【文化・社会・人文科学一般】

                                                                        「読書コーナー」表紙へ

加藤隆『新約聖書の誕生』(講談社選書メチエ)1700円 

    → PHPの書評サイト「BOOK chase!」に掲載。読みたい方はここをクリック。

 

シェルビー・スティール『黒い憂鬱』(五月書房)2500円

    → PHPの書評サイト「BOOK chase!」に掲載。読みたい方はここをクリック。

 

阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)680円 + 橋本治『宗教なんかこわくない』(マドラ出版)1500円

        → 別ページに掲載。読みたい方はここをクリック。(99年12月6日掲載)

 

高田康成『キケロ−ヨーロッパの知的伝統』(岩波新書)660円

    → PHPの書評サイト「BOOK chase!」に掲載。読みたい方はここをクリック。(99年12月27日掲載)

 

山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書)660円

    → PHPの書評サイト「BOOK chase!」に掲載。読みたい方はここをクリック。(00年1月14日掲載)

 

カウスブルック『西欧の植民地喪失と日本』(草思社)2200円

    → PHPの書評サイト「BOOK chase!」に掲載。読みたい方はここをクリック。 (00年4月22日掲載)

 

鹿島茂『明日は舞踏会』(中公文庫)686円

    → PHPの書評サイト「BOOK chase!」に掲載。読みたい方はここをクリック。 (00年4月22日掲載)

 

稲木紫織『日本の貴婦人』(光文社)1700円 

        → PHPの書評サイト「BOOK chase!」に掲載。読みたい方はここをクリック。(00年7月4日掲載)

 

酒井健『ゴシックとは何か―大聖堂の精神史』(講談社現代新書)680円

     → PHPの書評サイト「BOOK chase!」に掲載。読みたい方はここクリック。(00年7月4日掲載)

 

 

ウィルキー夫妻(菊田昇訳)『わたしの生命を奪わないで――人口中絶に関するQ&A』(燦葉出版社)

 少し前、数年ぶりに日本で死刑が執行されニュースになりました。死刑の是非はともかくとして、私にはマスコミの大騒ぎが理不尽なものに思われました。

その理由の第一は、国家権力による殺人がケシカランというなら私人による殺人はケシカルのかという問題です。死刑による殺人より私人による殺人の方がはるかに多いのが現代の自由主義社会です。とすれば国家権力の殺人より、私人の殺人を止めさせることの方がはるかに大きな課題のはず。「強大で勝手な国家権力vs.弱小な個人」という図式はかなり以前からゆらいでいるのに、それに代わる有効なパラダイムを見いだせぬまま旧式の構図にしがみついているのは知的怠慢ではないでしょうか。

 理由の第二は、国家の死刑よりも私的殺人行為よりも、交通事故よりも、はるかに多くの殺人が現に行われており、大抵の人間がそれに目をつぶっているという事実です。つまり中絶という名の殺人行為です。

  まだ生まれていないにせよ母胎内で成長している胎児は一個の生命体として尊重されねばならない、これは近代のヒューマニズムからすればごく当り前のことでしょう。アメリカの選挙戦では中絶が問題になることがありますが、進歩派保守派という色分けはここでは意味を成しません。人命を尊重しない進歩派なんてあるでしょうか?

 私は穏健な人間ですから、中絶もやむを得ない場合はあるだろうと思います。ただ、中絶が「当然の権利」だなどという論調には人間のエゴイズムしか感じられないということははっきり言っておきましょう。無論これは女性だけではなく、妊娠させる男性側の問題でもあります。

 この問題を考えるにあたって基本的なデータを集めたのが上の本です。妊娠したりさせたりする可能性のある人は一読しておくべきでしょう。訳者は故人となりましたが産婦人科医で、親に望まれない子でも中絶せずに養子として斡旋し役所には実子として届けたために有罪となった人です。しかしこれが養子法改正の契機となりました。

                                               (新潟大学生協発行・書評誌『ほんのこべや』第5号〔93年秋〕掲載)

西尾幹二『全体主義の呪い』(新潮社)

 
 社会主義が破綻し自由主義が勝利した、と簡単に言ってしまっていいのかどうか分からないけど(こういう言い回しは日本の識者の決まり文句ですね。自由主義が社会主義に勝利した、と言い切っている日本人は余りいなかったようです)、ソ連や東欧諸国の体制の変化は誰も否定できない事実です。

 しかし、全体主義は誰も逃れることができないのではないかと私は思っています。それを東欧知識人らとの対話で明らかにしたのが論客・西尾氏の最新作です。ここには人間社会の深淵を垣間見るような観察や認識がいくつも並んでいます。

 例えばチェコの哲学者らとの対話では、責任者が誰であるか分からないからこそ全体主義は成り立っていたのだという認識が提出されています。

 西尾氏はここからカフカを思い浮かべ、さらにカフカがいたからこそこうした認識も可能になったのかも知れないとドイツ文学者らしい感想を書き留めるのですが、読んでいた私ははからずも最近の新潟大学「改革」を連想せずにはいられませんでした。最終的な責任者が分からないまま文部省からくる指令に踊らされる日本の地方国立大学教師は、チェコの大学人を到底嗤えないだろうと感じたのでした。無論日本と脱社会主義以前のチェコとでは官僚のコワさは全然違いますが、官僚機構の本質には案外共通性があるのかも知れないのです。

 以上は本書を読んで私が抱いた感想のほんの一端ですが、読む人ごとに自分がおかれた状況の救い難さを認識させてくれる本であることは間違いありません。

                                             (『ほんのこべや』用に94年頃執筆するも掲載にいたらず、ここに初出)               


宮本政於『お役所の掟 ぶっとび「霞が関」事情』(講談社)
同 『お役所のご法度 霞が関ムラの怖〜いお仕置』(講談社)


 『お役所の掟』は副題から分かるように、霞が関にある中央官庁、具体的には厚生省の内実を現職の厚生省課長が暴露した本。内部の陰湿ないじめや、国会議員の不勉強ぶりや、奇妙な慰安旅行など、変な慣習やおかしな実態が次々と暴かれている。単に中央官庁だけではなく日本の会社一般の体質を考える上でも有用であろう。

 なお著者は最初の本を出した後、厚生省をクビになった(ただし役所の実態を暴露したからではなく、無断で長期休暇をとったためだそうである)が、その直後第二の本『お役所のご法度』を出した。合わせて推薦したい。

  90パーセントの共感をもってこの二書を読んだこと、学生諸君にもぜひ読んで欲しいと感じたことをお断りした上で、残り10パーセントの疑問を付け加えておく。

 日本中央官庁のお寒い実態はその通りとして、筆者は自ら勤務体験を持つアメリカの例としばしば比較しているが、それならば本書中にもわずかに触れられている給与のいちじるしい差についても十分な考察を行うべきではなかったか。すなわちアメリカでは役人が待遇面で健全なエリート意識を保ち得るようになっているのに対し、日本では大手民間企業のほうが中央官庁よりはるかに待遇がいいのは周知の通りで、東大出の役人もマスの一部に過ぎないのだ。この点の構造的差異を見なければ論旨の説得性は減殺されてしまう。

  もう一つの疑問は、著者が精神分析の方法を用いていることだ。精神分析は私の見るところ、フィクションとしての社会にそれ自体フィクションとして働きかける限りで有用性を持つものであり、一定の時代や社会という枠をはみ出してしまうともはや役立たなくなる。その点の自覚がないと、中層下層抜きのアメリカ・エリート社会のみを基準としてしまう危うさから逃れられないのではなかろうか。

                                             (『ほんのこべや』用に95年頃執筆するも掲載にいたらず、ここに初出)

 

氏家幹人『武士道とエロス』(講談社現代新書)


 武士道というとなんとなく恋とか愛とかの対極にあるような感じがするが、どっこい、男同士の恋の道が武士道には秘められていた――と書くと「やおい族」を喜ばせてしまいそうだが、これは史学家が男と男の関係を真面目に追究した学問的な本である。

 といっても新書だけあって堅苦しさは一切なく、無類に面白い。大名に召しかかえられるにも美男の方が有利だったという記述を読むと、昔から人間は面食いだったのだと納得させられる。「容姿端麗のこと」はスチュワーデスだけの採用条件ではなかったのである。人間って根本的にエロス的な存在なのだなあ、と思う。この男男関係編に続いて女女関係編も出してくれないものか。

                                               (新潟大学生協発行・書評誌『ほんのこべや』第9号〔95年秋〕掲載)

『Ronza 1995年8月号』 朝日新聞社 

 雑誌をこういう場所で紹介するのは普通のことではないかも知れない。しかしそれにふさわしい内容なので敢えて取り上げさせていただく。

 今春創刊されたばかりの朝日新聞社のオピニオン雑誌が、8月号で「文学者、出版・新聞の戦争責任」を特集している。この出版社でこの特集というと別段目新しくないと思う人もいるだろうが、ここで取り上げられているのは『橋のない川』で有名な住井すゑである。彼女が戦時中に書いた戦争讃美・侵略支持の作品が桜本富雄により発掘され、その内容と現在の彼女の「諸悪の根源は天皇制」といった思想の齟齬が徹底的に追究されているのだ。

 住井すゑがある種の進歩派の象徴的存在であることは今更言うまでもないが、その虚構性が暴かれたわりにはさっぱり騒がれないので、朝日新聞の仇敵(?)産経新聞のコラム「斜断機」が7月31日付で「援護射撃を買ってでるぞ」と取り上げたくらいである。

 しかしこの雑誌をここで紹介するのは、住井すゑのご都合主義が暴かれたからだけではない(無論、どの図書館にも残っていない資料――戦時中の好戦的な本は戦後すぐどの図書館も処分したからである――を発掘した桜本富雄の努力と執念には敬意を表すべきだろう)。むしろ彼女の文学の質を冷静に見ていた人には、別段「斜断機」の言うように「目からウロコが6、7枚も落ちた」りはしなかったかも知れない。

 この特集の優れている点は、さらにその先の問題を同時に追究していることだ。戦争を讃美するのは悪なのか、書くものの内容がころりと変わるのは悪いことなのかというところにまで踏み込んだ議論が、福田和也や坪内祐三によってなされていて、この種の問題の持つ重層性が浮き彫りにされているからこそ、『Ronza』8月号は瞠目に値する雑誌になったと言えるのである。

                                               (新潟大学生協発行・書評誌『ほんのこべや』第9号〔95年秋〕掲載)

 

鹿島茂『子供より古書が大事と思いたい』(青土社)

 著者は、フランスの古書を買い漁ったせいで巨額のローンを抱え破産寸前の惨状にあるフランス文学者。この書痴(bibliophile)が古書集めにまつわるエピソードを紹介したのが本書。

 フランスの古書なんか俺には関係ねえ、と言わずに読んでごらん。古書に限らずマニアックな収集癖を有する人なら絶対にうなずきながら読める本である。日本の銀行は「旅行に行く」「車を買う」というと金を貸すのに「古書を買う」というと貸してくれない、などという役に立つ(?)情報も多数盛り込まれている。

 また、元人気グループ・サウンズの一員で現在は司会業などをしている、著者と同じK・Sというイニシャルのタレントが、古書を集める趣味のせいで妻から離婚されたというエピソードが共感をこめて引かれているのもいい。妻の言い分はこうだそうだ。「外車を買うとかいうなら、あの人の稼いだお金ですから文句は言いません。我慢できないのは、汚らしい古本に何十万円も、ひどいときは何百万円も使っていることです。」うーん、こういう台詞に出会うと、だから女は阿呆なんだねえと、フェミニストから糾弾されそうな文句を私は思わず吐いてしまう。そして一方で、俺は1セット数百万円の古書など買ったことがないからまだ離婚の危険性はないなと安心するのである。なおタレントK・Sこと岸部四郎が古書を語った『岸部のアルバム』(夏目書房、1500円)も発売中。

                                               (新潟大学生協発行・書評誌『ほんのこべや』第11号〔96年秋〕掲載)

 

テリー伊藤『お笑い大蔵省極秘情報』(飛鳥新社)

 最近何かと世間を騒がせている大蔵省であるが、その役人3人(匿名)と、TVディレクター等で活躍している著者が連続対談してできあがったのが本書。エリート中のエリートである大蔵官僚の実態と本音が分かって面白い。まず目を惹くのは、そのものすごい選良意識である。うーん、さすが、と唸りたくなる。

 実は私もだいぶ前に、大蔵官僚を輩出している某大学某学部出身の教官と会議で同席し、その高飛車な言動に驚愕して、「こういう人間て、フィクションの中だけじゃなく、本当にいたんだ」と思ってしまった。このお方は幸いにしてその後他大学に栄転されたが、あの種のお歴々が集まっていらっしゃると想像しただけで、私などは恐くて大蔵省には近寄りがたくなってしまう(近寄る理由もないのでいいけれど)。

 国家公務員I種試験での志願者の成績順位を、人事院はあらかじめ大蔵省にだけは教えておく(他省庁には教えない)、なぜならおカネを押さえられているから、なんてところは大蔵省の持つ特権のほんの一端。『ほんのこべや』の品位を考えるとここには書けないような話が満載されている。

 ただ、単に面白がって読んでいるだけでは問題の解決にはならないのも事実。私はエリート意識それ自体は必要なものだと思っている。健全な(ここが大事)エリート意識を持つ官僚を育てるにはどうすればいいか、待遇なども含めてきちんと考えることが肝要だろう。週刊誌などが時々「高級官僚は1億円の豪邸に住んでいる」なんて写真入りで庶民(?)の劣情をあおるような報道をしているけれど、ああいう記事しか書けない日本のマスコミもヒドイ。いまどき東京で1億円の一戸建てなんて哀れなくらいささやかなものだ。1億などとケチなことを言わず10億円の持ち家に住んでもいいから、高級官僚はちゃんとした仕事をして下さい。それと一般市民も、エリートには庶民の気持ちなんて分からないというようなゴタクを並べているだけでは駄目。きちんと勉強して、官僚に情報を独占させないよう努力しなくては。

 同じ著者による続編『大蔵官僚の復讐』と、大蔵官僚が「俺たちより変だ」と評したという外務官僚についての、『お笑い外務省機密情報』(いずれも飛鳥新社)も読まれたし。なお、多少系統だてて大蔵省のことを知りたい方には、川北隆雄『大蔵省』(講談社現代新書)がお薦め。

                                              (新潟大学生協発行・書評誌『ほんのこべや』第15号〔98年秋〕掲載)


夏目房之介『マンガと「戦争」』(講談社現代新書)

 最近はマンガについての評論や研究書も増えている。これはその1冊であるが、過度にマニアックではなく、いい意味で通史的な本と言える。

 著者は(ご本人は言われるのを嫌がるだろうが)文豪・漱石の孫として有名。ただし昭和25年生まれだから、大正5年に死去した祖父を直接には知らない。しかし巻末の写真を見ると、ヒゲをたくわえればかなり似ているのじゃないかと思えてくる。

 さて、「戦争」を扱うのは歴史に限らず難しい。話がイデオロギー的になるか、或いは逆に些末な技術主義に陥ってしまいがちだからだ。著者はしかし絶妙のバランス感覚で、いくつもの作品を材料に次々とこのテーマを展開していく。

 著者のセンスを感じさせる箇所を若干紹介しよう。ヴェトナム戦争を機に反戦ムードが高まった60年代後半、『ガロ』や『COM』に反戦的なマンガが載ったが、その背後には階級闘争史観に基づいた白土三平の『カムイ伝』が控えていたことを指摘した上で夏目は次のように書く。

 「けれど左翼的階級観の時代劇(過去)やSF(未来)への還元は、裏読みをすれば左翼的枠組みがすでに「現在」としての根拠を失いつつあったことの象徴だったかもしれない。/69年頃から『ガロ』の読者欄には(…)『カムイ伝』に批判的な文がのるようになる。(…)マンガ表現史の視点からみると、ここには寓意から隠喩的画像表現への移行という流れがあった。/手塚から白土へと継がれた大河物語は、冷戦や階級闘争を寓話にして表現する手法をともなっていた。(…)が60年代末期の先端的なマンガ青年たちは、寓意のもちやすい欺瞞や政治宣伝のにおいに敏感だった。彼らは、つげ義春に始まり、林清一や佐々木マキなどが実現する隠喩的画像のほうを支持したのである。いかにも支配階級の代表のような人物の悪を描き、読みとりかたを方向づけるのではなく、画像の解釈範囲を広げ、いかようにも読めそうなイメージの豊かさに重点をおいた画像化。」

 そして滝田ゆうの戦争マンガについて次のように言う。

 「空襲後の廃墟のカットバックには、焼死体がごろごろところがる1コマが描かれているが、あえて唐突に無言のまま、なにげなく挿入されている。(…)怨念や悲嘆という言葉におきかえられるような感情の形をもたず、まして理念的なものに意味づけられないコマとして、ただ投げ出すように描きこまれているのである。(…)/ここでの無言は、「戦争」体験が庶民感覚のなかでは言葉にならないものだというリアリティをつくりあげている。」

 ちょうど戦後マンガの興隆と共に生きた世代に属する著者の、あくまで読者としての視点を失わない姿勢に、2歳年下の私は深い共感を覚えた。

                                              (新潟大学生協発行・書評誌『ほんのこべや』第14号〔98年春〕掲載)

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