読書月録2011年

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西暦2011年に読んだ本をすべて公開するコーナー。 5段階評価と短評付き。

  評価は、★★★★★=名著です。 ★★★★=上出来。 ★★★=悪くない。 ★★=感心しない。 ★=駄本。  なお、☆は★の2分の1。

 

・寺沢龍 『明治の女子留学生 最初に海を渡った五人の少女』(平凡社新書) 評価★★★ 明治4年、岩倉遣外使節団の一行が百余名の使節や留学生を乗せて横浜港を出帆したとき、その中に5人の女子留学生が入っていた。 本書はその5人の生い立ちや留学が決まったいきさつ、アメリカに渡ってからの経過、帰国後の活動などなどを詳細に綴ったものである。 このうち後の津田塾大学を創設した津田梅子は有名だが、ほかの4人も含めて、まだ海外に渡航することが困難であった時代に彼女たち5人がたどった運命を追っている。 山川捨松 (当初はもっと女っぽい名前だったのだが米国留学が決まってから父親が 「捨てたつもりで待つ(松)」 という意味で付け直した名だそうな) が軍人・大山巌の二度目の妻になり、徳富蘆花の『不如帰』のモデルにされたため、継子イジメをしていると思われたなんて話もある。 文献表や年表も含めて280ページあり、新書ながら学術書的な記述となっている。 ただし、学術的なのでやや網羅的で焦点が絞れておらず、読んでいてちょっと退屈するところもあった。

・森本恭正 『西洋音楽論 クラシック音楽に狂気を聴け』(光文社新書) 評価★★★☆ 著者は1953年生まれ、芸大中退後、桐朋や南カリフォルニア大学大学院やウィーン国立大で学び、主としてウィーンで作曲・指揮活動を行っている人である。 現在は日本の短大教授。 本書は、日本人にとって西洋クラシック音楽がどういうものなのかという根源的な問いに答えようとしたものである。 日本・西洋間のリズムの違いや、いわゆる右脳・左脳の違いなどを元に、西洋の差別的な価値観のもとに生まれた音楽がやがて市民革命を経て平等という建前に遭遇し、ベートーヴェンによってその性格を急速に変化させていく過程と捉えている。 首をひねる箇所もないではないが、クラシック音楽とは何かに渾身の力で迫ろうとしている力作だと思う。

・西尾幹二 『GHQ焚書図書開封 6 日米開戦前夜』(徳間書店) 評価★★★☆ 西尾氏の 「焚書図書開封」 シリーズの6冊目。 今回は日米開戦前夜に日本人がアメリカについてものした本を取り上げている。 日本人は当時からかなりよくアメリカを研究しており、日米の経済力の差異にも意識的だった。 必ずしも早い時期から日米の戦争を意識していたとはいえないが、相手についての認識はしっかりしていた。 他方、アメリカ側の日本に対する態度はシナ情勢をめぐり急速に悪化していく。 しかし当時のアメリカの対シナ貿易はアメリカにとって決して大きなものではなく、他方でヨーロッパの対アジア侵略を容認し、みずからもハワイを侵略して自国領土としたアメリカが早い時期から日本に対する戦意を持っていたことは明らかだとしている。 最近のポストコロニアリズム的な見方からすれば西尾氏の以上のような歴史観はむしろ当たり前と言えるわけで、今後、以上のような視点をふまえた日米関係史が築かれていくことを望む。 日米開戦を日本の国内事情だけで説明するやり方がもう通用しないことは明らかだ。

・田口理穂ほか 『「お手本の国」のウソ』(新潮新書) 評価★★★ 最近はさほどでもないけど、昭和40年代くらいまでは日本はとにかく三流国で欧米はすばらしい、と言っておけば知識人づらができた。 現代はそういう風潮はかなり改められたとはいえ、なくなってはいない。 本書は、7人の著者が、フランスの少子化対策、フィンランドの教育、英国の二大政党制、米国の陪審裁判、NZの自然保護、ドイツの戦争責任、ギリシアの財政破綻をとりあげて、日本で一般に思われている海外事情が必ずしも実態をなぞったものではないと説明している。 私がこの中で面白いと思ったのは、フランスと米国だ。 フランスの少子化対策について書いているのは中島さおりで、この人にはすでにこのテーマでの著作があり、その繰り返しではあるが、要するにフランスは最近になって出生率が上がっているが子供手当てなどの制度は昔から変わらないし、昔は子供手当てにも関わらず少子化が進んだ時期もあり、「これこれをしたから少子化が克服」 というような短絡的な見方はすべきでないというのである。 また米国の陪審裁判も、裁判員の選び方だとか、真相の究明よりいかに裁判員を味方につけるかの技術などが大事だとされていて、陪審裁判にはかかりたくないなと思えてくる。 他方、NZやドイツについての記述はあまり感心しない。 考えるに、これはこの本の7人の著者の経歴にもよるんじゃないか。 7人中6人が女性で、それも日本で正統的なキャリアを積んで研究者や官僚やジャーナリストになったのではなく、そういうルートからはずれて外国で暮らしたり外国人と結婚したりといった人が目立つ。 この本自体、そういう女性たちのネットワークで出たのではないかと思われる節があり、だからNZが昔は野生動物を殺し放題にしていて、現在は逆に鯨が一頭捕獲されてもギャアギャア騒ぐという、一見すると180度逆の道をとっているように見えるけど、実は変わっていないのじゃないかというような、根源的な問いかけが著者にできていないわけなのだ。 だって、NZの自然保護はすばらしいと思ってあちらに住んでいる日本人が書いているんだから、当たり前だよね。 その辺の限界を意識して読むのがいいだろう。

・萩原遼 『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文春文庫) 評価★★★★ 授業で取り上げて学生と一緒に読んだ本。 1998年に単行本が出て、文庫化は2001年。 著者は1937年生まれ、少年時代に在日朝鮮人の友人がいて、在日差別や朝鮮半島の問題に興味を持ち、大学で朝鮮語を学んだ後、日本共産党の赤旗記者として北朝鮮に渡る。 本書は日本にいたころに知り合った在日朝鮮人でいわゆる帰国事業によって北朝鮮に渡った人々がどういう運命をたどったか、またそれを当地で調べようとした著者がどういう危険な目にあったかを綴った本。 あわせて、戦後間もない時期の済州島の暴動事件や、それやこれやで戦後も朝鮮半島から日本に渡ってくるコリアンが多かった事情などが生き生きとした筆致で記されている。 とにかく在日問題や北朝鮮問題はきれいごとでは済まないということがよく分かる本である。

・橋本健二 『階級都市 格差が街を侵食する』(ちくま新書) 評価★★★☆ 格差社会が言われるが、巨大都市・東京の23区には、そして各区の中でも町ごとに、住み着く人間の階級があらわれており、また再開発などで同じ町でも住み着く階級が変わってしまうことがある。 本書は東京のそうした町ごとの様相の差を、統計的な手法と実際にその町を著者が歩いて目で確認する作業の双方を併用することで明らかにしようとした本である。 また現代の東京だけでなく、歴史的な変遷や、過去の町ごとのイメージ言説についても言及がなされている。 加えて現在の東京を著者が歩いて報告する部分では、町ごとにおいしい居酒屋の紹介もなされていて、お酒の好きな読者にはいわばオマケのような楽しみもある。 私も今度上京したらこの本で紹介されている居酒屋に行ってみようと思いました。

・青木道彦 『エリザベス1世』(講談社現代新書) 評価★★★★ 授業で学生と一緒に読んでみた本。 現在の英国の君主はエリザベス2世であるが、同じ名前の女王がイングランド (現在の英国のことではなく、スコットランドは別の国だった) で初めて国王の座についたのは1556年のこと。 つまり今から450年あまりも昔のことなのだ。 本書はそのエリザベス1世の生涯や治世を新書本1冊でたどったもの。 本書がすぐれているのは、当時のヨーロッパ情勢のなかで英国の置かれた位置を明らかにし、あくまでヨーロッパ内の国家としての英国の姿を明らかにしていることであろう。 当時はイングランドはまだ辺境の国家であり、ヨーロッパの大国といえばスペインとフランスであった。 他方、ネーデルランドはスペインの支配下から抜け出そうとしていた。 またカトリックとプロテスタントの宗教戦争もあった。 そうした状況の中でいかにエリザベスが国家の舵取りをし、最終的にはスペインの無敵艦隊アルマダに勝利することでイングランド繁栄の礎を築いていったかが説得的に記述されている。 スコットランドの女王だったメアリとの関係、廷臣との関係、そして経済学的な視点など、多方面に目配りがきいていて、すぐれた本だと思う。

・石田美紀 『密やかな教育 〈やおい・ボーイズラブ〉前史』(洛北出版) 評価★★★★ 少年愛をテーマとするマンガがいわゆる24年組によってジャンルとして確立されるまでの歴史を実証的にたどった本。 著者は新潟大学人文学部准教授で、私は3年前に本書が出版されたときにすぐいただいたのだが、怠慢にもずっと読まないままにきて、ここにきて多少必要もあって読んでみました。 竹宮恵子と栗本薫(中島梓)を中心として、雑誌『June』が出るに至るまでの流れを細かくたどっており、また読んでいて大変に面白い。 この方面に興味のある方には必読書。 巻末に竹宮恵子と増山法恵へのインタヴューもついている。 なお細かいことで恐縮だが、増山法恵とのインタヴューで、増山は1972年竹宮恵子や萩尾望都といっしょににヨーロッパ旅行したとき、「1ドルが360円で、まだ持ち出しの上限もありましたから」 と述べているが(308ページ)、1ドル=360円時代は1971年12月のスミソニアン協定により終わっており、この時は1ドル=308円時代だったはず。 また外貨の持ち出し制限は1969年に700ドルだったものが1971年には3000ドルにまで緩和されており、海外旅行に支障はなかったと考えられる。

・川端康成 『雪国』(新潮文庫) 評価★★★ 言わずと知れた川端の代表作だが、高校生の頃に読んで以来四十数年ぶりに授業で取り上げて学生と一緒に読んでみた。 冒頭の有名なくだり以外はすっかり忘れていた、というか高校生のときにも読んで特に面白いとは思わなかったと記憶する。 今回読んでみて、時代が異なる上に十代の高校生が読んで面白さが分かる小説ではないと痛感した。 もっとも、年をとった今読んでも、主人公・島村とワタシとの生活環境はまるで異なっており、島村みたいな生き方はものすごく恵まれたものだとしか思われない。 また、この小説はいちおう島村と駒子の交情が描かれているのだが、冒頭に出てくるのは葉子であり、また最後をしめくくるのも葉子が巻き込まれた火事であるから、島村が手に入れられなかった葉子という女を描いた作品としても読めるのではないかというのが、還暦を1年後に控えた年齢になって読んでみての感想である。

・萩原遼+井沢元彦 『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』(祥伝社新書) 評価★★★ 何かと問題が多いとされる朝鮮学校だが、実はそこで使われている教科書は外部に持ち出してはいけないことになっており、その中身は部外者には分からない。 この教科書を入手して訳出する試みがなされたのを受けて、本書はいかにその内容がデタラメで北朝鮮やその独裁者への賛美にページを費やしているかを指摘しようとするものである。 なかなか貴重な本だと思うが、教科書の内容の具体的な紹介が案外少なく、萩原遼の北朝鮮研究紹介にページが費やされている。 それも悪くはないが、タイトルにあるように朝鮮学校の歴史教科書を即物的に分析・批判するのにもっとページを割いてほしかった。 なお、朝鮮学校教科書の邦訳は 「星への歩み出版」 (大阪府八尾市西山本町7-6-5-3F、TEL/FAX: 072-990-2887) から出ている。

・竹内洋 『革新幻想の戦後史』(中央公論新社) 評価★★★★ 戦後長らく、或いは今も、日本の大学は左翼系の天国であった。 1942年生まれの著者も、学生時代に 「吉本隆明も悪くないけど福田恆存もいい」 と同級の女子学生に言ったら、「この人右翼よ」 と言われたそうである。 (著者より10歳年少のワタシも、クラス討論より授業を、と学生時代に学生集会で発言したら、女子学生から非難された経験あり。 あの時代は女子学生のほうが教条的だったような気がする。) 500ページに上る本書の内容は多岐に渡り、冒頭の、著者の出身地である佐渡での政治家 (三島由紀夫の 『宴のあと』 のモデルになった有田八郎と、北一輝の弟との選挙での争いなど) の泥仕合も面白いし、また雑誌 『世界』 と 『中央公論』 との消長や、性格の変化 (『世界』 は戦後創刊された当時はオールド・リベラリストもスタッフに入っていたが、やがて吉野源三郎が独占的に編集を行うようになり、そうなるとかえって部数は減ったという)、福田恆存の有名な 「平和論に対する疑問」 が清水幾太郎の論考の剽窃だという説があるが、実際は清水のほうが剽窃したのではないという実証的な指摘、東大教育学部がいかに教条左翼の牙城であったか、ベ平連の小田実はマスコミに出始めの頃は保守論客と見られていた、などなど、色々と教えられるところの多い本である。

12月  ↑

・磯村英一+福岡安則(編著)『マスコミと差別語問題』(明石書店) 評価★★ 1984年に出た本。 差別語問題が当時どのように社会学者たちによって語られていたかを調べるために一読したのだが、印象は芳しくない、というか、悪い。 編者の一人である福岡安則は、例えば 「部落」 という言葉が差別にあたるかどうかは文脈次第としながら、しかし 「バカチョン・カメラ」 の 「チョン」 は朝鮮人のことではないがそう受け取る人もいるので使うべきではないと、ダブルスタンダードでものを言っている。 他の著者も、当時は若い学者だが、総じてものの見方が偏っていたり単純だったりする。 ただし例外もあって、第4章を書いている角知行の文章にはそれなりに教えられるところがあった。 報道現場の複雑な事情を複雑さを省くことなく説明しているから。 また、解放同盟の土方鉄も文章を寄せているが、朝日新聞の報道姿勢を説得的に批判していて悪くない。 こういう姿勢を他の著者も見習って欲しいものだが。 なおもう一人の編者である磯村英一は、都立大教授・東洋大教授・東洋大学長を歴任した人だが、出版当時すでに81歳になっており、本書では最後に短い文章を寄せているだけで、事実上若い学者に活動と出版の機会を与えるために名を出しているに過ぎないようだ。

・加藤久和 『世代間格差 人口減少社会を問い直す』(ちくま新書) 評価★★★★☆ 著者は1958年生まれの明大教授。 少子化で人口が減少に転じているばかりか、将来ほんとうに年金がもらえるのかなどの不安が出ている日本。 そこで著者は世代間の格差が実在するのか、そして実在するとすればどういう面でか、それを防ぐにはどうすればいいかなど、多様な視点からこの問題を扱っている。 この点について議論をするに必要な各種データもたくさん収録されていて、教えられるところの非常に多い本だ。 やはり少子化が問題で、著者は若い世代への金銭的な援助よりモノ(託児所の充実など)のほうが効果的だと述べているが、私見だけど、男女のいわゆる婚活を活性化させる対策 (昔ならお節介なオバサンがやっていた役割を公的に行う工夫)、そして夫婦になった男女はだいたい1人は子供を作るので、2人目以降に金銭的な援助を手厚くするべきだと思う。

・生源寺眞一(しょうげんじ・しんいち)『日本農業の真実』(ちくま新書) 評価★★★★ 著者は1951年生まれ、東大農学部教授を経て現在は名大教授。 本書は日本の農業が現在どんな状況にあるのかを分かりやすく語ったものである。 TPP問題などで日本の農業はどうなっているのかが気になるところだが、本書は基本的なデータを掲げながら、団塊の世代までは農業を継ぐ人間が多かったが、その団塊世代の生んだ子供たちはほとんど農業を継いでおらず、老齢化が進んでいる事実、そして農業経営の大規模化が言われるけれど、西洋の畑作と東洋の水田はそもそも性質が異なるので一律に経営規模を論じるのは不適切であるという事実を指摘している。 それ以外にも色々教えられるところの多い本であり、日本農業のことを新書1冊で知りたい人にはお薦めである。

・森護 『英国王と愛人たち 英国王室史夜話』(河出書房新社) 評価★★★☆ 授業で学生と一緒に読んでみた本。 20年前に出ているが、内容は今読んでも古びていない。 歴代の英国王が実に女好きばっかりで、挙句の果てには愛人をロイヤル・ミストレスとして公式の場に伴ったりしていた様子が描かれている。 うらやましい(笑)。 ただし、日本の天皇家や将軍家とは違い、英国では父が国王や皇太子と言えども正妻の生んだ子でなければ跡は継げない。 いくら愛されていても愛人の子は王にはなれないのだ。 この点が日本とは違う。 なお、テーマがテーマなので楽しめるゴシップ話が満載されているし、比較的新しいところではヴィクトリア女王が夫に先立たれた後に馬丁を愛人にしたという、少し前に映画にもなった話も比較的詳細に取り上げられている。 また英国歴代の王様や皇太子には同性愛に走る者も少なくなかったらしい。 とにもかくにも人間の営為には愛欲がつきものだと痛感させられる本である。

・ホーソーン (鈴木重吉訳) 『緋文字』(新潮文庫) 評価★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 アメリカ文学の古典だが、私も未読だった。 まだアメリカが植民地だった時代のボストンを舞台に、貫通を犯して子供を生んだがゆえに胸に絶えず 「A」 の文字をつけるよう強制されたヒロインと、隠微な復讐をもくろむ元夫、そしてヒロインの担当牧師らを中心に、貫通の罪とその贖罪の問題が描かれている。 著者の、或いは語り手の態度は、今日の一般的な道徳的通年からするとやや厳しいが、不倫の問題は時代と地域を問わず人間につきまとうものであるから、こうした小説にもそれなりに存在価値があるということなのだろう。 なお、授業では安価な新潮文庫版を用いたが、訳は必ずしも分かりやすくなく、注も親切とは言えない。 私は岩波文庫の新しい訳を併用したが、こちらのほうが分かりやすく注も親切で、また新潮文庫版では入っていない冒頭の長い章も収録されており、これから読もうという方には岩波文庫版をお薦めしたい。

・木村幹 『韓国現代史 大統領たちの栄光と蹉跌』(中公新書) 評価★★★ 3年前に出た新書で、出てすぐ買ったもののツンドクになっていたが、授業での必要性もあって読んでみたもの。 戦後韓国の歴史を記述しているが、その際、副題にあるように大統領になった人物の経歴を描く形で歴史をたどっている。 また、著者もあとがきで断っているように、戦後韓国の歴代大統領が全員取り上げられているのではなく、史料の関係で崔圭夏、全斗煥、盧泰愚の3人は取り上げられていない。 また、それ以外の人物についても、私の見るところ史料が限られていておそらくは今後修正を迫られるのではないかと思われるところがある。 金大中や金泳三は、用いられている史料の関係で少し記述上得をしている印象もある。 加えて、朴正煕などが典型だが、韓国の経済的発展を見ないでは韓国史は語れないはずなのに、その辺の記述がほとんどないに等しい。 というわけで、私のようなシロウトから見てもちょっと制約や限界が多めな本ではあるが、手軽に読めて戦後の韓国史を概括できるという意味ではそれなりに有用な本である。 なお、初代大統領・李承晩が日本軍の拷問を受けて傷が残ったと言っているのはウソで、大韓帝国時代に開明派として活動したため大韓帝国により投獄され、そのときに受けた拷問の傷というのが正解だという。 彼が日本軍に拘束されたという事実はないのだそうだ。 私は中学時代に日共シンパの社会科教師から、李承晩は日本軍により拷問にかけられて・・・という話を聞いてずっとそうだと信じてきたので、この年になってそれがウソだったと分かって目からウロコであった。 

・中野雅至 『1勝100敗! あるキャリア官僚の転職 大学教授公募の裏側』(光文社新書) 評価★★★☆ 著者は1964年生まれ、同志社大英文科卒業後、市役所勤務をへて労働省の官僚に。 その後、新潟大学大学院で博士号をとり、兵庫県立大学の准教授へ転身。 本書は、著者がキャリア官僚から大学教授に転職したいと考えて、たまたま新潟県庁に出向になったのを利用して新潟大学の大学院に入学し、経済史の藤井隆至教授を指導教官にして博士論文を執筆、その前後から大学教員の公募に出しまくるが連戦連敗、ノイローゼになりかかったころ、ようやく兵庫県立大学に採用されるに至るまでを物語っている。 この著者の本は今まで2冊読んでいるが、いずれも面白かったけど、本書も読み始めるとやめられないくらい面白い。 大学教授になるにはどうすればいいかと考え始めてから様々な試行錯誤を経て博士号を取得しようと決意するまで、そして大学の公募に落ちまくる過程が、きわめて分かりやすく描かれている。 それと、出版業界は障壁の高い業界だという指摘も有用。 つまり、著者は最初は本を出せば教授になれると考えて出版社に色々あたったのだが、全然相手にしてくれないという体験をしている。 まあ、この辺はまったく同感で、日本の出版界は基本的にコネ社会だから、コネのない人間は入っていきようがないのだ。 本書は最後に、公募に出して落ちた大学の一覧表までついている! 上は東工大・九大・東北大など国立有力大や早大・上智大などの有力私学から、下は地方都市の短大まで、実に多様である。 よくこれだけ頑張れたなと思うが、無職ではなく一応官僚という身分にあったからできたのだとも言える。 ちなみにワタシはちょうと10回目の公募で新潟大に拾われたので1勝9敗だが、9敗分のリストを挙げる勇気は・・・・(笑)。  

・桜庭一樹 『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(角川文庫) 評価★★ 著者は1971年生まれの女性作家 (男性ではない)。 私は名前も知らなかったのだが、卒論副指導になった学生が 「桜庭一樹論」 をやるというので、一冊くらい読んでおかないとと思い――なんてことを書くとまた小谷野敦氏から 「大学は終わってる」 と言われるかな(笑)――amazonから1冊1円の古本を取り寄せて (と言っても送料が250円かかるけど) 読んでみた。 旭川が舞台だけど旭川らしさは特段感じられず、主人公は高校生のものすごい美少女で鉄道マニアであり、同級生の美少年が幼馴染で、という設定で、そこにヒロインの母 (男にだらしない元小学校教諭) だとか、元アイドル歌手の芸能スカウトだとか、色々からんでくるのだけれど、全然リアリティが感じられず、まあ糞リアリズムがいいと言いたいわけでもないんだけど、これ、ライトノベルの一種と思えばいいのかなあ。 でも女子高校生なんかは (或いは大学生でも) こういうのを何となくの雰囲気で読んで納得しているのかもしれないな。 単行本どころか文庫版まで出てるくらいだから。

・林敏彦 『大恐慌のアメリカ』(岩波新書) 評価★★★★ 1988年に出た新書だが、BOOKOFFで105円で売っているのを購入。 最近、ギリシアやイタリアなどヨーロッパ経済が揺らいでいる情勢があって、ふだん経済関係の本はあまり手に取らない私だが、何となく読む気になった。 著者は京大経済を出た後スタンフォード大で博士号をとり、本書執筆時には阪大教授だった人。 本書はまず第1章でアメリカで株式市場の大暴落が起こった当時の状況を描写し、ついで第2章で第一次大戦が終わった後の1920年代におけるアメリカの繁栄を、そして第3章で恐慌後の大不況の様子を描いている。 そして第4章ではニューディール政策を詳細に渡って紹介し検討している。 意外なことに、ルーズヴェルト大統領は財政均衡を信念とする人であり、ニューディール当時の政府支出も国民総生産やアメリカの政府予算規模からするとたいしたことがなかったらしい。 ニューディールが不況克服にはたいして役に立たず、実際には第二次大戦が勃発して景気が回復したというのは最近では常識化しているけど、要するにニューディールは見かけほどの政府主導型の支出を行っていなかったということのようだ。 また、政治家の反対や、さらには連邦最高裁がルーズヴェルトの法案を違憲をするといった制約もあった。 ここの箇所で著者は、当時の連邦最高裁判事の多くは大企業の弁護士上がりで老齢化していたと述べている。 つまりは、今の日本と同じで、ああでもないこうでもないという異論ばかり多くて、大統領と言えどもなかなか思うような政策はとれなかったのである。 第5章では、なぜ大恐慌が起こったのかという問題についての、色々な経済学者の説を紹介している。 経済学にうとい私には必ずしもよく内容が理解できたわけではないが、大恐慌が起こった原因については今でも共通した理解が乏しいようだ。 ただ言えることは、大恐慌直前のアメリカ社会は格差が広がっており、それが消費不足につながっていたこと――ここは現代の状況にも通じる――、第一次大戦後の農産物や工業製品の過剰生産によりデフレ傾向が強まっていたこと、そして第一次大戦までは覇権国であった英国が経済不況にあえぐ中で、アメリカは自らが新たな経済覇権国の座についているという自覚に乏しかったこと――これは特に関税を引き上げたフーヴァー大統領の政策に現れているという。 そしてその教訓は、第二次大戦後の世界経済体制を、戦時中にすでに検討し始めたアメリカの態度に活かされているのだそうである。 色々な視点から大恐慌を解説した、そして経済学者同士も意見が割れている部分にも光を当てた、専門家ならではの好著と言える。

・代島治彦 『ミニシアター巡礼』(大月書店) 評価★★★☆ 著者は1958年生まれ、ミニシアター 「BOX東中野」 を運営していた人。 本書は日本全国のミニシアターを訪ね歩いて、各運営者の話を聞き、それぞれの歴史や特性を述べたものである。 北は札幌のシアターキノから、南は那覇の桜坂劇場まで、全部で12館の紹介がなされている。 新潟市のシネ・ウインドも登場する。 ミニシアターと言っても運営形態や歴史は様々で、私が特に面白いと思ったのは金沢のシネモンドと岡山のシネマ・クレール。 前者はもともと金沢に住んでいなかった女性が結婚し、夫が石川県小松市に勤務となり、小松市は映画館がないから暮らせないけど金沢ならということで金沢に住まうようになり、しかしミニシアターがなかったので立ち上げたという。 しかし運営は苦しく、金沢市民の署名を集めて公的助成を狙ったが、いまだ実現していないそうだ (海外には公的助成による映画館もあるのである)。 オーケストラ・アンサンブル金沢には税金をそれなりに出しているのに、映画館には出せないと言う金沢市の態度はいかがなものだろうか。 岡山は、運営者があくまで個人として映画館を立ち上げたというところが面白い。 こういう仕事はともすると 「映画が好きな仲間が一致団結して」 というふうになりやすいのだが、岡山のシネマ・クレールは運営者が資質的に一人で仕事をする人なのだろう、と思う。 実は新潟市のシネ・ウインドにも 「同じ釜の飯を食うな」 という標語があるのだが、なかなか実際にはそうはいかない部分がある。 それはさておき、最後のユーロ・スペースで東京に戻るのだが、恵比寿のガーデン・シネマや渋谷のシネ・セゾンの閉館など、ミニシアターを取り巻く状況が厳しいことにも最後できちんと触れられている。 東京では以前は渋谷が映画の街だったが、現在はシネコンが揃った新宿に中心が移っているという指摘もあった。 誰もが見るわけではない作品を求めてミニシアターに通う若者がそれなりにいた時代から、誰でも知っている作品にしか出会わないシネコンに若者が通う時代。 ミニシアターは今後どうなっていくのか。 本書は決してそういう状況を無視して楽観的な観測を垂れ流すことはしていない点でも、良心的な書物だと思う。

・飯沢耕太郎 『戦後民主主義と少女漫画』(PHP新書) 評価★★★ 2年前に出た新書をBOOKOFFにて半額購入。 著者は1954年生まれ、写真評論が専門であるが、ひょんなことから少女漫画についてのこの本を書くことになったという。 タイトルがあまり良くなくて、私もBOOKOFFの店頭で見たときはタイトルゆえに手に取るのをためらったのであるが、内容は比較的にまともである。 1970年代のいわゆる24年組の登場について、当時の社会状況をふまえた上で、大島弓子、萩尾望都、岡崎京子の3人をメインに論じている。 彼女たちの限界などについてもそれなりに書かれていて、客観的で説得性のある論じ方がなされていると思う。 ただしこの3人以外の記述はきわめて少ないので、この3人に興味のある人以外には薦められない。 最後に本来の専門である写真論にも、少女性との関連で少し言及がなされている。 

・太田肇 『公務員革命――彼らの〈やる気〉が地域社会を変える』(ちくま新書) 評価★★☆ 最近公務員バッシングのひどさが目立つ。 公務員の宿舎が建つと言っては批判し、公務員の給与はオレより高いと言っては新聞の投書欄に投稿したりする――公務員より給与の高い人 (だって多いはずだが) は決してこういう投稿はしない。 こういう状況を憂いて、むしろ公務員を積極的に活用してこそ世の中は良くなっていくと主張した本。 著者は1954年生まれの同志社大教授。 趣旨自体には大賛成であるが、内容はというと、あんまり細かい勤務評定をするななどうなずける部分もあるが、どうも具体例が少ない。 ここでの公務員は基本的に地方公務員のことなのであるが、もう少し色々な地方自治体に取材して、その内部機構や制約なども調査した上でこの種の本を書いたほうがいいんじゃないだろうか。 原理原則論だけ述べても、応用のしようがないと思う。  

・藤川隆男 『人種差別の世界史 ――白人性とは何か?――』(刀水書房) 評価★★★ 著者は1959年生まれの阪大教授。 本職はオーストラリア研究らしい。 本書はいちおうタイトルどおり人種差別の歴史もたどっているが、ミソはむしろ副題の 「白人性とは何か」 にあるようだ。 つまり、差別がなくなるということは多様性の保証かというと、必ずしもそうではなく、むしろ白人でない人が 「白人」 っぽくなっていき、「白人」 の持っている文化的特性だとか思考法だとかを身につけていくことで、そこに問題があるというわけだ。 ここでの 「白人」 は文字通りの白人――こういう人種的な区分けが無効になってきていることは本書にも書かれている――ではなく、外見的には白人でも白人でない場合もあり (例えばプア・ホワイトなど)、そういう構造自体を吟味することが著者の目的らしい。 テーマ自体は面白いと思うが、後半にそのテーマに肉薄する部分は記述がいささかくどいし、また全体に ( ) を入れて関西漫才的なツッコミを挿入する書き方がどうにもダサくて――おまけに意味不明な箇所もあった。小林秀雄と観月ありさが並べてあったけど全然分からなかった――もう少しまともな記述ができないのかと首をひねった。 あと、オーストラリア研究者なのであちらでは鯨が人間扱いされていると何箇所かで言っているんだけど、それはつい最近のことであり、宗主国たる英国が南極海で盛んに捕鯨をやっていた頃 (1960年代まで) のオーストラリアはそんな変な主張はしていないかったことを考慮するなら、それこそ白人性の問題だと気づいてほしいところだが、どうもそういう、目の前にある白人性の問題には盲目になる人らしい。 最後に文献案内があるのはいい。

11月  ↑

・渡辺靖 『文化と外交 パブリック・ディプロマシーの時代』(中公新書) 評価★★★ 著者は1967年生まれで上智大卒業後ハーヴァード大で博士号を取得し、現在は慶大教授を務めている人。 本書は、外交が単に軍事力とか政治によってなされるものではなく、文化交流などのいいわゆるソフト・パワーを通してもなされるところに光を当て、その起源や変遷をたどっている。 言及範囲は広く、第二次世界大戦後のアメリカによる日本占領にまで及んでいる。 ただし、そういう、比較的他にも文献が多い部分は、紙数の関係もあろうが、物事を簡単に割り切っているようで (つまりプラス面だけ見てマイナス面は見ない)、また戦前の連合国の植民地政策に比べて枢軸国の同じ政策が劣っているとする、ホントかいなと思われる記述もあって、著者がアメリカで学位をとった人であることが必ずしもプラスには作用していない部分も若干あるような気がするけれど、そして多方面に言及するあまり個々の問題は掘り下げがやや浅いようにも思えるけれど、しかしそういうマイナス面を含めても全体としてこの種の問題を新書一冊で扱った本は貴重だし、また文化交流などのソフト・パワーへの批判的な見解も紹介しているので、十分一読に値する本になっていると言えるだろう。

・谷崎潤一郎 『刺青・秘密』(新潮文庫) 評価★★★☆ 授業で学生と一緒に読んだ本。 私は谷崎の初期作品は少ししか読んでおらず、本書収録の7編も初めて読んだ。 むずかしい漢語が多いのに閉口。 私が閉口するくらいだから、学生はもっと閉口しただろう。 いちおう注はついているが、つけるべきところについていない場合もある。 例えば 『秘密』 に、「土耳古(トルコ)巻のM.M.C.の薫り」 という表現が出てくるのだが (94ページ)、この 「M.M.C.」 というのが、多分葉巻の銘柄なんだろうけど、よく分からず、注もついていない。 あと、本文でお金が出てくる箇所に注がついていて 「今なら○○円」 なんて書いてあるんだけど、「今」 っていつなのか。 注釈者はこの辺に配慮してほしいと思った。 内容的には、谷崎のマゾヒスティックなところが出ている作品が目立つ。

・八幡和郎 『本当はスゴい国? ダメな国? 日本の通信簿』(ソフトバンク新書) 評価★★★ 著者は1951年生まれ、東大法卒で元通産省官僚。 現在は四国の大学教授。 日本を他の主要な国々とあらゆる側面から比較し、現在のわが国がどの程度のランクになるのかを明らかにしている。 誠治、安全、経済、社会保障、環境、教育・文化、ITなど、ありとあらゆる分野が取り上げられている。 これだけ多方面の事柄について万遍ない知識を持つのは大変だろうと感心するところが多いけど、限界もそれなりにあって、例えば死刑がある日本をそれだけの理由で後進国扱いするとか (人間を何人殺しても死刑にならない制度って、野蛮じゃないだろうか、なんてことは頭に浮かばないらしい)、ヨーロッパの終身刑は終身刑務所に入れられるわけじゃない (だから日本の無期刑と変わらない) ということを知らないとか、ワインは評価するのに日本酒は評価しないとか (私はフランス・ワインは値段のわりにはマズいと思う)、一人の人間だから知識の限界はそれなりにあるなとも思う本である。 ま、物事の尺度は色々あるから、こういう考え方もある、程度に受け取っておけばいいんじゃないか。

・伊勢崎賢治 『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書) 評価★★★★ 授業で学生と一緒に読んだ本。 7年前に出た本だが、東チモールやアフガンやシエラレオーネで国連が行う武装解除の業務に従事した著者の体験記。 きれいごとでは済まない仕事をいかに遂行するかが率直に語られていて、国際社会の実態だとか、海外NGOの動向だとかも分かってくる。 この種の仕事に携わる日本人はまだまだ数がごく少ないだけに、貴重な本と言える。 著者の、経験を経た上での甘くない国際社会認識には教わるところが多いが、なぜか最後に九条擁護に行ってしまうところが、玉に瑕かな。  

・中条省平 『マンガの教養 読んでおきたい常識・必修の名作100』(幻冬舎新書) 評価★★★ もともとフランス文学者である著者は、大学でマンガを教えることになり、マンガを教わりたいという学生にアンケートをとったところ、マンガに関する知識があまりにないのに愕然とし、それもあってこの本を書くことになったようだ。 最初に三島由紀夫がマンガについて述べたことが引用されていて、ここは必読。 それから、マンガ家1人1作というしばりのもとに、見開き2ページで1作が紹介されている。 つまり100人のマンガ家が紹介されている。 順番は新しいものから古いものへ。 だから一番新しいのがこうの史代の 『この世界の片隅に』(2007年) で (私は知りませんでした)、最後を飾るのが織田小星+樺島勝一 『正チャンの冒険』(1923年) である (やはり私は知りませんでした)。 新しいマンガ家を59歳の私が知らないのは当たり前だけど、手塚治虫と同時代でも結構知らない名前があるのに驚いた。 例えば徳南晴一郎なんてマンガ家がいたとは知らなかった。 というわけで、年寄りにも若い人にも勉強になる本である。

・吉田徹 『ポピュリズムを考える 民主主義への再入門』(NHKブックス) 評価★★★★ 最近の政治状況はポピュリズムの危険性を感じさせるものとなっているが、ポピュリズムについて原理的に考察した本である。 著者は1975年生まれの北大准教授。 ポピュリズムが民衆主義あるかぎり生じうるものであること、そもそもポピュリズムを悪とする前提が正しいかどうか疑問であること、ポピュリズムの定義は実は難しく、純粋なポピュリズムがありえるかどうかは分からないこと、そもそも現代先進国にあって自由か民主(=平等=自由への束縛)かは二者択一的な問題ではなく、その相克の延長線上にポピュリズムもあるのだということ、などなど、ポピュリズムに色々な光が当てられており、またこの問題に関する内外の研究者の見解も多く示されていて、たいへん勉強になる本である。

・沢田健太 『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話 知的現場主義の就職活動』(ソフトバンク新書) 評価★★★ いくつかの大学のキャリアセンターに勤めたという著者の体験談を中心にまとめた本。 もっとも著者名は実名ではなさそうだし、そもそも一人の人間なのかどうかも不明ではあるが。 私のように学校システムから外に出ないで生きてきた人間には――大多数の大学教師はそうであるわけだが――学生の就職の悩みが今ひとつぴんと来ないということもあり、読んでみた。 最初は、大学キャリアセンターには実はあまり人材がいないという話から始まり、しかしキャリアセンターは今時なら大体の大学にあるので、仕事を外部に丸投げして、甘い汁を吸われているというような話から始まる。 率直なところ、前半はあまり面白くなかった。 キャリアセンター自体の問題点を指摘しているのだが、誰に向かってものを言っているかがはっきりしないからだろう。 後半は就職に向けての具体的なアドバイスが、学生や保護者に向けてなされているので、読んでいてそれなりである。 今はネットで応募することが出来るようになっているので、特に有力企業には学生応募が何万と集まり、そのために企業側でもどうやって絞るか苦労しているのだという。 また、学生の側でもそういう企業にいくつも応募しても次々と落ちてしまうので、落ち込む場合が多いという。 ネット社会は、就職に関してはマイナス要素もかなりあるわけだ。

・大澤武男『ユダヤ人 最後の楽園 ワイマール共和国の光と影』(講談社現代新書) 評価★★★ ヴァイマル共和国時代のユダヤ人がどのような扱いを受けたか、またどのような活動をしていたかを記した本。 最初に断ってあるように、ユダヤ人という固定的な民族がいるわけではなく、周囲からユダヤ人と見なされる人がユダヤ人なのだという前提で書かれている。 政治家や芸術家や学者などを取り上げて、周囲からユダヤ人と見られることでどのような影響が生じたかが指摘されている。 もっとも悲劇的なのはラーテナウであろう。 ヴァイマル共和国の混乱期に、ユダヤ人として政治の中枢で仕事をすることが危険だと分かりながらあえてその道を選び、そして凶弾に斃れてしまう。 他にも、誠実に仕事をしながらユダヤ人であるがために迫害を受けたり正当な評価を受けられなかった例が多数出てくる。 しかし他方で当時のドイツはすぐれたユダヤ人たちの活動に支えられている部分が多く、ノーベル賞などは特にそれが目立つ分野で、ナチス支配でユダヤ人が排斥されることで科学や文化の水準を大きく落とすことになる。 内容的には悪くないが、著者の文体は 「である」 ばっかり続いて単調だし、ドイツ語の発音が不正確なところも目立つ。 例えば、クルト・トゥヒョルスキー (101ページ・誤) → クルト・トゥホルスキー (正)、マックス・ブロード (106ページ) → マックス・ブロート、シグムント・フロイト (107ページ) → ジークムント・フロイト、など。 「ワイマール」 というのも、日本では流布してしまっているけれど、後ろは短母音なので、ヴァイマル、またはワイマルとするのが正しい表記である。 また、記述が誤解を呼びかねない部分もある。 例えば 『シオン長老の議定書』 をユダヤ人が世界支配の陰謀を企んでいると主張する教説、と書いているけど(78ページ)、そういう陰謀を捏造した偽文書、でしょ。   

・萱野稔人 『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書) 評価★★★ 著者は1970年生まれで津田塾大准教授、思想関係での発言が目立ってきている人。 ここでは、日本の知識人に多いナショナリズム恐怖症を批判して、ナショナリズムとはそんなに悪いものなのか、そもそもナショナリズムがなければ近代国家も、そして近代資本主義すらも成立しなかったのではないかと主張している。 その際に、原理論的にナショナリズムに関する名著をいくつかあたって紹介しているところが、本書のすぐれた部分である。 ドゥールーズ=ガタリ、フーコーを援用してネグリ=ハートのマルチチュード=帝国論を批判しているところも、なかなかいい。 ただし、最初の右傾化を論じるところで、靖国問題や従軍慰安婦問題を単に右傾化の道具としてしか見ていないのは、彼が批判している日本の左翼的知識人と同然だろうし、また最後でファシズム概念を突き詰めることをせずに、第二次大戦の枢軸国側全部にそのまま適用しているところは、あまりに不勉強。 第二次大戦を先発資本主義国対後発資本主義国の図式で捉えることくらいはもう常識でしょう。 それは別にしても、最後の結論部分があまりに腰砕けで、最初に掲げた看板が見掛け倒しに見えてくるのが、残念である。 しかし中間の部分は充実しているので、一読の価値は十分にある。

・野口雅弘 『官僚制批判の論理と心理 デモクラシーの友と敵』(中公新書) 評価★★★ 著者は1969年生まれで早大院修了後ボン大学で博士号をとり、現在は立命館大准教授、マックス・ウェーバーが専門らしい。 で、本書だが、不況が長引き、公務員バッシングが目立っている最近の日本。 しかし近代的な国家、それも福祉国家にあっては公務員の数は一定数必要なわけで、そういう基本的なことが分からずに、不況の心理的憂さを公務員バッシングで晴らしている日本人だとか、それに便乗している一部マスコミは不見識だと言われても仕方がないのだ。 本書は、官僚をテーマに、新自由主義によって経済格差が拡大し、それがなぜか官僚批判となっていく原理を、マックス・ウェーバーなどの官僚論を基本に据えて、原理的に考察した本である。 原理的だから、必ずしも現代日本の状況を改善する特効薬になるような書物ではないが、一読の価値があると思う。 ハーバーマスやマルクスやルーマンのみならず、カフカやリルケなど、文学畑からの引用もあって、カフカと官僚制という、主としてハナ・アーレントからの示唆で展開されている箇所も、それなりに面白い。 最後に本書の趣旨が要約されて再度提示されているのも親切。

・宮崎学 『ヤクザと日本人 ――近代の無頼』(ちくま書房) 評価★★★☆ 日本のヤクザについて、近世、および近代における実態や成立過程や変質を述べた本である。 最初に丸山真男の「無法者」という概念規定を引用し、それを裏返して現代日本人の小市民的な生き方を概念規定している。 その上で近世ヤクザについて推測も交えながら第1章で説明したあと、第2章以降では近代ヤクザについて詳しく論じている。 一面では下層肉体労働の組織化が上からはなし得ず下から行うしかなかった明治期日本の 「上からの近代化」 の限界が、また芸能人が興行との絡みで地域ボスとつながりを持たざるを得ない実情などが述べられている。 最後に山口組についてまとめて叙述した部分が興味深い。 組長だった田岡一雄の天才的な能力と、テレビ局が芸能界の実権を握る以前の段階では芸能人が山口組の組織を通じて安心して興行を打てる構造があったということらしい。 そうした条件は徐々に消えていくのだが、現在でも完全に消えたと言えるのかどうか、問題はそこにありそうだ。

10月  ↑

・加藤隆 『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』(講談社現代新書) 評価★★★☆ ユダヤ教やキリスト教は一神教だというのが常識みたいになっているが、歴史をたどるとユダヤ教やキリスト教が最初から今あるような形になっていたわけではない。 ソロモンの王国が反映していた時代のイスラエルの民は多神教的ですらあった。 本書は、そうした状況からどういう経緯を経て現在のようなユダヤ教やキリスト教ができあがってきたのかを丁寧に追っている。 色々な要素があるけれど、鍵は旧約聖書や新約聖書といった文書の形での聖典の成立ということ。 そしてユダヤ教についてはなぜ神がユダヤの民を守ってくれなかったのかというところから契約の問題が浮上し、またキリスト教については最初はユダヤ教のなかの一分派だったものが自己正当化のために聖典を作らざるを得なくなっていくところが鍵らしい。

・高山正之 『サダム・フセインは偉かった 変見自在』(新潮文庫) 評価★★★ 元産経新聞記者でのちに帝京大教授もつとめた著者のエッセイ集。 左翼マスコミや知識人のおかしな見解を叩き切っているところが売り物。 タイトルになっているエッセイは、アメリカが極悪非道としたサダム・フセインは実はイラクから宗教の重石をとりのぞき、近代化を推し進めた進歩的な政治家だったと述べている。 また、『敗北を抱きしめて』 を書いたダワーは、米軍の日本占領は道徳的に行われたと述べたが、実際には婦女子に対する暴行があとを断たず、米軍占領下で殺された日本人は2千5百人あまり、障害を負った日本人は3千人あまりになると指摘している。 またアメリカはフィリピンを植民地化したとき、大虐殺を行ったという事実も述べられている。 しかしフィリピンの現行教科書からはそうした事実は抹殺されているそうである。

・マーガレット・ミッチェル(大久保康雄+竹内道之助訳) 『風と共に去りぬ (5)』(新潮文庫) 評価★★★☆ 最終巻は第4部の最後あたりと第5部。 二度目の夫を失ったばかりのスカーレットにレット・バトラーが求婚し、二人はめでたく結婚、女の子が生まれる。 バトラーはこの子ボニーを猫かわいがりにし、そのせいでボニーはわがままな女の子になってしまう。 スカーレットは新居を建てて人々を招待するが、彼女の事業のやり方がもともと不評で、北部の人間とも事業のために親しくしていたので、南部の人々の間で悪評がたっていて、やってきた人々は多くなく、また必ずしも心からではなかった。 ちなみに女の子を生んだあとのスカーレットのウェストは20インチ。 つまり50センチだが、娘時代が17インチだったので嘆いているけれど、これでも現代なら驚異的に細いと言われるだろう。 アシュレは相変わらず工場経営が下手で利益が上がらないが、バトラーはひそかに妻メラニーにカネを渡して、これでスカーレットの工場を買い取らせ、スカーレットが事業から手を引くようにことを進める。 南部は北部の肝いり知事で無茶苦茶な政治がなされていたが、それも終わりが来る。 やがて娘ばかり可愛がるバトラーとスカーレットとの仲はうまくいかなくなり、バトラーは娘を連れて長い旅に出る。 しかしその直前の情事で、スカーレットはふたたび妊娠する。 しばらくしてバトラーは帰還するが、妊娠のことを打ち明けようとしたスカーレットに嘲笑的な態度をとり、彼女は階段から転落して流産してしまう。 また、そのあと、わがままなボニーは馬に乗る訓練をしていたが、無理な高さの障害物を飛ぼうとして転落し、首の骨を折って死んでしまう。 ショックを受け、娘の葬式を出すことすら拒んでいたバトラーを説得したのは、メラニーだった。 やがてそのメラニーが死の床に就く。 彼女は体が弱く、一人子供を生んだあとは妊娠を禁じられていたのに、それを無視して妊娠してしまったのだ。 彼女の死は夫のアシュレにもスカーレットにもバトラーにもショックを与えるが、妻に死なれて呆然とするアシュレを見て、ずっと彼に恋焦がれていたスカーレットは気持ちが変わってしまう。 そして自分はやはりバトラーと一緒に暮らすのがいいと思って彼のもとに行くのだが、そういう気持ちになったスカーレットに対してバトラーは別れを告げる。 このあたりの展開は実に巧みと言うか、人間関係の鍵を握っていたのは実はメラニーだったのだと分かるし、スカーレットとバトラーは喧嘩が絶えなかった時こそ愛し合うことができたが、喧嘩をやめようと思った時点で愛し合うことができなくなるという関係だったと分かるのである。 男女は、喧嘩ができるうちが花なんですよね。

・渡辺公三 『闘うレヴィ=ストロース』(平凡社新書) 評価★★★ レヴィ=ストロースの思想の遍歴を、若い頃のマルクス主義への傾斜から、のちに南アメリカに渡って構造主義を唱えるようになるまでを追った本。 しかし、長生きした学者の残した膨大な資料をもとに彼の思想を再現するのはなかなか大変なようで、読んでいてよく分からない部分もあった。 あと、私としてはこういうふうな生き方をした学者の経済的な基盤なんかが気になるのだが、そういう面への言及はなく、そこがちょっと物足りない感じ。

・西尾幹二 『GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満洲、支那の排日』(徳間書店) 評価★★★ 戦前戦中に日本で刊行されながら、アメリカ駐留軍の事実上の焚書により人の目に触れなくなった歴史書などを紹介するこのシリーズも、今回で5冊目となった。 今回は、ハワイをめぐるアメリカの太平洋侵略を扱った本、満洲が戦前戦中の日本人からどう見られていたかを扱った本、そして支那(中国)人の性格を扱った本を取り上げている。 特に、ハワイはもともと独立国だったものがアメリカの侵略によってアメリカ領となったわけで、今に至るまでそうであり、この点の歴史上政治上の重要性はなおざりにされてはならないが、あんまりその方面に触れている本がないので、本書は貴重だと思う。 ただし戦後そういう本がまったくなかったわけではない。 長らく東北大学教養部教授を務めた黒羽茂先生の 『太平洋をめぐる日米抗争史』(南窓社、1968年) がある。 私も大学1年生のときに黒羽先生の講義を拝聴したので、ハワイのカメハメハ王朝がアメリカの侵略のせいで滅亡したという事実は知っていた。 そういうアメリカの動きの果てに第二次世界大戦での日米の衝突があるのだという事実を押さえておかないと、歴史を語る資格もないだろう。

・川人博 『金正日と日本の知識人 アジアに正義ある平和を』(講談社現代新書) 評価★★★☆  4年前に出た新書を今年の2月に東京のBOOKOFFで購入し、この夏休みにやっと読むことができた。 著者は拉致問題解決のための運動をしている弁護士。 金正日による日本人拉致問題について、日本の左派知識人が正義に反する主張を行っていることを正面きって厳しく批判した本である。 具体的には、姜尚中・東大教授、和田春樹・東大教授、評論家・佐高信、水島朝穂・早大教授が取り上げられている。 ここからも分かるように、東大教授が目立つわけで、日本を代表するはずの大学になぜおかしな教授が多いのかは、真面目に考えるに値しよう。 これ以外にも、在日で北朝鮮に批判的な運動家に対して嫌がらせや攻撃を行なったり、有能な在日青年を取り込もうと工作をしたりする北朝鮮の体質が紹介されている。 まさか、と思うようなことまでやってのける北朝鮮という国家の異常さを知れば、まともな外交交渉だとかいわゆる太陽政策が奏功しないことは明らかで、そういう知識を前提として拉致問題を考えていかねばならないのだと身にしみて分かる本である。

・マーガレット・ミッチェル(大久保康雄+竹内道之助訳) 『風と共に去りぬ (4)』(新潮文庫) 評価★★★☆ 第4巻は第4部の途中から(第4部は長いので次の巻まで続く)。 妹の婚約者を横取りして再婚したスカーレットは、夫の仕事に介入しただけではなく、やがて製材所を購入して経営に乗り出した。 そのカネを提供したのはレット・バトラーである。 この辺、レット・バトラーってスカーレットに都合のいいときに出てきてくれるんで、やはりハーレクイン・ロマンスじゃないですか。 他方、解放された黒人は怠け者になって労働者としては役に立たない。 この辺は、南部側の視点から、かつては黒人奴隷のなかで優秀な人材はそれなりの地位にとりたてられ、怠け者の黒人が単純労働に出されたのだという説明がある。 ストウ夫人の 『アンクル・トムの小屋』 での黒人像がいかに出鱈目かという反論のようなもので、また、ここには理論上はともかく実際の黒人に嫌悪感を示す北部白人女性なども描かれている。 黒人に鞭を使ったり猟犬で狩り立てたりするというストウ夫人の描写が現実に反しているのに、北部人はそれを信じているという場面もある。 そして、北部人による種々の南部圧迫によって、悪名高いKKK団ができあがってしまう。 第2・3巻もそうだが、南北戦争の実態、そして戦後処理については、本書はなかなか貴重な資料を提供していると言えると思う。 南北戦争は奴隷解放の正義の戦い、だけでは到底済まないのである。 もっともスカーレットはお金儲けのことばっかり考えていて、政治的な対立にはあまり関心がない。 そうこうするうちに妊娠した彼女は、今度は女の子を出産する (最初の結婚では男の子)。 タラでかろうじて生きていたスカーレットの父は北部と南部の対立のゴタゴタの中で死ぬ。 スカーレットが好きなアシュレは、タラではあまり役立たず (農作業向きではないのである)、本人は北部に出ようとするが、妻のメラニーもスカーレットも反対し、結局スカーレットが製材所の管理人の仕事を提供して南部にとどまることになるが、やはり向いていないようで、生気を失っていく。 そういうアシュレを、レット・バトラーは、ある時代のある場所でしか生きられなかった人間だと評する。 あるときスカーレットは解放黒人に乱暴されそうになり、かろうじて救われるが、復讐のために夫フランク・ケネディとアシュレは夜出かけていく。 実は二人ともKKK団の一員だったのだ。 しかしそれを嗅ぎつけた北部軍により夫フランクは殺されてしまう。 アシュレだけは、レット・バトラーの機転で助かる。 

・コリン・ジョイス (森田浩之訳)『「イギリス社会」入門 日本人に伝えたい本当の英国』(NHK出版新書) 評価★★★ 著者は1970年生まれの英国人で、日本にも高校英語教師や英国紙の記者として滞在した経験がある。 本書は日本人向けに、英国の現代社会がどういうものであるかを、なるべく身近な話題を選びながら、しかし時には歴史をさかのぼって綴ったもの。 階級、天気、国旗、住宅、料理、結婚など、19の章からできている。  料理の章では、一般に英国料理はまずいということになっているが、かつてフランスのシラク大統領が英国料理をくさし、ヨーロッパであれよりまずいのはフィンランド料理くらいだと述べたのを捉えて、これは自分は独創的な見解の持ち主ではないと言っているようなものだ、もっと独創的な意見を聞きたい、例えば日本人は労働時間が足りないのではとか、フランス人はどうしてあんなに遠慮がちなのか、など・・・・・と書いて反論しているのが、なかなかいい。 英国とフランスの確執は昔からだけど、今でもやってるのね、という感じで。 それはさておき、英国に1年以上滞在した人はともかく、そうでない人には教えられるところの多い本だと思う。

・大島真生 (おおしま・まなぶ) 『公安は誰をマークしているか』(新潮新書) 評価★★★☆ 著者は産経新聞記者。 一般に公安といわれるけれど、正式には警視庁の公安部である。 本書は、まずその組織について説明した上で、その公安が何を対象に仕事をしているのかを明らかにしている本である。 共産党、オウム真理教のような宗教団体、グリーンピースみたいな過激な環境団体から始まって、中核派や革マル派のような極左、右翼、ロシア・中国・北朝鮮のスパイ、さらにイスラム原理主義のスパイなんかも対象になっている。 イスラム原理主義なんか日本には関係ないと思うかもしれないが、実は9・11のテロのときも当初はアメリカの同盟国である日本も対象にしようという案があったらしいし、アルカイーダの工作員はちゃんと日本にも潜行しているのだ。 また、極左集団のテロでは、86年の東京サミットのときにロケット弾が迎賓館を目標に発射され、さいわいにして弾は迎賓館を大きく飛び越したからよかったものの、もし命中していたらフランスのミッテラン大統領などもいたから日本の面目は丸つぶれだったという話が興味深い。 加えて、極左は警察や公安の通信なども傍受したりしていて、結構ハイテクだというし、これは北朝鮮もそうで、貧しい国だとあなどっているととんでもなくて、スパイの分野については相当に先進国なのだという。 公安というと狭い分野のように思えるが、実は国際政治についてもかなり勉強になる本で、一読の価値は十分にある。

・大木充+西山教行(編) 『マルチ言語宣言 なぜ英語以外の外国語を学ぶのか』(京都大学学術出版会) 評価★★★☆ 帯には 「英語だけではダメですか?」 と書かれている。 英語偏重のきらいがあるわが国の外国語教育に一石を投じようということである。 全体は2部に分かれており、第T部は 「なぜ英語以外の外国語を学ぶのか?」 と題され、まず 「ヨーロッパ言語共通参照枠」 の紹介があったあと、朝鮮語・アラビア語・フランス語・スペイン語・ドイツ語・ロシア語というぐあいに、各国語の紹介がある。 第U部は、「多言語主義による多極的世界観の構築」 と題され、五人の識者や研究者の意見が並んでいる。 私としては、朝鮮語について紹介した小倉紀蔵の文章が非常に面白かった。 他の文章からもそれぞれ教えられるところがある。 なおこの書物についての詳細な書評は別途某誌に掲載の予定である。

9月  ↑

・マーガレット・ミッチェル(大久保康雄+竹内道之助訳) 『風と共に去りぬ (3)』(新潮文庫) 評価★★★☆ 第3巻は第3部の途中から第4部の途中まで。 実家のタラにたどり着いたのはいいけれど、母は亡くなり父は廃人同然、農地は荒廃し家畜もろくに残っていないという状況下で、スカーレットはお嬢様育ちを完全に卒業し、残っていた黒人や妹たちをこき使いながら生きるために悪戦苦闘する。 戦争は終わったが、ある日、北軍兵士が一人で略奪行をして自宅に来たところを、スカーレットは銃で撃ち殺してしまう。 バレたら大変なので死体は埋めてしまうが、お陰で彼の所持品であるお金と馬が手に入る。 しかし自分たちの食物もろくにないのに、敗北した南軍兵士が立ち寄ると宿と食事を提供しなくてはならない。 そうした敗残兵のひとりウィル・ベンティンは、タラに残って厄介な仕事を片付けてくれるようになる。 やがて、かつても今もスカーレットが愛している、しかしメラニーの夫であるアシュレも生きて帰ってくる。 だが状況はよくならない。 南部人でも北軍に寝返って景気がよくなる人間も出てくる。 かつてタラの農園監督だったジョナス・ウィルカースンもその一人で、羽振りがよくなり、なおかつ以前プア・ホワイトだった女を妻にして豪華な馬車でタラに乗り付けてくる。 タラを買い取ろうという提案だったが (この辺は 「桜の園」 ですよね)、スカーレットは断固拒否して追い返す。 しかし農園にかけられる多額の税金を支払うことができない。 ついに彼女は決心して、レット・バトラーの情婦になってカネをもらおうとアトランタに赴く。 バトラーは北軍の捕虜になっていたが、何とか面会することはできた。 彼は素直に本心を語れない彼女の意図を見やぶるが、今は捕虜の身でカネを工面できないと答える。 その後、スカーレットは妹と結婚するつもりでいるフランク・ケネディという男が小金をためているのに気づき、タラの税金を払うために自分がこの男と結婚しようと決意する。 ・・・・南北戦争後の悲惨な状況がくわしく語られているが、同時に、敗残兵が来れば、客には宿と食事を提供するものだという南部人の習慣で対応してしまう人々の矛盾した側面もよく描かれている。 北軍の捕虜になったバトラーに簡単に面会できる (それも立会いなしで) ところは、まだ時代がのんびりしていたのかなあ、と感心。 それにしても、カネのためとはいえ好きでもない男 (しかも事実上妹の婚約者) とまた結婚するつもりになるスカーレットの強さというか、エグさが、なんとも・・・・。

・呉智英 『つぎはぎ仏教入門』(筑摩書房) 評価★★★★ ふだんは葬式の時に坊さんのお世話になるから何となく親しんでいるつもりになっている仏教だが、いざ改まって考えてみると意外なことに信者でもないキリスト教ほどの知識もない、という日本人は多いだろう。 私もそういう日本人の一人なので、こういう本が出るとありがたい。 仏教の流れが、釈迦から始まって、小乗仏教 (上座部仏教) と大乗仏教の分裂、中国に伝わって仏教がどう変わったか、それがまた日本に伝わってどうなったか、などなど、ひととおり分かるようになっている。 簡単に言えば、大乗仏教は釈迦の教えを裏切っている代わりに、大衆性を獲得したということのようである。 日本仏教では、親鸞の有名な悪人正機説についても、親鸞の独創とはいえないという指摘など、色々興味深い記述があり、また昔からの呉智英読者にはおなじみだが、知識人と大衆は截然と分かれるという思想も改めて語られていて、面白く読める本になっている。 

・佐々木紀彦 『米国製エリートは本当にすごいのか?』(東洋経済新報社) 評価★★★☆ 著者は1979年生まれ、東洋経済新報社勤務のジャーナリスト。 慶応大総合政策学部卒で、2007年から仕事を休んで2年間スタンフォード大の大学院で学んだ。 本書はこのときの経験をもとに、アメリカの大学での勉強法やアメリカ人エリートの実力を中心に記述し、最後にこれからの日本がとるべき道についても提言を行っている。 前半のアメリカの大学院での経験について述べた箇所は、面白いところもあるけれど、類書は他にもあるので、そんなに斬新な内容という感じはしなかった。 部分的には――例えば少子化についてアメリカの報道だけで判断して述べている箇所など――疑問もあった。 それに対して、後半の世界情勢の分析や今後の日本について書いている部分はそれなりに面白かった。 国力というものには軍事力が欠かせないという主張は、別に本書でなくともと思われるだろうが、本書の強みはアメリカではリベラル派のオバマ大統領ですら日本の左翼の規準からすればタカ派になるという、きわめてまっとうな指摘を行っていることだろう。 何しろ日本は九条の会なんていうメルヘンチックな代物がインテリの間で幅を利かせているような国であるけれど、著者は、かつてはフランス人から 「トランジスタラジオのセールスマン」 と揶揄された池田勇人首相ですら軍事力の重要性を認識していたのに、最近の日本の政治家は経済力=国力だという単純なカンチガイに陥っていると、なかなか示唆にとんだことを言っている。 その一方で、最近は日本からアメリカへ留学する若者が減っていることを悲観的に捉えて日本人は内向きになっているとする論調には批判的である。 たしかに中国や韓国から比べると日本人留学生は少ないが、それは自国での暮らしに満足し米国に余計な憧れを持つ余地がなくなっている成熟国家ならではの現象で、そもそも英独仏といったヨーロッパ先進国では米国への留学生はさらに少ないし、また留学しても自国に戻る者が大半であり、中国・韓国・東欧などの留学生が米国に残りたがるのは自国での暮らしに希望を持てないからだ、という冷静な指摘は貴重だろう。 そのほか、英語の勉強の仕方や知的なトレーニング法についても自分の体験から示唆に富む記述を行っている。

・マーガレット・ミッチェル(大久保康雄+竹内道之助訳) 『風と共に去りぬ (2)』(新潮文庫) 評価★★★☆ 2巻目は第2部の途中から第3部の途中まで。 南北戦争が始まって南部では物資や食物が乏しくなり、銃後に残った女たちも負傷兵の看護などに駆り出され、しだいに生活のレベルが低下し、さらに北軍の接近により砲撃などで民家も焼かれたりしてアトランタ市民も窮乏し追いつめられていく様子が描かれている。 そんななか、ヒロインのスカーレットは好きでもないのに衝動的に結婚した男 (そしてすぐ出征して病死) の実家で、本当に好きだった男アシュレの妻であるメラニー (彼女がスカーレットの夫の妹) と一緒に悪戦苦闘する。 メラニーというのはスカーレットと違ってきわめて性格のいい女であるが、ここに来てもスカーレットの性格の悪さと対照的な人物だと分かるのである。 やっぱり、恋人にするならスカーレットかもしれないが、奥さんにするならメラニーじゃないか、というのが男の偽らざる気持ちだろうな。 他方、戦争によるアトランタ市の荒廃ぶりがきわめてリアリスティックに描写されており、私は以前 『戦争司令官リンカーン』(文春新書) を読んで、南北戦争において敵軍の兵隊や軍事施設だけでなく民間の建物への攻撃を指令していたリンカーンの実像を知り、リンカーンという人物への評価はもしかすると今後大きく変わってくる可能性があると思ったものだが (そして、戦争のルールが変わったのは第一次世界大戦ではなく南北戦争からではないかと考えたものだが)、この小説を読むとそうした気持ちが強くなってくる。 また、作中には北軍がインディアン討伐隊を組織しているという記述も見られ (164ページ)、北軍は黒人には平等主義であってもインディアンに対してはそうではなかったのだという発見もある。 スカーレットは相変わらずレット・バトラーとは喧嘩友達的な関係なのだが、最終的には彼の援助でかろうじて自分の子供やメラニーとその赤ん坊などと一緒にアトランタから脱出して故郷のタラへと帰る。 しかし、館は残っていたものの、農場は荒れ果て、母は死に、父は精神状態がおかしくなっていた。

・長谷川英祐 『働かないアリに意義がある』(メディアファクトリー新書) 評価★★★ 著者は1961年生まれの生物学者で北大准教授。 働きアリのうち本当に働いているのは2割で、残りは怠けているという現象は比較的よく知られているが、本書は虫の世界に見られるそういう、一見すると不合理が現象がなぜ起こるのかについて、専門的な学者の世界での議論をシロウト向けに分かりやすく説明している。 要するに働かないアリも突発的な異常現象が起こったときにはそれなりに働くので、アリの世界を維持していくためにはそういう予備軍的な存在も必要だということらしい。 これ以外にも、虫が自分の遺伝子を残すための戦略には多種多様な方法があるということ、同じように見える虫の世界でもその生殖や社会(?)構造には実に色々あるのだということが分かるし、またさらに、そういう社会構造を言葉で合理的に説明しようとする行為の限界みたいなものをも考えさせてくれる本である。  

・筆坂秀世+宮崎学/にんげん出版編集部(編)『日本共産党vs.部落解放同盟』(モナド新書〔にんげん出版〕) 評価★★★ 日本共産党と、大正時代の水平社以来の流れをくむ被差別部落民の組織である部落解放同盟は、戦後のある時期までは協調体制をとっていた。 それがやがて路線の対立などから決別し、互いに批判しあうようになる。 本書はこの経緯を明らかにするとともに、現代に至るまでの両組織の問題点を指摘した本である。 かつては共産党のナンバー4の地位にありながらセクハラ問題を機に共産党を離れることになった筆坂と、やはり学生時代は共産党に所属しながらもまもなく離れ、なおかつ出自が被差別部落と関係しているらしい宮崎との対談を軸に、編集部・司会が重要な事件の整理や語句の説明などを入れて、一冊の本にまとめている。 一読、双方の組織に公平に紙数を割いているとはいえないのが気になった。 共産党の事情についてはかなり詳しく分析されており、そのご都合主義や、本来は革命党のはずが日本が豊かになっていく過程の中で議会主義に転換せざるを得なかった事情も分かるようになっているが、部落解放同盟側の事情についてはあまり詳しい記述や分析がなされていない。 両組織の蜜月時代から、共産党内部の路線対立、そして部落解放同盟内部にもその対立があって、やがて両者の決別となるあたりは分かるが、当時部落解放同盟の主導権を握った朝田善之助の思想についてはほとんど触れられていない。 したがって暴力的な糾弾行為についても非常に見方が甘くなっている。 私がこの点を問題にするのは、その頃から解放同盟による差別語狩りが、そして暴力的な糾弾行為も激しくなっていったという歴史的な事実があるからだ。 宮崎は解放同盟内部の事情も或る程度は知っているはずだが、仲間意識があるのか、この点では他の箇所に比して議論が冴えない。 もう一人、解放同盟内部の事情を批判的・分析的に語れる人間を入れておけばかなり読み応えのある本になっただろうと惜しまれる。

・マーガレット・ミッチェル(大久保康雄+竹内道之助訳) 『風と共に去りぬ (1)』(新潮文庫) 評価★★★ 有名だけど読んでない小説というのがあるわけで、これもその一つ。 少し前に入手して、しかし長い作品だからやっぱり休みのときに読もうと思い、ようやく読み始めた。 第1巻は第1部と第2部の途中までを収録している。 ヒロインであるスカーレット・オハラが登場し、彼女の育った19世紀南北戦争以前におけるアメリカ南部の裕福な農場の様子や、若者たちの行状などが描かれている。 彼ら彼女らはまず読書や勉強はしないわけで、スカーレットも教養はないし、彼女の近所の青年たちなどは大学をいくつも中退している有様。 また、いとこ同士の結婚が珍しくなかったようだが、作中、血族結婚は体に悪いという批判も出てくる。 当時のアメリカ南部の裕福な農場に暮らす人たちは基本的に恋愛結婚はしない、恋愛結婚はヤンキー(北部アメリカ人)の下司がするものだ、ということのようだ。 女性の結婚年齢は早く、スカーレットの母は15歳で結婚、スカーレットも、好きな青年と結婚できなかった腹いせに16歳で結婚してしまう。 彼女のウェストが17インチと書かれているのだが、これはセンチに直すと43センチで、いくら16歳とはいえすごく細いウェストだったことになる。 また、ミッチェルはストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』に描かれた黒人奴隷は実態を反映していないと批判的だったようだが、本書を読むと大農場の黒人奴隷はプア・ホワイトを見下しているという描写もある。  さて、本書は、上述のように失恋にショックを受けた彼女が好きでもない青年と急遽結婚し、青年は始まった南北戦争に出陣しあっけなく病死。 ヒロインは新婚早々で未亡人になるが、まもなく男の子を出産するというあたりまで筋書きが進む。 途中でレット・バトラーが登場して彼女と色々やりあうのだが、他の部分はともかく、このレットの描き方は相当に通俗的に見える。 彼は金持ちであり、その気になれば女のさまざまな欲望を満たすことができ、変人だが礼儀を心得、女たらしではなく、しかも南北戦争の結末を最初から予知している。 一種のスーパーマンなので、女(の子)が本書を読んで彼に夢中になるのは、まあ分かると言えば分かるけど、ハーレクインロマンスとどう違うんだろうという気がした。 

・西川長夫 『パリ五月革命私論 転換点としての68年』(平凡社新書) 評価★★★ 最近1968年論が流行っている気配がある。 私は今までその手の本は一冊も読まないできたのだが、パリのいわゆる五月革命には多少興味があるので、本書を買ってみた。 関連年表や文献一覧を入れると470ページもあって、普通の新書本の2倍の分量がある上に、最近の新書としては文字が小さくて1ページ17行ある (ふつうは16行である)。 著者は1934年生まれ、京大仏文を出て立命館大教授を勤めた人。 68年当時はフランスに留学していた。 本書は、まず五月革命の経緯を、自分の見聞した事件も含めながら詳細にたどるところから始まっている。 パリの郊外にあるソルボンヌ分校であるナンテールでの騒動から始まって、やがてそれがパリ全市に広がっていく様が詳細に描かれている。 事の起こりは劣悪な勉学条件ということであったようだ。 また当時のフランスにおける権威主義や官僚的な制度にも言及がなされている。 しかし一時は情勢にひるんだドゴール大統領の瀬戸際での強硬策によって騒動は終焉に向かっていく。 学生たちの要求はやがてミッテラン左翼政権で実現されるが、著者は革命の真の敵は左翼だという言い方で冷淡にそれを記述している。 このほか、第4章が知識人問題に当てられていて、日仏の知識人のこの時期の身の処し方について書かれている。 この部分はそれなりに面白かったが、著者のフランス的に偏向した視点が気になった。 丸山真男が研究室の資料をめちゃくちゃにされて怒り心頭に発し、「ナチもやらなかった暴挙だ」 と叫んだという逸話について、フランスの大学では個人研究室がないという事実をもって丸山を批判したつもりになっているのは、いくらなんでもフランスぼけが過ぎるんじゃないですかと言いたくなるし、フランス知識人の項では、もっとかみくだいて日本人向けに解説してくれないと、率直に言ってそんなことフランス人の中のごく限られた人たちだけの問題じゃないのという気持ちを抑え切れなかった。 もっとも、著者は必ずしもいわゆる左翼偏向とか、進歩的知識人とか、過激派同伴者的言論人というような固定的なスタンスをとっているわけではなく、各方面に目配りし、最近のパリ郊外での移民たちへの差別に至るまでの射程で物事を捉えているし、フランスでは左翼的知識人すらヨーロッパ植民地主義への反省があまり見られないという批判にはまったく同感なのであるが、日本もそうだがこの時代の騒動から暴力的な過激派が生まれてきたあたりは完全に無視されていて、根底的なところで著者の思考は時代的な限界を免れていない気がした。 つまり、68年とは、せいぜいが一夜の夢だったのであって、夢としての美しさはあっても、そこから革命の見果てぬ夢を半世紀もつむぎ続けるような代物ではなかったのではないか、と私は思うのである。 

・セオドア・ドライサー(村山淳彦訳) 『シスター・キャリー (下)』(岩波文庫) 評価★★★☆ 夏休み前に授業で上巻を読んだので、夏休みに入ってから下巻を自分で読んでみた。 ここではハーストウッドがある事情からシカゴを離れざるを得なくなり、キャリーを最初はだまして同行するところから始まっている。 いったんカナダに逃亡した後、二人はニューヨークに出る。 最初はハーストウッドの稼ぎで生活し、キャリーは主婦をしていたが、やがて彼の仕事がうまくいかなくなって収入が減ると、シカゴ時代に一度だけシロウト芝居で成功した体験をもとに、コーラスガールとしての仕事を始める。 最初は安い給与で目立たない存在だった彼女が、チャンスをつかんで次第にのし上がり、やがて高給を得て、高級ホテルから宣伝になるので宿泊料は大幅に値引きするから住んでいただきたいと頼まれるまでになる。 一方、ハーストウッドは逆に零落していき、しまいには乞食同然になってしまう。 のしあがっていく若い女と、没落していく中年男の対比がたくみに描かれており、またキャリーが勤める劇場の様子なども興味深く、私には上巻よりも面白く読めた。

・鈴木菫(すずき・ただし) 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書) 評価★★★★ 出版されてから20年近くになる新書だけど、いつだったかBOOKOFFで買ったままツンドクになっていた。 十字軍についての本を読んだせいか、キリスト教世界と戦ったイスラム世界についての本を読みたくなって、書棚から引き出して読んでみた。 私の高校生の頃 (40年も昔)、学校で習う世界史は、中国史を別にすればヨーロッパ史で、イスラム世界についてはサラセン帝国だとかササン朝ペルシャだとかオスマン・トルコだとかがほんのちょっと、名前だけ出てくる程度で、その実態は不明なままであった。 まあ、その頃は日本でもイスラム世界を研究する人がほとんどいなかったのであろう。 本書は東大の東洋文化研究所教授によって書かれている。 オスマン・トルコの成立や発展、その内部システムなどについてひととおり分かる本である。 キリスト教世界で差別されていたユダヤ人をも受け入れる宗教的な寛容についても触れられている。 ただし、公的な宗教はあくまでイスラム教であって、ユダヤ教徒やキリスト教徒は宣教をしない限りにおいて許容されているのであり、宣教をすると死刑になったそうである。 内部システムも時代により変化しているが、後代ほど官僚化が進み、軍人主体の国家から文人官僚主体の国家へと変わっていったという。 前半では、デウシルメという妙な制度があり、キリスト教徒の少年を強制的に集めて、その中から容姿や能力に優れた者を登用していったという。 (うーん、やっぱり容姿は大事だったんですね。) 当時オスマン・トルコは封建制のヨーロッパ世界からは、人材登用が世襲によらない優れた地域と思われていたが、実際には世襲もあったし、こういうふうな変な制度もあって、近代的な意味での能力主義と同じとは言えなかったということのようである。 そして16世紀にはその軍事力や経済力でヨーロッパを圧倒したオスマン・トルコも、17世紀以降になると、外部ではヨーロッパの軍事技術の発展、そして内部ではギリシア地域での民族主義の高まり (つまり、ギリシア人独自の国家をというわけで、これはヨーロッパの民族主義の影響から来ているという) により、覇権を失っていったということらしい。

・八塚春児(やつづか・しゅんじ) 『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』(NHKブックス) 評価★★★☆ 3年前に出た十字軍についての本である。 著者は京都教育大教授。 十字軍についてひととおり分かる本ではあるが、書き方がかなり学術的である。 つまり、十字軍の細部については今もよく分かっていない部分が多く、そういう点についてどういう説があるかをいちいち紹介しながら論述を進めているので、手っ取り早く 「十字軍はこういうものだったのだ」 と知りたい人にはあまり薦められない。 むしろ、一般に流通している十字軍についての言説がいかにアテにならないかが分かる本と言える。 例えば教皇の呼びかけによって劇的に十字軍が組織されて、というようなことはなかったらしいし、少年十字軍などというものはそもそもが存在すらしなかったという。 また、十字軍がイスラム勢力を攻撃するのではなくビザンチン帝国を収奪してしまったという悪名高い例についても、なぜそうなってしまったかが通説を批判しながら説明されている。 ほか、十字軍の目的は聖地 (イェルサレム) の回復なのかビザンツの危機を救うことなのか、ビザンツ帝国との関係では分裂したキリスト教世界 (ローマ・カトリックと東方正教会) の統一という隠れた目標もあったらしいこと、いかにカトリックは軍事力行使を合法化したか、教皇と皇帝の微妙な関係、十字軍に赴く家系 (王族貴族) の存在、など多面的な言及がなされている。 そして、ローマ教皇庁は、現在にいたるまで十字軍召集を正式に放棄したことはないそうである。 ということは、もしかしたら、今後も十字軍が組織される可能性はなくはないということで・・・・

・長岡義幸 『マンガはなぜ規制されるのか 「有害」をめぐる半世紀の攻防』(平凡社新書) 評価★★★ 最近の東京都における青少年条例改正は、マスコミでのだいぶ話題になった。 本書はこの動きを受けて、戦後半世紀に及ぶ日本のマンガに対する規制措置をたどったものである。 マンガに対する規制措置が、地域ごとの動きを含めてひととおり分かるようになっている。 その意味では有益な本だが、成人向け図書への規制はともかく、年少者向け図書への規制については単に官憲側の動きを見るだけでは不十分で、本書でも母の会などの動きが記述されているけれど、これを単にお上と民間の結託と捉えるのは浅いのではないかという疑問を抱いた。 もう少し内在的に事情を追う必要があるのではないか。 宮台真司 (本書の帯にも推薦文を書いているけど) の、ポルノは年少者へ害悪を及ぼさないという学問的な発言だけではすまない部分があろうと思う。 ただし、現実には、成人向けマンガにおいてすら性器の描写が違法とされ、裁判でも出版側が敗北するという事件が起こっており、日本の裁判官の意識は、チャタレイ裁判の頃からまったく進歩がないのだということが分かって、その意味では勉強になりました。

8月  ↑

・度会好一 『ヴィクトリア朝の性と結婚 性をめぐる26の神話』(中公新書) 評価★★★★ 14年も前に出た新書だが、ずっとツンドクになっていたのを、思うところあって読んでみた。 ヴィクトリア朝というと、英国の国力が(その帝国主義もあって)最高潮に達した時期であると同時に、性的な規制が厳しくてそれが英国ジェントルマンの偽善的な振る舞いを生んだということになっているのだが、はたしてそうなのかどうかを、さまざまな資料を駆使して検討している。 副題にあるように、26のテーマをたてて、一つ一つ色々な側面から検討している。 無論テーマがテーマだから、必ずしも明快な答が出てくるわけではないが、「神話」が必ずしも当を得ていないこともよく分かる。 例えば階級社会英国で階級を越えた結婚がありえたか、という問題では、貴族の男は自分のステイタスに揺るぎがないがゆえに下層の女と結婚することも可能だったのに対し、中産階級の男のほうが自分のステイタスが下がることを恐れて下層の女とは結婚しなかった、というようなところが、面白いのである。

・有川浩(ありかわ・ひろ) 『阪急電車』(幻冬舎文庫) 評価★★☆ 著者は1972年生まれの女性作家。 私が本書を読んだのは、こないだこの小説が原作になった映画を見たからということもあるが、たまたま卒論副指導に当たった学生が 「有川浩論」 をやるというので、1冊くらい読んでおかないとと思い、BOOKOFFに行ったとき探してみたらこの本だけが書棚にあったからである。 で、タイトルどおりに阪急電鉄の今津線を舞台に、この電車を利用する老若男女の物語をオムニバス風に、しかし相互に関連付けつつ、物語っている。 くだんの学生の言うところでは、有川浩の特徴は多視点的であり、自衛隊の話がよく出てくることだそうだが、たしかにそうは言える。 あと気づいたのは、犬の話もよく出てくること、若い男女が案外あっさりと性的に結ばれること、などかなあ。

・セオドア・ドライサー(村山淳彦訳) 『シスター・キャリー (上)』(岩波文庫) 評価★★★ 3・4年生向け演習で、『森の生活』 読了後、学生の希望を聞いたら19世紀末の都会を舞台にしたアメリカ小説を読みたいというので、リクエストにお応えして読んでみた本。 田舎町の美貌の娘が、姉夫婦を頼ってシカゴに出てきて、最初は姉夫婦への気兼ねや仕事のきつさに苦労するが、たまたまシカゴに来る途中の列車の中で知り合った若い男と再会して同棲するようになり、その後、彼の知り合いの中年男と仲良くなって・・・・・というような筋書き。 19世紀末のアメリカの風俗を知るという意味で、なかなか興味深い作品ではある。 訳も明快で読みやすいし、注も親切。

・吉見俊哉 『大学とは何か』(岩波新書)評価★★★★ 混迷を深めるばかりの最近の日本の大学であるが、そういうときには起源を振り返ってみようというということなのか、標記のような本が出たので、さっそく購入して一読。 ちなみに大学生協書籍部で買ったのだが、同時発売の岩波新書はまだ何冊も山積みされていたのに、私が買ったこの本は最後の一冊であった。 最初のあたりで、この本だけが強調していることではないけれど、いかに日本の高等教育への公的資金支出が少ないかがグラフで分かりやすく示されている。 2007年の統計で、対GDPで日本の高等教育への支出は0,5%であり、韓国にも抜かれてOECD各国の中でブービーというテイタラク (最下位はチリ)、OECD平均1%の半分に過ぎず、最高のデンマークやフィンランドの1,6%からすれば三分の一以下なのである。 もっとも著者はそれを嘆くのもそこそこにして、大学の起源から現代に至るまでを分かりやすく説いている。 その際、最近のメディア論の進展をふまえて、ヨーロッパ起源の大学が途中一度死に体になったことを強調している。 つまり、いちどは共通言語ラテン語をもとにした自由な知的共同体としたあったはずのヨーロッパの大学は、印刷技術の開発と活字本の広がりによって自由な知的活動の場を在野の人間に譲り渡し、それ自体は古いスコラ的な知を墨守する組織に転落した。 自然科学ですら、その勃興初期にはユニヴァーシティではなくアカデミーがその興隆に預かるところが大であった。 死にかけた大学を再興したのは、ナポレオン戦争に敗れたドイツにおけるフンボルトらの大学改革であり、カントの理念を基本としつつナショナリズムと微妙に結びつきながら新しい知のありかたと研究の方法が開拓されていった。 そしてそれは、潤沢な資金を元に19世紀末に大学院という制度を導入しやがて世界の学界をリードしていくアメリカに主導権を譲ることになる。 それから日本の大学の歴史にも触れられている。 興味深いのは、戦後の画一的な四年制大学を作ったのは、アメリカの圧力というより、当時の東大総長・南原繁だったとされていることであろう。 旧制高校の教養主義に批判的で新しい教養のあり方を模索する南原の思惑は、言うまでもなく失敗に終わったが、90年以降のいわゆる大綱化による教養課程廃止後、教養は大学にあって露骨に無視されるようになったわけでもあり、この辺は一筋縄ではいかない。 著者の記述は多方面に目配りがきいていておおむね公正だと思うが、ヨーロッパ中世のキリスト教のプラス面だけを見ている気配があること (キリスト教の普遍主義とは多様性の抑圧の結果だということ、或いは、中世の学問の自由とは一定の枠内での自由に過ぎないということがあまり見えていない)、帝大と天皇の結びつきを必要以上に強調しているきらいがあることなどが難点か。 そして最後で今後の展望を述べる箇所は、はっきり言ってよく分からなかった。 

・室井尚 『タバコ狩り』(平凡社新書) 評価★★★ 2年前に出た新書。 タバコに対する風当たりの強い昨今、喫煙者側がいかに反論するかも興味深いところであるわけだが、その辺がどうなっているのかと思い――たまたまBOOKOFFで見かけたこともあり――読んでみた。 まず、タバコは健康に悪いという説を批判するのだが、その辺はすでにネット上に山形浩生らの反批判が出ていて、どうもあまり説得性がない。 むろん、ちょっとでも受動喫煙すると健康をいちぢるしく害するとかいうヒステリックな俗説は疑われて当然だが、タバコを吸うと肺ガンにかかりやすくなるとか長期にわたって受動喫煙すると健康を損なう確率が高くなるというあたりの医学上の説は、少なくとも現時点ではくつがえすことは困難だと思う。 考えるに、こういう部分で争うのではなく、あくまでタバコの害は確率の問題だというところから出発して、一定の分煙措置をしたうえで、健康とは人生の目的ではなく手段に過ぎないのだから確率上の問題は各人の選択に任せるべきだというふうに多様性の保障の方向へと議論を向けるのが良いのではないか。 以前読んだ洋泉社新書の 『タバコ有害論に異議あり』 で言えば、名取春彦ではなく、上杉正幸の論法を取るべきだということである。

・加藤淳子 『下級武士の米日記 桑名・柏崎の仕事と暮らし』(平凡社新書) 評価★★★ 藤沢周平の時代小説をまとめて読んだせいか、武士の暮らしの実態を記した新書が生協書籍部の店頭で目に付き、購入して一読してみた。 著者は名大卒で高校教諭を長らく務めたあと退職し、若干の著作がある人。 これは、享保の改革、つまり幕末のころに、現在の三重県桑名に暮らしていた武士と、現在の新潟県柏崎に暮らしていたその義理の息子にあたる武士との日常生活や仕事ぶりを、二人の残した日記によって再現しようとした本である。 ちなみに桑名と柏崎は今なら別の県だし、新潟県と三重県は隣接すらしていないから縁もゆかりもなさそうだが、当時は同じ藩に属していた――つまり桑名藩の飛び地が柏崎にあったのである。 二人とも身分的には下級武士であるが、ふだんの仕事の内容だとか、百姓や町人との交渉だとか、祭りや病気や交通通信事情など、さまざまな側面から武士の暮らしが浮き彫りにされている。 ただし、当時の制度や習慣については今でもよく分からないところがあるらしい。 例えば藤沢周平はじめ時代劇でもよく出てくる 「○○石とりの武士」 というような表現だが、この○○石というのが武士が実際に入手する米の分量のことなのか、あるいは農民が生産する時点での分量 (武士はそのうち4割を取る) のことなのかは、必ずしも明瞭にはなっていないのだそうである。 また、この時点では石高のうち半分は現金での支給だったそうで、江戸も末期になるとかなり貨幣経済が浸透してきていたことが分かる。

・藤沢周平 『藤沢周平全集第5巻』(文芸春秋) 評価★★★ 最近、藤沢周平原作の映画 『小川の辺』 を見たので、原作を読みたくなって大学の図書館から全集を借りて読み、ついでだからと思ってその巻を全部通して読んでみた。 2段組560ページほどに合計23の短編が収められており、どれも藤沢流の時代小説である。 すでに映画化された 『山桜』 と 『花のあと』 も収められている。 『花のあと』 は、映画では北川景子が主演だったからヒロインは美人だけど、原作ではヒロインは美貌ではないという設定で、ここら辺が文学と映画の違いかな、などと思う。 起承転結がきっちりついている作品もある一方で、最後に収められた 『榎屋敷 宵の春月』 は予感程度にしか結びがなくて、その辺の加減のつけ具合が色々なのが面白い気がした。 

・藤原聖子 『教科書の中の宗教 この奇妙な実態』(岩波新書) 評価★★★ 著者は1963年生まれ、宗教学者で東大准教授。 日本の高校における倫理の教科書での宗教の記述には問題が多い、と実例を挙げながら主張した本である。 また海外の教科書でどう宗教が記述されているかにも言及がなされている。 要するに日本の教科書の問題点は、キリスト教と仏教を比較して後者の優越性をそことなく示してしまうとか、仏教は環境に優しいなどと書いてしまうとか、ユダヤ教やヒンズー教を遅れた宗教として記述してしまうとか、そういうところにあるというのが著者の言いたいことのようだ。 たしかに外国の記述例を見るとそうかなという気もしてくるんだけど、もともと教科書の記述なんてそんなに真面目に受け取るものじゃなし、という気もするし、そもそも宗教みたいに黒と白の二面性を持つものについて、外国の教科書のようにいわばアク抜きの無難な記述をすることがいいことなんだろうか。 また、著者は、日本にはキリスト教に批判的な学生がいるとして、欧米ではキリスト教は体制側だから教科書で批判的に書かれるのも仕方がないが日本ではキリスト教は多数派ではないのだからキリスト教批判が逆に土着主義=伝統礼賛につながるなんて書いてるけど(84ページ)、それはどうかな。 キリスト教への批判的な視点は今どきの学生だけでなくあと1年ちょっとで還暦になる私も共有してますけどね。 それは、ポストコロニアリズムを基調とする現代的な歴史観からすれば常識なのであって、著者の姿勢は逆に、ポスコロを日本批判には使っても西洋批判には使わない日本の左翼知識人そのもの、という気がしてくるんだけどなあ。 でもまあ、あまり類書がないし、それなりに面白い本ではあった。 

・武田知弘 『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』(祥伝社新書) 評価★★★ ヒトラーといえば今でも悪名高い人物だが、その経済政策には優れたところが多いとして、その部分に限定して記述した本である。 著者は1967年生まれ、西南学院大学経済学部中退、塾講師や出版社勤務を経てライターとして活動している人である。 ・・・・私は経済や経済学のことにはうとい人間だが、ヒトラーの経済政策がある程度まではうまく行ってたのは事実だし、そういう面はそういう面として評価しようという著者の姿勢自体はいいと思う。 ただ、記述を読むと、素人の私でも 「話がうますぎる」 と思える箇所が多い。 少年向けの偉人伝みたいに、万事がうまくいきましたというような書き方になっている。 もっともシャハトのような有能な専門家がいたから、ということもあるのではあるが。 戦争の遂行についても、アメリカの第二次世界大戦参戦についても、経済的な要因を重視している。

・大橋健三郎 『わが文学放浪は今』(南雲堂) 評価★★☆ 横浜市大、東京外大、東大、鶴見大でアメリカ文学を講じた学者の自伝第2部。 第1部は以前に読んだが、第2部は本は入手しておいたものの未読だった。 半端はいけないと反省して読んでみたけど、あまり中身が濃くない。 各大学の雰囲気の違いなんかには言及がないし、教え子として柄谷行人やその夫人となった原真佐子、東大教授として活躍している佐藤良明や柴田元幸なんかが名前だけ、或いは名前すらなくイニシャルとしてだけ (佐藤と柴田) 出てくるけど、面白いエピソードが紹介されているわけでもない。 アメリカ文学会の設立に当たって、この人だけは会長にしたくないという人物もイニシャルだけ。 きわめて踏み込みが足りない書物である。

・セバスチアン・ジャプリゾ (望月芳郎訳) 『シンデレラの罠』(創元推理文庫) 評価★★☆ 50年近く前に出たミステリー。 ヒロインが、探偵、証人、被害者、そして犯人を兼ねるという趣向が画期的というのが売り文句。 うーん。 言われればそうかなとも思うけど、それがミステリーとしての面白さとかワクワク感につながっているかというと、ちょいと疑問。 私はフランス系の学者が書いたミステリー論で取り上げられていたので読んでみたのだが、文学史的に 「技法が新しい」 と賞賛されてる小説が必ずしも読んで面白いとは言えないのに似てるかなあ。

7月  ↑

・森山徹 『ダンゴムシに心はあるのか 新しい心の科学』(PHPサイエンス・ワールド新書) 評価★★★ タイトルどおりの本である。 ダンゴムシを実験材料にして、その心のありかを探っている自然科学者の書いた本。 ここでも問題なのは、「心」 とは何か、というところだろう。 ここで著者はかなり広い意味で用いている。 極論すれば、石やジュラルミンにも心はあるということである。 (あくまで極論すれば、ということ。 詳細は本書を読まれたい。) ダンゴムシに限定して言うなら、特定の状況で実験を行うと、ダンゴムシの個体によって反応は異なってくるし、言うならば 「頭のいい」 個体とそうでない個体の別も見分けられるのだそうだ。 そういう個体による差異が、種属としてのダンゴムシが環境の変化に負けずに生き延びていく武器になるのだそうである。

・ヘンリー・D・ソロー (佐渡谷重信訳)『森の生活 ウォールデン』(講談社学術文庫) 評価★★ アメリカの古典とされるエッセイで、3・4年生向けの演習で取り上げて読んでみた。 最初は岩波文庫版を使う予定だったのであるが、版元品切れとのことで、やむを得ずこちらの講談社学術文庫版を用いたもの。 で、この本であるけれど、はっきり言って3分の1はトンデモ本である。 特に前半は、首をかしげるような的外れの記述が多くて、それは書かれて150年余りたっているのだから当方もその恩恵で知恵がついているということもあるとは思うけど、それ以上に著者があまり思慮深くない、もっとはっきり書けばバカだったからじゃないかと考えられるのである。 ちなみに著者は森の中での生活をしてこの本を書いたわけだが、実際には2年間しか森にはいなかった。 また、当時の上流的な教養体系からはずれておらず、ギリシア・ラテンをはじめ、東洋の古典をも含めて古典を神聖視し、近代的な産業や娯楽を軽視している。 まあ、日本でも私が小中学生だった1960年代半ばくらいまではこういう道徳もそれなりに力があったかとは思うけど、今どきの世の中には通用しないレベルの本だろう。 古典といっても批判的に読め、という警告がきわめてよく当てはまる書物である。 なお、原著のレベルは措くとしても、この講談社学術文庫版はあまり出来がよくないので、古本でも岩波文庫版で読んだほうがよい。 訳がお粗末で意味の通らないところが多いし、訳注を付けるべきところが付いていなかったり、そもそも訳注が一箇所ならず間違っているのである。 例えば、ウェルギリウスの 『ゲオルギカ(農耕詩)』 を 『アエネイス』(農事篇) なんてしている(251ページ)。 『農耕詩』 を 『アエネイス』 の中の一部と思い込んでいるらしい。 また、古代ローマの将軍スキピオを、「カルタゴの将軍ハンニバルに敗れて」 なんて書いている(391ページ)。 逆だってば! 佐渡谷さん、あんた世界史をまともにやらなかったのかね? 外国文学者失格ですぞ!

・武田邦彦 『生物多様性のウソ』(小学館101新書) 評価★★★ 地球の歴史を振り返るなら、生物の種類は増えたり減ったりを繰り返しており、減ることにもそれなりに必然性があるのだから、いたずらに騒ぐのはよくないという趣旨の本だが、むしろこの本の読みどころはそのあとの、環境問題をめぐってのアメリカとヨーロッパの政策に光を当てているところだと思う。 要するに自分のエゴのために環境問題を喧伝しているのがヨーロッパ、自分の都合次第で政策をクルクル変更しているのがアメリカということなので、この辺はお人よしの日本人としてもよく認識しておくべきことだろう。 また著者が、自然環境保護を訴える人には変な人が多い、というのにも同感である。 

・四方田犬彦 『日本の女優』(岩波書店) 評価★★★★ 下の 『日本映画史100年』 が面白かったので、以前BOOKOFFで買ったままツンドクになっていた本書 (やはり11年前に出ている) も引き続き読んでみた。 タイトルがちょっと何だと思うのは、本書は原節子と李香蘭の二人の女優に焦点を絞って書かれているからである。 しかしこの二人の女優論としてはたいへんよくできている。 二人の生い立ちや映画界に入っていった事情、映画内での役柄などから、ともに時代を代表する女優とされる二人が、当時の日本・日本映画界がおかれていた状況をも代表していたのだということが明らかにされている。 原節子が独身をとおし中年前期で女優を引退してその後世間からは身を隠して生きたのに対し、李香蘭=山口淑子は二度の結婚を経て政治家としても活動するなど、女優としてだけでなく、人間のタイプとして対照的なのであるが、それでも両者にはある共通点があると著者は指摘している。 現在では見ることが困難な映画作品にも目を通して執筆している著者の姿勢に拍手を送りたい。 一つだけ注文をつけるなら、日本の 「軍国主義」 というような言い方はやめて、「戦時体制」 というような価値中立的な言葉を使うべきではないかと思った。 著者の姿勢は、日本だけを悪者扱いして欧米の植民地主義にはノーコメントという旧左翼的な偏向からは無縁だけれども。

・四方田犬彦 『日本映画史100年』(集英社新書) 評価★★★★☆ 11年前に出た新書だけど、今回ようやく古本を買って読んでみて、新書という限られた枠で100年におよぶ日本の映画史をよくまとめていると感心した。 単なる映画作品だけの歴史ではなく、演劇との関係や、時代との関わり、映画製作システムの変遷などにもよく目配りがなされており、また増村保造の日本映画批判などに見られる、映画の作り方についての根本的な問題意識にも言及していて、刺激的で教えられるところの多い本になっている。 今頃読んでおいてこう言うのも何だけど、映画ファン必読の一冊である。

・上原善広 『私家版 差別語辞典』(新潮社) 評価★★★☆ 著者は差別問題に長らく関わってきた人で、自身も被差別部落出身。 ただし、著者自身は(被差別)部落ではなく、中上健次にならって路地という言葉を用いている。 被差別部落という言い方より自然な感じがするからだそうだ。 それはさておき、本書は差別語とされる言葉を集めて、その歴史的な説明を行っている本である。 といっても、著者は差別語狩り的な行為には批判的で、読むほうも身構えることなく楽な気持ちで読んでいけるところがいい。 差別用語といっても多様だし、またそこには日本における地域ごと時代ごと微妙に異なる多様な上下関係が表れていて、改めて差別の問題は複雑だし、「差別はいけません」 という建前論的な言い方では片付かない難しさがあるのだと分かってくるのである。

・加藤幹郎 『映画館と観客の文化史』(中公新書) 評価★★★☆ 5年前に出た新書。 出たばかりの頃に買って最初のあたりだけ読んで放置していたのだが、思うところあって改めて最初から最後まで通読してみた。 アメリカと日本の映画館の歴史を追っている。 ただし、著者も最後で断っているけれど、通史ではない。 特に日本に関する記述はきわめて不十分と言うか、一部分にしか触れておらず、これならいっそアメリカだけに絞った本にしたほうがよかったのではないかと思われた。 アメリカについては、映画館と言うものが商売として成立し、やがてデラックスで巨大な映画館が作られ、それから現在のシネコン時代が来るまでをひととおり記述していて、色々と勉強になる。 ハリウッドとユダヤ人との関係だとか、ハリウッドの街の歴史的変遷だとか、また作品の製作などについても言及がなされており、アメリカ映画を見る人には必読の文献と言えるだろう。

・池田潔 『自由と規律 イギリスの学校生活』(岩波新書) 評価★★★ 1949年に初版が出たロングセラーの新書だが、未読だったので、今さらという気持ちもあったけれど読んでみた。 著者はすでに亡くなっているが、英国のパブリックスクールに学んだあと、ケンブリッジ大学を出て、その後はドイツのハイデルベルク大にも在籍し、帰国後は慶応大の英文科教授を務めた人。 本書はパブリックスクールでの体験をもとに、英国の教育のあり方を紹介している。 下 (↓) の 『ケンブリッジのカレッジ・ライフ』 では、日本研究者のロナルド・ドーアが、この本について 「あそこで描かれているのはオックス・ブリッジの階級社会の英国で、僕の育った英国とは無関係。 あんなエゴイスティックでお高くとまった英国にイカれている日本人に会うたびに、バカだなあと思う」 という、かなり辛らつな言辞が引用されている。 また60年前の本でもあるし、当時は (いや、今でもそうだろうが) パブリックスクールに学べる日本人というのは上流階級の子弟だけだったはずで――池田氏の父は三井財閥の重鎮で日銀総裁でもあった――、そういう意味からも多少身構えながら読んだのであるが、前半は筆致が客観的で、階級差からくる批判があることや、平均的な才能に収まらない生徒には居心地が悪いこと、粗食であることなど、問題点もきちんと指摘されていて、今の目で読んでもそれなりかなと思われた。 ただ、後半に行って、スポーツマン精神だとか、教師の精神性だとかになると、どうも英国かぶれの礼賛と言われるようなシロモノと感じられてくるが、時代が時代だから仕方がないかなという気もする。

・安部悦生 『ケンブリッジのカレッジ・ライフ 大学町に生きる人々』(中公新書) 評価★★★ 1997年に出た、わりに有名な新書本だけど、ずっとツンドクになっていて、思うところあって読んでみた。 著者は経済学者で明大教授。 ケンブリッジ大学に家族を連れて留学し、その体験を綴った本である。 いわゆるオックスブリッジは、たくさんのカレッジから成っていて、このカレッジと言うのが外部から見ると分かりにくいのであるが、大学とカレッジの関係を分かりやすく説明している。 大学は国立だけどカレッジは私立という複雑怪奇な事情も、本書を読むと一応分かるようになっている。 食事のとりかたなど、研究者の日常に関わる事項も詳しく記されていて、まあ10年以上前の本だから今は変わっているところもあるかもしれないが、英国の由緒ある大学と大学人のことを知りたい人には一読の価値があろう。

・鈴木貞美 『日本語の「常識」を問う』(平凡社新書) 評価★★★ 著者は1947年生まれで東大仏文科卒、国際日本文化センターと総合研究大学院大学の教授をしている人。 本書は、まずタイトルが良くないと思う。 何の本か分からないからだ。 これは、日本語の歴史を古代から現代に至るまで、新書1冊でたどった本である。 要するに日本語は漢字と漢文の導入によって始まったのであり、大和言葉と考えられているものも実は漢字や漢文に相当負っているというところから始まって、江戸時代に至るまで日本の公式的な文章は漢文であったこと、しかし同時に江戸も中期以降は現代の口語文に通じる言い方がかなり出てきていたこと、などを、時代ごとに事細かに色々な例を挙げながら説明している。 著者の該博な知識と、古代から現代までを一望してしまう内容に圧倒される、と半分は言える本だ。 ただ、ところどころ私でも 「?」 と疑問に思う記述もあって、例えば 「英語、ドイツ語、・・・・スカンディナヴィア諸語では、主語―述語―目的語のように語順を文法規則にしている。 語順に頼る言葉では、主語を先頭に立てないといけないとされる」(26ページ) なんて書いているけど、ドイツ語では主語を先頭におかなければいけないなどという規則は (平叙文でも) ない。 このほか、「〔江戸期の〕 士農工商穢多非人という厳格な身分制度は」(186ページ)、「〔日本は朝鮮半島で〕「創氏改名」 を強要し」(196ページ)、「そこ 〔小説 『芋虫』〕 にひめられた意図を、当局の目は見のがさなかったというべきだろうか。 これにより、乱歩は断筆を決意した」 など、少し調べれば疑問符が付くことが明らかな記述が散見し、もしかすると国語学の専門的な記述にもいい加減なところがあるのかもしれないという気持ちが湧いてくることは否めない本でもある。   

6月  ↑  

・東野圭吾 『容疑者Xの献身』(文春文庫) 評価★★★ 映画化されたミステリーで、ちょっと必要があって原作も読んでみた。 ミステリーとしてはほどほどの出来だけれど、登場人物の心理的な関係だとか、大学内部での処世術だとかが、それなりに面白い作品ではある。 私は東野圭吾というと、以前やはり映画を先に見てから 『手紙』 を読み、その差別的な内容に愕然として、なんでこんなものがベストセラーになるのかなと愕然としたのであったが、また、そういう差別的な内容をそうと理解せず 「泣ける」 などと言っている一般大衆的日本人の前近代的な体質に唖然としたのであったが、あれよりはかなりマシな作品だとは思いました。

・杉晴夫 『天才たちの科学史 発見にかくされた虚像と実像』(平凡社新書) 評価★★★☆ ケプラー、ガリレオ、ニュートン、ダーウィン、メンデルなどを取り上げて、科学史上の大発見をした自然科学者たちの実像――なので、性格上の欠点なんかの話もわりにある――を紹介しつつ、あらためて彼らの業績の意義を検討している。 意外に思えたのは、生物の教科書では一般にダーウィンの前座扱いで間違いの見本みたいに扱われるラマルクの用不用説を評価し、ダーウィンを低く見ていること。 著者によると、獲得形質が遺伝すると考えないと進化は説明がつかないのだという。 もっともその部分には、最近の日本人は背が高くなっているし特に若い女性は目がぱっちりして鼻筋も通って西洋人的な容姿になっているなんて文章も入っているけど、日本人の平均身長は今でも米国や北ヨーロッパに比べればはっきり低いし、女性の容姿に関してはもしかして整形の可能性もあるんじゃないかと私は疑問を覚えましたけどね。 あと、メンデルがいわゆるメンデルの法則を発見するにあたっては、本人の能力もさることながら非常な幸運も作用していたという話なんかも面白かった。 仕事をする上では、運もバカにならないと私も思う。

・小谷野敦 『友達がいないということ』(ちくまプリマー新書) 評価★★★ 帯に 「ひとりでも生きていける」 と書かれている。 恋愛が上手か下手かも生きていくうえでは大事だけれど、同性の友人がいるかいないかというのも結構やっかいかつ重要な問題で、恋愛と同じく友情でも片思いということはあるわけで、その辺の事情について論じた、というか小谷野氏らしく自分の体験にひきつけつつ文学作品等を引用しながら綴ったエッセイ、ということなのであろう。 友達のいない人が読んでもあんまり慰めにはならないような気がするけど、人生の一面の真理を述べた本とは言えるかな。 でも、どうかなあ、昔出たこういうテーマの本の偽善性を叩くのもいかがなものか、という疑問も感じなくもない。 人は偽善的道徳によってだまされて、とりあえず生きていこうかと思うことだってあろうからだ。 偽善的な道徳が通用しなくなると、いじめがはびこったり、新興宗教が幅をきかしたりするんじゃないだろうか、と私は最近考えているので。

・G・ウォルフォード (竹内洋+海部優子訳)『パブリックスクールの社会学 英国エリート教育の内幕』(世界思想社) 評価★★★★ 昨年度後期の3・4年次向け演習で、予定していた複数の書物 (ヨーロッパと日本近代の貴族がテーマ) を読了してからなお数回分授業があったので、学生の希望を問うたら、英国パブリックスクールについての本を読みたいという意見が出たので、どうせなら軽い新書本より本格的なハードカバーにしようと、私がかつて古書店で買ってツンドクになっていた本書を書架から探し出してきて学生と一緒に読んだ。 しかしA5サイズに細かい活字で300ページ以上ある本なので、数回の授業では読了できず、そのあとちょっと間をおいて残りを自分で読んでみたもの。 原著は1986年、訳書は1996年に出ているから、やや古くなっているところもあるかもしれないが、英国の専門家がパブリックスクールの過去と現在について詳細にリサーチした書物でよみごたえがあり、その内実がよく分かる。 以前に比べると英国の名門大学に進学する生徒に占めるパブリックスクール生の割合は低下しているし、また階級社会の中でエリート養成所として機能してきた名門パブリックスクールには批判もあるけど、今後もそれなりに生き続けるだろうと著者は結論づけている。 舎監の仕事や、それに協力する妻の役割――妻が有能だと校長に出世しやすいらしい――なども、仕事が個人に属するのではなく、夫婦という単位を実はあてにしているという実態を明らかにしていて興味深いし、またオックスブリッジへの進学で名門パブリックスクールが今でも有利なのは、オックスブリッジがそれぞれ二十いくつあるカレッジ単位で学生を募集しており、各カレッジの性格や内部教員の好みなど、細かい情報を把握していないと適切な進学指導ができないからだという記述も、英国名門大学進学の仕組みを垣間見せてくれる。 竹内洋が最初に英国の学校制度について親切な解説をつけているのもいい。

・黒岩涙香 『無惨』(別冊幻影城保存版10所収) 評価★★ 下に書いたようにミステリーをテーマにした演習をやっていて、たまたま文献の中に出てきたので急ぎ読んでみた。 拙蔵。 日本における探偵小説の嚆矢とされる小説である。 明治22年発表。 私立探偵ではなく警察内部の刑事の功名争いみたいな筋書きだけど、いちおうミステリーの体裁はなしている。 解説によると、ガボリオのルコックの影響があるそうな。

・内田隆三 『探偵小説の社会学』(岩波書店) 評価★ 10年前に出た本だけど、大学院修士課程の演習でミステリーをテーマに選んだので、一人しかいない学生と一緒に読んでみたのだが・・・・はっきり言って、こんなの読むんじゃなかったという代物 (付き合ってくれた優秀な院生には申し訳ないことをした)。 東大教授が書いていて、伝統ある良心的出版社から出ていて、こんなにヒドイ本があろうとは・・・・・って、いや、岩波の本だから全部まともなんて思っちゃいませんけど、それにしてもひどすぎる。 中身が全然なくって、わけのわからない空虚な文章を連ねて、あとはベンヤミンだとかフーコーだとか流行の思想家の文章をテキトーにちりばめただけなのだから。 奥付には 「社会理論・現代社会論専攻」 ってあるし、タイトルにも 「社会学」 とあるから、これも社会学者なんだろうな。     この欄の下のほうで、上野千鶴子や宮台真司を槍玉にあげて、社会学を撲滅せよと書いたら、小谷野敦氏からあんなのは社会学者じゃないのだとご批判を受けたけど、いや、この内田隆三をふくめ、ああいうのが社会学者なんだと思う。 だいたい、東大や首都大の教授をやってる社会学者なら、そりゃ日本の社会学を代表しているわけで、少なくとも世間ではああいうのが社会学だと思っているし、もちろん当人もそう思っているのであって、そうじゃない小谷野氏の意見はあくまで少数意見に過ぎない。 そもそも、上野千鶴子は外部からわざわざ東大に呼ばれたわけでしょ? つまり、社会学者としてきわめてまともだと思われているから招聘されたんですよ。 それとも東大の社会学科所属および出身の社会学者は全部ニセモノなのだろうか??

・堀内一史 『アメリカと宗教 保守化と政治化のゆくえ』(中公新書) 評価★★★☆ 3・4年生向け演習で取り上げて読んだ本。 アメリカにおけるキリスト教の歴史、および原理主義や福音派の政治とのかかわりについて書かれている。 ブッシュ (息子) 政権の宗教右派との関係などは日本のマスコミでも結構取りあげられていたが、本書はそもそもアメリカで宗教がどのように展開し、またどのような宗派があるのかをふまえたうえで、近年における政治と宗教のつながりを、あちらの学者の説なども適宜紹介しながら論じている。 また、共和党の保守的な政治家の宗教との関係だけではなく、民主党のカーターや、現オバマ政権の宗教とのつながりについても興味深い指摘がある。 カーターはもともとは宗教的な人だったが大統領に当選してからは現実的な政策をとったがゆえに二期目の選挙では宗教方面からの支持が受けられずに落選したということ、そして進歩的に見える現オバマ大統領にしてもかなり意識的に宗教団体との関係を大事にしていることが分かって、あらためてアメリカにおける宗教問題の根深さが納得できるであろう。

・森暢平、香山リカ、ほか 『雅子さま論争』(洋泉社新書y) 評価★★ 1年半前に出た新書をAMAZON経由で安く購入して読んでみた。 雅子様をネタに各人が言いたいことを言っているのだが、まともなのは最初の森暢平のものくらいで、あとはゴミかせいぜい雑誌に載るような情勢論的な記事である。 そもそも、雅子様が優秀な女性という前提でものを書いているライターばっかりなのだが、その辺から疑ってかからないとダメなんじゃないかなあ。 (雅子様のキャリアに対する疑念については、山下悦子 『女を幸せにしない 「男女共同参画社会」』(洋泉社新書y)を参照。) また、香山リカなんかは雅子様のご病気の実態が何なのかよく分からないと書いているけど、心理学の専門家 (なんですかね、彼女って) がそういうことでいいのか?      ・・・・・・なお、最後の信田さよ子が、その文章の最初のあたりで、昭和34年の皇太子ご成婚の模様を 「当時珍しかったカラーテレビ」 が書店である自宅に入ったのでそれで見て、「青い空とお二人の馬車のパレードの様子を、今もありありと思い出すことができる」 と書いているけど、本当かね? 私の間違いだったら訂正しますが、昭和34年はまだ日本ではテレビのカラー放送は始まっていないし、そもそもカラーテレビだって売り出されていないはず。 日本で初めて国産のカラーテレビが売り出されたのは昭和35年である。 もっともアメリカ製かなんかならあったのかもしれないが。 当時信田は中1だったそうだが、記憶違いじゃないの? 当時はモノクロテレビだって珍しく、私はそのとき小1だったけど借家ずまいで自宅にテレビはなく、大家さんの家にはあったので (むろんモノクロである)、皇太子ご成婚は見なかったけど時々相撲中継を見せてもらいに行っていた。 ちなみに、この信田の文章には色々問題があって、美智子様の若い頃を 「美智子皇后」 と書いたり、今上陛下を 「平成天皇」 と書いたり (こういう書き方をしていいのは、恐れ多くも崩御のあとですぞ)、団塊の世代は教養がないっていうが、まあ人によりけりだとは思うんだけど、この人に関しては当てはまりそう。

・J・P・サルトル(安堂信也訳)『ユダヤ人』(岩波新書) 評価★★★ 岩波新書での初版が1956年だからもう半世紀以上前で、ロングセラーといえる本だけれど、このたびやっと思うところあって読んでみた。 主としてフランスの例を挙げながら、いかにユダヤ人というものが観念に過ぎず、差別に理由がない、というか、差別の理由はユダヤ人側にはなく差別する側にしかないということが延々と論じられている。 ここで注目すべきは、ナチのユダヤ人虐殺が明らかになった第二次世界大戦後に、ドイツではなくフランスを標的にしてサルトルがこのような本を書いている点であろう。 また、民主主義者は一見すると差別をしていないようだが民族的な特質を無視するという点でユダヤ人差別を行っていると批判しているのが面白い。 それにしても、訳者の安堂信也の前書きが、いかにも日本の知識人的で、日本も反省しましょうというような趣旨に持って行きたがるところが、うーん・・・・・・なのであった (今でもこういうタイプの大学人は結構いますけどね)。

・小田内隆 『異端者たちの中世ヨーロッパ』(NHKブックス) 評価★★★★ 中世ヨーロッパにおける異端の問題を紹介し論じた本。 カタリ派、ワルド派、フランチェスコ修道会、アルビジョア十字軍などが取り上げられている。 そもそもカトリックにおいても異端を異端として断じる体制が最初からできていたわけではなく、歴史的に形成されていったことも指摘されている。 また、異端はしばしばマニ教から来たものとされたが、それがカトリック側の思い込みによっていること、異端がカトリックに対抗するようなしっかりした組織を持っているというのも後世の思い込みであることも、面白い指摘である。 また、フランチェスコのような清貧の教えは、下手をすると異端につながりかねない部分を持っており、それが修道会として認められたのはある意味では体制へ取り込まれたことであって、フランチェスコ自身はそうした動きに納得していなかったということも分かる。 ヨーロッパ中世史やキリスト教に興味のある人には必読の本であろう。

5月  ↑

・島田裕巳 『教養としての世界宗教事件史』(河出書房) 評価★★★★ タイトルどおりの本で、これ一冊で世界の宗教やそれに伴う主たる事件を知ることができる。 そもそも人類が宗教を持ったのはいつかという問題から始まって、洞窟壁画から宗教発生を読み解き、古代エジプトの宗教、ゾロアスター教、そして一神教の誕生というふうに、キリスト教やイスラム教成立以前にも目配りがなされている。 仏教がなぜ生まれたインドでは衰えてしまったのかという問題や、チベット仏教の特質などにも言及されているし、無論キリスト教やイスラム教にも応分の紙数が費やされていて、非常に論述の幅が広く、なかなかすぐれた本だと思ったことであった。

・山田真 『オーケストラ大国アメリカ』(集英社新書) 評価★★★ 日本人はクラシック・オーケストラというとヨーロッパをまず考えるが、アメリカのオーケストラがその歴史において決してヨーロッパに遅れていないばかりか、質量ともきわめて充実していることを指摘した本。 アメリカにおけるオーケストラの成立過程や指揮者との関係、マネジメント、録音歴、レパートリーなど、多方面から紹介を行っている。 特に最後にアメリカのオケの特質をまとめて紹介しているところが貴重で、レパートリーにおいても革新的であり、オケの運営もヨーロッパよりはるかに市民や理事が深くかかわるような形でなされていて、クラシック音楽の精神がアメリカにしっかり根付いているのだと分かる。 日本もアメリカに負けないようにがんばろう!

・井上章一 『妄想かもしれない日本の歴史』(角川選書) 評価★★★ 井上章一が歴史について綴ったエッセイや短文をまとめた本。 最初のあたりは、義経=ジンギスカン説など妄想的な民間伝承を取り上げていて、一見すると面白そうなのだが、中身が薄くて期待はずれだった。 しかし後半に行くとさすがと言いたくなる興味深い文章が増えている。 例えば、古来日本は外交官に美男を採用しており、遣唐使などにもあちらで美貌をたたえられるような人材を選んでいたのに、最近の日本の外交官は不細工でいけないとか、源頼朝は幕府を開いて武士政権に道を拓いたとされるけど実際は京都の宮廷にかなり気を使っていたとか、大化の改新後の日本では采女のさだめ、つまり地方に対して美女を中央に差し出せという趣旨の法律が定められていたとか、結構教えられるところがあった。 井上氏はかつて著書で正倉院の柱が古代ギリシア伝来だという説を否定したのに、今でも修学旅行で正倉院を訪れる中学生は柱を見ては 「ギリシア式だ」 と言っているのだそうで、学問の無力も噛み締めているようだ。 最後は、先の著書でも主張した 「日本の歴史には古代はなかった」 を、古代ローマ史とその後のヨーロッパ各国史との関係 (各国史には古代はない) を中国史と日本史に当てはめれば自説が正しいと納得できるはずだと、がんばっているのも、なかなかいい。

・豊崎由美 『ニッポンの書評』(光文社新書) 評価★★★☆ 書評家として知られる著者が、書評はどう書くべきかについて、実際にみずから開いている書評塾での例などを取り上げながら論じている。 別段自分の書くものを最高としているわけではなく、場合によっては教え子のほうがいいものを書く場合があるとしている。 また、全国紙の書評や、amazonに掲載されたネット書評も取り上げている。 特にamazonについてはシロウトの書評ということで取り上げるのを編集者に諫止されかかったらしいが、著者自身の責任でとしながら引用して批判しているのがいい。 総じて著者の物言いは率直で、よい悪いをはっきり言っており、素人書評だからといって手心を加えず、また有名な識者の書評についても遠慮ない見解を述べている。 こういう書き方をする人って、好きですね。

・白土圭一 『日本人のためのアフリカ入門』(ちくま新書) 評価★★★★☆ 著者は1970年生まれ、立命館大国際関係学部で修士までやって毎日新聞社勤務となり、長らく南アにいてアフリカ関係の報道に従事してきた人。 本書は、その長いアフリカ滞在歴を活かして、日本人がアフリカについて抱きがちな偏見や一方的な善意の押し付けを批判するとともに、日本人がアフリカと今後どのように付き合っていけばいいかを展望している。 まず最初に、フジテレビがアフリカで製作して日本で放送したテレビ番組についての検討がなされている。 ヤラセによって日本人の 「アフリカ人は貧しくてかわいそう」 という感情を刺激するだけの番組制作姿勢を、アフリカ人とフジテレビ双方の言い分を細かく追いながら、明らかにしているところがいい。 最近のアフリカはむしろ産業の発展が目立っていて、また地域によっても相当に状況が異なるわけで、なのに日本のアフリカ報道が 「かわいそうなアフリカ」 というステレオタイプになりがちなのはなぜなのかが問われているわけだ。 このほか、日本でのアフリカ報道がアメリカやヨーロッパの報道に追随しがちで日本独自の視点が生まれにくいといった指摘もあるし、アフリカにおける 「部族対立」 という見方は一面的で、伝統的な部族同士の争いではなく、むしろ近代的な民族対立と見るべきだという主張など、多方面で示唆に富む内容である。 著者の姿勢はきわめて柔軟かつ精緻であり、単純な物言いを避け、物事を読者と一緒に考えていこうとする深さが感じられる。 タイトルだけからすると、アフリカについて1冊の本も読んだことのない人向けと思われるかもしれないが、私のように、アフリカについて数冊の本を読み、アフリカ通ではないけれど多少は知っているつもりの人間にも教えられるところが大変多い本である。 最後にある文献リストも役に立つ。 お薦め。 

・木村誠 『消える大学 生き残る大学』(朝日新書) 評価★★★ 著者は長らく学研に勤務し、大学進学関係の出版に携わった人。 最近の日本の大学について書かれた本。 最初に独法化後の国立大学について書かれているが、ここがなかなかいいと思う。 はっきり言って東大の一人勝ち、或いは旧帝大などの有力大学だけがいい目をみていて、他の多数の国立大学は四苦八苦している現状が明快に指摘されている。 独法化なんかさっさとやめちまえ、というのが私の持論だが、そういう正論――誰が見てもそうだと思うけど――をはっきり述べる人間があまりに少ない日本は、これから知的に下降していくしかないんだろうなあ、と私は悲観しています。 そのほか、私大についても各論的に述べられている。 ただ、若者人口が減少する中で、知名度や立地条件に劣る私大が淘汰されるのは或る意味当然で、その辺の見通しはやや甘い感じがする。

・黒川みどり 『近代部落史 明治から現代まで』(平凡社新書) 評価★★★ 明治以降、現代に至るまでの部落差別についての通史である。 差別は今もあるけれど、明治から大正の頃の差別がどの程度ひどかったかがさまざまな事例を挙げて説明されている。 生徒が同級生を差別しても教師は差別する側に味方するとか、裁判でも差別がまかりとおるといった、今からすると信じられないような事例を知るなら、部落差別が近代日本でどの程度深刻な問題であったかが改めて分かるだろう。 また、人種が違うという説が学者によって唱えられたりしたという事実もある――ただしこれがどの程度流布したかについては異論もあるようだ (http://blhrri.org/info/book_review/book_r_0228.htm)。 著者は部落差別には戦後になっても人種的な見方が根強いという点を強調しているのだが、「人種」 という言葉はかつては必ずしも現代的な用法でのみ使われたわけではなく、戦後あまりたたない時期に作られた映画 『浮草』 で、旅役者が息子を大学に進学させたのを自慢にして (戦後まもない当時は大学進学率は低かった)、その息子が旅役者である娘と結婚しようとするのに立腹し 「息子はお前たち(旅役者)とは人種が違うんだ」 と言うシーンがあって、この箇所が部落解放同盟から抗議されるという事件が起こったが、この場合の 「人種」 は明らかに 「人間としての格」 というような意味なのであり、そういう用法上の問題点を抑えておく必要がある。 さらに、著者の歴史観はやや古いというか、一世代前の左翼そのままで (著者はワタシより4歳下であるが)、マルクス主義と部落差別撤廃運動との共闘については、一方で非マルクス主義的な運動にも言及はしているけれど、かなり肯定的な筆致を見せていて、時代的なものを考慮するならやむをえない点もあるが、階級史観と部落差別問題の整合性についてきちんと考えていないように思える――特に女性差別だとか朝鮮人差別と部落差別とのかかわりを論じている箇所と比較するとその点が奇異ですらある。 また第二次世界大戦に至る過程については、日本をイタリア、ドイツと並べてファシズム国家と単純に規定している上に、支那事変の発端となった盧溝橋事件については 「軍事演習をしていた日本軍兵士一名が行方不明になったことから、日本軍が中国軍を攻撃」 と書いており、最初の発砲を中国側がしていることには触れていないなど、首を傾げざるを得ない箇所が散見する。 こういう有名な事件の記述が一方的であるとすると、肝心の部落差別についての記述ももしかしたら一方的なのではないか、という疑問が湧いてくることに、著者は自覚的であるべきだろう。

・小宮正安 『モーツァルトを「造った」男 ケッヘルと同時代のウィーン』(講談社現代新書) 評価★★★★☆ モーツァルトの作品番号として知られるケッヘル (正しい発音はケッヒェル)。 これはモーツァルトの作品を調査整理して番号をつけた人物の名であるが、このケッヘルがどういう人であったかを明らかにしたのが本書である。 ただし単純な伝記ではない。 ケッヘルが専門的な学者ではなくディレッタントであって、当時のオーストリーではディレッタントの存在が評価されていたことを、ビーダーマイヤー文化との関連などから説明している。 また、なぜモーツァルトという作曲家が取り上げられたのかについては、当時の専門的な学者の古典的モーツァルト観や、同じドイツ語圏でもドイツ側で 「音楽の父」 としてバッハの意義が高く掲げられつつあったのに対してオーストリー独自の芸術家像を打ち出す必要があった、という点を指摘している。 またこれには、当時古典を重視するブラームス派と新しい音楽を打ち出すリスト・ワーグナー派との対立の中で、オーストリーが前者に傾いていたこととも関連しているようだ。 著者はそうした当時の芸術動向や政治のあり方にも目配りしながら、ケッヘルがなぜモーツァルトの研究をしたのか、なぜケッヘル番号が今日まで残っているのかを明らかにしている。 非常に充実した内容の書物で、クラシック音楽ファンは必読。

・林芳正+津村啓介 『国会議員の仕事 職業としての政治』(中公新書) 評価★★★ 現職の国会議員が、国会議員は具体的にどういう仕事をしているのかを自ら語った本。 1961年生まれの林氏は自民党で、父も代議士だったからいわゆる世襲政治家。 1971年生まれの津村氏は逆に親や縁者には政治家がいない家系である。 ただし、どちらも東大法学部卒で、卒業後いったん民間会社や日銀に勤めたという学歴・経歴では一致している。 民主主義の現代にあっては、国民の代表たる代議士の存在は重要だが、他方で世襲で頼りにならないとか、事実上官僚が物事を決めているといった批判があとを絶たない。 本書は代議士がどういう仕事をし、何を考え、これからの日本をどうしようとしているのかを比較的率直に語っている点で貴重ではある。 国民が気にしがちな 「代議士とお金」 についても言及がなされているのもいい。 とはいえ、やはり書けないこともあるだろうし、その主張には必ずしもうなずけない部分もあるけれど、いずれにせよ政治家は責任の重い仕事であるから、しっかりやっていただきたいとは思ったことであった。

・原武史 『鉄道ひとつばなし3』(講談社現代新書) 評価★★☆ 鉄道マニアである政治思想史学者による同名の本の3冊目。 今回は山陽本線搭乗記を冒頭に、昭和の面影が濃く残っている駅だとか、私鉄沿線文化論だとか、多方面にわたる内容である。 が、どうも少し味が薄い気がする。 また、?が付く記述も見られる。 例えば、都内の私立高校の東大進学者数ランキングは鉄道による通い易さに左右されるという文章は、なるほどとも思うけど、本当にそれだけで説明できるのだろうか。 また、飛行機はJR指定席と異なって指定された翌日に乗っても大丈夫というのは、著者が実際にそういう体験をしているからのようだが、本当にそうなのか、もう少し確かめたほうがいいんじゃないだろうか。 他方、東京の私鉄が関西のそれに色々な点で遅れをとっているという指摘は、私も乏しい体験からではあるが同感であった。

4月  ↑

・竹田いさみ 『世界史を作った海賊』(ちくま新書) 評価★★☆ 著者は私と同年生まれの獨協大教授。 ちょっと面白そうなタイトルの本だけど、そして内容は必ずしも悪くはないのだけれど、タイトルと内容にズレがあるのでこの点数とした。 つまり、海賊そのものについて語っている部分が少ないのである。 最初はいい。 要するに初代エリザベス女王の時代の16世紀イングランド (現在の英国とは違い、スコットランドは別の国だった) は、海賊行為によって国家の冨を貯えていたし、そうした状況は女王自身も暗黙裡に認めていたばかりか、自ら出資もしていたという事実を指摘しているからだ。 英国は紳士の国なんかじゃなく、ドロボーを公認して儲けていた国だったのである。 また、世界史的に有名なスペインの無敵艦隊との戦争にも海賊がからんでいたとの指摘もなされている。 ただ、その後は、東インド会社の実体だとか、コーヒーや紅茶が英国で流行していく経緯だとか、まあそこにも海賊が無縁ではないのではあるけれど、どっちかというと英国経済社会風俗史みたいな話がメインになり、海賊はどこに行ったのだ?と言いたくなってしまう。 残念。

・山田順 『出版大崩壊 電子書籍の罠』(文春新書) 評価★★★★ 著者は私と同年生まれ (1952年) で長らく光文社に勤務した出版人。 本書は、最近のネット社会の中で紙媒体の出版が困難になっており、なおかつそれなら電子出版に未来を見いだせるかというと、どうもそうではないという、言うならば 「出版の終焉=シロウト支配文化=暗い未来」 論を打ち出している。 つまり、一般人はネットはタダという感覚から抜け出せないし、アメリカでも有料のネット・ジャーナルといったら 「ウォールストリート・ジャーナル」 以外は成功していない。 日本でもこれまで試み的に行われてきたネットによる出版は事実上失敗に終わっており、何より音楽やゲームが書籍より先にネットに負けて産業規模を縮小させているのである。 一般人は、編集者や専門的なクリエイターを介した有料の、しかし中身の濃いコンテンツにカネを払うより、シロウトが作ったネット上の無料の、しかし中身のないコンテンツを利用することを選ぶであろうから、出版の電子媒体への移行とはすなわち文化暗黒期への移行に他ならない・・・・・・という。 かなり深刻な内容で、出版や書物に興味のある人は一読しておくべきだと思う。

・許光俊+鈴木淳史(編著)『クラシック・スナイパー 7 特集・吉田秀和は本当に偉いのか?』(青弓社) 評価★☆ いまや100歳に近づいている日本クラシック音楽批評界の大御所・吉田秀和を真正面から批判したムック本・・・・というので買ってみた。 が、はっきり言って中身がなさすぎる。 どうしてかというと、基本的にクラシック批評をやっている人間たちが本書の執筆者であり、ということは吉田と同じ穴のムジナ、というか、勉強量や芸術への感受性や文章力において、吉田に及ばない人間ばっかりだからだ。 ○○犬の遠吠え、といった文章だらけなのである。 吉田批判をやるなら、彼の芸術批評は根本的に間違っている、その理由はこうだ、と言えなければ駄目である。 つまり、シロウトの文筆家――この雑誌の執筆者は基本的にシロウトばっかり――には所詮無理なのである。 例えば、中で一番力を入れて書いていると思われる許光俊にしてからが、具体的な批判となると最後に、吉田は無名兵士と偉い軍人とを同一視していてケシカランと憤慨している有様なんだけど、吉田の政治音痴は周知のところであり、そんな周縁的な部分で揚げ足取りをしたって何にもならないのである。 須永恆雄なんか、吉田が翻訳もやっていると最初に書いた上で、そのあとは全然吉田と無関係な翻訳論を展開して済ましている。 ドイツ文学者のレベルの低さが分かっちゃうけど、こういう原稿料ドロボー的な輩に、多分都立大出身のツテで書かせたりする許光俊は、まともな編集者であり得るであろうか?? 

・薬師院仁志 『社会主義の誤解を解く』(光文社新書) 評価★★★★☆ 社会主義や共産主義の歴史について、きわめて分かりやすく語った本。 まず、マルクスの言う共産主義が私有財産を否定しているというのは誤りだというところから始まっている。 マルクスが否定したのは、生産手段の私有に過ぎず、私有財産そのものではないという。 また、ヨーロッパで産業革命のあと自由や民主主義が浸透していった19世紀こそ、今で言うネオリベの主張が幅をきかせていたという指摘も面白い。 つまり、個人の価値を強調するほどに、「自己責任」 が言われ、貧困に陥ってもそれは自分の問題とされたのであり、貧困層の救済にあたったのはむしろ貴族などの守旧派だったという。 また、社会主義と共産主義という、どう違うかよく分からない2つの用語の定義についても、時代や党派の確執によりかなりいい加減に命名されていたという実態が明らかにされている。 説明は明晰だし判断も的確で読みやすい本だけど、長くて複雑な社会主義の歴史を新書一冊で語っているので、ややまとめ過ぎのところもないではない――例えば日本における講座派と労農派の区別には触れておくべきだったんじゃないか。 しかしともあれ、この一冊で社会主義と共産主義の概要がつかめる貴重な書物。  

・奥波一秀 『フルトヴェングラー』(筑摩選書) 評価★★☆ タイトルがタイトルなので、これ一冊でフルトヴェングラーの生涯や活動やナチとの関係が一通り分かる本なのか、と思われかねない。 というか、私もそういう本なのだろうと思って買って読んだのだけれど、そういった前提で読むと失望する。 この書物はフルトヴェングラーのナチ加担問題に焦点を当てながら、主として彼の音楽観や思想を取り上げて、音楽上の師やゲッベルスや時代思潮などとの関わりを細かく追いながら、ナチとの関係の微妙さを論じている。 ・・・・たしかに、問題は微妙なのであり、割り切った言い方が難しいのは、分からないでもない。 また、著者の書いていることが必ずしも的をはずしているわけでもない。 しかし著者自身があとがきで引用しているゲーテの言葉、「私にものを言うなら、断定的に言ってもらわないと困る。 単に問題的なものなら私はいくらでも自分の内部に抱えている」 が、まさに本書を評するにぴったりなのだ。 もっとはっきり書いて欲しいのである。 また、本書は書き下ろしなのだけれど、読んでいるとむしろ紀要論文を何本かまとめたような印象がある。 細かいテーマを論じたものを、あとで束ねて本にしました、といった感じなのだ。 そして、フルトヴェングラーの生涯については、しばしば重要な事柄ですら省かれている。 他に本もあるでしょうという言い方を著者はしているけど、ちょっとどうかと思う。 それなら、タイトルをもう少し工夫して、誤解のないようにすべきだろう。

・中島岳志 『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ) 評価★★★★ 2002年に出た新書。 私はたまたま先月上京したときに神保町の古本屋の店先に100円均一で出ていたのを見つけて買ってみたのだが、存外の拾いものだった。 タイトル通り、インドのヒンドゥー教を土台とするナショナリズムを、主としてそれを主張する団体に身近で取材しながら、その実体を明らかにしている。 また、そうしたナショナリズムを可能にするインドの現況や、イスラムとの関係にも、歴史的な部分を含めて触れている。 私が一番面白いと思ったのは、最後のあたりで、そうしたナショナリズムを可能にしたのが、英国による植民地統治で、統治を容易にする一環として英国学者によるインドの宗教・思想の学術的な調査分析が行われ、それを取り入れたインド人の側が、近代的な学術の知から逆にナショナリズムを生みだしていったという経緯である。 英国人学者は統治の手段として学問をやっていたのだが、インド人はそれを逆用したわけだ。 こうした過程はおそらく他の植民地経験を持つ地域にもあてはまることだろう。 充実した内容で、デビュー作としてはきわめて質が高いけど、ただ著者・中島の、戦後民主主義的で微温的なコメントがいくぶん目障りではある。

・東浩紀+宮台真司 『父として考える』(NHK生活人新書) 評価★★ 昨年夏に出た新書。 結婚して子供を作った宮台と東による対談集。 最初は子育ての話から始まって、後半は最近の社会情勢や文化状況などについて語られている。 ・・・・私の感想を単刀直入に書くなら、「いい気なものだ」 というに尽きる。 ここで二人が語っていることが間違っているとは思わない。 むしろ正しい。 ただし、「今ごろ分かったのかい?」 と言いたくなるのだ。 思うに、この手の文化人ってのは、その時どきの自分の立場に都合のいい言説を振りまいているに過ぎないんじゃないか。 宮台なんか、その典型。 要するに結婚して娘が二人できたからそれに合った主張をしているだけでしょ。 それはだから、彼がここで批判している上野千鶴子と同じなんだよ。 上野が 「おひとりさま」 言説を振り回しているのも、自分に都合がいいからだ。 ここに、社会学だとか社会学者のいかがわしさが露呈している。 彼らがやっているのは 「社会学」 ではなく 「自分学」 なのである。 こんなもの、要らない。 大学から社会学科を撤去しましょう。

・辛酸なめ子 『女子校育ち』(ちくまプリマー新書) 評価★★★ ここでいう女子校とは、東京かその近辺にある私立中高一貫女子校のことである。 今も一部に残っている地方都市の公立女子高校のことではない。 ともかく、そういう学校に行く女の子とはどういう境遇に生まれ育ち、どういう教育を受け、その結果としてどういうふうな人間になるのか、ということを解き明かした本。 著者自身も女子校育ちだそうな。 むろん女子校と言っても色々あるわけで、著者は、「深窓お嬢様系」 「お嬢様系」 「温室・夢みがち乙女系」 「良妻賢母系」 「モテ系」 「努力型秀才系」 「性超越系」 に分類している。 笑いながら楽しく読める本になっていると思うけど、しかしところどころで男子校にも言及しているのだが、その代表格である麻布学園の校舎近くで、「栗の花が咲いているのか、むっとするような官能的な匂いが充満して (…) この匂いに反応する女子高生は非処女決定」 なんて書いてあるのを見ると、女子校出身のライターである著者の過剰な性反応が見えてしまいます。 これも女子校出身だからかなあ??

・円堂都司昭 『ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー』(ソフトバンク新書) 評価★★★☆ 2000年代の日本の批評を、東浩紀や鈴木謙介、三浦展や宇野常寛などの書物を要約的に紹介しながら、その展開と図式を明らかにしようとした本。 内容的にはサブカルが主体ではあるが、なぜ文学が終わりを宣告され続けなくてはならななかったかとか、建築や現代美術の動向などにも光が当てられており、それなりに読みごたえのある本になっている。 ただし、ロスジェネなどを別にすれば政治方面への目配りはほとんどなく、大塚英志なら 『サブカルチャー文学論』 には触れられていても 『サブカルチャー反戦論』 は無視されているなど、こういう方面では政治はタブーなのかな、という気もしてくる。 つまりそういう雰囲気みたいなものが、この種の論者の共通点であり、逆に言えばいちばん問題なところじゃないかって気がするんだけど。 ないものねだりかも知れませんがね。

・ヨコタ村上孝之 『金髪神話の研究 男はなぜブロンドに憧れるのか』(平凡社新書) 評価★★★   タイトル通りの本。 金髪についての過去現在の言説を研究しており、第1部は西洋、第2部は日本と東洋について書かれている。 色々調べてあってそれなりの本だとは思う。 特に、『アイヴァンホー』 のロウィーナ姫とレベッカとの対比が、やがてサッカレーの小説で反転させられている、なんて記述は、面白く読めた。 ただ、この人の本を読んだのは私は初めてなのだが、ところどころで首をかしげるような記述や誤記が見られるのが気になった。 例えば、13ページで 「日本では白色の車が圧倒的に愛好されている(…)その選択は(…)経済的な理由――中古市場で売れやすい――に基づいている」 とあるけど、そんなに白色の車って多いかなあ。 ちなみにわが家だと、ワタシの車は濃いシルバー、カミさんのはブルーなんですが。 街を走っていても、そんなに白が多いとは思えない。 そのほか、「『金髪』の語自体も二十世紀末にはまだ一般化していない」(143ページ) → 言うまでもなく 「十九世紀末」 の誤り。 「『風と木の詩』のジルベール・コクトーとセルジュ・バトゥ」(257ページ) → 「セルジュ・バトゥール」、「摩利と真吾」(同左) → 「摩利と新吾」 など。

・「NHKスペシャル」取材班 『アフリカ 資本主義最後のフロンティア』(新潮新書) 評価★★★☆ アフリカの現状について取材し本にしたもの。 ケータイを駆使するようになったマサイ族という話に始まって、前世紀末に大虐殺が起こったルワンダの現状、エチオピアやザンビアへの中国進出、タンザニアやボツワナのゴールドラッシュ、経済が破綻したジンバブエと、そこからの労働移民を受け入れている南アフリカの現状など、興味深い話が次々と出てきていて、アフリカの現状を一瞥するのに有用な本になっていると思う。

3月  ↑

・西村賢太 『苦役列車』(『文芸春秋 三月号』) 評価★★★ 先に読んだ(↓)朝吹真理子の小説と並んで芥川賞を受賞した作品。 父が犯罪者になるなどの事情から中卒で世の中に出た男が、その日暮らしをする様子を描いた私小説。 中卒で社会に出るといかに働き口がないか、しかしそういう人間をも日雇いで雇ってくれる職場があって、勤勉に通えば内部でそれなりに昇格していけるのだが、そうした勤勉さが欠けている主人公は日銭が入るとしばらく仕事を休んでしまい、なくなるとまた行くという怠惰な暮らしを続けていた。 しかしたまたまそこで知り合った男と少し親しくなり・・・・・というような筋書きで、底辺部の日雇い仕事がどういうものか、そこに通う人間の精神状態はどういうものかを知るには悪くない作品だけど、それ以上ではないかな、という気もした。 まあ、朝吹真理子が慶応の院生で親戚にフランス文学者がいて今回の受賞作が湘南の別荘を舞台にしているということと対比すれば、日本の格差社会が今回の受賞作2作に凝縮されている、というような安易な見方もできなくはない。

・ブルデュー(加藤晴久訳) 『自己分析』(藤原書店) 評価★★★ 『ディスタンクシオン』など数々の著作で知られ2002年に亡くなったフランスの社会学者ブルデューの、自伝めいた本。 ただし本人は自伝というものを信用していないと言っており、この本も原題は 「自己分析のためのスケッチ」 であり、本の帯にも 「これは自伝ではない」 と書かれている。 とはいえ、自分の生い立ち、高校時代、特に寄宿舎なるものの害、その後のエコール・ノルマル時代の「哲学の優位意識」、サルトルやアロンの印象、アルジェリアで調査旅行した際の思い出など、当時のフランス・エリート層の雰囲気や時代相を知るにはそれなりの材料だと思う。 なお、訳は悪くはないが、もう少し業界外部の人間にも配慮した訳でもいいかな、という気がした。 表記も、「レイモン・アロン」(57ページ) と「レーモン・アロン」(59ページ) があったりして統一されていない。 それから、四六版200ページの本の定価が2800円+税ってのは、少し高いんじゃないですか?

・木村泰司 『美女たちの西洋美術史 肖像画は語る』(光文社新書) 評価★★★ ヨーロッパの王侯の奥方や愛人になった女性たちの肖像画を見ながら、彼女たちの人生をたどった本。 著者は在野の美術史家で、「エンターテインメントとしての西洋美術史をめざす」 という方針だそうだが、この本は西洋美術史だとか肖像画史というよりはヨーロッパの貴族やその愛人であった女性 (唯一、ケネディ大統領夫人だったジャクリーンだけがアメリカ人として登場) の物語をメインにして、肖像画はオマケに付けたといった感じの内容である。 たしかに西洋美術史の知識も含まれてはいるが、あまり多くはない。 したがって、美術史をちゃんと勉強しようとして読むと失望する。 むしろ絵付きでヨーロッパ史に登場する有名な女性の生涯を気軽に知るための読本だと思っておくのがいいだろう。 

・富永茂樹 『トクヴィル 現代へのまなざし』(岩波新書) 評価★★★ タイトルどおり、『アメリカのデモクラシー』『アンシャン・レジームとフランス革命』で知られるフランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィルの思想を解明しようとした本である。 ただ、著者 (京大教授で社会学者) の記述は必ずしも明快とは言えないところがあり、思弁的で、時として芸術的である。 もちろんそれはトクヴィルという存在自体が単純に割り切れないところから来ている。 したがって本書は速読できない本であり、少しずつ味わうようにして読んで行かなくてはならない。 もっとも、国家と個人の間にある中間団体を重要視するなど、最近の社会学の動向をバックにして分析を行っている箇所も多い。 フランス革命とは、一方では絶対王政下で中間団体が解体し、放り出された個人の集まりが大衆化した結果であり、また他方では、「格差」 はむしろ縮小していたのにもかかわらず、「格差への意識」 は拡大していたために起こった事件だったということらしい。 そして、貴族は解体しても、貴族精神は人間が生きていくためには何かの形で必要だということになるようだ。

・三谷信 『級友 三島由紀夫』(中公文庫) 評価★★☆ 著者は学習院時代に三島由紀夫と同級で仲が良く、卒業後も葉書のやりとりがあった。 本書は、学習院時代から戦中にかけて三島から送られてきた葉書を再録しつつ、当時の三島との交友を回想したものである。 なお著者は学習院を出てすぐ軍隊に入り、敗戦後は東北大をへて会社勤めをしている。 若い頃の三島を知る資料として貴重だが、著者は三島の書く作品にはついていけなかったようで、作家としての三島を見るという点から言うと物足りない感じが残る。 あくまで学習院時代の、ふつうの感受性の同級生から三島がどう見えていたかを理解するための本だと思う。

・朝吹真理子 『きことわ』(『文芸春秋 三月号』) 評価★★★ 最新の芥川賞受賞作。 著者は慶応の大学院生で、身内にフランス文学者がいるという 「毛並みの良さ」 でも話題になっている。 貴子 (きこ) と永遠子 (とわこ) という二人の少女が、貴子の母と叔父が逗子に持っていた別荘で知り合い交遊し、その後貴子の母が死去して別荘に来なくなってから交友が途絶えていたものが、二十年以上たってから別荘の処分をすることになり再会するというお話である。 過去と現在の交錯にそれなりの味があるけど、私にはむしろ、少女時代の永遠子が貴子の家族と一緒に蕎麦屋に入り、鴨せいろが1700円もするのにびっくりするというような描写にリアリティを感じてしまいました。 育ちのせいでしょうか(笑)。

・島内景二 『三島由紀夫 (ミネルヴァ日本評伝選)』(ミネルヴァ書房) 評価★★★☆ 著者は日本文学専攻の電通大教授。 ミネルヴァ書房から出ている日本評伝選の1冊として刊行された本書は、主として和歌との関係という視点から三島由紀夫の生涯と文学を究明しようとしている。 と同時に法学部を卒業した三島と法学との関わりを、最高裁の判事を務めた団藤重光との関わりにおいて明らかにしようともしている。 ただし、私の見るところ、前者についてはかなり成功しているというか教えられるところが多いが、後者については必ずしもうまくいっていないような印象が残る。 そのほか、学習院在学時代のこと、最終的に自宅を建てるまでに住んだ家のことなど、多方面からアプローチがなされていて、勉強になる。 ただ、記述の仕方は、やむを得ないこととはいえ、学者的では必ずしもなく、想像力に委ねられている部分も多く、また色々なところに話が飛ぶので、ふつうの学術論文や学術書を読むというよりは、三島好きが蘊蓄を好きなように傾けた本と見る方がいいのかも知れない。

・アンケ・ベルナウ (夏目幸子訳)『処女の文化史』(新潮社) 評価★★★ 2年半ほど前に出た本。 著者はドイツ生まれながら小さいときに英国に移住し、現在はそこで大学教員をしている女性。 本書はタイトル通り、処女というもののが西洋でどのように捉えられてきたかを歴史的にたどった本である。 今から見ると珍妙な思い込みや、処女イデオロギーが並べられている。 著者の筆は現代アメリカにも及んでおり、そこでの、十代の妊娠増加をめぐる保守派とリベラル派の争いについても述べている。 そして、一見すると処女崇拝などと無縁そうに見える現代先進国でも処女という観念の重要性が失われていないことを明らかにしている。

・子安大輔 『「お通し」はなぜ必ず出るのか ビジネスは飲食店に学べ』(新潮新書) 評価★★☆ 著者は35歳、東大経済を出て博報堂勤務ののち、飲食業界のコンサルティング業に転身したという人。 いまや日本でも有数の業界に成長した飲食業について、イロハから教えてくれる本。 2007年のデータでは、日本人は1人あたり1日平均530円を飲食店で使っているのだそうだ。 これを読むとびっくりする人も多いだろう。 私なんぞも、日頃は昼食は大学生協で400円前後で済ませているし、紅茶やココアは自分の研究室で自分でいれて飲んでいるから、へえ、日本人ってそんなに贅沢していたのかと思ってしまった。 そうした日本の飲食業界について書かれているけれど、ものすごく面白いというほどではなく、まあほどほどかな、というくらい。 繰り返しだとか、常識的な内容の部分も目立つ。 新潮新書らしく(?)、やや薄い感じの読後感の本である。 

・西尾幹二 『西尾幹二のブログ論壇』(総和社) 評価★★★☆ 昨年末に出た西尾幹二氏の最新評論集。 日頃の氏の言論活動が多方面に及んでいるのに比例してこの本の内容も多様であるが、重要なのはまず、 歴史観をめぐって 『諸君!』 誌に掲載された秦郁彦氏との対談 (というか対論かな) であり、次には三島由紀夫について語った文章、そして刊行が続いている 『GHQ焚書図書開封』 をめぐる文章であろう。 米国の力が衰退のきざしを見せ、中国の大国化が取りざたされる現在、日本がどのように進路を定めていくべきなのかについての様々なサジェスチョンが盛り込まれている。 もとより個々の主張については人により賛否両論あろうが、すでに左右に分かれての論壇は意味を喪失しており これからは保守の内部にあって何をどうすべきかで論争が盛んになるべきだという氏の予言は重要だと思う。 また、三島由紀夫と江藤淳について書かれた部分も私には非常に面白かった。 なお若手論客の渡辺望氏が序文を書いている。 (その渡辺氏の文章だが、細かいことでごめんなさい、1ページの 「小林彰夫」 は 「小林章夫」 でしょう。)

2月  ↑

・酒井健 『シュルレアリスム 終わりなき革命』(中公新書) 評価★★★★ 主として両大戦間にフランスを中心に盛んになったシュルレアリスム (シュールレアリズム) 運動について書かれた本である。   第一次世界大戦での戦時体験、そして戦後の社会的芸術的動向のなかで、アンドレ・ブルトンやアラゴンを中心に、バタイユ、ユンガー、ベンヤミンなどの思想や視点をも批判的に吟味しながら、シュルレアリスムの運動と作品について、その実現されなかった可能性をも含めながら、記述を行っている。 そして後半では扱うのが難しい 「芸術と政治」 の問題にも踏み込んでおり、二十世紀の芸術家が向かい合わねばならなかった難題を総合的に明らかにしようとしている。 そして最後に、ブルトンの 『シュルレアリスムと絵画』 に触れて、シュルレアリスム絵画の持つ魅力とその味わい方を説きつつ、この運動が芸術の原点をめぐるものであり、それは現代にあったも持続されているのだと結んでいる。 シュルレアリスムを新書1冊で理解させてくれるだけでなく、芸術一般をどう考えるかという根本的な問題に挑んだ力作だと思う。 

・呉智英『マンガ狂につける薬 二天一流篇』(メディアファクトリー) 評価★★★☆ 呉智英氏がマンガと活字本を並べて紹介するシリーズの最新刊が出た。 副題の二天一流は、宮本武蔵の二刀流のことで、ここではマンガと活字本の二刀流の意味であるらしい。 最近の私はマンガをほとんど読まなくなっているので、最新のマンガ情報として有用。 むろん活字本でも 「へえ」 と思うところが結構ある。 例えば雑誌 『平凡』 についての研究書が出ていたとは知らなかった。 『キング』 についての研究書は知っていたけど。 調べてみたら新潟大図書館にも入ってない。 早速入れるよう手配したいけど、昨今の研究費激減のおり、来年度までは無理かなあ。  ともかく、教わるところの多い本である。 ――なお、1箇所だけ誤記を指摘しておくと、カフカの 『変身』 を一種の寓話だとして、この作品が出た頃は 「ドイツではナチスが権力を握り、その版図であったチェコのプラハでもユダヤ人の生活はゆらぎ出していた」(64ページ) と書かれているが、カフカが 『変身』 を書いたのは1912年 (第一次大戦前)、発表は1915年 (第一次大戦中) であり、ナチス (国家社会主義ドイツ労働者党) はまだ生まれてすらいないし、まして 「権力を握って」 などいない。 ナチスは第一次大戦後に成立し、政権を掌握したのは1933年になってのことだからである。 

・飯島裕子/ビッグイシュー基金 『ルポ 若者ホームレス』(ちくま新書) 評価★★★☆ タイトル通り、若者のホームレスについて調査した本である。 保守系の知識人には 「若い癖にホームレスなんて、意欲と根性がないからだ」 というような言い方をする人もいるが、なぜ若いのにホームレスになってしまうのかを、多方面から解明している。 そもそも小さいときから家庭的に恵まれない若者が多く、十分な教育や職業訓練を受けられないし、また職を失って家庭に逃避しようにもその家庭がすでに存在しないというケースが多いと分かる。 また、昔なら職人の世界には自宅に若い者を住み込ませて、つまり職住両方の面倒を見ながら後継者を育成するようなシステムがあったが、今の日本にはそういうシステムが消失しつつあるという指摘も貴重だろう。 こういう若者を支援するNPOもあるが、中にはそういう若者からカネを搾取する団体もないではなく、油断がならない。 また、いったんホームレスに転落すると立ち直らせるのにはかなりの困難を伴うことも分かる。 なるべくホームレスにさせないような政策が望まれるのだ。

・バルザック (平岡篤頼訳)『ゴリオ爺さん』(新潮文庫) 評価★★★★ バルザックの有名な長篇小説だが、授業で取り上げて学生と一緒に精読してみた。 私も読んだのは初めてである。 二人の娘を貴族に嫁がせたのはいいが、カネを始終たかられて、やがて貧困のうちに死んでしまうゴリオ爺さんと、彼と同じ下宿屋に住む学生ラスティニヤックを中心に話は進む。 19世紀パリの上流階級の風俗や暮らしぶりが細かく描写されている。 また下宿屋に暮らす人物ヴォートランをめぐる謎とその解明がミステリーみたいで面白い。 しかしここに描かれているのは徹底的な不人情と、カネがすべての世界である。 何しろ、二人の娘は搾り取れるものを全部搾り取った父親が死ぬ時には、会いにすら来ないのである。 葬儀のカネも出さないから、学生のラスティニヤックが自分で出す始末。 娘の不人情を徹底的に明らかにしたバルザックの筆は冴えているが、学生はこういう不人情の描写には必ずしもぴんと来なかったみたい。 高校までの教科書には人間の善意を基調にした文学作品が多いからかなあ。 

・中橋孝博 『日本人の起源 古人骨からルーツを探る』(講談社) 評価★★★ 5年前に出た本。 猿人から現世人類が生まれてくる過程、そして日本列島に住む人類はどこから渡ってきたのかを、5年前の段階で判明している限りの最新知識で明らかにている。 また、今までこのテーマについてどういう主張がなされてきたかの学問史的な記述もある。 今だとネアンデルタール人は現世人類の直接の祖先ではないけど原生人類の一つというのが定説だが、最初の頃は現世人類の病気による変形をへた骸骨だという説もあったそうで、定説が確立していくまでには色々な説が乱れ飛ぶものだと分かる。 日本人の起源についても、最近は色々な方面から分析がなされていて、それらの分析相互の矛盾もあり、まだ 「これで絶対」 という説が出るまでには至っていない。 この本が出てから今に至るまでの5年間にも様々な発見や研究がなされているわけだが、あと5年もたてば別の本が必要になるのだろう。 

・山口進+宮地ゆう 『最高裁の暗闘 少数意見が時代を切り開く』(朝日新書) 評価★★★☆ 著者のうち、山口は日本の最高裁について、宮地はアメリカの最高裁について書いているが、後者はページ的には多くなく、大部分は日本の最高裁の判例変更や、判決が出るまでの裁判官同士の暗闘について扱っている。 最高裁では判決が出ても、少数意見などを附記することができるようになっているが、その少数意見が時代を先取りし、やがては多数意見となって判例変更にいたる様子が丁寧に跡づけられている。 また、最高裁における裁判の仕組み、各裁判官が扱う事件ごとにどのような立場をとったかなど、細かい記述も興味深いし、また最高裁の裁判官は公用車で通勤して一日を個室で過ごすとか、どうしても運動不足になりがちなので公用車を断って電車通勤する人もいるとか、収入はどのくらいかとか、ちょっと週刊誌ネタ的な記述もあって、楽しく読める本にもなっている。

・吉田秀和 『永遠の故郷 夕映』(集英社) 評価★★★☆ 吉田秀和氏の 『永遠の故郷』 シリーズの第4冊目にして締めくくりである。 歌曲だけを取り上げているこのシリーズだが、今回はベートーヴェンから始まって、半ば以降は集中的にシューベルトを取り上げている。 「菩提樹」 でこのシリーズを終えるということは構想の最初から考えていたそうである。 トーマス・マン 『魔の山』 の最後の場面で主人公が (第一次大戦に参戦して命も危うくなりながら) この歌を歌うことに最後の最後で触れていて、うん、そうだよな、と私は勝手に納得してしまった。 吉田氏の旧制高校生時代がかなり音楽的に恵まれた環境にあったことも分かったし――福島県の公立高校を戦後しばらくたった昭和46年に出た私からするとちょっと信じられないくらいデラックスな環境である――、付き合いのあったヨーロッパ人や、過去の思い出にさりげなく触れている箇所もあって、味わい深い本になっている。 現在、氏は満97歳である。 ご苦労様でした。 この本、来年度の授業に使うと決めてしまいました。 

・大塚健洋 『大川周明 ある復古革新主義者の思想』(中公新書) 評価★★★★ 1995年に出た新書。 以前一度読んだのだけれど、思うところあって再読してみた。 大川は第二次世界大戦後極東軍事裁判にかけられ (民間人で裁判にかけられたのは彼だけ) 戦犯扱いされたが、たまたま精神に異常を来したので――性病が原因ということらしい――刑は免れた。 本書はその生い立ちに始まって、若い頃の思想的遍歴 (マルクス主義やキリスト教の影響) だとか、インドを英国から独立させようとして日本に来ていたボースとの付き合い、国内の昭和革新的な思想家たちとの連携や対立など、大川の生の軌跡が分かりやすく、なおかつ重要なところを押さえて記述されている。 昭和32年、彼が死ぬ直前、来日中のインドのネルー首相は彼を招待したという。 欧米にとっては大川は反欧米的で戦争をあおった思想犯だったかもしれないが、アジアの政治家にとっては大川は欧米植民地主義のくびきからアジアを解放せよと呼び掛けた良心的な思想家だったということである。 本書は15年前に出ていて、この頃から近代思想の見直しをするべき時期にとっくに入っているわけだったのだが (最初に、日本ファシズムという概念について丸山真男や竹山道雄の意見を検討してまとめているところも有用)、いまだに欧米の植民地主義に目を向けず、日本の戦争犯罪ばっかり取り上げれば良心的と勘違いしている日本の知識人の多いのには困ってしまう。 日本の戦後的知識人には退場の時代がとうに到来している。 

・武田尚子 『チョコレートの世界史 近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』(中公新書) 評価★★★ タイトル通り、チョコレートの歴史をたどった本。 その発祥の地、カカオ豆の種類、チョコレートやココアの製造法の変遷、経済への影響、ココア・イメージの時代ごとの変化、工場労働者の健康管理や福祉との意外な関わり、世界経済への影響、などなど、多方面からこのテーマに迫っている。 ・・・・・・のではあるけれど、なぜか、そんなに面白いという感じがしないのである。 経済的なアプローチが多くて、チョコレートという言葉で連想される甘くてちょっと華やかな感じが表に出ていないからかもしれないのだが、著者が使用文献に振り回されていて、自分なりの咀嚼が不十分だからではないだろうか。 一例が、英国のキットカットについての記述がやたら長いのだけれど、私はキットカットなんて食べたこともないし、それくらいなら森永と明治の製品の比較や歴史でもやってくれたほうがマシだ (のにやってない) と思ったのである。

・レオポルト・ザッヘル=マゾッホ (池田信雄・飯吉光夫訳)『残酷な女たち』(河出文庫) 評価★★★ マゾヒズムで有名なマゾッホの短篇集。 『残酷な女たち』から8編、その他2編が収められている。 いわゆるマゾヒズム的な作品もあるが、必ずしもそれに限らず、トーマス・マンの 『小フリーデマン氏』 的な、しかしあれより物語的で明るい中編も収められている。 マゾッホは生前は流行作家で、その作品は結構読まれていた。 ド・サドが生前は異端の犯罪的な作家だったのとは異なる。 なお、訳も流麗で美しい日本語に仕上がっているので、読むのが心地よい。 大学の教養の講義でマゾッホの作品を取り上げてみようと思い、しかし以前読んだ 『毛皮を着たヴィーナス』 はやや長いので、もう少し扱いやすい短い小説がないかと探しながら読んでみたもの。

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