年末だけど特に書きたいこともない。 というか、このこーナーで言いたいことは折に触れて書いているので、今さらという気ががするのだが、いちおう今考えていることを述べておこう。 以前に書いたこととダブっている部分もあるが。
師走の総選挙で自民党が大勝したけれど、だから世の中が良くなるとは私は思っていない。 実績がない (それどころか長持ちしない総理の先例を作ってしまった) 安倍総理に期待することはできないということはすでに書いたとおり。 安倍総理は景気を良くすると称しているけど、現在の日本の財政赤字からしてこれ以上国債を増発するのは狂気の沙汰である。 そういう古い手法はこの際やめて、ノーベル賞の山中教授のような新しい、そして景気を良くするのに役立つような研究や技術開発にカネを振り向けるのが道理というものであろう。
以前も書いたけど、最近の総理としては前総理の野田氏が有能だったと思う。 増税という、政治家がやりたがらない法案もちゃんと通した。 本来なら自民党がやるべきところ、民主党がやってくれたのだから、自民党は野田氏に足を向けては寝られまい。 ただし、民主党でも鳩山氏と菅氏はどうしようもない総理であった。 それは、自民党の安倍氏や福田氏が短期政権でどうしようもなかったのと同じである。 民主党は政権をとったのも初めてで、むろん勉強も大幅に不足していたけれど、これをいい経験として再度政権にチャレンジしてもらいたい。
国家財政が大赤字ということは、未来に大借金をしているということである。 いつまでもこういう状態が続くはずがない。 増税は誰でも嫌だが、借金漬けの財政ということは、自分の実力以上のカネを日本人が使ってきたということであり、それをそろそろ反省して改めるべき時期に来ていると思う。 少ないカネで楽しむ工夫をしていく時代に入っているのである。 ただし、新自由主義時代に金持ちに有利なように改められた税制は再度改定し、お金のある人には相応の税負担をしていただくようにする必要がある。 そして、たくさん税金を納めている人には、代わりに名誉を与える。 勲章だとか、爵位 (一代限り、公的な特権なし、ただし民間が特権を用意するのは妨げず) を復活して授与するなど。
むろん、使うべきところにはカネを使うべきで、最大の課題は少子化対策、次は若い世代の支援であろう。 ただし若い世代の支援については、やる気のない軟弱な奴にカネを振り向けても仕方がないので、例えば大学なら、今後も進学率の上昇は必至だと私は思うが、大学の実績によりランキングをつけて、上位の何割かの大学の学生には奨学金を多めに出し、そうではない大学の学生には税金による奨学金は出さず、民間の奨学金を利用するのでなければ基本的に自前でカネを調達していただくようにすべきだろう。
とは言っても、家が経済的に恵まれないなどハンディがあって進学できなかったり、或いは勉学に当てられる時間が少なくて能力はあるのにランクの低い大学にしか行けない若者もいるだろう。 そういう若者は中高段階から積極的に支援していくのがいいだろう。
あと、必要なのは憲法改正だと思う。 言うまでもなく尖閣問題が生じているからで、逆に言えば今までそういう問題が生じなかったことのほうがむしろ稀有な例だったのである。 そしてそれは偶然のせいだけではなく、超大国アメリカとの安全保障条約という傘があったからだ。 いつまでもアメリカが頼りになるかどうかは分からないし、そもそも自国の防衛は基本的に自分で考えるべきものである。
したがって憲法9章の改正は必要。 もっとも、その際に平和主義を変えることはないので、そもそも平和主義と軍隊を持つことは全然矛盾しないのだから、平和主義を掲げつつ、堂々と軍隊を持てばいいのである。 だいたい、憲法が戦後60年以上変えられていないのは異常で、日本としばしば比較されるドイツだって戦後に憲法に当たる基本法を何度も変更しているのである。 軍隊だって堂々と所有している。 ドイツを見習いなさい (笑)。
「憲法9条は世界の宝」 なんて言う奴は、精神構造的に 「天皇をいただく日本は世界に唯一の国家」 と言う奴と変わらない。 だいたい、日本国内にいてそういうことを言っていたって仕方がないわけで、平和主義が一国だけの問題ではない以上、本当に 「9条は世界の宝」 だと信じているなら、その宝を他の国も所有するように努力するのが筋と言うものであろう。 アメリカに行き、ロシアに行き、中国に行き、韓国や北朝鮮に行き、ウガンダやシリアやスーダンに行き、「日本と同じ憲法を作れ」 と力説すべきなのである。 それで成果があれば、その人の平和主義が本物だという証拠になろう。 そうでなく、国内だけでそんなことを言っている人は、引きこもりと変わりがないのである。
最後に、ネット時代に入って雑誌が部数を減らし廃刊に追い込まれる例が増えていることは今さら言うまでもないけど、今回の総選挙で保守派の知識人がそろって安倍氏をヨイショしていたのには失望した。 実績がないどころか、以前に失敗した例がある政治家をこれほどヨイショするのは異常と言うしかない。 恥を知らないということか。 或いは考えるのをやめているのか。 とすると保守派の評論家も終わっているのであろう。 どこか、本当に党派根性ではなく率直にものを言える雑誌を作るところがないものか。 最近、小林よしのりが以前とは論調を変えて批判の矛先を転換させつつあるけれど、そして私は小林よしのりの言っていることはいちいち読んではいないので新聞の広告からだけの判断であることはお断りしておくけれど、彼は安倍をヨイショする保守派論客より時代を読んでいるように私は感じている。
*シューベルト: ヨーロッパの詩人による歌曲集 第1集 (NAXOS、8.554795、2000年ドイツ録音、2002年発売、EU盤)
ナクソスから出ているシューベルト・ドイツ語歌曲全集の第7集にあたる。 全14曲を収録。
中で一番有名なのは、一般には 「アヴェ・マリア」
として知られる 「エレンの歌第3番」 D.839であろう。 この曲は歌い出しが
「アヴェ・マリア」
なのでそう呼ばれることが多いが、正確には前述のように
「エレンの歌第3番」
である。 もともとは英国の著名な詩人ウォルター・スコットの叙事詩
『湖上の美人』
に含まれる詩で、そのヒロインがエレンという女性なのであり、エレンが作中で聖母マリアに呼びかけて歌うのがこの詩句なのだ。
ところで、「エレンの歌第3番」
というからには当然ながら第1番と第2番もあるわけで、このCDにはそちらも収録されている。 これがこのCDの最大の聴きもの。 特に第1番は、有名な第3番に劣らないほど美しい。 たゆたう波にゆったり揺られながら美しい女性が歌っているかのようで、8分半ほどかかる長めの曲だけれど、聴いていると美女と二人だけで小舟に乗っているような心境になり、いつまでも波に揺られていたいなと思ってしまう。
説明の順序が逆になったが、このCDは英国の詩人というコンセプトで作られており、第1曲から第6曲まではマクファーソンの
『オシアン』
に含まれる詩、第7曲から第11曲まではウォルター・スコットの
『湖上の美人』
の詩、第12曲から第14曲まではウォルター・スコットのそれ以外の作品の詩が取り上げられ、その独訳に曲がつけられている。 いずれも有名な文学作品から採られた詩だから、シューベルトも気合を入れて作曲したのではなかろうか。
演奏はソプラノがルート・ツィーザク、バリトンがロマン・トレケル、ピアノがウルリヒ・アイゼンロール。 特にソプラノのツィーザクの声が美しい。 解説は英語とドイツ語とフランス語でついており、歌詞も原文の英語と歌われている独訳の双方が掲載されている。 昨年12月、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんの閉店割引セールにて購入
(コンチェルトさんは、諸般の事情で今もやっています)。
新潟大学人文学部は、少し前から 「人文ブックレット」 なるものを出している。 高校への出前講義のテクストとして想定されていて、50ページほどの冊子なのだが、このほどその4冊目が刊行された。
それが、下の写真にもある、井山弘幸教授による 『幽霊について科学的に考えよう』 なのである。 どうです、面白そうでしょう。
私の見るところ、一般の読書家でも読んでみたいと考える人もいると思うのだが、このブックレット、困ったことに市販されていない。 この辺、もう少し考えておくべきじゃないだろうか。
といっても新潟大学人文学部は、市販される本も出している。 私も 『若きマン兄弟の確執』 を出していただいた新潟大学人文学部研究叢書 (出版社: 知泉書館)、そしてもう少し一般書を意識した新大人文選書 (出版社: 高志書院) である。 詳しくは下記URLで。
http://www.human.niigata-u.ac.jp/category/education/publication/
ほかに、新潟大の文系大学院の組織である現代社会文化研究科が出しているブックレット新潟大学 (出版社:新潟日報事業社) もある。 私も 『〈女〉で読むドイツ文学』 を出している。
だけど、井山先生のように面白い本を書く能力がある方も多いのに、市販されない本を出すのは一考を要するのではないか、と私は思う。 もっとも井山先生のことだから、これを種にして、別途もっと厚い市販本を書くおつもりがあるのかも知れないが 。
なお、この本が欲しい方は、上記URLを開き、いちばん下にある 「お問い合わせ」 をクリックして下さい。
今年は47の音楽会に行った。
恒例でベスト10を発表するが、例年どおり、順位はなしで、開催順である。
○2/4
クァルテット・エクセルシオ 弦楽四重奏曲連続演奏会《総集編》 (りゅーとぴあ)
新潟で行われた連続演奏会の締めくくり。スタジオAではなくコンサートホールでの演奏は新鮮だった。また来て欲しい、西野ゆかさ〜ん(笑)!
○3/2 ボロディン弦楽四重奏団演奏会 (杉並公会堂)
良い意味で肩の力の抜けた演奏が絶妙だった。
○4/26 ヘルベルト・シュッフ: ピアノリサイタル (ミュンヘン:ヘラクレス・ホール)
シューベルトのさすらい人幻想曲がすばらしかった。ホールのせいもあろうけれど、音も鮮やか。
○4/29 ファジル・サイ:ピアノリサイタル (ミュンヘン:プリンツレゲンテン劇場)
上記シュッフとは違い、暖かみのある人間的なシューベルトでした。
○5/3 モーツァルト「フィガロの結婚」 (ミュンヘン:バイエルン州立歌劇場)
伯爵夫人の歌唱がすばらしい。簡潔で凝りすぎない書き割りや演出も。
○7/14 オーケストラ・アンサンブル金沢+シン・ヒョンス (妙高市文化ホール)
シン・ヒョンスはだいしホールでのリサイタルもあったけど、やはりベートーヴェンの協奏曲を弾いたこちらをとる。
○7/16 東京交響楽団第72回新潟定期演奏会 (りゅーとぴあ)
モーツァルト・プログラムで、秋山和慶さん指揮による交響曲第29番が絶妙!
○7/26 山本真希オルガンリサイタル第14回 (りゅーとぴあ)
バッハのオルガン小曲集を、元になったコラールをソプラノ独唱、少女合唱、弦楽四重奏による演奏、のいずれか(または3組のうち2組もしくは3組での演奏)で聞かせて、その直後にオルガン曲が演奏されるという形式で行われた。解説もあり、すごく贅沢なコンサートだった。
○9/23 紀尾井シンフォニエッタ東京第86回定期演奏会 (紀尾井ホール)
ピノック指揮による充実したモーツァルト・プロ。パトリック・メッシーナによるクラリネット協奏曲が忘れられない。
○12/13 トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団演奏会 (りゅーとぴあ)
諏訪内晶子さんによるサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番も含めフランス・プロを満喫。
そのほか、下記の音楽会も質が高く印象的だった。
○3/3
ユベール・スダーンによるモーツァルト・マチネ第8回 (NEC玉川ルネサンスホール)
○3/25 東京交響楽団第70回新潟定期演奏会 (りゅーとぴあ)
○4/30 ヴェルディ「ルイザ・ミラー」 (ミュンヘン:バイエルン州立歌劇場)
○7/31 井上静香と仲間たち クラリネット五重奏を楽しむ夜 (だいしホール)
○8/8 TOKI弦楽四重奏団演奏会2012 (音楽文化会館)
○9/7 イリーナ・メジューエワ 日本コンサートデビュー15周年記念 オール・バッハ・リサイタル (りゅーとぴあ)
残念だったのは、腰痛の再発で11月の東響新潟定期を聴き逃したこと。ネマニャ・ラドゥロヴィチの演奏、聴きたかった!
本日の新聞を読んでいたら、国連負担金の記事が載っていた。 2013〜15年の予算分担率を決めた決議案を国連総会で採択したという。 それによると、日本の負担率は約10,83%で、22%のアメリカに次いであいかわらず世界第2位だという。
バブルがはじけたころから経済力が低下しっぱなしの日本。 バブルのころはいざ知らず、負担率そのものは低下したとはいえ、今でも第2位とは、ちょっと解せない感じがする。 (ちなみに2000年の日本は20%を負担していたという。) 数年前 「日本はもはや経済大国ではない」 と大田弘子経済担当相が言ったくらいだから、今はもっと少なくてもいいんじゃないか。
この点で、毎日新聞と産経新聞の記事のうち、分かりやすいのは産経新聞。 各国の国連予算負担率が1〜10位まで表になっているのだ。
この表によると、3位はドイツで約7,14%、4位はフランスで約5,59%、5位は英国で約5,18%、6位は中国で約5,15%。 以下、イタリア、カナダ、スペイン、ブラジルまでがベスト10。 常任理事国のロシアは入っていない。
中国は今ではGDPで日本を抜いているはずだが、何で日本が負担で2位なのに中国が6位なのか。 国連予算負担は各国の国民総所得(GNI)により決められるが、途上国については割引制度があって、それで中国は負担が低くなっているらしい。
たしかに中国は国全体のGDPは世界第2位だが、国民一人当たりに換算するとまだまだ低い。 だから負担率は低くてもいいのだ、という理屈なら、日本だって国民一人当たりのGDPでは2011年度の数値で世界17位に過ぎないのである。 (下記URLを参照。)
http://ecodb.net/ranking/imf_ngdpdpc.html
さらに私が解せないのは、国連常任理事国5カ国のうち、アメリカ以外はみな日本より低いということ。 国連常任理事国は要するに特権を持っているわけだ。 特権を持っている国は、特権に見合うだけの負担をさせるべきじゃないか。 少なくともベスト10には入るくらいの負担はさせるべきで、ロシアみたいにベスト10にも入っていない国はさっさと常任理事国からはずしたらどうだろうか。
ノブレス・オブリージュという言葉もあるように、特権をもつものはそれだけ義務も多くなるのである。 国連ではそういう原則を採用してもらいたい。
シネ・ウインド (新潟市民映画館。新潟市唯一のミニシアター系映画館。ちなみに公立ではなく完全に民営です) がデジタル化のために寄付を求めていることについては以前も書いたけど、私は会員であり株主でもあるので、示しをつけるため (?) 本日寄付をしました。 映画を愛する皆様のご協力をお願いいたします。
詳しくは、下記URLをご覧ください。
http://cinewind.sakura.ne.jp/newsboard/newsboard.cgi?Num=2
本日は午前中、シネ・ウインドでアンゲロプロスの映画を見て、午後2時からは標記の演奏会へ出かけた。
会場のヤマハ新潟店スペースYは、ヤマハ新潟店の移転により最近できたこともあり、私としては初めて入ったホール。 ヤマハ新潟店の右脇通路を奥に進み、エレベータで7階に上がったところにある。 100名ほど収容のこぢんまりとしたホールである。
開演10分前にホールに入ったら、すでにかなり客が。 最終的には満席だったようだ。 私は7列目にすわった。
小さなホールだとはいえ、クリスマス・イブにこれだけ客が入るということは、やはりトリオ・ベルガルモのファンがしっかり育っているということであろう。 演奏の合間にヴァイオリンの庄司さんからお話があったが、来年でトリオ結成10周年を迎えるとのこと。 早いものである。
ヴァイオリンの庄司愛さんは紫、チェロの渋谷陽子さんは黒、ピアノの石井朋子さんは、最初は黒に見えたが、たぶん濃青、もしくは藍色のドレスであろうか。
ルビンシュタイン: メロディ
モーツァルト: ヴァイオリンソナタ ホ短調K.304
カサド: 親愛なる言葉 (チェロ+ピアノ)
(休憩)
チャイコフスキー: ピアノ三重奏曲
「偉大なる芸術家の想い出のために」
(アンコール)
クリスマス・タペストリー (クリスマス・ソングのメドレー)
最初に3人で演奏した後、ヴァイオリン+ピアノ、そしてチェロ+ピアノの曲が続いて、休憩。 ここまでは実質30分かからなかったが、やはり休憩後のチャイコフスキーが大曲で、当然ながらいちばん聴き応えがあった。
この後半で注目すべきはピアノの石井さんがかなり濃厚な表現をしていたこと。 第2楽章は途中で何度か区切りがあるけど、そこで顔の汗を拭くシーンも。 まあ、曲が曲だから力が入るのは当然ではあるが、今まで石井さんというと、容姿のせいもあるかも知れないが、どちらかというと淡泊、もしくは冷たい印象の演奏が多かったような気がするのだけれど、今回は見違えるような力演ぶり。 私としては汗を拭く石井さんのほうが好きだなあ
(笑)。
演奏会が終わった後、半年前にこのトリオが出したラフマニノフのCDを買った人にはサイン会が・・・・ということだったが、私は半年前の出たての演奏会で買っちゃったのだな
(音文のロビーでコンチェルト2号さんから、釣り銭の出ないようにお金を用意して・・・・笑)。
あのときはサイン会は行われなかった。 美人演奏家のサインを集めるのが趣味の私としてはサインが欲しいんだけど、こういう場合はどうすればいいのか。 三美神のごときベルガルモの皆さん、サイン難民に愛の手を
(笑)!
これで今年の演奏会はおしまい。
*諏訪内晶子: スラヴォニック (DECCA、UCCP-9630、1998年英国録音、日本盤)
先日、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の演奏会を新潟で聴いたとき、ソリストとして同行した諏訪内晶子さんのサイン会が休憩時間を利用して行われた。 私もCDを買ってサインしてもらったが、それがこれ。 付いている解説によるとデビューから3枚目のアルバムとなっているが、チャイコフスキー・コンクールで優勝したときにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のディスクを出しているはずだけど、それは数えていないらしい。 要するに、演奏家として正式に活動し始めてから3枚目という勘定の仕方のようだ。
さて、このアルバムはタイトルがスラヴォニックとなっていることからも分かるように、スラヴ系の作品を集めたものである。 まずドヴォルザークの
「4つのロマンティックな小品 op.75」、そして同じくドヴォルザークの作品でクライスラー編曲による
「スラヴ舞曲集第1〜3番」。 次に、ヤナーチェクのヴァイオリン・ソナタ、そしてブラームスのクラリネット・ソナタ第2番をヴァイオリン用に編曲したもの
(編曲はブラームス自身)、そして最後がブラームス作曲・ヨアヒム編曲による
「ハンガリー舞曲第2・5・8・9番」。 この中でちょっと珍しいのがブラームスのクラリネット・ソナタのヴァイオリン編曲版だろうか。 この曲はヴィオラ用の編曲もあり、そちらは――ヴィオラ専用のソナタは数が少ないこともあり――ヴィオラ奏者はわりによく演奏するし、私もディスクを持っているが、ヴァイオリン用の編曲のディスクは持っていないし、聴いたこともなかったのではないかと思う。
演奏は、諏訪内さんだからテクニック的にはまったく申し分ない。 ただ、もう少し激しさだとか切り込みといったものが欲しいなと思うところもある。 特にブラームスのクラリネット・ソナタは、クラリネットで演奏するとクラリネットの何ともいえない独特の音が人生の秋みたいなものを感じさせるし、ヴィオラで演奏しても、高音の派手さがないヴィオラの音がやはりしみじみした情感を生み出すのだが、ヴァイオリンの場合はそういう音色上の効果があまりなくて、単にテクニック的に破綻なく演奏していると物足りない感じが残る。
とはいえ、激しくということで言えば、最後のハンガリー舞曲は曲の性質もあってそういう面が出ていたし、最初の小曲でも曲によっては激しさが出ていたし、ヤナーチェクでもそういう部分はそれなりにあったことは書いておきたい。
ピアノはボリス・ベレゾフスキー。 諏訪内さんがチャイコフスキー・コンクールで優勝したとき、ピアノ部門で優勝している。
ボーナスも出たので、本日、ユニセフと国境なき医師団とにわずかながら寄付をしました。 (なぜわざわざ自分の寄付行為について書くかは、2005年7月29日の記述をごらんください。) 今年6月に引き続きボーナスが減っているので、ほんとうにわずかです。 すみません。
ところで、なぜか国連高等弁務官事務所からも寄付の要請が最近来たんだけど、ここには今まで寄付した実績もない。 なのに何で私の住所あてに寄付の要請が来たんだろう。 書式や、その他のところでユニセフの寄付要請と似ているので、ひょっとしてユニセフが 「この人は寄付をしてくれる」 と教えたのだろうか? だとすると個人情報保護法違反じゃないですかね。
本日、大学の事務から以下のようなメールが来た。
平成24年度「新大キャンパス・ミーティング」の開催について(通知)
平素は,教育・学生支援機構の活動にご支援を賜り厚くお礼申し上げます。
例年,教育・学生支援機構主催で実施しております『新大キャンパス・ミーティング』
(旧『学生との対話集会』)を,本年度も別紙の要領で開催することといたしました。
昨年度は,従来のやや一方通行的な対話方式を改め,学生からの意見表明を中心と
したパネルディスカッションを取り入れることにより有意義にミーティングを進め
ることができました。初めて学長にご参加いただいたこともあり,多くの好評をいた
だきました。
その際,「学長との対話時間をもっと増やしてほしい」との強い要望があり,これ
を受け,本年度は,「大学での学びや生活について語り合う」をテーマに,学生と学
長とが日々考える事ごとを話し合う場として,『新大キャンパス・ミーティング』を
企画いたしました。フランクな中にもアカデミックな語らいを通して,魅力ある大学
づくりにつながっていけばと期待するところです。具体的な進行として,まず学長か
らお話(話題提供)をいただき,そののち,学生代表者と学長との懇談をラウンドテ
ーブル形式で行い,続いてフロア参加者を交えた意見交換に繋げていく予定です。こ
の全体討議において是非とも活発な意見交換をいただくとともに,共に大学教育を作
り上げていくとの意識を共有していただければと考えております。
つきましては,貴学部の学生並びに教職員の皆さまにキャンパス・ミーティングに
奮ってご参加くださるよう,ご周知いただきたくお願い申し上げます。 〔以下、省略〕
学生と学長が話し合うこと自体は別に悪くない。 だけど、忘れていることはありませんかね、学長殿。
新潟大は単なる教育の場ではなく、研究の場でもあるはず。 また教育にしても、学生の意見だけ聞けばいいってもんじゃない。 教師の意見だって当然ながら聞くべきではありませんか?
したがって、学生と話す場をもうけるなら、最低、同じ時間をかけてヒラ教師と話す場をもうけるべきじゃありませんか? ここでヒラ教師と私が呼ぶのは、ふだん学長と会う機会がない新潟大学の教員すべてであります。 学部長だとか大学院の研究科長でないかぎり、教員は学長と直接話す機会はまったくない。 そのことは学長自身もご存知のはずですね。 そういう困った状況を改善してもらいたい、と私は申しております。
給与は一方的に減らされるは、昇任人事は滞るは、田舎にあるのに (つまり学会に出るにもいちいち都会に行かなくてはならないから都会の大学より研究にはお金がかかるのに) 研究費は独法化以降激減するはで、はっきり言いますが新潟大学の教員には不満が鬱積していますよ。 そういうヒラ教員の率直な声をまず聞くことが、学長の職務だと思いますけどね。
学部長だとか大学院研究科長などの中間管理職がそういうヒラ教員の不満をちゃんと学長に伝えているとは、どうも思われません。 だいたい、その伝で言うなら、学生の声だって学務係を通じて吸い上げればそれで済む、ということになりませんか?
したがって、学生と話す場をもうけるなら、ただちにヒラ教員と話す場も設けるべきです。 きわめて当たり前のことを私は言っているのです。 まあ、当たり前のことが通らないのが新潟大学だということは、重々承知しておりますがね。
別段、待遇の悪さを訴えたいからだけではありません。 例えば新潟大の図書館は、他大学の図書館になら当然のように入っている書籍がない場合が多いなど、研究・教育施設としての問題点が山積みなのです。 この大学のお粗末な実態をこの際、しっかり認識していただくためにもです。
*シューベルト: 友人たちの詞による歌曲集 第1集 (NAXOS、8.554799、2001年録音、EU盤)
ナクソスから出ているシューベルト・ドイツ語歌曲全集の第9集。 ショーバー、ケンナー、ブルッフマンなどの友人の書いた詩につけた曲を集めたCD。 全16曲を収録。 この中では一般にはショーバーの詩による 「音楽に寄す An die Musik D.547」 が最も有名だけど、他の収録曲もなかなかいい。 特に6曲目の、ヨゼフ・ケンナーの詩による 「歌びと Der Liedler D.209」 は13分あまりかかる大曲で、「妹よ、琴をとってくれないか、そして帽子と巡礼用の杖も、私はもうここにはいられない」 というパセティックな歌い出しで始まる佳品である。 想いを寄せた女性とは身分違いで結ばれる見込みもなく、妹も明日結婚するという状況の中で、男は巡礼にして吟遊詩人として旅に出る (こういう始まりは 「冬の旅」 なんかとも共通する)。 死を思う旅である。 しかしやがて故郷恋しさに耐えられず、琴だけを手に帰国の途につくが、雪深い故郷の山で想い人が恐ろしい狼に襲われるところを目撃し、彼女を守ろうとして猛獣とともに絶壁から転落する。 彼女のために命を捨てたのだ・・・・。 物語詩(バラード) の緊迫感と悲哀がひしひしと伝わってくる。 バリトンはマルクス・アイヒェ、ピアノはイェンス・フーア。 アイヒェの声質はやや重いが、堂々としていて、よい意味で貫禄がある。 ナクソスのシューベルト・ドイツ語歌曲全集は、歌詞が収録されておらずナクソスのHPを見るしかない場合もあるが、このCDは歌詞がドイツ語と英訳で収録されていて、お買い得。 昨年末に新潟市内のCDショップ・コンチェルトさんの閉店割引セールにて購入 (コンチェルトさんは、諸般の事情で今もやっています)。
三船敏郎と石原裕次郎が組んで制作し主演もした映画 「黒部の太陽」 は、ビデオやDVDになっておらずテレビでも放映されないので、幻の映画とされている。 その 「黒部の太陽」 の上映会が、本日から一週間、新潟市のシネ・ウインドで行われることになった。 入場料から東日本大震災への義捐金を出すということで、裕次郎夫人の石原まき子さんから特別に上映許可が出たらしい。
3時間を越える大作で、上映は一日一回だけ。 しかも昼過ぎの12時45分開始であるから、平日はとても来れない。 私は日ごろはなるべく混まない日や時間帯を選んで映画を見るのだが、今回はやむを得ず、初日である本日土曜日、万代シティ・バスセンターの立ち食い蕎麦屋で好物のイカ天ぷら・うどんを食ってから、上映開始の20分ほど前にシネ・ウインドに向かった。
前売り券は買ってあったが、行ってみたらロビーをはみ出して行列が並んでいる。 やばい、入れないかも、と思いながら行列の最後尾についた。 すぐに入場が始まって、どうにか座ることはできたが、定員が90名に満たないシネ・ウインドは珍しく満席で、補助に折りたたみ椅子も出す盛況ぶり。 いつもこのくらい客が入っているとシネ・ウインドの経営も楽だろうなあ、と思う――私もいちおうシネ・ウインドの株主ですので。
とはいえ、客は中高年が多い。 若い人もいないではないけど、少ない。 映画館で日ごろ見ることができない大作を鑑賞する、って意識が若い人には希薄なんだろうなあ。 今時の若者は映像に慣れ親しんだ世代で、またパソコンの発達と浸透により個人が気軽に映像を作れる時代になっているが、逆に作品としての映画への思い入れは希薄化しているのかも。
上映に先立って、NCV新潟センターの社長からあいさつがあった。 スポンサーであるらしい。 だとすると、もっと人が入ってもいいのではないか、と思わないでもない。 シネコンの200人くらい入る大ホールが満員になる、そのくらいの客が押しかけてもおかしくない気がするけど、三船や石原の名前も知らない若者も多いだろうし、新潟のコアな映画ファンはこの程度しかいないということなのかもしれない。
それはさておき、今週金曜日までですから、興味のある方はお早めに。
*
この日は、映画の後で午後6時半開演の標記の演奏会に出かけた。 会場はりゅーとぴあ。
この日は午前中が雨。 午後も雨だったらバスでと思っていたのだが、映画を見終えて外に出たら雨はやんでいたので、歩いてりゅーとぴあへ。 ロビーで1時間ほど本を読んで時間をつぶしてからコンサートに臨む。
会場の入りは、通常の東響新潟定期よりは少し悪いものの、一昨日のトゥールーズよりは少しいいかな、というくらい。 座席は2階BブロックのCブロックに隣接したあたり。
指揮=河内良智、ハープ=藤木沙織
(賛助)、ピアノ=田中幸治 (賛助)
シューベルト: 序曲 「キプロスの女王ロザムンデ」
チャイコフスキー: バレエ音楽 「白鳥の湖」 より抜粋
(休憩)
プロコフィエフ: 交響曲第5番
(アンコール)
リムスキー=コルサコフ: クリスマス・イブのポロネーズ
一昨日のトゥールーズはフランス・プログラムだったが、新大オケは、最初のシューベルトは違うものの、メインはチャイコフスキーとプロコフィエフだから事実上のロシア・プログラムである。
すでに新大オケのコンマスとしておなじみの伊野晴香さんが団員の最後に登場。
編成であるが、最初は少なめの人数だったのが、チャイコフスキーではいちおうフル・メンバーかと思ったけれど、弦楽器奏者の数が、左から第1ヴァイオリン10、第2が10、ヴィオラ12、チェロ8、コントラバス7となっていて、ヴィオラが多いのに比してヴァイオリンがやや少なめ。 最後のプロコフィエフでは、第1ヴァイオリンが1人増えたが、ヴィオラも1名、チェロは3名増。 それで音のバランスがひどく崩れたというわけでもないが、こうした人数の多少の不揃いは、クラブ員の数に左右される学生オケの宿命なのかもしない。
閑話休題。
演奏はかなりいい線行っていたのでは。 目立ったミスもなく、それぞれ曲の特質をよく表現していた。 チャイコフスキーではコンマスの伊野さん、チェロ首席の阿部さんの独奏も見事。
最後のプロコフィエフの交響曲第5番は、プロのオケでもあまり取り上げない曲だけど、立派に演奏して、力量を示してくれた。 この曲では特に管楽器陣の健闘が光っていた。 また、新大教育学部准教授で、新潟市でもコンサート活動をしておられるピアノの田中幸治先生が賛助出演されていた。
新大のオケはほぼ毎年聴いているが、今回の演奏はここ何年かの中でもレベルの高いものだったのではないだろうか。 また、チェロ首席の阿部さんを初め、私の教え子も数人加わっていて、私はあんまり模範的な教師でもないけれど(汗)、教え子の大活躍には鼻高々であった。
最後のアンコールでリムスキー=コルサコフが演奏され、やはり今回はロシアものの演奏会なんだと再確認したような形での幕切れとなった。
本日は夜7時からの標記の演奏会に出かけた。 会場はりゅーとぴあ。 開演30分前に到着したが、本日はりゅーとぴあでも県民会館でもほかに催し物がないせいか、駐車場はいつになく空いている。
客の入りは、ふだんの東響新潟定期より幾分悪いくらいか。 正面席はまあまあ入っていが、脇席は入りがイマイチ。
私には珍しく、2階正面Cブロックで聴く。 NパックメイトのみSランク8000円という特別価格だったからだが、今回のコンサートではSランク席の範囲がかなり広かったよう。 しかもチケットを購入したのが遅めだった (先日のツィメルマン公演のとき) のに、Cブロックの席が買えたのだから、あまり売れてなかったということか。
指揮=トゥガン・ソヒエフ、ヴァイオリン独奏=諏訪内晶子
ベルリオーズ: 序曲 「ローマの謝肉祭」
サン=サーンス: ヴァイオリン協奏曲第3番
(休憩)
ベルリオーズ: 幻想交響曲
(アンコール)
ビゼー: オペラ 「カルメン」 から第3幕への前奏曲
ビゼー: オペラ 「カルメン」 から第1幕への前奏曲
最初のベルリオーズの序曲を聴いて、「おっ、行けそうだな」 と思う。 音がよく出ていて、気合いが入っているのがよく分かったから。 弦は左から1ヴァイオリン16、第2が14、チェロ10、ヴィオラ12、ヴィオラの後ろにコントラバス8という編成。 手抜きなしの大編成である。 コンマスはポニーテールの女性。
次に諏訪内さん登場。 黄金色のドレス。 といってやたら派手派手しい感じではなく、落ち着いた印象。 諏訪内さんを生で聴くのはこれで4回目、協奏曲では3回目だったかな。 オケの編成はかなり縮小。 左から12−8−6−8−4か。 コンマスも序曲の女性が引っ込んで、その脇にいた髪の毛の不自由な男性に代わった。 ソリストが女性でコンマスも女性だと両雄並び立たずになるからかな、なんて考えたのは忖度のしすぎか(笑)。
最初低音で独奏が入るところ、音がしっかりと出ていて、うん大丈夫だなと思った。 第1楽章は、歌わせるところではテンポがゆっくりめで、急がずじっくりとした演奏。 なかなかいいんじゃないか。 それと印象的だったのは第3楽章の最初。 きりっとした音で開始し、これで決まったねと思った。 同時に、CD買ってサインもらおうと決める。 アンコールがあればいっそう良かったんだけど。
休憩時間にCDを買って行列に並んだが、諏訪内さんがなかなか出てこない。 着替えに時間がかかっているのである。 10分くらいしてようやく登場。 行列はかなり長かったので休憩時間内にサインが終えられるのかなと懸念したが、サインのスピードがすごく速い。 ヴァイオリンの技巧の優れた方はサインも速いということ・・・・なんだろうか。
さて、後半の幻想交響曲では編成は最初に戻り、コンマスも再度女性に。
ここではこのオケの厚みとエネルギーが遺憾なく発揮された演奏だったと思う。 あえて注文をつければ第2楽章はもう少し優美にやってくれないかなと感じたが、東響と比較して弦が、個々の楽器の音に少しずつズレがあるのか、美しさでは劣りますが、厚みと力強さが目立っている。 管楽器もきわめて堅実。
日本ではオケというとまずドイツ語圏というイメージが強いわけだけど、こうしてみるとフランスのオケの実力もバカにならないなと思ったことであった。 ここ何年か、新潟には秋になると決まって東欧のオケが来演していつも似たようなプログラムの演奏会をやっていたわけだけど、今回こうしてフランスのオケによるフランスものの演奏会が開かれてみると、非常に新鮮味が感じられる。 この実力で、S席8000円は安い! りゅーとぴあに感謝!
さらにそのあとアンコールを2曲やってくれたが、こういうサービス精神がうれしいよね。 というわけで、きわめて満足度の高い演奏会であった。
番場俊 (ばんば・さとし) 先生 (新潟大学人文学部准教授で、私と同じ講座に所属) が新著を出版された。 番場先生は1969年のお生まれで、ロシア文学と写真論を基盤にしつつも表象文化全般にわたって広い見識を有し、新潟大学人文学部を代表する俊英と目されている方であるが、ようやく一般向けの本を上梓されたことは喜ばしい。 ドストエフスキーに興味のある方はぜひ!
総選挙の争点はいろいろある、というか、現在の日本がかかえる問題はいろいろあるわけだが、私見では最大の問題は財政でも原発でも経済でも国境紛争でもなく、少子化問題である。 多数の老人を少数の働き盛り世代で支える構図そのものが不自然で、どう見てもいい結果が出るわけがないからである。 また、他の問題は少子化問題にリンクしている場合が多い。 例えば経済なら、少子化は必然的に教育産業を縮小化するし、学歴など若者間の競争の沈静化は日本人のエネルギーを削ぐ。 例えばの話だが、最近、囲碁の世界で日本は中国や韓国に歯が立たなくなっているけれど、これなんかは日本人のエネルギーがなくなってきていることの端的な表れじゃないかと思う。
私は、人間は税金を2種類払いながら生きていくものだと思っている。 ひとつは金銭の税金、もうひとつは子供を生み育てるという税金。 後者は将来の社会を支える人間を育てるということだから、これも一種の税金なのである。 したがって子供を生み育てない人は1種類の税金しか支払っていないことになる。 むろん、いろいろ事情があって子供を作らない人 (作れない人) もいるのは分かる。 そういう人は、したがったお金の税金をたくさん支払っていただくことで代用するしかないだろう。
しかし今の日本の社会は子供を生み育てている人間にとって金銭的にも時間的にも不利にできている。 これは早急に是正しなくてはならない。
よく言われるのは保育施設の整備などで、たしかにこういう公的な施設は整っているとは言いがたいから、政治家にはがんぱってもらいたいが、それ以外では、少なくとも子育てが (とりあえず時間的には仕方がないとして) 金銭的には不利にならないような対処であろう。
具体的には、子供がいる家庭には大幅な金銭的援助をすること。 民主党政権下での子供手当てには 「ばらまき」 などの批判が出たが、私に言わせるなら子供のいる家庭にはどんどんカネをばらまくべきなのである。 子供がいると儲かる、裕福になる、というくらいにばらまくべきなのだ。
現代において、子供を育てるにはカネがかかる。 昔のように義務教育を終えたらさっさと働きに出せば済む時代ではない。 私もすでに二人の子供に大学教育を受けさせて卒業させたけど、大学4年間の仕送りと学費負担は (一人は地方私大文系、一人は首都圏国立大理工系) それぞれ1千万円近くかかっている。 職場からは子供扶養手当が出るし、税金も多少安くはなるが、むろん4年間で1千万近い金額には到底ならない。 大学進学率5割の時代に、これじゃ少子化になるのは当たり前なのだ。
したがって、子供のいる家庭には扶養手当をたくさん出し、税金も大幅に安くするようにすることが肝要である。 財源は、逆に子供のいない人に重税を課せばよろしい。
また、子供がいても1人だけでしかも稼ぎは夫婦いわゆる2馬力なんて家庭もかなり経済的に楽なほうだから、こういう家庭からはやはりそれなりに税金をとることである。 むろん夫婦が二人とも派遣で合計の稼ぎが少ないというような家庭はこの限りではない。 要は家庭ごとの収入と子供の数を見比べて、収入が多いのに子供がいなかったり1人しかいない家庭からは重税を、逆の家庭には子供手当てを、とメリハリをはっきりつけた政策をとるのが妥当であろう。
こういう政策をとったからといって、すぐに少子化が改善されるとは私は思っていない。 中島かおり 『なぜフランスでは子どもが増えるのか』(講談社現代新書) を読んでも分かるが、ヨーロッパでは日本よりずっと以前から少子化に悩まされており、そのための方策はいろいろ取ってきているが、或る政策をとったからすぐに少子化が劇的に改善されるということはないのだ。 同じ政策でも時代により効果があったりなかったりするという。
しかし今の日本は少子化問題に明らかに対応が遅れており、子供を育てている家庭に対してあまりに冷たい。 私は、これは一種の社会的不平等だと思う。 そうした不平等は早急に是正するのがまともな政治家のやるべき仕事であろう。
本日は夜、ワーナーマイカル新潟に映画を見に行った。 007シリーズの最新作 『スカイフォール』 であるが、観客は私を入れて5名のみ。 ワーナーマイカル新潟でいちばん大きなホールに、たった5名の観客。 おまけに私はポイントカードに6回分のスタンプがたまっていたので無料で鑑賞。 これで採算が取れているのか、他人事ながら気になった。
もっとも、説明はそれなりにつく。 まずこの映画は新潟市内のシネコン4館がすべて上映していること。 観客がその分拡散しているし、いくら新潟市が政令指定都市だって、そしていくら 「007」 が知名度といい人気といい文句なしの映画だとはいっても、4館上映ってのは過剰供給でしょう。
また、ワーナーマイカルはユナイテッドに比較してサービスが悪い。 ユナイテッドなら一週間に2回千円デーがあるのに (メンズデー、レディスデー、カードメンバーズデー)、ワーナーマイカルは学生ではなくシニアでもない男性なら月に3回しか千円デーがない (毎月1日、20日、30日)。 座席だってユナイテッドのほうがゆったりとしていて快適だ。 だから同じ作品を見ようとするならユナイテッドのほうにたくさん客が行っているだろうことは容易に想像がつく。 (私個人のことを言えば、9月で60歳になり常時1000円のシニア料金で見られるようになったので、距離的に近いワーナーマイカル新潟に行く頻度が以前より高くなっているけど。)
とはいえ、こういう悲惨な入りを見ると、やはり新潟市にシネコン4館ってのは過剰だなと痛感する。 4館合計で30を超えるスクリーン数になる。 そもそも、シネコンが進出する以前の新潟市には10を少し超える程度のスクリーンしかなかったのだから。
で、こういう状況を打開するにはどうすればいいかというと、いつも言っていることだが、新潟の映画上映状況の劣悪さを改善することである。 他の大多数の県庁所在都市には来ている映画がなぜか新潟市には来ない場合が多いことは従来からこの欄で何度も訴えている。
もっとも最近は少しよくなってきている感もある。 先月上京したとき 「たぶん新潟には来ないだろう」 と思って見ておいた 『アルゴ』 や 『チキンとプラム』 は、かなり遅れてではあるが新潟市での上映が決まっている。 『アルゴ』 は1月にユナイテッドで、『チキンとプラム』 は2月にワーナーマイカル新潟南で上映の予定である。 また、現在ワーナーマイカル新潟南で 『声をかくす人』 をやっているけど、これなんかも従来の新潟市なら来なかった可能性が高い作品だと思う。
そのほか、来ないんじゃないかなと思っていた 『マリー・アントワネットに別れをつげて』 は2月にユナイテッドで上映されるし、『砂漠でサーモンフィッシング』 は、たぶん東京での人気のせいだとは思うけど、急遽ユナイテッドで1月に上映されることが決まった。 『その夜の侍』 も、期日未定だけどTジョイ新潟万代での上映が決まっている (首都圏では11月公開、新潟公開期日も早く決めてほしい)。
また、長岡出身の五藤利弘監督による 『ゆめのかよいじ』 は全国に先駆けて長岡市と新潟市で上映されている。 こうした、撮影地域で優先して上映される映画は、例えば石川県で撮影された 『リトル・マエストラ』 など、増える傾向にあるようだ。
さらに、演劇やコンサートライブを映画として上映する傾向も強くなっている。 映画館はいわゆる映画作品だけのものではなく、さまざまなライブ公演をとりこんだ総合的な映写施設に移行しつつあるのかもしれない。
とはいえ、映画館というくらいだから本家本元の映画作品をちゃんと上映してくれないと困るのである。 新潟市の映画館の課題は、首都圏で上映されながら新潟には来ない作品をなくすこと、また首都圏から2〜3ヶ月も遅れて上映されるような状態を解消し、同時上映は無理でも、せめて1ヶ月遅れ程度にとどめるよう努力して欲しいということである。
今現在で私の個人的な希望を言うと、まもなく岩波ホールで上映されるアルベール・カミュ原作 『最初の人間』 がまだ新潟市での上映が決まっていないから、どこか持ってきてくれないかな。 近隣では、福島市、仙台市、山形市、金沢市、松本市などでの上映はすでに決まっておりますぞ (作品サイトによる)。 言うまでもなくこれらの中で新潟市より人口が多いのは仙台市だけ。 新潟市の映画館業界の奮起を期待したい。
事務に頼んでおいた来年の手帳が来ているというので、取りに行く。 500円なり。
むかし、手帳とは買うものではなくもらうものであった。 むかしとは、教養部があり、私がドイツ語教師として勤務していた時代のことである。 ドイツ語の教科書を出している出版社が2社、毎年12月になると手帳を送ってくれた。 そのほか、文部省の共済組合からも手帳が配布されていた。 いずれも無料である。
この中で、S社が送ってくれる手帳が最もデラックスなので、これを使うのが常であった。 黒い革張りで、加えて金箔のローマ字で私の名が刻み込まれている。 S社はあらゆるドイツ語教師にそれぞれの名を金箔で印字した手帳を送付していたのだ。 今から考えるとずいぶんお金がかかったと思うが、その分はドイツ語教科書の代金に跳ね返っていたはずである。 つまり、学生の負担ということですね。 すみませんでした。
しかし、日本の大学設置基準が大綱化され、教養部が解体し、第二外国語が急激におろそかにされていく過程の中で、S社は手帳を送ってこなくなった。 同じく、もうひとつのドイツ語教科書出版社であるH社も送ってこなくなった。
で、仕方なく文部省共済組合が配布する手帳を使うようになったのだが、これもやがて国家公務員に関する経費節減のあおりを受け、無料配布は廃止され、希望者はあらかじめ事務に申し込んで、500円を払って購入することとなった。 世の中、世知辛くなっているということである。
500円でも、まあ安いと言えば安い。 同じものを文具店で買えばたぶんその倍くらいはするだろう。
もうひとつ、これに類したこととして、国家公務員用の宿泊施設が縮小されてきているということがある。 昔は共済組合の宿泊施設が各地にあって、例えば私が30年近く前に結婚して新婚旅行に九州に行ったときには、格安の値段で宿泊したものである。 今はそういう施設自体が少なくなっているし――例えば新潟市の共済施設は10年ほど前に廃止された――残っているところでも宿泊料金はあまり安いとは言えなくなっている。 むかしならどんなに安いビジネスホテルでも共済の施設に比べれば高かったが、現在ではビジネスホテルのほうが安いケースが少なくない。
むろん今は安価なビジネスホテルがたくさんあるから、無理にそういう施設を維持する必要もないわけではある。 ただ、時代が変わっていることに多少の感慨を催しているに過ぎないのだが。
本日は標記の演奏会に出かけた。 午後5時開演。
りゅーとぴあコンサートホールの入りは、半分弱くらいか。 演奏者の手の見える、舞台に向かって左側は結構入っていたが、右側はがらがら。 世界的なピアニストの公演であるが、プログラムがちょっとアレなので、入りはこのくらいでも仕方がないのだろうか。
私と家内は、DブロックのCブロックに近い席。 これでAランクでNパックメイト価格が6750円 (1人あたり)。 最近のりゅーとぴあのピアニスト公演では、Dブロックは鍵盤を弾く手が見えるからということからかSランクで、反対側のBブロックは逆の理由からAランク (或いはB) になることが多かったような気がするが (ルイサダの時なんかそうだった)、今回は設定が良心的。 でも、そのせいか、Cブロックはあまり客がいなかったような。
それから、ランクがいちばん下で安価だからか、AブロックとEブロックの背後寄りの三分の一くらいに客がたくさん入っているのだけれど、思うに、設定としてAブロックとEブロックは全体でいちばん安い席に設定してはいかがだろうか (或いは、演奏者の手が見えないAだけでも)。 同じブロックの中の限られた部分に客がぎっしりで残りは閑散というのは見栄えがよくないし、新潟ではツィメルマンの公演でもルイサダの公演でも満席にはならないのだから、お金がなくても聴きに来てくれる人に少しでもいい条件の席にすわれるようにして上げるのが、良心的な設定だと思うが。 ご検討をお願いします。
ドビュッシー:
版画 1.パゴダ、2.グラナダの夕べ、3.雨の庭
ドビュッシー:
前奏曲集第1集より 2.帆、12.吟遊詩人、6.雪の上の足跡、8.亜麻色の髪の乙女、10.沈める寺、7.西風の見たもの
(休憩)
シマノフスキ: 9つの前奏曲op.1より、第1番ロ短調、第2番ニ短調、第8番変ホ短調
ブラームス: ピアノソナタ第2番
さて、演奏であるが、私には前半より後半のプログラムが楽しめた。 まず、シマノフスキの前奏曲3曲。 これは初めて聴く曲ばかりだったが、清冽でとてもよかった。 シマノフスキというとヴァイオリン曲のディスクだけ若干持っている程度だったけど、ピアノ曲も悪くないなと。
次のブラームス。 ブラームスの若書きの曲で、シューマン夫妻を訪れてその前で演奏したという曰く付きの曲でもある。 女房に聞いたところでは音大生はわりにやらされる曲なのだそうだが、実演で聴く機会は多くない。 今回聴いてみて、若いブラームスの前衛的な意志と、若さ故の情念の不揃いな表出が印象的で、ツィメルマンが取り上げる気になったのも分かるような気がした。 ブラームスは若いときを除いてピアノソナタを書かなかった人だが (ヴァイオリンやクラリネットのソナタは書いているのに)、ピアノという楽器を用いてソナタ形式で書くのに何か違和感があったのかな、という気がしてきた。 もっとも、ベートーヴェン以降はシューベルトを別にすれば、ショパンもシューマンもピアノソナタは書いたがベートーヴェン的な意味でのソナタにはなっていないから、この辺はロマン派共通の問題なのかも知れない。 何にしても、そういうふうに色々と考えさせてくれる演奏であった。
前半も悪くはなかったが、私はドビュッシーのピアノ曲にはあまり趣味がないというか、よく分からないので、まあこんなものかなと思いながら聴いていた。 昔、某評論家が 「ドビュッシーを聴いていると、このくらいなら俺でもできるかなという気がしてくる」 と書いていたが、私も時々だけどそう思う。
アンコールがなかったのが残念。 ピアノリサイタルでアンコールがないのは珍しい。 むろんケチったわけではなく、それなりに完結した演奏会だからとツィメルマンが考えたからだろうけれども。
*サムエル・シャイト: ラブラトゥーラ・ノヴァ第2巻 (DG、MDG 614 1497-2、2008年発売、ドイツ盤)
シュッツ、シャインと並びドイツ3大Sの一人とされるシャイト (1587〜1654) の鍵盤楽器のための曲集である。 1624年、ハンブルクでの出版。 弾いているのはフランツ・ラムル (Franz Raml)で、曲によりチェンバロまたはオルガンを用いている。 タブラトゥーラ・ノヴァについては今年の6月26日のこの欄で同曲の別のCDを紹介した際に簡単に触れているので、そちらをお読みいただきたい。 こちらは2枚組で、第2巻と銘打ってあり、タブラトゥーラ・ノヴァの全集を目指しているらしい。 ただし私は第1巻と第3巻は未購入。 このCD、2枚目が面白い。 曲としては6曲入っているのだが、いずれも基本になるテーマ (メロディ) は同じなのである。 素朴なメロディを基盤にして、さまざまに変奏をしていくシャイトの作曲技法が味わえる。 解説によるとシャイトもスウェーリンクからの影響を大きく受けているという。 また、この曲集は、自分で鍵盤楽器を学ぶ人のためにもなるように作られているのだそうだ。 シャイトの自作曲だけではなく、賛美歌の旋律も利用されているという。 解説は英・独・仏でついている。 昨年末、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんの店じまい割引セールにて購入 (コンチェルトさんは諸般の事情でその後もやっています)。
京大の組織問題についてはこの欄の11月14日でも西山教行先生からの情報をお知らせしたが、その後、西山先生から続報が入ったので、以下でそのままお伝えする。
*
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あるいは新聞報道等ですでにご存知の方もおられるかと思いますが)京都大学総長・執行部は、来年4月の開設を目指して、京都大学「国際高等教育院」(仮称、以下「教育院」)なる組織の設立を計画しています。
これに対し、現在人間・環境学研究科教員の有志が学内で反対の運動を展開しており、またウェブサイトを開設して情報発信を行っています。
http://forliberty.s501.xrea.com/
これは単に京都大学のみのローカルな問題ではなく、すべての大学関係者にとって、学問の自由あるいは自律性という理念の根幹にかかわる問題であると考えられますので、あえて皆様にお知らせし、注視していただくようにお願いする次第です。
詳細については、上記サイトをご覧いただければ幸いでが、以下、なるべく簡潔に、問題の背景をご説明します。
「教育院」は、京都大学の広義の教養教育(基礎教育・外国語教育を含む)の企画・実施を、従来企画を担当してきた高等教育研究開発推進機構、および実施を中心的に担当してきた人間・環境学研究科と理学研究科に代わって、担う組織とされています。
「教育院」は、約200名の教員を擁する大きな組織として計画されていますが、その人員は、研究や専門教育ではなく、もっぱら教養教育を本務とするものと想定されます(「研究するなとは言っていない」と総長は言っていますが)。そして、その人員の約半数を、人間・環境学研究科の現135ポストの大半である96ポストを異動(当初は兼担)させることによってまかなおうとしています(理学研究科からは27ポスト)。
このような計画は、端的に部局自治権(とくに人事権)の重大な侵害であるのみならず、人間・環境学研究科・総合人間学部ひいては京都大学全体の研究・教育体制にきわめて深刻な悪影響を及ぼす可能性があり、人間・環境学研究科教授会は、9月27日に、この計画に強く反対する旨の決議をしています。
上記サイトでは、京都大学教職員や卒業生・一般の方々で,私ども有志の趣旨にご賛同いただける方のご署名も受け付けています。情報を吟味の上、もしご賛同いただける場合は、ご協力をどうぞよろしくお願いいたします。
3日前のことだが、毎日新聞を読んでいたら新潟地方版に、近く公示される衆議院選挙で連合新潟が新潟五区から立候補予定の田中真紀子を支持すると決めたというニュースが載っていた。
私は愕然としましたね。 先日も文科大臣として大学認可の件で独走して天下に恥をさらした人物を、なぜ労働者の代表である連合が支持するのか。 民主党所属だからということなのだろうが、そもそも田中真紀子はもとは自民党所属だったわけで、それが民主党に移ったのはあくまで本人の事情であり、政治的な信念などからではあるまい。
政治家として無能で、お嬢様育ちゆえに労働者層への理解も薄いと思われる人物を支持するとは、連合新潟は何を考えているのか。 民主党ならどんな輩でもいいと思っているのか。 だとしたら連合新潟はバカの集まりだと言われても仕方があるまい。 愚かであることが明々白々である政治家を愚かなままに支持するのだから、バカそのものである。 これだから日本の政治家は質が向上しないんだよ。
なお、今回の大学認可の問題では、やり方はともかくとして大学は多すぎるから田中真紀子の考え方自体は間違っていないとする見方もあるが、本日の毎日新聞に掲載された金子元久・筑波大教授へのインタビュー記事からも分かるように、大学進学率が上がっているのは日本だけではなく欧米先進国に共通して見られる現象であり、大学という制度自体が、昔のような学歴エリート養成の場から変化していると見るのが妥当なのである。 (なお金子元久氏へのインタビュー記事は下記URLから読めます。)
http://mainichi.jp/select/news/20121126ddm004070002000c.html
いや、左翼陣営だけを批判するわけにも行かない。 最近、保守派の雑誌ではなぜか安倍・自民党総裁をヨイショする記事が目立つ。 しかし安倍が総理の職務をまっとうできなかったことは誰でも知っているのであり、最近では病気だったからだとかいうような言い訳がされているようだが、肝心なときに病気になるようなひ弱な奴を、勤まらなかった前歴があるにもかかわらず支持してしまう保守論客は頭がどうかしているんじゃないか。
或いは、保守系雑誌の方針がそうなっているから、保守系評論家もそういう記事しか書けないのだろうか。 だとしたら、保守論客はもう終わっているというしかあるまい。 左翼の論客だって以前はそういう党派性丸出しの文章ばっかり書いていて終わってしまったのである。 今度は保守論客が終わりを迎える時代なのかもしれないね。 日本はどうなるのかなあ。
本日は午後5時30分から、いわき市小名浜の寿司屋で 「高橋安子先生を囲む会」 が開催されたので、私も出席。 元生徒14人が集まった。
高橋先生については10月14日のこの欄に書いたばかりなので、改めて説明はしない。 本来は今年の8月に開催された中学の同窓会でお目にかかるはずが、先生に急用ができて会えず、10月になって短歌の会で新潟に来られたので久しぶりにお目にかかった次第もそのときに書いた。
今回は、先生がクラス担任をしていた小名浜第一中学校昭和40・41年度1・2年8組のクラスメイトと、同学年の他クラスの生徒で先生とずっとお付き合いのある人たちが集まったもの。 クラス会ではなく 「囲む会」 と名称をしたのも、担任クラス以外の生徒だった人に配慮してのことである。
先生が8月の同窓会に出られなかったからというのが主たる開催理由だが、そもそも市内在住者はあまり学年全体の同窓会には出ないということもある。 というわけで市内在住者が多数の会で、新潟から来た私が最遠隔地となったが、ほかに首都圏や福島市から来た人もいた。 私が中学卒業後いちども会っていなかった人もいた。 地元在住者は、地場産業の社長である人 (父親から地元小企業を受け継いでいる) や専務である人 (父親がまだ存命なので専務に甘んじている) もいる。
ところで、先生が8月の同窓会に出られなかったのは、ちょうどその頃にご長男が日本の駐アフガニスタン大使に任命されたからである。 といっても、ご長男はいわゆるキャリアの外務省官僚ではない。 ただアフガニスタンに興味があり、当地でいろいろ活動しているうちに、事情通だからということで大使になってしまったのだそうである。 アフガニスタンはいわゆる先進国とは違うし、さらには滞在すること自体に安全性が必ずしも保障されない国で、こういう地域の大使としてはキャリア官僚ならざる、草の根の事情通が選ばれる場合もあるということらしい。
さて、今回の会の世話人は市内に住んでいるT・TくんとS・Yさん (いずれも結婚後姓が変わっているが、ここでは旧姓で記す)。 T・Tくんは成績優秀で私と同じ高校に行ったが、大学を出た後はこちらでサラリーマンをやり、先日定年退職をして、今は悠々自適らしい。
S・Yさんは、昔は寡黙な美少女だったが、今はかなりおしゃべりになっている。 外見は・・・・まあ60歳ですから(笑)。
そのS・Yさんが面白い話をしてくれた。 私たちが高橋先生のもとで学んでいた当時、岩手県の某中学の生徒が自然災害か何かで経済的に困っているというニュースが報じられ、先生の発案でお小遣いだとか不要な文房具を持ち寄り、その中学の同じ学年の生徒たちに手紙と共に送付したことがあった。 そしてあちらの生徒たちからも手紙の返信が来た。
S・Yさんは、そのとき手紙をくれた相手とその後も文通を続け、初めて手紙をやりとりしてから20年後に実際に会うことができたという。 今も年賀状のやりとりは続けているのだそうである。 へえ、と私は感心した。 手紙のやり取りは一度限りで終わったと思っていたからだ。
そして、S・Yさんは 「岩手県の中学とそういう交流があったことを覚えている?」 と尋ねたのだが、その場にいた中でこの件を記憶していたのは、彼女と高橋先生以外は私だけであった。
私はS・Yさんに 「オレは覚えているよ」 と答えてあげたのだが、他には覚えている元生徒がいないと知って、「ああ、やはりそうなのかな」 と思ったのである。 というのは、私は最近、自分はどうやら通常の人間より過去のことをよく覚えているタチらしい、と、遅ればせながら気づいたからだ。
例えばである。 中学時代、自分たちの学年は1・2年次はクラス替えがなくて10クラスだったが、3年になってクラス替えがあり、そのとき11クラスに増えている。 クラス替えの件はさすがに誰でも覚えているが、3年になって1クラス増えたという事実は忘れている人もいるのだ。
8月の同窓会のときも同じようなことがあった。 私は小学校は1年次だけ小名浜第一小学校で、2年次から小名浜第二小学校に移ったのであるが、1年間しか行かなかった小名浜第一小学校が1学年10クラスあったことや、校舎の配置がどうであったかについて、6年間小名浜第一小学校に通った同窓生と話をしていたら、彼らが全然記憶していないのにびっくりしたのである。 繰り返すが、1年間しか通わなかった私が覚えていることを、6年間通った彼らが覚えていないのである。 私からすれば何で覚えていられないのか不思議なのだが、あちらからすれば1年しか在籍していなかった私が覚えているのは不思議であるらしい。
まあ、それやこれやで、数十年ぶりに再会を果たした元同級生たちが、その後の二次会を含めて、和気藹々と過ごしたひとときでありました。
ところで、8月の同窓会のときは自家用車で新潟・いわき間を往復した私だが、今回は高速バスを利用した。 私のクルマはETCが付いていないので (何しろ購入して15年目ですからね)、高速料金がかなりかかる。 バスのほうが安上がりで、しかも自分が運転するわけではないので本を読みながら行ける、ということから決めたもの。
或る程度年のいった人は、鉄道じゃダメなのかと思うだろうが、今時のJRローカル線はスピードが遅く便数も少ない上に、料金は鈍行でも高速バスより高い。 ローカル鉄道が経営上成り立たなくなっているのも成る程と思うし、また無理に路線を維持する必要もないのではないか。
といっても、新潟・いわき間を直通で結ぶ高速バスはない。 新潟・会津若松間のバスから会津若松・いわき間のバスに乗り換えるか、新潟・郡山間のバスから郡山・いわき間のバスに乗り換えるか、いずれかである。 今回、行きは後者を、帰りは前者を選択した。 理由は、時間的に合うから、というだけのことである。 料金は前者が合計4300円、後者は4500円だから、帰りのほうが200円安い。
行きはいずれも空いていて快適であった。 新潟・郡山間の高速バスは、両市内に複数のバス停で停まるほかは、高速道路上ではトイレ休憩で中間地点のパーキングエリアに5分間停まるだけである。 ただし、磐越道の新潟・郡山間は道路の状態があまりよくなくて、バスはかなり揺れる。 道路に穴でも開いているのかと思えるような衝撃もしばしば走る。 これに比べると同じ磐越道でも郡山・いわき間は道路の状態が良好である。 どうしてこんなに差があるのか。
郡山で降りて、いわき行きが来るまで数十分間待つ。 この郡山駅前の高速バス乗り場には待合室がなく、11月下旬に木枯らしが吹きすさぶ中で立っているのは気分がよくない。 後で分かったことだが、いわきと会津若松の高速バス乗り場には待合室がちゃんとあるのだ。 郡山市、もしくは福島交通の善処を求めたい。 (いわきは新常磐交通、会津は会津乗合バスで、福島県のバス事業はこの三社が鼎立している。)
郡山駅前からの高速バスは各種あって、県内の会津やいわきに行くものばかりではなく、仙台行きや東京行きや関西方面行きもある。 まあ、そこまでは新潟でも同じなのだが、成田空港行きまであるのにはびっくり。 11月だというのに超ミニ・スカートをはいたギャルの2人づれや3人づれがキャリーバッグをバスの横腹についている荷物入れに入れて乗車していく。 今の季節に海外旅行に出かけられるとは、優雅なことだと思う。
さて、郡山駅前に降り立ったら、なぜかモーツァルトのジュピター交響曲がスピーカから流れていた。 そして、高速バス停には 「楽都・郡山」 と書かれた小旗が掲げてあり、その小旗にはさらに 「東北のウィーン」 とも記されている。
東北のウィーン!? おいおい (笑) と言いたくなっちゃいますね。 だいたい、ウィーンを名乗るならせめて音大のひとつくらい誘致し、プロのオーケストラも市民税で保有するくらいのことはしてからにしてほしいものだ。 郡山には短大の音楽科はあるが4大はないはず。 むろんプロオケもない。 いや、郡山が合唱でのレベルが高いことは知っておりますけどね。 でもそれだけでウィーンてのは、ちょっとアレじゃないですか。
郡山からいわき行きのバスに乗り、順調に到着。 途中は小野インターでいちど停車するだけ。 JRいわき駅近くのラーメン屋で昼食に鶏ラーメンなるものを食す。 鶏の肉が何切れか入っている。 味も悪くないけど、麺の盛りにより4種類に分かれ、私は下から2番目の 「おすすめ」 というのにしたのだが、そしてこれが並み盛りにあたると思うのだが、麺のボリュームはやや不足気味かなと思った。 これで680円。 うーん、腹いっぱいにはならないから、どうですかね。
さて、いわき駅から小名浜へ行かなくてはならない。 直通のバスは鹿島経由の小名浜行きで、この路線は私が高校時代に通学に利用していたものでもあるのだが、あらかじめバス停で料金をたしかめたら600円もする。 うむ、高いなと思い、JRの駅で見てみたら、鉄道だと泉駅まで230円。 泉駅から小名浜までのバスがいくらかかるか分からないが、多分300円までしないだろうと見当をつけ、時間的な余裕もあることでもあり、鉄道にした。 泉駅で調べたら小名浜までのバス料金は270円。 したがって合計500円であり、バスだけで行くより100円安かった。 セコイようだが、東日本大震災にともない国家公務員の給与が約8%削減されており、新潟大学もそれに準拠していて、私の給料も月額で額面4万円削減されているので、節約モードなのであります。
小名浜では小名浜第一ホテルに宿泊。 実はこのホテル、高橋先生が取ってくださったものである。 自分で取るつもりだったのだが、1週間前にネットで予約しようとしたらどこも満杯。 小名浜だけではなく、泉駅前のホテルも、市役所のある平地区のホテルも、全部満員なのである。 幹事のT・Tくんから 「ホテルは取れたか?」 と電話があり、実は取れていないと返事をしたら、どういうツテか (地元民枠でもあるのか)、ネット予約では満杯の表示しか出ない小名浜第一ホテルに宿泊可能になったもの。
このホテル、ふつうのビジネスホテルだが、ベッドの幅が広いことと、日本のビジネスホテルには珍しく折りたたみながら荷物台があるのがいい。 もっともシングルで一泊6100円だから、そんなに安くはない。 朝食は別料金で800円だけど、バイキングではなく、和食か洋食をあらかじめ指定。 しかし、朝食をとる一階の食堂が夜は和食系飲み屋になるところで、つまり内部装飾もそういうふうにできていて、ホテル的な、或いは洋食的な雰囲気ではない。 私は洋食にしたのだけれど、何となく合いませんね。 おまけに、飲み物はセルフサービスなのだが紅茶がない。 これで800円かなあ。
翌日。 小名浜からいわき駅までは前日と同じく節約路線で、泉駅経由。 いわき駅前から会津若松行きの高速バスに乗ったら、来たときとは逆で混んでおり、ほぼ満員。 郡山駅前には15分ほど遅れて着いた。 ただしここで大部分が降り、多少新たに乗り込んできた客もいたが、郡山・会津間は空いていた。 しかしやはり15分ほど遅延。 運転手は 「遅れていますが、安全運転で行きます」 と言っていたので、遅れても必要以上には飛ばさないという制約が課せられているようである。
会津若松駅前でラーメンでも食おうと思ったが、少し探してみたけど専門のラーメン屋が見当たらない。 といってJR駅構内の、うどんや蕎麦と一緒にラーメンもやってますという店には入る気がしないので、駅から出て右手のビルの3階に入っている中華料理屋に行ってみる。 五目うま煮ラーメンなるものを食す。 食後の飲み物 (コーヒーかウーロン茶) 付きで590円、具も結構入っていて悪くないけど、味が少しく塩辛い。 もう少し塩分を抑えてくれないかなと思ったけど、冬は寒い会津だとこのくらいが標準なのかなあ。
高速バス乗り場には土産物屋も入っていたので、そこで喜多方の地酒720ミリリットル入りを1本買う。 クルマでの旅ならもう1本買うところだが、バスでの旅行では荷物が重くなりすぎると降りてから歩くのに苦労するので。 こういうふうに、高速バス乗り場でそれなりに商売をやるという気概は、郡山やいわきも見習っていいのでは。
会津若松発新潟行きの高速バスは混んでいた。 ほぼ満員。 そして、このバスは新潟・郡山間のバスとは違い、高速道路の途中のインターで何度も降りて停留場にとまりながら走っていくので、時間がかかる。 新潟・郡山間のバスは所要約2時間半だが、会津若松・新潟間のバスは約2時間。 距離に比べると時間がかかり過ぎている感じであった。
追記: 会津若松で買った地酒というのは、喜多方にある大和川酒造の作っている 「純米辛口 弥右衛門」 という酒であった。 720mlで1155円という値段だが、飲んでみたところ、水のように淡白ですいすい飲めてしまうのにびっくり。 水みたいというと、新潟の某有名酒造メーカーの酒を想起する人も多いだろうが、決してそれに劣らないと思う。 興味のある方は騙されたと思って一度試してごらんになることをお勧めしたい。 値段もそんなに高くないことだし、通信販売もしている (下記リンク)。
http://yamatogawa.by.shopserve.jp/
本日は午後2時からの標記の演奏会に出かけた。 場所はだいしホール。
腰痛があったり東京に出かけたりして日程が定まらず、行くことに決めたのは数日前だが、本日は家族が用事で出かけていて、自宅で一人で本を読んでいたらいつの間にか時が過ぎ、ふと気づくと午後1時25分。 あわてて着替えをし、ヒゲも剃らず昼食もとらないままクルマに乗って出かけ、海岸道路を突っ走りかろうじて間に合った。 昼食はホールそばのコンビニでおにぎりを買い、休憩時間に食べて済ませる。
この演奏会、ここのところ毎年この時期に行われており、私も毎回聴いているけど、今回の客の入りは半分程度か。 予約をしておかなかったので、当日券が1300円。 むむっ、予約より300円も高いとは
(汗)。
ヴァイオリン=佐野正俊、庄司愛
(友情出演)、ヴィオラ・ダ・ガンバ=中山徹、チェンバロ=師岡雪子、ソプラノ=風間左智
(友情出演)
パッヘルベル: 組曲集「音楽の歓び」より第4番
F・クープラン: 組曲集「諸国民」より「ピエモントの人々」
(休憩)
F・クープラン: 王宮のコンセール第4番
ミシェル・ピニョレ・ド・モンテクレール:
カンタータ「誠実な愛の勝利」
ヴィヴァルティ: トリオソナタ集op.1よりフォリア
(アンコール)
ブクステフーデ: 「主よ あなたさえ 私にあれば」
F・クープランを中心にフランスの古典音楽を演奏してきたこのプロジェクト・リュリ。 今回はやや幅を広げてドイツやイタリアの作曲家も取り上げている。
いつも思うことだが、この音楽会の根幹はヴィオラ・ダ・ガンバの独特な音色である。 ゆったりと穏やかで、場合によっては眠くなってしまいそうな音。 この音を聞いていると、温泉にでも浸かりながら聴いたらいいだろうな、などとたわけたことを考えてしまう。
そしていつもながら庄司愛さんが友情出演で出ている。 トリオ・ベルガルモだけでなくネーベルなど新潟の演奏会に出番が多い庄司さん。 今回もチャーミングな姿で悪くない演奏を聴かせてくれた。
モンテクレールの、珍しいカンタータで登場した風間さんも安定した歌唱で聴衆を魅了した。 こういう曲が聴けるのが、このシリーズのいいところであろう。
正規プロの最後がヴィヴァルディのフォリア。 フォリアは色々な作曲家が曲をつけており、最も有名なのはコレルリのヴァイオリンソナタだが、ヴィヴァルディのこの曲は解説によるとコレルリに倣って作られたのだそうである。
前半は弦楽器3人とチェンバロ、後半は第1曲で庄司さんが抜け、第2曲で佐野さんが抜けて風間さんが入り、フォリアで前半の4人に戻った。 そしてアンコールは、ブクステフーデの曲で、風間さんを含む5人全員での演奏。
来年はどんなプログラムで聴かせてくれるのか、今から楽しみである。
*R・シュトラウス: ヴァイオリン協奏曲 & ヴァイオリン・ソナタ (EMI TOCE-16182、1999年録音、日本盤)
作曲家として駆け出しだったころの若いリヒャルト・シュトラウスにヴァイオリン協奏曲がある、ということを知ったのはつい最近、シュトラウスの伝記を読んでいたときのことである。 ヴァイオリン・ソナタ (これも若いころの作品。ただし協奏曲よりは後) のディスクは複数持っていたが、協奏曲のほうは所蔵していなかった。 というわけで、東京に出かけたら探してみようかと思っていて、先週末、腰痛で予定より期間は短かったけれど上京する機会を得たので、銀座の山野楽器に行ってみたら、1枚999円という廉価盤シリーズのなかに、R・シュトラウスの協奏曲とヴァイオリンソナタを一緒に収めたディスクがあったので、さっそく購入。 演奏は、独奏がサラ・チャン、バックは、協奏曲がヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮のバイエルン放送交響楽団、ソナタのピアノはやはりサヴァリッシュである。 録音は1999年だから、もう10年以上前である。 2000年にサラ・チャンが新潟に来演したとき私は聴いているのだが、そのときはもう録音済みだったわけか。 で、聴いてみると、やはり若書きかな、という感じがする。 古典的でありロマンティックでもあるが、やや形式的な印象。 三つの楽章のうち、いちばんいいと思ったのは中間の緩徐楽章。 これはなかなか聴かせてくれる。 まあ、カタチ重視というとソナタのほうもそうではあるのだが、それでもソナタは内実も或る程度は備わっている。 協奏曲はそこまで行っていない感じ。
午後2時から、サントリーホールーで表記の演奏会を聴く。 今回の上京では音楽会はこれだけ。 日時がちょうどよかったのでこれに決めた。
指揮=飯森範親、バリトン=ロディオン・ポゴソフ、コンマス=大谷康子
マーラー/ベリオ編: 若き日の歌より
1.夏に小鳥はかわり、2.シュトラスブルクの砦の上で、3.二度とは逢えぬ、4.いたずらな子をしかりつけるために、5.思い出
R・シュトラウス: 家庭交響曲のモチーフを指揮者が解説
(休憩)
R・シュトラウス: 家庭交響曲op.53
客の入りは7〜8割程度。 今回は日程がぎりぎりまで決まらなかったので東響新潟定期会員の無料招待特権は使えず、当日券で入ったが、奮発してSランク席にした。 東響後援会員証提示の1割引で6300円。 2階RC3列目で、これは掛け値なしのSランクだなと思う。 舞台の斜め右上のあたりで、距離的にもちょうどいい。 サントリーホールにはもう何十回と来ているけれど、こんなに好位置の席にすわったのは初めてかも知れない。
最初はポゴソフによるマーラーの歌曲。 ポゴソフはロシア人とのことだが、風貌から言うとラテン系、もしくはロシア人でも少しアラブか東洋の血が入っているような感じ。 悪くない歌唱を聴かせてくれたけれど、バリトンと言っても声域は人により微妙に異なるわけで、この曲目からすると低音がやや苦しく、その代わり高音はよく響いているように思えた。 聴衆の反応もそこそこ。
そのあと引き続いて指揮者の飯森さんによる、後半演奏の家庭交響曲のモチーフ解説があった。 家長
(シュトラウス自身)、妻、子供の3人のモチーフがそれぞれ複数種類あることが、実際にオケでそのところを演奏しながら説明されていく。 数が多いので必ずしも全部覚えきれるわけではないが、漠然と聴いているのに比べると
「なるほど」
と思えてくる。 また、今回の弦楽器の配置はチェロが右端になるようになっているが、これは妻のモチーフをコンマス
(大谷さん)
が奏でるのに対して、家長のモチーフはチェロの首席奏者が奏でるためで、つまり夫婦が指揮者をはさんでちょうど左右に分かれるようにしたのだということであった。再度
「なるほど」。
休憩後に家庭交響曲の通しでの演奏。 舞台は多数の奏者でぎっしり。 金管もサキソフォーン奏者まで何人も並ぶなど、壮観。 この曲、生で聴いたのはたぶん初めてで、ディスクでもそんなに聴く曲ではないので、新潟で直前にディスクを2回聴いて予習していったのだけれど、そして飯森さんの親切な解説もあったわけだけれど、それでもなかなか理解
(?) が難しい。
いずれにせよ単に奏者の人数が多いだけでなく、技術的にも大変で、演奏に手間がかかる曲だということなのだ。 聴き終えると難度の高い山に登ったかのような疲労感
(?)
が残るし、演奏者の方々にはご苦労さんと言ってあげたくなる。 そのせいか、ブラヴォーの声もかなり出ていた。 こういう曲をミスもなくきっちり仕上げるのは、やはりプロの演奏家ならではだと痛感させられたのであった。
11月17日(土) *ルクセンブルク学研究会 昨日から上京している。 本日は午後2時から、ルクセンブルク学研究会に出席。 場所は東京駅八重洲口の東側に隣接しているサピアタワー・ビル8階の、立命館東京キャンパスである。 このサピアタワー・ビルには初めて入ったが、3階までは普通に入れるけれど、それより上階に行くには3階にあるゲートを通り抜けなくてはならない。 私はあらかじめこの会合の主催者に連絡をとっておいたので、受付で名乗るとゲートを通り抜けるためのカードを貸してくれる。 これを使ってゲートを抜け、内部にあるエレベータに改めて乗って8階まで行くのである。 サピアタワー・ビルには立命館以外にも、東北大や北大、関大や関学や甲南大など、いくつかの大学が東京キャンパスを構えている。 いわば東京以外の大学の東京センター的な役割を果たしているようである。 立命館東京キャンパスにはいくつか部屋があり、その中の比較的こぢんまりとした部屋でこの研究会は行われる。 今回の会合は、日本独文学会の会員である立命館大の専任教員T氏から独文学会のメーリングリストを通じての案内があって知ったもの。 私も昨年、女房と2年遅れの銀婚式旅行で初めてルクセンブルクに足を踏み入れ一泊したが、そのときルクセンブルクの言語事情に興味を持ったので、今回のこの研究会はタイムリーな企画であった。 もっとも、この研究会ではすでに研究誌を2冊出している。 私もその場でいただいてしまった。 できて日は浅いが、地味ながらしっかり活動をしているようだ。 本拠地は大阪市立大学のようである。 次のような研究発表もしくは講話がなされた。 ・小川敦 (一橋大学特別研究員): ルクセンブルクにおけるドイツ語の位置づけ――公用語の視点から――
京都大学が国際高等教育院なる構想を打ち出していることは、新聞等でも報道されているので、ご存知の方も多いだろう。 しかしこの構想にはいろいろ問題があるようだ。 新聞等ではそういう問題点が分からないが、京都大学の西山教行先生から以下のアピール文が届いたので、そのまま紹介したい。
*
京都大学の教養教育と自由の学風を守るために「国際高等教育院」構想に反対します
京都大学の学生・教職員のみなさん
京都大学の教養教育(専門基礎・外国語教育を含む)には、人間・環境学研究科と理学研究科が多くの授業科目を提供してきました。幅広い分野の教員が、第一線の研究に基づいた大学院・学部教育を担うと同時に、特色ある教養科目を開講してきました。高度な研究能力をもつ多くの教員が一丸となって,研究と教育を一体化させて推進することによって,京都大学にふさわしい創意と多様性に溢れた教養教育を実現しています。
しかるに、現在、松本紘総長が強行に進めている「国際高等教育院」構想によって、わたしたちが誇りとするユニークな教養教育が根底から破壊されようとしています。わたしたちは以下の理由で、この構想の成立に反対します。
一、人環構成員の一貫した反対を無視して、現有教員の七〇パーセント以上・約一〇〇名を、総長直轄の人員プールに移すこの構想は、端的に部局人事権の侵害であり、京都大学の存立根拠である「自由の学風」と「学部自治」の伝統を著しく侵害する暴挙であります。人事権を基礎とする学部自治が、学問の自由と自律性の根幹を担保する制度であることを考えますと、その根幹を破壊しようとするこの動きは、ひとり人環の問題ではなく、京都大学のすべての構成員にとって共通の危機であると考えます。
二、他部局からの定員移動も含めれば一八五名に達する巨大な総長直轄人員プールが行おうとしている「教養教育」なるものは、なんの理念も理想もない大学の専門学校化であり、長い年月にわたって蓄積・整備されてきた京都大学の教養教育の伝統を破壊する愚策であります。
三、民主主義と雇用契約に決定的に反するこの組織改変は、総人の学部生ならびに人環の大学院生に対して責任を負っているわたしたちの教育・研究システムを根底から解体する許しがたい権力の濫用であります。
☆人間・環境学研究科/総合人間学部教授会は「国際高等教育院」構想をわたしたちの同意なく決定することに反対する決議を九月二七日に行っています。
ご理解とご協力をよろしくお願いします。
人間・環境学研究科・総合人間学部 教員有志
田中真紀子と文部科学省官僚の問題については11月8日のこの欄に書いたけれど、以前新潟大学におられ、現在は京都大学教授である西山教行先生が東京新聞への寄稿をお知らせ下さった。
今回の問題が、たんに田中真紀子を揶揄していれば済むという話でないことは、西山先生も指摘されているとおりであり、現在の大学政策そのものが問われなくてはならないのである。 以下にその記事を掲げておく。
一昨日、新潟室内合奏団の演奏会を聴いてから帰宅し、夕食をとっていたら、突然腰の調子がおかしくなった。 以前、腰をわずらったことがあり、ここ10年くらいは再発していなかったのだけれど、久しぶりの襲来である。 しかも今までになく重症で、自力ではほとんど歩けない。 以前も、風呂に入っている途中で腰痛に襲われて這って風呂場から出たことがあったけれど、今回は這うこともできない。
とりあえず自宅にあった膏薬を張っておいたけれど、昨日になっても全然よくならないので、女房に肩を貸してもらって女房のクルマで新潟市の救急医療センターへ。 しかしここでは診察ののち一日分の痛み止めの薬をくれるだけ。 痛み止めの注射もしてもらったが、明日専門医に行け、ということである。 ここで私は生まれて初めて車椅子に乗りました。 うーん、年をとったなあ。 自分もこういう姿をさらすことになったか。
で、昨日まではまともに歩けなかったけれど、本日は少しよくなって、ゆっくりとなら歩けるので、大学に行って2・4限の授業をやり、そのあと某整形外科へ。 ここは比較的近年開業したところで、わりに評判もいいというので来てみたのだが、混んでいるのに仰天。 朝方はばあさんなどで混んでいるけど夕方なら大丈夫だろうと思ったのが大間違い。 4時40分ころに行って、実際に診てもらうまでに2時間かかった。
で、結局もらえたのは痛み止めの薬と、筋肉をやわらかくするという薬。 背骨を支えている筋肉が張っている、のだそうである。 腰って、即効の治療手段がないんですかね。 不便だなあ。
実は今週後半から東京に出張予定だったのだが、どうなるか、少し様子を見るしかないな。
土曜日の夕刻は標記の演奏会に出かけた。 りゅーとぴあにて午後6時45分開演。
前にも書いたことだが、りゅーとぴあにがんセンター側から行く場合、センター付近の駐車場電光掲示板が作動していないのが不便。 今回も、いったんりゅーとぴあの前まで行って、そこで満車掲示を初めて知り、県民会館の前をぐるりと回って陸上競技場の駐車場へ。 この手間を省くためにも、せめて演奏会の前1時間だけでも電光掲示板の作動をお願いしたい。
指揮=本多優之、ギター独奏=藤元高輝
ハイドン: 交響曲第104番 「ロンドン」
(休憩)
ロドリーゴ: アランフェス協奏曲
(アンコール)ヘンツェの作品より
ラヴェル: 亡き王女のためのパヴァーヌ
ドビュッシー: 小組曲
(アンコール)
ドビュッシー: 「子供の領分」 より
”ゴリウォーグのケークウォーク” (小編成オケ版)
開演10分前くらいに入場。「1階へどうぞ」という係員の誘導もあって、珍しく1階へ。11列目の中央付近に陣取りました。
今回はまず、いきなりハイドンの 「ロンドン」 交響曲。 ふつうなら演奏会を締める曲でもおかしくないのに、今回は最初。 解説によると、まずドイツ音楽からスタートしてスペインに行き、最後はフランスもので締める、という構想の音楽会なのだそうだ。
で、演奏だが、最初いきなり金管がひっくり返ったので危ぶんだものの、その後はまずまずの出来。 特に第1ヴァイオリンはなかなかいい音を出していた。 まずは順調な滑り出し。
後半に入って、藤元氏をソリストに迎えてのアランフェス協奏曲。 ギターにはマイクが付くのはやむを得ず。 しかしこの曲、本日の白眉ともいうべき出来。 藤元氏の独奏はいささかも危なげがなく、しっかりした音と技巧で聴衆を魅了する。 さすがと言いたくなる演奏である。 大満足!
聴衆の拍手に応えてアンコール。 最初に藤元氏から説明があり、先月亡くなった世界的な作曲家であるヘンツェ氏の曲をやりますとのこと。 現代曲なのでぴんと来なかったのであるが、現代音楽はギターでも作られているのだな、と認識した。
それからドビュッシーの二曲。 いずれも有名な作品で、楽しんで聴くことができた。 アンコールもドビュッシー。 指揮者から、彼の曲には小編成オケ用の作品がなかなかなくてという説明があり、本来ピアノ曲であるものを別の作曲家が編曲した版が演奏されておしまいとなった。
途中休憩15分を入れて約1時間50分の演奏会は、満足度が高かったと思う。 特に弦と木管は充実している。 課題はやはり金管かな。
次回演奏会は来年の6月で、シューベルトの未完成交響曲はともかくとして、その他にヴェルディのファゴットと管弦楽のためのカプリッチョ、そしてシベリウスの交響曲第3番をやるそうである。 へえ、と唸るような珍しいプログラム。 特にヴェルディにこんな曲があるとは知らなんだ。 期待が高まる。 新潟のアマオケもだんだんすごくなってきていると実感した次第。
田中真紀子文部科学相が独断で大学新設を不認可とした事件は、結局彼女の方向転換と謝罪で終焉となった。 田中真紀子が大臣に、いや、そもそも政治家に向いていないのは誰が見ても明白だし、そのことはこの欄でも10月2日に書いたから、ここでは繰り返さない。 要するにこういう人間が政治家をやっているのは論外なのであり、それを大臣にするのは論外の二乗なのである。 以前に外相やってどうしようもなかった前歴があるのだから、論外の三乗かな。 日本の政治家って救いようがないよね。 でも民主主義の世の中なんだから、彼女に票を入れて代議士にしている選挙民は論外の四乗じゃないですか。 分かってますか、新潟県民のみなさん?
それはさておき。 私が危惧するのは、こういうおバカ大臣がいると、官僚はしっかりやってますというふうに見られてしまいかねないことなのである。
別に官僚を敵視しろとは言わない。 まともな官僚もそれなりにいることは確かだ。 しかし、文科省に関して言えば、とてもじゃないがまともとは言えないのが多い。 有名な例はゆとり教育で悪名高い寺脇研。 だけど、彼の責任はいささかも追及されていない。 どういうわけだろう? ろくでもない政策をやった罰として、彼の年金を半額に削減してもいいんじゃないか、と私は思いますけど。
また、彼に限らず文科省官僚が無能であることは、現在国立大学が陥っている苦境を見れば一目瞭然。 もっともその文科省にたてつく気概が国大協だとか一昔前までは威勢のいいことばかり言っていた左翼大学人にないというのも、問題をいっそうひどくする要因なのではあるが。
官僚の政策をひとつひとつ吟味し、成功と失敗をリストアップして貸借表のごときものを作り、そこから官僚主導の行政に修正を加えていく、そういったシステムを作ることが大事なのだ。 おバカ大臣が思いつきで何かやってこういう無残な結果になると、だから官僚に任せなさい、という風潮にならないか心配だ。
国立大学は独法化したけれど、独立性は全然高まっておらず、むしろ官僚への隷属化が進んでいる。 この点をちゃんと報道するジャーナリストがいないというのが、また日本の貧しさを語っている。 誰か、まともなジャーナリストはいませんかあ??
*ハインリヒ・シャイデマン: オルガン曲集3 (NAXOS、8.554548、1999年録音、香港盤)
シャイデマンは1595年ごろに生まれ1663年に没した作曲家。 解説によると、17世紀前半の北ドイツ・オルガン音楽を代表する作曲家である。 父もオルガニストであった。 1611年にアムステルダムに留学してスウェーリンクに学び、やがて父のあとを継いでハンブルクの聖カタリーナ教会のオルガニストに就任し、世を去るまでその地位にあった。 スウェーリンクの影響下、当時経済的にも栄えていたハンブルクは、17世紀にオルガン音楽の花を咲かせたのであり、その中でシャイデマンは重要な位置を占めている。 このディスクには、全4曲からなる 「キリエ集」 や、「イエス・キリスト、われらが救い主が眼前に2」 や、「第7旋法によるマニフィカート」 や、「われらみな唯一の神を信ず」 など、単一楽章ないし4楽章から成る全16曲が収められている。 いずれもそれなりの技巧を尽くした、しかし技巧に走り過ぎない充実した音楽である。 ハスラーやラッススなど、他の作曲家の旋律を借りて作られた曲も含まれている。 オルガン独奏はジュリア・ブラウン、録音は米国オレゴン州のユージンにあるセントラル・ルター教会の1976年製造の楽器にて。 これはシャイデマンのオルガン曲集の第3巻だが、第1、2巻はまだ購入していない。 9月下旬に上京した際に新宿のディスクユニオンにて第3巻のみあったのを購入。
*シューベルト: 疾風怒濤期の詩人たち (シューベルト・ドイツ語歌曲全集31) (NAXOS、8.572036、2008年録音、カナダ盤)
昨年末、新潟市のCDショップ・コンチェルトさんの閉店割引セールにて、NAXOSのシューベルト・ドイツ語歌曲全集を何枚か購入した (コンチェルトさんは、わけあってその後も営業しています)。 そのうちの1枚がこれ。 ソプラノのカロリーネ・メルツァーとバス・バリトンのコンスタンティン・ヴォルフが歌っている。 ピアノ伴奏はウルリヒ・アイゼンローア。 全17曲を収録。 いちばん有名なのは最後に入っている 「ます」 であろうが、他にも聴きものが少なくない。 まず、最初に入っている 「エドワード、エドワード」D.923。 これはスコットランドの古いバラードで、父殺しをしたエドワードが母に問われて、最初は鷹を殺したなどと嘘をついていたのが、やがて父殺しを白状するけれど、父殺しをしたのは母の教唆によるものだと最後に吐き捨てるように言うという衝撃的な筋書きを持つ。 ドイツ語の訳は民謡収集などで著名なヘルダー。 一般にはシューベルトのこの曲は第3稿が決定稿とされるが、ここに収録されているのは第2稿である。 基本的な旋律は同じだが、最後のあたりに違いがある。 ほか、ヤコービの詩による 「愛の悲しみ」D.465、同じく 「真珠」D.466、シューバルトの詩による 「わがピアノへ」D.342、などもすばらしい。 ここにタイトルを挙げなかった作品も味のあるものが多く、総じてこのディスクに収められた歌曲はレヴェルが高いと思う。
新潟市唯一のミニシアター系映画館シネ・ウインドの株主総会が本日開かれた。 私も株主なので出席。
最近問題になっているデジタル化について、支配人から説明があった。 実現には一千万円ほどかかるが、ビンボーなシネ・ウインドにはもちろんそんなお金はないので、募金でまかなおうという話である。 11月23日から、1口1万円で募金を開始するそうである。
この点については、学生などには1口1万円はきついからもう少し少額にすべきでは、との意見も出た。
そんなにお金を食うならデジタル化などしなきゃいいじゃん、という意見もありそうだが、デジタル化しないとそもそもフィルムがもう映画館に回ってこなくなるので、廃館するしかないのである。 デジタル化か、しからずんば廃館か、二者択一なのである。
実際、日本の他地域では、デジタル化の資金が調達できないから廃業の道を選ぶ映画館も出ているそうである。 東京でも最近廃業する映画館が目立っているが、どうもこの問題がからんでいそうである。
アメリカの事例も紹介され、配給側の言いなりになるのではなく、映画館同士が連携してデジタル化のコストを下げようという動きもあるらしい。
いずれにせよ、シネ・ウインドは廃業はせず、募金によって生き残る選択をする。 皆様、ご協力をよろしくお願いします。
本日は午後5時から標記の演奏会に出かけた。 新潟市出身のオルガニスト石丸由佳さんの2回目のオルガンリサイタルである。
第22回シャトル国際オルガンコンクールに優勝しての凱旋公演だった前回 (昨年2月) はかなり客の入りがよかったのであるが、さすがに(?)今回はそうはいじゃない。 2階正面のCブロックは満席に近いが、それ以外はほどほど。 そう、400人くらいかな。 しかし、りゅーとぴあでの本格的なオルガンリサイタルというと200人程度しか入らないことが多いのだから、やはり地元出身の若いオルガニストを応援しようという客が来ているのだと思う。 私は3階のJブロックで聴いた。
今回はテレビカメラが入っており、また舞台 (オルガンの下) に大きなスクリーンが設けられていていろいろな角度から石丸さんが演奏するところが映し出されている。 石丸さんのドレスは、舞台上で見ると緑もしくは青緑だが、スクリーンで見るとになる。 色彩は光によりずいぶん違って見えるものだと改めて痛感した。
バッハ: 幻想曲とフーガト短調 BWV542
バッハ: おお愛する魂よ、汝を飾れ BWV654
モーツァルト: 自動オルガンのための幻想曲ヘ短調 K.608
ヴィエラ・ヤナーチェコヴァ:
アルブレヒト・デューラーの木版画より「黙示録の四騎士」
メンデルスゾーン: オルガン・ソナタ第4番変ロ長調 op.65
(休憩)
ニコラ・ド・グリニ: 讃歌「来たれ、創造主」
柿沼唯: Lotus −蓮花−
サン=サーンス: 前奏曲とフーガ第2番ロ長調 op.99
アレクサンドル・ギルマン: ソナタ第1番ニ短調 op.42から第1楽章
前回も思ったことだけど、石丸さんはアーティキュレーションが独特。 今回も、あまり滑らかに弾かずに、一音一音を確かめながら弾いているような印象。 最初のバッハ 「幻想曲とフーガ」 は私の好きな曲でディスクではわりによく聴くのだが、ふだん聴いている演奏に比べると少しく異なっていた。
プログラムが多彩なのも前回と同じ。 古いところではバッハとグリニ、古典派やロマン派があり、現代曲もある。 特にヤナーチェコヴァの曲は人を驚かせるようなところもあるので、演奏に先立って石丸さんから解説があった。 1951年スロヴァキア生まれの女性作曲家で (作曲家のヤナーチェクとは無関係なのかな?)、この曲は今年の夏、石丸さんが初演したものだそうだ。 また柿沼唯の曲は2007年に初演されたばかりで、日本のわらべ唄のメロディーをもとにしている。
どの曲もそれぞれに面白かったが、最後に弾いたギルマンの曲は、聴きやすく、迫力もあって、最後を締めくくるのにふさわしいと思った。
アンコールがなかったのは残念だけれど、途中休憩20分を入れて2時間10分かかった演奏会だったから量的にも十分だったと言えるだろう。
いつもやっていますが、水曜1限に私が出している教養科目・西洋文学の聴講に関する顛末です。
定員 150名、 聴講希望者 277名、 競争率 1,85倍
競争率が2倍を切った。 ここ数年では珍しい。 もっとも10年以上前だと、そもそも定員に達しない場合もあったのだから、学生にとって聴講が容易でない状況はさほど改善されていない。
いつも同じだが、最初に抽選で仮当選者を選び (各学部で当選率の偏りが出ないように調整。工学部のように人数の多い学部では、学科による偏りも出ないように調整)、その中で本当選の手続きをした者だけが履修を許される。
A=仮当選者数、 B=仮当選者の中で本当選の手続きをした者の数、 C=残留率(B/A)
A B C(%)
人文学部 15 15 100
教育学部 10 7 70
法学部 6 5 83
経済学部 28 22 79
理学部 16 16 100
医学部 2 0 0
歯学部 6 4 67
工学部 62 57 92
農学部 5 2 40
以上の数字から明らかなように、医学部生が最もいい加減であり、ついで農学部生、歯学部生、教育学部生の順となっている。
逆にまじめなのが人文学部生と理学部生。 工学部生も人数が多い割には本当選手続きをとらない者は少なく、聴講取りが厳しいらしい実態が浮かび上がってくる。
中学校時代の恩師から、短歌の会で新潟に行くから久しぶりに会えませんかと連絡をいただいた。 1・2年次に担任をしていただき、国語を教えていただいた高橋安子先生である。 私が教わったときは40歳くらいであったと思うから、すでに80代も後半のお年である。
大変に教育熱心な方で生徒に慕われており、私も中学を出てからも時々ご自宅に遊びに行っていた。 しかし大学に入って2年目に父の転勤で家族が東京に引っ越したので、そのあとはしばらくご無沙汰になっていた。 約20年ぶりに再会を果たしたのは、今から18年前に中学の学年同窓会が初めて行われたときである。
同窓会はそれから6年ごとに行われてきたが、2回目のときは先生がご都合で来られず、3回目である6年前の前回は私が同窓会に行かなかった。 そして今年の8月に行われた第4回同窓会には、また先生がご都合で欠席された。 そういうわけなので、今回、実に18年ぶりにお目にかかることになった。
先生からの手紙が届いたのは数日前である。 先生も私もケータイは持たないので、直前になって直接連絡をとることができない。 先生から私の自宅に電話を入れてもらおうかとも思ったが、私は日曜日でも午後は大学に行くし、女房は用事があって自宅にいないし、また大学にかけていただくにしても何か行き違いがあってはと案じられたので、先生は本日ホテルに到着されるはずだから、そのときフロントから伝えてもらうことにした。
で、本日正午を少し過ぎたころに宿泊先の全日空クラウンプラザ・ホテル新潟に電話を入れて、「午後7時にホテルにうかがいます。 もしご都合が悪いようでしたら、フロントにその旨伝言を残して下さいますように」 とチェックイン時に伝えてほしい、と頼んでおいた。 対応した従業員は、「承知いたしました。 午後7時にホテルにうかがう、それで都合が悪ければケータイで連絡を、ということですね」 と言ったので、後半が違う、と再度最初と同じことを言って復唱させた (ここで従業員の能力にかすかな不安が・・・)。
そして午後7時にクラウンプラザ・ホテル新潟に行ってみたが、受付ホールにはそれらしき人影はない。 フロントに訊いてみたが、高橋先生からの伝言は受けていないとのこと。 ただ、短歌の会は今2階のホールで懇親会をやっていますよ、とは教えてくれた。
しばらく待ってみたが誰も来ない。 それで2階に上がってホールに行ってみた。 かなり広い会場でたくさんの人間がいて、先生らしき人を探すのも大変そうである。 それで従業員に頼んで呼び出しをしてもらうことにした。
というわけでようやくお目にかかれたのであるが、なんと、私からの伝言は聞いていないという。 どうにも困ったホテルである。 フロントは何をやっているんだろう!? 先生にうかがったところ、その他の点でも問題があるホテルだとのことであった。 困りますね。 新潟のホテルとホテルマンよ、姿勢を正せ!!
本日は午後5時から標記の演奏会に出かけた。 会場はいつものりゅーとぴあ。
客の入りがちょっと寂しい。Dブロックなんかいつもにまして空きが目立つ。 日曜ではなく土曜日だからか、あるいは曲目のせいか。 そういえばTomoさんも定席にお姿が見えなかった。
指揮=飯森範親、ヴァイオリン独奏=大谷康子、合唱=にいがた東響コーラス、合唱指揮=安藤常光、コンマス=グレブ・ニキティン
サン=サーンス: ヴァイオリン協奏曲第3番
(休憩)
ラヴェル: ダフニスとクロエ (全曲)
まず、サン=サーンス。 大谷さんが華麗な黄色のドレスで登場。 ほかの団員が黒の服装なのでとても目立つ。
演奏は、最初に独奏が低音から入るけれど、ここですぐ
「いけそう」 と思う。 音がしっかり出ていてGブロックの私にも十分な音量がある。 この最初の印象が裏切られずに、音楽は過不足なくゆるぎなくラストまで続いていった。 なぜかブラヴォーが出なかったので、よほど私が叫ぼうかなと思ったけれど、勇気が出なかった。 すみません。 アンコールで何かやってくれれば言うことなしなんだけど。 ブラヴォーが出ていればやったかも (笑)。
後半はダフニスとクロエ。 この曲、私は一部有名な箇所を除くとあんまりピンと来ないんで、また全曲を生で聴いたのは初めてだと思うけど、やはり音楽の質としてはピンと来なかった。 ただ、舞台がオケ団員と合唱団員で埋め尽くされている視覚的な迫力、そして管楽器やパーカッション (ウィンドマシンというのか、風みたいな音を出す楽器が珍しい) によるさまざまな音の効果は、なかなか聴き応えがあった。 途中切れ目なしで1時間近くかかる曲で、やる方も大変だろうけど、聴くほうも楽ではない。 ピンと来ないなりに、ラストまで行くとそれなりに充実感みたいなものは感じられた。 変な感想かも知れないけれど。
4週間後にまた新潟定期が行われる。 そのときはもう少し入りがよくあってほしいものである。
本日は、長岡市にある新潟県立近代美術館に象徴派展を見に行く。 自宅から長岡市まではクルマで1時間以上かかる。 本日は土曜日だし、ということで出かけたもの。
入ると、かなり空いていた。 東京の美術館だと人が多くて、1枚見るのに時間がかかるし、人が多いので疲れてしまう。 その点、新潟県立近代美術館はゆっくりじっくり鑑賞できていい。
・・・・というのがいちおうの長所なのだが、今回のこの美術展、必ずしも手放しではほめられない。 なぜなら、国内の美術館に所蔵されているものだけを集めているからである。 外国の美術館などからの出展はない。 また、新潟県立万代島美術館(新潟市)の所蔵品の展示も結構あり、これは新潟に住む人間ならすでに見ているわけで、新鮮さが足りないのではないかと思った。
象徴派の展覧会自体は、印象派などに比べると珍しいし、私は象徴派がわりに好きなのでそれなりに面白く見はしたのだが、どことなく物足りなさが残る美術展ではあった。 私はクノプフの絵が好きなんだけど、知っている絵しか来なかったな。
うーん・・・・。 こういうのって、お金が足りないからなのか、或いは美術館の人脈のせいなのか、その辺はよく分からないんだけど、もう少し何とかならないのだろうか。 もっとも、長岡に来る前には岐阜でやっており、もともと他で企画されたものを借りてきた、に過ぎないのだろうけれども。
なお、この展覧会は、10月21日までやっている。 HPは下のとおり。
http://www.lalanet.gr.jp/kinbi/
話は変わるが、帰り道、長岡から新潟に向かう国道8号線バイパスに乗る直前にある回転寿司で昼食を取ったら、結構うまかった。 栄助寿司という店で、「ごちそう寿司」 とも銘打ってあり、私が日ごろ愛好している1皿100円(税別)の店より高級そう。 「岩船直送鮮魚」 とも書かれている。
入ってみると、最低価格が1皿120円だが、まともなネタは150円はする。 しかし1皿100円の店とは違い、ネタが厚く切ってあるし味もいい。 握りもしっかりしている。 1皿100円の店だと7〜8皿食べないと満足できないけど、ここでは5皿(11貫)で満足。 1031円という値段からすると、コストパフォーマンスは高いかな。 あとで調べてみたら、新潟市にも店舗があるし (ただし桜木店は昨年閉店し、旧新潟市内では河渡にあるだけ)、山形県や秋田県にもチェーン店があるようだ。
一つだけ注文をつけておくと、子供向けを意識してかワサビが効いていない。 100円の回転寿司みたいに別途ワサビをカウンターに置いて欲しい。 このチェーン店のHPは下のとおり。
今はむかし。 日本はドイツを見習え式の議論が横行していた。 戦後の話である。 最初は丸山真男が、ドイツのナチスの戦犯のほうが東京裁判にかけられた日本の軍人や政治家より堂々としているとほめた。 今から見ると相当怪しげな議論だったけど、丸山の当時の権威もあって、わりに信じる人もいたらしい。
その後も、(西)ドイツは戦争をちゃんと反省したとか、戦後賠償をきちんと果たしたとか主張する人びとが、主として左翼に見られた。 思い込みの部分も多くて、やがて西ドイツの戦後処理の実態が判明するにつれて、そういう言説に騙される人はあまりいなくなっていった。
昨日の毎日新聞の報道によると、ドイツは現在、米露につぐ世界第3位の武器輸出大国になっている。 これは私も初めて知ったことだ。
以前、死の商人を扱った映画 「ロード・オブ・ウォー」(2005年) がニコラス・ケイジ主演で作られたが、そのときは、国連の常任理事国の5カ国が主たる武器輸出国、つまり死の商人であるという意味のテロップが流れていたと記憶する。 しかしいつの間にかドイツはアメリカとロシアに次ぐ位置を占めるようになっていたわけだ。
いちおう、人権抑圧国家や紛争当事者への武器輸出は禁止という原則はあるようだが、実際にはこの原則が厳しく守られているとは言えない部分もあるらしい。 メルケル首相が外遊先で積極的に武器を売り込んだりもしているようだ。
なおこの記事は下記URLから読めます。
http://mainichi.jp/select/news/20121002k0000m030043000c.html
ついこないだ、自民党の新総裁に安倍晋三が選ばれて愕然としたと思ったら、今度は田中真紀子が文部科学省の大臣になってしまった。 正気か、民主党??
田中真紀子が外務大臣になったときに見せた無能と醜態はいまさら私が言う必要もないだろうから省略するが、所詮は親の七光りで政治家になっただけのお嬢ちゃんを何で大臣にするのだろう。
いや、外務省と違って文部科学省は三流官庁だし、日本の学術・教育予算が国際的に見て低いことは周知のとおりだし、このくらいの官庁にはこのくらいのヒトでたくさんと思われたのかもしれないけれど。
国立大学で言えば、独法化以降かなりガタガタになってきているし、田中大臣によってトドメが刺されるなんてことになるのかもしれないなあ。 こういう書き方、かなり自棄に見えますかね?
いや、日本の官庁は政治家によってどうこうなるほどヤワじゃないって見方もあるかな。 でも、文科の現状はかなり・・・・ですからね。 自棄にもなろうというものですよ。
本日から第2学期の授業。
今日は私は教養科目(Gコード科目)が一つあるだけなのだが、この科目を取りたいという学生が数日前にあらかじめメールをよこした。
それによると、本来なら取りたい科目の最初の授業に出席するのは当然なのですが、就職が決まった会社の内定式があるので、まことに申し訳ないが出られません、しかし授業は取りたいのでよろしくお願いします、とのこと。
うーん・・・・。 内定式って、本日は平日なんですけど。 学生に内定を出すのは結構だが、なんで内定式を平日にやらなきゃならないのだ!? そんなことをしたら学生は授業に出られないじゃん。 企業って、ものすごく高飛車だよね。 学生は勉学第一、まだ就職したわけじゃないんだから、平日をつぶすような行事を入れるなっ、と言いたいのに、平然とそういうマネをやってくれる。
別にこれに限らない。 就職活動だってそうだ。 私が学生の頃は、就職活動は4年次の夏休み頃にやっていたと記憶するが、今どきはかなり早くから会社訪問なんかをやっている。 やっている学生は、当然のように授業に欠席する。 なんでこういうやり方をするのだろうか。 就職活動は春休みと夏休みに限る、という決まりを作ってもらいたいものだ。
やるなら、国大協がきちんと民間企業に申し出るべきだと思うけどね。 国大協は何をやってるのだろう。 いや、独法化のときも何もできなかった人たちだし、期待はしてませんけど。
私が東京に行っている間に自民党の総裁選があり、安倍が選ばれたって・・・・自民党よ、正気か、おい。
首相としてまったくの無能ぶりをさらした男を、何で今頃総裁に選ばなきゃならないのだ! 石破茂ならまだやったことがないから、まあやらせてみようという気になるけれど、安倍って・・・・。 自民党って、人材がよほど払底しているんだな、という感想しか出てこない。
要するに、内部事情だけで選んでいるわけだ。 国民が自民党を、個々の議員をどう見ているかなんかには全然興味がないんだろうなあ。 無能な輩の集団であることをみずから公表しているようなものではないか。
産経新聞は安倍を擁護して、朝日新聞に攻撃されたから首相を早期に退陣した、なんて書いているけど、今どきの朝日新聞の権威なんかたかが知れている。 そもそも、新聞に攻撃されたくらいですぐ辞めるような輩は総裁にも首相にも向いていないのである。
保守の再生は遠い。 私は別段民主党びいきでも、保守嫌いでもないが、ほんとに自民党は一度ぶっつぶさないとダメじゃないか。 日本の政治家って、つくづくどうしようもないよな。
先日もこの欄に書いたように、浅草の映画館が来月にまとめてなくなってしまうというので、本日、東京滞在の最終日に浅草に映画を見に行った。 浅草新劇場と浅草名画座のどちらにしようか迷ったのだが、結局後者にする。 どちらも昔の邦画3本立てをやっていることには変わりないのだが。
入場するとき、私の直前にいた初老の男性が、もぎりのおばさんに、「なくなるんだってね」と声をかけ、おばさんも「ええ、来月」と答えていた。
映画の感想は映画評の欄に譲るが (本日はまだアップしていませんが、近くアップします)、鶴田浩二や高倉健、藤純子らが出てくる映画を見ていると何となくほっとする。
見終えて外にでるとき、もぎりのおばさんが「ありがとうございました」と言ってくれたけど、映画館がなくなるとこのおばさんも失業ということになるのだろうか。 何とか映画館を新築・再興してほしいものである。
*
ところで、今回上京する直前に還暦に達した私は、東京で映画を見るのにもシニア料金になり、かなり助かった。 これには二つ意味があって、ひとつは言うまでもなく安いということ。 もう一つは、以前だとあらかじめ金券ショップ何軒かを回って安価な前売りチケットを探したりしたのだが、そういう手間が省ける、ということである。
しかし、シニア料金と言っても一律千円ではない。 ユーロ・スペースは千二百円だった。 もっとも、ここも作品によっては千円の場合もあるらしい。
シニアであることの確認にしても、映画館によりかなりばらつきがある。 免許証を出したら、「シニアは申告制になりましたから、証明書は要りません」 と言ってくれたのがTOHOシネマズ・シャンテ (旧称・シャンテシネ)。 また、免許証を出してもろくすぽ見ていない映画館も多い。 例えば池袋の文芸坐なんかはそうである。
逆に、免許証を非常にしっかり見るところもある。 渋谷のイメージフォーラムがそうだった。
まあ何にしても、映画館は60歳でシニア料金が適用されるから、サービスはいいと言えるだろう。 今回寄ったブリヂストン美術館などは65歳以上にならないとシニア料金が適用されない。
本日は昼食に有名な中村屋のカリーを食べた。 食べたのは初めてである。
最近、中島岳志の 『中村屋のボース』 を読み、その中でボースが日本にもたらした本格的なインド・カリーのことが書かれてあったので、上京したら食べてみようと思っていた。 中村屋は現在建物を新築中だが、すぐ近くのビルの6階に入って営業している。
メニューを見て、「インド式カリー」 というのを注文する。 出てきたのは、あらかじめ店のサイトで確認したのと外見的には変わらず、ご飯 (日本米。 東南アジアの長粒米ではない)、それと別になっているカリーのルーには骨付きの鶏肉がいくつか入っている。 あとはラッキョウなどの菜が3種類入った小皿。
食べてみると、最初は 「ずいぶんマイルドだな、全然辛くないじゃないか」 と思ったけれど、香辛料がじわじわと効いてきて、舌に辛味がしたたかに浸透してくる感じである。 まあ、この辺が安価なその辺のカレーと違う本格的なところなんでしょう。
おいしいし、おなかもいっぱいにはなりますが、価格もそれなりである。 税込み1470円ってのは、カレーライスの値段としては相当なものである。
もっとも、私の隣りのテーブルには老婦人がすわって一人で食事をしていたのだが、デザートがついたりして、私より高価なセット物を注文したらしい。 こういう店で昼食にお金をかけるのが、山の手の有閑マダムなのだろうか。 日ごろ、新潟大学生協食堂で400円かそこらで昼食を済ませている私は、やはりプロレタリアートか、せいぜい小ブルなわけなのだろうなあ、と痛感したことでした。
*
この日の夜は、午後7時開演のN響の演奏会に出かけた。 場所はサントリーホール。 座席は舞台背後のP席で、新潟でチケットを買おうとしたときにはすでに売り切れていたので、ヤフオクにて定価より少し高い値段で落札したもの。
指揮=アンドレ・プレヴィン、コンマス=郷正文
モーツァルト:交響曲第1番
モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」
(休憩)
ハイドン:交響曲第102番
プレヴィンの指揮を生で体験するのは初めてだが、今年83歳のプレヴィンはかなり体が衰えており、杖をつき、さらに付き添いに腕を支えられて指揮台に。 指揮台でも椅子に座って指揮。動かしているのはほぼ腕だけである。
N響は、最初の曲では左から第1ヴァイオリン6名、第2ヴァイオリン6名、チェロ3名、ヴィオラ4名。チェロの後ろにコントラバス2名。 2曲目からはヴァイオリンとヴィオラは各パート2名、チェロとコントラバスは1名増。管楽器は後ろに並んでいる。 テレビ放送もあるらしく、座席にはところどころテレビカメラが。
指揮者がこういう具合ではあったが、N響奏者が頑張っていたせいか、悪くない演奏会ではあった。 全体的に、きっちりとした表現ですっきり系の音楽が展開された。 「ジュピター」 では、第1楽章は結構気合が入っていて、これは、と思わせたのであるが、第2楽章以降はなぜかあまり力が感じられず、第4楽章でもこれがそのまま続き、イマイチ盛り上がりに乏しく終わったのが残念。
ハイドンでは、曲の整然とした部分がそれなりだったが、ユーモラスな表現はもう少し表情が豊かでもよかったのではないかと思われた。
指揮者の体がこういう具合なので、ハイドンが終わった後も、プレヴィンはいったん引っ込んで再登場したときは指揮台まで行ったけれど、その次はちょっとだけ出てきてお辞儀をして引っ込み、そこで終了となる。 午後7時開始で終了が8時35分。 うーん、やはりどことなく物足りなさが残る感じだなあ。
ところで、雑誌 『フィルハーモニー』 が昔と同じく1回券の客にも配布されるようになったことを喜びたい。 昔はそうだったのだが、いつ頃からか、定期会員だけに 『フィルハーモニー』 を配布し、1回券の客には簡単なプログラムだけ (『フィルハーモニー』 は別途カネを出さないと入手できない) という制度になってしまっていた。 こういうのは差別的でケシカランと私は憤りを感じていたのである。 そもそもN響は公共的な性格を持っているオケであり、本来なら日本全国の誰でも平等に生演奏に接することができなくてはならないはずで、しかし実際には地方に住む人間はN響の定期会員になりたくてもなれないのだから、たまに上京してN響の演奏会に入場したときには定期会員と同じ扱いをすべきなのである。 こういう差別的な制度がなくなり、ようやく正常化したのは結構なことである。 もっとも、東響や読響ならこんなことは当たり前にやっているんだけどね。 お殿様であるN響も当たり前の感覚がようやく戻ったということなのであろう。
本日は、東京駅八重洲口にあるブリヂストン美術館に、標記の美術展を見に行く。
ドビュッシーの生涯をたどりながら、彼の音楽がどのような交友関係や同時代の芸術からの影響によって形成されているのかを明らかにしようとした展覧会である。
ドビュッシーは、粗雑なラベリングでは印象派などと言われたりするけれど、ご本人はそういわれることを快く思ってはいなかった。 もっとも、モネへの彼の敬意は相当なものがあったけれども、同時代の象徴派との関係もあったし、要するに一筋縄ではいかない芸術家なのである。
色々な絵があったけれど、私としては同時代のドニが描いた女性像などとの関連の指摘が面白かった。
それにしても、日本の美術館はいつも混んでいるので、見て回ると疲れてしまうし、休憩場所も不足しているのが難点だ。 オバサンが圧倒的に多い。 どこから湧いてくるのかなあ・・・。
カタログは買おうかどうしようかと迷ったが、還暦に達して身辺整理を心がけるべきだと考えているので、結局買わず、絵葉書を3種類買いました。
なお、この美術展は今年の10月14日まで。 HPは下記のとおり。
昨日から上京している。 本日の日曜日はコンサートをハシゴ。 まず午後2時から、紀尾井ホールで行われる標記の演奏会に出かけた。
本日はあいにくの雨。 四谷駅から傘をさして紀尾井ホールまで歩くと、真っ先に目についたのは 「チケット売ります」 の紙を掲げた初老の男性 (私と同年代か)。 その隣りにホールの窓口があるのだが、「当日券はございません」 の表示が。 言うまでもなく、その男性からチケットを買う。 S席で、ふつうなら6千円だが、会員券を額面表示の価格で売って下さったので5千円。 あらかじめ調べもしないで来たのであるが、かえって安く聴けてラッキー。 やはり日頃の行いがいいからですかね (笑)。 座席は1階9列目のちょうど真ん中。
指揮=トレヴァー・ピノック、クラリネット独奏=パトリック・メッシーナ
オール・モーツァルト・プログラム
交響曲第36番 「リンツ」
クラリネット協奏曲
(休憩)
交響曲第39番
ピノックを生で見るのは初めてだが、西洋人としては小柄。 紀尾井シンフォニエッタの編成は左から第1ヴァイオリン8、ヴィオラ4、チェロ3、第2ヴァイオリン6の順。コントラバスは正面の最後尾 (管楽器より後ろ) に2。 新潟ではおなじみの井上静香さんは、第2ヴァイオリンなので最前列の右側。
オケは、全体として若い女性が多い。 特にヴァイオリンはコンマスと第2のトップ以外は若い女性ばかり。 音色はよく揃っていて美しく、りゅーとぴあでの東響の演奏を思わせる。 同じ規模のプロオケとしてはOEKがあるわけだけれど、弦の美しさではあきらかに紀尾井シンフォニエッタが上だと思った。
最初のリンツ交響曲。 ピノックの指揮はきわめてバランスよく、良い意味で古典的。 この曲はドラマティック路線で行く手もあると思うけど、音を大きく出すべきところは出すけれど、あくまで古典的な枠はきっちり守っている演奏。
次に、クラリネットのメッシーナ登場。 小柄なピノックと並ぶと背が高く見えるが、西洋人男性としては標準的な身長か。 肌が浅黒く、両親はシチリア人とスペイン人だそうだから、ヨーロッパと言っても南欧系で、肌の色もそこから来ているのであろう。 スペイン俳優のアントニオ・バンデラスに似たハンサムなので、女性にも人気が出そう。
さて、彼を独奏に迎えたクラリネット協奏曲だが、この日の演奏はどれも質が高かったと思うけれど、このメッシーナの独奏がいちばんの聴きものだった。 まず第1楽章が、風が奏でるモーツァルトか、と思えるほど変幻自在、クラリネットの持つ、ちょっと気まぐれな感じの音色と、音量の絶妙な増減とが、実に実に見事。 クラリネットというと一定の音量で演奏するものかと思っていたのだが、そうではなく、音量がかなり自在に制御できる楽器なのだ、ということを思い知らされた。 これは第2楽章でもそうで、最初に出てくる第一主題を後半で再現するけれど、最初では一定の音量で演奏したものを、再現部分ではきわめて小さな音量で始めて、少しずつ少しずつ音量を上げていく技巧の見事さにはびっくり。 他方、第3楽章ではそういう細かい技巧は使わずに、一気に行くという感じだった。 聴衆からは盛大な拍手。 休憩時間にロビーに行ってCD売り場を見てみたが、彼のCDは置いてなかった。 うーん、残念。
後半の39番の交響曲も良かった。 リンツでは古典的な造型が勝っていたのが、こちらは制御をゆるめて曲にこめられた感情の表現を大事にしていたよう。 どの曲も同じに、ではなく、曲により表現を変えているのだ。 指揮者の力量がうかがわれる。
残念なのは、メッシーナもピノックもアンコールがなかったこと。 しかし、大変に充実した演奏会で満足。
*
紀尾井ホールを出てから、いったん用事があって秋葉原へ。
そこで用を足してサントリーホールに向かった。 午後6時から読響の演奏会。
読響を聴くのももう何度目かになる。 スクロヴァチェフスキも初めてではない。
座席は、2階右奥のRDブロックで、Aランク6千円。
指揮=スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、クラリネット独奏=リチャード・ストルツマン、コンマス=小森谷巧
ウェーバー: 歌劇 「魔弾の射手」 序曲
スクロヴァチェフスキ: クラリネット協奏曲 (日本初演)
(休憩)
ワーグナー/ヘンク・デ・フリーヘル編曲: 楽劇
「トリスタンとイゾルデ」 ”オーケストラル・パッション”
会場は9割くらいの入りか。 女性奏者の多い紀尾井シンフォニエッタを聴いた直後からすると、読響はヴァイオリンも含めて男性奏者が圧倒的に多い。
スクロヴァチェフスキは1923年10月生まれと言うから、まもなく満89歳。 さすがに指揮台まで来るときの足取りはやや危なっかしい感じもあるが、後日に聴いたN響のプレヴィンみたいに杖や助っ人には頼っておらず、自力で歩いているし、指揮は立ったままでやる。 音楽の質はきわめて精度が高くエネルギッシュで、年齢を感じさせない。 最初の 「魔弾の射手」 序曲からして堂々とした作りの音楽であった。
次に、スクロヴァチェフスキ自作のクラリネット協奏曲で日本初演。 独奏のストルツマンは白髪で、もう70歳になるのだ。 しかしやはり生み出す音楽は年齢を感じさせない。 曲の作りは、まあ現代曲なのでアレだけれど、打楽器が多くてパーカッション奏者が4人必要だったり、かと思うとチェンバロもあって、チェレスタの奏者が掛け持ちしていたりと、音響面での面白さを狙っているのかなあという感じであった。
後半の曲だが、ワーグナーの楽劇 「トリスタンとイゾルデ」 をオーケストラ・コンサートで聴けるようにと、原曲から重要な部分を抜き出し、主題や動機の提示・展開・再現はなるべくオリジナルを尊重するという方式で作られているそうだ。 声楽の部分は、欠かせない旋律は管楽器が担当し、各場面のスムースな結合のために新たに作曲された箇所もあるとのこと。 編曲者のデ・フリーヘルは1953年生まれでオランダのオケの打楽器奏者であり、これまで 「ニーベルングの指環」 と 「パルジファル」 のオーケストラ・ヴァージョンを作っており、この 「トリスタンとイゾルデ」 は第三作目。 初演は1995年だそう。
聴いてみると、ワーグナーの楽劇の魅力がオーケストラでそれなりに味わえるようになっており、悪くないんじゃないかと思った。 演奏時間は60分ちょうど程度で、原曲から比べれば短くて程よい長さ。 ただ、途中切れ目が全然ないし、交響曲みたいに楽章ごとに違う旋律が出てきて気分が変わるということがないので、聴く側にもそれなりに持続力みたいなものは要求される。 でも、原曲の長さから比べれば、どうってことはない。
曲が終わって盛大な拍手が送られた。 演奏会の開始は午後6時だったが、この曲の終わりは8時10分くらい。 この日、私は高田馬場で友人と9時に待ち合わせをしていたので、スクロヴァチェフスキがいったん舞台から引っ込んだところで席を立った。
私の実家に写真がある。 母方の祖父が還暦のお祝いを某料亭でやったときの集合写真である。 (父方の祖父は私が生まれたときはとっくに還暦に達していたので、祝いをやったかどうかは知らない。)
そこでの祖父は、祖母と、長女 (私の母) を初めとする4人の娘と1人の息子、長女から三女までのそれぞれの夫、私を筆頭とする数人の孫に囲まれて写っている。 末娘はまだ高校生で制服を着ている。 昭和30年代の末ごろのことである。 当時は日本人の平均寿命は男性で67〜68歳くらい。 人生50年時代は過去の話とはいえ、60代で死ぬのはごく普通のことであり、還暦を祝うのにもそれなりに意味があったのであろう。
翻って、今は平均寿命が延びているし――とはいえ私の先輩や同僚は60歳前後であの世に行っている人も多い――、散文的な時代になっているから、その手の儀式は流行らない。 私も黙々と還暦を迎えるだけである。 平日には珍しく、昼食に回転寿司を食いに行ったのがまあ自分なりの祝いだろうか。 夕食時に妻がショートケーキを用意していたけれど、その程度のものだ。
還暦と言っても私には祖父と違って孫はいないし、子供の数も3人でしかないし、いずれも未婚である。 末娘が高校生、というところだけが祖父と共通している。
そもそも、私の父のときも、特に還暦の祝いを大々的にやった記憶はないのである。
話を戻すと、晩酌はいつもよりは上等なワインを飲んだけれど、これも、日ごろはワインと言うと600円くらいのチリ・ワインなのが、1200円のチリ・ワインにした、という程度である。 去年は誕生日前後に私としては珍しく3500円くらいのフランス・ワインを飲んだのだが、あまりにまずくて――600円のチリ・ワインに劣る――やはり身の丈にあったものを飲むのがいいと得心がいったものである。 もともと私はマイペースな人間だから、いつくたばるか分からないけど、まあ無理はしないで行こうと思う。
*アラベラ・美歩・シュタインバッハー: フランス・ヴァイオリンソナタ集 (ORFEO、C739081A、2007年録音、ドイツ盤)
先日、東京交響楽団新潟定期演奏会で聴き、その場で買い求めた日独ハーフのヴァイオリニストであるシュタインバッハーのディスク。 プーランクのソナタ、フォーレの第一ソナタ、ラヴェルの遺作のソナタ、それにラヴェルのツィガーヌを収めている。 ピアノはローベルト・クーレク。 録音がイマイチの感じである。 もう少しヴァイオリンやピアノの音の細かい襞を捉える録音であって欲しい。 演奏は、技術的にはまったく申し分なし。 問題はフランスの作曲家の曲をどう弾くかで、これは人により好みが分かれるところであろうが、やはり彼女の場合、フランス的というよりわりに分かりやすい解釈になっている。 フランス的な独特のリズム感や解釈を求める人からすればやや物足りないかもしれない。 私としては、最後に収められたラヴェルのツィガーヌが、急がずじっくり音楽を聞かせる彼女の特質が明瞭にあらわれているという意味で最も感銘深かった。 なお、彼女の美歩というミドルネームは、下記映像から分かるように、ヨーロッパでは用いられていない。
国立大学独法化の弊害はいろいろあって、教員数がかなり減っていること、個人研究費が半分かそれ以下になっていることなどがある。 つまり教員の待遇が悪くなっているということである。
その中でも最も深刻なのは、昇任人事の停滞である。 つまり、「准教授 → 教授」 というアレである。 新潟大学の幹部が内部昇任に色々面倒くさい条件をつけてきており、そのせいで内部昇任が難しくなってきているのである。
これは単なる名称の問題ではない。 給与の問題なのだ。
国立大学のことを知らない人は、大学教授や准教授というと高給取りだと思うらしいが、そしてワタシもこないだ中学の同窓会に行って某同窓生にそう言われたのだけれど、トンデモナイ誤解である。 教授なんていったって、公立高校や公立中学のヴェテラン教諭に毛が生えた程度の給与なのだ。 まして、何らかの事情で年をとっても准教授のままでいたりすると、高校教員より給料は下になってしまうのである。
というわけで、仕事をちゃんとやっている教員はつべこべ言わずに教授にしてあげるのがまともな大学なのだけれど、最近の新潟大学はまともから程遠くなっている。 従来ならそれなりに論文を書いていれば四十代半ばか、遅くても五十歳で教授に昇任していたのが、どんどん遅くなり、五十歳くらいで准教授のままという人たちが結構出ているのだ。
繰り返すが、これは名称だけのことではなく、給与が絡む問題なのである。 今年度から東日本大震災のために給与の削減が行われているから、なおさらのことだ。
しかも、である。 独法化後、雑用が大幅に増えており、そういう負担は三十代から四十代前半くらいの有能な准教授に多くが課せられているという現実がある。 独法化以前に比べて、若手から中堅にかけての教員はものすごく仕事を、雑用を含めてしているのだ。 新潟大学幹部はそういう現実を全然見ていない。 有能な人材を雑用でこき使い、しかも待遇で報いていない。 これは最悪のやり方である。
日本の組織では上に行くほど有能な奴がいなくなるというけれど、新潟大学を見ているとまったくその通りだと思えてくる。 新潟大学の教員待遇 (給与・研究費) は、中堅以上の私大に比べてものすごく劣悪になっている。
こういう問題を解決するのは、本来職組の仕事であるはずだが、新潟大の職組はさっぱりそういう仕事をしていない。 私は職組に入っていないから文句を言うのもナンだけど、こういう職組には入る気にならないのもまた当然なのである。 左翼はなぜ自分が左翼なのか、原点に戻って考えてもらいたい。 私のように非左翼を自認している人間からこんなことを言われるようじゃ、左翼も終わっているね。
本日は音楽会をハシゴした。
まず、午後2時から新潟大学教育学部音楽科准教授の田中幸治先生によるシューマン演奏会。 だいしホール。
今回で3回目だが、前回から5年もたっているとのこと。 毎年というのはきついにしても、シリーズとしてやっている以上、せめて3年に1回くらいは開催していただきたいと思うのは素人音楽ファンのたわごとか。 ちなみに、「3回とも聴いている人はほとんどおられないでしょう」 と田中先生はおっしゃっていためれど、自慢じゃないが私は3回とも聴いている。 ですから、第4回もよろしく早くお願いしまーす。
客の入りはあまりよくなく、半分くらいか。 入場料2500円で内容は充実しているのに、勿体ない。 私はいつものように右側後部で聴く。
ピアノ=田中幸治、ソプラノ=谷潤子、バリトン=谷篤
子供のための3つのピアノソナタop.118より第3番
謝肉祭op.9
(休憩)
リーダークライスop.39
4つの二重唱op.78
(アンコール)
「子供の情景」op.15より”トロイメライ”
「ミルテの花」op.25より”献呈”(二重唱)
いつものように、田中先生の解説入りでの演奏。
最初の子供のためのピアノソナタは、以前の2度のこのシリーズでも取り上げられていて、今回は第3番。有名な「子供の情景」を初め、シューマンは子供のための作品をいくつか書いているけれど、内容的にはお子様向けという感じがせず、ふつうに大人向けのような気がする。この曲も第2楽章の晦渋な楽想だとか、第3楽章の、いかにもシューマンらしい奇想がそれなりなのだ。
「謝肉祭」 は有名な曲だけれど、若いシューマンの楽想の豊かさが改めて痛感される。
後半は、歌手2名を加えて歌曲。
「リーダークライス」
では、1曲ごとに歌う前に日本語訳を朗読し、そのあとでドイツ語で歌うという方式がとられた。
このやり方はなかなか良かったのではないか。
谷篤氏も解説で言っておられたが、歌曲はどうしても歌詞の意味が気になり、といって日本人は原語で歌われても意味が分からないし、かといってパンフに載っている訳詩を追いながら聴くのも面倒だし、いかにも勉強しているというふうで、音楽に素直に入っていけなかったりする。
日本で西洋の歌曲をやる場合はこういう工夫が必要だろう。
というわけで、そうした工夫のお陰で音楽を楽しみながら理解も深まるという、一石二鳥の演奏会になった。
途中休憩15分を入れて、アンコールが終わると4時10分ほど。 次の東響新潟定期 (午後5時開演) に行くのにちょうどいい時刻であった。
*
というわけで、午後5時からは東響新潟定期。 田中幸治氏の演奏会が終わってから行ったが、開演35分前に着き、駐車場にはゆうゆう駐めることができた。
まずホワイエでアイスコーヒーを飲んで気分を一新(?)し、それからいつもの座席へ。 客の入りは通常の東響新潟定期くらい。
指揮=マーク・ウィグルスワース、ヴァイオリン=アラベラ・美歩・シュタインバッハー、コンマス=グレブ・ニキティン
ブラームス: ヴァイオリン協奏曲
(アンコール)
クライスラー: レチタティーヴォとスケルツォ・カプリス
(休憩)
チャイコフスキー: 交響曲第6番 「悲愴」
本日の指揮者ウィグルスワースは、一昨年の6月に東響のサントリー定期に登場し、たまたまそのとき私は聴いていた。
また、ヴァイオリン独奏のアラベラ・美歩・シュタインバッハーも、2001年10月にミュンヘン交響楽団
(ミュンヘン・フィルじゃないですよ)
の新潟公演の際にソリストとして同行しベートーヴェンの協奏曲を披露しているので、いずれも私にとっては今回が2度目ということになる。
まず、ブラームス。 シュタインバッハーはあざやかな緋色のドレスで登場。 11年前にりゅーとぴあでベートーヴェンを弾いた時の彼女がすばらしかったので、今回も期待していたが、期待に違わぬ名演であった。 前回のベートーヴェンでは細部にまで神経の行き届いた表現と叙情性が見事であり、今回はブラームスで曲の性格が異なるのでどうかなと思ったのだが、ある意味、彼女の本質は変わらず、この曲のリリカルな美しさを発見させてくれたな、という印象。 むろん、重音奏法などによるいわゆる巨匠的な表現も見事ではあるけれど、これがあくまでヴァイオリンの音楽だという基本線を忘れず、彼女なりにこの曲を捉えて見事で説得的に表現していて、感激した。
この曲、最近では私はジャニーヌ・ヤンセンの独奏で2回連続して聴いているのが――(1)一昨年11月に上野の文化会館で行われたパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団の演奏会、(2)今年4月にミュンヘンのガスタイク・ホールで行われたアンドリス・ネルソンス指揮バイエルン放送交響楽団の演奏会――私としてはシュタインバッハーのほうが上ではないかと思った。 むろん座席の位置も異なるし、りゅーとぴあの音響的特性がかなりプラスに作用していたということもあるであろうが。
アンコールも見事。 これで、CD買わなきゃという気になり、休憩時間に (本日の曲目とはがらりと変えて) フランス・ヴァイオリンソナタ集を買い、終演後はサイン会に。 ただ、彼女のミドルネーム 「美歩」 はCDには記載がない。 単に 「アラベラ・シュタインバッハー」 となっている。
さて、後半だが、前半を集中して聴いたせいか、或いは演奏会をハシゴしたせいか、ちょっと気が抜けてしまい、第3楽章の集中度はすばらしかったし、むろん全体としても立派な演奏だったと思ったが、どこか上の空で聴いていたみたいになってしまった。 すみません。
なお、パンフによると東響のコンマス高木和弘さんがこの9月限りで契約満了で退団されるとのこと。 ちょっとびっくりしたが、たぶんこの先もどこかでお目にかかれるものと期待している。 首都圏で接したモーツァルト・マチネでの演奏を含め、たくさんの名演、ありがとうございました。
本日は約1か月ぶりの音楽会ということで標記の演奏会に出かけた。 相変わらず暑い毎日だが、夜はここ数日少し秋の気配が見えるかな。
メジューエワの演奏を聴くのはこれで何度目かであるが、バッハ・プログラムは初めてなので、楽しみにしていた。
会場のりゅーとぴあは、1階席に客が結構入っていて7割くらい、それから私の買ったBブロック、つまりBランクの貧民席 (?) もかなり入っていた。 中央Cブロックは前3分の1くらい、Dブロックは十数人くらいだろうか (Dブロックは普通ならわがBブロックと同じランクのはずが、ピアニストの指の動きが見えるという理由からか、最近のピアノの演奏会ではSランクになることが多く、したがって入りが悪い)。 合わせると500人くらい入っていたか。 私は上述のようにBブロックで、Nパックメイト価格1800円。 こういう音楽会がこの価格で聴けるのはうれしいことである。
オール・バッハ・プログラム
フランス組曲第5番 BWV816
半音階的幻想曲とフーガ BWV903
(休憩)
ゴルトベルク変奏曲BWV988
(アンコール)
フランス組曲第6番BWV817よりサラバンド
メジューエワの演奏はいつもそうだけど、音の粒が揃っていて、テクニック的にはまったく申し分なく、弾き方はどちらかというと規矩を重視して、心情的な表現がないわけではなく、緩徐楽章ではハートフルな印象が強くなるが、逸脱を戒めて形を崩さないことのほうを第一に考えている、といった感じ。
バッハをピリオド楽器ではなく近代的なピアノで弾くという意味で見ると、2曲目の半音階的幻想曲とフーガが面白かったと思う。 曲の作りがピアノに適しているのかも知れない。
後半のゴルトベルク変奏曲は、やはり大曲だけあり、聴くほうもなかなか難儀だが、最初の出だしのメロディーがとても暖かで、これがメジューエワのこの曲に対するアプローチの根底にあるようで、山あり谷ありの長い行程も退屈せず、精神も弛緩せず聴き続けることができた。 こうやって生で全曲聴きとおしてみると、やはり名曲というか、大変な曲だなと痛感したのである。
アンコールの選曲もよかった。 私の好きな曲の一つである。
次回に新潟でバッハを弾く機会があったら、フランス風序曲 (BWV831)
をぜひ取り上げてほしいもの。
なお、この演奏会の配布プログラムにおける曲名表記のことだけど、見開きで左側に曲名だけ書いてあるページにはゴルトベルク変奏曲と正しく書かれているのに、右側ページの曲の解説では、ゴールドベルク変奏曲と誤った表記になっている。 解説を書いたのは須山多恵という方で、この方がどういう方なのか私は知らないのだけれど、専門家だとしたらドイツ語の発音をご存じないというのは若干問題じゃないだろうか。
ついでに、これは演奏会とは直接関係ないことだが、りゅーとぴあに来るとき私はいつも西のほう、つまりがんセンター前の通りから来るのであるが、がんセンターのところにあるりゅーとぴあ駐車場の入車状況を示す電光掲示板が作動していなかった。 これは先週、新潟オーボエ協会の無料演奏会を聴こうと思ってこの付近に来たときも同じだった(結局、満車で入れず、聴き損ねた)。
節電のためなのか、或いは壊れているのか知らないけど、せめて夜の演奏会の直前くらいは作動させて欲しいもの。 お陰で今回は、開演三十数分前に来たのが、りゅーとぴあや県民会館の駐車場は満車で、陸上競技場駐車場が空いていたからよかったものの、いったんりゅーとぴあまで行ってまた戻るのは面倒だしガソリンのロスになる。 市当局には検討をお願いします。
今月下旬に東京に行く予定でいるので、東京の映画情報をあさっていたら、なんと浅草にある映画館数館が一気になくなるという情報が!
http://www.e-asakusa.net/heikan.html
このうち、浅草名画座と浅草新劇場は、日本の映画界が元気だった昭和30〜40年代の作品を3本立てで安く上映してくれるので、私も上京するとよく出かけていた。 うかつにも両劇場とも同じ会社がやっていることすら知らなかったけれど、うーん、こうなると日本の昔の映画を劇場で見ることが困難になってしまう。
浅草ではないが、銀座にある銀座シネパトスも来春に閉館するそうである。 こちらのニュースは少し前に新聞報道で知った。 銀座の中心地から少しずれたところにあり、地下鉄の音がする映画館で、本来映画ってのはこういう、ちょっとうらぶれた気分になれる裏世界的な匂いのあるところで見るべきものじゃないか、なんて思わされる場所であった。 ここも、今どきのキレイな劇場にはかからないような作品をよく取り上げていた。
東京という街の新陳代謝の速さは今更言うまでもない。 これまでも銀座や新宿や中野や大井町にあった名画座がなくなっている。 他方、ギンレイホールや目黒シネマなどは名画座というより二番館で、昔の映画はやってくれない。
今後は神保町シアターと渋谷シネマヴェーラに頼るしかないかな。 でも、昔の邦画をやっているといっても、それぞれ作品選択の傾向には違いがあって、浅草の分が神保町や渋谷で埋まるってもんでもないんですけどねえ・・・。