。ですから英語では、社会からの要請と、いわゆる英語学英文学の先生方がふだん自分の専門としてどういう勉強をしているかということの間に、割りに差がある場合が多いと思うんですね。 これは英語を何のためにやるのかということに絡んでくる。 昔、代議士の平泉渉と英語学者の渡部昇一が 『英語教育大論争』 という本を著しました。 これは典型的な例だと思うんですが、英語の先生でない人は、英語はとにかく使えなければ駄目である、使えるようにするにはどうすればいいかという発想から来るわけです。 それに対して英語の先生は必ずしもそういうところから発想しない。 英語を身につけることは勿論大事ではあるけれども、英語を学ぶことで他に色々得るところがあるのではないか。 例えば色々素養が身につくということもありますし、或いは外国語を読むということを通じて忍耐強さを養うとか (笑)、或いは他の言葉の文法構造に接して日本語と違う体系があるんだなということを会得させるとか、色々な効用があるんだと、そういう発想を英語の先生はする場合が多いような気がする。

成田 ただ、使える英語と言うけれど、僕は今までも使える英語を大学ではやってきたと思いますよ。 例えば英米の小説を読むのに使える英語といった。 だから使える英語と言った場合、必ずしもハーイとかですね、海外に行って車を売ったり女性を買ったり (笑)、そのような場合だけではないと思うんですね。

三浦 それは全くその通りだと思うんですけれど、だんだん世の中が産業化されるにつれて、そういう議論がなかなか通りにくくなってくる。

成田 ええ、産業界の論理だけが通っている。

三浦 ただ、非常に浅薄な議論がなされている場合はあるわけです。 例えば大橋巨泉なんかが、学校英語は役に立たないからどうのこうのといった議論をする。 この人は、何の本で読んだか忘れましたが、大学を中退したと。 なぜかというと自分は新聞記者になりたかったけれども、ある時 「この授業を受けて新聞記者になる役に立ちますか」 と先生に訊いたら 「いや、立たないよ」 と言われたので、それでやめることにしたというんですが、私はそれは非常に浅い考えだと思うんですよね。 直接新聞記者になるのに役立つことというのが箇条書き的に列挙できるはずもないし、記者になるためには色々な教養が必要なわけですから、長い目で見れば大学で学ぶことは当然記者になるのに役に立つはずです。 言うならば巨泉は車を走らせるのにはエンジンとガソリンが必要ですかと訊いたようなもので、狭い意味で実用的なところしか見ない人だなと私は感じました。 巨泉の英語論もそれと似たところがあるんですが、そういう極論は措いてもですね、産業界の要請というのは、実際に産業界に進む学生が多いわけですから――

成田 だけど産業界の論理というのは、英語をスケープゴートにしてるんじゃないかという気もするわけです。 学校英語は将来の 「役に」 立たないというんですが、それは英語だけのことではない。 他の科目でも、いったいこんなことをしてどうなる、といったことはありませんか? 

三浦 それはあるかも知れないんで、英語は不幸にして実用にもなってしまう (笑) ということがあるので、そういう意味から言えば被害者じゃないかという気がしないでもないんですが。

福田 英語は学校の教科であると同時に、世界中で使われているという技能みたいな面があります。 英語の達人と言われているような、英語の成功者たちですね、そういう人たちの多くは、特殊な環境におかれたり育ち方をしたりしているんですよ。 外国暮らしが長かったり、しょっちゅう外国に行ったりしている。 巨泉氏もそういう人々の一人ではないでしょうか。 そういう成功者たちが、同様の環境を持たない普通の庶民に対して、学校英語は役に立たないというような学校批判をやるケースが多い。 逆に津田幸男のように英語が達者な人が英語帝国主義論みたいなことを書く場合は珍しいんですね。 どちらかというと成功した者が 「この私を見ろ」 という調子で書くことが多い。

三浦 それは、英語に限らず外国語をやる人にはそういう傾向があります。 例えば明治時代は外国語を身につけるということは非常に大事だった。 学問体系が日本語の中にまだちゃんとできていなかったわけですから。 そうすると外国語が得意な秀才というのは当時で言うと西洋かぶれになりやすいし、逆に苦手な者は国粋派になりやすい (笑)、ということを何かの本で読んだ記憶がありますが、そういう構図自体は今もそんなに変わっていないような気がします。 だいたい、外国語を身につけるのが得意だというのは、言うならば自分の外のコードに身をさらして、それに馴染むのが上手な人だという言い方ができるでしょう。 外のコードに馴染むのが上手だということは、外のものの考え方にも割りにあっさり馴染んでしまう、それまでいた自分の土地を蹴飛ばして、相手の土地に移ってそれで何の痛痒も感じない、ということであると。 そういう資質を持った人の方が外国語が得意になりやすいという面があるのではないか。 だから英語帝国主義批判が英語の先生から出てこないのは (笑)、或る意味では当然のことだろうとは思うんですけれど。 ただ、最近の事態を見ていると、そうとばかりも言っていられないんで、学会なんかでシンポジウムなどを開いておいた方がいいだろうと。 津田氏は開いたらしいですがね、それはあくまで一部の方がやったということですから。 英語帝国主義論なんてナンセンスというのでもいいんですが、英語の方はちゃんと研究を重ねておいた方がいいんじゃないかと思うんです。

福田 津田氏の英語帝国主義論というような名前はさておいて、僕の中にもある無意識の自己矛盾というのか、津田氏に言わせると日本人が民族として持っている英語に対する矛盾のようなもの、それはふだんは無意識なんだけど、それを明るみに出し、意識化させる助けになればいいと彼は書いています。 しかし、最後にじゃあどうすればいいかということになると、津田氏も弱いところがあるんです。 『英語支配の構造』 の最後に何箇条か書いてありますけど、簡単な処方箋というのはないと思うんですよ。英語をマスターするという方向と、そうでありながらかつ日本語・日本文化・日本人というようなアイデンティティをがっちり保持していく方向、その双方をきっちりやれるのは、よほど意識的でないと。 あの本の中で英語かぶれの人をかなり批判しているわけですけど、確かに英語かぶれというのはいますよね。

三浦 最初の議論に帰りますが、高山博氏が『ハード・アカデミズムの時代』で書かれているような、日本の大学は外国からどんどん学者を招き、また留学生も来るようにしなければ、二流三流に没落してしまうという主張、それは必然的に日本の大学の授業を英語でやるという主張につながると思うんです。 つまり外国人学者の中で日本語ができる人というのはそんなにいないわけですし、学生ならなおさらですから、一流学者・優秀な学生をどんどん外国から呼べというんであれば、英語で授業をやるようにならざるを得ない。 それでいいのかということですね、それについてご意見をうかがいたいんですが。

成田 ますます英語を母語とする人は有利になるわけですね、学問的にも。

福田 現に、もうそういう状況が生まれている。

三浦 自然科学の方面ではもう英語で論文を書くのは当り前になってますし、文科系でもだんだんそういう状態が浸透しているようなところがあります。

成田 例えば、ドイツ文学の専門論文なんてのは、何語で書かれてますか。

三浦 ドイツ語ですね。 もっとも日本人は日本語で書くのが多いですが、これははっきり言って国内でしか読まれませんので、本格的に読まれたいと思うなら、日本人の場合はドイツ語で書きます。 ただ、英語で書かれたドイツ文学の専門誌ってのはあります。 勿論英語国で出してるんですけど、それも或る程度流通しています。 それからフランス語の雑誌も、フランスで出してるんですが、ありまして、これも多少は流通していますね。 それ以外の国の雑誌は、その国内でしか流通しないということだと思います。

 で、『英語支配への異論』 の中で中島義道氏が書いていたんですが、日本史学会が英文で雑誌を出すのはけしからんと。 つまり日本の歴史を研究するなら日本語で論文を書くのがメインになるのは当り前ではないか、日本人の側からわざわざ英語で論文集を出してやるとは何事だと怒っておられましたが、そういう事態は文系の方でも少しずつ浸透しているような気がします。

成田 それは、英語で出版しなければ相手にしてもらえないわけですよね、世界の学会から。 だから或る意味では仕方ないんじゃないかと(笑)。

福田 英語圏の人たちにすれば、独仏は親戚の言語ですから、読める人も結構いると思うんですよ。 ところが英語圏の人は学問的な日本語を読める人というのは限られていますよね。 その意味では日本語は弱い立場にある。

成田 でも日本史を研究している外国の研究者が日本語ができないわけですか。

福田 それは非常におかしいですよね。 だから日本史学会の場合は、読む人が日本史の専門家だとすると、日本語ができなくちゃいけない。

三浦 そこは、中島氏が怒るのも当り前だと。

福田 外国の人たちが、日本史に関しては、日本語を読みこなせるようになっているのが当然でしょうね。 外国人学者がどんどん日本に来て英語で講義するとなると、日本語において学問を身につけ、それを英語で理解できる、つまりバイリンガルとまではいかなくても、自分の専門分野ならば英語で理解したり意見も言えるようにと、そこまでが日本の大学生に要求されているということだね。 日本語の授業もあるけれど、外国人の先生の授業では英語で受講し理解すると。 ヨーロッパの大学なんかではそういうことをできる人が多いんでしょう。 例えばドイツの学生は、ドイツ語と英語が近いということもあるけど、英語でしゃべる人が来ても英語で応対できると思うんですよ。 日本の大学でそれをやれということですね。 母国語での知識、プラス、英語で最低限の学問的な話が聞ける、それが常識である世界を築こうということ、その点では僕は間違っていないと思うんだけど、それだけのレベルに持っていくためには英語教育は何をすべきかということになるんでしょう。 そういう機会は増えていくでしょうから。

成田 つまり、大学教育でバイリンガルな学生を……

福田 というのは、日本の大学の講義を全部英語にしろとか外国語にしろというのは、僕は反対なんですよ。 さっき言ったように、日本語の破壊、崩壊に近いと思うんですね。 学問分野からの撤退ですね。 そうじゃなくて、日本語による授業をメインとしながらも、英語による講義も聞き取り、意見も言えるようにするのが、理想なんです。 その理想に近づけるためにはどういう英語教育をやったらいいかということで、暗中模索をやっているんですが。 文法中心の教科書をコミュニケーション中心に変えてみたり、いややはり文法が大事だと言ってみたり、試行錯誤をやっている。最終的には大学レベルで、当然日本語がメインなんだけど、英語でも理解し意見も言えるという――そのレベルが理想であり、目標だと思います。

三浦 そうなると、中高の段階から英語の時間をかなり増やさないといけないと思います。 それからそもそも、これは今に始まったことじゃないんですが、日本語でも、きちんと問題意識を持つとか論理的に自分の意見を言うということができない学生が非常に多いんですよね。 日本語でできなくて外国語でできるわけがないんで、そのあたりの訓練も早い段階からしないといけない。 思ったとおりを書きましょうなんて作文の指導で言ったりするんですが、何も思ってなかったらどうするんだと (笑)。 つまり思うというのは黙っててもできるもんじゃないと思うんですよね。 作文で何でもいいから書いてみると。 書いてみて、うーん俺はこういう風に思ってるかな思ってないかなという風に逆に考えてみる (笑)。 そういう訓練を経ないと、思うということすらできないわけでしてね。 そういう訓練は中高でちゃんとやった方がいいと思います、日本語で。

福田 日本式の義務教育での授業方法の問題、国語教育の問題と比較して、欧米式の教育はどうなっているか。例えば、バカげていると思う意見でもまずは言ってみる、という教育はあると思うんです。 日本式の教育では、バカげた意見を言って恥をかきたくないし、おまけにどちらかというと先生の言うことを吸収するという方式で来てますよね。 ではバカげたことを言いたい放題言っていればよい教育になるのかというと、これも疑問なんですよね。 自分の意見を論理的に述べるという教育を小学校の頃からまとめてするというのは、これは日本文化と矛盾するとか、西洋追随だという議論とは全然違うと思います。

成田 例えばICUなんかは全部英語でやっているわけですよね。 あれは成功しているんでしょう。 新入生に集中的に英語の訓練を行って、その後全部英語でやっているわけですよ。 ICUで成功してるんだったら、さっき言ったような形もできるんじゃないかという気がするんですが。

福田 ICUは全部の授業を英語でやってるんですか。

成田 じゃないですか。 そう聞いてますけど。〔注: 後で調べたところ、ICUの英語の授業は3割程度と判明。〕

福田 それで成功しているとすれば、英語は達者になりますよ、学生は。しかしその種の成功は、日本全国の大学が同じようにやってしまうと、さっき言ったように日本語が学問世界から撤退すると思うんですよ。 つまり何かの学問的概念があるとすると、それは英語ではさっと出てくるけど、その概念の日本語は大学では教えないわけですからね。

成田 僕が言いたいのは、それがいいということではなくて、やってやれないことはないんじゃないかということです。 ICUがそれでやっているとすると。

三浦 ただ日本の大学は入試段階で或るレベル以上の学生しかとらないということをやっているわけですから、もともと入ってくる学生の質に負うところが多いのではないですか、ICUの教育は。 だから日本全国の大学でそのとおりにやったからうまくいくとは、私には思えないですね。

福田 ただ、英語というのは相当訓練的な面もあるので、例えば知能のレベルが云々というのよりも、とにかく大学に入ってきた学生に集中トレーニングをして英語漬けにすれば、知能とは無関係に相当聞けるようにはなると思うんですよ。 英語によってすごい学問ができるかどうかは別にして、聞き取れるようにはなる。現に (新潟県) 中条町の南イリノイ大学なんかは全部英語でしょう。 大変だと思うけど、それで相当聞けるようにはなると思います。

成田 でも日本語で聞いても分からないことは英語で聞いても分からないということはある。

福田 ええ。だからそういう風にすることの意義というか、結果には大変な問題があると思います。

三浦 私もそう思います。だからICUだけがやっているうちはまだいいでしょうが。

成田 でも可能性としてはできるんじゃないかということなんで。

三浦 最初に戻りますが、仮りにそうなったらどうなるかということを、英語の先生には学会レベルでちゃんと議論しておいていただきたいと思います。

福田 英語の先生は学会で、外国人がほんの2、3人しかいないのに、英文学の学会だから皆英語で話しましょうとか、そういうケースがあると批判している人もいましたけどね。 英語を使わなくちゃいけないんだという強迫観念を強く持ってしまっているんですよ。 だから今の話みたいに、大学の授業を全部英語でやったらということを言ったら、賛成するかもわからんですね。 そうすりゃ英語力は確かに伸びますけどね、それが日本にとっていいかどうか。 フランスは頑固にフランス語にこだわっているわけでしょ。 ドイツでもそうじゃないですか。

三浦 あちらの方が深刻ですよね。 英語と形態が似ているわけですし、アルファベットもだいたい共用してますから。

福田 日本にも日本文学という、日本語で書いた文学があって、伝統もある。それが要らないのかという議論になっていくと思うんですよ、全てを英語でやるということは。 第一、英語が達者になったら、日本人でも英語で小説を書いた方が楽だという人が現れますよ。

三浦 そこは善悪の問題として議論すべきですね。 無論、英語の先生ばかりではなく、我々全体がちゃんと議論していかなくてはならないと思います。

成田 これからますます英語の必要性は増大していくだろうと言われますけど、本当に必要なんでしょうかね。

三浦 じゃ、なぜ必要じゃないと思うわけですか。

成田 大学でも英語教育に対する社会からの要請として、使える英語を身につけさせろということですけど、本当に大勢の日本人が英語を必要とするんでしょうか。

福田 その議論でいくと、さっき出てきた 『英語教育大論争』 の中に平泉試案というのがあって、こう言っているんですよ。 5パーセントだったか、何パーセントかのエリートを作って、徹底的に英語ができるイングリッシュ・エリート、ランゲージ・エリートを作って、残りの一般庶民はあまりやらなくてもいいんだと。 それに対して渡部昇一氏は、英語の持っている教養的価値などを対置して、議論が噛み合わないんですよ。

三浦 成田さんはどっちの意見に近いんですか。

福田 僕はランゲージ・エリート反対なんですけどね。

成田 いや、僕はどっちの意見でも (笑)。 教室で50人相手に講読なんかやってるわけですよ。 あんまり言いたくないんだけど、どうしてこんなものを読ませているんだろうとむなしさに襲われることもあるんですけど。

三浦 なぜですか。

成田 一つには、端的に言えば、学生ができないからですね。 その結果、比較的やさしい英語で書かれた、毒にも薬にもならないようなつまらない教材を選択してしまう。 それを週1回、高々3、4ページ読むっていうのは、お互い心底つまらない作業です。 まあこんなやり方をしている私の方が問題なのでしょうが。 本当は英語の本を読む楽しさ、醍醐味を味わえるような授業にしたいのですが。 英語力も趣味も関心もバラバラな50人が相手ですから。

福田 昔、成田さんに言ったけど、名作路線をいっぺんやってみるといいなと。 一方で、そんな文学の名作を読んでいても何の役にも立たないとよく言われるけど、名作を読んでいると、英語だろうがドイツ語だろうがフランス語であろうが、感動が残るんですよ。 英語力が伸びるかどうかは別にしまして。

成田 一種の情操教育として。

福田 とにもかくにも感動を得られるものというのかな。 その点で言うと、実用本位の教科書は使っていても、時々思うんですが、1年たったらポーンとごみ箱行きだなと。

成田 いや、僕は大学生は全員が英語を勉強すべきだと考えています。 ただ言いたいのは、いわゆる社会の要請だという 「使える」 英語という奴、それを全員に身につけさす必要があるのかということなんです。 中村敬の言うように、「文化科目」 のひとつとしての英語という捉え方をすべきです。

福田 第一外国語という言い方があるけど、補助語としてね、国際補助語という、国際英語とよく似た概念ですけど、補助語として世界中の人が英語を学ぶのは悪くないと思うんです、今の状況では。 しかし日本でのメインは日本語なんだと。 それを逆転することはあってはならないと思います。 またあり得ないとも思うんだけど、今のところ――

成田 あり得ないと思いますよ。

福田 トップの連中、政府とか識者とかが、高等教育は全部英語でやれというところに行ってしまえば、逆転してしまうと思う。 日本語が生活補助語で、メインは英語だという世界になる。 勿論簡単にそうはならないでしょうが。 日本における日本語はもっと強いと思うんですよ。

三浦 平泉氏の言っていることは、現に政治の世界や産業のトップレベルでどうしても日本人でもっと英語のできるのが必要だという切実な体験から来ているんだと思うんです。 だから私は5パーセントのエリートを作るっていうのは反対じゃないんです。 ただ、エリートさえできればよくて他の人は全然やらなくていいということにはならないだろうと思うんで、多少でも、それこそ教養程度でもいいからやったらいいだろうと考えるんですけどね。

 

 

「外国語は英語だけ」でいいのか

成田 最近の学生は、英語しかないんだという捉え方をしていると思います。 例えば、授業の開講時に紙を配って、どうして英語を勉強しているのかという質問をして答を英語で書かせるわけです。 そうすると、英語は国際語だからという答え方をする学生が最近増えてきている。最近というのはここ五ないし八年くらいですが。 中には、I want to be a native speaker of English. という (笑) 傑作なことを書いてくる学生もいたりして。 彼らにとっては英語しか見えていないというのが問題じゃないかと思うんですね。 つまりこの世界には言語というものが三千とか六千とか存在するわけです。 その中で、英語しかないんだ、英語以外は勉強したって無意味なんだ、という考え方が流布しているのは、非常に危険だと思うんですけれど、ドイツ語を教えている三浦さんがそれをどう考えているかということをお訊きしたいんですが。

三浦 まず学生のことなんですけど、今学生の知的レベルが相当下がっておりまして、大学に入るまでに英語以外の、或いは英語国以外の文化に触れる機会が、昔だったら外国の小説を一所懸命に読むとかいうことがあったわけですが、そういう機会が減っていると思います。 それでもともと大学に入るまでに視野が広がる機会がなかったというのが一つある。 もう一つは、世の中の動きを敏感に察知しているという側面もあるわけで、将来大会社に就職したり出世するためには、英語を身につけといた方が有利じゃないかと。例えば今どき車の運転くらいできなきゃとか、そういうレベルで――

成田 コンピュータもそうですかね。

三浦 そうですね。 そういう、実用的なものに対する目利きも一つあると思います。 私はそれはある意味ではしょうがないんじゃないかと思っておりまして、学生が英語をやりたがるのはまあ無理からぬことであると。 であるから、それはいいんですが、ただ日本の教育体系は、高校まで英語以外の外国語をやる機会ってほとんどないんですよね。 やる機会があるとすれば大学しかない。 だから大学では英語だけで済まさないようにする義務はあるだろうと思っています。 つまり英語しかやらないことによって生じる弊害というのは、大きいかどうかは分かりませんが、確実にあると思うんですよ。 目がアメリカやイギリスにしか行かないとか、或いは外国語の構造ってのは皆英語のようになってるんだと思い込むとか、英語国の制度が普遍的だと思ってしまうとか、そういう弊害は必ずあるので、それを是正するためにはやはり英語以外の外国語をやらなければいけないと。 その機会は、今の日本では残念ながら大学にしかあり得ないわけで、ですから大学が責任を持ってきちんと二外国語をやらせることは必要だと思っています。 ただ、今、実用実用と言われているものですから、英語が一番顕著なんですけど、他の外国語も同じなんですよね。 つまり従来教養教育をやってきてさっぱり外国語が使えないじゃないかという意見が一部から強く出ている。 私はそれははっきり言って間違いだと思うんです。 つまり従来のような規模、90分授業を週2回で2年間やることで、ドイツ語やフランス語が身につくはずがない。 しかも、フランス語やドイツ語を全員が実用になるほど身につける必要はないと私は思う。 そういう必要がある人には勿論それなりの教育をすべきですけど、そうじゃない方が圧倒的に多いんだから、いわゆる第二外国語は教養としての外国語でたくさんではないか。 教養としての外国語をやることの意味は、しかしさっき指摘したように確実にあるわけですから、そういう教養の意味を大学教師が理解しておくこと、これが大事じゃないかと思っていますけどね。 ただそういう意義が分からない人というのは、外国語教師の中にもおりますので、私としてはそこが非常に残念なところです。

福田 大学で、役に立たないから教えなくてもいいんだという観点からだと、英語も矢面に立っていますけど、英語以外の外国語はなおさら厳しい目で見られるわけですよね。 やって何になるのかと。 英語の場合は、やっておけば世界中ほとんどの場所で通じることが多いので、大学の先生方の中にも、英語さえやっておけばそれでいいんだという人もいるかもわかりませんね。 僕としては、英語帝国主義というものがあるとすると、それに歯止めをかけるのはもう一つの外国語で、それを必修にし、やらないと卒業できないというくらいにやることに意義があると思うんです。

三浦 一番問題なのは、大学教師の意識だと思うんですね。 大学教師ってのは、人により様々ですけど、かなり視野の狭い方もいるわけで、そういう方は教養教育の意義を実は全然分かってない。 要するに本人に教養がないわけですよね、はっきり言って。 それは必ずしも外国語に縁がない学問ばかりじゃなくて、第二外国語の先生にもそういう方はいるのではないか。 つまり自分の専門に学生が来ればいいんだと。 例えばドイツ文学でもフランス文学でもね。そういう学生は可愛がる、だけど理科系の学生だとかにフランス語やドイツ語を教えるのは面倒くさい、やらなくてもいいんじゃないか、そういう意識の方もいらっしゃるんで、これは非常に問題だと私は思っています。 つまり日本の教育体系のことを全然考えてないんですよね。 私も、例えば高校で二外国語必修になっているというのであれば、理科系の学生は大学では必修にしなくてもいいだろうと考えてますけど、そうではないわけですから。

 

初級英語の教え方

三浦 私的なことで恐縮ですけど、息子が今年中学に入りまして、英語を学び始めたわけです。 ところが息子はもともと頭が悪いんで当然なんですが、夏休み前の試験で惨憺たる成績をとってきまして (笑)、私も何をやってるんだとかんかんに怒って、そこで初めて息子の英語の教科書を見てみたんですね。 親としては怠慢かも知れませんが。 それでびっくりしたわけです。昔私が中学で英語を学び始めた頃と比べてかなり様変わりしている。 私の記憶では、昔の教科書ではまずbe動詞の現在変化をきちんとやるところから始めていたと思うんです。 I am a boy. とかThis is a pen. とか。 be動詞の現在変化で肯定文を作り否定文を作り疑問文を作る、ということをまずやって、その後でdoやdoesを使わないと疑問文や否定文ができない動詞をやる、そういう手順を踏んでいたと思うんですが、ところが今の教科書はそうなってないんですよね。 最初からいきなりbe動詞とそれ以外の動詞が混在して出てくる。 なぜかというと、多分、実際的に使う言い回しを覚えさせることを優先すると、そういう方針でできているからだと思うんですね。 ですからAre you Ms. Green? というようなのと一緒にDo you speak English? というのが出てくる。 そのくせbe動詞は最初から系統だっては出てこなくて、例えばtheyが主語の場合はしばらく出てこないとか、doは出てくるけどdoesはずっと出てこないとか、そういう風にごちゃごちゃになっているんですよ。 ですからこれは、英語が得意で――得意というのにも色々あるでしょうが――日常よく使う言い回しを頭から覚えるのが得意な生徒、これは問題ないとして、人間の中には色々なタイプがいますから、系統だってきちんと教えてもらわないと理解できないという生徒もいるだろうと思うんです。 そういう生徒にとっては今の教科書はかなり覚えづらいし理解しづらいんじゃないかと。 しかもですね、試験問題を見てみたら、問題の出し方は昔と変わらないんですよ。 つまりbe動詞の場合はどういう風に疑問文を作るの、speakの場合はどう疑問文を作るの、というような出し方をしているわけですね。 ですから問題の出し方と教科書の内容がどうもずれている。 で、私も放っておけないので、夏休みに息子に英語を教えなくちゃと思って、最初は自分で簡単な英文を作ってこれを疑問文に直せとかやらせていたんですが、だんだん種が尽きてきて面倒くさいので、本屋に行って練習帳を買ってきてやらせたんですけれど、練習帳の方も昔私が教わった時のように、まずbe動詞ならbe動詞をきちんとやると、そういう方針でできてるんですね。 私としてはそちらの方が合理的じゃないかという気がするんですが、どうでしょうか。

成田 人にもよるでしょうが、文法主義のような形ですよね、be動詞ならbe動詞の変化をまとめて指導すると。 最近の教科書というのは僕も見たことがないんですけど、説明は書いてないんですか。

三浦 一応文法説明みたいなものは、小さい文字で出てはいるんですよ。 ただそれは目立たない書き方をしてある。 要するに本文は会話文で進行しますので、メインになるのはよく使う言い回しをとにかく覚えましょうということなんですね。

福田 僕も詳しくは知りませんが、今おっしゃったところから判断すると、我々3人は文法中心的、構造中心的な教授法に基づいた教科書を使っていたわけですね。ところがある時から、具体的な文脈を抜きにしたばらばらの文を、パラダイム・センテンスとして載せていくというやり方では使いものにならないという批判が出てきて、それに対置するものとしてコミュニケーション中心的アプローチとか、ファンクショナル・ノーショナルなんとかとか、具体的な文脈や舞台を設定して、そこでの会話やコミュニケーションを中心にするやり方で進もうという考え方が、1970年代から優勢になってきたような気がします。

成田 でもさっき三浦さんが言ったような言語材料の提示の仕方だと、よほど上手に教えないと、生徒の方で自主的に法則性を発見するだろうという風に考えているのかも知れないけれど、なかなか発見はできないですよね。 つまりbe動詞の場合は特殊だとか、そういう説明を先生が上手にちゃんとしないと。

三浦 先生は勿論教えてらっしゃるだろうと思うんですけど、何しろ教科書ではごちゃごちゃに出てくるわけですから、生徒は理解しづらいだろうと。

福田 それはものすごく理解しづらい面があるだろうというのは、言語というのは、赤ん坊が言語を覚える時には、母親がまずbe動詞を教えてそれから一般動詞を教えてという具合いに体系的な話し方をしないですよね。 それで日本人が外国語を学ぶ場合にもネイティヴが母国語を学ぶみたいなやり方で、赤ちゃんが英語を覚えるようにして学びましょう、というようなキャッチフレーズがあちこちにある。 これは間違っているんで、なぜかというと、言語の習得過程としてはその通りなんですけど、膨大なインプットの時間が必要なんですよね。 ネイティヴの赤ん坊の場合17520時間の聞き取りと、2190時間の発話時間があって、初めて英語を身につけられると言われています。 インプットからアウトプットに移るまでの膨大な時間というものを、中学の英語教育の中で実現していかないと、コミュニケーション中心の文章にさらされ続けている中から体系を自分で発見するというところに行かないんですよね。

成田 それは無理ですよ。 12歳になってから週に4時間の授業では。

福田 英語漬けになって自然に法則性を発見していくということになると、日本の今の英語の授業時間では無理だし、先生がいくらうまく説明しても難しいと思いますね。

三浦 私もそう思うんで、確かに昔私たちが教わったI am a boy. なんて使うわけないと (笑) 言われればまさにその通りなんですけど、最初の段階では多少不自然な言い回しであっても、基本的な文章構造を分からせるような文で教えた方がいいんじゃないかと思うんです。 ただ英語の教科書がさっき言ったようになっているのは、英語の先生の間でそういうコンセンサスがないからなのか、実用的な英語を身につけさせろという圧力 (笑) のためなのか、どうなんでしょうか。

福田 場面で自動的に或る文が出てくるような狙いだと思うんですね。 例えばホテルのレセプションでぱっと出てくる言葉とか、何かして欲しい時には理屈抜きに Will you?  とか Could you? とかが出てくるような。 下手にそういうのを採用すると、読解力がつかないとか、文法的知識がないということになる。 現在批判がずいぶんありますよね。

成田 勿論文法説明はちゃんとやっているはずですよね。 文法説明を抜きにしてシチュエーションごとの決まり文句を覚えるだけでは、絶対に文の構造の基本的な知識は身につかないはずですよ。 もし本当にそんな教科書を使っているんだったら、いったいどういう風に指導しているのか。

福田 日本の中学の教科書は、ひょっとしたらほとんどそうなってきているのかも知れない。

三浦 教科書にも流行みたいなものはあるのかなと、いう感じはしたんです。私としては、余りいい方向じゃないんじゃないかと。まず或る程度、不自然な文でもいいから、基本的な構造を教えて、それから実用英語をたたき込むというなら、それでいいと思いますけど。

成田 それは当然その通りです。

福田 日本人は英語下手であるという一般的傾向はあると思うんですけど、それは文法中心に習ってきたからだという批判が、もう本当に多いんですよ。

三浦 新聞の投書なんかによくある (笑)。

福田 文法が目の仇なんですよ。

三浦 それは明らかに間違いです。

成田 文法を学ばないではどんな言語だって学べないはずですよ。

三浦 要するに日常的によく使う決まり文句だけ覚えろってことでしょう。

成田 で、息子さんが使っている教科書ですが、決まり文句を暗記しなさい、口頭表現を繰り返すと、いうことですか? そういう方向なんでしょうね、中学は。

福田 文法が分からない場合は、自律的な勉強が一人でできないんですよ。 様々な場面における様々な決まり文句を覚えたとしても、そこに全く法則性というものがないわけでしょう。 ということは新しい文を全部記憶しなくちゃならないことになる。

成田 教科書ですが、発音はどうですか、カタカナで書いてある?

三浦 発音記号はまだちゃんとやってなかったと思います、今の段階ではね。

成田 いや、今は発音記号の読み方なんか教えないという話なんです。 僕は、それはそれでいい方向だと思っているんですが。カタカナでしょうね、書いてあるとすれば。

三浦 英語の発音って、難しいですからね。

福田 なぜ発音記号を教えないかというと、英語自体を勉強するのにも時間がかかるのに、発音記号を並行して余分に教えるのは大変だ、無駄だと。

成田 無意味ですよ。 英語の発音のことで言えるのは、英語というのは国際共通語だとか何とかいっているけど、非常に難しい言葉なんですよね。 つまり綴りと発音の関係が滅茶苦茶なんですよ。 それだけでも (笑)、僕は英語を共通語にすべきではないと言えるんじゃないかと思う。

三浦 まあ、或る言葉が難しいかやさしいかの判断は非常に難しいですが。

成田 ええ、簡単には言えないですが。

三浦 ただおっしゃったように、発音面と、綴りと発音が一致していないという面では非常に英語は難しい。

成田 非常に特殊な言語だと思いますよ。

三浦 それから、やたらに熟語を作ってしまうのもいけないところだと (笑) 思いますが。

成田 ええ、そこが、いつまで英語を勉強してもマスターしたという気にならない要因の一つだと思うんですが。

福田 英語の発音が難しいのは分かるんですが、ただ、通じる発音の許容範囲というのがありまして、例えば冗談に sometimes をソメティメスと読んだら分からんけど、サ・ムゥ・タ・イ・ムゥ・ズゥと言ったら何とか通じると。 だから日本式に、カタカナを読むようにフゥ・レ・ン・ドォ・リーとか言っていても、何とか通じるということを考えると、発音の基本さえはずれなければ、日本式の発音でいいわけですよ。 何も英米人そっくりの発音である必要はない。

成田 それはその通りです。

福田 確かに英語は共通語にすべきでないというくらいに発音と綴りが一致していないというのもその通りなんだけれど、かなり世界中に広まってしまっていることも確かなんですよね。 歴史的政治的にそうなっている。

 

英語学習と英米崇拝、学校英語へのうらみ

成田 そうなんです。だけどそれをそのまま認めていいのかというのは別問題で――

三浦 別問題なんで、私としては、実用的側面はやはり英語にはどうしてもあると思います。

成田 それは僕も否定しません。

三浦 英語教育は或る程度やらざるを得ないと思うんですけど、それがいわゆる英米国崇拝ですとか――

成田 いや、英米国崇拝もそうだけど、英語のみがユニヴァーサルな言語なんだという考え方、それをして欲しくないんですよね。

三浦 普遍という言葉を安易に使うのは私は嫌いなんです。 英語以外のものが普遍だというのもそれなりに問題があるわけですから。 英語が普遍じゃないんだということを同時並行的に教えることが大事じゃないか。

成田 それは英語を教えている教師がそういう考えをちゃんと持つべきだし、折りに触れて教室でも言うべきなんだけれども、そういうことが余りなされていない。

福田 一つ疑問があるんですが、さっき英米崇拝ということが出ましたが、今の新大生を見ていて、英米崇拝は昔の学生や我々の頃と比べても強いんでしょうか。

成田 崇拝というのとは違うんじゃないか。 それしかないという(笑)――

福田 僕は時々学生に、金も時間もたっぷりあったらどの国に行きたいですかという質問をするんです。 意外にアメリカ ・ イギリスという答をする学生は少ないんですよ。 答は非常にばらばらですね。 アジアやアフリカ、ドイツや東欧など色々なところが出てくるんですよ。 なぜかというと、マスメディアを通じて相当色々な情報が入ってきている。 ユーゴに行きたいとかアフガニスタンに行きたいとか――

成田 非常に浅薄な動機じゃないかと(笑)――

三浦 観光主義というんでしょうか、そういうものがテレビなんかを通じて広まっていて――

福田 浅薄かも知れませんが、英米に集中しない点にむしろ興味を持っているんですよ。 英語は国際的に使われていて役に立ちそうだという認識が学生にはありますよね。 で、アメリカは現在政治的にも経済的にも世界をリードしている。 イギリスは経済的に落ち目だったけど何となく持ち直してやっていると。 割りと醒めた目で見ている面も、学生には出てきている。

三浦 学者の方がむしろイギリス崇拝的だったりして (笑)。

福田 学生の方が割りと醒めた目で、かつ多様な目で世界を見ているかもわからないという感じがする。

成田 そうではあるけれど、現実問題としては英語ができなければという風に――

福田 そうなんですが、英語ができなければという時に大事なのは、英語をやらなければというのが、英語や英米人崇拝の方向に行くとは限らない。英語はとにかく日本を一歩出て、いきなり外国人と出会った時に英語でやれると、いう意識は強いんです。 しかしそれがイコール英語や英米人崇拝というところには案外行っていないのではないか、という感じがするんですが。

三浦 するとそれは、よくも悪くも国際英語 (笑) ということになる。

福田 国際英語という概念が徐々に出来上がりつつある、という感じもしているんです。

成田 その状況を認めていいのか、というのが疑問なんですが。

福田 僕は認めていいと思うんですよ。 ただ問題は、役に立ちそうだと思って勉強もするんだけど、なかなか実用的に使えるようにならないでしょう。そこから生まれてくるルサンチマンがどこに向けられるかというと、学校なんですよ。 学校英語ですね。

三浦 昔だったら、「数学ができないから学校が嫌いだ」 ということだったと思うんですが (笑)、最近は英語もそうですかね。

福田 役に立つ英語を学ぶ必要があると思って、中高大とやっているのに、全然役に立つようにいかないと、そのうらみつらみが意識的無意識的にかなり広くある、庶民の中にね。 だから日本中の庶民が英語に対しては一家言というか、文句があるんですよ。 飲み屋で、おっちゃんおばちゃんと話している時に英語の話が出てくると、その人たちは英語をそんなに真剣にやったこともなければふだん関心も持っていないのに、「学校の英語は役に立たないからね」 と言ったりするわけですよ。

三浦 一種の思い込みみたいなものですね。 つまり数学とか理科なら、できないのは要するに自分の頭が悪いからである (笑) というのが一番の原因だと思うんですけれど、英語の場合はそういう理由づけをしないというのが問題ですね。 英語ができなければならない、というような意識がみんなあるんでしょうか。

福田 やっぱり、あるんでしょう。 つまり英語は生きた言語で現在広く使われていると。その言語を、中高大と学んでもほとんど何にも役に立たないと思っているわけです。

三浦 だいたい学校で学ぶ科目って、そういうものですからね。 数学だって、高校で結構高等なところまでやりますけど、単に実用なら加減乗除だけで沢山なわけで、だから数学をやらなくていいかというと私はそうは思いませんので、英語も同じように考えればいいんじゃないか。

成田 だから先ほど僕もそれを言ったわけです。

福田 ところが、それを強調し始めますと、形式陶冶説というのかな、数学を学ぶのは思考のトレーニングである、英語のような外国語を学ぶのも思考のトレーニングである、ならば英語じゃなくてドイツ語やスペイン語など日本人にとってもう少し発音のしやすい言葉を――スペイン語が共通言語だったら英語よりは楽だったでしょう――やったらどうかと。 で、なぜそうしないか、なぜ英語を共通的に勉強させているかというと、英語の占めている位置からですね。

三浦 実用性ってのはどうしても絡んでくる。

福田 絡んでくる。それをなしにしたら、どんな言語を外国語として教えてもいいわけなんですよ。 英語を教えているにはそういう理由がある。 ところがその理由で、広く使われているからやっているのに、使えないと。 僕は、使えない理由というのは、使う必要性が日本人には少ないからだと思うんですよ。

三浦 必要ないというのは或る意味で幸せなことで、必要があるっていうのは、前にも出たとおり、例えば植民地になってるとか自前の国語で教育ができないとか悲惨な状況があるわけですから、そういうことを皆にもっと知ってもらいたいということになりますかね。

福田 そうなんです。 そういう歴史的な面から見ると日本は相当幸福な面があるわけです。 その裏返しとして、英語が下手だということですね。

成田 でもね、実際は英語というものが国際共通語になりつつあるんでしょうか。理念としては、そうあってはいけないわけですよ。 だから僕は理念としてエスペラントを学んでいるんです、国際共通語ですよね。 英語だけしかこの世にないという見方が大勢を占めてるんじゃないかと僕は危機的に感じてるんですけれども、英語教師がきちんとそういうことも学生に教えていかなければいけないと思ってますし……。エスペラントは、やったからといってこれはほとんど実用性はないんですよ (笑)。 でも僕は学習を続けたいと考えてます。 エスペラントそのものもヨーロッパ語にかたよっていて、共通語としては余り好ましくないのかも知れないけれども……。

(1998年8月21日)

 

 出席者紹介

福田一雄(ふくだ・かずお) 1947年生まれ。 大阪教育大学英語科卒業。 同大学院修士課程修了。 英語学専攻。 現在、新潟大学人文学部人間学講座教員。

成田圭市(なりた・けいいち) 1954年生まれ。 立教大学文学部英米文学科卒業。 同大学院博士課程満期退学。 英語学専攻。 現在、新潟大学教育人間科学部言語文化コミュニケーション講座教員。

三浦 淳(みうら・あつし) 1952年生まれ。 東北大学文学部独文科卒業。 同大学院博士課程中退。 独文学専攻。 現在、新潟大学人文学部文化コミュニケーション論講座教員。

 

座談会で言及した本、或いはそれ以外で英語帝国主義や英語国中心主義、さらに広く外国語と文化の問題について考えるのに有用と思われる本を、簡単なコメント付きで紹介します。

・津田幸男『英語支配の構造』(第三書館)1990年、1200円

 「英語帝国主義」 論争を巻き起こした記念すべき著作。 週刊 『金曜日』 でもこの特集が組まれたことがありました。 英語を学ぶ意味を考える上で必読の書。巻末に挙げられている 「英語支配からの解放を目指す新たな意識確立のための21の提言」 は、至極当たり前のことであって決して過激とは思いません。(成田)

・津田幸男(編)『英語支配への異論』(第三書館)1993年、2000円

 前著を承けて、英語教育学者 (津田)、英文学者 (大石俊一)、エスペランティスト・英語学者 (水野義明)、コミュニケーション学者 (伊藤陽一)、哲学者 (中島義道)、アフリカ文学者 (楠瀬佳子)による、英語支配への異議申立て論文を集めたもの。 現在売りだし中 (?) の哲学者、中島義道の 「英語コンプレックスを探る」 が私には一番おもしろく読めました。(成田)

・平泉渉+渡部昇一『英語教育大論争』(文春文庫)1995年(単行本は75年刊)、450円

 74年4月、自民党政務調査会に参議院議員平泉渉氏による 「外国語教育の現状と改革の方向」 と題する試案が提出された。 翌年、それに対する反論として英語学者の上智大学教授渡部昇一氏による論文 「亡国の『英語教育改革試案』」 が雑誌 『諸君!』 に掲載され、二人の論争が始まった。 一言で言えば、実用主義者の平泉氏と教養主義者の渡部氏との論争であったが、二人の言い分はともに考えさせられるところが多く、「実用 vs. 教養」 という日本英語教育界の永遠のジレンマとも言うべきテーマに多くの読者を引きつけた。(福田)

・太田雄三『英語と日本人』(講談社学術文庫)1995年

 著者は現在、カナダのMcGill大学史学科準教授(日本史)。 第1章 「江戸時代の英語」 から始めて、第4章の 「これからの英語と日本人」 に至るまで、実証的研究に裏付けられた冷静で均衡のとれた論述を展開している。日本人と英語の関わりを史的展望の中で捉え直す好著。(福田)

・本名信行(編)『アジアの英語』(くろしお出版)1990年

 全17名の執筆者からなる社会言語学的研究報告集である。 日本をはじめ、韓国、台湾、中国、シンガポール、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ミャンマーにおける英語教育、英語の地位、現地の英語の特徴などを解説している。 各国の英語の違いがわかるとともに、英語はもはや英米などの独占言語ではないことに気づかされる。(福田)

・大石俊一『「英語」イデオロギーを問う』(開文社)1990年、1400円

 一人の老(失礼!)英文学者の英語に対する愛憎の記、として大いに共感しながら読みました。 もう少しきちんと読めば、「言語の差別」 「英語=「国際語」の背景」 「言語帝国主義」 「西欧普遍主義の克服」 などを考えるきっかけとなります。(成田)

・ダグラス・ラミス『イデオロギーとしての英会話』(晶文社)1976年、1500円

 ラミスがこれを書いてからすでに20年以上も経っていますが、多くの日本人にとって、はたして 「英語の勉強がこびへつらいの型から解放の道具へと」 変わったでしょうか。 ラミスの英語授業に通ったことのある私の妻が言うには、本書で紹介されているようなアホなレッスンなどはもちろんしなかったとのことです。(成田)

・中村敬『私説英語教育論』(研究社)1980年、1600円

・中村敬『英語はどんな言語か』(三省堂)1989年、2100円

・中村敬『外国語教育とイデオロギー』(近代文藝社)1993年、2000円

 英語研究者・教師として、イギリスの歌やマザーグースを論じた著書、英和辞典、さらには、中学・高校用英語検定教科書などを執筆してきた著者が、これまで一貫して主張している点をキーワード風にまとめると、「文化教育、ひいては人間教育としての外国語教育」 となるでしょう。この3冊のうちのどれか一冊と問われれば、「反=英語教育論」 と副題のついた 『外国語教育とイデオロギー』 を薦めます。(成田)

・鈴木孝夫『ことばの人間学』(新潮文庫)1981年(単行本は1978年)、320円

 岩波新書からコトバと文化に関する著作を何冊も出している言語学者によるエッセイ集。英語を 「国際語」 とするなら、英米人の話す言語だけが「英語」 だなんて決して言えないわけで、「日本人英語」 も 「フィリピン人英語」 も認めなければいけません。 「私たちが外国語を学ぶ根本の精神を考えれば、当然外国の人は日本語を学ぶべきだ」 というのが、著者の一貫した主張です。 ついでながら、同著者の 『ことばと文化』 『日本語と外国語』 (ともに岩波新書) は、浅薄な 「実用性」 だけが外国語を勉強することの意義ではないことを教えてくれる好著。(成田)

・本多勝一『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』(朝日文庫)1993年(元の潮文庫版は1983年)、550円

 民族と文化にまつわる問題を論じた文章を集めたもの。人名表記 (当然 「姓」+「名」 の順序) や数字表記 (当然4ケタ区切り) について、はっきりとした主張がなされています。著者曰く、「合州国の小学生は生まれながらに 『国際語』 を話し、日本では中学生たちが、日本語文章のテンの打ち方さえ教えられぬまま、イギリス語のコンマの打ち方を厳重に教えこまれている」。(成田)

・小林司・萩原洋子『4時間で覚える地球語エスペラント』(白水社)1995年、2400円

 エスペラントがいかに合理的な言語であるかを理解するのに手頃な入門書。精神科医でもある著者の小林司さんは新潟大医学部在学中からエスペラント活動をしていました。 文豪トルストイはたった2時間でエスペラントを理解できるようになったが、我々凡人はその倍くらいはかかるだろう、と著者は言っています。(成田)

・三浦信孝(編)『多言語主義とは何か』(藤原書店)1997年、2800円

 英語帝国主義の反対概念が多言語主義だ、と単純には言えないが、多言語主義を理解するための基礎文献。(三浦)

・田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)1981年、631円

 タイトル通り、言語と国家の関係を考えるのに欠かせない基礎文献。(三浦)

・中島義道『ウィーン愛憎』(中公新書)1990年、660円

 ウィーンに留学し、イギリス人英語教師を手始めとして喧嘩をしまくって来た日本人哲学者の、面白さ百二十パーセントの体験記。(三浦)

・村上春樹『やがて哀しき外国語』(講談社文庫)1997年(単行本は94年刊)、466円

 著名な作家のアメリカ留学記。 アメリカに滞在している日本人エリートの芳しからぬ生態など、貴重な指摘が多い。(三浦)

・林信吾『イギリス・シンドローム』(KKベストセラーズ)1998年、1500円

・高尾慶子『イギリス人はおかしい』(文芸春秋)1998年、1429円

 最近、英国をベタほめする本が流行しているが、それに異を唱えた本。 英語国の文化は何でも素晴らしいとカン違いしている人への解毒剤として。(三浦)

・キャスリーン・マクロン『裸にされたイギリス人』(草思社)1996年、1750円

 英国に疑問を持つのは日本人ばかりじゃない。 英国に住む外国人十数人が英国批判をした本。(三浦)

・加藤淳平『文化の戦略』(中公新書)1996年、700円

 日本人が姓名を対外的に書く場合の順序など、西洋一辺倒の世界文化秩序に疑問を投げかけた好著。(三浦)

・片岡義男『日本語の外へ』(筑摩書房)1997年、4200円

 「アメリカ英語が国際語になり得たのは、その開かれた抽象性からだ」   なんてトンデモないことを主張した本。 反面教師として貴重。(三浦)

・高山博『ハード・アカデミズムの時代』(講談社)1998年、1600円

 日本の大学がおかれた危機的状況を訴えた、いい意味でエリートの苦悩が伝わってくる本だが、英語支配への現状肯定的な姿勢が気になる。(三浦)

・小谷野敦『男であることの困難』(新曜社)1997年、2500円

 フェミニズム批判としても面白い書物だが、第3部の 「外国で日本文学を研究するということ」 の章が英語帝国主義論となっていて要一読。 アメリカ人日本文化研究者の学力のなさとイデオロギー性、英語帝国主義に屈する日本人学者の卑屈さが批判されている。 なお、日地谷=キルシュネライト著 『私小説――自己暴露の形式』 への批判が入っていることも、独文学者のためにつけ加えておこう。(三浦)

 

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